2024年12月9日月曜日

雨晴岩/義経岩/義経雨晴岩(富山県高岡市)


富山県高岡市太田 雨晴海岸

『義経記』による道順からははずれているが古くから義経の奥州下りの途中に雨宿りしたという雨晴岩の伝説が語りつがれている。 

岡崎卯一 [ほか]著『富山の史跡 : はるかなる大地の伝言』,巧玄出版,1978.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9537599 (参照 2024-12-09)


雨晴岩/義経岩。義経社をまつる。

雨晴海岸

義経が願かけ石、或は弁慶のまな板石とて同所にあり。(略)(越中史徴)

高岡市史編纂委員会 編『高岡市史』上巻,青林書院,1959. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3009126 (参照 2024-12-09)

雨晴岩内部

これら奇岩の折り重なりや群集のいずれかを願かけ石、まな板石と呼んだものか。

雨晴海岸に浮かぶ女岩。南東800m地点に男岩も存在し、いずれも明治時代制作とされる『越中史徴』に記載が残る。


2024年12月1日日曜日

気多大社の「磐境」(石川県羽咋市)


石川県羽咋市寺家町

問題の磐境は本殿の北方森林中にあって、今奥宮鎮座す。石垣は長方形にして南北短く東西長く、長軸は正しく東西を指し、東西四〇尺、南北三三尺なり、入口には門の如く中央に巨石を立てゝ並べ、その左右より石垣をつくる、左右側石も所々に巨石を用い(縦に)その間に自然石を横積とす。後方は巨石を用いず、横積の丸石多し、(略)この石積は手法より見ても古代のものならず、又出土品より見ても中世以降のものなること疑なし。

茂木雅博(書写・解説)・大場磐雄(著) 『記録―考古学史 楽石雑筆(補)』博古研究会 2016年

禁足地のため写真なし。


2024年11月28日木曜日

玉の石と鷺石( 愛媛県松山市)


愛媛県松山市道後湯之町

踐み健びましし跡處、今も湯の中の石の上にあり。

伊予国風土記逸文(秋本吉郎校注『日本古典文学大系2 風土記』岩波書店 1958年)

大穴持命が、重症の宿奈毗古那命を蘇らせるため、別府から伊予へ引いた湯に浸したところ快癒し、そのとき踏みしめた跡が石上に残るという。

今の道後温泉に存する「玉の石」がこの伝説の岩石とされている。



伊予国風土記は完存しておらず、本記述は『釈日本紀』巻十四、『万葉集註釈』巻第三に引用された形で伝わったものであり、いわゆる風土記の時代まで遡れる伝説かは確定できない。

また、玉の石の岩石は地表から浮いていることや、周辺環境は開発が進んだ都市部の中でありつづけてきた岩石のため、玉の石がどれだけ原状をとどめてきたか、伝説の岩石を指すものかは不明である。

道後温泉開湯の由来を伝える鷺石


2024年11月10日日曜日

鹿島神宮の要石と鏡石(茨城県鹿嶋市)


茨城県鹿嶋市宮中

鹿島社例傳記にいふ

奥の院奥ノ石御座有。是俗カナメ石ト云。號山宮。大明神降給シ時、此石ニ御座侍

との初傳は注意すべきもので、蓋し要石の本体を物語るものとすべきであらう。なほこれに関聯して更に附言すべきは、現在同宮御本殿の眞裏約十間餘を隔て、外玉垣に接して存する「鏡石」についてである。石は地上高約一尺餘、圓形を呈し表面径二尺四寸を有する圓盤状のもので、別に玉垣を以て囲み神聖視せられてゐる。由来に就いては不明であるが、その表面が平滑で圓形を呈し、鏡に似てゐる點からかく稱したものと推定せられる。殊に面白いのは今の本殿に接した直後には、神木と稱する一巨木が聳立して居り、それと一直線上の後方に鏡石が存在することで、恐らくは最初要石と同様、本宮の原始信仰を物語る磐座及び神籬を如實に示すものではあるまいかと推定せられるのである。

大場磐雄「磐座・磐境等の考古学的考察」『考古学雑誌』32-8 1942年

要石

鹿島神宮本殿裏。写真の「一巨木」の延長線上に鏡石があるか。


2024年11月3日日曜日

権現様(愛知県北設楽郡設楽町)



「権現様」の標柱。

中心となる岩塊。岩上に祠がまつられる。

背面より撮影。

側面から最奥部を撮影。

周囲の地表面に無数の露岩が散在する。

露岩の一つ。岩塊の上に小石が置かれる。


詳細は以下の文献で報告済。

吉川宗明「愛知県北設楽郡設楽町(旧名倉村域)における自然石の文化財」『地質と文化』第6巻第2号 pp.81-106 2023年