tag:blogger.com,1999:blog-74696197150967034232024-03-16T16:57:07.180+09:00石神・磐座・磐境・奇岩・巨石と呼ばれるものの研究岩・石への信仰に対する歴史的研究。『岩石を信仰していた日本人-石神・磐座・磐境・奇岩・巨石と呼ばれるものの研究-』刊行中。吉川宗明http://www.blogger.com/profile/15618688408266963929noreply@blogger.comBlogger555125tag:blogger.com,1999:blog-7469619715096703423.post-82080269268874738762024-03-15T01:28:00.001+09:002024-03-15T01:34:54.231+09:00『変動帯の文化地質学』第2部第2章を分担執筆しました<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiqnU55QgwzPBBaB_yV5puRM7_4oF-wcEOEyelR10xGFiyJpgv4qNbGU4pugjCahimcMzOOxjU78Ir4yiegzv1if2ERANxPguOJO-sPk-mVZjh9E2TI5N975Q28d90qiTkT_uD1VqqKkE0U6pVmlNC7zOLVfwrUysaHmAiIY4Z1_S5jJEeFGV7NeBQk147Q/s4032/IMG_2070.JPG" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="4032" data-original-width="3024" height="640" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiqnU55QgwzPBBaB_yV5puRM7_4oF-wcEOEyelR10xGFiyJpgv4qNbGU4pugjCahimcMzOOxjU78Ir4yiegzv1if2ERANxPguOJO-sPk-mVZjh9E2TI5N975Q28d90qiTkT_uD1VqqKkE0U6pVmlNC7zOLVfwrUysaHmAiIY4Z1_S5jJEeFGV7NeBQk147Q/w480-h640/IMG_2070.JPG" width="480" /></a></div><p></p><blockquote>すべては、地質の上に成る――。地震や火山などの災害と隣り合わせで生きる日本人にとって、地質は自然環境の基盤としてのみならず精神文化の基盤としても相即不離な存在である。(<a href="https://kyoto-up.or.jp/books/9784814005161.html" target="_blank">出版社HPより</a>)</blockquote><p></p><p>2024年2月、鈴木寿志[編集代表] 伊藤孝・高橋直樹・川村教一・田口公則[編集]『変動帯の文化地質学』(京都大学学術出版会)が刊行されました。</p><p>全5部構成ですが、その第2部の第2章「岩石信仰研究の視点」(pp.157-173)を吉川が執筆しました。</p><p>本文でも述懐しましたが、私がこのような研究を始めた時の「巨石」「磐座」一辺倒だった当時の空気をふりかえれば、今回、岩石信仰の章が設けられたのは隔世の感ありです。</p><p><br /></p><p>本書は科研費「変動帯の文化地質学」の研究成果として発表されたものです。</p><p>変動帯も文化地質学も耳慣れない用語かもしれませんが、日本列島は地震や火山に代表される地質活動が活発な変動帯に属します。</p><p>そのような土地の上に住む人々に、変動帯ならではの地質活動が文化的な影響をも与えただろうという仮説の下、数々の研究が揃いました。</p><p><br /></p><p>本書の目次を紹介します。</p><p><b>―――</b></p><p><b>序論 文化地質学の提唱と発展</b></p><p></p><ul style="text-align: left;"><li><b>第I部 石材利用の歴史と文化</b></li><li><b>第1章 城の石垣・石材から見えること</b></li><li><b>第2章 山形城の石垣石はどこから集めたのか</b></li><li><b>第3章 庶民の石,権力の石──神奈川県の石材から</b></li><li><b>第4章 シシ垣──人と野生動物を隔てる石の砦</b></li><li><b>第5章 「石なし県」千葉における石材利用</b></li><li><b>第6章 近代建築物に利用された国産石材</b></li><li><b>第7章 なぜ「花崗岩」のことを「御影石」と呼ぶのか──土石流がもたらした銘石</b></li></ul><p></p><p><b>第II部 信仰と地質学</b></p><div><ul style="text-align: left;"><li><b>第1章 縄文時代と環状列石──北東北の例</b></li><li><b>第2章 岩石信仰研究の視点</b></li><li><b>第3章 仏教における結界石の持つ意味と役割──日本とタイの事例から</b></li><li><b>第4章 磨崖仏</b></li><li><b>第5章 山岳霊場の地質学──香川県小豆島と大分県国東半島の岩窟</b></li><li><b>第6章 熊野の霊場を特徴づける地形・地質</b></li><li><b>第7章 中近世石造物の考古学──兵庫県姫路市書寫山圓教寺の事例から</b></li><li><b>第8章 京都の白川石の石仏</b></li></ul></div><p><b>第III部 文学と地質・災害</b></p><div><ul style="text-align: left;"><li><b>第1章 地質文学</b></li><li><b>第2章 『おくのほそ道』に描かれた芭蕉の自然観</b></li><li><b>第3章 「地」で読み解く宮沢賢治</b></li><li><b>第4章 日記史料にみる中近世の日本における地震の捉え方</b></li><li><b>第5章 醜い山から崇高な山へ──B・H・ブロッケスの詩「山々」をめぐって</b></li></ul></div><p><b>第IV部 地域の地形・地質を楽しむ</b></p><div><ul style="text-align: left;"><li><b>第1章 地域資源をブランド化する──ジオパークと日本遺産</b></li><li><b>第2章 文化地質学の視点を取り入れたジオツーリズム</b></li><li><b>第3章 地学散策路──ジオトレイル</b></li><li><b>第4章 地域の成り立ちを見る──ジオストーリー</b></li><li><b>第5章 食と地学──常陸・茨城の食の背景を考える</b></li><li><b>第6章 地域資源の再発見──博物館の新しい役割</b></li><li><b>第7章 地域を見る目を育てる──地域博物館の使命</b></li></ul></div><p><b>第V部 地学教育の新展開</b></p><div><ul style="text-align: left;"><li><b>第1章 地学教育における文化地質学の役割</b></li><li><b>第2章 学校の岩石園を探検しよう</b></li></ul></div><p><b>総論 変動帯の文化地質学</b></p><p><b>―――</b></p><p>企画が始まった時にこの目次の素案を見てわくわくしたものです。</p><p>地質学分野の方々のみならず、人文学の立場からも興味深いテーマが見つかるのではないでしょうか。</p><p>本書企画時の想定読者層は大学生以上~社会人と聞いています。研究者・学者向けの論集という作りではなく、本書を入口に今後の学問関心を喚起するような平易な文体となっているはずです。</p><p>私もその企画意図に合わせて、後学の方に向けての遺言めいたメッセージを込めた内容としました。</p><p><br /></p><p><b>【節見出し】</b></p><p></p><ol style="text-align: left;"><li><b>岩石信仰の概念</b></li><li><b>自然石の信仰を研究する難しさと重要性</b></li><li><b>観察方法</b></li><li><b>岩石信仰の起源に関する論点</b></li><li><b>岩石信仰の現在地と未来</b></li></ol><p></p><p><br /></p><p>岩石信仰は自然信仰ですから、主客の関係でいえば、自然が主で人間が客体です。</p><p>人間には個体差がありますから、自然を前にして受け身になった時、各人が思い思いに異なる感情を得ることと思います。すなわち、岩石信仰は本来的には多様でカオスという世界観を是とします。</p><p>しかし、人間社会では多様の難しさもあります。みんなばらばらの心の中だと相手のことがわからない、社会を構築しにくい、集団での統制が取れないなど…。</p><p>そこで我慢できなくなった人が均一化・統一化・強制化を図ると、個人的信仰心から離れて社会性をもった宗教になりますが、そうすると人が主で、自然が二の次になったと言えます。</p><p>だから、組織立った宗教には信仰心とは別の要因・ノイズが入りだします。これは善悪をつけられるものというより、ヒトの業のようなものかと思いますが、私はそういった社会化した宗教研究よりも一個人の脳の反応として出現した信仰心に研究の関心があります。</p><div>そのあたりが伝われば、岩石信仰研究が誰にでも当事者となりうる人間研究であり、多様でカオスな隣人を理解する一方法なのだとおわかりいただけると思います。</div><p><br /></p><p>当サイトの「カタログ」にも掲載しました。</p><p>税込5,940円ですが、お求めいただければ嬉しく思います。</p><div><a class="embedly-card" href="https://www.megalithmury.com/p/blog-page_33.html">カタログ</a><script async="" charset="UTF-8" src="//cdn.embedly.com/widgets/platform.js"></script><br /></div><p><br /></p>吉川宗明http://www.blogger.com/profile/15618688408266963929noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7469619715096703423.post-45367208285010126062024-03-03T21:38:00.000+09:002024-03-03T21:38:14.355+09:00石の木塚(石川県白山市)<iframe height="300" src="https://www.google.com/maps/d/u/0/embed?mid=1oLcwjcUvwB39opisTqBAgO-3KXw&ll=36.51213, 136.50751&ehbc=2E312F" width="300"></iframe><br />石川県白山市石立町<div><br /><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjHvg1GFYQOqNrwx3842Gc_ekZOwr3qbIwe7ef85D5gDF8V8C7nHl8G0TiBm2WS4w8259_nqijnNI73nlOhz3Xdvb1ObFXHXdjPG6URz5IEamLaTvmtCB7Qi29Mnk5ees44_kJrFHr4QQ6pHnu-OrvmolcpqqqAtrGS0iqfs7y-5HREKFPM0C-DISqej1l9/s4000/CIMG3722.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3000" data-original-width="4000" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjHvg1GFYQOqNrwx3842Gc_ekZOwr3qbIwe7ef85D5gDF8V8C7nHl8G0TiBm2WS4w8259_nqijnNI73nlOhz3Xdvb1ObFXHXdjPG6URz5IEamLaTvmtCB7Qi29Mnk5ees44_kJrFHr4QQ6pHnu-OrvmolcpqqqAtrGS0iqfs7y-5HREKFPM0C-DISqej1l9/s16000/CIMG3722.JPG" /></a></div><br /><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgD3HWIkV0tkGqDHmXStKvKE5_QDViAjx7HWg5J7Zl8J_bzFf7zrtDTlCZ-PHL9pV3nVUqPxxNEShJ95FZOWqp0kAF88uqWnG8GgCfL3kKwp3hzuxabS01h1yu3KZuDzpg5J24oqq_UvQAOHAjUit7EbidrjEX-k-gZBIBGWfX1zoMCrjtqQmQKulfyWAi5/s4000/CIMG3728.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3000" data-original-width="4000" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgD3HWIkV0tkGqDHmXStKvKE5_QDViAjx7HWg5J7Zl8J_bzFf7zrtDTlCZ-PHL9pV3nVUqPxxNEShJ95FZOWqp0kAF88uqWnG8GgCfL3kKwp3hzuxabS01h1yu3KZuDzpg5J24oqq_UvQAOHAjUit7EbidrjEX-k-gZBIBGWfX1zoMCrjtqQmQKulfyWAi5/s16000/CIMG3728.JPG" /></a></div><br /><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEicRXepJHepHsWTH90bnXptdFCEjfLqa5-SjAqcG9ajLyX06g7KxV_Pijjc7fs2mkYMGzBACljJR5VrMGuGxejckIZmrzmZfCJfHsK7moztn7wZZV6gqTTQK9BgO5eWULd1c2hN9Vo4HZ_eTAcjMwyunBUAxY8t4c9PF8Um2QG6QhG_Vb_dsR-6s66sLJjp/s4000/CIMG3723.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3000" data-original-width="4000" 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/></p><p>そのような立石が単なる交通標識だったのか、祭祀・信仰に関する精神的な意味も込められた存在として成立当初からあったのか不明だが、いずれにせよこの立石は時代を経て「石の木塚」と呼ばれて、そこに込められた性格は自ずと変容・付加されていく。</p><p><br /></p><p>まず江戸時代文献で石の木塚が再登場するのは、17世紀後半成立とされる『加能越金砂子』である。石立村に五本の大石があり、いつのことからはわからないが一夜の内に出現したと語られる。</p><p>一夜出現類型としての岩石伝説である。</p><p><br /></p><p>次に、18世紀前半成立の『可観小説』では、「立石の宮の石の根」という一説が設けられて別の伝説が記されている。</p><p>社壇に立石五つがあり、これを立石の宮と呼んで神社としてまつったと明記されている。ここに、立石は岩石信仰の領域に入ったことがわかる。</p><p>加賀藩第3代の前田利常が近辺の百姓を動員して立石の根元を掘り下げさせたが、二丈(約3.5m)掘ってもその石の根はわからなかったという。</p><p>石の根が深く地中がどうなっているかわからないという類型の岩石伝説も他で見聞きするところである。</p><p><br /></p><p>18世紀後半成立の『加越能三州奇談』では「石立村の石は此根能州の寺口へ出て猪の牙の如く飜れり」とあり、石の根の深さが別のところとつながって出ていくという伝説類型へ広がっている。</p><p><br /></p><p>同じく18世紀後半成立の『越の下草』では、石の木塚と浦島伝説が接続する。</p><p>いわく、永正17年(1520年)、この地で龍宮から帰った酒屋の主が忽ち老体となり亡くなり、後日、異形の女と童子4人がそれぞれ石を背負って主の塚に5つの石を立てて、年ごとに石は太りその根の深さ知れずになったという。そしてその石塚を石立大明神として勧請したという。</p><p>立石がなぜ立つのか、その成立を伝説的に語る由来となっている。</p><p><br /></p><p>他に弁慶伝説も付帯するほか、「石ノ木宮」「雀の宮」などとも呼ばれたらしい。</p><p><br /></p><p><b>参考文献</b></p><p></p><ul style="text-align: left;"><li>三浦純夫 「加賀石立の立石考」 森浩一・編著『考古学と信仰』(同志社大学考古学シリーズⅥ) 同志社大学考古学シリーズ刊行会 1994年</li><li>日置謙 校訂並解説『加能越金砂子』,石川県図書館協会,1931. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3440189</li><li>『加越能叢書』前編,金沢文化協会,昭11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1227824</li><li>宮永正運 著 ほか『越の下草』,富山県郷土史会,1980.8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9538411</li></ul><p></p><p><br /></p></div>吉川宗明http://www.blogger.com/profile/15618688408266963929noreply@blogger.com0日本、〒924-0058 石川県白山市石立町36.5106325 136.50667868.2003986638211543 101.35042859999999 64.820866336178852 171.6629286tag:blogger.com,1999:blog-7469619715096703423.post-11450014262583774822024-02-25T23:50:00.004+09:002024-03-02T00:37:07.706+09:00大嶋仁『石を巡り、石を考える』(2023年)学習メモ<p>大嶋仁『石を巡り、石を考える』(石風社 2023年)を読んで、今後の研究につながる部分を記録したものである。</p><p>大嶋仁氏は、日本比較文学会の会長を務めた人文学の研究者で、氏にとって石をテーマに扱った研究は本書が初となる。</p><p>大嶋氏自身の生涯の中での石の関わりや世界各地の石の遍歴を含んだ内容でもあり、氏の岩石の哲学が込められた1冊となっている。</p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiM1QWfrSalmQVGM9_38KLpUE12f_LbfQozA-pmAZEPadS9YFfGJl2Fb3P_zVDM8i29BhKI5bZFHg3Yjq5Md8jK5MwrqyO0Ws9DHAlK8b5vAvyIH_NANqHy-7jq1EeCTeQH7MzJGChOsnWReVlcQcx2zrayq7wOlhyPf9UJ7QrNAgX_DrgT1jrj-6IoGWkL/s4032/IMG_1999.JPG" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="4032" data-original-width="3024" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiM1QWfrSalmQVGM9_38KLpUE12f_LbfQozA-pmAZEPadS9YFfGJl2Fb3P_zVDM8i29BhKI5bZFHg3Yjq5Md8jK5MwrqyO0Ws9DHAlK8b5vAvyIH_NANqHy-7jq1EeCTeQH7MzJGChOsnWReVlcQcx2zrayq7wOlhyPf9UJ7QrNAgX_DrgT1jrj-6IoGWkL/s16000/IMG_1999.JPG" /></a></div><br /><p></p><p>1.本記事は個人的メモのため、読ませるように文章を整理できていない。</p><p>2.岩石信仰と関連する部分で今後有用と思われる情報を中心にピックアップしたため、本記事は必ずしも本書の要点をまとめたものとはなっていない。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">本書を書くきっかけとなった動画</span></h2><p>著者(以下、大嶋氏を指す)が岩石や地球に興味を持つようになり、本書を書くに至ったきっかけの動画が紹介されている。</p><p><iframe allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture; web-share" allowfullscreen="" frameborder="0" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/-mKu5dIns4c?si=dDDUE4PlFLoo7Ex7" title="YouTube video player" width="560"></iframe></p><p>著者がこの動画から得た学びを列挙する。</p><p></p><ul style="text-align: left;"><li>地球が作り出す電磁場が地球を守っており、地球の存在が少しも安泰ではないこと。</li><li>地球の様々な活動が熱、電磁場、大気、水、そして生命を生み出したこと。</li><li>自分に来ている世界が地熱の上にあると実感できること。</li><li>地球の終焉、人類の絶滅を淡々と語るところに無常観を感じさせるが、感情を廃して科学的態度で貫かれている。</li></ul><p></p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">ガリシアの石</span></h2><p>スペイン北西部のガリシア地方は雨が多く湿潤な気候である。ガリシア地方には岩山が多く、石工の数も多いという。</p><p>ガリシア地方の町は石に彩られており、特徴として石がざらざらしていて磨かれていないことに著者は注目する。</p><p></p><blockquote>磨く技術がなかったのではなく、磨こうという意思がもともとないのだ。磨くとは粗削りな表面を消したい、化粧をさせたいということである。磨きたくないとは、粗削りなままでいい、化粧をしてはいかんという意味である。</blockquote><p></p><p>これを、無意識のうちの石の信仰ととらえる。そして、多湿な気候のため粗削りな石が黒ずんでおり、水の信仰にもつながるとみている。著者の言葉を借りれば「ここの石は呼吸している」という表現になる。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">巨石文化とケルトは関係ない</span></h2><p>ドルメンなどの巨石文化はヨーロッパの西外れの大西洋沿いに位置し、これはケルト文化圏と重なる。</p><p>しかし、ケルトの出現はドルメンより後なので時代が異なり、本来は関係がない。</p><p>ケルト人はそれ以降にヨーロッパへ来た人々に追われたため、ヨーロッパの「最果て」の地である西外れに流れ着いたため、巨石文化の分布とたまたま重なったという説明で足りる。</p><p>巨石文化がなぜ大西洋沿いに分布するのかは説明できていないが、ガリシア地方もまた大西洋沿いで湿潤な「水の信仰」の地だった。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">石の信仰要因</span></h2><p>新石器時代に巨石文化が流行った理由を著者はこう説明する。</p><p></p><blockquote>地磁気を感じる力は文明の発達とともに衰えたが、それが衰えないようにという工夫が巨石文化となって現れたと見ることもできる。ということは、すでにあの先史時代において地磁気を感じる力の衰えが自覚されていたということで、それを食い止めるために石の力を象徴する建造物が必要だったのである。</blockquote><p></p><p>石の力とは何か。著者はそれを物理学的に説明すれば地球の磁力であるとする。小石であっても地球の磁石としての微小部分を担っていて、さらに巨石となれば一つの地磁場となる。</p><p>動物には本来磁場を感じとる力があり、現代人にはその力がほとんど失われてしまったが、新石器時代人は現代人よりその感度が高かったはずで、岩石、特に、巨大な岩石であればあるほどそこに宿る磁力を感知し、それを「不思議な力」への信仰としたのではないかという論理である。聖地やパワースポットの誕生も、そのような地磁気を感知する能力によるものとみる。</p><p>新石器時代人が現代人より地磁気を感じとる力があったかどうかは未解明で推測となり、無意識で地磁気を感じとったことでどのような心理・信仰となるのかは説明されていないが、岩石信仰を科学的に説明した文として注目したい。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">キリスト教圏における岩石の聖性の位置づけ</span></h2><p></p><blockquote>現代のケルトの末裔に「あなたは石を信仰してますか」と尋ねても怪訝な顔をするだけだろう。よほどのスノッブでなければ、「はい、もちろん」などとは言うまい。「信仰」という言葉は彼らの中では教会、カトリック教会と結びつき、彼らにはそれ以外は考えられないのだ。あのケネス・ホワイトでさえ、聖なる岩を「祭壇」と呼び、カトリックの聖体拝領と結びつけているではないか。</blockquote><p></p><p>ホワイトは、波が打ち寄せる海辺の自然岩を「あらゆる天候に耐えてきた石」で、フジツボの王冠を被った「年老いた」「聖なる岩」で「祭壇」と表現した。</p><p>これは一見、自然を崇拝するケルト文化の心性につながるようで、著者はホワイトを含めたキリスト教世界観に生きる人々が、聖なる岩を神として信仰するわけにはいかず、キリスト教世界観のなかでケルト文化や自然を取り上げざるをえない限界を指摘した。</p><p>岩石が神聖であることを語る時、西欧近代化された価値観を脱し、神話世界の言語を手に入れなければならない。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">対馬で出会った人々の言葉</span></h2><p></p><blockquote>歴史というものも岩がじっと見とどけてきたんでしょうから、こりゃもう岩の勝利ですわな。岩にしみ入る蝉の声どころか、歴史まで染み入ってしまう。</blockquote><p></p><p>対馬の岩の凄みを、対馬が背負ってきた歴史と共に語る大阪からの旅行客。第一印象が岩だったという対馬。著者も同感し、「石が島民を作り、島民が石を生きる」と表現した。</p><p>石だけでなく巨木も多い対馬において、著者は島南部の龍良山の裾に広がる原始林を訪れる。遊歩道が整備されているということだったが判然とせず、あきらめて帰った後に地元の人に尋ねると「前はもっときれいでした。遊歩道なんてもの、なかったんですから。」と言われて著者は仰天した。</p><p></p><blockquote>遊歩道がなかった方が「きれい」だったというその発想。私たちが抱く感覚とはまるで違う。</blockquote><p></p><div><br /></div><div><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">ロジェ・カイヨワ『石』の評価</span></h2><p>『石』は、第1章で中国の石に関する神話や伝説を取り上げ、第2章で鉱石を中心として石の物理的な外形を自然礼賛的に表現し、第3章以降は科学的ベクトルというよりは道徳・思想的な色が濃くなると評する。</p><p>著者は『石』を美しい文だが空虚であり、特に石を審美的に見すぎて科学的でないという点で、「石の感触を得られない」と断じた。</p><p>著者の興味関心は、岩石を地球史の記録物として、科学的に解読する哲学を追求しようとしている。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">宮沢賢治の地質学的知性</span></h2><p>著者は、科学的に解読した哲学として宮沢賢治を挙げる。</p><p>賢治の詩は、無意識のレベルで言語化された「心象スケッチ」で、心理学研究の対象としての資料になるものとして重視している。</p><p>それでありながら、賢治はたしかな地質学的な知識のうえで記述する「地質学的知性」を有しており、それは何なのかというと宇宙から地へ空間的・時間的に掘り下げていく地層学的理論であるという。</p><p>このような地質学的知性は他にもフロイトの精神分析が地質学的な掘り下げであったり、レヴィ=ストロースの人類学調査方法が常に下へ下へ、時の不可逆性を重視した点で地質学的であると評価している。</p><p>すべてに共通するものとして、地球に表れた地質や岩石、そして人間の個人的な精神から社会集団の行動まで、それらを「地球内部からの手紙」と位置づけ、その手紙を読み解こうという姿勢にあふれているとまとめられる。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">石に親しみを覚えるのは、人はかつて石だったから?</span></h2><p></p><blockquote>人は死ねば土に還るというが、土になった私たちはやがて硬い石へと変貌する。私たちの生は石化し、地中に埋もれる。たとえ灰になっても、同じである。石を懐かしむ詩人には、「自分はかつて石だった」という記憶があるのだ。</blockquote><p></p><p>ドイツの詩人ノヴァーリスは、鉱山学校で地質学・鉱物学を学び、石を自然界の理念形・至高的存在とみなし、石から鉱物、そして植物、動物、人間が定義されると考えた。</p><p>ノヴァーリスに言わせれば、人間は大地が最後に生んだ地層のようなものであり、その意味において、人間は自然界の新参者としての鉱物なのだという。</p><p>ここに人と石が地質学的に同系譜の中で語られうる。現代科学においてもデータ至上主義ではなく、目の前の石を見て、科学哲学を地質学的知性で学んでいくことの重要性を著者は説いている。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">科学者への警鐘</span></h2><p>本書のエピローグで、「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」の松尾芭蕉の句に対し、実際に声がしみ入るのかという著者の問いが記される。</p><p>科学者の立場からは、わざわざ句や詩歌を科学的に正当化する必要がどこにあるのかという疑問も起こるかもしれないが、そこに向き合うのが優れた詩人でもある優れた科学者となりうるだろうと著者は考えている。</p><p></p><blockquote>量子力学の発達した現在、蝉の声の力が見直される可能性はあるのではないか。石が蝉の声を体内にしみ込ませ、それを記憶の貯蔵庫に保存している可能性もある。初めは表面にしか浸透しなかった音声も、それが莫大な数の虫の音声ともなれば、少しずつ深く浸透する。そして、それが何年もつづけば、石の方でもその浸透を許す構造変化を起こし、かくして芭蕉の聞いた「しみ入る」が現実になることも考えられる。</blockquote><p></p><p>著者は人文科学の専門家であるため、上記の「仮説」がどの程度の核心を突いているか不明だが、岩石と生物、ひいては人間との歴史においても、人々と関わった岩石とそうならなかった岩石での構造的な違いを示唆する問いとなっている。</p><p>地球の存立にとって重要な磁力がどこから来るのかを突き止めてダイナモ理論として発表したウォルター・エルサッサーは、理論物理学、気象学、地球化学、生物学と自らの問題意識に沿って次々に専門分野を変えた。それは、自らを科学者ではなく自然哲学者でありたいと考えていたかららしい。</p><p>エルサッサーは、原子爆弾の開発・投下によって、科学から自然哲学が終焉したという発言を残した。</p><p>著者は、哲学を失った科学が暴走する例を挙げて、それらに共通する過ちは、目の前に見えているもの(光景・人・地球)を見ず、想像せず、数値やデータという高みからはじき出したものをもって判断するというところにあると規定する。</p><p>石に目を落とせば、眼前の石を見つけて、石に戻り、そこから時には詩人となって想像力や直観を働かせたうえで、そこに地質学的知性を加えて科学することを現代科学者たちへ提言するのが本書である。</p><p><br /></p></div>吉川宗明http://www.blogger.com/profile/15618688408266963929noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7469619715096703423.post-17417288781058623302024-02-18T22:06:00.000+09:002024-02-18T22:06:13.467+09:00尖石(長野県茅野市)と縄文時代自然石信仰説<iframe height="300" src="https://www.google.com/maps/d/u/0/embed?mid=1LIuVa7_4vR0HwIm_eCU5WqX1cmA&ll=36.0123, 138.23225&ehbc=2E312F" width="300"></iframe><br />長野県茅野市豊平東嶽<br /><p> </p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">尖石の現在の評価</span></h2><p>尖石遺跡は、縄文時代中期の様子をあらわす集落遺跡の代表格として考古学上有名である。</p><p>そのような尖石遺跡の遺跡名を冠する「尖石」が岩石として現存することも、巨石祭祀や先史時代の信仰という観点からまた知られるところである。</p><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhVNUw049Rimi_wwAGWHh-iwcHVWQwJaabtUFOTH_U0DBm1Ho78fw4ov_FhQT3sC4P-syCVvxmvhkHDavYpWDOLTLrrftmIpbnAuMXmwD0vSDwi1gvR1BYy6_LnTNtpUJCSGSikRc7BmTdVfwoNLs-PKcTBKPiDInTO01LeSclXvev8wzurNTHAkrLCr9mP/s4898/DSC08064.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3265" data-original-width="4898" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhVNUw049Rimi_wwAGWHh-iwcHVWQwJaabtUFOTH_U0DBm1Ho78fw4ov_FhQT3sC4P-syCVvxmvhkHDavYpWDOLTLrrftmIpbnAuMXmwD0vSDwi1gvR1BYy6_LnTNtpUJCSGSikRc7BmTdVfwoNLs-PKcTBKPiDInTO01LeSclXvev8wzurNTHAkrLCr9mP/s16000/DSC08064.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">尖石。尖石史跡公園の南にあり、現地に案内も整備されている。</td></tr></tbody></table><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEis0_4pBIxND_DorpeTsJbGwexLUiztkChTq60KUkLHM3v21s6cAPEc7AECtPP_LbmirLOzZ1tObD5dI7rgbnKtyqrVNm4cUh3dp5HdmQ3v2y4t-JF4RyVN5t_IEBddpLHSNlVRMU9lqdIsPGaocuMCd95dHkkqGgiMDQMDGQzJ8zrH-5oaxxRAUGJbc9Ne/s4898/DSC08068.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3265" data-original-width="4898" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEis0_4pBIxND_DorpeTsJbGwexLUiztkChTq60KUkLHM3v21s6cAPEc7AECtPP_LbmirLOzZ1tObD5dI7rgbnKtyqrVNm4cUh3dp5HdmQ3v2y4t-JF4RyVN5t_IEBddpLHSNlVRMU9lqdIsPGaocuMCd95dHkkqGgiMDQMDGQzJ8zrH-5oaxxRAUGJbc9Ne/s16000/DSC08068.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">尖石近景。三角のエッジを持つが、本記事の焦点は「摩滅」跡にある。</td></tr></tbody></table><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjaAzHGMpuWepq2iCKrbe8qUnz-fXrCnKRjOA96QqaEGlH_POqdinyvJHLaSZh0YoDydjct_mlhQ635P6QnBtZBGQtOMYU5AcZvH7szUORdS20wJybGG9S1ithmUSqKHS_CXY9Niopc0G7GbOxkYMn93hQn-TRaWhxvA18BoEv-hzqtN9uKoyRf5n77XXBc/s4898/DSC08062.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3265" data-original-width="4898" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjaAzHGMpuWepq2iCKrbe8qUnz-fXrCnKRjOA96QqaEGlH_POqdinyvJHLaSZh0YoDydjct_mlhQ635P6QnBtZBGQtOMYU5AcZvH7szUORdS20wJybGG9S1ithmUSqKHS_CXY9Niopc0G7GbOxkYMn93hQn-TRaWhxvA18BoEv-hzqtN9uKoyRf5n77XXBc/s16000/DSC08062.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">尖石遠景。遺跡からは南の斜面下に落ち込んで存在する。</td></tr></tbody></table><br /><p>2022年に、尖石遺跡の明治時代からこれまでの調査を包括的にまとめた<a href="https://www.city.chino.lg.jp/site/togariishi/1825.html" target="_blank">『国特別史跡「尖石石器時代遺跡」総括報告書――縄文社会のデザインがはじまったムラ』(茅野市教育委員会)</a>が発行された。上記リンク先でpdf版が全頁公開されている。</p><p>はたしてその中で尖石はどう記されているか。</p><p>報告書では主に第2章第1節(pp.7-8)で岩石としての尖石に言及があるものの、過去に宮坂英弌が記した『尖石』(茅野市教育委員会 1957年)の記述をそのまま引用したレベルの内容にとどめている。情報をまとめると、<br /><br /></p><p></p><ul style="text-align: left;"><li>地表からの高さ1.20m、底辺は長径1.15m、短径70cmの三角形の岩石。</li><li>地中にどの程度埋まっているかは不明。</li><li>石肌に凹凸が激しい面があり、その凹凸が人工的なものか自然成因のものか不明。</li><li>尖石の東肩が摩滅しており、これが「磨石砥」であることは明瞭である。</li><li>尖石の傍らに1基の石祠がまつられ、「酉年小平氏」の刻字があるが建立年は不明。</li><li>かつてこの地を長者屋敷と呼び、かつては尖石以外にも岩石が集積していたといわれる。4軒の家で庭石に使われていたことが判明しており、そのうちの1個は前の堰に埋もれている。</li><li>ある人が尖石の下に宝があると信じて掘り進めたが瘧(オコリ)にかかって死んだため、誰もこの石の下を掘ろうとはしない。</li><li>諏訪の御柱祭の折には、区から御柱を寄進していて、その関係で尖石の周囲にも御柱を立てている。</li><li>正確な分析はされていないが、尖石の石種は地質学的に八ヶ岳天狗岳・硫黄岳起源の安山岩類と考えられる。</li><li>尖石は尖石遺跡の南側斜面に位置し、この斜面の崖状地形には軽石などの火砕流噴出物がみられるが、そのような火山活動起因の巨石として尖石は存在したものと考えられる。</li></ul><p></p><p><br /></p><p>信仰・祭祀の観点からみると、やはり注目すべきは「磨石砥」である。</p><p>現地看板には「右肩に磨かれたような跡があることから縄文時代の石器を研いだ砥石ではないかといわれています」と記され、尖石が縄文時代に砥石として用いられていたという仮説を追認している。</p><p>※なお、尖石の周囲にあったという御柱は2023年時点では存在していなかった。遺跡整備の一環によるものかは不明。</p><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhgtMu9QJJ3aeGGFiIy_zct8spICe-h8d_p6fSv03UchBaZoVavPNe-2iEYePhxLbBG0dCfllkx50mqIr0r02m2FEey5W_F_dliAx1Qz60VmC_V2Lp4up3O6xL9ge6IrwNokSuK3dwHEQzNBxPvPLcrduQPoqs0PleOP4tz0Ntv0OUgExGGC3hzz4wTTyEM/s5472/DSC08065.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhgtMu9QJJ3aeGGFiIy_zct8spICe-h8d_p6fSv03UchBaZoVavPNe-2iEYePhxLbBG0dCfllkx50mqIr0r02m2FEey5W_F_dliAx1Qz60VmC_V2Lp4up3O6xL9ge6IrwNokSuK3dwHEQzNBxPvPLcrduQPoqs0PleOP4tz0Ntv0OUgExGGC3hzz4wTTyEM/s16000/DSC08065.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">現地看板</td></tr></tbody></table><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">縄文時代の砥石が地上に露出し続けるという意味</span></h2><p>さて、この仮説はどこまで信頼できるのだろうか。</p><p>他例では寡聞にしてこのような自然岩塊を砥石代わりにした例を確認していないが、もちろん石器を磨くための石材としての岩石はあっただろう。しかし尖石が縄文時代から今まで現存し続けてきたそれなのかには一考の余地がある。</p><p><br /></p><p>最大の批判点は、この尖石が遺跡発掘調査前から地上に露出し続けていた点である。</p><p>尖石遺跡という名前がついているから尖石も遺跡の出土物かのように錯覚してしまうが、尖石遺跡はあくまでも地名としての尖石からの命名であり、尖石は遺跡地から南に行った斜面途中に存在している。</p><p>尖石が仮に地中に埋没したままならその地層の年代での出来事として保証はできるだろうが、地表上に出続けていたなら縄文時代以降も利用される可能性があったわけで、岩肌の摩滅跡が縄文時代と限られる保証はない。当然、現代までのいつかの時代の営為による痕跡の可能性もあり、その批判への返答が必要になる。</p><p><br /></p><p>逆に、尖石は斜面中の岩石で高さ1m強の露岩であるため、縄文時代の時は埋もれていて、後世の斜面地形変化で後世に露出した可能性もある。</p><p>報告書によると、尖石の南側斜面は現在テラス状の平坦部が広がりその南にさらに斜面が広がる段状斜面地形を有するが、調査の結果このテラス面は後世に水田開発などにより人為的に形成された地形とみなされている。</p><p>また、報告書の記述を参考にするならばこの地には尖石のほかにもいくつか岩石が集積していたということあり、三角形の尖りを以て神聖視されたのが始まりだったのかどうかもわからない。</p><p>以上の内容から、現状の景観は縄文時代の風景と同じではなく、尖石が斜面に1m姿を現すこと自体を縄文時代のあれこれと直結するべきではない。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">縄文時代の自然石信仰の候補遺跡―尖石の比較資料として―</span></h2><p>以上の話とは別角度の疑問としては、砥石に使われた岩石が信仰・祭祀の岩石と言えるのかというテーマもある。</p><p>一般的にイメージすれば砥石は石材であり精神的な対象にはならないが、それは現代人の論理である。私たちと価値観の異なる人々において、石を磨くことが祭祀につながった可能性をゼロにできるわけではない。</p><p><br /></p><p>では、磨かれて傷を負うことになる岩塊は、たとえば神としての岩石になりうるのか?</p><p>縄文時代以外の民俗例で岩石を欠いて薬にするなどの事例はあるが、結局そこは同時代資料で証明できない領域である。</p><p><br /></p><p>ならば縄文時代の自然石信仰の可能性を匂わせる遺跡群との比較はどうだろうか。</p><p>管見のかぎりでは、船引・堂平遺跡(福島県田村市)、皆野岩鼻遺跡(埼玉県秩父郡皆野町)、合角中組遺跡(埼玉県秩父郡小鹿野町)、女夫石遺跡(山梨県韮崎市)の4事例を把握しており、それぞれの自然石の状態を下記のとおり紹介したい。</p><p><br /></p><h3 style="text-align: left;"><span style="font-size: large;">船引・堂平遺跡</span></h3><p>縄文時代後期前葉の遺跡。山裾に立地。高さ約1.5m、径3mの花崗岩の岩塊群が出土し、傍らから石棒1点が直立した状態で伴出したほか、土器、石皿、凹石なども出土。岩塊群は主に4体の岩石が密集したもので岩石間に岩陰が生じている。一部の岩塊の裏には小石で裏込めがなされており人為的と報告されている。</p><p><br /></p><h3 style="text-align: left;"><span style="font-size: large;">皆野岩鼻遺跡</span></h3><p>縄文時代中期初頭の遺跡。山腹に立地。高さ60㎝、幅、奥行き各2mの緑泥片岩の岩塊が出土し、岩塊の北面に生じた亀裂から石斧2点、岩塊の周辺には多数の焼石と土器が検出されたほか、南側から石棒が欠損状態で出土。岩塊は山の上の転石が落ち込んだ自然石と目されるが、岩肌の北面に細かい亀裂が多く確認されている。</p><p><br /></p><h3 style="text-align: left;"><span style="font-size: large;">合角中組遺跡</span></h3><p>縄文時代後期前葉の遺跡。高さ50㎝、径1mの砂岩の岩塊が出土し、岩塊の傍らから石棒が2つに分割された状態で見つかったほか、土偶が不完全な破片状態で散乱し、土器も伴出した。周囲に配石遺構もあり。岩塊の長軸(南東-北西)方向に深さ40㎝の溝が岩塊上面を走っている。溝の底面に亀裂などが見出せないため人為的な溝と評価されている。</p><p><br /></p><h3 style="text-align: left;"><span style="font-size: large;">女夫石遺跡</span></h3><p>縄文時代中期の遺跡。沢沿い平坦地の立地。高さ1.7m、幅、奥行き2.5mの岩塊が出土し、その傍らからミニチュア土器、石棒2点(1点は欠損)、土偶などが伴出。遺物包含土には焼土痕が検出された。岩塊には自然のものとみられる裂け目が確認されている。</p><p><br /></p><p>※各遺跡の岩塊写真画像については当ブログ下記事を参照。</p><p><a class="embedly-card" href="https://www.megalithmury.com/2016/03/blog-post_3.html">日本の岩石信仰は、いつどのように始まったのか?</a></p><p><script async="" charset="UTF-8" src="//cdn.embedly.com/widgets/platform.js"></script></p><p><br /></p><p>自然石信仰の候補事例といいながらも、船引・堂平遺跡では岩塊に裏込め、合角中組遺跡では人為的に刻まれたと評価される溝などがあり、岩石へ手を入れたケースが報告されている。</p><p>その点で、尖石に摩滅跡が見られたことと対照は可能で、岩石に手を入れても祭祀遺構としての推測は成立されうることになる。</p><p>しかし、上記4例では岩塊の傍らから石棒がいずれも出土している(欠損・直立が混在)。土偶が伴う場合もある。尖石が弱いのはここだろう。地表にさらされていただけに縄文時代当時の状態がわからず、結果として尖石に伴出する遺物は確認されていない。この点で、尖石は上記4遺跡と相違が認められ、尖石を同種の遺跡としてみなすには根拠不足と判断される。</p><p><br /></p><p>それにしても、上記4遺跡においては石棒の伴出もさることながら、岩塊の特徴として共通項も浮かび上がるのも興味深い。</p><p></p><ul style="text-align: left;"><li>高さは2mに達せず、圧倒的な規模の巨岩・巨石として扱って良いかは検討の余地がある。</li><li>人為・自然問わず、亀裂や溝、岩陰などの空間的な性質がみられる。</li></ul><p></p><p>そう巨大とも言えない岩石と祭祀に関連が指摘でき、単なる自然石ではなく岩石の中に空間をみる傾向を重要視しないとならない。巨大であること、自然のままであることという要素とは異なる部分が縄文時代の祭祀には見られるのである。</p><p>自然石に凹部的な岩陰空間がみられたらそれをそのまま利用して、なければ人為的に彫りこみ凹部空間を作り出したということか、凹みに目的を見出したのか岩石の内部に空間を見出したかったのかなど、その評価は当然ながら難しいことであるが注目していきたい。今後の類例の資料数増加に期待するばかりである。</p><p><br /></p><p>なお、尖石遺跡に接して建てられた茅野市尖石縄文考古館では、「集落に持ち込まれた(と思われる)巨石」というキャプションと共に、複数の不整形の岩石が館内展示されている。こちらも縄文時代の岩石と精神的なものとの是非を考えるうえで参考にしたい。</p><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiyn2PMltQu8IueOl46SCOavbw7WJDbo0B_wyWybSC_pLIEXcUW4RFceYiw9Mntqv0UVjEcWqL6aHj7RMkd96xQuFbDRmB48B8HY7-k-kXMbM3l2B8dNT-LqWO8jyYG0u9QDVmmqIuuAxPcop_wSbz0v3_mdu8qp1o-XuA_f3-Y6QlgR18aa7rtOpnlOAmo/s5472/DSC08057.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="5472" data-original-width="3648" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiyn2PMltQu8IueOl46SCOavbw7WJDbo0B_wyWybSC_pLIEXcUW4RFceYiw9Mntqv0UVjEcWqL6aHj7RMkd96xQuFbDRmB48B8HY7-k-kXMbM3l2B8dNT-LqWO8jyYG0u9QDVmmqIuuAxPcop_wSbz0v3_mdu8qp1o-XuA_f3-Y6QlgR18aa7rtOpnlOAmo/s16000/DSC08057.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">茅野市尖石縄文考古館 蔵</td></tr></tbody></table><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi6ojtfKN0a7jPR6031VwIlIS2ZnoHSv6sjfXqNZLWQ4GC-_K9Y3FjqG1Ndpd0nrp8f5dV7dphZhEXa4r7x7h8Ve1BEThHqEWBwhAgVxrgkQ243Hzjmv-etbcrozomyMm8c_juP5oL7JANvdrc-a0LhmcidAmJjY8vb65XZehT4Bu5P4_sysHdfGBm74v28/s5472/DSC08054.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="5472" data-original-width="3648" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi6ojtfKN0a7jPR6031VwIlIS2ZnoHSv6sjfXqNZLWQ4GC-_K9Y3FjqG1Ndpd0nrp8f5dV7dphZhEXa4r7x7h8Ve1BEThHqEWBwhAgVxrgkQ243Hzjmv-etbcrozomyMm8c_juP5oL7JANvdrc-a0LhmcidAmJjY8vb65XZehT4Bu5P4_sysHdfGBm74v28/s16000/DSC08054.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">上写真を逆側から撮影。</td></tr></tbody></table><p><br /></p>吉川宗明http://www.blogger.com/profile/15618688408266963929noreply@blogger.com0日本、〒391-0213 長野県茅野市豊平4734−13236.01426 138.2335167.7040261638211547 103.07726600000001 64.324493836178846 173.389766tag:blogger.com,1999:blog-7469619715096703423.post-59788929375270222082024-02-11T16:54:00.000+09:002024-02-11T16:54:03.275+09:002010年、茅野駅前から出土した大石(長野県茅野市)<iframe height="300" src="https://www.google.com/maps/d/u/0/embed?mid=1LIuVa7_4vR0HwIm_eCU5WqX1cmA&ll=35.99292, 138.15309&ehbc=2E312F" width="300"></iframe><br />長野県茅野市 茅野駅前縄文公園<div><br /><div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhysFpjxjIegQD4s0LWnMoVIRPogOuWSFIAdROVjpB7qvDS9rL_GA_1vhYfiUaYPjlzmvWhp8L_Jl-3458tvCKTZLES32peF3QBFAoAYhgwrKdUOyZ3i0VOT323F183N_8WqRdhyQPEpPsq8_P0qyb3q7OQ_-c83kYvRNfUfPwkQfM4SrvzuMPkF9aPnHg8/s4898/DSC08069.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3265" data-original-width="4898" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhysFpjxjIegQD4s0LWnMoVIRPogOuWSFIAdROVjpB7qvDS9rL_GA_1vhYfiUaYPjlzmvWhp8L_Jl-3458tvCKTZLES32peF3QBFAoAYhgwrKdUOyZ3i0VOT323F183N_8WqRdhyQPEpPsq8_P0qyb3q7OQ_-c83kYvRNfUfPwkQfM4SrvzuMPkF9aPnHg8/s16000/DSC08069.JPG" /></a></div><br /><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgtXiMHED3YJN1aG9ZjbSDgK2fyRnmThIyQjpsToozyWngDg2TZD6mnOf1hLR60IWPjlUUqXnrxrt5KOBsp9qPd_nb2KtirDKbCspUdrPrgNKWSIGYI27tnnvGOjioUPBA95FRiQcqr805qEBFp6bn-VXBW4N-LUT3q6dJHyqTjOfREM0dOUUchqEYbClGI/s4898/DSC08072.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3265" data-original-width="4898" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgtXiMHED3YJN1aG9ZjbSDgK2fyRnmThIyQjpsToozyWngDg2TZD6mnOf1hLR60IWPjlUUqXnrxrt5KOBsp9qPd_nb2KtirDKbCspUdrPrgNKWSIGYI27tnnvGOjioUPBA95FRiQcqr805qEBFp6bn-VXBW4N-LUT3q6dJHyqTjOfREM0dOUUchqEYbClGI/s16000/DSC08072.JPG" /></a></div><br /><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgmcy4ZbpooeL96eNOBrBYv9G2IqUJLy7I0U2_qRjiDNXdH6l3vmZTA9i8dFwXujn0yvhsNL-y1KAs-s-Uf8p735YeMTTWp3j0pLFvIq4VWuRxQ7epIoFxKux5OeHIH4oi4e1s_yG1rLZKYGvFOkMo7rVEmqspuQUTf-PiwT_5l-4vZlymjDpYWtUy0G5iB/s4898/DSC08076.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3265" data-original-width="4898" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgmcy4ZbpooeL96eNOBrBYv9G2IqUJLy7I0U2_qRjiDNXdH6l3vmZTA9i8dFwXujn0yvhsNL-y1KAs-s-Uf8p735YeMTTWp3j0pLFvIq4VWuRxQ7epIoFxKux5OeHIH4oi4e1s_yG1rLZKYGvFOkMo7rVEmqspuQUTf-PiwT_5l-4vZlymjDpYWtUy0G5iB/s16000/DSC08076.JPG" /></a></div><br /><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhg_rOzwdw4unCpzRTDbpDaYN04lZqVLHdRnBqV7RiVtQiBIkW-ZeUTEwbhV93YyOSlEq2oRMoc8jtPqcHnWXzV5EQDFEITqStx9qxb4e36esvRIMxK-nc1h9VsdsXpzHQ04v7CQnqHbvgp7M50oNZFvt4CEU44TwveIr9RikthKU_Rrw6IoUNG6nCaH5a0/s4898/DSC08074.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3265" data-original-width="4898" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhg_rOzwdw4unCpzRTDbpDaYN04lZqVLHdRnBqV7RiVtQiBIkW-ZeUTEwbhV93YyOSlEq2oRMoc8jtPqcHnWXzV5EQDFEITqStx9qxb4e36esvRIMxK-nc1h9VsdsXpzHQ04v7CQnqHbvgp7M50oNZFvt4CEU44TwveIr9RikthKU_Rrw6IoUNG6nCaH5a0/s16000/DSC08074.JPG" /></a></div><br /><p>SNSで不定期にバズる岩石である。</p><p>おそらく最初にバズッたのは2015年。当時の記事を紹介する。</p><a class="embedly-card" data-card-image="0" data-card-type="article" href="https://j-town.net/2015/09/08211596.html?p=all">「大きな岩が出てきた。きっと神様の磐座だ。駅前に祀ろう」→昔話かと思いきや、 たった5年前の実話(全文表示)|Jタウンネット</a><script async="" charset="UTF-8" src="//cdn.embedly.com/widgets/platform.js"></script><p><br /></p><p>時系列でまとめると、元は2010年に茅野駅前の区画整理工事中に地下3mから出土したものであり、普通は破壊されるところ「丸い巨石」であることから保存されることとなった。</p><p>調査の結果では特に歴史性は認められなかった自然石のようだが、「丸い」「巨大である」といったところが、特別視された要素となるようで興味深い。</p><p><br /></p><p>2023年には福島県田村市の産業団地工事中に、高さ約17mを筆頭とする複数の巨石が出土した。</p><blockquote class="twitter-tweet"><p dir="ltr" lang="ja">調節池を造成しようとしたら…巨石がゴロゴロ! 福島・田村の産業団地、工事費は倍以上に | 河北新報オンライン <a href="https://t.co/J2SDo3WfDO">https://t.co/J2SDo3WfDO</a></p>— 奇岩巨石磐座ニュース (@stonenews) <a href="https://twitter.com/stonenews/status/1727277643895291954?ref_src=twsrc%5Etfw">November 22, 2023</a></blockquote> <script async="" charset="utf-8" src="https://platform.twitter.com/widgets.js"></script><p>こちらは現在進行形の出来事だが、自治体としては保存というよりはどのように破砕すべきかに苦慮している模様である。</p><p>茅野市の大石が高さ2mに満たず、ある意味で「同居が許容できる存在」なのに対して、田村市の巨石群は都市開発の生活に影響が出る規模なのは言うまでもない。</p><p>岩石に限らず、そこを生業とする人々にとって許容できる範囲なのかどうかは重要な要素であり、外野から物見遊山的に当事者の生活を圧迫することは安易におこなってはならないだろう。</p><p><br /></p><p>なお、茅野市のこの大石は「現代人が岩石をまつった」という現代岩石信仰の事例として語られるが、真に祭祀していると言えるのか疑問を書いておこう。</p><p>2015年のバズの時に撮られた写真では注連縄が巻かれていたが、私が2023年に訪れた際は注連縄が巻かれていなかった。また、祭祀には祭祀対象たる神に対して定期的な祭りが伴うはずだが、そのような祭祀が継続的におこなわれているという話を聞いたことはない。それで祭祀対象と言えるのかということを再考しなければならない。</p><p>注連縄が一度でも巻かれたらそれは信仰なのか神なのか? 現代人の信仰イメージを考える試金石として注目している。</p><p><br /></p></div></div>吉川宗明http://www.blogger.com/profile/15618688408266963929noreply@blogger.com0日本、〒391-0001 長野県茅野市塚原1丁目1 茅野駅35.9948 138.1525037.6845661638211524 102.996253 64.305033836178836 173.308753tag:blogger.com,1999:blog-7469619715096703423.post-78077181846488188502024-02-07T12:31:00.003+09:002024-02-07T12:31:59.851+09:00「失われし岩石・巨石信仰。畏れと期待、その世界観とは。吉川宗明氏インタビュー」掲載<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><br /></div><p>webメディア「Less is More. 」で吉川のインタビュー記事が掲載されました。</p><p><br /></p><blockquote class="embedly-card"><h4><a href="https://note-infomart.jp/n/n2717b9684e42">失われし岩石・巨石信仰。畏れと期待、その世界観とは。吉川宗明氏インタビュー。|Less is More.by info Mart Corporation</a></h4><p>文献には残らないほど古い時代から、日本のあらゆる場所で、岩や石を祀る文化があったそうだ。今の宗教とは異なる、不思議な世界観を持つ「岩石信仰」の研究をしている吉川宗明氏にお話をお聞きした。 </p></blockquote><script async="" charset="UTF-8" src="//cdn.embedly.com/widgets/platform.js"></script><p><br /></p><p>「Less is More. 」(より少ないことは、より豊かなこと)では、グローバル化・デジタル化する世界で失われる/失いたくないモノや概念などを取り上げており、文・理などの分野を問わず有識者にインタビューした記事をnote上に掲載しています。</p><p>失われる/失いたくないモノの一つとして巨石・磐座信仰(私が言うところの岩石信仰)に白羽の矢が立ち、依頼が来た次第です。</p><p>見出しは大きく4構成です。</p><p><br /></p><p></p><ol style="text-align: left;"><li>岩石信仰に出会うまで。</li><li>岩石信仰はいつはじまったのか?</li><li>どのような世界観で岩石信仰がなされていたのか。</li><li>なぜ岩石信仰は失われてしまったのか。</li></ol><p></p><p><br /></p><p>PV数的には巨石や磐座を押し出したほうが良いのでしょうが、記事タイトルにも「岩石」を入れていただけるなど、柔軟に対応していただけました。</p><p>ということで、いつもどおり「地味」なパッケージでお送りしますが、ご覧いただき皆様の拡散をご協力いただけましたら幸いです。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: large;">吉川が岩石を語るときに怖いと思うこと</span></h2><p>インタビューでは、このブログに書かなかった部分、吉川個人の部分に珍しくスポットが当たりました。自分を出しすぎたかもと感じます。</p><div>そうキャッチ―な話ができたとも思いませんが、個人をあまり出さないのには他に理由があります。</div><p><br /></p><p>石の話でよく聞かれるのが、岩石信仰の魅力についてです。</p><p>これを聞かれるのが、嫌というより、恐いんです。</p><p>それを知りたいがために研究しているところがあり、研究途上の人間がそれを言葉にすることで、自分の言葉で規定されたくないというのもあります。死ぬ間際に言いたいです。</p><p><br /></p><p>もう一つの怖さがあります。</p><p>私が岩石を信仰しているわけではないので、信仰の当時者ではない人が岩石の魅力を主観であれこれ語ることは危険で、だからブレーキをかけています。</p><p>石に惹かれる自分はいますが、自分の感性を信用していないということです。</p><p><br /></p><p>あまり言う場面がありませんでしたが、私自身の岩石信仰に対する考えについて触れておきます。</p><p>私自身の日常の生活観は、共同体主義がなじむ人間というよりは個人主義に属する人間です。現代人という自覚もあります。</p><p>岩石信仰を研究しているからといって、岩石信仰に憧れたり、信仰に付随するあれこれをすべて肯定的・好意的に受け止めたりしているわけではありません。</p><p>そういう意味で、信仰されている方から見ると冷ややかにうつると思うのですが、逆で、自分にないものだからこそ敬意をもって臨まないと、永久に理解できないだろうという自戒でこれまで岩石と岩石に関わる人々に接してきたつもりです。</p><p>そして、自分にはない価値観だからこそそれを知りたいという動機に加えて、信仰とは異なるが岩石を見て言語化できない自分の感情を自覚もしているので、その自分の感覚を言語化したいという動機でも研究を続けています。</p><p><br /></p><p>ということで、岩石信仰の魅力は何ですかと問われれば何も答えられないのですが、個人的経験の範囲で語れることが一つだけあります。</p><p>それは、思い起こせば、私は岩石の実物を見て惹かれたクチではなくて、まずは本に載っている岩石の写真で惹かれたということです。</p><p>つまり、インタビューで答えたように岩石に近づいてその磁気を無意識に脳が感じとったのではなく、岩石の視覚画像のみを以て自分の脳が反応したと言えます。</p><p>写真で縮尺もよくわからない岩石も多かったので、岩石の巨大さに圧倒されたようでもありません。</p><p>岩石の外形、岩肌が持つ色などの二次元的視覚情報だけが放つ岩石特有の魅力がある、そこにも岩石信仰を考えるヒントはないかと考えています。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;">記事リンク</h2><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://note-infomart.jp/n/n2717b9684e42" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;" target="_blank"><img border="0" data-original-height="681" data-original-width="966" height="453" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjsStFZc7i-Vce1wjqy0cuRAeZasU-F7IJaR51hEHPDjbHYT1xT6BIfU8bdqLA9WfalF9uZSQwQ89kLcwE_-rdWLU1fRAIqD4l2RngrQc2piaxyticon9RUJ2t7j12pOEsBxkY6ibnQVELrQvuNuHZyiMLtCgx57neSF05Y3xz929CFW57dsOFe2_d-JRgb/w640-h453/s.png" width="640" /></a></div><p><br /></p>吉川宗明http://www.blogger.com/profile/15618688408266963929noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7469619715096703423.post-12593281106183016942024-02-04T16:01:00.005+09:002024-02-04T16:01:58.061+09:00岩上神社の岩神/岩神さん/岩神様/岩神大明神(愛知県蒲郡市)<iframe height="300" src="https://www.google.com/maps/d/u/0/embed?mid=1SjSaJq8W-vVzDu-G-yT_yQ6c7YM&ll=34.81353, 137.1834&ehbc=2E312F" width="300"></iframe><br />愛知県蒲郡市金平町岩上<div><br /><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgq2-I4GpLV_-w6JtwJOxQ0Vu5RjLFe8BrHcDtAk8dCCX7jjkJqERHfQtJcypra14uF2XhkimeDJEjpb4xjQKzK9uKZd5OkZk98hFE0pGUTX9eKxV6BQmRHlg_mcq7xyYz3M7j7ta7BOCnZIiGL5DIbDroftLESsqZpl9GZkxUAUI2W_zsHpMfEK2tNEM9F/s4000/CIMG7097.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3000" data-original-width="4000" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgq2-I4GpLV_-w6JtwJOxQ0Vu5RjLFe8BrHcDtAk8dCCX7jjkJqERHfQtJcypra14uF2XhkimeDJEjpb4xjQKzK9uKZd5OkZk98hFE0pGUTX9eKxV6BQmRHlg_mcq7xyYz3M7j7ta7BOCnZIiGL5DIbDroftLESsqZpl9GZkxUAUI2W_zsHpMfEK2tNEM9F/s16000/CIMG7097.JPG" /></a></div><br /><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgSm7-Nr4rFnWRrKAGC7fv-_BK5vn6uM5BbE_YyIJRbiuNy2E0Bz3fbniH40iX9U3NwX1wdLn5eXyJW26wFOz3RqALxXMmveLAEH_Y0U_iWUXHqKnNj0t3GEPTycw3eVVkOyTo5MoIZF9EvW6CWi7IDwVIG8RGzXt22sXzhow8IjURKOLDUcKHFRCcjXooY/s4000/CIMG7091.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3000" data-original-width="4000" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgSm7-Nr4rFnWRrKAGC7fv-_BK5vn6uM5BbE_YyIJRbiuNy2E0Bz3fbniH40iX9U3NwX1wdLn5eXyJW26wFOz3RqALxXMmveLAEH_Y0U_iWUXHqKnNj0t3GEPTycw3eVVkOyTo5MoIZF9EvW6CWi7IDwVIG8RGzXt22sXzhow8IjURKOLDUcKHFRCcjXooY/s16000/CIMG7091.JPG" /></a></div><br /><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhhj3Bu8oJn8VxiKFE_s0q3N7twTmpfZKhnxif_sO1xMD2WSqX7-SONTWjKmmVDg_6i6V7gKku_zyKoNNoJq-LJUzSMCxvOqhMrwvs57dIhVMQuY_FQfo8jhrlzHcZ2zkMsUxdUSdsfBHN_zczx7GDR4AvjyaJGBRest6o6YR7r6P52WYl_Hgxq1ULLcKR0/s4000/CIMG7095.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3000" data-original-width="4000" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhhj3Bu8oJn8VxiKFE_s0q3N7twTmpfZKhnxif_sO1xMD2WSqX7-SONTWjKmmVDg_6i6V7gKku_zyKoNNoJq-LJUzSMCxvOqhMrwvs57dIhVMQuY_FQfo8jhrlzHcZ2zkMsUxdUSdsfBHN_zczx7GDR4AvjyaJGBRest6o6YR7r6P52WYl_Hgxq1ULLcKR0/s16000/CIMG7095.JPG" /></a></div><br /><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhnwm2lnHg4l-fq_9G25YUIL31JMdddcc-kkgsmZRTAGjaij-NyLKpCyNWYxmWjhR4pBNOT2Wv_kuwRZs8HNovkOeozjfP_9597OQyp5HChS-hrHziKNjt3vaL1EHiSuNbIxMEvZmZLvsDFtRXp39MrRBdtPBJxw2_zTbXkQewbacgu-bscLbSbq-j31jif/s4000/CIMG7093.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3000" data-original-width="4000" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhnwm2lnHg4l-fq_9G25YUIL31JMdddcc-kkgsmZRTAGjaij-NyLKpCyNWYxmWjhR4pBNOT2Wv_kuwRZs8HNovkOeozjfP_9597OQyp5HChS-hrHziKNjt3vaL1EHiSuNbIxMEvZmZLvsDFtRXp39MrRBdtPBJxw2_zTbXkQewbacgu-bscLbSbq-j31jif/s16000/CIMG7093.JPG" /></a></div><br /><p>現地看板のとおり、岩石の姿を陽石に準えて生殖器崇拝の一例とみなす向きもある。</p><p>しかし、弘化年間(1844-1848年)に成立した羽田野栄木の『三河国古蹟考』によると「社の後に大なる岩石あり此を神体とすと云り、其石たてに三間許さしわたし三間許宝珠形に似たり」とある。</p><p>著者(神職者)や時代背景(江戸末期国学)を加味する必要はあるが、陰陽石ではなく宝珠形に準えた歴史も併記されるべきだろう。</p><p>三間ということで縦横約5mの規模を記し、これを『三河国内神明名帳』の「寶飯郡 石上天神」の論社に比定している。</p><p><br /></p></div>吉川宗明http://www.blogger.com/profile/15618688408266963929noreply@blogger.com0日本、〒443-0102 愛知県蒲郡市金平町岩上34.8139547 137.18405236.503720863821151 102.02780229999999 63.124188536178842 172.3403023tag:blogger.com,1999:blog-7469619715096703423.post-36675113599331209912024-01-29T21:17:00.003+09:002024-01-29T21:18:19.264+09:00諏訪大社下社春宮のいぼ石(長野県諏訪郡下諏訪町)<iframe height="300" src="https://www.google.com/maps/d/u/0/embed?mid=1LIuVa7_4vR0HwIm_eCU5WqX1cmA&ll=36.08149, 138.08205&ehbc=2E312F" width="300"></iframe><br />長野県諏訪郡下諏訪町 諏訪大社下社春宮境内<div><br /></div><div><br /></div><div>下社春宮の門前に掲げられた現地看板に「いぼ石」が紹介されている。</div><div><br /></div><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjjZ2W-SyTJ7cbMok8hRgUUMz8rDxhV5TG3rMqQM27_vcZmnfVRAwaSxsuOZfvMPzIwo2Ll6i-VlbDq5rEbb0TeG73oj2MLRgtN0B3K6UMab0BQreBq0XbwHSUADR7n7aVdSE51FqP2KCSmFi_3NBa0tdoFITeqmfRQ5d5ZLo3bcBzJYCnNbaqZnWFiHP25/s2344/DSC08077.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="2080" data-original-width="2344" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjjZ2W-SyTJ7cbMok8hRgUUMz8rDxhV5TG3rMqQM27_vcZmnfVRAwaSxsuOZfvMPzIwo2Ll6i-VlbDq5rEbb0TeG73oj2MLRgtN0B3K6UMab0BQreBq0XbwHSUADR7n7aVdSE51FqP2KCSmFi_3NBa0tdoFITeqmfRQ5d5ZLo3bcBzJYCnNbaqZnWFiHP25/s16000/DSC08077.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">画像中央あたりに「いぼ石」の名がある。</td></tr></tbody></table><br /><div><br /></div><div>神社境内の真ん中にあるように見えるが、境内を一見してもよくわからない。</div><div><br /></div><div>神職の方にお伺いしたところ、「よく聞かれるんです。あちらです」ということで教えていただいた。</div><div><br /></div><div>参道石畳に組み込まれていた。</div><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh2XMKBb9O9omI7lwbHgfnzGbSKtLe13-z6m64n3R5jnBBRJURVGmVbdv9IO39sPR9nfjefBPMGrxIB2lfqUlaizKVEJFxkNrrploc3DD763UhWeKf_3qhOJw5Tb_5PwTomo6cAsrjIIfAnZnknMrOpIzp5jUComCb1Rn5lOO2j8WPMkerkeVilVQi7h9uO/s4898/DSC08092.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh2XMKBb9O9omI7lwbHgfnzGbSKtLe13-z6m64n3R5jnBBRJURVGmVbdv9IO39sPR9nfjefBPMGrxIB2lfqUlaizKVEJFxkNrrploc3DD763UhWeKf_3qhOJw5Tb_5PwTomo6cAsrjIIfAnZnknMrOpIzp5jUComCb1Rn5lOO2j8WPMkerkeVilVQi7h9uO/s16000/DSC08092.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">穴がぼこぼこ開いた写真右の石がいぼ石。写真左には石畳上に石ころが1個置かれていて、神職さんはこの石ころを目印にいぼ石の場所を説明されていた。意図的に置いた?<br /></td></tr></tbody></table><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi27k8baQ7_IWHWGOU1C5yaiUBVJ-3TGisI96AuLBDnoW5-Lb_HmUp4YlprvGvmwBc0Mz4j9lnOadrOR_BRqbdfi5CrTFnpjmYP0n3IYT25CPTGxDMTFpH7mCa7HQJvGn1gy-snL8qMxiV0qpIGbpGm_kjJ39pe_iRcvV2da2zTxPAKBAYnNbvLHNvYVkl1/s5472/DSC08094.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi27k8baQ7_IWHWGOU1C5yaiUBVJ-3TGisI96AuLBDnoW5-Lb_HmUp4YlprvGvmwBc0Mz4j9lnOadrOR_BRqbdfi5CrTFnpjmYP0n3IYT25CPTGxDMTFpH7mCa7HQJvGn1gy-snL8qMxiV0qpIGbpGm_kjJ39pe_iRcvV2da2zTxPAKBAYnNbvLHNvYVkl1/s16000/DSC08094.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">いぼ石と神楽殿の位置関係。この写真で現地を特定してください。</td></tr></tbody></table><br /><div><br /></div><div>このように参道と半ば同化した岩石信仰の類例には、<a href="https://www.megalithmury.com/2019/10/mishima.html#toc_headline_3" target="_blank">三嶋大社境内に存する牛石</a>が挙げられる。</div><div><br /><p>いぼ(疣)ができた時は、いぼ石の窪みに溜まった水をいぼに塗りつけるといつの間にかなくなるという。</p><p>『諏訪の近現代史』(1986年)の石の伝説の項目にはこのように由来が説明されていたが、歴史的にいつ頃まで遡れるかは情報収集不足につき不明である。</p><p><br /></p><p><b>参考文献</b></p><p>諏訪教育会 編『諏訪の近現代史』,諏訪教育会,1986.7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9540456 (参照 2024-01-29)</p></div><br />吉川宗明http://www.blogger.com/profile/15618688408266963929noreply@blogger.com0日本、〒393-0092 長野県諏訪郡下諏訪町大門19336.0820837 138.08210827.7718498638211528 102.9258582 64.392317536178837 173.2383582tag:blogger.com,1999:blog-7469619715096703423.post-2349258610454871292024-01-21T21:46:00.003+09:002024-01-21T21:46:37.304+09:00資料報告「愛知県北設楽郡設楽町(旧名倉村域)における自然石の文化財」<p> <a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhbV5_b6fWROJXJSAR-k8Zzfr6hx384dpILQ0NpHQoypArYXbQwarUI8Y6BcvvwhD_Se7yqZNZ5daKpbijXvud9Txdpnba3TvE6703QqkQ2YjSDqmRcSZC7-Mk3z4DZUci0_U5hHdmjiUSdZDUvFl0iGpjvvhWKknTcYohpr_luSQjuyvtc7QUpwUK2Llv1/s4032/IMG_2009.JPG" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em; text-align: center;"><img border="0" data-original-height="4032" data-original-width="3024" height="640" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhbV5_b6fWROJXJSAR-k8Zzfr6hx384dpILQ0NpHQoypArYXbQwarUI8Y6BcvvwhD_Se7yqZNZ5daKpbijXvud9Txdpnba3TvE6703QqkQ2YjSDqmRcSZC7-Mk3z4DZUci0_U5hHdmjiUSdZDUvFl0iGpjvvhWKknTcYohpr_luSQjuyvtc7QUpwUK2Llv1/w480-h640/IMG_2009.JPG" width="480" /></a></p><p><br /></p><p>資料報告「愛知県北設楽郡設楽町(旧名倉村域)における自然石の文化財」を『地質と文化』第6巻第2号(2023年12月31日発行)で発表しました。</p><p>電子ジャーナルとして雑誌のpdfも下記で公開されていますので、どなたでもご覧いただけます。81~106頁です。</p><p><a href="https://drive.google.com/file/d/1Fq9Rl8UfF6xiVf3Mf0JoJkxajNBiBxov/view?usp=sharing" target="_blank"><b>Geology_Culture_6-2.pdf </b></a></p><p><br /></p><p>2019~2023年にかけてフィールドワークとして調査を続けてきた地域です。</p><p>設楽町では岩石信仰や特別視された岩石についての事例が多く存在していることが確認され、そのあたりの文献情報は以前2019年に下の記事でまとめました。</p><p><a class="embedly-card" href="https://www.megalithmury.com/2019/12/nagura1.html">愛知県設楽町名倉(大名倉・東納庫・西納庫)における岩石信仰の文献調査</a><script async="" charset="UTF-8" src="//cdn.embedly.com/widgets/platform.js"></script><br /></p><p><br /></p><p>私が早期調査の必要性を感じたきっかけが、設楽ダムの建設工事です。水没するエリアに沈む岩石も複数ある様子で、記録・保存をおこなおうとしたのが本報告です。</p><p><br /></p><p>したがって、本報告の最大の目的は一つの文化財報告として位置づけておりますが、単なる個別事例の紹介にとどまらず、一般化できる歴史的意義としては次のようなことまで派生しています。</p><p><br /></p><p>1点目として、いわゆる「磐座」の通説的見解の再考を促す予察を記しました。</p><p>原始的磐座(古墳時代の磐座)と歴史的磐座(修験道以降の磐座)の見直しや、イワクラと呼ばれた概念の歴史的位置づけについての示唆を盛り込んだものとなっています。</p><p><br /></p><p>2点目として、岩石信仰の地質の関連について記しました。</p><p>歴史・地理のみに限らず、岩石の地質的な側面と岩石信仰のありかたに影響する可能性を、特に「遥拝」祭祀の点で言及しました。</p><p><br /></p><p>3点目は最も大事な提言として、神聖視・特別視された自然石も文化財であるという「自然石文化財」の視点を提示しています。</p><p>私はこれまで岩石信仰の研究で人工的に加工・設置された岩石と自然のままでまつられた岩石の両方を一括して続けてきましたが、設楽町の調査を通して、とりわけ自然石の信仰・特別視の文化保存が重要であることを明確に意識できました。</p><p>本報告は、自然石文化の初の事例報告集として上梓して、今後の全国各地の記録保存の嚆矢になればという願いを込めたものであります。</p><p><br /></p><p>奇しくも、自然石文化財に対する問題提起となる出来事が最近立て続けに起こりました。令和6年能登半島地震における見附島の崩落などの自然地形の変化や、大阪万博で岩石が利用されることになった残念石のニュースなどです。</p><blockquote class="twitter-tweet"><p dir="ltr" lang="ja">自然災害による自然景観の変化。自然石に込められた文化継承の難しさを再度感じました。<br /><br />「荒ぶる自然の前には看板でさえ恒久的ではなく,さらには自然石そのものもその景観のまま永久不変にありつづけるわけではない」<br />「愛知県北設楽郡設楽町(旧名倉村域)における自然石の文化財」(2023年12月)</p>— 吉川宗明(よしかわ むねあき) (@megalithmury) <a href="https://twitter.com/megalithmury/status/1742188208224670081?ref_src=twsrc%5Etfw">January 2, 2024</a></blockquote> <script async="" charset="utf-8" src="https://platform.twitter.com/widgets.js"></script><p><br /></p><blockquote class="twitter-tweet"><p dir="ltr" lang="ja">これって、文化財を現状保存する理念や、新たな歴史を上書きする責任の重さについて、歴史の専門家と議論した上で決定しているんでしょうか?<br /><br />大坂城再建で使われなかった「残念石」、400年経て大阪・関西万博でトイレの柱に : 読売新聞オンライン <a href="https://t.co/B1FRmP2zok">https://t.co/B1FRmP2zok</a></p>— 吉川宗明(よしかわ むねあき) (@megalithmury) <a href="https://twitter.com/megalithmury/status/1748393855236636754?ref_src=twsrc%5Etfw">January 19, 2024</a></blockquote> <script async="" charset="utf-8" src="https://platform.twitter.com/widgets.js"></script><p>残念石は厳密には人為的加工が施されている岩石ですが、多くの人々の認識は"路傍"の"不要"な自然石としての扱いだったと思います。</p><p>そのような、歴史がその姿形からは見えにくい「自然石」が、人々の思いを込めた文化財なのだという意識を新たにできる資料として、時節柄、本報告が寄与するところはあると確信しています。</p><p><br /></p>吉川宗明http://www.blogger.com/profile/15618688408266963929noreply@blogger.com0日本、愛知県北設楽郡設楽町35.0971147 137.571386.7868808638211533 102.41513 63.407348536178844 172.72763tag:blogger.com,1999:blog-7469619715096703423.post-87591067436257978312024-01-15T22:45:00.001+09:002024-01-16T01:00:54.410+09:00道祖神社の石荒神(奈良県奈良市)<iframe height="300" src="https://www.google.com/maps/d/embed?mid=1uMxhiIDLzMh-UyVtZBfR4Yafuyc&ll= 34.67967, 135.83057" width="300"></iframe><br />
奈良県奈良市今御門町1番地<br />
<br /><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiwR4JVBr8JFUaVeUCBHtYRjkn60TTaT9MYI9mZQKydtBRD0xx-9sZly8Gp0KSjhr4ngKDtWYoRgxD1h51vwabGke8D3OdfShTvhbKFpTSBOUcF62D6XnBTURzyfC6zx2fuE85gHR1B4lqVfXfL_mllzL9_9zdn-KLAmK-bzbnQGzWs8pO2P9e3O_PNrmPs/s5472/DSC01864.JPG" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em; text-align: center;"><img border="0" data-original-height="5472" data-original-width="3648" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiwR4JVBr8JFUaVeUCBHtYRjkn60TTaT9MYI9mZQKydtBRD0xx-9sZly8Gp0KSjhr4ngKDtWYoRgxD1h51vwabGke8D3OdfShTvhbKFpTSBOUcF62D6XnBTURzyfC6zx2fuE85gHR1B4lqVfXfL_mllzL9_9zdn-KLAmK-bzbnQGzWs8pO2P9e3O_PNrmPs/s16000/DSC01864.JPG" /></a><div><br />
奈良市の中心繁華街「ならまち」の街角に道祖神社が構え、社殿脇に上写真の高さ1.3mの岩石がまつられている。<br /><br /><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhmeOvs41b-3ae7mY7zr1YxetfQVVQTn4XS6MgSsCct4iZBseDQA6lAvKve8DMbw3xfwRy5efBCeZ6w7gcShnns0uCuQvsVYY33vILWj2NkjvT52e7SqZV5RhJUdWQicSm7Se_MEUaVrGWE3ecRG-uSY3qnpYH78__dKvwG8MxwLBSyCnBboMmuISvsX_5d/s5472/DSC01867.JPG" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em; text-align: center;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhmeOvs41b-3ae7mY7zr1YxetfQVVQTn4XS6MgSsCct4iZBseDQA6lAvKve8DMbw3xfwRy5efBCeZ6w7gcShnns0uCuQvsVYY33vILWj2NkjvT52e7SqZV5RhJUdWQicSm7Se_MEUaVrGWE3ecRG-uSY3qnpYH78__dKvwG8MxwLBSyCnBboMmuISvsX_5d/s16000/DSC01867.JPG" /></a><br /><div><br /></div><div>社頭の看板では、「境内の巨石は賽の神として勝負の守護神として篤い信仰」を集めたとある。</div><div><br /></div><div>しかし、猿田彦神社すなわち道祖神社の名をもつのだから、元々は「塞の神」(境界の神)として出発したものだろう。</div><div>そして、『石の声』(1983年)によると、地元ではここを「石荒神」と呼んでおり、社頭看板には記されなかった歴史を有していたことがわかる。</div><div><br /></div><div>
同書によると上写真の巨石は大正時代初期に置かれたもので、石荒神と称される岩石は社殿内に秘匿されてまつられているのだという。</div><div><br /></div><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhakgkj04CKRxFxr6aaKcpSKm-TdofJ_NEr9AuMgPATJquFQQ_bZuu4VZhZDd540kKXSO2Yxdr3ZsTNRKaqLho8857aVnuh72awN0teISDcqp_Wvbb0eyn6jzNe-p12OCelqnycM0PMa1XnPCOp13eXnTfMNIsKA_jRlqavoZa8CN1ewSZLi46LVT1dupY9/s5472/DSC01866.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhakgkj04CKRxFxr6aaKcpSKm-TdofJ_NEr9AuMgPATJquFQQ_bZuu4VZhZDd540kKXSO2Yxdr3ZsTNRKaqLho8857aVnuh72awN0teISDcqp_Wvbb0eyn6jzNe-p12OCelqnycM0PMa1XnPCOp13eXnTfMNIsKA_jRlqavoZa8CN1ewSZLi46LVT1dupY9/s16000/DSC01866.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">道祖神社社殿</td></tr></tbody></table><br /><div>道祖神社を管理する御霊神社の元宮司が昭和戦後の神殿修復の際に実物を見たことがあるといい、その発言によると直径20㎝、長さ30㎝の男根の形をした自然石だったとのことである。</div><div><br /></div><div>社殿脇に置かれた巨石は、なぜ大正時代に置かれることになったのか今はそれを知る人も記録もないが、今はもう拝観することができない神体石の代わりに、当社の岩石信仰を視覚的に受け継いだ存在となったと言える。<br /><br /><br /><b>参考文献</b><div>朝日新聞「こころのページ」[著] 『石の声』(朝日カルチャーブックス22) 大阪書籍 1983年</div></div><br /></div>吉川宗明http://www.blogger.com/profile/15618688408266963929noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7469619715096703423.post-69589418682625678332024-01-02T23:06:00.007+09:002024-01-22T22:17:54.631+09:00地震石(石川県羽咋市)<iframe height="300" src="https://www.google.com/maps/d/u/0/embed?mid=1oLcwjcUvwB39opisTqBAgO-3KXw&ll=36.92555, 136.77103&ehbc=2E312F" width="300"></iframe><br />石川県羽咋市寺家町 大穴持像石神社境内<div><br /></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjK001_xfdl4-XltX9kscMhvF_Fus1Kfqjo6-46LEKtYrA8F90FGoSQ4LzugUgbRSF6K0OnTumZztJOXVYlkZ98swswvDZcsqCSKeAXFtkp7dCI1d0kt_ckAwj_77Jaho07QaE0FOOY0d88xzd69SI3GM0HYvLJzZfapkIkKLgSBTS8Ah-ZwU_70X0P27N3/s4000/CIMG3659.JPG" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3000" data-original-width="4000" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjK001_xfdl4-XltX9kscMhvF_Fus1Kfqjo6-46LEKtYrA8F90FGoSQ4LzugUgbRSF6K0OnTumZztJOXVYlkZ98swswvDZcsqCSKeAXFtkp7dCI1d0kt_ckAwj_77Jaho07QaE0FOOY0d88xzd69SI3GM0HYvLJzZfapkIkKLgSBTS8Ah-ZwU_70X0P27N3/s16000/CIMG3659.JPG" /></a></div><br /><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhcT0s9rjyst1QsBWW_j_wdbXdhh-qBkkbNVzcZX0QMBaxr0dPc3ctcvZIR2tBaZo-TUhxRvsfEm_ZuiERwjfmV5BRkGt1W_57eW_tufmAOOl9pP4qmwZX8moobIbl38Ygwr6xUIpu4C5w2MoHVGN9aJA2t54X21FpnmuojA_NDHmOCs0upEheFWlkE8nxM/s4000/CIMG3660.JPG" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3000" data-original-width="4000" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhcT0s9rjyst1QsBWW_j_wdbXdhh-qBkkbNVzcZX0QMBaxr0dPc3ctcvZIR2tBaZo-TUhxRvsfEm_ZuiERwjfmV5BRkGt1W_57eW_tufmAOOl9pP4qmwZX8moobIbl38Ygwr6xUIpu4C5w2MoHVGN9aJA2t54X21FpnmuojA_NDHmOCs0upEheFWlkE8nxM/s16000/CIMG3660.JPG" /></a></div><br /><div>長さ約60㎝、高さ約30㎝の岩石で、地震石、地震押さえ石、要石などの名称が伝わる。</div><div><div>いかに大震災があっても、この岩石があるためにこの地は微動だにしないといわれて、かつては石上に生す苔を取って地震除けの守護とする者が多かったという。</div></div><div><br /></div><div>前田藩は地震石を神体とみなし、木棚を以て囲繞したが一夜の内に消え失せ、再度作るも元通りに戻ったという。</div><div><br /></div><div>明治4年、金沢在住の木佐平次という者が地震石は迷信と述べて石を蹂躙したが、宿に帰り入浴した後に茶を喫していると頓死したという。</div><div><br /></div><div>明治7年、気多神社神職の荒地春樹が地震石は神体であるから社殿内に安置するべしと主張したが、村民の同意を得られずそのまま今に至るという。</div><div><br /></div><div>大穴持像石神社の境内入口に位置することから、社名の「像石」はこの石のことだとする説もあるが確定していない。</div><div><br /></div><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhsJ0addAgNePf15klAW09m2Nk9ie8lAj_sS8V585JMJu7EIuaxYV0Cx1FjQyKdUGcvTbie44dTGb-v9hHwNtXSLAFm_0WRPIzraOijk47t5J_tBFYLFjqsaW5P08atEnSVkElhWP5J-Kibm7ZL3l4sjj7lEhCATlLm8RN2SAayxYo2gDx2us_DVVGcuzt-/s4000/CIMG3664.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto; text-align: center;"><img border="0" data-original-height="3000" data-original-width="4000" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhsJ0addAgNePf15klAW09m2Nk9ie8lAj_sS8V585JMJu7EIuaxYV0Cx1FjQyKdUGcvTbie44dTGb-v9hHwNtXSLAFm_0WRPIzraOijk47t5J_tBFYLFjqsaW5P08atEnSVkElhWP5J-Kibm7ZL3l4sjj7lEhCATlLm8RN2SAayxYo2gDx2us_DVVGcuzt-/s16000/CIMG3664.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">大穴持像石神社の社殿</td></tr></tbody></table><div><br /><p><b>参考文献</b></p><p></p><ul style="text-align: left;"><li>編集: 羽咋市史編さん委員会『羽咋市史』中世・社寺編,羽咋市,1975. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9536989 (参照 2024-01-02)</li><li>石川県羽咋郡 編『石川県羽咋郡誌』,羽咋郡,大正6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/986465 (参照 2024-01-02)</li></ul><div><br /></div><div><b>2024.1.22追記</b></div><div><br /></div><div>令和6年能登半島地震を受けて地震石の祭祀が行われた。</div><div><br /></div><div>「地震石に収束の祈り 羽咋・大穴持像石神社」(北陸中日新聞Web) <a href="https://www.chunichi.co.jp/article/841447 " target="_blank">https://www.chunichi.co.jp/article/841447 </a></div><div><br /></div><p></p></div>吉川宗明http://www.blogger.com/profile/15618688408266963929noreply@blogger.com0日本、〒925-0003 石川県羽咋市寺家町ケ−136.9256755 136.77097718.6154416638211515 101.61472710000001 65.23590933617885 171.9272271tag:blogger.com,1999:blog-7469619715096703423.post-88399118881713327842023-12-30T16:29:00.005+09:002023-12-31T00:44:10.505+09:00映画「君たちはどう生きるか」に登場した石<p>2023年7月に公開された宮﨑駿監督の映画「君たちはどう生きるか」では、石がさまざまなモチーフとして登場した。けっして石が主題の映画ではないが、妙に石が多用されてあれらは何だったのか印象に残るらしい。作品自体の評価は手に負えないが、石の部分だけ触れておこう。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">全体を通しての石の印象</span></h2><p>本編序盤で主人公が傷をつけるため拾った石から、中盤の異世界で登場する石、現実世界へ持ち帰ってきた石まで、映画全編にわたって石が散りばめられている。</p><p>一見して国内外の石の思想やイメージが混濁していて、おそらく意図的だろうがそれをあまり整理整頓していない印象だ。</p><p>物語の流れ自体もカオスだが、石の取り扱いもカオスである。本作を作るのに無数の元ネタが存在し、それらを吸収した宮﨑監督の脳内が開陳されている。</p><p>だから気をつけたいのは、たとえば本作を見ると石と人の原初的なものがわかるとか、核心めいた答えをつかめると思うと危ない。</p><p>宮﨑監督が人生の中で後天的に獲得してきた石の知のいくつかを、あえて脳内のまま展示したので、私たちが覗き見てカオスをどう秩序付けるかを託されているという立ち位置を自覚しておきたい。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">石の塔の構造(隕石・石の主・石の産屋)</span></h2><p>石の塔は、作品中で現実世界と異世界を繋ぐ媒体であり、元は隕石として描かれる。隕石そのものは外見的にも物理的にも特殊な石で、わかりやすい異世界からの来訪者である。</p><p>石の塔と聞いて思い出すのは心理学者のユングである。</p><p>彼は後半生において、石に一種の表現をしたいと思い、石を組んで自分の家を作り、たびたび増築し、その構造物を「塔」と呼んだ。</p><p>ユングは一人で集中したい時に石の塔へ駆け込み、本人の言葉を借りれば石の中は生まれ変われる母の胎内のようなものだと表現した。映画を観覧した方なら、石の塔の思想背景に相通ずるものを感じられるのではないだろうか。</p><p>石の中から新たな命が誕生するという精神性は他にもある。ローマ帝国時代に流行ったミトラ教の神は岩石から産まれ、台湾原住民の各部族では岩石が割れてその部族の始祖が産まれたという伝説が共有されている。</p><p>そんな石の塔の中には「石の主」がいて、石の主と人は契約を交わす関係らしい。元が隕石なので石には破壊的な力を内在しているシーンが描かれるが、石の主が作品内で擬人化されることはない。</p><p>その代わり、石の塔の最奥部に「石の産屋」が登場し、主人公はそこで継母と出会う。継母は誘われるかのように無自覚のまま異世界の石の産屋に逃げ込んでいた。</p><p>現実世界にいたたまれず、石の中へ退避する。</p><p>先のユングにとっても石はそのような「アジール」だったが、万葉集や常陸国風土記にも周囲からの言葉に耐えられない時は石室や石城に籠ろうという歌が残っている。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">石の墓</span></h2><p>石の中へ逃げ込みたいという思想は、そのまま石の中で死ぬという行為とも親しくなる。岩窟に籠り続けて入寂する仏僧の事例も多い。</p><p>異世界の中で、石の産屋とは別で「石の墓」が登場する。ちょうど中盤のカオスな物語の中で唐突に現れる。</p><p>見た目は巨石を組んで構築した石舞台古墳かのようである。横穴式石室であればそのまま墓であり、日本神話のイザナキとイザナミの黄泉国神話は横穴式石室の埋葬・追葬儀礼を神話化したものだという説もあるほどである。</p><p>主人公の実母は火災で亡くなり、異世界では火を操るキャラクターだった。石の墓に誰が葬られているのかは明示されていないが、火で死に、火の神カグツチを産んだイザナミが想起される装置である。</p><p>石の塔からつながる他界は死者の世界として描かれるが、そこから新しい命(ワラワラ)が天井に上ってもいる。それはしばしば「死と再生」という概念で語られるが、国内の前近代の民俗儀礼においては、石に子宝安産を願う事例もある一方で避妊、間引きなどで子殺しを行う事例も確認されている。</p><p>石の中で産み、石の中で死ぬ世界が両立しているのである。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">石の積み木</span></h2><p>作中後半で、悪意のある石と悪意のない石の対比が語られる。</p><p>石の塔の主人たる大叔父が積んだ石の積み木を見て、墓に使われるような石は悪い石と主人公が発言した。そこで、大叔父が、積みあがっていない状態の石を別で授け、それは悪意のない石として表現された。この「石の積み木」は、監督が観客にそれぞれの人生をどう生きるかを託すメタファーとして用いられたと考えられる。</p><p>積みあがっていない石には悪意はなく、無垢のように思える。だが、人は産まれてから今までの間に、すでに石と何らかの形でつきあっており、石の知識やイメージを後天的に獲得している。その意味で、無垢な石はあり得ない。</p><p>子どもなら、産まれて間もないため石に接する経験は少なく、無垢に近い存在として取り上げられるのかもしれない。しかし、人間の認知機能の研究分野では、その人の先天的な認知機能は六歳までの幼児期に確立されるという説もある。</p><p>赤子ならともかく、映画の主人公くらいの年であればすでに無垢の存在ではない。</p><p>石も同様に、感情をもたない無機物だから無垢のモチーフにされるが、それ自体が思い違いで無垢な石は一種の理想なのである。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">主人公が手に取った石二つ</span></h2><p>主人公が自発的に手に取った石は二つある。</p><p>一つ目は、本編前半で拾った石で頭をぶつけて嘘をついた場面。その時についた傷を後半部では悪意の証と明言する。その場にたまたまあった石を無分別に選択しただけだが、この時点で主人公は無垢ではいられない。</p><p>二つ目は、本編最後に主人公が異世界から持って帰ってきてポケットに入れた石。持ってきてはダメな石だが、多少の力なので影響は少ないと作中で解説されている。</p><p>川の石をむやみに拾ってはいけないといった民俗は多く、その思想に対する反抗とみることもできるが、これも石の先天的なイメージをむしろ利用している。</p><p>つまり、石の塔の主人たる大叔父は主人公、ひいては私たち受け手に無垢の石の理想を求めるが、すでに大叔父に出会う前から人と石の関係は無垢ではないし、大叔父が差し出す無垢と言っている石も実は無垢ではない。</p><p>さらにいえば、石の塔の核となる隕石は、自分が無垢でいようと思っても、外来から突如やってくる異質な存在との出会いでもある。石をどのように欲し、扱い、出会いたいと思っていても、外部との関わりなしではいられないし、本作のように論理が非整合的で答えが用意されていない、論理的に世界のすべてが理解できるようになっていない。</p><p>石自体が、人によっては他の何かに置き換えできる「無垢ではないイメージ」である。それをどのように置き換えて受け止めるかも個々人の人生である。まさにどのように生きるかを試されている。</p><div><br /></div><h2 style="text-align: left;"><b><span style="font-size: x-large;">初出記事</span></b></h2><div><a href="http://www.yokkaichishibunkakyoukai.com/pass73.pdf" target="_blank"></a><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="http://www.yokkaichishibunkakyoukai.com/pass73.pdf" target="_blank"></a><a href="http://www.yokkaichishibunkakyoukai.com/pass73.pdf" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;" target="_blank"><img border="0" data-original-height="701" data-original-width="560" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEha7IM-nXiFIGAZgTh9slgN3KLLupSJdzsWRYwPaMiDjh2sMSSCUSYiqkbnGFEL20wCujy8_-Nex_nPwWVVIi9mY1bhOJhbj29_-el1RbeeBm1IfbmyS82cd6XBEYyIj052Dtcxaw_5ulY0-rNnINzbSowyIMYK1RMn23d7kifGr70w2Lkpz567MtsLFLfc/s320/202308.png" width="256" /></a></div>「路傍の自然石考⑬ 映画『君たちはどう生きるか』に登場した石」『パッション』第73号(2003年9月発行)</div><div>※紙幅の関係上、本記事を1ページに圧縮して掲載したものとなっている。</div><div><br /></div>吉川宗明http://www.blogger.com/profile/15618688408266963929noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7469619715096703423.post-22290564180371130232023-12-19T00:18:00.007+09:002023-12-19T14:06:18.018+09:00浮島の阿弥陀さま/万治の石仏(長野県諏訪郡下諏訪町)<iframe height="300" src="https://www.google.com/maps/d/u/0/embed?mid=1LIuVa7_4vR0HwIm_eCU5WqX1cmA&ll=36.08297, 138.08184&ehbc=2E312F" width="300"></iframe><br />長野県諏訪郡下諏訪町社 字・石仏(いしぼとけ)<br /><br /><div><br /><div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiQuStqg4ijNPPYdIKkbl3x9jTU_0wgTqv-bAcnXPA9c2FfbXeOVGu0qO9BdHjEcCYAg4bt5MGn5HpKRiU7res2iGNyvnMNTvn_ubysg7cappwSyNegl_fnX2nUQJk2DhGZsUFdGJ15q_WLKUPnCi8cE0DQnYpvyUGo2R9JOV82rzZnxGC2b6I1dv3AdsFf/s5472/DSC08105.JPG" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiQuStqg4ijNPPYdIKkbl3x9jTU_0wgTqv-bAcnXPA9c2FfbXeOVGu0qO9BdHjEcCYAg4bt5MGn5HpKRiU7res2iGNyvnMNTvn_ubysg7cappwSyNegl_fnX2nUQJk2DhGZsUFdGJ15q_WLKUPnCi8cE0DQnYpvyUGo2R9JOV82rzZnxGC2b6I1dv3AdsFf/s16000/DSC08105.JPG" /></a></div><br /><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgCFyOMRBrZmHMBUatahrdmCYziF0j_UKRJgXdwSg35cw0KsozIl8JJ0w3-10-Zm7kAVXf-Pyz41GscY0QgrPlQYFgPtM295fQPLtPz99It_pgO7JIh99l1qyS6YKXtmGi8HAn1qS-gPJHOIw4gapsVueh638qybXF4rkJ-sWTJ-x0_BDZOWXQ-eRcfg2qk/s5472/DSC08106.JPG" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgCFyOMRBrZmHMBUatahrdmCYziF0j_UKRJgXdwSg35cw0KsozIl8JJ0w3-10-Zm7kAVXf-Pyz41GscY0QgrPlQYFgPtM295fQPLtPz99It_pgO7JIh99l1qyS6YKXtmGi8HAn1qS-gPJHOIw4gapsVueh638qybXF4rkJ-sWTJ-x0_BDZOWXQ-eRcfg2qk/s16000/DSC08106.JPG" /></a></div><br /><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgIxpakuSx3KBnDyYn1RG8WBa_pjrGNXxcV09TPxKHCz3i3AaucjeWP3akGYnAALRfs8siHlLM4ooczaB8-1iuda9Asj3aNVjeDH4VjYN7sKxVeep_eHAGQLe1h31-rAQz33kbjjgfJyr6LvbCdg7MU56RhNQ5JUYQ7GD_cnRcLpWxSKgil8Pej2443DBq-/s5472/DSC08107.JPG" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgIxpakuSx3KBnDyYn1RG8WBa_pjrGNXxcV09TPxKHCz3i3AaucjeWP3akGYnAALRfs8siHlLM4ooczaB8-1iuda9Asj3aNVjeDH4VjYN7sKxVeep_eHAGQLe1h31-rAQz33kbjjgfJyr6LvbCdg7MU56RhNQ5JUYQ7GD_cnRcLpWxSKgil8Pej2443DBq-/s16000/DSC08107.JPG" /></a></div><br /><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEj0_mp4ePnqx0kaPzut7chmkRfdxRLMp9vtqU2FIqsH81f1kd2JjqWVXwnuiSFnOKbx7eFIO14yA7YpXS-GmmO1XA5cvPL4nxAVqJnxHwGAuCR2G7k38_EdwAvjtws_n2MbwWwIbKCvuukUWZjvG52PUYG9racbeAmpCZV8IzxEnSQLw4Y7bS2kwYLvI_gl/s5472/DSC08108.JPG" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEj0_mp4ePnqx0kaPzut7chmkRfdxRLMp9vtqU2FIqsH81f1kd2JjqWVXwnuiSFnOKbx7eFIO14yA7YpXS-GmmO1XA5cvPL4nxAVqJnxHwGAuCR2G7k38_EdwAvjtws_n2MbwWwIbKCvuukUWZjvG52PUYG9racbeAmpCZV8IzxEnSQLw4Y7bS2kwYLvI_gl/s16000/DSC08108.JPG" /></a></div><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjDXnUqssrJP5fj8uVawQy7MDQHskfr6Um-Zx2vXquYgYaAk9AWyNUP75_QEtJ2y-0xx9bC-6w_NPIjCbjZzGCpS0bW2luAaY2MEj2zB9tSTCGgkerjxC7tg3KG8RtbUOXjXv9lVf5NEiTdWS3Wg70XYbtcuwtomoCcSIlXh38VuAf6mW3X4McaUJW3dDTu/s5472/DSC08101.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjDXnUqssrJP5fj8uVawQy7MDQHskfr6Um-Zx2vXquYgYaAk9AWyNUP75_QEtJ2y-0xx9bC-6w_NPIjCbjZzGCpS0bW2luAaY2MEj2zB9tSTCGgkerjxC7tg3KG8RtbUOXjXv9lVf5NEiTdWS3Wg70XYbtcuwtomoCcSIlXh38VuAf6mW3X4McaUJW3dDTu/s16000/DSC08101.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">伝説由来(写真右)。写真左の立札には念入りに「観光協会と商工会議所が提唱する」と上貼りがなされ、地元の人々の間での一種の葛藤を感じる。</td></tr></tbody></table><br /><br /><p>伝説上では、仏が刻まれる前からこの岩石には血が出るなどの肉体のごとき活動を内在させており、自然石に対する神聖視を伝える。</p><p><br /></p><p>通称「万次の石仏」は万治3年(1660年)の銘文が刻まれることからその名があるが、地元での昔からの名称は「浮島の阿弥陀さま」だったらしい。</p><p>さらに、地元に残る『山之神講文書』の文化2年(1805年)の事跡として「みたらし石仏」の名が記されており、その子孫が有する土地に万治の石仏が存在することから、みたらし石仏は万治の石仏のことを指すのではないかと考えられている。ただし、みたらし石仏は御手洗川沿いの下の原村の他の石仏を指した可能性も指摘されている(<a href="https://yatsu-genjin.jp/suwataisya/simosya/mitarasi.htm" target="_blank">八ヶ岳原人氏「『みたらしの石仏』の謎」参照</a>)。</p><p>以上を踏まえて、本頁では歴史的に辿れる確実な名称として「浮島の阿弥陀さま」を採用する。</p><p><br /></p><p>また、享保18年(1733年)成立の『諏訪藩一村限絵図』によると、浮島の阿弥陀さまは描かれていないがそのかわり「ゑぼし石」の名が記されている。</p><p>それでは石仏となる前の自然石はゑぼし石だったかというと、これにも異説がある。</p><p>宮島潤子氏によると、近世地図は必ずしも正確な位置を描かないこと、同地図が他の石仏もほとんど記さないことなどから別物で、ゑぼし石は自然石であるため明治20年代から大正初期にかけて行われたという当地の採石で姿を消したのだろうと判断している(宮島 1996)。</p><p><br /></p><p>浮島の阿弥陀さまの岩石は、阿弥陀仏が彫られたからこそ消滅から逃れたということになる。</p><p>宮島氏は、浮島の阿弥陀さまの像容と弾誓四世の作仏聖の千体彫りとの共通性を見出し、諏訪地域で阿弥陀仏の加護を説いた弾誓上人(1552~1613年)がこの岩石に座して説法し、上人の死後に弟子筋によって仏が刻されたものと仮説を提示している。</p><p>本当にこの岩石に上人が座したかは推測の域を出ない(聖者の座禅石・腰掛石伝説としてむしろ伝承化するのではないだろうか)が、岩石から血が出るなどの伝説を基にするならば、聖なる自然石に阿弥陀信仰が重なり、そのために近代の採石も逃れて今に伝わったという大枠は認められるだろう。</p><p><br /></p><p><b>参考文献</b></p><p></p><ul style="text-align: left;"><li>第一区区誌編さん委員会 編『下の原 : 郷土誌』,明新館,1985.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9571574 (参照 2023-12-18)</li><li>宮島潤子「『諏訪御手元絵図』がらみた弾誓上人遺跡--諏訪の石」 信濃史学会 編『信濃 [第3次]』48(3)(555),信濃史学会,1996-03. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/6070037 (参照 2023-12-18)</li></ul><p></p><p><br /></p></div></div>吉川宗明http://www.blogger.com/profile/15618688408266963929noreply@blogger.com0日本、〒393-0000 長野県諏訪郡下諏訪町社13336.0829701 138.08184297.7727362638211517 102.9255929 64.39320393617885 173.2380929tag:blogger.com,1999:blog-7469619715096703423.post-22801720286050675842023-11-28T01:08:00.005+09:002023-11-28T12:22:56.867+09:00『宗教の起源――私たちにはなぜ<神>が必要だったのか』(2023年)学習メモ<p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjZ-eohbKxo8e1-badBojp5ViSm6qYTPvOhfg7BXGQt1vJaLiodMKpA7odgweGqX3cU3slA_TBX4WcwBSLrl-qC3ZOqWcJn0_5tY6qJt-6Prse4gNOrljZW584glhaM7T5C6x-5Lbj4LoENkVlJ0YhDjm3YaoyWeGTOXXIyFfxwiiTLFB6MfGoz1noswOQE/s900/F_bXS9vacAA039R.jpg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="900" data-original-width="675" height="400" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjZ-eohbKxo8e1-badBojp5ViSm6qYTPvOhfg7BXGQt1vJaLiodMKpA7odgweGqX3cU3slA_TBX4WcwBSLrl-qC3ZOqWcJn0_5tY6qJt-6Prse4gNOrljZW584glhaM7T5C6x-5Lbj4LoENkVlJ0YhDjm3YaoyWeGTOXXIyFfxwiiTLFB6MfGoz1noswOQE/w300-h400/F_bXS9vacAA039R.jpg" width="300" /></a></div><p><br /></p><p></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">注意点</span></h2><p></p><p></p><p>本ページは、ロビン・ダンバー[著]・小田哲[訳]・長谷川眞理子[解説]『宗教の起源――私たちにはなぜ<神>が必要だったのか』(白揚舎 2023年)を読みながら記録したメモである。</p><p><br /></p><p>1.個人的メモのため、読ませるように文章を整理できていない。</p><p>2.岩石信仰と関連する部分で今後有用と思われる情報を中心にピックアップしたため、必ずしも本書の要点をまとめたものとはなっていない。</p><p></p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">ロビン・ダンバー(Robin Dunbar)</span></h2><p>人類学者、進化心理学の研究者。オックスフォード大学名誉教授。</p><p>人間が集団を安定的に形成できる規模は平均150人とした「ダンバー数」の提唱者で知られる。</p><p><br /></p><p></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">ダンバーの研究姿勢</span></h2><p>文化ごとに、目に映る世界の姿は異なる。だから、別の文化をながめるとき、私たちはただの観光客で、旅の雑感を述べる以上のことはできないという考えもあるだろう。</p><p>しかし、このような独我論ではそれ以上の議論を放棄しているし、人類が積み重ねてきた多くの宗教体験に対して、トライアンドエラーを重ねながら修正してきた科学がアプローチできる余地が見過ごされている。</p><p><br /></p><p>宗教・宗教心の定義は、大きくとらえたい。定義は頭の中にしか存在せず、理解したいのは現実世界の現象にあるからだ。定義のどこかの部分が当てはまれば、漠然な対象なのであるからそれでよしとする。</p><p>それを踏まえて、宗教の最小限の定義は「霊もしくは力が存在する超自然的世界に対する信仰」とする。この定義によって、必ずしも神を置かない宗教も含められる。</p><p>そして、信仰心は一人でも持てるが、宗教は2人以上が同じ信仰を信じること。そこに社会性が生まれる。</p><p><br /></p><p>一神教でもアニミズムは生きている。アニミズムが先にあり、そのうえで教義宗教が層のように重なった。</p><p>(例)ウィッシング・ウェル(コインを投げ込むと願いが叶うとされる井戸への信仰)</p><p><br /></p><p>家族や友人が死に接した時、死者がどこかで生きていて、いつかまた会えると思えれば慰めや希望になり、それが霊魂や祖霊や霊的世界の信念につながる。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">宗教の起源をトランス状態に求める</span></h2><p>宗教の土台は、トランス状態のときに抱く感情にある。</p><p>知性で考える理論ではなく、生身で反応する感情から最初期の宗教心は発生した。</p><p><br /></p><p>トランス状態になるために行う体験を神秘体験と呼ぶ。</p><p>このような神秘体験を求める神秘志向には3つの特徴がある。</p><p>1.トランス状態に容易に入れる感受性</p><p>2.人智を超えた世界の存在を信じていること</p><p>3.隠れた力が味方になるという信念</p><p><br /></p><p>トランスとは「自発的かそうでないかにかかわらず、常軌を逸した心理状態に陥ること」を指す。</p><p>覚醒しているが外部刺激に反応せず、通常の感覚はゼロまたは限りなく弱い。身体は激しく動く場合と微動だにしない場合もあり一定しない。</p><p>トランスの原形とも言えるのが狩猟採集民族(カラハリ砂漠のサン人ほか)がおこなう舞踊や音楽だが、それ以外にも瞑想や身体的に負担の大きい姿勢や断食、苦痛、暑熱などの儀式もあり、トランスへの入口は多様である。</p><p><br /></p><p>トランスによって得られる感覚は、暗い穴またはトンネルに入るような感覚というのがどの部族社会でも同じという。また、強烈な光が伴うことも共通の現象である。</p><p>ひとたびトンネルを抜けて霊界へ入れば、通常は自由に動き回れる。ただし霊界には、現世に帰還させないようにする悪い霊がいて、帰り口が見つからない可能性がある。トランスに伴う激しい行為で人が死ぬこともあり、その場合は霊界から戻ってこれなくなったと解釈される。</p><p>霊界の出口に無事案内してくれるのはだいたいの場合、善良な祖先という。</p><p>このようにしてトランス世界から帰還すると、気分爽快、愉快、心が甘くなるなどの穏やかな感情で満たされる。</p><p>トランスがどの程度一般的な体験なのかは議論があるが、共通の神経作用で起こるのだから普遍的な現象にはちがいない。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">シャーマンの3つの役割</span></h2><p>1.生活の不確実性(予言、治療、狩猟採集の成功)</p><p>2.通過儀礼および社会的現象(出産、死、結婚、戦争、紛争解決、雨乞い)</p><p>3.共同体運営(法的、政治的問題)</p><p>このうち、2018年のManvir Singhの実験では、生活の不確実性に対して儀式を行うシャーマンが80%以上を占めることがわかった。</p><p>予言が的中するかどうかより、切迫した事態を乗り切る心構えを持たせることの方が重要なのかもしれない。</p><p>シャーマンによる効果は、プラセボ効果だったり、用いた薬物や植物に実際に薬効があったりするかもしれない。しかしそもそも相互関係を見つけ出すのは人間の得意技で、効果があるかどうかに科学的な理由を説明する必要はなかった。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">宗教が必要とされた因果関係</span></h2><p>多くのパターン、要素が想定されるが、最も可能性が高い因果関係を提示。</p><p><br /></p><p>1.まずは外的脅威が存在</p><p>↓</p><p>2.それに対して集団の必要性が出る。</p><p>↓</p><p>3.外的脅威が大きければ大きいほど、集団規模が大きくなる必要があるが、結束しにくくなるので、ここで宗教が求められる。</p><p><br /></p><p>宗教に変わる何かも想定されうるが、現代において宗教に替わる価値観で人々を連帯させ続けている仕組みがうまくいっているわけではなく、今も世界各地で宗教という枠組みが利用されている。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">社会脳仮説</span></h2><p>人類がもつ脳は、集団規模が大きくなるにつれて複雑化する集団対応のために社会脳と呼ばれる脳の進化を促した。</p><p>特に、知恵を巡らせるときに用いる新皮質は、哺乳類全体では脳の容積に占める割合は10-40%に対して、ヒトは80%に達する。</p><p>脳の大きさによって、その種が形成できる集団規模が決まるというのが社会脳仮説。</p><p>そして、サル、類人猿が築く集団規模と新皮質の大きさから人間本来が形成できる集団規模が数値的に推測でき、それはおおむね150人となる。</p><p>この150という数値は、人間が築いた様々な共同体・組織を研究対象とした20以上の研究でも、おおよそ一個人が維持し続けられる社会集団が100-200人の間に収まると裏づけられた。つまり平均して150人となる。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">動物のグルーミングの代わりに、人間は宗教に置きかえた</span></h2><p>サルや類人猿は、1日の約5分の1をグルーミング(相手の毛づくろい)に費やす。</p><p>社会的グルーミングの真の価値は、皮膚に指がゆっくりと触れる時の感覚にある。このときにC触覚繊維と呼ばれる求心性神経が反応し、この神経は脳に直結しており脳の奥深くでエンドルフィンの分泌を促す効果がある。</p><p>エンドルフィンは脳内で働く鎮痛剤で、化学構造がアヘンによく似ていて、気持ちを落ち着かせて幸福感をもたらし、痛みを和らげる。そして副次的効果として、体内に侵入する病原体やがん細胞を発見して破壊するNK細胞を増殖させ、グルーミングしてくれる相手への帰属意識と信頼感も強める。</p><p><br /></p><p>このグルーミングの弱点は、同時に二つの個体へ行うことが現実的に難しいので、集団規模が広がる人類の場合は、グルーミングに頼らずエンドルフィン分泌につながる行為を模索することになった。</p><p>そうして獲得していった順が、笑うこと、踊ること、物語で感情を動かすこと、宴を開くこと、宗教儀式となる。これらは遠隔的グルーミングと言え、集団規模が増えて直接面識がない相手にも社会的やり取りが出来て結束できる手段となった。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">宗教、恋愛、美、カルト</span></h2><p>宗教的感情と恋愛感情は驚くほど似ている。神に恋するという例が複数見られる。</p><p>両者に共通するのは、現実の相手に恋するのではなく、頭の中で理想化した偶像に恋をしているという点。そして、相手との関係に没入するあまり、批判的思考が低下する。そこに、騙し騙されのカルトの構造が生まれる余地がある。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">人間に備わるメンタライジング能力</span></h2><p>メンタライジング能力とは、自分の世界だけではなく、相手には別の世界があり心があると想像できる能力のこと。</p><p>このメンタライジング能力が高い人ほど、宗教心を抱きやすいという傾向が認められる。</p><p>一次 「私が思う。」…宗教にならない段階</p><p>二次 「あなたがこう思っていると、私は理解する。」…宗教にならない段階</p><p>三次 「あなたは神が存在すると考えていると、私は理解する」…宗教的事実の認定</p><p>四次 三次+「神が私たちを罰するだろうと私は思う」…個人宗教</p><p>五次 三次+「あなたが考えていると私は思う」…共有宗教</p><p>従属節を持つ言葉が複雑化していく中で、宗教という抽象概念が理解されていく。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">神秘を抱く感覚の科学的根拠</span></h2><p>トランス状態に入った仏僧の脳をスキャン装置で調べたところ、左頭頂葉後部(空間的な自己認識に関する領域)の活動が落ちて、眼窩前頭皮質の活動が顕著に高まった。空間認識が遮断されることで視床下部に信号が送られて恍惚とした解放感が押し寄せ、これをゴッド・スポット(神の領域)と呼ぶ。</p><p>そして、視床下部は脳内にエンドルフィンを分泌する領域の一つで、眼窩前頭皮質にもエンドルフィン受容体がぎっしり詰まっている。</p><p><br /></p><p>ほかに、宗教的な体験(声が聞こえる、神秘体験、異言)をしやすい特徴として、特定の神経ネットワークが関わっていることが指摘されている。ドーパミンやセロトニンなどの神経伝達物質系の活動など。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">儀式の起源</span></h2><p>儀式の起源は、動物の遊び行動にある。</p><p>遊び行動には、同じ行動の繰り返しが伴う場合があり、これが儀式的な性格を帯びる。遊びによって笑顔が起こり、エンドルフィン分泌が引き起こされる。</p><p>エンドルフィンは脳内鎮痛剤なので、痛みを誘発すると分泌される。しかし痛み以上に出やすいのが、踊りなどのリズミカルな運動であり、持続的で弱い痛みにエンドルフィン系は反応する。</p><p>最も古い儀式は、人間を気まぐれに懲らしめる神々をなだめる目的から始まった。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">先史時代の宗教事例</span></h2><p>約40万年前のスペイン北部のアタプエルカの洞窟群にシマ・デ・ロス・ウエソス(骨の穴)と呼ばれる場所がある。</p><p>深さ13mの穴の底から28体分の骨が見つかった。</p><p>暗い洞窟で知覚がゆがみ、トランス状態に入りやすい感情と言える。</p><p>洞窟の効果として、声を発すると音が良く響きあい、ハミングや合唱によってハーモニーが生まれる条件が備わっていた。洞窟を住居とするネアンデルタール人が音楽を編み出したかもしれない。</p><p>音楽によって、エンドルフィンは更に分泌されたことだろう。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">第一段階の宗教とは</span></h2><p>脳が大きくなって高度なメンタライジングができるようになったことで、自分の世界とは別の世界があるのではないかと疑問を抱くようになったところから発生した。</p><p>道徳規範・行動規範などの教義が定まっていない、没入型の宗教。35-50人のバンドで生活し、100-200人の共同体を結束させるために求められた宗教。</p><p>神というより、自然の特徴と結びついた霊的存在や、トランス状態を経由して入れる霊界は信じていた可能性がある。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">宗教の順番</span></h2><p>世界各地の33の現存する狩猟採集社会を対象に、それらの宗教的特徴を統計的に分析した研究によると、宗教的特徴は6つに大別される。</p><p><br /></p><p>1.アニミズム信仰</p><p>2.シャーマニズム</p><p>3.祖先崇拝</p><p>4.死後世界への信仰</p><p>5.特定の居場所を持つ地域神への信仰</p><p>6.人間の営みに介入する、高みから道徳を説く神</p><p><br /></p><p>このうち、発生順序として最も古いのはアニミズムだった。</p><p>死後世界への信仰は決して普遍的ではなく、アニミズムより後に2,4,5とともにまとまって出現した。</p><p>6の高き神は、狩猟採集社会においては信じられていなかった。</p><p>この研究から、原初の宗教はアニミズムであり、その後に、他の宗教の形が互いに関連しあって同時期にまとまって現れたと考えられる。</p><p><br /></p><p>宗教が、自分と別の相手へ自身が得た神秘体験や感覚を意思疎通しなければ成立しないことを考えると、アニミズムの原初宗教は言語の出現以降と考えられる。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">社会集団にはストレスを伴う</span></h2><p>外的脅威から身を護るために集団が求められたが、集団生活にはストレスが伴う。</p><p>サン人の「星の病」は、集団を支配する力で、嫉妬、怒り、いさかいを産み、贈答の効果をなくすという。女性はストレスによって月経が乱れて不妊となりやすくなる。この病による結束の乱れを防ぐため、サン人はトランス・ダンスを踊って立て直すのだという。</p><p>集団が大きくなると不妊の原因が生まれるのは哺乳類全体が抱える問題と言える。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">精神的症状と宗教</span></h2><p>臨床および神経生物学的な事例分析により、統合失調症と宗教体験は脳内で同じ認知プロセスが関わっているというサイモン・デインの研究がある。</p><p>統合失調症患者の最大70%が幻聴、幻視、宗教的妄想を経験する。他に、陰謀論を唱えたり、自分は執拗に迫害を受けていると考える傾向にある。</p><p>統合失調症、双極性障害の躁状態、激しい動きを伴う宗教的行動は、いずれも脳の同じ領域が過活動を起こしている。それらはDMN(デフォルト・モード・ネットワーク)を司る部分で、DMNを強く刺激すると恍惚感が生まれる。</p><p>なお、これらの症状は人によって有無をはっきり区別できる性質のものではなく、私たち全員が属しているものと理解したい。</p><p><br /></p><p>こうしてトランス状態に入りやすい、神秘体験を起こしやすい人はシャーマンやカリスマ指導者となる。見た目や挙動が奇妙で狂人扱いされる場合もあるが、それでも彼らのことを信じる人がいる。その理由は</p><p>1.その他大勢に埋没しない。</p><p>2.突出した存在を頼みにしたい。</p><p>このような人々の存在により、一度自然発生的に生まれて発展した社会集団も、人が持つ150人までという社会脳の制約を受けて、統制が崩れ、ストレスが生まれ、組織を崩していく。だから、現在の世界宗教が複数ありながらもそれに安住できず、人類は新しい宗教へ分裂していく。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">長谷川眞理子氏(自然人類学者・進化生物学者)の解説</span></h2><p>長谷川氏自身は、集団が同じ儀式や行動を行うという宗教の働きについて、その同調性を個人的信条として嫌っている。未知の現象に対して宗教的な説明されることも受け付けず占いも信じない。</p><p>ダンバーは150人というダンバー数を提示して、150人以上の数が集まって住むようになったことで宗教による結束が必要と考えた。</p><p>ダンバー自身は宗教に対してどういう信条・態度なのかは表明していないが、人類の大部分がなぜ宗教を信仰して必要としたのかを、生物の進化から分析するという点で理解できる。</p><p><br /></p>吉川宗明http://www.blogger.com/profile/15618688408266963929noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7469619715096703423.post-41593428890988502072023-11-26T23:30:00.007+09:002023-11-27T00:18:26.947+09:00『出雲と大和』の磐座祭祀論<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEir76cUFYZ-Q8od49pWig0kyjxe3e0Z4qx4VlYf94LcImvqyRp2uDIAurE-fLV1HMVGBk8UYuTkivcol2he6cLbYBbBnth_BeQceTww4Gq-gaWU4mcQKbh_ztxGwN6jG9OPeWd4ghwHzydF3-n70Ae9xxM2bPrSpLiJoOWHuT02iFUBvnM9n2LeXO270A0w/s4032/IMG_1941.JPG" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="4032" data-original-width="3024" height="400" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEir76cUFYZ-Q8od49pWig0kyjxe3e0Z4qx4VlYf94LcImvqyRp2uDIAurE-fLV1HMVGBk8UYuTkivcol2he6cLbYBbBnth_BeQceTww4Gq-gaWU4mcQKbh_ztxGwN6jG9OPeWd4ghwHzydF3-n70Ae9xxM2bPrSpLiJoOWHuT02iFUBvnM9n2LeXO270A0w/w300-h400/IMG_1941.JPG" width="300" /></a></div><br /><p>村井康彦氏の『出雲と大和―古代国家の原像をたずねて―』(岩波書店 2013年)に 「磐座祭祀をたどる」と題された一節がある。</p><p>この中で大略、磐座は出雲系統の祭祀・信仰を象徴するものだったとする仮説が提示されている。</p><p>書名タイトルが示すとおり、本書は大和朝廷成立にいたるまでの出雲の影響を論ずる内容であり、古代史において出雲は熱く注目される存在の一つであるだけに、本書の磐座論の影響も古代史研究において今後大きな比重を占めるのではないかと思われる。</p><p>本記事では、村井氏の磐座論がどのような根拠で展開されているかを読みながら所見をメモしていきたい。</p><p><br /></p><p>村井氏の磐座論の最初の例示は、京都府亀岡市の出雲大神宮の磐座から始まる。</p><p>社殿背後の御蔭山山麓から山裾にかけて数ヶ所の磐座が分布しており、山岳信仰や岩石信仰が盛んだったことを推測させる。</p><p>しかし、残念ながらこれらの岩石群は歴史的に文献で確認できる存在ではない。この1点を以て、岩石群を神社以前に先立つ歴史資料として私は根拠に用いない判断をする。</p><p>本書では交野市の磐船神社も例示され、饒速日尊の天磐船の社伝が紹介されて出雲との関連が説かれるが、社伝で語られる神社創建の由緒をそのまま実際の歴史の古さに置き換えられない。</p><p>磐船神社の他にも、各地の神社の祭神から出雲とのつながりが模索されているが、各神社の社伝や『先代旧事本紀』や『倭姫命世紀』などの文献の引きかたを読むかぎり、文献登場以前の古層を伝える記述とて信頼するにじゅうぶんな史料批判をおこなったようにはみえなかった。</p><p>たとえば、三輪山における奥津磐座・中津磐座・辺津磐座概念が古代まで遡りうるかは懐疑的であるにも関わらず、特に疑問なく採用されて岡山県宮座山の奥津・中津・辺津と対照させているあたりなどに、史料批判の不足を感じる。</p><p><br /></p><p>また、村井氏は磐船神社の磐船の織りなす雰囲気から縄文・弥生の時代まで遡りうるものと記したり、籠神社の真名井神社磐座が木の根が絡みついた光景から由緒の古さや神さびた雰囲気を感じたり、見た目が立派な磐座は●●であるなどと記すが、これらの感想は生活基盤も知識背景も隔絶した現代人の主観であり、学術研究としては書くものではない。客観性担保の観点から言えば、この記述の中で巨石でない岩石は閑却されている。</p><p><br /></p><p>本節には「訪れた磐座所在地」という分布図が掲載されている。</p><p>出雲を中心に磐座が濃密な分布を見せるが、キャプションが書くとおり、これは村井氏が訪れた場所を分布に落としたものに過ぎず、分布論的には何の意味もなさない。キャプションが堂々と書いているからミスリードさせる意図はないのだろうが、「出雲に磐座が多い」という感想を視覚的に抱く読者は一定数いるだろう。</p><p><br /></p><p>村井氏は日本古代・中世史の専門研究者であるが、祭祀・信仰の世界に関しては明文化されていない資料が多いからこそ、その解釈には自らが抱いた宗教的感情・精神に沿って論じて良いという一種のロマンが許されているように思う。しかし、これらの危うい記述を重ねていくことで論証として許されるというなら、それは楽観的に過ぎるだろう。</p><p><br /></p><p>ほかにも『古事記』の「出雲の石硐(いはくま)の曽宮」を、特に根拠なく「岩陰だろうか」という着想からスタートして、いつのまにか「磐座祭祀そのものであろう」と展開する論理を、認めることはできない。</p><p>私は、本例の「石」が物質の岩石を指すか不明のため、積極的評価はしていない。歴史を復元する人は、そう慎重であるべきだと思う。</p><p><br /></p><p>加茂岩倉遺跡とその近くにある大岩、そして近くの山中にある矢櫃神社の巨石も例示される。</p><p>この事例は古くから遺跡(青銅器)と巨石信仰の関連性を語る事例として取りあげられやすいが、当地の場合解決しないといけないのは、遺跡から目に見える範囲の近さに巨石があるわけではなく徒歩数十分かかる距離を「近く」と呼んでいいのかという問題である。「近い」の概念に本来検討すべき問題がある。</p><p>徒歩数十分の距離にある岩石と何らかの遺跡を結びつけて良いのなら、もはや色々なものが「関係がある存在」として扱えてしまうだろう。</p><p><br /></p><p>なぜこのことを重くとらえるのかというと、不明な問題を解決して安心を得たいため、すべてに関係性を見出そうとしてしまうのがヒトの認知構造だからである(<a href="https://www.megalithmury.com/2023/03/cognitivescienceofreligion.html" target="_blank">ステュアート・ガスリーの「宗教の認知的理論」ほか、宗教認知科学の諸研究より</a>)。</p><p>自己批判なしの関連性や結びつけは無尽蔵であり、どのような仮説でもできあがってしまう素地がある。しかし現実はその結びつけどおりでないことも当然多い。現代に生きる私たちどうしでさえ、相手が何を考えているかわからないから、その不安を解決するために主観的な理屈を結びつけてしまうことはある。今を生きていない過去の人々を物するならば、なおのことだろう。</p><p>その点で、本書にはいくつもの出雲系との関連を窺わせる岩石が登場するが、数をいくつ重ねていっても、当事者が残した明示的な記録がない限り(当事者が残した記録でさえ文字通りに解釈できないこともあるのに)、判断基準は私たち現代人側にある。</p><p>研究対象の人間と自分との間に価値観の断絶があるという配慮をもち、確定的でないものを結びつけていって自他同一の錯覚に陥るのではなく、自己批判の上で錯覚を極力そぎ落としていく姿勢が望まれる。</p><p><br /></p><p>ただし念を押すと、村井氏は磐座信仰を「出雲系の信仰圏に限るものではない」とも釘を刺していることは触れておきたい。</p><p>村井氏は「あえて」磐座を表現するなら「出雲系の神々の世界の徴証」だとみなしており、出雲族が鉱山開発、鉄生産のために山中に分け入る中で巨石に出会ったことが磐座信仰につながり、出雲の特徴的な信仰になったと評価しているのである。</p><p>ただその場合は、出雲族以外が鉱山に手を出さず製鉄に関与しなかったという前提が必要なように思う。一部族のみが金属をつかさどったと考えるほうが難しいのではないか。しかも、その生業を文献伝承上の神名・地名・氏族研究などの形而上概念で証明させることは難しいだろう。</p><p>つまり、「出雲系の神々の世界の微証」という前提でさえ、土台がゆるぎないテーゼというわけではないのである。</p><p><br /></p><p>歴史研究とは、常に自己批判的でありたいと思う。</p><p>村井氏のいう磐座は、いわゆる自然石としての巨石に対する信仰を一括した用語になっている。厳密にいえば村井氏は「巨石に神の霊が宿るとする磐座信仰」と述べているが、それ以外の石そのものを神とする石神信仰や、巨石以外の岩石信仰は言及されていない。実質的に、古代の石の信仰はすべて磐座に一括されている理解に落ち着いている。</p><p>そもそも石神と磐座を同列に並べて良いものか、岩石の祭祀はおしなべて磐座なのかといった疑問は、村井氏著書より前の拙著(2011年)で問題提起済みのテーマであり、この議論を通過して解決しなければ古代の磐座論は先へ進めない。</p><p><br /></p><p>磐座や巨石は、真に「出雲系の神々の世界の微証」と言えるのだろうか。</p><p>村井氏は「丹後から飛び立った天磐船は、各地の出雲系の神々をあらたに見出し、繋ぎ合わせるという役割を果した」と記すが、自然信仰である巨石・磐座を、人格神をベースとした体系的神話のみで成立させる危うさはないだろうか。</p><p><br /></p><p>たとえば『出雲国風土記』に登場する「石神」は、特定の神名がつく前の自然神としてのありかたを伝えている。</p><p>琴引山の石神の記述では一切の神名が記されず、大船山(神名樋山)の石神の記述では「謂はゆる石神は、即ち是、多伎都比古命の御託なり」と追記的に触れられ、前後関係から考えれば多伎都比古命が後世付加的で人格神以前の石神が元来のありかただろうと考えられる。</p><p>したがって、出雲系の磐座信仰を論ずる際に、いわゆる出雲神話という体系に拠ること自体が、磐座信仰・石神信仰なるものの本質を見えなくしてしまう恐れがある。</p><p><br /></p><p>本記事は岩石信仰研究の立場から、村井氏著書のとりわけ磐座祭祀論の部分のみに絞って取り上げたものに過ぎないが、以上を踏まえた結論としては、磐座祭祀が出雲系祭祀の徴証だったという論には賛同いたしかねる。</p><p><br /></p>吉川宗明http://www.blogger.com/profile/15618688408266963929noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7469619715096703423.post-8545320210303029362023-11-21T01:09:00.003+09:002023-11-21T01:09:54.238+09:00矢除石/遊矢石(長野県諏訪郡下諏訪町)<iframe height="300" src="https://www.google.com/maps/d/u/0/embed?mid=1LIuVa7_4vR0HwIm_eCU5WqX1cmA&ll=36.08115, 138.08415&ehbc=2E312F" width="300"></iframe><br />長野県諏訪郡下諏訪町 慈雲寺龍の口参道沿い<p></p><blockquote>「信玄が川中島合戦に赴くとき、慈雲寺七世天桂玄長禅師を訪ね戦勝の教えを乞うた。玄長は境内の大石に案内し、大石の霊力を説いて石の上に立ち矢を射掛けるよう命じた。部下が一斉に矢を放ったが一本として玄長一本としてに当たらない。一同驚き、この石の念力の確かさに敬服した。玄長はこの念力のこもる矢除札を授けて信玄を励ましたという。<br />この話はまた、川中島合戦に赴く途時に慈雲寺の前にさしかかると石の上に立って行軍を見下ろしている僧侶がいた。無礼な奴だと怒って射殺してしまえと矢を射掛けたが一本も当たらない。礼を正して尋ねると、矢除けの霊力があるという。信玄は喜んで矢除けの札を受け兵士に持たせて戦いに向かったという。」(宮坂徹「今に伝わる諏訪地方の信玄伝説」『信濃』第60巻第1号、2008年)</blockquote><p></p><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgpeFDWKuQrtU7RAKbVhoikT30Lv40Kj40mGZnlytiQ_-nFBnjDhqQrowPxngNR_1TYeW3vjQVZjgAf3fHG2FISJ47gc8Rq_DrWJr9eBcB1F_IjbZ_ii2tuCOKXX3EaZzPZXbzWdVaJjFRAVOGoiIcJkFcco3mwjJk3MHI5JWgydPJtVMavDYZcc3rB2TrK/s4898/DSC08121.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3265" data-original-width="4898" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgpeFDWKuQrtU7RAKbVhoikT30Lv40Kj40mGZnlytiQ_-nFBnjDhqQrowPxngNR_1TYeW3vjQVZjgAf3fHG2FISJ47gc8Rq_DrWJr9eBcB1F_IjbZ_ii2tuCOKXX3EaZzPZXbzWdVaJjFRAVOGoiIcJkFcco3mwjJk3MHI5JWgydPJtVMavDYZcc3rB2TrK/s16000/DSC08121.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">矢除石</td></tr></tbody></table><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgj-1BFkNb3aDJihitfkn_eOuxqg1KxRJXk49N0e-g5iVasQ-nF2xLZRl4JkKioRUI9tHWrioPAPkPac4uvb5nNyLs3w3JFbgxRYvUBUsSGHeVKvdXEMeUh3kBC1_IMd6TXZD-527AlExfpmqlvO2VpEzX9nUqLzmVyCPX4ZFEEHPnITDy53aeCSk8CuqIT/s4898/DSC08120.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3265" data-original-width="4898" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgj-1BFkNb3aDJihitfkn_eOuxqg1KxRJXk49N0e-g5iVasQ-nF2xLZRl4JkKioRUI9tHWrioPAPkPac4uvb5nNyLs3w3JFbgxRYvUBUsSGHeVKvdXEMeUh3kBC1_IMd6TXZD-527AlExfpmqlvO2VpEzX9nUqLzmVyCPX4ZFEEHPnITDy53aeCSk8CuqIT/s16000/DSC08120.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">逆方向より撮影。岩の群集ではなく1個の岩塊である。</td></tr></tbody></table><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhPO3tnWaB2SuErv3oaMQaYEptydJsvDNEAo1KCdh6LCRGDzoseEZFwwN2PkJl90q9YDGEzYB6iriT2NloSpm1twXLoNK6-9yuxEbbDe74cczwCpsJqyHfLws8vuYMgzcakbpLR6MFzZMbPGah3M89MTdav7Eqm7wd7jvoCbSkirnnSDqxZIyLjfyWdyrcm/s4898/DSC08127.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3265" data-original-width="4898" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhPO3tnWaB2SuErv3oaMQaYEptydJsvDNEAo1KCdh6LCRGDzoseEZFwwN2PkJl90q9YDGEzYB6iriT2NloSpm1twXLoNK6-9yuxEbbDe74cczwCpsJqyHfLws8vuYMgzcakbpLR6MFzZMbPGah3M89MTdav7Eqm7wd7jvoCbSkirnnSDqxZIyLjfyWdyrcm/s16000/DSC08127.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">手前に建つ「遊矢石」の標柱。</td></tr></tbody></table><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjokIZpxtU4lpcTxezSsB1kwrSZy93Hsq58EIqOBjjZJk7LnHUUCGZXV4AFTVV5kPRPGqgDzXq8MDJqASPWSRAXzhq8lauu-yRc_4R546sf9pWQztT1RcCbKrXO6zQ0yD0xC8QcYOL0BFCYasAm5fgaUXX1ssT61mY_BkV8w9NBa0uyrZuhYxrHIZ3aBi1-/s4898/DSC08123.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3265" data-original-width="4898" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjokIZpxtU4lpcTxezSsB1kwrSZy93Hsq58EIqOBjjZJk7LnHUUCGZXV4AFTVV5kPRPGqgDzXq8MDJqASPWSRAXzhq8lauu-yRc_4R546sf9pWQztT1RcCbKrXO6zQ0yD0xC8QcYOL0BFCYasAm5fgaUXX1ssT61mY_BkV8w9NBa0uyrZuhYxrHIZ3aBi1-/s16000/DSC08123.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">矢除石に接して鎮座する弥栄冨神社には、社祠の角に1個の岩石がある。来歴不詳だが気になった。</td></tr></tbody></table><br /><p><b>参考文献</b></p><p></p><ul style="text-align: left;"><li>信濃史学会 編『信濃 [第3次]』60(1)(696),信濃史学会,2008-01. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11199581 (参照 2023-11-21)</li></ul>吉川宗明http://www.blogger.com/profile/15618688408266963929noreply@blogger.com0日本、〒393-0000 長野県諏訪郡下諏訪町36.0695678 138.08012957.759333963821156 102.9238795 64.379801636178854 173.2363795tag:blogger.com,1999:blog-7469619715096703423.post-16606333844257774622023-11-13T22:01:00.007+09:002023-11-13T22:07:17.157+09:00雨境峠祭祀遺跡群(長野県北佐久郡立科町)<iframe height="300" src="https://www.google.com/maps/d/u/0/embed?mid=1LIuVa7_4vR0HwIm_eCU5WqX1cmA&z=11&ll=36.13606, 138.27133&ehbc=2E312F" width="300"></iframe><br />長野県北佐久郡立科町芦田八ケ野 雨境峠<br /><p> </p><p>雨境峠は、蓼科山(標高2530m)の西北麓を通る峠である。峠の頂上で約1580m地点となる。かつて東山道はこの峠を通っていたといい、その一証左として峠道には約7㎞にわたり古墳時代から中近世にかけての遺跡が分布している。「役の行者越」の俗称も残る。</p><p>この遺跡群を総称して雨境峠祭祀遺跡群と呼び、南から北へと順に列挙していくと「御座岩・桐陰寮上・赤沼平・賽の河原・与惣塚・中与惣塚・勾玉原・法印塚・鳴石」となる。</p><p>本記事ではこの順に沿って各遺跡を紹介する。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">御座岩</span></h2><p></p><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiqaCNeh1DLKzhgHNPVQ0FwRVK5O1FUj8ZE-5T7GfxlBrix1mHWgUrmtQIhbMxaQjpOab20Iv2hmSA7MjDhw0_itCC0smeCdli5hXWnfqKNOrNj6MerIVJBRT_IvOkr00g2opS2MtHoTj130FEhYNcAcYC0VmfgOukPYQTIgE0aoJ47jvXY-0XZtMYQYbQE/s5472/DSC07940.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiqaCNeh1DLKzhgHNPVQ0FwRVK5O1FUj8ZE-5T7GfxlBrix1mHWgUrmtQIhbMxaQjpOab20Iv2hmSA7MjDhw0_itCC0smeCdli5hXWnfqKNOrNj6MerIVJBRT_IvOkr00g2opS2MtHoTj130FEhYNcAcYC0VmfgOukPYQTIgE0aoJ47jvXY-0XZtMYQYbQE/s16000/DSC07940.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">御座岩</td></tr></tbody></table><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjqokujrfK0ZJWxSGHtEnJVO-UCYZZWv36BzVDoUdXaHoBDYSC6ciyzRVIlpsqqHa0vxtExqIIfYt0mS9LVeFweZD5Q-cw5bsrB_SbFJ0KbU3SoKGKLDZSzT-tLgIyDG5rOzz4i6OTFiB1Im6iKD8psvLD6nRFlFVk2q-R5ZZ79rj_Yruijwx5HQ1O7Y4wq/s5472/DSC07949.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjqokujrfK0ZJWxSGHtEnJVO-UCYZZWv36BzVDoUdXaHoBDYSC6ciyzRVIlpsqqHa0vxtExqIIfYt0mS9LVeFweZD5Q-cw5bsrB_SbFJ0KbU3SoKGKLDZSzT-tLgIyDG5rOzz4i6OTFiB1Im6iKD8psvLD6nRFlFVk2q-R5ZZ79rj_Yruijwx5HQ1O7Y4wq/s16000/DSC07949.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">御座岩の下部は白樺湖に沈む。</td></tr></tbody></table><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgzLuj4GCaqrEU2AdBXZ5cHylXXqCX0KjJlBS3Tl8u5UQ66WlAEaR6ssYaI-tjrGXh50DxscjWtson8N3K2xHAPxk3HddmmvjWtSFW-TLZO1OgdPOcoT-nLdcUhEIbwK6sz3VtIyHScsKNE7VAjxvg4fN7AcMzPgymb3rcv_nWxh5ps6gh8vMbMefGMYNcV/s5472/DSC07947.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgzLuj4GCaqrEU2AdBXZ5cHylXXqCX0KjJlBS3Tl8u5UQ66WlAEaR6ssYaI-tjrGXh50DxscjWtson8N3K2xHAPxk3HddmmvjWtSFW-TLZO1OgdPOcoT-nLdcUhEIbwK6sz3VtIyHScsKNE7VAjxvg4fN7AcMzPgymb3rcv_nWxh5ps6gh8vMbMefGMYNcV/s16000/DSC07947.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">御座岩から望む蓼科山(写真右奥)</td></tr></tbody></table><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhf09Ew1uuBoOjovGOHfE6I-0CQcDStLtoJFlyv3OYFoTjzkwZ2hXHEQqUtWCtWP5iDYnvxo6d54hAUpZXpICzsFuHsROVQ14JE-m_LUuW9SsPLY1DANUjgzIMNvC2Fa5q0bYvCge8fafpksbXn2oWuGsUpLOBYua8QG_nk4hz4759UWI5_C1VC46V51lRi/s5472/DSC07941.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhf09Ew1uuBoOjovGOHfE6I-0CQcDStLtoJFlyv3OYFoTjzkwZ2hXHEQqUtWCtWP5iDYnvxo6d54hAUpZXpICzsFuHsROVQ14JE-m_LUuW9SsPLY1DANUjgzIMNvC2Fa5q0bYvCge8fafpksbXn2oWuGsUpLOBYua8QG_nk4hz4759UWI5_C1VC46V51lRi/s16000/DSC07941.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">御座岩に付随する看板</td></tr></tbody></table><br />役行者が岩の上で柴を焼いて護摩を焚いたという伝説と、武田信玄が川中島の戦いの途上で座った岩という伝説が残る。<p></p><p>岩は白樺湖畔にあるが、白樺湖は第二次大戦後に造られた人造湖のため、現在の景観とは異なることに注意したい。</p><p>景観が異ならないのは、ここから仰ぎ見られる蓼科山だろう。桐原健氏は、御座岩のあたりまでは蓼科山を大きく仰げ、その先の白樺湖北東側(池の平)まで登ると蓼科山が隠れてしまうことに着目して、この岩石が蓼科山を遠望できる好地に存在した自然岩盤だからこそ祭祀の場になったと重視している。</p><p>御座岩の南側の岩穴(岩陰)から、縄文早期~後期、弥生・古墳・平安時代という、非常に長期間にかけての、各種土器・土偶・石鏃・石斧・獣骨・堅果類・剣形石製模造品などが出土した。</p><p>岩穴は白樺湖に水没し、現在は岩の上部のみが見えるが、このことから御座岩岩陰遺跡の遺跡名もある。雨境峠祭祀遺跡群の中では、もっとも南に離れて蓼科山を遥拝する遺跡だったという位置づけになる。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">桐陰寮上</span></h2><p>桐陰寮上と呼ばれる地から、古墳時代の蕨手刀が1点出土した。遺物に関連する遺構は未検出のため、遺物散布地としての遺跡である。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">赤沼平の鍵引石/鉤引石</span></h2><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhn_u82QhPJ6qF-i_6f4T9BlcPdD976iwES8w-bm3qmPDFtkoRS9WBJSzBK4XDqdIq5VCxo7dKCyoJlnxts3PxgP8fSyNJ4k-fx0Y61VsP0CLto2VQ2I0Jx6yYJ7_jxW_sxGyGz50nr9y03xO1z8lDcTNfcPN864uuReRGUzNrM-mjsR7pKUnoELQZU_cEZ/s5472/DSC07965.JPG" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhn_u82QhPJ6qF-i_6f4T9BlcPdD976iwES8w-bm3qmPDFtkoRS9WBJSzBK4XDqdIq5VCxo7dKCyoJlnxts3PxgP8fSyNJ4k-fx0Y61VsP0CLto2VQ2I0Jx6yYJ7_jxW_sxGyGz50nr9y03xO1z8lDcTNfcPN864uuReRGUzNrM-mjsR7pKUnoELQZU_cEZ/s16000/DSC07965.JPG" /></a></div><br /><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgGIqvvyWcWgLgxLEklxCGnYiRHP4SA5B3XvQfimKMfx3OHa_BSxT7QaFA5c04YmgdGLwWhuuzVtNriihVh4DU7ERRTrVUM12HTt795M6lEaJKSSv-gDyLKWUPIVLQB43qFAR0jCDGwRXi-UcENVlO12YgKLgChH4PQa8hw7TvH2r2a2Zfcgf3hdo8D7PP7/s5472/DSC07958.JPG" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgGIqvvyWcWgLgxLEklxCGnYiRHP4SA5B3XvQfimKMfx3OHa_BSxT7QaFA5c04YmgdGLwWhuuzVtNriihVh4DU7ERRTrVUM12HTt795M6lEaJKSSv-gDyLKWUPIVLQB43qFAR0jCDGwRXi-UcENVlO12YgKLgChH4PQa8hw7TvH2r2a2Zfcgf3hdo8D7PP7/s16000/DSC07958.JPG" /></a></div><br />女神湖という人造湖があるあたりを、古くは赤沼平と呼んで低湿地だった。<p></p><p>赤沼平からは蕨手刀1点・鉄片が出土しており、また、戦前には八幡一郎氏が小玉・有孔円板を採集したという。いずれも古墳時代の遺物とされている。</p><p>これらの遺物群との関連性は不明だが、赤沼平には鍵引岩(鉤引石)と呼ばれる安山岩質の自然石が現存する。高さ1.5m、最大径5mほどで、道の下斜面にあるため目を見張るような一大巨岩というわけではないが、道路工事の後は3分の1ほどが埋もれている状態だというので往時はもう少し大きかったようである。</p><p>この地に巣食う河童が鍵引石に座り、通行人へ鍵引きの遊びをもちかけて赤沼平の湿地に引きずり込んだという伝説が残る。</p><p>鍵引石の傍らにはかつて直径1m、深さ2mの穴が穿たれていたといい、巨木が存在した可能性が指摘されている。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">賽の河原</span></h2><p>「賽の河原」とは、雨境峠の手前の緩やかな峠の上にあったという直径20m、高さ2m程の石塚(盛り土の上に大小の石を敷いた塚)で、塚には地蔵尊が安置され、「塞の河原」の表記も残る。</p><p>高度経済成長期の観光開発・道路開発の中、昭和40年に事前調査がないままに賽の河原は破壊されてしまった。ここから寛永通宝3点が採集されているので、江戸時代に一種の投銭祭祀が行なわれていたのは確実と言える。</p><p>緩やかな峠の頂上ということで、分布図に落とされた位置なども考えあわせると下写真のあたりに存在したものと推測される。</p><p></p><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi0Acy9bcUjFgfSvEhlagMwIVKPBZqbRrMrTFkEavGYHe3DY0u7q9cOSowM5rxISU9o9cpbm9f9Whns0j-YByApIdAeI2y_zc_RU-Wb_qDp7617tF_DYmg6uBf7z_NzaWHE0cI3fmEyhMW1vbeJFhPYdrGe2IWXLmnp9ebz1sFCuU1X3H_l3w42w-b1uLBQ/s5472/DSC08002.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi0Acy9bcUjFgfSvEhlagMwIVKPBZqbRrMrTFkEavGYHe3DY0u7q9cOSowM5rxISU9o9cpbm9f9Whns0j-YByApIdAeI2y_zc_RU-Wb_qDp7617tF_DYmg6uBf7z_NzaWHE0cI3fmEyhMW1vbeJFhPYdrGe2IWXLmnp9ebz1sFCuU1X3H_l3w42w-b1uLBQ/s16000/DSC08002.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">賽の河原があったと思われる地点。</td></tr></tbody></table><br />塚の4分の1ほどが残るともいうがどの土の高まりがそれに該当するかは不明である。また、この塚の東の山林を入った所にも石塚があったという古老の話が残り、現在の道沿い以外にも複数の塚が存在していた可能性が想定されている。<p></p><p>地蔵尊は頭部欠損しながらも道路向かい側へ移されたと昭和40年時点では書かれていたが、現在特定はできなかった。</p><p>雨境峠頂上に近いこの辺りまで来ると、ふたたび蓼科山を南方に望むことができる。</p><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjVF6X3XLSs0l6YrOugT6qHeqX5kT21LQzQp2R8mr5Ur5prQJifSYHcP2mekjI3Dg34otvBG5ttCy0YF__tw_u8rhkIG9pjWkszxcLAqVPqlnQwe9BgpTZgzNVjqI-VRZxktyC1CAcueXGenx_W7sV6_zbi9UVMLe_wI17eln7Xupu8zaMpaz55jW7brx2s/s5472/DSC08003.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjVF6X3XLSs0l6YrOugT6qHeqX5kT21LQzQp2R8mr5Ur5prQJifSYHcP2mekjI3Dg34otvBG5ttCy0YF__tw_u8rhkIG9pjWkszxcLAqVPqlnQwe9BgpTZgzNVjqI-VRZxktyC1CAcueXGenx_W7sV6_zbi9UVMLe_wI17eln7Xupu8zaMpaz55jW7brx2s/s16000/DSC08003.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">雨境峠頂上付近から望む蓼科山</td></tr></tbody></table><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">与惣塚(よそうづか)</span></h2><p></p><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEie8gaq1Bh59ngvwwbIjLvVBrY0HCG3TPiHhHol3qjWUMsR8287LGW2AmpAUCejtDGEAQ1t7ud5eo_tLjlUD8LEy0vh9iFMlduH_TyWyUGn0NReeoA68CnfJderutT-ujtuiJmI28CQVTQ_aDCDzuHvEWDmtSiGhmlTCObPYCG5YJuua99waWQkqQYzTv05/s5472/DSC07996.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEie8gaq1Bh59ngvwwbIjLvVBrY0HCG3TPiHhHol3qjWUMsR8287LGW2AmpAUCejtDGEAQ1t7ud5eo_tLjlUD8LEy0vh9iFMlduH_TyWyUGn0NReeoA68CnfJderutT-ujtuiJmI28CQVTQ_aDCDzuHvEWDmtSiGhmlTCObPYCG5YJuua99waWQkqQYzTv05/s16000/DSC07996.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">与惣塚</td></tr></tbody></table><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgvcLfGyvvxLK_9tmOa19SKFdVNKydMXc8_apTMU8XjKzZyOvVcYdiPm6UxtieyoJY1lxCUXMilysP3z0Ym3A6wPe_q40-PEXMG96mdP_dGhLPqfk8vOEe6ptsVlHAZPZCaFzNr7fDHWn4cmrtHHH7zXPqCRu7OCR13pIxUsd-NI8NfJ4XSbTG3SR_Fq4NZ/s5472/DSC08000.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgvcLfGyvvxLK_9tmOa19SKFdVNKydMXc8_apTMU8XjKzZyOvVcYdiPm6UxtieyoJY1lxCUXMilysP3z0Ym3A6wPe_q40-PEXMG96mdP_dGhLPqfk8vOEe6ptsVlHAZPZCaFzNr7fDHWn4cmrtHHH7zXPqCRu7OCR13pIxUsd-NI8NfJ4XSbTG3SR_Fq4NZ/s16000/DSC08000.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">塚の頂部には礫石も確認できた。</td></tr></tbody></table><br /><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhMk4u5COuW4TPQnFgwas18umTv5min00EBV1gAqLI-KJOeTwxpeA2qe61kEaKHeFavG3VBARjEDEq43GkM-J8WNLsszmFDR7x5a0pXiAaos836qXGva6wvj4GKrj0N0UK3QX3J18LJ-lkWOObjlyWFMSZPtfzf7WDamMYcq1y9y2hhf8Y44cwYQ9iSuzBy/s5472/DSC07994.JPG" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhMk4u5COuW4TPQnFgwas18umTv5min00EBV1gAqLI-KJOeTwxpeA2qe61kEaKHeFavG3VBARjEDEq43GkM-J8WNLsszmFDR7x5a0pXiAaos836qXGva6wvj4GKrj0N0UK3QX3J18LJ-lkWOObjlyWFMSZPtfzf7WDamMYcq1y9y2hhf8Y44cwYQ9iSuzBy/s16000/DSC07994.JPG" /></a></div><br />径15m、高さ1.6mの規模を持つ石塚で、「賽の河原」と同様の性格を持つものだったとされている。ただし、この塚からは遺物が発見されていない。<p></p><p>与惣は伝説に関する人物名というが、その伝説の詳細に触れられることは少ない。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">中与惣塚(なかよそうづか)</span></h2><p></p><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhrVt3Muy9I20B_pzfwLYEyz9mdxvZLkEPpmjoBFfW8I5mnKneMqhIvcDtY5r_z2yu7AMJSmm7VKqOn28JxynMx6W4VcR22wSQTf1vK5BZC2hmH_skCcGmabbIxf1pUN89YHA55L27Ub-rRB2AZ5Wp9kK6ygPNG5yydoAEtEdMYOXBm80aN-HBtfQ-FZktV/s5472/DSC07989.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhrVt3Muy9I20B_pzfwLYEyz9mdxvZLkEPpmjoBFfW8I5mnKneMqhIvcDtY5r_z2yu7AMJSmm7VKqOn28JxynMx6W4VcR22wSQTf1vK5BZC2hmH_skCcGmabbIxf1pUN89YHA55L27Ub-rRB2AZ5Wp9kK6ygPNG5yydoAEtEdMYOXBm80aN-HBtfQ-FZktV/s16000/DSC07989.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">中与惣塚</td></tr></tbody></table><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEglhNUesv4b8xxvvUzMxMo3lkVvCCJ5eCGCBiSsFnqLY5QjS3MvCC60Oum0Jb3milZYTyyCuJ7vNt89vqE4VV0hS2aeqISckyzJJwtMsIx5XH-lI8JVLF9zg3vPpHC4njd2o52qx3d4OLpULp6bo-DUOacMdNt-6kxIfFFKkfOHWczb9kdQJK5OfgPwyOki/s5472/DSC07991.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEglhNUesv4b8xxvvUzMxMo3lkVvCCJ5eCGCBiSsFnqLY5QjS3MvCC60Oum0Jb3milZYTyyCuJ7vNt89vqE4VV0hS2aeqISckyzJJwtMsIx5XH-lI8JVLF9zg3vPpHC4njd2o52qx3d4OLpULp6bo-DUOacMdNt-6kxIfFFKkfOHWczb9kdQJK5OfgPwyOki/s16000/DSC07991.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">中与惣塚の頂部</td></tr></tbody></table><br />前2例と同じく、径11m、高さ1mの石塚である。<p></p><p>「賽の河原」が破壊の憂き目に遭ったことから、当時の石塚の状態を記録にとどめようと調査が行われ各種の遺物が発見された。内訳は、古銭40点(北宋銭が大半で一部近世の古銭あり)、御正躰と思しき青銅板14点、薙鎌9点、鉄釘は少なくとも6点分出土した。</p><p>この塚の調査により、雨境峠に点在する石塚は、中近世の人々が峠を往来する時などに交通安全などを祈念した祭祀施設だったのではないか、と歴史的に位置付けられる契機になった。</p><p>桐原氏は、遺物の型式を綜合して鎌倉時代末期から室町時代初期に築造された塚群ではないかと具体的に年代を絞り込み、塚を建てて追善供養などを行なう「十三塚信仰」の系譜を引く祭祀遺構と位置づけている。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">勾玉原</span></h2><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiwEw8m4mKtmteoYI4Or125GQ0NwYyVMZIWJGbubboLYZUXIm0gGwQXvVRVe8-ayvq946iUi5YcZOxv9dpYRpB0zRTlYi4D_aIwk_BKBb2fS52ONhVNmfFIPcBcpKdmlktWj8nxvY0xFkgkY2Tf2yKPspb6mdL9KpYBnN3UgCVHwPngKF8SDpvUAG7YQAN0/s5472/DSC07988.JPG" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiwEw8m4mKtmteoYI4Or125GQ0NwYyVMZIWJGbubboLYZUXIm0gGwQXvVRVe8-ayvq946iUi5YcZOxv9dpYRpB0zRTlYi4D_aIwk_BKBb2fS52ONhVNmfFIPcBcpKdmlktWj8nxvY0xFkgkY2Tf2yKPspb6mdL9KpYBnN3UgCVHwPngKF8SDpvUAG7YQAN0/s16000/DSC07988.JPG" /></a></div><br /><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhiCdcYDlRZmiCRpu-ydMzRLCwLQLvsNm-gOjTxmwkqB1aXcy6mbTJ_qBhe9BcaZqSp4PF7XciXU5hKMrPGz6eoQM5Rd8oC1wXGV2FdOWRr1Ob0dDfCdjoMWxfmHvMnsJJAL9bc1g5xy9gX2GQSVljPeQszYVEFXcHZmbiDmMMbcGHw0grpFftEHf25DhBh/s5472/DSC07986.JPG" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhiCdcYDlRZmiCRpu-ydMzRLCwLQLvsNm-gOjTxmwkqB1aXcy6mbTJ_qBhe9BcaZqSp4PF7XciXU5hKMrPGz6eoQM5Rd8oC1wXGV2FdOWRr1Ob0dDfCdjoMWxfmHvMnsJJAL9bc1g5xy9gX2GQSVljPeQszYVEFXcHZmbiDmMMbcGHw0grpFftEHf25DhBh/s16000/DSC07986.JPG" /></a></div><br />中与惣塚の辺りから雨境峠頂上までの一帯では、玉類がよく採れたという由来から勾玉原と呼ばれたという。実際に数名の研究者が数種の滑石製品を採集した。<p></p><p>滑石製品の形態的特徴などから、古墳時代後期~終末期(6~7世紀)の遺物と評価されている。</p><p>現在確認できるものとしては臼玉・管玉・勾玉・有孔円板・剣形品があり、滑石製品に限られている特徴がある。土製品はもちろんのこと、滑石以外の石製品の発見もないのは、本遺跡での祭祀を考えるに当たって非常に興味深い傾向と考えられている。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">法印塚/山伏塚</span></h2><p>雨境峠の北斜面側にある径12m、高さ1.5mの石塚。山伏塚の異名もある。遺物の出土は確認されていないが、中与惣塚と同様の施設と目される。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">鳴石/鏡石</span></h2><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEithfH4ZNCcAbDLyk_rWjK-mAKG6blvwa6aM8ZcDyZYggJcpsU_btln7QV2fmM_0AYowTSmV66f1expvp1lE_E7XW17rjMFHADcfvgHom7R-kW1VmHxklrlqkUrdNJaADmxSluMLidR8EQ900l7Xi5sTfi4M5RxaFvES6r2oGO1Zd8Fa2uaLgwZsbAsvpdR/s5472/DSC07972.JPG" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEithfH4ZNCcAbDLyk_rWjK-mAKG6blvwa6aM8ZcDyZYggJcpsU_btln7QV2fmM_0AYowTSmV66f1expvp1lE_E7XW17rjMFHADcfvgHom7R-kW1VmHxklrlqkUrdNJaADmxSluMLidR8EQ900l7Xi5sTfi4M5RxaFvES6r2oGO1Zd8Fa2uaLgwZsbAsvpdR/s16000/DSC07972.JPG" /></a></div><br /><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiKU2q1d5AdiDU3ckj1wMpjB8sm60ujDEQuAG3K4eTGoWZ1asR6-TTZWLhoEDinjRugAV6Wc_Olla-jauKfsOX2nhRiqaLtfehZ4bhnrA805piErG1Ad0xBjWBDr45IBgfDQRycdxx8c9vBniLBrZCyqZ0nRg6spihDzsX6ecyhmDpv4pLDqPbvipYeEsrk/s5472/DSC07978.JPG" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiKU2q1d5AdiDU3ckj1wMpjB8sm60ujDEQuAG3K4eTGoWZ1asR6-TTZWLhoEDinjRugAV6Wc_Olla-jauKfsOX2nhRiqaLtfehZ4bhnrA805piErG1Ad0xBjWBDr45IBgfDQRycdxx8c9vBniLBrZCyqZ0nRg6spihDzsX6ecyhmDpv4pLDqPbvipYeEsrk/s16000/DSC07978.JPG" /></a></div><br /><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjkciyLed2sT3A9QYheILhKcd0SF3uWduimO1XIgBBxx9nmdS5ROSxXRHJL2peVva1k8vZFgQ0OJb5Qle6f9l0d7obUzerm0TQBCYC-5GWMogQT-D13N0mIhGSjo3nWHKYbaQG-x0c1YDwSLUfvLAvjeJygKlaLo8nCZ2r-h1aX1_1SlXvJObes2LffkEiT/s5472/DSC07982.JPG" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjkciyLed2sT3A9QYheILhKcd0SF3uWduimO1XIgBBxx9nmdS5ROSxXRHJL2peVva1k8vZFgQ0OJb5Qle6f9l0d7obUzerm0TQBCYC-5GWMogQT-D13N0mIhGSjo3nWHKYbaQG-x0c1YDwSLUfvLAvjeJygKlaLo8nCZ2r-h1aX1_1SlXvJObes2LffkEiT/s16000/DSC07982.JPG" /></a></div><br />石を叩くと金属音がするが、石材にして割ろうとした石工は雷を落とされて悶え死んだという祟り伝承が付帯する。<p></p><p>鳴石は直径2.5mほどの2個の岩石を鏡餅状に積み重ねた構造物で、周辺から古墳時代の臼玉3点・有孔円板1点・剣形品破片1点が採集されている。</p><p>鳴石のこの鏡餅状の構造は、人工的なものだと考えられている。岩石自体の調査が行われており、上と下の岩石の接触部分は互いに形状・寸法が一致せず、それに加えて溶岩構造が異なることが判明している(雨境峠祭祀遺跡群発掘調査団 1995年)。</p><p>ずっと地表に露出していた岩石だと思われるのでこの構築が遺物の出土と同じ古墳時代と断定して良いかという問題はあるが、この岩石が存在することで祭祀遺物がここに捧げられたと考えるのが今は自然だろう。</p><p>また、調査では鳴石の周りは同心円状に礫が敷き詰められていたこともわかり、これも人為設置の祭祀施設とみなすことができる。</p><p>雨境祭祀遺跡群を代表する場所のみならず、人為的に構築された古墳時代の岩石祭祀遺跡としても貴重な事例である。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">参考文献</span></h2><p></p><ul style="text-align: left;"><li>雨境峠祭祀遺跡群発掘調査団(編) 1995 『雨境峠』(立科町文化財調査報告書5) 立科町教育委員会</li><li>大場磐雄 1935 「峠神の一考察」『上代文化』第13輯</li><li>桐原健 1967 「長野県北佐久郡立科町雨境峠祭祀遺跡群の踏査」『信濃』Ⅲ・19-6</li><li>桐原健 1982 「雨境峠遺跡群」 長野県(編)『長野県史 考古資料編 全1巻(2)主要遺跡(北・東信)』 長野県史刊行会</li><li>小林幹男 1995 「蓼科山麓の祭祀遺跡と古道」『古代交通研究』第5号</li><li>坂本和俊 1993 「古墳時代の祭祀研究の問題点」 第2回東日本埋蔵文化財研究会『古墳時代の祭祀-祭祀関係の遺跡と遺物-』《第Ⅲ分冊-西日本編-近畿・山陽・山陰・九州・発表要旨・文献目録・四国地方》</li><li>椙山林継 1965 「古代祭祀遺跡分布私考」『上代文化』第35輯</li></ul><p></p><p><br /></p>吉川宗明http://www.blogger.com/profile/15618688408266963929noreply@blogger.com0日本、〒384-2309 長野県北佐久郡立科町芦田八ケ野6836.1488149 138.27715487.8385810638211524 103.1209048 64.459048736178843 173.4334048tag:blogger.com,1999:blog-7469619715096703423.post-43521028445532783222023-11-06T20:26:00.006+09:002023-11-07T12:07:16.456+09:00山寺立石寺の岩石信仰(山形県山形市)<iframe height="300" src="https://www.google.com/maps/d/u/0/embed?mid=1b8T8jIKZl9X6bVQkpBJErwm5JCE&ll=38.31311, 140.4346&ehbc=2E312F" width="300"></iframe><br />山形県山形市山寺<br /><p> </p><p>山寺立石寺は、慈覚大師円仁が開山・入定した地で、おくのほそ道の「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」の場でも知られる。</p><p>立石寺には「立石倉印」の字が刻まれた古代印が伝わり、型式的にも開山を伝える9世紀頃の製作の可能性が高いものとされており、その頃からすでに「立石」の名で呼ばれていたことが窺える。</p><p>慈覚大師が入定したとされる窟は、百丈岩という自然の巨岩に開いた風穴の一つである。山口博之氏は「百丈岩に入定する慈覚大師の強力な視線が、街道を往来する人々にそそがれ守護する風景となる」(山口 2021年)と考察して、山寺における立石群の宗教性を街道交通と関連付けた。</p><p><br /></p><p>立石寺における岩石の利用は、各時代を通して死者供養と深い関連が指摘されている(時枝 2011年)。</p><p>開山当時の入定窟からは木棺や火葬骨が複数体見つかり、いわゆる修行窟というだけでなく一種の墓地としての性格も色濃い霊場だったと考えられている。</p><p>その後、中世においても岩石群が形成する岩陰や洞穴の中で納骨および五輪塔の奉納行為が確認されている。</p><p>近世には、岩肌に塔婆を刻んで死者を追悼する岩塔婆とよばれるものもみられるようになり、この祭祀行為は県内でも山形盆地(村山盆地)周辺に分布が固まることから、山岳寺院の中でも地域的に独自の変化・形成を遂げた霊場だったと評価づけられている。</p><p><br /></p><p>また、元山寺として立石寺の前身とされる峯の裏地区では、<a href="https://www.megalithmury.com/2023/10/tarumizu.html" target="_blank">垂水岩</a>などの奇岩において13世紀頃の石造物群が確認されている。</p><p><br /></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjHf__FMW2m4Z5imQLJkuUYCeiWDEiqIdO6DF6cDw5yyOaVClk4OpA63LfgFwtQECL8XRSywQaIPTOwk21JNtS3N7YYNzR4bbXNIK1SfzJyNl0fv3R4CF6OS7pNwhdtafgionYgayUEpjNN0Fz5hZ5fTxycpTQte22cCjvxaiZF9uUIbovD42e_XzxvDj9k/s1706/IMG-1677.JPG" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1706" data-original-width="960" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjHf__FMW2m4Z5imQLJkuUYCeiWDEiqIdO6DF6cDw5yyOaVClk4OpA63LfgFwtQECL8XRSywQaIPTOwk21JNtS3N7YYNzR4bbXNIK1SfzJyNl0fv3R4CF6OS7pNwhdtafgionYgayUEpjNN0Fz5hZ5fTxycpTQte22cCjvxaiZF9uUIbovD42e_XzxvDj9k/s16000/IMG-1677.JPG" /></a></div><br /><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEibtnqGnDpOGug_ecYWM2YXOyzQztk5BMgb-facyx2Sso3BCWhzwa9m2Jo_Jj-M9GCmNh68aAM3SaVr2WI3wdSRKsbgM6hT2MAJMskhRUwRjWM332IQbpjuLTUcRkVm4qyK7c-iFXBsanlu4hZR8PXFqY9VF0IEMHaQ0EPuEXztFvvN9QYyaNma9RVm5FQf/s1019/%E4%BF%AE%E8%A1%8C%E3%81%AE%E5%B2%A9%E5%B1%8B.JPG" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1019" data-original-width="960" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEibtnqGnDpOGug_ecYWM2YXOyzQztk5BMgb-facyx2Sso3BCWhzwa9m2Jo_Jj-M9GCmNh68aAM3SaVr2WI3wdSRKsbgM6hT2MAJMskhRUwRjWM332IQbpjuLTUcRkVm4qyK7c-iFXBsanlu4hZR8PXFqY9VF0IEMHaQ0EPuEXztFvvN9QYyaNma9RVm5FQf/s16000/%E4%BF%AE%E8%A1%8C%E3%81%AE%E5%B2%A9%E5%B1%8B.JPG" /></a></div><br /><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgIXzLjKfTaG1NJvxQ6yu2mN6JKnG9Vto1iBV8d-8ukirJiTySWcmV6hfDMr8f8vAvUtxy7iw2jWQb0gt7FzxuWBXAspPJvQimPoAxEeb7n8Fwm7rSNbeq2UiiQwZv44Ocfn4XyHsX_k_5dUcLJ506bV8DIcjnng65Y3su_ZHGe2vRdgHTzBBU2DXY6-xT1/s1706/IMG-1684.JPG" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="960" data-original-width="1706" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgIXzLjKfTaG1NJvxQ6yu2mN6JKnG9Vto1iBV8d-8ukirJiTySWcmV6hfDMr8f8vAvUtxy7iw2jWQb0gt7FzxuWBXAspPJvQimPoAxEeb7n8Fwm7rSNbeq2UiiQwZv44Ocfn4XyHsX_k_5dUcLJ506bV8DIcjnng65Y3su_ZHGe2vRdgHTzBBU2DXY6-xT1/s16000/IMG-1684.JPG" /></a></div><br /><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgpgSykE9wED8rB5i3L7ow4p6lsN25NuMfwWacUqTjhWWLOJbEzh3tYYmslwi5A-5a_RC5A83aY2WshbYHaHHHtEBqxnPcRvoUh2qGQnMzgmvhz6bHSxBfZan-3pvZIN5mwkWahfpcmv5zP6By4fO69m-_MZ4bbQTLg_djdWesKzYmAegHeoVfHKF0UE7zs/s1706/IMG-1685.JPG" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="960" data-original-width="1706" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgpgSykE9wED8rB5i3L7ow4p6lsN25NuMfwWacUqTjhWWLOJbEzh3tYYmslwi5A-5a_RC5A83aY2WshbYHaHHHtEBqxnPcRvoUh2qGQnMzgmvhz6bHSxBfZan-3pvZIN5mwkWahfpcmv5zP6By4fO69m-_MZ4bbQTLg_djdWesKzYmAegHeoVfHKF0UE7zs/s16000/IMG-1685.JPG" /></a></div><br /><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiYGZSNoqlInbk4iTgqBXiSRWMKRz6sZbwLVPQZ2WIQOd7xgCcqMq6i428C4nTD6XDSE8nxawiSpI6iKcEgJB1ha-G8-AvcgyOj2PO2AeKiNm7q0qhhw988QYYvcxMWhkfiYMLGy3EzIiw6USPU8C-8HulOrtVuuWR8u8q6ydc4YJBg2WtC0sL2NQbcIDke/s1706/%E7%AC%A0%E5%B2%A9.JPG" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="960" data-original-width="1706" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiYGZSNoqlInbk4iTgqBXiSRWMKRz6sZbwLVPQZ2WIQOd7xgCcqMq6i428C4nTD6XDSE8nxawiSpI6iKcEgJB1ha-G8-AvcgyOj2PO2AeKiNm7q0qhhw988QYYvcxMWhkfiYMLGy3EzIiw6USPU8C-8HulOrtVuuWR8u8q6ydc4YJBg2WtC0sL2NQbcIDke/s16000/%E7%AC%A0%E5%B2%A9.JPG" /></a></div><br /><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjdd4sRYl8nK8fJynuc47wuUJZj6_Sxiz_APeQYbCkxWM6DqhyphenhyphenHNRB6sWkPUgnrHw4kUuircw95Dt2ZJccWSp-B7Os12QRI8l_DW3g4keffWxIz0CtoFiqHUI8t192RYPtvd5PiCDdqv0b5HYnI3NXCH-9nqGSn4lVUfrL9nWkucu5YkRIPW7nd8wB9ObtU/s1706/IMG-1671.JPG" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1706" data-original-width="960" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjdd4sRYl8nK8fJynuc47wuUJZj6_Sxiz_APeQYbCkxWM6DqhyphenhyphenHNRB6sWkPUgnrHw4kUuircw95Dt2ZJccWSp-B7Os12QRI8l_DW3g4keffWxIz0CtoFiqHUI8t192RYPtvd5PiCDdqv0b5HYnI3NXCH-9nqGSn4lVUfrL9nWkucu5YkRIPW7nd8wB9ObtU/s16000/IMG-1671.JPG" /></a></div><br /><p>調査を主目的として訪れていなかったため、岩石の記録は不完全である。</p><p><br /></p><p><b>参考文献</b></p><p></p><ul style="text-align: left;"><li>時枝務『山岳考古学―山岳遺跡研究の動向と課題―』ニューサイエンス社 2011年</li><li>山口博之『山寺立石寺―霊場の歴史と信仰―』吉川弘文館 2021年</li></ul><p></p><div><br /></div>吉川宗明http://www.blogger.com/profile/15618688408266963929noreply@blogger.com0日本、〒999-3301 山形県山形市山寺4456−138.3131193 140.434609910.002885463821151 105.2783599 66.623353136178849 175.5908599tag:blogger.com,1999:blog-7469619715096703423.post-13785760068991349792023-10-30T16:09:00.009+09:002023-11-07T12:04:42.607+09:00垂水岩/垂水不動/垂水の観音様/垂水遺跡(山形県山形市)<iframe height="300" src="https://www.google.com/maps/d/u/0/embed?mid=1b8T8jIKZl9X6bVQkpBJErwm5JCE&ll=38.31774, 140.44303&ehbc=2E312F" width="300"></iframe><br />山形県山形市山寺 宝珠山千手院裏山<div><br /></div><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi6UlBei1ptChxzVl03bTzk_oWpeSh3R5h9NfqKErnhF8ekTBscFIHa1pvtd_ycQiqsTLYvWWBkS3J06U6v3b_o1HccTjtuaIJn1StbbSHkuLN4qTVcWpgSjxOwfbwhkZCQ_kb98hG0lPpwGBqFZGUowVbaXmDuufYxf5GzlSlZ0dC8bpad3uJT4JLwfhxv/s5472/DSC07909.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi6UlBei1ptChxzVl03bTzk_oWpeSh3R5h9NfqKErnhF8ekTBscFIHa1pvtd_ycQiqsTLYvWWBkS3J06U6v3b_o1HccTjtuaIJn1StbbSHkuLN4qTVcWpgSjxOwfbwhkZCQ_kb98hG0lPpwGBqFZGUowVbaXmDuufYxf5GzlSlZ0dC8bpad3uJT4JLwfhxv/s16000/DSC07909.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">垂水岩(下部のみ撮影)</td></tr></tbody></table><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgMMhWpIk2gOluLxlqY-HZMTIFzLnKLi79QlWfwGpzWKAQEPW8jvIcEf3BOACqZkR1zcvPx8OWo9EKMQ0kmOicjDMtarQK7sphU708V_I4Z90rCe8cABcbhbAV1U8t1DEYzfLGV5xAzk8f96A5C6CVHYzA5DpdYjtkKC_pnGbsBHpYn7JwA-GYJ3Y5hUoQ8/s5472/DSC07926.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgMMhWpIk2gOluLxlqY-HZMTIFzLnKLi79QlWfwGpzWKAQEPW8jvIcEf3BOACqZkR1zcvPx8OWo9EKMQ0kmOicjDMtarQK7sphU708V_I4Z90rCe8cABcbhbAV1U8t1DEYzfLGV5xAzk8f96A5C6CVHYzA5DpdYjtkKC_pnGbsBHpYn7JwA-GYJ3Y5hUoQ8/s16000/DSC07926.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">蜂の巣状の穴は地質学的に「雲形侵食」で説明が可能という(ブラタモリ2023年7月22日放送時の大友幸子氏の解説より)</td></tr></tbody></table><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgVHAKxqxfwYhQKsYRsb6I-0NHKpG6b-c01q-ehmMrGQBkZZ3GjiX7GAPTQWQiQqgNMluBWuW11yfszDHdCaNC0C84EQm14dWSG5DYeqHl4YrgEMfR4ooRyXwDHNQkPTOVLK9s4dno_BOlAyAXatK6UWuOjjiKU-6ygQTLvcjobUPAGS-h6e_p55FhO_nEE/s5472/DSC07931.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgVHAKxqxfwYhQKsYRsb6I-0NHKpG6b-c01q-ehmMrGQBkZZ3GjiX7GAPTQWQiQqgNMluBWuW11yfszDHdCaNC0C84EQm14dWSG5DYeqHl4YrgEMfR4ooRyXwDHNQkPTOVLK9s4dno_BOlAyAXatK6UWuOjjiKU-6ygQTLvcjobUPAGS-h6e_p55FhO_nEE/s16000/DSC07931.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">鳥居が立つが、基本的には山岳仏教・修験道における岩場の文脈で臨む存在。</td></tr></tbody></table><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjBUrDgPkZY3p4XGyBRJqnm12vQeK0T5P6_nqNRP24K3EEa58uS6VX7jlRr3Erf8lUaNvVaYAqrXUBd4BMoQD_i-tB97wgtuTUGmDjfOUEzeuhG-y-K6UTi5-zsNXJ3km7vi_pnxGFve4T0QvMoNEN3RFMx_1WODHYUdrNjpePyc44plVfNXfe3LznN8E6L/s5472/DSC07929.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="5472" data-original-width="3648" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjBUrDgPkZY3p4XGyBRJqnm12vQeK0T5P6_nqNRP24K3EEa58uS6VX7jlRr3Erf8lUaNvVaYAqrXUBd4BMoQD_i-tB97wgtuTUGmDjfOUEzeuhG-y-K6UTi5-zsNXJ3km7vi_pnxGFve4T0QvMoNEN3RFMx_1WODHYUdrNjpePyc44plVfNXfe3LznN8E6L/s16000/DSC07929.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">岩陰に稲荷神社がまつられる。</td></tr></tbody></table><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiFmNfstTXFdnGMC7FVGWLLJb6eM7SZV9rQCIjg0yQ2oTL1nQVFITiSk4tM6euir2i-Q3hI5T3NtY11lL6HqGaLRvWSGTL-F0RYvtMZIAW3agr5CMDiaxFIjuTN-ZIm6zzDhMioUnizI_EO2-2A0iwO4B12Fr20NNEn4Xt4A6nbGepUXU_7ZwNpfvhul4EZ/s5472/DSC07934.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiFmNfstTXFdnGMC7FVGWLLJb6eM7SZV9rQCIjg0yQ2oTL1nQVFITiSk4tM6euir2i-Q3hI5T3NtY11lL6HqGaLRvWSGTL-F0RYvtMZIAW3agr5CMDiaxFIjuTN-ZIm6zzDhMioUnizI_EO2-2A0iwO4B12Fr20NNEn4Xt4A6nbGepUXU_7ZwNpfvhul4EZ/s16000/DSC07934.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">垂水岩の西にある別の岩陰には古峯(こぶはら)神社がまつられる。</td></tr></tbody></table><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEivShVt-F9TtTIfU1iae6z_Epm8h2q-Pft4fhe6UIXzitnY7UogCj76JmvrdgYo0f8AcvYKriALYzPDrBef7bAhvF0y70U0Xhkgd74v63jeDYH3TrEPYEUWZUn9CkrSnj6L2dg_WCJ__sH6YgcT9qpkfa7PHqG-oVh0rxvVQwbMsoMuc4JX9URX3IqMvxhF/s5472/DSC07936.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEivShVt-F9TtTIfU1iae6z_Epm8h2q-Pft4fhe6UIXzitnY7UogCj76JmvrdgYo0f8AcvYKriALYzPDrBef7bAhvF0y70U0Xhkgd74v63jeDYH3TrEPYEUWZUn9CkrSnj6L2dg_WCJ__sH6YgcT9qpkfa7PHqG-oVh0rxvVQwbMsoMuc4JX9URX3IqMvxhF/s16000/DSC07936.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">垂水岩(西より撮影)</td></tr></tbody></table><br /><div><br /></div><div><a href="https://www.megalithmury.com/2023/11/yamadera.html" target="_blank">山寺立石寺</a>のすぐ東の「峯の裏」と呼ばれる地にあり、千手院の裏山を約15分~20分登った山腹にある。</div><div><br /></div><div>垂水遺跡・垂水不動(垂水不動尊)・垂水霊境などの通称で知られ、近年とみにパワースポットとして着目されることが多いが、40年前の文献を捲ると以前は垂水岩(たるみずいわ)と呼ばれていたらしい。</div><div><br /></div><div><blockquote>「垂水岩(山形市山寺) 水が垂れるように岩の上から落ちてきて奇岩を作っている。昔は修験者が冬でも住んでいた。ここは、現在の山寺ができる以前に慈覚大師がいた所で、ここで山寺を開く構想をねった。今は不動様がまつられていて、垂水の観音様と言って信仰されている。(話者)武田唯雄」(岩崎 1981年)</blockquote></div><div><br /></div><div>垂水岩の名は、明治11年刊行の地誌『山形県地誌略』まで遡って確認できた。その後、大正7年刊行の『山寺村風土略記』で垂水不動の表記も登場する。垂水霊境の表記はかつての文献群には登場しないため、単なる美称の一つが流布されて定着化したものだろう。</div><div>以上を踏まえて、歴史的名称としては垂水岩・垂水不動の名を採用することが望ましいだろう。</div><div><br /></div><div><br /></div><div>さて、垂水岩は山寺立石寺の始まりの地(元山寺)と伝承されることがある。</div><div>それはまったく根拠のない話というわけではなく、現地には寺院があったと思しき地形や痕跡が残るという。</div><div><br /></div><div><blockquote>「今日の根本中堂は目今の山寺区域の東部に建つて居るが、其開山当時に在ては更に東方千手院字峯裏と、垂水不動間の山上にあつたものらしく、其處に今猶平地があり、畑地となつて居る。而して其敷地の入口には両側に高き岩石が、恰も門に擬せらるゝ如く立ち、如何にも霊場であるらしく見得られる。即ち中堂は此處に建てられたものと思はれる。」(川崎 1947年)</blockquote></div><div><br /></div><div>門に擬せられた岩石がどれに当たるのかはよくわからないが、千手院に立つ現地看板によれば現在、阿弥陀屋敷と呼ばれる地が本院跡とされており、このことを指すのかもしれない。</div><div><br /></div><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjqJ3OWNK-kbx5vm9aD3Kl74GyeEuq9fR3K2cE4zC-xFINBKncM5aQN_K8mNbHpoc6hUzuuhfpvI-XSmLIpranGYCjGKDF1iSO33dptKkvQlREUDZTnSWklxfBWqfQnVZ0OQKiPS1s5JUvdRsTcEaGbPhMaVdJuhR8lmz5aMxh2u8z7hC6Zl9W-VQa1p7It/s5472/DSC07912.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjqJ3OWNK-kbx5vm9aD3Kl74GyeEuq9fR3K2cE4zC-xFINBKncM5aQN_K8mNbHpoc6hUzuuhfpvI-XSmLIpranGYCjGKDF1iSO33dptKkvQlREUDZTnSWklxfBWqfQnVZ0OQKiPS1s5JUvdRsTcEaGbPhMaVdJuhR8lmz5aMxh2u8z7hC6Zl9W-VQa1p7It/s16000/DSC07912.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">円仁宿跡</td></tr></tbody></table><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgfKqnz7LkcWBybHxCJPOuYbBm9fFpTbjmz6ZwrYol3NTGkN392GXNbuujqdDw2bRjHXnSnv3CTTvSYX1yZViObchTpF5scokVUuEObn1I_-ML06ZcVNe_hfHHHZ4oTe7wR5l61hVclYiQXIpNcUTow1lpcnx3lf8W4KfVT_aBC9nH1lqIkOYoWx2T9mujG/s5472/DSC07913.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="5472" data-original-width="3648" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgfKqnz7LkcWBybHxCJPOuYbBm9fFpTbjmz6ZwrYol3NTGkN392GXNbuujqdDw2bRjHXnSnv3CTTvSYX1yZViObchTpF5scokVUuEObn1I_-ML06ZcVNe_hfHHHZ4oTe7wR5l61hVclYiQXIpNcUTow1lpcnx3lf8W4KfVT_aBC9nH1lqIkOYoWx2T9mujG/s16000/DSC07913.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">亀裂の奥に不動明王像が安置され、垂水不動の由来となる。</td></tr></tbody></table><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjllyUqBIDoVIGZfbcNcGT2YKuRRQEG_mjvmJX0LJ7mmmz_25vocFaa3DDf2BO6zuz-VD2lB4TsF_dcB5EkVlDpC_QvjkhhpegA71LiP_tEFUCELf_4dEdiOnvrHXfOvlCLes8X7BipF3pN7-Fx7eIQd8z5Cg5UKeXOvRLIpwDJTNGC9uF4opZN64J4o0Z3/s5472/DSC07915.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjllyUqBIDoVIGZfbcNcGT2YKuRRQEG_mjvmJX0LJ7mmmz_25vocFaa3DDf2BO6zuz-VD2lB4TsF_dcB5EkVlDpC_QvjkhhpegA71LiP_tEFUCELf_4dEdiOnvrHXfOvlCLes8X7BipF3pN7-Fx7eIQd8z5Cg5UKeXOvRLIpwDJTNGC9uF4opZN64J4o0Z3/s16000/DSC07915.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">かつて岩肌には千手観音の線刻が見られたといい、垂水の観音様の由来となる。</td></tr></tbody></table><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjMPFcBNFGpzpQZO8bbYjvIhulOwXrsfOPegNjkFMGT_b4nXHOBgf6MXfV6l-Y3s_Dcxc1H6x_w0slwFIPtTsEOszT7QO3qhmn6BwvIvG2X8P21O9p4F-9qykvN4iKIp5PKUfCTZlzNgTF6n92mNIgumapdR6YoU_Za8QkPcUymCMJ8CKnd4cVg63aszj3S/s5472/DSC07924.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjMPFcBNFGpzpQZO8bbYjvIhulOwXrsfOPegNjkFMGT_b4nXHOBgf6MXfV6l-Y3s_Dcxc1H6x_w0slwFIPtTsEOszT7QO3qhmn6BwvIvG2X8P21O9p4F-9qykvN4iKIp5PKUfCTZlzNgTF6n92mNIgumapdR6YoU_Za8QkPcUymCMJ8CKnd4cVg63aszj3S/s16000/DSC07924.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">垂水岩の周辺には霊場関連の石造物群が散在する。</td></tr></tbody></table><br /><div><br /></div><div>垂水遺跡という名もあるものの、いわゆる遺物が出土したという意味での遺跡ではないらしく、埋蔵文化財としての登録はみられない。</div><div>ただし、遺構としての石造物群が残っており、その点で遺跡と考えるのは差し支えない。</div><div><br /></div><div><blockquote>「蜂の巣の穴状の岩窟がみられ、垂水不動や円仁宿坊と名付けられたものもある。ここにも岩窟のなかに中世の石造文化財が多数散乱している。とくに五輪窟には、『文永』『応仁』『明徳』の年記がみられる五輪塔の水輪・地輪などがある。もともとの山寺はこの地であり、円仁が最初に開いたのはこの『峯の裏』であったともいわれている。」(川崎 2009年)</blockquote></div><div><br /></div><div>これらの中世石造物群の評価については、修験道考古学を専門とする時枝務氏が次のように記している。</div><div><br /></div><div><blockquote>「13世紀には、立石寺から尾根1つ隔てた峯の裏地区を中心に、納骨をともなう五輪塔などの石塔が造立されるようになるが、この時期の現境内(吉川注:立石寺境内を指す)での宗教活動は不明な点が多い。鎌倉時代に、一時期禅宗寺院になり、再度天台宗寺院に復帰したと伝える寺伝となにがしかの関連があるのであろうか。」(時枝 2011年)</blockquote><br /><p>念のため申し添えるが、13世紀より前の考古学的痕跡は見つかっていない。たとえばこの奇景を以て縄文時代の信仰などと直結するような動きは自制すべきだろう。</p><p>現状として、垂水岩は山寺の成立と密接に絡む山岳仏教霊場と位置付けるにとどめないとならない。</p><p><iframe allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture; web-share" allowfullscreen="" frameborder="0" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/MNpPeoTIMEw?si=CfhnPW6N4AGXOwJG" title="YouTube video player" width="560"></iframe><br /></p><p><br /></p><p><b>参考文献</b></p><p></p><ul style="text-align: left;"><li>テレビ番組「ブラタモリ#243 山形~山形は何度も生まれ変わる?~」(2023年7月22日放送)</li><li>岩崎敏夫 編『東北民俗資料集』10,万葉堂出版,1981.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9570674 (参照 2023-10-30)</li><li>原精一 編『山形県地誌略』,佩玉堂,1878. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991433 (参照 2023-10-30)</li><li>伊藤友信 著『山寺村風土略記』,伊沢栄治,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/958425 (参照 2023-10-30)</li><li>川崎浩良 著『出羽文化史料』,出羽文化同交会,1947. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1043722 (参照 2023-10-30)</li><li>川崎利夫「立石寺とその周辺の石造文化財」 日本考古学協会 編『日本考古学協会大会研究発表要旨』2009年度,日本考古学協会,2009. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11199853 (参照 2023-10-30)</li><li>山口博之『山寺立石寺―霊場の歴史と信仰―』吉川弘文館 2021年</li><li>時枝務『山岳考古学―山岳遺跡研究の動向と課題―』ニューサイエンス社 2011年</li></ul><p></p><p><br /></p></div>吉川宗明http://www.blogger.com/profile/15618688408266963929noreply@blogger.com0日本、〒999-3301 山形県山形市山寺 千手院38.318019199999988 140.443137110.080642890686647 105.2868871 66.555395509313328 175.5993871tag:blogger.com,1999:blog-7469619715096703423.post-7797939481440353452023-10-23T16:57:00.008+09:002023-10-23T17:12:54.953+09:00「寒河江の巨石文化遺跡ストーンサークル」と姥石(山形県寒河江市)<iframe height="300" src="https://www.google.com/maps/d/u/0/embed?mid=1b8T8jIKZl9X6bVQkpBJErwm5JCE&ll=38.3719, 140.27187&ehbc=2E312F" width="300"></iframe><br />山形県寒河江市元町 八幡原第1号公園<div><p><br /></p><p>JR寒河江駅の西約200mに「巨石文化遺蹟之碑」が建つ公園が存在する。</p><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjBo_hHjJWLN51GrxrNVlSnZ1fZT5_6E7h-IWO6wyL96giUb0mQRgBvqwxhyj_vw2cjHD3vbysDIknm9D6B7O2eI2mtPyh2d01TE6-aSSA-DEtsblZojk7DghvE0FOcVULfk2UrMcD-koZKmUvl1vPW9VUS6HFSxEgudSUtLVUjN-njFKejDXWsH1yz6Ibd/s5472/DSC07890.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjBo_hHjJWLN51GrxrNVlSnZ1fZT5_6E7h-IWO6wyL96giUb0mQRgBvqwxhyj_vw2cjHD3vbysDIknm9D6B7O2eI2mtPyh2d01TE6-aSSA-DEtsblZojk7DghvE0FOcVULfk2UrMcD-koZKmUvl1vPW9VUS6HFSxEgudSUtLVUjN-njFKejDXWsH1yz6Ibd/s16000/DSC07890.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">公園入口から撮影。</td></tr></tbody></table><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEidpkVf67oWplb2FD96ZPOxLuCJhTmLJpoqZEWA587uqlGpe3NoxGQPEC1SA7s8jagHiuPPd3uNKrR8tj7JFkAJ1_v_Fn8CbCied5rIpT0iT2VWESbDol0zzXLuBC6UfQWMKIKldpi8Bryi6jelSn_GwD_D3e3iIleSF-O7H2jEOoL5GTQRvg0DJdAsr8-u/s5472/DSC07887.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEidpkVf67oWplb2FD96ZPOxLuCJhTmLJpoqZEWA587uqlGpe3NoxGQPEC1SA7s8jagHiuPPd3uNKrR8tj7JFkAJ1_v_Fn8CbCied5rIpT0iT2VWESbDol0zzXLuBC6UfQWMKIKldpi8Bryi6jelSn_GwD_D3e3iIleSF-O7H2jEOoL5GTQRvg0DJdAsr8-u/s16000/DSC07887.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">大小の岩石が間隔をあけながら散在する。</td></tr></tbody></table><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhk9lI11j6_WKT5-MdsYikUzaNOcGFlWcesmPf9DeEDpcHi66CBWxp3hgRMhGFcvK0WrHH9rAAJNBKjO7il4JrLHTSTrXVpdVAw0DaWO5fWf3R8RIPnE0IplVkqPp_NkiFn2PhnRTEAFifI8_eZUr18msDtJuWTQCzbG-ywQ8bcP7owasm4fc5sgLSNZO5w/s4898/DSC07902.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3265" data-original-width="4898" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhk9lI11j6_WKT5-MdsYikUzaNOcGFlWcesmPf9DeEDpcHi66CBWxp3hgRMhGFcvK0WrHH9rAAJNBKjO7il4JrLHTSTrXVpdVAw0DaWO5fWf3R8RIPnE0IplVkqPp_NkiFn2PhnRTEAFifI8_eZUr18msDtJuWTQCzbG-ywQ8bcP7owasm4fc5sgLSNZO5w/s16000/DSC07902.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">岩石の一つ</td></tr></tbody></table><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjplGnrrToDdFoxDeEwj_yXexRMdIFKzaNLI9E0-zB3PeQz7GJKhPl5TKFZZkvbvSkLU597GrGEyfLAMlrtKFvhl3VgaU3wx0oiXYzwUfObf-wzZEbd27zAm18KZWhsHSS0o9rtAwsCdz3Z9IZnPQ0qWqZtAUYXZsEDRAwWxc5LyYkJ9wGqaocRX-NFj0h8/s5472/DSC07904.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjplGnrrToDdFoxDeEwj_yXexRMdIFKzaNLI9E0-zB3PeQz7GJKhPl5TKFZZkvbvSkLU597GrGEyfLAMlrtKFvhl3VgaU3wx0oiXYzwUfObf-wzZEbd27zAm18KZWhsHSS0o9rtAwsCdz3Z9IZnPQ0qWqZtAUYXZsEDRAwWxc5LyYkJ9wGqaocRX-NFj0h8/s16000/DSC07904.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">中央の岩石</td></tr></tbody></table><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgHuf6HZwzNCrYV0_ML-YvhWvy5I5Q-HSTsbYoXrP-7GWKEfojLTCwOe5L_JPMwOCs8vpa2nWyQ8zWvM0BFZAyw-QItHh_HQwyJevxx4yR5uK_rdZ7iyYDBXBsBlByBNdD8niIu3I7XLKS0Ig5NUOXCrgrz7p5Wce99RN91mGiOz2vwgu5b564vUasT82th/s5472/DSC07898.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="5472" data-original-width="3648" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgHuf6HZwzNCrYV0_ML-YvhWvy5I5Q-HSTsbYoXrP-7GWKEfojLTCwOe5L_JPMwOCs8vpa2nWyQ8zWvM0BFZAyw-QItHh_HQwyJevxx4yR5uK_rdZ7iyYDBXBsBlByBNdD8niIu3I7XLKS0Ig5NUOXCrgrz7p5Wce99RN91mGiOz2vwgu5b564vUasT82th/s16000/DSC07898.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">公園に建つ1934年の石碑</td></tr></tbody></table><br /><p>この地はかつて八幡原の地名で知られ、この「巨石文化遺跡」を八幡原遺跡などと呼び、東北地方のストーンサークル事例の一つに挙げる時代もあった。</p><p>事の発端は、山形県の学校教員で郷土史家だった堀場義馨氏が当地に散在していた巨石群に着目し、その内容を「巨石文化の遺蹟 ストーンサークル(環状石籬)の発見」と題して1932年に発表したことによる。</p><p></p><blockquote><p> 調査の結果によると、石質は安山岩と、集塊岩と、凝灰岩質礫岩の自然石で、三種類とも葉山邊から運ばれたものらしく、多大の人力を要した、人為的の移動と、其の配置によって造られたものであるらしい。<br />(略)<br />去る大正9年から10年にかけて、政府が奥羽鉄道左澤支線を敷設することになって、寒河江停車場を建設せる時に、此所を土砂採り場としたから、突然盛土の下から兼ねて隠れて居た巨石が発見されたが、其の不可思議な巨石が如何なるものであるのか見解もつかず、今日まで疑問の中に葬られて居たものである。<br />(略)<br />勿論述者は浅学非才、殊に田舎者のことなれば、見聞も狭く、誤認や独断に陥って居るかもしれないから、世の博識なる先輩諸兄の実地調査と、其の御研究によって、是正を得ることが出来たならば、自分は勿論人類学界の爲めにも、誠に喜ばしいことと思はれる。</p><p style="text-align: right;">(堀場 1932年)</p></blockquote><p></p><p style="text-align: left;">堀場氏はこの巨石群を人為的遺構として紹介して実測図も作成しつつも、その判断には誤認もあろうことから他研究者の批判を願ってもいた。</p><p>その後、1952年に考古学者で巨石信仰の研究に長じた大場磐雄氏が来県し、自身の調査メモ『楽石雑筆』にて現地所見を次のように記した。</p><p></p><blockquote><p> 先づ注目すべきは、巨石の存せる位置にして、前述の如く砂礫採掘のため発見せる丘陵の一部にして、今も砂の上に露呈せり、而して最初はその上に砂礫層の覆ひ居るものにして、今これを調査するに、南方において1.75米、東北方においては1.60米、西側においては1.4米を算す、又現在の巨石の大いさを見るに、中心のもの高1.35米、南方の最高のもの1.95、その他1.45、1.35米を算するを以て最高のものすら殆んど頭部を露出し難く、他の小石小玉にては全く砂礫中に没し去るべし。この砂礫層の堆積が巨石樹立後と決定すれば問題は別なれど恐らくこれは寒河江河支流の流れ来りしものならむ。これ不審の第一なり。</p><p> 次にこの形状は後世人為的移動を行いてるを以て些か疑はしけれど、仮にかかる形状なりとすればその規模大形にして、類似のものは北海道三笠山麓のものと類似を見る外内地には類例なし。更にこの附近に確実に遺物の発見なきは不審の一にして、これ等の解決をまちて決すべきものと思考す。ただ問題はこの附近を姥石と称することにして、恐らくは同様の名称を有せし石の信仰ありしならむ。又八幡原と称する如く、信仰に関係を有する地なるを以て或はこの方面より別種の解釈を見ることもあるならんか。</p><p style="text-align: right;">(大場 1952年)</p></blockquote><p></p><p style="text-align: left;">大場氏は、この巨石群が砂礫層の中に埋もれていた点と、考古学的に確実な遺物の出土がみられない点を踏まえて、寒河江川の運んだ自然堆積の土砂と流されてきた岩石の一部なのではないかという可能性に触れた。</p><p style="text-align: left;">なお、大場氏は古代信仰に造詣の深い関係で「八幡」と「姥石」の存在にも着目しているが、八幡神や姥伝説を縄文時代の遺跡として直結することは危ういだろう。</p><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEikF1hBwTvOIhPEENh4j7Bao3OQdNDZWnZeaTLZTfccrgs8AzKZo4NlrDyRmgfN_zA9tGmchnun7cSH1MgOS3oNaSoim-wF18vsgw_7lKta9A40RvAXF7K1N7YaXPhL-7kfky8C48tzX8vJPtBSxEGEaKUyPshfhWYyn3R8m7t6GCztXkUHod8REDcalFQe/s5472/DSC07894.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEikF1hBwTvOIhPEENh4j7Bao3OQdNDZWnZeaTLZTfccrgs8AzKZo4NlrDyRmgfN_zA9tGmchnun7cSH1MgOS3oNaSoim-wF18vsgw_7lKta9A40RvAXF7K1N7YaXPhL-7kfky8C48tzX8vJPtBSxEGEaKUyPshfhWYyn3R8m7t6GCztXkUHod8REDcalFQe/s16000/DSC07894.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">公園北東隅に安置されている姥石</td></tr></tbody></table><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjYwOF2PuoGFu3pT31MQBy0vXp9XJtBUcfAds_1kr3nntHYbBxqlH08I8iQeHL1unpf_3j4yJc3PKOV1WecFIXXHHOUNA7oNdkIxBVezopk1TLuXUSKzTZdW30BL5GZZItctTkHFEbeRPnBwvgVJViaFJSJCx33-_hyphenhyphenIwGXHqM63k31qKHpvaFsW0TAj8nY/s5472/DSC07895.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjYwOF2PuoGFu3pT31MQBy0vXp9XJtBUcfAds_1kr3nntHYbBxqlH08I8iQeHL1unpf_3j4yJc3PKOV1WecFIXXHHOUNA7oNdkIxBVezopk1TLuXUSKzTZdW30BL5GZZItctTkHFEbeRPnBwvgVJViaFJSJCx33-_hyphenhyphenIwGXHqM63k31qKHpvaFsW0TAj8nY/s16000/DSC07895.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">一時期、別の場所へ動かされていたのを元の場所へ返還したという流浪の岩石。</td></tr></tbody></table><br /><p style="text-align: left;">さらに1959年、北海道の縄文時代研究に優れ『日本の巨石文化』(学生社 1973)の著作でも知られる考古学者の駒井和愛氏は、この巨石群にトレンチを設定して発掘を試みて、その結果を次のように記した。</p><p></p><blockquote><p> 私は山形大学の柏倉亮吉教授とともに、土地の人の話や、上記実測図で原位置を保っていると考えられる平たい巨石二つほどを選び、これを調べるとともにサークルの内側に幅二メートルのトレンチを二本、直角に交るように鑿ってみた。</p><p> この二つの巨石の周囲をみると、粘土状の地山の上に砂と礫とが積もり、その上に恰も流水によって運ばれたもののように巨石がのっていた。これに対して、他の立石の類は、腐触土のなかにすこしばかり入っているにすぎないか、或はまた横に平たかったものを縦位置に変えたようなものでしかなかった。</p><p> またトレンチは深さ腐触土六、七十センチにして石の腐った粘土状の地上に達するが、何等の遺物も無い。すでに湧水も多く、砂や礫も少なく無い。到底墳墓などの営める土地でないことが知られたのである。</p><p> 以上のことから、寒河江のストーン・サークルなるものは、もと河底であったところに砂礫とともに巨石が転がり来たって、群集し、のち水の流れが変って河の底にも土がつもって、土のなかに砂礫を含み、土の上に自然と巨大な石が首を出していたようなもので、決して人工のものではないことがわかったのである。かの鉄道線路を敷設する時に、ここから砂や礫を取ったために、巨石だけが残り、その形が偶然サークルの状をなしていたために、土地の考古家の熱心によって、ストーン・サークルと名づけられるに至った。やがて石も余分のものをすて、足りないところへ補って、益々立派な形をなすようにつくられたのであろう。</p><p style="text-align: right;">(駒井 1959年)</p></blockquote><p style="text-align: right;"></p><p style="text-align: left;">大場氏の所見を裏付ける形で、巨石群の下はもともと川底であり、自然河川の大小の川原石の堆積が、後世の地理的環境の変化で「巨石遺構」「ストーンサークル」と主観的に判断されたという経緯が明らかになった。</p><p style="text-align: left;">点が3つ三角形に集まったら人の顔を直観してしまう人類の性(パレイドリア効果)である。真円でも等間隔の配置でもなくても、3個以上の岩石が円のように見えて、自らの主観に負けてそれを環状と認定してしまうことはあるだろう。その典型と言える。</p><p style="text-align: left;">現在の風景だけを見て巨石のおりなす雰囲気にのまれ、こうあってほしいという主観で歴史を語るのは、みわたせば現代人も一緒である。</p><p style="text-align: left;"><br /></p><p style="text-align: left;">主観にもたれつつも後世の批判的研究に審判を委ねる堀場氏、巨石信仰に親和的な立場でありながらも自然成因説で研究対象に冷静な視点を忘れない大場氏、実際に考古学的調査へ乗り出して事実をもって判断する駒井氏、いずれの研究姿勢も現在の岩石信仰研究において学ぶべきところが多いのではないか。</p><p style="text-align: left;"><br /></p><p><b>参考文献</b></p><p></p><ul style="text-align: left;"><li>堀場義馨「巨石文化の遺蹟 ストーンサークル(環状石籬)の発見」 『郷土研究叢書』第3輯,山形県郷土研究会,昭和7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1209273 (参照 2023-10-23)</li><li>茂木雅博(書写・解説)・大場磐雄(著) 『記録―考古学史 楽石雑筆(補)』博古研究会 2016年</li><li>駒井和愛『音江 : 北海道環状列石の研究』,慶友社,1959. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2991466 (参照 2023-10-23)</li></ul><p></p><p><br /></p></div>吉川宗明http://www.blogger.com/profile/15618688408266963929noreply@blogger.com0日本、〒991-0053 山形県寒河江市元町38.3722815 140.27165610.062047663821154 105.11540600000001 66.682515336178852 175.427906tag:blogger.com,1999:blog-7469619715096703423.post-51646918927219557042023-10-16T00:37:00.005+09:002023-10-17T01:10:33.366+09:00湯殿山の御宝前と岩供養(山形県鶴岡市)<iframe height="300" src="https://www.google.com/maps/d/u/0/embed?mid=1b8T8jIKZl9X6bVQkpBJErwm5JCE&ll=38.54151, 139.98615&ehbc=2E312F" width="300"></iframe><br />山形県鶴岡市田麦俣<p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">御宝前</span></h2><p><br />出羽三山の湯殿山は、岩石を「御宝前」と呼んで中近世には湯殿山大権現、明治以降は湯殿山神社本宮そのものとしてまつった。</p><p>松尾芭蕉が「語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな」と詠んだように、修験の秘所によってそこで見たことは他言無用といい、現在も湯殿山の神域で写真撮影はできない。</p><p>とはいえ、すでにこれまで著された数々の文献に湯殿山の記述や研究は散見されており、自治体史である『朝日村誌』1巻(1964年)巻頭には御宝前の岩石の写真が堂々と掲載されている。<br />(同様の写真はかつて絵葉書でも販売されていたらしい)</p><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiGABbJXvZTFjjSvPw4HEuwpNxayZ81IZEtlbXOM1e9x7_1MUU_tZswGJ3f6BIZ4P_187RmTmPmTi37jakInj98loOIzIQI_JEbuVNKVTHKn83fotX36ZWSLeVhvEmLGFX6BtNkTpBcvQ1OUMLur36JWh8vUEtqMBSZcag8Rh4DnC3KP27mAE7BsK7f8cww/s5472/DSC07866.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiGABbJXvZTFjjSvPw4HEuwpNxayZ81IZEtlbXOM1e9x7_1MUU_tZswGJ3f6BIZ4P_187RmTmPmTi37jakInj98loOIzIQI_JEbuVNKVTHKn83fotX36ZWSLeVhvEmLGFX6BtNkTpBcvQ1OUMLur36JWh8vUEtqMBSZcag8Rh4DnC3KP27mAE7BsK7f8cww/s16000/DSC07866.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">現・湯殿山神社本宮</td></tr></tbody></table><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjlEYc8F2mi0qMVamCZEXbGFyA9HViZ7-DPbuN-86RoNRkAgHt0_tETQ2rSNTpeI607OtqdL_Zu02LSyJgPCJ1IgM-kLbXvfIkIYGBb0kessI1D7TzeGf7aBI1okGLYNQSVjp2wfZXR3hC8gHS8O54B3aXXhukcgHoLKzy1Bemql1KJEAR1x0M3NXd7T3nK/s5472/DSC07871.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjlEYc8F2mi0qMVamCZEXbGFyA9HViZ7-DPbuN-86RoNRkAgHt0_tETQ2rSNTpeI607OtqdL_Zu02LSyJgPCJ1IgM-kLbXvfIkIYGBb0kessI1D7TzeGf7aBI1okGLYNQSVjp2wfZXR3hC8gHS8O54B3aXXhukcgHoLKzy1Bemql1KJEAR1x0M3NXd7T3nK/s16000/DSC07871.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">湯殿山の北向いにそびえる品倉山の岩崖。湯殿山御宝前と成因・規模は非なるものだが写真として唯一擬することができるもの。</td></tr></tbody></table><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgVrn9bSGAqjog2wjr2Q_TifdnGidb6xWiHpYKb1rrZqPPzircd8KY4TCjUl0akEDAi_33WZRkG7SOVfRvTMLJLlXwLQZEzC-BpNgOe2j-ZQweaau1-Z_BuLIEj6oMYV6HgK5bHsRLdSYgLtmq9QVLfIS2AxsrSrs7zOh51i8jkqauIgWt6iqn2fRF-rEHk/s5472/DSC07875.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgVrn9bSGAqjog2wjr2Q_TifdnGidb6xWiHpYKb1rrZqPPzircd8KY4TCjUl0akEDAi_33WZRkG7SOVfRvTMLJLlXwLQZEzC-BpNgOe2j-ZQweaau1-Z_BuLIEj6oMYV6HgK5bHsRLdSYgLtmq9QVLfIS2AxsrSrs7zOh51i8jkqauIgWt6iqn2fRF-rEHk/s16000/DSC07875.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">これより先は撮影禁止。</td></tr></tbody></table><br /><p>山本謙治氏は「湯殿山の陰陽石」(1991年) で、御宝前を陰と陽から成り立つ陰陽石とみなして、美術史研究の立場からその造形も含めて詳細を論じている。類書に比して具体的であるため、山本氏の表現を用いて次にまとめよう。</p><p><br /></p><p></p><ul style="text-align: left;"><li>陰陽石(御宝前)の高さは正面からみて目測3m前後、幅6mほど。</li><li>輪郭は円錐形に近いが、頂上部は平らになっている。</li><li>岩肌に鋭角面はなく柔らかな曲線で構成される。</li><li>岩肌の色は赤土色であるが、それよりも、肉の内部の色という表現がふさわしい。</li><li>岩石は全体が濡れ光り、頂から湯が流れ出して白煙がたちのぼる。</li><li>陰陽石は、正面に見える円錐形の岩石と、右横に少し下がった所にコニーデ型の岩石が見えて、そちらは頂が平らではなく大きな窪みをもち、なみなみと湯を湛えている。</li><li>陰陽石の左側から登り口があって、素足で巡拝できるが足裏には相当に熱い。</li><li>上に登ってから正面の岩石の頂面を見ると、木立や覆いで正確にはわからないが、半畳よりは広い平面で、手前に三か所ほどの湯の湧出口が一列に並んでいる。</li></ul><p></p><p><br /></p><p>私が現地で目にしたのもこのような光景であるが、岩石の頂面を観察することは多数林立する梵天の存在によって難しく、湧出口を3つとも特定することはできなかった。また、山本氏は高さ3mでそこまで大きくないとするが、私の目測では5mはあるのではないかと思う。</p><p>ちなみに君島武史氏の湯殿山の観察報告(1996年)では、岩石の高さを4mほどと記している。今は3~5mほどという認識でいたい。</p><p><br /></p><p>さて、これらの観察を踏まえて山本氏は、御宝前を正面の「陽」と右横に並ぶ「陰」を併せ持った神体石だと考えている。</p><p>では性神かと単純に判じるものではなく、かつて行者は御宝前から湧き出る湯穴を出湯の神やクナドの神などと唱えて拝んだという話から、クナド(岐)の境界神としての性格も混在していることも指摘している。</p><p>どのような境界かと具体的に問うならば、湯殿山が即身成仏のできるところや祖先に会うことができる場所としての信仰を考慮して、山中他界の境界としての聖地だったのではないかと推測している。</p><p><br /></p><p>御宝前とはどのような場であったのか。このように温泉が噴出する特異な岩石信仰は類例を聞かないに等しい。</p><p>御宝前という語は仏教用語由来の一般名詞だが、岩石の手前のまつり場をそう呼んで後世に岩石を含めた名称となったか、岩石は神そのものではなく神体で岩石自体を御宝ではなく御宝前とみなしたのか、名称の解釈も考えどころである。</p><p>前者であれば岩石は神仏そのものであり、後者であれば岩石は山中境界としての媒体と言える。</p><p>少なくとも仏教・神道体系に組み込まれてからの御宝前は後者に近いだろう。岩石が神仏そのものではなく、信仰対象は大日如来であり湯殿山大権現であり、その霊威の可視的な顕現として岩石が存在するからだ。仏名・神名がつけられる前の時代の受け止め方はまた異なった可能性がある。</p><p><br /></p><p>目に見える霊験として突出する温泉水はすでに科学的な分析がなされており、成分は炭酸含有食塩泉で温度は52℃という(安斎 1965年)。</p><p>52℃であればたしかに裸足の参拝で相当熱く感じるのもうなずける。私は8月の気温35℃の猛暑日に参拝したので岩肌の日光の照り返しでさらに熱く感じたものだが、季節によって感受する信仰要素はまったく変ずる。</p><p>冬場には雪で埋もれる湯殿山で、御宝前だけは温泉で常に雪解け、その肉色と白煙の奇観を曝し続けるわけである。安斎氏の前掲書では「冬になりますと、このご神体付近に温泉のぬくもりを慕って蛇がたくさん集まり、奇観を呈するといわれております」(安斎 1965年)とあり、なおのことだろう。</p><p>蛇については他に「湯殿山御宝前の梵天に蛇が集まると、出水の前兆で、小屋を片づけて下山するといふ」(西川 1943年)という俗信もある。御宝前の横に切り立つ御澤の滝なども含め、岩石単体のみならずそれに付随する自然環境の集合体として信仰聖地は成立し、そのなかで岩石信仰を位置づける必要がある。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">岩供養</span></h2><p><br />現・湯殿山本宮の拝所の東に隣接して「岩供養場」がある。</p><p>個人の戒名や先祖供養の字を記した紙(紙位牌/形代)を、水に浸したうえで霊祭所の側面に露出する岩肌へ貼り付ける。現状として無数の紙が貼りつけられて岩肌が隠れるほどである。</p><p>岩供養の風習については、山形県立石寺(山寺)などにみられる岩塔婆(岩肌に塔婆状の墓碑を彫るもの)との共通性を説く向きもある(大友 1976年)。</p><p><br /></p><p><b>参考文献</b></p><p></p><ul style="text-align: left;"><li>渡部留治 編著『朝日村誌』第1 (湯殿山),朝日村,1964. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3015517 (参照 2023-10-15)</li><li>山本謙治「湯殿山の陰陽石」 日本環太平洋学会 編『環太平洋文化 = Journal of Pacific Rim studies』(2),日本環太平洋学会,1991-04. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/4426199 (参照 2023-10-15)</li><li>君島武史「報告 出羽三山大会(山の考古学研究会)に参加して」 『博古研究』(12),博古研究会,1996-10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/4426444 (参照 2023-10-15)</li><li>安斎秀夫 著『東北の温泉』,保育社,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2985535 (参照 2023-10-15)</li><li>西川義方「出羽三山の重大使命」 『岳』,山と渓谷社,1943. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1043654 (参照 2023-10-15)</li><li>大友義助「羽州山寺の庶民信仰について」 山形県立博物館 編『山形県立博物館研究報告 = Bulletin of the Yamagata Prefectural Museum』(4),山形県立博物館,1976-03. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3465749 (参照 2023-10-16) </li></ul><p></p><p><br /></p>吉川宗明http://www.blogger.com/profile/15618688408266963929noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7469619715096703423.post-15758051481093043422023-10-08T22:53:00.001+09:002023-10-08T22:54:45.199+09:00金生山の石灰岩群(岐阜県大垣市)<iframe height="300" src="https://www.google.com/maps/d/u/0/embed?mid=17POtLIleQCZu9c-sh7T6syqbB-Y&ll=35.40061, 136.57789&ehbc=2E312F" width="300"></iframe><br />岐阜県大垣市赤坂町<br /><p><br /></p><p>「赤坂の虚空蔵尊」などの名で親しまれる明星輪寺は、金生山(かなぶやま/きんしょうざん)の山塊をなす石灰岩の奇岩怪石に彩られる。</p><p></p><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi6VLPyasAZwdi4MO8EKLMLnyi7AuRK1rPW3_6JV7iMNwNTktZ3HmxISyOhLhz1ReagGgZl4tPg5FopYTwJ1fSSE2A9BatwLXqZi81O8c_BwlpG7BZ5kXuAvRL9pn5sk0qgqI2uo24-Xor0sWyWmyv5yYTbZiTEnjRNueS9AsPBjCwap-MxV3wpbVI2T0_N/s5472/DSC07731.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi6VLPyasAZwdi4MO8EKLMLnyi7AuRK1rPW3_6JV7iMNwNTktZ3HmxISyOhLhz1ReagGgZl4tPg5FopYTwJ1fSSE2A9BatwLXqZi81O8c_BwlpG7BZ5kXuAvRL9pn5sk0qgqI2uo24-Xor0sWyWmyv5yYTbZiTEnjRNueS9AsPBjCwap-MxV3wpbVI2T0_N/s16000/DSC07731.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">金生山(写真右:蔵王権現堂)</td></tr></tbody></table><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjx1CV5QhQjAfOwUkR012ZisV46u00kt2Qx1ozLqg0wrhfbTSrsm3MwTMfcDUwpE50j86rZU5L3DNdVQggYriLJSQ03zPF1tHHN7TxekXbiSD9HKACWCWH6-jaCCpKb0DECGuvWl-nWvSozcvPPQBT6OC27ZjXVgk7iXtiHmwu-1YOy5G7Olka0TcXUbkFq/s5472/DSC07763.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjx1CV5QhQjAfOwUkR012ZisV46u00kt2Qx1ozLqg0wrhfbTSrsm3MwTMfcDUwpE50j86rZU5L3DNdVQggYriLJSQ03zPF1tHHN7TxekXbiSD9HKACWCWH6-jaCCpKb0DECGuvWl-nWvSozcvPPQBT6OC27ZjXVgk7iXtiHmwu-1YOy5G7Olka0TcXUbkFq/s16000/DSC07763.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">岩巣公園内の一岩</td></tr></tbody></table><br />岩巣公園という現代名称で総括されるが、実際にはそれぞれの岩石にそれ以前からの名前がつけられている。<p></p><p>情報源によって錯綜しているところもあるが、現在わかっている範囲でまとめる。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">堂内内陣の岩屋/大蛇の絞め跡</span></h2><div>明星輪寺の本尊にかかわる伝説に基づく。</div><div>虚空蔵菩薩が若き修業の身の折、伊勢の娘に恋い慕われて大蛇に身を変じて菩薩を追いかけてきた。菩薩はほうほうのていで赤坂山の岩屋に逃げ込んだといい、その伝説地がこの岩屋である。</div><div>本堂の奥壁に岩肌が突き出ているが、岩屋全体は堂の中に収まる形態らしい。</div><div><br /></div><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEg1a3vO5X8GUz-suCoHaWmMMsYpDLau7P9uU6xq8oq-Ev6gx8TAtTpOmpVJFPEtr6etTGWFdN7RkRxE8aQuthnG6Kvs2cl2TFZwTCYTDQwuWub1_9-rmsmeSvqDKeMG1plm8NaijgbgalVspQDOEhRb-ftKstFKQbcZWGag2A8FpE9K0GeHi-4Bg3T2aeW4/s5472/DSC07728.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEg1a3vO5X8GUz-suCoHaWmMMsYpDLau7P9uU6xq8oq-Ev6gx8TAtTpOmpVJFPEtr6etTGWFdN7RkRxE8aQuthnG6Kvs2cl2TFZwTCYTDQwuWub1_9-rmsmeSvqDKeMG1plm8NaijgbgalVspQDOEhRb-ftKstFKQbcZWGag2A8FpE9K0GeHi-4Bg3T2aeW4/s16000/DSC07728.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">本堂内陣の岩屋</td></tr></tbody></table><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEitLZEjNvilwzMyNLNxMOTo2jQFSxY9Egs1om_fW0BcyPLmm2-igIAFEiZV2vmu_-ZKJk8fkTH9HksR0_fiVzM3BcSP97MXVC90Qm3tPNp4Ghn4r_NY6xCGpqkzZaLROUyRHi34o6vd9N7YCmN2aOwVJaHUPp1aKefTG9Zd2spJ3GtpVcajGbwYnPHrY-mZ/s5472/DSC07726.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEitLZEjNvilwzMyNLNxMOTo2jQFSxY9Egs1om_fW0BcyPLmm2-igIAFEiZV2vmu_-ZKJk8fkTH9HksR0_fiVzM3BcSP97MXVC90Qm3tPNp4Ghn4r_NY6xCGpqkzZaLROUyRHi34o6vd9N7YCmN2aOwVJaHUPp1aKefTG9Zd2spJ3GtpVcajGbwYnPHrY-mZ/s16000/DSC07726.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">大蛇の絞め跡</td></tr></tbody></table><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><br /></div><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEidPYwH6dXledFeo2i-VAoMrBJDM9gQtnL25TvmUaXNUOv9e8poxkhhVuYtFMbQrXsJavRskGYC5H5YXc5FFZedR4EWLCHLTV0grjKvCU0SZQz9wg8fZALqEfV_7jUPuPW3d0JBS3dcBPsufEVnZFzY8pPzjz5RpDCdVSBDJufVe2J8T0bo-6QAVhCMmLta/s5472/DSC07743.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEidPYwH6dXledFeo2i-VAoMrBJDM9gQtnL25TvmUaXNUOv9e8poxkhhVuYtFMbQrXsJavRskGYC5H5YXc5FFZedR4EWLCHLTV0grjKvCU0SZQz9wg8fZALqEfV_7jUPuPW3d0JBS3dcBPsufEVnZFzY8pPzjz5RpDCdVSBDJufVe2J8T0bo-6QAVhCMmLta/s16000/DSC07743.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">本堂の奥壁を斜面上方から撮影。岩屋は堂内に収まっていると判断できる。</td></tr></tbody></table><div><br /></div><div><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">権現岩/観音岩</span></h2></div><div>岩巣公園の中では、本堂の横に接して最初に見える岩である。</div><div><br /></div><div><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgUw1z1g09hDwJiImypnHdsetRwwpzST0USHNX7dhc_roQQ9XAwlN7vh4Sq4vt5MV5lZkf6KtnbvHzWf_8KW9J2SXrg5yuMVKUyRXRenqZq9DZLbv_OKRVgp9tl4KkqwalE5ldu1lxAuqqFkf__MxqjMjZQ2tLnIoSRO6RXeQmqd3CWGXU0lh62gnLqHLeb/s5472/DSC07733.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgUw1z1g09hDwJiImypnHdsetRwwpzST0USHNX7dhc_roQQ9XAwlN7vh4Sq4vt5MV5lZkf6KtnbvHzWf_8KW9J2SXrg5yuMVKUyRXRenqZq9DZLbv_OKRVgp9tl4KkqwalE5ldu1lxAuqqFkf__MxqjMjZQ2tLnIoSRO6RXeQmqd3CWGXU0lh62gnLqHLeb/s16000/DSC07733.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">写真右上の岩肌に、円形に光背をくりぬいて観音像が刻される。</td></tr></tbody></table><br />岩肌には観音像が彫られて現地には「観音岩」の標柱も建つが、ご住職にお話を伺ったところによると彫刻されたのはおよそ100年前の頃だろうとのことで、もともとは「権現岩」と呼ばれていた。</div><div><br /></div><div>たしかに金生山の昔の絵図を見ても、観音岩の名前は見当たらない。</div><div>絵図は時代別に複数あり、本記事の以降の岩石でも用いるため整理しておく。</div><div><br /></div><div><b>A.金生山明星輪寺境内之図(金生山化石研究会 1981年に所収)※以下、絵図A</b></div><div>山内の岩石群を描いたものとしてはもっとも古い鳥観図で、明治時代製作の銅版画とされている。</div><div><br /></div><div><b>B.絵図Aを元に後世加筆修正した絵図(寺院パンフレットに所収)※以下、絵図B</b></div><div>絵の構図、描写のほとんどが絵図Aを模したものだが、たとえば絵図Aでは役行者堂・御供所と記された建物が絵図Bではそれぞれ蔵王堂・愛宕社と題され書き直されている。また、地蔵堂の場所が移動して建て直されている。これらの点から、絵図Aを元にして時代の変化に合わせて再度作成されたものと思われる。</div><div>後述するように、複数の岩石において絵図Aと絵図Bで名前が書き直されており、岩石の名前も変遷したことが読み取れる。</div><div><br /></div><div><b>C.現地に掲示されている「金生山境内図」以下、絵図C</b></div><div>地蔵堂横の庫裡の壁面に掲示された絵図で、これも絵図A・絵図Bの構図を模したもの。昭和時代の製作と思われる。</div><div><br /></div><div><b><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh-BffA9yaeY0XLc67wU3zBEt5kllFWcN4qVSIE4IfrnvdEmGK22LkSbFfsta4KCab6gn3XQ9KfsHp1nwG4D7Yk1qujM2FK6nq3NBfoINt3PfXYwfM7b4mhnYrjDmJCVvgcScFmdwtXw-_ZDdR79zCSprF_Jao1bncdIm_vflQyf91CK3h70htgTZDf5pq2/s5472/DSC07721.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh-BffA9yaeY0XLc67wU3zBEt5kllFWcN4qVSIE4IfrnvdEmGK22LkSbFfsta4KCab6gn3XQ9KfsHp1nwG4D7Yk1qujM2FK6nq3NBfoINt3PfXYwfM7b4mhnYrjDmJCVvgcScFmdwtXw-_ZDdR79zCSprF_Jao1bncdIm_vflQyf91CK3h70htgTZDf5pq2/s16000/DSC07721.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">絵図C</td></tr></tbody></table><br />D.現地に掲示されている「岩巣公園案内」※以下、絵図D</b></div><div>岩石の配置を図化したものとしてはもっとも新しいもので、大垣市が岩巣公園を名勝指定した流れで建てたもの。看板としては平成時代の製作と思われる。</div><div><br /></div><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhYvAknIFRCy20M7BGaMdZfeAB2JZ8QrsJ3BImszj-pEIZALpNuRRrDrIzZZBgsto7o50dKk68D10LQPelfQ65r577s86Q1KIIb9N9k6U64tRz-QVGHGW4qbQPgpE2aBpgZBVKVA0Ou8nEdwsKjmdUkW7qMHV-4r2gRYcJAPySlsqxN-JlpQrZBCi2SRhyE/s5472/DSC07729.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhYvAknIFRCy20M7BGaMdZfeAB2JZ8QrsJ3BImszj-pEIZALpNuRRrDrIzZZBgsto7o50dKk68D10LQPelfQ65r577s86Q1KIIb9N9k6U64tRz-QVGHGW4qbQPgpE2aBpgZBVKVA0Ou8nEdwsKjmdUkW7qMHV-4r2gRYcJAPySlsqxN-JlpQrZBCi2SRhyE/s16000/DSC07729.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">絵図D</td></tr></tbody></table><br /><div><br /></div><div>権現岩の場合、絵図A・B・Cには「権現岩」と記され、絵図Dでようやく「権現岩(観音岩)」と丸括弧付けで観音岩の名前が登場する。</div><div>また、絵図Cでは岩肌に観音の彫刻が描かれるが、絵図A・Bでは彫刻の描写はない。このあたりからも、この岩石における権現→観音の位置づけの変化も見えてくるだろう。</div><div><br /></div><div>なお、上記4絵図は山内の岩石の配置を正確に描いたものではなく、訪れた私の実感では、むしろ現地の位置関係とかなり異なる。絵図の配置を信じすぎると逆に現地で迷うだろう。参詣時はそのあたり注意されたい。</div><div><br /></div><div><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">くぐり岩/廊下岩</span></h2></div><div>絵図Aでは「廊下岩」と記された場所が、絵図Bでは「星巖岩」(後述)と記され、地図Cでは「くぐり岩」「星巌岩」と2つの岩の名前が並列して記される。</div><div>この名称の混在はどうしたことか。少なくとも、現地ではくぐり岩と星巖岩とは別々に標柱が建てられているので別物と言える。</div><div>廊下岩という名称とくぐり岩という名称は、それぞれ通路上の道を通るという点で共通するため、くぐり岩と廊下岩は同一物を指すのではないかと推測する。</div><div><br /></div><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjdcrIOpV2pK5utkXwVQM9CV-twrm5FomaoiVIE3lnvNcSZq5brZUTcyQg0G7T7wLgW5mrUa7zuNuxKctDI8BehH8pqBmKmZYWLZFD7V648-Ryfvktqva7FMjoSrE3uvy_3M2R1USgQ1zMmaIl9at7XHIE8UEbFIWVMdw92snMLHAz0f0r03DZW3vgdPnqG/s5472/DSC07779.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjdcrIOpV2pK5utkXwVQM9CV-twrm5FomaoiVIE3lnvNcSZq5brZUTcyQg0G7T7wLgW5mrUa7zuNuxKctDI8BehH8pqBmKmZYWLZFD7V648-Ryfvktqva7FMjoSrE3uvy_3M2R1USgQ1zMmaIl9at7XHIE8UEbFIWVMdw92snMLHAz0f0r03DZW3vgdPnqG/s16000/DSC07779.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">くぐり岩(出口側/裏側から撮影)</td></tr></tbody></table><div><br /></div><div><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">ゴトゴト岩</span></h2></div><div>絵図A~Dすべてに登場して、位置関係も変わらない。現地に標柱もあるが、同サイズの無数の石灰岩がごろごろしており、どれを指すのか特定が難しい。ゴトゴトの名の由来も情報収集不足である。</div><div><br /></div><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi439YfCT1EKgZv-RyoYxA_XrVXkDtQzBL7dUatIg_XXueC5FFj2srzynEhIEHRUrKv57cSsmZ88c84g8UzT2bGs4FicQpvN6FrPiZeOqsjoo4N5dP84glMr3Wc2VzrXVt4dLcZeoBq0pWNbGinytcjxmpdOc9_ABZlrUKl5QY8Rpkw-nLxOpTg1Tqe7LF2/s5472/DSC07746.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi439YfCT1EKgZv-RyoYxA_XrVXkDtQzBL7dUatIg_XXueC5FFj2srzynEhIEHRUrKv57cSsmZ88c84g8UzT2bGs4FicQpvN6FrPiZeOqsjoo4N5dP84glMr3Wc2VzrXVt4dLcZeoBq0pWNbGinytcjxmpdOc9_ABZlrUKl5QY8Rpkw-nLxOpTg1Tqe7LF2/s16000/DSC07746.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">ごとごと岩の標柱。写真から外れた奥にも岩石の分布は続く。</td></tr></tbody></table><div><br /></div><div><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">見晴岩</span></h2></div><div>明星輪寺の庫裡で無償配布している『大垣市名勝 金生山岩巣公園―自然と生物―』(2020年)に、「見晴岩」の名と共に写真が掲載されており位置が特定できる、</div><div>名のとおり山頂から麓が一望できる場所に広がる露岩群を指すが、絵図にはいずれも記載がないため近年の命名と思われる。</div><div><br /></div><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhSWTFp5leK9DeLbXciYhFgPTe8fHejjgIbVhmbXUs3EQygID2bHqE9Mx-gw6TrilKz90hWP5DcmJNEuiK2-foG8jExiVXOh_4s8SICFfw1_KL-MaV87H828ABuTW-AWiWIwSui-Dvsgr2pM25QCX8gBgcyPBCddCgQKySx19LHIoNo7blTi97kfMOZV_4X/s5472/DSC07754.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhSWTFp5leK9DeLbXciYhFgPTe8fHejjgIbVhmbXUs3EQygID2bHqE9Mx-gw6TrilKz90hWP5DcmJNEuiK2-foG8jExiVXOh_4s8SICFfw1_KL-MaV87H828ABuTW-AWiWIwSui-Dvsgr2pM25QCX8gBgcyPBCddCgQKySx19LHIoNo7blTi97kfMOZV_4X/s16000/DSC07754.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">見晴岩</td></tr></tbody></table><div><br /></div><div><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">亀岩</span></h2></div><div>見晴岩の北に接して存在。岩肌に「亀岩 反対側から見てください」と看板がつるされており、反対から見ると甲羅状のこんもりとした岩石から亀の頭のように突き出ており、この姿形を亀とみたものである。</div><div>中日新聞の記事「『かめ岩』濃尾平野見渡す 大垣の金生山頂上、縁起物を見に観光客増</div><div>」(2022年7月9日付)によれば、ご住職が樹木伐採時に新たに発見・命名されたものと報道されている。</div><div><br /></div><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjiUxb_OV2Vz4WDstLpN7XpjQO7sMO4HS9xTTwr3mm73bVf43tI2RWQ8lbKBP5IvtCGcjrHpmkgugUSVoU167CUnqPSII8E3691u1a_Qg4Zy-H9OAze8wh62dci6v11yUYG08yhdQvc14uxgqG3tDQxjZy5sekLaUxN70lx2epOVbsWhwCclAN3A3Xra1Iy/s5472/DSC07751.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjiUxb_OV2Vz4WDstLpN7XpjQO7sMO4HS9xTTwr3mm73bVf43tI2RWQ8lbKBP5IvtCGcjrHpmkgugUSVoU167CUnqPSII8E3691u1a_Qg4Zy-H9OAze8wh62dci6v11yUYG08yhdQvc14uxgqG3tDQxjZy5sekLaUxN70lx2epOVbsWhwCclAN3A3Xra1Iy/s16000/DSC07751.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">亀岩(写真左)</td></tr></tbody></table><div><br /></div><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">天狗岩</span></h2><div><blockquote>「赤坂山の虚空蔵さん(明星輪寺)の境内にある岩巣公園の一番高いところにある天狗岩の上で、毎年正月元旦の朝早やく、まだ初日の出にならない前、真っくら闇みの中で一番鶏が鳴くという。それが金の鶏で、その鳴き声を聞いた人は、『その年一年間は縁起がよい』とされ、その金鶏の姿を見たら、それこそその人は一生涯幸運に恵まれる」(金生山化石研究会 1981年)</blockquote></div><div><br /></div><div>岩巣公園の奇岩群のなかでは珍しく伝説が付帯するのが天狗岩である。</div><div>全国各地に類例のある金鶏伝説の一事例であるが、この天狗岩についてはなぜか絵図A~Dに一切図化されていない。</div><div>岩巣公園の一番高いところにある岩というのがヒントで、『大垣市名勝 金生山岩巣公園―自然と生物―』(2020年)には写真と共に掲載があるが、岩の近景のため岩巣公園のどこに位置するものかがわからず特定できない。</div><div><br /></div><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">屏風岩</span></h2><div>絵図A~Dに一貫して登場。現地に標柱あり。</div><div><br /></div><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgjS4wdCDmFpBzmgdA5481K6EyooSS8OriZnFiga0S7IrxpkU4H3r6tdFUbM89riknGDHh9hewsCzHkJCsMFTidZJVR7myAhZmaCk63JMKGSEL4KDoeWNgc1W2KKXllY74VoQ-WzVogwPEjk2O63OuYNVGREror4X_uqusq9d2kNzkL32XYCQy7CWMF5py0/s5472/DSC07772.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgjS4wdCDmFpBzmgdA5481K6EyooSS8OriZnFiga0S7IrxpkU4H3r6tdFUbM89riknGDHh9hewsCzHkJCsMFTidZJVR7myAhZmaCk63JMKGSEL4KDoeWNgc1W2KKXllY74VoQ-WzVogwPEjk2O63OuYNVGREror4X_uqusq9d2kNzkL32XYCQy7CWMF5py0/s16000/DSC07772.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">屏風岩</td></tr></tbody></table><div><br /></div><div><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">不動岩</span></h2></div><div>不動明王像が彫刻された岩で現地に標柱も立つが、標柱が地面上ではなく不動岩とは別の岩石の上に置かれているため、なかなか見つけにくい。</div><div>不動明王の彫刻も、ある一定の方角からでないと拝みにくく、それが岩と岩の狭間を通る途中で横を向いて上の方に視線を向けると見つかる。</div><div>目印としては、咜枳尼天の堂を向かって右から堂裏に入った岩と岩の狭間から左上方の岩を仰ぐと見える。健闘を祈る。</div><div><br /></div><div><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjbl80IcCUXo-Xwa955Rwy6dvlkGP0wpMmxFDHq4MuRrJNBqFIKz0kzw-_v0IK8Nza11xFOEPKNudvOwOCvfxu6_p5Yp5pCD8LOVPrt2WTtjE0nvAsh2g-1jr1-PtuplDfsLNCvLd3pqMdgHzq62yY5Jto96AwGQ_rw0mNdyxWdkT4H0lNkqBwzeCLAzeTJ/s5472/DSC07776.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjbl80IcCUXo-Xwa955Rwy6dvlkGP0wpMmxFDHq4MuRrJNBqFIKz0kzw-_v0IK8Nza11xFOEPKNudvOwOCvfxu6_p5Yp5pCD8LOVPrt2WTtjE0nvAsh2g-1jr1-PtuplDfsLNCvLd3pqMdgHzq62yY5Jto96AwGQ_rw0mNdyxWdkT4H0lNkqBwzeCLAzeTJ/s16000/DSC07776.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">不動岩(写真左)と標柱(写真右)</td></tr></tbody></table><br />絵図B~Dには不動岩の名が記されるが、もっとも古い絵図Aには記載がない。</div><div>観音岩と同様、約100年前の彫刻とうかがったので、それが絵図Aにはない理由と考えられる。</div><div><br /></div><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">行者岩/行場岩?</span></h2><div><div>絵図Aには、不動岩の場所に「行者岩」という名が記されている。</div><div>では、不動岩の旧称は行者岩かというと、『大垣市名勝 金生山岩巣公園―自然と生物―』(2020年)では不動岩と行者岩が別々で写真掲載されているため、どうやら別物らしい。</div><div>同書掲載の写真を見ると、どうやら石灰岩の浸食風景が形成した岩陰空間の中をそう呼んだらしく、不動岩一帯の岩陰空間(下写真など)をそう呼んだ可能性もある。</div><div><br /></div></div><div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiibmY_Wvfq2nRrZR733bDRKGqPudzePklo9TnBFyPxO7YY0O_DCyF6vKvMuI4Eu0TwCioZDupXDJv2Y0ENWKa9ZOVEl_pKMTCbbt5SuGuHeQpaRIG1kxyFqPRqzSAYEnoq0UP9elpmwDCWx189lKC5xeKK_Za2-7ayU2AEKW2wtqRq4AgsxyaO-pXJLfPy/s5472/DSC07760.JPG" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiibmY_Wvfq2nRrZR733bDRKGqPudzePklo9TnBFyPxO7YY0O_DCyF6vKvMuI4Eu0TwCioZDupXDJv2Y0ENWKa9ZOVEl_pKMTCbbt5SuGuHeQpaRIG1kxyFqPRqzSAYEnoq0UP9elpmwDCWx189lKC5xeKK_Za2-7ayU2AEKW2wtqRq4AgsxyaO-pXJLfPy/s16000/DSC07760.JPG" /></a></div><br />なお、絵図Dでは「行場岩」という似た名前の掲載があり、見つけられていないが現地にも行場岩の標柱が立つ。</div><div>行場岩の名は他文献には載っておらず、名前の類似性から行者岩との混同も視野にいれたいところである。</div><div><br /></div><div><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">星巖岩</span></h2></div><div>現地にはひらがなで「せいがん岩」と書かれた標柱が立ち、現地でも比較的見つけやすい。</div><div>先述したとおり、絵図によっては廊下岩・くぐり岩と同じ場所のように図化されているものもあり情報が混線している。</div><div><br /></div><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgmS4EHTMQE_ixZbdyDy1OHYfNJCvEvjY_mAQKw9azBNTNnQqBNjnhUiYsbBjWOGlBKYFA4s1eb9tZVJPhi4VgrSb1vtddLLXDwv8WZL1aB_xVn6skuAoeKzgFFchH-h3jZcJyNAxtqkT_wl5rS9nbdREeqnclxzWufK0dBQxL4DzCl5GjNGy60StcJPjLl/s5472/DSC07762.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgmS4EHTMQE_ixZbdyDy1OHYfNJCvEvjY_mAQKw9azBNTNnQqBNjnhUiYsbBjWOGlBKYFA4s1eb9tZVJPhi4VgrSb1vtddLLXDwv8WZL1aB_xVn6skuAoeKzgFFchH-h3jZcJyNAxtqkT_wl5rS9nbdREeqnclxzWufK0dBQxL4DzCl5GjNGy60StcJPjLl/s16000/DSC07762.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">星巖岩</td></tr></tbody></table><div><br /></div><div><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">加持水岩</span></h2></div><div>咜枳尼天の堂入口の路傍にある。</div><div>自然の手水鉢のような形状をなし、水を湛える。</div><div>現地には「かじすい岩」の標柱が立ち、絵図Aでは「弘法大師加持水岩」とあるので弘法大師伝説が付帯した岩石とわかる。</div><div><br /></div><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgaquqED68_uOY1JpH5A4-phhZNEXRbEf8jmKu-czaI2Z3HbNTVBkoBab2VBuVbvjdXmTKcwwB1HlwDU-3qQe6BQGwvAGCnRP6oMbB8NTqENliGc-rePnk1bWpmBn5jqSnmrXY_joXszW9JF-wWHDJaYtwe5B5pWKyv-0iOEIGlJk4Z214-aP5VmFaI-XuC/s5472/DSC07766.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgaquqED68_uOY1JpH5A4-phhZNEXRbEf8jmKu-czaI2Z3HbNTVBkoBab2VBuVbvjdXmTKcwwB1HlwDU-3qQe6BQGwvAGCnRP6oMbB8NTqENliGc-rePnk1bWpmBn5jqSnmrXY_joXszW9JF-wWHDJaYtwe5B5pWKyv-0iOEIGlJk4Z214-aP5VmFaI-XuC/s16000/DSC07766.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">加持水岩</td></tr></tbody></table><div><br /></div><div><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">愛宕社横の石祠</span></h2></div><div>愛宕社の祠の向かって左に、石灰岩を寄せ集めてかまくら状の祠にした構造物がある。</div><div>内部に狐の置物や稲荷鳥居を供えていることから稲荷社と思われるが、絵図には一切登場せず標柱もないため正式な名前があるのかは不明である。</div><div><br /></div><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiwLvq_Hp0edGBea0WxuFGw0XZ7SWceYo-pFQmZffQ5c2X9Sln37zHV-kXvrWyb-z8Uu_en3LDjFBvILGCvnQVky_EIwwqUOuxi6Cebqmq0ZGGdV7pLfVC1F1mOdtRhPWn-w7O_ghyphenhyphen_ui67fMuc3T518sqZlMib2ldJ0JIy6I_GYvrgbiTdwrVtYDGeGSo-/s5472/DSC07768.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiwLvq_Hp0edGBea0WxuFGw0XZ7SWceYo-pFQmZffQ5c2X9Sln37zHV-kXvrWyb-z8Uu_en3LDjFBvILGCvnQVky_EIwwqUOuxi6Cebqmq0ZGGdV7pLfVC1F1mOdtRhPWn-w7O_ghyphenhyphen_ui67fMuc3T518sqZlMib2ldJ0JIy6I_GYvrgbiTdwrVtYDGeGSo-/s16000/DSC07768.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">愛宕社横の石祠</td></tr></tbody></table><div><br /></div><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">そのほか、名前が伝わる岩石</span></h2><div>『大垣市名勝 金生山岩巣公園―自然と生物―』(2020年)では、そのほかに「百足岩」という名の岩石が存在することを記すが、写真の掲載はなく他文献にも見られない名のため詳細位置は不明である。</div><div><br /></div><div>以上のように金生山の岩石群は、時代の経過によって岩石の名前や歴史がたやすく変容し、現代人が自然石と人の歴史を後から辿る難しさを如実に教えてくれる好事例と言える。</div><div>全国各地の事例においても、現代定説化している岩石の名前がいかに危うい信頼の上に立っているかということさえ感じさせてくれる。</div><div><br /></div><div><br /></div><div><b>参考文献</b></div><div><ul style="text-align: left;"><li>金生山化石研究会 編『金生山 : その文化と自然』,大垣市教育委員会,1981.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9670955 (参照 2023-10-08)</li><li>篠田通弘ほか[編・撮影]『大垣市名勝 金生山岩巣公園―自然と生物―』金生山自然文化苑保存会 2020年</li><li>寺院発行パンフレット</li><li>「『かめ岩』濃尾平野見渡す 大垣の金生山頂上、縁起物を見に観光客増」(中日新聞Web 2022年7月9日配信記事)<a href="https://www.chunichi.co.jp/article/504433" target="_blank">https://www.chunichi.co.jp/article/504433</a>(2023年10月8日閲覧)</li></ul></div><div><br /></div>吉川宗明http://www.blogger.com/profile/15618688408266963929noreply@blogger.com0日本、〒503-2213 岐阜県大垣市赤坂町 金生山35.401944 136.57757.0917101638211548 101.42124999999999 63.712177836178846 171.73375tag:blogger.com,1999:blog-7469619715096703423.post-14609056311365739822023-10-03T21:51:00.006+09:002023-10-03T21:51:50.207+09:00南宮大社の岩石信仰(岐阜県不破郡垂井町)<iframe height="300" src="https://www.google.com/maps/d/u/0/embed?mid=17POtLIleQCZu9c-sh7T6syqbB-Y&ll=35.3604, 136.52503&ehbc=2E312F" width="300"></iframe><br />岐阜県不破郡垂井町宮代<br /><p> </p><p>『延喜式』神名帳に「仲山金山彦神社」と記された美濃国一宮・南宮大社では、現在、境内に次の岩石信仰の事例を確認できるが、その仔細には不明点が多い。</p><p>以下、現時点でわかっている内容をまとめておく。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">引常明神磐境石</span></h2><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgxBstF50vBVEt1HXAZmAzCUtIPWco3VxyPDJB2uq-YQErlsDW4W6_RJam8l_pYSO01oKoxz3rRt4BEBkp_n1_CRWw6P5iql7-1dirxd7Xc75eIWNiAeHzhS3WNZkVYdkPsLAasvqruRtgzPf97CGWdoLjvo8gM_sJ15u1nUJDx61wqNFfHxv1EFeiPS0x5/s5472/DSC07802.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgxBstF50vBVEt1HXAZmAzCUtIPWco3VxyPDJB2uq-YQErlsDW4W6_RJam8l_pYSO01oKoxz3rRt4BEBkp_n1_CRWw6P5iql7-1dirxd7Xc75eIWNiAeHzhS3WNZkVYdkPsLAasvqruRtgzPf97CGWdoLjvo8gM_sJ15u1nUJDx61wqNFfHxv1EFeiPS0x5/s16000/DSC07802.JPG" /></a></div><br /><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEit3euD0-UX7M_j6YaSD2qnrhu38dZ-pU4LC2HAX7n2TKNQKcgwCSWJD2YxB4ZulbgtL_jhmlY4kDtKJP1qm4r8uUdjGgO5fW5d8cBYX4AK9Tb7WER6MWtt7ZEuR-TOksN8jF3U88lC7awrWY-kdy8ACJ7KIf8ByqC3HAcvWi0rmqSANXdHcJRb0kTuShI9/s5472/DSC07805.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEit3euD0-UX7M_j6YaSD2qnrhu38dZ-pU4LC2HAX7n2TKNQKcgwCSWJD2YxB4ZulbgtL_jhmlY4kDtKJP1qm4r8uUdjGgO5fW5d8cBYX4AK9Tb7WER6MWtt7ZEuR-TOksN8jF3U88lC7awrWY-kdy8ACJ7KIf8ByqC3HAcvWi0rmqSANXdHcJRb0kTuShI9/s16000/DSC07805.JPG" /></a></div><br />現地標柱によれば「昔の古神札に焼灰がこの下に埋められてある」という。<p></p><p>ではその上にある磐境石は、焼灰よりも新しく置かれたということになるのか。直下に埋めたのか、岩石の手前に埋めたのかで意味合いは異なるが、石壇の上に岩塊が置かれた様子から後代の設置はじゅうぶん想定される。</p><p>引常明神の名は『美濃国神名帳』(10世紀中ごろに成立。現在残るものは後世の改変が指摘されている)にみられるが、引常明神の正確な場所は後世にわからなくなっており、南宮大社の現地に引常明神をまつったかはあくまでも後世の比定によるものである。</p><p>磐境石についての歴史的記録は、管見のかぎりではまだ見つけられていない。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">石船社</span></h2><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhX19gT4mvKBshvJ31IYVHlTcOCiLiNvDqTNm-Kb9SRZSVTFExlfoHs0QIdgUNGJ4KnZ0Wbb4DCujK0CsHwmts5a6XCtX-3iP0nWSLhWDb_Af99gX8THNILkj68wLbGyS1QtzVcxd7I5oWN5Y_0RBe0WTSeNcr0Q0a9ShduO5O8ehXipr5BtbvjIC4wYOLe/s5472/DSC07795.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhX19gT4mvKBshvJ31IYVHlTcOCiLiNvDqTNm-Kb9SRZSVTFExlfoHs0QIdgUNGJ4KnZ0Wbb4DCujK0CsHwmts5a6XCtX-3iP0nWSLhWDb_Af99gX8THNILkj68wLbGyS1QtzVcxd7I5oWN5Y_0RBe0WTSeNcr0Q0a9ShduO5O8ehXipr5BtbvjIC4wYOLe/s16000/DSC07795.JPG" /></a></div><br /><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEitXyBBHf9q1mRZVexfcL3WomAxFOy6hT2tuF9fyxcwWhgH8vDXJPvlr1Zia2M6KBwKfa2_wagVbgUUx8onm5o8hA8eBrHdjUVE6o3zNp_A4MwMtwKMvyPTBGOk_I85d13rXSZgxl6XHvz71V4PhVtzNofUvPNRhTxuXXUHVX_xElqW9VA5hblHJJJPrEkX/s5472/DSC07794.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEitXyBBHf9q1mRZVexfcL3WomAxFOy6hT2tuF9fyxcwWhgH8vDXJPvlr1Zia2M6KBwKfa2_wagVbgUUx8onm5o8hA8eBrHdjUVE6o3zNp_A4MwMtwKMvyPTBGOk_I85d13rXSZgxl6XHvz71V4PhVtzNofUvPNRhTxuXXUHVX_xElqW9VA5hblHJJJPrEkX/s16000/DSC07794.JPG" /></a></div><br />金敷金床社の背後に併祀されている岩石を石船社と呼んでいる。<p></p><p>南宮大社の由緒板によると「古よりこの地に座す船形石で金床に似ている事からお祀りしています」という。</p><p>この社も『美濃国神名帳』掲載の「石船明神」に比定されているが、手前に鎮まる金敷金床社も含めて江戸時代後期にはすでに一度廃社となっていたため(『新撰美濃志』)、現在の風景は近代の復興によるものである。原位置を忠実に伝えていると言えるかは不明である。</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">南宮大社の駐車場横にある岩石</span></h2><p>タイトルのとおり、駐車場の横に注連縄を巻かれて、基壇の上に置かれた岩塊がある。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgCWPFB7YZtlvSC9-HSx6xQtz0xxUdQs12MBU5hw2o7FgCVHajjowDLc2ysvFnjX0Rk6gAL1C2yMWzkwzAevwfYYSFHgww7BRdUko2Jo-vFtu7pAlhtqef0oXrs8bl0qrWCilUTCyhczKUFztpBy9V45E3pUMLQVAyJSoqynv0yQP0MR3P84WV_wP2naAva/s5472/DSC07815.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgCWPFB7YZtlvSC9-HSx6xQtz0xxUdQs12MBU5hw2o7FgCVHajjowDLc2ysvFnjX0Rk6gAL1C2yMWzkwzAevwfYYSFHgww7BRdUko2Jo-vFtu7pAlhtqef0oXrs8bl0qrWCilUTCyhczKUFztpBy9V45E3pUMLQVAyJSoqynv0yQP0MR3P84WV_wP2naAva/s16000/DSC07815.JPG" /></a></div><br /><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjrTdshUQH0-IloeIxkr-9lAD-IDImZLVhkhl48Mn34cTCJnRbyVm15QtnJsrSMbEG8ayGV5tb7hPwvBDL4SoC9rctNv1GJxw8tJrZQxd_yyEyZhiXgDdnakJyjummWdQIQ5-m0poWhAJoBS4JvCfXqjSTsHQQOrqQZ6X0Q87GnNX8jhXYa9TUcVr9dFfXp/s5472/DSC07785.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjrTdshUQH0-IloeIxkr-9lAD-IDImZLVhkhl48Mn34cTCJnRbyVm15QtnJsrSMbEG8ayGV5tb7hPwvBDL4SoC9rctNv1GJxw8tJrZQxd_yyEyZhiXgDdnakJyjummWdQIQ5-m0poWhAJoBS4JvCfXqjSTsHQQOrqQZ6X0Q87GnNX8jhXYa9TUcVr9dFfXp/s16000/DSC07785.JPG" /></a></div><br />この岩石を知って約20年になるが、立地的にも目に入る存在ながら、ひとまずインターネット上では何の仔細も見つからない。<p></p><p>(情報募集中です)</p><p><br /></p><h2 style="text-align: left;"><span style="font-size: x-large;">子安神社の王子石、斎館の子宝石、鉱石奉納</span></h2><p>引常明神磐境石、石船社、駐車場の岩石、いずれもまだ情報収集不足であるが、文献記録でたどれるものがない。</p><p>一方で、南宮大社の岩石信仰として複数の文献で認められたのが、南宮山頂上近くに鎮座する子安神社の王子石である。</p><p></p><blockquote>子泰社 南宮神社裏山山上に子泰社あり、社前に黒丸石・白丸石が置かれている。王子石とも呼び、参詣者がこれを廻して男子の出生を祈る。又よき子宝を得、産が軽いと云う。いま、南宮斉館前に子宝石がある。これに祈願して手を触れると良い子が授かり安産によいと云われている。(『垂井町史 通史編』)</blockquote><p></p><p>私は南宮山に登っていないので現在もそのような2つの丸石があるのか確認していないが、文献に記された岩石と現在存在する岩石には記録の差がみられる。</p><p><br /></p><p>南宮斉館の子宝石についても追えていないが、現在ある南宮大社の斎館の向かい側には南宮大社の入口が面する。</p><p>駐車場の岩石を子宝石の候補とするには場所はやや離れているが、このように古く記録されていて現在は所在が明示されていない岩石と、現在存在する由来不明の岩石を追究していく必要がある場所である。</p><p><br /></p><p>なお、2002年に私が参拝した時は、南宮大社南門の垣内で「さざれ石」と共に多数の鉱石が奉納されている風景を目にしたが、2023年に再訪した際には「さざれ石」を残すのみで、その背後にあった鉱石の奉納は姿を消している。</p><p>おそらく別場所に遷されただけと思われるが、このことからも岩石信仰の景観は数十年単位で場所も所在も記録も移ろうという儚さを体現している。</p><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgLPQYYJHdMcc04SbsS_lO_Mx-E1dWXaEg6Me5H04k3xE3jH7AmcqOpmlDUXzQj4tgVhkw_yWVTPGScY4IduoRiHSw2aeTuA6R3wiXnw9enYFS-qXfQC37ivOmJF9HtXtHrv20XHgbtIcbEV1LFlWv-LYOr534NuDeUWJ_LVGAfkZF0W1LdVmDgXRSUzIhU/s640/%E5%8D%97%E5%AE%AE11%E9%87%91%E7%9F%B3%E3%81%AE%E5%B1%95%E7%A4%BA.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="480" data-original-width="640" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgLPQYYJHdMcc04SbsS_lO_Mx-E1dWXaEg6Me5H04k3xE3jH7AmcqOpmlDUXzQj4tgVhkw_yWVTPGScY4IduoRiHSw2aeTuA6R3wiXnw9enYFS-qXfQC37ivOmJF9HtXtHrv20XHgbtIcbEV1LFlWv-LYOr534NuDeUWJ_LVGAfkZF0W1LdVmDgXRSUzIhU/s16000/%E5%8D%97%E5%AE%AE11%E9%87%91%E7%9F%B3%E3%81%AE%E5%B1%95%E7%A4%BA.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">2002年撮影。鉱山・金属の神、南宮大社に相応しい光景と思ったが…</td></tr></tbody></table><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgBuhJ69hi1dmO319YxhPqfzT9KDnOnAiwA0dI40u_Vcud-LLgKNC2VqfG0No5kfObA6P6h4MZ-GqlExHpVRslvyHOVU2pMxcuDbQv-SQkLgtoAyNi2ZNz7IxCvdUiWRUHDgNzcwPJDcHkB0HNcbCLVJ9XzbwnvOsQTRo9bUrWTb11-M5czJOgysGl4YlCV/s5472/DSC07810.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgBuhJ69hi1dmO319YxhPqfzT9KDnOnAiwA0dI40u_Vcud-LLgKNC2VqfG0No5kfObA6P6h4MZ-GqlExHpVRslvyHOVU2pMxcuDbQv-SQkLgtoAyNi2ZNz7IxCvdUiWRUHDgNzcwPJDcHkB0HNcbCLVJ9XzbwnvOsQTRo9bUrWTb11-M5czJOgysGl4YlCV/s16000/DSC07810.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">同所を2023年に撮影。さざれ石の後ろの垣に鉱石群が展示されていたが今はない。</td></tr></tbody></table><br /><p><b>参考文献</b></p><p></p><ul style="text-align: left;"><li>岡田啓 著『新撰美濃志』,神谷道一,1900. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/993950 (参照 2023-10-03)</li><li>垂井町史編さん委員会 編『垂井町史』通史編,垂井町,1969. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9537022 (参照 2023-10-03)</li></ul><p></p>吉川宗明http://www.blogger.com/profile/15618688408266963929noreply@blogger.com0日本、〒503-2124 岐阜県不破郡垂井町宮代35.3562726 136.52107577.0460387638211515 101.36482570000001 63.666506436178842 171.6773257tag:blogger.com,1999:blog-7469619715096703423.post-40087067745926350832023-09-26T11:30:00.001+09:002023-09-26T11:30:00.133+09:00焼石神社(岐阜県揖斐郡池田町)<iframe height="300" src="https://www.google.com/maps/d/u/0/embed?mid=17POtLIleQCZu9c-sh7T6syqbB-Y&ll=35.43734, 136.52898&ehbc=2E312F" width="300"></iframe><br />岐阜県揖斐郡池田町 池田山(標高924m)9合目<br /><p> </p><p></p><blockquote><p>安政年間の旱魃に、池田山麓の村々の田畑の作物が枯れそうになり、飲み水にも困ったことがあり、それ以後の小寺村は最も雨乞に熱心であった。</p><p>昔から日照りの続くときは、池田山頂の焼石神社へ雨乞いに詣ることになっており、その年も村人たちは願成寺村内田要助、八幡村富田孫三郎を先頭に池田山へ登り、焼石神社に必死の雨乞祈願をした。その霊験か、山頂上空に黒雲が巻き起り、大雷雨となり、村人は命からがら下山途中薪小場へ避難した。そのとき富田孫三郎の家へ落雷し、同家はその火災によって焼失したという。しかし、その大雨によって農作物は生き返り、池田山麓の農民たちは喜び、これは焼石神社竜神のお陰だとして松明を村の石高に割当て、何百本と作って、大津谷、霞間ヶ谷、小寺シナヶ谷、藤代の山へと続いて、鉄砲を合図に一度にその松明に火をつけて、村々を挙げて、竜神の霊験に感謝してお祭りしたといい、その後も旱魃の度に焼石神社へ雨乞いをした(森武一記録)</p></blockquote><p></p><p><br /></p><p>上記述に岩石は登場しないが、1980年に「池田の森公園」が作られる前までは神社名の由来となった焼石と小祠があるのみだったという。岩石から端を発した神社だったことは異論ない。</p><p>焼石の名は、雨乞いの恩恵と裏返しの厄災としての落雷・火災と関連するものか。安政年間(1855~1860年)までの記録はたどれるようだが、それ以前の歴史はわからない。</p><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgKKlkBTJ-7YbX5mSiTs7CZ8WFnUUMbsFm2zq_4yOfOb7Co_c0gIcM0sq6bfP7jjo2IxLh_rBlcpW1Ztaqg-u29Z14yQCWoTrHa_pX98HE9-1-LhARjd-TqnNrIlb97_NEtSKa4Led8dWdKDkL94KfPQ-lz9wZhe4bwn-x71wLvITaKo6YsQzgHPP-utlzQ/s5472/DSC07710.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgKKlkBTJ-7YbX5mSiTs7CZ8WFnUUMbsFm2zq_4yOfOb7Co_c0gIcM0sq6bfP7jjo2IxLh_rBlcpW1Ztaqg-u29Z14yQCWoTrHa_pX98HE9-1-LhARjd-TqnNrIlb97_NEtSKa4Led8dWdKDkL94KfPQ-lz9wZhe4bwn-x71wLvITaKo6YsQzgHPP-utlzQ/s16000/DSC07710.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">焼石(上から撮影)</td></tr></tbody></table><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjdwDhaqTruV4nyFhBoEZKyq1wm32FSwgg_Ear7wRWzJdFKPdqN_uzzalKZdT3edjxqP5s52MdyqZSfyIhnSHcLEw7NYeKBR-Cqq9hKmjV57my87U5mD08cR5gNDldzI9K3rrsLlFg5Dgi12FZqEJdoAq-02bWf6c9Nry7NVoLevgYhIcFR3W9kUpK2Pekt/s5472/DSC07701.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjdwDhaqTruV4nyFhBoEZKyq1wm32FSwgg_Ear7wRWzJdFKPdqN_uzzalKZdT3edjxqP5s52MdyqZSfyIhnSHcLEw7NYeKBR-Cqq9hKmjV57my87U5mD08cR5gNDldzI9K3rrsLlFg5Dgi12FZqEJdoAq-02bWf6c9Nry7NVoLevgYhIcFR3W9kUpK2Pekt/s16000/DSC07701.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">焼石(下から撮影)</td></tr></tbody></table><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhLMcplQg-bgl1rUeoQKBVl75ptb6bYviYd59N8bIvI4RdT_5KPrZPhP4wdRbeS8nIIUirkbdVVbaUXEWExxVANGDixRETDkzkeiDB3aoW1oSeWZhdZpT034o6iqHPvcPZH50hzW9MTnQDy5I7Wi9ZGvl97SrSJEiTfuzqj2-YTN23031ijGv1pyFlxrDvA/s5472/DSC07709.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhLMcplQg-bgl1rUeoQKBVl75ptb6bYviYd59N8bIvI4RdT_5KPrZPhP4wdRbeS8nIIUirkbdVVbaUXEWExxVANGDixRETDkzkeiDB3aoW1oSeWZhdZpT034o6iqHPvcPZH50hzW9MTnQDy5I7Wi9ZGvl97SrSJEiTfuzqj2-YTN23031ijGv1pyFlxrDvA/s16000/DSC07709.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">本殿背後には別で岩石4個が横並びしている。</td></tr></tbody></table><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEikmnRHnOMyze49SrS4YsO2oELApvsHDFdJ4bZgAcsBGVOUM41L37cMgkSL0J377Q_Ue9LLWR4HXDjoNwDhFzfyzOrdgjTqRa3UvFH0gv-sUqyTlJ58N1cTd2MbruuTv9VwV3gwZxtcj7qnWVzbNXwDlni4pYVSqBVc-GCI2LJ4tsPAy_8Di56REl2aF4MF/s5472/DSC07684.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEikmnRHnOMyze49SrS4YsO2oELApvsHDFdJ4bZgAcsBGVOUM41L37cMgkSL0J377Q_Ue9LLWR4HXDjoNwDhFzfyzOrdgjTqRa3UvFH0gv-sUqyTlJ58N1cTd2MbruuTv9VwV3gwZxtcj7qnWVzbNXwDlni4pYVSqBVc-GCI2LJ4tsPAy_8Di56REl2aF4MF/s16000/DSC07684.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">社頭の雨乞い池</td></tr></tbody></table><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjd2w4Sni6WUNi99jEetxmZk9J-3mZBp1S7nFORED4LLFaxkSykw5dVTXq5VoyE5Qw-BCqIwNyBc_Cf1Qgwo7ES0nTudfZUrMBez1a_2b898-ZJG_He76tbpufxc6qskJo7GTXmXNn5A-p9uY36hv_hyEmTF8hA3KMhYieuPPXPPOqOYvp1PXBKsklmXdhm/s5472/DSC07685.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="5472" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjd2w4Sni6WUNi99jEetxmZk9J-3mZBp1S7nFORED4LLFaxkSykw5dVTXq5VoyE5Qw-BCqIwNyBc_Cf1Qgwo7ES0nTudfZUrMBez1a_2b898-ZJG_He76tbpufxc6qskJo7GTXmXNn5A-p9uY36hv_hyEmTF8hA3KMhYieuPPXPPOqOYvp1PXBKsklmXdhm/s16000/DSC07685.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">現地由緒板</td></tr></tbody></table><br /><p>なお、焼石神社へ至る県単林道 池田~明神線は2024年2月29日まで道路工事をしており、その期間内は曜日・時間帯によって通れない場合がある(日曜休工・平日時間規制通行止)。</p><p>現在の林道は部分的に非舗装で通りにくいところもあり、車で訪れるなら2024年3月以降をお薦めする。</p><p><br /></p><p><b>参考文献</b></p><p>池田町 編『池田町史』通史編,池田町,1978.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9537622 (参照 2023-09-25)</p><p><br /></p>吉川宗明http://www.blogger.com/profile/15618688408266963929noreply@blogger.com0日本、岐阜県揖斐郡池田町35.4423273 136.57305317.1320934638211568 101.41680310000001 63.752561136178848 171.7293031tag:blogger.com,1999:blog-7469619715096703423.post-81016940172779375272023-09-24T16:58:00.002+09:002023-09-24T16:59:41.954+09:00ウサギ岩とカメ岩/兎岩と亀岩(岐阜県不破郡垂井町)<iframe height="300" src="https://www.google.com/maps/d/u/0/embed?mid=17POtLIleQCZu9c-sh7T6syqbB-Y&ll=35.3982, 136.48993&ehbc=2E312F" width="300"></iframe><br />岐阜県不破郡垂井町岩手<br /><p><br /></p><p>明神湖の畔に2個横並びに置かれている。</p><p>道路から向かって右側(東側)がウサギ岩で、左側(西側)がカメ岩である。</p><p></p><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgxcz2SdTxO3B9qB7t-YM2Vpa2jGalDmimFEMXoHtNNpskQu5_XiVLfk4YYPFpXlRGOVRFejUKI7OajNMM5yd7LQmLXJFEE53Lbdpts0YZbJ2zolZspUg7zh3ju1ZOIeZ7wbWhMQ9JI5k-azn8j5rQ-Z8tuNZ06VdsRkhiFv4xFsgiWQESMoTMYPyZ-L9YX/s4898/DSC07834.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3265" data-original-width="4898" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgxcz2SdTxO3B9qB7t-YM2Vpa2jGalDmimFEMXoHtNNpskQu5_XiVLfk4YYPFpXlRGOVRFejUKI7OajNMM5yd7LQmLXJFEE53Lbdpts0YZbJ2zolZspUg7zh3ju1ZOIeZ7wbWhMQ9JI5k-azn8j5rQ-Z8tuNZ06VdsRkhiFv4xFsgiWQESMoTMYPyZ-L9YX/s16000/DSC07834.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">ウサギ岩(写真右)、カメ岩(写真左)</td></tr></tbody></table><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiJ_qbeW3uLhdzkfGqZVdcYCV3sWqeiKxfI-6dY4sHqTXeAfc5D43Ov7WYIeTK5JPf7TwaG_WBfvy6_zPpkrrABuzRzPqH1JUAImayPgbHfsrGEoTSIE2E22sJAvgI-ME5LjkCwoe7bzIRdAiW0yCkgu4arm4wcAbXS0hzI1Q6q3cEu8t4wR0K1y0M2JKgl/s4898/DSC07839.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3265" data-original-width="4898" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiJ_qbeW3uLhdzkfGqZVdcYCV3sWqeiKxfI-6dY4sHqTXeAfc5D43Ov7WYIeTK5JPf7TwaG_WBfvy6_zPpkrrABuzRzPqH1JUAImayPgbHfsrGEoTSIE2E22sJAvgI-ME5LjkCwoe7bzIRdAiW0yCkgu4arm4wcAbXS0hzI1Q6q3cEu8t4wR0K1y0M2JKgl/s16000/DSC07839.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">ウサギ岩</td></tr></tbody></table><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi8VLcSWTw6_qje_qySAFj6q2k0rGl-r_IxRFThnbxxYXwVfWA4DO0JV6mb35yj2d2Iu0jVxCqICIRavs0dr5FkWa0lCMDimU2rBuJFFBX1r0kY48xdmlpamFxc1S45IwxSDmpdxWZOZ42A8hZFzXPuXkp5AmbEaod1wMLsWHKdawjyZ2TQoTRsv1ivw3RE/s4898/DSC07838.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3265" data-original-width="4898" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi8VLcSWTw6_qje_qySAFj6q2k0rGl-r_IxRFThnbxxYXwVfWA4DO0JV6mb35yj2d2Iu0jVxCqICIRavs0dr5FkWa0lCMDimU2rBuJFFBX1r0kY48xdmlpamFxc1S45IwxSDmpdxWZOZ42A8hZFzXPuXkp5AmbEaod1wMLsWHKdawjyZ2TQoTRsv1ivw3RE/s16000/DSC07838.JPG" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">カメ岩</td></tr></tbody></table><br />明神湖はダム湖であり、湖ができる前は湖底に沈んだ岩井谷にあった。ダム工事の際に失われることなく現地へ移設された経緯がある。<p></p><p><br /></p><p>岩井谷の入口にあったこの2つの岩は、狭い谷筋において通行人の邪魔になっていたため、そのことを自覚していたウサギ岩とカメ岩は領主(竹中家)に当地を守護することを申し出たという。</p><p>また、ウサギ岩とカメ岩は孤独なおじいさんの話の聞き相手になったという民話もかつて見聞きした。</p><p><br /></p><p>岩石でありながらも、無機物としての認識ではなく、生き物と同じウサギ・カメで人と会話できる存在とさえなっている。</p><p>それは一種の霊異にみえるが、岩石も人間に歩み寄り、どちらが上、どちらが下という構図ではなく、対等的な付き合いをした典型例である。</p><p><br /></p><p><b>参考文献</b></p><p>「広報たるい」2023年1月号</p><p><br /></p>吉川宗明http://www.blogger.com/profile/15618688408266963929noreply@blogger.com0日本、〒503-2107 岐阜県不破郡垂井町岩手35.3925677 136.48257877.0823338638211553 101.3263287 63.702801536178846 171.6388287