2025年2月9日日曜日

鳴石/膳貸し石(山梨県北杜市)


山梨県北杜市大泉町谷戸

鳴石/膳貸し石

すぐ横に沢が流れる。


変事があると石が鳴ったことから鳴石の名がある。

この石に「~を貸してほしい」と頼むと必ず貸してくれた。
特に冠婚葬祭の折、膳椀を何人前分か貸してほしいと頼んでおくと、翌日に頼んだ分だけの品物が石の上に置かれていた。
使用後は、借りたものを石の上に置いておけば、やがて石の上から消えたという。

ある時、ある人が膳椀を壊したまま返したら、石は怒り、その後は一切反応しなくなったという。

この手の膳貸し・椀貸し伝説は各地に類例が見られる。

参考文献
土橋里木 『甲斐の伝説』 第一法規出版 1975年


2025年2月3日月曜日

橋杭岩(和歌山県東牟婁郡串本町)


和歌山県東牟婁郡串本町


紀伊串本の沖から南に浮かぶ紀伊大島に向かって、橋脚(橋杭)のように立ち並ぶ岩の列。
地質的には、マグマで形成された岩脈が後に黒潮の浸食で削られて現在の姿を見せたと考えられているが、すでに奇岩としては有名であるので本項では岩の名称と伝説についてまとめておく。

橋杭岩

名称

海岸に一番近いものを「峭立」と呼ぶ。
橋杭岩で一番高い岩を「稲荷島」と呼び、後は高さ順に「折島」「桃嶋」「平島」「鋏島」「チョンギリ島」「拝み島」「辨天嶋」「一の嶋」「二の嶋」と呼ぶらしい。
また、北に建つ大師堂に接する岩を「柱天巖」と呼ぶ。
(以上、庄司海村『古座川』ユヤ出版協会 1923年 より)

海岸に最も近い岩。「峭立」か。

写真中央が一番高い「稲荷島」か。


稲荷、辨天などの名称から、岩上や岩陰に小祠あるいは岩そのものを祠に見立ててまつった可能性がある。

伝説

弘法大師が紀伊の海岸から紀伊大島へ一夜のうちに橋を架けようとしたが、天邪鬼の邪魔によって鶏の声真似に騙されて、一夜で作れないと判断して取りやめた跡が橋杭岩という。

鬼が一夜のうちに橋を作ろうとしたが、同様に鶏が鳴いたので中止したという話もある。

紀伊大島の輿兵衛という漁夫が大島に橋を架けたいと祈願したところ、一夜で杭を建てれば上に橋を架けてやろうとお告げがあったので急いで作ったが、海の神が橋を作られると困るというので鶏の鳴き声を真似して輿兵衛はあきらめた。その後、輿兵衛は海に身を投げたためこれを哀れんだ神が橋杭岩の上に時折虹の橋を架けるという。

埼玉県坂戸市塚越や徳島県阿南市椿泊町にも橋杭岩と呼ばれるものがあり、岩を橋杭に見立てたもので同様の伝説が認められる。

(以上、日本放送協会編『日本伝説名彙』日本放送出版協会 1950年 より)

2025年1月26日日曜日

立石/立石様/活蘇石(東京都葛飾区)


東京都葛飾区立石


葛飾立石の地名の由来となった岩石。
石の露頭が地上から少し顔を出すくらいの、小さな石である。


石が立つという名前負けしているように思えるが、『江戸名所図会』に描かれた立石の姿は、現在のものよりも高さがある(といっても高さ一尺と記されるので約30㎝)。

立石稲荷神社

立石

なぜ小さくなったのかについては、長年の風化による説のほか、立石を打ち欠いて飲めば病が快癒するという一種の信仰習俗がかつてあって、その結果小さくなった可能性がある。


「立石」の地名はすでに、応永5年(1398年)の『下総国葛西御厨注文』に登場することから、少なくとも室町時代には立石が特別視された存在だったことが推測される。

江戸時代には、寒くなると石がどんどん欠けていくが、暖かくなると元の状態に戻る奇石として知られた。

文化2年(1805年)には地元の人々が、石の下はどうなってるのかと掘り進めたが石の根元は見えず、掘った人や近在の人々の間に悪病が蔓延。これは立石の崇りだということで祠を設け、立石稲荷神社としてまつるようになったという。

南蔵院所蔵旧記から写したという『持高』文政6年(1823年)に立石稲荷大明神の記述があり、そこには「神体活蘇石」の名称で記される。


鳥居龍蔵博士はこの「活蘇石」の名称に注目し、活蘇とは石が生きているという信仰を伝える証左であり、巨石文化研究に傾注していたことから立石を低地帯には珍しい「メンヒル(巨石文化における立石の事例)」とみなした。

その後、大場磐雄博士は「磐座=盤石状」「石神=立石状」という構図に当てはめ、立石を石神事例の1つであると考えた。


全国の石神事例と比して珍しいと思う点は、元は珍奇・好奇・特別視の対象から始まっていて、それが崇りによって畏敬の対象に昇華し、その後、石を欠く習俗によって親近的な信仰に、人々の感情が波打つように変遷してきたところにある。

元来は畏敬の対象だったものが、時代を追うごとに畏れを減じて親近・好奇の対象に変わるという一直線的な変遷はままあるが、あたかもジェットコースターのように感情の起伏が激しい立石は独特である。


ちなみに、この立石の石種は千葉県安房郡南鋸町の鋸山周辺でしか採れない房州石という鑑定結果があり、近くには房州石を用いて石室を構築した古墳があることから、立石は古墳の石室石材だったのではないかという見方もある。
立石の地中をレーダー探査したところ空洞構造が検出されたことから、古墳が埋没しているのではないかともされている。


京成電鉄立石駅のホームには立石の説明板とレプリカが置いてあり、こちらも一見の価値がある。


参考文献

  • 鳥居龍蔵「武蔵野のメンヒル」『鳥居龍蔵全集』第2巻,朝日新聞社,1975. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12143265 (参照 2025-01-26)
  • 大場磐雄「日本に於ける石信仰の考古学的考察」『國學院大學日本文化研究所紀要』第8輯 1961年
  • 現地看板


2025年1月20日月曜日

大場磐雄博士写真資料を追加

「大場磐雄博士写真資料」で公開されている岩石信仰に関する写真で、他で見られず資料性が高いと判断したものを、本ブログですでに紹介済の探訪記に追加しました。


後日、まだ本ブログで投稿してなかった葛飾の立石や、未訪ながら非公開で今後も写真撮影至難と思われる宇佐八幡の三つ石や長野の児玉石神事も本写真を利用して投稿予定です。


大場磐雄博士写真資料は、國學院大學デジタルミュージアムが公開するクリエイティブ・コモンズ・ライセンスのデータです。

クリエイティブ・コモンズ・ライセンスは、転載などの二次利用を著作権者が許諾した資料であり、大場磐雄博士写真資料もクレジット表記と非営利使用であることを条件に二次利用が許可されています。

今回、埋もれていた写真資料を再活用して、岩石信仰の記録としての資料価値を高められたことをありがたく思います。

2025年1月19日日曜日

ドルメン類似遺跡/坪平遺跡(長野県諏訪郡富士見町)


長野県諏訪郡富士見町立沢

 

町指定史跡。埋蔵文化財上の正式名称は坪平遺跡だが、「ドルメン類似遺跡」の通り名をもつ。

日本のドルメンといえば鳥居龍蔵博士ということで、鳥居が大正11年(1922年)に訪れて命名した。

ドルメン類似遺跡の石碑

現地に残る遺構

ドルメン=巨石というイメージだが、そんなに目立つものではない。

実際のところは縄文時代後期(BC.1800年前後)の配石墓(石棺墓)である。

遺骸や埋葬を確定させる痕跡は見つかっていないが、遺構に接して土器片や石棒片、人形にも見える十字形石器が伴出した。また、後年の追加発掘で土坑墓と思わしきものを3基検出しており、やはり一帯は墓域だった可能性が高い。

配石墓は約4mの間隔を置いて2基が検出され、両方とも南北5m×東西4mほどの規模に渡って石積みがなされていた。

石棺墓の一つ。小さい石の上に大きいめの石が載るのがわかる。

下部に小さい石を積み重ね、上部に大きめの石を蓋替わりに置く構造をみせる。地表に露出した蓋石の様相を、鳥居は海外のドルメンに重ね合わせたのだろう。

とはいえ、地表に蓋された大石を見ればドルメンになってしまうでは、中世の経塚も古墳の石室も登山のケルンも地質活動の岩陰も、地表に石で蓋されれば同質である。共通項が大きすぎるのである。岩石の単純な積み上げだけを以て世界共通の文化を夢想すること自体に無理があるだろう。


世界規模での巨石文化論が崩れた今、この遺跡にドルメンという言葉を付けるのは不適切だが、考古学史上において「鳥居龍蔵ドルメン時代」の調査遺跡ということが名称からすぐわかるのは良いところである。

なお、ドルメンの別名として「支石墓」を用いる向きがあるが、現在の考古学における支石墓は基本的に弥生時代の墓制に限定された用語として通っているので、縄文時代である本遺跡に当てはめるのは適切とは言えない。