2023年1月17日火曜日

社護神稲荷神社/三護稲荷大明神/社合神/三護神/三狐神(三重県伊勢市)

三重県伊勢市有滝町 豊北漁港

豊北漁港の敷地内に社護神稲荷神社はある。

社護神稲荷神社。社号標などは設置されていない。

神社境内。右手前に積み石が見られる。

岩礁状の積み石も祭祀対象であることがわかる。

社殿向かって左にも同様の積み石が見られる。


明治9年ごろに世古口藤平が著した『神三郡神社参詣記』に当社の姿が記録されている。
櫻井治男氏によって『皇學館大学神道研究所紀要』2(1986年)において翻刻されており、以下に該当部分を引用する。

社合神 三護神 三護稲荷大明神
社護神稲荷神社、正一位稲荷大明神幟を建て、祭日は七月晦日相撲あり
或人曰元三狐神ト云、誰か其後正一位稲荷大明神のがくをあ(上)けて今ハ稲荷社ト云、今又白狐の坐す、右の脇に何ヶ文形ある白狐ト申、此裏ハ浜ニつき出たる処ニて、遠き海向イ地よりも見へる日本三所の処なりト所人ハ云なり
此社ノ北ニ小さき森小社あり
弁才天
櫻井治男「資料 『神三郡神社参詣記』(二) 」『皇學館大学神道研究所紀要』2(1986年)


本記述を信頼するならば、稲荷神社と呼ばれる前には三狐神の名があり、それが社合神・三護神・社護神といったバリエーションで表記されていたことがわかる。

いずれの名もこれはいわゆる信州発の信仰・ミシャグジ信仰の影響下にあるものと思われ、本事例の読みは振られていないが、漢字から類推すると「シャゴジ」が適切かと思われる。


つまり、本事例は伊勢地域におけるミシャグジ事例の一つとして位置づけられるが、伊勢において他に著名な類例としては、二見浦で有名な二見興玉神社の「天の岩屋」が挙げられる。

天の岩屋では三宮神社をまつっており、その一名が三狐神社ということで本例と同名である。そして三狐神社は「石神」「佐軍神」とも呼ばれていたということから、こちらもミシャグジ事例に属することは間違いない。


「今又白狐の坐す、右の脇に何ヶ文形ある白狐ト申」との記述を示すものか、今も現地には社殿向かって右に礫石を玉垣状に積み重ねた場所があり、単なる玉垣となっておらず積み石の前に小鳥居と白狐が献ぜられている。

社殿とは別で祭祀されていることがわかるものであり、それが三狐神だったのだとしたら、二見浦の天の岩屋同様に岩石をもってまつられたミシャグジ事例ということで、石神とも領域が重なる存在となる。


ちなみに「此社ノ北ニ小さき森小社あり 弁才天」と記載されているものも現存しているようである。

当社が鎮座する有滝漁業魚市場の海を挟んだ北向の突端に「弁才天」の名を三重県森林GISの地図に認めることができる。


2023年1月16日月曜日

舟神龍宮の積み石(三重県伊勢市)

三重県伊勢市村松町 村松漁港

舟神龍宮。右奥に見えるのが村松漁港。

村松漁港

左・船上龍宮の祠。右・積み石。並置の関係にある。

積み石近景。岩礁を思わせるような形状。


情報がかなり乏しい場所である。

唯一と言って良い典拠は、皇學館大學伊勢志摩百物語編集委員会『伊勢志摩百物語~磐座の聖地めぐり~』(2017年)であり、ここでは「舟神龍宮の積み石」として紹介されている。

担当著者は皇学館大学特別教授の櫻井治男氏であり、その櫻井氏をもってもこの積み石について名称はおろか、付帯する伝承・記録についてもほとんど触れられていない。
(積み石だけではほとんど文章を書けないので、周辺神社の記述を足して何とか2ページの文章を完成できたことが読み取れる)


舟神龍宮について少なくともわかっているのは、昭和28年9月の台風の後、現在地に遷座されたということ。現在地は村松漁港に接して鎮まり漁師の守り神として適地と言えるが、元来の鎮座地ではないことがわかる。

この積み石も、昭和28年より前は別の場所にあったものか、それ以降に構築された祭祀の場だったのか、わからない。


積み石は、多数の礫石を人工的に積み上げたものと推測されているが、この構造と類似した事例がすぐ南東に隣接する有滝町豊北漁港の「社護神稲荷社」にも存在する。

地理的な近さも考慮して、これら海岸沿いの岩礁にも似た積み石祭祀は、相互影響下の存在としてセットで論じることが望まれる。


2023年1月8日日曜日

谷ノ神社/上之郷の「石神」(三重県志摩市)


三重県志摩市磯部町上之郷

「上之郷の石神」と「志摩3大石神」の文献調査





志摩国一宮とされる伊雑宮から北へ徒歩10分の位置にある。

現在は「上之郷(かみのごう)の石神」の名前で知られており、現地看板では「志摩3大石神」の1つと書かれている。


しかしながら、この「志摩3大石神」の総称を遡っていっても、管見のかぎりでは昭和以前の文献(紀行文や自治体史含む)には登場せず、三重県内に住む私自身、耳にしたのはここ10年以内である。
※2014年に相差町神明神社の石神さんを訪れた時は、まだ「志摩3大石神」の呼びかたを聞かなかった。

相差の石神さん(三重県鳥羽市)


「上之郷の石神」についても、その名で調べても昭和以前の文献にはまったく見当たらない。

別の名前で知られていた可能性も考えたが、『磯部町史』(1997年)などの自治体史を捲っても、地誌や観光ガイドの性格をもつ『志摩めぐり』(上野梅吉、志摩国史研究会、1929年)や『鳥羽誌 志摩国旧地考』(曽我部市太、三重県郷土資料刊行会、1975年)を当たっても、近くの史跡名勝「千田の御池」や他の石神については記述されるものの当地については記述が見られない。

千田の御池(当地より徒歩5分の距離にある)

現「上之郷の石神」の入口。「志摩の三大石神」の標柱が建つ。

上之郷の石神の現地は、舗装された参道や鳥居・標柱など、よく整備されている。「神恩感謝」の標示などはずいぶんと新しいように思うが、元来はどのようであったのだろうか?

Googleストリートビューを確認すると、2012年撮影時は様相がかなり異なっていることがわかる。

2012年撮影。入口すら見当たらない。


インターネット上で「上之郷の石神」を検索すると、最古で2014年11月の記事まで遡ることはできる。

上之郷の石神、旧村社「谷社」跡と秋を見つけて(志摩市磯部町)

しかし2013年となると、たとえばイワクラ学会理事の平津豊氏が伊雑宮を訪れたレポートを2013年1月に上げているがそこには上之郷の石神について一言も出てこない。

アマテラス鎮座前の伊勢

イワクラ学会主催の「イワクラサミット」で辿ると、2006年の「イワクラサミットin鳥羽」では上之郷の石神への言及がないが、2016年の「伊勢イワクラツアー」では「最近近づけるようになった岩」として上之郷の石神が紹介されている。


以上をまとめると、2012年頃まで現地はほぼ無整備の状態で、それが2014年頃には「上之郷の石神」の名で整備され、現在は「志摩3大石神」で括られる存在になったという現代史が描き出される。
歴史は数年で変化して、それ以前のありようがわかりにくくなる性質があるので、他記事ではあまり追究されていない部分について本記事はあえて記した。


谷ノ神社

とはいえ、この「石神」と呼ばれる岩石群は、まったくの無の状態から突然聖地として創られたものでもないらしい。

文献上でこの岩石群を記録したものとして、唯一見つけることができたのが、植島啓司氏『伊勢神宮とは何か』(集英社、2015年)である。下記ブログの存在で本文献を知ることができた。

フィールドノート(民俗野帖)


植島氏は、この岩石群を「上之郷の石神」ではなく「谷ノ神社」という名で紹介している。文章を読むと植島氏が現地を訪れたのは2013年夏のようである。

この時の様子は、「ちょっとわかりにくいところ」にあって「比較的大きめの磐座に注連縄が巻いてある」が、「神籬の跡がかすかに認められるものの、もはや原形をとどめないほど荒廃」(植島 2015年)した状態だったと記されている。現在の整備状態とは差があったことが読み取れる。同書に掲載された谷ノ神社の写真には、岩石の前に奉納物としてのミニ鳥居が立てかけられているが、これも現在は存在しない。


谷ノ神社とはどのような社だろうか。

現在も現地には「旧村社『谷社』跡 立入禁止」の柱が建っており、この谷社が谷ノ神社のことなのだろうと思われる。

現地に立つ「谷社」跡の標柱。当地に隣接する。

谷ノ神社は現在、近くの磯部神社に合祀されている。

明治時代の神社合祀の動きを受けて、磯部村内の十数の神社とともに合祀された時の一社である。

『三重県神社誌』第4(三重県神職会、1926年)によると、谷ノ神社の祭神は大幡主神で、以下の概要を記す。

「大幡主神ハ大字上之郷字西外戸四百七十一番村社谷ノ神社ノ鎮座ナリキ、由緒ハ[明細帳]ニ[不詳]トアリ」

いわゆる由緒不明の小社で、とりあえず最終の祭神が大幡主神ということだけはわかっているが、大幡主神(大幡主命)はいわゆる倭姫命伝説と絡む神であり、これが原初の地主神であったのか後世の勧請神だったのかはわからない。

さらに谷ノ神社には境内社が存在しており、前掲『三重県神社誌』によると「秋神社」の名が記されている。


前出の植島啓司氏は、谷ノ神社を「その土地の氏神・産土神を祀ったもので、伊勢・志摩一帯の古い信仰の痕跡がそこに表れていると言っていいもの」(植島 2015年)の一例として位置づけている。

この見解に対しては、たとえば江戸時代前期に成立したと推測される「伊勢二社三宮図絵」で伊雑宮に関するさまざまな聖地が強調されているのに、伊雑宮から徒歩10分の距離にある谷ノ神社については描かれていないことからも、当地が伊雑宮信仰というよりもそこから外れた在地的・非言語的信仰だったことを窺わせる。


近くの下之郷の山神社も「磐座」の岩石をただまつったものとして植島氏は写真を掲載している。

いわば伊勢志摩一帯には「形、石に坐す」と記されるような石を以て社とする岩石信仰が多い。それを祭祀考古学の笹生衛氏が提唱するような「御形」と呼ぶべきか、石に坐すから「石坐=磐座」と呼ぶべきかは保留したいが、谷ノ神社の岩石信仰もそのような伊勢志摩の事例の一つと言って良いだろう。

(なお、植島氏が磐座と石神などの使い分けをしておらず磐座を総称的に用いているのは、学史を踏まえた用法ではなく不適切だと思う)


したがって、歴史的にまとめるなら当地は「上之郷の石神」と呼ぶより「谷ノ神社」と呼ぶべきものであり、岩石の名を「石神」と定義してしまっていいのかも、学史を踏まえると慎重でありたい。

(本記事タイトルが谷ノ神社を優先表示して、石神に括弧付けしているのはそこが理由である)


また、隠されていた/禁じられていた聖地というわけではなく、神社合祀により一度その役目を終えて一般には注目されていなかったかつての聖地が、地元の方のなかでは継承され続けて、この10年で「上之郷の石神」として再整備された場所とみるのが適切である。

植島氏は磯部神社宮司の山路太三氏と共に谷ノ神社を訪れており、磯部神社宮司の方も当然承知の存在で、合祀前の旧社地としてこの岩石を護持されていたのではないかと思われる。

植島氏が訪れた2013年の翌年には、先に紹介したブログなどのとおり聖地整備がされ始めたので、このような専門家の訪問も一つの契機になったのかもしれない。


【補遺】天井石について

千田の御池の横に現存する「倭姫命旧跡」も併せて紹介する。

「天井石」と呼ばれるもの。由来は下画像を参照。

"いけないもの"が出て官憲に回収されたという話は超古代史系の話でも類型があり、どこまで事実として信頼できるか。
ちなみに、別の看板によるとその鏡は現在、志摩市立歴史民俗資料館に保管されているという。

同敷地内にある「勝負神」。力石の一例と思われる。

2022年12月30日金曜日

加布良古神社/伊射波神社の岩石信仰(三重県鳥羽市)


三重県鳥羽市安楽島町 加布良古崎

 

中近世は加布良古(かぶらこ)神社・加布良古明神の名で通り、「かぶらこさん」の俗称が現在でも残っている。地名の加布良古崎から由来するものであるが、「かぶらこ」の語源はよくわからない。

明治時代になり、当社は延喜式内社の伊射波神社に比定されたことから、現代では伊射波神社の名称が一般的である。しかし、伊射波神社の論社としては他に志摩市の伊雜宮が有力であるため、本記事では歴史的に確実な加布良古神社の名を優先的に使用している。


穴あき石の奉納

一の鳥居。鳥居の向かい側は一面に海が広がり、浜辺に建つ。

鳥居の傍らに積み重ねられた石群。よくみると穴が開いた石が多い。

拝殿内に奉納された「神通力石」にも穴あき石が多い。


穴あき石の祭祀は全国各地で類例が見られ、病の平癒や女性の願掛けで用いられることが多い。
また、穴をあけるのは石だけでなく土器、貝殻、柄杓ほかの素材でも見られるため、穴を開ける行為そのものに共通した論理がありそうだ。


石の神体説

筑紫申真「五十鈴川―伊勢神宮祭祀集団の民俗学的研究―」『三重史学』3(1960年)には、 加布良古神社の神体が石であることが書かれている。以下、引用しよう。

加布良古明神の神体は石だといわれる。神主が朝早くまだ暗いうちに深い海にもぐり、石をつかんできて、その石を全然見ずにさらしの布に包んで、神としてまつる、という。そして加布良古の浜の石は、しばしば神異を示して他に私に運ばれることを拒んだという伝承に富んでいる。(筑紫、1960年、p.7)

神体が石体で、その石が秘匿されるというのは全国各地の神社でもよく見られるパターンであり、それ自体は特殊なことではない。

興味深いのは、この記述を信じるならば神社の神体石が定期的に交替していた可能性である。

さらに、他に私に運ばれることを拒んだというくだりは神職者以外が浜の石を持ち出すことを禁じたように読めるが、現状をみるかぎり当社には多数の穴あき石が奉納されている。穴あき石が浜の石かどうかという問題もあるが、記述時点と現況で歴史の変化が窺える。


美保留神


拝殿向かって右側に「子宝・安産の神 美保留神」の標示があり、上写真のように白石が敷かれて貝殻の奉献された一角がある。

特異なのは、奉献された先の岩石は、正確には拝殿を取り囲む玉垣(石垣)の端に過ぎないという点だ。たしかに石垣の断面は縦状に深い窪みを有し、外形は子宝安産の象徴化とみなすこともできる。美保留神は日本神話に登場しない神であり、仔細は不明である。

上写真には、美保留神の左奥にもう一体、岩塊が控えているのがわかる。拡大すると下写真となる。

この岩石がまつられていることは石壇と小鳥居の設備から明白だが、社殿内ではなく社殿外の玉垣に接してまつられた意味とは何なのだろうか。

神社由緒書によると、加布良古神社には多くの神々が後世合祀されており、その一柱に神乎多乃御子神社祭神・狭依姫命がいる。

神乎多乃御子神社は加布良古崎にかつてあった島に鎮座していたといい、戦国時代に海中に沈んだときに神体の石体が救出されて当社に合祀されたとある。

たとえば、こういった合祀された神々の石体が上写真の岩石なのかもしれないし、前述したように加布良古神社の定期的に交替される石体の一部なのかもしれない。


領有神



「海上守護神 領有神」の標示がある。場所は、加布良古神社拝殿からさらに参道を奥へ進み、加布良古崎の突端頂上に位置する。

「領有神」は「りょうゆうしん」ではなく「うしはくのかみ/うしはくがみ」と読む。「領く(うしはく)」は古語として存在するが、「領有神」の用例自体がいつまで遡りうるものなのかは突き止めていない。


加布良古崎

加布良古崎

加布良古崎の岬突端にある、ハート形の石。

皇學館大學伊勢志摩百物語編集委員会が2017年にインターネット公開した『伊勢志摩百物語~磐座の聖地めぐり~』には、鳥羽市に「美多羅志神社のハート石」の項目もあり、伊勢志摩ではハート形の石に注目するちょっとしたブームがあった。おそらくはその一例に数えられるのが上写真ではないか。


アクセス(駐車場)

神社の公式駐車場(写真左奥)

自動車で訪れる場合、神社の駐車場の位置がはっきり現地で示されていないため、参考までに書いておく。

公式駐車場は上写真である。かめや旅館を横に通り過ぎるとすぐに三叉路にぶつかり、まっすぐは車止めがされており進めず、右は海水浴場へ行きつく。左へ進むとすぐ上写真の建物が見え、狭いが左に「駐車場」の案内があり広場が広がっている。

手前の鶴林山傳法院の駐車場にも、一部のスペースだけ神社駐車場として利用できるが(私は現地の方に聞いてここを利用した)、車を停める駐車スペースの番号は一部のみなので訪問時必ず確認してほしい。


2022年12月25日日曜日

岩石に彫刻することで得られるものは

竜ヶ城一千梵字仏蹟(鹿児島県)

先日、「鹿児島磨崖仏巡礼」vol.5のイベント「岩石信仰と磨崖仏」で講演をおこないました。

当日の様子は、主催者の一人でいらっしゃる窪壮一朗さんがブログに詳しく書かれているのでぜひご覧ください。

「鹿児島磨崖仏巡礼vol.5 -岩石信仰と磨崖仏」、吉川宗明さんを招いて盛大に開催!


鹿児島の摩崖仏、石造物に接して

本イベントのメインテーマは、摩崖仏の謎の解明にあります。

私は自然石信仰を主に取り扱ってきたため磨崖仏は門外漢で来たところがあり、鹿児島というフィールドを通して磨崖仏、そして石造物文化の見聞を広げる大きな機会となりました。

旧薩摩藩領内で盛んに造られた「田の神様(タノカンサア)」(隼人歴史民俗資料館所蔵資料)

馬の守り神としての「牧の神」(石碑下部に馬の彫刻がみえる)

近代の戦役記念碑・戦没者慰霊塔。不整形な自然石の形が多い。

墓石の一つ。墓域における統一感はなく、近世においても自由な石造物文化が認められる。

これらの石造物に通貫する価値観を挙げるなら、それは

「岩石に何かを彫りこまずにはいられない/刻みこまずにはいられない」

という点です。


とはいえ、上写真に挙げた自然石型の記念碑や自然岩の磨崖仏のように、岩石の性質を完全になきものとしてしまうのではなく、岩石の視覚的な外形・輪郭はそのまま活かされたかのような趣も感じ取れます。


タノカンサアの石像に限っては、顔面が白く塗られることもよくあるそうです。この点では、岩肌より顔の化粧が優先されたことがわかります。

では岩石である意味はないのかというと、タノカンサアの中には地区の家々で持ち回りでまつる移動型の石像もあったそうです。

窪さんが疑問に挙げたこととして印象に残ったのが、像を持ち歩く前提ならもっと軽い素材のものでもいいのに、どうしてそんな重い岩石で作ったのかという問いです。

便利より不便を選んだ理由に、岩石でないとならない精神的な要因があったのかどうか。


私はその場で即答できず、そして今も答えを用意できませんが、岩石を選び、彫刻する時には次の「瞬間」と「立場」で心理の種類が変わったのではないかと思うのです。


瞬間

  • 彫りたい対象を模索し、彷徨うとき
  • 岩石の存在を人づてに聞くとき
  • 岩石の存在に偶然出会うとき
  • 母岩から必要な岩石を切り出すとき、拾うとき
  • 岩石に彫刻の手を入れようとするとき
  • 加工しているとき
  • 加工した中から新たな石面を見たとき
  • 岩石を加工する中で破片が飛び出るとき
  • 季節、天候、時間帯、乾湿、陰影により、異なる岩石の様態に接したとき
  • 最終的な完成品に接したとき


立場

  • 最初にその岩石に出会った人
  • その岩石に彫刻を施さず、そのままにするという選択をした人
  • 最初にその岩石を彫刻したいと思った人
  • その彫刻者の影響下で共感できた人々(支持者、従者、子孫、同集団内の人々など)
  • その彫刻者の影響下で、共感できないものの従った人々
  • 彫刻後に、その彫刻された岩石に接した人(継承する人、再活用する人、対抗する人)


同じ人間でも、同じものに接してまったく同一の感情になるわけではないのが人間の複雑なところです。

同一人物の中でさえ、自然の岩石に出会い、石造物ができるまでの一つ一つの瞬間のなかで、岩石に見出した感情は刻一刻と変化したでしょう。しかもそれは、先天的な"ピュア"な内発的感情によるものと、後天的な知識・立場・背景によるものの両面があったでしょう。

さらに、完成した石造物に対して、彫刻した当事者と同じ感情を周囲の人々が感じたとは限りません。

イベント事に対して、熱心に取り組む人もいれば、集団に属すから嫌々参加する人もいるように、人の心理にグラデーションがあったとみるのが自然です。

そして、上の瞬間・立場のいずれにおいても、岩石に何らの心理的反応も生じなかった人もいたとまで折り込みたいです。これらすべてを取り扱うのが、岩石に対する人の心理です。


彫刻家の発言より

とはいえ、細別化しすぎると正直何から手を付けたらいいか手に負えないという現状があるので、まずは岩石を彫刻したいと考えた当事者から始めてみましょう。

ヒントとなるのは、石の彫刻家の発言です。時代も地域も異なるということに注意をしないとなりませんが、このブログで紹介してきた例を数例再掲します。

磨崖仏はその岩を彫り尽くすことが目的なのではなく、あくまでその岩の聖性を抽出するために、仏等の様々なしるしが刻まれると考えられる。(青野文昭氏)

青野文昭氏の「表現のみち・おく」が石を哲学している

石工の人々にためしに聞いて御覧なさい。必ず異口同音に答へるでせう。石は生きて居ります・・・・・・と。(尾崎放哉氏)

尾崎放哉「石」 ~『日本の名随筆 石』を読む その3~

アトリエに置いてある大理石が、汗をかいていた。(舟越保武氏)

石の彫刻家・舟越保武氏が岩石に対して感じた思い

私は自分の内奥の想いとか、私のえた知識を、石に何らかの表現をしなければならない、いいかえれば、石に信仰告白をしなければならなくなっていた。(C・G・ユング。徳井いつこ氏訳)

石に語らせる~徳井いつこ『ミステリーストーン』を読む その4~

岩石は生きている、という一文は、石を生業としない大多数の現代人(私を含む)には何のことやら、というところもあります。

文章どおりに受け止めてよいのか、というところに問題の根深さがありそうですが、「岩石が生きている」という発想は、岩石が主体で人が客体と言えます。

一方で、岩石に何かの表現をしたいという一文は、人を主体とした欲望であり、岩石は客体と言えます。


「岩石は生きている」と「岩石に何かの表現をしたい」の二つが、対立的ではなくむしろ止揚したところに、彫刻者の心があるように今は理解したいです。

磨崖仏や信仰に関わる石造物は、岩石が生きるという認知がすでに超越的であり、聖性の要因となりえます。いや、記念碑やモニュメントにおいてさえも、人が主体で岩石が客体という色が濃くなりながらも、岩石に込められたかつての聖性の残滓が岩石という素材を選ばせたのかもしれません。


岩石の聖性とは何か?

私が2022年までに言語化できたのは、『古事記』『日本書紀』『風土記』の奈良時代文献から抽出した「境界性」「忌避性」「生死性」「堅固性」「移動性」「永遠性」「非実用性」の7つの精神性です。詳細は論文として書きました。

論文紹介「『古事記』『日本書紀』『風土記』は岩石をどう記したか―奈良時代以前の岩石信仰と祭祀遺跡研究に資するために」(2022年)

この7つの精神性ですべての岩石を通観できるとは到底思っていません。


たとえば會津八一氏は、「石は案外脆いもので寿命はかへつて紙墨にも及ばない」(會津八一「一片の石」~『日本の名随筆 石』を読む その10~)と、岩石の永遠性への反例を紹介しています。やはり時代、場所、立場、瞬間が変われば岩石の心理は変わるのです。

まずは現段階の参考としていただければ、というところです。


特定の岩石を強調、見える化するということ

そうそう、講演の中で日本列島最古級の磨崖仏「狛坂寺跡磨崖仏」(滋賀県)に触れました。

そこで、日本列島における初期磨崖仏の石窟タイプと露岩タイプの特徴の違いを紹介したのですが、かなり端折ってしまいました、

私が依拠した、藤岡英礼氏の論文「狛坂寺跡磨崖仏と山寺」『季刊考古学』第156号(2021年)より該当部分を引用して補足説明に代えます。

「大規模な露岩の摩崖仏は、石窟の摩崖仏よりもわずかに早く伝来したが」「露岩タイプの摩崖仏は、境内周縁に位置することで聖域を外部に示すモニュメント(指標)となり、場の中心を志向する石窟や中心堂舎とは異なる役割を持ったと考えられる。」(藤岡氏、2021年、p.25-26)

露岩がただそこにあるだけでは、聖地であることを示しきれなかった、だから仏を彫ってわかりやすく聖度を高めたということです。

窪さんが提唱された、自然石の聖性をさらに強調・見える化した「荘厳(しょうごん)磨崖仏」の考えかたに通じます。


民話・伝説に登場する岩や石には、「石を撫でる」「石が泣き出す」「石がしゃべる」など、石が人間のように動く話が時折みられます。

これは中近世の遊行者・座頭・巫女たちが全国各地を練り歩き、宗教知識を持たない庶民にわかりやすく伝えるため、地元に存在する岩石を人間の身体技法にたとえて物語化したという説があります(石上堅氏『石の伝説』雪華社、1963年)。


いわば、岩石を「荘厳」する方法には、言葉(民話・伝説・物語)で明確化していくアプローチと、彫刻・加工で明確化していくアプローチがあったということになります。


イベント翌日に、窪さんと川田達也さんから鹿児島の摩崖仏などを案内いただきました。

そのときおっしゃられていたのが、彫りにくい場所や足場の悪い場所に彫刻がみられるということです。

それを一言で言えば、厳しいことにあえて向かっていく彫刻者のパッションということになりますが、この記事の今までの話を踏まえれば、これも"難しい存在を超克していくことで、わかりやすくしていく"という荘厳の一種なのではないでしょうか。
(その彫刻が、必ずしも彫刻者以外にわかりやすいかどうかは置いておき)


自然石そのものには、人の意思が介在しないわけですから、その視覚的性質はすべてにおいて、掴みづらい、不安定な存在だったと言えるでしょう。

その"混沌"をそのまま受け止めて信仰対象とした自然石信仰と、"混沌"の不安定さを解決したく、意味を一意にするために彫刻を施した石造物信仰に反応が分かれたということで、今回の問いをまとめられそうです。


これはヒトが持つ、未知のものを解明したい、謎のものを明らかにしたい、という根源的な知的好奇心がなした業です。その知的好奇心が、岩石の荘厳、岩石の聖化につながっていく可能性を感じました。

岩石に神聖さを感じ、彫刻や祭祀をして一手間をかけたい人の心の動きは、信仰者にとっての謎解き行為なのかもしれませんね。



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