2025年7月19日土曜日

『郷土』石特集号の岩石再点検


『郷土』第2巻第1・2・3号合冊(1932年)は「石特集号」と題され、岩石と民俗の関係を語る上では古くから著名な一冊である。


さて、この石特集号に記された数多の岩石について、誰が一つ一つをあらためて吟味しただろうか。


同書では住所も旧村単位の表記が多く、それに加えて「私の郷里の山の中」「●●氏邸の裏山」などの困った紹介も散見する。

発刊当時の時代背景を加味すればやむなしだが、『郷土』石特集号を手に携えて現地を訪ねても特定は困難を極めるだろう。


掲載された一つ一つの記録を、まさに岩石の文化財として再点検しなければならない。

このページでは、調べられる範囲で掲載事例の岩石の現在地をGoogleマップで示した。

※追記:複数のGoogleマップを同時掲載するとページが重くなり正常に表示されなかったので、最初の事例を除いて後はリンクを貼るのみに変更した。


その他の留意事項は次のとおりである。

  • 私が見聞きしたことない事例をメモした(既知の事例は除外)。
  • 喜田貞吉と折口信夫の論考は事例記録とは性質が異なる内容のため除外した。
  • 日本国内の事例のみメモした。
  • 自然石のみをメモした。石仏・石像などの石造物のほか、陰陽石などの性石は数が多く石棒遺物との類別が難しく除外した(例外あり)。
  • 地域一帯に広がり特定の場、特定の岩石を指さない風習(石拾いなど)は除外した。
  • 個人宅所有も基本的に除外したが、外から確認できそうな一部の事例はメモした。
  • 以上を踏まえて、合計269事例に上った。
  • 推測地がいまだ多いため、現地確認された方や、緯度経度の座標で特定できた方はお知らせください。都度修正します。


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2025年7月17日木曜日

沖ノ磯(愛知県田原市)


愛知県田原市白磯


豊丸皇子一行が最初に白谷海岸に漂着した岩礁といわれる。

豊丸皇子伝説については下記事参照。

白谷神明様/神明社/秋葉様(愛知県田原市)


中根洋治氏『愛知発巨石信仰』(愛知磐座研究会 2002年)に沖ノ磯の写真が載っている。

細長い岩石が、防波堤の手前に顔を少しだけ出している。

これと類似した光景が、白谷海浜公園の北岸に見える。

現地表示はなく自信はないが、防波堤の前に細長い岩石とさらにその手前にも岩石がある。

潮が引いていれば歩いていくこともできそうだ。


2025年7月13日日曜日

聖坊/聖棒(愛知県田原市)

愛知県田原市白磯 白谷海浜公園内


白谷海浜公園の駐車場端(上地図参照)に、三本柱の石灰岩が立って注連縄が巻かれている。
現地看板には「聖坊」とあり、中根洋治氏『愛知発巨石信仰』(愛知磐座研究会 2002年)には「聖棒」と表記される。

もともと目の前の海岸に浮かんでいた岩礁であり、庚申の供養が行われる場だったという。海岸が埋め立てられた際に、現在地へ移設保存されたという。

現地看板は平成5年の銘が記されるが、中根氏著書によると現在の場所に移されたのは平成12年とあり、現地看板は原位置にかつて飾られていたものを一緒に移したものかもしれない。




2025年7月6日日曜日

オミタケ(愛知県田原市)

愛知県田原市白谷町犬喰

白谷には「オミタケ」と呼ばれる岩壁がある。これも高さが5m程の岩壁で、以前は根元に祠があったそうだが、今は礎石のみ残っている。字名は犬喰という。
中根洋治『愛知発巨石信仰』愛知磐座研究会 2002年
同書には白谷の見取位置図が掲載されているが、文字どおり簡潔な地図であり正確な位置がわからない。

中根氏が作成したルートから推測した場所がGoogleマップの中央に示したポイントだが、現地を訪れたところ路傍東側に若干の露岩が確認できた。しかし5mという岩壁の規模には及ばない。
また、草木が繁茂しているため確信が持てないが、石礫が散乱しているものの礎石らしき石材は確認できなかった。

34.67949, 137.23275 座標地点

露岩だが岩壁とまでは言えない。

草むらの中に石礫の散乱は確認できるが、浮石であり礎石とは認めづらい。

道の傍らではなく、道の東側の斜面を少し分け入って登らないと岩壁に出会えないのかもしれない。

この地点のすぐ南で農作業中の方がいらっしゃった。
中根氏の本の写真を見せながらオミタケという名前やこの近くに岩がないかを尋ねたが、存じ上げない反応だった。
ご高齢の女性の方だったので思い当たる記憶がないか期待したが、予想地点の横で畑を所有される方でも心あたりがないのであれば、これ以上の調査はなかなか難しい。


ところで、中根氏地図が指し示すポイントからはやや北に外れてしまうが、Googleマップに示した畑の一画に下写真の光景が存在する。

34.68085, 137.23346 座標地点



まさに高さ5mほどの岩塊の隣にプレハブの建屋が接している。これは何か。

中根氏写真とは異なり、隣に接するのは祠跡というより作業小屋然とした建屋であり、岩石の形状も岩壁という佇まいではないのでオミタケとは別の存在と思われるが、中根氏の言及はない。

畑の所有者の方に出会えれば文章化されていない歴史が語られるかもしれないが、現状としては不明の岩石として報告のみしておく。


2025年6月29日日曜日

白谷神明様/神明社/秋葉様(愛知県田原市)


愛知県田原市白谷町中畑

「白谷神明様があった所は、今でも巨岩が、海を背にしてそびえていますが(略)南側の大岩の前には、小さな祠が二つあり、秋葉様の燈籠があり、お祭のおのぼりをたてる構えも一対ありました。」(『蔵王:田原区文化誌』5 1998年)




神明社の一社であるが、地名を採って白谷神明社や、地元では尊称をもって神明様(シンメイ様)、ないし併祀された秋葉神社から秋葉様とも呼ばれたらしい。

当社には神明宮由来記(慶長年間以前?)なる文書が伝わる。

同書によれば、天照大神直系という豊丸皇子(史書に登場しない伝説的貴人)と二人の従者が伊勢に向かっていたところ当地に漂着し、生活のために庵を作ったのが始まりという。
その場所は当地からやや南の伽藍明神と呼ばれた所で、そこで伊勢明神をまつっていたが日当たりの悪い場所だったため、東長尾山に遷座した。この東長尾山が当地であり、巨岩が北の潮風を遮り、陽光の差す立地ということで選ばれたらしい。
さらに後年、田原の里に人々が集まると当社は田原に遷座して現・田原神明神社になったという由来記である(『田原町史』1975年)。

白谷は石灰岩の産地であり、今も現役の採石場が稼働している。

採石場遠望

その採石場のすぐ西に位置するのが白谷神明社であり、遷座後も神域として護持され続けたことで残った石灰岩の露頭と言える。

伽藍明神の場所は白谷の鎮守社である現・八柱神社の南辺りだったと伝わり、そこには礎石跡と目される岩石群が散在して伽藍様の尊称で呼ばれていた(中根 2002年)。
たしかに八柱神社南には山林が広がり、山林内に不整形の岩石が散在している。これらのいずれか、あるいはすべてを伽藍明神の伝説地とみなすことができる。

八柱神社南の山林内の岩石群


参考文献
  • 中根洋治『愛知発巨石信仰』愛知磐座研究会 2002年
  • 田原区文化誌編集委員会[編]『蔵王:田原区文化誌』5 田原区 1998年
  • 田原町文化財調査会 編『田原町史』中巻,田原町教育委員会,1975. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9537311 (参照 2025-06-29)