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2023年11月28日火曜日

『宗教の起源――私たちにはなぜ<神>が必要だったのか』(2023年)学習メモ


注意点

本ページは、ロビン・ダンバー[著]・小田哲[訳]・長谷川眞理子[解説]『宗教の起源――私たちにはなぜ<神>が必要だったのか』(白揚舎 2023年)を読みながら記録したメモである。


1.個人的メモのため、読ませるように文章を整理できていない。

2.岩石信仰と関連する部分で今後有用と思われる情報を中心にピックアップしたため、必ずしも本書の要点をまとめたものとはなっていない。


ロビン・ダンバー(Robin Dunbar)

人類学者、進化心理学の研究者。オックスフォード大学名誉教授。

人間が集団を安定的に形成できる規模は平均150人とした「ダンバー数」の提唱者で知られる。


ダンバーの研究姿勢

文化ごとに、目に映る世界の姿は異なる。だから、別の文化をながめるとき、私たちはただの観光客で、旅の雑感を述べる以上のことはできないという考えもあるだろう。

しかし、このような独我論ではそれ以上の議論を放棄しているし、人類が積み重ねてきた多くの宗教体験に対して、トライアンドエラーを重ねながら修正してきた科学がアプローチできる余地が見過ごされている。


宗教・宗教心の定義は、大きくとらえたい。定義は頭の中にしか存在せず、理解したいのは現実世界の現象にあるからだ。定義のどこかの部分が当てはまれば、漠然な対象なのであるからそれでよしとする。

それを踏まえて、宗教の最小限の定義は「霊もしくは力が存在する超自然的世界に対する信仰」とする。この定義によって、必ずしも神を置かない宗教も含められる。

そして、信仰心は一人でも持てるが、宗教は2人以上が同じ信仰を信じること。そこに社会性が生まれる。


一神教でもアニミズムは生きている。アニミズムが先にあり、そのうえで教義宗教が層のように重なった。

(例)ウィッシング・ウェル(コインを投げ込むと願いが叶うとされる井戸への信仰)


家族や友人が死に接した時、死者がどこかで生きていて、いつかまた会えると思えれば慰めや希望になり、それが霊魂や祖霊や霊的世界の信念につながる。


宗教の起源をトランス状態に求める

宗教の土台は、トランス状態のときに抱く感情にある。

知性で考える理論ではなく、生身で反応する感情から最初期の宗教心は発生した。


トランス状態になるために行う体験を神秘体験と呼ぶ。

このような神秘体験を求める神秘志向には3つの特徴がある。

1.トランス状態に容易に入れる感受性

2.人智を超えた世界の存在を信じていること

3.隠れた力が味方になるという信念


トランスとは「自発的かそうでないかにかかわらず、常軌を逸した心理状態に陥ること」を指す。

覚醒しているが外部刺激に反応せず、通常の感覚はゼロまたは限りなく弱い。身体は激しく動く場合と微動だにしない場合もあり一定しない。

トランスの原形とも言えるのが狩猟採集民族(カラハリ砂漠のサン人ほか)がおこなう舞踊や音楽だが、それ以外にも瞑想や身体的に負担の大きい姿勢や断食、苦痛、暑熱などの儀式もあり、トランスへの入口は多様である。


トランスによって得られる感覚は、暗い穴またはトンネルに入るような感覚というのがどの部族社会でも同じという。また、強烈な光が伴うことも共通の現象である。

ひとたびトンネルを抜けて霊界へ入れば、通常は自由に動き回れる。ただし霊界には、現世に帰還させないようにする悪い霊がいて、帰り口が見つからない可能性がある。トランスに伴う激しい行為で人が死ぬこともあり、その場合は霊界から戻ってこれなくなったと解釈される。

霊界の出口に無事案内してくれるのはだいたいの場合、善良な祖先という。

このようにしてトランス世界から帰還すると、気分爽快、愉快、心が甘くなるなどの穏やかな感情で満たされる。

トランスがどの程度一般的な体験なのかは議論があるが、共通の神経作用で起こるのだから普遍的な現象にはちがいない。


シャーマンの3つの役割

1.生活の不確実性(予言、治療、狩猟採集の成功)

2.通過儀礼および社会的現象(出産、死、結婚、戦争、紛争解決、雨乞い)

3.共同体運営(法的、政治的問題)

このうち、2018年のManvir Singhの実験では、生活の不確実性に対して儀式を行うシャーマンが80%以上を占めることがわかった。

予言が的中するかどうかより、切迫した事態を乗り切る心構えを持たせることの方が重要なのかもしれない。

シャーマンによる効果は、プラセボ効果だったり、用いた薬物や植物に実際に薬効があったりするかもしれない。しかしそもそも相互関係を見つけ出すのは人間の得意技で、効果があるかどうかに科学的な理由を説明する必要はなかった。


宗教が必要とされた因果関係

多くのパターン、要素が想定されるが、最も可能性が高い因果関係を提示。


1.まずは外的脅威が存在

2.それに対して集団の必要性が出る。

3.外的脅威が大きければ大きいほど、集団規模が大きくなる必要があるが、結束しにくくなるので、ここで宗教が求められる。


宗教に変わる何かも想定されうるが、現代において宗教に替わる価値観で人々を連帯させ続けている仕組みがうまくいっているわけではなく、今も世界各地で宗教という枠組みが利用されている。


社会脳仮説

人類がもつ脳は、集団規模が大きくなるにつれて複雑化する集団対応のために社会脳と呼ばれる脳の進化を促した。

特に、知恵を巡らせるときに用いる新皮質は、哺乳類全体では脳の容積に占める割合は10-40%に対して、ヒトは80%に達する。

脳の大きさによって、その種が形成できる集団規模が決まるというのが社会脳仮説。

そして、サル、類人猿が築く集団規模と新皮質の大きさから人間本来が形成できる集団規模が数値的に推測でき、それはおおむね150人となる。

この150という数値は、人間が築いた様々な共同体・組織を研究対象とした20以上の研究でも、おおよそ一個人が維持し続けられる社会集団が100-200人の間に収まると裏づけられた。つまり平均して150人となる。


動物のグルーミングの代わりに、人間は宗教に置きかえた

サルや類人猿は、1日の約5分の1をグルーミング(相手の毛づくろい)に費やす。

社会的グルーミングの真の価値は、皮膚に指がゆっくりと触れる時の感覚にある。このときにC触覚繊維と呼ばれる求心性神経が反応し、この神経は脳に直結しており脳の奥深くでエンドルフィンの分泌を促す効果がある。

エンドルフィンは脳内で働く鎮痛剤で、化学構造がアヘンによく似ていて、気持ちを落ち着かせて幸福感をもたらし、痛みを和らげる。そして副次的効果として、体内に侵入する病原体やがん細胞を発見して破壊するNK細胞を増殖させ、グルーミングしてくれる相手への帰属意識と信頼感も強める。


このグルーミングの弱点は、同時に二つの個体へ行うことが現実的に難しいので、集団規模が広がる人類の場合は、グルーミングに頼らずエンドルフィン分泌につながる行為を模索することになった。

そうして獲得していった順が、笑うこと、踊ること、物語で感情を動かすこと、宴を開くこと、宗教儀式となる。これらは遠隔的グルーミングと言え、集団規模が増えて直接面識がない相手にも社会的やり取りが出来て結束できる手段となった。


宗教、恋愛、美、カルト

宗教的感情と恋愛感情は驚くほど似ている。神に恋するという例が複数見られる。

両者に共通するのは、現実の相手に恋するのではなく、頭の中で理想化した偶像に恋をしているという点。そして、相手との関係に没入するあまり、批判的思考が低下する。そこに、騙し騙されのカルトの構造が生まれる余地がある。


人間に備わるメンタライジング能力

メンタライジング能力とは、自分の世界だけではなく、相手には別の世界があり心があると想像できる能力のこと。

このメンタライジング能力が高い人ほど、宗教心を抱きやすいという傾向が認められる。

一次 「私が思う。」…宗教にならない段階

二次 「あなたがこう思っていると、私は理解する。」…宗教にならない段階

三次 「あなたは神が存在すると考えていると、私は理解する」…宗教的事実の認定

四次 三次+「神が私たちを罰するだろうと私は思う」…個人宗教

五次 三次+「あなたが考えていると私は思う」…共有宗教

従属節を持つ言葉が複雑化していく中で、宗教という抽象概念が理解されていく。


神秘を抱く感覚の科学的根拠

トランス状態に入った仏僧の脳をスキャン装置で調べたところ、左頭頂葉後部(空間的な自己認識に関する領域)の活動が落ちて、眼窩前頭皮質の活動が顕著に高まった。空間認識が遮断されることで視床下部に信号が送られて恍惚とした解放感が押し寄せ、これをゴッド・スポット(神の領域)と呼ぶ。

そして、視床下部は脳内にエンドルフィンを分泌する領域の一つで、眼窩前頭皮質にもエンドルフィン受容体がぎっしり詰まっている。


ほかに、宗教的な体験(声が聞こえる、神秘体験、異言)をしやすい特徴として、特定の神経ネットワークが関わっていることが指摘されている。ドーパミンやセロトニンなどの神経伝達物質系の活動など。


儀式の起源

儀式の起源は、動物の遊び行動にある。

遊び行動には、同じ行動の繰り返しが伴う場合があり、これが儀式的な性格を帯びる。遊びによって笑顔が起こり、エンドルフィン分泌が引き起こされる。

エンドルフィンは脳内鎮痛剤なので、痛みを誘発すると分泌される。しかし痛み以上に出やすいのが、踊りなどのリズミカルな運動であり、持続的で弱い痛みにエンドルフィン系は反応する。

最も古い儀式は、人間を気まぐれに懲らしめる神々をなだめる目的から始まった。


先史時代の宗教事例

約40万年前のスペイン北部のアタプエルカの洞窟群にシマ・デ・ロス・ウエソス(骨の穴)と呼ばれる場所がある。

深さ13mの穴の底から28体分の骨が見つかった。

暗い洞窟で知覚がゆがみ、トランス状態に入りやすい感情と言える。

洞窟の効果として、声を発すると音が良く響きあい、ハミングや合唱によってハーモニーが生まれる条件が備わっていた。洞窟を住居とするネアンデルタール人が音楽を編み出したかもしれない。

音楽によって、エンドルフィンは更に分泌されたことだろう。


第一段階の宗教とは

脳が大きくなって高度なメンタライジングができるようになったことで、自分の世界とは別の世界があるのではないかと疑問を抱くようになったところから発生した。

道徳規範・行動規範などの教義が定まっていない、没入型の宗教。35-50人のバンドで生活し、100-200人の共同体を結束させるために求められた宗教。

神というより、自然の特徴と結びついた霊的存在や、トランス状態を経由して入れる霊界は信じていた可能性がある。


宗教の順番

世界各地の33の現存する狩猟採集社会を対象に、それらの宗教的特徴を統計的に分析した研究によると、宗教的特徴は6つに大別される。


1.アニミズム信仰

2.シャーマニズム

3.祖先崇拝

4.死後世界への信仰

5.特定の居場所を持つ地域神への信仰

6.人間の営みに介入する、高みから道徳を説く神


このうち、発生順序として最も古いのはアニミズムだった。

死後世界への信仰は決して普遍的ではなく、アニミズムより後に2,4,5とともにまとまって出現した。

6の高き神は、狩猟採集社会においては信じられていなかった。

この研究から、原初の宗教はアニミズムであり、その後に、他の宗教の形が互いに関連しあって同時期にまとまって現れたと考えられる。


宗教が、自分と別の相手へ自身が得た神秘体験や感覚を意思疎通しなければ成立しないことを考えると、アニミズムの原初宗教は言語の出現以降と考えられる。


社会集団にはストレスを伴う

外的脅威から身を護るために集団が求められたが、集団生活にはストレスが伴う。

サン人の「星の病」は、集団を支配する力で、嫉妬、怒り、いさかいを産み、贈答の効果をなくすという。女性はストレスによって月経が乱れて不妊となりやすくなる。この病による結束の乱れを防ぐため、サン人はトランス・ダンスを踊って立て直すのだという。

集団が大きくなると不妊の原因が生まれるのは哺乳類全体が抱える問題と言える。


精神的症状と宗教

臨床および神経生物学的な事例分析により、統合失調症と宗教体験は脳内で同じ認知プロセスが関わっているというサイモン・デインの研究がある。

統合失調症患者の最大70%が幻聴、幻視、宗教的妄想を経験する。他に、陰謀論を唱えたり、自分は執拗に迫害を受けていると考える傾向にある。

統合失調症、双極性障害の躁状態、激しい動きを伴う宗教的行動は、いずれも脳の同じ領域が過活動を起こしている。それらはDMN(デフォルト・モード・ネットワーク)を司る部分で、DMNを強く刺激すると恍惚感が生まれる。

なお、これらの症状は人によって有無をはっきり区別できる性質のものではなく、私たち全員が属しているものと理解したい。


こうしてトランス状態に入りやすい、神秘体験を起こしやすい人はシャーマンやカリスマ指導者となる。見た目や挙動が奇妙で狂人扱いされる場合もあるが、それでも彼らのことを信じる人がいる。その理由は

1.その他大勢に埋没しない。

2.突出した存在を頼みにしたい。

このような人々の存在により、一度自然発生的に生まれて発展した社会集団も、人が持つ150人までという社会脳の制約を受けて、統制が崩れ、ストレスが生まれ、組織を崩していく。だから、現在の世界宗教が複数ありながらもそれに安住できず、人類は新しい宗教へ分裂していく。


長谷川眞理子氏(自然人類学者・進化生物学者)の解説

長谷川氏自身は、集団が同じ儀式や行動を行うという宗教の働きについて、その同調性を個人的信条として嫌っている。未知の現象に対して宗教的な説明されることも受け付けず占いも信じない。

ダンバーは150人というダンバー数を提示して、150人以上の数が集まって住むようになったことで宗教による結束が必要と考えた。

ダンバー自身は宗教に対してどういう信条・態度なのかは表明していないが、人類の大部分がなぜ宗教を信仰して必要としたのかを、生物の進化から分析するという点で理解できる。


2023年11月26日日曜日

『出雲と大和』の磐座祭祀論


村井康彦氏の『出雲と大和―古代国家の原像をたずねて―』(岩波書店 2013年)に 「磐座祭祀をたどる」と題された一節がある。

この中で大略、磐座は出雲系統の祭祀・信仰を象徴するものだったとする仮説が提示されている。

書名タイトルが示すとおり、本書は大和朝廷成立にいたるまでの出雲の影響を論ずる内容であり、古代史において出雲は熱く注目される存在の一つであるだけに、本書の磐座論の影響も古代史研究において今後大きな比重を占めるのではないかと思われる。

本記事では、村井氏の磐座論がどのような根拠で展開されているかを読みながら所見をメモしていきたい。


村井氏の磐座論の最初の例示は、京都府亀岡市の出雲大神宮の磐座から始まる。

社殿背後の御蔭山山麓から山裾にかけて数ヶ所の磐座が分布しており、山岳信仰や岩石信仰が盛んだったことを推測させる。

しかし、残念ながらこれらの岩石群は歴史的に文献で確認できる存在ではない。この1点を以て、岩石群を神社以前に先立つ歴史資料として私は根拠に用いない判断をする。

本書では交野市の磐船神社も例示され、饒速日尊の天磐船の社伝が紹介されて出雲との関連が説かれるが、社伝で語られる神社創建の由緒をそのまま実際の歴史の古さに置き換えられない。

磐船神社の他にも、各地の神社の祭神から出雲とのつながりが模索されているが、各神社の社伝や『先代旧事本紀』や『倭姫命世紀』などの文献の引きかたを読むかぎり、文献登場以前の古層を伝える記述とて信頼するにじゅうぶんな史料批判をおこなったようにはみえなかった。

たとえば、三輪山における奥津磐座・中津磐座・辺津磐座概念が古代まで遡りうるかは懐疑的であるにも関わらず、特に疑問なく採用されて岡山県宮座山の奥津・中津・辺津と対照させているあたりなどに、史料批判の不足を感じる。


また、村井氏は磐船神社の磐船の織りなす雰囲気から縄文・弥生の時代まで遡りうるものと記したり、籠神社の真名井神社磐座が木の根が絡みついた光景から由緒の古さや神さびた雰囲気を感じたり、見た目が立派な磐座は●●であるなどと記すが、これらの感想は生活基盤も知識背景も隔絶した現代人の主観であり、学術研究としては書くものではない。客観性担保の観点から言えば、この記述の中で巨石でない岩石は閑却されている。


本節には「訪れた磐座所在地」という分布図が掲載されている。

出雲を中心に磐座が濃密な分布を見せるが、キャプションが書くとおり、これは村井氏が訪れた場所を分布に落としたものに過ぎず、分布論的には何の意味もなさない。キャプションが堂々と書いているからミスリードさせる意図はないのだろうが、「出雲に磐座が多い」という感想を視覚的に抱く読者は一定数いるだろう。


村井氏は日本古代・中世史の専門研究者であるが、祭祀・信仰の世界に関しては明文化されていない資料が多いからこそ、その解釈には自らが抱いた宗教的感情・精神に沿って論じて良いという一種のロマンが許されているように思う。しかし、これらの危うい記述を重ねていくことで論証として許されるというなら、それは楽観的に過ぎるだろう。


ほかにも『古事記』の「出雲の石硐(いはくま)の曽宮」を、特に根拠なく「岩陰だろうか」という着想からスタートして、いつのまにか「磐座祭祀そのものであろう」と展開する論理を、認めることはできない。

私は、本例の「石」が物質の岩石を指すか不明のため、積極的評価はしていない。歴史を復元する人は、そう慎重であるべきだと思う。


加茂岩倉遺跡とその近くにある大岩、そして近くの山中にある矢櫃神社の巨石も例示される。

この事例は古くから遺跡(青銅器)と巨石信仰の関連性を語る事例として取りあげられやすいが、当地の場合解決しないといけないのは、遺跡から目に見える範囲の近さに巨石があるわけではなく徒歩数十分かかる距離を「近く」と呼んでいいのかという問題である。「近い」の概念に本来検討すべき問題がある。

徒歩数十分の距離にある岩石と何らかの遺跡を結びつけて良いのなら、もはや色々なものが「関係がある存在」として扱えてしまうだろう。


なぜこのことを重くとらえるのかというと、不明な問題を解決して安心を得たいため、すべてに関係性を見出そうとしてしまうのがヒトの認知構造だからである(ステュアート・ガスリーの「宗教の認知的理論」ほか、宗教認知科学の諸研究より)。

自己批判なしの関連性や結びつけは無尽蔵であり、どのような仮説でもできあがってしまう素地がある。しかし現実はその結びつけどおりでないことも当然多い。現代に生きる私たちどうしでさえ、相手が何を考えているかわからないから、その不安を解決するために主観的な理屈を結びつけてしまうことはある。今を生きていない過去の人々を物するならば、なおのことだろう。

その点で、本書にはいくつもの出雲系との関連を窺わせる岩石が登場するが、数をいくつ重ねていっても、当事者が残した明示的な記録がない限り(当事者が残した記録でさえ文字通りに解釈できないこともあるのに)、判断基準は私たち現代人側にある。

研究対象の人間と自分との間に価値観の断絶があるという配慮をもち、確定的でないものを結びつけていって自他同一の錯覚に陥るのではなく、自己批判の上で錯覚を極力そぎ落としていく姿勢が望まれる。


ただし念を押すと、村井氏は磐座信仰を「出雲系の信仰圏に限るものではない」とも釘を刺していることは触れておきたい。

村井氏は「あえて」磐座を表現するなら「出雲系の神々の世界の徴証」だとみなしており、出雲族が鉱山開発、鉄生産のために山中に分け入る中で巨石に出会ったことが磐座信仰につながり、出雲の特徴的な信仰になったと評価しているのである。

ただその場合は、出雲族以外が鉱山に手を出さず製鉄に関与しなかったという前提が必要なように思う。一部族のみが金属をつかさどったと考えるほうが難しいのではないか。しかも、その生業を文献伝承上の神名・地名・氏族研究などの形而上概念で証明させることは難しいだろう。

つまり、「出雲系の神々の世界の微証」という前提でさえ、土台がゆるぎないテーゼというわけではないのである。


歴史研究とは、常に自己批判的でありたいと思う。

村井氏のいう磐座は、いわゆる自然石としての巨石に対する信仰を一括した用語になっている。厳密にいえば村井氏は「巨石に神の霊が宿るとする磐座信仰」と述べているが、それ以外の石そのものを神とする石神信仰や、巨石以外の岩石信仰は言及されていない。実質的に、古代の石の信仰はすべて磐座に一括されている理解に落ち着いている。

そもそも石神と磐座を同列に並べて良いものか、岩石の祭祀はおしなべて磐座なのかといった疑問は、村井氏著書より前の拙著(2011年)で問題提起済みのテーマであり、この議論を通過して解決しなければ古代の磐座論は先へ進めない。


磐座や巨石は、真に「出雲系の神々の世界の微証」と言えるのだろうか。

村井氏は「丹後から飛び立った天磐船は、各地の出雲系の神々をあらたに見出し、繋ぎ合わせるという役割を果した」と記すが、自然信仰である巨石・磐座を、人格神をベースとした体系的神話のみで成立させる危うさはないだろうか。


たとえば『出雲国風土記』に登場する「石神」は、特定の神名がつく前の自然神としてのありかたを伝えている。

琴引山の石神の記述では一切の神名が記されず、大船山(神名樋山)の石神の記述では「謂はゆる石神は、即ち是、多伎都比古命の御託なり」と追記的に触れられ、前後関係から考えれば多伎都比古命が後世付加的で人格神以前の石神が元来のありかただろうと考えられる。

したがって、出雲系の磐座信仰を論ずる際に、いわゆる出雲神話という体系に拠ること自体が、磐座信仰・石神信仰なるものの本質を見えなくしてしまう恐れがある。


本記事は岩石信仰研究の立場から、村井氏著書のとりわけ磐座祭祀論の部分のみに絞って取り上げたものに過ぎないが、以上を踏まえた結論としては、磐座祭祀が出雲系祭祀の徴証だったという論には賛同いたしかねる。


2023年11月21日火曜日

矢除石/遊矢石(長野県諏訪郡下諏訪町)


長野県諏訪郡下諏訪町 慈雲寺龍の口参道沿い

「信玄が川中島合戦に赴くとき、慈雲寺七世天桂玄長禅師を訪ね戦勝の教えを乞うた。玄長は境内の大石に案内し、大石の霊力を説いて石の上に立ち矢を射掛けるよう命じた。部下が一斉に矢を放ったが一本として玄長一本としてに当たらない。一同驚き、この石の念力の確かさに敬服した。玄長はこの念力のこもる矢除札を授けて信玄を励ましたという。
この話はまた、川中島合戦に赴く途時に慈雲寺の前にさしかかると石の上に立って行軍を見下ろしている僧侶がいた。無礼な奴だと怒って射殺してしまえと矢を射掛けたが一本も当たらない。礼を正して尋ねると、矢除けの霊力があるという。信玄は喜んで矢除けの札を受け兵士に持たせて戦いに向かったという。」(宮坂徹「今に伝わる諏訪地方の信玄伝説」『信濃』第60巻第1号、2008年)

矢除石

逆方向より撮影。岩の群集ではなく1個の岩塊である。

手前に建つ「遊矢石」の標柱。

矢除石に接して鎮座する弥栄冨神社には、社祠の角に1個の岩石がある。来歴不詳だが気になった。

参考文献

  • 信濃史学会 編『信濃 [第3次]』60(1)(696),信濃史学会,2008-01. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11199581 (参照 2023-11-21)

2023年11月13日月曜日

雨境峠祭祀遺跡群(長野県北佐久郡立科町)


長野県北佐久郡立科町芦田八ケ野 雨境峠

 

雨境峠は、蓼科山(標高2530m)の西北麓を通る峠である。峠の頂上で約1580m地点となる。かつて東山道はこの峠を通っていたといい、その一証左として峠道には約7㎞にわたり古墳時代から中近世にかけての遺跡が分布している。「役の行者越」の俗称も残る。

この遺跡群を総称して雨境峠祭祀遺跡群と呼び、南から北へと順に列挙していくと「御座岩・桐陰寮上・赤沼平・賽の河原・与惣塚・中与惣塚・勾玉原・法印塚・鳴石」となる。

本記事ではこの順に沿って各遺跡を紹介する。


御座岩

御座岩

御座岩の下部は白樺湖に沈む。

御座岩から望む蓼科山(写真右奥)

御座岩に付随する看板

役行者が岩の上で柴を焼いて護摩を焚いたという伝説と、武田信玄が川中島の戦いの途上で座った岩という伝説が残る。

岩は白樺湖畔にあるが、白樺湖は第二次大戦後に造られた人造湖のため、現在の景観とは異なることに注意したい。

景観が異ならないのは、ここから仰ぎ見られる蓼科山だろう。桐原健氏は、御座岩のあたりまでは蓼科山を大きく仰げ、その先の白樺湖北東側(池の平)まで登ると蓼科山が隠れてしまうことに着目して、この岩石が蓼科山を遠望できる好地に存在した自然岩盤だからこそ祭祀の場になったと重視している。

御座岩の南側の岩穴(岩陰)から、縄文早期~後期、弥生・古墳・平安時代という、非常に長期間にかけての、各種土器・土偶・石鏃・石斧・獣骨・堅果類・剣形石製模造品などが出土した。

岩穴は白樺湖に水没し、現在は岩の上部のみが見えるが、このことから御座岩岩陰遺跡の遺跡名もある。雨境峠祭祀遺跡群の中では、もっとも南に離れて蓼科山を遥拝する遺跡だったという位置づけになる。


桐陰寮上

桐陰寮上と呼ばれる地から、古墳時代の蕨手刀が1点出土した。遺物に関連する遺構は未検出のため、遺物散布地としての遺跡である。


赤沼平の鍵引石/鉤引石



女神湖という人造湖があるあたりを、古くは赤沼平と呼んで低湿地だった。

赤沼平からは蕨手刀1点・鉄片が出土しており、また、戦前には八幡一郎氏が小玉・有孔円板を採集したという。いずれも古墳時代の遺物とされている。

これらの遺物群との関連性は不明だが、赤沼平には鍵引岩(鉤引石)と呼ばれる安山岩質の自然石が現存する。高さ1.5m、最大径5mほどで、道の下斜面にあるため目を見張るような一大巨岩というわけではないが、道路工事の後は3分の1ほどが埋もれている状態だというので往時はもう少し大きかったようである。

この地に巣食う河童が鍵引石に座り、通行人へ鍵引きの遊びをもちかけて赤沼平の湿地に引きずり込んだという伝説が残る。

鍵引石の傍らにはかつて直径1m、深さ2mの穴が穿たれていたといい、巨木が存在した可能性が指摘されている。


賽の河原

「賽の河原」とは、雨境峠の手前の緩やかな峠の上にあったという直径20m、高さ2m程の石塚(盛り土の上に大小の石を敷いた塚)で、塚には地蔵尊が安置され、「塞の河原」の表記も残る。

高度経済成長期の観光開発・道路開発の中、昭和40年に事前調査がないままに賽の河原は破壊されてしまった。ここから寛永通宝3点が採集されているので、江戸時代に一種の投銭祭祀が行なわれていたのは確実と言える。

緩やかな峠の頂上ということで、分布図に落とされた位置なども考えあわせると下写真のあたりに存在したものと推測される。

賽の河原があったと思われる地点。

塚の4分の1ほどが残るともいうがどの土の高まりがそれに該当するかは不明である。また、この塚の東の山林を入った所にも石塚があったという古老の話が残り、現在の道沿い以外にも複数の塚が存在していた可能性が想定されている。

地蔵尊は頭部欠損しながらも道路向かい側へ移されたと昭和40年時点では書かれていたが、現在特定はできなかった。

雨境峠頂上に近いこの辺りまで来ると、ふたたび蓼科山を南方に望むことができる。

雨境峠頂上付近から望む蓼科山


与惣塚(よそうづか)

与惣塚

塚の頂部には礫石も確認できた。


径15m、高さ1.6mの規模を持つ石塚で、「賽の河原」と同様の性格を持つものだったとされている。ただし、この塚からは遺物が発見されていない。

与惣は伝説に関する人物名というが、その伝説の詳細に触れられることは少ない。


中与惣塚(なかよそうづか)

中与惣塚

中与惣塚の頂部

前2例と同じく、径11m、高さ1mの石塚である。

「賽の河原」が破壊の憂き目に遭ったことから、当時の石塚の状態を記録にとどめようと調査が行われ各種の遺物が発見された。内訳は、古銭40点(北宋銭が大半で一部近世の古銭あり)、御正躰と思しき青銅板14点、薙鎌9点、鉄釘は少なくとも6点分出土した。

この塚の調査により、雨境峠に点在する石塚は、中近世の人々が峠を往来する時などに交通安全などを祈念した祭祀施設だったのではないか、と歴史的に位置付けられる契機になった。

桐原氏は、遺物の型式を綜合して鎌倉時代末期から室町時代初期に築造された塚群ではないかと具体的に年代を絞り込み、塚を建てて追善供養などを行なう「十三塚信仰」の系譜を引く祭祀遺構と位置づけている。


勾玉原



中与惣塚の辺りから雨境峠頂上までの一帯では、玉類がよく採れたという由来から勾玉原と呼ばれたという。実際に数名の研究者が数種の滑石製品を採集した。

滑石製品の形態的特徴などから、古墳時代後期~終末期(6~7世紀)の遺物と評価されている。

現在確認できるものとしては臼玉・管玉・勾玉・有孔円板・剣形品があり、滑石製品に限られている特徴がある。土製品はもちろんのこと、滑石以外の石製品の発見もないのは、本遺跡での祭祀を考えるに当たって非常に興味深い傾向と考えられている。


法印塚/山伏塚

雨境峠の北斜面側にある径12m、高さ1.5mの石塚。山伏塚の異名もある。遺物の出土は確認されていないが、中与惣塚と同様の施設と目される。


鳴石/鏡石




石を叩くと金属音がするが、石材にして割ろうとした石工は雷を落とされて悶え死んだという祟り伝承が付帯する。

鳴石は直径2.5mほどの2個の岩石を鏡餅状に積み重ねた構造物で、周辺から古墳時代の臼玉3点・有孔円板1点・剣形品破片1点が採集されている。

鳴石のこの鏡餅状の構造は、人工的なものだと考えられている。岩石自体の調査が行われており、上と下の岩石の接触部分は互いに形状・寸法が一致せず、それに加えて溶岩構造が異なることが判明している(雨境峠祭祀遺跡群発掘調査団 1995年)。

ずっと地表に露出していた岩石だと思われるのでこの構築が遺物の出土と同じ古墳時代と断定して良いかという問題はあるが、この岩石が存在することで祭祀遺物がここに捧げられたと考えるのが今は自然だろう。

また、調査では鳴石の周りは同心円状に礫が敷き詰められていたこともわかり、これも人為設置の祭祀施設とみなすことができる。

雨境祭祀遺跡群を代表する場所のみならず、人為的に構築された古墳時代の岩石祭祀遺跡としても貴重な事例である。


参考文献

  • 雨境峠祭祀遺跡群発掘調査団(編) 1995 『雨境峠』(立科町文化財調査報告書5) 立科町教育委員会
  • 大場磐雄 1935 「峠神の一考察」『上代文化』第13輯
  • 桐原健 1967 「長野県北佐久郡立科町雨境峠祭祀遺跡群の踏査」『信濃』Ⅲ・19-6
  • 桐原健 1982 「雨境峠遺跡群」 長野県(編)『長野県史 考古資料編 全1巻(2)主要遺跡(北・東信)』 長野県史刊行会
  • 小林幹男 1995 「蓼科山麓の祭祀遺跡と古道」『古代交通研究』第5号
  • 坂本和俊 1993 「古墳時代の祭祀研究の問題点」 第2回東日本埋蔵文化財研究会『古墳時代の祭祀-祭祀関係の遺跡と遺物-』《第Ⅲ分冊-西日本編-近畿・山陽・山陰・九州・発表要旨・文献目録・四国地方》
  • 椙山林継 1965 「古代祭祀遺跡分布私考」『上代文化』第35輯


2023年11月6日月曜日

山寺立石寺の岩石信仰(山形県山形市)


山形県山形市山寺

 

山寺立石寺は、慈覚大師円仁が開山・入定した地で、おくのほそ道の「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」の場でも知られる。

立石寺には「立石倉印」の字が刻まれた古代印が伝わり、型式的にも開山を伝える9世紀頃の製作の可能性が高いものとされており、その頃からすでに「立石」の名で呼ばれていたことが窺える。

慈覚大師が入定したとされる窟は、百丈岩という自然の巨岩に開いた風穴の一つである。山口博之氏は「百丈岩に入定する慈覚大師の強力な視線が、街道を往来する人々にそそがれ守護する風景となる」(山口 2021年)と考察して、山寺における立石群の宗教性を街道交通と関連付けた。


立石寺における岩石の利用は、各時代を通して死者供養と深い関連が指摘されている(時枝 2011年)。

開山当時の入定窟からは木棺や火葬骨が複数体見つかり、いわゆる修行窟というだけでなく一種の墓地としての性格も色濃い霊場だったと考えられている。

その後、中世においても岩石群が形成する岩陰や洞穴の中で納骨および五輪塔の奉納行為が確認されている。

近世には、岩肌に塔婆を刻んで死者を追悼する岩塔婆とよばれるものもみられるようになり、この祭祀行為は県内でも山形盆地(村山盆地)周辺に分布が固まることから、山岳寺院の中でも地域的に独自の変化・形成を遂げた霊場だったと評価づけられている。


また、元山寺として立石寺の前身とされる峯の裏地区では、垂水岩などの奇岩において13世紀頃の石造物群が確認されている。








調査を主目的として訪れていなかったため、岩石の記録は不完全である。


参考文献

  • 時枝務『山岳考古学―山岳遺跡研究の動向と課題―』ニューサイエンス社 2011年
  • 山口博之『山寺立石寺―霊場の歴史と信仰―』吉川弘文館 2021年