2019年7月15日月曜日

上多賀宮脇遺跡(静岡県熱海市)


静岡県熱海市上多賀字宮脇

発掘調査の概要

上多賀宮脇遺跡

遺跡地に元々あった岩塊。この岩塊の下から祭祀遺物が見つかった。


多賀神社からは古くから土器・石器・有孔円板・土製丸玉などが収集されており、昭和33年(1958年)になって、神道考古学の大場磐雄氏を中心としたメンバーが正式な発掘調査をおこなった。

多賀神社の社殿背後には「地主神(ぢしゅしん)」と呼ばれた石祠がまつられていたと地元の方所蔵の文政9年(1826年)『境内地相図』に描画されており、ここは元宮の地であることが記されている。
調査時点では既に石祠はなく台石が残るのみだったが、元宮伝承の重要性及び台石周辺に露出していた大小の岩石の意味を調べるために、ここが発掘調査地に指定された。

地主神の北東8m地点には欅の大木があり、神木としてまつられていた。
既に神木の辺りから遺物が採集されていたのでここも重要であるという結論になり、もう1つの発掘調査地に指定された(昭和35年前後に枯死して伐採されてしまったという)。

地主神の周辺には大小の岩石が露出しており、石祠・台石のすぐそばには長径92cm、短径48cm、高さ40cm程度の最大規模の大きさを持つ楕円形の石塊があった。
この石塊を持ち上げたところ、下から仿製漢式鏡(変形六獣鏡)1面、素文鏡3面の計4面の青銅鏡が出土。
また、石塊の下には玉石が敷かれてあるのが確認され、ここはまた石を敷いた上に大ぶりの石塊を置き、祭祀を行なった遺構であることが判明した。
欅の神木周囲からも素文鏡2面、鉄製鍬先片1点が出土し、同様の祭祀が行なわれた様子が推測された。

ほか、遺跡内からは古墳時代前期~後期・歴史時代に至るまでの長期間の土師器・須恵器や滑石製有孔円板が発見されている。

以上は古墳時代を中心とする祭祀遺物であり、時代の異なるものとして縄文土器片・弥生土器片・磨製石斧・石皿・灯明皿・古銭(寛永通宝)も見つかっている。

向山と多賀神社の祭礼

多賀神社から望む向山

多賀神社の北北東には向山(むかいやま。標高227m)があり、なだらかな三角形の山容を神社から直接望むことができる。
向山は神を迎える山の意ではないかという説もあり(大場1967年)、上多賀宮脇遺跡の石塊・敷石遺構は向山の神を迎える山麓祭祀の場だったのではないかと考えられている。

多賀神社は正徳年間(1711~1715年)に滋賀県多賀大社の伊弉諾尊・伊弉册尊を勧請し、日少宮(ひのわかみや)と号していたことまでは分かっているが、それ以前の歴史については不明である。
所在が分からなくなっている延喜式内社の白波之弥奈阿和命神社に比定する向きもあるが、確定には至っていない。

ただ多賀神社には、祭神が最初来臨した時の興味深い伝承と神事が記録に残されている。

多賀神社の祭神は最初海からやって来たといい、多賀神社のすぐ南にある戸又海岸に神(木像と伝える場合もあり)が漂着し、それを地元の人が青草を刈ったものを海岸に敷いて小麦の強飯を捧げ神に休んで頂き、その後、現在の多賀神社の場所まで連れて行って(その道順は現在も「神の道」として知られる)そこで奉祭したのが神社の始まりといわれている。

多賀神社で現在は絶えているがかつて行なっていた神事が下記である。
例祭前日に地主神の石祠に小麦の強飯を供え、例祭日未明に熊ヶ峠という場所で茅を刈り、それを戸又海岸にある神幸所(御旅所)の「おかりや石」の上に敷き並べる。
多賀神社を出発した神輿はその「おかりや石」の茅敷の上に置かれ、そこで神事と鹿島踊りの奉納が行なわれた後、再び神社に戻るという祭祀があったという。
神の海岸漂着伝承を裏付けた祭祀内容となっている。

「おかりや石」の存在は残念ながら探訪時は知らず未訪であるが、大場磐雄「上多賀宮脇遺跡」の写真を見ると楕円形のそこまで巨大ではない岩石であり、上多賀宮脇遺跡の石塊と共通したものがある。
戸又海岸から見る向山は美麗な三角形の山容といい、古墳時代の磐座祭祀の場だった地主神に小麦の強飯を供え、祭祀の時に「おかりや石」に茅を敷き神輿(=神の化身)を一時的に乗せるという多賀神社の祭祀は、磐座の性質を忠実に受け継いだものと言える。

残された論点

当地の祭祀は、多賀神社境内の地主神地点における磐座祭祀のほか、すぐ近くにある大欅での樹木祭祀、そして戸又海岸における祭祀と、3地点での祭祀が浮かび上がってきた。

この地点差は何なのかというのが1つの論点である。
大場氏も、集落の違いか個人間の違いか祭祀内容による差なのか判断はできないと述べている。しかしいずれにしてもこの3地点は向山の三角形山容を直接目視できる山麓祭祀であり、多賀神社が川沿いの立地であることも山岳水源に依拠した祭祀場だった可能性を補強している。

その一方で、多賀神社の伝承・神事は極めて海への視点に偏っている。
これは神の彼方は異世界でありそこから神がやってくると信じられた、いわゆる常世国観念に基づくものとされるが、海と山では祭祀方向が一定しない。
祭祀方向自体は置いておくとしても、海の神と山の神が独立した存在だったのか、同質的な性格で語られる存在だったのか、大きな論点といえる。

海上から見る向山はランドマークであり、漁業民にとって必ずしも海と山は対立する存在ではない。
しかし、海の神が山の神になったのか、山の神が海の神を迎えたのか、今挙げたのはあくまでも一例だが、そういった人々の中での神の世界の論理付けや思考構造は伝承・祭祀からはまだ見えてきていない。

少なくとも、当遺跡は「山麓で比較的小ぶりの岩石を人工的に置いて、その下に玉石を敷いて鏡を供えた」――そのような祭祀形態が古墳時代にあったことを事実面で示したとまでは言えるだろう。

同じく山の見える場所で、人工的に岩石を置いて祭祀を行なったとされる埼玉県こぶヶ谷戸遺跡(鏡の模造品である有孔円板も出土している)や長野県雨境峠の鳴石遺跡(鳴石周囲には敷石あり)などと相通ずるものがあり、当時の岩石祭祀の解明に寄与する好資料であることは間違いない。


出典

  • 大場磐雄 「上多賀宮脇遺跡」 熱海市史編纂委員会 『熱海市史 上巻』 熱海市役所 1967年
  • 小野真一 「上多賀宮脇祭祀遺跡」 熱海市史編纂委員会 『熱海市史 資料編』 熱海市役所 1972年

2019年7月14日日曜日

箱根山の岩石信仰(神奈川県足柄下郡箱根町)


神奈川県足柄下郡箱根町

箱根山祭祀の変遷


第5代孝昭天皇の代、箱根山の最高峰である神山(標高1438m)をまつるため、聖占仙人が神山の南にある駒ヶ岳(標高1356m)に神仙宮を建てたのが箱根山祭祀の始まりとされる。
そのあと利行丈人・玄利老人は、神山を天津神籬、駒ヶ岳を天津磐境と定めた。神籬は祭祀対象、磐境は祭祀をする場を指すのだろう。

孝謙天皇の代、神託により萬巻上人は祭祀の場を駒ヶ岳南麓の芦ノ湖岬に場所を移し、これが現在の箱根神社といわれている。

駒ヶ岳(左手前)と神山(右奥)


馬降石・馬乗石


駒ヶ岳の山頂には箱根元宮(これは昭和39年の創建)が建ち、その手前に5体の安山岩が集まっている。
このうちの2体の岩石は、それぞれ「馬降石(ばこうせき)」「馬乗石(ばじょうせき)」と呼ばれている。

馬降石は神が白馬に乗って降臨した場所といわれ、石の表面に開いている窪みはその白馬の蹄の跡と伝えられている。
蹄跡には常時水が溜まっており枯れたことはないという。蹄跡に降り積もる雪の形状で、その年の作物収穫量を占うという儀礼もあったらしい。
 また、現在は磨耗していて確認が難しいが、石の表面にはいつの時代かに刻まれたとされる馬形の線刻がある。

馬降石の手前には、地主神の駒形権現(祭神:国狭槌尊。本地仏:大日如来)の石祠が鎮まる。

駒形権現と馬降石と箱根元宮
馬降石

馬降石

馬降石の窪みに溜まる水


馬乗石は馬降石の向かいにあり、現在は岩石の上に石碑が立てられている。名前からして先ほどの白馬の聖跡だろうか。

馬乗石


駒ヶ岳山頂祭祀遺跡


この5体の岩石群周辺ではかねてから土器・古銭が採集されていた。
そこに、箱根元宮の社殿建立工事が持ち上がったことから、馬降石・馬乗石の保存に影響が出ると懸念されたことから、昭和39年に岩石群の周囲及び南斜面で発掘調査が行なわれた。
この調査結果を報告しているのが、坂詰秀一氏「駒ヶ岳山頂遺跡の調査」(箱根町誌編纂委員会・編『箱根町誌 第一巻』角川書店、1967年)で、本ページではこの論文の内容をかいつまんで紹介していこう。

1.出土遺物の種類

・土師器
ほとんどが破片の状態で出土。また、形式は全て坏だった。
口縁部の内側に油脂の付着しているものが見つかり、このことから祭祀時の灯明皿として用いられたものだと推測されている。

・古銭
宋銭と寛永通宝が出土。宋銭は僅かな量。
賽銭として使用されたものと推測される。宋銭の国内流通は平安末期まで遡るが、賽銭としての性格上、本遺跡における宋銭祭祀使用時期は後世になると考えられる。

・鉄釘
断面正方形の古式釘であり、木造建築物の建材として使用されていたと考えられることから、この場所に木造の社殿あるいは祠が造られていた可能性がある。

2.出土状況と時期

土師器・古銭・鉄釘は基本的に自然堆積による埋没。
ただ、馬降石の南西斜面の第2トレンチ西端(調査区域の最西端)から出土した土師器群は、一括廃棄したかのようである。使用済みの灯明皿を祭祀場から離れたところに捨てたものと推測される。
これらの出土遺物の使用時期を特定することは難しいが、中世の仏教寺院に同様の遺物組成、使用方法、廃棄方法を持つ事例が見られることから、中世(平安時代までは遡らず、江戸時代まではほぼ下ることがない時期)の祭祀遺跡と考えられる。

3.岩石群の状況

A・B・C・D・Eの5体の岩石があり、Aが馬降石、Bが馬乗石。
A・B・Dは自然のままのようであるが、C・Eは人為的に運搬・設置された感が強い。
馬降石に彫られた馬形は、江戸時代末期の辺りであろうか(根拠は明記されていない)。

A~D(北から撮影)
D・E(南から撮影)。Dは笹の茂みに埋もれていてよく分からない。

4.古文献の記述

『吾妻鏡』の中には、仁治2年(1241年)7月3日から7月18日まで、隆弁が箱根山般若峰(駒ヶ岳)に参り読十六会をしたという記述があり、このことから当時何らかの堂宇あるいは祠があったことが想定される。
出土鉄釘が使われていた建造物がこれではないか。


「駒ヶ岳山頂古代祭祀遺跡の岩垣」


箱根元宮の北側には、下写真のような光景が広がっている。




箱根神社公式サイトによれば、ここは10月24日の御神火祭が執り行われる祭場で、「駒ヶ岳山頂古代祭祀遺跡の岩垣」と銘打たれている。

しかし、駒ヶ岳山頂遺跡として遺跡指定を受けているのは、あくまでも馬降石・馬乗石を中心とする5体の岩石群のエリアのみであることに注意したい。
この「駒ヶ岳山頂古代祭祀遺跡の岩垣」からは「古代」の遺物はおろか、そもそも遺物の出土自体を聞かない。

御神火祭の由来自体も、世界平和祈願というスケールの大きいお題目を掲げている。祭りの起源もそこまで古くはなさそうだ。

現地に転がっている岩石も、何だか建材用のブロックが無造作に散らばっている雰囲気で、正体はよく分からないが「造られた感」がする。古代祭祀とは無縁のものと思われ、それは遺物の出土ポイントが何よりも示している。


箱根の七名石

馬降石・馬乗石は、箱根の七名石だという情報がある。

看板の文末に「箱根名石」「七名石」とある。


箱根山に七つの石があるということだが、それ以上の情報がわからない。

馬降石・馬乗石で七石の1つとするのか2つとするのか、そこからはっきりしていない。
箱根山にあと5つ~6つの名石があるという話だが、ご存知の方がいらっしゃったらお教えください。


箱根神社の岩石祭祀事例


箱根神社境内でこのような看板を見かけた。


「獅子石」「舟繋石」と書かれた場所がある。

『新編相模風土記稿』(1841年)所在の絵図として紹介されており、そこには箱根神社境内の役行者堂近くに「獅子石」、護法院近くの湖畔に「舟繋石」の2つの岩石名を確認することができる。
しかし神仏分離の影響もあり、この絵図と現在の箱根神社の状態は様変わりが激しく、どこのことやらさっぱりで見つけることはできなかった。

最後に、芦ノ湖岬の「賽の河原」を紹介しておこう。
鎌倉~江戸にかけて多数の石仏・石塔が集め置かれ、水子供養・地蔵信仰の場となったということである。

賽の河原



2019年7月8日月曜日

日光滝尾神社と滝尾道の岩石信仰(栃木県日光市)


栃木県日光市山内 滝尾神社

滝尾(たきのお)神社は、日光三社権現(日光二荒山神社本社・本宮神社・滝尾神社)の一つとして知られる。
女峰山(標高2483m)に、祭神の田心姫命が降臨したといわれ、その麓に滝尾神社がまつられた。

日光三社権現の中では最も山奥に鎮座し、ひっそりとした参道を進んだところにある。
しかし、日光東照宮の鎮座以前は参詣の中心地だったとされ、盛時には五百坊にも及ぶ院々僧坊が立ち並んでいたとも伝えられる。

日光東照宮より滝尾神社に至る参詣道を滝尾道と呼び、この道沿いに複数の岩石祭祀事例が見られるのでまとめておきたい。

仏岩・陰陽石

仏岩

仏岩

滝尾道の途上、日光の地を開山した勝道上人をまつる開山堂がある。

その背後に仏岩と呼ばれる岩壁がそびえる。
岩壁の頂部に岩峰状の突起が並んでおり、それを仏と見立てたことにちなむといわれるが、いつの時代かに崩落したようで今はその突起を確認できない。
その代わりに、岩壁の前に6体の仏を並べ、そのよすがを伝えている。

仏岩の上部にはかつて勝道上人の遺骨を納めたといい、その後、日光東照宮を建てた時に仏岩の下に移され、当地には墓所と開山堂が作られたという。

開山堂と並んで観音堂があり、その左手に陰陽石と呼ばれる2体の石があるが探訪当時知らず見落とした。


北野神社

北野神社

北野神社から仏岩を撮影


仏岩の近くに、江戸前期、菅原道真を勧請した北野神社がある。
石祠の背後に岩塊を置き、その表面に天満宮の神紋を刻印しているという特殊な形態をもつ。
神社の神域を構成する磐境のごとく景観演出されている。


手掛石(てがけいし)

手掛石

北野神社の近くに手掛石がある。
田心姫命が手を掛けたという岩石。
北野神社を参った後にこの石に手を掛けると字がうまくなるとも、学力向上するともいい、北野神社と関連する岩石信仰を伝えている。

「手欠け石」の別称もあり、手で石の一部を欠き、そのかけらを神棚に供えると学力向上するという祭祀もかつてあったようだ。
時代の流れもあり、 現在は岩石を欠ける行為は控えられていると言えるだろう。


影向石(ようごうせき)

影向石

影向石(背面から)

川を渡り、滝尾神社の境内に入ったばかりのところに影向石がある。

弘仁11年(820年)、弘法大師が田心姫命と出会った場所とも、後年、勝道上人が地蔵尊と出会った場所ともいわれる。
磐座の仏教版解釈とも言える「影向」のスタンダードな祭祀事例であり、滝尾神社の神の最初の顕現地としての聖跡であるとも評価できる。


運試しの鳥居

運試しの鳥居。額束に穴が開いている。

運試しの鳥居は、元禄2年(1689年)に奉納された石鳥居である。
額束の部分の丸い穴を開けられている。
石を三回投げ、この丸い穴に何回通ったかで運を占う。
立派な岩石祭祀と言える。


無念橋

無念橋
三本杉


境内にかかる無念橋を渡ると、俗世と縁を切り、最も神聖な場といわれる三本杉に至る。
三本杉越しに、遥か遠くにそびえる女峰山を遥拝する。

無念橋は、聖域を区画する石橋という働きをもつ岩石祭祀施設である。
また、無念橋を自分の齢の数で渡りきると、女峰山まで登りきった分の霊験が得られるといい、願い橋とも呼ばれている。


子種石

子種石

滝尾神社の最奥部に子種石がある。
岩塊の上部および周囲に、所狭しと無数の礫石が積まれている。
子宝安産の霊験を有する子種権現としてまつられてきたといい、積み石の量がその信仰の激しさを物語っている。
石自体が子種の神として神格化しており、石神と呼んで差し支えないだろう。


未見だが、滝尾道に入る前の四本竜寺にも聖なる岩石がある。
一つは、勝道上人が玄武・青龍・朱雀・百虎の霊気(四雲・紫雲)に出会い、日光開基の契機となった四本竜寺紫雲石。
もう一つは、勝道上人が笈をおろしてかけたという笈掛石がある。

2019年7月1日月曜日

与喜山の旧跡群まとめ(奈良県桜井市)



国土地理院の電子地形図(基盤地図)を使用
『長谷寺境内図』(1638年)の絵図の注記などを現地図上に反映(推定)


ア 夫婦石


鏡餅状に重なる岩石。
夫婦石は古来からの名称なのかが不明。

イ 與喜天満神社


社殿。手前に写るのは鵝形石。2010年頃から境内の整備が進んでいる。

ウ 三玉石(一の磐座)


三玉石とは、鵝形石・沓形石・掌石の3つの石を指す。
「一の磐座」~「四の磐座」は、藤本浩一氏の分類による。
いずれも與喜天満神社境内にある。

鵝形石

沓形石(手前左)・掌石(奥側右)

エ 登山口

現在はこの看板が目印。この看板を前にして、背中(山側)が登山口。

登山口。倒れている看板は黄色の保安林の標識。かつてはこれが目印だった。

オ 素戔雄神社


かつては牛頭天王社と呼ばれた。

カ 堝倉垣内


堝倉垣内とは、式内社・堝倉神社の旧社地とされる地名。与喜山南端のこの地点と推測される。今は何もない。

キ 「二の磐座」(重岩)



与喜山中の磐座では最も登山者の目に触れるものか。
藤本浩一氏は「重岩」と評する。
鎌倉時代『長谷寺密奏記』記載の陽神・陰神の可能性を提示しておく。

陽神(ヒナタノシン) 伊弉諾ノ尊也。東ノ山ノ腰石坐御南
陰神(カケルノシン) 伊弉冉ノ尊也。東ノ山ノ腰ノ石ニ坐御ス北

ク 巨岩群

「二の磐座」から谷間を挟んで、東隣にある。

広大な岩盤

巨岩群の最上部にある重ね岩。「二の磐座」と類似した形状。

斜面下方には列状につらなる岩石群がある。
與喜天満神社宮司の方が「東ののぞき」と話された場所だろうか。

ケ 箱庭


尾根を登りつめたところ。かつては尾根先端から長谷寺を箱庭のごとく一望できたことからこの通称がある。今は樹木に遮られるものの何とか長谷寺が見える。

コ 二股分岐


山頂へ行くか、「北の谷」(ス地点)へ行くかの分岐。
北の谷への分岐は2ヶ所ほどあり、間違えないように注意。

サ 巨岩


山頂尾根の先端に立地。
ドルメン状と形容してよい構造物。もちろん自然・人為は不明。

シ 与喜山頂上

与喜山頂上(国土地理院地図上は「天神山」だが、天神山は後世の通称)

山頂直下斜面

山頂には目立つ巨岩は少ないが、山頂直下の斜面には上写真のような岩石が複数箇所に散在している。
式内社・堝倉神社は元来この山頂に鎮座したという。

ス 巨岩群



「北の谷」で最初に出会う巨岩群。尾根上に岩が群れている。
すでにまつられてしかるべき空気感を醸し出しているが、特に祭祀の痕跡は見あたらない。

セ 巨岩群




ス地点と同じ尾根。尾根の上と下の関係で、ほぼ同一地点。
キ・ク地点の重岩と再び類似する、三段構成の構造物がここにもある。

ソ 露岩


ス・ソの尾根から一つ北の小尾根にある露岩。
この露岩の南北は谷間に囲まれており、踏み跡も薄く、最も急峻で危険な斜面の辺りとなる。

タ 「立石」と「三の磐座」

立石(上から)

立石(下から)

立石は、台座と立石のセットかのようである。

ブロック感がある鋭角的な輪郭。
立石は、「北ののぞき(四の磐座)」と「三の磐座」の上斜面にあり、意味深な立地と外形をなす注目すべき存在である。
祭祀設備は見あたらない。

「三の磐座」全景。写真中央に一対の狛犬が残る(右は台座のみ現存)

「三の磐座」近景。写真中央の組石はさすがに人為的。

左の狛犬と右の狛犬の間はゴツゴツした岩群が広がる。

「三の磐座」最西端にある巨岩の基部。



「三の磐座」は、先の立石の直下斜面に位置する。
横に広がりをもち、大きく分けると東の岩群と、西の巨岩の二要素から構成されている。
ちょうどその中央部に一対の狛犬が敷設されており、片側の狛犬はすでに欠損しており、台座のみが残る。
斜面上の立石まで一括して「三の磐座」と総称してもいいかもしれない。

チ 北ののぞき(四の磐座)

「北ののぞき」遠景(東側上方斜面から)

石鳥居に「本伊勢」と刻まれる。

「元伊勢完成由来」。この聖地を整備した杉髙講の経緯が記録された資料。

鳥居・元伊勢完成由来の奥に燈籠・狛犬・巨岩群が控える。

「北ののぞき」の巨岩群の中心部。右の狛犬奥の岩肌に刻字が見える。

刻字接写。「天狗鏡岩處ヲ守ル 靈權之神」とある。

巨岩群は、ブロックの集積の如き構造をしており、岩と岩の間は亀裂や隙間、噛ませ石も見られる。

二段構成の巨岩

「北ののぞき」の南側に広がる広大な岩肌。見る角度によって全く異なる構造物である。

「北ののぞき」の頂上にして「のぞき」部分。下は切り立つ崖。

「北ののぞき」から肉眼で長谷寺を遠望できる。
「北ののぞき」の切り立つ崖を遠方より撮影(北方の別尾根より撮影)

「北ののぞき」スケッチ(2010年時点)




与喜山旧跡群の核心部の一つと言える「北の谷」の「北ののぞき」。
藤本浩一が「四の磐座」と分類したものに相当する。
今はなき地元の元伊勢聖地整備集団・杉髙講によって、数々の祭祀設備が残されている。

それを抜きにしても、ここは人工と自然のどちらとも言えない営為の巨岩構造物であり、そこから見える眺望を称して名付けられた「北ののぞき」の名称は寛永15年(1638年)『長谷寺境内図』に遡ることができる。
与喜山中に聖地を見出すとしたら絶好の場所であると評価できる。

これまで紹介した「立石」「三の磐座」「北ののぞき/四の磐座」は、鎌倉時代『長谷寺密奏記』記載の光神・雨神に相当する可能性を提示しておく。

光神(ヒカルカミ) 月弓尊也。東ノ山ノ北ノ谷ノ石ニ坐シ御ス上
雨神(アメノシン) 同谷ノ石ニ坐シ御ス下

ツ 巨岩群

下は一つの岩崖がところどころ露出して、無数の岩塔群のようにもなっている。

巨岩群最上部は、このような亀裂を持つ(真上から下に向けて撮影)

規模も特筆ながら、最上部の亀裂構造も印象に残る。場所は大変分かりにくく、狙って再訪するのは難しい。
『長谷寺境内図』に「此所神石あり」 と注記された位置に最も近い。

テ 湧水点・巨岩群

湧水点をもつ巨岩

晴天でも岩から水が染み出ていて、それは沢へ流れている。

湧水点から沢へ流れ行くところに、沢の真ん中を塞ぐ巨岩あり。

二つの谷間の合流点の北斜面に縦長くそびえる巨岩



ここかちょうど、ス・セ尾根とタ・チ尾根の間に位置し、二つの谷間が沢となる湧水地点でもある。

『長谷寺境内図』には「仙宮のたき(滝)」として描かれた地点に近い。
鎌倉時代『長谷寺縁起文』に「此等神石北谷又有仙宮。凡不動伏魔而立瀧下。」と記された「北谷の仙宮の瀧」と同じものを指すと思われる。

私が訪れた時は(前日も含め)晴天のため湧水量も沢水の流れも微弱なものだったが、急峻な谷間であるため雨天時には相当の川になる可能性は否定しきれない。
また、このような傾斜であるので現在と中近世では地形が変わっている可能性があり、かつては「滝」が存在したのではと思わされる。

ト 小落差


テの湧水点からさらに下流に下り、また別の谷間と合流する所に高さ1mほどの小落差がある。
高さ1mでは滝と言えない小規模なものであるが、先述したとおりこの辺りは「仙宮の滝」の想定地であり、現在唯一確認できる沢の落差として報告しておきたい。

ナ 尾根

ナ地点に聳え立つ巨木。天然林と植林地帯の境に立つ。

ナ尾根に唯一認められる岩石

尾根を下りきったところにある沢(仙宮の滝の下流)。上斜面からの転石が群集している。
ナ尾根は、ケの箱庭から下って予備調査として踏査した地域である。
目立つ岩石は少なく、与喜山暖帯林でありながら植林が迫っている。

ニ 尾根


こちらも予備的に踏査したエリアで、「仙宮の滝」の下流の北方尾根となる。
ナ尾根と同様、岩石が累々とした尾根とは言い難いが、唯一、上写真の船形の岩石が単独で存在し、印象に残る。

ヌ 小落差


岩肌の上を沢水が流れて赤褐色に染まっている。
小滝のような感もあるが、「仙宮の滝」としては『長谷寺境内図』が示す場所とは離れすぎている。

ネ 謎の石垣

謎の石垣

石垣の上斜面の露岩群
人足から最も遠いと思われたこの場所に、突如として謎の石垣が出現する。
製作年代も意図も不明。
高さ1m、幅5mほどしかなく、斜面上にあり土留めとしては実用性をほとんどはたさない。
石垣の上を見てもこれというものは目に入らず、はるか上斜面に露岩群が見えるのみだった。
斜面上方だったためこの露岩群の近くまで行っていないが、石垣の設置には必ず背景があるはずで、これはいまだ未解決課題となっている。

ノ 小落差


ト地点の小落差と似ている。
このように、与喜山の「北の谷」は実際には無数ともいえる谷間と沢が形成されており、「迷いの山」の一つの要因となっている。
一方で、これが神仙修行の地としての景観であることも表しており、『長谷寺縁起文』が言う「山内無非所聖衆修行地。此山則秘密荘厳之土。群仙窟宅之地也」という記述にもつながるのだと現地で体感することができた。

ハ 多羅尾滝




うってかわって与喜山の東側斜面、与喜浦地区から口ノ倉トンネルに通ずる車道沿いに入口があり、多羅尾滝という小滝が現在も不動堂と共にまつられている。
『長谷寺境内図』にも描画されているが、実際の滝よりも誇張されて描かれている。
ということは、仙宮の滝も絵図に描写されるほどの規模でなかった可能性が高くなり、ト地点の小落差でも候補地とみなせる一つの理由になる。


その他の旧跡まとめ


長谷山口坐神社の背後の丘頂上にある岩石群。一部で「磐境」と呼ばれているが真偽不明。

與喜天満神社御旅所にある切石。『長谷寺験記』で与喜天神(菅原道真)が出現した腰掛石。

伊勢街道の化粧坂。「お歯黒石」があるがどれのことかわからない。

初瀬川(泊瀬川)のほとりにある泊瀬石

與喜天満神社社務所前に新設された男女岩。2010年以降の整備。

與喜天満神社表参道沿いにある山神遥拝所。2010年以降の整備。

山神遥拝所から沢を挟んで奥に鎮座する八王子社。岩石上の祠。

與喜天満神社境内。2010年以降の整備。
與喜天満神社の社殿前に新設された男女(夫婦)岩。社務所前のものと名前が同じ。

男女(夫婦)岩。沓形石・掌石の手前にある。2010年以降の整備。

与喜寺の跡地
与喜山西山裾に立つ石柱。「天然記念物与喜山暖帯林」と刻まれる(昭和35年銘)

見廻不動尊 全景。森におおわれている部分は岩盤である。

見廻不動尊の基部

与喜山北登山道入口に置かれた岩石と石祠。由来不明。

「天落神六社権現由緒記」。初瀬の郷土史家・厳樫俊夫氏の名文。

天落神六社権現境内。初瀬ダムで水没した初瀬川中の屏風岩の宝篋印塔刻字を再現したもの。

天落神六社権現境内。由来不明。

與喜天満神社表参道の天神橋から撮影した長谷寺(写真中央)。長谷寺本尊は「金剛宝磐石」の上に立つ。長谷寺境内にも複数の聖なる岩石の存在が記録されているが、所在の分からないものも多い。

長谷寺本堂の外舞台から望む与喜山。朝勤行の後、初瀬の現地主神である与喜山・與喜天満神社に向かって「南無天満大自在天神」と唱える「与喜山礼」がこの外舞台で毎朝おこなわれる。

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与喜山―山の力と、山と人との距離感の変遷―

『宗教民俗研究』第26号(2017年)に発表した与喜山の歴史をテーマに取り上げた論文。2002年~2017年の調査の結果の集大成。