2021年1月24日日曜日

長森岩戸の岩石信仰~岩戸岩窟観音・岩戸の滝・岩戸八幡神社・岩戸神社・岩戸弘法弘峰寺~(岐阜県岐阜市)


岐阜県岐阜市長森岩戸


金華山南麓に長森岩戸(旧・岩戸村)と呼ばれる地域が広がる。

ここには岩戸森林公園という広大な公園が造成され、駐車場も整備されているので金華山登山の入口としても人気を博している。

「岩戸」の名は、当地に開闢された「岩戸岩窟観音(厳窟観世音菩薩)」の存在に由来するらしい。

また、『延喜式』神名帳には厚見郡物部神社の名が登場し、物部神社の鎮座地には諸説あるものの、一説に岩戸の地が挙げられる。
現在、その候補地には岩戸の名と関連される岩・石も残っており、本記事ではそれらを一括し「長森岩戸の岩石信仰」と題して紹介する。


岩戸岩窟観音(厳窟観世音菩薩)


当地を支配していた城主・斎藤利永(後の美濃守護代)が、文安2年(1445年)霊夢を見て、この岩窟に聖徳太子作の聖観音菩薩像を安置したという縁起が語られている。

いわゆる戦国時代における金華山の城郭史の中に組み込まれた宗教伝承ではあるが、なぜこの岩窟が選ばれたのかという理由は語られておらず、それ以前の歴史は不明である。

式内物部神社の旧社地はここであるという話があるそうだが、説の出所ははっきりせず、確たる資料に欠ける。

岩戸岩窟観音 入口

石段を数分登ると岩戸観音安置の地に到着。

堂内は秘匿されている。

境内の一露岩


「岩戸の滝」の地蔵石


「岩戸の滝」は、岩戸観音に接しており行場の霊滝としての存在感漂うが、実は明治40年に公園化や集客化の一環で造られた人工の滝である。

この滝を造るために近在から数々の名石が運び込まれ、特に、滝の台石には砥石のように滑らかな石面を持つ一大巨石が用意された。この台石のことを俗に地蔵石と呼んだそうだ。

この台石は、元はすぐ南の岐阜市雪見町に架かる石橋を転用・移設したものであることが明らかになっている。

岩戸の滝。滝の底面に滑らかに光るのが俗称地蔵石。


岩戸八幡神社と岩戸神社


名前が似通っているが、長森岩戸には岩戸八幡神社と岩戸神社という別々の二社が、近い場所に鎮座し合っている。

このうち岩戸八幡神社については、明治34年に海津市高須町にあった日下丸という集落の氏神・八幡神社を当地に遷座したものということがわかっている。
経緯は、日下丸集落が揖斐川の氾濫対策の改修で地区ごと水没、移転の憂き目にあったものという。岩戸村とはやや離れた距離にあるどのような縁によるものかわからないが、両村合意の上で、岩戸村の新たな鎮守として迎え入れられたものだという。

この話を踏まえれば当社は近代以降の歴史ということになるはずだが、当地も式内物部神社の旧社地だったという一説がある。
つまり、元来物部神社があったと伝えられる故地に、新たに八幡神を勧請したという流れで、土地の選定にそのような地元の口承が働いていたのかもしれない。

岩戸八幡神社

岩戸八幡神社境内の担石

現境内には担石(力石の意か)が残されているほか、当社の裏山が古道の一つであったなどの歴史的な傍証もあるそうだが、個人的には当社のすぐ北に鎮まる「岩戸神社」という別社の存在が興味深い。

こちらの岩戸神社は、どうやら物部神社候補地に挙がることが少なかったようだが、地理的には岩戸八幡神社の鎮座地と尾根を一つ隔てただけであり、口碑の曖昧性を考えれば誤差の範囲にも入る。

当、岩戸神社の起源も調べ切れていないが、当社のポイントは社殿下に露出する岩盤の存在である。
「岩戸」の由来となるような構造をしているかといわれると全貌を確認できないので何とも言えないが、岩盤の上にコンクリートの基礎と石段を打ち付け、そこに懸造の社殿と回廊を建てている。とにかく岩盤上に社を築きたかったという心理は伝わってくるが、ではその岩盤が物部神社問題と直結できるかというと安直なので差し控えておく。

岩戸神社

岩戸神社社殿

社殿下の岩盤

岩盤の近影。写真左に古い石段のようなものが見える。


岩戸弘法弘峰寺の岩石祭祀事例


岩戸弘法弘峰寺(こうぶじ。以下、弘峰寺)は岩戸公園に隣接し、岩戸岩窟観音と二社の岩戸神社の間に立地する。

その位置と名称から否応なく注目せざるをえないが、当寺は戦後昭和年間に新しく発願・建立された祈祷寺である。
落慶時には、高野山から鎌倉時代製作の不動明王像を迎え入れた堅実なる真言宗派の寺院であるが、最近はインスタ映えする数々の御朱印が人気を博し、パワースポットや新たな観光地として成長拡大路線の最中のようである。

さて、なぜ当地に霊場を発願するに至ったのか、それは創建者たる最初の住職の方に聞かないといけないだろうが、立地的環境として境内には多数の露岩群が散在していることを挙げたい。

弘峰寺全景。裏山に岩崖が見える。

寺の一部

本堂背後の岩肌

これら、岩石を利用した聖地の筆頭が本堂を構成する岩窟であり、弘峰寺は「日本最大級の岩窟本堂」と銘打っている。

私の探訪時は、本堂正面は閉じられお寺の方にもお会いできなかかったため中に入るのは遠慮したが、弘峰寺公式ホームページには岩窟本堂の写真が掲載されているので参考にされたい。

岩戸弘法弘峰寺

荘厳さ際立つ威容であるが、岩戸地区の他の歴史資料と絡めて取り上げるのではなく、現代の生きている信仰霊場として別次元で位置づけるべき存在である。

岩窟本堂は見逃したが、境内の背後裏山に参道がまだ続いていたので、山道を駆け上ったところ、山肌には大規模な岩盤や巨岩が屹立し、そこには懸造の小堂が設えられていた。
まだ建築は真新しく、奉納された幕には令和元年の寄進年が記されていた。

弘峰寺裏の参道

登りきったところ。金華山一帯が岩盤の宝庫である。

岩上の堂


境内は人工的に整備されているが、山肌の傾斜やその規模から、露岩のほとんどは当寺建立前から露出していたままと考えるのが適当である。弘峰寺の土地選定理由にはこの岩石環境があったのではないか。つまり、弘峰寺は現代の岩石信仰の事例としてじゅうぶん資料化できるのである。

いわゆる近世以前の歴史資料と一線は画するが、現代のすべての営みが歴史学の対象になるとも言える。
長森岩戸の岩石祭祀の事例には、文献記録が不足しているところが多いが、それは単に調査が足らないだけか、本当に記録自体が欠損してしまっているのか。後者だとしたら、現代おこなわれている信仰のかたちを記録化しておくことも歴史学であり、長森岩戸の未来の歴史研究に資するはずである。


2021年1月17日日曜日

櫛石窓神社裏山の霊岩(兵庫県丹波篠山市)


兵庫県丹波篠山市福井

かつてこの辺りは大芋荘と称され、櫛石窓(くしいわまど)神社は大芋荘を含めた四十八ヶ村の総社として信仰された。
「丹波の国大芋の大宮」の通称もあるといい、延喜式内社として古来からの岩石信仰を伝える地である。

櫛石窓神社

社殿背後の宮山(禁足地)

社殿の背後に、宮山と呼ばれる高さ約30mの小丘があり、神山として神聖視されている。

この宮山の頂上に、祭神の櫛石窓命・豊石窓命が降臨したと伝わる「霊岩(みたまいわ)」があるらしいが、宮山は禁足地のため山内に入ることはできない。

かつては麓から山頂に露出する巨岩群が確認できたそうだが、後に植林が行なわれ、現在は社叢繁茂して麓から確認することができない。


大場磐雄博士は昭和26年に当社を訪れ、社殿内陣の神像三体を拝観したのち、下のとおり宮山を登拝している。

御山(宮山という)の頂に到れば神格の基ずくところ、巨巌壘々と盤居せり、即ち頂上を周りて八個程の巨石ほぼ円形に露出し、南側には二個の立石屹立せり、石は硅石なりという。白く風化して霊格あるが如し、ここにてまづ霊岩を模寫し、それより御山の全体をカメラに入る
茂木雅博(書写・解説)・大場磐雄(著) 『記録―考古学史 楽石雑筆(補)』博古研究会 2016年

そのとき撮影したと思われる写真3点が國學院大學の大場磐雄博士写真資料データベースにて公開されている。

・宮山(目録番号ob3154)
http://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_fop&data_id=3572

・霊岩1(目録番号ob3155)
http://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_fop&data_id=3573

・霊岩2(目録番号ob3156)
http://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_fop&data_id=3574


なお、インターネット上では神山頂上に立ち入って巨岩群の写真を掲載しているページが散見されるが、冒頭に書いたとおり現在神山の中は禁足地である。

大場博士の頃は、登れる空気感だったか神社の調査許可を得たかはっきりしないが、少なくとも現在においては、境内掲示に神山への立入禁止は明記されている。あれこれ理由をつけたとしても、無許可侵入を正当化することはできない。
我欲に負けることなく、信仰している人の権利と立場を最優先してほしい。

社頭掲示


2021年1月10日日曜日

丸山の烏帽子岩/伊奈波神社旧跡伝承地(岐阜県岐阜市)


岐阜県岐阜市 金華山山中


金華山(稲葉山)に丸山という一支峰があり、峰上に「烏帽子岩」と呼ばれる岩塊が現存している。





その名のとおり、烏帽子に擬せられるような縦長の三角形状の輪郭をした立岩である。

この烏帽子岩は、伊奈波神社祭神(五十瓊敷入彦命のことか)の烏帽子をかぶせた岩、または烏帽子そのものとされているようで、かつては金華山下を流れる長良川の川底に沈んでいたのを引き上げたものだという。
詳しくは以下のページに民話が紹介されているのでご覧いただきたい。

丸山の烏帽子岩 - 長良川温泉 ホテルパーク

烏帽子は本来石製ではないので、烏帽子の形をした岩でありながら、岩に神が烏帽子をかぶせたのだろうと見た人と、神の烏帽子だから本来非実用である石製の烏帽子が成立し、烏帽子岩を神の烏帽子そのものと見た人に分かれたのではないか。

物語上では、この岩は川底のものを現在地に持ち運んでまつったものと語られているが、烏帽子岩は屹立した立岩ではありながら、その根元は地山の岩盤と根続きになっており、元からここに存在した露岩だろうと推測される。

烏帽子岩の隣には「伊奈波神社旧跡」の石標が建ち、丸山は現在金華山山麓に鎮座する伊奈波神社の旧社地だったといわれる。丸山周辺の山中からは中世の建物遺構も出土しているが、それが伊奈波神社に関わるものであったか仏教施設としての遺構かは何とも言えず、伝承地としての域は出ないそうである。

現在残る礎石等の諸施設は、江戸時代に建てられた丸山神社の社殿跡であり、伊奈波神社の社殿遺構はその下層に埋もれているか、丸山神社建設時に切り合って地層改変された可能性もある。

丸山に残る丸山神社址

現地看板


2021年1月8日金曜日

敢国神社の黒岩/大石明神(三重県伊賀市)


三重県伊賀市一之宮字大岩


伊賀国一宮の敢国神社境外摂社として、「黒岩」をまつる大石社が鎮座していたが、採石で破壊され現存していない。黒岩の周辺一帯を調査したところ、古墳時代の祭祀遺物が見つかり、大岩遺跡としてその名を残す。

大場磐雄「伊賀国南宮山麓の上代祭祀遺跡」(『神社精神文化』第3輯、1939年)に本遺跡の詳細が報告されているので、本論文を参照しながら紹介していこう(『神道考古学論攷』葦牙書房、1943年所収版を参照した)。

現・大石社(敢国神社境内)

黒岩の場所について


敢国神社から西南約3~4町の小字大岩にあったという。

地理的には、南宮山(通説的に敢国神社の神奈備山に擬されることが多い)の西麓傾斜面の末端にある岩だったと報告されている。

黒岩の場所から山道を隔てた所に小さな池があり、池のほとりに立つと南宮山と遥かに伊賀盆地を拝める「眺望捨て難き」場所だという。


黒岩の文献記録


『三国地誌』には、大石明神祠の名前で登場する。
丘陵上の大石を俗に黒巖と称したと記される。

『敢国拾遺』には、黒岩の名前で登場する。
接する池の名を西池と呼び、その西池の上に黒岩があると記す。
そして、黒岩には弥勒の像が刻まれていたと貴重な情報が残っている。


黒岩の現況


大石社が遷座した後、岩石採掘工事が行われ、その時に黒岩は破壊され「往時の状態を見ることの出来ない」と書かれている。

大場博士はこの黒岩の旧地を踏査報告している。
南宮山の裾が西に延びてそれが終ろうとする傾斜変換点の松林の中だったそうで、黒岩はないものの、現地には周囲に片麻岩の露頭とそこから剥落したと思われる白砂が確認できたという。


大岩遺跡の調査結果


黒岩消滅後、近くを通る道路の拡幅工事が行われ、その際黒岩付近において古墳時代の祭祀関連と目される遺物が見つかったという。

正式な発掘調査を伴う発見ではなかったようなので図面は起こされていないが、大場博士は出土品の収蔵先へ行きそれを実見・記録している。

土器は高坏3点・盌3点・坩2点で、いずれも手づくねの小型土器ということから、非実用の祭祀土器と推定されている。

また、滑石製の臼玉が2点見つかっている。これらは発見者の証言によれば坩の中に入った状態で見つかったという。


私の疑問点としては、黒岩の付近から見つかったというが、その位置関係が客観的な図面で記録されていないので、その近さ、遠さの評価のしようがなく、これらの遺物が黒岩に関わる祭祀の遺物だったのか判断しにくい。

以上の点から、敢国神社の黒岩は古墳時代の祭祀遺跡の事例に数えられることが多いが、調査年代が古く発見状況も地元の方の採集によるものであることから、いわゆる第一級の考古資料として扱うには幾分のためらいがある。
古墳時代の岩石祭祀を論ずるには、基本的に他例の資料が豊富かつ正確な記録が残されている遺跡を第一に取り上げるのが適当で、本例はその類例またはよすがを感じさせるものとして、補足的に利用するのが望ましいだろう。

敢国神社にまつられる「桃太郎岩」。約550年前に南宮山頂から持ち運んできた岩石という。当地での信仰は後世的な影響が強いものと類推される。


2021年1月5日火曜日

折口信夫の「漂著石神論計画」を今一度とらえ直し、次の段階へ(5)


石化現象(望夫石・動物石・植物石)


「望夫石の問題」と題された見出しがあるが、折口が何に問題意識を置いて論じようとしたのかはわからない。

前後の見出しの文脈から想像するに、鎮懐石の成女戒と人の石化現象に関連する内容だったのだろうか。

望夫石は、夫の帰りを待つ妻が石化したという伝承をもつ一群である。

望夫石の位置づけと評価については、金京欄氏の博士論文「夫のために石となる女たち―望夫石説話を中心に―」(2005年)に詳しい。


これは人が石化する流れであるが、一方で、石が人になるケースもすでに折口は触れている。
きわめてこの両者が相互にトランスな関係であることを証したいのではないか。


動物が石になる話について、「漂著石神論計画」ではかなり紙幅を割いている。

仏教の影響下において、過去生、未来生の概念を説明する手段として、岩石が動物の石化したものであると説かれること。

とりわけ犬と猪の石化(犬石)について事例紹介が続いた後に、これらが「常世の所属たらしめる為の洗礼には、石の形を経過せしめる」とまとめる。


他界(常世)の軸として、一つは空間軸(海の彼方)で、一つは時間軸(死後)があるということである。

動物が石になる、または石が動物になるという次元の行き来を「洗礼」という、これまでの論を踏まえた通過儀礼としての石の機能に帰結している。

一般に、石化現象は時間軸を超えた不変性で取り上げられるが、折口は石を「変わらない、動かない」という物質的なイメージに固執せず、「石は空間または時間の移動のために必要なもの」と位置付けている。

「漂著石神論計画」は石の研究史上ではすでに古典であるが、古典にしてその後しっかり研究が継承されていないという点において今なお新しい。


その他 補遺


■「岡となる。大丘――石」

類例を以下に列挙する。

神風の 伊勢の海の 大石(おほいし)にや(略)謡の意は、大きなる石を以て其の国見丘に喩ふ。(日本書紀)

舟二百隻を以て、石上山(いそのかみのやま)の石(いし)を積みて、流の順に控引き、宮の東の山に石を累ねて垣とす。時の人の謗りて曰はく、「狂心の渠。(略)石の山丘を作る。作る随に自づからに破れなむ」(日本書紀)

沈石(いかり)落ちし處は、即ち沈石丘と號け(播磨国風土記)

石を以て丘に喩える、石の山丘を作るなど、すでに奈良時代において石の大なるものが丘である心性が描かれている。


■「蚕の化成した、日女道丘」

播磨国風土記における沈石丘と同じ物語で、蚕子が落ちて日女道丘になったとある。

石と山との関係は、前段の「石の山丘」で極めてイコールに近い関係性であることが窺われる。


■「印南郡益気里斗形山あつて、石橋がある」

播磨国風土記の事例より引用。

石を以ちて斗と乎氣とを作れり。故、斗形山といふ。石の橋あり。傳へていへらく、上古の時、此の橋天に至り、八十人衆、上り下り往來ひき。故、八十橋といふ。(播磨国風土記)

上記のとおり、石が天地の懸け橋になっている。架け橋とは、言い換えれば、媒介である。
他界とこの世をつなぐ「石は空間または時間の移動のために必要なもの」の一例であり、折口が「動物以外の第二義式化成」と記すのは、人間、動植物に続いて、命のない無機物(斗・乎氣・橋)を二次的な派生と評価づけたものであろう。


■「よみの国へ行く巌窟」

出雲国風土記に代表される黄泉の穴であろう。

窟の内に穴あり。人、入ることを得ず。深き浅きを知らざるなり。夢に此の礒の窟の邊に至れば必ず死ぬ。故、俗人、古より今に至るまで、黄泉の坂・黄泉の穴と號く。(出雲国風土記)

主役は窟であり穴であるが、これまでの議論を元にすれば、岩石が「石は空間または時間の移動のために必要なもの」であり、時間軸としての死後の世界との越境・移動装置の事例だろう。越境・移動も空間的・時間的に成長することととらえられる。


折口が残した論点まとめ


・なぜ能登国に「像石」神社が固まっているのか

・なぜ越前国に「磐座」神社が固まっているのか

・神像石の立地は、歴史的変遷の違いを反映したものか

・神像石の形状に関する傾向

・よりつく神の本拠地は海か山か、往還か、当初から体系的なものか

・非言語領域である信仰を一言で説明しようとする「まとめ行為」の危険性

・なぜ小さい石への眼差しは継承されにくいのか

・巨石に熱中するという現在の現象の研究

・中近世の宗教喧伝者出現以前の岩石の伝説が、現在残る内容とは異なっていた可能性

・あらゆる用途に汎化できてしまう石をどのように論ずるか

・水と石の関係、海と山をつなぐ川の立地の位置づけ

・可動的な石の処遇。特に、生産地点でもあり使用跡でもある資料について

・「石の保管者」によって、本当に石が育つ場合と育たない場合に分かれるのか

・物質的世界観においても、モノ世界観下においても、なぜ石が選ばれたのかという問題

・玉と石の関係、玉と水の関係

・玉は変化しないものの象徴か、変化する石の心性とは相容れない存在か

・鎮懐石を、鎮魂の信仰だけでなく、成長石や移動する石の視点でとらえなおす是非

・神、または神の入れ物のいずれでもなかった道具や痕跡としての石が、後世に神としてふるまうようになる問題

・人や動植物が石化する流れと、石が人や動植物になる流れの関係

・石の移動性における、時間軸と空間軸の関係


折口が気づかせてくれたこれらのテーマを次の段階へ進めるために、誰の目にも公開された状態での資料の整理が求められるだろう。


2021年1月4日月曜日

折口信夫の「漂著石神論計画」を今一度とらえ直し、次の段階へ(4)


「やぼさ/やぶさ」と「より神」


ここでしばらく「やぼさ」の話が続く。

「やぼさ」は寡聞にして知らなかったので調べてみた。「やぶさ」で知られる民俗信仰の一つらしい。

ヤブサは八房八大竜王の八房で、天台系山伏によって伝導された神で、家や同族の神から地域神として祀られるにしたがい、祟る性格を弱め、豊作や病気除けの神ともなったという説もある。ヤブサを戦の神で八幡太郎を祀ったものともいい、元来御霊で祟る神を宗教者が祀り上げ、鎮守となった藪神も多い。藪とは制御されざる裏側の領域だが、物事が転換され、新たに物が生み出される豊かな領域でもある。したがって、藪神は得体の知れない見えざるものを形にあらわした神といえる。(飯島吉晴「藪神」桜井徳太郎編『民間信仰辞典』東京堂出版、1980年)

中国、四国、九州西部に分布する神で、藪神(やぶかみ)として一括されるような存在だが、藪だけの性格ではなく、他の信仰との集合性はかなり高いようである。

だから折口が対馬・壱岐の例で「やぶさ」を語ろうとしたのだろうし、それを「より処」「より神」の文脈で取り上げたのだろう。

藪の性質が「得体の知れない見えざるものを形にあらわした」信仰にあるという点においても、より神としては絶好の対象物だったと思われる。

「鬼塚」「建て物」「巫女の憑り神」「盲僧の役神」「陰陽師」が例示されているのを見ると、このあたりは石との関連というよりも「依る、寄る」ことを中心に検討した部分だと言えよう。


鎮懐石を「変化する存在」として見る


鎮懐石は、神功皇后が陣痛を鎮めた霊石である。

記、紀、そして各国の風土記、万葉集に登場するという点でも、奈良時代当時すでに名高い物語体系だったことは想像に難くない。

折口は鎮懐石について「鎮懐は、鎮魂の一方面であること」と述べており、同感である。
また、鎮懐石について信仰の視点から触れられるとき、ほとんどの場合鎮めの霊性で説明されることに異はないだろう。

折口はそこに「石数増殖」「石成長」の論点を加えようとしているところが興味深い。

たしかに、記紀では個数が記載されておらず、単体の石だった可能性もある鎮懐石が、筑紫国風土記、筑前国風土記、万葉集では鎮懐石が2個と明記され、さらに後世に下る『太宰管内志』収録の鎮懐石伝説では鎮懐石が3個に割れたことになる。

つまり、後代に下るほど、鎮懐石の個数が増殖ないしは分裂していくのである。

さらに、鎮懐石を遺存する場所は現在各地に残り、子負の原、壱岐の鎮懐石はその一部である。

これを成長石の観点から述べることはたしかに可能である。
従来、後代に伝説が散らばって乱立するという批判的な評価にとどめず、石自体に分裂性や増殖性が許されるという知見を与えてくれる。

そして、折口がしばしば重視する「移動」の視点である。

地域を越えて複数に鎮懐石が散在することを「鎮懐石が他処より来る事」と評価することで、これも後世の付会で片づけず、鎮懐石がどこかからどこかへ移動するという霊石の移動性の論理に組み込むことができるのである。

この論理は、他界から移動し、依りつく神の構図と同じである。

鎮懐石は元来呪具であり、しかも、数世紀後にはそれは神功皇后の聖跡として転化していた。聖なる存在の保管した石というところに、石の成長性が芽生えたのかもしれない。

その聖なる痕跡が、移動する霊を可視化したかの如く別の場所へ移動して、複数に散布するのである。聖跡が、人格化した神と同義になったということである。

これを踏まえれば、依りつく神の神体石だけでなく、もともと祭祀の道具や装置として用意された岩石も、人間と同じように成長し、移動する「変化する存在」たりえたことが説明づけられるのである。


漂著石神論計画の34~44まで進んだので、続きはまた別記事で行いたい。


2021年1月3日日曜日

折口信夫の「漂著石神論計画」を今一度とらえ直し、次の段階へ(3)


石の育て主


「人にとられると同時に、大きくなる。育て主を待つ。之が極ると、急に大きくなる。」

折口がまとめた「石の育て主」の具体的事例の再検討が必要である。

石を保管する人によって、石が大きくなったりならなくなったりするということを「石を育てる」という表現で説明するわけだが、大きくなる育て主として「翁」と「少女、後、夫婦」が挙げられている。

それと一方で、小さいままの「石の保管者」もいるらしい。
これら両例の収集と、折口のこの指摘が例外のない正確な指摘であるか再調査が必要に思うが、網羅的な研究にまだたどりついていない。


有勢な育み人は、少彦名と天日矛の二例だけメモされており、この二例の追跡は可能である。

少彦名と石の関係は古事記の「常世に坐す 石立たす 少名御神」でよく知られており、それが「つき物」としての石であることは論を俟たないが、この石の有勢な育み人は誰かというと明示されていないのと、この石は育ったのかというとよくわからない。

天日矛の石とは、古事記の天日矛伝承に登場する赤玉だろう。
賎しい女が生んだ玉が、賎しい男の手を経由して天日矛の手に渡ると、美女に変じて天日矛の妻となった。

今回の折口の文脈で考えると、石の保管者によって石が人に変じ、それが貴賤や美醜のコントラストで描かれていることが重要なテーマとなってくるが、この伝承は神話学の分野においては日光感精型・卵生型といった類型で取り上げられることがある。

堂野前彰子氏「神話としての『一夜孕み』」(『古代学研究所紀要』特別号、2009年)は本伝承の諸研究をふりかえり、女人が石を孕む現象はしばしば神の意思を示すものであり、神婚のモチーフとも言えることから、その結果生まれた石は神体石にもなりうる霊石となったと論じている。

だから少彦名の石と同列に「つき物」「より石」としてまとめることもできるが、石が人になるわけではないという物質的世界観はもちろん、おそらく石と人がボーダーレスで同次元にいる「モノ」同士であったモノ世界観下だったとしても、なぜ石が選ばれたのかという問題は結局追究できていない。


「玉」論


24~33の見出しは、玉の話が続く。

玉が登場する歌には、魂関係の玉と、より来る玉に分かれる。

玉は石か、貝かという問い。

装身具以外の玉の存在。

海祇の玉(海神の玉)、玉が大きくなること、玉が代々受け継がれ、玉が増殖していくこと。

玉は魂であり、玉を授受することは魂を預け、動かす行為となること。

このあたりは諸々の玉の研究があるのでいまさら言えることはない。
椙山林継氏は「玉と魂―石製品の祭り―」(『日本の信仰遺跡』奈良国立文化財研究所、1998年)の中で、考古学における玉類や石製品の使われかたを検討した結果、玉を含めた石の古墳時代は「石によって作られた永久性、変化のない世界」であり、「別な世界、死後の世界での道具、それは神の世界に共通する道具である」と論じた。

玉が、一度そこに封じ込めたものを変化しないまま後世へ世襲し、人の生死に関わる道具となりえたことを補強する情報と言えるだろう。


玉の異種として「玉がしは」(玉柏/玉堅磐)が登場する。
「玉がしは」は下の記事に詳しい。

遠州公の愛した茶入「玉柏」

歌のモチーフである「玉がしは」は海岸の藻に埋もれた岩であり、ここであらためて水と石の関係が浮上する。
「玉がしは」は自然の岩であり、その岩の表現に「玉」を冠するところに、玉と石の親和性あるいはボーダーレスの関係が出てくるわけで、そこに折口が付け足した「玉を盃に入れること」という一文と「玉よる磯」というキーワードが際立ってくる。


漂著石神論計画の21~33まで進んだので、続きはまた別記事で行いたい。


2021年1月2日土曜日

折口信夫の「漂著石神論計画」を今一度とらえ直し、次の段階へ(2)


石の大きさと、石の出現と


「石つぶて」~「大石」の見出しについては、それ自体が石の大小に関わらず石神論が成り立つことを示している。

それはそのまま、巨石信仰というカテゴライズへの痛切な批判に使うこともできなくないが、巨石に熱中するという現在の現象は一つの石愛研究になりうるし、研究史で追う限りでは現在と過去の研究者の温度差を感じ、なぜ小さい石への眼差しが継承されなかったのかという問題に思いをいたすのである。

折口の問題意識は石の大小にはなく、いわゆる「大石」「生石」が同じ「おひし」の音をもち、その起源について生石のほうに一票入れているようである。

「一夜、忽然出現」「石を以てする神出現の証――地蔵」「石出現の夜の行事」のくだりはそうした折口の論理を補強するところであり、石が現れる出現石伝承や石が大きくなる成長石伝承は、石が漂着神の装置的な側面だけでなく、神が出で入るものだからこそ、その装置も物からモノ化して石自体に霊性が分与・伝存したという見方なのだろうと推察する。石の分霊観もその文脈で語ることができる。


「石の旅行性」「石の人による旅行」もモノ化の証左だろう。

旅行性は神や霊の移動にもなぞらえられ、石が人のようにふるまうことの一つである。
なぜ石が人のようにふるまうか、これは後年、石上堅が『石の伝説』(雪華社、1963年)で次のとおり評価づけている。

「まるで石が人間のように動いているように語られることで、どんな人にでもすぐ理解ができるように話作りがされているということを石上は指摘する。石自体が身近に存在する素材の一つであり、そのような身近な石をなでたり抱いたりすることで願いが叶うと信じること、あるいは小石を生んだり音声を発したりする石を信仰の対象とすることは、小難しい宗教知識を持たない庶民の間でもすぐ受容されたというのである」(拙著『岩石を信仰していた日本人―石神・磐座・磐境・奇岩・巨石と呼ばれるものの研究―』遊タイム出版、2011年)

石上堅の論に従えば、中近世に登場した遊行者・座頭・巫女などの宗教喧伝者出現以前の岩石の伝説というものは、現在伝わっている内容とはまた色を異にするものだったのかもしれないと想像される。

やはり、現在残る民俗例だけを見ることの危険性と、言語化された資料の扱いの危険性が歴史的な文脈からも指摘できるのである。


石の洗礼―成年戒と印地打ち―


「石の洗礼」は、石の旅行性の見出し群の中に挿入されるくだりで、その後世の関連性を読み取るのは難しいが、成年戒と印地打ちの二つのキーワードから想像を広げてみる。

「成年戒」は、その言葉のとおり成人になるためにしないといけない通過儀礼のことを指す。

「印地打ち」は、正月や端午の節句に子どもや若者が石を投げ合う「石合戦」の行事を指す。

首藤美香子氏「『こどもの日』の社会史試論」(『白梅学園大学・短期大学紀要』49、2013年)では、印地打ちについて次のとおり説明している。

「節句に石合戦をすることの意味をめぐっては諸説あり、『水辺における成人戒』『殺伐なる年占法』『地を印して境を競うた』などとされるが、たとえば、礫にあたるのは霊性を受け邪気を祓い清めることであり、礫を投げる行為は破邪の行為であるからこそ、石投げにより男児が息災を約束されたのではないかという解釈も出されている」

礫のことを印地というので、折口漂著石神論計画の「石つぶて」と通じ合う。

このように、石の洗礼は成年通過儀礼の事例をとおして語られているが、これだけでもいくつかの論点を挙げることが可能だ。

  • 石の万能性…石を力の象徴として語ることも、石占として用いることも、境を決める石として用いることもできる。汎化してしまう石をどのように論じるべきか。
  • 水と石の関係…水辺で石合戦をして、河原の石の中で儀式が行われることの価値。山と海をつなぐ場所が川辺でもあり、他界の神の依りつく地点(石の旅行性)としての位置づけも可能。
  • 可動的な石の処遇…印地打ちで用いられる石礫は、いわゆる不可動的な岩ではなく、道具としての小石である。そして、その礫は投げられ、使われたあとに儀礼道具としての機能を終える。生産地点でもあり、使用跡でもあるという印地打ちの石の特異性。


漂著石神論計画の11~20まで進んだので、続きはまた別記事で行いたい。


2021年1月1日金曜日

折口信夫の「漂著石神論計画」を今一度とらえ直し、次の段階へ(1)


はじめに(漂著石神論計画の概要)


折口信夫の「漂著石神論計画」という論考がある。
(『民俗学』第1巻第1号、1929年発表 ※漂著は漂着)

「論考」と紹介したが、論文のイメージで読むと面食らう作品かもしれない。

著作権保護期間が過ぎ、全文が青空文庫やAmazon Kindleなどにも公開されているので、未見の方は以下リンクをご覧いただきたい。

「折口信夫 漂著石神論計画」(青空文庫)
https://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/46960_26571.html


「計画」というタイトルのとおり、折口の頭の中のアイデアがそのままキーワードだけ見出し化されている。

本人の中での構想が色々あっただろうことは窺われるが、その後、この計画の後身にあたる論文というのは特に出なかった。

読者からすると断片的なメモのまま今に至っているわけだが、小池淳一氏は「折口民俗学の可能性:『古代研究』前後を中心として」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第34集、1991年)において次のとおり研究史的な位置付けをおこなっている。

「形式が整っていようとも、抽象化に成功しなかったものは論文ではない。ここで抽象化という言葉では必ずしも正鵠を得ていないかもしれない。仮にそう呼んでおく。これに成功したものは、たとえ『小栗判官論の計画』や『漂着石神論計画』のような箇条書きでも論文として、認められるのだ。『古代研究』の成立とは、そうした折ロの民俗学の成立と限界とを示したものに他ならない。これを民俗学と呼ぶことは、現在では躊躇しなければならないだろう。」

折口の融通無礙かつ深遠な知識に対して何かをものすることは極めて難しいが、触らぬものに祟りなしの気持ちで放置するのはもっと悪い。

折口を超克するというよりも、折口の残した論点を改めて読んでみることで、今後の研究の方向性のヒントが散らばっていないか、という気持ちのほうが強い。私なりの「漂著石神論計画」のとらえ直しを試みてみたい。


「神像石」「像石」論


漂著石の第一として、折口は「諸国海岸に、古代より神像石の存在した事実」「神像石の種類」「神像石の様態」について言及している。

神像石はカムカタイシで、有名なのは『延喜式』神名帳に記載された「能登国能登郡 宿那彦神像石神社」「能登国羽咋郡 大穴持像石神社」の二社の存在だろう。
「神像石」と「像石」の細かな違いはあるが、一般には同義語として一括される(大場磐雄氏「日本上代の巨石崇拝」『歴史公論』第6巻第8号、1937年)。

なぜ能登国に「像石」神社が固まっているのかも解決されていないテーマの一つだが(類似したテーマに、同神名帳の越前国に磐座神社が四社記載されている問題もある)、宿那彦神像石神社と大穴持像石神社の二社の共通点は海辺に鎮座していたと想定されることである。

大穴持像石神社の像石とされる「地震石」(石川県羽咋市)

折口が「諸国海岸に、古代より神像石の存在した事実」と記したのはこの辺りの事例を念頭に置いてであろう。

神像石の分類が面白い。

「a.定期或は、臨時に出現するもの」と「b.常在するもの」の二種類に大きく分けて、a類型は立地の傾向を明記していないが、b類型は「海岸」「海岸から稍隔つた地」「海中の島又は、岩礁」のイ・ロ・ハに細別している。

イ・ロ・ハの立地の違いについて折口は「イ・ロ・ハは、海岸に出現する形が、最、普通であり、正確なものである。此が、浜を遠ざかる程、村の生活が、山手に移つた事を示す。ロ・ハは、遥拝信仰発達の一過程であるが、其多くは、神幸の儀式を行ふ前の、足だまりとなる地点であつた。」と、立地がそれぞれ歴史的年代を反映するものと推測している。

折口は、基本は海との関わりで神像石を考えていた様子が窺われる。自身が大事にしていた海からの漂着神――ヨリガミ信仰の文脈で神像石を位置づけようとしていた。

だから、神像石は「依るべき対象」であり、神の本体は海の彼方に求められるという神観である。

神像石の様態を「a.唯の石であるもの」「b.神の姿を、想見せしめる程度のもの」の二形態に分けているのも、折口が神像石の形状について、いわゆる仏像に対する神像という言葉の響きから想像される「神を模した形の写実的な石像」ではなく、けっして神の写実的な象徴を石に求める必然性はなかったことをあらわしている。

この折口の論においては、海に対する山の他界観は一切想定されていない。
現実としては、神宿る場所は陸地であり、しばしば山に接した立地や山中と言っても良い場所に祀り場が形成される場合がある。

海から来る神が山へ至り往還するという観念も指摘されるが、海が元で山が後なのかという先後関係の疑問が残るのと同様に、この二つの世界が最初から体系づけられて成立した世界観なのか、元は別々の体系が後世続けられたものなのかなど、神の本拠地が海か山かという問題はまだ解決されていないところが多い。


石神の種類にくるめられるもの


神像石は、その漢字の響きから石神の一種としてくるめられている。

そしてそこを出発点として、漂著石神論計画では「夷御前の腰掛け石の唄」から腰掛石も石神の一つ、腰掛石がしばしば神幸の場であることから影向石の一例として紐つけられていくことや、「五郎投げ石・力持ち石」の見出しから力石も石神に収斂されていく。

石の神というより、私が使っている岩石信仰の用語に近い感覚で石神の語が扱われていると考えたほうが良いが、折口はそれら石神をさらに漂着神の文脈で統合化していった。


実際のところは、折口の使うこれらの石神と、いわゆる大場磐雄氏以降現在にいたる石神とは、その概念に細かな差異があることに注意したい。

大場氏は代表的論文「磐座・磐境等の考古学的考察」(『考古学雑誌』32-8、1942年)の中で、石神のほかに磐座・磐境の古語の存在を併記し、これら三つの語義が同一ではなく、神と岩石の関わり方では異なる意味を持つから異なる語としてあることを指摘した。

岩石信仰の種類と見分けかた~石神・磐座・磐境・奇岩・巨石の世界~

念のため申し添えておくと、大場氏は石神と磐座が実際の事例では混合しており、どちらか一方に切り分けることができないものが多いことも付記していたので、実際の事例は明確に石神・磐座・磐境の3種類に分かれるわけではないが、これと語義あるいは言葉の背景にあった神観念が3種類に分かれない、ということを示すわけではない。

現在私たちが見ている事例の背後には文字と言葉があり、文字と言葉の背後には言語化できない心的世界があるからだ。

目の前の岩石を見て、それに神を観じたという一言をもっても、それは神そのものが石なのか、石の中に神を見たのか、石の中に神は見ていないけれど神に近いものを感じ、神の関係物としてふさわしいとみなし、別の他界が本拠地である神を寄らせるものとして石を扱ったのか。
これらすべて神を観じたという一言で説明でき、神の象徴物という言葉でも表現でき、石の信仰という一言でまとめることもできる。

私から言わせると、こういった一言で何かを説明した「まとめ行為」こそ、人々の心的世界を単純化してしまう「誤解」の始まりかと思う。

私は収斂化していく方ではなく、むしろ埴輪の工人一人一人の癖のごとく個人に行き着くような「石神論」の段階へ進んでいきたいし、そのような岩石信仰の研究が今後なされていってほしいと願っている。


およそ漂著石神論計画の1~10まで触れながらここまで進んだ。
先はまだまだということで、続きはまた別記事で取り上げたい。


2020年12月22日火曜日

私が考古学で学んだこと。そして、考古学と違う道に進んだ理由(長野県宮崎遺跡の発掘の思い出から)

私が大学時代、水平測量を勉強していた時にまとめたノート(ガン見禁止)

学生が感じた考古学の世界


私は大学生時代、考古学のゼミに所属していて、そのときに考古学的な考えのイロハに触れることができた。

院にも進んでいないので、学部生で私が学んだことは"なんちゃって"考古学の次元だったことは間違いない。
そして今は考古学から離れたことをしているが、考古学が大事にしている客観性の担保のしかたや、資料に即して過去を考える手続き方法は、私にとっての思考のベースを形作っている。


大学3年生の時、私は学芸員過程の一環で長野県長野市の宮崎遺跡へ行き、発掘調査を中心とする諸作業に従事した。
2003年8月~9月の約1ヶ月間のことだった。長野市とは言っても、周りは山と田畑の中で合宿形式。たいした娯楽もなく、みんなで自活しながら発掘に従事した経験は修行のような趣があり、今も印象深い。

発掘調査の後、指導教授に提出したレポートがふと出てきて、読んでみたら、考古学調査に対する自分なりの総括というか率直な思いが書いてあって懐かしく感じた。
考古学の世界の入口部分を綴っているだけだが、リアルはリアルである。考古学のイメージがおぼろげな一般の方や、いま考古学に携わっている大学生にも響く部分があるかもしれないと思って、当時のレポートを元にして当時をふりかえってみたい。


宮崎遺跡の基礎知識


私が発掘に参加した宮崎遺跡は、当時、母校の立命館大学が長期的に調査していた縄文時代の遺跡である。基本的に住居跡から構成される集落遺跡だが、配石遺構などおそらく葬送に関わる遺構も見つかり、私が参加したとき、幸運にも配石遺構の一部を調査担当することができた。

測量、発掘、遺物の整理、そして図面作成など一通りさせていただいた記憶があるが、当時の調査成果は最終的に報告書になったのかなと今検索してみたら、立命館大学が宮崎遺跡の報告書を刊行したのは2000年が最後で、私が参加した2003年以降の調査結果は報告書としてはまだ公にされていないようである。

→「刊行物 ― 立命館大学 考古学・文化遺産専攻ホームページ」より

発掘調査が報告書化されていない遺跡が全国に山積しているのは、考古学が抱える一つの病と言っていい。
講義で学んだ考古学の社会還元活動が理念通り働いていない!ピュアな学部生時代、考古学に幻滅する一つの現実だった。


調査のための準備・撤収作業 編


1ヶ月の調査期間というが、なにも発掘をひたすらするのが考古学ではない。
まず、掘る前にすることと、掘った後にすることがある。これが大変地味であるが、考古学のリアルであり、けっこうな時間とエネルギーを費やすので、レポートの最初に紹介しておこう。

大学から宿舎まで、調査に必要な機材・道具を運び出す。一行で書くと簡単だが、機材が正常に動くかを確かめてから積むし、精密機械もあるので、積む順番などにも流儀がある。もちろんのこと、積み漏れがあってはならない。
このあたりが、すでにベテランの院生を中心にしてやりかたが確立されており、それを組織として系統立てて一人一人分担して作業するわけである。

次に、1ヶ月泊まる宿舎は、いわゆる空き家を借りるというものだったので、まず人が住める状態にする必要があった。大がかりな引っ越しのようなものである。
この宿舎で、係を決めて、食事作りや洗濯(二層式を触ったのは後にも先にもこの時だけ)、掃除などをみんなで持ち回りでやるわけである。

なお、この調査は考古学ゼミ以外にも、学芸員資格を取るために考古学に関係ない学生も参加する。
いわゆる烏合の衆状態のところからコミュニケーションをとっていくわけである。しかも、ゼミ以外の人は短くて1週間で帰り、また新しい人が来るので、仲良くなりそうな頃にはお別れという状態でもあった。

私は合宿中、米大臣として一部で名を馳せた。
何十人の米飯を用意するので、合ではなく升の世界である。ガス釜で焚くので、水加減を間違えるとぺちゃぺちゃするか焦げまくる。感覚的にしていただけだが、私はなぜかその調整がうまいほうで重宝された。今でも米の焚き方にちょっとうるさいのは、このときの経験と自負から来ている。

とはいえ、即席の素人たちが質素な食材で飯をつくるので、全体的に一人当たりの食事量は少なく、発掘に費やすカロリーを考えると半飢餓状態だったように思う。
料理のうまい他学部の学生が1週間だけ来ていて、その子が工夫して作ったコンポートが最高においしかった。今思い出しても、あそこがこの合宿生活のピークだと思う。


さて、遺跡の話に移ろう。

現場に到着すると、まず遺跡は、遺跡のまま露出しているわけではない。ただの土の地面になっているわけでもない。

遺跡地一面には、腰以上の高さに草木が繁茂していた。これを刈り取るということから人海戦術で始めないといけなかった。最初の1日目はこの草刈りに費やされる。

草木の草刈が終ったら、次は地面に、過去の発掘調査のときに作られた、おびただしい量の土のうを運び出す作業が待っていた。
みんなでバケツリレー方式になって、途方もない量の土のうが回ってくる。水を含んだ土のうは大変重い。石が出っ張った土のうには気をつけなければならない。土のうの大きさもけっこう異なるので、重さが予想と異なるときもある。私は典型的な文化系人間なので、このエンドレスにも感じた作業には閉口した。

でも、草刈と土のう運び出し作業を行うというこの初日は、まさに考古学の本道そのものである。その後1ヶ月続く調査の大変さに耐えることができた気すらする。

なお、撤収時には逆に、土のうを掘った遺跡地を保護するために敷き詰める作業が待っている。

準備・撤収のそれぞれに言えることとしては、つくづく考古学調査というのは地道な裏方的作業があってこそ成り立つということである。

考古学者という人は、派手な発見を楽しむ探検家ではなく、こういった地道な作業をこなす人であり、忍耐力、生活力、そして組織内でのチームワークなど、人間性が大きく左右する仕事であることを体感したのである。


その後、私が宮崎遺跡で行なった作業は大きく2つあった。
1つは遺跡での発掘調査であり、もう1つは宿舎で行なっていた土壌水洗作業である。まずは発掘作業の方からふりかえろう。


「SX10」の遺構調査 編


約10日間、遺跡の北部にある「SX10」と呼ばれる遺構の調査を任せていただいた。

SXというのは考古学特有の遺構番号で、SKなら土坑とか、SDなら溝とか、だいたい慣習的に決まっている記号があった。SXのXは「不明」遺構の意味が込められていたのだろう。
何らかの遺構ではあるが、何の生活痕跡なのかはまだ特定できていなかったからという意味合いで名づけられた。

この遺構の最初から最後までを担当した訳ではなく、SX10一帯の掘り下げ作業からSX10の半掘までを担当しただけであるが、大学生の私はその時に「土の色」に悪戦苦闘していた。


最初に指示を受けたのは、北部遺構を覆っている黒色土層を全体的に掘り下げ、その下にある茶色土層を出すように、とのことだった。
最初その指示を聞いたとき、それによって何がわかるのかということもわからなかった。

後日談から言えば、茶色土層が当時の遺構面であり、その土層と黒色土層との境目を明確にすることで、遺構の範囲を明らかにするということだった。
しかしそれがわかった後も、問題は残った。

茶色土層と黒色土層の違いを見極めるのに、正直自信がなかったのである。

最初の頃は、土の色の微妙な違いを見極めることに自信がなく、これは茶色なのか、これはまだ黒色なのかという迷いを正直持っていた。

原因の一つは、掘っていったときに出る土と、まだ掘っていない土が混ざり合うので、茶色と黒色の中間的な土色が出てきてしまうという点にあった。
そこで、少し掘ったら、定期的に地面の清掃をするのだが、それでも土の色が分かりにくい箇所がいくつもあった。

この解決法は、万人共通のものはないらしいということを知った。

先輩の院生の方々は堂々と地層の分かれ目を記していくわけだが、私には見分けられないので、さながら心霊写真の鑑定状態である。

近しい知り合いに、色弱かはわからないが、色の見分けが昔から弱いと自虐している後輩がいた。私も色弱の傾向があるのかなと思ったが、いわゆる色認識の診断は正常内である。

客観的と言われる考古学において、この地層の識別は、私には時に主観的に映る瞬間がって、一言でいえば考古学的ではないと不快だった記憶がある。

まあ、今思えばそれは単に自分の経験不足によるもので、やはり掘った土を定期的に実に入れ、発掘面をきれいにしながら掘っていくという基本ルールを遵守していくのが最適なのだろうという結論に落ち着いている。


その後、私はSX10の完掘には立ち会っていない。後で聞いた話によると、最終的には半掘で終了したらしいが。

その代わり行った作業として、SX10を掘り下げていく中で出てきた遺物群や、遺構にそのまま置いておけず、取り上げざるを得なかった石群を図面上に記すという記録作成のほうを手伝った。

出てきた遺物では、骨・炭化物・赤色顔料がとにかく目立っていた印象がある。
炭化物は、最初に見たときは骨に伴う生物の炭化物なのではないか、と思っていたりしたが、繊維質を持つ炭化物などが多かったためこれは植物の炭化物だと先輩からの所見もいただき、認識を修正した。

骨も人骨ではないようで、SX10は調査の途中から墓所と推測されていたが、その割には埋葬の直接的物証になるものが目立たないのが疑問の一つだった。

他にSX10で抱いた疑問としては、赤色顔料と石の風化した赤っぽい粉末を見分けることが難しかった。このあたりは、最後までベテランの方に判断をお願いしないと自信がない状態だった。

ほかには、考古学の水糸測量の方法や、図面における石の表し方を学ぶことができたのは得難い経験だった。そして、これらの知識は次に担当することになる「SX3」の調査で役に立つことになる。


「SX3」の遺構調査 編


宮崎遺跡では、発掘調査の終盤に現地説明会を開催した。
その説明会の直前まで、数日間参加していたのが「SX3」と呼ばれる遺構の調査だ。

SX3からは配石遺構が見つかっており、この配石遺構の下に何があるのかを確かめるため、東西と南北に断ち割りの発掘面を入れるという調査をしていた。
この調査の途中から私は参加し、東西の断ち割りが入れられ、相当部分掘り下げられた状態からのスタートだった。しかし、このSX3は最後まで発掘に立ち会うことができて、一つの遺構の最終的な姿を見届けることができたことを私は当時かなり喜んだようである(レポートを読む限り)。


途中参加ということもあるが、SX3の土層観察はSX10に輪をかけて難しかった。
SX3の場合は、層ごとではっきりと土の色が違う訳でもなく、むしろ土質(砂っぽいか、粘着質なのかといったところ)での見極めがポイントになっていたからだ。

すでに、過去の調査で一度実測されていた上部配石遺構の図面をトレースした上で、東西・南北の断ち割り図面(平面図・断面図)を作成する担当になった。

SX10で学んだ技術・知識を、SX3で馴染ませるという成長機会だった。
ただし、土層観察は自分に見極めることができなかったため、自信がない者がてきとうに判断することは歴史の棄損につながると思い、断面図の土層観察からは身を引くことにした。
土の色だけではなく、土質もしっかり考慮に入れなければならないと気づいただけでも収穫だった。


さて、SX3も配石遺構=墓所?と推測されていたが、地表下に墓所を示す明確な遺構が検出できなかったため、最終的にはその性格に不明な部分が多く残す遺構となった。

たしかに、掘り下げをしていた私の実感としても、出土した遺物はほとんどなく土器片が1点だった。
埋葬面ではないかと唯一指摘された地表直下のふわふわっとした黒色土層は、人が埋まるほどの分厚さがない薄い層だった。


SX3の周辺には、実は墓地遺構が密集していた。その中で、この遺構だけが墓所ではないというのはおかしい話かもしれない。周囲が墓地であるという状況証拠からSX3も墓所とみなす考え方もあるかもしれない。

しかし、SX3の配石遺構は(他に類例はあるようだが)遺跡内のほかの配石遺構とは似つかわしくない形態をしていて、いわゆる特異な配石だったことがその消極的な解釈を妨げた。

自分が携わった遺構として、今も解釈の行方が気になる存在ではある。


土壌水洗作業 編


さて、これまでは遺跡の現場作業について触れてきたが、今回の調査でもう1つ大きな比重を占めたのが土壌水洗作業だった。

遺跡から採集してきた土を土嚢に詰め、その土のうを3mmメッシュの網の上で水洗することで、3mm以上のものだけが残り、微細遺物が検出できるという仕組みである。

私はこの水洗土のうの台帳管理役だった。
水洗された籠の把握には人一倍専念する必要があった。

管理役=班長だったので、実はあまり土壌水洗自体は行なっていない。1ヶ月間の調査期間で3回ほどしか洗っていない。
基本的には、土のう袋からバケツに土を空け、溶かし、水洗している人に運び、水洗済みの籠を日当たりの良い場所で干し、廃土を新たに土のうに仕上げる、そして台帳にその日の水洗土のうを記録するという作業を行なっていた。

これも、考古学の極めて裏方に回る作業の一つだ。地味オブ地味の上に、1冊の調査報告書ができあがるというわけだ。
(結局刊行されていないけど…)


私が考古学で学んだことと違う道に進んだ理由


宮崎遺跡での1ヶ月の調査の思い出をふりかえってみた。
あ、考古学は学部卒業したらもうやめよう、と決意したのは、何を隠そうこの発掘調査から帰ってきてだった。

調査を通して私が得たものとは何だったのだろう。
考古学的知識や技術の点で絞るならば、SX10やSX3で得た遺構実測の方法がテクニカルな面での一番の収穫だっただろう。

しかし、こうした細かな考古学的技術の習得は陳腐化する。現に、15年以上たった今、私はもう水糸測量はできないだろうし、もっと基礎的な平板測量の理論ですら忘れかけている。

それだけでなく、考古学の調査方法自体も、時代に合わせて進化しているはずである。具体的な知識はアップデートされ、陳腐化するのである。
昔取った杵柄は、あくまでも昔取った杵柄。そのスキル自体はいま誇るものではない。
そもそも、考古学調査は一人ではできず、組織や団体の中に身を置いて初めて発揮できるスキルとも言える。


スキルよりは大事なのは、時代が変わってもゆるがない、考古学的な考え方や理論的な枠組みにあるだろう。
それは何かと書いていくとキリがないが、冒頭にも書いたとおり「資料第一主義」「事実と主観は分ける」といった、過去という異質な存在に対してどのように対峙するかという姿勢は、考古学に大いに訓練させてもらった自負がある。

私はこのブログのタイトルどおり、岩石に関する祭祀・信仰の研究をしているので、資料は目に見えない世界であることが多いし、主観が容易く入り混じる危険な世界である。
当時の指導教授からは、いかがわしい研究をしていると茶化されたものである。

でも、そういっている教授も、古墳葬送儀礼の研究をしていた。
葬送儀礼も祭祀儀礼の範疇と考えるならば、同じ危険性をはらんでいるのにと内心思ったものだが、そこは年季の違い。祭祀・信仰に手を出せるのはベテラン研究者レベルで、学部生がおいそれと手を出すテーマではなかったのも今ならわかる。
(でも、興味が湧いて解明したいと思ったテーマがそれだったのでしかたないよね)


そんな私にとって、生の祭祀・葬送に関わる遺構に触れ、かつ、それが配石遺構だったというのは、間違いなく貴重な経験だった。
しかも、墓所といわれる地区のなか、結局、目的不明と言わざるを得ない配石遺構を担当できたことは、自分の研究の参考にも役立った。
過去に対して安易な推定を施さない、わからないものはわからないままにする、事実を記録するにとどめて後世に委ねるという考えかたを地で行く遺構だった。

祭祀を研究する場合、祭祀行為の解釈を行なわなければならない。そのためには時代・地域を選ばず、色んな祭祀のありかたを頭に入れておかないと、自分の中での解釈の幅が広がらない。
私は大学生当時、古墳時代を専門にしていたので縄文時代遺跡は専門外だったわけだが、それでも今回の宮崎遺跡の調査は、自分の解釈の幅を広げ、かつ、広げたままにする良い機会になった。


また、宮崎遺跡の調査の最初から最後までいたことも大きな収穫だったように思う。
これによって、遺跡を掘り出し、現地説明会を開き、再び埋めるという一連の流れがわかり、組織の一端として身を持ってその大変さを体感することもできた。考古学で培われる人間性と言ってもいいかもしれない。

考古学の人間性教育の効果というものは間違いなくあるが、地道・忍耐の世界には、特に人間関係において閉鎖的な一面もある。あくまでも私がいた時の研究室やゼミの話という但し書きをしておくが、私に限らず多くの学部生がそういった閉鎖性を見て、考古学から足を洗う一因になっていただろうと思う。
考古学という一つの専門職の世界なので、職人徒弟のメリットでもありデメリットでもあるのだと思うが、思考放棄の部分も多かった。これはある意味、人間性教育の逆であり、反面教師だった。


私が大学で考古学を専攻した理由は、日本の岩石信仰の歴史を考古学的に追究することができないかという問題意識で始めたものだった。

実際に考古学の世界に身を置いてみて、学部生としての狭い視野の中と自分の能力の限界から、やがて私は考古学のアプローチで目に見えない心理世界である岩石信仰を研究していくことは難しいと感じた。
さらに、自分がしている岩石信仰の研究というものは、大学などの専門機関に身を置かなくても、個人で研究できうるテーマであることにも気づいた。
これは、私なりに導いた方法論的な限界で、前向きな気持ちで考古学以外のアプローチを模索するきっかけになった。


一方で、大学で岩石信仰の教えを乞う師に恵まれなかったという、単純に縁や巡りあわせの問題から、考古学での学びに限界を感じた部分もあった。
師がいない組織で研究をしていてもしかたない。院進学に興味が持てなかった理由の一つである。

そこに加わって、閉鎖的な人間関係をけっこう見せつけられるわけである(今は知らないです。当時)。人間関係だけでなく、博士課程まで進んでその先の進路が…な先輩やOBもいるわけで。これは文系ポスドク共通の日本社会のねじれなのだけれど、こういった要素が加わってきて、だんだん大学院での生活スタイルや、考古学業界での仕事に魅力が持てなくなっていったのも正直あった。

そして、自分もそんな閉鎖的な人間の一員じゃないか、とさえ思った。

そうすると、別の興味関心として、研究以外のこともしたくなってくる。研究ばかりしていることで社会的な視野が狭くなる自分も嫌いだったのだと思う。
自分が大学で学ばなかったことをこれから社会で学びたい、そして自分に足りないものを埋め、成長できるという世界に期待が増していったのである。一種の逃避行動か青い鳥症候群だったのかもしれない。
そしてためしに就職活動をしてみたら、ありがたいことに内定をいただき、この逃避行動は成功した。社会に出てからは、自分の予想どおり足りていないものがいろいろあることに気づき、酸いも甘いも糧になるという気持ちで、いろいろな経験をさせてもらって今に至る。

今ふりかえってみてその判断が正しかったかどうかなんてわからないし、正しいもくそもないだろう。とりあえず今の自分が立っている位置はかけがえのないものである。


長い自分語りになったが、これを読んでいる考古学初学者の方や、大学で考古学を学ぶ学生さんには、一人の元考古学徒の経験談としてご自身のイメージと重ね合わせたり、覚悟を新たにしたり、イメージを修正する参考になればと思う。

考古学で何を学びたいかは、考古学で何を学べるかということと比較してみてもいいかもしれない。
考古資料が個人単位では調査するものではないという特徴、考古学の世界での地道な作業とその適性を知ること、そして、自分の関心と重なり合う良い師に巡り合えるかということ、さらに自分の研究テーマが考古学的にアプローチできるか、大学卒業後も専門機関に身を置いて集団の中で追究できるテーマかということ。

このあたりについて私なりの例を書いてみたつもりだ。