2019年6月24日月曜日

大場磐雄博士と『楽石雑筆』まとめ ~岩石信仰研究の先達の足跡~

大場磐雄博士の業績について


大場磐雄博士(1899~1975年)は國學院大学教授で、登呂遺跡の発掘調査や方形周溝墓の命名者として高名な考古学者である。

他方で、大場博士は民俗学者・折口信夫や神社研究の宮地直一の下でも学び、考古学・文献史学・民俗学が混ざり合った祭祀遺跡の研究、そして神道考古学の提唱者としても知られている。

岩石信仰の研究においても、大場博士が残した業績は大きい。
「磐座・磐境等の考古学的考察」( 『考古学雑誌』32-8、1942年)はいわゆる磐座・磐境・石神など岩石に関わる祭祀を学問的に取り上げた貴重な研究で、それ以降、なぜかこの論考を乗りこえるフォロワーも現れず、ここで論じられた諸問題は2019年に入った現在でも通用している。

『楽石雑筆』について


祭祀遺跡研究や神社研究のなかで、大場博士は全国各地の岩石信仰の場を調査した。 その中で論文や研究として取り上げられたものは一部である。
これは他の研究者でも同様であり、研究者が見聞きしたものがすべて活字化されているわけではないのが常である。

しかし、大場博士は生前、行く先々で見知ったこと聞き取ったことを、『楽石雑筆』と自ら題したノートにメモし続けていた。
それは1918年~1965年の47年分にも上り、これは大場博士の門弟たちによって保管・書写され、とうとう2016年には全記録が活字化・公刊された。
これによって、大場博士が生前に訪ね歩いた調査地の多くが記録として残ることとなった。これは大場博士の単なる生前録ではなく、学史的には日本考古学の黎明~興隆期のリアルを収めた記録とも言える。
(なお、現地調査しているのに楽石雑筆にも収録されていない場所もあるそうで、それは日中携えていたフィールドノート約100冊にあるそう。これは公刊されていない)

タイトルにある「楽石」とは、大場博士が漢籍に「楽石者寿」とある記述から用いた自身の雅号である。
この逸話からも伝わるように、大場博士の石へのまなざしは特筆すべきところがあり、神社や祭祀遺跡の調査においても、石の神体や石の祭祀道具、そして磐座などへの言及が『楽石雑筆』には頻繁に登場する。
書籍や論文に載せられていない貴重な当時の聞き取り情報が含まれている。このページでは、岩石信仰に関わる箇所だけをまとめておこうと思う。


大場博士の人柄について


『楽石雑筆』は博士が19歳という青年期から60歳台までつけられたもので、もともとは人に公開するために書かれた記録ではないが、自己に対しても冷静を貫いたことがわかる記述で、ノート内はひたすらに見聞きした事実のメモと、大場博士の意見・考えとが明確に分けて書かれている。
そもそもこんな若いころから一貫して調査ノートを毎夜書き留めていた(調査中は野帳にメモ書きして、それを毎夜、楽石雑筆として文章化していたというから驚きだ)という徹底的なマメさからも、私を含め多くの研究者が真似できない境地に達している。
大場博士の生前最後の弟子といわれる茂木雅博先生が、大場博士から生前『楽石雑筆』を公刊するように託され、博士の達筆の字を解読して、足掛け約40年を経て全巻を活字化。

茂木先生の手による大ボリュームの解説を読むだけで大場博士への深い尊敬が伝わり、それはそのまま大場博士の人間性を物語っている。両人とも知らない私もうるっときた。 
大場博士は書道・詩歌・絵画・小唄・舞踊も嗜む粋な文人だった。深い教養に裏付けられた上での歴史研究であり、並人には到底辿り着けないその手法は「ウェットな考古学」と通称された。

「学問は人間性の追求である」という大場博士の言葉があったと茂木先生が述懐されている。
大場博士の人間性として、親交のあった数々の研究者が言葉を残しているので最後に紹介しておきたい。

「磐座、磐境、神籬などの信仰の実態を究明する難作業であった。寒風凛烈たる山頂、風雪に閉された森林の中での修験者の苦行にも似た踏査を叙した条は、読む者をして学問を超えた何物かを感得させる迫力をもっている。(中略)その風格ある文章は、表現、文脉など江戸時代の随筆にも似たところあり、同時に明治中葉のスタイルがよく現われている。(中略)考古資料以上に貴重かも知れぬ」(八幡一郎氏)
「全力投球した一日の踏査の後にかくも詳細綿密な日誌をしたためると言うことは、考古学者なら誰でも思い知られるとおり、ほとんど超人的な行為なのである。(中略)日記を通読して最も感歎に堪えないのは、大場博士が古文化全般に幅広い関心を抱いておられ、かつそれを充分に理解するだけの素養を備えられていたことである。これは、普通の考古学者などの思いも及ばぬことである。」(角田文衛氏)
「博士の歴史考古学についての深い造詣や、とくに、きわめてすぐれた鑑識眼の由来するところは、本来のすぐれた直観力に加えて、多年の歳月と労苦を重ねた、これら神社文化財の調査考証を通じて会得され練磨されたものとみられる。(中略)夕食後の一同歓談散策のあと、おそく博士の個室にうかがったが、机に向かって正座して楽石雑筆のその日の見学記を書いておられる姿に粛然としたことが深く印象に残る思い出となった。」(森貞次郎氏)
「実にスケールの大きな学者であり、いぶし銀のように磨きのかかった人であった。」(一志茂樹氏)
「敗戦後の交通事情の悪い中を東奔西走の活躍である。しかも先生はどの遺跡でもその背景を絶えず現地で検討されて居られる。考古学研究の本道がここにあるのは今も昔も変わらないことである。この点を若い研究者に参考にしていただきたいと思うのである。(中略)先生の学識の広さと深さは『楽石雑筆』中各所に見られ、私の様な薄識の後學には大変困難な書写作業である。古稀に近い私は50歳代の先生の語彙に付いていけないのである。」(茂木雅博氏)

参考・引用文献

  • 八幡一郎(解説)・大場磐雄(著)『記録―考古学史 楽石雑筆(上)』(大場磐雄著作集第6巻)雄山閣出版 1975年
  • 角田文衛(解説)・大場磐雄(著)『記録―考古学史 楽石雑筆(中)』(大場磐雄著作集第6巻)雄山閣出版 1976年
  • 森貞次郎(解説)・大場磐雄(著)『記録―考古学史 楽石雑筆(下)』(大場磐雄著作集第6巻)雄山閣出版 1977年
  • 茂木雅博(書写・解説)・大場磐雄(著) 『記録―考古学史 楽石雑筆(補)』博古研究会 2016年


楽石雑筆』巻一(大正7年)~巻八(昭和4年)19~30歳

  • 石棒や石器をまつる神社の事例を複数記載
  • かご山や岩石の突出する岬と、神籠石の「かご」との関係性を指摘 
  • 遠国嶼野遺跡発掘で「磐座の遺形」と言及
  • 飯石神社の記録 
  • カピレ山の丸石土壇を神籬とみなす
  • 石臼と石棒と雨乞いの民俗発見
  • 鳥見霊畤の石群発掘→遺物発見なし
  • 三輪山禁足地の山中踏査で門外不出磐座を次々とメモ(学生社の『大神神社』掲載地図と照らして読むと感動的)
  • 真名井神社の巨石遺跡の考古資料記録
  • 大洲市巨石遺跡見分。祭祀と巨石の関係は肯定し、年代・用途・目的は確証なしとする。

楽石雑筆』巻九(昭和4年)~巻十四(昭和12年)30~38歳

  • 岩塚神社(七所社) 
  • 石見の石神神社 
  • 鳥居博士のストーンサークル・メンヒル・ドルメンの見聞記多数 
  • 高麗村の石塚 
  • 岡本須玖の謎石 
  • 千葉八重原の犬石の発掘 
  • 雨境峠の鏡石ほか塚群 
  • 榛名神社の御姿岩内部拝観
  • 佐賀川上神社旧知の上宮および造化大明神(現巨石パーク)。淀姫の石神かどうかは不明との評価を残す。 
  • 出雲楯縫神奈備山の石神 
  • 多倍神社 
  • 宮座山の沖津・中津・辺津磐座 
  • 六甲山の心経岩・雲ヶ岩・天狗岩ほか巨石群 
  • 雨師の丹生神社の周囲にある巨石群 
  • 飛鳥坐神社 
  • 平群石床神社
  • 上賀茂の神山(衣笠山)
  • 熱田ホテル傍の海中に沈んだ皮籠石 
  • 赤城山の櫃石・鼻石 
  • 境町の姥石 
  • 益田郡朝日村立岩神社出土遺物 
  • 山梨岡神社 
  • 産泰神社 
  • 諏訪の御座石神社と七石 
  • 甲府の乳の神と道祖神 
  • 木曽の岩戸神社・王社神社・仏穴 
  • 富士浅間神社の鉾立石
  • 大洗磯前神社の烏帽子岩・霊石・かけ石・ゑびす岩・大黒岩・神降石
  • 武尊山麓の花咲石と赤城の櫃石との関連性 
  • 山口県忌部神社の鬼石 
  • 神功皇后が天神地祇をまつった一石と壇具石 
  • 伏見の稲荷山 
  • 飛騨の位山と巨石文明説の批判 
  • 高山の弄石家・二木家の奇石コレクション

楽石雑筆』巻十五(昭和12年)~巻二十三(昭和20年)38歳~46歳

  • 三重県多度山中の神石踏査 
  • 御坂峠の稚児権現(巨石上に本殿)
  • 伊奈波神社の神体(神代石剣)
  • 遠賀美神社の祝詞石と御積島の窟(御神体) 
  • 下田の三倉山(山頂に大光石ありし)
  • 桐生賀茂神社のカハゴ石
  • 外宮高倉山天岩戸と四十八窟 ・伊賀南宮山の黒岩(大石明神)
  • 尾張大国霊神社の磐境 
  • 信州賀茂神社の叶石
  • 香取神宮の要石 
  • 仏隆寺白岩神社
  • 福島県建鉾山(発掘以前)
  • 雨師丹生神社の磐境(2回目)
  • 伊勢内宮近くの菩提山の曼荼羅石(元は内宮境内にありと云)
  • 岐阜伊波乃西神社の御墓
  • 岩倉の新溝神社(磐座説は触れず)
  • 伊勢の鏡宮
  • 小朝熊神社裏の虎子石 
  • 信州上田の「石神」地名調査 
  • 渡鹿野島の鎮守末社の女陰石 
  • 宇佐大元山の三石(2回目)
  • 福岡県宮地嶽山頂下の立岩と谷度神社の立岩
  • 生駒山麓の石切神社蹴上石
  • 春日神社磐座
  • イカルガ岳の饒速日命石座
  • 外宮末社河原神社近くの小学校入口に立つリンガ(大場先生は懐疑的)
  • 赤城山麓の古墳上の仏岩(神垣石)
  • 赤城の櫃石(2回目) 
  • 砥鹿神社・本宮山(紙幅多めの複数回調査)
  • 大三島の腰掛岩・水品山(岩山)
  • 宇佐神宮の上宮鎮座地(亀山)の地下に埋没するという天浮石
  • 赤城旧社地といわれる粕川村室沢の「ひもろぎ岩」(色なし石)と重り石
  • 保久良神社(樋口清之先生へ愛ある厳しい批判)
  • 玉依比売命神社の児玉石神事の仔細調査
  • 上総玉前神社の霊玉の仔細聞き取り 
  • 鹿島神宮の要石と鏡石 
  • 花の窟、神倉神社、那智滝の岩崖仏と磐扉
  • 笠間市佐白山の「石くら」
  • 鳳来寺山(岩ではなく鏡中心)
  • 国定の赤城神社の本殿裏の御駐輦石
  • 信州筑北刈谷沢の立石
  • 相模六所神社国府祭の神輿(鉾)を安置する4個の自然石
  • 日吉神社(金大巌ほか)
  • 三上山(天津磐座表記以前。室町古地図記録あり)
  • 石巻山 
  • 大瀬神社の石塊群
  • 猿投山 
  • 美濃真木倉神社境内の岩山

楽石雑筆』巻二十四(昭和21年)47歳

  • 伊豆神社の源太腰掛石
  • 伊志夫神社の「石火」「石部」考。同社の石火石(雄岩・雌岩)。お岩様とも。
  • 石部字坂下の田の中の道祖神
  • 美濃国甘南備寺裏山の行者岩 
  • 南豆の白岩山白岩窟 
  • 中川村峯輪の天神社の箕勾石
  • 伊那下神社の亥の子岩
  • 伊予三島神社の大石神社と龍宝石 
  • 伊予野間神社奥宮の石神さん 
  • 石槌神が投下した三個の石
  • 瀬戸崎村へ通ずる帰路の路傍にある大祝腰掛石

楽石雑筆』巻二十五(昭和21~22年)47~48歳

  • 岡山県高嶋の磐境 
  • 吉備津神社 ・吉備中山 ・矢置石 ・穴観音
  • 佐渡島の長石神社(神体は石なりと聞く)
  • 小布勢神社のミケ石(シケ石)と同末社稲荷神社神体の大石棒頭部

楽石雑筆』巻二十六~二十七(昭和22~23年)48~49歳

  • 長野県尖石遺跡 
  • 伊豆長岡葛城山の雫石 
  • 山口県府中の甘南備神社、三宝山の立岩、龍王社の巨石、御立山の立石、三郎丸の俗石(銅剣出土地) 
  • 石城山神籠石 
登呂遺跡と菅生遺跡の発掘調査の時期と重なる。

楽石雑筆』巻二十八~二十九(昭和23~24年)49~50歳

  • 穂高の大塚社古墳上の巨石(蓋石露出) 
  • 猿投西中金駅前の岩倉神社(社背後に磐座ありとぞ)
  • 越戸の灰宝神社の背後の一石(蓋し磐座ならん)
  • 和志殿神社近くの田の中の自然石(触れば祟りあり)
  • 野見山頂上野見神社本殿西方の神石
  • 玉依比売命神社の児玉石神事 
  • 大頭龍神社の古宮(7個の自然石)と特殊祭典

『楽石雑筆』巻三十(昭和24年)50歳

  • 香川県香華山古墳近くの天海宮(網敷天神)境内にある牛石。石台上に神輿渡御あり。 
  • 香川県城山の城郭石造物遺構および、同山の烏帽子岩、明神原(一種の神秘境と評す)
  • 香川県加茂村銅鐸出土地近くの後谷嶽岩屋山(岩窟あり)と牛の子山の外ノ石
  • 山梨県七日市場立石の立石。何らの伝説もなしとぞ。
  • 山梨県七日子神社。本殿下に巨石あり。又裏に二子石と称する巨石並立。妊婦は本殿の砂を持ち帰る風習。境内の子供の足跡石。
  • 千葉県玉前神社の児玉石。海岸より拾いて奉納する〇型の石で安産祈願。

『楽石雑筆』巻三十一~三十二(昭和25年)51歳

  • 上総富岡村の石神山頂上にある一石(傍に小石祠を安置して疱瘡神と刻す、蓋しこの石は磐座又は石神ならん) 
  • 長野県安曇野穂高神社近くの字「かのへ石」銅鉾出土地の転々と露出した巨石群と休み石。大場先生は銅鉾出土は現所有者の捏造と喝破。
  • 平出遺跡近くの湯坪の休石(カラト石/三天王)

『楽石雑筆』巻三十四(昭和26年)52歳

  • 阿智村の夜泣石(触るとおこり)
  • 網掛峠の富士岩(富士山より持来りし小石が生長。オシメをかけたら成長が止まった)と赤子石 
  • 大湯環状列石(8ページ記録あり)
  • 集宮(川の中に残れる岩盤にて下部は自然石の集合)
  • 十和田神社(岩石の露出多き場所)

久しぶりに岩石信仰の大々的な調査あり。場所は愛知県北設楽郡名倉村。名倉村の澤田氏の要請。
  • 寒狭川沿いの二立石併存する山の神祠 
  • 傍らのイボ石と隠居山の神の巨石とシヤクジ(石神)
  • 寒狭川最奥部落の小字「石クラ」にある石神。後藤氏邸の裏にあり、巨石数個立ち、同家にて年2回祭祀。
  • 後藤氏邸にある烏帽子岩とショウゴ様(イワイ殿)
  • 宇連峠の道祖神(宇連の石神)と大マラ地蔵(名倉石神の地名)
  • 市之瀬の行者岩(経塚あり)
  • 津具道の渓流にある花立(自然石の小石を乗せて木の枝などを手向けする峠神の信仰)と立石(上に小石が乗れば幸あり)と蛇岩と七条石
  • 碁盤石山頂の佐倉神社。六個の花崗岩の集合の中に祠あり。
  • 頂上の守護神様。巨石十数個集合し、一巨石上に天狗の石像あり。天狗が転ばせた碁盤石あり。 
  • 下山途中のへのこ岩(男根状の巨岩)

『楽石雑筆』巻三十五(昭和26~27年)52~53歳

  • 播磨国二宮荒田神社北方の塚社「御田上(オンタウエ)」。地下一尺位に平石あり、土師器数枚伴出。 
  • 兵庫県多可町字岩坐神にある千ヶ峰の鏡岩・雨乞岩・國床岩・塔ヶ岩 
  • 岩坐神の杉原谷の三谷にある雌雄の立石(奥八幡/元八幡)
  • 篠山の櫛岩窓神社の御山に登り頂上の巨岩群踏査 
  • 長野県筑摩地村の縄文時代遺跡の下方にある御座石(スワ神が15人の御子を生んだ場所)
  • 近くの勝弦峠にある「びん垂石(鬢濫石)」と虎石
  • 群馬県横野村大字宮田の不動堂(一大巨岩の自然洞穴の堂)
  • 愛知県石座村の石座神社調査。境内の荒神様(石の前に多数の納め箸)、神峯山の石座岩・おち岩・額岩・挽臼岩 
  • 宝来寺村愛の島田神社境内の袂石(又聞き)
  • 宝来寺有海の岩倉神社にも石座らしき石あり(又聞き)

楽石雑筆』巻三十六(昭和27年)53歳

  • 佐渡島岩谷口の船登氏邸裏山の二個の巨石と海蝕洞窟。二ッ井氏神社または岩谷大明神と称す。 
  • 茨城県大生神社の本殿下には一個の石が安置されているという。
  • 岐阜県大野郡朝日村の万石遺跡近くの立岩神社(神体は立石)

『楽石雑筆』巻三十七(昭和27~28年)53~54歳

  • 山形県寒河江の巨石遺跡(地名姥石)。昭和7年の堀場茂馨氏「巨石文化の遺蹟ストーンサークル(環状石籬)の発見」で有名な場所。同文献の抄録あり。大場先生は地質が川の流れで形成した場所であること、確実な遺物が見つからないことから批判的。
  • 長野県玉依比賣神社の児玉石の再調査。
  • 京都苔寺入口近くの松尾神社影向石 
  • 祇園知恩院の瓜生石 
  • 三重県桑名市志知の平群神社の後ろの小山は古墳といわれるが、大場先生は神奈備山で葺石らしきものは祭壇と見る。 
  • 和歌山県阿須賀神社蓬莱山の子安石と上オンビ 
  • 伊勢内宮の御白石と四至神
  • 伏見稲荷の稲荷山巡検。御膳石、剣石大明神など。
  • 石川県羽咋神社近くの本念寺奥庭の「とら石」。古墳の石棺蓋説があるが大場先生は形状から否定し、一夜にして降った伝説から磐座説派。
  • 一宮気多神社の本殿北方森林中にある磐境 
  • 大那持像石神社の地震石 
  • 法界山の前立、石唐戸、奥宮の調査
  • 石川県朝若山の藤井織物㈱前にある神成石。天より下れる石。能登花崗岩。

『楽石雑筆』巻三十八(昭和29~32年)55~58歳

  • 宗像大社の下高宮の磐境。原田大六氏の考古資料私的隠匿への批判 
  • 大島・中津宮の御嶽山頂上にある御嶽神社背後の磐座
  • 群馬入山峠のゆるぎ石。赤城山の櫃石に似ている?との感想。何も出土せず。
  • 佐渡の田切須の渓谷にある「ストンサークル」。中世の須恵器発見。最も大なる岩に佐々木家が山の神祭を行う。隣接して「イワサカ」の字あり。この自然石の群集を配石遺構と見る声があるが大場先生は批判的。
  • 佐渡金井村泉の正法寺にある元清の腰掛石
  • 新潟弥彦山山頂の霊巌(禁足地)と願かけ石
  • 伊東市来宮神社旧社地の海蝕洞窟「堂の岩屋」(石倉別命神社)
  • 信州松本清水中学校付近の積石・リンガ・ケルン
  • 水神社の「神様の腰掛石」「足形石」(古宮)
  • 沼津市浦長浜の長浜神社の神体は1個の丸石。伊豆にはこの例往々あり

『楽石雑筆』巻三十九(昭和32~34年)58~60歳

  • 長野県阿智神社の河合陵。自然の丘陵なれど巨岩ありて磐座様のものを認む。
  • 神奈川県三浦市の上諏訪神社の裏を流れる小流の中に河童石という自然石があり、小児が水泳の折これに触れると河童の害を受けずとの信仰あり(伝聞)
  • 長野県東筑摩郡四賀村五条区井刈相澤の配石遺構とその隣部落である「石佛」の畑地に立つ三本の立石。中央の立石は元からあったもので、左右の立石は六年程前に祟りがあるからと当地に立て並べたもの。自然石柱で何らの彫刻もなくなぜ石佛と呼ぶかは聞き取りをするが詳細を知る人少なし。
  • 福島県白河の建鉾山の調査。巨岩を辿って頂上まで登り、建鉾石と巨岩が同一母岩であることを知る。
  • 白河常在院の殺生石 
  • 白河法石山の子安石
  • 日光二荒山登頂。勝道上人の対面石。太郎山神社の周囲の岩間の遺物出土地点。岩石山で疲弊し大場先生は体力の衰えを自認する。
  • 熱海上多賀祭祀遺跡(大石傍より鏡・土器類出土)。上多賀神社の祭礼において神輿渡御の石、今はない神石、戸又港にあるオカリヤ石 
  • 下多賀の津島神社(牛頭天皇社)境内の亀石(瘧り石)
  • 下多賀神社の御仮屋石 
  • 松本市の薄の宮境内入口前にあるすすきの宮拝石

 『楽石雑筆』巻四十(昭和34~37年)60~63歳

  • 隠岐島今津池尻白鳥神社飛地境内恵美須神社は神体が石で年々大きくなるので祠を大きくしないといけない。 
  • 隠岐島の伊後部落の石、国府尾神社の八尾川右岸の岩上の小祠、あはび島という巨岩、的岩、岩佐の大石、上東郷の石神
  • 安芸木ノ宗山銅鐸埋納地 
  • 埼玉県美里村のコブ石祭祀遺跡
  • 福島県月山神社裏最高峰の湯殿神社に巨石累々と存在する「石姫の神陵」と梵天・帝釈・姥神・冥海座禅石。
  • 福島市山口安洞院の文字擦石(一名鏡石)
  • 佐藤継信忠信墓は自然石二基にして、この石の粉を飲むと夜泣きが治るという。
  • 新宮市阿須賀神社の上オンビ・子安塚(丸石と子安石)と御正体が出土した岩窟
  • 新宮市神倉山のゴトビキ岩 
  • 熊野市の花の窟と産田神社の磐境 
  • 那智の屏風岩、那智七石(ふり石・三ッ石)、松明石、ムスビ様、手引地蔵、対面の岩窟、二十八佛、光ヶ峰の遥拝石(丸石)、平石 
  • 白浜阪田山遺跡

 『楽石雑筆』巻四十一(昭和37~38年)63~64歳

  • 春日大社の若宮出現石、水谷神社の本殿下の陽石と道を隔てて境外に存する陰石 
  • 埼玉県熊谷市西別府湯殿神社境内の御手洗池の中に立つ不動石
  • 江ノ島の第一窟の下部に見つかった新洞窟の最奥部の女陰。祭祀遺跡の奇説が出て現地調査をおこない、海蝕洞窟の大陰部の自然景観で、行者が崇敬した可能性はあるが祭祀遺跡とは言えないという評価。 
  • 江ノ島四名石の一つ・亀甲石(蔵六石)

昭和38年8月6日の記録を以て『楽石雑筆』は中断・完結。
その後の調査メモは大場先生の野帳に収録されている。 
しかし野帳の記録は極めて簡明になるので、探訪場所をすべて網羅しておらず、訪れた場所でも岩石信仰に関するメモは漏れている可能性がある。


『野帳』六十(昭和38年)64歳

  • 前宮末社濱の宮の腰掛石 
  • 産田神社磐座の調査
  • 阿須賀神社上オンビ・下オンビの発掘調査
  • 宮戸神社の千引岩(宮井戸遺跡)
  • はかり石(神倉の天狗の想ひ場)

『野帳』六十一(昭和38年)64歳

  • 茨城県桜川村浮島の尾島神社。神体は化石。
  • 姫宮神社の小紋石(浮島城の姫が入れた衣が石化) 

『野帳』七十一(昭和40年)66歳

 ・コブヶ谷遺跡の個人蔵遺品調査

 大場磐雄『野帳』七十六(昭和42年)68歳

  • 筑波の北條町亀石、飯名神社、月水石神社、立身石、鸚鵡石、ガマ石、天然石 
  • 宗像沖ノ島上陸、磐座遺跡群調査
  • 京都市弁慶石 

以後、野帳は昭和48年の七十八で途絶える。

 昭和48年~昭和49年で記録が残っている岩石信仰の場 74~75歳

  • 静岡県大頭龍神社神事調査 
  • 岡山県熊山仏教遺跡調査
  
この記録の後、大場磐雄先生は昭和50年6月逝去。享年76歳。


最後に

岩石信仰関連を抽出しただけでも、これほどの圧倒的な数である。

私が大場磐雄先生を初めて知ったのは2001年、大学1回生。 
大学の図書館で『神道考古学講座』全巻に出会って以来である。
私が岩石祭祀・岩石信仰の研究の道を選ぶ決定的な理由となった方だった。

2001年の出来事で、すでに大場博士が亡くなられて26年。そもそも私が生まれた時にはもうおられなかった方に、どうしてこれほど敬慕する。

かつて平田篤胤は本居宣長の没後の門人を名乗ったというが、没後の門人と自称できるほど大場博士の学識にまったくおよばないし、大場博士のことを知っているわけではない。 
それでも、この『楽石雑筆』を通して、大場博士の幅広い学問性のみならず、それを含めた人間性の偉大さが否応なく伝わり、尊敬の思いを新たにするのである。


2019年6月17日月曜日

岩上神社の烏帽子岩(石川県小松市)


石川県小松市岩上町

岩上神社の背後に、山の斜面からオーバーハング気味に突き出た巨岩があり、これを烏帽子岩と呼んでいる。

烏帽子岩。落石の危険があるので現在は周囲に柵が囲われ近づけない。

地山の岩盤が半ば露出した崖を烏帽子に見立てる。横には西俣川が流れる。

西尾八景の一つとして名勝化している。


しかし、これは元来は「岩神」ではなかったか。

『石川県能美郡誌』(石川県能美郡編、1923年)には関連する記述があり、該当部分を引用したい。
(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://www.dl.ndl.go.jp/api/iiif/978711/manifest.json

岩上
字岩上は古へ岩神と書せり、蓋し邑中烏帽子岩あるに因る、然るに百年前大火ありしかば、村民これ岩神の文字の祟る所なりしとし、 相議して岩上に改むといふ

烏帽子岩
字岩上の西南四町、鄕谷川の支流なる西俣川に沿ひたる西俣往来に、烏帽子岩と称する奇巖あり、高さ七尺余、其の形の似たるを以て名づく

烏帽子岩、岩上村にあり、高さ十五間程にて、形烏帽子に似たり、古へは此岩を神と崇め、村名の文字、岩神村と書よし、今は音沙汰なし

石神社
字岩上に在り、村社にして大日孁貴尊、天兒屋根尊、八千矛神を祭る、古へは五軀の木像を安置せり、中央は女躰にして、他は観世音及び毘沙門天二體とす、社殿は安政二年の建築に係る、右傍に天然石あり、高さ二尺、其背面に元和元年の文字を見る

上の記述からは、岩上の地名がかつて岩神だったこと、そして、その字を村名に使ったことで大火があったと考えて、音は同じながら字を岩上に変えたことがわかる。
(江戸時代末期に村60戸を全焼する火事が起こり、村の場を神社から離した現在地に新たに開拓したという)

そして、岩上村の烏帽子岩は烏帽子の形に似ていることからその名が付けられたが、古くはこの岩を神と崇め、岩神の名の由来になったこと、そして何にかかっているかわからないが、今はその音沙汰がないのだという。

さらに、岩上鎮座の石神社も言及がある。
岩上神社は1944年までは石神社の社名(または岩神さまと俗称)であり、1923年の同文献には石神社として記載されている。
地名と絡めて考えると、石神と書いて「いわがみ」と呼んでいたのだろうか。

境内には「右傍に天然石」があり元和元年(1615年)の刻字があるというが、境内の社殿向かって左手には現在、下写真のような岩石が残されている。文字は確認しえなかった。

岩上神社。烏帽子岩は写真左奥の位置関係。

社殿向かって左の謎石その1

謎石その2

現地看板


現地看板にも説明がなされているが、『能美郡名跡誌』(制作年の情報出てこず)という文献には、烏帽子岩が白山九所の一つに数えられ、白山の山神の裔神ではないかと推測されている。
本来は土地の自然信仰に根差した場所と考えられるが、白山信仰の世界観の中に組み込まれた一面もあるらしい。

はたして、この岩神への信仰はいつまで遡ることが可能だろうか。
元禄14年(1701年)の『郷村名義(郷村名義抄?)』には、岩神村の名の由来とともに、烏帽子岩が神としてまつられていたことが記されている。
さらに遡り、寛文10年(1670年)の「岩神村」の村印も残っている。

そして、神社境内に残る「元和元年(1615年)」の刻石も考え合わせれば、とりあえず江戸時代の始まりには当地の岩神信仰がすでに起こっていたことは認めて良い。
それ以前の岩神の地名の遡及ができるかは調査不足である。

2019年6月16日日曜日

宮村岩部神社(石川県加賀市)


石川県加賀市宮町

『延喜式神名帳』にある「加賀国江沼郡 宮村岩部神社」である。

拝殿の裏に、土塀で囲われた空間があり、その内部に岩石があるという。
この岩石を見ると目がつぶれるなどの禁忌があり、実質上秘匿された存在であり岩石の外見を拝むことはできない。
(土塀を登れば見えるだろうがそのような我欲に取り込まれてはならない)

神社の表記は正確には「宮村𡶌部神社」。「𡶌」が難字である。

土塀越しには、二本の大木を望むことしかできない。

2019年6月10日月曜日

白山神社の巨大岩塊(福井県勝山市)


福井県勝山市平泉寺町大矢谷



多くの白山神社と区別するため、所在する大字を取って大矢谷白山神社とも呼ばれている。
(加賀・能登と比べると越前における白山信仰の影響は意外に少ないという。『福井県史』より)

勝山市によってジオパークの一つ「大矢谷白山神社の巨大岩塊」 として認定されている。
北東にそびえる経ヶ岳の山頂が崩壊し、その山体を構成する岩塊が勝山市~大野市に数百個の単位で麓に転げ落ち、そのうちの一体がこれだという。

それならば当地の人々には「巨石」という存在は比較的ありふれたものだったとみるべきだが、その中でまつられた岩石とまつられなかった岩石の差は何だったのか。

すぐ近く隣接する大野市域では延喜式内磐座神社も鎮座しているが、それらの岩石は当地より小ぶりで、当地の岩塊はそのような道筋を歩まなかった。それはなぜか。

神社入口

巨大岩塊

覆屋も岩盤上に建てられている。

岩陰に合わせて建屋は設計されている。

岩陰の火焚き場

本殿側から。隣接する沢音がバックに流れる。

鳥居横の岩塊

岩上に樹根が這う岩塊

ここは白山を開山したとされる泰澄大師が、岩陰で宿泊した大岩窟「一の宿」と伝わる。
残る伝承としてはこれくらいのようで、巨大岩塊は聖なる宿以上の認識は読み取れないが、集落の外れと山の境に立地する巨大岩塊は、横に沢が流れ聖地としての信仰環境は十分に備えている。

2019年6月9日日曜日

磐座神社/大槻磐座神社(福井県大野市)


福井県大野市西大月字磐倉

『延喜式神名帳』記載の「越前国大野郡 大槻磐座神社」とされる。
現在の字も「大月」で、「いわくら」に「磐倉」の字の用例をもつ。

西大月字磐倉の磐座神社

境内は鬱蒼とした草木に埋もれるようにして鎮まる。



『大野市史 通史編上 原始~近世編』(大野市編・2016年)には、大野郡における磐座名を冠する神社について特筆している。

いわく、大野郡鎮座の延喜式内社である
  • 大槻磐座神社
  • 高於磐座神社
  • 磐座神社
  • 篠座神社
の四社が、磐座やそれに類する社名として密集し、今日まで存続していることに注目している。
(篠座神社については「座」の共通性だけで、必ずしも岩石とのつながりを示すものとは言えないが)

さらに範囲を広げて、越前・若狭における延喜式内社には伊部磐座神社・石按比古神社・石按比売神社もあり、「いわくら」を神格化した社が少なくとも6か所に上っている。
これは他地域と比べても類を見ない分布の濃さであり、『福井県史 通史編1 原始・古代』(福井県編・1993年)でも、集落土着の自然信仰の傾向として岩石があったことが言及されている。

このことは、ことさらに当地が磐座信仰の密集地だったというよりも、延喜式内社の収録基準に若狭・越前地域の磐座群が適合し、多く文献に記録された(そうでない全国各地の磐座は記載されなかった)とも理解できるだろう。

すなわち、本来は磐座単体だと社を必要としないため、岩石単体のまつり場ならば延喜式内社として収録されなかった可能性がある。

一方で当地の磐座神社たちは、神を降ろす座だった磐座に早くから神が常在しだして石神のような形で岩石と神が同一視されたか(=磐座神としての信仰)、あるいは磐座に社殿建築が加わり、早くに磐座の祭祀が社殿祭祀に置き換わったといった仮説が提起できる。


さて、再び大槻磐座神社に話を戻したい。

『福井県大野郡誌 上編』(福井県大野郡教育会・1911年)では当社についての古記録がまとめられている。
同書によれば、『平泉寺賢聖院々領目録』『国史略記』『古名考』『類聚国志』『越前神社考』『越前名跡考』 『深山木』『神祇志料』などに存在が記載されているが、多くの書で書かれているのは大月の地にあるといった所在の内容にとどまり、祭神などの詳細は「知らず」「詳らかにせず」といった内容である。

それは「磐座」の存在についても同様で、古記録からは「岩石としての磐座」の由来や存否について窺い知ることはできない。

そこで現地に目を向けると、拝殿向かって右(東)に3個の岩石が群集しており、これが磐座ではないかとみなされている。
一方で、この岩石群は村人が掘って立てたという情報もあるが、その出来事が事実であるかが不明であることと、かつての埋もれた磐座が再発見されたという意味合いを持たせることもできなくはない。

拝殿横の岩石3個

地中から根続きの岩盤というよりは、独立した岩石の様子。

上方斜面側から。注連縄が巻かれていた時期もあるらしい。

3個の岩石のうち、1個の岩石頂面には酒が立てられていた。


神社の立地は山裾に位置するため、社殿背後には裏山がまだ続いている。
境内から見るかぎりでは露岩などは確認できなかったが、山中の岩石群の有無は今のところ確認できていない。


2019年6月3日月曜日

飯部磐座神社(福井県越前市)


福井県越前市芝原

古代より神霊があらわれる神聖な巌は、磐座(磐境)として祭祀の場とされる。当社の磐座は近隣の社にない巨岩群で、土地の豪族伊部造豊持氏が、氏族の磐座祭祀を行ったと伝えられている。
「延喜式神名帳」にある「伊部磐座神社」は、この神社であると言われている、(式内社の研究 志賀剛氏の説による)
2004年建立の現地看板より

飯部磐座神社

丘の南斜面に巨岩群が群集する。

丘の周囲は住宅地が密接している。

このように胎内くぐりのような岩陰空間もある。

巨岩群は切り取り方で多様な表情を見せる。

丘の頂上(社殿)から北東方向を望む。周囲を一望できる好環境。

「敦賀郡 伊部磐座神社」の論社とされているが、当社は大野郡域に鎮座しているため異説もある。

享保11年(1726年)の火災で旧記は失われたという。
貞観15年(873年)、伊部造豊持が遠方から巨岩を運んでこの磐座を造ったという話もあるが、伊部造豊持による磐座祭祀についての仔細や事実関係もわからない。

この丘を古墳と見立てて、巨岩群は古墳の石材の跡、あるいは、古墳の上に巨岩を運んだと見る考え方もあるようだ(古墳としての埋蔵文化財登録はされていないが)。
すぐ近くには芝原古墳群として包括される古墳群がかつてあり(宅地開発で消滅したものが多い)、古墳との親和性は否応なく高い。
ただ、個人的には巨岩一つ一つの形状を見ると、古墳の石室のようには感じないものもある。風化と苔の付着で惑わされているところもあり、主観である。

周囲に巨岩がないから自然形成とは考えにくいという見方もあるだろうが、当地を開拓して土地を均した時に、地域に分散して露出していた巨岩や微高地の土をかき集めた塚の跡と考えることもできる。
ただその場合、巨岩は丘の南斜面に密集しているが、丘の頂上近くまで巨岩が上がっている。周囲の不要土や岩石を寄せるだけなら、巨岩をこんなに上まで上げる必要性はない。

自然形成、または古墳説、新田開発説などいろいろな見方を紹介したが、一方で人工的な磐座説を否定するものでもない。
人工的な磐座は、岩石こそ小規模なものの、古墳時代の祭祀遺跡ではしばしば見つかっており、神を招く祭祀の台座である磐座を人為的に設けることは、祭祀の構造から考えても何も不思議なことではない。
磐座を神と同一視すると、違和感が生まれる。
磐座=自然の巨石、磐境=人工の施設というような古典的な言説も見たことがあるが、記紀にはそのような定義付けはまったくされておらず注意したい。

2019年5月26日日曜日

大虫神社境内大岩神社(福井県越前市)


福井県越前市大虫町 大虫神社境内

大虫神社の境内に、摂社・大岩神社が鎮座する。
現地に掲げられた境内地図には「お岩神」の名称も冠せられている。
西村英之「大虫神社」『日本の神々―神社と聖地 第8巻 北陸』(白水社、1985年)では、「お岩さま」と呼ばれているとも書いている。

大虫神社

境内社の大岩神社

社後に岩石をまつる。

背後より


以下に社頭掲示の文を引きながら、補足説明を加えていこう。

大岩神社
当社は大虫神社の奥の社と称し、古代より上大虫村(大虫町)山地字水谷に鎮座。神体盤石に座処往古より神変、奇異の神徳あり。

上記の記述から、当社は元来この現在地にあったのではなく、上大虫村山地字水谷にあったことがわかる。
「山地」が大字としての「山地」か、一般名詞としての山地か見分けにくい。
越前市や大虫町の字一覧を調べればはっきりするが、いま手元に調査できるものがなくわからない。
大虫町山地や大虫町水谷で検索するだけでは地名がヒットせず、旧社地が地図上でどこなのかも不明である。

「神体盤石に座処」 は、本来の大岩神社は「盤石」に神が座す磐座としての形の信仰だったという語り口である。

後陽成天皇 慶長十三年(一六〇八)三月四日連縄を張る
明正天皇 寛永十年(一六三三)社建立
桃園天皇 寛延三年(一七五〇)小鳥居を建立
大正十年(一九二一)五月一日水谷の旧跡より現在地に遷宮す

旧社地の水谷での沿革に注目したい。
寛永十年に社を建てたとあることから、それ以前は社を持たず、慶長十三年に注連縄が張られたのは、盤石に直接ということが読み取れる。
盤石を以て大岩神社としていたということになる。

「帰贋記」に上大虫の西の山に神という石あり。又天狗岩ともいひならはせり。此の石みずから動いて山下、山上へ所を帰る事ありと、昔よりいひ伝えられる。

「帰贋記」がどのような文献なのか説明はないが、さらに新しい情報が加わる。
「神という石」という記述には、そのシンプルさに少々驚かされるが、これはやや批判的に受けとめたい。
というのも、前掲の『日本の神々―神社と聖地 第8巻 北陸』には別途『越前地理指南』という文献の記述が引用されており、そこには「西ニ山の神といふ石アリ五尺四方也此石自ラ揺キ山上山下へ居をかゆる事アリ天狗岩共云伝」とある。
こちらを信頼すると、「山に神という石」ではなく、正しくは「山の神という石」ではないかと思うのである。

しかし他の記述はほぼ同様の内容であり、石自体が神であったことがうかがえ、天狗岩の別称もあったことがわかる。

石自体が山の下へ行ったり上へ行ったりするということで、この手の伝承は全国に複数見られるが、石自体が人のごとく石を発動しており、ここからは座石としての働きではなく、岩石自体が石神として動いていると言えるだろう。

これは、社頭掲示冒頭の「神体盤石に座処」という磐座的機能とぶつかりあうところで、どのように理解したらよいだろうか。

ひとつは、石神でもあり磐座でもあるという理解。
似ているが異なる解釈として、石神も磐座であるという理解。
次に、石神または磐座のどちらかを真として、もう片方を後世の付会とみなす理解。

文献調査不足のためここでは結論を出さないが、あえて斜に構えるなら・・・。

社頭掲示の「神体盤石に座処」は看板を書いた人物の神道知識(岩・石はすべて磐座という発想)にひきずられているという可能性はある。
一方の「帰贋記」はいつごろの制作かわからないが、社頭掲示の文が同文献から忠実に引用しているのであれば、石神としての記録のほうがより確固としている。
それは神変・奇異の神徳にも通じ、お岩神(大岩神)という神名にも通ずる。

石は又五尺四方計(約一.五メートル)有りて人力の及ぶ所にあらずとある。

石の規模を記しているが、さて、この「石」は、旧社地にある盤石を指すのか、それとも、現在地に置かれている目の前の岩石を指すのか。
目の前の岩石も、規模は1.5m四方と言えばそれくらいの大きさである。

「人力の及ぶ所にあらず」であるから、人が運んだものではないという意味はわかるが、運べないほどの規模というわけでもない。

そもそも、旧社地の盤石をそのまま現在の境内に移した(伝説上の表現では「動いた」)のか、旧社地の盤石と似た岩石を新たに現社地に置いたのか、ここがわからない。
これも全国各地に、どちらのパターンの類例がある。
大正十年に遷座したこととあいまって、旧社地の石の現状と現社地の石の出自が読み取れないが、現地での聞き取りと郷土資料の調査で判明するものと思われる。


2019年5月21日火曜日

大岩大権現(福井県敦賀市)


福井県敦賀市疋田

大岩大権現
麓の疋田地区


疋田地区の登り口に案内は見つからなかったが、疋田浄水場を目指せばそのすぐ近くに「大岩大権現」の標識を見つけることができる。

左が疋田浄水場/右が大岩大権現


手前まで舗装路のため車で登ることもできるが、途中に延命地蔵の滝もあるため、麓から歩くことを薦めたい。徒歩10分もかからない。

大岩大権現下流にある延命地蔵と滝

大岩大権現の由来は現地看板によると、慶応2年(1866年)の大雨で当地で山津波が起こり、その時にこの大岩の存在が大木・落石を防ぎ、水の流れを変え、麓の疋田地区への山津波の直撃を防いだことにより、疋田の人々が大岩大権現と呼んでまつったのだという。

綺麗に手入れされた境内。建物は付属せず、大岩をそのまままつる。
この岩が落石となったら悪石と化しただろうが、他よりもひときわ大きいこの岩が他の災厄から救った。
大岩大権現の裏側に回ると・・・
石の群集が岩陰を作り、向こう側に胎内めぐりのごとく貫通している(写真中央)
現地看板。由来詳細はこちらを参照。



由来どおりであれば、明治維新直前の比較的新しい岩石信仰の事例だが、そこに語られている内容は極めて自然信仰であり、神格化への昇華も極めて汎人類的な心の動きである。

これはそのまま、現代においても数多ある自然災害のなかで生まれた"畏怖"や”奇跡”と通ずるものもあるのではないか。

言い伝えの中に、村を襲う「害なる落石」と、それを防いだ「善なる大岩大権現」という二つの岩石の語られ方が見て取れるのが興味深い。
ここでは、岩石が動かず、動く他の災厄を塞いだという「不動性」が「塞」「サカイ」に通じて信仰要因となっている。

そして、大岩に権現が宿ると村人が判断した決め手は、氏神にお伺いを立てておみくじを引いた結果、山王権現の加護によるものという託宣があったのだという。
時代背景もあってか、自然石をそのまま神に昇格することはあたわず、外部の氏神と山王権現の真意を加えた流れをくみとることができるだろう。

現在も、大岩大権現の隣には川が流れており、下流には滝があり、冒頭で触れたとおり浄水場・配水池も近くにある。
水量の豊かな環境にあることがたちどころにわかり、麓に人が住む限り、大岩大権現に頼る思いは変わることがないだろう。

大岩大権現に隣接したこの岩塊も奉献対象だとわかる。おなじく「動じなかった善神」か。

2019年5月20日月曜日

興道寺と木野にある二つの御膳石(福井県三方郡美浜町)



福井県三方郡美浜町には、二つの御膳石が現存する。
こちらについては、橋本裕之氏「御膳石考―弥美神社の祭礼に関する集合的記憶の支点―」(『京都民俗』第22号、2005年)で詳しく論じられており、同論文を参考にしながら紹介したい。

興道寺の御膳石
(美浜町興道寺 日枝神社境内)

日枝神社境内の東、耳川(弥美川)を望む場所にある。
幾度かの場所移転後、現在地でいまだ保存されている。

興道寺の御膳石。草でわかりにくいがセメントで地表面が固められている。

木野神社境内にある。

石の頂面を上から撮影。

御膳石から耳川越しに弥美神社の方向を望む。


耳川を挟んだ対岸の弥美(みみ)神社の五月一日の祭礼時、御膳を供えるために置いていた石である。
なぜ弥美神社から離れた場所で御膳を献ずるのかというと、祭礼時に耳川が増水して渡れなかった頃、この石にお供えをして遥拝したのだという。
この地区にまだ耳川の橋が架かっていなかった時代の話である。

弥美神社宮司だった故・田中伊之助氏が「石ノ信仰ニツイテ」という文書を書き残している(1940~1967年頃の制作か)。この文書に興道寺の御膳石も言及されている。
橋本裕之氏は前掲論文の中で、この文書の全文を掲載している。
御膳石の特徴を表す部分に絞って、箇条書きにまとめておきたい。

  • 川岸に残っていて、地上から三尺ほど露出している。
  • 石の頂上が平坦で、農具を置いたり弁当を食べたりする時に便利そうだが、そんなことをすると神罰が下るといって土地の住民は敬遠している。
  • 弥美神社に御膳を馬にのせて運ぶが、川が増水して渡河できない時はこの御膳石に供えて、遥拝して帰った。

橋本氏の現地調査(実見および聞き取り)によると、さらに次の情報が加わっている。

  • 高さ79cm、長辺77cm、短編56cmを測る(地表露出数値)。
  • 頂面の平坦部は人工的に削って作りだしたものではないか。
  • この主石に付随して、2個の小ぶりの岩石も大切にされており、3個含めて御膳石として扱われている。
  • 元々は現在地にあった石ではなく、耳川近くの水田の畔にあった。 
  • 畔を境にして、上の水田は日枝神社の宮田で、下の水田との段差が30cmほどあった。御膳石も30cmほど埋まっていたという。
  • 下の水田の所有者談では、自然の所産というよりも、人工的・意図的に配置された石に見えたという。
  • 1977年、土地改良工事の時に一度地中に埋められたことがある。この時、石が風化するための「岩腐り」状態になった。
  • その後、地中から掘り出して日枝神社の横を通る農道脇に移設した。当時、御膳石を動かすことに躊躇する、気が咎める雰囲気も地元の中にはあったらしい。
  • 1999年、日枝神社の出入口を新設した折に、御膳石はさらに移転され、現在の境内東側に安置された。

「遥拝」について思いを巡らせたい。
遥拝であるから、基本的には信仰対象である神霊との物理的距離が離れている場合に用いる概念である。

御膳石は、神霊に捧げる品々を、遠くの場所からでも転送できる装置である。
それと同時に、奉献物に込められた信仰者の思いをも、神霊に転送する機能を持つ。
そうでないと、参拝の代わりにはならないからである。

本来は、弥美神社という神域の中まで入ることで、参拝は達せられる。
それが、増水というハプニングの時に限り、御膳石の力を借りることで、神域で参拝したことと同じ価値を得られる。

これは言うなら、御膳石遥拝の時だけ、弥美神社の神域が拡大して、御膳石が神域の境界の端を担ったのかもしれない。
だから、物理的距離が遠かったとしても、逆に神霊のテリトリーを拡張することで、そこの奉げ物を神霊が受けとってくれると保証されることになる。
つまり遥拝石とは、単純な転送装置というだけではなく、遥拝する時だけ、信仰対象のテリトリーをその岩石まで拡張する機能を担ったのだと理解することもできるだろう。

ただ、人の心にはグラデーションがある。
遠くの祭神に祈願を届けるのではなく、遠くの祭神が御膳石という装置の力によって、御膳石の場所まで来てくれていると解釈した人も、参列者の中にはいたかもしれない。
この場合、御膳石は神饌台という単一機能だけでなく、一種の呼び寄せ装置でもあり、磐座に近い性格も帯びることになる。
目に見えない観念世界だからこそ、信仰・祭祀における信仰対象の現われ方には絶えず揺らぎや多様性が混じることも、注意しないといけないだろう。

弥美神社。「王の舞」の民俗芸能が残ることで有名。


さて、この御膳石には不敬な行為をすると神罰があるとは前述のとおりであるが、現在は不敬どころか原位置から度重なる移転・改変を受けており、今は特に祭祀の行われていない岩石に変容した。

橋本氏の調査により、御膳石を取り巻く人々の心理にも変化が起こっているのが読み取れる。
田中宮司が記した1967年以前では、御膳石は間違いなく「神聖な岩石」であり、祟り伝承を付帯していた。

それがまず崩れたのは、信奉者ではない外部の工事業者がそれと知らずなのか、1977年の土地改良工事で地中に埋めてしまったことに端を発する。
この時の詳しい経緯はわからないが、地元の人々の理解の上で埋められたのなら、 この時すでに御膳石の祟り伝承と神聖性は相当薄れていたと認められる。
これは、耳川に恒久的な橋が架かってから、御膳石がその遥拝石としての役割を必要としなくなったことと絡み合うのかもしれない。

一方で、地元の人々の理解を得ないまま工事業者が埋めてしまったのかもしれない。
この場合は、人々の御膳石への心理は従前と一緒だった可能性もあるが、この出来事によって、御膳石は視界から姿を消し、記憶の忘却に拍車がかかる契機となった。また、御膳石をこのような状態にしたのに実際に祟り現象が起こらなかったと人々に認識された場合、その時、御膳石の畏怖性は急速に失われたであろうことも想像に難くない。

このように、1977年を境に御膳石は「ある程度動かしても良い」認識の存在になった。
後で再び御膳石が取り出されたのは、御膳石に対する人々の愛情の現われであり、移設時に気が引ける思いが一部の空気にあったのもまだ従前の畏怖性が残っていたことを示すが、それでも最終的に御膳石は「動いた」のである。

一度動いた御膳石に、その点でのタブーはもうない。
だから1999年に再度移転も受け入れられ、3このいしはセメントで固定されるという「保存処理」がなされた。
これはもう、御膳石が現役の祭祀装置ではなく、文化財の一種として人々に認知されていたと言える行為だろう。

それでも御膳石は今でも耳川を望む位置に立ち、博物館の展示品のように、かつての祭祀景観から完全に切り離されたわけではない。
そして、橋本氏が前掲論文で指摘したように、現在も御膳石は「弥美神社の祭礼に関わる集合的記憶」を掘り起こし、再評価する記憶装置(過去の記憶を想起・生成させるための起動装置=ジェネレーター)の役割を果たしているのである。


また、御膳石の頂面が人工的に成形されているのなら、祭祀当初の御膳石は人為加工された存在であり、それ自体には「改変することへの畏れ」は感じられない。

人為加工したのが初めから祭祀目的だったなら、そこには祭祀を執行するための祭具としての意識が先行しており、岩石自体に畏怖性が帯びたのは後天的なものと解釈できる。

それとは別の可能性として、元々は古代に別の理由で加工されていた岩石が、後年に再発見され、これを神意と見て祭祀の石に転用したケースもあるだろう。その場合は、再発見時点ですでに岩石には畏怖性が伴ったと理解して良い。

日枝神社の入口。獣害除けの電流柵で囲われているので、外して参拝する方式。


木野の御膳石
(美浜町木野 木野神社境内)

木野地区の鎮守である木野神社にも、御膳石と呼ばれる岩石が現存する。

木野神社も入口に厳重な防護柵がある。出入りは元通りに。


場所は、木野神社の社殿に向かって右手前で、玉垣に接して置かれたベンチのような岩石がそれである。
興道寺の御膳石と同じく、特別な石であることを示す標示はなく、外野の者にはその出自を外見で把握することはできないだろう。

木野の御膳石

玉垣の奥方延長線上に弥美神社が。

玉垣外から御膳石を撮影。

別方向から撮影。直方体の整然とした形状。

社殿向かって左にも岩石がある。これらにも埋もれた歴史があるのだろうか。

 興道寺と御膳石という名称は同じだが、岩石の形状は似ていない。
興道寺の御膳石は立石状に対し、木野の御膳石のほうがより平石であり、御膳を置く分には木野の方が置きやすい。

木野の御膳石も、橋本裕之氏が同論文で調査しており、その要点を以下にまとめたい。

  • 高さ41cm、長辺124cm、短辺40cmを測る。
  • 石英脈が多数入った砂岩との鑑定。
  • 木野神社の祭礼時、御膳と御幣を二つずつ制作し、一つを木野神社に捧げ、もう一つをこの御膳石に捧げるという祭祀を現在も継続している。
  • 御膳石を捧げる方角上には弥美神社が位置しており、こちらも弥美神社に対する遥拝の岩石とされる。
  • かつて弥美神社の祭礼日には、木野神社を遥拝してから祭礼を開始していたという伝承がある。
  • 木野は弥美神社の氏子集落であるが、弥美神社の祭礼には参加せず、木野神社で独自に祭礼を執行している。

これらの点から、橋本氏は木野の御膳石を、木野神社と弥美神社の二系統の祭礼に関する集合的記憶の支点として機能する存在だったと論じている。


岩石信仰の観点で考えれば、木野の御膳石は木野神社の祭礼時、弥美神社の方角に向けて御膳を置き、御幣を立てかける岩石である。
御膳石には御膳だけではなく御幣も立てかけるので、単なる神饌台ではなく、神霊が御膳石に来臨する磐座の機能も有している。
細かく言えば、御幣は御膳石の上ではなく、御膳石に斜めに立てかけている。
それでも、御幣に神霊は来臨するので、御膳石は立てかけられた下の台座の働きとして、磐座の上に神がやってくる構図自体は変わりない。

他にも興味深い点があるのでまとめてみよう。

  • 興道寺の御膳石と異なり、木野の御膳石では今も祭祀が行なわれている。
  • 弥美神社の祭礼に合わせるのではなく、木野神社の祭礼の日程に組み込まれて使用されている。
  • 川の増水と関係なく、木野の御膳石は初めから遥拝すること前提で定期的祭礼に組み込まれている。
  • 田中宮司の「石ノ信仰ニツイテ」には、興道寺の御膳石について言及があるが、木野の御膳石は取り上げられていない。


興道寺の御膳石は増水というイレギュラーな出来事によって遥拝に使われたり使われなかったりしたことが想像されるが、木野の御膳石は毎年一回かならず祭祀に用いられた。

この祭祀の定期性の有無が、興道寺は祭祀が失われやすかった(橋の建設があったにせよ)理由になり、木野は今も続いている要因になったのかもしれない。

同様に指摘したいこととして、興道寺より木野の御膳石の方が、岩石の機能も祭祀の内容も洗練されているという点がある。システム化されていると言い換えてもいい。

興道寺の御膳石は

  • 不定期に祭祀執行される。
  • おおむね遥拝のための奉げ物を置く石として使用された。(磐座的発想は皆無ではないが、少ない)
  • 岩石が奉げ物を置く石としては、不適切ではないが、適当と言い切れるほどの平坦面を持ってもいない。
  • 弥美神社の祭礼に対して、あくまでも従の関係である。

木野の御膳石は

  • 定期的に祭祀執行される。
  • 奉げ物を置く石という点では興道寺と同じであるが、御幣も供えて弥美神社の祭神も呼び寄せる磐座的発想も兼ねている。
  • 奉げ物を置くに適した合理的な形状の石を選んでいる。
  • 弥美神社に対して、独自路線の祭祀体系を用意しており自立的である。

まるで、興道寺の御膳石を見習って、それを体系化したかのような感が木野の同石にはある。
これと併せて考えたいのが、田中宮司の「石ノ信仰ニツイテ」に、木野の御膳石は取り上げられていないという事実である。

前述のとおり、木野神社の御膳石は今も祭祀が継続されている存在であり、そういう意味では、近在の「石ノ信仰」をまとめようとこの文書をかいた田中宮司の耳に届く存在でしかるべきであるが、記述されていない。

はたして、木野の御膳石の祭礼がいつまで遡りうるものなのかはわからないが、興道寺の御膳石の祭祀が途絶えたのと入れ替わるように、木野の御膳石が今も遥拝祭祀を受け継いでいるのはとても興味深い事実と私は見ている。