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2019年4月7日日曜日

石上神社/舟木石神座(兵庫県淡路市)


兵庫県淡路市舟木(旧・津名郡北淡町仁井舟木)

荒神と日の出の祭祀

淡路の郷土史家の濱岡きみ子氏「石上神社」(谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第3巻 摂津・河内・和泉・淡路』白水社、1984年)に、石上神社の概要が紹介されている。

濱岡氏によれば、石上神社には大小含めて約60数体の岩石が30m四方の範囲に群集し、花崗岩質であると報告している。
岩石群の中央部には木造の祠がまつられ、その後ろに構える巨石は「神石」(濱岡氏呼称)であるといい、かつてより「荒神」(コージン様)と呼ばれて信仰されてきた。
境内の一部で女人禁制が守られてきた場所としても知られている。

石上神社
石上神社の祠と後ろの神石。

石上神社
石上神社の社叢。

石上神社
大小の岩石と樹林が群れる。

『津名郡神社誌』には石上神社の祭神を素戔嗚尊とあるが、濱岡氏によると、これは後世の付会であるとみなしている。

濱岡氏は、岩石群には人工的な配置の跡がいくつか見受けられると推測している。

たとえば、巨石の下には石棒のような別の岩石が挟まっており、これは人為的に据えられたものとみなしている。
また、「神石の右後方」に「20個ほどの石」から構成される、石組みのような場所も確認できるという。
そこには御幣らしきものが立てられ、周辺からは素焼きの皿が散布していることも報告している。
この場は「ほぼ東を向いて」おり、石上神社の祭礼は早朝に行なわれるというところから、濱岡氏はここを日の出をまつる祭り場だと考えている。
太陽なら何でもというわけではなく、少なくとも、日の入りに意味を求める祭祀ではなかったということになる。


実際に現地を訪れると、濱岡氏が言う「神石の右後方」ではないが、「神石の左手前」に高さ30cm程の小さな立石が1体存在し、後方には数多の御幣が立てられていた。
陶磁器に混じって、素焼きの皿もしっかり確認することができた。

石上神社
立石と御幣と供献物。

石上神社
立石の祭祀場を裏側から撮影。神石・祠との位置関係がわかる。

立石自体は東を向いて立てられているが、祭祀を執行する際、祭祀執行者は西を向くことになる。
早朝に日の出をまつる祭祀だとしたら、祭祀執行者が直接太陽を拝するのではなく、石に陽光が照らされたという現象を通して拝するのだろうか。
祭祀開始の頃から、早朝に陽光がこの石を照らせていたかという問題もある。


岩石の配置は自然か人為的か


さて、濱岡氏が挙げている「石棒」について現地で探してみた。
巨石群の中には、折り重なるものや下に空間を持つものがある。
それら巨石の下部分を見て回ったが、巨石下に据えられていると断言できるような「石棒」は発見できなかった。

ただ、「神石」の裏側に散在する巨石群数体のうち、2つの巨石が近接して小さな隙間を形成している空間がある。

この隙間を構成している巨石群の片一方は、巨石の下に僅かな空洞ができていて、その空洞の中に、明らかに別の棒状の岩石がさし挟まっているのを確認することができた。
これを、濱岡氏は「石棒」と表現したのだろう。

石上神社
二つの巨岩が寄りあい岩陰を形成する。

石上神社
岩陰には別の岩石が見える。

棒状の岩石の上に別の巨石が乗り、巨石下に空洞を形成しているという構造は人為的な雰囲気を漂わせるが、これをもって人工だと断言できるまでには至らない。

石上神社
他にも、このような鏡餅状の重ね岩も存在。

石上神社
ドルメン状の構造も存在。

石上神社
巨岩の隙間から立石の祭祀場を望む。

岩石群の全体の構造について漠然とした印象を書く。
濱岡氏が指摘したように、中央部の巨石群を取り囲むように、環状に岩石が巡っているようには見える。
一目で分かるような厳然とした環状ではないことには注意したい。見ようによってはそう見える、というぐらいの曖昧なものだが、一重の石の巡りが見えるような感を持ったことは正直に記しておきたい。

また、この感想を強めてしまった理由は、中央部の巨石群から西へ行き、西側斜面にある岩石群の配列が私の目に止まったからである。

その岩石群とは、板状の岩石が斜面に埋め込まれるようにして、3枚ほど連続して並んでいるというものである。

石上神社
3枚の石列。

石上神社
石列の奥方に、中央部の巨石群が位置。

この板状の石は、もともと一つの自然石が亀裂で三分割されてしまっただけなのかもしれない。
が、私が現地で見た中で、最も人工的な感じを持った石の列だった。
どこかのだれかが境目の溝を強調したのか、苔がはがれているようにも見える。同好の方々には原状を保ち触らないことを求めたい。

周辺一帯に散らばって存在していた自然石を、人為的にここに寄せ集めて、磐境のような場に仕立てた可能性は否定できない。

「太陽の道」仮説 ~石上神社の性格について~

石上神社は、「太陽の道」にある聖地の1つであると水谷慶一氏によって発表されたことで有名になった。
現に、神社の入口には「太陽の道」仮説に基づいた神社説明板が掲げられている。この看板には「舟木石神座」と書かれたので、以後、この名称が次第に一般化している印象だ。古来からある名前ではないと思う。

全国からの参拝者も増加したと思われ、女人禁制を刻した石標も新たに設置されたという。

石上神社
石鳥居の傍らに建てられた「女人禁制」の碑。

水谷慶一氏は、三重県神島から淡路島の石上神社までの、北緯34度32分を通る東西線上に、神島・斎宮・室生寺・長谷寺・三輪山・箸墓古墳・二上山・大鳥神社・石上神社などの聖地が並ぶということに気づいた。
そして、水谷氏はこれらの聖地が太陽信仰に関係していると考え、この北緯34度32分線を「太陽の道」と呼び、ヤマト王権下で古代氏族の日置部(ひおきべ。日の神を奉ずる氏族)によってなされたものだと、著書『知られざる古代』(日本放送出版協会、1980年)の中で論じた。

石上神社は北緯34度32部の線上に位置する。
では、石上神社が太陽信仰の祭祀場であると水谷氏が考えた根拠は何だろうか。
水谷氏は、大阪府住吉大社にある『住吉大社神代記』の記述に、つぎのようなくだりを見つけた。

「大八嶋国の天の下に日神を出し奉るは船木の遠つ神、大田田神なり。」

つまり、太陽神が信仰する船を作る神は、氏族船木氏の祖神である大田田神だったという記述であり、石上神社の地名が船木であることをもって、石上神社は太陽信仰を持つ船木氏の祭祀場(=太陽信仰の祭祀場)だったと考えた。

石上神社は、地元の人々が荒神(コージン様)と呼ぶこと以外に、祭神の性格を語る文字資料がないようだが、この水谷氏以後、石上神社は太陽信仰の祭祀場として位置付けられている。
ただ、「太陽の道」説はあくまでも仮説の一つであり、歴史的事実として確定したものではないことに注意したい。

石上神社が所在する舟木が、太陽信仰の船木氏のいた場所を示す地名であるという部分に確証がなく、舟木の地名考証が必要だろう。

太陽に関わる祭祀という切り口については、先述のとおり、東を向く祭り場があり早朝の祭礼が多いという事実は注目に値するだろう。
ただ、東を向く点については、祭祀執行者にとっては西を向き、どちらを重視すればいいのかわからない。東西軸なら太陽信仰とみなしたら何でも太陽信仰になる危険をはらんでいる。また、神石と現行の社殿の位置関係はどちらかというと南北であり、こちらを無視するのもどうかと思う。

他にも、石上神社の祭礼である春季例祭・秋季例祭・虫送り・荒神祭などにおいて、太陽信仰の要素を感じさせる内容がどこまで認められるかについても、批判的検討が足りているとは思えない。
歴史復元には慎重に慎重を期して、その上であくまでも一つの可能性として語ることが、特に地元の方々が続けてきたことを尊重するために望まれる。

また、 石上神社で太陽祭祀が認められることが、即、「太陽の道」の歴史観の証明になるわけでもないことにも注意したい。


この岩石群がいつ頃から信仰の聖地となったかについては、水谷氏の「太陽の道」仮説を肯定するか否定するかによって変わる。
「太陽の道」仮説を肯定するならば、古墳時代のヤマト王権による創始と自ずとみなされる。

参考までに、石上神社から見下ろすことのできる位置に「八丁岩」という地名があり、弥生時代後期の土器片の散布地として知られている。
「八丁岩」の地名の由来は、同地にある池の中の岩がそう呼ばれているからであるが、この岩をまだ確認していない。

また、石上神社が鎮まる字・舟木自体が弥生時代の舟木遺跡の埋蔵文化財包含地であり、石上神社の巨石周辺からは弥生時代後期の大型器台が発見されていることも申し添えておきたい(「令和元年度(2019年度)第1回埋蔵文化財担当職員等講習会―発表要旨―」文化庁・北海道教育委員会https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/pdf/r1392246_14.pdf)。

石上神社
石上神社の神石を背後から撮影。

参考文献


  • 濱岡きみ子「石上神社」 谷川健一・編『日本の神々 神社と聖地 第3巻 摂津・河内・和泉・淡路』 白水社 1984年
  • 水谷慶一 『知られざる古代』 日本放送出版協会 1980年

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インタビュー掲載(2024.2.7)