2020年1月20日月曜日

立磐神社(奈良県奈良市)


奈良県奈良市大柳生町 夜支布山口神社境内

夜支布山口神社は延喜式内社だが、中世までは現社地から南600mの上出地区にあったという。
元々この地に鎮まっていたのは立磐神社(立盤神社とも)だった。
この地は大柳生の里を見渡せ、横には白砂川も流れる好立地と言える。

名前の通り磐石をまつる神社で、社殿が国指定重要文化財につき手前の石段を登れなくしているが、左右から斜面を登って立磐を拝むことができる。



高さ約3.5mとされる丸みを帯びた磐石が斜面から顔を出している。
これを「立磐」と称したのだろう。

現在は立磐の手前に社殿が建つが、社殿が設けられる延享4年(1774年)以前は社を持たなかったともいう。

境内社叢や周辺には数基の古墳の存在が確認されている。
古墳と立磐の関連性は不明である。


また、夜支布山口神社に向かう途中、路傍にこのようなものを見かけた。


2009年2月撮影

1体の岩石の手前に、藁で作った造形物が2つ置かれている。
何かの習俗かと思われるが人もおらずわからない。隣接する畑が、この岩石を避ける形で作られているのも思わせぶりだ。

場所は夜支布山口神社から1kmほど南へ行った、大平尾町へ向かう車道沿い。下に地図とストリートビューを埋め込んでおこう。




(2013年10月撮影とのこと)

私の探訪時とストリートビューでは、藁の造形物の置かれ方が異なる。
時期により岩石を取り巻く光景が変わるようである。
この岩石の詳細をご存知の方はご教示ください。

2020年1月19日日曜日

岩楠神社と絵島(兵庫県淡路市)


兵庫県淡路市岩屋

淡路島の北端近く、岩屋港に恵比須神社(戎神社)が鎮座する。
岩屋地区(古くは石屋とも)の産土神として崇敬を集めており、江戸時代に恵比須講が盛んになって勧請された。

この戎神社の背後に、境内社の岩楠神社(岩樟神社とも)がある。
岩樟神社は三対山の崖にできた岩窟で、濱岡きみ子氏の報告(1984年)によると、奥行き6m、高さ1.8m、幅2mの空洞を内部に持つという。




かつてはもっと長大な洞窟だったというが、背後の山上に岩屋城を築くときにこの岩窟の一部を崩したという話も伝わる。

地元では、伊弉諾尊が最終的にお隠れになった幽宮(最終的鎮座地・墓所)がこの岩窟であると信仰されている。

現在の祭神は国常立神・伊奘諾尊・伊奘冉尊の三柱だが、濱岡氏の調べでは『神社総社記』なる書物では月読尊となっており、また、長寛元年(1163年)の古記録では天地大明神なる神がまつられていたとある。

岩石信仰の観点から岩楠神社の岩窟を見ると、神霊の宿る空間を異界として明示する存在であり、異界の境界石のような働きでありながら、岩窟自体が内部構造に空洞をもつ神宿る岩石だったと考えることもできるだろう。岩窟祭祀の典型例の一つである。
恵比須信仰以前の当地の原初性を物語るのが岩楠神社の岩窟である。


なお、目と鼻の先の海岸に、絵島という岩の島がある。
伊弉諾・伊弉冉の国生み神話に登場する自凝島(オノコロ島)の候補地の一つとして知られている。



参考文献

濱岡きみ子「石屋神社」 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第3巻 摂津・河内・和泉・淡路』白水社 1984年

2020年1月13日月曜日

蓬莱山・阿須賀神社・白玉稲荷神社・宮井戸遺跡の岩石信仰(和歌山県新宮市)


和歌山県新宮市阿須賀~蓬莱

蓬莱山・阿須賀神社・白玉稲荷神社・宮井戸遺跡は、それぞれが歩いて行ける距離に集まっているので一度にこのページで紹介しておこう。

阿須賀神社と蓬莱山の祭祀遺跡


和歌山県新宮市にある阿須賀神社は延喜式内社で、熊野速玉大社の境外摂社。
熊野三山の信仰と深い関わりをもつ。飛鳥社の当て字でも知られた。

『熊野権現御垂迹縁起』『熊野社記』という書物によると、熊野速玉大神は今の阿須賀神社の近くに一時鎮座してから現速玉大社に遷ったともいわれる(木内武男氏『熊野阿須賀神社』1983年)。

熊野の神々の系譜から目を転じると、阿須賀神社は社殿裏にそびえる蓬莱山を神の地とする自然景観にも注目したい。
蓬莱山は標高48mの小さな山だが、平地にぽつんと突き出ているその三角形の山容は目立ち、そもそも元来は海中に浮かぶ小島だったと推定されている。

熊野川対岸の三重県側から望む蓬莱山

阿須賀神社と蓬莱山

蓬莱山の麓、すなわち阿須賀神社の境内からは、弥生時代末期から古墳時代初期にかけての3基の竪穴式住居址が出土している(阿須賀神社境内遺跡)。

住居址とともに、陶磁器の破片、須恵器の破片、土師器の破片、弥生土器の破片、土錘、紡錘車、鉄鏃の破片、少量の石器が見つかった。
弥生土器の属性から、弥生後期前葉(1世紀~2世紀)以降、古墳時代に至るまでこの一帯で生活が営まれていたと考えられている。

阿須賀神社境内遺跡(境内で史跡整備されている)

さらに、蓬莱山の中からは、平安~室町時代における仏教関連の祭祀遺構・遺物が豊富に出土した。

神社本殿の西脇を上オンビ、東脇を下オンビと呼んでいる。
オンビの意味については「御幣(おんべ)」ではないかと木内氏前掲書で紹介されている。

この上オンビに、子安石という霊石があったと伝えられ、現地に子安塚が現存する。

子安塚

子安塚に献じられた玉石

上オンビのあたり

考古学者の大場磐雄博士は、氏の人生の中で少なくとも3回当地を訪れていることを自身のメモ『楽石雑筆』に記しており、そこで子安石と子安塚について以下の通り明らかにしている。

現本殿に向って左方に子安石と称する自然石竪居せりと、戦災のため破壊せりといふ、且つこの附近を「上オンビ」と呼ぶといふ。(昭和28年8月31日)
(略)
上オンビに子安塚あり、丸石をあげており、もとここに子安石ありしところ、ここは速玉社の例祭にも神倉社の火祭りにも奉幣の式あり、またここより少し上手に上りしところに巌窟ありて、御正体の出土せしところなりという。(昭和37年8月5日)(以上、『記録―考古学史 楽石雑筆(補)』2016年より)

つまり、子安石は戦災で破壊され現存しておらず、現在それらしく屹立する立石は子安石を偲ぶ子安塚であるということだ。
この情報を入手するまでは、現状の立石が子安石と勘違いしていたので、重要な事実としてここに注記しておきたい。

さて、この子安石の裏は蓬莱山の端に当たり、そこから組石や敷石の人為的な遺構が見つかった。また、蓬莱山の南斜面に露出する巨石(自然石)を壁として利用し、その前面三方に石を組み合わせた石室(岩窟)遺構が見つかり、そこから御正体(鏡像・懸仏の総称で、鏡に本地仏を刻し祭祀対象や埋納祭具として使用したもの)総数194枚や、経筒片・経石などの経塚関係遺物が出土した。

他にも上オンビ、下オンビ一帯からは弥生時代の土器や古墳時代の手づくね土器、滑石製模造品なども見つかっている。
仏教祭祀以前の痕跡であり、遺物の性格から単なる生活の痕跡とは言えず、仏教祭祀以前の山岳祭祀があった可能性も捨て切れない。

なお、蓬莱山の熊野川寄りの海岸を「こりかけ場(垢離所)」と呼んでいる。


白玉稲荷神社


阿須賀神社のすぐ南へ足を向けると、住宅地にぽつんと存在する小さな社・白玉稲荷神社がある。
社殿のすぐ裏に、社殿を覆い尽くさんばかりの巨岩が2体あり、社殿向かって右にもまな板状の巨岩が1体寄り添っている。



元来は岩礁のひとつであっただろうことは、ここが熊野川、そして太平洋と目と鼻の先の場所にあることからもわかる。

単なる岩礁ならばそこに社がまつられる必然性はなく、後年、宅地開発のなかで社は遷座されるか、邪魔な岩扱いとして現在までに破壊されていただろう。
しかし、現状はこれらの巨岩群を避けるように住宅が建てられている。子供の遊び場となりやすいためか、「立ち入り禁止」の柵を張りながらも、岩の撤去はされていない。

「白玉」は、裏にそびえる球状の岩石群が、日光に反射して白く輝いた玉石を形容したものなのか、熊野に多い玉石信仰と、その玉石の巨大化した形状が相まって神聖視されたものなのかと類推される。


宮井戸社・宮井戸遺跡・千引の岩


熊野川の河口沿いに、こんもりとした森が残っている。宮井戸の森という。
外から一瞥するだけでは通り過ぎてしまいそうだが、森の中に踏み入れると雰囲気は一変し、森のそこかしこに自然露出の岩群が密集して岩山を形成している。




森の中には宮井戸社が鎮座し、古絵図には宮戸社として記録される場所だった。
いつの頃からかまつられていたかは不詳であるが、かつては海に囲まれた岩の島だったといわれ、飛鳥行人という者が創祀したという。
祭神は黄泉道守命で、熊野川の入口を黄泉国と見立てた信仰によるものか。

黄泉国信仰には、森の岩山にも向けられており、岩山全体を含めて「千引の岩」あるいは「千引岩」と呼んでいる。
黄泉国を塞いだ日本神話の千引岩を、河口という「境界」に群集する宮井戸の岩山に準えたのだろう。

千引の岩の一つには「キリーク」「カーンマーン」の梵字が刻まれ、それぞれ「大威徳明王」「不動明王」に該当する。
鎌倉時代の刻字と考えられているが、現地看板によると『熊野年代記』には文明3年(1471年)「本地梵字彫スル」との記述があるという。

千引の岩に刻まれた梵字

梵字だけでなく、森からは一字一石経も見つかっている。
仏教の聖地として神聖視されていたことは明らかだが、さらに、当地からは弥生土器も出土していて、宮井戸遺跡として文化財指定されている。
この発掘調査を主導された大場磐雄博士の野帳から下記引用しておこう。

宮戸神社千引岩・土器類出土・アスカの北の貴弥ヶ谷。子安石下より出土せしもの弥生式土器片。(略)千引岩 この石の下から経石あり。(昭和38年8月)(『記録―考古学史 楽石雑筆(補)』2016年)

蓬莱山の子安石、宮井戸の岩山ともに、弥生土器を伴出したことがわかる。
ただ、弥生土器の出土をもって、祭祀にまで結びつけていいのかは即断できない。

宮井戸社は明治時代に阿須賀神社に合祀されたため現存していないが、現在は地蔵堂が建っている。

宮井戸遺跡に建つ地蔵堂と遺跡説明看板


補足・新宮の徐福伝説


蓬莱山の名称は、後世に広まった秦の始皇帝の徐福伝説にちなむ命名と考えられている。

徐福伝承地は南は佐賀県、北は青森県まで数十ヶ所伝わるが、阿須賀神社境内には「徐福之宮」という徐福をまつる神社から、徐福上陸碑、徐福の墓、徐福公園まである。

徐福之宮(阿須賀神社境内)

秦徐福上陸之地(記念碑)

徐福の墓の起源ははっきりしており、元文元年(1736年)、江戸幕府紀州藩祖の徳川頼宣の命で設けられたものである。
新宮の徐福伝説は江戸時代には知られていたことがわかる。
中国元王朝の支配を嫌い、日本へやってきた仏僧・無学祖元がこの新宮で徐福を偲ぶ詩歌を残しているので、鎌倉時代まで新宮の徐福伝説は遡れるそうである。


参考文献


  • 木内武男『熊野阿須賀神社』 1983年
  • 山下立『特別展 阿須賀神社の御正体』 新宮市立歴史民俗資料館・南紀熊野体験博 新宮市実行委員会 1999年
  • 小賀直樹「住居」『和歌山の研究』第1巻 地質・考古篇 津文堂出版 1979年
  • 新宮市史編さん委員会 「古代新宮の息吹き」『新宮市史』 新宮市役所 1972年
  • 和歌山県史編さん委員会 「阿須賀神社遺跡」『和歌山県史 考古資料』 和歌山県 1983年
  • 茂木雅博(書写・解説)・大場磐雄(著) 『記録―考古学史 楽石雑筆(補)』博古研究会 2016年


2020年1月12日日曜日

笠石大明神(山梨県山梨市)


山梨県山梨市牧丘町西保中芦の沢

笠石大明神は笠石神社とも呼ばれ、芦の沢集落の鎮守である。

集落に入ると、数人の大人に引き連れられて大勢の子供達が集まっていた。どうやらお祭りの最中に偶々訪れたらしい。

祭りをされていた方々に尋ねたら、地区内の一軒一軒で獅子舞を演じて、その家の厄を祓っているのだとおっしゃる。
太鼓を叩く子供達と囃子唄も伴う。
元々は小正月(1月15日)に行なっていたらしいが、子供の集まれる休日の方が良いという理由で、探訪時(2008年)は日曜日の1月20日に執り行われていた。

何軒分か私も祭列に混ぜさせていただいた。聞くと朝の6時から夕方の5時まで、約70軒をこなすのだとか。祭りをさらっと見ている分には見過ごしてしまいそうだが、神楽自体も4種類あり、1つ1つがしっかりしたものだった。

さすがに全軒付き合っていたら夜になってしまうので、一足先に抜けさせてもらい、笠石大明神へ向かった。

写真中央の鳥居奥が笠石大明神。集落の上、山の端。

芦の沢集落の一番奥、山の入口に控えているのが笠石大明神である。
祭神は天照大神で、覆屋の中に鎮まる社は室町時代末期の作風と推定され、県指定文化財となっている。

教育委員会設置の看板

社殿の背後斜面に、数体の岩が顔を出している。




岩には亀裂が横切っているものが複数あり、それが結果的に「積み重ねた」ようにも見える。
笠をかぶせた様子にも準えることができ、笠石の名前がこの光景から由来していることが容易にうかがえた。

これらの岩々に特定の伝説や神格などは付帯していないようだが、山の端に立地して集落を見守る位置に鎮座することや、岩群の前に社殿を築いたことなどは、社殿以前に山の神に根差した岩石信仰が先行していたことを示す典型的な岩石祭祀の場と言ってよい。

また、下記のwebページによれば、笠石の上で5月5日に子供達がお重を食べる風習があったことを聞き取っている。

風と土の記録 笠石大明神~山梨三大石~

これは、同市山根地区にある八嶽山神社の夫婦岩で私が聞き取った風習とまったく同じであり、地域一帯では端午の節句において、岩石の上で子どもが母親の作る特別なハレの料理を食べて(おそらく)成長を願うという一種の信仰があったことをにおわせる。

八嶽山神社・夫婦岩・奥の院天宮神社(山梨県山梨市)


2020年1月6日月曜日

筥石神社の箱石と陰陽石(女石・男石)(長野県駒ケ根市)


長野県駒ケ根市東伊那

「鎌倉時代に『箱石』と記録され、領地の境界石として目ざされており、地域周辺では当時、有名な石であった」
「『箱石』の上には、『男石』『女石』と呼ばれてきた性器形の大自然石がある。子宝を授ける神として篤く信仰されている」(現地看板)

現地には「筥石神社の陰陽石」と題して看板が立ち、上記のとおり由来が整理されている。

しかし、それ以上の情報がなかなか出てこない場所で、そのためか巨石・磐座の書籍でもあまり取り上げられることが少ない。
『駒ヶ根市誌 現代編』下巻(1974年)には「筥石社」として掲載されているようだが私は未読である。

現地は、天竜川沿いの大久保という地区にあたり、川と山に挟まれた集落の中に岩が群れている。

筥石神社と手前を流れる天竜川

箱石
社殿の背後にそびえる岩塊が、社名の由来となった箱石である。

箱石の上に男石・女石があるという。
箱石の横を迂回するように斜面にとりつくことができる。

箱石の頂上
下から見ても箱形の岩塊だったが、頂上に登るといっそう「箱」感が際立つ。
直方体状に割れた岩石が、箱石の上に乗っかるようにゴロゴロしている。

箱石の先端部

箱石の先端には、特別に注連が張られた場所が一区画あり、それが男石・女石、つまり陰陽石を指す。

女石

男石

陰陽石の造形が自然の産物か、手を入れて祭祀化したものかは判別できない。

箱石の上だけでなく、その周辺には大小の露岩群が分布している。

箱石に隣接する露岩群
境内の石碑・石塔群

帰宅後にわかったことだが、筥石神社からすぐ南東の善福寺にも「巨石群」があるらしい。
この山帯が露岩を多く有する山なのだろう。

鎌倉時代以前の箱石の歴史は想像を巡らせるしかないが、この地区に人が居を構えてムラとなったからには、人々の紐帯として産土神が必要とされ、それが筥石神社だった。

2020年1月3日金曜日

磐座と歴史学を研究するときに注意したい5つのこと


磐座や巨石信仰のことを知りたいと思ったとき、インターネットや本でたくさんの情報に出会います。

私も折に触れて検索や文献収集をしているのですが、ある視点が少ないと感じました。
それは、磐座や巨石信仰は歴史的な文化財、ということです。

このページでは、磐座や巨石信仰をこれから勉強してみたいと思った方のために、歴史学という学問でできそうなことを5つのポイントにまとめておきます。

1.歴史学の基本的な方法を知る


歴史には、ついついロマンを求めてしまいがちです。
それは全否定されるものでもありませんが、歴史が現代人に娯楽的に消費されるための素材だけになってしまっては、少々もったいないです。

あと、歴史に対して失礼かも。

そこで、一歩冷静になって歴史を取り扱うための作法のようなものが歴史学です。

歴史学は科学の一分野です。
科学なので、大前提は「追試ができること」です。
研究者がある説を唱えたとして、他のだれでも同じ方法で調べれば、同じ結果が出るという再現性がないと、それは科学ではなく、歴史学ではありません。

だから、調査方法や、調査に使った資料が公表されていない文章は、追試ができないという点で失格です。
磐座や巨石信仰は宗教的な性格を帯びるので、霊能者のお告げやパワーを感じるなどの理由が使われるケースがありますが、これは歴史学ではないので注意しましょう。

歴史資料は、文献資料・考古資料・民俗資料の3種類に分かれます。
それぞれの特性を把握して取り扱いたいところです。


■文献資料

文字で書かれた資料。古文書などです。
古文書は実物をおいそれと見られるものではないですし、崩し字が読めない、昔の言葉の意味が今の言葉の意味と異なるなど、扱う上でのハードルがあります。

実物でない場合は、なるべく信頼できるソースに当たりましょう。具体的には、翻刻・活字化された文章を選ぶことです。
意訳・現代語訳された文章に拠るのは危険です。訳した人の主張が混ざります。

また、文献資料は、文字が書けた人の立場の歴史であるということも注意ポイントです。文字を残せなかった立場の人々の方が多かったということを、特に地域の信仰となりやすい岩石信仰においては含んでおかないといけません。

■考古資料

地中に残る資料。遺跡・遺構・遺物を指します。
文字が残っていない時代のことを研究する場合には、一番使うことになる資料です。

でも、発掘は勝手にできません。
というか、法律的にもしてはいけません。 
ときどき、磐座や巨石の周りを掘ってしまっている人がいます。アウトですのでご注意ください。

考古学では、土の中から見つかった資料を、事細かに記録します。なぜかというと、一度堀ったところは二度と同じように戻せないからです。地層がぶっ壊されるので。
歴史の真相を知りたい!という浪漫心で地中を掘ってしまうのは我欲です。土の下の歴史は永久に復元できなくなります。だから、考古資料は考古学の技術がある組織に委ねましょう。

ということで、考古資料を取り扱う際も、多くの場合は実際の発掘を通して知るのではなく、専門の方が発掘して記録した発掘調査報告書を参考にすることになります。

この点で、考古資料は発掘調査者という人間を通して文献資料化してしまいます。
さらに、それをどう取り扱うかは、文字がないからこそ資料からメッセージがダイレクトに伝わらず、より研究者自身の価値観に委ねられます。


■民俗資料

民俗資料は、文字で書かれた資料や、土の下から出る資料から零れ落ちたものになります。

民俗学といえば伝説・昔話や祭り・風習などが知られますが、伝説や昔話は「口」を介して残る資料であり、祭りや風習は「動作」を介して残る資料という点で、民俗資料の特徴をよくとらえています。

おおむね、固定化しない人の言動資料ともいったところです。
民俗資料は古文書や考古資料に比べ、村の古老の聞き取りや観察などを通して自分で開拓できますが、だからこそ注意点があります。

それは、調査対象が一人の生きている人間であり、調べようとしていることは、目で見えず手で触れないような「言葉」「心」を扱うということです。
実体のないものはこちらの誘導の仕方や、相手の態度次第で変幻自在に形を変えます。そもそも「資料」化できるかどうかが注意ポイントです。


2.資料批判(史料批判)をしているか


歴史資料というものが、いろいろな取り扱いのハードルがあることを見てきました。

つまり、人が介する限り、歴史資料は「主観」から逃れられないということです。

人が書いた文章、人が話したこと、人が思ったこと、すべて主観的です。
どの立場、思惑、意図で書かれたのか、これらは歴史の語られ方を限定していきます。

だから、資料批判(史料批判)をしないといけません。
その文献に書いてあることの批判、その考古資料のとらえ方の批判、その聞き取り観察情報の批判。

こんな状態ですので、できるかぎり信頼できる資料を使うのは最低限の作法です。
いわゆる一次資料、原典と呼ばれるものです。
また、研究者自身も批判され、その批判に打ち克った研究者の文章を参考にすることも大事です。
追試・再現性の原則に照らし合わせて、すこしでも信頼性に欠けるものは、一片の真実が含まれていたとしても、自分にとって都合の良い情報だったとしても、それを追試再現する術がないかぎり、資料として使わないことが研究者自身に課せられた冷徹な態度です。

3.信じていい情報かどうかの見分け方


テクニック的なところでいえば、その文章における参考文献の挙げかたである程度、情報の信頼性の見分けができます(絶対ではないですので例外は常にあると思ってお読みください)。

論文を引用していない。特に、査読つきの雑誌の論文を引用していないのは危険臭が漂います。
査読とは、論文が審査されて実際に不掲載ということが起こりえないと、本当の意味での査読とはいいがたく、そのような査読雑誌がどうか見極めるのは難しいですが。

雑誌論文は、雑誌ごとでの信頼性というのがある程度見極めの基準になります。
学術性・専門性が上がれば上がるほど、一般書店には置かれなくなるので、知名度=信頼性というわけではありません。

マニアックな雑誌ほどいいというわけではありませんが、一般書籍を参照しただけで構成された文章は、そのまま調べ方の浅さを示すようなものです。

そもそも出典を示さない文章であれば、それは追試・再現ができない可能性が上がります。
また、インターネットであれば、同じワードで検索してみることをおすすめします。どこかのだれかの文の転載ということも往々にしてあります。
同じことを、すでに昔の方が書いていたという場合もあります。

参考文献と似ていることとして、先行研究が上がっていない研究も危険です。それまでの研究者へ失礼にもなります。

同じ結論の繰り返しでは研究になりません。解明されていない余地を取り上げ、どこまでわかっていて、どこがわかっていないのかを明らかにすることで、後学に資する研究となります。

さらに、研究は常に更新されているので、最近の研究も取り上げられているか。これは、研究者自身がアンテナを張って勉強し続けているかの証明になります。

歴史自体も常に進んでいます。
ある時点での歴史が、それ以前も永久不変と考えたり、それ以降も永久不変と考えたりしないことです。
歴史自体も、解明されていないことが多いわけですから、常にアップデートされているつもりで危機感をもって情報収集したいところです。

主張のしかたも注意です。
結論が最初から決まっていると、すべての資料や論理がその結論のために染まっていきます。前提条件がない、仮定に仮定を重ねるなど…。
主張に、常に自己批判が伴っているかが、文章の信頼性を担保します。

歴史に、自身の政治的主張と絡めるケースもあります。
結果的に自然と、という場合もありますが、これも結論が政治的信条や宗教的信条にある場合は、途中の文章がすべて主観に染まっていきます。
アカデミズムへの毛嫌いをする文章も、この点で主観から逸脱しやすいです。アカデミズムを批判するなら、アマチュアリズムも批判してこそです。自らと、自らの同胞も批判して研究者です。

4.自己批判しているか


これをつきつめると、自己批判精神と言ってもいいでしょう。

自分すら一人の人間として客観的でいられないと考えて、主観的な自分をたえず批判できなければ、歴史にタッチするのは危険な行為と思ってよいでしょう。

現場や経験を数多く知っていると自負する経験主義は、だからこそなおさら危険です。
歴史の場合は、特に。価値観が同じである保証はないので、ならばまだ資料第一主義のほうが妥当性があります。

目の前にある現場、現物、資料は事実そのものだが、それを見た人間は事実どおりに受け止められなかったりするし、意図的でない嘘もついたりします。

人を介した情報には、事実と解釈が入り交ざります。
事実と解釈をひとつずつ、より分けましょう。そして、事実は事実だけでまとめて、解釈は解釈でまとめ、取り扱いを別にする文章に再構築しましょう。

また、資料として残っているのは、過去にあったすべての事象のうちのごく一部だけという前提も覚えておくことが大切です。
これは、残っている資料がすべての歴史と思わないところにあります。
書かれていないこと=ゼロではありません。

同様に、自分の推論と当てはまるものだけで研究をするのではなく、当てはまらなかったものに対する解釈も怠らないことです。

5.過去の人々を裁くという重みを知る


「こうである」と、一択で結論を出す行為は危険です。

いま生きている目の前の人のことすらはっきりわからないのに、過去のある地点の人を文字化するという重みです。

注意点としては、自分の都合の悪い事実ほど大切にしましょう。

歴史が好きで歴史研究をしているんだという自分の偏愛を自覚し、一歩離れた姿勢を持つと、ちょうどよいかもしれません。

そのほか

5項目を書いてしまい、文量も多くなりましたので、このあたりで区切っておきます。
あと書こうと思っていたことを、備忘録ついでにメモしておきます。


  1. 信仰している人には、敬意を払うが、信じすぎないこと。
  2. スピリチュアルとのつきあいかた…歴史に軽重はないので、スピリチュアルも歴史と捉える。自分が歴史に取り込まれるかどうかはまた別問題。
  3. 信仰は、かならずしも論理的ではないということ。感情の世界、無意識の世界、平常の意識ではない状態。それを覗き見ようとするある種で危険な行為。
  4. 祭神・神話とのつきあいかた…明治時代以降の神仏分離、神社合祀を調べておくのは前提条件。江戸時代以前も祭神の変更、勧請が山のようにあり、固定的でなかったこと。
  5. 話者の後天的知識に注意…今は情報化・グローバリズムの時代です。古老が教科書知識で語る可能性も。
  6. 使う用語にこだわる…しょせん用語、定義とか言ってしまうとまずい。自分への過信と、読者への配慮不足、言葉を大切に扱えない研究の信頼性。用語にこだわるのは、自分を信用していないから。
  7. 神道、古神道、原始神道、アニミズム、縄文といった言葉がもつ心地よい響きにだまされない。
  8. データを集める…1例だけですべてを覆さない。資料は、年代の検討をしたうえで扱いを変える。データ収集は面倒な作業だが、面倒な作業に頭をつっこんでこそ自己批判。研究=好きなことだけをすることではない。
  9. かならずといっていいほど、そのテーマを解明するために、自分の専門外のことも勉強しないといけない段階が出てくる。
  10. 今、身の回りにある文化・伝統がいつからあるか、自分の思考回路がいつからの常識かを疑う。「古そうなもの」は「新しいもの」ではないかと、疑う。一方、「新しいアイデア」は「古くから存在していたものではないか」とも疑う。



2019年12月24日火曜日

小夜の中山の夜泣石(静岡県掛川市)


静岡県掛川市佐夜鹿

昭和四六年夏、大場先生とともに小夜の中山を歩き、夜泣石について語り合ったことがあったが、それも、もう遠い日の思い出となってしまった。小夜の中山には扇屋という峠茶屋があり、その茶屋には、小夜の中山の歴史と伝承に非常に詳しく、茶店で「子育飴」などを鬻いで日を送る一人住まいの媼がいた。媼は、碩学の大場先生に滔々蜿蜒と小夜の中山談義を続けて捲むことがなかった。(略)後日の大場先生のお便りには、「しい語りする媼には小夜姫の霊が憑いているような気がしました」と書かれていた。
野本寛一氏『石と日本人』樹石社 1982年

夜泣石、夜泣き石と呼ばれる岩石は日本各地に見られるが、ここで紹介する夜泣石は代表格と言えるものだろう。
遠州七不思議の一つ「小夜の中山の夜泣石」の伝説で著名な存在である。

小夜の中山の夜泣石

小夜の中山は、東海道中の峠の一つをそう呼ぶ。
道中、ここである妊婦が岩石にもたれて休憩していたところ、金目当ての山賊に切り殺された。
切っ先が岩石に当たったので、お腹にいた胎児まで刃は届かず、赤ん坊は無事だった。
その後、岩石の泣き声が山頂の久延寺の住職の耳に届いて赤ん坊は助かったという。

妊婦の魂は岩石に宿ったのか、毎夜毎夜岩石から泣き声がしたことから夜泣石と呼ばれたという。

伝説は続く。
生まれた赤ん坊は音八と名付けられ成長した。ある日、刃研ぎ師になるようにとの霊夢を見て研ぎ師に就いた。
そんなある日、一人の侍が刃こぼれのある刀を持参し刃研ぎを希望したが、会話の中でこれが亡き母を斬った刀であることを悟った音八は、ついに本願を果たしたといいます。
悔恨の念に苛まされた侍と語り合い母の御魂を鎮めたとも、かたきとして侍を討ったともいい、伝説の細部にはバリエーションがある。

さらに、この伝説を聞いた弘法大師が、夜泣石の表面に南無阿弥陀仏の刻字を施したという付会も伝わる。

夜泣石に刻まれた刻字

以上が夜泣石伝説だが、夜泣石伝説が定着した後の夜泣石は、さらに二次的な逸話を生み出していく。

夜泣石は伝説の内容からもわかるように東海道の真ん中にあったが、明治時代にはいり天皇の行幸にあわせて道の脇に動かされた。

その後、明治13年に東京で催された博覧会に、見世物としてこの夜泣石が出展されることになった。わざわざ海路で運ばれたが、なんと帰路の途中で運送資金がなくなりしばらく焼津に放置されたという。その後しばらくして、篤志家によって現在地に戻された。
波乱の石人生だが、石がどこにあろうと、石そのものに霊性を認めたからこそ、どこにいても夜泣石は常に夜泣石としての認識を浴びていたのだといえる。

ちなみに、昭和11年にも東京の催事に夜泣石は出品され、その時の計測では重量は約三百貫(1125kg)だったと記録される。

現所在地について補記すると、実際の小夜の中山からは少し北に行った国道1号線沿いであり、アクセスは格段に楽になった。
ここには、音八がこれを食べて育ったという子育飴の小泉屋があり、小泉屋の南に覆い屋つきで夜泣石が保存されている。


なお、久延寺には後世に創られた夜泣石や、別の伝説にちなむ孕み石という岩石がある。小夜の中山の夜泣石伝説自体が別の伝説を下地にして形成されたものであるとか色んな話に事欠かない。

岩石の役割としては、妊婦の魂を宿らせるという超常的な力を伝えるが、泣き続ける以上の何かはなく、即、祭祀や信仰につながったということはなかったようだ。
唯一、弘法大師が石に南無阿弥陀仏を刻んだという伝承が、岩石信仰の要素として挙げられる。岩石に神聖な存在による字が刻まれることで、夜泣石は「悲しい歴史に向ける鎮魂の装置」に変じた。
現在、夜泣石の手前には賽銭箱や手向けの花が供えられているが、これも鎮魂行為の延長と言えるだろう。

2019年12月22日日曜日

拾石の大巖神社とたび石(愛知県蒲郡市)


愛知県蒲郡市拾石町

大巖神社

大巖神社の名前のとおり、大巖が社殿の背後にひかえている。
屏風のように横に広がる岩肌と形容すればいいだろうか。

中根洋治氏は「蒲郡市の大巖神社」(『愛知発 巨石信仰』2002年)のなかで、蒲郡市博物館職員の方へ聞き取りをしており、社殿内には金色の御幣が立ち、大岩を酒で洗ったり、餅でこすったりして雨乞いをしたとの談を記している。

大巖神社の境内の目の前には「拾石川」が横切っており、川を隔てて鳥居が建つ。
川・酒・雨乞いの水要素と、拾石・大巖の岩石要素が絡み合う。

拾石川

さて、拾石川が流れる拾石町には、拾石神社がある。
ちょうど大巖神社の岩肌の上に登ったところが素戔嗚神社の境内になっていて、素戔嗚神社の別称を拾石神社と呼ぶ。

拾石の地名の語源は調べ切れていないが、素戔嗚神社には「たび石」という奇石が安置されている。

岩盤の上に置かれた「たび石」

現地看板を引用しておく。
「天正の頃、深溝の城主松平家忠が、浜松に居る家康の所へ伺向する毎にいつも、ここに参拝して旅の無事を祈るのを常とした。それから後、里人はこれを“たび石”と呼び遠き旅立ちにはおまいりして家忠にあやかり無事を祈ったと伝えられている。」

出典


  • 現地看板
  • 中根洋治 「蒲郡市の大巖神社」 『愛知発 巨石信仰』 愛知磐座研究会 2002年


2019年12月15日日曜日

三河本宮山・砥鹿神社奥宮・岩戸神社の岩石信仰(愛知県豊川市・岡崎市・新城市)



愛知県豊川市・岡崎市・新城市にかけてそびえる東三河最高峰、標高789.2mの本宮山。
一称に本茂(ほのしげ)山の名がある。

愛知県犬山市にある本宮山(標高292.8m)と区別するため、犬山市のものを尾張本宮山、当山を三河本宮山と通称することがある。

麓に鎮座する三河国一宮の砥鹿神社(豊川市一宮町)の神体山として信仰され、麓に通称・里宮が鎮まるのに対し、本宮山頂には砥鹿神社奥宮が鎮まる。
また、山頂には奥宮とは別に「奥の院 岩戸神社」もあり、山中各所に岩石信仰の地が残る。
本記事では、現地の状況と残された文献記録をまとめておく。

本宮山の岩場

馬背岩


本宮山南麓の長山登山口から砥鹿神社奥宮をつなぐ表参道には、1~50町目までの石標が立ち登山の目安となる。

ちょうど折り返しの26町目を越した辺りから、名前の付いた岩石が登場しだす。
まず、26町目~27町目に馬背岩(馬の背岩)が存在する。

馬背岩

岩石の形状を事物になぞらえる、いわゆる「姿石」の1つと思われるが、中近世、修験者の行場にもなったから岩に名がつけられた可能性がある。

杉下五十男氏は『本宮山あれこれ探索』(2017年)で「馬の背岩は梯子岩の上に連続するので、現在の標識位置は不適切である」と記しており、注意を要している。

蛙岩


28町目は麓の見晴らしが良く展望台も造られた好立地で、展望台の手前に蛙岩がある。
この蛙岩は参照した文献群には記されていないので、最近の命名だろうか。

蛙岩

日月岩


展望台を越したらすぐに日月岩(ひづきいわ)に出会う。
弘法大師による刻字と伝承される「日月」の線刻が岩石表面に見られ、この線刻を小石でなぞると筆の腕が上がると信じられる。

日月岩

ゑびす岩と天狗岩


37町目に石鳥居が建ち、「是より 霊峯本宮山 砥鹿神社境内」と書いてある。

ここから東を望むと、谷間を挟んだ東尾根上に天狗岩が見え、西を望むと、谷間を挟んだ西尾根上にえびす岩が見えるとの標識が立つが、森が深くどちらの岩石も肉眼で確認できなかった。

看板は建つが見えない。


ゑびす岩は鯛釣岩、または行人岩の名前も残る。岩の頂に行人が座して修行したという。

天狗岩は立岩の別称もあり、天狗の棲み処としての民話が残る。

表参道上にないため到達は至難だが、先出の杉下五十男氏『本宮山あれこれ探索』では両岩への踏査を敢行し、一節を設けて詳細なレポートを上げている。

杉下氏の踏査によれば、荒沢の右又沢の最上部の滝を越えた奥に、高さ約26mの岩峰があり、中腹に角ばった岩が出っ張っている。これがゑびす岩と思われるが、長居無用を感じさせる危険な場所だという。
天狗岩は林道上に標識もあり、天狗岩の頂上まではアクセス容易とのことである。杉下氏は全貌を確認すべく天狗岩の下部までザイル懸垂をおこない、高さ約50mの「フレミングの右手」のような三段構成の岩峰であることを明らかにしている。

山姥の足跡


32町目には山姥坂と呼ばれる斜面が広がり、39町目は地表面に露岩が多く見られる。
この岩盤の最上部を「山姥の足跡」と呼ぶ。

39町目に広がる露岩群

山姥の足跡(写真中央の窪み)

本宮山の山姥伝説は、かつて怪力を持った山姥がおり、本宮山と石巻山に足を跨げて豊川で髪を洗ったという内容である。
変型として、山姥が本宮山と吉祥山をまたいで小便したら豊川になったというものもある。

その山姥が本宮山に足を乗せた時についた足跡がこれだ。
登山時・下山時、靴底をこの足跡に擦らせると足が軽くなり、下山時、これをし忘れると逆に足が重くなるという話がある。
現代説話のように見えるが、1944年の『三河国一宮砥鹿神社史』にも「登山者はその窪みに足を入れゝば、疲れを軽くすると傳へてゐる」と書いてあり、戦前まで遡る習俗であることは間違いない。

「天の磐座」


山頂直下に青銅鳥居が建ち、ここから第一神域との標示がある。砥鹿神社奥宮境内に入る。
鳥居の奥一帯に露岩群が広がり、傍らに「天の磐座」の立て札が見える。


しかし、参考文献群を開く限り古文献には「天の磐座」の名称はなく、磐座という用語自体、本宮山の岩石信仰には用いられてこなかった。
いわゆる、磐座研究が戦前におこなわれたなかで後世付会された名称と判断できる。

現状の扱いを想像するに、どれか特定の岩石を「天の磐座」と定めたものではなく、一帯に分布する岩石群全体を総称したのだろう。

露岩群の上を表参道が通る形となるため、一部の露岩が人為的に切削されている。
遠山正雄氏は「『いはくら』について」第3回 (『皇学』第1巻第5号、1933年)のなかで、この本宮山奥宮の露岩改変工事に触れている。
「本宮とイハクラと思しき處との間一丁餘の間を、態々無理して小道を開き、あまつさへ累々たる巨巖の一部を無残にも破壊されております。之は新しき工事であり、その當時の責任者も分つて居るそうでありますが、我々はその無智を愍むよりは、あまりの心なしの無謀に呆然たらざるを得ぬ次第であります。」
磐座を愛するがあまりの感情ほとばしった一文で、事の善悪は本来ないものであるが、現在残る岩石信仰の地の今後の扱いにおいて警鐘の句となるのではないか。

石段を取ればそこは一大岩盤だっただろう。

元は一つの母岩を掘削して通路を造ったように見える。

荒羽々気神社


奥宮末社。
国幣小社砥鹿神社社務所編『三河国一宮砥鹿神社史』(1944年)の記述によると、祭神は大己貴命荒魂一柱で、由来は不明とのこと。
社殿の背後に巨岩が位置するが、神社としては特に関連性は指摘していない。

荒羽々気神社(写真右奥)

八柱神社


奥宮末社。五男三女神の八柱を祭神とし、江戸時代には八王子社と呼ばれた。
荒羽々気神社と同じく、社殿の背後に巨岩が控え、こちらは隣接しているためか、『三河国一宮砥鹿神社史』においても「一巨巌を背景として鎮まります」と記される。

八柱神社

行人岩/廻々岩


廻々岩は「めいめい岩」と読む。
斜面地表面から60度ぐらいの角度で立石が屹立している。

手を使わずにこの岩の先端まで登り、戻ってくることができたら願望成就という霊岩。
今は石の頂部に登ってはいけないようだ。

上から撮影

下から撮影

国見岩と岩戸神社(奥の院)


奥宮からは西方の谷間に、奥の院・岩戸神社が鎮座する。
山頂駐車場の南端に赤鳥居があるのでそれを道なりに進むと、5分ほどで柵内に囲われた国見岩に到着する。

国見岩

国見岩にも「天の磐座」の標示がある。やはり、天の磐座は特定の岩石の固有名称を指すのではなく、山頂一帯の岩石信仰の場を総称した表現であることがわかる。

その一角を担う国見岩は「昔、大己貴命がこの岩山に神霊を留め、この岩上から国見をして、“穂の国”を造ったといわれる」場所だ。
砥鹿神社信仰の最淵源と言える。


実は国見岩は、岩戸神社を構成する岩峰の最上部のみを指した名である。
つまり、国見岩を下ると岩戸神社にたどりつく。

今でこそ奥の院への参拝方向は「山頂→国見岩→岩戸神社」が一般的だろうが、元来は「谷間→岩戸神社→国見岩→山頂」で、それが修行にもなっていただろう。私達とは異なる体感のしかたをしていた。そのことを考慮しなければ、この場所の捉え方を誤りかねない。

国見岩の東西に道が分岐し、東の道を男道、西の道を女道と呼び、これを下ると岩戸神社がある。男道は急峻な道、女道は石段付きの道らしい。

国見岩の前に立つ男道・女道の標示

結論からいうと女道を下ったほうが良い。
やや滑るがしっかりした階段が敷設されており、国見岩の直下まで降りられる。そこには岩の亀裂に不動がまつられていた。

女道を下る。

下りきったところに亀裂の祭祀空間が。

亀裂内にかつてまつられていた不動

かつてここには古い不動が置かれていたそうだが盗難にあい、代替の不動を新たにまつった。しかし、なんとこの新たな不動も盗難にあった。どうなっているのだろうか?

年末に歩いた本宮山 その4(最終):岩戸神社をお参りして、今度は登山道で下る - ぶちょうほうのさんぽみち(旧名:「気ままに野山」)

不動の横には鎖付きの岩場があり、その中腹に注連縄が巻かれた亀裂がある。

岩戸神社(写真下の空洞内)

この亀裂内が岩戸神社である。しかし、私は探訪時この亀裂内を見逃してしまった。亀裂内に小祠がまつられているようだ。

承応2年(1653年)「三河國一宮砥鹿大菩薩縁起」に「奥院有岩窟名岩戸岩戸之中有慢蛇羅石其之文非常所有成」の記述、貞享3年(1686年)「本宮山縁起」に「山頂南向岩窟是神明之霊跡也」の記述があるという(『三河国一宮砥鹿神社史』)。
このことから、岩戸神社は「奥院」「岩窟」と呼ばれ、岩窟内には「慢蛇羅石」なる岩石が特に神聖視されていたことがわかる。この慢蛇羅石が岩窟内のどの石に該当するかは亀裂内を見ていないので何とも言えない。

岩戸神社隣の鎖は男坂につながるらしいが、現在、この鎖は撤去されてしまったという情報がある。

本宮山の山頂付近を周遊:(最終回)岩戸神社をお参りして帰途につく - ぶちょうほうのさんぽみち(旧名:「気ままに野山」)

行者岩


国見岩の分岐まで戻り、男道も下ってみたが酷い道だった。

途中に落差5mほどの岩場があり、鎖が渡されていた。

男道の鎖場

登る分にはまだ何とかなりそうだが下るには岩の窪みが少なく(特に上方)、足を引っ掛ける場所も一苦労な鎖場だ。
慎重に三点支持をおこなって下りてみると、そこは谷間水源の祭祀場だった。

谷間水源

岩陰にまつられた祠

近くの岩陰

三方を岩に囲まれた岩陰に祠がまつられ、左隣から清水が樋に乗って常時注がれている。岩と岩の合間から染み出る水はまさに水源であり、この沢は他の沢と合流して麓で豊川となる。
そしてここは、国見岩から続く岩盤が落ち着く最終地点でもある。

現地には何の看板もないが、杉下五十男氏『本宮山あれこれ探索』は、ここを行者岩だと指摘している。近年まで山伏の修行姿を見かけた場所だそうだ。
『三河国一宮砥鹿神社史』には「行者岩 ― 岩戸社より更に下方の岩窟前に存する」と記された存在で、位置的には岩戸神社の亀裂の奥方に当たる。

国見岩・不動・岩戸神社・行者岩は一つの岩峰にそれぞれ帰属した祭祀場であることから、これらを包括して奥の院と考えて良いのではないか。

なお、行者岩から谷間を挟んだ西側の尾根上を目指すと、岩にペンキで×点がしてあるが、この谷間から西方尾根にかけては巨岩累々とした露岩地帯であることも付記しておきたい。

行者岩の西方谷間

谷間を越えた先にある西方尾根の一大巨岩。

参考文献


  • 国幣小社砥鹿神社社務所・編『三河国一宮砥鹿神社史』(原著1944年。2012年復刻版を参照)
  • 杉下五十男『本宮山あれこれ探索』一粒書房 2017年
  • 遠山正雄「『いはくら』について」第3回 『皇学』第1巻第5号(1933年)