2019年11月10日日曜日

山神遺跡/鍛冶屋の山の神(三重県伊賀市)


三重県伊賀市鍛冶屋猪ノ坂3891



場所は、青蓮寺用水の東にこんもりと繁る標高222.9mの丘陵上にある。


麓からは比高差30mほどである。

丘の頂上から南へ斜面が傾斜しだす位置に、1体の巨石を中心にして、その周辺に小ぶりの岩石群が不規則ながらやや弧状に散在している。




中心となる巨石は、元は同じ岩塊だったと思われるものが2つに割れていて、それとは別で、まるで巨石を立てたかのように別の岩塊が当てられている。人為性の有無は、これでも何とも言えない。



また、中心の巨石の岩肌には、岩脈のような帯状の線がうっすらと見えている。


さて、巨石の北に接して、まつり場が残っている。
巨石の北は頂上側なので、巨石を斜面の下からまつるのではなく、斜面の上からまつるのが興味深い。


巨石に接する三本の幹は枯死しているが、根はそのまま残されている。


写真では祭祀場は荒れているように見えるが、現役の祭祀場である。
その証拠に巨石群の南端には、当地で色濃い山の神信仰の祭祀具「カギヒキ(鍵引き)」が残されている。


この巨石は「山の神」と呼ばれ、古墳時代の祭祀遺跡ではないかとされている。

この遺跡の存在は、kokoroさんのブログ「神社の世紀」の記事「山神遺跡の磐座」で知った。
kokoroさんは『三重県上野市遺跡地図』(1992年)でその存在を知ったというが、同地図が近くに蔵書されていないので、代わりに『三重県遺跡地図』(三重県教育委員会、1970年)を開けたところ、ほぼ同じ記述に出会った。
三重県遺跡地図のほうが出版年が古く、こちらが出典元となりそうだ。1970年当時にはすでに遺跡として指定されていたことがわかる。
下に記述を引用しよう。


  • 遺跡名 山神遺跡
  • 所在地 鍛冶屋猪ノ坂3891
  • 県遺跡番号 4070
  • 市町村遺跡番号 244
  • 種別 遺物包含地
  • 時代 古墳時代
  • 規模・現状・遺構 巨石の山の神の前面から、皿形土器が出る
  • 出土遺物 土師器片


山神遺跡のよみがなは記載されていないが、遺跡名にとらわれず本来の岩石の名称としては「山の神」で良いだろう。

巨石の前面から土器が出たとある。
前面は、現在の祭祀方向の北側なのか、それとも斜面下方向なのかはわからない。
古墳時代の遺物ということであるが、皿形土器が出て出土遺物として土師器片とあるので、皿形土器=土師器片の可能性が高い。

状況からみて、発掘による出土ではなく、表面採集による発見と思われる。
図面、出土点数、現在の保管者など詳細情報は未記載。
つまり、この皿形の土師器片がどのような破片かわからず、批判的に見るならばこの土師器片が古墳時代と推定した根拠には欠けると言わざるを得ない。
土師器とは素焼き土器であり、中近世に下る製作物もあるので、編年的特徴が明確でない限りは、この年代特定をやすやすと信じられないものがある。

"古墳時代の磐座祭祀遺跡"……。

巨石祭祀がすべて磐座ということはないし、土器の破片1点をもって祭祀用の土器とまで言いきるのも危ない。表面採集の土器であれば、土器の製作年代=岩石の祭祀年代とも限らない。
このように、自分の価値観に都合のいい情報がそろっているときほど、批判的に見る部分はないか逡巡したい。

一応付記すると、『三重県埋蔵文化財センター年報』7(三重県埋蔵文化財センター、1996年)p.56に、山神遺跡の追加情報と思しきものが僅かながらある。
農業集落排水事業の一環で「上野市菖蒲池 山神遺跡」の工事立会があり、結果は「遺構・遺物なし」とのことである。
上野市菖蒲池は現・伊賀市菖蒲池で山神遺跡のすぐ西の字である。
厳密には山神遺跡は菖蒲池ではなく字鍛冶屋の端に立地するのだが、遺跡番号が244と書いてあり三重県遺跡地図のそれと一緒なので、同じ遺跡のことを指すと思われる。

山の神の巨石は丘頂上にあり今も開発されていない山林中にあるので、巨石に接して工事立会をしたとは限らず、遺跡包含地として指定されているエリア内のどこかで工事して遺構・遺物が検出されなかったのかもしれない。

それでも、追加調査ともいえる1996年の工事立会で、地中から特に遺構は見つからなかったという事実を踏まえるなら、本遺跡を群馬県西大室丸山遺跡静岡県渭伊神社境内遺跡のような、発掘調査で古墳時代の遺物・遺構が地中から出土した遺跡群と同列に並べることはまだ避けたほうが良いだろう。


2019年11月3日日曜日

春日大社と御蓋山の岩石信仰(奈良県奈良市)


奈良県奈良市春日野町 春日大社・御蓋山一帯

春日大社の岩石信仰については、大場磐雄氏が「日本に於ける石信仰の考古学的考察」(『國學院大學日本文化研究所紀要』第八輯、1961年)において、南門前に存在する赤童子出現石を神の降臨する磐座と報告しており、これが昭和から平成のある時期まではもっとも有名な存在だった。

しかし、近年では春日神社本殿の磐座の公開など、ほかにも岩石信仰の事例と類推される場所があり、それは春日大社裏山の御蓋山(みかさやま)の山中にもおよぶ。
そのいくつかは禁足地のため、全貌は不明な点が多いが、今まで収集した情報をここに整理しておこう。

赤童子出現石/若宮出現石/額塚


南門の手前に、柵で囲われた小石がある。



大きく分けて2種類の伝説が付帯している。
1つは、赤童子(境内摂社の若宮神社の祭神とされる)が降臨した磐座という説で「赤童子出現石」「若宮出現石」の名の由来となる。
もう1つは、宝亀3年(772年)の雷火によって落下した社額を埋納した塚という説があり、「額塚」の名の由来となる。

大きさこそ小規模だが、磐座の事例としても比較的著名なものとして知られ、僅かな露頭という形態も茨城県鹿島神宮の要石などの小型磐座事例群を想起させる。

水谷神社の二つの石


春日大社境内の北側に、摂社の水谷(みずや)神社が鎮座する。

大場磐雄氏の『楽石雑筆』巻四十一によると、昭和37年10月28に大場氏は水谷神社を訪れ、以下の記述を残している。

水谷神社(摂社)にゆき、本殿下の陽石を見る、これは同社境外(道を隔てて)に存する陰石と相対するものにてその形状出現石に類し、同じく石灰を以て塗れり。
(茂木雅博書写解説・大場磐雄著 『記録―考古学史 楽石雑筆(補)』博古研究会、2016年)

水谷神社の本殿下と、道を隔てたところに二つの石があり、大場氏はそれを陰石と陰石に見立てている。
その見立てが正しいかは批判的に見たほうがいいが、現在はその陰石のほうを「子授石」と名付けてまつっている。



今は子宝の霊験を有する神石と信じられており、岩石の形状を女陰に擬したものであることに疑いはない。
岩石は石壇の一部に組み込まれていて元来どのような出自を持つのかは不明である。

一方、水谷神社の本殿の土台基礎部分に注目すると、井桁に組んだ土台の中央部に、木材に半ば押しつぶされているかのような岩塊が確認できる。


大場氏が「石灰を以て塗れり」と記したように、漆喰で塗り固められている。
全国各地にも類を見ない「特異」な岩石信仰のありかただが、数少ない類例が後述する春日大社の本殿玉垣内にある。
漆喰で塗り固めるという共通項は、そのままこの二者が同一の意図をもって認知された存在だったことを示している。

石荒神社


春日大社の境外末社。
若草山の南東裾、若草山の入山ゲート(有料区域)内にあり、野上神社と隣り合って石荒(いしこう)神社が鎮座している。
野上神社は祠を有するが、石荒神社は祠を持たず岩石をそのまま神社としてまつる場である。
祭神は火産霊神で、春日大社の式年造替の折には荒神祓之儀が執行され、神職の身を清める場という。

写真左が石荒神社。右は野上神社。背後は若草山。



御蓋山の石敷遺構(禁足地)


御蓋山は春日大社の背後にそびえる春日山の別称で、標高297mを測る。
春日大社から神山として聖域視されているため、現在は禁足地に指定されている。

この御蓋山には、山頂から山腹にかけて広大な規模の「石敷」の存在が報告されている。
禁足地ではあるが、石敷の分布状況が、春日顕彰会『春日大社古代祭祀遺跡調査報告』(1979年)で図化されている。

春日大社祭祀遺跡分布図(春日顕彰会『春日大社古代祭祀遺跡調査報告』1979年に所収)

上の図をご覧いただきたい。
御蓋山南麓に鎮座する紀伊神社(春日大社境内摂社)の辺りから、御蓋山の山頂やや東を経由して、北麓の水谷川(吉城川)付近にかけてまで、石敷の分布が網掛け表示で図化されているのがわかるだろうか。
等高線を追う限り、複数の尾根と谷間を横断する石敷である。

三宅和朗氏『古代の神社と祭り』(吉川弘文館、2001年)によれば、石敷とは別に、山中3ヶ所に広場のような場所もあるといい、石敷に用いられた岩石も花崗岩以外は御蓋山で採れない石種であることから、これは人工的な遺構であり磐境の一種ではないかと述べている。
春日大社国宝殿内にも、御蓋山に「石敷の道」を描画した絵が展示されている。

かつて、この石敷を実際に見たという方から情報をいただいたことがある。
その方によると、石敷は図化された北斜面・南斜面だけではなく、西斜面にも石敷が残っているという。

写真も見させていただいたが、確かに、列状に無数の石が続いている。
第一印象は奈良県山添村の鍋倉渓に近いが、御蓋山の石敷は鍋倉渓の石よりも1個1個が一回り小さい。また、鍋倉渓はその名のとおり渓流(谷間)に落ち集まった自然の景観だが、御蓋山の石敷は谷間だけでなく尾根にも分布しており、自然の石の流れに反している。
以上の点からも、御蓋山の石敷は人為遺構という説に賛同できる。

人為の造作であるなら、なんと壮大な規模だろうか。

いわゆる、山の等高線に沿って囲繞するタイプの磐境ではないのも特異である。
この種の類例を他に求めるなら、三重県南伊勢町の龍仙山の神籠石が頭に浮かぶ。龍仙山も、山の頂上から麓にかけて石の列が見られる。
しかし、龍仙山の石は御蓋山の石より一回り大きく、また、石は立石状のものもあり石の大きさもあまり一定していない。また、石の敷詰め具合も粗いところがあり、この点が御蓋山とは異なる。

御蓋山の石敷は、やや小ぶりのゴロ石を敷き詰めた感があり、1個1個の岩石の大きさも差はあるものの、ある程度大きさを揃えているような向きがある。
「石敷の道」とはいうが、人がこの上を歩くにはやや歩きにくそうである。ならば、神が歩く道なのか。それとも、道ではなく境を示すものなのか。いわゆる文献上の記録というものはないらしく、謎に包まれた存在である。

考古学的資料として、御蓋山から見つかった複数の経塚関係遺物がある。
前掲書『春日大社古代祭祀遺跡調査報告』によると、青銅製・瓦質の経筒、石製・陶製・瓦質の経筒外容器、仏が線刻された穿孔つきの和鏡(懸仏としたものか)、北宋銭などが御蓋山頂上の本宮神社に接して採集されている。
同書によれば、出土遺物を通観するかぎり吉野金峯山経塚・伊勢朝熊山経塚・紀伊那智山経塚・比叡山如法堂地経塚と類似していると記す。
北宋銭は11~12世紀の鋳造だが、日本に伝世したことを踏まえれば鎌倉時代の埋納経塚と推測されるだろうか。

以上のことから御蓋山頂に経塚が築かれたことは明らかだが、石敷遺構が経塚と同時期の産物という証拠にはならない。
より一層の多方面からの研究が求められる岩石祭祀事例と言える。


春日大社の他の岩石祭祀事例


前掲『春日大社古代祭祀遺跡調査報告』には、もうひとつ注目すべき情報がある。

春日大社祭祀遺跡分布図を見ると、春日大社から御蓋山にかけて複数の地点に「×」印が打たれている。
凡例を見ると「×」印は「磐座」を指す。

私が数えたところでは、地図中の「×」印は次のとおりである。

御蓋山…山頂本宮神社南東に2か所
春日大社周辺…10か所

合計12か所の「磐座」を数える。
すべてが本来の意味での「磐座」と認めるのは尚早で、いわゆる「神聖な岩石」という意味合いでの名称として把握しておきたい。

この12か所のなかには、先述した水谷神社や赤童子出現石、石荒神社の例も含まれているが、私がまだ見ていないものも多い。

そのうちの一つは、2015年に特別公開された本殿玉垣内の「大宮磐座」である。

謎の磐座が初公開!『国宝御本殿特別公開』春日大社「第六十次式年造替特別公開」 | 奈良県 | LINEトラベルjp 旅行ガイド

漆喰で塗り固められた岩石で、かつ、社殿に接して切り合うように存在しているという2点が、水谷神社の本殿下の岩石と共通している。

また春日大社を訪れる機会に、今回の記録まとめを元にひとつひとつの岩石を拝見したいと思う。


2019年10月27日日曜日

赤岩山赤岩寺の赤岩/大岩(愛知県豊橋市)


愛知県豊橋市多米町字赤岩山

赤岩山赤岩寺は、神亀3年(762年)に聖武天皇の勅願で行基により開基されたという。
山号の由来となる「赤岩」と目される岩が、寺の背後にそびえる赤岩山に現存している。
麓からでも、山中にむき出しになった岩の姿が確認できる。

手前の山の中腹に、岩がチラッと見える。

赤岩寺山門に立つ「赤岩山緑地案内図」に「大岩」という名前が載っている。
地図を頼りに、寺の境内を突っ切る赤岩川に沿って上流へ約15分山を登っていくと、ちょうど水源の砂防ダムの左手に広大な岩崖が露出している。
立地としては山腹谷間の川沿いである。




広大な岩崖のなかに、一部の岩肌が赤々しく色づいている。
明確にこの岩崖が「赤岩」と証する記録はないらしいが、間違いなくこれが地名発祥の「赤岩」であると判断して問題ないだろう。
赤岩を山号に用いた当寺は、本尊とはまた別の信仰要素として岩石信仰が彩られている。


「赤岩」の裾に目を移すと、地蔵がまつられているが、自然岩のうえに転石を置き、その上に造形を施した頭部が据えられている。


崖の合間にも役行者の石像がしつらえられている。



赤岩の上に斬りとおすように、愛宕神社の社殿が建てられている。

記録はないながらも「赤岩」が数多の信仰の支点として続いてきたことが如実に示されている。

2019年10月22日火曜日

店内における岩石信仰

愛知県名古屋市   居酒屋 樞(くるる)店内の「くるる石」

三重県四日市市 すしダイニング店内

飲食店や企業内などに岩石が置かれている場合があります。
それは、オーナーのコレクションだったり、水石や盆石の類、はたまた、現代に誕生した新たな岩石信仰の例かもしれません。

しかし、このような「店内」における岩石信仰の調査はほとんどなされていません。

そこでこのページでは、日本全国のあらゆる種類のお店・企業における岩石の分布図をみなさんといっしょに作りたいです。




皆様からの情報を広く募集いたします


皆様が足を運ばれた「お店」で岩石の目撃情報がございましたら、以下のフォームから教えてください。
皆様から頂いた情報は、本ブログおよび、上のGoogleマップにて公開させていただきたく存じます。

※留意事項
  • 岩石信仰か否かは判断が付きにくいケースが多いので、店内に置かれた岩石であればご投稿ください。
  • お店・企業は私有地です。所有者の方から非公開の意思があった場合は無理をなさらないでください。
  • 鉱物ショップなどの売り物の岩石は除きます。
  • 個人宅や宗教施設所蔵の岩石は、非公開やデリケート情報である場合が多いので除外します。

投稿はこちらのフォームからお願いします。
(Googleフォームにて作成しております)

2019年10月15日火曜日

三嶋大社の名石(静岡県三島市)


静岡県三島市大宮町

『続日本後紀』(869年完成)にその名があり、伊豆国一宮として知られる三嶋大社。
境内に「名石」として「源頼朝・北条政子腰掛石」「たたり石」「牛石」の3つが残されている。

源頼朝・北条政子腰掛石


治承4年(1180年)、源頼朝・北条政子が平家追討を祈念して三嶋大社に百日参りを行った時、休息のために腰かけていたという岩石。
左が頼朝、右が政子の腰掛石とされている。


たたり石


三島七石の1つ。
元来は旧東海道のど真ん中にあったといわれ、この岩石で道の中央を塞ぐことで、道行く人の往来を交通整理する役目を果たしたと推測されている。糸のもつれを防ぐ道具である「たたり」が語源といわれる。
その後、道の中央にあるのが邪魔ということで岩石を動かそうとしたところ、災いが起こるようになったといい、中には死んだ人もいるという。この場合の「たたり」は「祟り」から由来する伝承と思われる。それでも大正3年(1914年)には、道路工事により現在の神社境内に移転されるに至った。
現在では交通安全の霊験があると考えられ、祟りの岩石から恩恵の岩石へ性格が転化した。


牛石


先に紹介した三島七石は、一般的に鬼石・蛙石・市子石・たたり石・笠置石・蛇石・耳石の7つを指すとされているが、三嶋大社『三嶋大社<略史>』改訂版(三嶋大社、2001年)によれば、境内にある牛石も三島七石の1つに数えられるという。
これのみ境内看板がないので、神職の方に案内していただいたところ、参道脇の植樹の囲い石に半ば同化していて、地中から僅かに頂面が顔を出しているだけの岩石だった。
地中は掘っていないのでどれぐらいの深さかもわからないという。

『広報みしま』平成28年9月1日号によると、次の由来が記されている。

頼朝が大社へ参詣したある日、背後に怪物が現れたため切りつけたところ、あとには刀傷を負った牛のような形の石が残っていた、という伝承があります。

これが牛石。えっどれか分からないって?

植樹の囲い石とは少し様子の異なる、こちら。


参考文献


三嶋大社『三嶋大社<略史>』改訂版(三嶋大社、2001年)
三島市観光協会「三島七石」「三島市観光協会」サイト内)→2011年8月7日アクセス


2019年10月14日月曜日

粟ヶ岳の地獄穴と磐座群(静岡県掛川市)


静岡県掛川市初馬

標高532mの粟ヶ岳の山頂に、延喜式内社・阿波々神社が鎮座する。
山の麓ではなく、山頂近くに鎮まる神社は、山岳仏教以前における山宮・山頂祭祀の実例と言って良い。

神社の南斜面は市天然記念物の照葉樹林が広がり、この社叢の中に磐座が埋もれている。





山頂やや下に、明治の神仏分離により廃寺となった無間山観音寺があった。
ここにあった梵鐘をつくと現世に巨万の富を得、その代わり来世は無間地獄に落ちると信じられていた。
欲深き人がわらわらとこの鐘をつきに来て、来世どころかそのまま足を踏み外して地獄に落ちる人が続出したことから、これを見かねた観音寺の住職が鐘を山頂にある井戸の底に沈めた。その後は、井戸に榊を垂らせば鐘をついたのと同じ効果があるという話が生まれた。

これは遠州七不思議の一つに数えられ、粟ヶ岳の別名である無間山はこの無間地獄から由来する。

無間山観音寺跡

旧社地の前の石段(手入れが行き届いていないこともあり現在使用禁止)を下りたところに無間山観音寺跡がある。

補修を繰り返しながら、とうとう管理を放棄されたお堂の残骸が残っている。でありながら、堂の一画に皿や瓶が寄せ集められ、花が供えられているところに一抹の信仰も感じられる。

境内に放置された石仏は何気なく見ると天明2年(1782年)のもの。諸行無常、もののあはれの世界を地で行く空間だ。


さて、磐座群の中心部に「地獄穴」がある。
これは人々が地獄へ落ちた地獄穴と呼ばれ、岩の裂け目の奥は知る人ぞなしとのこと。
この中に石などを投げ込んだり岩石の上に足を踏み入れたりなどすると神罰が当たると、境内各所に注意が書かれている。

地獄穴(写真右下)

この岩群がいつから「磐座」と呼ばれているかは検討の余地があるが、地獄穴の亀裂は異界との出入り(いや、一方通行か)ができる「ゲート」であったことは間違いない。
仏教説話に彩られた地獄穴が、いつから「ゲート」として神聖視されてきたかが、当地の岩石信仰を語る上で最も重要なポイントである。


磐座群の南限には人工的に整形された平坦地形があり、ここは「古代祭祀跡」と呼ばれている。現地の掲示によると、社殿がない時代の祭り場だった場所と説明されている。

所感では、磐座地帯からある程度離すのではなく、むしろ磐座地帯にやや切り込むように大幅な地形改変を加えている。
これは社殿祭祀以前の自然物信仰の祭り場の跡と言うより、おそらく仏教の影響による木造建築物が建てられていたのではないか。推測が許されるなら、社殿祭祀としての阿波々神社の最初の鎮座地かもしれない。


また、『日本の神々-神社と聖地- 10 東海』(1987年)によると、粟ヶ岳は緩やかなお椀形の山容と評され、海上からもその姿を見ることができることから、古くは漁師や船人の見立て・山アテのランドマークとして、そして現在は林野庁から航行目標の保安林として指定を受けるなど海上交通の要だという。

粟ヶ岳という名前が示すようにこの地方では粟作がかつて盛んで、阿波々神社は粟の穀霊をまつっていたものという説もある。粟ヶ岳は菊川の水源でもあり、粟を中心とした作物の生産神として信仰されたのが最初ではなかったかと考えられている。

参考文献


  • 神社由緒書・現地解説板
  • 谷川健一編「阿波々神社」『日本の神々-神社と聖地- 10 東海』 白水社 1987年


2019年10月13日日曜日

吉備の中山、吉備津彦神社、吉備津神社の岩石信仰(岡山県岡山市)


岡山県岡山市吉備津~一宮

吉備の中山と吉備中山


吉備の中山は標高175mの龍王山(別称・権現山)を最高峰とする低山だが、山中には他にも複数の峯が林立しており一大山塊の様相を呈する。

吉備の中山

現在は「吉備中山」と書くことが多いが、薬師寺慎一氏『「吉備の中山」と古代吉備』(2001年)によると平安時代の歌集などでは「吉備の中山」という表記が一般的だったという。本ページもそれにならって「吉備の中山」の表記に統一したい。

吉備の中山の北東麓には備前国一宮吉備津彦神社、北西麓には備中国一宮吉備津神社が鎮座する。
1つの山を分け合って2つの一宮が鎮座するのがこの山の大きな特徴で、その理由はかつて吉備の中山が旧・吉備国全体にとっての聖山だったものが、大和朝廷により備前国・備中国に分割されたからと考えられている。
吉備の中山は現在平野上の里山の趣だが、古代は吉備中山のすぐ南まで海岸線が来ており、交通上の山アテとしても重宝された可能性が指摘されている。


吉備津彦神社境内の岩石信仰


■ 環状列石

備前国一宮吉備津彦神社の境内には神池という広大な池がある。
その中に、鶴島・亀島・五色島の3つの小島が配されて庭園となっている。このうち最も東に浮かぶ五色島に整美な環状列石が存在する。


写真のとおり、20個の岩石が綺麗に環状に並べられている。
批判的に見るならば、この庭園を築いた時に造られた産物であり、環状列石という言葉から連想するような、たとえば縄文時代に遡るような所産ではない可能性が高い。

庭園自体の築造年代は不詳だが、3つの島を配するという様式は三島式庭園と呼ばれ、平安時代まで遡りうるものといわれる。


■ 八島殿

吉備津彦神社所蔵の『古代御社図』には、徳寿寺の谷川を挟んだ対岸に文明3年(1471年)「八島殿」という建物があったことが記されている。

『古代御社図』にある八島殿(現地解説板より)

薬師寺氏『「吉備の中山」と古代吉備』によれば、『備前州一宮密記』という文献に八島殿には神座と呼ばれる石があり、吉備津彦神社へお供えをする場合はまずこの石に供え物を置いて、霊烏がついばんでから吉備津彦神社に供えないといけないとある。

薬師寺氏の調査により、八島殿があったとされる場所に長さ約3m、巾約1m、高さ約1mの安山岩を確認したという。私は未見だが、これが八島殿の神座だったのではないかと薬師寺氏は推測している。

供物台石として用いられたことが分かる岩石祭祀事例であると同時に、神の使いあるいは神の象徴が一時的に現れる場としても語られていることがわかる。


■ 忠魂碑台石

境内南に忠魂碑が立てられている。
碑に使われた台石だが、かつて背後の一段高い場所から移設してきたものだといわれている。
薬師寺氏によると、そこは『古代御社図』に描かれたかつての本殿の位置であることから、この台石は古代のイワクラだったと指摘する。
根拠は、古代の社殿はイワクラの近くに作られることが多かったからというやや漠然としたもので、私は積極的に支持はできないが候補として紹介しておく。


吉備津神社境内の岩石信仰


■ 矢置岩/矢置石/箭置石

矢置岩・矢置石・箭置石など、複数の表記がある岩石。


備中国一宮吉備津神社の北参道口にあり、温羅(うら)という鬼を討伐するために大和から派遣されてきた大吉備津彦命が、この岩の上に矢を置いて弓を引き温羅を退治したと伝説が付帯する。

と同時に、矢置岩は「箭祭(やまつり)」という神事にも登場する。
箭祭の祭祀順序を簡略化してまとめる。


  1. 前日に祭場の掃除をしておく。
  2. 2本の矢を箭置石の上に置く。
  3. 神主がその矢を持って本殿に参る。
  4. 本殿の東北隅にある艮御崎神社に矢を供え祝詞を上げる。
  5. 再び矢を持って本殿に参る。
  6. 桜箭神社に行き、穴を掘ってその中に矢を埋納する。


神への奉献物である矢を置く供物台石として機能していることがわかる。


■ 矢納宮石

江戸時代に描かれたとされる境内絵図には、矢置岩の背後の山腹に「矢納宮石」と記され、2個の石が描画されている。
薬師寺氏によれば、これは桜谷神社・桜箭神社といわれる社だという。

桜箭神社は前述の通り、箭祭において奉献物である矢を最終的に埋納した場所である。
矢納宮石も、矢置岩と同じく箭祭に用いられた岩石と思われるが、神事の中では「穴を掘って矢を納める」という記述しかなく、矢納宮石がどのように機能していたのかは不明だ。


■ 岩山宮

中山主命・建日方別命の二柱を祭神とする境内摂社。長い石段の上、山腹と言って良い場所に鎮座する。
社名が指すように、岩を神体とする神社だという。
現在は社殿の中に岩がまつられているため、外から岩の様子を確認するはできないが、岩石祭祀→社殿祭祀への変遷を示す事例。



■ 金比羅の露岩

江戸時代の境内絵図では、山腹に「金比羅」という字とともに、祠の絵とその背後に屏風のごとく覆う岩が描かれている。

この金比羅の祠は現存しておらず、他の場所に合祀もされておらず、完全に信仰が途絶えたようだ。
薬師寺氏の調査の結果、絵図の示す山腹の辺りには大きな露岩が現存し、その前面に二段積みの石垣と平坦地が確認されている。

ここにかつて金比羅の祠がまつられていたことは明らかとなったが、背後の露岩を岩石信仰と認められるかどうか。
絵図に描画されているのは、単に視覚的に印象に残ったからランドマークとして描いたのか、岩が神聖視されていたからなのか読み取れない。
ただ、薬師寺氏が古老に聞き取った所によると「金比羅さまは吉備津宮の元宮と聞いています」という話があったらしい。


吉備の中山の岩石信仰


■ 穴観音

大吉備津彦命墓として宮内庁指定されている中山茶臼山古墳(前方後円墳)。
その後円部の東に5体ほどの岩石が群集している。

岩石の表面を窪ませて仏を彫刻していることから穴観音の名称がある。主石の左側面の穴に耳を当てると観音様の声が聞こえるという。


一宮地域活性化推進委員会の現地解説板および薬師寺氏によると、これらの岩石群は中山茶臼山古墳築造以前からこの場所にあり、石仏以前のイワクラだったと推測されている。
しかし、前方後円墳の築造には大がかりな墳形整備が必要であり、中山茶臼山古墳測量図の等高線の流れから見ても、穴観音の岩石群の辺りは原地形を保っていない。
穴観音の岩石自体も地中に根ざす岩盤ではなく、地表に置かれた単立の岩塊である。私は明らかに古墳築造後の所産であると考える。


■ 鏡岩

山頂からやや西に下った山頂直下と言えるところに、身長を越えるレベルの巨岩が複数林立している。

その内の1体を鏡岩と呼んでおり、斜面下側の岩肌は縦にスパッと割れたかのように平らであり、楕円形の鏡の形状を見せる。
ただ、表面には石のしわが大量に走っており、鏡のような光沢面は見られない。

薬師寺氏『「吉備の中山」と古代吉備』に未登場であることから、もしかしたら近年の命名の可能性もある。




■ 八畳岩/奥宮磐座

標高162mピークのほぼ山頂に立地。
そこには奥宮磐座と総称される大小の露岩の群れが広がっており、その中でひときわ大きいものを八畳岩と呼ぶ。


特筆すべきは、この八畳岩の斜面下側の根元から土師器片が採集されていることだ。
岩の根元には岩陰状の窪みもあり、そこを祭具埋納の場所としたのかとも思わせる。祭祀方向も、山の斜面下側からということがわかっている。

しかし、土師器と一言でいっても、その製作は古墳時代から江戸時代まで幅広い。はたしていつの遺物なのか、今はどこに保存されているのか、重要な考古学的情報なだけにもう少し情報公開があっても良いだろう。


■ 環状石籬(かんじょうせきり)

環状石籬という用語は、今で言う環状列石=ストーンサークルと同義であり、かつて鳥居龍蔵博士が巨石文化関係の研究をしていた時に盛んに用いられていた。

前述の奥宮磐座と類似した大小の露岩の散在具合であり、自然の露岩群だろう。意図的に環状に岩石を並べたという様子はうかがえない。薬師寺氏の著書にも未登場。



■ お休み岩

誰が休むのか沿革不明。薬師寺氏著書未登場。



■ 元宮磐座

標高175mピーク(龍王山)の山頂直下に位置。
斜面下から上までの高さ3mの単立岩で、元宮磐座という名前からはただ事ではない重要性を感じさせるが、先述の奥宮磐座との違いと、薬師寺氏の著書にはすぐ近くの経塚や八大龍王の記述はあるのにここは未登場というのが気になる。


こう思うに、吉備の中山の岩石祭祀事例には、近年名付けられた「イワクラ」と、古来から祭られてきた「磐座」が混在している恐れがある。
「近年名付けられたイワクラ」も、名付けた側からすれば太古の磐座の掘り起こしという意味合いかもしれないし、現在は祭祀されている岩石ということは間違いはない。
たとえば、毎年、5月の第2日曜に備前吉備津彦神社の主催で「磐座祭り」が執り行われており、元宮磐座はその巡拝コースに入っている。

けれども、一つ一つの事例の歴史資料として差があるのならば、それを峻別しておかないと、あれもこれも太古の磐座では岩石も古代の人々も浮かばれないだろう。
人々の記憶の風化というのは恐ろしく早い。50年もすれば、すべての記憶は玉石混交になってしまう。
特に信仰というものは心の中の見えない世界観であるため、慎重に取り扱わなければその歴史的価値をすぐに取り違えてしまう危険性がある。
岩石に名前を新たに付ける方々にも、多少なりともその意識が共通認識として広がることを祈りたい。


■ 経塚

龍王山頂上に立地。
経塚とは、経筒を地中に埋納した後、地表を小ぶりの石礫で覆った後、中心に若干大きめの石礫を寄せ固めたもの。これも岩石祭祀である。内部から出土した銅製経筒は鎌倉時代製作の推定。
すぐ北に隣接して八大龍王の石祠がまつられている。石祠は天明の大飢饉で象徴的な天明年間(1781~1789年)の寄進とされている。



■ 盗人岩/天柱岩

山腹の急斜面上に屹立する立岩。
岩の上部に「天柱」という虹が刻まれており天柱岩の名前があるが、これは山麓に本部を持つ宗教法人福田海が刻んだもので、以前は盗人岩と呼んでいたらしい。
盗人岩という特殊な名には何らかの説話が土台になっていると思われるが詳細不明。
岩の根元からは鎌倉時代と推定される土師器片が採集されている。



■ 夫婦岩

元宮磐座からお休み岩へ至る山道の途中、「夫婦岩」への標識と分岐に出会う。
この分岐は吉備の中山の東側斜面を谷間沿いに下っていく道で、分岐から10~15分ほど歩くと「夫婦岩遺跡」と書かれた標識と共に2体の巨岩が出現する。


なぜここだけ「遺跡」の表示になっているのは謎。
立岩の手前は崩落したのか赤土むき出しの窪みが開けており、近年補強したのか、数段のテラスに形成した石垣が築かれている。
2体とも立岩状であり、どちらが男でどちらが女かはわからない。薬師寺の著書には未登場。


■ 不動岩

前述の福田海の敷地内にまつられている自然の巨岩。
福田海は明治時代に結成された新宗教だが、福田海ができる前ここは有木神社という神社が鎮座し、背後の峰を有木山と呼んでいた。

有木神社は明治時代に備中吉備津彦神社に合祀され、現在は跡地に小祠が残るのみだが、薬師寺氏によれば有木神社は平安時代に都人の間で屏風絵の舞台や和歌の題材として用いられるような著名な場所だったと指摘されている。
このことから、不動岩も自然岩であるために有木神社が盛行していた時期、あるいは神社祭祀以前から吉備の中山の山麓祭祀の一端を担っていた場所だったのではないかと考えられている。


■ 内宮石

『梁塵秘抄』(平安末期)に吉備津の「内の宮」として記述があり、江戸時代の吉備津神社境内絵図には11個の石が環状に描画されており傍らに「内宮石」と記されている場所がある。

内宮は明治時代に吉備津神社境内摂社の本宮に合祀されたため、旧社地は人跡がない。
1989年に薬師寺氏らが踏査したところ、旧社地であることを示す石碑や石段跡が確認されている。11個の内宮石は完存していないようで、その名残と思われる一部の岩石を発見するにとどまった。

平安末期の「内の宮」が江戸時代絵図の内宮石と同じものを指すかは若干の検討の余地を残すが、重要なのは、吉備の中山に散見される「環状列石」という一種の祭祀形態が戦前戦後の巨石文化研究の安易な影響によるものではなく、少なくとも江戸時代の吉備で環状に岩石を並べ祭場とする発想があったと裏付けられたことだ。
この事実は、備前吉備津彦神社の五色島にある環状列石も同様の発想に基づくものだということを補強し、吉備における環状列石思想の成立は研究する価値がある。


■ 影向石

吉備の中山の西麓にかつて新宮と呼ばれる社があり、新宮は明治時代に内宮と共に本宮に合祀された。
旧社地には「影向石」と刻字のある石碑が立てられ、以前そこが神のいた場所だったことを今に伝えている。


■ 「S山」山頂遺跡

「S山」とは薬師寺氏命名による仮称で、内宮石のほぼ真南に位置する峰に名前がないため、吉備の中山の南(=South)の峰という意味で付けられた。

ここにはイワクラと思しき岩石があったというが、鉄塔が建設された時に破壊され、その際に弥生時代の分銅形土製品・石剣・弥生土器片などが見つかったそうである。
どのような調査報告に基づくものなのかは薬師寺氏の著書に書かれていないので不明。


参考文献


  • 薬師寺慎一 『「吉備の中山」と古代吉備』 吉備人出版 2001年
  • 八木敏乗 「吉備中山」 『岡山の祭祀遺跡』(岡山文庫145) 日本文教出版 1990年