2021年6月13日日曜日

仙宮神社の巨岩群と倭姫命腰掛岩(三重県度会郡南伊勢町)


 三重県度会郡南伊勢町河内

仙宮神社の巨岩群

『天照皇大神御降臨記』という文献に、元伊勢鎮座地として志摩国多古志宮の名があり、これが仙宮神社という。
いわゆる元伊勢伝承の代表作と言える『倭姫命世記』そのものには載らない元伊勢伝承地と言えよう。
このように天照大神の元伊勢の性格を持ちながら、現在の主祭神は猿田彦命をまつる。

元伊勢伝承を外に置くと、実際のところの創建年は不詳となる。

仁治年間(1240~1242年)に官符を賜ったとの社伝があるものの、南伊勢郷土研究の碩学・中世古祥道氏の論文「南伊勢町河内在の『仙宮神社』蔵の資料について」(『三重の古文化』第102号、2017年)によれば、当時の官符に関する記録を批判的検討した結果、仁治年間よりも建治年間(1275~1278年)の可能性が高いことが「老翁の寝言」との但し書きつきで指摘されている(中世古氏は2019年に逝去された)。

神宝には、金銅製水滴(平安時代)、八稜鏡(鎌倉時代)、金銅製経筒(室町時代)が所蔵されているとのこと。
以上を考え合わせれば、平安時代末期~鎌倉時代に神社あるいはその前身としての祭り場が存在した可能性はじゅうぶん首肯される。


仙宮神社は山麓ではなく山中の神社で、地理的には尾根の先端上に立地する。

参道にいたる山中と、本殿の背後に大小の自然石が群集しており、一般的にはこれらは「磐座」と呼ばれる。

仙宮神社は上写真左端の尾根上に位置する。

参道の岩石祭祀事例

参道脇の露岩。こちらは祭祀設備なし。

社殿左脇の岩石祭祀事例

仙宮神社社殿(写真右)と背後の巨岩群

岩群

巨岩は見る角度によって岩崖の異なる表情を見せる。

猿神石と通称される岩肌面

また、私が訪れた2009年の時には見当たらなかった信仰だが、現在は本殿背後の一大巨岩が猿の横顔のように見えるらしいことから、新たに「猿神石(さるしんせき)」という名称が人口に膾炙している。猿の顔→猿田彦に通ずることから、祭神の顔として神聖視につながったようだ。

2015年12月4日付読売新聞記事などで「猿神石」の名が登場し、2016年申年の縁起とも重なりパワースポットとしての知名度が高まった様子が覗われる。

ただ、猿神石の名は古記録に現れるものではなく、神の顔が岩石に現れるという心性についてはあくまでも現代の岩石信仰であることを付言しておきたい。


この岩群が仙宮神社の社殿祭祀より先立つことについては、神社が山麓ではなく山中に所在することや自然の巨岩の群れで人為的に寄せたものではないことから間違いないところと思われるが、その始源をどこまで遡らせることができうるだろうか。


三重県埋蔵文化財センター『三重県埋蔵文化財調査報告345 奥ノ田頭遺跡発掘調査報告』(2014年)に「仙宮神社には安政年間に付近で発見されたという伝承がある子持勾玉が残されている」という一文を見つけることができた。

子持勾玉と言えば古墳時代の代表的な祭祀遺物であるが、果たして「付近」とはどの範囲を指すだろうか。

安政年間には当地で高波が発生し、その時に神社所蔵の古記類は流出したという。

それと同じ安政年間に発見されたという子持勾玉も、高波後に地表下から見つかったものと類推するなら、その発見場所は高波が届かない山中の巨岩裾ではなく、山麓の平野部とみなすのが妥当かもしれない。

南伊勢町では目立った発掘調査がなされていないので、考古学的な推測はまだ難しい状況である。近くから土器などが見つかったという話もあるが、巨岩を対象とした祭祀だったと断定することはまだ避け、南伊勢の河内の地域において古墳時代の祭祀に関わる痕跡があったらしいとまで言及しておくのが望ましいだろう。


なお、仙宮神社南の国道沿いに「倭姫命腰掛岩(倭姫命腰かけ岩)」が現存する。

「垂仁天皇の御代、皇女倭姫命が天照大神の鎮座地を探し求めて当地を御通過の時、長旅の疲れをいやそうと御休憩された由緒の地であります」(現地看板)とのことで正しく元伊勢伝承地の旧跡であり、仙宮神社を元伊勢伝承地として物語った時期と前後して成立した場所だろう。

腰掛石そのものより石碑のほうが目立つ。

石碑の裏にひっそり佇むのが腰掛石。


2021年6月6日日曜日

石山観音(三重県津市)


三重県津市芸濃町楠原字石山


石山観音の摩崖仏


石山と呼ばれる岩山の岩肌に、鎌倉時代以降、40体以上の磨崖仏が彫られ続けた霊場。

石山は標高160mほどで、麓からは比高50m強でありながら、里からも近いのに山頂は草木のない岩山の奇観が広がる。



岩肌に彫られた磨崖仏は、鎌倉時代を最上限として、江戸時代まで時期をいくつか置きながら造られたと考えられている。

一定の巡路に沿って巡れば、山を一周しながら三十三観音を礼拝するという形式をとるが、観音だけでなく阿弥陀仏・地蔵仏・不動明王像なども造立されており、統一的規格による霊場というよりは一種の混沌観や多様性を宿した場となっている。


石山観音のパンフレット(横井文英氏著)の言を借りれば、

「他のこうした霊場は一具の仏像が同じ工人によって短時日の内に造立される結果、画一的で個性に乏しいものが多い中にあってこの石山観音は長年月に亘って遂次追刻されたらしく、個々の仏像に大小の差や姿態の変化があり各々個性的である点は大きな特色と言えよう」

たしかに、立像・坐像の違いもさながら、巨大な摩崖仏から小さく可愛らしい存在まで様々、表情一つとってもバラエティに富んでいる。

ただ、彫刻のしかたは先達を踏襲したものと思われ、仏像の前半分が岩盤から立体的に浮き上がるようにした「半肉彫り」と呼ばれる彫刻様式を採用している。


坐像タイプ(第一番)


立像タイプ(第二番)


石碑タイプ(第二十九番)


千手観音タイプ(第三十二番)


大規模タイプ(番外:阿弥陀如来立像。像高3m52cm)


馬の背


山頂はモコモコと岩盤が隆起して、これがまるで馬の背中を想起させることから俗に「馬の背」と呼ばれる。




石仏群がまだ造られていなかった時も、この岩山はここに存在していたのだろう。

石山における「馬の背」のインパクトには無視できないものがあり、里にも近いだけに、仏教以前の石山の聖地としてのありかたにも想像を逞しくしてしまう。

けれども、記録を調べてもそういった類の話は見当たらず、客観的な結論としては石仏文化の霊場という評価が唯一下せうるものとなる。


「馬の背」という言葉自体にも、岩石に対する尊敬・神聖視の感情は読み取れない。

「馬の背」は下方から上方まで万遍なく磨崖仏が刻まれていることから、「岩石を畏れ多いものとして手を加えない」という発想はなかった。

むしろ「岩石に手を加えることで、初めて岩石は神聖なものに昇華する」という認識に基づいた行為なのだろう。

さすがに頂上部だけはこれといった彫刻は見当たらないが、磨崖仏を立体的に刻む場合、頂面の造像は物理的に不可能と言え、側面に刻むのが自然の成り行きである。この現象自体に深い意味はないと思われる。


石山観音の今


石山観音の麓には、かつてここを霊場として用いる浄蓮坊があったが、江戸時代初期に浄蓮坊は別の場所に移り石山観音の管理から離れ、今は自治体管理の下、石山観音公園として整備がなされている。

よって、多数の磨崖仏や「馬の背」の景観は今も霊地の趣きながら、それぞれの磨崖仏から「祭祀行為」は失せ、供え物の類は個人的な篤信によるもの以外は基本的に見られない。


また、「馬の背」にはおそらく昭和初期の頃かと見られる落書きの彫刻(人名や恋人同士の相合傘など)が多数刻まれ、この頃から人々の中からは石山観音という場所に対する「神聖視」は失せ、観光名所的な「特別視」に移っている様子が見受けられる。

岩肌に刻まれた無数の人名

人はなぜ岩石に自らの名を刻むのか。集団心理、歴史的遺産。

これは1990年代後半~2000年代前半の所産か。

一応、現在も4月と9月の年2回「石山観音まつり」が催され、その時は現・浄蓮寺による読経や文化協会による俳句・詩吟などの行事で多数の人々が集まる。

しかし、この「まつり」が人々が仏に何かを祈願する本来的な祭祀になっているかというと、それよりも観光要素の強いイベントの感が強い。文化協会がイベントを支えていることから当然とも言える。


それでも石山観音は大切に整備され、霊地の空気はいまだ損なっていない。

今は組織的な祭祀主体はいなくとも、個人的な地元の崇敬者や、ここに来て多数の石仏に出会い、新たに祈りを捧げる地元外の祈願者も潜在的に存在し続ける可能性が高い。

公園として活用する一般の観光客と、馬の背に座りずっと何事かを念じている人を見た時、ここのもう1つの特色を見た気がする。


2021年5月30日日曜日

平群山/志知遺跡(三重県桑名市)


三重県桑名市志知 平郡神社裏山


平群の名は、大和の平郡氏が当地に移り住んだことに由来するという。
後年、ヤマトタケルがこの平群の名から故郷大和に思いを馳せ和歌を残し、足を洗ったという地元の伝説地・足洗池が現在の平郡池として平郡神社隣に残る。
へぐりのほかに、へごりの読み方もあるらしい。

平群池(手前)と平郡山(奥)

平郡神社は延喜式内社であるが、境内は古墳時代の志知遺跡として知られ、神社の裏には平群山と呼ばれる丘陵が続く。
この平群山は、現地の看板に「背後の平群山は古代神奈備の遺跡」と記されるが、どういうことだろうか。

考古学者の大場磐雄博士は、昭和28年8月28日に平郡神社を訪れ、平群山について以下の所見を自身のメモ『楽石雑筆』巻37に残している。
一説にこの山を古墳なりといひ、葺石ありとす、されど疑はし、余は神体山にして葺石らしきものは祭壇ならんと思ふ、又この山の裾にて先年須恵器坩、同坏、高坏、𤭯等を掘せり、これも古墳説の傍証となれり、されど面白きはその場所より引續ける下方の今社務所の立てる下より土師盌(角形把手付)、土師高坏四(脚部のみ)と一種の埴輪(何者か判断に苦しむ埴輪に似たれど疑はし)出土せり、祭祀遺物らし。
茂木雅博(書写・解説)・大場磐雄(著) 『記録―考古学史 楽石雑筆(補)』博古研究会 2016年
"何者か判断に苦しむ、疑わしき埴輪"とは何だろうか。

三重県埋蔵文化財センター『三重県埋蔵文化財調査報告288 志知南浦遺跡発掘調査報告』(2008年) の中では「異形土器」と表記されたものを指すと思われ、写真も実測図も掲載されていないのでわからないが、祭祀遺跡としての見方を支持している様子である(p.5)。

大場博士のメモの雰囲気では、むしろ当時は古墳説が有力だった様子が覗われる。
そんな趨勢へのカウンターとして大場博士の意見が示されたのかもしれないし、現在、平群山に神奈備山や祭祀遺跡といった概念が当てはめられている源流はここから来ている可能性も想定しておきたい。

大場博士が記した「祭壇」らしき石の群れを確認したいと思い現地を訪ねたが、平群山は現在神聖視されており、登山道も見当たらなかったので山中に足を踏み入れることは遠慮した。


平郡神社の本殿前から山の上方斜面を目視で眺めてみた。

本殿より裏山を撮影。

尾根上に登れそうではあるが、自粛。

「祭壇」と呼べるようなものは見当たらない(祭壇の外形的定義が定かではないので判断自体が難しい)が、本殿向かって左手の尾根端部には数個の石が顔を出していた。

尾根端

尾根端

「葺石風」と表現することは、できそうだ。


ところで、神社境内には人頭大の礫石が数か所に分散して群集している。




これは何による営為だろうか。

比較的若木の裾に、角が取れた石と、欠け割れた石の両方が混在している印象だ。

また、拝殿向かって右手の石垣前に、石垣と同化して少々わかりにくいが三角形に尖った立石と、棒状の立石の2体が存在する。


こちらは「奇石」的な扱いで特別視または安置された感がある。

境内入口に置かれた山神


2021年5月23日日曜日

室生の龍穴(奈良県宇陀市)


奈良県宇陀市室生


室生龍穴神社の奥宮を「龍穴」と呼ぶ。

箱崎和久・中島俊博・浅川滋男「山林寺院の研究動向―建築史学の立場から―」(『鳥取環境大学紀要』第11号、2013年)によると、『続日本紀』の記述を引き、室生龍穴・室生龍穴神社・室生寺の関係を次のようにまとめている。

  1. 龍穴への信仰がまずあった。
  2. 龍穴の霊験が広がり、朝廷の命でその地に室生寺を造る。
  3. 室生寺の創建より遅れて、室生龍穴神社が近接して造られる。
  4. 龍穴は奥宮として位置づけられる。

同論文では、このように特殊な自然物から端を発して寺院が造られ、その鎮守社としての神社が後から建てられるような流れは他地域の山林寺院にも見られ、自然物信仰・神社・寺院の関係性を示す範型の一つとして取り上げている。

室生寺、室生龍穴神社の資料・縁起には欠損や断片的なものが多く、諸系譜が入り乱れているため上記の流れが確定的かというとまだ疑問の残るところではある。


藤巻和宏「初瀬の龍穴と<如意宝珠>―長谷寺縁起の展開・「宀一山」をめぐる言説群との交差―」(『国文学研究』130、2000年)では、室生龍穴の存在が近在の聖地にも影響を与え、たとえば大和長谷寺の初瀬龍穴信仰は室生龍穴を模したものと論じている。

藤巻論文では、鎌倉時代の文献である『古事談』や『宀一山秘密記』における龍穴の記述が取り上げられているが、これら現存する文献で語られる龍穴とは、龍(龍王・龍神)が住まう場所、ないしは、別世界である龍宮につながる入り口として描かれている。

岩石の裂け目や穴が、神聖な存在の内部空間や異界へのゲートとみなされる例であり、岩石はいうなれば宮殿の外壁あるいは高い転送装置としてのハードであり、たとえば岩石が龍の依り代や龍そのものという位置づけは正確ではないと言える。

また、当地に度々捧げられた祈雨の修法は、龍穴の前を流れる川や瀧を龍王の司り操る水と信じて、水量の増減を祈ったものだろう。

岩石信仰の観点から見れば、岩石単体での信仰ではなく、穴という視覚的な特徴に加えて、川水という自然環境の存在と、当時の仏典と神仏習合の形而上的な論理が絡み合って成立した事例である。


なお、現在とみに通称される「吉祥龍穴」の名は、古記録上では見当たらないため後世的な呼び方と考えられる。

龍穴の近くに「天の岩戸」も、いわゆる日本神話の天岩戸神話をモチーフにした点では後世的な聖跡と言えるが、日本神話としての天岩戸ではなく、龍穴を岩窟とみなしてその入口を塞ぐ岩戸として出発した存在かもしれない。

天の岩戸

天の岩戸

室生寺境内

室生寺境内の石積み

賽の河原

室生寺奥の院裏の岩盤と石塔


2021年5月17日月曜日

玉鉾山とポンポン山、玉鉾石と湊石(埼玉県比企郡吉見町)


埼玉県比企郡吉見町田甲


吉見丘陵の北端を玉鉾山、またはポンポン山と呼ぶ。標高38mの小丘だ。

山頂の地面を足で強く踏むとポンポン音が鳴ることから、ポンポン山の通称がついたらしい。

山頂に延喜式内社の高負彦根神社が鎮座。和銅3年(710年)の創建と伝えられ、宝亀3年(772年)の太政官符にも「高負比古乃神」と記載があることから、奈良時代に遡る古社と言って良いだろう。

神社神道で語られる神体山の発想で言えば、山は神聖不可侵で山麓から神山を仰ぐ(だから社も山麓にある)という古典的な学説があるが、当社は山の麓ではなく山の上に鎮座し、この例外となる。

玉鉾山が「山」というほどの高さではないことや、元来は麓にあった社が後世に遷座した可能性を否定するものではないが、通説的な信仰観で単一的に括れない神社のかたちも想定してしかるべきだろう。




高負彦根神社の社殿背後はすぐ山頂で、上写真のような岩盤の露頭が群在している。山頂の東側はそのまま岩盤が岩崖となって岩山の体をなす。

この岩体を玉鉾石と呼び、玉鉾山もここから生じるものだろう。

玉鉾石と近似した存在として、当社には「湊石」と呼ばれるものが記録されている。

社頭掲示によると、「高負彦根神社の三鉾…湊石(御身体)・大柊・菊水(湧水)」という記述がある。
1830年(文政13年)成立の『新編武蔵風土記稿』に「社前ニ湊石ト云アリ」と記されるものと同一物と思われるが、社前(社の向きである西側を指すのか、山の東側か不明だが)にそれらしきものは特定できなかった。

三鉾は、神宿る場所という意味合いと推測される。
わざわざ「御身体」と記された湊石は、同じく「鉾」の字を冠し、同じく社前である東の山頂に広がる玉鉾石とは別の存在なのだろうか。あるいは、山頂に広がる露岩群のどれか特定の一つを指すのだろうか。

『新編武蔵風土記稿』では、玉鉾山と湊石は別々に記されており、別物のようにも見えるが、このあたりは説明不足もあり不明である。


玉鉾石に隣接して、宝暦6年(1756年)の刻字をもつ石仏が安置されているほか、東の岩崖の裾部には、崖を取り囲むように石灯籠や石仏が設置されているのを見ると、社域としての山、そして岩石の聖域視はじゅうぶん設えられているものだった。

現在はポンポン足踏み遊びやロッククライミングに利用されて、岩石の利用は複合的になりつつある。

岩盤の傍らに安置された石仏


東の麓から見た玉鉾山。ちょうどロッククライミング中の方がいた。