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2023年6月4日日曜日

勝尾寺の八天石蔵からみる「イワクラ」「イシクラ」の諸問題(大阪府箕面市)


大阪府箕面市 勝尾寺一帯

 

八天石蔵の由来

勝運祈願の勝ちダルマで有名な勝尾寺に、八天石蔵(はってんいしぐら)と呼ばれる石積施設がある。

八天石蔵とは何か。『箕面市史』から引用する。

「寛喜二年(筆者注:1230年)正月の四至注文に『四角四天王石蔵』と呼ばれた石蔵が、勝尾寺の開基と伝えられる開成皇子の結界に際して設けられ、その後に八天之石蔵がつくられたと解することができる。(略)勝尾寺のまわり八ヵ所に八天之形像が埋められ、その上に石を畳んで壇を築いた、いわゆる『八天之石蔵』のあったこと、そしてそれが勝尾寺領の境界を示す牓示であったことを知ることができる。」

箕面市史編集委員会 編『箕面市史』第1巻 (本編),箕面市,1964. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3008156 (参照 2023-06-04)

八天石蔵の一つ「持国天王石蔵」

八天石蔵のなかでは、東の境界に建つ石蔵である(冒頭GoogleMap参照)

現地看板

持国天王石蔵には、勝尾寺園地の駐車場から案内標識が出ている。
(勝尾寺園地は無料駐車場であり、勝尾寺参拝時にも有用である)

すなわち、八天石蔵とは寺の領域を示すために置いた施設である。

寺社の四至(東西南北)の領域を確定するために牓示の石柱が建てられた例は各地にみられるが、八天石蔵の特異な点は牓示が石柱ではなく3段からなる石壇を構築し、さらにその下に八天(四天王・四明王)の仏像を壺に入れて埋納したというところにある。

単なる境界標示の目的にとどまらず、それぞれが仏を宿す結界という意味も込められ、その名を「石蔵」と呼んだのである。


このような施設の類例はほとんどないとされており、規模・時代が違ってもいいなら岡山県赤磐市の熊山遺跡や奈良県奈良市の頭塔(ずとう)が僅かながら類似形態として挙げられるだろうか。いずれも広くとらえて仏塔の範疇で考えることはできる。

しかし、頭塔については見た目こそ石の塔の趣だが、実質は盛り土の表面に石を葺いたものであり、どちらかというと古墳の造り方に近い。どちらかといえば、熊山遺跡のように総石造りの壇状施設の文脈でとらえたほうがよさそうだ。

(熊山遺跡の石壇が、熊山山頂の露岩上に構築されているのも、岩石信仰の観点からは注目できる。ただし熊山の露岩が即・磐座と呼ばれるような祭祀対象だったかは即断できない)


考古学者の狭川真一氏がweb上で報告した「瀬戸内周辺における古代仏塔の研究-経納遺跡の研究を中心に-」によると、八天石蔵・熊山遺跡と比較に足る事例として兵庫県佐用町の経納遺跡を取り上げている。こちらも3段からなる石壇遺構であり熊山遺跡と同時期・同時期の可能性が示唆されている。


なお、勝尾寺境内の三宝荒神社(荒神堂)の裏手に「八天要石」または「影向石」と呼ばれる八角柱の石柱があり、石柱下には不動明王像が埋まっているという逸話もあるようで、これも伝承上では石蔵と同機能と言える。

立地的には勝尾寺境内ということで石蔵の中枢的役割を担うかのようだが、埋納されるのが不動明王であるなら冒頭前掲書のとおり、八天石蔵において当初設けられたのは「天王」であり「明王」は後出するため、八角柱という形態も考えあわせて石蔵成立後の聖跡かもしれない。

三宝荒神社。探訪時、八天要石を知らず残念ながら見過ごした。


石蔵と経塚の異同点

積み石の下に仏を埋納したという石蔵の祭祀に近いものとしては、経文を筒などの容器に入れてそれを積み石で覆った経塚が想起される。

経塚については、末法思想に伴い経文を未来に保存するために構築されたもの、そこから派生して作善のために構築されたことが多く、石蔵の牓示の機能からは少し性格が離れたもののようにも思える。

しかし岩石信仰の観点に立つと、自然石信仰の地を後世に経塚として用いた事例が知られており、静岡県浜松市の渭伊神社境内遺跡(通称・天白磐座遺跡)、三重県桑名市の多度経塚、三重県伊賀市の猪田経塚、京都府宮津市の真名井神社経塚などを挙げることができる。

最前者の渭伊神社境内遺跡は古墳時代の祭祀遺物群が見つかった巨岩群をそのまま経塚として利用している。他の例も多度大社・猪田神社・真名井神社いずれも延喜式内社クラスの古社であり、それらの神社が神聖視する自然岩群の近くに経塚を設けている。

このように、まずは神祭りの場がありそこに経塚の機能を追加したと考えることができる。経塚も単に単独で成立した存在ではなく、それ以前からの祭祀や聖地の影響を受けたうえで複合する場合がある。


石蔵と岩倉 ~京都四岩倉との比較~

八天石蔵の石蔵は「イシグラ」「イシクラ」と読むが、石蔵を「イワクラ」と呼ぶ例もある。そうすると、石蔵も自然石信仰のいわゆる「磐座」などと無関係ではなくなってくる。

その一例として、経塚と石蔵の牓示の関係でも思い起こされるのが、平安京の四方に桓武天皇が一切経を埋納したとされる「四岩倉」伝説である。

これは桓武天皇の同時代文献に明記された事跡ではないが、少なくとも『雍州府志』(1682~1686年成立)、『京羽二重織留』(1685年成立)までは本伝説の記述を認めることができる。

それ以前の文献に本伝説の記述を見つけることがまだできていないが、伝説を抜きにして四岩倉の名称自体はさらに古く遡ることができる。たとえば北岩倉は『日本三代実録』(901年成立)において「石座神社」の名で、西岩倉は『今昔物語集』(平安末期成立)に「西石蔵」の名で登場する(「西」と冠しているので、この頃には他の方位の「石蔵」もあった可能性は高い)。


京都四岩倉伝説については下記事で詳述しているので、これ以上はそちらを参照されたい。

京都「四岩倉」伝説について


「イワクラ」「イシクラ」概念史の中の八天石蔵の位置づけ

ということで、長い寄り道をしてきたが、ここで勝尾寺の八天石蔵と同じ「石蔵」の表記と初めて出会う。岩石信仰の見地から、他例と比較した八天石蔵の位置づけを試みてみよう。


平安京四岩倉伝説は「岩倉」の表記で知られるが、上述のとおり「岩倉」表記は17世紀文献までしか遡れない。それ以前は「石蔵」表記であり、『今昔物語集』の平安末期(12世紀後半)と八天石蔵が構築・記述された寛喜2年(1230年)頃は最大100年ほどの開きはありそうだが比較的近い年代観を共有している。

そして、さらに遡り『日本三大実録』の10世紀初頭では「石座」の表記である。この石座神社は京都四岩倉の中で唯一、自然の露岩をまつる「磐座」としての場所であり、ほかの三岩倉とは性格を異にした出自だった可能性もある。たとえば、神祭りの磐座祭祀の一字である石座だった場所が、中世以降に経塚・牓示の文脈である石蔵の影響を受けて四岩倉として再編された可能性などである。


もう一つの傍証として、兵庫県相生市の磐座神社の事例を取り上げておきたい。

詳しくは上リンクを参照してほしいが、磐座神社は『万葉集』にうたわれた「矢野神山」の候補地といわれ、山麓の境内および裏山の数か所に巨岩群が分布している。

今でこそ磐座神社表記であるが、当社はかつて石蔵明神・磐蔵地蔵権現・岩倉権現などと複数の表記で記されていたことがわかっている。山中の奥の院とされる巨岩には、背中合わせに神社の社祠と阿弥陀堂がまつられており、中世には神仏習合の地であったと思われる。

磐座神社も「石蔵」「磐蔵」「岩倉」などの「蔵・倉」グループに属す時代があり、いやむしろ、現代の「磐座」の表記が本来的であったかどうかも批判的にみないといけないかもしれない。

「磐座」は奈良時代の『日本書紀』、平安時代の『延喜式』祝詞・神名帳に登場する「イワクラ」の古い表記用例ではあるが、全国各地の実例を踏まえるかぎり、その後は中近世の長い時代にわたり積極的に用いられることはなかったように思われる。おそらく、神道に携わる一部の人々にしか広まらなかった概念だったのだろう。

それが江戸時代末期に国学者により神道的なものを復古・喧伝するにあたり、"神社以前の原始信仰"の一つである「磐座」にスポットが再び当たり、明治時代以降にかけて磐座の使用例は神道学者、神社関係者、研究者(市井含む)の間で増えていったことは、いちいち例示しないが当時の文献・雑誌のテキスト検索を行えば明らかと言える。この動きの中で、古代からの「磐座」と近代以降命名の「磐座」が混濁して現代に至っていることは、この20年ばかりの筆者の調査研究の中でも多く感じることである。

八天石蔵の事例から話を広げて、「イワクラ」「イシクラ」の語を巡る岩石信仰の諸問題を書き連ねることになったが、そのような点でも八天石蔵は数々の系統からなる事例群の結節点とも言える存在である。

冒頭に引用した『箕面市史』の文中にあるとおり、八天石蔵は勝尾寺開祖・開成皇子の結界に際して設けられたといういわれがあるが、開成皇子は桓武天皇の庶兄に当たる。四岩倉伝説で平安京の四至に経文を埋めたという桓武天皇と奇しくも絡んでくるのも興味深い。


まとめると、「イワクラ」の字は石座(古代)→石蔵(中世)→岩倉(近世以降)の時系列で追うことができ、八天石蔵は中世のイワクラ表記の影響を受けた事例として位置づけることができる。

そして、石座と石蔵とは直線的な系譜が結べるとは限らず、同じ「イワクラ」の音を共通するものでも、出自が「神祭りの磐座系統」と「経塚・牓示の石蔵系統」の二系統から始まっており、それが神仏習合で祭祀を同じくしていく中で岩倉などの表記も生まれていき、現在の複合的なイワクラ概念世界に至ったという流れが想定される。

他にも、音は異なるが仏像が立つ「岩座(イワザ)」の系統や、石垣や城郭施設に用いられる「石椋(イシクラ ※石蔵表記も用いられることがある)」の系統なども無関係だったとは思えず、音または字が近い概念同士は時代経過の中でどんどん混ざり合い、相互に影響しあっていったのではないか。


単に「イワクラ」を神祭りのそれとみるのではなく、また、音だけでなく字からも文脈・系統は異なり、磐座・石座・石蔵・岩倉などのそれぞれの字に込められた意味を細かく腑分けしていくことも重要な歴史学上のテーマであるように感じる。


2023年5月29日月曜日

医王岩/薬師岩(大阪府箕面市)


大阪府箕面市如意谷

「醫王岩 寺の後にあり。自然石あり。高さ十三丈許。又名薬師石ともいふ。(略)此所も大已貴、少彦名の二神生ますの地により。醫王岩と稱するか。此二神は醫道の祖なり。」

大阪府 編『大阪府神社史資料』,大阪府,昭和8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1688263 (参照 2023-05-28)


「薬師岩 萱野村大字東坊島の北方字道心ヶ谷にありて、一に醫王岩とも呼ぶ。高さ十二丈にして三層をなし、三巨岩を累積したるが如く、頂上の一岩は特に前方に突出し、其の形薬師の立像に似たるを以て此名あり。里俗は読んで薬師出現の霊石といふ。」

大阪府学務部 編『大阪府史蹟名勝天然記念物』第2冊,清文堂出版,1974. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9572913 (参照 2023-05-28)


医王岩(下から撮影)

医王岩 上部

医王岩が三層構造と呼ばれる所以

現地看板。『摂津名所図会』に依拠。

高さは12丈~13丈(約35~40m)と記されるが、実際は25mほどだという。


醫王岩(いおうがん)は「医王岩」の旧字体である。

大已貴、少彦名が医道の祖に位置付けられたことに因むというが、他では聞かないネーミングであり、むしろ薬師如来の別称である「大医王仏」の影響を受けているように思われる。


引用文中にある「寺」とは大宮寺を指し、現在も「醫王山大宮寺」の山号で現地で受け継がれている。この寺の本尊が薬師如来である。

「医王岩 護り伝へる 大宮寺 諸人敬う 薬師瑠璃光」

大宮寺の縁起でも、開祖が当地の医王岩の屹立する様子に「大医王薬師瑠璃光如来」の尊影を感じとり、寛平4年(892年)堂宇を設けたのが大宮寺の始まりという(大宮寺公式ホームページより)。


また、大宮寺は爲那都比古神社のいわゆる神宮寺だった。

爲那都比古神社は『延喜式』神名帳に二坐(比古・比売)ありとして記載される古社で、二坐のうち一座は大宮寺と同地にあったということで、医王岩は爲那都比古神社の歴史とも絡む自然石信仰となる。


爲那都比古・比売の信仰と、大已貴・少彦名信仰、薬師信仰はそれぞれ別系統と言えるが、医王岩が後者二つの出現地として重なっているのは基本的に同根の発想からくるものだろう。

ただ、大已貴・少彦名が生まれた地という表現は、細かいニュアンスがよくわからない。この地で生まれたという一般表現ととらえるべきか、医王岩という岩石から生まれたという意味なのか、そのあたりは文献記述が簡潔でそれ以上肉付けされていないので不明である。

大宮寺の縁起で薬師如来の「尊影」を感じとったというくだりについては、これは神仏の「みかた(御形・御像)」を岩石の形状から感得したという心の流れと同質かもしれない。


医王山は、はたして神々を産む生命体としての「石神」だったのか、それとも、神威や仏跡としての「みかた」の聖地だったのか。

いわゆる日本列島の古代信仰における、神仏の宿りかたの諸問題を考える上での類例の一つに挙げて良いだろう。


アクセスについて

公式の駐車場がなく、適した路肩スペースもないので注意喚起したい。

医王岩の手前には溜池があり、そこで釣りをしている人がよくいるらしく(釣りは禁止されているらしいが)、池の手前の僅かなスペースに車を寄せている場面を私が探訪した当日も見かけた。しかし、狭い車道沿いでもあるしモラル違反と言わざるを得ない。

大宮寺北の上写真の場所(記念碑が建つ)から、溜池の間の道を通って医王岩へ取りつく。

近隣の無関係の施設の駐車場に停めるのも慎まないとならない。

ということで、2023年時点で医王岩の最寄りコインパーキングを紹介しておく。私はこちらを利用した。


このパーキングから医王岩まで徒歩約15分である。

Googleレビュー評価が低いが、私が利用した分には何ら問題なかった。


2023年5月22日月曜日

間々観音の観音洞の七つ石(愛知県小牧市)

愛知県小牧市 小牧山(標高86m) 西側山腹


「小牧なる 飛車の猟人 八つある鹿を 七ついしかな」(間々観音掲示より)

この七つ石については、当ブログの前身となった「岩石祭祀学提唱地」の掲示板でかつてしばらく追い続けた存在だった。

情報提供と問題提起をされたのは投稿者のチェリーさんで、関係する投稿を時系列で紹介すると次のとおりである。


過去の情報収集まとめ


投稿者:チェリー 投稿日:2010年 2月 1日(月)00時50分0秒

小牧市教育委員会発行の小牧叢書16「小牧山城」が少し触れています。(略)「十七世紀中期、尾張初代藩主義直の最晩年の頃に側室貞松院の御賄頭になった津田房勝が記した「正事記」の拾遺のはじめに「七ツ石、五本松とて、名石、名木たり、人かけ松といふも五本の内なり」という文章が残る。しかし、これらの巨石が七ツ石と関連があるのかどうかは謎である。」と書いてありました。


投稿者:MURY 投稿日:2010年 2月 2日(火)00時12分54秒

名石と呼ばれる七ツ石ですが、小牧町役場が昭和3年に編纂した『小牧と史蹟』(第二版)によれば、「(小牧)山の西腹に観音洞あり。此所は霊仏授乳観是音菩薩の霊現地と伝へらる、時は明応元年三月十八日狩人の矢面に立って霊仏忽ち観音洞七ッ岩に出現せらる」との記述があります。
私はこの観音洞七ッ岩がくだんの七ツ石のことなのではないかと思います。

投稿者:チェリー 投稿日:2010年 2月 7日(日)03時28分5秒

 間々観音は小牧山の西北、国道155線を渡って少し入ったところにあります。金曜日は遅番でしたので、午前中の僅かな時間でしたが、行ってみました。山門をくぐると右手に手水所があります(略)。観音洞の碑に間々乳観音とあるとおり、ここはお乳のお寺なのです。中の写真が観音堂です。御本尊は千手観世音菩薩です。観音堂に七ツ石の絵が掛けてありました(下の写真)。


 受付の上品な女性に伺ったところでは、猟師が八頭の鹿を七頭まで射止めたところ、七つの石になった。八頭目を射止めたところ、観音様が現れたとのことです。観音洞には七ツ石は、もうないかもしれませんと言っておられました。(観音洞から移ったのは信長の指示ですか?との問いに、「そうです。でも歴史的な事はあまり詳しくなくて」と、丁寧に答えていただきました。)

 改めて小牧山の中腹にある観音洞に登ってみましたところ、ちゃんと説明板がありました。「明応の頃。乳の出ない妻に食わせようと、子孕み鹿を撃ちに小牧山に登った麓の狩人が、七匹の小鹿を連れた子孕み鹿を見つけて撃つと、小鹿は七つの石に、母鹿は観音像と化した。狩人はこれを見て殺生を悔い、その地に草庵を結び観音様をねんごろに祭った。後に観音を祭る草庵は間々に乳観音として移転したが、草庵の跡地は観音洞と呼び親しまれ現在に至っている。」
 さて、小牧叢書16「小牧山城」では、狩人が矢を射て仕留めた鹿は八つの大きな石になり、その上に光がさして観音様が現れた(小牧市歴史館より)となっています。(小牧市歴史館は現在の小牧山城)石の数に混乱が見られるのは何よりもこの観音洞の地にその石がないからだと思います。江戸時代の初期に名石と言われた、鹿位の大きさの石が、やはり、一つも見あたりませんでした。いろんなサイトを見ると、観音様の移設を命じたのは信長のようです。でも、江戸時代初期に七ツ石として知られているのですから、石そのものは残っていたはずです。では、それ以降に石はすべて移されたのでしょうか。間々観音の境内にはそれらしき石はありませんでした。でも(ライン関係でよくわかるのですが)事の他「場所」を重要視する徳川家がおいそれと大切な石を移動するとは考え難いです。それに、間々観音の山門は徳川家の菩提寺である建中寺から移築されたそうで、敬意をはらわれていたのだと思います。
 もうひとつの可能性は、観音様があった七ツ石の場所が、ここではないということです。小牧山の山中のどこかに眠っているのかもしれないと思ってみたりするのですが、今回はここまででございます。


投稿者:MURY 投稿日:2010年 2月 7日(日)20時59分17秒

「七」「八」という数字も神秘性や数の多さの形容として付く場合が多いですので、江戸時代においても「コレとソレと・・・アレで7個だ(or8個だ)」という厳密な個数確認はしていなかったかもしれません。
この前チェリーさんが掲載された観音堂の写真がありましたが、あの岩盤とごろごろ転がる礫石の総称が七ッ石(七ッ岩)の可能性もあると思います。
江戸時代には岩盤がもっとモリモリしていて、礫石も大きいのがあったのかもしれません。それが時代を経て人に触られて摩滅したり、ご利益があるとかで切り欠けされたり、持ってかれたりして今のような状態になったと・・・。
東京葛飾の立石や埼玉県美里町のこぶ石などは人に触られたりお守りとして石の破片を持ってかれたりで、往時とは想像もつかぬ小ささになってしまったという話があるので、これも可能性の1つに入れてあげてください。


投稿者:チェリー 投稿日:2010年 5月17日(月)01時37分58秒

 機会がある度に「七つ石」を追っていますが、手掛かりがつかめません。図書館で調べても頼りになるのは結局「小牧叢書」になり、1.「こまき昔話」では、「現存していないしその位置もさだかではありません。ただ七ツ石の残骸めくものが歴史館の建てられる以前は、頂上から南へ下るところに残っていました。鳥居龍蔵博士がストーンサークルのメンヒルだろうと言って居られたものが、それらしゅう思われます。」とあります。観音洞と関係なくなっちゃう。11.「小牧のむかしむかし」(だと思いましたが)には移された先の「間々観音」について、夫をなくし赤ん坊を抱えた母親が、村の衆に届けてもらったお米を観音様に捧げたところ、乳が出るようになった。この話がまわりの村々まで広がって、間々の乳観音と呼ばれるようになった。という話が載っていました(原典 小牧町史)。間々観音とも関係なくなっちゃう。
 小牧歴史館(小牧城)を訪れた時に、日曜日ということもあって、ちょうど学芸員の方がみえましたので伺ってみたのですが、やはり七つ石は見当たらない、観音洞の岩盤は違うと思うとのことでした。
 調べれば調べるほど、希薄になってしまいます。一体、射られた鹿が変化した石はどこにあるのでしょうか。その現場はどこなのでしょうか。と、そこで思ったのですが、考えてみると鹿が石に変わることが、実際にあるのでしょうか。


投稿者:MURY 投稿日:2010年 5月22日(土)23時00分17秒

動物の石化については、東日本でこんな事例がありました。

牛石(岩手県遠野市)姥の乗っていた牛が姥もろとも一緒に石化。
猫石(山形県東田川郡朝日町)言葉を話す猫が石化。
牛石(福島県二本松市)霞ヶ城築城の際、生贄として埋めた2頭の神牛が石化。
殺生石(福島県白河市)石化した九尾が飛び散った石片。
牛石(群馬県伊勢崎市)源義経が連れていた牛が洪水によって水死してしまい、それが石化。
殺生石(栃木県黒磯市 那須本温泉郷)九尾が石化。
亀岩(埼玉県飯能市)弁天が乗っていた亀が石化。
狸和尚の人面石(神奈川県相模原市)和尚に化けていた狸が首を切られ、首が石化。
猫岩(新潟県魚沼市)悪行を働いていた猫又が、神によって石化。


動物以外にも、人間や鏡・つづらなどの物品も石化してます。鹿はパット見ありませんでした。
実際石化はしないと思うのですが、これが象徴(何かの形容・比喩)かどうかは分かりません。私自身は石化の意味をまだ追いきれてないのが正直なところです。むしろ、その意味をつかむために事例をえんえんと集めることにします。
私も何か思いついたらまた投稿します。


投稿者:チェリー 投稿日:2010年 6月14日(月)00時01分22秒

 七つ石 は信長が観音様を小牧山からおろした後も、残っていたと思います。徳川政権になって尾張徳川家が小牧山を立入禁止にした後、「正事記」に七つ石の記述があるからです。それが今は見当たらない。徳川家が管理している間に無くなっちゃった可能性が高いんじゃないかなぁ。何かに使っちゃったというんではなくて、大切に移動したという気がしてなりません。

――――――

以上、掲示板過去ログより転載。


観音洞の現況

先の投稿からわかるのは、間々観音の創建にまつわる岩石でありながら、間々観音の方でも小牧山城の施設の方でも、はっきりとした確認がとれていないために統一見解が定まっていないということである。

掲示板の投稿から10年が経過して、遅ればせながら小牧山の観音洞(かんのんぼら)の現地を訪れることができた。

観音洞。「間々乳観音出現霊場」の石碑が岩盤上に建つ。

逆方向から撮影。目視した範囲ではここにしか露岩は見当たらない。

岩盤の近接写真。

現地にはここが観音洞であることを示す看板も建つ。


七つ石の位置確定

観音洞の岩盤が七つ石なのか、現地には明示されていない。

ただし、渋谷吾往斎(編)『我が郷土の史蹟と伝説』上巻(聚文館 1926年)という文献に、「小牧山の西に面した観音洞といふのがあつて、そこには七つの石が古い昔からの傳説を物語つている。」との記述は確認した。

私自身も、2010年の投稿時に『小牧と史蹟』の「霊仏忽ち観音洞七ッ岩に出現せらる」の記述を見つけており、このことを加えると少なくとも七つ石が観音洞に位置するということは間違いないと言って良いだろう。

したがって、観音洞懐疑説を採る「こまき昔話」「小牧歴史館」は文献調査不足による見解と判断できる。


中井均氏は、観音洞の岩盤を小牧山城築城の理由の一つと絡めて次のとおり取り上げている。

「この山は間々観音出現の地でもある。本丸の西方に伸びる尾根の頂部はチャートの岩盤が露頭しており、そこに観音が降臨したと伝えられており、間々観音出現之地の石碑が建立されている。小牧山城は信長の美濃攻略の拠点として構えられた城郭ではあるが、それを信仰の山に選んだのである。その観音降臨の山に巨石を用いた石垣を築くことが重要だったのである。」(中井均「守護・戦国大名の居城と聖地」『中世学研究3 城と聖地―信仰の場の政治性―』高志書院 2020年)

現今の研究において、観音洞の岩盤は城郭と聖地という観点からも注目されていると言える。


観音洞の岩盤が七つ石か

残る課題は、この岩盤が七つ石なのか違うのかという点であるが、その間の可能性として、この岩盤が元来の七つ石と景観が異なることについても想定しなければならない。

あくまでも伝承上の流れではあるが、間々観音創建となる観音出現縁起が明応元年(1492年)であり、小牧山城は永禄6年(1563年)である。寺院の歴史の上に城郭の歴史が上書きされている。


七つ石がどのような理由で「七」を冠したかは(伝承の理屈を抜きにすると)不明だが、七を想起させる岩石の形状だったとしても、地表に露出したそのような岩石が現在にいたるまで原形のまま継続できた保証はない。

実際、間々観音は小牧山から移転して、小牧山城の諸施設でさえも発掘をして初めて土の中から出てくるように、山地における景観が過去と現在で同じであることはむしろ少ない。

七つ石の岩盤が人為的に削られたかどうかはわからないが、岩肌はそれぞれ角が丸まって摩耗の様子がうかがわれ、接する地面も礫混じりで土に半ば埋まった微高地となっている。

岩盤の露出具合も年代によって異なっていたのではないかと思われ、現状の岩石の姿を以てこれが七つ石たりうるのかなどを印象論だけで論議するのは避けた方が良いだろう。


以上の情報を踏まえて、私は観音洞の岩盤を「現在の景観にかかわらず、じゅうぶん七つ石たりえた」と判断する。


2023年5月14日日曜日

小牧山「ストーンサークル」説(愛知県小牧市)

愛知県小牧市 小牧山(標高86m)頂上付近


尾張小牧山にストーンサークル(環状列石)があるという話を聞く。

提唱者は、日本における巨石文化を主張したことで知られる鳥居龍蔵である。
雑誌『武蔵野』において次の短報が記されている。

「小牧山上にストンサークルらしい跡があります。」(鳥居「尾參通信」1929年11月 )
「小牧山は先日も調査した所で、今回はその時発見して置いたストンサークルの精査をいたしました。町長の厚意で山頂にストンサークルの石が三十余個の並列することを発見させられてくれました。この小牧山をなほよく見ると更に山を廻ぐらすストンサークルが、山頂の下にも、また麓の所にもあることが発見せられました。」(鳥居「尾張の旅より」1929年12月)

このストンサークルとはどのようなものなのか。
鳥居博士は小牧山に対してこれ以上の記述を残しておらず、正式な調査報告書を作成してもいない。
その後、他の研究者に言及されることはあっても、鳥居博士の報告以上の新情報はないまま現在にいたっている。


そこで私のほうで少し調べてみたところ、鳥居博士の報告より2年後の『尾北郷土資料写真集』(1931年)に、このストンサークルの写真が掲載されているのを見つけた。
国立国会図書館デジタルコレクションにおいて著作権保護期間は満了しておりインターネット公開が許諾なしで許されている文献のため、下にその画像を掲載する。

『尾北郷土資料写真集』(1931年)43頁より

添文には「ストンサークルの残存せるものと博士鳥居龍蔵氏の説くところのものである。図はその一部分を示したもの、図中平面に、ある間隔をとれるものがそれで、斜面のは城壘の残石である。(伊藤一郎撮影)」とある。

興味深いのは、写真中で目立つ巨石は城の石垣で、ストーンサークルは写真の平面にあるほうだと切り分けている点である。

しかし、目を凝らしても平面に「ある間隔をとれた岩石」は写真左奥の1個を除いて識別は至難である。


現地に、このような岩石は現存しているかを確認しに行った。
たまたまタイミングが悪かったのが、ちょうど小牧山城の発掘調査をおこなっている期間で、山頂の一部区域が立入禁止だった。

山麓にある小牧山城史跡情報館で、ストーンサークルと呼ばれるこのような岩石があるかを照会したところ、発掘調査をおこなっている方にお話をうかがうことができた。
鳥居龍蔵博士のことやストーンサークルの話はご存知ではなかったが、山頂にそのようにみえるものがあるとすればそれは「転落石」ではないかとのご教示を受けた。


頂上部には実際に下写真のような岩石と標示があった。



その名のとおり、上に築かれた石垣が後世に転がったものである。山頂を取り巻くように小牧山城の石垣は構築されているため、不均等の間隔で転がっている転落石もトータルで見れば頂上を囲繞する環状列石のように見えなくもない。

ちょうど『尾北郷土資料写真集』掲載の写真に規模と形状、岩石同士の間隔が類似している。
ということは転落石はあくまでも城の石垣という認識で、斜面下の平面にあるという岩石群がストーンサークルということになるが、実はそれも小牧山城の石垣と考えられる。
なぜなら、小牧山の山頂の石垣は「3段」あることが確認されており、さらに、段と段の間には川から採取した漬物大の石を敷き詰めた「玉石敷き」と呼ばれる設備が見つかっているからだ。

小牧山城の発掘調査で整備中の山頂部石垣の一部。

小牧山山頂部の石垣の三段構造模式図(小牧山城史跡情報館の展示より ※写真撮影可)

同館展示より

上写真のとおり、最上段だけが石垣のようにみえるが、その下の2段目・3段目も石垣であり、その間を玉石が並べられていたということで、小牧山の頂上部は岩石の囲繞で埋め尽くされている。
これらの石垣・玉石の設備のうち、発掘調査前から地表に露出していた一部を「ストーンサークル」と誤認したものであろうと考えられる。


小牧山城は、近年の発掘調査が進む中で、織田信長が岐阜城や安土城につながる「見せる城」として巨石を石垣に用いるなど、岩石の利用を示威に用いた城郭として注目されている。発掘調査の詳細写真などは下記も参照してほしい。「環状列石」と錯覚してしまう岩石の設備が数多く認められることがわかるだろう。


山に露出する岩石に人為性を感じる場合、城郭や寺院など、さまざまな山地利用を想定して、その影響のうえで現状の景観が存在することを考慮しないとならない。鳥居博士の記述にはその点への考慮・言及がなされていない点で信頼に欠ける説と言わざるを得ないだろう。

小牧山のストーンサークル説については、ほかにも坂重吉氏が「鳥居龍蔵博士の推定された、尾張国小牧山上及び国府宮に存するものの所謂ストンサークル説に就ては肯定し能わざる点が多々ある」(坂「石神堂に参詣しての雑考」1981年)と述べるように、批判的にとらえなければならない。

なお、直接関係しない情報ではあるが、小牧山に関する「怪しげ」な記述を見かけてしまったのでこちらも併せて紹介しておく。

超古代史関係では著名な鳥谷幡山氏が、イエス・キリストの来日伝説(竹内文書に基づく)を主張する著書の中で、イエス=石神説という奇説の傍証として小牧山に「石神神社」なる神社があったことを一文のみ記している。以下引用する。

「秀吉と家康の戦で有名な尾州小牧山に石神神社と云ふのがある。其御祭りの日は徹夜で石塊を山上に運び上げて祈願を罩むる」(鳥谷 1940年)

山上に石を運ぶ風習は近在でも尾張富士の石上げ祭が知られており小牧山でも地域的にまったく不思議ではないが、石神神社という神社の存在と歴史について、他文献でまだ調べられていない。


参考文献

  • 鳥居龍藏「尾參通信」 『武蔵野』14(5),武蔵野文化協会,1929-11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/7932484 (参照 2023-05-14)
  • 鳥居龍藏「尾張の旅より」『武蔵野』14(6),武蔵野文化協会,1929-12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/7932485 (参照 2023-05-14)
  • 坂重吉「石神堂に参詣しての雑考」『尾張の遺跡と遺物』上巻,愛知県郷土資料刊行会,1981.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9538763 (参照 2023-05-14)
  • 小牧中学校郷土部 [編]『尾北郷土資料写真集』,愛知県小牧中学校郷土室,1931年 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1213816 (参照 2023-05-14)
  • 鳥谷幡山 著『神国日本に再顕せるイエスキリスト : 戸来十和田の太古史蹟』,1940年 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1137754 (参照 2023-05-14)


2023年5月7日日曜日

二つの猪子石(愛知県名古屋市)


牡石(北の猪子石) 愛知県名古屋市名東区香坂


牝石(南の猪子石) 愛知県名古屋市名東区山の手1丁目


現在は香坂や山の手といった住所になっているが、かつてはこのあたり一帯を猪子石村と呼んだ。

香流(かなれ)川の北岸と南岸の二か所に猪子石(いのこいし/いのこし)と呼ばれる自然石があり、この岩石の存在が猪子石村の地名の発祥とされる。


北岸の猪子石は牡石(おいし)とも呼ばれ、猪子石神社という社号でもまつられる。

住宅地に挟まれる猪子石神社

牡石

対して南岸の猪子石は牝石(めいし)とも呼ばれ、大石神社がまつられる。さらに現地看板によると、この牝石の表面には多数の小石(礫)が付着しているようにみえることから「子持石」の別称もあるらしい。

猪子石公園の隣に接する大石神社

牝石

二つの猪子石は、今はどちらも住宅街の中に埋没しているが、江戸末期~明治初頭成立の『尾張名所図会』では、香流川を挟んだ小高い山村の丘に、二つの猪子石が向かい合うように描かれている。

特に、南岸の牝石の辺りは蓬莱ヶ谷(よもぎがだに)といわれ、ここに蓬莱洞、蓬莱ヶ谷の観音と称される堂があり修験霊場の一つだった。今も牝石に接して御嶽教の影響がみられる石碑などが立ち並んでおり、観音堂のよすがを偲ばせる。

大石神社境内に残る石碑群

大正14年建立の「●子石霊神」

さて、「猪子(いのこ)」と言えば、民俗学ではいわゆる亥の子行事が思い出される。

旧暦の亥の月の亥の日に行われた祭りであるが、時代・地域によってその目的や内容はかなり異なる。

岩石信仰との関連では、亥の子行事では「いのこ石」と呼ばれる石が祭りで用いられるケースがある。石を縄で縛り、主に子どもたちが縄を引っ張りながら石を地面にたたきつけて練り歩く。

この「いのこ石」の行為の意味についても諸説あるが、ここではその結論は求めず、当地の猪子石がこの亥の子行事に用いられていたものなのかどうかが論点である。


岡本柳英氏は『生きている名古屋の坂道 : 写真図説』(1978年)の中で、猪子石村の猪子石はたまたま「いのこ石」に似ていたから亥の子行事と結びつけられたものだと推測している。

現地看板も、猪によく似た自然石があったのでそれが亥の子行事と結びつけられたという論旨であり、すなわち、亥の子行事に使われた石だから猪子石になったという説は採られていない。


この説の蓋然性については判断保留としたいが、二つの猪子石はそれぞれ大きさとしては持ち運び、可動的に祭祀に用いることはできた規模・形状だっただろうとは思う。

いわゆる、自然露出の岩盤で土地から切り離せない存在だったかというと、そうではないので元来の性格・役割は現在の「ご神体」的な機能とはまた異なっていた可能性はある。


参考文献

  • 岡田啓 (文園) , 野口道直 (梅居) 著『尾張名所図会』前編 巻5 愛智郡,片野東四郎,明13. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/764884 (参照 2023-05-06)
  • 岡本柳英 著『生きている名古屋の坂道 : 写真図説』,泰文堂,1978.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9569956 (参照 2023-05-06)