2025年3月16日日曜日

木村重信「石と日本人についての芸術的考察」(『日本人と石』より)

株式会社エス出版部より編集・発行された『日本人と石』(1992年)は、「第1部 心」「第2部 技」「第3部 西洋との出会い」の3部に分かれて、石に関する信仰・芸術・石造技術・建築を中心に構成された全144ページの写真集である。

今となっては出版意図がつかめないところがあるが、バブル崩壊直後、出版不況の入口に立ちつつも、英対訳を載せた豪華版で西洋文明の公害化に対する警句も散りばめられた一種の時代感がふんだんである。

巻頭言を飾るのが国立国際美術館長の木村重信氏「石と日本人についての芸術的考察」である。これが短文ながら、石と人間の関係を芸術分野から考える際の有効な資料となるので、次の記述を紹介する。


日本の芸術家は、石に対して付加する述語ではなく、主語である石そのものの実存を問題にする。したがって欧米の彫刻がひとつのコンストラクションであるとするならば、日本の石庭はかかるコンストラクションを否定し、いわばアレンジするだけである。欧米的芸術観ではアレンジしただけでは芸術にならず、コンストラクトして初めて芸術となる。しかし日本人はそうは考えず、アレンジメントこそ重要な芸術的契機であるとする。(略)アレンジメントには、いけばなの場合も、石庭の場合も、自然のものをどのように組み合わせても、もの自体は自然を越えることはできないという考えがひそんでいる。(同書p.13)


「日本の芸術家は~」「日本人は~」などの主語が大きく、学術的にデータを明示した論拠になっていない。言い換えれば西洋=人工、東洋=自然を貴ぶとする1992時点の構図であり、それ以降相対主義が進んだ2025年現在では人口膾炙の文明観と言えるが、アレンジメントの概念は今なお参考となると思う。

自然が主語であり、アレンジメントは自然を越えることがないという木村氏の見方は、そのまま、自然の石のままの方が芸術になりうるという許容を生み出し、なぜ自然石の石肌をそのままにして置いたか、石を動かしても自然芸術として鑑賞されたのはなぜか、の回答となる。

また木村氏は、自然がもたらす「偶然性」が鑑賞者に自由を確保することにつながり、鑑賞者の感受性や想像力いかんで芸術としての価値は大きくも小さくも変化し、その鑑賞作用によってある人には作品となり、ある人には作品となりえないというところに自然の美があるという鑑賞観を提示している。

美の認定も人の心理ありきで、自然物は「偶然性」が「美の訴え(契機)」となる論理は、自然石信仰を含めた自然石文化を考える上での重要な指標となるだろう。


「変身する空間――石」(岩田慶治『草木虫魚の人類学』より)

岩田慶治『草木虫魚の人類学』(講談社 1991年)の第2章第2節が「石」であり、海外のアニミズム(草木虫魚教)に関する石の事例を取り上げている。


ニュージーランドのマオリ族

緑石を加工して石器を作る。

日常使用は打製石器のままでよいが、加工と研磨を加えたものは装飾品となる。

それらの中で、何世代にもわたり研磨されたものは、労力の結集、祖先伝来の宝器となり、子孫の礼拝を受ける。

これは石が石でなくなり、石のメタモルフォ―ゼと岩田氏は形容する。

自然石信仰とはまた異なる、加工された石に対する信仰と言える。


ボルネオ内陸に住むケラビット族

インドネシア領カリマンタンとの国境地帯に多くの巨石が残るといい、ケラビット族の所産とされる。

バトゥ・ナンガンとバトゥ・シノパッドという二種類の巨石構造物を作る(バトゥは「石」の意)。

村人の話によると、バトゥを作ることで個人の霊を慰め、個人の霊魂がさまよわないようにするためだという。

ケラビット族は4種類の階級に分かれていて、バトゥを作るのは第一階級のみという。


バトゥ・ナンガン

ナンガンは「支える」の意。大石を数個の石で支えたもの。いわゆるドルメン型の構造物。

生前に功績を残した人物や首長を記念して、死後に村人が建てる。


バトゥ・シノパッド

シノパッドは「立てる」の意。細長い石を地上に垂直に立てたもの。いわゆるメンヒル型の構造物。

祖父母、父母の死後に子孫が建てる。


バトゥを作る時のルール

個人の記憶が残る死後1~2年のうちに行う。

バトゥの立地は、山地だが村人がよく通る場所が選ばれる。峠道が多い。

村人が結集して石をその山地に運ぶ。

七日七夜にわたる祭りを行う。故人の思い出を語り、家畜を屠り供えて、村人全員で共食の後に歌と踊りを連日行う。


興味深いこととして、現在のケラビット族はバトゥを作らないが、それ以外は今も同様の祭りを行うということで、石は主役ではなくなっている。

岩田氏は「石はカミの依り代でありえたのだろうか」という疑問を投げかけているが、その答えは明言されていない。


ドルメン、メンヒルに属する巨石文化の典型的事例として語られるものだろう。


2025年3月9日日曜日

霊巌寺の巌廉(京都府京都市)


京都府京都市北区西賀茂船山


霊巌寺(りょうがんじ)の巌廉(いわかど)は、『今昔物語集』巻第三十一「霊巌寺別当砕巌廉」に登場する岩石で、巌廉は岩門・岩穴と同義とされる。

以下、丸山二郎[校訂]『今昔物語集 本朝篇 第5』(岩波書店 1954年)を底本として、該当箇所を現代語に意訳しておく。

―――

今は昔、北山に霊巌寺という寺があった。この寺は妙見が現れた所である。寺の前から三町(約330m)ばかりの所に巌廉があった。人が屈んで通れるくらいの穴があった。たくさんの人が詣でて験あらたかなので、僧坊が数多造られて大いに賑わった。

ある時、三条天皇が目を病んだので霊巌寺に行幸するという話が出たが、巌廉があると御輿が通れないというので、行幸はなしとするということを霊巌寺の別当が聞いた。別当は、行幸が起これば私は必ず僧綱になれるのにと思って、行幸を起こすために巌廉をなくそうと思った。別当は人夫を雇い多くの柴を刈り、巌廉の上下に積んで火をつけて焼こうとした。

同じ寺の年長者の僧からは、この寺の霊験あらたかなのは巌廉によるもので、この巌廉を失ったら験が失せて寺は廃れるだろうと嘆く声もあった。しかし別当は我欲のためにそれらの僧たちの言うことには耳を貸さず、柴に火をつけて岩廉を焼いた。

こうやって岩廉を熱した後に大きな鉄槌で打ち砕いたところ、岩廉はことごとく砕け散った。その時、巌廉が砕け散った中から百人ばかりが同時に声を出すかように轟音を発したので、僧たちは、ひどいことだ、この寺は荒ぶ、魔障に謀られたのだと別当に悪態をついた。

巌廉はこのように失われたが行幸もないままで、別当の喜びも止まった。別当は寺の僧たちに嫌われて寺にも来なくなった。その後、寺は荒れに荒れて堂舎・僧坊もすべて失われ、誰も住まなくなりただ木こりが使う道になった。

これを思うに、益のないことをしでかした別当と言える。僧綱になる可能性がなくなるからといって、巌廉をなくすことにするとは智慧のない僧ではないか。智慧なく我欲にとらわれて霊験の源泉を失うという空虚な出来事である。ということで、その場所にはその場所の験が存在する(所ニ随ヒテ験モ有ケル也)と語り伝えられたという。

―――


巌廉は寺の霊験の源泉として信じられたこと、そして、そんな中でも我欲にとらわれると信仰当事者の仏僧ですら霊岩を破壊する移り気のあっただろうことが当時の人々の心性として読み取れる。

仏教者にとって、本尊ではない、土地に根差した岩石という存在に向けられた一種不安定な立ち位置を示すだろう。しかし「所ニ随ヒテ験モ有ケル也」として無視できなかったのである。


さて、この巌廉、ひいては霊巌寺がどこにあったのか、そもそも実在したのかということには長年の議論があった。

霊巌寺自体は今に存在せず詳細な場所は未確定の段階であるが、候補地として西賀茂の船山南山腹が有力であり、一部の文献では船山に造成されたゴルフ場内にそれらしき一対の岩門状の岩石があると報告されている。


川勝政太郞「芸苑紀行 西賀茂の石佛と岩門」(『史迹と美術』29-3、1959年)では、川勝氏が実際にゴルフ場を見に行き、「岩門と見られる向い合った巨岩」を確認している。詳細位置を地図上で記録してくれていないのが残念だが、その岩石を撮影した写真をp.119に掲載しており参考となる(門のように一対となった岩石の後ろにはゴルフ場とみられる開けた傾斜地、そして船山らしき山容が望める)。

このゴルフ場の辺りで同志社大学の酒詰仲男教授らが堂跡や古瓦を見つけて、ここを件の霊巌寺に比定した話にも触れている。


寺河俊人『幻の寺』(春秋社 1970年)にもこれと同一物と思しき岩石が報告されている。

今では霊巌寺跡はゴルフ場になって、手入れのゆきとどいた芝の丘陵がゆるやかなスロープを見せている。およそ六十万平方メートルというゴルフ場の私道に車を乗り入れて、西の端に行ってみた。そこに大きな岩がある。今もゴルフ場のコースとコースを結ぶ通路の門になっているが、もとはといえば、霊巌寺の山門だった。(寺河、1970年、p.121)

ゴルフ場の西の端あたりで、通路の門のようになった岩石という具体的なヒントがある。

ちょうどその辺りは「西賀茂岩門」の地名まで残るが、これが歴史を忠実に伝えるものとして素朴に信ずるべきか、後世の付会によるものと史料批判を経るかの作業が必要である。

前掲文献群では断定的に霊巌寺の岩門と書かれていたが、現時点では候補地とみるにとどめるべきだろう。

いずれにしても、候補の岩石が現在もゴルフ場内に現存するのか、その正確な位置確認から望まれる。


また、西賀茂船山の北に隣接して西賀茂妙見堂の地名が残るが、文化財上はそこに西賀茂妙見堂遺跡が確認されている。

最近の報告として、立命館大学考古学研究会が同地で岩石の露頭を確認している。

妙見堂は霊巌寺の別称として知られ、そこに寺域地形が見られて露岩が存在することも『今昔物語集』の巌廉と関連して考慮されていく必要があるだろう。


2025年3月4日火曜日

佐藤宗太郎『石仏の解体』(1974年)メモ

『石仏の解体』目次

佐藤宗太郎『石仏の解体』(学芸書林 1974年)は、石仏に対する世間の風潮に疑問を呈した本として読む前から注目していた。

思想家の吉本隆明が序文を寄せ、「なぜ対象は<石仏>でなければならなかったのか? <石>の造型でありさえすれば何でもよかったのではないか、というαでもありωである問いが、佐藤宗太郎にのこされるようにおもわれた」(p.13)と、佐藤氏が石仏に惹かれてしまった主観的な部分と冷徹に石の要素を構造化しようとした二つの心の葛藤で書かれた作品と評する(この序文は、本文を読んだ後に読まれるべき性質の文である)。


当時、佐藤氏は石仏を撮る写真家だった。最初は石仏にただ惹かれて写真を撮り続け、誰かのセンチメンタルな言葉を借りて石仏をわかった気持ちでいたが、その危なさに気づいて本書を書くことになった。

本書に通底するのは、石仏を自分の心の慰みものとして叙情的に語らず、あるいは仏教的・美術的など一角に寄らず、石の「造形(かたち)」を細かく分解・分析して、石と石仏の精神的関係を追い求めようとした思索である。

「石仏」を「磐座」「巨石」などに替えれば、恐ろしいほど現代人が再生産している人の性(自分の主観を対象に重ね合わせる)に対する忠告と言える。


本書の読後感としては、たとえば第1章はインタビュー形式で構成され一見平易に読めるが、「~的」「~性」などの抽象的な語彙がふんだんで、それぞれの語彙の定義がはっきりしていないため読みながら意味をとりづらい部分がある。佐藤氏自身が本書を書きながら思索を重ねているからだろう、本書の前半と後半で考えを訂正している箇所さえある。

また、石仏の事例は多く取り上げられ具体的だが、核心に触れる部分はデータ(石仏のポテンシャルを数値化するくだりはあるが、主観を数値化したものなので定性)に基づいた話ではなく随想・直観による論旨のため、言い過ぎや意味を持たせすぎの面もある。佐藤氏自身は章題に「私情」と書いており自覚的と思うが、言語化されていないものを言語化し過ぎようとしていて、すべてに意味を持たせようとしたことが逆に正確さから離れるように感じた。

したがって、万人が読んで納得するものとはなっていないが、本書の石仏を巡る哲学的提言は現在も未解決の問題提起ばかりである。そこに本書の唯一無二の意義がある。

ということで、あくまでも岩石の精神に関する部分に限って、以下注目すべき記述を引く。


「何気なく、ただひっそりとたた佇む名もなき石の仏」「その姿や表情の素朴な美しさ」「言うに言われぬ親しみ」「石仏に接すると心が洗われる」「石仏はこころのふるさと」等々々――。これらは石仏を愛する人々の言葉である。実は筆者が石仏行脚を始めたころ、既にそのように言われていたし、筆者も当初は全く同じ言葉を使って石仏を賛美していた。だが、こうした石仏の愛し方や見方は間違いではないけれど、本当に石仏の価値や内容を認めていることにはならないのではないか、という気がしてきた。愛するという心情におぼれてはいけない。愛すればこそ対象の本質を真剣に考えねばならないと意識した。(p.11)

本書のきっかけを記す一文。石仏を題材とするがそれにとどまらず、どのような研究テーマにおいても、研究者が研究対象に対して抱かないとならない境地として読める。


簡単にいえば「石仏」が安っぽく落着いてしまっていることです。<石仏なるもの>は<こういうもの>だと何んとなくわかってしまったような風潮が感じられることは、正直に言って愉快なことではありません。(p.14)

世間のイメージに迎合した理解や、辞典的な理解で一つの概念を終えようとする危うさが「こういうもの」の表現に込められている。


自分では一応現代人――近代的な感覚・認識をもって生きているという意味でですが――それが「石」に対してある種の<感応>をもったということが、自分なりに非常に興味深かった。しかしそれが何故なのか、何故「石」が生き生きと、激しくこちらに迫ってくるのか、よくわからない。それで何んとしてもそれをわかってやろうと意識し出した。(p.31)

佐藤氏なりの石への感情の言語化が見られる。生き生きとしている石、生気を持つ石を感受するというケース。近代合理主義的な理屈を抜きに、佐藤氏が受け身的に惹かれるという構図である。


石仏を始めたときからわかっていたんですが、行脚が深まるにつれて、それが想像以上の数量なんで、本当にびっくりしました。数量それ自体が日本の石仏の性格を表示する一種の「質」を示している感じ――いわば「質量」の大きさとなって迫ってくる感じでした。(p.36)

石仏の数多あるところに人々の生活をみる境地と佐藤氏は述べるが、量の多さが質を示すというのは、私も岩石信仰の事例に毎日のように出会って「思い」の質量をつくづく実感する。


岩に対っていった昔の人達の造形意欲とか、あるいは岩に対わせた理念とか精神力の激しさとかに対して、現代人であるわれわれのある種の<弱さ>というものを痛感して一層無力感が強まるんです。(pp.59-60)

佐藤氏は、だから弱さをカバーするためにひたすら石仏に時間をかけて訪ね、写真を収め、渉猟するのだという。これでも、昔の人が持っていた信仰や祈りの精神からは遠くかけ離れて、やはり無力感に悩まされるというのは、信仰心をもたない研究者全員が同じ思いだろう。


私は石仏の<宗教的内実>を考えるに際して、<宗教性>と<彫刻性>と<自然性>の三つの概念を柱とする<立体構造>を想定した。(略)<自然性>とは石仏を思考し、かつ論ずる場合に絶対に捨象出来ない<相>である、と私は確信している。これを除外すると、石仏が石仏でなくなってしまうからである。(p.105)

p.182にこの「石仏の概念立体構造図」が掲載されており、先にこの図を見ながらのほうが理解しやすい。

三角柱の概念図であり、研究者はどの角度と視野で三角柱を横から見るかという点で多くの示唆を与える。そして、三角柱の底面こそが造立者が見た視点であり、研究者からは見えない「世界の相違」という諦念にも似た問題提起がなされる。


岩と石の性格の違いは極めて大きい。<岩>とは大地の骨のごときものであって、その現示の様相の一端が岩壁であったり岩盤などである。岩山の無限の奥行。絶対値では示しえない大きさ。それを考えただけでも<岩>は個体ではない。<岩>は人間的なスケールでは測りえない無限性をもつ。<岩>は確かに実体として見えているが、同時にその無限性において、一種の<空間性>を兼備している。(略)<石>は岩山から分離して生じたものである。その分離のしかたによって、その<石>の性格が著しく異っている。(p.132)

岩と石の違いを説明する節で、ここは長いため補足的にまとめる。

佐藤氏は岩石を「岩ー岩塊ー自然石ー不定形石材ー定形石材」に分類する。これは一種の序列にもなっており、左から右の順で「自然性」が希薄になるという。「不定形石材」は、自然石の姿形をある程度残したまま石材として用いられる石であり、そこには自然性が宿るという点で注目すべき概念である。

前掲記述のとおり、岩は無限性そして空間性をもつ。岩から離れた石は大地から離れた個体となるという点で、岩とは異なる性質となる。

たしかに大地から動かせない岩は、大地を込みにした不可分の存在であるから、空間的であると言えるだろう。ならば、岩石信仰の要素の一つに空間性が認められるのは確定とみてよい。

ただし、石と岩の歴史的な語義に基づいて佐藤氏は語っているわけではなく、古典における石・岩の使い分けや語義については定まっていない。

したがって、このくだりは「動かない岩石」と「動かせる岩石」の持つ、それぞれの岩石の特性を指摘したものと受け止めるのが適切である。


<岩>はあくまで自然そのものとして存在し、<石>は自然に抵抗して存立する。強いて言えば、<岩>は原始に位置し、<石材>は文明を背負ってきた。<岩>と<定形石材>の中間に位置する<自然石>や<不定形石材>は、そのあつかわれ方によって、原始性も文明性も保有することになる。(p.135)

岩は本来的には不変ではなく絶えず変化している物質だが、人間の尺度から見たら不変である。このように岩には人間的尺度・生物的尺度を越えた不変性があり、だからいつの時代の人間から見ても岩の姿には原始性(原初性)が宿る。

そんな岩から離れた石は、堅牢な物質的特性をもつことから、以後、石の外部の自然から影響を受けにくい存在として、自然に抵抗する役目を担うという逆説性を帯びたのだと説く。


岩があっても、必ずしも磨崖仏は刻まれはしないのである。実際的にみて、わが国の摩崖仏は全国でおよそ二百ヶ所程度である。それに比べて自然の岩や山に対する信仰――即ち宗教的な意味性が確立した自然空間のの実例は数え切れないほどである。しかも、それらの多くは、摩崖仏を刻むに適した条件を備えているのである。これらのことは至極当然のことであるが、摩崖仏の造顕の意味を考えるとき、深く認識しておく必要がある。(p.143)

なぜ磨崖仏が彫られた岩石と、見逃された岩石があったのかという、あまり他に見ない問題提起であり当然未解明のテーマである。


<仏像>と<岩>とでは明らかにその<世界>が違う。一方は観念的空間であり、他方は現実の存在感によって支配される――言わば<実質的>な空間である。(略)<岩>のカミ(あるいは霊)は仏像として造形化されて、はじめて確かなイメージとなって顕現した。<仏像>は<岩>の無限の<質量>によって現実的な実体感を得、その位置する世界を観念上の空間から、より実存的な空間に位置をかえた。相異なる信仰、相異なる世界の重合。(p.146)

磨崖仏がなぜ自然石に彫られたのか、両者の相乗効果を端的に記した箇所になる。


<岩>は自然としての存在そのものであり、空間的である。<共同視覚的>発想をするなら<岩>はすでに<他界>に位置していると言えよう。その意味からも、<岩>自体がすでに宗教的な存在であるといっていい。その意味でさらに極論すれば、自然性を即宗教性と考えてもいい。(p.169)

岩は空間的で、生活のムラを起点とする共同体の人々から見ればそれは「他界」に属したという論理で、石ひいては外界の自然界は宗教性を帯びたと発展するが、おしなべてそう言えるかというとちょっと言いすぎか。推測に推測を重ねて論理が進むため、土台の根拠をどこまで信じていいかで本書の後半の受け止め方は一本の筋のように心細い。

佐藤氏は縄文時代から石の信仰は連綿と続くことを例示の一つとしているが、持ち運ばれ並べられた石が石の信仰(石が信仰対象か)と呼べるかは批判の余地があり、また、大地に根差していない石に、佐藤氏が言うような宗教性の要件たる空間性・他界性をもっていたとする証明にはなっていない。

さらに、神聖視・特別視されなかった岩も無数に存在しており、それらの岩に対する補足説明が要るだろう。それらの岩は記録が失われただけか、岩の宗教性を感じとれなかった人の感受性側の問題か。つまるところ、自然・岩に自ずとおしなべて宗教性は宿るのか、その宗教性を感受できるかできないかの人の間の認知の差なのか。


造像の志向性が優先し、それによって<岩>本来の宗教性が阻害されているようにみえる。強いて言えば、仏師達の高度な技法が<岩>を単なる素材と化してしまっているのである。彫りすぎである。私はそのところに臼杵磨崖仏の<岩の造形>としての一つの欠点をみる。(p.174)

臼杵磨崖仏は「彫りすぎ」とする評である。美術的観点に裏打ちされたものと受け止めるべきか、佐藤氏の主観として閑却するか、私にはわからない。定量的なものではない「美」の領域の扱いかたにかかわる。

これに関連して、佐藤氏は岩から離れた独立石仏の場合も、岩より自然性は希薄ながら、自然と人為の調和による美があるとする。すなわち、人為が自然を殺しているとは限らないということである。

人間が自然をさらに美にしたいと思い、自然に手を入れつつも、一方で、手を入れない部分もあった。それが「成功」したかどうかは、本来的には作り手にしかわからないが、つくられたものを見る「受け手側」が各々生み出す美の認識も実際として存在する。

難しいのは、それらの認識が必ずしも言語化の形をとっていないだろうことで、それをどこまで文章化できるのか。そして、文章化することが他人を表現するという点において正確なのかという疑問が私にはある。


鎌倉時代以降になると比較的硬質の石材を刻む技術の発達によって、<石>の自然性がほとんど無視されたような石仏も多く出現してくる。そこでは<石>は完全に素材化し、ノミに対して全く抵抗感を示さない。つまり<石>の内面性は彫技によって阻害され、ただ単に<石肌>という表皮的な感触性として<石>の意味があるだけなのである。(p.177)

鎌倉時代の前と後で、石仏がこのようであると言い切れるかどうかは要審議である。


石材は運搬可能であり、石工が自分の工房で石仏を刻めるし、労力も技術も惜しまず使える。つまり職能者として日常的な自分の<空間>で仕事が出来る。だが磨崖仏はそういうわけにはいかない。絶対なる<存在>である<岩>――その支配する空間、つまり非日常的な<世界>に入って仕事をしなければならないのである(しかも彫刻に困難な硬い岩に対って……)。そこでは岩はすでに<神>であり<仏>であるのだ。それに対って像を刻むことの、その行為自体がすでにある種の宗教的営為であり、宗教的営為としての意識を石工に要求している。(p.283)

他界たる空間内の岩で彫ること自体が宗教的行為であるとする。

佐藤氏は石仏造立を全国的におこなった主体を宗教者の聖たちに比定しているが、宗教的行為を行う石工も宗教者と同等である。

岩石における宗教性の追究が本書のテーマであるが、岩石に対峙する人間側においても、宗教的なものは宗教者のみの専売特許ときっぱり分けきれるものではなく、生活の延長線上の行為に宗教性が帯びうることを「空間」の違いで喝破した一文と言えるのではないか。


2025年2月24日月曜日

高木寛治『石に救われる―石の書―』(2024年)書評

岩石の哲学に関する新著として、高木寛治氏の『石に救われる―石の書―』(吉備人出版 2024年)を読んだ。


高木氏はイワクラ学会理事として知られるが、氏の刊行歴に「石と在る」を見かけた時、ブログ「石と在る」の方だと初めてつながった。

「石と在る」は2005年~2008年に更新されていて、ブログ自体はまだ残っている。投稿内容を見れば石への造詣の深さは一目瞭然で、石を哲学的に思索する方として当時からとても気になっていた。このような形で邂逅できてうれしい。


2003年刊の第1集『石と在る』から、2023年刊の第5集『石を祀る―神々の里・総社のイワクラ(磐座)―』までの発表済み文章の自選という形をとる。

2024年の書籍と紹介するには高木氏にとっても古い言説も含まれると思うが、高木氏の言を借りれば「執筆から二〇年近い年月が経過したが、石に対する想いはほとんど変化していないことに驚くとともに安堵もしている」(p.45)の一文もあり、自選であることから2024年時点の一人の石好きの言葉として受け取ることができるだろう。


石の本の集成

高木氏の本書のもっともありがたいところは、古今東西の石の本を類を見ないほどまとめきり、本書に収録したことである。

私のように、岩石信仰に関する本だけでもない。一般的イメージの、岩石学・鉱物学からのアプロ―チだけでもない。

地学などの理系の石の本から、歴史、詩、小説に登場する文系の石の本まで、分野関係なく「石と人との関わりについて全体を展望する意図があって書かれたと思われる本」を蒐集している。


たとえば高木氏は水石(鑑賞石の山水景石)をきっかけに石拾いを始めたが、当時の水石ブームのなか高価で売買されていた風潮に異議申し立てをはかり書かれた河野宗一『石と人生』(私家版 1968年)、石仏に魅せられた自分に内的矛盾を感じて作品化したという佐藤宗太郎『石仏の解体』(学芸書林)、石狂・石道楽と称されて崑崙山を模した石崑崙を築いた石井金三朗『石崑崙』(私家版 1935年)など、まったく知らない石と人のディープな本が紹介されている。

数例を挙げるだけでも、それらを蒐集した高木氏の視点の独自性が窺われるだろう。

石の本を蒐集する+石に関する随筆を書くという両輪で、石と関わってきた著者。

高木氏の著書で知り、私が新たに買った本は次のとおりである。

  • 久門正雄『石の鑑賞』理想社 1954年
  • 河野宗一『石と人生』醇和同窓会 1968年
  • エス出版部『日本人と石』1992年
  • バード・ベイラー『すべてのひとに石がひつよう』河出書房新社 2017年
  • 白水晴雄『石のはなし』技報堂 1992年
  • 佐藤宗太郎『石仏の解体』学芸書林 1974年
  • 岩田慶治『草木虫魚の人類学―アニミズムの世界』講談社学術文庫 1991年
  • アンドレ・ブルトン『鉱物』国書刊行会 1997年

本書によって多くの石の関連本が散逸せず、高木氏に感謝しかない。


拙著『岩石を信仰していた日本人』も紹介いただいており、私のホームページ(2012年の文章ということで旧ホームページ)を以前より注目いただいていたとのことでありがたい思いである。イワクラ学会誌に私の論稿があればもっと良かったのではないかという過分なお言葉もいただいているが、私とイワクラ学会の関係は前記事に書いたとおりでご容赦願うしかない。

岩石祭祀事例集成表に粗密があると記した私の「言い逃れ」にも注意深く確認をいただいており、岡山県の場合は私が62例を挙げたのに対して別文献では岡山県の磐座が101例、「星と太陽の会」の探訪を踏まえると実際は数百カ所に上るだろうとの指摘も具体的でそのとおりと思う。

私が「おわりに」で書いた文を長めに引用していただいている。なぜ岩石信仰に興味を持つようになったのかという書き出しから、岩石の哲学的なアプローチを今後深めていくという決意表明の部分である。それから14年、一応このような形で宣言どおり哲学的アプローチのインプット中である。

感情を入れないように書いた本でわずかに感情を込めたのが「おわりに」なので、高木氏の求めるところと符合したのだと思う。昔書いた文章なので今は青臭さで恥ずかしいが偽りはない。

高木氏も書中で「いつごろから、なぜ石に惹かれるようになったのか、今となっては定かではないが、人の生活の根源をかたちづくっている石が、動物や植物、天候などの他の自然要素に較べ、多くの人から関心が払われる度合いが少ないことが背景にあるような気がする。石に関する書物は、店頭でもほとんど見かけない。」(p.159)と書いている。私の「おわりに」と通じ合う部分がして同感を得たりの思いである。


石の出会いときっかけ

高木氏は石に惹かれた時の自身の精神状態を、もったいぶらずに言語化している。

「『存在の不安』に根差している」(p.10)

「たまたま立ち寄った『石』の盆栽とも言える『水石展』で、形容しがたい石の自然美と沈黙、そして多様な形態を備えた不動の、静寂の中の、小さいが堂々とした存在に、なぜか心惹かれる思いがしたのである。」(p.11)

そして、高木氏は自らが石から離れられなくなっている理由を、自らの内面のみならず、古今東西の先達の本が記した「言葉」からヒントを得ようとしている。


その言語化に大きく寄与するものの一つが「石をモチーフとした詩歌」であり、たとえば加藤克己『石百歌』(四季出版)はその書名のとおり百首を越える石の短歌が収められ、とりわけ高木氏の石のイメージを豊かにしてくれたらしい。

使われる言葉が難解でなく、短く端的に表現される詩歌は「処世訓」にさえなったといい、高木氏はそのような詩歌に出会ったらノートにずっと書き留めていた。書き留めることで、自分の感情の解決に必要な時に引き出せるのだろう。

先出の加藤氏は自らの石の歌に対して、石は自分の生命そのものを宿したものと表したというが、その点で岩石が人間の写し鏡であり、岩石を通して人間を語っているに相違ない。

形式は変われど、私がブログで本書も含め、各種の記録を行うのと同じかもしれない。


生活の中の石

当ブログをお読みの方なら磐座・巨石信仰に興味のある方が多いだろうが、高木氏は水石と石拾いから磐座へ関心を広げた方なので、その関心領域は石の総体である。

信仰の石に関するものなら、次は古墳、墓石、石仏、石塔、石碑というところか。それにもとどまらない。

信仰や精神世界と一見無縁と思われやすい、生活の中の石にも着目している。


石垣

  • 城の石垣や石塁や石蔵だけではない。
  • 氾濫や洪水から防ぐための河川の石垣
  • 石垣の壁の家
  • 石垣の塀
  • 石垣でできた突堤
  • 田畑を守る石垣
  • 猪垣

その他の石

  • 石橋
  • 石段
  • 石畳、石敷きの道
  • 漬物石
  • 軽石
  • 砥石
  • 石臼
  • 力石
  • 鉄道線路の敷石
  • 投石 遊びとしてのつぶてから、儀式・戦争に用いられた石投げ、投石具、石弾まで
  • 硝石 爆薬の原料
  • 宝石
  • 薬石 鉱物から薬品や化学物質を取り出す
  • 温石
  • 碁石
  • 石焼き芋


子どもの石体験

山田卓三・編『ふるさとを感じる あそび事典 したいさせたい原体験3000集』(原体験教材開発研究グループ 農文協)には「石体験」の種類として次が挙げられるという。

  • 石に触る
  • 石のにおいをかぐ
  • 石をなめてみる
  • 石をたたく
  • 石を探す
  • 石を並べる
  • 石を割る
  • 石でたたく、つぶす
  • 石で絵や文字をかく
  • 石の上を歩く
  • 石で水切りをする
  • 石で的当てをする
  • 石けりをする
  • 岩登りをする

子どもを対象とする研究では、ヒトの先天的な精神・感覚の発露とみなす評価がある。

その点で、石の原体験という視点は興味深い。

高木氏はそれに加えて、「石を積む」「石で何かを模して玩具、置物、芸術作品にする」「石を熱くする」も提案している。


また、高木氏は子どもの頃に不思議に思った石について以下の事例を述懐している。

  • 軽石 石といえば重いイメージなのに軽いのが不思議だった。
  • 石炭 燃える石。蒸気機関車の時代には駅には石炭が山積みで、宝物のように思えた。
  • 磁石 川原で砂鉄を集めて遊んだ。石といいより金属の一種。
  • 化石 高い山の上に、海中生物の歴史が石の中に閉じ込められている地球のダイナミズム。なにもかもが石になっていく自然の摂理。
  • 鍾乳石・水晶 子どもながら欲しいと思った。
  • 蝋石 コンクリートや石敷き面に絵や文字を書いて遊んだ。
  • 硫黄 祖母や母が庭で硫黄を使って強烈な臭いと共に干瓢づくりをしていた。
  • 隕石 大人になってからも、隕石伝説に出会う。


これらの中には、大人になってから岩石の一種であると知ったものもあるという。

近代科学における岩石の領域とも言え、近代科学以前では石の概念に入らなかったものもあるだろう。その点で、どこまでを原初の人が石とみなしたものの精神と見るかには多少の腑分けや注意がいりそうではある。

それでも、高木氏の子供時代の生活体験の豊富さは、かつての石と人の関係を現代人が想像するに参考となる。

「当時、舗装された道路などほとんどなく、空き地もあちらこちらにいっぱいあった。そして、そこらには大小の石ころが無数にあった。しかし、今、世の中はうつろい、地面の多くが疑似石などで覆い尽くされ、それらの『石』はいつのまにか、すっかり身辺から姿を消してしまった。」(p.54)

そのように石がありふれていた時代に、特別視・神聖視された岩石とは何だったのだろうかという興味がもたげてくる。

少なくとも、現代、石の体験に乏しい私たちが物珍しさで驚くような巨石・磐座との感覚とはまた異なるだろうことは想像できる。


体の中の石

「私には、動物の体の中の『骨』や『歯』、体を覆う亀の『甲羅』、貝や蝸牛などの『殻』は、一種の石ではないかと思えて仕方がない。」(p.40)

硬さの象徴、白さの象徴としての石というだけの随想ではとどまらず、高木氏は後漢末の成立とされる『釈名』の「地は石を以て骨と為す」も紹介している。石と骨の同義を説くものであり、久門正雄『石の鑑賞』(理想社)では石の異名を「地骨」「山骨」「山体」「天地の骨」と称し、天地をつなぐものを「雲根」と称したのは、すべて人が石を自然界で見立てた精神観である。


高木氏は医師としての知識から、体内をめぐる鉱物と人の関係にも注目する。

動物は石を作ることができるという次の例示は、氏ならではの観察眼、本領発揮と言える。

耳石は、内耳の耳石器にあり、体の均衡を保つもの。

結石は、詳しくは尿路結石、胆石、唾石、扁桃結石、静脈結石、膵石、胃石、腸結石、鼻石、歯石に分かれ、詳細の成因は異なるという。

体内の石も、重要でもあり有害にもなる二面性を語るもので、体内の石が人に牙をむいた時、真摯に向き合うことが石との付き合い方に通ずると高木氏は述べる。


自然石を動かすことについて

水石にせよ石拾いにせよ、それらは自然石の本来あった場所を移動して、場合によっては一部に手を入れて加工・切削され、置かれる場所も人の意図によっては配置される。

自然石を愛でるとはいえ、これは本当の自然を対象とした精神といえるのかという疑問はある。

これについては、高木氏が古本で見つけた内藤濯『未知の人への返書』(中公文庫)の中の作品「石を前にして」の記述に一つの答えがある。日本庭園における庭石や飛石の置きかたについての考えである。孫引きとなるが下記掲載する。

「飛石をならべたのは、むろん人間である。だが、この場合は、自然が人工を見えなくしているのである。あるいは、自然が人工を美しく生かしているのである。自然の生き方――ひいては石の生き方と、人間の自然の生き方との調和ということがもし考えられるなら、それこそ美しさの絶頂であろう」(pp.172-173)


高木氏の石の哲学

本書における核心部分の記述は以下にある。

「人類の営みの全体が、石の増殖への協力加担ではないか」(p.48)

「石のなかの原子力までもとりだしてしまった人類は、今、すこし立ち止まって、見えない石(宇宙)の大きなたくらみがひそむ『石の夢』の分析を行ってみる必要があるのではないだろうか。そのためには、石との対話を深めていくことが避けられない」(p.49)

「石の夢」とはシャルル・ピエール・ボードレールの同名の詩から借りた表現であるが、高木氏は澁澤龍彦が言うところの「石は大地という源泉に所属する」という石の哲学や、栗田勇の「1個1個の石の中に神の世界、夢の世界がある」という言説を受けて、こう結ぶ。

「いわゆる石(宇宙の要素とみなしたい)は生きている、石は人智では、理解の及ばぬ深いたくらみを抱いているのではないかとの想いがふくらんでくる。」(pp.255-256)

石は宇宙の要素として生きていて、それぞれの石は生物時間とは異なる経過の中で生きるように夢見ていて、石の中で夢が無限大に増殖している、それを人間は1個の石からどれだけ受け取っていけるかということと私は解釈している。


高木氏が著書で繰り返し引用・紹介する記述の一つに、絵本『すべての人に石がひつよう』訳者の北山耕平のあとがきがある。変化の時代には自分の石を見つけて、その石と共に残りの人生を歩むことで、地球由来で小さな地球ともいえる石が記憶装置となってくれることの心強さを伝えている。

高木氏も本書の「おわりに」で、国民1人1人が、自宅内やベランダにでも置けるような手ごろな石を持つ習慣を提案している。それより良いとするのが、近くに参拝するような磐座を再発見することというが、これは住んでいる土地によるだろうとして手元の石を推奨している。

これは現代にゼロから創られた文化ではなく、武士の家の生まれだった津田左右吉が誕生日の祝いには小さな石が1個添えられ、毎年の誕生日では常にその同じ石を用いたそうである(長田弘『本に語らせよ』幻戯書房 2015年)。その人の一生の石という風習についてどこまで遡るのかは研究が不足している。


人類の歴史の99%は石器時代ということで、高木氏は石と人の不可分な関係を説く。

たしかに、人と石の関わりは「石器」という二文字が放つ一般的イメージ以上に、単なる加工と利用の関係にとどまらない。高木氏が引用する岩田慶治『草木虫花の人類学―アニミズムの世界―』(講談社学術文庫)にあるように、代々研磨加工、そして労力を重ねられて光沢を放つ石器はもはや宝器や精神的象徴のようなものである。

しかし一方で、石器時代というのは石器、つまり石が腐らず地中で残りやすいからこそ考古資料として残りやすいに過ぎない。

ヒトは石だけでなく、身の回りに存するものをすべて利用に用いていたはずで、草木との関係、水・風や日々変わる天候、そして虫から猛獣にいたる他の生物との関わりなど、これら有機物は残らないから結果的に石のウエイトが大きく見えていないかにも気をつけたい。もちろん、そういった石の遺存性自体は注目するに値するが、やや歴史を俯瞰する現代人視点に囚われている。

子どもの原体験として石に触る、石のにおいをかぐ――の例が挙がったが、それは赤子が身の回りのものをすべて手に取って口に入れるがごとく、石に限らずおこなわれたことだろう。そしてそれぞれの自然物や身の回りの「物質」から感受する精神があって後天的な知識・経験の獲得につながっただろう。

私は、他の自然物とは異なる、石からしか得られない感受・精神とは何だったのかを追究していきたい。

そして、石に感受しなくても石を利用することはできる。人間社会の中で、感受した人に倣えば石の使い方は模倣できるからだ。岩石信仰でさえ、真の意味で信仰心を感受できたのは一部で、社会の序列の中で石に感受しなくとも建前として石をまつった人々もいた。

「石は、成人に達した人間の大多数をすこしも立ちどまらせずに、そのまま通りすぎさせてしまうわけだが、それでも万が一ひきとめられるような人がいると、もう、とらえられて放さなくなるのが常である」(p.191/アンドレ・ブルトン『石の言語』より)のである。

石を利用することは数多あれど、石にとらわれて離れられなくなる人は、また別の精神なのである。

石を利用することと石を感受することは異なるという視点で、石と人のある種純粋ではない関係も見ていかなければならない。

その際には、あまり近代科学以降の知に寄りかからないようにはしたい。西洋を石の文化、日本を木・紙・水などの文化と対置する、あるいはそのアンチテーゼを問う言説などもその一つである。しらずしらず、自分が「最近」のだれかの言葉で語ってしまわないためだ。