2020年12月1日火曜日

榛名神社・榛名山の岩石信仰(群馬県高崎市)


群馬県高崎市榛名山町字巌山

榛名神社の概要


両毛三山の一つとして知られる榛名山は、山頂には榛名湖や榛名富士を擁し、頂上よりやや下った山腹に榛名神社が鎮座する。

延喜式にその名が記される古社で、現在の主祭神は火産霊神と埴山毘売神の二柱であるが、これは明治の神仏分離以降に決められたもので、江戸時代は神仏習合のなか別の八神をまつり、元来は奇稲田姫命をまつったなど諸説ある。
社伝では饒速日命とその子・可美真手命が榛名山中に神籬を設け天神地祇を祀ったのが起源だという。

用明天皇の頃には神社がまつられたと伝えられるが、山中境内に夥しく群集する巨岩群は奇岩怪石としてつとに有名であり、古代から中世の早い頃には山岳仏教・修験道の霊場として整備され、長く神仏習合の聖地として続いてきた。

実際、榛名神社境内の山腹斜面部からは、9世紀~12世紀の土器群や錫杖の発見、堂の礎石を思わせる石材、自然斜面を整形したと思われる平坦面など、山岳仏教の施設跡と推測される榛名神社巌山遺跡が見つかっている。
このことから、9世紀には山岳仏教の影響下にあったと考えられている(清水喜臣 「榛名神社の起源についての一考察-巌山遺跡の研究-」1990年)。

現在、境内および周辺の岩々の1つ1つに、修験霊場らしき命名による岩名がつけられているほか、榛名神社の本殿は巨岩に半分取り込まれているかのようにくっついており、神社祭祀においても岩石の要素を外すことはできないらしい。

榛名山祭祀に、岩石というキーワードが切っても切れないという観点から、ここでは榛名神社入口から榛名山頂上にかけての順で、岩石信仰・岩石祭祀の場や奇岩怪石を紹介していこう。

現地地図より


鞍掛岩


榛名神社の二の鳥居をくぐると、みそぎ橋と呼ばれる橋がかかる。これを渡って右手を見ると、榛名川の対岸に鞍掛岩が見える。


写真では分かりにくいが、岩が庇のようになっていて、左下に石灯籠が献ぜられている。これが鞍掛岩で、元々は洞穴状になっていたものが崩れ落ちて、現在のようになったものだと考えられている。

鞍掛岩にまつわる伝承などは特に伝わらないようだが、『榛名神社史跡めぐり』によれば、「くらかけ」とは「いわくら」が欠け落ちたことから由来する名称ではないか、という説を紹介している。
全国の「くらかけ岩」の名称を考える時の参考に資する。


犬神石


三の鳥居をくぐると、左手に「御庁宣の碑」が建ち、右手に2~3の石碑が並んでいる。
この左手の石碑の1つに「古谷トマト」と刻された石碑があるが、この台石に使われているのが犬神石である。

三の鳥居越しに石碑群を写した写真

犬神石の表面には窪みがあり、窪みに水が溜まっている水を目に付けると眼病が治るといわれている。


行者渓


岩壁が張り出してきてオーバーハング状になったところに「神橋」がかかる。


神橋の左手を見ると、渓谷沿いの両岸に岩山が対峙する。


ここは通称「行者渓」と呼ばれ、役行者が修行を行なった伝説地に位置付けられている。一種の仙境と言って良い景観だ。


行者渓の右手の岩の下端には、扉が取り付けられており、東面堂という堂跡といわれている。

東面堂跡

そして、行者渓の左手にある巨岩の奥方には、朝日岳(雷天岳)・夕日岳(風天岳)と呼ばれる岩山がそびえたつ。朝日岳の中腹あたりには「宝珠窟」なる洞窟があるという。


瓶子滝・瓶子岩


行者渓を後に進むと、手水所が設けられている。この手水所から榛名川の対岸を望むと、巨大な岩壁が広がり、その中央に小さな滝が流れる。
これを瓶子滝(みすずのたき)と呼ぶが、これは後世に人工的に作られた滝である。

滝の両側に構える、ひょうたんを横倒しにしたような岩が瓶子岩で、これは自然の造形という。


鉾岩


瓶子滝を背にしてふりかえれば、やっと榛名神社本殿ほか、国祖殿、額殿、神楽殿、札所などが集まる社殿鎮座地に到着する。

手前に門があり、これを双龍門と呼ぶ。その背後に塔のように屹立しているのが鉾岩(ヌボコ岩・ローソク岩とも)で、双龍門と併せて榛名神社のシンボル的存在である。


弥陀窟


双龍門をくぐると、鉾岩の横にはそのまま岩山と言ってもいいような岩壁が広がっている。

鉾岩(写真左)と弥陀窟(写真右)

この岩壁の上方には3ヶ所ほどに窪みが存在し、この窪みには阿弥陀三尊がまつられているとも、弘法大師の彫った阿弥陀如来像が納められていたともいわれており、ここを「弥陀窟」と称している。

弥陀窟の3つの窪み(写真中央上)

かつては弥陀窟から鎖を垂らして登攀していたともいわれるが、現在は立ち入ることができない。


御姿岩


弥陀窟の岩壁と向かい合って、榛名神社の社殿が鎮座する。
現在残る社殿は江戸時代後期の建築であるが、本殿の半分が背後にそびえる岩に取り込まれたかのごとき外観を呈している。




この岩が御姿岩(みすがたいわ)であり、その名称の由来となったか、岩はまるで頭部と胴部に分かれるかのような独特な形状をなした立岩で、他に類を見ない。高さ約80mといい、榛名神社の神符はこの御姿岩を模した図柄を採用している。

ちょうど首元に当たるくびれ部分には竹製の梵天(御幣)が斜めに挿さっており、この祭祀形態も興味深い。

毎年、4月30日から5月1日の未明にかけて、夜の間に神職のみ参加する御岳祭(非公開)が催行され、この時に御姿岩のくびれ部分に梵天を指すのだという。

なお、御姿岩には「おはぜ岩」の通称も残っており、おはぜは男茎の意である。


秘所「御内陣」に関する二つの記録


さらに、御姿岩の下部には洞窟状の空間が広がっている。
この空間を「御内陣」と呼び、祭神をまつる場というが、神職者さえも見ることのできない「秘中の秘」とされており、60年ごと、丙午の年に一度だけ扉が開けられるともいう。

しかし、考古学者の大場磐雄博士は昭和9年(1934年)の榛名神社調査時、当時の社司と社掌の案内で本殿内に入り、御内陣の様子について博士は調査メモ『楽石雑筆』に記録を残している。以下引用する。

本殿内に入る。ここは巨巌中の洞窟に内陣あり、今一ニ三の扉あり、洞窟は自然のものにて頗る広し、今最も奥に土壇ありて上に七個の壺あり、一個は破れたり、素焼無文、手捏製に大小ありと、これ御霊代なりという。壺は色黒褐色にて中に土入れたり、その図は別に送りくれる事とす。維新前迄はこの洞窟前の仏像あり。中央に将軍地蔵、右に不動、左に多聞、更にその前の中央に大天狗、左右に小天狗ありき、これを総称して満行大権現といえりと、蓋し本社は巨巌崇拝に起りしならむ。

御内陣の洞窟が自然形成と思われること、七個の壺がありこれを御霊代としていること、土器の無文様や内部の土など、大変興味深い情報が散りばめられている。


このあたりの御内陣の様子については、他にも佐々木英夫氏が「日本の祭りの原初的形態について 榛名神社の神事の事例研究を中心として」というインターネット上の論文の中で詳細を記しており、そちらのほうがより情報が豊富だった。
残念なことに2020年現在この論文は閲覧できなくなっているため、ネット上の記録保存の一環で、その一部をここで触れておきたい。

佐々木氏は、明治3年、新居守村という神道家が明治政府の命令により「神仏分離取締」として榛名神社に調査に来た際、御内陣の様子を克明に記録した報告書の存在を明らかにし、それとあわせて、榛名神社の前宮司や町史編纂室の清水善臣氏など、関係者からの聞き取りも紹介している。その記述を抄録すると下記のとおりだ。

  • 洞窟内は天井から水滴が滴り落ちていた。
  • 洞窟内部には壺が八個ある。そのうち六個は完形だったが、二個はヒビが入って崩れていた。
  • 洞窟の上方には穴が開いており、そこから風が吹いていたという。これは、御岳祭の時に御姿岩のくびれ部に梵天を挿す時の穴ではないかという。


大場博士の記録との最大の違いは、御内陣の壺の数だろう。昭和9年の大場博士は7個(うち1個破損)と記し、明治3年の新居守村は8個(うち2個破損)と記す。
時系列および破損していたことを考慮すれば、大場博士が訪れるまでに壺1個が撤収された可能性がある。

御内陣と、御姿岩に挿された梵天が空間的につながっているという話も注目点である。
佐々木氏は「御岳祭の際に竹に付着した神霊は、その穴を通って本殿まで降りて行くことが実感できたということである」と評価しているが、これは、梵天がいわゆる神が憑依するための目印たる依代だったということになる。


御姿岩の性格とは


そうするならば、御姿岩という岩石自体の役割や機能は何なのだろうか。

梵天という目印を目指して神が祭祀の時にやってきて、風の通り道を通じて御内陣内部に神が宿るから、御内陣は秘中の秘となって、そこに置かれた土器群が御霊代とみなされた。

ならば、御姿岩は神そのものではなく、神が憑依する祭祀対象とも言い難く、御内陣を物理的に形成する岩石の神殿のようである。

禁足地の結界という意味では、一種の磐境のような働きをしているとみなすことができる。
また、御内陣という神宿る空間=クラ(凹部)を宿した岩石という意味で、磐座という字を当てるより磐蔵・岩倉という「蔵庫」的な性格の「いわくら」として位置づけることもできなくない。

さらに、御姿岩の頭部・胴部からなる人格神たる外形や、御姿岩の別称である「おはぜ岩」から類推される男性神的信仰と、それでありながら下部に擁する御内陣の洞窟は女性神的性格も兼ねているとも言える。
すなわち、御姿岩の岩石としての形状そのものに、単なる「装置」以上の人格神的な性格が備わっていることは否定できず、石神に近い信仰の側面も芽生えている。

このような、磐境的な側面、蔵庫的な側面、石神的側面の複合した存在が御姿岩であり、それら各側面の時代的先後関係は不明であるし、同時代においても信仰者によって差異が生じていたかもしれない。


修験道の立場からも付記すべき点がある。
御姿岩と弥陀窟は互いに向かい合っていることから、ここを霊場とした行者・修験者たちは、弥陀窟の窪みに座して、向かいの御姿岩を「仏の顕現」として祈りを捧げる行をしていたのではないかという説を、先出の清水喜臣氏が「榛名神社の起源についての一考察-巌山遺跡の研究-」(1990年)において提示している。

顕現という概念自体が、信仰対象の実体を直接あらわすものではなく、いわゆる不可視の次元にある存在の視覚化、象徴化という意味を包含するものであり、これ自体が、御姿岩の視覚的な性格を示していると言って良いだろう。


「形(みかた)、石に坐す」という古典の表現がある。
「みかた」(形・御形・御像)とはすなわち、御姿岩のような、磐境的な性格、蔵庫的な性格、石神的性格が重なった岩石に対して称せられたのではないかと本事例を通して考えさせられた。


榛名神社奥~山頂


榛名神社から山頂に向けて、数々の奇岩怪石が存在する。


上写真の柱状の岩は、江戸時代に描かれたとされている榛名山の絵図の中では、おおよそ「カンノンノタケ」「山王ガタケ」と書かれた岩の辺りに位置する。

写真を撮り忘れたが、この柱状岩からさらに進むと、巨大な岩屋のような様相を呈した、岩々と山肌からなる景観が広がる。先述の地図では「ウバフトコロ」という場所に該当する。

他にも、この絵図には様々な岩の名前が登場する。

境内地の辺りではサバ石・フジイワ・袖フリ岩・ヒジリ岩・ゾキ岩・ゴシン石、神社より下の方ではタイシノイワヤ・ダルマ石・スベリイシ・カウシ岩、周辺にはノゾキ岩・ポンポン岩・ナナヒロ石・ヲツタテ岩など、枚挙に暇がない。

また、朝日岳・夕日岳付近に「シシ岩(獅子岩)」があり、このシシ岩の周辺が9~12世紀の榛名神社巌山遺跡の見つかった地点という。

また、榛名川を上流沿いに登っていけば、大黒岩、九折岩、ミミズ岩、金剛界、胎蔵界と呼ばれるような岩々にも遭遇することができたはずだが、探訪時は道なりに進んだら車道に出てしまい、その車道を登って山頂に行ってしまったため、これらも未見ある。
特に九折岩(つづら岩)はまるでつづらが積み重なったかのような岩峰として有名な奇岩だが、未見のままとなったのが悔やまれる。


このように、榛名神社から榛名山頂の榛名湖まで、およそ登りで約1時間かかる。

山頂には、冒頭で触れたとおり榛名湖と榛名富士(1391m)があり観光地化されている。

榛名湖と榛名富士

この榛名湖の西岸側にそびえる掃部が岳(かもんがおか。1449m)の北尾根に、硯岩と呼ばれる岩がある。一つの峰全体が岩場になっており、榛名湖越しに望むことができる。

硯岩(写真中央の山頂)


参考文献

  • 清水喜臣 「榛名神社の起源についての一考察-巌山遺跡の研究-」 『巌山』(榛名町歴史民俗資料館紀要 第3号) 榛名町歴史民俗資料館 1990年
  • 佐々木英夫 「日本の祭りの原初的形態について 榛名神社の神事の事例研究を中心として」http://homepage2.nifty.com/japanpi/matsuri01.htm(2012年10月30日閲覧。現在リンク切れ)
  • 角田文衛(解説)・大場磐雄(著)『記録―考古学史 楽石雑筆(中)』(大場磐雄著作集第6巻)雄山閣出版 1976年
  • 『榛名神社史跡めぐり』(著者・発行年ともに書誌事項未記載)
  • 榛名神社 『榛名神社略記』(神社由緒書)
  • 現地看板


2020年11月29日日曜日

西郷信綱「長谷寺の夢」(『古代人と夢』平凡社 1993年)

 


小泊瀬山の石城


古代文学者の西郷信綱氏による、古代人の夢について考究した本書に、長谷寺と岩石についての考察が見られるので、与喜山研究の一端として取り上げたい。

万葉集に下記の歌が登場する。

事しあらば 小泊瀬(ヲハツセ)山の 石城(イハキ)にも 隠(コモ)らば共に な思ひ我が背

小泊瀬山は、長谷寺が建つ山のことを指す。

西郷氏は、この「石城」のことを、いわゆる砦・墓の類ではなく、自然の岩窟と解釈するのが適切と説いている。

その根拠として、万葉集では死のことを「磐根を枕く」と表現していること、考古学的にも洞穴遺跡における人骨出土例があること、民俗学の成果で山=死後の世界という山中他界観が支持されていたことなどを挙げている。


「磐根(石根)」については、記紀・風土記では下記の例が該当する。

  1. 葦原中国は、磐根・木株・草葉も、猶能く言語ふ。夜は熛火の若に喧響ひ、昼は五月蠅如す沸き騰る(日本書紀一書)
  2. 畝傍の橿原に、宮柱底磐(したついは)の根に太立て(略)神日本磐余彦火火出見天皇と曰す(日本書紀)
  3. 宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱ふとしり(古事記)

例1では、磐根は"生きているモノ"としての表現となっている。

例2と例3では、宮殿の柱を建てる好地として磐(石)の根が選ばれていることを示す。

いずれの例も、死との直接的関連性は認められず、岩石を以てすなわち死とイコールになるわけではない。あくまでも岩石が包含する精神性の一側面という評価が正しい。

山=死後の世界という山中他界観も、現在では多面的な山の位置づけが指摘されているため注意したい。


西郷氏は万葉集収録の「神さぶる 磐根こごしき み吉野の 水分山を 見ればかなしも」の歌において、岩と水と山の連環を指摘し、これら大地に属するものは神話的に母性原理を示すものだったと述べている。

抽象性を高めると、大地に根差す自然物はすべて母性となってしまうので、細やかな差異が見過ごされてしまう危険もあるだろう。

山があればそこに水が流れ、石が露出するのは、本来的には自然環境の摂理である。そしてそれらは、視覚的にも人々への恩恵という面でも荒ぶりという面でも、異なる刺激を人々に与えるはずである。

山が、産みの源泉で母性と結びつくという発想は一側面であり、各自然要素を一緒くたにできてしまう魔法の解釈であり、もろ刃の剣でもある。
他の側面が一つの説に収斂される中で振り落とされてしまうのは避けなければならない。


さて、小泊瀬山の石城に話を戻すが、長谷寺の山にこのような岩窟(洞穴/岩穴)、または古墳石室や砦の存在は確認できているだろうか。それとも、歌のモチーフであり必ずしも実在するものではないと考えるべきか。

西郷氏は、岩窟にこだわる必要はなく、岩の極致は山であり、山全体を「こもりくの泊瀬」と呼ぶことから山全体が岩窟だったと解釈を拡大していき、最終的に以下の如く位置づける。

「洞窟は先ずすばり云って住居であろう、そして住居であるということは、最初の住居であるとともに、それが最後の住居であるということでもあろう。云いかえると、それは胎であるとともに墓所であることを意味する。こうして、洞窟は母性と死とのダブル・イメージとなるのである。」(西郷氏が林達夫氏「精神史 ―― 一つの方法序説」『岩波講座哲学』Ⅳより引用する形で結論したもの)

あらゆる諸要素が連想し合う、物質的想像力やモノ学に通ずる発想であるが、洞窟がずばり住居であるかの最初の前提については批判的検討が必要だろう。


少なくとも言えることは、石城の「城」は境を示す音の「キ」であり、歌のテーマから見ても、日常空間と隠れる場所の結界を果たす役割を岩石に求めているという点である。

岩窟であろうと石室であろうと砦であろうと、石で形成された空間は必ずしも密閉性の高い入口を有していないし、歌のモチーフとして有名な場所であることは、隠れる機能という面では矛盾した存在にもなる。
この点を踏まえると、岩石という素材は、物理的な境界が役に立ったから求められたと考えるより、精神的な境界性を求められて選定されて、たびたび歌に詠まれたのではないだろうか。


長谷観音と岩石


長谷寺本尊の十一面観音が、金剛宝磐石(『長谷寺縁起文』による呼称)という大岩石の上に立つという霊夢伝承は比較的知られた話である。

西郷氏は本書にて、「とくに注目したいのは、長谷観音の立地としてここで巌ないし岩場が強調されている点である」と問題提起しており、とりわけ、観音が岩石の上に立つという構図が、多くの図像に見られることを下記のとおり指摘している。以下引用する。

たとえば『仏像図彙』によって三十三観音の姿を見ると、岩と水に縁のあるもの、とりわけ岩上に坐した姿がその大部分を占めている。京都大徳寺の牧谿筆の観音も岩上趺坐である。専門家にたださねばならぬが、観音のこの岩座は図像学的にも独自な意味をもっているのではなかろうか。(『古代人と夢』より)

西郷氏の指摘から25年超を経て現在、観音と岩石の図像的な意味について検討された例はあるだろうか。


西郷氏は、長谷観音が天照大御神と同体とされたことを重視して、天照大御神が天岩戸に籠ったことから、岩石を媒介にして長谷観音と天照大御神がつながったという推測を施している。

しかしこの推測はやや素朴というほかない。
正暦元年(990年)、長谷寺が藤原氏の氏寺・興福寺の下に属することになり、同様に藤原氏の氏神である春日大明神と長谷寺を紐付けるため、春日大明神と同神化していた天照大神を長谷観音の顕現としたという政治的影響下を無視することはできない。

逵日出典「長谷寺にみる天神信仰」『古代山岳寺院の研究一長谷寺史の研究』(巌南堂書店、1979年)
https://www.megalithmury.com/2016/03/1979.html#toc_headline_5


また、岩石信仰の観点から見ると、天岩戸を以て岩石が媒介にできるという論理を是とすれば、それは天照大御神だけではなく、岩石と親和性の神は他にも多く神話伝説に登場する。つまり、天照だけではなくあらゆる神と紐付けることがこの論理だと可能となり、天照に限った話ではなくなるのである。


なお、長谷寺十一面観音が立つ岩石のありかたについては、記載文献によって微妙な揺らぎがあることを以前以下のブログ記事で記したことがあるので、併せて参考にされたい。

源為憲「長谷の菩薩戒」(『三宝絵』984年)
https://www.megalithmury.com/2016/03/984.html


『長谷寺縁起文』は、金剛宝磐石が山中に埋まっていて、それが自ら姿を現したという流れと、仏を立てる穴も自然に開いていたと記す。

一方、上記縁起文より制作時代が遡る『三宝絵』は、金剛宝磐石を徳道上人が人為的に掘り起こしたという流れであり、仏を立てる足形の窪みや穴の存在は記していない。

このことから、時代が古い『三宝絵』のほうがドラマ性や自然造仏性が低く、その後、『長谷寺縁起文』の時には後世的影響が付加された岩石信仰の物語に仕立てられているという傾向が指摘できる。

岩石信仰、ひいては岩石と人の心理的な認識を検討する際には、岩石と人の心理を取り巻く歴史的な背景を考慮して、それが岩石だけを見つめる際には一種の「ノイズ」になっていることをあらかじめ他例でも考えていかないといけない。そのようなことを示唆してくれる事例である。


2020年11月22日日曜日

祐徳稲荷神社の岩石祭祀事例(佐賀県鹿島市)


佐賀県鹿島市古枝

祐徳稲荷神社の歴史と石壁山・石壁社


日本三大稲荷と称する祐徳稲荷。壮麗な境内建物が日光東照宮に比することから、鎮西日光の通称でも知られる。

人が多い理由は→探訪日1月1日


神社の創始時期については、1687年(貞享4年)、花山院の娘である萬子媛が鹿島藩主鍋島直朝に嫁いだ時、京の稲荷大神をこの地に勧請したのが始まりだという。
萬子姫は二子を生むもいずれの子も早世。これを機に仏門に入り、80歳の時に神社裏の石壁山の石壁に穴を開け、石穴の中で入定した。

入定ということからもわかるように、江戸時代創建時は仏式の葬所であったこの神仏習合の地も、明治に入ると神仏分離によって石壁社として神社化し、萬子媛も祭神化した。

石壁社(石壁神社) 祭神:万媛命(萬子媛の神名)

石穴を塞ぐ社祠は、明治神仏分離以降の造作と見るべき

石壁の名の由来は、社背後に露出する石壁で一目瞭然である。
山が開拓される前からここに石壁が露出し、だから石壁山の名が生まれ、萬子姫がここで成仏しようと考えたのか。
石壁山の名がいつ頃まで遡れるのかは情報収集不足につき何とも言えないが、萬子姫がここに祐徳稲荷を勧請しようとした背景や、勧請以前の歴史に岩石という要素を考慮しておきたい。

なお、石壁社の石壁の窪みに水が溜まっており、これを「水鏡」と呼んでいる。
いわく、萬子姫が生前、物事の吉凶や予知を水に映る姿を見て占っていたと言い伝えられる場所であり、石占の事例でもあり聖跡の事例とも言える。

水鏡


岩本社と岩崎社


祐徳稲荷の境内社には、他にも「岩本社(祭神:岩本大神)」「岩崎社(祭神:岩崎大神)」といった、岩と石の名が入った社と神々が存在する。

岩崎社は、祐徳稲荷の巨大社殿のちょうど真下に位置する。
縁結びの神とされるが、祠の背後に単体の岩塊が控えているのを確認できた。
石壁山の裾部、先端部としての「崎」か。

岩崎社。社背後(写真左側)に岩石の一部が姿を見せている。

岩本社は、数ある境内社の中でも大規模な社殿が建てられているが、社名が示すような岩石の露出は周囲に一見見当たらない。
ただ、岩本社自体が石壁山の崖の上に立地しており、岩崖の中枢としての立地をもつことは付記しておきたい。

岩本社

以上の二社が、実際に物質としての岩が神格化した社なのか、それとも祭祀者の人名に岩が入っていたなど、直接岩には結びつかない社なのかは突き止めていない。

多数の朱塗りの祠と鳥居が群集する石壁山は、さながら伏見稲荷大社裏山の稲荷山を彷彿させ、稲荷信仰の影響下にあることは想像に難くない。
その伏見の稲荷山の山中にも岩石をまつった場が複数あり、同じく石壁山の岩石のまつり場との相関性があるとは言えるだろう。


ほか、境内に分布する岩石祭祀事例


稲荷信仰の影響下で、名もわからぬ岩石のまつり場が複数点在している。
以下、6ヶ所の岩石祭祀事例を紹介しておこう。


1.岩石に寄生する形で形成された社群



2.社の内部に注連縄の巻かれた岩石が存在し、岩石上に石祠がまつられる。


3.素組みの建屋内に一面の石壁と、その裾部に小鳥居が奉献される。


4.自然石の露出に合わせて作られた、覆い屋としての社


5.上と同形態


6.岩石を基部に置いて社祠が建つ。


ちなみに山頂の奥の院には、岩石の露出および岩石祭祀の痕跡は見られなかった。

以上、萬子姫以前の歴史がないようで、岩石という素材と立地環境を通すと、江戸時代以前の聖地性が見え隠れしそうな場所と言える。実際のところは情報収集不足につき不明である。
(岩石をまつるからと言って、先史時代の原初的信仰という証左にはならず、江戸時代に生まれた自然石信仰もじゅうぶんありうるのである)

2020年11月20日金曜日

湊の立神岩(佐賀県唐津市)


佐賀県唐津市湊


玄界灘に面して、湊と呼ばれる海岸沿いに玄武岩の立岩が累々と集積している。


玄武岩が有する柱状節理によって、荒波の浸食を受けた岩盤は石柱状に分離し、さらにその石柱が崩落したと思われる跡が「湊の立神岩」の現状である。市指定天然記念物。

中心石は2体あり、高さ約40mに及ぶという。
この2体を男岩・女岩と呼び、夫婦岩と総称して敬われているという。


民話や伝承が付随するのかは調べていないが、九州各地には海岸に屹立する岩礁をしばしば「立神」と呼んでまつる信仰があり、その一例として認めることができる。


崩落の危険があるため近くに寄らないよう立入禁止の看板があるが、立神岩の説明板はその中に入らないと読めず、何度も出入りしているであろう足跡もあるので、10年以上前の情報ではあるが自己責任でお邪魔した。

すると、立岩群の狭間には人工的に岩窟が形成されていた。
岩窟内には石堂があり、堂内には仏像がまつられている。供えられていた生花は真新しく、地元の方によるものと思われるが、定期的に立ち入って手入れをしていることが窺われた。



祭祀方向は、岩窟内から祠を通して、海の彼方を拝む形となっていたことも付記しておく。

岩窟の天井石に当たる巨岩の頂点には石のでっぱりがあった。
頂点にあるので接合面がどうなっているのかは確認できていない。




2020年11月16日月曜日

世田姫の石神について~下田山の巨石パークと上宮さんの御座石~(佐賀県佐賀市)


佐賀県佐賀市大和町

風土記の石神

此の川上に石神(いしがみ)あり、名を世田姫(よたひめ)といふ。海の神 鰐魚を謂ふ 年常に、流れに逆ひて潜り上り、此の神の所に到るに、海の底の小魚多に相従ふ。或は、人、其の魚を畏めば殃なく、或は、人、捕り食へば死ぬることあり。凡て、此の魚等、二三日住まり、還りて海に入る。(秋本吉郎校注『日本古典文学大系2 風土記』岩波書店、1958年)


肥前国佐嘉郡佐嘉川(現・佐賀県佐賀市を流れる嘉瀬川)の川上に住む石神が『肥前国風土記』に登場する。

石神でありながら、世田姫という名前をもち、海の神と小魚が毎年この世田姫に会いに来るという。
一般的には、川魚が産卵で川を遡上する現象を神話化したものといわれるが、海の神や石の神という自然神の側面と、人格神の側面の両方をあわせもつ存在である。

海という一種の「他界」からの漂着神が、川を神の通り道として山に入り石の神になったのか。それとも、海に向かった子孫が母たる山に戻り、石の神に里帰りの意味合いで会いに来る構図なのか、など解釈は数多可能である。

世田姫の素性・経歴については諸説あり一定しないが、現在、嘉瀬川沿いに鎮座する與止日女神社(延喜式内社・肥前国一宮)の祭神・與止日女命と同神ではないかというところまでは確かなところである。

今回は、この「世田姫の石神」の現在の伝承地について取り上げてみる。


二つの候補地~巨石パークと上宮さん~


嘉瀬川の上流、與止日女神社の北方の山中に、下田山という場所がある。

下田山の山中には複数の巨石群の存在が確認されており、ここは與止日女神社の上宮とされ、明治時代まで毎年祭祀が行われていたと伝えられている。

下田山の巨石群(與止日女神社の上宮とされる場所)

下田山の巨石群の一部

現在では、町おこしの一環でこの巨石群は「巨石パーク(別称「肥前大和巨石パーク」、一時期「巨石パワー区」とも)」と銘打たれ、自然公園的な観光地となっている。

テーマパーク感漂うネーミングだが、その実は山の中に自然の岩々が群がるだけで、庭園的なものやアスレチックパーク的なものを想像しては痛い目に遭う。その手のギャップが一種のB級スポットとして受けているらしい。

この下田山の巨石パークの巨石群を『肥前国風土記』の「世田姫の石神」に比定する説がまずある。巨石パークの町おこしもあり、世間的にはこの一説だけで完結することがほとんどである。


しかし、「世田姫の石神」にもう一つ候補地があることは、あまり知られていない。

與止日女神社の北に接して実相院という寺院があり、その裏(北西)にそびえる山の尾根上に「上宮さん」と呼ばれる場所があり、そこには「御座石」と呼ばれる岩石を中心に、大小の岩が群れていて現在でも地元で神聖視されているという(肥前国庁跡資料館コラム「風土記にみる佐嘉郡の石神伝説」)。

明治の国学者・糸山貞幹の『肥前風土記纂註』にも「石神は淀姫社の西方山上にあり」と記され、この上宮さんの巨石群を指すとされる(「佐賀市地域文化財データベースサイト さがの歴史・文化お宝帳」より)。

「上宮さん」という呼称から、こちらも山麓の與止日女神社に対する上宮に位置付けられたと類推される。すなわち、祭神の旧地たる「世田姫の石神」の比定地としてふさわしい条件をこちらも揃えていることになる。


下田山の巨石パークが、與止日女神社からは嘉瀬川を挟んだ東岸に位置するのに対し、上宮さんの立地は與止日女神社により近く、また同社と同じ嘉瀬川の西岸に属するという点で、地理的な親和性がより近い。
負けるのは巨石群の規模と知名度といったところだろうか。

この上宮さんの御座石は、天明5年(1785年)完成の「上佐嘉上郷久池井村河上神領」という古地図に、複数の岩石の位置と共に描画されており、少なくとも江戸時代の信仰を確認できる。

嘉瀬川(川上峡)。左岸に與止日女神社と上宮さん、右岸に巨石パーク。

與止日女神社

対して、下田山の巨石群は歴史学的にどこまで遡ることができるだろうか?

巨石パークと現在呼ばれるこの巨石群については、jirouさんという方が運営する「玉響」というブログに、その歴史的な経緯が極めて精細に調べられ、公表されている。

「玉響」https://tamayura.sagafan.jp/ (2020年11月15日閲覧)

詳しくは上記ブログをご覧いただきたいが、jirouさんが文献調査された内容を簡潔に抄録すると下記のとおりになる。


  • 下田山の巨石群は、昭和10年代に一度「発見」されており、そのとき名所としてPRがなされていたことがある。
  • 巨石群の発見者は佐賀新聞社の記者・蒲原夢涯で、約10年にわたる調査ののち、昭和10年(1935)佐賀新聞に「石神の研究」という特集記事を3回にわたって掲載。これが耳目を集め、一種の「戦前版ムラおこし」となった。
  • その時の記事によると、下田山の巨石群の名称として、造化大明神、道祖神石、神戸石、神頭石、御船石、龍ノ石、兜石、誕生石、稲荷大明神、御座石、烏帽子石、蛙石、山神石、天ノ岩戸、雄神石、神籠石、旗石が記載されている。
  • 下田山の巨石群のあたりの地名を高天ヶ原、造化谷、誕生川と呼ぶ。
  • 造化大明神と呼ばれる巨石においては、明治20年頃まで與止日女神社の神官が毎年10月20日に「造化祭」という神事をおこなっていた。
  • 造化大明神は男神石と女神石から構成され、彦火々出見尊とその妃に当たる世田姫尊をそれぞれまつるのだと伝えられているという。
  • 石神には「せきしん」「しゃくしん」というルビがふられており、「いしがみ」とは昭和10年当時は言われていなかった様子。
  • 造化大明神の右手の山腹に、白旗を立てたような形をした巨石があり、これは神の降臨時、白旗をかけた場所であるという伝説を収録している(『肥前史談』第8巻第2~4号、1935年)。
  • その後、戦後になるとこれらの巨石群は一転して忘れられ、約半世紀後の1986年に、当時の大和町が川上峡の観光地化の一環でこの巨石群を再度PRし、最終的に「巨石パーク」として整備された。

(以上、「玉響」内の「下田石神」カテゴリーの2017年3月17日~同年11月17日記事よりhttps://tamayura.sagafan.jp/c29761.html


このように概覧すると、下田山の巨石群は戦前と戦後の二度、町おこしとして歴史学とはやや離れた観点からPRされてきた一面があり、その時のPRの影響で変節してしまった情報が混在している恐れがあることに注意したい。

当時の記事から歴史的に掘り下げられるのは、造化大明神の巨石が明治20年頃まで、與止日女神社によって「造化祭」と呼ばれる神事で祭祀されていたという話である。

造化という言葉自体は、『古事記』の造化三神の存在があるように古代に遡りうる名称であるが、造化大明神という神名と共に、他に例を見ないネーミングである。

明治20年まで神事が継続されてきた場所ということは書いてあるが、ではその神事はいつから?というのは判然としない。
それが風土記当時から連綿と続く存在なのか、中世以降再生産され続けてきたであろう「風土記当時」の祭祀の復興によるものだったか、もっと意地悪く言えば幕末~明治初頭の復古神道の流れの中で比較的新しく作られた「伝統」だった可能性さえ、拭え切れないのである。

與止日女神社の「上宮」とされる場所が2ヶ所に分かれている点において、いずれかの場所がいずれかの場所に歴史的影響を与えて、後世に輻輳している可能性は指摘できるだろう。


一つ言えるのは、下田山の巨石群自体は厳然として古代からは間違いなく存在していたであろう「自然物」であるし、それに対して当時の人々が存在を知らなかったと考える方が不自然ではある。

しかし、岩石信仰は巨石であれば信仰され、巨石でなければ信仰されないという簡単な構図にはなるわけではない。
ぜひ、岩石の大小やPRの大きさで伝承地を決めることなく、歴史学的な見地から「世田姫の石神」がとらえ直されていくことを期待したい。


【参考】大場磐雄博士の所見より


考古学者の大場磐雄博士が昭和9年に、前述の上宮さんと下田山の両方を実地踏査しており、博士が記した調査ノート『楽石雑筆』巻11に両地の所見が記されていたため、参考に付記したい。


1.上宮さんについて

川上村別所山小字上宮にゆく。ここは河上神社の旧地なりと称せらるるところにして登ること約半里にして山の中腹に巨石の存する個所に到る。花崗岩の実に巨大なるもの十数個あり、中には畳の如き平面なるものあり、中には人工を加えたるかと思わるるものあり。又袂石ともいわるるものあり、昔はここで浮立(ふりう)を行いたるらしく、最近までここにて行うものを実相院の前にて行い来れりと、場所は南面せる高所にて巨石群存し、かくの如き俗習あるは蓋し何等か意味あるものならん。

2.下田山について

目的地は梅野山字下田の小字コシキと称し山の中腹なり。(略)ここは四〇丈もある花崗岩塊そそり立ちてその下に空所あり、もとその間隙に幣束をたてて神をまつれりと、近年は参拝者も少なりなりぬと。この地点より仰げばそそり立つ巨岩各地に存し、西方の山頂近くにも巨石の磐居するあり、カグメ石という。その他この山中に烏帽子岩、旗石、独鈷石ありという、造化大明神が果して淀姫神なる石神なりや否や不明なりといえども古来これを以て地方の人は淀姫様なりと考えいたり、参考となすに足るべし。

以上、角田文衛(解説)・大場磐雄(著)『記録―考古学史 楽石雑筆(中)』(大場磐雄著作集第6巻)雄山閣出版 1976年 より


昭和10年の佐賀新聞の村おこしフィーバーの一年前であり、「近年は参拝者も少なりなりぬ」と、より旧来の歴史的情報を含む記録ではないだろうか。

上宮さんの巨石群は人工的な趣もあるとの所見や、九州北部の民俗芸能である浮立の存在、河上神社(與止日女神社)の旧地を上宮と呼ぶことを明記している。

それに対して、下田山は小字コシキの名を伝え、造化大明神はやはり幣束を以てまつられ、すでに地元民からは淀姫と考えられていた様子がわかる。

大場博士は「淀姫神なる石神なりや否や不明なり」と記し結論は保留されており、これを踏まえても「世田姫の石神」論争に決着はつきそうにない。


巨石パークに存在する岩石について


実相院北西尾根の「上宮さん」は未訪であるが、下田山の巨石パークは2007年に訪問済みのため、当地で整備されていた看板にしたがって17個の岩石を紹介しておこう。


神頭石(じとうせき)


巨石パーク入口から歩いていくと、おそらく最初に出会うであろう岩石。

「神様の頭に形が似ている岩石」「ずっと見つめていると自分の先祖の顔が浮かんでくる岩石」と現地の看板に書いてある。



道祖神石(さやのかみいし)


ここに来た人々の道中安全の守護神とある。

3つの岩石がいわゆるドルメン状に集積しており、若干の室状空間を形成している。



兜石


武将の兜に形が似ていることから名付けられた岩石。案内板には「武将の肉体は滅びてもカブトと大和魂を今も残している」という謎の一文がある。

戦前の精神性を込めている点において、これらの岩石の情報源が昭和10年代の町おこし以前に遡らない恐れ、または変節している恐れを伝えている。



御舟石(みふねいし)


石神が航海に使用された船とある。世田姫にちなむ聖跡と解釈可能である。



龍の石


御舟石の奥に隣接して存在。
天に昇っていく龍の様子に似ていることから名付けられたという岩石。大願成就の神という位置付けも現在では与えられている。



造化大明神(ぞうかだいみょうじん)


前節で紹介した通り、世田姫の石神に比定される本巨石群の中心的存在。

2体の岩石からなる重岩の形状をなし、それぞれ女神石と男神石となるのだろう。

重岩の下部は、通り抜けが可能な岩窟状の空洞となっており、注連縄と祭り場が設けられている。これらは與止日女神社が主催しているものではなさそうで、有志の方による祭祀設備または観光整備の視覚化の一面もあるだろう。



イナリ石


倉稲魂(ウカノミタマ)、つまり稲荷神にまつわる岩石。
しかし同時に「オニギリの形をしているからイナリ石と名付けた」という形状石たる解説も掲げられている。



誕生石


「この石から全ての動物が生まれた」というすさまじい説明がなされている岩石。あまり他では聞かない発想だが…。

子孫繁栄・夫婦和合・腹ごみ(子宝)の霊験があるとのこと。この岩石の上に立てば麓の様子が一望できる。



屏風石


誕生石と向かい合うようにそそり立つ岩石。

屏風のような形をしているからこう呼ばれているとのこと。



烏帽子石


屏風石から奥の方へ登っていくと現れるのが烏帽子石。

巨石パークのパンフレットやインターネットの紹介写真のトップを飾るのは、おそらくこの烏帽子石ではないだろうか。
歴史的・祭祀的中心は造化大明神で、視覚的にメインを張るのが烏帽子石と言える。

由来は烏帽子に似ていることにちなみ、他に神聖視を示す情報はない。
下部には狭い室状空間が形成されている。



御座石(ございし)


烏帽子石から少し横へ進んだところにある岩石。
この辺りは遊歩道のメインルートから少し外れた場所に位置する。

「神様が佐賀平野を眺める時に座っていたとされる岩石」あるいは「悟りを開くための場所」とのこと。

一見、堤防の堰き止めのような人工的な雰囲気を漂わせるが、自然の摂理による直方体状の平滑面をなす現象を否定できるものではない。「座」としては相応しい形状をなす。

実相院北西尾根の「上宮さん」の御座石とは同名だが別物。



天神石


烏帽子石と御座石のある場所からさらに奥に進んだところにある岩石。現地探訪時見落としたため写真はない。

菅原道真(天神)にちなむ岩石とのこと。


雄神石(おがみいし)


案内板から全文を以下引用する。

「男子としての面目を立たせるように強気をくじき弱きを助け、仁義を重んじるように指導した神様といわれている。」



神籠石(こうごういし)


神を守る岩石というが、これは漢字の響きをただ当てはめたもので、後世的な色が濃い。

神籠石という名称の場合、いわゆる戦前の神籠石論争による影響で名づけられた可能性も考慮しないといけない。

重岩状になっており、下部には僅かながら洞穴状の隙間ができている。狭いので通り抜けは不可能。



天の岩門(あまのいわと)


その名の通り、さながら岩でできた門のように形成されている重岩。



写真のように、右下と右上の岩石はおそらく元々1つの岩塊で、それが亀裂で割れたものだと思われる。

それに対して、左下と左上の岩石は微妙に互いの寸法や接触面が合わず、別々の岩塊が重なっているような印象を受けた。

このような重岩の場合は、上方斜面からの転石によって結果的に組石状に見えるということが多いが、この天の岩門の場合は、左上の岩石が転がってくるような上方斜面がなく、転石によって乗りかかる立地には見えない。もちろん、過去に土砂だけが洗い流されて現在のような姿になったという可能性も指摘できる。


蛙石


巨岩群が集中しているところからは少し離れたところにあり、私は当日ここまでは足を運んでいない。

岩石上に弘法大師を勧請したとも、蛙のような形状をしていることから名付けられた名称とも。佐賀弁で「コウジンドック」の別称あり。

  

たもと石


この岩石だけ、巨岩群のある場所から2km以上離れた場所にある。

近くの寺の修行僧たちが、自分たちの服の袂に石を入れて振り回し飛ばし合いをしたところ、その内の1個がここまで飛んできたのだという。


最後に


17個の岩石を概覧した。

各々の伝承には、近代的発想で着色されている部分が多々見受けられることがおわかりいただけたのではないかと思う。

これが、戦前の町おこしの時の影響によるものであろうことは、繰り返し触れてきたとおりである。

歴史は一直線のシンプルな道筋にはならない。
数多の思惑を持つ人々一人一人の歴史が重なり合って、混ざって、時には消えたうえで、現在その混然一体とした姿を見ているということをまざまざと教えてくれる事例と言えるだろう。

今後の、同種の「巨石」を観光化する時の教訓も多々含んでおり、後世に寄与する巨石パーク関連記事の一つとなれば幸いである。


参考リンク


「玉響」さんの記事を拝見する前の知識で答えた私のインタビュー記事。
下記記事と本記事と考えの食い違うところは、すべて本記事で示した考えを優先します。


『石』の研究者 吉川宗明さんに巨石パークのことを聞いてみた!(前編) | さがごこち


『石』の研究者 吉川宗明さんに巨石パークのことを聞いてみた!(後編) | さがごこち