2021年9月26日日曜日

金大巌と日吉大社の岩石信仰(滋賀県大津市)


滋賀県大津市坂本


日吉大社の概要


日吉大社は、全国3800社を越える日吉神社・日枝神社・山王神社の総本宮に位置付けられている。

日吉大社の構成は、大きく東本宮と西本宮に分かれる。

東本宮は、日枝山(比叡山)の山の神である大山咋神を祭神として、西本宮は天智天皇7年(668年)大津京鎮護のために大和国大神神社から分霊した大己貴神を祭神とするもので、それぞれ信仰の出自を異にする。


金大巌(こがねのおおいわ)


日吉大社は比叡山の東麓に鎮座する。ただ、比叡山は比良山地と呼ばれる一大山塊であり、日吉大社の裏山は比叡山の山の端と言って良い。

その端山としてそびえるのが、標高378mの八王子山(牛尾山・波母山とも)で、日吉大社の信仰においては神山として尊崇の対象となっている。

その理由にもなっているのが、この八王子山の頂上やや下の山腹斜面に露出する「金大巌」の存在だ。

麓から九十九折の山道を約20分で到着。

金大巌

岩の視点から麓を望む。

琵琶湖の対岸に近江富士(野洲・三上山)が目立つ。

金大巌と共伴する三宮・牛尾宮

左右に三宮・牛尾宮の二社殿を配し、その中央に自然の一大岩盤が広がるという、他例のない景観構図を見せる。

岩肌は広大・平滑で東に面しているため、朝日が反射して金色のように輝く様子からこの名がついたといわれる。


考古学者の兼康保明氏が著した「比叡山横川源流考」(2020年)ではこの金大巌を大きく取り上げており、参考になる所見が多々見られるため紹介したい。


まず、兼康氏の調査によると、金大巌は天正10年(1582年)成立とされる『日吉社神道秘密記』に「金の大巌」の名称が登場し、金の大巌には比叡大明神が八十万神を率いて「天降」した由来が記されるという。

この記述に基づけば、金大巌は神が降臨した磐座の典型的な内容を伝えていると言って良い。


ただし、兼康氏は考古学的見地に立ち、この伝承がいつまで遡りうるものか、いわゆる祭祀遺跡などの考古資料から裏付けることは現段階では難しいと判断している。

考古資料としては、金大巌に隣り合う牛尾宮の斜面地から平安時代中期(11世紀後半)の土師器小皿が採集されており、平安時代における人足は確認できるが、それが即、祭祀遺物と認定できるわけではないし、たとえば社殿建立以前の原始信仰を証明するものでもない。


次に、兼康氏は金大巌周辺の古墳分布から興味深い指摘をおこなっている。

日吉大社周辺には、約70基の日吉古墳群という古墳時代後期(6世紀中~7世紀初)の群集墳が存在している。
この日吉古墳群の分布について、次の特徴をもつとのことである。


  1. 大山咋神をまつる東本宮の区域には古墳が確認されていない(削平された可能性は否定しない)。
  2. 西本宮の区域には古墳が存在している。
  3. 八王子山の上のほうには古墳がなく、山麓から高くても標高180~190mの山裾と言って良い範囲で分布している。
  4. 比叡山の別の山では、標高350m前後の立地にも古墳群が確認されており、八王子山は山の高い所に古墳を築造しないという傾向が認められる。


以上の点から、兼康氏は「八王子山に古墳が築造されなかったのは、単に地形や標高差によるものではなく、山上に磐座があって、山を神体として拝する場所には、古墳を造らないとする規制のようなものがあったのではないかと思われるのである」(兼康 2020 p.126)と述べている。

また、兼康氏は八王子山の中で参籠寺院として創建された日吉神宮寺が、金大巌の地点を避けるように、日吉大社側から山を巻いて山の西側に庵を結んだ点を踏まえて、当時、まだ金大巌はおいそれと近づいてはいけない場所だったのではないかという仮説を提示している。


これらの指摘は、私がかねてより研究テーマの一つに置いている「古墳と岩石信仰の同居/非同居」や「山麓だけでなく、山腹や山頂直下における岩石祭祀の存在」などの論点(詳細は拙著『岩石を信仰していた日本人』参照)と響きあうものであり、大いに参考となる事例と考えている。


日吉大社の岩石祭祀事例


金大巌は日吉大社の岩石信仰の象徴的な存在だが、山麓神社境内にも複数の岩石祭祀の事例が知られる。

まずは東本宮の事例から紹介しよう。


■ 夢妙幢岩

いい夢を成就させ、悪い夢を消滅させてくれると由来の付された岩石。

妙幢菩薩の名もあるように、多分に仏教影響下の名称と思われるが、どのような沿革による信仰であるかは情報収集不足である。

夢妙幢岩


■ 猿の霊石

猿の顔に見えるという岩石。日吉信仰が猿を神使に位置付ける点からも霊石としての神聖視に至ったのだろう。具体的な霊性は不明。

看板には「この上に石を乗せないでください」とあるようだが、過去に何かがあったかと想像される。

猿の霊石


■ 船岩/天の磐船

天照大神と素盞鳴命が誓約をして産まれた五男三女神が、この地に降臨するときに用いた磐船という。

船形の外観から、神話的背景で説明するように後世付会したものと類推される。

船岩/天の磐船

次に、西本宮の事例である。


■ 大威徳石

仏法を守護する大威徳明王が宿る霊石という。

大威徳石

■ 祇園石/目洗石

牛頭天王が宿るといわれる霊石。石の窪みに溜まった水で目を洗うと良いという。

祇園石/目洗石

■ 雪丈岩

平安時代末のある夏、広長という人物が境内にて白山の神を私的にまつっていた。

これを知った天台座主が止めさせようか迷っていたところ、その夜に夏であるにも関わらず雪が積もったことから、これを霊験とみなし境内白山宮の祭祀が正式に始まったという。岩の高さは、その時降った雪の高さに値するという。

白山宮の本殿と拝殿の間にあるが、探訪時は存在を知らず見落とした。



参考文献


2021年9月19日日曜日

上ノの岩上神社(兵庫県宍粟市)


兵庫県宍粟市山崎町上ノ


山間部の集落、上ノ(かみの)と呼ばれる地区の北部に岩上神社が鎮座する。

宍粟市では他地区にも岩上神社があるため、便宜上、上ノの岩上神社と題して区別した。


社殿に隣接して、一大岩塊がまつられている。

岩上神社社殿

岩上神社の社名の由来となったと思われる岩(大岩/磐座と記されることもあり)

岩の下を潜るように階段と橋が架けられている。

岩に接して伊沢川が流れる。

元禄5年(1692年)成立の社記『岩上大明神縁由記』(都多岩上大明神縁由記とも)が残るらしく、「岩上」の名を江戸時代まで遡らせることができる。

また、暦応4年(1341年)に当社が勧請されたといわれるが、その伝承には大きく2つのパターンがあるようだ。

  1. ある行者が、岩から光を発しているのを見て、里の人に社を建てるように伝えて勧請に至った。(現地看板より)
  2. 岩上に薬師如来が立ち、社を建てるように霊夢があったので勧請した。(兵庫県神社庁ホームページより

2番目の伝承では、岩石は薬師如来が立つ台座石であり、「岩上=岩神の転訛」とみるより「岩上=字のとおり岩の上に信仰対象がいる」という意味で理解したほうが良い事例と言える。


さらに、現地看板には「点在する岩石は此神眷属の座石とも言われている」と記されている。

たしかに、境内周辺には多数の露岩が点在しており、それぞれが岩石祭祀の事例と考えて良い。

岩上神社境内1

岩上神社境内2

岩上神社境内3

岩上神社境内4

「座石」ということは、これらの岩石群は信仰対象そのものというより、信仰対象が座す聖なる祭祀施設なのだと解される。

主たる岩石の周囲の岩石群を眷属とみなす発想は、『出雲国風土記』に登場する楯縫郡神名樋山の石神と小石神の関係や、『日本文徳天皇実録』に登場する大洗磯前神社の怪石と小石の関係を想起させる。


そのほか、岩上神社の近くで見かけた旧跡を紹介する。

「岩井谷」と札が下りた谷を遡上してみた。

岩井谷の小落差

岩井谷の水源奥

岩井谷の両尾根にも露岩が散在する。

「深山口の淵」の看板を見かけたので、川下を見ると…

通称、垢離取淵と呼ばれる岩上神社の禊場。

「磐窟と不動明王」の看板が立つが、雪中で踏み跡がわからず踏査を控えた。

岩上神社境内の夫婦杉(県指定天然記念物)

2021年9月12日日曜日

頭之宮四方神社の岩石信仰(三重県度会郡大紀町)


三重県度会郡大紀町大内山


頭之石(御頭さん)と御神体


頭之宮四方神社(こうべのみやよもうじんじゃ)はその神名もあり「知恵の神」としての信仰があり、三重県内では有名な受験合格祈願の場として知られる。

その霊験を具現化したかのような象徴が、「頭之石」(こうべのいし)または「御頭さん」(おかしらさん)と呼ばれる岩石である。

頭之石/御頭さん

現地看板

神社境内を流れる唐子川から、いつの頃からかはわからないが拾い上げられた石で、現在の位置に置かれたという。

この岩石の形状から、いくつかの顔を認めることができるという。

祭祀方法は、石をなでた後に自らの頭をなでるという「なで石」の願掛けで、頭に関する諸霊験が信じられている。


現地看板には、「当神社の御神体もこの川より拾い上げられた『御頭』です」の一文があったことにも注目したい。

つまり、「御頭」と称される石は2つあり、1つは神社の御神体であるからおそらく本殿内にまつられ、もう1つが参拝者の目にする「頭之石」ということになるのだろう。


神体という概念が、別の場所より人々の求めに応じて用意される媒体的な存在であることと、本殿内の祭祀対象の分社的な位置づけで「頭之石」が参拝者の目に触れるところにあり、それを通して神体と同じ神徳を得られるということを如実に示している。


奉石所(お誓い石)




社殿の東脇に隣接して、大量の小石を敷き詰めた方形壇が存在する。これを奉石所と呼ぶ。

その名のとおり、石を神前に奉納した祭祀事例で、全国各地に類例が見られるが当社の特徴として以下の作法が定められている(現地看板より)。

  • 海岸で拾った白石か黒石であること。
  • 直径6㎝までの石であること。それより大きい石を奉納しないこと。
  • 円形の石であること。円形ではない石は奉納しないこと。
  • 石を持ち帰らないこと。
  • 石に文字を書き入れないこと。

この奉石の風習に関しても、いつから行われている祭祀かは明記されていないが、現在は基本的に石の代わりに願札(絵馬)で願掛けを行うものと神社側は定めている。


だが、現在神社ホームページを見ると、奉石所の説明には「お願いをする時は丸い白石、お礼参りには丸い黒石を奉納します」と書かれていて、掲載された写真には石の表面に願掛け内容が文字で書き入れられていて、やや疑問が残る(http://koubenomiya.or.jp/keidai/→2021.9.12閲覧)。

私が訪れたのが2011年11月だったので、おそらく10年の歳月の間に信仰・祭祀のかたちもかわったのだろうと思われる。


乳湧石


乳湧石(ちわきいし)とは、神社の手水所として用いられている台石を指す。




現地看板によれば、「お乳湧さん(おちわきさん)」と呼ばれる安産祈願の聖地が別にあり、そこから持ち運ばれた縁ある岩石を手水石としたと読める。


「御頭」と同様に、別の場所から岩石を祭祀媒体に用いた事例と理解することができる。

また、岩石の形に、女性らしい優しい顔を見出し、本殿側を頭にして横たわった姿でたとえる点も、姿形になぞらえる姿石・形状石信仰という理解で共通点を指摘することができるだろう。


2021年9月5日日曜日

美波多神社の雨乞石(三重県名張市)


三重県名張市新田


この雨乞い石は、美波多神社の公式ホームページですでに紹介されている。

名張市 | 日本 | 美波多神社

日照りの時、田んぼや池に雨乞い石を沈め、火を焚き雨乞い神事をしたといわれる霊石。

同種の祭祀は、三重県伊賀市の猪田神社の雨石・晴石にも見られる。

下郡の猪田神社(雨石・晴石と猪田経塚)と猪田の猪田神社(猪田神社古墳と日月石)

雨乞い石の手前に、供えられるように、寄せあうように置かれた白い丸石も気になる。


2021年8月29日日曜日

赤岩尾神社の赤岩(お俵石・屏風岩)と岩洞風穴(三重県名張市)


三重県名張市滝之原


滝之原の集落から南へ4km、名張川が切り開いた山間部の切り立った山腹斜面上に赤岩尾神社が鎮座する。

赤岩尾神社は、明治時代の神社合祀令によって同地区の国津神社の摂社として合祀されたが、現在も立派な道標や社殿など諸設備を有し、例祭も執り行なわれている。

合祀令で途絶えることのなかった信仰の強さを示すが、それは現地に残る自然岩の景観から聖地となった場所で、いまだに人々を惹きつける聖性が残っているからだろう。


赤岩尾神社は山中の辺鄙な立地で本来参拝も大変だったことだろうと思われるが、現在は駐車場が整備されており、そこに車を止めれば入口から徒歩5~10分で拝殿に到着する。

赤岩尾神社の直下の名張川には比奈知ダムが造成されている。

赤岩尾神社駐車場に「赤岩神社」の碑が立つ。

神社入口にまつられる「山の神」

赤岩尾神社

拝殿の背後に、一大岩壁「赤岩」がそびえる。

上部は「お俵石」、下部は「屏風岩」を体現する柱状節理の造形を見せる。凝灰岩といわれ、赤みを帯びる岩肌から赤岩の名が生まれたのだろう。





この場所から30m先に歩いた境内に風穴が存在する。

『なばりの物語』の聞き取りでは「夏は冷たく、冬は温かい風が吹く」との話だったが、現地看板には「年中同じ温度の風が吹く」とあった。

岩洞/風穴

風穴に手を入れてみたが、私が訪れたのは2月で風が強めの日だったこともあり、風が吹いているのか吸い込んでいるのかは感じ取れなかった。


Web上にはすでに貴重な情報がある。

まず、名張高校郷土研究部が1980年に発表した『なばりの昔話』をサイト化した「なばりの昔話 国津・比奈知編 赤岩さんと千方将軍」(2009年2月21日閲覧)には、明治~昭和初期生まれの方の話として下記が紹介されている。


  • 赤岩尾神社の通称は「赤岩はん」。
  • 赤岩尾神社にまつられている岩の名は「赤岩」。赤茶けているから。
  • この岩山を赤岩尾と呼ぶ。
  • 赤岩は、屏風のような「屏風岩」と、米俵を積んだかのような「お俵石」から構成される。
  • 小岩尾という所に風穴があり、夏は冷たく、冬は温かい風が吹く。
  • 藤原千方(この辺りの地域で四鬼を操り朝廷と対抗した伝説上の武将)が武運長久を願った神社で、朝廷の追っ手が来た時は風穴に身を潜めたという。
  • 近くに穴尾山、高座山があり、穴尾山には恵比寿岩・大黒岩という岩石、高座山には藤原千方の馬の蹄跡が残る「千方の飛石」があるという。
  • 山の麓には子安地蔵があり、藤原千方のように強い人になって長生きするという信仰がある。


次に、伊賀藤堂藩の藤堂元甫らが主導して1763年(宝暦13年)に完成した『三國地誌』にも赤岩尾神社に関する記述が登場する。

『三國地誌』の原文と現代語訳を載せている巫俊さんのサイト「『三國地誌』現代語訳wiki」「巻之八十 伊賀国 名張郡 山川」(2009年2月21日閲覧)を参照すると下記のとおりである。


  • 高座山に、藤原千方の飛石がある。
  • 高座山に、嬰児が長命になる小売地蔵がある。
  • 赤岩尾山の山頂に岩窟があり、夷石、大黒石の名がある。
  • 赤岩尾山にある岩洞と屏風岩は奇岩である。


上のうち、赤岩尾山の「岩洞」が『なばりの物語』に登場する風穴を指し、「屏風岩」が赤岩を指すのだと思われる。

赤岩尾神社境内に広がる岩の群れ。赤岩尾山全体がこのような地形的特徴をもつ山なのだろう。

赤岩のほかにも柱状節理の露岩が散見される。


2021年8月23日月曜日

岩神神社(奈良県吉野郡吉野町)


奈良県吉野郡吉野町矢治





吉野地域を代表すると言ってよい、巨岩信仰の神社。

祭神は諸説あるようだが、本来は人格神としての信仰ではないということを表すのかもしれない。


現在は「岩穂押開神」で通っていることが多いようだが、これは『古事記』でいう石押分、『日本書紀』でいう磐排別から来たものとされている。

山に入りたまへば、また尾生る人に遇ひたまひき。この人巖(いはお)を押し分けて出で来たりき。ここに「汝は誰ぞ。」と問ひたまへば、「僕は國つ神、名は石押分(いはおしわく)の子と謂ふ。」(『古事記』中つ巻)
倉野憲司校注『古事記』(岩波書店、1963年)より

尾有りて磐石(いは)を披けて出れり。天皇問ひて曰はく、「汝は何人ぞ」とのたまふ。対へて曰さく、「臣は是磐排別(いはおしわく)が子なり」とまうす。(『日本書紀』巻第三)
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀』全5巻(岩波書店、1994年)より

吉野の岩神神社がモデルでこの物語が創られたとは即断できず、逆に記紀神話の影響で後世に伝承地が勃興した可能性も想定しなければならない。


記紀記述上の特徴も触れておこう。


物語で登場したのは、イハオシワクではなく、イハオシワクの「子」である。

厳密に読むと、イハオシワクおよびその子は「巖」「磐石」そのものではなく、岩石は押し開かれる対象となっている。

『記紀』における「天の磐座(石位)」も、常に「引き開く」「押しはなつ」「離れる」対象として描かれている。

この点を考えると、イハオシワクが動かした岩石は多分に磐座的と言え、かつ、中から出てくるという点では、内部空間をもつ岩屋のような描かれかたでもあると言える。

まとめると、岩石=神と呼ばれる関係ではなく、むしろその岩石を動かしたという行為に神格があり、岩石は装置的・サブ的なのである。


吉野の岩神神社がこの物語の岩石を指すかは、繰り返しとなるがわからない。

現地看板によると、「岩神」の名は少なくとも元禄4年(1691年)まで遡れるとのことだが、その頃には岩石=神としての信仰であり、岩石は装置でもサブでもない主役として君臨している。

岩神神社 境内全景

岩神神社の対面に流れる吉野川