2019年8月6日火曜日

神倉神社のゴトビキ岩/琴引岩/天磐盾/神倉山遺跡(和歌山県新宮市)


和歌山県新宮市神倉

神倉山・神倉神社とゴトビキ岩の伝説


神倉は「かみくら/かんのくら」と読む。
神倉神社が鎮座する神倉山は、千穂ヶ峯あるいは権現山(標高253m)と呼ばれる山嶺の一峯で、この山嶺自体を古くは神蔵山と呼称していた。

神倉神社の神体をゴトビキ岩と呼ぶ。
「ゴトビキ」とは「ヒキガエル」の方言であり、岩石の形状から名付けられた名称と推測されている。
また、「ゴトビキ岩」を「琴引岩」という漢字で当てる場合もある。

神倉神社とゴトビキ岩

正面より

麓を見下ろす立地

ゴトビキ岩の下は大岩盤

神域の入口

神倉山。ゴトビキ岩が岩山の一部であることがわかる。

神倉神社は、熊野本宮大社・熊野那智大社・熊野速玉大社でまつられる熊野三所大神が最初に地上に降臨した場所といわれ、このことから熊野信仰発祥の地に位置付けられている。

さらに、ゴトビキ岩は『日本書紀』において、神日本磐余彦(後の神武天皇)が熊野に上陸して最初に祈願した霊地「天磐盾」の頂上と推定されている(確定ではない)。
また、神倉神社の祭神となっている高倉下命(タカクラジノミコト)が、高甕雷神(タケミカヅチノカミ)から神剣を授かった場所という伝承もある。
神武東征伝承では、神日本磐余彦が大和平定のため、日向国から瀬戸内海経由で熊野に上陸した際、熊野に巣食う邪霊(熊)を屈服させる手助けをしたのが高倉下命である。

神倉山遺跡出土の遺構と遺物


昭和31年の境内の改修工事に伴い、ゴトビキ岩の周囲から中世の経塚群や弥生時代の銅鐸などが出土した。これを神倉山遺跡(神倉山経塚・神倉山銅鐸出土地)と呼ぶ。

巽三郎氏の「新宮市神倉山経塚概報」(1957年)や、『和歌山県史 考古資料』(1983年)の記述を元に、ここにまとめておこう。

まず、改修工事に伴い出土した経塚は、大きく3ヶ所に分けられる。

第1経塚は「ゴトビキ岩」を構成する巨岩同士が折り重なってできた洞窟状の隙間に設けられていた。
この洞窟状空間は、神倉神社の旧社殿があった場所である。
この旧社殿跡の隙間は、高倉下命が神剣を授かったとされる場所という言い伝えがあり、そこからの経塚の出土は示唆的と言える。

第1経塚(旧社殿跡)


第2経塚は第1経塚の北に位置し、巨岩が庇となった岩陰平坦部分に設けられている。

第2経塚


第3経塚は現社殿の背後の岩崖近くに位置し、盛り上がった2つの自然岩盤の隙間に設けられている。

第3経塚のあたり(社殿背後に岩群が見える)


第1経塚・第2経塚が存在する地層は、岩盤の上に地山土層が重なり、さらにその上に炭灰土層が覆っていた。
炭灰土層は、建長3年(1251年)に神倉神社で火災が発生したという記録から、その痕跡と考えられている。

第1経塚・第2経塚の基底部は炭灰土層に築かれており、小さな石室が散在していた。
石室と石室の間は大小の割石で敷き詰められており、割石層が形成されている。
割石だけでは表面に凹凸が出来て隙間も甚だしいので、さらにその上に玉砂利を被せられていた。

第3経塚は、地山層を削って岩盤まで掘り進め、その岩盤を利用して小石室を築いている。その上を天井石で閉塞し、さらに土砂で覆い、最後に粗い割石を敷き詰めて終わっている。
第1・第2経塚の表面は玉砂利層だったのに対し、第3経塚は礫石と土砂で覆っただけの状態だった。

次に、各経塚から出土した遺物は次の通りである。

第1経塚からは、旧社殿跡以外のほぼ全域に渡り遺構・遺物が散布していた。
第1経塚の経塚遺構は5ヶ所確認されている。
小石室は板石を箱状に築き上げた構造をしており、その内部空間に円筒形の陶製経筒を安置している。石室の天井部には扁平な割石をもって閉じてあった。ただし、自然要因・人為要因によって小石室及び経筒は損壊しているものばかりであったので、経筒の内部に何が入っていたかは今となっては不明という。
目立つ出土遺物は懸仏など仏像の類であって、中には拳大ほどの大きさの玉石の上に安置されていた仏像や、ゴトビキ岩に接する形で置いている仏像などが発見された。

第2経塚における小石室(経塚遺構)は8ヶ所確認されている。陶質壺3個が完形品として出土しているほかにも多くの出土遺物が発見されている。

その中でも注目されるのが、第2経塚で弥生時代の銅鐸破片が22片出土したことだ。
僅かに残った銅鐸文様や鈕の特徴から、これは弥生後期の突線鈕4式近畿III C式袈裟襷文銅鐸と推定されている。
高さは破片の状態から復元すると、約60cmほどの中型~大型に属するサイズではないかとされている。

銅鐸片が出土したのは炭灰土層の最下層に位置し、層位的には経塚構築層と同一包含層となる。
この出土状況から、巽氏や大場磐雄氏などは、ゴトビキ岩に対して埋納されていた弥生時代の銅鐸が、後世になって経塚を築いた際に切りあい、破壊されたものだと推測している。
ただ、経塚の構築者が伝世の宝器として持っていた銅鐸を、地鎮的な意味合いで経塚の最下層に銅鐸片を埋納したという解釈もできないことはない。
この銅鐸が弥生時代の祭祀を示すものか、後世の再埋納かという議論については後で詳説したい。

第3経塚は、経塚上の松の根が土壌をしっかり保持していたため、保存状態が良く残されていた。
小石室の中心部に陶製経筒を安置し、他の空間部分を木炭・炭灰で充填していた。経筒の内部にも木炭が充填されており、おそらく経巻の防腐防湿のために入れられたものだったと考えられるものの、経巻の残骸は認められなかった。
石室の底部や石室の天井状面にも様々な仏教祭祀の遺物が供献されており、その整然な配置状態から、ほぼ原位置をとどめたままの出土であったと考えられている。第1・第2経塚と異なり、第3経塚においては全く仏像・仏具類が出土しなかったという特徴がある。

これら神倉山遺跡の遺物群は熊野速玉大社神宝館に収蔵・展示されている。


神倉山銅鐸にまつわる異聞


大野勝美氏が著した『銅鐸の谷 ある銅鐸ファンのひとりごと』(1994年)という本がある。
ここに神倉山銅鐸について一節が割かれているが、一般ではあまり知られていない貴重かつ重要な記述が見られるので紹介しておきたい。

まず、先述した神倉山遺跡の発掘状況は考古学者の巽三郎氏が報告文をまとめたものであるが、改修工事の際に見つかったものなので、遺構・遺物の出土状況を記録したのは巽氏ではなく、現場に立ち会った熊野速玉神社の当時の宮司だったと大野氏は同書に注意深く書いている。

この宮司の名前は明記されていないが、考古学に造詣がある方で、それで出土状況の記録も要点よくとられていた。

孫引きとなり恐縮だが、澤村経夫氏という方が著された『熊野の謎と伝説―日本のマジカル・ゾーンを歩く』(工作舎、1981年)という本に、次のような話が載っているのを大野氏は紹介している。

それによると、澤村氏は昭和28年頃、新宮駅裏の小道具店に約五寸(約15cm)の小銅鐸が飾られていたのを目撃する。
その2年後、熊野速玉大社を訪れたところ、その小銅鐸が神社にあった。澤村氏が件の宮司の方に尋ねたところ、文鎮代わりに買ってきたが、専門の先生が本物の銅鐸と言ったので今は大切にしていると回答したという。

その約20年後、澤村氏は再度熊野速玉大社を訪れ、あの時の小銅鐸を写真撮影させてもらおうと同宮司に依頼した。
そのとき、同宮司が運んできた銅鐸は、20年前に見た小銅鐸とは別の銅鐸だった。そこで澤村氏が尋ねると、これは考古学に興味がある同宮司が紀北で発掘された銅鐸を入手したものと説明された。
では20年前の小銅鐸はどうしたかというと、同宮司は「まったく知りませんな、なにかの間違いじゃありませんか」とけげんに返され、澤村氏は何も言えなかったという。

改修工事で神倉山から銅鐸が見つかったのは昭和31年。
澤村氏は「私は姿を消してしまった銅鐸と、それから二、三年後に神倉神社から発見された銅鐸片との不思議な関わりあいに、何と考えてよいのか戸惑った」という胸の内をしたためている。

この“異聞”を受けて大野氏はこう記している。

消えた銅鐸が神倉山鐸になったのかというと、それはありえない。消えた銅鐸は明らかに小形鐸であるのに対し、破片は突線鉦式に属する大形鐸であるからだ。しかし、この話が事実ならば最初の銅鐸はどこへ消えたのか。それとも澤村氏の夢にすぎなかったのだろうか。

澤村氏を信用していいのか、宮司氏を信用していいのか、もはやサスペンスの域である。
大野氏が神倉山銅鐸の疑問点を集約しているので紹介しておく。

  1. 考古学者が立ち会わず、考古学に興味があり銅鐸を収集する宮司が記録をとった場所であること。
  2. 澤村氏の話にあるように、消えた銅鐸の話があること。
  3. 紀伊半島南部は銅鐸の空白地帯であり、神倉山にだけポツンと出土地点があること。
  4. 銅鐸片は経塚群の下層ではなく、経塚群と同じ層位から出土したこと。なぜ地山になかったのか。
  5. なぜ銅鐸は一部の破片しか見つからなかったのか。破片をつなぎ合わせても完形品にはならず、残りの破片はなぜ見あたらないのか。

3点目については、別リンク「銅鐸出土地名表」の第12図・第14図を参照いただきたい。

4点目については、同じ層から銅鐸が出土したと記録しているのは、悪意があれば下の地山から出土と書きそうなものを、そういう意味では忠実なのではないかという風にも受け取れる。

なにぶん、昭和の古い話であり、この疑念は宮司氏への名誉にも大きく関わるため、安易に片方を信じるべきでもない。つまり、この異聞の虚実を今の私たちが見きわめる術はない。

考古資料はやはり考古学者が正規の手続きに基づいて、公開された状態で調査されるに尽きる。いらぬ疑念を生む不正規の「調査」は、このように考古資料がかわいそうなことになり、歴史の損失である。
私も含め、好事家の我欲から発する「発掘」は厳に慎まれるべきであることを、これからの教訓としてお伝えしたい。

ゴトビキ岩の窪みに置かれた白石


参考文献

  • 大場磐雄「神倉神社と天磐盾」『國學院雑誌』64-2・3 1963年
  • 新宮市史編さん委員会「古代新宮の息吹き」『新宮市史』 新宮市役所 1972年
  • 巽三郎「新宮市神倉山経塚概報」『考古学雑誌』42-4 1957年
  • 和歌山県史編さん委員会「新宮経塚群」「神倉山銅鐸出土地」『和歌山県史 考古資料』和歌山県 1983年
  • 大野勝美『銅鐸の谷 ある銅鐸ファンのひとりごと』丸善名古屋出版サービスセンター1994年


2019年8月5日月曜日

物部神社/石神堂(愛知県名古屋市)


愛知県名古屋市東区筒井3-31




江戸時代~明治時代、「石神堂」の名で通っていた場所である。
明治元年、延喜式内社「愛智郡 物部神社」に治定された。
「石神堂の石仏サマ」「石神神社」「山神」などの別称も持つという。

社伝では、神武天皇が尾張国の荒振神を退治した時、石を以て国の鎮めとしたといわれ、垂仁天皇代に神殿を建ててその石をまつったのが神社の始まりといわれる。




1940年時点の語り伝えとして、この石神を石で叩くとカーンと金属音がして、西方にあった大隈鉄工所内の石にも音が響いたという逸話が残る。

現在、石神は社殿の中に収められており、その姿を確認することはできない。
しかし1920年前後の頃は、境内は薄暗い森の中にあり、榊の根元に潜む高さ2~3尺(60~90cm)の石神を直接拝むことができたという。
実物を見た人の話によれば、石神は土中に埋もれた巨石の露頭のようであったといい、石質は閃緑岩で付近一帯で産出されるものだと考えられている。
1940年の頃には、社殿の中に石神は隠されてしまった。

参考文献

  • 齋藤富三郎 「物部神社=石神堂」 『尾張の遺跡と遺物』第14号 名古屋郷土研究会 1940年 (愛知県郷土資料刊行会 『尾張の遺跡と遺物』上巻 1981年版を参考とした)
  • 坂重吉 「石神堂に参詣しての雑考」 『尾張の遺跡と遺物』第14号 名古屋郷土研究会 1940年 (愛知県郷土資料刊行会 『尾張の遺跡と遺物』上巻 1981年版を参考とした)
  • 現地解説板

2019年7月29日月曜日

天橋立・籠神社・眞名井神社(京都府宮津市)


京都府宮津市 天橋立

天橋立周辺には、多くの岩石祭祀事例が分布している。
歴史的な文脈はそれぞれ異なり全容を把握するのに難しいところもあるが、南から北へ紹介していこう。

身投石・陰陽石


天橋立の南東に「涙の磯」と呼ばれる海岸がある。

父親に叱られた子供が身を投げて死のうと思った場所とも、平家の落人である女が身投げした場所ともいわれ、その話を記憶する記念物として身投石がある。

身投石を含めて一帯の石は「陰陽石」として地元の人に珍しがられているという。

身投石

身投石周辺(陰陽石)


知恩寺境内の力石


天橋立の南端に、日本三大文殊のひとつといわれる知恩寺が建つ。

知恩寺の境内に、3個の力石が安置されている。
元々は力比べの道具だったものが、「触ると力と知恵がつく霊石」に変貌している。
歴史性を持つものは、ただそれだけで自ずと神聖性を帯びることを示している。



天橋立の「岩見重太郎試し切りの石」


天橋立を渡っていると「岩見重太郎試し切りの石」に出会う。

安土桃山時代、岩見重太郎が父の仇として三人の仇討ちを果たした場所が天橋立で、試し切りをした岩石と伝えられる。鋭角面を持つことからの付会か。

この話自体は祭祀と無縁だが、現在の岩石にはおびただしい賽銭がささげられている。
各人が願うものは異なれど、この伝説から様々な祈願が行なわれ、ただの岩石が史跡となり、さらに祭祀物となった。
この景観は、伝説の中身を知らない人も、すでに投げ込まれた賽銭が聖性を想起し、さらに新たな賽銭を呼ぶ視覚的効果もあるだろう。
岩石信仰における人々の心の動きを考えるにおいて興味深い。



籠神社の産霊岩(神生み岩)


籠神社の社殿向かって左隣に「産霊岩(むすひいわ)」と名付けられた、大小2つの岩石が寄り添っている。

看板には他に「一名 神生み岩」と書かれてあるだけで、具体的な来歴や性格は判然としない。

籠神社は天橋立の北端に鎮座する丹後国一宮として著名である。
元伊勢伝承の但波の吉佐宮の候補地としても有力である。

『元伊勢籠神社御由緒略記』(元伊勢籠神社社務所、初版1976年、五訂版2008年)によると、現在の主祭神は彦火明命(ヒコホアカリノミコト)。この神は高天原からこの地に降臨し、大和・河内・丹波・丹後などの国造りを行なった。
その子孫である海部氏が代々宮司を世襲し、現在で82代を数える。神の時代から連なる国宝指定の家系図を有し、彦火明命が高天原から携えてきたとされる神宝の「息津鏡」「邊津鏡」はそれぞれ前漢・後漢時代製作の伝世鏡である。

祭神・彦火明命は、彦火火出見命の弟である天火明命とも、彦火火出見命と同神であるともされる。
籠神社は元来、彦火火出見命を主祭神に祭っていたという説があり、社名の由来も彦火火出見命が籠船に乗って竜宮へ行ったという伝承に基づく。

また、彦火明命は大汝命(大国主命)の子であるとも、賀茂別雷神と同神であるとも、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命と同神であるとも、天照御魂神という名を持つともいい、さまざまな歴史の重層・変遷があったことを窺わせる。



眞名井神社の磐座群


籠神社から離れた山裾の地に眞名井原と呼ばれる場所があり、ここに奥宮の眞名井神社が鎮座する。
籠神社は元来当地に鎮座していたのが、養老3年(719年)に現在地に遷ったといわれる。

眞名井神社の主祭神は豊受大神で、雄略天皇22年(478年)に伊勢神宮外宮に勧請される前の鎮座地とされる。
また、祭神の豊受大神のまたの名を天御中主神・国常立尊・倉稲魂命(稲荷大神)とすることから、こちらも重層的な神の歴史があったことを窺わせる。

この眞名井神社には磐座群がある。
先述した祭神たち数柱を一つ一つの岩石に分祀しており、主祭神たる豊受大神の異なる側面の御魂を岩石ごとに分霊祭祀しているかのようである。
また、岩石自体が神の名前で呼ばれているものもあり、磐座といいながらもその実は石神としての性格と混然一体になっている面もある。

眞名井神社社殿。その背後に磐座群をまつる石鳥居が見える(2008年時点)

境内神域に標示された「真名井原 神体山」の石碑。

神体山への社叢は「禁足」(2008年時点)


従来、磐座群の背後からは「神体山」として禁足地になっている一方、この磐座群は目の前で拝むことが許されていた。
それが2013年、磐座の上に登るなどの不敬行為が相次いだことに神社は心を痛め、磐座群の手前に垣を建て、磐座群に近づけない処置と、写真撮影禁止の対応をおこなった。

大多数の善良な人々にとっては悲劇であるが、我欲に囚われた人々が一部だったとしても、信仰を守ってきた人々への歴史を軽視したのだから被るべき当然の帰結と言って良いだろう。我欲が走りすぎると、全国各地の聖地も早晩同様の処置が行われるだろう。
ブームを先導する現代宗教者たちの歴史リテラシーが求められている。

立入禁止・撮影禁止以前の2008年、私は真名井神社の磐座を訪れて写真撮影をしている。
今となっては貴重な記録になると思われるので、最後に各磐座の記録を残しておきたい。


本殿背後のマウンド(眞名井神社経塚)


眞名井神社の本殿背後に少し土が盛り上がったマウンドがある。
マウンドは樹木が繁茂し、マウンドの周囲には小石が人為的に集められ、土盛りを固めている。
そして、マウンドの手前には2体の岩石が露出しており、2基の鳥居と石碑が付設されている。

マウンド(奥に見えるのは本殿)
天御中主神の碑

天照大神の碑

向かって右側の岩石は、天御中主神の石碑が立つ。
向かって左側の岩石は、天照大神の石碑が立つ。

『元伊勢籠神社御由緒略記』も参照してみよう。
同書によると、右側の岩石は「磐座主座(上宮)」で、豊受大神の磐座とされる。
左側の岩石は「磐座西座」で、天照大神・伊射奈岐大神・伊射奈美大神の磐座とされる。
左側の岩石は別称で「鶺鴒石」「子種石」「日之小宮」があり、天照大神出生の地であるとも伝えられている。

磐座西座。石碑の裏に鸚鵡石・子種石・日之小宮などの一名が刻まれる。


先述のとおり、豊受大神は天御中主神と同神であるという眞名井神社の伝えを綜合すると、右側の岩石は天照大神を主とした磐座で、左側の岩石は豊受大神を主とした磐座であると理解できる。

眞名井神社本殿の背後約3.6mの地点の地中深さ約0.6mの地点から、文治5年(1189年)の銘を有する銅製経筒が銅鏡・刀子などと共に出土した。これを眞名井神社経塚と呼んで埋蔵文化財指定されている。

本殿の背後にあるのは、この磐座主座・磐座西座であり、これこそが眞名井神社経塚でもあるということになる。

磐座主座。写真手前に石で覆われたマウンドがある。


大場磐雄氏『楽石雑筆』巻八(昭和3年)に本遺跡の詳細が記録されているので以下、重要部分を引用しておく。

  • 籠神社の社殿営造にあたり、摂社真名井神社背後より種々の遺物を出し、且つ巨石遺跡らしきものあることを発見
  • 本殿北(背)約二間のところに一巨石横たわれり、花崗岩質のものにて二個に割れたれど、もとは一なりしが如し。又現在は横に長くたおれたれどおそらくは立てるものの如し。
  • 俚俗鸚鵡石又は子種石と称してシメをはり、信仰を有せり。然るに本年(注:昭和三年)九月この石の前を発掘せるに地下(腐ショク土)一尺五寸より二尺程のところより磨石斧、石器(未製石鏃か)、土器片、陶器片、鉄器片、砥石、右の各種遺物を出土せり、然して層位的には土器を上としてその下に砥石鉄器片にして石斧石鏃は最も下より出土せりという。磨石斧、石器未製品、砥石はいずれも石器時代遺物として疑いなきもの、土師器片は所謂土師器にて手捏式のもの、陶器は渦文を内に有する朝鮮土器の破片なり
  • 巨石と隣りあいし東よりにマウンドあり、やはり石を以て築く中より九月二十一日秘密に発掘せしに経筒(青銅製)二本、和鏡(藤原期)四面、前出と同様の土器片及び経塚時代の壺が出土せり

磐座主座・磐座西座の巨石は花崗岩質で、元は一つだっただろうことを指摘している。
それは左右の石の断面を見れば首肯できるが、さらに突っ込んでいるのは、今は横に寝ているが元は立っていたのではないかという推測である。これは賛否あるだろう。

そして、大場博士はこの籠神社の記述で「磐座」という用語を一度も使わず、鸚鵡石・子種石の名称のみを紹介していることも注目したい。現在の「磐座」名称に先行しているのが鸚鵡石・子種石という可能性が浮上する。

その鸚鵡石・子種石の地下と、東隣のマウンドの二ヶ所から遺物が出土したことが明記されている。

発掘状況は時代状況もあり又聞きであるが、大きく上層に土師器、中層に鉄器、下層に石器という構造を記録している。
鉄器片は布の付着痕があり、推定だが鉄製経筒の一部ではないかと大場博士は記しており、ならば上層~中層は平安時代~鎌倉時代の遺物と考えられる。
一方、下層の石器群は弥生時代を想像させるが、未製品もあるということで祭祀性への疑問と、生活痕と見るべきか、はたまた、後世の人々が地中から出た石器を神代の宝として再埋納したものなのか、など可能性は広がる。


鹽土老翁の磐座群


マウンドの周囲にも、さまざまな岩石がまつられている。

境内最奥部に、磐座群と共に石碑が林立している。
鹽土老翁(シオツチノオジ)を示す石碑には「大綿津見神」「亦名 住吉同体」「亦名 豊受大神」とある。
住吉の海神と大綿津見神を関連付けたほか、大綿津見神・豊受大神と同神であるとも記す。

宇迦之御魂(稲荷大神)の磐座もあるが、先述のとおり、稲荷大神は豊受大神と同神であると神社が伝えることから、これも豊受大神の一御魂を崇めるものと言える。

鹽土老翁・宇迦之御魂

熊野大神

愛宕大神

道祖神


産盥


水を溜められる窪みが、岩石の上面にできている。
詳細不明だが、天照大神が出生したという神跡に関わるものか。




名称不明の岩石祭祀事例


これは看板もなく名前もわからないが、周囲を柵で囲い、特別な岩石であることには疑いない。



天の真名井の水


境内入口に「天の真名井」の霊水があり、岩を組んで水が流れている。
主役は水だが、水が発する元を岩石に拠っているところに、意識的にせよ無意識的にせよ、岩石と水の親和性について論じずにはいられない。



2019年7月28日日曜日

岩角山岩角寺(福島県本宮市)



福島県本宮市和田東屋口

読みは「いわつのさんがんかくじ」のほか、「いわづのさんがんかくじ」「いわづのやまがんかくじ」も見られる。

慈覚大師が岩角山の麓に来ると、たくさんの光がこの山に集まり紫雲がたなびき、尊天が現れた。ここが霊場だと悟った慈覚大師は仁寿元年(851年)に岩角寺を開基、貞観2年(860年)に毘沙門天を本尊として安置したという。

岩角山は標高337mの里山だが、全山に花崗岩の侵食風景が広がり、低山と思えない深山幽谷の趣を醸し出す。福島県指定名勝および天然記念物。



A.岩窟弁天
B.稲荷
C.懐胎石(抱きつき石)
D.那智観音堂
E.奥ノ院
F.羽山(羽山祠跡)
G.鬼面石
H.体内(胎内くぐり)
I.丹羽公 遥拝石(展望台)
J.奥の院東斜面
K.薬師堂
L.地獄道
M.坐禅石(たたみ石)
N.天狗腰掛石
O.天の岩戸(祈りの窟)
P.腰掛石(和労 休息石)
Q.四寸途
R.胎内くぐり
S.舟石
T.賽河原
U.三山(三山祠跡)
V.座禅石
W.抱き込み杉


A.岩窟弁天


岩窟弁才天。
岩窟の中に寺宝の「岩角」がある。長さ75cm、太さ15cm。
「岩角山の名 此々より起る」

表側
裏側



B.稲荷


山中の奇岩怪石には三十三観音が刻まれ、近世の山岳仏教者と修験者の歴史を残す。



E.奥ノ院


奥ノ院 阿弥陀堂。鎌倉時代の建築。
巨岩に取り囲まれた奥ノ院。
奥ノ院背後の巨岩には「キリーク(阿弥陀如来・千手観音)」「ベイ(薬師如来・毘沙門天)」の梵字が刻まれている。



G.鬼面石


明治時代の絵図によると、羽山の裏の斜面に人の顔のような鬼の顔のようなものが描かれ、そこに「鬼面石」と記されている。現地では特定できず。


H.体内(胎内くぐり)


現在は「胎内くぐり」の名称。明治の絵図では「体内」とある。
願かけ通路で、縁結びにご利益あり。修験者にとってはどうだったか。



I.丹羽公 遥拝石(展望台)


丹羽公とは、二本松藩主の丹羽光重(1615~1695)のこと。
光重は当時荒廃していた岩角寺を保護し、再興した。

岩角山の中で最も麓の眺望が良く、西方には安達太良山(標高1699m)も望むことができる。
おそらく安土桃山時代にあったとされる岩角城は、ここの麓の眺望の良さ、山中の奇岩怪石を自然の城塞としたのだろう。城というよりは砦という表現がイメージしやすい。


J.奥の院東斜面の聖観音



E.奥ノ院の東側に落ち込んでいる山腹斜面上に、名もなき巨岩が転がらずに立ち止まっている。
オムスビ形で、ゆうに10m以上の高さはある。スケール感だけで言うならこれがナンバーワン。
第二十六番観音の聖観音が刻まれている。



K.薬師堂 L.地獄道


岩の懐に抱かれた薬師堂。
堂の後ろの巨岩には「ベイ(薬師如来)」の梵字あり。その奥は地獄道。




M.坐禅石(たたみ石)


明治初期まで、この石の上で瞑想や坐禅などの修行が継続されていたという。
薬師堂を中心とするこの一帯は、自然が織り成す岩の塀に取り囲まれていおり、行場としての空間感は申し分ない。




N.天狗腰掛石


第十七番観音と第十八番観音の手前にある岩石。




O.天の岩戸(祈りの窟)


「祈りの窟」という別称から、自然の亀裂からできた室状空間を行場としたものと推測される。




P.腰掛石(和労 休息石)


現在の名称は「和労 休息石」。明治の絵図では「腰掛石」。
誰が腰掛け、休むものなのかは詳らかではない。


Q.四寸途 R.胎内くぐり


四寸途と名付けられた、岩と岩の間にできた細い道を通ると、「胎内くぐり」に到達する。F.体内(胎内くぐり)と同じ名を持つ。

胎内くぐりは、さらに「男胎内」「女胎内」の2つに分かれる(明治の絵図では男体内・女体内の表記)。
間に差し渡し挟まれた岩石など、100%自然のままなのだろうか。



S.舟石 T.賽河原


胎内くぐりを越えると出会う光景。
舟石については「雨乞い祈願霊石」と解説されている。
また、明治の絵図によればこの辺りを賽河原と呼ぶ。



U.三山(三山祠跡) V.座禅石


第二十三番観音が線刻されている巨岩。
かつて、この巨岩の上に三山祠があった。
同時に、第二十三番観音の背後には「座禅石」があると岩角山入口の看板に記載がある。明治の絵図には記載がなく、現場に来ても一切の案内板もないが、位置関係から考えて、この三山祠のあった巨岩自体が座禅石だと推測される。


2019年7月21日日曜日

八嶽山神社・夫婦岩・奥の院天宮神社(山梨県山梨市)


山梨県山梨市山根



八嶽山神社の祭神は大山咋神(山末之大主神)。
御天狗様とも呼ばれている。
拝殿には修験道の影響色濃い独特の唱言が掲げられていた。雨乞いの呪文だという。



拝殿は麓にあり、本殿は奥宮や奥の院と呼ばれ、背後の大平山の中腹に離れて鎮座する。

訪れた日(1月20日)が、たまたま年に一度の八嶽山神社例大祭の日で、氏子の方々が練り歩いている最中だった。
そのとき伺った話も織り交ぜて紹介したい。

八嶽山神社から背後の山(大平山の一峰)を仰ぐと、山腹に注連縄の付けられた巨岩を見つけることができる。






現地看板には夫婦岩(めおといわ)と書かれているが、祭りに参加していた氏子の方に話を聞くと「めおと」ではなく「みおと」と言っていた。

その氏子の方の話によると、子供の頃は5月5日に夫婦岩の上へ座り、そこで母親の作った重箱のお弁当を食べたことがある。祭祀に関わるというよりは、古き良き思い出を聞かせてくださった。

探訪時は、夫婦岩が麓からもよく見えた。
これは夫婦岩が見えるように、有志の方々が手前の樹木を刈り取っていると教えてくれた(元々あまり木々はなかったそう)。

夫婦岩の辺りまでは神社の土地で、そこから上は個人所有の土地だという。だから夫婦岩より上の樹木には手を入れていないのだそうで納得の光景となっている。


さて、夫婦岩からさらに山を15分ほど登ると奥の院がある。
奥の院へ行くには、夫婦岩の奥の獣道を直登するルートと、近くを通る農道を利用して途中まで車で登れるルートがある。
アクセスが容易なのは後者だが迂回ルートでありやや時間をとる。
一方で前者の直登ルートを選ぶと、目印もなく上を目指すだけなので道迷いに注意だが、途中で累々と散在する岩群を見ることができる。





これほどの巨岩群が名前もなく密集している。

この巨岩群をかき分けるように登りつめると奥の院に到達する。

奥の院は山腹にあり、天宮神社の異名もあるようだ。
社殿の背後には、巨大なオムスビ形の巨岩が控えている。





氏子の方に、奥の院後ろのこの巨岩は何と呼ばれているか尋ねてみたが、巨岩自体に名前はつけられていないという。
由来のような話も伝わっていないようだが、岩群の中にひときわ突出する規模の巨岩に本殿を構えようとした心性は想像に難くない。

一方、奥の院に向かうもう一つの車道ルートだが、その舗装路の終点に、小ぶりの岩石が注連縄と若干の供え物を以てまつられている。こちらの由来は聞き取りできていない。



また、奥の院から西へ直線距離で約250m離れた山腹地点に妙見神社という場所があり、こちらも巨岩を抱く霊地らしいが、探訪当時は存在を知らず未訪のままである。

妙見神社へ向かう道については、当サイトの情報募集ページでkuroyasuさんから情報提供いただいているので紹介したい。

kuroyasu2017年2月9日 17:20

ご著書拝読させていただきました。八嶽山神社奥宮は天宮神社です。妙見神社へは夕狩沢からの登山口があります。
八嶽山神社へは神社からの通路(日頃は獣除けの網があります)奥に旗竿があり、その付近に石段があります。
奥宮の御神体左から尾根伝いに妙見神社に行けます。麓から見える神殿のような建物は背後の岩を拝むためのものと思われます。

余談だが、戦前の巨石探索の神秘家として有名な荒深道斉氏は、御前山の頂上にある岩群や、近くの兜山の麓にある御幸石という石なども取り上げているようで、八嶽山神社の周辺一帯の岩石信仰の密度には注目すべきものがある。