2022年11月17日木曜日

12月18日(日)講演会「岩石信仰の歴史を、旧石器時代から現代まで」開催のお知らせ

 2022年12月18日(日)に、一般公開の講演会を開催します。

このような形で皆様に岩石信仰の話ができるのは初めてです。

詳細は、下の画像にてご確認ください。


日時

2022年12月18日(日)

14:00~16:30

※「鹿児島摩崖仏巡礼」vol.5「岩石信仰と摩崖仏」の基調講演を担当します。

※吉川の講演・質疑応答時間は14:00~15:30頃の予定です。

※15:30~16:30頃は、主催者「鹿児島摩崖仏巡礼」様による摩崖仏の紹介およびフリートークを予定しています(吉川もトーク参加)。


場所

レトロフトMuseo 2階

鹿児島県鹿児島市名山町2−1 レトロフト千歳ビル


鹿児島市電「朝日通電停」より徒歩2分。

鹿児島空港からはバスで1時間強の距離です。


参加料

1,500円 事前申込制です。


申込方法

「鹿児島摩崖仏巡礼」の専用申込フォーム(このリンク先または上画像のQRコードより)からお申込をお願いいたします。

開場の都合上、先着15名と限られておりますので、お早めにお申込ください。


講演タイトル

「岩石信仰の歴史を、旧石器時代から現代まで」


講演内容

タイトルのとおり岩石信仰の歴史を、遡りうる最古の時代(旧石器時代)から現代まで一気に説明します。

具体的には、それぞれの時代(旧石器時代・縄文時代・弥生時代・古墳時代・飛鳥時代・奈良時代・平安時代・鎌倉時代・室町時代・安土桃山時代・江戸時代・近現代)の特徴的と思われる事例・場所をピックアップして、視覚的にも楽しめるようなスライドショー形式で紹介していきます。

今までこのような視点で説明される方もいなかったと思うので、斬新な内容としてお楽しみいただけるのではないかと思います。

専門的な内容も織り交ぜつつ、一般の方向けに説明を工夫する所存です。

また、私個人としては初鹿児島になるので、「鹿児島摩崖仏巡礼」主催の川田達也さんや窪壮一朗さんから摩崖仏の勉強を深め、鹿児島の岩石信仰の実地観察もいくつかできればと今から楽しみです。

鹿児島県開催ということで気軽にお越しいただけない方も多いと思いますが、ご興味を持たれた方はぜひご参加ください。


2022年11月6日日曜日

葛籠石/つゞら石(三重県伊勢市)


三重県伊勢市中之町




伊勢自動車道を作る際に移設されたため原位置ではない。
岩石の配置も、立地する斜面傾斜によって異なっていた可能性があるだろう。

「出かわり乃 神もありてや 葛籠石」
(上野録二郎『伊勢両宮詣でのしるべ』1881年 https://lab.ndl.go.jp/dl/book/815107?page=15


本石はすでに、南平秀生氏がブログ「伊勢すずめのすずろある記」にて詳細な文献調査をされている。

伊勢・志摩・度会の石紀行 その3 伊勢市中之町の「葛籠石」(つづらいし) - 伊勢すずめのすずろある記

かつては「お岩」として社が設けられ、今はなき『伊勢風土記』なる書物にもその存在が記されたという。それがいわゆる古風土記か後世に編まれた続風土記だったかもわからない。


2022年11月2日水曜日

ドビロの列石 / 龍仙山の「神籠石」(三重県度会郡南伊勢町)


三重県度会郡南伊勢町船越 字ドビロ(堂広)


「龍仙山の神籠石」として紹介されることがあるが、文献を捲ると「神籠石」と呼ばれた時代がいつからなのか疑問符がつく。

南伊勢町の郷土史家として知られた中世古祥道氏(中世古 1980年)によると、当地が神籠石として紹介されたのは昭和15年が初出で、それ以前の古文書などに本列石の記述は見当たらないという。明治時代に巻き起こった、いわゆる神籠石論争の後にその影響で名付けられた可能性がある。

以上の点から、恣意性を避けるためこの記事では字名から命名された「ドビロの列石」を採用したい。

 

位置関係把握のため、下地図の地点記号に沿って紹介する。

地理院地図(電子国土Web)より。作図機能が埋め込み不能のため画像化した。

A地点 登山口

A地点から望む龍仙山。

南伊勢病院の奥に駐車スペースと登山口がある。普通車可。


B地点 東ルート入口

東ルートの標示。明記されてはいないが神籠石へ取りつく最短ルート。


C地点 本ルート入口

軽自動車なら本ルート前の駐車スペースも可。今回は本ルートから山頂を目指し、東ルートで下山する行路を選んだ。


D地点 最初の岩塊

龍仙山が自然岩盤を露出する地質であることがよくわかる。登山道中、沢が通る場所に礫石を列状に並べるのは、後述する「神籠石」に触発されたかのよう。


E地点 岩塊群と岩船石?

龍仙山の山頂近くに高さ5mの岩船石と岩船池があり、目が潰れるので近づくものはいないという(岩永 1980年、南伊勢町教委 2021年)。その場所は未確認ながら、地図上で山頂近くに池マーク(溜池含む)があり巨岩が見られるのはE地点のため、候補地として挙げておく。


F地点 山頂直下の岩塊群

こちらも山頂近くの巨岩と言え、岩船石の候補たりうる場所。

鞍部から谷間に列状に集まる岩石群。これも当山の「列石文化」の萌芽につながるものか。

山頂直下の巨岩群は山頂鞍部に続く。


G地点 「不動尊」「行者さん」

山頂西尾根上の眺望の開けた地点に位置。

行者さん(左)、不動尊(右)の石祠。手前の斜面には岩盤が露呈する。

行者さん、不動尊の西に連なる列石状の岩石群。


I地点 大日如来

龍仙山頂上。

大日如来の石祠。

山頂からは五ヶ所湾が一望できる。曇天のなか一瞬陽の目が射した。


J地点 "神籠石列石"の上端の始まりか

山頂から東ルートで下る場合、最初に出会う「列石」がJ地点。上方斜面から撮影。

下方斜面から撮影。

J地点から下方斜面にも断続的に列状の露岩が続く。石垣状にもみえるが、龍仙山は龍仙山層群と呼ばれて地質的な特徴を有する。その岩脈の一種ではないか。


K地点 ドビロ列石上部 自然岩盤群

「神籠石」の看板が立つ地点の北限。

列石というより、巨岩の群集である。

高さは目測5mは越えるだろう。人が運ぶ形状ではない。

しかし、このように列状にみえる部分も存在する。

当地の列石が、自然岩盤に端を発するものであることを首肯せざるを得ない光景。

巨岩と巨岩の間には、中休み的に中小規模の岩石が散在する。

K地点南限の巨岩。ここから南はL地点へわたって岩石の規模が小さくなる。


L地点 ドビロ列石中盤 人為的列石

L地点には「謎の列石・神籠石」の看板が立つように、最も人為性に富んだ列石が広がる。

岩石は地表面から独立して直立していることから、人が副次的に並べた可能性が指摘できる。

岩石の高さは1体1体が高さ1mを越えず、翻って人が並べた可能性を想像しやすい。自然の岩盤がまずあって、断続的な岩石の線に対して後世の人が手を加えたかもしれない。


上動画はL地点を撮影したもの。


M地点 ドビロ列石下部

列石の下部は、再び自然岩盤を起点に不整形の露岩が散布する。

列石下端の岩石。

東ルートから神籠石の尾根への取りつきは、上写真の赤看板が目印。


「龍仙山の神籠石および南伊勢町の列石群」雑感


ドビロの列石については、南伊勢町に広がる他の列石と絡めて論じられることが多い。

以前から知られた存在ではヤジロ山の列石、八方山の列石、行者山(大戸)の列石、城ヶ谷の列石があり、武蔵大学の学生グループが数年がかりで実測した列石測量図が町立の資料館「愛洲の館」に保存されている。

近年では中根洋治氏の踏査(中根 2018年)により馬山、浅間山、清水山、七軒屋の山中でも列石の存在が確認されている。

この濃密な分布は、一種の「文化」さえ感じさせる。


これが何なのかについては、アマチュアから職業研究者まで、すでに多くの見解が出されている。ここで、龍仙山を一度だけ見た私が何かを評価するというのは無謀に等しい。

半世紀以上にわたり南伊勢町の郷土文化の生き字引だった先述の中世古氏をもってさえも、その結論は「謎を解くつもりで始めた歩みが、まずまず迷路にはまり、ヌキサシならぬみじめな姿が今の筆者」(中世古 1980年)と自虐的に締めるしかなかった存在なのである。


それでもあえて書き記すことがあるといえば、龍仙山のそれはすべてが人工物であるとは認められず、まず存在したのは自然露出の岩盤だったことは揺るがない点である。

これを認めたうえで、次は、すべてが自然だったのかというとそうではなく、その自然の地質特徴に対して、人々が影響されて自然露岩群に端を発した列石を構築した可能性である。

龍仙山においては、先に報告したK地点やM地点に自然露出の高さ数m級の巨岩群があり、その巨岩と巨岩の間をつなぐように高さ1m弱の地離れした岩石を立て並べている様子が見受けられる。


南伊勢町の他の事例では、ヤジロ山においても尾根上に存在する二体の巨岩をつなぐように列石がみられるという。

そして先述したように、龍仙山の一帯は龍仙山層群と呼ばれて他と一線を画する特徴的な地質構造を持った地域であることが判明している。

そして龍仙山層群の範囲(内野・鈴木 2017年)を地図上で照らし合わせてみると、これまで報告されている南伊勢町の列石群の多くが龍仙山層群のエリア内に属していることがわかる。地質的には、龍仙山と同様の成因で岩石が列状に露出する土壌があったことも考慮に入れたい観点である。


そこから、人々が露出した岩石の光景に何を感得して、どう二次的に手を加えて自らの心性を表現したいと思ったのかで差は分かれたことだろう。

南伊勢町の列石群は、場所によって列石の配置のしかたや列石の立地が異なっているというのはすでに指摘されている。八方山はそもそも山頂に少なくとも一重、一部二重の環状列石が明瞭に構築されており、実測図から見るかぎり人為的遺構というほかはない。ヤジロ山の列石は山頂から山麓の尾根稜線上に一列の列石が続き、話を聞くだけだと奈良県御蓋山の列石を想起させる。そして龍仙山は、山頂近くの7~8合目の一部の尾根上に列石が断続的に続く。列石とは一言でいえども、一つ一つの列石の様相は異なるのである。


この様相の異なりは、南伊勢町の地質的特徴が山ごとで異なって地表面に岩石として出現したことによるもので、本来は意図的な立地や存在ではなかったのではないか。

その非意図的存在たる岩石を意味付けすべく、時に列石が増築され、それぞれの山で異なる意味や性格が付与されたとしたら、今ここでそれを祭祀遺跡とか砦跡・烽火跡などで一括するのは危うい(神籠石、猪垣の二説はすでに下火である)。しかし一つ一つの集落としての列石の性格をミクロ的に論ずることができたら、それを結果的に当地の「列石文化」として語ることはできるかもしれない。

現時点で私が書けるのはこれくらいで、後はさらなる踏査の機会、資料調査の機会が到来した折に追記することになると思う。


参考文献

  • 中世古祥道「南勢町の謎の列石」『夢ふくらむ幻の高安城 第5集』高安城を探る会 1980年
  • 岩永憲一郎「三重県南勢町列石見学記」『夢ふくらむ幻の高安城 第5集』高安城を探る会 1980年
  • 中根洋治『巨石信仰 第3巻』2018年
  • 南伊勢町教育委員会『南伊勢の民話』2021年(https://www.town.minamiise.lg.jp/material/files/group/17/minamiiseminwa_full.pdf
  • 内野隆之・鈴木紀毅「三重県志摩半島、秩父累帯北帯白木層群の泥岩から得られた中期ジュラ紀放散虫化石と地質対比」『地質学雑誌 123巻12 号』2017年(https://doi.org/10.5575/geosoc.2017.0041


2022年9月19日月曜日

桜町の山の神と疱瘡さん(三重県四日市市)


三重県四日市市桜町字乾谷

 

桜町の乾谷(いんだに)公会所の敷地内に、オムスビ形の立石が注連縄を巻かれてまつられている。これを「山の神」と呼ぶ。

桜町の山の神

背面より

現地看板

もともとは、公会所から北西の山中にある大谷池(弁天池とも)の北でまつられていた山の神である。それが戦後に池の南へ移され、さらに1986年の公会所建設時に現在の場所に再度移転したという流浪の歴史をもつ。

このあたりの経緯については、すでに桜郷土史研究会が「弁天様と山の神」(http://www.sakuracom.jp/~kyoudoshi/2-benten/benten.html)と題した調査結果を残しているので、詳細はそちらに譲る。

(研究会は2018年に休会したとのことでホームページの情報も含め今後が心配ではある)


山の神の立石の周りを見ると、十個余りの岩石が方形に配され、さらにその周囲三方が木製の柵で仕切られている。

現地看板によると、これは古事に倣った「神籬磐境」の祭祀形態だと『桜町地誌』(1884年)が記すという。


当地の山の神の特徴として挙げられている「神籬磐境」とは何だろうか?


まず、「古事」について考えてみる。

神籬・磐境はそれぞれ『日本書紀』に登場する古語なので、それをもって古事なのかもしれない。しかし、実は神籬・磐境の働きについては現在もまだ確定していない。

ただ、本居宣長が『古事記伝』で神籬を神聖な木の祭場で、磐境を岩石で区切った境と解釈した。

それが江戸後期の国学者や神職者に広く受け入れられ、山の神の祭祀時や明治時代の『桜町地誌』にそのまま採用された可能性がある。


しかし、最新の歴史学研究では、神籬は木でないといった批判(笹生衛氏『神と死者の考古学』吉川弘文館、2016年)もあり、この古典的解釈を再考する段階に来ている。

つまり、ここに再現されている「古事」は、あくまでも江戸後期以降の人々が想像した「原始的な祭祀」のイメージだったことに注意に払う必要があるだろう。


なお、岩石信仰の観点からもう一つ捕捉すると、この乾谷公会所の北にそびえる山中(字・砂子谷)に「疱瘡さん」と呼ばれる自然石があったという。

コロナ禍のため現地での聞き取り調査は自粛したが、すでに15年前の桜郷土史研究会の綿密な調査でも疱瘡さんの居場所は「行方不明」の結論だったとのこと。

昭和の末頃までは岩石の存在を確認できていたらしいが、本当にもう誰も知る人はいないのだろうか?

今もどこかにひっそりと佇んでいるのかもしれないという期待を込めて、ご覧の皆様のご教示を待つほかない。


「疱瘡さん」があったとされる砂子谷の山中(巡見街道沿い)

山中の多くはグレイスヒルズカントリー倶楽部の敷地内となっている。

【参考】南麓に鎮座する金比羅宮

社殿を建てた石垣が特徴的で、自然の巨石を石垣に組みこんでいる。


2022年9月18日日曜日

東海道の夫婦石/妻夫石/妋石(三重県四日市市)


三重県四日市市羽津町


志氐(しで)神社は、境内に北勢地域最大の前方後円墳を有する延喜式内社として知られる。

志氐神社境内古墳

古墳説明板

志氐神社の一の鳥居は東海道に面しており、鳥居の傍らに東海道を挟んで二体の石がある。

訪問年によって、看板があったりなかったりするので注意。

一の鳥居。写真右奥の塀の前に石がある。

2017年撮影

2003年撮影。この時は標柱があった。

上写真の石から、東海道を挟んだ向かい側(東側)にも石がある。
現地には「妋石」と書かれた看板が立つ。

2013年撮影

2017年撮影。新たに看板が立った。

現地看板の説明

この2体の石に関する最古の記録は、元禄3年(1690年)に刊行された「東海道分間絵図」で、絵図中に「道中にめうと石とて両方に有」と注記されている。

ここでは「めうと石」と読まれており、現地看板の表記とは異なる。


なお、これより後に文化3年(1806年)に完成した『五海道其外分間見取延絵図』では、志氐神社の一の鳥居付近に二体の石が描かれ、道の西側を「妻夫石 雄」、道の東側を「妻夫石 雌」と注記している。


さて、現地看板の写真には「古書」の存在を触れている。

この「古書」とは、記述内容から考えて天保4年(1833年)に刊行された伊勢国の地誌『勢陽五鈴遺響』を指すと思われる。ここではさらに具体的な来歴が記される。

此神社ノ地ハ本郡三重郡ノ界ニシテ鳥居ノ傍ニ二個ノ標石ヲ置テ二郡ノ界トス方俗此二石ヲ指テ夫婦石ト名ク婦女ノ婚ヲ求ルノ祈願ヲ此ニナス必応アリト俗習也(『勢陽五鈴遺響』)

志氐神社は朝明郡と三重郡の境にあり、二個の石を置いたことで境界を示したのだという。そしてこれを夫婦石と呼び、婦女が婚姻を求める時はこの石に祈願すれば必ず霊験があった旨が紹介されている。


さらに、『志氐神社縁記』という文献には「鳥居側有神石。南北厲盤根固而不知其深。自古稱之曰夫婦石。」と、また別の情報が登場する。

『志氐神社縁記』は、作者も制作年代も不詳であり、明治時代よりは古く、江戸時代をさらに遡るかは不明である。ここでは鳥居の側に神石があり、その根は深さ知れず、古くより夫婦石と呼ばれていると記されている。

以上をまとめると、この石は「めうと石」「夫婦石」「妻夫石」「妋(みよと)石」など表記の揺らぎがあったことがわかる。と同時に、文献によって石の性格や語られ方が異なることにも注意したい。


参考文献

  • 四日市市編・発行『四日市市史 第6巻 史料編絵図(解説)』1992年
  • 安岡親毅著・倉田正邦校訂『三重県郷土資料叢書第25集 勢陽五鈴遺響(1)』三重県郷土資料刊行会 1975年
  • 著者・年代不明『志氐神社縁記』(神道大系編纂会編・西川順土校注『神道大系 神社編14 伊賀・伊勢・志摩国』1979年に所収)



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