2020年2月16日日曜日

伊波乃西神社と日子坐命墓(岐阜県岐阜市)


岐阜県岐阜市岩田西

開化天皇の第四皇子・日子坐命とその子の八瓜命が当地を拓いたといい、土地の祖神としてまつったのが延喜式内社・伊波乃西神社である。

伊波乃西神社

伊波乃西神社は、清水山と呼ばれる標高163mの端正な独立峰の南麓に鎮まる。
しかし、元々の鎮座地はここではなく、当社から西の清水山中腹が旧社地と伝えられ、そこには祭神・日子坐命の墓といわれるものが存在する。

清水山(西方、加野の鏡岩付近から長良川越しに撮影)

神社の左脇から日子坐命墓に至る石段が整備されており、5分も登れば宮内庁おなじみの鳥居と玉垣が見えてくる。


この日子坐命墓が特徴的で、山の斜面から突き出た岩塊を墓所に指定している。
マウンドも石塔も見当たらない。





これを「古墳の盛り土が流出し石室石材が露出した姿」と見るか「岩塊が自然露出したもの、あるいは自然石をここにおいて墓としたもの」と見るかで意味合いが変わってきそう。

岩塊は、上部の岩石と下部の岩石の2個から主に構成される。上部は上に尖った岩石で中心に亀裂が走っている。下部は横に広がった平石状の岩石である。

上部の岩石を天井石の一部と見て、下部の岩石が玄室あるいは羨道の石材と解し、他の石材は地中に埋没あるいは流出・消失したと見れば古墳跡と解釈できるだろうか。

ただ、現状として日子坐命墓は、埋蔵文化財としての古墳認定は受けていないようである。これは宮内庁の管理下により調査がしにくいことも手伝っているかもしれないが、清水山の中にもっと古墳が分布していても良いような気もする。清水山の麓に岩田古墳群はあるが、山中、日子坐命墓の近くに古墳の存在は報告されていない。
岩塊の様子も、かなり昔から露出していたのだろう。石室石材としてはかなり摩耗が激しい。ただの自然石の露出にも見える。

先述したように伊波乃西神社は、明治時代に宮内省が墓指定するまでは、この岩塊の地に神社があったことになる。
伊波が岩に通じるとしたら(この岩塊の通称として岩西様と呼ぶともいう)、社名は平安期の『延喜式』に記されているので、当時にはすでに古墳の風土が失われて岩塊をまつっていた可能性がある。

さらに、考古学者の大場磐雄氏は当地を訪れ、以下の記述を残している。

伊波乃西神社へ参拝、付近に日子坐王命の御墓あり、今宮内省より指定せらる、神社の横を更に丘陵をのぼりゆくにその中腹に一巨石の盤居あるあり、前に享保十一年銘の石燈籠立てり、これは恐らく伊波乃西神社の磐座とすべきものの後世同社の祭神の墓にせしものなるべし。
森貞次郎(解説)・大場磐雄(著)『記録―考古学史 楽石雑筆(下)』(大場磐雄著作集第6巻)雄山閣出版 1977年

古墳ではなく、自然石を磐座そして墓と信仰したものという一考古学者の所見として参考にしたい。

神の墓所として岩石をまつった事例としては、花の窟神社(三重県熊野市)・天石門別八倉比売神宮(徳島県徳島市)・白鬚神社(滋賀県高島市)・船越鉈切神社(千葉県館山市)などにも見られ、同種の信仰として何らおかしくはない。


2020年2月9日日曜日

三井山と御井神社の岩石信仰(岐阜県各務原市)


岐阜県各務原市三井山町

御井神社の神体石



三井山(みいやま)は標高108.8mの低山だが、頂上にはかつて延喜式内社の御井神社が鎮座したという。
三井山の山名は御井神社にちなむものと思われ、本来は「御井」、つまり、井水にまつわる聖地だった。山の南麓には三井池が広がるが、この池は古代からあったという。また、西隣には新境川、さらに南に行くと木曽川が流れている。水に事欠かない環境と言える。

天文年間(1532~1554年)、三井山に三井城が築かれたことから御井神社は東麓に遷座した。現在、三井山から東1kmほどの各務原市三井町に御井神社が鎮座している。

御井神社

現社地はかつて御旅所といわれた跡に建ち、ここにも「神水の泉」と呼ばれる泉が湧き出ている。
境内には春日村(現・揖斐川町)のさざれ石が安置されているが、目に付いたのは『美濃國志』(美濃国誌)の御井神社の記述部分を写したと思われる石碑。

そこには「神体小海石安神璽トス」「以石為神璽」とあり、御井神社のご神体が石であると言及されている。神璽であることから本殿内に安置されていると思われ確認はできないが、海水の中の石を神聖視する一事例である。

境内に安置されたさざれ石

三井山の「磐座」


三井山の南山裾へ目を転じると、ちょうど三井山と三井池の狭間に「三井山立岩不動明王」が立つ。




斜面の流れに逆らうように盛り上がった露岩の懐に不動明王像を置いてある。
製作・奉献年につながる刻字などがないかを観察したが特になく、いつ頃に始まった祭祀かは判然としない。
像は小ぶりで素朴な作りながらも丁寧な彫刻であり、光背に朱が塗られ、光背と立像の間に明瞭な立体感が見られるのが特徴。

10分も登れば山頂に到着する。
山頂には御井神社奥之宮の祠がまつられている。


傍らにある奥之宮創建由来の石碑には「いま城址に磐座ありて神域と畏み齋域と崇め奉る」との記述があった。
山の西斜面に広がる露岩群が、その「磐座」に該当するものと思われる。






西斜面から北西斜面に落ち込むように露出する岩崖などは、低山には似つかわしくない荒々しい光景だ。

山頂には山の南と西から取りつくルートがあるが、西からのルート上にはこのような光景を断続的かつ広範囲に見かける。この露岩群の特定の一つではなく、すべてを一括して磐座と呼んだのかもしれない。

しかし、当山には三井城が築かれた。
このような自然の岩盤を利用した山城だろうと察せられるが、これらの岩盤がすべて原初のままとは考えづらく、特に山頂一帯は少なからず土地利用がされているうえでの現状の景観と捉えなければならない。

現地看板

また、「磐座」という呼称は、看板を書いた作者の知識により当てられた用語ではないかという疑いがある。自然石をただの自然石ととらえたか、神聖な存在としてとらえたかは当時の人々が記した確かな記録が求められる。後世の人々が裏付けなしに記した考え(看板)だけではいけない。築城前、築城後の三井山信仰史は批判的に検討される必要がある。

また、山中には十数基からなる三井山古墳群が分布し、横穴式石室の円墳で古墳時代後期の群集墳と考えられている。

これらの古墳群と山中の露岩群が、各々どのような認識(墓域と神域の空間認識/石材の選択非選択)のもと並存していたかも気になるところである。

三井山古墳群の一基


2020年2月3日月曜日

村上神社のドンコツ岩と浜見岩(岐阜県各務原市)


岐阜県各務原市那珂長塚町

現地には特定の説明はないが、村上神社境内に岩盤が広がっていて、その一部には注連縄が張られている。

これは、小林義徳氏『那珂町史』( 龍文堂、1964年)に言及があり、大きくは二つの岩石に分かれるようである。



まず、上写真の注連縄が張られた岩石を「ドンコツ岩」と呼ぶ。
鯰岩の別称もあり、川魚のドンコツや鯰に似た形状から名付けられたと思われる。

岩の前には山神の碑も置かれている。




次に、上画像の岩盤を浜見岩、または沖見岩と呼んでいる。
かつてこの辺りまで内海が広がっていた時代、この岩の上より眺める沖浜が絶景であったことから名付けられたという。

村上神社の社地は丘になっていて、隣には境川が流れており、社叢が繁茂しているが麓を一望できる立地だったことは間違いない。

2020年2月2日日曜日

土山の金刀比羅神社(岐阜県各務原市)


岐阜県各務原市那加西市場町

現在、琴が丘団地と呼ばれる住宅団地の高台は、かつて土山と呼ばれる山だった。
ここには「土山の七名石」と呼ばれる七つの特別視された石があったが、団地造成時に破壊されたものもあるという。
しかし、この七つの石の所在については文献記録がほとんど見当たらず、唯一、土山の最西端に子安石が存在することをかつてこのブログで報告した。

子安岩(岐阜県各務原市)

そんな土山の、今度は最東端にひっそりと佇むのが金刀比羅神社である。
こちらも団地造成からは逃れて、在りし日の土山のよすがを残す「巨岩累々」とした地である。これは最西端の子安石と同じ様相であり、土山が七つの石を擁するほどに、土というより石の山であったことを物語っている。



麓の参道入口から岩盤がむき出しで、これが頂上まで続くのだからまさに岩山である。




金刀比羅神社の由緒などを記した文献をいまだ見つけられていないのでわからないことが多いが、上の写真のとおり、社祠は最低限の設えである。
社としての土台が岩山そのものにあることは明白であり、そこに金刀比羅神を勧請したのも山神信仰、その凝縮としての岩石信仰の観点からうなずける。

探訪時は西日が差し込み祠を写そうとすると逆光だったが、朝に訪れれば陽光が岩山を照らす象徴的な立地だ。



頂上の祠から周囲を眺めると、西方には琴が丘団地がすぐそこまで迫っている。
社域の自然の木石の群れと一線を画すその光景に考えさせられるもの多々である。

なお、琴が丘団地側に回り込んで、団地側から金刀比羅神社方面を眺めると下写真のようになる。


私有地内には入れないので外の道路から撮影しているが、駐車場のすぐ奥にさっそく岩盤の一部が隆起しているのが見て取れる。

これほどの規模の巨岩をほこるため、土山の七名石のいずれか一つが金刀比羅神社の岩山に属すのではないかとも思うが、それを照合する記録にまだ出会えていない。

ちなみに、金刀比羅神社のすぐ北には柄山古墳という古墳時代前期の前方後円墳が残っている。
この古墳を築成した時、人々は金刀比羅以前のこの岩山を見てきたはずである。

2020年1月27日月曜日

美濃三不動(迫間不動・日之出不動・山中不動)と大岩不動(岐阜県関市・各務原市)



岐阜県関市から各務原市にかけて広がる丘陵地帯は標高300m級の山々が連なり、通称、関南アルプスや各務原アルプスと呼ばれて里山登りのメッカでもある。

実際に山に入ると否応なく気づくのが、○○不動などの修験道系寺院の多さであり、門前に掲げられた幟の賑々しさは、この地が現在も生きた霊場たちであることを如実に表している。

この中でも、迫間不動・日之出不動・山中不動の三つは美濃三不動と総称されている。
岩窟を奥の院とする迫間不動、御神体を大岩とする日之出不動、本堂に接して巨岩に不動明王をまつる山中不動・大岩不動など、いずれの寺院でも山から露出した岩や石を霊地として利用していることを確認したので、ここで一括して紹介しておきたい。

迫間不動(関市迫間)


正しくは迫間不動尊という。
寺伝では、弘仁14年(823年)、この地方に疫病が流行した時、嵯峨天皇が迫間山内の不動明王の下で不動入法を修めたところ災いが治まったことから、岩谷不動尊という名で近在の人々の信仰を集めるようになったという。

延喜12年(912年)に本尊が焼失した。
延宝8年(1680年)、岩谷不動尊から迫間岩谷不動尊の名に改めた。
大正5年(1916年)にも再び火災が起こり、本尊及び堂舎が焼失したという。奥の院を現在の形に再建したのもこの時という。

本堂を進むと奥の院と滝がある。
奥の院は、岩窟を利用して2階建てコンクリ造の堅牢な堂が建てられている。
自然のままの空洞なのか、一部、人工的に掘削したのかは何とも言えない。

迫間不動奥の院

滝の行場が向かって右に隣接する。

岩窟内

一酸化炭素中毒を防ぐために換気用の送風機が岩窟内に置かれている。

内部には不動明王のほかに雑多な神々もまつられ、多くの蝋燭が絶えず灯っている。
門前にも小規模ではあるが現役の茶屋も稼働しており、いまだ数多くの崇敬者に支えられた霊場であることをうかがわせる。

境内には、岩盤の上に無数の堂宇や石碑がまつられており、その多くは御嶽教の影響色濃い霊神碑であることから、寺伝では山岳仏教に端を発するものの、現在の独特の修験道霊場の趣となったのは御嶽講・御嶽教成立後と推測される。

たとえば境内の「三之池摩利支天」は岩石をまつる堂であるが、由緒を引用すると「昭和三十三年八月吉日未明 御嶽山三之池摩利支天よりこの地に鎮座された石です」とあり、御嶽信仰の影響下で当地の霊場が形成されてきた様子を物語る。

迫間不動境内には数々の霊神がまつられる。

石倉大神・白石大神の石碑

三之池摩利支天

17世紀に名称を変えた記録や、大正5年の奥の院再建記録などから、おおよそであるが当地の霊場としての成立時期が類推される。
それでも、寺伝の上では美濃三不動で最古の創建記録を持つ寺院であり、規模も最も大きい。


日之出不動(各務原市鵜沼大安寺町)


正しくは日之出不動尊という。
当寺の由緒書によれば、当寺のすぐ南麓にある臨済宗妙心寺派済北山大安寺との関連性の色濃い自伝を伝えている。

大安寺は応永3年(1396年)に笑堂常訴和尚によって開山された寺院だが、その笑堂が修行していた場所が当地と、当地の西向かいにある八木山頂上の「座禅石」(未訪)だったという。

その後、いつの頃かは定かではないが、ある旅僧が鵜沼宿で霊夢を見て、大安寺の奥山に鞍馬山の日之出不動をまつる一宇を建てよとの告げを受け、里人と共に堂を建てたのが直接的な当寺の創建とされる。

これらの点から、日之出不動は外部の鞍馬不動を奉じつつ、各務原に根差す大安寺の霊威を借りる形でその奥の院的な位置づけに入ったという来歴が浮かび上がる。

現在、当寺では「落ちない岩」を押し出しており、路傍の看板でのキャッチコピーになっているばかりか、お守りや護摩木・絵馬をセットにした合格祈願セットも、受験生向けに頒布されている。
「奉拝 岩」と記された珍しい御朱印もいただくことができる。

落ちない岩(身代石不動明王)

日之出不動尊の入口看板

日之出不動の御朱印の一つ

このようなご利益が生まれたのは最近のことで、全国各地で「落ちそうで落ちない石」が受験合格に準えられて霊石として新たな信仰を集めているムーブメントと無関係ではなく、おそらくそれ以前は別の信仰の場として在ったのだろう。

それを示すように、落ちない岩の横に置かれた「日之出不動奥の院」の案内看板はブーム以前の設立と見られ、落ちない岩の名前は登場せず、その代わりに「身代石不動明王 御神体 大岩」の名称が冠されている。
付設された石板には「大正3年開山」の字があり、迫間不動の奥の院の再建に通ずる当時の篤い崇敬の動きが感じられる。

なお、身代石不動明王(落ちない岩)の上には天御中主神の祠、さらにその上の行場頂上には御嶽大神をまつる大岩がある。
最上段が御嶽大神であることからも、当寺も御嶽信仰の影響下にあることは疑いない。

天御中主神(中段)

御嶽大神(最上段)

最上段から日之出不動境内を見下ろす。

お寺でいただいた毎日新聞2016年5月24日付けの記事には「毎月3回、名古屋や静岡などから40~50人の団体が午前6時から滝修行に訪れる」と書いてある。
私が三重県から来たことを話すと、堂守の方は「三重県からも数名滝修行に定期的に来ていますよ」とおっしゃられていた。

美濃三不動の中では、最も成長拡大路線を感じる活気に満ちた寺院である。


山中不動(各務原市各務東町)

正しくは山中不動院という。
美濃三不動の中では最も寂びており、境内の堂守の方も常駐されておらず、由緒書も下記のとおりプライベートな感が強い。

山中不動 本堂

社務所(閉鎖)に掲げられた文章

堂守の方も、今は亡くなられたとGoogleのクチコミに書かれており、真偽のほどはわからないが、今後の篤信家の方々の信仰で支えられていく霊場となるのだろう。

本堂の裏は巨岩に接しており、堂の屋根は年月の経過で傷んでいるが巨岩に取り込まれるかのようでもある。そこから稲荷社にかけて一大岩塊が横たわっており、南面して岩陰状の空間ができており、そこを岩屋不動としてまつっている。

本堂裏に接する巨岩

岩屋不動

滝上の岩崖

嘉祥年間(848~851年)にここで不動明王が刻されたというが、寺院として整備されたのは大正~昭和の頃ともいい(境内の稲荷社の社殿は昭和57年奉納と書かれていた)、隣に接して御嶽大社の社も建立されている。

以上の要素は迫間不動・日之出不動と同じくするものであり、当山塊における不動信仰は近世の御嶽信仰の影響下で、近世ないしは神仏分離が落ち着いた大正時代の頃に盛んになった聖地と考えられる。

もちろん、御嶽信仰以前の当地の山岳信仰・岩石信仰の可能性を否定するものではない。ただ、それを実証するのに有効な資料をまだ見つけられていない。
各務原~関で色濃く密集した不動霊場をフィールドに取り上げた歴史的研究があってもよさそうなものだが。


大岩不動(関市迫間)


こちらは美濃三不動ではないが、三不動と同じ山塊に属し、同一の宗教圏の中で形成された霊場と思われるため併せて紹介しておく。

一帯は、迫間不動にかけて「ふどうの森(不動の森)」として自然公園になっており、駐車場のアクセスなども一定整備されている。

本堂に向かって左横に「大岩不動 不動明王御神体」の案内があり、堂の欄干の下をくぐるように、岩崖の半ばに築かれた不動明王の石像を拝することができる。

大岩不動 本堂

本堂向かって左脇から御神体を拝観する。

岩崖内に安置された大岩不動明王

不動明王の祠は、ちょうど岩崖が凹んだ谷部に安置されている。

本堂の背後には、昭和10年に別の場所から移された白水竜王が岩崖上にまつられており、やはり大正~昭和初期の信仰の息吹を感じずにはいられない。

白水竜王

咳止め地蔵

参考文献


  • 迫間不動尊の由緒書
  • 日之出不動尊の由緒書
  • 各寺の現地看板
  • 毎日新聞2016年5月24日付記事「受験生に人気の『落ちない岩』」(日之出不動尊で授与)
  • 2017年12月9日発行中日各務原市民ニュース「落ちない岩が受験生に人気!!」(日之出不動尊で授与)
  • 「美濃三不動(迫間不動尊(関市)、日乃出不動(各務原市)、山中不動院(同))の由緒、縁起についての資料はないか。 」(国立国会図書館レファレンス協同データベース)https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000022750(2020年1月27日アクセス)