2020年9月24日木曜日

巨石に関わる祭祀遺跡論・磐座論・依代論 ~時枝務氏「三輪山の祭祀空間」(2016年)を読んで~


表題の「三輪山の祭祀空間」は、時枝務氏が2016年に著された研究書『山岳宗教遺跡の研究』(岩田書院、2016年)の所収論文(25頁~47頁)を指します。

時枝務氏は立正大学教授で『修験道の考古学的研究』(雄山閣、2005年)、『山岳考古学―山岳遺跡研究の動向と課題―』(ニューサイエンス社、2011年)などの著書で知られる、修験道や山岳宗教を考古学的に追究する専門家です。


岩石信仰研究においても、山の考古学は極めて密接な関係にあるため、本書の全篇において学ぶ点がありますが、この記事では第一部第一章に属する「三輪山の祭祀空間」の論に絞って、私見を述べたいと思います。

本論では、三輪山山麓の代表的な磐座遺跡として有名な山ノ神祭祀遺跡を主に検討対象として、古墳時代の山麓祭祀の様相について論じられており、その中で磐座・石神・磐境に絡む論が紙幅を割かれています。

これは、近年の考古学の研究ではほとんど見られないものです。本書は350部しか発行されていないと奥付に書かれているので、その点でも、本記事で広く関係諸氏の方々に周知できればと考えています。


自分向けの備忘録としてメモしたところもありますので、やや文脈を省略するところがありますがご容赦ください。


山ノ神祭祀遺跡は祭祀遺跡か


山ノ神祭祀遺跡は「巨石をアプリオリに磐座とする」(28頁)素朴な解釈がされてきましたが、時枝氏は改めてこの遺跡が磐座なのか、何なのかを検討しています。

発掘は1918年の昔。

実測図はありますが、当時の実測技術のため正確さがやや疑問なのと、実測時点ですでに複数の盗掘にあった後で、巨石の位置が信頼ならないとする見方が有力です。

時枝氏は、最終的に「巨石は自然のままであった可能性があるが、小石は人為的に敷かれたものと判断され、自然を利用しながら構築した祭場と考えるのが最大公約数的な見解」(30頁)と判断しています。

この遺跡は発掘当初、古墳説もありましたが、時枝氏は出土した遺物が各地の祭祀遺跡で見られるものなので、祭祀遺跡説を追認する形ととっています。

ただ、古墳の副葬品と祭祀遺跡の祭祀遺物にも共通性は多いので、なぜ古墳説を除外しきれるのかについては、これまでの研究者と同様、さらに批判的に古墳側の遺物と比較してもいいのではないかとも思います。


山ノ神祭祀遺跡は磐座か


さて、時枝氏の問題提起はさらにその奥に迫り、祭祀遺跡は祭祀遺跡でも、この巨石は磐座と決めていいのか、について言及しています。

時枝氏は研究史を紐解き、神道考古学の大場磐雄氏が戦前の研究では磐座に絞り込んでおらず、石神・磐境の可能性についても併記していたことを述べています。

それが、戦後の研究では磐境と石神の解釈がなくなり、磐座に断定したという考えの変化も指摘しています。

時枝氏いわく、磐境は臨時的に置かれる施設だから、遺跡として残りにくいという前提条件を根拠に、大場氏は磐境説を排除したのではないかと推測していますが、実際のところは大場氏が明記していないので不明です。


石神と磐座の違いを整理


ほとんどの研究者が看過してきた、石神と磐座の差異について時枝氏は取り上げています。

いわく、
「石神は、それ自身が神であり、神は巨石のある場所に常住する」(32頁)
「磐座は、去来する神が、祭りに際して占める座であり、臨時に設けられた祭場」(32頁)
と定義をふりかえっていて、首肯できるものです。

さらに、上記の定義であるから、
「磐座も、神が来臨している際、すなわち祭りがおこなわれている間は、石神と同様に祭祀対象なのである。石神と磐座の差異は、神が去来するか否かにあり、神の在所をどことみるかにあるのである。」(32頁)
という、古墳時代の神観に関わる問題へ発展していきます。

この流れや問題提起については、時枝氏はすでに「神道考古学における依代の問題」(『立正大学大学院紀要』第31号 2015年)で古墳時代の神観を國學院大學笹生衛氏の学説に沿って検討しており、これについては私もすでに別記事で私見を述べました。
改めて、そこで述べた各種議論と響き合う話になってきました。

「依代」と「御形」と「磐座」について―祭祀考古学の最新研究から―(前編)


三輪山の多くの巨石群を「石神説」または「磐座説」で解釈する


三輪山山麓には、多くの祭祀遺跡、そして遺跡かどうかはわからないものの、磐座と称されたり由来不明ながらまつられていたりする巨石群が山中から麓にかけて分布しています。

これらの祭祀遺跡や巨石群の位置づけを、石神説と磐座説の二通りの解釈で時枝氏は下記のとおり整理しています。


・石神説
「それぞれの祭祀遺跡に祀られた神は、そこに常住する神で、土地の性格を強く反映した個性的な神格をもつ神が、三輪山の山内と山麓の至るところに遍満していた状況を想定することができる。三輪山は、まさに精霊が跋扈する、アニミズムの山として位置づけられることになる。」(37頁)


・磐座説
「祭祀遺跡で祀られた神は、山頂などから去来する神で、祭祀遺跡が異なっても祭神は同一であると理解できることになる。」(37頁)


時枝氏の仮説に対する疑問1.時代を飛び越えた文献援用


以上の時枝氏の研究は、大場磐雄氏以来閑却されていた石神・磐座の差異に改めて着目する試みであり、大変有用なものでした。

この流れを踏まえて、時枝氏はいよいよ山ノ神祭祀遺跡が磐座なのか石神なのかへの結論を出すわけですが、このあたりからやや私にとっては首肯しにくい論理も登場するので、そのあたりを触れておきたいと思います。


まず、時枝氏は山ノ神祭祀遺跡を磐座か石神かを絞り込むための根拠として、『日本書紀』崇神天皇条の三輪山神婚伝承を援用します。

三輪山の神は複数おらず大物主神だけであることや、山から山麓の嫁に会いに来たということが読み取れるので、複数の神々を前提とする石神説よりも特定の神が複数の祭場に現れた磐座説のほうが適合的だと結論づけています。


これはとても有名な伝承であり、おっしゃられていることも至極納得なのですが、とても残念なのが、なぜここで最終的に奈良時代の文献の心性・認識を以て古墳時代の三輪山の祭祀遺跡の神観を証明しようとしたのかということです。

これは、つねづね祭祀と考古学でいわれている、安易な文献援用であり、奈良時代と古墳時代では数百年の心の飛躍があります。

時枝氏もそこは本書の冒頭で、文献資料や民俗資料では古墳時代研究は頼りなく考古資料に立脚すべきと主張していたのに、最終的に文献のそのままの援用ではいけないでしょう。


なお、三輪山の山中の磐座群を奥津・中津・辺津磐座の3つで空間的にとらえることを時枝氏は肯定的ですが、この用語の初出である『大三輪神三社鎮座次第』は中世から近世文献説もあり、資料批判が必要です。
このあたりも、時間軸が異なる資料に基づいた解釈は控えたほうが無難でしょう。


時枝氏の仮説に対する疑問2.石神と磐座以外の解釈は?


また、いつのまにか磐境説が時枝氏の検討からも外れているのも解せません。

大場氏を批判しながら、時枝氏も磐境についてはアプリオリで巨石の数多ある解釈から外し、石神か磐座かの二択に問題を簡略化しています。

時枝氏も論ずるように、三輪山山麓の巨石群が山体と麓の傾斜変換点に沿って帯状・弧状に分布しているのであれば、たとえばそれら巨石群が全体として磐境(聖俗の境界)としての機能を有していたという説もじゅうぶん触れられるべきではないでしょうか。


さらに申し上げると、巨石の解釈は石神・磐座・磐境の3種類に限らないというのは、私が2011年『岩石を信仰していた日本人』で問題提起したことでもあります。

たとえば、神が占める磐座ではなく司祭者側である人が占める台座石であったという解釈、石占としての装置や道具としての解釈、岩石自体が奉献物の一つだったとする解釈、禊祓の場という解釈なども、検討領域に入れてみていいでしょう。

大変残念なことに、時枝氏は巻末の参考文献リストを見る限り拙著に当たっていないようですので、岩石の祭祀遺跡に対する解釈幅が大場氏以来の旧解釈でとどまっています。

そして、このことによってもう一つ、時枝氏説に対しての疑問が広がることになります。


時枝氏の仮説に対する疑問3.古墳時代の山岳信仰は山麓祭祀だけ?


時枝氏は、山ノ神祭祀遺跡を磐座と判断して、その神観を、三輪山の神が山麓ぎりぎりのところにある磐座まで来て、人々は山麓の磐座で祭祀したという「山麓祭祀」が古墳時代の山岳信仰のかたちだったと論じています。

これ自体は、民俗学で旧来いわれていた学説を追認したようなもので、山岳仏教で山中に登る修行者が現れるまでは、山は禁足地であり遠くから拝する対象だったとする観念です。

本論はあくまでも三輪山を取り上げたものなので、三輪山についてはその観念でも良いかもしれませんが、時枝氏はこのモデルケースを以て古墳時代全体の山岳信仰を山麓祭祀に当てはめすぎではないかという危惧があります。


これについても、私は『岩石を信仰していた日本人』で「山の境界論再考」という小考をしたためており、そこで古墳時代の岩石祭祀遺跡が山麓祭祀一辺倒ではなかったことを指摘しています。

具体的には、群馬県櫃石遺跡、滋賀県瓦屋寺山遺跡、島根県大船山遺跡、福岡県日峯山遺跡など、ある程度山腹に入り込んで、時には山頂直下まで入り込んだうえで祭祀遺物が見つかっている山岳祭祀遺跡が複数確認されています。
(時枝氏も『山岳考古学―山岳遺跡研究の動向と課題―』などで遺跡集成しているのでこれらの遺跡を知っているはずなのですが…)

そこで、従来の山麓祭祀にとらわれた山岳信仰観に一石を投じるため、私は「山腹境界論」とでもいうべき概念を披露したのですが、読まれていないので時枝氏論文においてもこの問題意識については置かれたままとなっている状況です。


時枝氏の仮説に対する疑問4.依代と磐座は違うといいますが…

本記事の途中でも紹介しましたが、時枝氏は折口信夫の「依代」概念への批判的研究でも知られます。

本論文においてもそのあたりを念頭に置いた記述があります。引用すると、

「磐座を考えるにあたって注意しなければならないのは、磐座はあくまでも祭場を構成する設備の一種であって、依代ではないことである。依代は、神が憑依する際の目印であって、憑依する対象ではない。(略)磐座に依代を付けた可能性はあるが、それは磐座のような堅固なものではなく、祭りに際して臨時に設けられたものであったことはいうまでもない。磐座は、依代と切り離して論じる必要があり、折口の依代論とは別個に考察されなければならない。」(44-45頁。傍線部は私が強調)

との部分です。
目印である依代と、憑依物である磐座は違うとの持論です。

これについて、私は前掲の過去ブログ記事でこう書きました。

憑依する目的物(樹木や岩石)が祭祀の対象で、その先に目印とついていた依代は、目印だから祭祀の対象でないとみなす時枝氏の考えは、必ずしもそう言えるのかという疑問があります。
依代は単なる目印ではなく、祭祀に用いられていて、神の目にとまる機能を持つのだから「聖なる印」なのであり、依代自体に聖性が帯びるのもごくごく自然なことだと思うのです。
また、信仰・祭祀の当事者自身が、そこまで機能論的に明確に"樹木・岩石が神の宿る部分"、"依代はあくまでも目印"と切り分けていたかもグレーゾーンです。
依代という装飾部分を込みにした全体が憑依物だと信じられていたことを想定することも、まったく不自然ではないと思われます。これは折口概念の拡大解釈とは全く別の次元の問題です。


そもそも、時枝氏自身にも矛盾している記述が見受けられます。
44-45頁で上記のとおり、依代は目印で磐座は目印ではないと述べながらも、38頁には下記の記述があります。

「巨石が山中と密接に関わる場であることを示す証拠と考えられ、山中に坐す神が山麓に顕現する際の目印とされたのであろう。」(38頁。傍線部は私が強調)


こちらでは、巨石が神が顕現する目印にされたと言っており、磐座は目印ではないとする先の言と矛盾します。

でも、目印とはつまりそういうことで、神は目印を通して憑依する場所を定めるのですから、祭祀の当事者からすると必ずしも機能論的、ないしは理屈的な発想ではなく、依代も岩石もその総体として神が顕現する存在だったと考えられるでしょう。


近年の祭祀考古学では、磐座や依代を分析概念の一言で相対化する傾向が見受けられますが、それに替わるモデルも定まっていない状況です。

引き続き、私は岩石信仰の事例を一つ一つ虚心に見ながら、結論を決めずに見えてくる世界観が何かを帰納していきたいと思います。


2020年9月20日日曜日

大甕倭文神社(茨城県日立市)


茨城県日立市大みか町





天津甕星が石化した事例として知られる。

高天原から降臨した武甕槌神と経津主神に対し、常陸の天津甕星、またの名を天香香背男と名乗る星神が強く抵抗した。

武甕槌神・経津主神はこれに手を焼き、文武に優れた武葉槌命を派遣することで、とうとう天津甕星を服することができた。

天津甕星は岩石に姿を変えたが、その後も、日に日に岩石が大きくなる。

そこで、武葉槌命は岩石を蹴り上げて破壊し、その上に社を建てることで、まつろわぬ星神を鎮めた。

これが大甕倭文神社の始まりといわれ、社殿の下に鎮まる岩盤を宿魂石(しゅくこんせき)と呼んでいる。

また、神篭岩という岩石が、宿魂石を見張っているというが現地で特定できなかった。神篭岩に布を打ちつけると、布が長持ちするという信仰も付帯している。


2020年9月13日日曜日

文化地質研究会オンライン講演会「岩石に神はどのように宿り、宿らなかったか―『古事記』『日本書紀』『風土記』を例に―」


文化地質研究会の10月例会で講演をすることになりました。

文化地質研究会は、人類と地質の歴史的関係を研究する学問「文化地質学」の研究組織です。
従来は理系のアプローチが多かった地質分野に、人文学の視点も取り入れていこうという方向性ですね。

コロナウイルスの影響を受けて、今年度はZoomアプリ上のオンライン講演会という形式で研究会が行われており、10月度を私が承ることになりました。

概要は下記のとおりです。準備がんばります。


日程

2020年10月11日(日)午後3時〜4時半(講演60分+質疑応答30分)


講演テーマ

「岩石に神はどのように宿り、宿らなかったか―『古事記』『日本書紀』『風土記』を例に―」

※Zoomアプリの事前インストールおよび基本操作準備が必要です。

※文化地質研究会会員向けの講演会ですが、9月講演会では会員外参加も可能でした。数日前に会員向けにZoomのURL,ID,パスワードが連絡されるので、興味ある方は私か文化地質研究会へお問い合わせください。


講演要旨

人は岩石と出会うとき、何らかの心理的影響を受ける。岩石そのものからの影響、または岩石周辺の環境からの影響、はたまた、その人が従前もっている知識や世界観によっても、心理的な受け止め方は変わってくる。

 そのような、岩石に対する心理の中の一つの極致に岩石信仰がある。岩石を見た時に素通りする人もいる一方で、その岩石を神のように崇めるケースや、神に関わる聖なるものとして岩石を取り扱う例がある。

 なぜ、岩石に神は宿ったり、宿らなかったりするのか。言い換えれば、人はどのように神宿る岩石と神宿らない岩石を分けて、岩石に心理的なグラデーションを与えるにいたったのか。

 歴史学上では、これらは主に磐座や石神といった概念で説明されることが多かった。今回の内容では、主に民俗学・考古学における諸研究をふりかえる。岩石信仰のすべてをふりかえるとテーマが広がりすぎるため、今回は「岩石への神の宿りかた」に絞ることにする。つまり、岩石に対して神は一時的に宿りに現れるのかという磐座的な発想と、それとも、岩石に常に神は内在するのかという石神的な発想の、大きく分けて二極である。

本居宣長、柳田國男、折口信夫、大場磐雄の古典的研究以来、この分野は長らく上記の磐座・石神の概念にとどまってきたが、近年では祭祀考古学の分野において依代概念への批判が起こり、新たに「御形」(御形石・像石・神像石も類語)の概念も提唱されている。このあたりの研究状況といまだ残る疑問点についても整理したうえで、私案の分類についても比較していく。

 そして、今後の研究に資する一つのアプローチとして、そもそも『古事記』『日本書紀』『風土記』を始めとする奈良~平安時代の文献記録に登場する岩石たちが、従来通説的にいわれていた解釈に収まりうるものなのか、改めて捉え直す必要を感じる。いくつかの興味深い記述を抽出しながら問題提起をしていきたい。

 このように、最古級の文字記録における岩石の世界観を輪郭づけられれば、今後、文字がなかった時代の岩石の心理を考える際の出発点となるだろう。それはすなわち、言語化されていない岩石すべてへの解釈にも大きな弾みとなるものと考えている。

・講演要旨(PDFファイル)

・参考リンク「文化地質研究会 今後の予定」
https://sites.google.com/site/bunkageology/home/07


2020年9月6日日曜日

相差の石神さん(三重県鳥羽市)


三重県鳥羽市相差町 神明神社境内


相差町の氏神・神明神社の境内社に石神社があり、ここにある「石神さん」という石は、海女の信仰を集め、女性の願いを一度は叶えるということで全国的にも知られる存在となった。




石神さんは、玉依姫命のご神体とされている。
言葉通り受け取れば、石そのものが神というよりは、石を通して玉依姫命を信仰するという磐座的発想に近い。

しかし、おそらく現地での信仰者の感覚としては、形而上の神を別にいただきながら目の前の石を目印とするという感覚ではなく、石=神と同一視するような始原的な感覚なのではないだろうか。

岩石信仰を、後世の神社信仰の中で再解釈した時に、この種の主客の逆転が起こりうる。


神明神社は明治41年(1908年)に近郷の神社をまとめて合祀して今の形になったと思われる。
では、それ以前の歴史となるとどうだったのだろうか。


『鳥羽市史』上下巻(1991年)を引いてみると、市内の神社一覧に神明神社の頁が割かれているが、現在の知名度に反し、石神さんについての記述は見当たらない。

唯一、正徳3年(1713年)成立の地誌『志陽略志』に「石神社」の名が相差の神社名の中に見られ、これが現在の神明神社境内社の石神社を指すのであれば、18世紀まで石神さんの歴史をたどることはできそうだ。

ただ、なぜか市史には他に併記された神社については現在の神明神社への合祀を触れているのに、石神社だけはその是非を触れていない。


他の郷土資料にも複数当たってみた。

伊勢志摩関係の民話集や民俗集、さらに平成20年代に調査された海女の民俗調査報告書なども図書館にある分でひととおり該当しそうな箇所を中心に読んでみた。

数百ページに及ぶのでざっと読みではあるが、鳥羽や志摩の信仰としては志摩市阿児町の横山石神神社のほうがむしろ有名のようである。
横山石神神社は、同種の石神さんをまつり、こちらは女性に限らない信仰を集めていた。


また、海女と岩石の信仰としては、相差町堅子の洗米石のほうが学術分野では取り沙汰されることが多い。

石に開いた穴に白米・小豆を入れて、海女漁の無事を祈るものという。


このように、自治体史や民俗学関係の郷土資料の中で、相差の石神さんがほとんど言及されていないのはどのような理由によるものだろうか?

文献記録がないからなのか、祭礼として記録される価値を認められていなかったのか、秘匿されていたり知られていなかったりした存在なのか、はたまた、近年町おこしで人気を博する前は信仰のかたちがまったく違っていた存在なのか。


岩田準一氏の『鳥羽志摩の民俗』(1970年)という本には、石神の記述が2項目に分かれて記されているようだが、こちらは未見である。

また閲覧の機会があれば、この記事にて追記修正をおこないたいと思う。

神明神社境内にある「盃状穴」


2020年8月30日日曜日

石室神社(静岡県賀茂郡南伊豆町)


静岡県賀茂郡南伊豆町石廊崎

伊豆半島最南端、石廊崎海岸の岩壁に抉り込むように建てられた社殿。

石廊崎

石廊崎先端の熊野神社から望む石室神社

石室神社


『延喜式』神名帳の「伊豆国賀茂郡伊波例命神社」の論社の一つであるが、当社を指すものかははっきりしない。

少なくとも、江戸時代においては石室山金剛院、石廊権現、石廊崎権現などの名で知られ、伊豆七不思議の地としても語られる場所となった。

ここでは、石室神社を構成するこの岩屋について考えてみたい。

全国各地に、自然の岩盤の窪み部分を岩屋や岩窟とする地は数多あるが、分類すれば下記のような形態を挙げることができるだろう。


  1. 岩屋の中に、完形の建築物を設けるタイプ
  2. 岩屋の中に、建築物を一部欠けた状態で設けるタイプ
  3. 岩屋の中に、建築物は設けず祭祀対象だけを安置するタイプ
  4. 岩屋そのものを、そのまま神聖視するタイプ


石室神社の場合は、1に近いながらも、2のタイプに属すると思われる。

視覚上の違いが、信仰する人々の世界観にも影響したのではないかという仮説を立てれば、次のような論点を挙げることができるのではないだろうか。


  • 岩石そのもので信仰の世界観が完結するか、視覚的に祭祀対象であることを明示する何かを盛り込みたかったかの心理の違い
  • 自然の岩屋に、どこまで手を入れるかという心理の違い
  • 視覚的に、自然物と人工物の主従関係をどう設計したかという心理の違い


石室神社は、社殿がやや岩屋に取り込まれている(岩屋空間に合わせて設計調整している)のが特徴である。「半ば」というよりは「ちょっと」というニュアンスがしっくりくる。

社殿は対称ではなく、奥方は岩屋の岩壁に沿わせて造られている。

ただし、形態分類というものは、立地環境によって自ずと規定されることもあり、その上で外見上での区別をしたにすぎないため、それ自体が何かしらの信仰の違いを証明するわけではない。

また、歴史的に現在の外観となったのがいつからか、信仰の淵源においてはどのような形態であったかは別に検討する必要があり、現状の景観で判断するのは注意である。


2020年8月23日日曜日

生石神社の「石の宝殿」(兵庫県高砂市)


兵庫県高砂市阿弥陀町生石

石の宝殿の構造


日本三奇の一つとして著名な「石の宝殿」。




「浮石」の異名を持ち、水を湛えた堀から浮いているかのように見える構造は、元々は地山の大岩盤を底面ぎりぎりまで削り出したことによる。

また、巨石と下の岩盤の間には亀裂が走っており、厳密には地上からは分離した存在だという。この亀裂は奥の岩盤から続いており、「大ズワリ」と呼ばれる摂理だと考えられている。

石の宝殿の巨石を切り出した後の背後の岩盤。


石の宝殿の外形の特徴を一言で表すと、よく「屋根を横倒しにしたような形」といわれる。

石の宝殿の奥側の突起


拝殿が建つ側を正面とするなら、奥側に屋根状の突起がついているからだが、石の宝殿研究会編集委員会『魅力再発見!石の宝殿と竜山周辺史跡~浮石の謎~』(2019年)がまとめたところによると、

  • 家の形
  • 容器の形
  • 祭壇の形
  • ノミ(鑿)の形

など、それ以外の見方があることも指摘されており、あまり家形一辺倒で考えるのも、解釈の幅を狭めることになるだろう。


播磨国風土記に記された石の宝殿


「原の南に作石(つくりいし)あり。形、屋の如し。長さ二丈、廣さ一丈五尺、高さもかくの如し。名號を大石(おほいし)といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり。」
秋本吉郎校注『風土記』(日本古典文学大系2)岩波書店 1958年 より


石の宝殿の最古とされる記述は『播磨国風土記』にある。

奈良時代当時は、石の宝殿ではなく「大石(おほいし)」と呼ばれていたことがわかり、それは現在の「生石(おうしこ)」の地名・神社名に通ずる。


この風土記本文の前段には「石作連」が登場していて、そして、本文では「作石」の字が見られる。

本文後半では「大連が造れる」の表現のとおり「造」の字も併用され、それぞれ、岩石を整形する、されることの表現と考えて良いだろう。

石の宝殿は明らかに人為的な巨石構造物ではあるが、奈良時代当時においても、人々が目の前の巨石をそのように表現していたことは興味深い。


なぜ作ったのかという目的は不明だが、岩石を自然のままでは良しとせず、彫り削ることで岩石の真の価値が出るという論理は、後世の石屋や仏師にも共通する価値観である。


石の宝殿の調査状況


石の宝殿の学術的調査について、オンライン上に公開されている文献では前掲文献のほか、『史跡石の宝殿及び竜山石採石遺跡保存活用計画』(高砂市教育委員会 2017年)が詳しい。


石の宝殿が奈良時代の『播磨国風土記』に記されているのは前述したとおりだが、平安時代の『延喜式』神名帳には生石神社の記載はなく、養和元年(1181年)成立の『播磨国内神名帳』を待たなければならない。

『播磨国風土記』の記述を読む限りでも、大石は「作石」であり、人が作った遺構以上の認識は読み取れない。平安時代に神が作った石として神社の神体としてまつられることと比べれば、奈良時代人のほうが人が作った石という意味で現実的である。


石の宝殿を語る際は、周辺の採石跡との関連性も外せない。

周辺の山塊からは、加工に適した凝灰岩が多く眠っており、竜山石という名前で知られている。

この竜山石は遠く畿内の古墳石棺などにも用いられたことが考古学的に判明しており、当地がヤマト王権との深い影響下における一大石材産出地であったことは疑いない。

生石神社裏の宝殿山から見た石の宝殿。岩盤の四方を切り出していることがわかる。

宝殿山頂上から竜山の採石跡を望む。

採石跡


石の宝殿は横口式石槨の未成品か


このような現在の研究状況のなかで問われる論点が2つある。

1つは「石の宝殿=横口式石槨」説である。

石の宝殿の目的には古来から様々な仮説が立てられているが、現在、最も考古学的に有力とされるのがこの説である。


奈良県の「益田の岩船」なども類例とされ、古墳時代終末期の埋葬施設である横口式石槨に形状および加工技術が類似しており、その未成品が石の宝殿とされている。

加工技術は、施された溝の幅の一致など確かに共通したものがあることから、石の宝殿の加工時期が古墳時代終末期にある可能性は同意するが、横口式石槨と断定していいかというと、私はまだ留保したい。

理由は、技術は共通していても、作られたものが古墳石室用一択とは言い切れないものがあり、また、形状もあくまでも類似レベルにとどまるものであり、一致レベルとは言えないからである。

他の多様な用途を捨て去るには、まだ根拠が揃いきっていないと思う立場である。
(横口式石槨説を否定しているわけではない)


石の宝殿と周辺の採石跡・古墳との関係


2つ目の論点は、石の宝殿と周辺の採石跡との関連性または相違性である。

現状、石の宝殿のような特異な構造物は、まさに石の宝殿にしか見られず、それは周辺におびただしく残る採石跡とは性質が異なるものである。

もちろん、未成品だからそこに唯一残されただけと考えることもできるのだが、他の採石跡との時間的先後関係もわからないなかで、この巨石構造物が「放置された」「未完成」と解釈していいかに一抹の不安がある。

その後の数々の採石行為があったなかで、この巨石構造物に手を入れたり、再利用・再切削・再加工しようとはしなかったか。すでにされた後の形がこれなのかもしれないし、されていなかったのだとしたら、それはすでにこの巨石への何らかの特別視の現れである。


石の宝殿が属する宝殿山にも複数の採石跡が確認されているが、隣接する竜山地区に比べればその数は少ない。その中での、石の宝殿の規模と存在感に特異性がある。

また、石の宝殿の南には竜山1号墳という横穴式石室を持つ古墳が確認されており、石の宝殿の築造者との関係が指摘されている。

当山は単なる石採り場としての利用だけではなく、墓域でもあったことを示しており、そこには少なからず宗教性を帯びる。

では、同じ山に「放置」されたという石の宝殿の巨石とは何だったか、まだ指摘されていない用途や性格が想定されるのではないか。

私はそれを即、宗教的な石に絡めるつもりではないが、複数の可能性を無理に絞り込む段階でもないと思っている。

生石神社境内にまつられる「霊岩」。各種文献に記載はなかった。


2020年8月16日日曜日

玉作湯神社の眞玉と、願い石・叶い石の祭祀~玉と石と~(島根県松江市)


島根県松江市玉湯町玉造字宮ノ上


玉作湯の地の歴史

「史跡出雲玉作跡 宮ノ上地区」として史跡指定されている、全国的にも有名な玉作遺跡に玉作湯神社が建つ。

神社の裏山にあたる花仙山は玉石の産出地として知られ、谷を流れる玉湯川流域は全国有数の温泉郷・玉作温泉がひろがり湧泉地でもある。

弥生時代終末期から古墳時代にかけての玉類、玉の未完成品、砥石、それに伴う建物遺構など、玉作りの跡が見られたほか、周辺には約60基の古墳群が分布して、当地が祭政の一大地であったことをうかがわせる。

そして、『出雲国風土記』『延喜式』神名帳に記された玉作湯神社の存在から、奈良時代において連綿とつながる玉と神湯(現・玉作温泉)の信仰がわかり、さらに近世においても当地は松江藩の別荘屋敷跡・庭園施設跡が発掘調査で明らかになっている。


眞玉と、願い石・叶い石

玉作湯神社境内に、「眞玉(願い石)」と標示された岩石がまつられている。



後ろの石碑状の立石の意味も気になるところだが、眞玉は手前の黒光りした丸石を指す。

「大己貴命 湯山主之大神」の石碑が建つので、眞玉の神格を示すのだろう。いつまで遡れる信仰なのかはわからない。

隣接して、「願い石」「叶い石」の祈願方法を説明した看板が立つ。



この祈願方法は比較的最近に考案された新しい祭祀であることがわかっており、玉作湯神社の宮司さんもインタビューでそのことをおっしゃっている。


「より多くの方に護身徳を受けて頂いたらよいのではないか?ということで…昔から境内に祀られて、大変ご利益があるとされていた、眞玉(直径60㎝ほどのボール状)を「願い石」として、またそれに対して、社務所で「叶い石」という小指の頭ほどの小さな石を授けまして、“叶い石を願い石に触れ合わせて願い事をする”といったような御祈願の形を整えたわけです。」
「島根県 玉作湯神社」(2019年11月8日)「NEXCO西日本 ドライブエスコート」より 


全国的にも同種の祈願方法が同時期に認められており(愛知県岩倉市新溝神社例など)、当時のパワースポットブームの影響を受けたものとも言えるが、真意は神徳の広い授与があるようにとの願いにあり、新たな岩石信仰の一つの形として尊重されるべきものである。

それと同時に、基層が「願い石」の名ではなく「眞玉」のほうにあり、基層の信仰記録が忠実に後世に伝えられていくことも願いたい。


玉石の信仰と自然石の信仰と


眞玉の隣には「御守石」として、碧玉の青メノウが安置されている。

こちらもおそらく願い石・叶い石の整備の前後に新しく置かれた信仰の石と思われるが、こちらはいわゆる価値ある玉石である。

眞玉は丸石信仰としての系譜に位置付けることもできるが、石としての現代的価値は、横のメノウが勝るのだろう。
参拝者の人々の中にも、もしかしたら眞玉よりも御守石に心惹かれる人もいるかもしれない。

逆説的に、玉石に囲まれた当地において、玉石の形(丸石)をしながら石種は異なる眞玉が、神格を帯びる存在となったことに一種の凄みがある。
何らかの、価値観の逆転、はたまた、優先したものの違いがあるわけである。

先述のとおり、当地からは江戸時代の庭園施設やそれに伴う石垣や石塁も見つかっており、玉石以外の石の利用も見られる。
眞玉を、そのような自然石の利用の歴史の中でとらえなおすこともできる。


参考文献

玉湯町教育委員会 『史跡出雲玉作跡 -宮ノ上地区- 第1次発掘調査概報』1984年

島根県松江市教育員会『史跡出雲玉作跡』(松江市文化財調査報告書124)2009年


2020年8月15日土曜日

加茂岩倉遺跡と大岩(島根県雲南市)

島根県雲南市加茂町岩倉


弥生時代の銅鐸群が一括出土した遺跡として有名な加茂岩倉遺跡。

祭祀遺跡との関係でしばしば語られるのが、地名の由来といわれる「岩倉」の存在である。




遺跡地の谷間からは約500m北東の麓の位置に、「大岩」と標示の打たれた岩石がある。


江戸時代には「岩窟」で「宝蔵」と冠された岩石だが、岩屋状の内部空間を直接持っているわけではない。
地中に金鶏がいる、のくだりを考慮すれば、さしずめ岩石は蓋の働きを担っている。

どちらかといえば、想像力を豊かにして、岩石の塊の内部や下部に内部空間をイメージしたタイプの「岩倉」と言えるだろう。


この大岩を岩倉、すなわち磐座祭祀の跡ととらえて、弥生時代の銅鐸の近くに巨石祭祀・磐座祭祀があったと考える立場もあるが、どうだろうか。


岩石と青銅器の距離関係の近さ、イコール、関連性と言えるかどうか。

まず、「近さ」の定義づけが難しい。

加茂岩倉遺跡と大岩の距離である、約500mを「近い」とみなすのは、個々人で評価が分かれるのではないだろうか。


そのようなときは、自分の主観とは逆の、批判的な評価を下すのが学問的な態度と言える。

大岩と加茂岩倉遺跡は、それぞれ肉眼で目視できる関係ではない。
それぞれの立地環境にも違いがある。

このように、マイナス要素を挙げて、それらが解決されるまでは肯定的評価を避けたい。


次に、遺跡と大岩が近くても、近いからという理由だけで、大岩が弥生時代の祭祀遺跡と認めるには論理の飛躍がある。

大岩が自然石である限りは、大岩が弥生時代に存在したことは間違いないだろう。
しかし、大岩の周りから遺物は見つかっていない。
「岩倉」の地名が、弥生時代に遡ると決まったわけでもない。

大岩と銅鐸の関係性を述べるなら、むしろ大岩にくっつくくらいの距離で銅鐸出土地は形成されるのではないか。

距離を離したという事実は、大岩と銅鐸のある意味での「違い」を示すものでもある。

仮に大岩と銅鐸を同じ弥生時代の祭祀と肯定した場合、それぞれ別々の対象となっているわけだから、どのような祭祀や信仰の世界観を想定しているのか。

これは、銅鐸祭祀というものの目的や詳細がはっきりわかっていないことにも起因する、大きな問題である。
(しばしば、銅鐸=依代、銅鐸=奉献品といった解釈があるが、これらはまだまったく証明されていないと言って良い)

加茂岩倉遺跡



2020年8月9日日曜日

黒岩石刀神社の胴体岩・尾岩・奥の院(愛知県一宮市)

 
愛知県一宮市浅井町黒岩石刀塚


『尾張名所図会』5巻(1880年までに刊行)では葉栗郡石刀神社として2つの岩が描かれ、神の尾とされる岩の存在を記している。
(「愛知芸術文化センター愛知県図書館HPの貴重和本デジタルライブラリー『尾張名所図会後編』」よりhttps://websv.aichi-pref-library.jp/wahon/detail/103.html


これは現在、尾岩と呼ばれているものを指すと思われ、愛知県一宮市浅井町の石刀神社境外東約100m地点にある。



中根洋治氏『愛知発 巨石信仰』(愛知磐座研究会 2002年)の聞き取りによれば、伊勢湾台風以前は豚小屋に隣接していて、周辺の家に災難が続いたため、現在のように清浄にして整えたのだという。


ただし疑問があるのは、尾張名所図会の絵図に描かれている二つの岩は絵図の限り二つとも境内にあることである。

絵図には岩の名前が注記されていないが、現在、絵図に該当する二つの岩はそれぞれ「胴体岩」「奥の院」と呼ばれている岩石の場所に位置している。

そして、境外の尾岩は描画されていないのが気にかかる。


石刀神社は現在でこそ延喜式内社・中島郡の石刀神社の名で知られているが、石刀神社の論社は他にもあり確定ではない。

また、当社は近世においては黒岩神社、黒岩天王の通称が一般的であったようである。
石刀塚の地名も残るが、これは延喜式以来の石刀神社の知名度による影響を考慮しなければならず、黒岩という名称が地元に根差す岩石信仰の一起源であったことも注目したい。


黒岩は当社に残る岩石群全体の総称かもしれないが、特に拝殿背後の二重の玉垣内にまつられた岩石を指す。いわゆる神社の中心石・神体石としての位置にある。

この岩石は胴体岩の名称でも知られ、冒頭の尾岩と対になる神の体としての岩石である。



そんな胴体岩は二重の玉垣に囲まれたうえで、拝殿が手前に建つが、元々は拝殿も建てられていなかったという。

二重の玉垣は秘匿性の強い表れで祟り信仰も付帯しているようだが、一方で、前掲の中根氏の聞き取りによれば、境外の隣は木曽川の堤防がそびえており、その堤防から小石を投げて胴体岩に当てたら願いが叶うと信じられたらしい。

時代が変われば、あるいは立場が変われば、ずいぶん岩石に対する認識の違いが見受けられる。


胴体岩の奥にも、もうひとつ玉垣に囲われてまつられた岩石が姿を見せる。
尾張名所図会にも同様の位置に岩石が描画されており、同一のものと推測される。



これが先述した「奥の院」(奥の宮の名称もあるかも?)と呼ばれる岩石で、その名称自体は神体岩たる胴体岩の奥に控えるその位置関係から起こった名であろう。


同じく、中根氏は地元の方から、拝殿の東隣にあるしめ縄のされた岩石が、神社裏に住む人の屋敷から運んだものという話を聞き取っている。
私が訪れた時には、この岩石に気づくことはできなかった。


以上をまとめると、特別視された岩石は

  • 尾岩
  • 胴体岩(黒岩)
  • 奥の院
  • 神社裏の屋敷から運ばれて注連縄のされた岩石

の4種類が存在することになる。

一つ一つの岩石は決して巨岩・巨石という表現が似合うような大規模なものではないかもしれない。
しかし、見てきたように当社の岩石信仰は他例では見られない特徴的なものであり、その事例数も一社に集まる数としては多い。

なぜ、複数の岩石に分かれて信仰が生まれる必要があったのかという問題提起が思い浮かぶ。

一説には、これらの岩石は古墳石室石材の一部だったという話があり、事実、周辺一帯には古墳が散在している。

そのなかで、墳丘が消滅して今は亡き古墳があったとしてもおかしくはなく、そのよすがとして多数の石材が散逸し、時代を経て歴史の断絶した石材が神聖な岩石として再注目された可能性はじゅうぶんある。

いわば、古墳の存在が当地に複数の岩石信仰を再生産したという考え方もできるだろう。


2020年8月2日日曜日

『出雲国風土記』猪石・犬石の二つの伝承地~石宮神社と女夫岩遺跡~(島根県松江市)


島根県松江市宍道町白石

『出雲国風土記』に次の記述がある。

「天の下造らしし大神の命の追ひ給ひし猪の像、南の山に二つあり。猪を追ひし犬の像は其の形、石と為りて猪・犬に異なることなし。今に至るまで猶あり。故、宍道といふ。」
(秋本吉郎校注『風土記』(日本古典文学大系2)岩波書店 1958年より)

この猪の像と犬の像の伝承地とされる場所が2ヶ所ある。
錦田剛志氏「『出雲国風土記』にみる岩石と神祭り―二、三の覚書―」(『東アジアの古代文化』112号 2002年)の記述を参考にしながら紹介したい。

石宮神社(いしのみやじんじゃ)


1ヶ所目が、石宮神社にまつられる犬石(いぬいし)・猪石(ししいし)である。

石宮神社は本殿をもたず、拝殿の裏のちょうど本殿の位置にあたる場所に、犬石が安置されている。



長さ約1.8m、幅約1.5m、高さ約1.1mをはかる。
立石状で、玉垣に囲われているから目には止まるが、神社境内に散在する巨石の中で特段大きいというわけではなく、これを巨石と呼ぶかどうかは人によって受け止め方が異なるだろう。

境内の入口付近には、犬石を上回る大きさの巨石が集まり、そのうち、階段の両脇にある同規模の2体を総称して猪石と呼んでいる。



いずれも長さ約5m、幅約4m、高さ約2.5mほどである。

女夫岩遺跡(めおといわいせき)


もう一つの伝承地が、考古学的調査が行われ、古墳時代中~後期の遺物が見つかった女夫岩遺跡である。
宍岩または女夫岩と呼ばれる2つの岩の下方斜面から5世紀後半~7世紀頃と考えられる土師器や須恵器が見つかり、古墳時代の岩石に対する祭祀遺跡の例として著名な存在でもある。
高速道路建設で破壊される予定の場所だったが、その考古学的価値が認められて、道路を遺跡下のトンネルで通すことで現状保存されたという経緯でも珍しい文化財とされる。




宍岩は山中に2つの岩が横並びになっており、石宮神社よりは『出雲国風土記』が書くような「(南の)山」という表現が似合う。

当地は大森神社境内地になっており、以前から聖地とされていたことは近世~幕末の千家国造家保管の絵図の存在からもわかる。
絵図については、女夫岩遺跡の発掘調査報告書である、島根県教育委員会・宍道町教育委員会『島根県指定史跡 宍道・女夫岩遺跡』(島根県教育委員会 1999年)に掲載されている。
絵図および調査結果の詳細はPDFがオンライン公開されているので下記リンクにて参照されたい。

この絵図には、本岩の名称が獅子岩・女夫岩・宍像岩の3種類が併記されており、二つの岩をそれぞれ「南の宍像」「北の宍像」と称していたこと、さらに二つの岩のやや下方斜面にある別の岩石を犬石と呼ぶ人もいたことが記されている。
石宮神社と同じく、猪の像は二体で1セットであり、風土記が記す「南の山に二つあり」を忠実に踏襲している。

また、絵図の手前に描かれた犬石とされる岩石は、現在現地ではどの岩石を指すのかはっきりしない。
そのかわり、現地にはテラス状になった石積みの壇が形成されており、発掘調査ではこの壇状地形が近世以降の築造ではないかと推定されている。築造時に犬石については原状変更された可能性もあるだろう。

風土記の猪石・犬石の比定論争


錦田剛志氏の前掲論文(2002年)では、比定論争が下記のとおり整理されている。

  • 石宮神社の犬石を犬の像、猪石を猪の像とする説・・・服部旦氏「『出雲国風土記』の数量表現の信憑性、ならびに数量表現をめぐる編纂過程の一考察—意宇郡宍道郷所造天下大神命の猪像石・犬像石の同定を手がかりとして―」『古代文化研究』第二号(1994年)
  • 女夫岩を猪の像とする説
  • 女夫岩を猪の像として、石宮神社の犬石を犬の像とする説・・・関和彦氏「新・古代出雲史—『出雲国風土記』再考—」(藤原書店 2001年)

錦田氏は、原文の解釈がどうとでも読める部分を残していることを指摘して、結論を保留している。

複数の候補地がある以上、どちらかがどちらかの影響を受けて、または、お互いが別の何か(それは失われた原形の猪像・犬像の可能性さえある)からの影響を受けて伝承が形成・変容しているかもしれない。
現在残る岩石と、遠く離れた当時の記録を結び付ける作業は、これほどまでに難しく、危険な行為ということである。