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2024年3月24日日曜日

市岐嶋神社の「ストーンサークル」(奈良県宇陀市)


奈良県宇陀市榛原檜牧 字神田(高星)


『榛原町史』には「市杵島神社 檜牧字神田に鎮座。厳島神社ともいう。祭神、市杵島比売命、境内地三百六十九坪、例祭は八月廿三日というの外知る由もない。」と簡潔に記されるのみの神社である。

竹野(1937年)は社殿周囲に「完全なるストーンサークル」が遺存していると記す。近年、炭竈を築くために西方の一部が破壊されたともある。

市岐嶋神社

社殿の後ろには特に岩石は見られない。

境内の東方を中心に「遺存」している。

列石というより石垣状の石敷を見せて、環状列石の構築とは様相を異にする。

境内地において不要となった採石を一か所に集めた感もあるが、ひとまず東方以外に岩石群は認められず現状として「サークル(環状)」ではない。


参考文献

  • 榛原町史編集委員会 編『榛原町史』,榛原町,1959. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3015347 (参照 2024-03-24)
  • 竹野次郎『奈良県宇陀郡内牧村に於ける皇租神武天皇御聖蹟考』 皇租聖蹟菟田高城顕彰会 1937年


2024年3月23日土曜日

大将軍山の大山祇神社旧地(奈良県宇陀市)


奈良県宇陀市榛原高井字椿尾垣内 大将軍山


大将軍山の概要

宇陀榛原の高井は旧内牧村の村役場が置かれた中心地である。

この高井集落を覆うように北に高井岳・大平山などの山並みが東西に連なる。山名として著名なのは地理院地図にも記載される大平山だが、その大平山のすぐ西隣の一峰をかつて大将軍山と呼んだことは今あまり知られていない。

大将軍の名は元禄16年(1703年)の検地水帳で確認できるといい(竹野 1937年)、地元の人々は「ダイジョウゴン」「ダイジングウ」の通称で大将軍山中腹の岩群をまつった。

その後、明治時代に神仏分離が進む中で、小林某という神職者が祭神不詳は面白からずとして社名を大将軍から大山祇神社に改め、大山祇命を祭神に据えたといわれている。

さらに明治41年(1908年)、神社合祀の流れにより大山祇神社は高井字神定の伊豆神社に合祀された。合祀後、凶事が続発したことから地元では神社復興の声も挙がったというが、現状として大将軍の地に社はなく伊豆神社に合祀されたままとなっている。

しかし、皇紀2600年事業により当地が神武天皇聖蹟の一つ「大労餐の庭」に関する地に擬せられ、社地に石段や石灯籠などの諸設備が整備されたことが現地に残る昭和17年銘の灯籠や石碑の存在から垣間見える。

探訪時も岩群前の石壇上に供物の跡が残り、おそらくは地元で護持しつづける方がいらっしゃるものと思われる。

以上のことから大将軍が歴史的に本来的な名称と判断されるが、大将軍が陰陽道の大将軍神に由来するものか、他の由来に基づくものかは不明である。


岩群の詳細

皇祖聖蹟莵田高城顕彰会の『神武天皇建国聖地内牧考』(1939年)でこの岩群の詳細が報告されているので、同書の記述に沿って現地を照応させたい。


大山祇神社旧地の岩窟

高さ十尺六寸(約3m)、巾六尺四寸(約2m)の巨岩を向って右の柱とし、高さ四尺五寸(約1.3m)、巾五尺五寸(約1.7m)の岩を向って左の柱とし其の上に長さ十三尺(約4m弱)、厚さ二尺(約60㎝)、巾七尺四寸(約2.2m)の岩及び長さ七尺三寸(約2.2m)、厚さ六尺(約1.8m)、長さ七尺六寸(約2.3m)、巾四尺八寸(約1.5m)の、二個の巨岩を天井として載ける自然に成れるものと思はるる岩窟状の磐座にして、両柱の間四尺七寸(約1.4m)其の間に長さ三尺(約90㎝)の石を挟み女性の性器を象れるが如き形態をなしてゐる。 ※メートル法表記部分は吉川追記

大山祇神社旧地(基壇部)

大山祇神社旧地(正面から)

大山祇神社の「岩窟」部分。

「岩窟」前の供物跡。元はここに社祠があったものと推測される。

「岩窟」の上方にも岩群が続く。

「岩窟」頂部の岩石(斜面上方より撮影)

「岩窟」は南面している(斜面上方より撮影)

大山祇神社旧地に残る石造物銘。元文4年(1739年)から、明治41年の合祀後も整備が続いたことがわかる。

前掲書『神武天皇建国聖地内牧考』(1939年)によれば石質は英雲安山岩とのことである。

「岩窟」と形容されてはいるが、洞窟としての空間は閉塞しており存在せず、これが人為的に閉塞したものか、陰石を志向したものかなどは不明である。


上方の巨岩群

稍南方によってニ三十間(約40~50m)上方の絶壁中に、高さ二十二尺(約6.5m)周囲約十五六尺(約4.5~5m)の男根に髣髴たる巨岩が聳立してゐる。其の上方十余間(約20m)の位置には、横三尺(約90㎝)、高二尺五寸(約75㎝)、奥行五尺(約1.5m)の三個の石の上に横九尺(約2.7m)、奥行五尺(約1.5m)、高二尺五寸(約75㎝)及横六尺(約1.8m)、奥行四尺(約1.2m)、高四尺(約1.2m)の巨岩を積重ね其の根本に数個の塊石を以て崩壊を防ぐ工作を施せるが如きものがあり、恰も山頂なる神籠石に供饌の台となせるが如きものである。

「やや南方」というが、南方は下方斜面であり岩石がない。そのかわり、大山祇神社旧地から西方やや上の斜面上に立石状の露岩群が存在する。

しかし、位置関係や高さなどの規模が前掲書と一致しているかというと怪しい。別の存在か。

「上方絶壁中、約6.5mの男根に髣髴たる巨岩」は位置・規模から考えてこの岩壁か。

斜面の傾斜は30度近いためこの岩壁の上を確認することはできなかった。


茶臼山の「ストーンサークル」

約一町(約100m)山の尾を登れば高さ二三丈(約6~9m)の絶壁があって其の上、山の頂上に高さ六尺九寸(約2m)、周囲一丈(約3m)の畧等大の巨石立ち其の周囲に十数個の周囲八九尺(約2.5m)の塊石がある。四個の巨石は神籠石と認められ其の周囲の塊石はストーンサークルであらう。この附近一帯山の隆起せる部分を茶臼山と呼んでゐる。

「約6~9mの絶壁」に当たると思われる山頂直下の岩壁の一部。

この岩壁を登った先が山頂となる。

茶臼山と目される山頂部。これが前掲書で「神籠石」と名付けられた4個の巨石か。

重石状の岩石が4個以上、若干の列状に山頂南面に露出する。

「ストーンサークル」と名付けられたものに該当するか?

山頂南側の直下斜面に岩陰状の陥没地形がみられる。


当地の禁忌事項

椿尾垣内地区全体の禁忌

大山祇の神が鶏を嫌っているので、椿尾垣内の住人は鶏を飼ってはならなかった。

大山祇神社が伊豆神社に合祀されてからは、この禁忌が解けて鶏を飼育するようになった。


大将軍山の禁忌

山内には「大いなる長物(蛇)」がいるので、みだりに入ってはならない。

一木一草すら折ってはならない。

苺、テンポ梨の実を食べてはならない。

枯れ枝でも薪の木として持ち帰ってはならない。


メトリ坂の禁忌

椿尾垣内から大山祇神社旧地~茶臼山南方を経て荷阪峠(荷阪地区に通ずる大平山~茶臼山間の鞍部)にいたる道をメトリ坂と呼んだ。

婦人が一人で通行するととられるといい、婦人の単独通行を避けている。

メトリ坂を駆け上って達する荷阪峠。茶臼山はこの峠の西方(写真左)の峰。東方(写真右)は大平山。

歴史学者の魚澄惣五郎氏が大将軍山を調査した時、「古代の山岳信仰が仏教の影響を受けることなく太古のまま残された興味深き山である」(竹野 1937年)と言葉を残したらしいが、魚澄が大将軍山について記した文献が残るのかは不明である。

考古学者の大場磐雄氏は大将軍山登山を計画していたが日没前のため断念し、そのかわり茶臼山で採集されたという茶臼玉5個を採集者から宿で見せてもらっている。いずれも直径一分~二分(3㎜~6㎜)ほどで僅少な遺物ではあるが、「もし事実なれば同所に於ける古代祭祀の事実を知り得て、磐座との関係も確認を得るに至るべし、なおよく探究すべし」(大場 1938年)と評価している。

大将軍山の取りつき。林道「室生ダム開路線」を用いる。椿尾集落を経由して駐車スペースがあるここに車を停めた。

先ほどの写真の背中側を見ると大将軍山の登山口がある。かつて椿尾から荷阪峠にいたったメトリ坂の道と思われる。大山祇神社旧地はこの踏み跡をひたすら約10分直進すると石段が見える。


参考文献

  • 竹野次郎『奈良県宇陀郡内牧村に於ける皇租神武天皇御聖蹟考』 皇租聖蹟菟田高城顕彰会 1937年
  • 皇祖聖蹟莵田高城顕彰会 編『神武天皇建国聖地内牧考』,皇祖聖蹟莵田高城顕彰会,昭和14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1023590 (参照 2024-03-23)
  • 『大和叢書』第1,大和史蹟研究会,昭和8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1214606 (参照 2024-03-23)
  • 森貞次郎(解説)・大場磐雄(著)『記録―考古学史 楽石雑筆(下)』(大場磐雄著作集第6巻)雄山閣出版 1977年

2024年3月15日金曜日

『変動帯の文化地質学』第2部第2章を分担執筆しました

すべては、地質の上に成る――。地震や火山などの災害と隣り合わせで生きる日本人にとって、地質は自然環境の基盤としてのみならず精神文化の基盤としても相即不離な存在である。(出版社HPより

2024年2月、鈴木寿志[編集代表] 伊藤孝・高橋直樹・川村教一・田口公則[編集]『変動帯の文化地質学』(京都大学学術出版会)が刊行されました。

全5部構成ですが、その第2部の第2章「岩石信仰研究の視点」(pp.157-173)を吉川が執筆しました。

本文でも述懐しましたが、私がこのような研究を始めた時の「巨石」「磐座」一辺倒だった当時の空気をふりかえれば、今回、岩石信仰の章が設けられたのは隔世の感ありです。


本書は科研費「変動帯の文化地質学」の研究成果として発表されたものです。

変動帯も文化地質学も耳慣れない用語かもしれませんが、日本列島は地震や火山に代表される地質活動が活発な変動帯に属します。

そのような土地の上に住む人々に、変動帯ならではの地質活動が文化的な影響をも与えただろうという仮説の下、数々の研究が揃いました。


本書の目次を紹介します。

―――

序論 文化地質学の提唱と発展

  • 第I部 石材利用の歴史と文化
  • 第1章 城の石垣・石材から見えること
  • 第2章 山形城の石垣石はどこから集めたのか
  • 第3章 庶民の石,権力の石──神奈川県の石材から
  • 第4章 シシ垣──人と野生動物を隔てる石の砦
  • 第5章 「石なし県」千葉における石材利用
  • 第6章 近代建築物に利用された国産石材
  • 第7章 なぜ「花崗岩」のことを「御影石」と呼ぶのか──土石流がもたらした銘石

第II部 信仰と地質学

  • 第1章 縄文時代と環状列石──北東北の例
  • 第2章 岩石信仰研究の視点
  • 第3章 仏教における結界石の持つ意味と役割──日本とタイの事例から
  • 第4章 磨崖仏
  • 第5章 山岳霊場の地質学──香川県小豆島と大分県国東半島の岩窟
  • 第6章 熊野の霊場を特徴づける地形・地質
  • 第7章 中近世石造物の考古学──兵庫県姫路市書寫山圓教寺の事例から
  • 第8章 京都の白川石の石仏

第III部 文学と地質・災害

  • 第1章 地質文学
  • 第2章 『おくのほそ道』に描かれた芭蕉の自然観
  • 第3章 「地」で読み解く宮沢賢治
  • 第4章 日記史料にみる中近世の日本における地震の捉え方
  • 第5章 醜い山から崇高な山へ──B・H・ブロッケスの詩「山々」をめぐって

第IV部 地域の地形・地質を楽しむ

  • 第1章 地域資源をブランド化する──ジオパークと日本遺産
  • 第2章 文化地質学の視点を取り入れたジオツーリズム
  • 第3章 地学散策路──ジオトレイル
  • 第4章 地域の成り立ちを見る──ジオストーリー
  • 第5章 食と地学──常陸・茨城の食の背景を考える
  • 第6章 地域資源の再発見──博物館の新しい役割
  • 第7章 地域を見る目を育てる──地域博物館の使命

第V部 地学教育の新展開

  • 第1章 地学教育における文化地質学の役割
  • 第2章 学校の岩石園を探検しよう

総論 変動帯の文化地質学

―――

企画が始まった時にこの目次の素案を見てわくわくしたものです。

地質学分野の方々のみならず、人文学の立場からも興味深いテーマが見つかるのではないでしょうか。

本書企画時の想定読者層は大学生以上~社会人と聞いています。研究者・学者向けの論集という作りではなく、本書を入口に今後の学問関心を喚起するような平易な文体となっているはずです。

私もその企画意図に合わせて、後学の方に向けての遺言めいたメッセージを込めた内容としました。


【節見出し】

  1. 岩石信仰の概念
  2. 自然石の信仰を研究する難しさと重要性
  3. 観察方法
  4. 岩石信仰の起源に関する論点
  5. 岩石信仰の現在地と未来


岩石信仰は自然信仰ですから、主客の関係でいえば、自然が主で人間が客体です。

人間には個体差がありますから、自然を前にして受け身になった時、各人が思い思いに異なる感情を得ることと思います。すなわち、岩石信仰は本来的には多様でカオスという世界観を是とします。

しかし、人間社会では多様の難しさもあります。みんなばらばらの心の中だと相手のことがわからない、社会を構築しにくい、集団での統制が取れないなど…。

そこで我慢できなくなった人が均一化・統一化・強制化を図ると、個人的信仰心から離れて社会性をもった宗教になりますが、そうすると人が主で、自然が二の次になったと言えます。

だから、組織立った宗教には信仰心とは別の要因・ノイズが入りだします。これは善悪をつけられるものというより、ヒトの業のようなものかと思いますが、私はそういった社会化した宗教研究よりも一個人の脳の反応として出現した信仰心に研究の関心があります。

そのあたりが伝われば、岩石信仰研究が誰にでも当事者となりうる人間研究であり、多様でカオスな隣人を理解する一方法なのだとおわかりいただけると思います。


当サイトの「カタログ」にも掲載しました。

税込5,940円ですが、お求めいただければ嬉しく思います。


2024年3月3日日曜日

石の木塚(石川県白山市)


石川県白山市石立町




5個の凝灰岩が立っている。これを「石の木塚」と呼ぶ。

5個の立石はサイコロの5のような配置を見せ、中心の立石から東西南北の方角に向かって残り4個が立つ規格的な配置をみせる。


嘉元2年~3年(1304~05年)頃の成立とされる『遊業上人縁起絵』に「石立」の地名が記されており、これが地名の「石立」の初出とされている。

石が立つ、の語源をこの立石群に求めるのは妥当であり、少なくとも14世紀にはこの立石群が存在したことがわかる。

さらに石の木塚ではすでに発掘調査が行われており、塚の地点から5~6点の土師器椀が発見されている。

椀の製作時期は10世紀後半~11世紀前半のものと考えられており、考古学的には石の木塚の構築を10世紀代まで遡ることができる。


石の木塚は、石立町の玄関口に位置しており、道が大きく折れる角地に立つという特徴的な立地にある。

全国の「立石(石立)」地名は、古代道に沿って分布するという研究がなされている(三浦 1994年)。

石の木塚の石立の地も、駅伝制による古代駅・比楽駅の近くに位置することから、石の木塚は古代道における交通標識に類する役割を担う施設だったのではないかという説が有力である。


そのような立石が単なる交通標識だったのか、祭祀・信仰に関する精神的な意味も込められた存在として成立当初からあったのか不明だが、いずれにせよこの立石は時代を経て「石の木塚」と呼ばれて、そこに込められた性格は自ずと変容・付加されていく。


まず江戸時代文献で石の木塚が再登場するのは、17世紀後半成立とされる『加能越金砂子』である。石立村に五本の大石があり、いつのことからはわからないが一夜の内に出現したと語られる。

一夜出現類型としての岩石伝説である。


次に、18世紀前半成立の『可観小説』では、「立石の宮の石の根」という一説が設けられて別の伝説が記されている。

社壇に立石五つがあり、これを立石の宮と呼んで神社としてまつったと明記されている。ここに、立石は岩石信仰の領域に入ったことがわかる。

加賀藩第3代の前田利常が近辺の百姓を動員して立石の根元を掘り下げさせたが、二丈(約3.5m)掘ってもその石の根はわからなかったという。

石の根が深く地中がどうなっているかわからないという類型の岩石伝説も他で見聞きするところである。


18世紀後半成立の『加越能三州奇談』では「石立村の石は此根能州の寺口へ出て猪の牙の如く飜れり」とあり、石の根の深さが別のところとつながって出ていくという伝説類型へ広がっている。


同じく18世紀後半成立の『越の下草』では、石の木塚と浦島伝説が接続する。

いわく、永正17年(1520年)、この地で龍宮から帰った酒屋の主が忽ち老体となり亡くなり、後日、異形の女と童子4人がそれぞれ石を背負って主の塚に5つの石を立てて、年ごとに石は太りその根の深さ知れずになったという。そしてその石塚を石立大明神として勧請したという。

立石がなぜ立つのか、その成立を伝説的に語る由来となっている。


他に弁慶伝説も付帯するほか、「石ノ木宮」「雀の宮」などとも呼ばれたらしい。


参考文献

  • 三浦純夫 「加賀石立の立石考」 森浩一・編著『考古学と信仰』(同志社大学考古学シリーズⅥ) 同志社大学考古学シリーズ刊行会 1994年
  • 日置謙 校訂並解説『加能越金砂子』,石川県図書館協会,1931. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3440189
  • 『加越能叢書』前編,金沢文化協会,昭11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1227824
  • 宮永正運 著 ほか『越の下草』,富山県郷土史会,1980.8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9538411