2020年10月25日日曜日

日峯山遺跡~山頂直下に形成された岩石信仰の祭祀遺跡~(福岡県北九州市)


北九州市八幡西区浅川日の峯 日峯山


日峯山は標高113.9mの山で、日峰山・日ノ峰山などの表記もある。

山頂直下にかつてあった女郎岩(上﨟岩)の手前から、古墳時代中期以降の土師器群が出土して、日峯山遺跡(日峰山遺跡)の名前でも知られる。

山頂で祭祀を行わず、山頂直下の岩石の前で祭祀を行なったと推測され、古墳時代の山岳信仰や岩石信仰のありかたを考えるうえで重要な祭祀遺跡である。

本遺跡については、拙著『岩石を信仰していた日本人―石神・磐座・磐境・奇岩・巨石と呼ばれるものの研究―』(2011年)において「日峯山遺跡」の一節を設けて紹介しているので、詳細はそちらを参照いただきたい。

この記事では、紙幅の関係上載せられなかった写真を中心に特集する。

日峯山

日峯山頂上(日峯神社上宮の石碑が建つ)

日峯山は四方を見渡すにおいて絶好の眺望

麓の日峯神社


女郎岩/上﨟岩

玉依毘売命にまつわる旧跡とされる。

山頂直下の斜面上に立地していた立石で、周辺は岩場だったという。

日峯山に配水池を造った時、女郎岩が開発区域に入ったため発掘調査が行われ、その結果祭祀遺跡が見つかった。
発掘後、倒壊の危険があるため麓の日峯神社境内に移設された。

なお、女郎岩の南に行った斜面下には「神穴」と呼ばれる場所があり洞穴状になっているようだが、こちらの現状は調べていない。

女郎岩(日峯神社境内 移設後の姿)

立石状の岩盤だったことが窺われる。

裏側

日峯山中腹の配水池(女郎岩旧地付近)

女郎岩があったと思われる場所付近の斜面。岩盤が露出。


国見岩

隠岐国焼火神社祭神の大日孁貴尊が、この岩石の上に腰掛けて隠岐島を偲んだという。

日峯山頂上の北西端にある岩とされる。

日峯山頂上にも露岩が複数見られる。

山頂直下には岩盤がさらに剥き出している。

日峯山がかつて火山だった時の火山岩の様相を残す。

このような岩盤がそこかしこにある。

地図的にはこの露岩が国見岩の場所に当たるが、雑木に隠れている。


琵琶岩

隠岐国焼火神社祭神の大日孁貴尊が、この岩石の上で琵琶を弾いて四方を鎮めていたという。

関連文献を読んでも場所がはっきりせず、女郎岩と同一物説もある。

日峯山頂上には、岩上に座して四方を眺められる場所が複数あり、そのいずれかなのかもしれない。

座れそうな岩その1

座れそうな岩その2

座れそうな岩その3


2020年10月19日月曜日

大洗磯前神社(茨城県東茨城郡大洗町)


茨城県東茨城郡大洗町磯浜町


大洗海岸に出現した「怪石」

大洗海岸

斉衡3年(856年)12月戊戌日(29日)の夜、海上に光の柱が立っているのが目撃された。

翌朝、その海のほとりに2体の「怪石」があった。
高さは両方とも1尺(約30cm)ほどで、人間ではなく神の造形だった。

さらに翌日になると、その周囲に20個あまりの小石が、まるで2体の「怪石」に付き従うかのように集まっていた。
これらの小石は彩色おびただしく、見た目は沙門(僧)のようだったが、耳と目だけはなかった。

この時、ある人に神が憑依し、「我々は大奈母知命(オオナモチノミコト)と少比古奈命(スクナヒコナノミコト)である。昔この国を造って東の海へ去っていたが、再びこの国の民を救うために帰ってきた」と語った。

これを受け、国司は朝廷に上奏し、翌天安元年(857年)8月に大洗磯前神社が創建された。


以上は、『日本文徳天皇実録』(879年完成)に記された大洗磯前神社の創建由来となっている。

時期がはっきりしており、神の現れた経緯も具体的である。文字どおりの実録としてはありえず、誰彼による作為性はあるものの原型となる出来事はあったのだろう。

当時の「神の現れ方」や「ある事物が神としてまつられる流れ」を考える上において、非常に貴重な資料の一つと思われる。

大洗磯前神社より大洗海岸を望む


怪石が果たした役割


この「怪石」を岩石信仰の観点から考えると、どのような存在として位置づけることができるだろうか。

神の姿形として語られることから、石神の事例と一見考えられる。

しかし、怪石自身はあまり動的な行動をしていない。記録中ではまるで置き物のような扱いとなっていることに注意したい。
声を発するのも、怪石自身ではなく、人を介して発している。実際の事象として岩石が音声を発するわけはないが、物語上の作りとしては岩石が話していてもいいはずなのに、それをしない。


物語上、石自身に意思も垣間見られない。意思を発しているのは、石の背景に控えるオオナモチノミコトとスクナヒコナノミコトである。

まるで、普段は人間にとって「不可視」な神が、肉体は岩石を使い、言語は人間の口を借りることで「可視化」させているかのようだ。

人間の側から論理立てれば、怪石は、神をイメージさせやすくするために用意した視覚的な肉体であり、視点を集中させるための対象物である。


これを「神そのもの」と言えるかというと、少し違う気がする。
むしろ、怪石は神と人がコミュニケーションするために登場した「媒体」であり、その役割は「一時的に人間達に見せる体」だったと位置づけられる。


しかし、石神的な性格も消せないのが本事例の特徴的なところである。反証要素を列挙しよう。

  • 物語において、光の柱を放ったのは誰なのか。2神が降臨した時の光と考えるのが自然だが、怪石自身が発光して光の柱を出したという可能性も否定できない。
  • 怪石は自ら動いて現れたのか、それとも形而上の2神が用意してそこに出現させたのか、どちらともとれる。
  • 怪石の翌日に現れた小石の位置付けについて。これも2神が用意したとも解釈できるが、一方で怪石自身が行動してはべらせたと解釈できたり、怪石が分裂・増殖してつくったという「成長・増大する石」伝承の見方で解釈することもできる。


受け取り方によっては石神的要素も見え隠れする。
そのような両機能の境界線に立つ事例と言えるだろう。

すなわち、1つの類型機能だけで性格付けすることを避けないといけない。
一見矛盾しあう複数の要素は、内包し得るのだということを示唆しているだろう。


現在の怪石の所在


現在、この怪石たちがどこにあるのか、よくわからない。
神社創建後、本殿の中に移されたのだろうか。しかし、記録の中に石の行方が書かれているわけではない。

大洗磯前神社


もし本殿に移されたのなら石神的といえるが、そうではなくそのまま放置されていたり、撤収処理されたのならば、怪石は神そのものというより、やはり祭祀の時に使った道具(媒体)としての側面が強くなる。


ちなみに、怪石の周りに出現した20個余りの「小石」は、怪石の神聖性をより高めるために付き従った「陪従者的存在」として捉えることができる。

本体の神聖性を高めるために、別の岩石が置かれるというのは珍しく聞こえるが、『出雲国風土記』にも、石神の側に小さな石神が百余りあるという記述があり、このような岩石同士の力関係の差を利用した発想を、当時の記録から読み取ることができる。


神磯


大洗磯前神社沿いの海岸に岩礁があり、これを神磯と呼んでいる。
祭神降臨の地と語られており、ここが件の怪石が現れた場所とされたのだろう。





今も神磯は、元旦に日の出奉拝祭祀が執り行われている。
祭祀空間としての岩礁であり、その空間テリトリーを視覚的に示す岩石と言って良い。空間的な広がりを持つ、自然の磐境といった位置づけである。


もちろん、祭神降臨の旧跡という意味では、この神磯は聖跡としての要素も忘れてはいけない。

怪石が神磯の上に出現したと思考実験した場合、岩石の上に別の岩石が乗った構造ともなる。これはどのように理解するべきか。

わかりやすい理解は、いわゆる磐座の上に磐座を乗せたというものだろうか。
怪石を磐座と呼んでいいかは、前述の議論を踏まえれば石神要素も相待った存在であり粗っぽい評価だが、物語の構成上、怪石は置き物的存在であり一時的な神の体としての性質もなくはない。それを通俗的に磐座と呼んでいるものと、広い意味での機能は一緒と見ることもできる。

怪石は、座所ではなく憑依物としての体であるため「座」という漢字を当てることは適切ではない。あえていうなら、神磯が座としての岩石であり、そこに体としての怪石がやってきたという構図である。

これ以上の資料が揃わないと何とも言えないが、岩石を語る時に1つの機能には収まらないというのが、難しくややこしいところだろう。


参考文献


2020年10月18日日曜日

橿森神社と多賀神社(岐阜県岐阜市)



橿森神社(岐阜市若宮町)


橿森神社は岐阜城金華山から続く山塊の端に立地するが、社殿背後の山端に、駒爪岩(駒の爪岩とも)の標示とともに岩が露出している。




社頭の掲示が2種類ある。

古い方の手書きの説明には「大昔神人が駒にのってこの地にくだり、この岩に爪あとを残した」と記されている。

新しい方の御影石に刻字された説明には「神が天馬にまたがり休息した時、天馬が残したという爪痕が残る岩」とある。

この「神人」ないしは「神」が、橿森神社祭神である市隼雄命を指すのかどうかは明示されていない。
市隼雄命はいわゆる皇族にあたるため、それが神人としてまつられるのは首肯できるが、天から降臨するような神とはまた毛肌が異なる。
橿森神社には境内社や小祠も多いため、複数の信仰が融合して今があるような気がしてならない。





多賀神社(岐阜市多賀町)


橿森神社のすぐ北にあるが、町も変わり多賀町の神として独立してまつられている。

多賀の名は、祭神が伊邪那岐神・伊邪那美神の両神であることから近江多賀の神を勧請したものと類推されるが、町の辻に鎮座し、土地の神として地元の方の間で定着している様子が窺われる。

社祠の背後に立石状の岩石が見られる。





特に注連などはなされていないが、玉垣内にあり祠背後という位置関係から、少なくとも現在では神聖視の対象となっているだろう。

現状、境内は整地されており、立石は据え置かれているような配置を見せる。
ただし、この岩石が本来この場所と根続きのものであったか、他所から持ち運ばれたorこの場所に落ちてきたものだったかは不明である。

夫婦神だからだろうか、社は二つの祠に分かれているのに対し、立石は一つであり、片方の祠の後ろにだけ岩石を擁している。


2020年10月4日日曜日

石船神社(茨城県東茨城郡城里町)


茨城県東茨城郡城里町大字岩船

延喜式内社。「いしふね」と読む。
「石船」は地名および神社名となっているが、境内を流れる岩船川に船形の岩石があること、祭神が鳥石楠船命(天鳥船命)であることなど、複数の由来が想定される。

岩船川

石船神社はこの岩船川沿いに鎮まるため、無数の岩の群れが認められるが、現地で次の3つを確認することができた。


兜石

兜石

石船神社の特徴として、拝殿の裏には本殿がない。

その代わりとして、兜石と呼ばれる岩塊が、拝殿裏に囲まれた玉垣の中に控えている。
悪神が来た時に、兜石を見せて脅かすため玉垣の中に隠したという理由が付帯されている。

岩石自体に、悪神を脅かさせる霊威があるということが読み取ることができる。
また、祭祀対象が坐す本殿に位置すること、半ば秘匿されていることなどを考えあわせると、岩石そのものに畏れを抱く石神としての性格が認められる。

祭神の鳥石楠船命が、この岩石を指すかというとそこはやや不明瞭な部分がある。
本殿なき当社において、祭神がどこに鎮まっているのかという問題は再検討されても良いだろう。

兜石の下部(玉垣の隙間から撮影)

石船神社拝殿奥。玉垣内に兜石が控える。


船形の岩石

上方より撮影。注連が巡られ神聖視は間違いない。

石の上面。真ん中の窪みに水が溜まる。

岩船川のほとりにある船形の岩石。石船の由来に相当する石なのか、調べても今一つはっきりしない。

岩石の名称もはっきりしないが、件の岩石に該当するなら「石船」なのだろう。
疑問点としては、神社の中心的な位置づけは後述する兜石なので、社名を背負う岩石として現在の位置が必ずしも中心的とは言い難いものがある。
もちろん現状の印象を記すのみであり、時期によって神社の景観や各種構造物の配置が異なっていた可能性もじゅうぶん考慮したいところ。

岩石の頂面には水溜りがある。
日照りの時、この水をすくって祈願すると雨が降るといわれ、雨乞い石としての性質を今に伝えている。


矢の根石


参道に「矢の根石」がある。

源義家が怪物に向かって矢を射たところ、この石に刺さっていたという伝説が残る。

源義家伝説において、義家は神聖視と特別視の狭間に立つ人物と言っても良いだろう。
人によって、尊敬の対象から、神格化の対象もありえたような、中間的存在だったのではないか。

そのような人物の旧跡となる矢の根石も、同様に神聖視と特別視の狭間にある事例と言える。


2020年9月24日木曜日

巨石に関わる祭祀遺跡論・磐座論・依代論 ~時枝務氏「三輪山の祭祀空間」(2016年)を読んで~


表題の「三輪山の祭祀空間」は、時枝務氏が2016年に著された研究書『山岳宗教遺跡の研究』(岩田書院、2016年)の所収論文(25頁~47頁)を指します。

時枝務氏は立正大学教授で『修験道の考古学的研究』(雄山閣、2005年)、『山岳考古学―山岳遺跡研究の動向と課題―』(ニューサイエンス社、2011年)などの著書で知られる、修験道や山岳宗教を考古学的に追究する専門家です。


岩石信仰研究においても、山の考古学は極めて密接な関係にあるため、本書の全篇において学ぶ点がありますが、この記事では第一部第一章に属する「三輪山の祭祀空間」の論に絞って、私見を述べたいと思います。

本論では、三輪山山麓の代表的な磐座遺跡として有名な山ノ神祭祀遺跡を主に検討対象として、古墳時代の山麓祭祀の様相について論じられており、その中で磐座・石神・磐境に絡む論が紙幅を割かれています。

これは、近年の考古学の研究ではほとんど見られないものです。本書は350部しか発行されていないと奥付に書かれているので、その点でも、本記事で広く関係諸氏の方々に周知できればと考えています。


自分向けの備忘録としてメモしたところもありますので、やや文脈を省略するところがありますがご容赦ください。


山ノ神祭祀遺跡は祭祀遺跡か


山ノ神祭祀遺跡は「巨石をアプリオリに磐座とする」(28頁)素朴な解釈がされてきましたが、時枝氏は改めてこの遺跡が磐座なのか、何なのかを検討しています。

発掘は1918年の昔。

実測図はありますが、当時の実測技術のため正確さがやや疑問なのと、実測時点ですでに複数の盗掘にあった後で、巨石の位置が信頼ならないとする見方が有力です。

時枝氏は、最終的に「巨石は自然のままであった可能性があるが、小石は人為的に敷かれたものと判断され、自然を利用しながら構築した祭場と考えるのが最大公約数的な見解」(30頁)と判断しています。

この遺跡は発掘当初、古墳説もありましたが、時枝氏は出土した遺物が各地の祭祀遺跡で見られるものなので、祭祀遺跡説を追認する形ととっています。

ただ、古墳の副葬品と祭祀遺跡の祭祀遺物にも共通性は多いので、なぜ古墳説を除外しきれるのかについては、これまでの研究者と同様、さらに批判的に古墳側の遺物と比較してもいいのではないかとも思います。


山ノ神祭祀遺跡は磐座か


さて、時枝氏の問題提起はさらにその奥に迫り、祭祀遺跡は祭祀遺跡でも、この巨石は磐座と決めていいのか、について言及しています。

時枝氏は研究史を紐解き、神道考古学の大場磐雄氏が戦前の研究では磐座に絞り込んでおらず、石神・磐境の可能性についても併記していたことを述べています。

それが、戦後の研究では磐境と石神の解釈がなくなり、磐座に断定したという考えの変化も指摘しています。

時枝氏いわく、磐境は臨時的に置かれる施設だから、遺跡として残りにくいという前提条件を根拠に、大場氏は磐境説を排除したのではないかと推測していますが、実際のところは大場氏が明記していないので不明です。


石神と磐座の違いを整理


ほとんどの研究者が看過してきた、石神と磐座の差異について時枝氏は取り上げています。

いわく、
「石神は、それ自身が神であり、神は巨石のある場所に常住する」(32頁)
「磐座は、去来する神が、祭りに際して占める座であり、臨時に設けられた祭場」(32頁)
と定義をふりかえっていて、首肯できるものです。

さらに、上記の定義であるから、
「磐座も、神が来臨している際、すなわち祭りがおこなわれている間は、石神と同様に祭祀対象なのである。石神と磐座の差異は、神が去来するか否かにあり、神の在所をどことみるかにあるのである。」(32頁)
という、古墳時代の神観に関わる問題へ発展していきます。

この流れや問題提起については、時枝氏はすでに「神道考古学における依代の問題」(『立正大学大学院紀要』第31号 2015年)で古墳時代の神観を國學院大學笹生衛氏の学説に沿って検討しており、これについては私もすでに別記事で私見を述べました。
改めて、そこで述べた各種議論と響き合う話になってきました。

「依代」と「御形」と「磐座」について―祭祀考古学の最新研究から―(前編)


三輪山の多くの巨石群を「石神説」または「磐座説」で解釈する


三輪山山麓には、多くの祭祀遺跡、そして遺跡かどうかはわからないものの、磐座と称されたり由来不明ながらまつられていたりする巨石群が山中から麓にかけて分布しています。

これらの祭祀遺跡や巨石群の位置づけを、石神説と磐座説の二通りの解釈で時枝氏は下記のとおり整理しています。


・石神説
「それぞれの祭祀遺跡に祀られた神は、そこに常住する神で、土地の性格を強く反映した個性的な神格をもつ神が、三輪山の山内と山麓の至るところに遍満していた状況を想定することができる。三輪山は、まさに精霊が跋扈する、アニミズムの山として位置づけられることになる。」(37頁)


・磐座説
「祭祀遺跡で祀られた神は、山頂などから去来する神で、祭祀遺跡が異なっても祭神は同一であると理解できることになる。」(37頁)


時枝氏の仮説に対する疑問1.時代を飛び越えた文献援用


以上の時枝氏の研究は、大場磐雄氏以来閑却されていた石神・磐座の差異に改めて着目する試みであり、大変有用なものでした。

この流れを踏まえて、時枝氏はいよいよ山ノ神祭祀遺跡が磐座なのか石神なのかへの結論を出すわけですが、このあたりからやや私にとっては首肯しにくい論理も登場するので、そのあたりを触れておきたいと思います。


まず、時枝氏は山ノ神祭祀遺跡を磐座か石神かを絞り込むための根拠として、『日本書紀』崇神天皇条の三輪山神婚伝承を援用します。

三輪山の神は複数おらず大物主神だけであることや、山から山麓の嫁に会いに来たということが読み取れるので、複数の神々を前提とする石神説よりも特定の神が複数の祭場に現れた磐座説のほうが適合的だと結論づけています。


これはとても有名な伝承であり、おっしゃられていることも至極納得なのですが、とても残念なのが、なぜここで最終的に奈良時代の文献の心性・認識を以て古墳時代の三輪山の祭祀遺跡の神観を証明しようとしたのかということです。

これは、つねづね祭祀と考古学でいわれている、安易な文献援用であり、奈良時代と古墳時代では数百年の心の飛躍があります。

時枝氏もそこは本書の冒頭で、文献資料や民俗資料では古墳時代研究は頼りなく考古資料に立脚すべきと主張していたのに、最終的に文献のそのままの援用ではいけないでしょう。


なお、三輪山の山中の磐座群を奥津・中津・辺津磐座の3つで空間的にとらえることを時枝氏は肯定的ですが、この用語の初出である『大三輪神三社鎮座次第』は中世から近世文献説もあり、資料批判が必要です。
このあたりも、時間軸が異なる資料に基づいた解釈は控えたほうが無難でしょう。


時枝氏の仮説に対する疑問2.石神と磐座以外の解釈は?


また、いつのまにか磐境説が時枝氏の検討からも外れているのも解せません。

大場氏を批判しながら、時枝氏も磐境についてはアプリオリで巨石の数多ある解釈から外し、石神か磐座かの二択に問題を簡略化しています。

時枝氏も論ずるように、三輪山山麓の巨石群が山体と麓の傾斜変換点に沿って帯状・弧状に分布しているのであれば、たとえばそれら巨石群が全体として磐境(聖俗の境界)としての機能を有していたという説もじゅうぶん触れられるべきではないでしょうか。


さらに申し上げると、巨石の解釈は石神・磐座・磐境の3種類に限らないというのは、私が2011年『岩石を信仰していた日本人』で問題提起したことでもあります。

たとえば、神が占める磐座ではなく司祭者側である人が占める台座石であったという解釈、石占としての装置や道具としての解釈、岩石自体が奉献物の一つだったとする解釈、禊祓の場という解釈なども、検討領域に入れてみていいでしょう。

大変残念なことに、時枝氏は巻末の参考文献リストを見る限り拙著に当たっていないようですので、岩石の祭祀遺跡に対する解釈幅が大場氏以来の旧解釈でとどまっています。

そして、このことによってもう一つ、時枝氏説に対しての疑問が広がることになります。


時枝氏の仮説に対する疑問3.古墳時代の山岳信仰は山麓祭祀だけ?


時枝氏は、山ノ神祭祀遺跡を磐座と判断して、その神観を、三輪山の神が山麓ぎりぎりのところにある磐座まで来て、人々は山麓の磐座で祭祀したという「山麓祭祀」が古墳時代の山岳信仰のかたちだったと論じています。

これ自体は、民俗学で旧来いわれていた学説を追認したようなもので、山岳仏教で山中に登る修行者が現れるまでは、山は禁足地であり遠くから拝する対象だったとする観念です。

本論はあくまでも三輪山を取り上げたものなので、三輪山についてはその観念でも良いかもしれませんが、時枝氏はこのモデルケースを以て古墳時代全体の山岳信仰を山麓祭祀に当てはめすぎではないかという危惧があります。


これについても、私は『岩石を信仰していた日本人』で「山の境界論再考」という小考をしたためており、そこで古墳時代の岩石祭祀遺跡が山麓祭祀一辺倒ではなかったことを指摘しています。

具体的には、群馬県櫃石遺跡、滋賀県瓦屋寺山遺跡、島根県大船山遺跡、福岡県日峯山遺跡など、ある程度山腹に入り込んで、時には山頂直下まで入り込んだうえで祭祀遺物が見つかっている山岳祭祀遺跡が複数確認されています。
(時枝氏も『山岳考古学―山岳遺跡研究の動向と課題―』などで遺跡集成しているのでこれらの遺跡を知っているはずなのですが…)

そこで、従来の山麓祭祀にとらわれた山岳信仰観に一石を投じるため、私は「山腹境界論」とでもいうべき概念を披露したのですが、読まれていないので時枝氏論文においてもこの問題意識については置かれたままとなっている状況です。


時枝氏の仮説に対する疑問4.依代と磐座は違うといいますが…

本記事の途中でも紹介しましたが、時枝氏は折口信夫の「依代」概念への批判的研究でも知られます。

本論文においてもそのあたりを念頭に置いた記述があります。引用すると、

「磐座を考えるにあたって注意しなければならないのは、磐座はあくまでも祭場を構成する設備の一種であって、依代ではないことである。依代は、神が憑依する際の目印であって、憑依する対象ではない。(略)磐座に依代を付けた可能性はあるが、それは磐座のような堅固なものではなく、祭りに際して臨時に設けられたものであったことはいうまでもない。磐座は、依代と切り離して論じる必要があり、折口の依代論とは別個に考察されなければならない。」(44-45頁。傍線部は私が強調)

との部分です。
目印である依代と、憑依物である磐座は違うとの持論です。

これについて、私は前掲の過去ブログ記事でこう書きました。

憑依する目的物(樹木や岩石)が祭祀の対象で、その先に目印とついていた依代は、目印だから祭祀の対象でないとみなす時枝氏の考えは、必ずしもそう言えるのかという疑問があります。
依代は単なる目印ではなく、祭祀に用いられていて、神の目にとまる機能を持つのだから「聖なる印」なのであり、依代自体に聖性が帯びるのもごくごく自然なことだと思うのです。
また、信仰・祭祀の当事者自身が、そこまで機能論的に明確に"樹木・岩石が神の宿る部分"、"依代はあくまでも目印"と切り分けていたかもグレーゾーンです。
依代という装飾部分を込みにした全体が憑依物だと信じられていたことを想定することも、まったく不自然ではないと思われます。これは折口概念の拡大解釈とは全く別の次元の問題です。


そもそも、時枝氏自身にも矛盾している記述が見受けられます。
44-45頁で上記のとおり、依代は目印で磐座は目印ではないと述べながらも、38頁には下記の記述があります。

「巨石が山中と密接に関わる場であることを示す証拠と考えられ、山中に坐す神が山麓に顕現する際の目印とされたのであろう。」(38頁。傍線部は私が強調)


こちらでは、巨石が神が顕現する目印にされたと言っており、磐座は目印ではないとする先の言と矛盾します。

でも、目印とはつまりそういうことで、神は目印を通して憑依する場所を定めるのですから、祭祀の当事者からすると必ずしも機能論的、ないしは理屈的な発想ではなく、依代も岩石もその総体として神が顕現する存在だったと考えられるでしょう。


近年の祭祀考古学では、磐座や依代を分析概念の一言で相対化する傾向が見受けられますが、それに替わるモデルも定まっていない状況です。

引き続き、私は岩石信仰の事例を一つ一つ虚心に見ながら、結論を決めずに見えてくる世界観が何かを帰納していきたいと思います。


2020年9月20日日曜日

大甕倭文神社(茨城県日立市)


茨城県日立市大みか町





天津甕星が石化した事例として知られる。

高天原から降臨した武甕槌神と経津主神に対し、常陸の天津甕星、またの名を天香香背男と名乗る星神が強く抵抗した。

武甕槌神・経津主神はこれに手を焼き、文武に優れた武葉槌命を派遣することで、とうとう天津甕星を服することができた。

天津甕星は岩石に姿を変えたが、その後も、日に日に岩石が大きくなる。

そこで、武葉槌命は岩石を蹴り上げて破壊し、その上に社を建てることで、まつろわぬ星神を鎮めた。

これが大甕倭文神社の始まりといわれ、社殿の下に鎮まる岩盤を宿魂石(しゅくこんせき)と呼んでいる。

また、神篭岩という岩石が、宿魂石を見張っているというが現地で特定できなかった。神篭岩に布を打ちつけると、布が長持ちするという信仰も付帯している。


2020年9月13日日曜日

文化地質研究会オンライン講演会「岩石に神はどのように宿り、宿らなかったか―『古事記』『日本書紀』『風土記』を例に―」


文化地質研究会の10月例会で講演をすることになりました。

文化地質研究会は、人類と地質の歴史的関係を研究する学問「文化地質学」の研究組織です。
従来は理系のアプローチが多かった地質分野に、人文学の視点も取り入れていこうという方向性ですね。

コロナウイルスの影響を受けて、今年度はZoomアプリ上のオンライン講演会という形式で研究会が行われており、10月度を私が承ることになりました。

概要は下記のとおりです。準備がんばります。


日程

2020年10月11日(日)午後3時〜4時半(講演60分+質疑応答30分)


講演テーマ

「岩石に神はどのように宿り、宿らなかったか―『古事記』『日本書紀』『風土記』を例に―」

※Zoomアプリの事前インストールおよび基本操作準備が必要です。

※文化地質研究会会員向けの講演会ですが、9月講演会では会員外参加も可能でした。数日前に会員向けにZoomのURL,ID,パスワードが連絡されるので、興味ある方は私か文化地質研究会へお問い合わせください。


講演要旨

人は岩石と出会うとき、何らかの心理的影響を受ける。岩石そのものからの影響、または岩石周辺の環境からの影響、はたまた、その人が従前もっている知識や世界観によっても、心理的な受け止め方は変わってくる。

 そのような、岩石に対する心理の中の一つの極致に岩石信仰がある。岩石を見た時に素通りする人もいる一方で、その岩石を神のように崇めるケースや、神に関わる聖なるものとして岩石を取り扱う例がある。

 なぜ、岩石に神は宿ったり、宿らなかったりするのか。言い換えれば、人はどのように神宿る岩石と神宿らない岩石を分けて、岩石に心理的なグラデーションを与えるにいたったのか。

 歴史学上では、これらは主に磐座や石神といった概念で説明されることが多かった。今回の内容では、主に民俗学・考古学における諸研究をふりかえる。岩石信仰のすべてをふりかえるとテーマが広がりすぎるため、今回は「岩石への神の宿りかた」に絞ることにする。つまり、岩石に対して神は一時的に宿りに現れるのかという磐座的な発想と、それとも、岩石に常に神は内在するのかという石神的な発想の、大きく分けて二極である。

本居宣長、柳田國男、折口信夫、大場磐雄の古典的研究以来、この分野は長らく上記の磐座・石神の概念にとどまってきたが、近年では祭祀考古学の分野において依代概念への批判が起こり、新たに「御形」(御形石・像石・神像石も類語)の概念も提唱されている。このあたりの研究状況といまだ残る疑問点についても整理したうえで、私案の分類についても比較していく。

 そして、今後の研究に資する一つのアプローチとして、そもそも『古事記』『日本書紀』『風土記』を始めとする奈良~平安時代の文献記録に登場する岩石たちが、従来通説的にいわれていた解釈に収まりうるものなのか、改めて捉え直す必要を感じる。いくつかの興味深い記述を抽出しながら問題提起をしていきたい。

 このように、最古級の文字記録における岩石の世界観を輪郭づけられれば、今後、文字がなかった時代の岩石の心理を考える際の出発点となるだろう。それはすなわち、言語化されていない岩石すべてへの解釈にも大きな弾みとなるものと考えている。

・講演要旨(PDFファイル)

・参考リンク「文化地質研究会 今後の予定」
https://sites.google.com/site/bunkageology/home/07


2020年9月6日日曜日

相差の石神さん(三重県鳥羽市)


三重県鳥羽市相差町 神明神社境内


相差町の氏神・神明神社の境内社に石神社があり、ここにある「石神さん」という石は、海女の信仰を集め、女性の願いを一度は叶えるということで全国的にも知られる存在となった。




石神さんは、玉依姫命のご神体とされている。
言葉通り受け取れば、石そのものが神というよりは、石を通して玉依姫命を信仰するという磐座的発想に近い。

しかし、おそらく現地での信仰者の感覚としては、形而上の神を別にいただきながら目の前の石を目印とするという感覚ではなく、石=神と同一視するような始原的な感覚なのではないだろうか。

岩石信仰を、後世の神社信仰の中で再解釈した時に、この種の主客の逆転が起こりうる。


神明神社は明治41年(1908年)に近郷の神社をまとめて合祀して今の形になったと思われる。
では、それ以前の歴史となるとどうだったのだろうか。


『鳥羽市史』上下巻(1991年)を引いてみると、市内の神社一覧に神明神社の頁が割かれているが、現在の知名度に反し、石神さんについての記述は見当たらない。

唯一、正徳3年(1713年)成立の地誌『志陽略志』に「石神社」の名が相差の神社名の中に見られ、これが現在の神明神社境内社の石神社を指すのであれば、18世紀まで石神さんの歴史をたどることはできそうだ。

ただ、なぜか市史には他に併記された神社については現在の神明神社への合祀を触れているのに、石神社だけはその是非を触れていない。


他の郷土資料にも複数当たってみた。

伊勢志摩関係の民話集や民俗集、さらに平成20年代に調査された海女の民俗調査報告書なども図書館にある分でひととおり該当しそうな箇所を中心に読んでみた。

数百ページに及ぶのでざっと読みではあるが、鳥羽や志摩の信仰としては志摩市阿児町の横山石神神社のほうがむしろ有名のようである。
横山石神神社は、同種の石神さんをまつり、こちらは女性に限らない信仰を集めていた。


また、海女と岩石の信仰としては、相差町堅子の洗米石のほうが学術分野では取り沙汰されることが多い。

石に開いた穴に白米・小豆を入れて、海女漁の無事を祈るものという。


このように、自治体史や民俗学関係の郷土資料の中で、相差の石神さんがほとんど言及されていないのはどのような理由によるものだろうか?

文献記録がないからなのか、祭礼として記録される価値を認められていなかったのか、秘匿されていたり知られていなかったりした存在なのか、はたまた、近年町おこしで人気を博する前は信仰のかたちがまったく違っていた存在なのか。


岩田準一氏の『鳥羽志摩の民俗』(1970年)という本には、石神の記述が2項目に分かれて記されているようだが、こちらは未見である。

また閲覧の機会があれば、この記事にて追記修正をおこないたいと思う。

神明神社境内にある「盃状穴」