2025年5月18日日曜日

『松尾山寺遺跡』~山林寺院と岩石信仰の関係事例~

立命館大学考古学研究会[編集・発行]『松尾山寺遺跡―平安京周辺山林寺院の調査・研究―』(2025年)が発行されました。

2003年、初めて松尾山を紹介されてその時に登った一人として、20年越しの区切りを見た思いです。

 

京都市の松尾大社の裏山・松尾山で見つかった寺院跡の調査報告書です。

京都で見つかっている、古代から中世にかけての山林寺院遺跡の一例となりますが、他例と比べて土師器の割合が高い遺物構成というのが特徴ということがわかりました。


灯明を灯すための皿が多く出土した同市内の梅ヶ畑遺跡との関連性が挙げられていて、興味深く読みました。

梅ヶ畑遺跡は発見当時、仏教系祭祀遺跡という位置づけでしたが、京都市埋蔵文化財研究所による遺物再整理を通して寺院跡という見直しがされていたことも初めて知りました。


報告書では、岩石信仰と山寺の近接性も指摘されていました。

正確に書けば、報告書上では「岩石信仰」ではなく「磐座」「巨石」「巨岩」の3つの表現が同義的に使われていました。

当会の過去会報『考古館』での私の議論(2001年~2003年)が継承されていないのは残念ですが、継承できなかったのは私の力不足でもあります。


巨石信仰・巨岩信仰という言葉自体が不適切というわけではありません。

"巨大な岩石"という"巨大さ"に信仰の要因の重きを置く文意として使ったのであればアリだと思います。

実際、松尾山の磐座も類例として挙げられた大宮釈迦谷遺跡・西賀茂妙見堂遺跡の事例も"巨大な岩石"と言えるので、巨大なものへの信仰という共通性はあるでしょう。

ただ、せめて巨岩と巨石の表現一致は欲しいところです。
(石と岩の概念整理)


山中の寺院と平地の神社との関係、社地に対する神宮寺としての関係なども問題提起されていました。

報告書では明示されていませんでしたが、管見のかぎりではに岩石信仰との関係も複数事例を挙げることができます。

その辺りをまとめると下のとおりです。

遺跡名岩石寺院神社古墳
松尾山寺遺跡
名称磐座(ご神跡)松尾山寺松尾大社松尾山古墳群
立地山頂直下山腹平坦地山裾山頂尾根
梅ヶ畑遺跡
名称石塊・巨岩群御堂ヶ池古墳群
立地山頂・山頂直下山頂山頂尾根
大宮釈迦谷遺跡
名称巨石釈迦谷廃寺上賀茂神社
立地山腹対岸平地
西賀茂妙見堂遺跡
名称巨石霊巌寺上賀茂神社
立地今昔物語伝承上対岸平地
上賀茂神社
名称降臨石神宮寺上賀茂神社
立地神山山頂神宮寺山山腹神宮寺山山裾
参考:滋賀県日吉大社事例
名称金大巌日吉神宮寺日吉大社日吉古墳群
立地山腹山腹山裾山裾~山腹

突貫で作ったので色々調べが足らないところもありますが、岩石と山林寺院の関係については距離の近さ/遠さをどのように評価するかという論点は提示できます。

滋賀県日吉大社事例では、金大巌と日吉神宮寺が山域を分け合って存在していたという説が出されており、他例でも検討されるべきテーマです(「金大巌と日吉大社の岩石信仰」)。

梅ヶ畑遺跡の石塊と寺院跡は立地を同じくする同居例と数えられるかもしれませんが、梅ヶ畑遺跡における岩石信仰は厳密にいえば山頂の石塊と山頂直下斜面上の巨岩群(銅鐸出土地で今は消失)の2地点に分かれます。

この場合、寺院跡と銅鐸出土地の巨岩群とは、直線的な距離とは別で、立地としての空間の分け合いが認められます。


その観点から松尾山をふりかえると、松尾山の磐座(ご神跡)は山頂直下斜面上に存在するのに対して、松尾山寺は北に離れた山腹平坦地に築かれています。尾根は1つ分またいで山域を分け合っているという考え方もできるかもしれません。


神社については梅ヶ畑においてこれといった神社が指摘できませんが、古墳については報告書でも指摘されているように古墳時代後期の群集墳が共に存在しています。

これらの立地は、山頂尾根に数十基が分布しており、岩石信仰の関係でみれば、梅ヶ畑は古墳のすぐ上に銅鐸埋納地の巨岩、松尾山は逆に磐座(ご神跡)の上の尾根に古墳が築かれています。

その点で両者の立地に統一性があるわけではありませんが、それは自然石が人の手によらない地質的存在であることと、古墳は尾根上のほうが作りやすいという築造条件によるものなど、信仰上の問題とは別の要因も考えないといけません。

言い方を変えれば、そのような諸条件・諸要因による規制を受けても問題ないという信仰のありかただったとも言えます。


対応する神社や古墳を指摘できない事例もあるので、前掲表の事例群がぞれぞれ比較対象として適切かには異論もあると思いますが、時代を越えて山地利用をおこなう際に、それ以前に存在した「聖地」を後世の人々がどのように位置づけて、山での同居ないしは住み分けなどを図っていたかはさらに注目されてよい問題でしょう。


立命考古研の皆様には、山林寺院跡発見によって測量が途絶した松尾山古墳群の調査の再開を望みたい、と勝手な希望を記して今後の活動継続を祈っています。


2025年5月17日土曜日

「日本列島の自然石文化と岩石の信仰」オンライン参加方法

先日お知らせした

日本地球惑星科学連合(JpGU)2025年大会でポスター発表を行います

このポスター発表について、予稿集と参加方法が発表されたのでご案内いたします。


予稿集より


日本列島の自然石文化と岩石の信仰

吉川宗明

キーワード:自然石文化、岩石信仰、磐座、巨石、鑑賞石


人が岩石をどのように利用したかではなく、人が岩石に接してどのように感じたかに注目したい。

自然に存在する岩石に影響を受けて生まれた文化を自然石文化と呼ぶ。その一つの極致が、岩石を神や仏、精霊としてあがめるなどの岩石信仰である。自然石のまま信仰する場合もあるが、場所だけ動かして並べたり積んだりして祭りをする場合もある。また、場所は移動しないが自然の岩肌に図像や字を刻んで拝む場合もある。もちろん、石材として完全に切り出して整形したうえで成立した信仰もある。

岩石にどれだけ手を入れたかという違いはあるが、これらはすべて、岩石が露出した時の自然の姿に対して抱いた心理の差とも言える。一方で、自然石を見て石材として用いない選択をした心理や、神仏として崇めるにいたらなかった心理、そもそも岩石を意識することなく放置したという心理のありかたも存在する。岩石と一言でまとめても、自然石のありかたによって人の感受性には多様性が認められる。

本発表では、磐座や巨石信仰と通俗的に呼ばれる岩石から、そのような用語では当てはまらない数々の岩石信仰の事例も紹介して、岩石信仰の領域の理解につなげる。さらに、自然石に美を見出した水石や庭石などの鑑賞石、聖でも美でもない民話のキャラクターとして登場する岩石など、自然石文化の裾野の広がりも明らかにする。

人間と岩石の精神的な関係は、さまざまな学問において分析されるべきテーマということが伝わる発表を目指す。


大会サイト:日本地球惑星科学連合(JpGU)2025年大会

発表日時・場所


■ 発表日時
2025年5月25日(日) 9:00~19:15

※JpGU大会の会期は2025年5月25日(日)~30日(金)ですが、5月25日のみパブリックセッションデー(一般公開日)として一般向けのパブリックセッションが用意されています。パブリックセッションは事前登録の上で無料参加・観覧ができます。
吉川の発表はパブリックセッションで、地学関係者に限らず一般の方向けにポスター掲示を行います。

■ ポスター実物掲示会場 
幕張メッセ国際展示場 7・8ホール
※入場には事前登録が必要

■ オンライン掲示URL
オンライン上のポスター掲示サイト「Confit」
https://confit.atlas.jp/guide/event/jpgu2025/subject/O05-P02/detail
※ログインには5月24日までの事前登録が必要

吉川はオンライン参加ですので現地会場にはいません。
ポスターはConfit上でいつでも観覧できますが、コアタイムと言って発表者が質疑応答で常駐する時間が定められています。
コアタイムは、5月25日(日)17:15〜19:15です。この時間帯はConfit内で待機していますので、Confit内のコメント機能を使って、発表者と質疑応答(チャット)を交わすことができます。吉川と会話したい方はこの時間内でどうぞ。

参加方法

オンライン(Confit)上で参加する方法を案内します。

発表日前日の5月24日(土)までに、下記の申込フォームから申し込んでください。

「パブリックセッションオンラインポスター参加申込フォーム」
https://business.form-mailer.jp/fms/6108b4b4144375

大会事務局より、ConfitにログインするためのIDが無料で発行されます。5月25日 1日限定のIDです。
お手数をかけますが、パスワードも設定していただく必要があります。

大会当日(5月25日)に申込しても、大会事務局は当日会場で運営に専念するため、IDの発行はできないとのことです。ご注意ください。

その他詳細は以下の参考リンクにてご確認をお願いします。


参考リンク

一般公開(パブリックセッション)参加者の方へ|JpGU2025
https://www.jpgu.org/meeting_j2025/for_public.php


2025年5月12日月曜日

鍋石(静岡県浜松市)

静岡県浜松市天竜区春野町川上

この鍋石で最後に雨乞いが行われたのは昭和一八年ごろだったという。続く旱天に畑や焼畑の作物はすべてうなだれ、猫の額ほどの山田の稲も萎えてしまう。何日も何日も雨が降らない――こんな時、川上の人々は相談して、こぞって鍋石へむかう。そして、石の上へのぼり、塩を撒き、全員で般若心経を唱えるのだった。そして、鍋と呼ばれる穴の水で男達は褌を洗う。洗い終えてから鍋の水を全部汲み出すのである。鍋の水で褌を洗うというのは水神の座である鍋石の聖水で不浄の物を洗うことによって水神を怒らせ、水神が、不浄を清めるために雨を降らせることを期待しての行為である。いわば、「聖水汚染型」の雨乞い呪術なのである。
野本寛一『石と日本人』樹石社 1982年

同書にのみ登場する岩石祭祀事例で、他の文献では見かけない場所である。この鍋石の所在を特定することにした。

野本氏の記述によれば、春野町の川上のはずれに外山(はずれやま)という小字があり、そこに流れる杉川沿いを1kmほど歩くと断崖下の川の中に鍋石があるとのことである。
石の上には鍋状の穴があり、常に水がたまっていて百人は座れる規模とも書かれている。

他のヒントとして、鍋石で雨乞いをしても雨が降らない場合は、鍋石からさらに2km進んだ「玄馬の滝」でも雨乞いしたといい、このあたりの情報を綜合すればおおよその位置が絞られる。

杉川沿いには現在、杉川林道が通っていて、ずっと北上すると「玄馬沢」と呼ばれる谷間と分岐する。この沢にぶつかるまでの杉川沿いにあるのだろう。


春野町には浜松市春野歴史民俗資料館があるので、地元の民俗について情報をお持ちかもしれないと考えて訪れた。

館員の方々は異動などもあり現在は地元在住の方がいなかったが、ゼンリン住宅地図で探していただいた。
地図には杉川林道がぎりぎり端に掲載されており、そこに「外山沢橋」の名を見つけた。そのあたりを外山と呼ぶらしく、ここから玄馬沢の間に穴に水が溜まった岩石を認められれば良い。


杉川林道の起点(川上地区の宝珠寺あたり)からしばらくは、杉川には氾濫対策のための護岸工事やテトラポットなどが並べられており、鍋石に影響が及んでいないか不安視された。

杉川林道始点

舗装された杉川

それでも林道起点から約25分歩いた、川が大きく蛇行した湾曲部の西岸に、下写真の場所があった。
(35°03'20.83N, 138°01'39.60E)

杉川林道上より、南から撮影

拡大写真

北側から撮影

これまでに見た川辺の岩のいずれよりも大規模で、重要なこととして水のたまった穴(窪み)が岩上に確認できる。

上から撮影。水の溜まった窪みが見える。

拡大写真(写真中央)

野本氏が記したように百人座れる規模であり、外山より北、玄馬沢より南という位置も踏まえて、この岩石が鍋石ではないかと推定される。現在も変わらず存在が確認できたことは大きい。


探訪時は知らなかったが、帰宅後に調べてみると「林道のその先に」のページ内に「〇石橋」と冠された橋があることも知った。

作者の方は銘板が達筆すぎて読めないと判断保留されているが、「昭和四十二年十二月竣功」「鍋石橋」と思われる。
この鍋石橋が杉川林道のどの地点か確認できなかったのは心残りだが、それまで通った4つの橋(柳沢橋・水車沢橋・外山沢橋・小垣沢橋)には該当しなかった。おそらく上記の鍋石の地点を越えた先の次の橋と考えられる。


2025年5月5日月曜日

岩畳神社の神歌石(愛知県豊川市)


愛知県豊川市御津町泙野新屋敷 御津山
神歌石
泙野字新屋敷に在り険阻なる岩窟なり三河藻塩草に云昔この処に御津神社の別当在ますとあり自然の石窟の如き石がまへありて小社ありこれを石畳荒神と称す蒼海を眼下に見はらして景色いとよき処なり
早川直八郎, 早川彦右衛門 著『三河国宝飯郡誌』,早川直八郎[ほか],明24-26. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/765323 (参照 2025-05-05) ※カタカナをひらがなに直した。
御津大神此山へ昇進し玉ひ、南海を見下し、景色自ら称し一首の御詠吟に、大嶋や千代の松原岩畳くずれゆくとも我はまもらん
御津町町史編纂委員会 編『御津町史』史料編 下巻,御津町,1982.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12158035 (参照 2025-05-05) ※カタカナをひらがなに直した。




岩畳神社の社殿背後の斜面上に存在する。岩畳神社は古文献上では石畳荒神・岩畳荒神の名で記される。

御津大神がここで歌を詠んだ伝説から神歌石の名がある。他で聞かない命名であり、読みかた(音)は「しんかせき」で良いのかわからない。

眼下に海をおさめる眺望の良さがうたわれているが、現在は樹林繁茂によりその景観を追憶できない。

神歌石から岩畳神社社殿を見下ろす。

岩畳神社の社殿も岩肌に接して築かれる。


2025年5月3日土曜日

朝熊山の岩石信仰(三重県伊勢市)


三重県伊勢市朝熊町


朝熊山の岩盤

朝熊山の頂上展望台に岩盤があり、それが朝熊山の磐座ではないかという話がある。





朝熊山頂展望台の名前をもつが、厳密にはこの山の最高所はここ(標高506m地点)ではなく、西のピーク標高555m地点が朝熊ヶ岳頂上である。
西ピークには龍池という聖なる池があり、そこに八大龍王社がまつられる。その南の経ヶ峰と称される一帯からは、経塚の遺構・遺跡も見つかり朝熊山経塚として知られている。

このように、朝熊山の信仰史における山頂は、岩盤がある東ピークではなく西ピーク側で語られてきた。しかし、これほどの規模の岩盤が展望台建設まで人に見つからず、歴史的に見過ごされてきたとも考えにくい。何かしらの記録が残っているのではないか。

本記事は、この岩盤を巡る諸説をまとめたものである。

藤本浩一が見た「岩船」

藤本浩一『磐座紀行』(向陽書房 1982年)では、朝熊山に「岩船」なる岩石があったことを記している。
舟形石があって、大神降臨の時の天の岩船であると伝えられている。その石の所在を尋ね歩いているうち、「今は山上になく市中に移されている」と、偶然知っていた人に出会い、岩船の前に案内してもらった。八畳と六畳二間続きの室を祭壇にしているが、奥の六畳間には仏壇を祀り、前の八畳間の室は床を落として、岩船石を安置してある。直径二メートルの上面は鏡のように滑らかで、高さは五十センチくらいである。注連縄をめぐらして礼拝できるように灯明をともしている。なぜ山上から民家へ降ろされたのか、当主が不在であるためわからなかった。(藤本 1982年)
朝熊山にあったという岩船が、後に市中の民家に移されたという話である。
なぜ民家の当主が不在なのに、別人の案内で室内を拝観できたのかが気にかかるが、藤本の記述では場所が特定できない。

岩船の文献調査

この岩船は江戸時代から戦前にかけてよく知られた存在だったらしく、さまざまな文献に登場する。

正保年間(1644~1648年)に伊勢神宮神官の度会清在が記したという『毎事問』下には、伊勢の諸事について問答形式で答える中で、次の問いが載せられている。
磐舟とて舟形なる石に注連を環らし太神宮の乗給ふ舟なりと云、何れの時に太神の此舟にて是山へ来り給ふや
(神宮司庁編『大神宮叢書 第6 前篇』1940年。カタカナをひらがなに直した)
藤本が記した、天照大神降臨の天の岩船という話はここから出たものだろう。
この問いに対して、度会清在は石が水に浮くわけがなく、また、山に船が行くというのは理に合わず、実物を見ても小さくて人ましてや神が乗る場所はないことから「妄作漫言」の類と正論をもって一刀両断している。

伊勢神宮公式側に立つ渡会家の人物よりこのような辛辣な答えが返されたからか、それ以降の文献において天照と絡めた話は出てこなくなる。

正徳3年(1713年)の『志陽略志』には「岩船明神社」の名で登場し、「朝熊山にあり、何れの神を祀るか知らず、是を鎮守として祀る」とある(中岡志州『志摩国郷土史』中岡書店 1975年)。
神社としてまつられているものの、天照の船であるという話は取り除かれており、神名不明の鎮守(朝熊山のかどうかは読み取れない)と位置付けられている。

寛政10年(1798年)の『皇大神宮参詣順路図会』になると、岩船は瑞宝院なる禅宗寺院の堂内にあると書かれる。岩船は縦7尺、横3尺、厚さ2尺を計り、これを岩船の宮と呼ぶと記す(『大日本地誌大系 第11冊』1916年)。仏教色の濃い扱いとなる。

嘉永4年(1851年)の『勢国見聞集』では、巻九に「岩船弁財天」、巻十六に「岩船」の名で登場し、いずれも縦2尺、横7尺、高さ2尺と記される(『松阪市史 第8巻 史料編 地誌 1 勢国見聞集』松阪市史編さん委員会 1979年)。『皇大神宮参詣順路図会』とは縦横の寸法が逆転して1尺ほどの差はあるものの、同一物だろう。
この尺貫法をメートル法に直せば、藤本が記した直径2m、高さ50㎝におおよそ符合する。
岩船は弁財天をまつると記され、由来不詳の鎮守は弁財天となった。山中の位置も詳細に記され、朝熊山参詣道の路傍に、西国三十三観世音と共に同じ堂内に置かれていたという。

さらに時代が下り、1905年に霞雪(筆名か)という方が残した朝熊山の探訪記「しま巡り」によると、岩船弁天は船形の自然石の上に弁財天を安置していたと記している(『日本弁護士協会録事』84号 1905年)。この時も岩船弁財天としての信仰で続いていた様子が覗われる。

文献上では、天照の岩船が否定的にみられたのち、神名不詳の鎮守となり、後に弁財天に仮託されたという信仰史が描き出せるだろう。

岩船があった朝熊山内の場所とは

この岩船は、朝熊山の頂上ではなく参詣道中の堂内にあったという。それはどこだったか。

寛政9年(1797年)の『伊勢参宮名所図会』巻五には朝熊山の名所が紹介されている。この紹介順は麓からの参拝順とみなしてよい。
岩船弁財天は、楠部嶺、一宇田嶺、弘法茶屋の後で、萬金丹(野間茶屋)、下乗、金剛證寺の前である(『大日本名所図会』第1輯 第4編 大日本名所図会刊行会 1919年)。絵図にも万金丹の茶屋の奥方(下斜面)の道沿いに「岩船」と注記された建物(堂)が見える。

天保3年(1832年)の『伊勢朝熊岳之絵図』を見ても、野間の万金丹本家から内宮道を下って行った絵図奥に「岩船弁天」の建物が観音堂に接して描かれている(『伊勢朝熊岳 金剛證寺』金剛證寺 2024年)。観音堂は前述した西国三十三観世音をまつる堂と思われる。

日本初の山岳百科事典と称される高頭式編『日本山岳志』(1906年)でも、朝熊山を登山順に紹介する中で岩船弁財天堂が記される。
場所は、大黒岩の先で萬金丹薬館の前であり「朝熊嶺より下乗にいたる右傍にあり、社宇の内に状船に似たる巨岩あり、長七尺、横二尺、高三尺許、是を弁財天女に祀る」と記す(高頭式『日本山岳志』野島出版 1970年。カタカナをひらがなに直した)。

これらの情報を綜合して現地に当てはめると、岩船弁財天の場所が大体絞り込める。
朝熊岳道のうち、内宮から金剛證寺にいたる内宮道(宇治岳道)の路傍にあり、位置は弘法茶屋や大黒岩よりは上で下乗や野間茶屋よりは下ということになる。

そして、とどめは大場磐雄博士の『楽石雑筆』1940年~1941年の記述にある(『大場磐雄著作集』第8巻 雄山閣出版 1977年)。
大場博士は朝熊山にある「明暦元年十二月三千日参碑」の記録と撮影をおこなっており、「同碑は岩舟弁財天右側にあり」と明記している。

さて、以上の情報を地図上で綜合しよう。
三重県環境生活部文化振興課が作成したウォーキング・マップ「朝熊岳道」がpdfで公開されており、この中の7ページ目「宇治3・A」の地図番号18が「野間万金丹本舗跡」である。
そして、地図番号7の「地蔵結願碑」に、「明暦元乙未歳十二月□ 日」「三千日結願碑」の刻字があることから、大場博士が記録した碑と同一物であることがわかる。

岩船弁財天の堂は、この碑の右側にあったということでここに位置が確定できる。
そして今、現地には堂も岩船も存在しない。

岩船が移された「民家」の場所とは

戦前1940年代初頭までは大場博士の記述によって岩船弁財天が朝熊山中にあったことはわかるが、その後、おそらく戦前戦後の時期に弁財天の堂は撤去され、岩船は山の下におろされた。

藤本は岩船を市中の「民家」で見たというが、仏壇と共に室内にまつられ、しかも民家の当主なしでも拝むことができていた。このことから、民家は民家でもある程度不特定多数が見れる位置にあったか公開されていたか、というところだろうか。
しかし、伊勢内宮前の市中でそのような場所があれば、すでに岩船は誰かによって位置が特定されているものではないか。
一般的な私的な民家でもないし、外から見れる場所でもないように思える。

このあたりの前提を踏まえて調査した結果、唯一、ヒントになりうる情報を見つけた。

皇學館大学名誉教授の櫻井治男氏が翻刻した「資料翻刻『神三郡神社参詣記』(四)」(『皇學館大学神道研究所紀要』第4集 1988年)に、以下の記述を見つけた。
表江出て右側に、高き石垣内ニ松の木ある広き屋敷なり、慶光院殿の御宮なり、南の方石の鳥井あり弁財天女の社なり、此弁財天神路山二有しを、秀吉公御再建之時此所江移し祀り給ふト云、御建立の時御湯立かまあり、今奥にある岩船弁財天も元ハ当院の支配なりト云、石鳥井内ニ瓦屋根之内に社(櫻井 1988年)
岩船弁財天の名がここで登場する。

慶光院の屋敷内、南のほうに石鳥居があり瓦屋根で葺かれた社があり、弁財天をまつる社だという。
そして、この弁財天は秀吉時代に神路山から移したものだが、「今奥にある」岩船弁財天も慶光院の支配下にあったと読める。

慶光院は内宮前の宇治の街中にある。


元は尼院だったが明治2年に廃寺となり、明治5年からは神宮司庁の所有となり今に至る。
基本的に非公開の施設で、年にごくわずか公開日があるらしい。
公開日に見学した人が弁財天の社を実際に見たかの情報が欲しいところだが、このように特殊な性質を持つ屋敷であり、藤本浩一が案内を受けた人が神宮司庁の関係者やある程度寛容に入れる時代の空気だったならば、個人の私邸でないからこそ中に入ることができた可能性が浮上する。

『神三郡神社参詣記』は世古口藤平が明治初期に見聞した伊勢の神社地誌であり、ちょうど寺から所有者が変わる頃の記録ということになる。

本書の記述の「今奥にある」の意味がとりづらい。
「今」は明治初頭を指すが、「奥」は秀吉期に移した弁財天社の「奥」にあるという意味なのか、宇治の街中の奥にある(つまり朝熊山)という意味なのかがわからない。

素直に読めば前者だが、『日本山岳志』や霞雪氏の記録、そして大場博士の記述を踏まえると、この頃はまだ岩船弁財天は朝熊山中にあったと思われ、場所が矛盾してしまう。

岩船弁財天「も」「元は」当院の支配だったという書きかたから、神路山の弁財天とは別の存在であり、離れた場所の岩船弁財天も元・慶光院の所有だったと書いていると理解できる。
もし神路山の弁財天の奥という意味なら、すでに慶光院の屋敷内にあるので、わざわざ当院の支配などと書く必然性に欠けるというのもある。

ならば、岩船弁財天が山中から移された先も、所縁のある慶光院にあるという推測が成り立つ。元所有者とも言え、すでに神路山の弁財天社も移されている地だから追加して移しやすい風土がある。

懸念点は、当然非公開なので推測に過ぎないということと、藤本浩一がなぜ慶光院と書かず民家という書きかたをしたかである。
慶光院ほどの場所であれば個人の民家とは違い公共性があるので、名前を出して書きそうなものである。
また、昭和時代の鷹揚さはあっただろうが、それでも神宮司庁の庁舎であり他人の案内で入れたのか。さらに、「当主」という書きかたをしたのも気になる。個人邸を念頭に置いた書きかたとも言える。
そういう点では、慶光院そのものではなく、慶光院の関係者や子孫縁者に属する方の邸内に移されている可能性もあり、その場合は秘匿性が増すので所在確認の難易度は大いに高まる。

いずれにしても、時機到来して慶光院の公開日に見学できれば確認したいし、すでにご覧になった方の情報提供を待ちたいところである。

再び朝熊山の岩盤へ…

長い「寄り道」の末、冒頭の山頂展望台の岩盤へ話を戻そう。

これまでの調査を踏まえれば、岩船は朝熊山岳道の道中(山腹)にあったため、件の岩盤とは無関係の存在となる。
(ただし、仏堂以前の『毎事問』『志陽略志』の時期も同じ場所に存したかははっきりしない)

その他、朝熊山で伝え継がれているものとしては次の岩石がある。

  • 天狗石
  • 大黒岩
  • 朝字石
  • 獅子岩
  • 独鈷石
  • 二法石
  • 心経石
  • 畺目石
  • 七日石

すべて朝熊山の名跡として各種文献(坂本徳次郎氏『二見浦名勝誌 附 神都案内』二見興玉神社々務所 1913年 ほか)に列挙されるのだが、この内、位置がある程度確定できるのは前3者(天狗石・大黒岩・朝字石)に限られ、少なくともこれらは展望台の岩盤を指さない。

さらに、七日石はおそらく七社神(朝熊の鎮守という)にある岩石で、七社神は金剛証寺境内の薬師堂の社(法光院)という記述があり(『皇大神宮参詣順路図会』)、文殊大満獅子石ともあるので上記の獅子岩と同一かもしれない。ならばこれらも異なる。

逆言すれば残りの岩石名(独鈷石・二法石・心経石・畺目石)については、件の岩盤を指す可能性がまだ残っている。

金剛證寺境内。顕彰碑の前の壇上に置かれる自然石。このような岩石にも名があり歴史がある可能性を否定できない。

最後に、朝熊山縁起に関わる話を紹介する。
室町時代成立とされる『朝熊岳儀軌』には、赤精童子・雨宝童子が朝熊山の三鈷洞傍らの岩石に立ったという縁起がある。

この岩石には「朝」の字が足跡として残ったという故事から朝字石の名がつき、それは境内の連珠池の池の中にあるというが見ることはできない。
なぜならこの池は常に濁っているのが良いとされていて、清らかなときは変異の兆として避けられているからだ(安岡親毅著・倉田正邦校訂『三重県郷土資料叢書第25集 勢陽五鈴遺響(1)』三重県郷土資料刊行会 1975年)。

朝字石があるという連珠池(連間の池)

傍の三鈷洞は、金剛證寺を開創したという伝説的修験者・暁台上人が修行して聖徳太子が小野妹子を遣わして仏舎利を納めたという聖跡だが「三鈷洞の存在を今は知る統べもない」(前掲『伊勢朝熊岳 金剛證寺』2024年)とのことである。
件の岩盤は洞穴構造を持っているわけではないので伝承地として適切とは言えないが、この「洞」がいわゆる洞窟のようなものを指したか、岩陰構造をもつ岩石を含めたものだったかは不明である。

以上、朝熊山の岩盤について候補となりうる情報をまとめたが、ご覧のように多くの謎を残した。朝熊山の岩石信仰の地についてさらなる情報をお持ちの方はぜひご教示ください。