2025年2月16日日曜日

イワクラ(磐座)学会の閉会に寄せて

イワクラ(磐座)学会が2025年4月末に閉会することを知りました。

理事の平津豊氏のFacebookの投稿で詳細経緯を見ましたが、学究をつきつめていくことで組織・団体内の制御不能な膨張に悩まれていたのだと拝察します。

「岩石があると何でも『イワクラ』だと言い出す人が非常に増えた」のくだりはおっしゃるとおりですが、これはイワクラ学会が始まる前からよく見た現象であり、人の性のようなものと受け止めています。

今後も関係ないところで何度も同じ発想の繰り返しが生まれていくものと思われ、そういうインフルエンサーや社会の空気とある種併存して、学術活動は粛々と地道にやっていくほかありません。


学会活動もそういう地道なものを背負うものです。たとえば私は長らく、イワクラ学会にイワクラの保存活動(物理的保存・記録的保存)を期待していました。

HPや会報などでそのような視点の活動も見かけることがありましたが断片的・枝葉的であり、今回の閉会により途上で終わり、HPも存続しなければ再び散逸となるでしょう。

イワクラの文化財上の立ち位置の脆弱さ(=自然石として消滅しやすい性質)を考えれば、会員各個人の関心を差し置いても、さらに優先的に取り組まれればと。

個人では太刀打ちできない組織力によって、学会の歴史上の存在感もより一層だっただろうと思いますが――本当に外部から勝手なことを思っているだけでした。


かつて会員の方からお誘いを受けたこともありましたが。私は気にしいなので研究に心理忖度の余地は入れたくないと思い、自由勝手気ままにさせていただきたく、結果的に入会することはありませんでした。

創立以来変わらず会長の渡辺豊和氏の思想強く、外から見るかぎり個人組織・個人誌感が否めなかったのもあります。

理事の高木寛治氏、江頭務氏などの路線であれば、また異なる「イワクラ」観が社会に浸透したかもしれません。


とはいえ、イワクラ学会の活動の延長線上で設立された日本天文考古学会で今後研究が進展していくのだと思います。

学会名称から、岩石以外の天文考古学に軸足を移していかないとならないことは自明と思われますが、考古天文学会議を主催する北條芳隆氏など、本職の考古学者との協業が進めば学術的な未来が見えてきそうだと楽しみに受け止めています。

天文学を中心に据えて、理系分野の方々が多いと拝察するので、文系歴史学にカウンターを食らわす学際の嚆矢になることを期待しています。

ただし、文系歴史学の知の蓄積も半端なく、門外漢がいっちょ噛みすると大やけどします。お互い敬意を持って協業できる将来を願います。

私も文系という限界の中で自分にできる研究をしてまいりますが、自分の問題意識の延長線上でご教授を乞う日がいつか来るでしょう。


2025年2月9日日曜日

鳴石/膳貸し石(山梨県北杜市)


山梨県北杜市大泉町谷戸

鳴石/膳貸し石

すぐ横に沢が流れる。


変事があると石が鳴ったことから鳴石の名がある。

この石に「~を貸してほしい」と頼むと必ず貸してくれた。
特に冠婚葬祭の折、膳椀を何人前分か貸してほしいと頼んでおくと、翌日に頼んだ分だけの品物が石の上に置かれていた。
使用後は、借りたものを石の上に置いておけば、やがて石の上から消えたという。

ある時、ある人が膳椀を壊したまま返したら、石は怒り、その後は一切反応しなくなったという。

この手の膳貸し・椀貸し伝説は各地に類例が見られる。

参考文献
土橋里木 『甲斐の伝説』 第一法規出版 1975年


2025年2月3日月曜日

橋杭岩(和歌山県東牟婁郡串本町)


和歌山県東牟婁郡串本町


紀伊串本の沖から南に浮かぶ紀伊大島に向かって、橋脚(橋杭)のように立ち並ぶ岩の列。
地質的には、マグマで形成された岩脈が後に黒潮の浸食で削られて現在の姿を見せたと考えられているが、すでに奇岩としては有名であるので本項では岩の名称と伝説についてまとめておく。

橋杭岩

名称

海岸に一番近いものを「峭立」と呼ぶ。
橋杭岩で一番高い岩を「稲荷島」と呼び、後は高さ順に「折島」「桃嶋」「平島」「鋏島」「チョンギリ島」「拝み島」「辨天嶋」「一の嶋」「二の嶋」と呼ぶらしい。
また、北に建つ大師堂に接する岩を「柱天巖」と呼ぶ。
(以上、庄司海村『古座川』ユヤ出版協会 1923年 より)

海岸に最も近い岩。「峭立」か。

写真中央が一番高い「稲荷島」か。


稲荷、辨天などの名称から、岩上や岩陰に小祠あるいは岩そのものを祠に見立ててまつった可能性がある。

伝説

弘法大師が紀伊の海岸から紀伊大島へ一夜のうちに橋を架けようとしたが、天邪鬼の邪魔によって鶏の声真似に騙されて、一夜で作れないと判断して取りやめた跡が橋杭岩という。

鬼が一夜のうちに橋を作ろうとしたが、同様に鶏が鳴いたので中止したという話もある。

紀伊大島の輿兵衛という漁夫が大島に橋を架けたいと祈願したところ、一夜で杭を建てれば上に橋を架けてやろうとお告げがあったので急いで作ったが、海の神が橋を作られると困るというので鶏の鳴き声を真似して輿兵衛はあきらめた。その後、輿兵衛は海に身を投げたためこれを哀れんだ神が橋杭岩の上に時折虹の橋を架けるという。

埼玉県坂戸市塚越や徳島県阿南市椿泊町にも橋杭岩と呼ばれるものがあり、岩を橋杭に見立てたもので同様の伝説が認められる。

(以上、日本放送協会編『日本伝説名彙』日本放送出版協会 1950年 より)

2025年1月26日日曜日

立石/立石様/活蘇石(東京都葛飾区)


東京都葛飾区立石


葛飾立石の地名の由来となった岩石。
石の露頭が地上から少し顔を出すくらいの、小さな石である。


石が立つという名前負けしているように思えるが、『江戸名所図会』に描かれた立石の姿は、現在のものよりも高さがある(といっても高さ一尺と記されるので約30㎝)。

立石稲荷神社

立石

なぜ小さくなったのかについては、長年の風化による説のほか、立石を打ち欠いて飲めば病が快癒するという一種の信仰習俗がかつてあって、その結果小さくなった可能性がある。


「立石」の地名はすでに、応永5年(1398年)の『下総国葛西御厨注文』に登場することから、少なくとも室町時代には立石が特別視された存在だったことが推測される。

江戸時代には、寒くなると石がどんどん欠けていくが、暖かくなると元の状態に戻る奇石として知られた。

文化2年(1805年)には地元の人々が、石の下はどうなってるのかと掘り進めたが石の根元は見えず、掘った人や近在の人々の間に悪病が蔓延。これは立石の崇りだということで祠を設け、立石稲荷神社としてまつるようになったという。

南蔵院所蔵旧記から写したという『持高』文政6年(1823年)に立石稲荷大明神の記述があり、そこには「神体活蘇石」の名称で記される。


鳥居龍蔵博士はこの「活蘇石」の名称に注目し、活蘇とは石が生きているという信仰を伝える証左であり、巨石文化研究に傾注していたことから立石を低地帯には珍しい「メンヒル(巨石文化における立石の事例)」とみなした。

その後、大場磐雄博士は「磐座=盤石状」「石神=立石状」という構図に当てはめ、立石を石神事例の1つであると考えた。


全国の石神事例と比して珍しいと思う点は、元は珍奇・好奇・特別視の対象から始まっていて、それが崇りによって畏敬の対象に昇華し、その後、石を欠く習俗によって親近的な信仰に、人々の感情が波打つように変遷してきたところにある。

元来は畏敬の対象だったものが、時代を追うごとに畏れを減じて親近・好奇の対象に変わるという一直線的な変遷はままあるが、あたかもジェットコースターのように感情の起伏が激しい立石は独特である。


ちなみに、この立石の石種は千葉県安房郡南鋸町の鋸山周辺でしか採れない房州石という鑑定結果があり、近くには房州石を用いて石室を構築した古墳があることから、立石は古墳の石室石材だったのではないかという見方もある。
立石の地中をレーダー探査したところ空洞構造が検出されたことから、古墳が埋没しているのではないかともされている。


京成電鉄立石駅のホームには立石の説明板とレプリカが置いてあり、こちらも一見の価値がある。


参考文献

  • 鳥居龍蔵「武蔵野のメンヒル」『鳥居龍蔵全集』第2巻,朝日新聞社,1975. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12143265 (参照 2025-01-26)
  • 大場磐雄「日本に於ける石信仰の考古学的考察」『國學院大學日本文化研究所紀要』第8輯 1961年
  • 現地看板


2025年1月20日月曜日

大場磐雄博士写真資料を追加

「大場磐雄博士写真資料」で公開されている岩石信仰に関する写真で、他で見られず資料性が高いと判断したものを、本ブログですでに紹介済の探訪記に追加しました。


後日、まだ本ブログで投稿してなかった葛飾の立石や、未訪ながら非公開で今後も写真撮影至難と思われる宇佐八幡の三つ石や長野の児玉石神事も本写真を利用して投稿予定です。


大場磐雄博士写真資料は、國學院大學デジタルミュージアムが公開するクリエイティブ・コモンズ・ライセンスのデータです。

クリエイティブ・コモンズ・ライセンスは、転載などの二次利用を著作権者が許諾した資料であり、大場磐雄博士写真資料もクレジット表記と非営利使用であることを条件に二次利用が許可されています。

今回、埋もれていた写真資料を再活用して、岩石信仰の記録としての資料価値を高められたことをありがたく思います。