2026年3月1日

穴観音(岐阜県中津川市)


岐阜県中津川市苗木


長さ約6mの自然石の下に形成された隙間を使って仏をまつる窟とした。

側壁は人工的に石積みをして補強されている。

天井石は通称「傘屋根」と呼ばれており、張り出した胴部を巡るように幅・深さ共に十数cmの溝が刻まれている。これは、雨水が岩窟内に入らないための仕掛けと考えられている。

周囲には摩崖仏や供養塔も存在。

傘屋根に刻まれた溝

堂内側壁

創建時期は不詳だが、堂内や境内には宝暦10年(1760年)製作の観音、天和3年(1683年)没の雲林寺五世一桂和尚造立の地蔵尊、元禄年間(1688~1704年)造立の供養塔などが現存することから、おおよその隆盛期を窺うことができる。

また、すぐ近くに龍渓寺という寺院があったという。明治時代初頭の廃仏毀釈の際に廃寺となったが、同寺の仏像や石仏などはこの窟や地中に隠されて難を逃れたという逸話が付帯している。

参考文献
中津川市教育委員会 編『中津川市の文化財』,中津川市教育委員会,1983.2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12707103 (参照 2026-03-01)

2026年2月22日

日輪神社の「磐境」「太陽石」説(岐阜県高山市)


岐阜県高山市丹生川町大谷字漆洞


日輪神社は天照皇大御神を祭神とする。日輪宮という別称もある。
創立年代不詳ながら、本殿は宝暦4年(1754年)の建築ということはわかっており、市指定文化財である。

1938年、軍人の上原清二が『飛騨神代遺跡』を発表し、日輪神社は太古「ピラミッド」「弥広殿」と呼ばれる太陽祭祀遺跡だったという説を主張した。
日本ピラミッド説提唱者である酒井勝軍の講演会を聞いて感化された上原が、飛騨高山が太古日本の中心地であったということを説明する中で取り上げられたものと思われる。

日輪神社の社叢を里から見ると鋭角的な三角形の山容をもつため、これがピラミッド型と呼ばれる所以である。社殿裏山の尾根先端までの比高差は約100mと目される。

日輪神社の山容

上原『太古之日本』天之巻(1950年)・地之巻(1952年)の中では、日輪神社の社殿が建つ部分が平坦加工された拝殿部であり、背後の裏山には高さ約20mの円錐形の神殿部があり、この円錐形拝殿部はどこを掘ってみても川石が出てくることから、自然地形の尾根上に人工の山形を持ったものと述べている。
また、円錐形神殿部の頂上には、酒井勝軍で言う複葉内宮式(内側に方形の列石が巡り、外側に環状の列石が巡るというもの)の磐境の一部が現存していると記す。上原が現地を訪れた時、外円の列石は残っていなかったが、内方形の列石の一部が残っていたということである(同書の附図によると4個の岩石が存在)。

私が2009年に尾根頂上を確認した限りでは、1個の小ぶりの岩石しか目視できなかった。

日輪神社社殿と裏山

裏山頂上(丘陵尾根先端部)に確認できる岩石1個

磐境の中心に置かれていたとされる太陽石は、現在、本殿の傍にある約2mの岩石がそれであろうと上原は推測している。
これは現在も本殿向かって右脇に現存している。

本殿向かって右脇

太陽石と目される岩石(写真左奥のブルーシートは本殿工事中)

上原の聞き取りによると、この岩石はかつて裏山にあったもので、約40年前(著作の発表年から考えると1910年頃?)にここへ持ってきて、丸形の石であったがこれを割って土止めのために使用したとの話を紹介している。

社殿向かって右隅に、尾根の南側を巻くように歩ける踏み跡があり、その先にも「太陽石」がある。

太陽のマークを書いた道標。もう一つの太陽石への道筋を示す。

道標を歩いた先に存在する岩石。

岩石の表面には、金属で穿たれたであろう点線状の直線が2本残っている。石割りのための楔の跡と考えられる。

なぜ太陽石が2つあるのかわからないが、少なくとも上原の著作を読む限りでは本殿脇の岩石が元々の太陽石の残骸であり、この楔跡の岩石は後発の太陽石だと思われる。


いずれにしても、古来から地元で伝承されてきたという意味での磐境でも太陽石でもない。日本ピラミッド説という枠組みの中で語られた概念世界の岩石である。昭和戦前期の岩石信仰を取り巻く言説を今に伝える近代遺産であることは間違いない。


参考文献
上原清二『世界の神都 飛騨高山』八幡書店 1985年・・・上原清二の数々の著作を1冊の本にまとめたもの。『飛騨神代遺跡』『太古之日本』『神代遺跡実地調査報告書』ほかを所収。

社頭に置かれた岩石。盃状穴(杯状穴)のような穴が数箇所開けられている。

2026年2月15日

滝ヶ洞の稚児岩(岐阜県土岐市)


岐阜県土岐市駄知町滝ヶ洞

稚児岩

石の大きさは長さ十八米、高さ十八米の壮大な花崗岩の岩である。
この岩の成因は、いわゆる地質学上の捨子石とみられ、この谷が出来上るとともに川水が岩石を浸蝕しながら、谷を掘り下げて谷を作り、今のように谷底にどっかとおかさまったのである。しかも地理学の捨子石から稚児岩と誰が名付けたか、ふさわしい名を付けたものである。
土岐市史編纂委員会 編『土岐市史』3 (近代社会・土岐市の文化財) 下,土岐市,1974. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9572017 (参照 2026-02-15)

土岐市史は、学術用語としての捨子石と民間で名づけられた稚児岩との親和性を説き興味深いが、稚児岩には次の伝説がある。


森長可(織田信長に仕えた武将。1558~1584年)の家臣に加藤彦右衛門という者がいた。
彦右衛門には妻がいたが子がおらず、ながらく子を切望していた。そこで、以前に長可からいただいた観音像に毎日祈りをささげたところ、ある時、観音像が「自分を滝ヶ洞にまつるべし」と述べた。そこで彦右衛門が滝ヶ洞に観音をまつったところ、谷底から赤子の泣き声がした。泣き声がした方へ行ってみると大きな岩があるだけだったが、後日、妻が妊娠して待望の子が生まれた。

また異説も存在する。妻が彦右衛門のことを亡き兄の仇と知って彦右衛門を殺してしまう。その後、妻は子供を産みすくすくと成長するが、その子供が稚児岩で遊んでいたとき岩から滑り落ちてしまい稚児が死んでしまったので稚児岩と呼んだという話である。

ほかに弁慶伝説も付帯し、稚児岩は弁慶が担いできた岩石であり、それをここで落としてしまったという。

これらが滝ヶ洞・稚児岩の伝説であり、話の筋書きはいずれも他で類例が認められる内容である。民話伝説の一種の「型」の派生事例と言えるだろう。


滝ヶ洞は地名であるが、現地地図を見ると「滝ヶ洞観音」なる場所がある。

稚児岩大橋に掲げられた現地看板

描かれた岩の絵の様子を見る限り、巨岩の間に形成された窟のような地形が想定される。

探訪時は稚児岩側ではなく稚児岩を上から見下ろす稚児岩大橋の上にいたため、稚児岩の方向に下って「洞」の存在を探そうとしたが、斜面の巨岩群には転石防止措置がされていたため深入りしなかった。稚児岩側から斜面を登る道があればそちらから観音へ辿り着けるのかもしれない。

稚児岩大橋ポケットパーク内には滝ヶ洞~稚児岩に至る巨岩群が散在する。

危険と判断

滝ヶ洞(左・山腹斜面)と稚児岩(右・道路沿い)の位置関係


2026年2月8日

富士山本宮浅間大社の鉾立石(静岡県富士宮市)

静岡県富士宮市宮町

浅間神社楼門前の中央にある石を鉾立石と云ふ。毎年四月の始の中の日に浅間神社より山宮へ渡御される時、鉾を立てる石である。
静岡県女子師範学校郷土研究会 編『静岡県伝説昔話集』,静岡谷島屋書店,昭和9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1465072 (参照 2026-02-08)


2026年2月1日

野宮神社の神石/亀石(京都府京都市)


京都府京都市右京区嵯峨天龍寺立石町



岩石の表面は艶やかで、多くの人に撫でられてきたことが伝わる。

神石(かみいし)と亀石(かめいし)は音の類似で並立したものと思われる。

撫でる祭祀行為をおこなうことで祈願達成となる。野宮神社の主祭神に対する祭祀の媒体としての岩石であるが、写真のとおり岩石にも神酒が供えられている。

祈願をかなえる霊性を宿す岩石として一柱の神となった所以だろう。