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2024年4月22日月曜日

嶽の立石群 ~嶽の立石 蛇はみの蛇石 こけて鼻うつ唐戸の寝石~(奈良県宇陀市)


奈良県宇陀市榛原内牧嶽山

 

「嶽の立石 蛇はみの蛇石 こけて鼻うつ唐戸の寝石(だけのたていし じゃはみのじゃいし こけてはなうつからとのねいし)」の里謡で地元で親しまれたという奇石群。

同じ山中に嶽神社が鎮座するが、それぞれの奇石と嶽神社の直接の関係は明らかでなく、現状として神聖視の対象というよりは特別視の範疇にある。

現在は内牧区民の森としてハイキングコースが整備され、近くまで駐車可能である。しかし現地に地図の案内はないので、麓から順にアクセス方法を紹介する。


カラトの寝石/唐戸石

冒頭のGoogleマップに示すとおり、区民の森へ南下する途中で二股路になる。二股の分岐に「カラトの寝石 0.4km」と標識が立っているので、分岐の向かって左をそのまま進む。

左の車道の終点へ着くと、カラトの寝石が東に見える。

明確な駐車場はないが、終点付近に駐車スペースが多少あるので、通行の邪魔にならないように端に寄せれば普通車も駐車可能である。

カラトの寝石が現在の通り名だが、かつては唐戸石の名もあった様子である。



嶽の立石

一般に嶽太郎・嶽次郎・嶽三郎と呼ばれる3つの立石を総称して「嶽の立石」と呼ぶ。

アクセスには区民の森の駐車場を利用できる。

ただし区民の森に至る車道(林道内牧カラト線)は採石場の作業道と共用しており、ダンプカーが頻繁に行きかう(平日の場合。土日は不明)。この車道の離合箇所は少なく、ダンプが近づいていることを事前に知るすべがないため鉢合わせすると場所によってかなり難渋する。

ダンプカーの運転手さんは相当このことに慣れていると思われ、すれ違い時のアシストをできるかぎりしてくれるが、車道始点に「地元車両優先」とあるとおり、迷惑のかからないように通行したい。

区民の森に入ると、1つ目(右側駐車場)と2つ目(左側駐車場)と3つ目(左側駐車場)の3ヶ所の駐車場に大きく分かれている。

1つ目を飛ばして2つ目の駐車場に停めればそこが嶽次郎・嶽三郎の取りつき口となる。

長男的存在の嶽太郎が最初に出てこず不安になるが、太郎は3つ目の駐車場が取りつき口である。このあたりが現地案内になく、私は嶽三郎を見落とした。おそらく嶽次郎の立石からさらに北に続く道を下ったところにあるものと思われる。そこから嶽太郎やカラトの寝石まで周遊できる登山路が整備されているらしいが未確認である。

2つ目の駐車場。この表示もわかりにくいが、嶽次郎・嶽三郎のための駐車場である。嶽太郎はここからさらに奥の駐車場まで進む。

2つ目の駐車場からやや下ると嶽次郎。その先に嶽三郎があるという表示がなく引き返してしまった。

3つ目の駐車場の様子。ここが嶽太郎の駐車場である。

嶽太郎


蛇石(じゃいし)

区民の森を走る車道をそのまま奥まで走らせてよい。車道の終点は路肩に数台駐車できるようにスペースが広がっており、そこに駐車可能である。

車道終点向かって左に蛇石を示す標識があり、踏み跡を進めばすぐ蛇石がみえる。岩石の傍に蛇石であることを示す表示もあるので見落とすことはないだろう。

車道終点。写真左に蛇石の標識が見える。

蛇石。写真右手前に建つ標柱にも書いてある。

別方向から撮影。

以上、一番親切な嶽の立石のアクセス案内を目指して書きました。参考にしてください。


参考文献

  • 内牧地域まちづくり協議会「内牧地域の名所旧跡(神社・仏閣編)」(2018年)https://www.city.uda.nara.jp/s-suishin/machidukuri-kyougikai/documents/2018uchimaki-zinja-tera3mb.pdf
  • 『奈良縣宇陀郡史料』,奈良県宇陀郡,1917.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1900771 (参照 2024-04-22)
  • 皇祖聖蹟莵田高城顕彰会 編『神武天皇建国聖地内牧考』,皇祖聖蹟莵田高城顕彰会,昭和14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1023590 (参照 2024-04-22)


2024年4月21日日曜日

「神定の磐境」と呼ばれた岩石群(奈良県宇陀市)


奈良県宇陀市榛原高井字神定 伊豆神社

 

伊豆神社(高井)

高井鎮座の伊豆神社の地名を神定(かんじょう)といい、伊豆神社の裏山、北西の2か所に「磐境」と名付けられた岩石群が報告されている。

ただし、この「磐境」呼称は明治時代~戦前のいわゆる神籠石論争を経由して生まれた近代用語としての磐境であることに注意が必要である。

それ以前から呼ばれていた名称はないらしいので、本記事でも「磐境」で仮称しておく。

裏山の「磐境」

社殿後方なるは短径三四間、長径十余間の楕円形に、ストーンサークルとして並べられている。中央部にあった数個の石は心なき人によって搬出せられ、其の所在の痕跡をのみ存している。山の中腹を匐ひて廻らされてゐた外廊の環状の一部も近年まで存在してゐたが、漸次破壊せらるるに至ったのは遺憾とする所である。(皇祖聖蹟莵田高城顕彰会 1939年)

以上の記述であるため、現在みられる岩石の状態は原風景でないということになる。

伊豆神社の境内からそのまま裏山に登るのは難しいため、裏山の東を走る伊勢本街道から取りつくことにした。

街道から細い踏み跡が裏山に続いており、その踏み跡沿いにいくつかの岩石の群れを確認することができる。

伊豆神社裏山にみられる岩石群。現時点で環状かというと疑問符がつく。

腰より下の岩石のため草葉に半ば埋もれている。


北西の「磐境」

矢谷川に臨む突端の磐境も環状の半は残されてゐたが、最近その下方に、弘法大師石像を祀られるに際し基壇として上方より磐境の石を転落して之に用ひられ爲にいたく損傷せらるるに至った。然るに近時学童が残れる一部の巨石の底部から打製サヌカイト石斧三個及び三十数個のサヌカイト破片の一所に埋蔵せられてあったのを掘出した事実がある(皇祖聖蹟莵田高城顕彰会 1939年)

伊豆神社の北西側の尾根突端はたしかに矢谷川に接しているが、弘法大師像の場所も含めて現地ではよくわからなかった。

伊豆神社と境内を同じくする眞楽寺に弘法大師石像は見当たらず。

伊豆神社・眞楽寺境内にはこのように岩石が寄せられているがその沿革は不明。

岩石の下からサヌカイトの石斧とサヌカイト片がひと固まりに出土したという話は興味深いが、石器と剥片をもって祭祀の磐境と直結することはできず、生活の跡としての岩石の用途を越えるものとはなっていない。


参考文献

  • 皇祖聖蹟莵田高城顕彰会 編『神武天皇建国聖地内牧考』,皇祖聖蹟莵田高城顕彰会,昭和14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1023590 (参照 2024-04-01)

2024年4月14日日曜日

近況報告

昨年末から今春にかけて発表された各種成果をお知らせします。

これで数年来の取り組みの大方は出尽くしましたので、またしばらくはインプット作業に専念します。

それまでは下記の成果物をご覧いただけましたら幸甚です。


2023年12月

「愛知県北設楽郡設楽町(旧名倉村域)における自然石の文化財」を『地質と文化』第6巻第2号で発表しました。

地域調査の報告書ですが、自然石文化の取扱説明書としてお読みいただくことができます。

下のpdfで全文公開されています。

https://drive.google.com/file/d/1Fq9Rl8UfF6xiVf3Mf0JoJkxajNBiBxov/view?usp=sharing


2024年2月

「失われし岩石・巨石信仰。畏れと期待、その世界観とは。吉川宗明氏インタビュー」が、webメディア「Less is More. 」で掲載されました。

私および岩石信仰の世界を知っていただける、名刺代わりの文章となりました。

下のリンクからどうぞ。

https://note-infomart.jp/n/n2717b9684e42


2024年3月

「岩石信仰研究の視点」が、京都大学学術出版会刊『変動帯の文化地質学』に収録されました。

論文の体裁ではありますが、書籍の刊行意図に合わせて内容は概要的なまとめと後学への問題提起を主としています。

数年間はこの手の文を書く予定がないので、遺言めいたメッセージを込めました。

購入は下記の出版社HPや当HPのカタログからどうぞ。

https://www.kyoto-up.or.jp/books/9784814005161.html


2024年3月

平凡社刊『最新 地学事典』の「磐座」の項目を執筆しました。

150字程度のものですが、バランスの取れた磐座の意味を後世に残すことができました。

磐座の意味として参照されていくことを願います。

購入は下記の出版社HPや当HPのカタログからどうぞ。

https://www.heibonsha.co.jp/book/b640570.html


2024年3月

「愛知県設楽町における岩石信仰の地質学的検証」を『大谷大学真宗総合研究所研究紀要』第41号で発表しました。

地質学者の鈴木寿志氏との共著です。地質学的見地はすべて鈴木先生によるもので、私は本論を岩石信仰の学史の中に位置付けるところを負いました。

あの巨石は人工物で巨石文化の遺産――などの言説に出会ったら、本論文を使って釘を刺していただければ幸いです。

pdfで全文公開されています。

https://otani.repo.nii.ac.jp/records/2000162


2024年4月1日月曜日

白岩神社と摩尼山(奈良県宇陀市)


奈良県宇陀市榛原赤埴


当地を治めた赤埴氏所蔵『赤埴白岩社記』(明治‐大正編集・成立の『大和志料』に登場)に白岩神社の由来が記される。このあたりは逵日出典氏の説明が簡便なので下に引く。

室生山の岩窟(後に龍の思想と結合し、龍神・龍王の住む龍穴と呼ばれるようになり、龍穴信仰の対象となる)には、須勢理姫命が入り、巨岩でその口を塞ぎ、更に赤埴土を以って塗りこめ、鎮座していたという。(略)須勢理姫命は最初に鎮まった室生山の岩窟から、延暦九年(七九〇)赤埴の地白岩に遷座し、赤埴白岩神社となったという。この地は赤埴と称し、大平山の尾根が東に延びた摩尼山光明ヶ岳の西南麓に当る。後に仏隆寺の建立を見るが、白岩神社はこの仏隆寺の右に隣接して存在する。延暦九年に遷座したというのは、奈良朝最末期に室生山寺が創建され、やや遅れて龍穴神を祀るための龍穴神社社殿が出現することによると考えられる。(逵 1967年)


室生寺・室生龍穴神社との密接な関係が論じられる。

赤埴の地と室生の地は唐戸峠を挟んだ隣地と言え、地理的にも室生という一大聖地の影響下にあったことは疑いない。

『榛原町史』の調査によると、白岩神社祭神・須勢理姫命については元の祭神ではなく、明治4年に日本神話掲載の神から当時の人が理由なく決めたものであると記されている。

『赤埴白岩社記』そして『大和志料』が編まれた時代を加味して、近世の復古思想がすでにある程度反映されていると考える必要がある(西田 1967年)。


それ以前の祭神は、仏隆寺の鎮守として室生寺でもまつられた善如竜王を勧請した説が濃厚であるが、室生寺の宗教的影響とは別系統で、白岩神社の社名ならびに地名の元となった「白岩」の存在にも言及しないとならない。

この「白岩」は大きく2つの存在に分けられる。1つ目は白岩神社裏山に広がる岩壁である。

寺の東にある白岩神社は摩尼山の白岩(石英安山岩の露出部分)を御神体としたもので社殿は新しい。(『史迹と美術』 1957年)

摩尼山光明ヶ岳の白岩を白岩神社の御神体とみなす記述である。この岩壁は現在も山麓から望むことができる広大なもので、人々の入植以前からこの地に存在し、この地に住んだ人々から視認された存在であったと思われる。

大場磐雄氏は当地を訪れて、以下の所見を記録している。

赤埴に到り、仏隆寺に入る。ここは白岩神社と境内を接し、相並び立てり。なお同社の背後の山上に白岩と称する巨巌あり。名の如く白色を呈して盤居せり。恐らく本社は右の巨石信仰より起りしものならん。なお仏隆寺に存する堅恵上人の縁起絵巻にも、上人が白岩に於いて霊を感得せられし記事あり。(大場 1938年10月30日日記より)

岩壁の名前が白岩で、佛隆寺の縁起にも登場する聖なる岩石であったことがわかる。

麓から望む摩尼山。白岩神社境内からは見えない。

岩壁の近景

摩尼山の岩壁は自然信仰としての白岩であるが、白岩神社背後に2つ目の白岩の存在がある。

大字赤埴鎮座白岩神社は、元現在社殿の東方巨大なる岩壁を信仰した巨石崇拝の神社であったと考へられるが、現社殿の南方佛隆寺観音堂の後方の傾斜地から巨巖のある山中に及んでストーンサークルの配列を認められる(皇祖聖蹟莵田高城顕彰会 1939年)

白岩神社境内。写真左奥の岩窟は佛隆寺開祖の堅恵が入定したとされる。

神社境内の奥の山林をのぞくと、白岩の一部が見える。

近景。ストーンサークルがこれのことを指すかなどは不明。

この「ストーンサークル」であるが、実際に人為物であるかどうかは批判的に受け止めなければならない。

現在は冬季でも樹林の繁茂が激しく白岩はごく一部しか見えないが、かつて撮影された写真(下のXポスト)を見るかぎりでは、こちらも白岩神社背後という近さから考えて、摩尼山の岩壁と併せてなぜここに神社が設けられたのかという立地要因の選定に関わる存在として注目したほうが良いだろう。



参考文献

  • 逵日出典「辛嶋氏系八幡神顕現伝承に見る大和神幸」『神道及び神道史』(4),國學院大學神道史學會,1967-09. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2274571 (参照 2024-04-01)
  • 榛原町史編集委員会 編『榛原町史』,榛原町,1959. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3015347 (参照 2024-04-01)
  • 西田長男「室生寺の開基――東寺観智院本『宀一山年分度者奏状』の紹介によせて(二) 」『神道及び神道史』(4),國學院大學神道史學會,1967-09. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2274571 (参照 2024-04-01)
  • 『史迹と美術』27(7)(275),史迹美術同攷会,1957-08. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/6067160 (参照 2024-04-01)
  • 森貞次郎(解説)・大場磐雄(著)『記録―考古学史 楽石雑筆(下)』(大場磐雄著作集第6巻)雄山閣出版 1977年
  • 皇祖聖蹟莵田高城顕彰会 編『神武天皇建国聖地内牧考』,皇祖聖蹟莵田高城顕彰会,昭和14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1023590 (参照 2024-04-01)

 

2024年3月24日日曜日

市岐嶋神社の「ストーンサークル」(奈良県宇陀市)


奈良県宇陀市榛原檜牧 字神田(高星)


『榛原町史』には「市杵島神社 檜牧字神田に鎮座。厳島神社ともいう。祭神、市杵島比売命、境内地三百六十九坪、例祭は八月廿三日というの外知る由もない。」と簡潔に記されるのみの神社である。

竹野(1937年)は社殿周囲に「完全なるストーンサークル」が遺存していると記す。近年、炭竈を築くために西方の一部が破壊されたともある。

市岐嶋神社

社殿の後ろには特に岩石は見られない。

境内の東方を中心に「遺存」している。

列石というより石垣状の石敷を見せて、環状列石の構築とは様相を異にする。

境内地において不要となった採石を一か所に集めた感もあるが、ひとまず東方以外に岩石群は認められず現状として「サークル(環状)」ではない。


参考文献

  • 榛原町史編集委員会 編『榛原町史』,榛原町,1959. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3015347 (参照 2024-03-24)
  • 竹野次郎『奈良県宇陀郡内牧村に於ける皇租神武天皇御聖蹟考』 皇租聖蹟菟田高城顕彰会 1937年


2024年3月23日土曜日

大将軍山の大山祇神社旧地(奈良県宇陀市)


奈良県宇陀市榛原高井字椿尾垣内 大将軍山


大将軍山の概要

宇陀榛原の高井は旧内牧村の村役場が置かれた中心地である。

この高井集落を覆うように北に高井岳・大平山などの山並みが東西に連なる。山名として著名なのは地理院地図にも記載される大平山だが、その大平山のすぐ西隣の一峰をかつて大将軍山と呼んだことは今あまり知られていない。

大将軍の名は元禄16年(1703年)の検地水帳で確認できるといい(竹野 1937年)、地元の人々は「ダイジョウゴン」「ダイジングウ」の通称で大将軍山中腹の岩群をまつった。

その後、明治時代に神仏分離が進む中で、小林某という神職者が祭神不詳は面白からずとして社名を大将軍から大山祇神社に改め、大山祇命を祭神に据えたといわれている。

さらに明治41年(1908年)、神社合祀の流れにより大山祇神社は高井字神定の伊豆神社に合祀された。合祀後、凶事が続発したことから地元では神社復興の声も挙がったというが、現状として大将軍の地に社はなく伊豆神社に合祀されたままとなっている。

しかし、皇紀2600年事業により当地が神武天皇聖蹟の一つ「大労餐の庭」に関する地に擬せられ、社地に石段や石灯籠などの諸設備が整備されたことが現地に残る昭和17年銘の灯籠や石碑の存在から垣間見える。

探訪時も岩群前の石壇上に供物の跡が残り、おそらくは地元で護持しつづける方がいらっしゃるものと思われる。

以上のことから大将軍が歴史的に本来的な名称と判断されるが、大将軍が陰陽道の大将軍神に由来するものか、他の由来に基づくものかは不明である。


岩群の詳細

皇祖聖蹟莵田高城顕彰会の『神武天皇建国聖地内牧考』(1939年)でこの岩群の詳細が報告されているので、同書の記述に沿って現地を照応させたい。


大山祇神社旧地の岩窟

高さ十尺六寸(約3m)、巾六尺四寸(約2m)の巨岩を向って右の柱とし、高さ四尺五寸(約1.3m)、巾五尺五寸(約1.7m)の岩を向って左の柱とし其の上に長さ十三尺(約4m弱)、厚さ二尺(約60㎝)、巾七尺四寸(約2.2m)の岩及び長さ七尺三寸(約2.2m)、厚さ六尺(約1.8m)、長さ七尺六寸(約2.3m)、巾四尺八寸(約1.5m)の、二個の巨岩を天井として載ける自然に成れるものと思はるる岩窟状の磐座にして、両柱の間四尺七寸(約1.4m)其の間に長さ三尺(約90㎝)の石を挟み女性の性器を象れるが如き形態をなしてゐる。 ※メートル法表記部分は吉川追記

大山祇神社旧地(基壇部)

大山祇神社旧地(正面から)

大山祇神社の「岩窟」部分。

「岩窟」前の供物跡。元はここに社祠があったものと推測される。

「岩窟」の上方にも岩群が続く。

「岩窟」頂部の岩石(斜面上方より撮影)

「岩窟」は南面している(斜面上方より撮影)

大山祇神社旧地に残る石造物銘。元文4年(1739年)から、明治41年の合祀後も整備が続いたことがわかる。

前掲書『神武天皇建国聖地内牧考』(1939年)によれば石質は英雲安山岩とのことである。

「岩窟」と形容されてはいるが、洞窟としての空間は閉塞しており存在せず、これが人為的に閉塞したものか、陰石を志向したものかなどは不明である。


上方の巨岩群

稍南方によってニ三十間(約40~50m)上方の絶壁中に、高さ二十二尺(約6.5m)周囲約十五六尺(約4.5~5m)の男根に髣髴たる巨岩が聳立してゐる。其の上方十余間(約20m)の位置には、横三尺(約90㎝)、高二尺五寸(約75㎝)、奥行五尺(約1.5m)の三個の石の上に横九尺(約2.7m)、奥行五尺(約1.5m)、高二尺五寸(約75㎝)及横六尺(約1.8m)、奥行四尺(約1.2m)、高四尺(約1.2m)の巨岩を積重ね其の根本に数個の塊石を以て崩壊を防ぐ工作を施せるが如きものがあり、恰も山頂なる神籠石に供饌の台となせるが如きものである。

「やや南方」というが、南方は下方斜面であり岩石がない。そのかわり、大山祇神社旧地から西方やや上の斜面上に立石状の露岩群が存在する。

しかし、位置関係や高さなどの規模が前掲書と一致しているかというと怪しい。別の存在か。

「上方絶壁中、約6.5mの男根に髣髴たる巨岩」は位置・規模から考えてこの岩壁か。

斜面の傾斜は30度近いためこの岩壁の上を確認することはできなかった。


茶臼山の「ストーンサークル」

約一町(約100m)山の尾を登れば高さ二三丈(約6~9m)の絶壁があって其の上、山の頂上に高さ六尺九寸(約2m)、周囲一丈(約3m)の畧等大の巨石立ち其の周囲に十数個の周囲八九尺(約2.5m)の塊石がある。四個の巨石は神籠石と認められ其の周囲の塊石はストーンサークルであらう。この附近一帯山の隆起せる部分を茶臼山と呼んでゐる。

「約6~9mの絶壁」に当たると思われる山頂直下の岩壁の一部。

この岩壁を登った先が山頂となる。

茶臼山と目される山頂部。これが前掲書で「神籠石」と名付けられた4個の巨石か。

重石状の岩石が4個以上、若干の列状に山頂南面に露出する。

「ストーンサークル」と名付けられたものに該当するか?

山頂南側の直下斜面に岩陰状の陥没地形がみられる。


当地の禁忌事項

椿尾垣内地区全体の禁忌

大山祇の神が鶏を嫌っているので、椿尾垣内の住人は鶏を飼ってはならなかった。

大山祇神社が伊豆神社に合祀されてからは、この禁忌が解けて鶏を飼育するようになった。


大将軍山の禁忌

山内には「大いなる長物(蛇)」がいるので、みだりに入ってはならない。

一木一草すら折ってはならない。

苺、テンポ梨の実を食べてはならない。

枯れ枝でも薪の木として持ち帰ってはならない。


メトリ坂の禁忌

椿尾垣内から大山祇神社旧地~茶臼山南方を経て荷阪峠(荷阪地区に通ずる大平山~茶臼山間の鞍部)にいたる道をメトリ坂と呼んだ。

婦人が一人で通行するととられるといい、婦人の単独通行を避けている。

メトリ坂を駆け上って達する荷阪峠。茶臼山はこの峠の西方(写真左)の峰。東方(写真右)は大平山。

歴史学者の魚澄惣五郎氏が大将軍山を調査した時、「古代の山岳信仰が仏教の影響を受けることなく太古のまま残された興味深き山である」(竹野 1937年)と言葉を残したらしいが、魚澄が大将軍山について記した文献が残るのかは不明である。

考古学者の大場磐雄氏は大将軍山登山を計画していたが日没前のため断念し、そのかわり茶臼山で採集されたという茶臼玉5個を採集者から宿で見せてもらっている。いずれも直径一分~二分(3㎜~6㎜)ほどで僅少な遺物ではあるが、「もし事実なれば同所に於ける古代祭祀の事実を知り得て、磐座との関係も確認を得るに至るべし、なおよく探究すべし」(大場 1938年)と評価している。

大将軍山の取りつき。林道「室生ダム開路線」を用いる。椿尾集落を経由して駐車スペースがあるここに車を停めた。

先ほどの写真の背中側を見ると大将軍山の登山口がある。かつて椿尾から荷阪峠にいたったメトリ坂の道と思われる。大山祇神社旧地はこの踏み跡をひたすら約10分直進すると石段が見える。


参考文献

  • 竹野次郎『奈良県宇陀郡内牧村に於ける皇租神武天皇御聖蹟考』 皇租聖蹟菟田高城顕彰会 1937年
  • 皇祖聖蹟莵田高城顕彰会 編『神武天皇建国聖地内牧考』,皇祖聖蹟莵田高城顕彰会,昭和14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1023590 (参照 2024-03-23)
  • 『大和叢書』第1,大和史蹟研究会,昭和8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1214606 (参照 2024-03-23)
  • 森貞次郎(解説)・大場磐雄(著)『記録―考古学史 楽石雑筆(下)』(大場磐雄著作集第6巻)雄山閣出版 1977年

2024年3月15日金曜日

『変動帯の文化地質学』第2部第2章を分担執筆しました

すべては、地質の上に成る――。地震や火山などの災害と隣り合わせで生きる日本人にとって、地質は自然環境の基盤としてのみならず精神文化の基盤としても相即不離な存在である。(出版社HPより

2024年2月、鈴木寿志[編集代表] 伊藤孝・高橋直樹・川村教一・田口公則[編集]『変動帯の文化地質学』(京都大学学術出版会)が刊行されました。

全5部構成ですが、その第2部の第2章「岩石信仰研究の視点」(pp.157-173)を吉川が執筆しました。

本文でも述懐しましたが、私がこのような研究を始めた時の「巨石」「磐座」一辺倒だった当時の空気をふりかえれば、今回、岩石信仰の章が設けられたのは隔世の感ありです。


本書は科研費「変動帯の文化地質学」の研究成果として発表されたものです。

変動帯も文化地質学も耳慣れない用語かもしれませんが、日本列島は地震や火山に代表される地質活動が活発な変動帯に属します。

そのような土地の上に住む人々に、変動帯ならではの地質活動が文化的な影響をも与えただろうという仮説の下、数々の研究が揃いました。


本書の目次を紹介します。

―――

序論 文化地質学の提唱と発展

  • 第I部 石材利用の歴史と文化
  • 第1章 城の石垣・石材から見えること
  • 第2章 山形城の石垣石はどこから集めたのか
  • 第3章 庶民の石,権力の石──神奈川県の石材から
  • 第4章 シシ垣──人と野生動物を隔てる石の砦
  • 第5章 「石なし県」千葉における石材利用
  • 第6章 近代建築物に利用された国産石材
  • 第7章 なぜ「花崗岩」のことを「御影石」と呼ぶのか──土石流がもたらした銘石

第II部 信仰と地質学

  • 第1章 縄文時代と環状列石──北東北の例
  • 第2章 岩石信仰研究の視点
  • 第3章 仏教における結界石の持つ意味と役割──日本とタイの事例から
  • 第4章 磨崖仏
  • 第5章 山岳霊場の地質学──香川県小豆島と大分県国東半島の岩窟
  • 第6章 熊野の霊場を特徴づける地形・地質
  • 第7章 中近世石造物の考古学──兵庫県姫路市書寫山圓教寺の事例から
  • 第8章 京都の白川石の石仏

第III部 文学と地質・災害

  • 第1章 地質文学
  • 第2章 『おくのほそ道』に描かれた芭蕉の自然観
  • 第3章 「地」で読み解く宮沢賢治
  • 第4章 日記史料にみる中近世の日本における地震の捉え方
  • 第5章 醜い山から崇高な山へ──B・H・ブロッケスの詩「山々」をめぐって

第IV部 地域の地形・地質を楽しむ

  • 第1章 地域資源をブランド化する──ジオパークと日本遺産
  • 第2章 文化地質学の視点を取り入れたジオツーリズム
  • 第3章 地学散策路──ジオトレイル
  • 第4章 地域の成り立ちを見る──ジオストーリー
  • 第5章 食と地学──常陸・茨城の食の背景を考える
  • 第6章 地域資源の再発見──博物館の新しい役割
  • 第7章 地域を見る目を育てる──地域博物館の使命

第V部 地学教育の新展開

  • 第1章 地学教育における文化地質学の役割
  • 第2章 学校の岩石園を探検しよう

総論 変動帯の文化地質学

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企画が始まった時にこの目次の素案を見てわくわくしたものです。

地質学分野の方々のみならず、人文学の立場からも興味深いテーマが見つかるのではないでしょうか。

本書企画時の想定読者層は大学生以上~社会人と聞いています。研究者・学者向けの論集という作りではなく、本書を入口に今後の学問関心を喚起するような平易な文体となっているはずです。

私もその企画意図に合わせて、後学の方に向けての遺言めいたメッセージを込めた内容としました。


【節見出し】

  1. 岩石信仰の概念
  2. 自然石の信仰を研究する難しさと重要性
  3. 観察方法
  4. 岩石信仰の起源に関する論点
  5. 岩石信仰の現在地と未来


岩石信仰は自然信仰ですから、主客の関係でいえば、自然が主で人間が客体です。

人間には個体差がありますから、自然を前にして受け身になった時、各人が思い思いに異なる感情を得ることと思います。すなわち、岩石信仰は本来的には多様でカオスという世界観を是とします。

しかし、人間社会では多様の難しさもあります。みんなばらばらの心の中だと相手のことがわからない、社会を構築しにくい、集団での統制が取れないなど…。

そこで我慢できなくなった人が均一化・統一化・強制化を図ると、個人的信仰心から離れて社会性をもった宗教になりますが、そうすると人が主で、自然が二の次になったと言えます。

だから、組織立った宗教には信仰心とは別の要因・ノイズが入りだします。これは善悪をつけられるものというより、ヒトの業のようなものかと思いますが、私はそういった社会化した宗教研究よりも一個人の脳の反応として出現した信仰心に研究の関心があります。

そのあたりが伝われば、岩石信仰研究が誰にでも当事者となりうる人間研究であり、多様でカオスな隣人を理解する一方法なのだとおわかりいただけると思います。


当サイトの「カタログ」にも掲載しました。

税込5,940円ですが、お求めいただければ嬉しく思います。


2024年3月3日日曜日

石の木塚(石川県白山市)


石川県白山市石立町




5個の凝灰岩が立っている。これを「石の木塚」と呼ぶ。

5個の立石はサイコロの5のような配置を見せ、中心の立石から東西南北の方角に向かって残り4個が立つ規格的な配置をみせる。


嘉元2年~3年(1304~05年)頃の成立とされる『遊業上人縁起絵』に「石立」の地名が記されており、これが地名の「石立」の初出とされている。

石が立つ、の語源をこの立石群に求めるのは妥当であり、少なくとも14世紀にはこの立石群が存在したことがわかる。

さらに石の木塚ではすでに発掘調査が行われており、塚の地点から5~6点の土師器椀が発見されている。

椀の製作時期は10世紀後半~11世紀前半のものと考えられており、考古学的には石の木塚の構築を10世紀代まで遡ることができる。


石の木塚は、石立町の玄関口に位置しており、道が大きく折れる角地に立つという特徴的な立地にある。

全国の「立石(石立)」地名は、古代道に沿って分布するという研究がなされている(三浦 1994年)。

石の木塚の石立の地も、駅伝制による古代駅・比楽駅の近くに位置することから、石の木塚は古代道における交通標識に類する役割を担う施設だったのではないかという説が有力である。


そのような立石が単なる交通標識だったのか、祭祀・信仰に関する精神的な意味も込められた存在として成立当初からあったのか不明だが、いずれにせよこの立石は時代を経て「石の木塚」と呼ばれて、そこに込められた性格は自ずと変容・付加されていく。


まず江戸時代文献で石の木塚が再登場するのは、17世紀後半成立とされる『加能越金砂子』である。石立村に五本の大石があり、いつのことからはわからないが一夜の内に出現したと語られる。

一夜出現類型としての岩石伝説である。


次に、18世紀前半成立の『可観小説』では、「立石の宮の石の根」という一説が設けられて別の伝説が記されている。

社壇に立石五つがあり、これを立石の宮と呼んで神社としてまつったと明記されている。ここに、立石は岩石信仰の領域に入ったことがわかる。

加賀藩第3代の前田利常が近辺の百姓を動員して立石の根元を掘り下げさせたが、二丈(約3.5m)掘ってもその石の根はわからなかったという。

石の根が深く地中がどうなっているかわからないという類型の岩石伝説も他で見聞きするところである。


18世紀後半成立の『加越能三州奇談』では「石立村の石は此根能州の寺口へ出て猪の牙の如く飜れり」とあり、石の根の深さが別のところとつながって出ていくという伝説類型へ広がっている。


同じく18世紀後半成立の『越の下草』では、石の木塚と浦島伝説が接続する。

いわく、永正17年(1520年)、この地で龍宮から帰った酒屋の主が忽ち老体となり亡くなり、後日、異形の女と童子4人がそれぞれ石を背負って主の塚に5つの石を立てて、年ごとに石は太りその根の深さ知れずになったという。そしてその石塚を石立大明神として勧請したという。

立石がなぜ立つのか、その成立を伝説的に語る由来となっている。


他に弁慶伝説も付帯するほか、「石ノ木宮」「雀の宮」などとも呼ばれたらしい。


参考文献

  • 三浦純夫 「加賀石立の立石考」 森浩一・編著『考古学と信仰』(同志社大学考古学シリーズⅥ) 同志社大学考古学シリーズ刊行会 1994年
  • 日置謙 校訂並解説『加能越金砂子』,石川県図書館協会,1931. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3440189
  • 『加越能叢書』前編,金沢文化協会,昭11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1227824
  • 宮永正運 著 ほか『越の下草』,富山県郷土史会,1980.8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9538411


2024年2月25日日曜日

大嶋仁『石を巡り、石を考える』(2023年)学習メモ

大嶋仁『石を巡り、石を考える』(石風社 2023年)を読んで、今後の研究につながる部分を記録したものである。

大嶋仁氏は、日本比較文学会の会長を務めた人文学の研究者で、氏にとって石をテーマに扱った研究は本書が初となる。

大嶋氏自身の生涯の中での石の関わりや世界各地の石の遍歴を含んだ内容でもあり、氏の岩石の哲学が込められた1冊となっている。


1.本記事は個人的メモのため、読ませるように文章を整理できていない。

2.岩石信仰と関連する部分で今後有用と思われる情報を中心にピックアップしたため、本記事は必ずしも本書の要点をまとめたものとはなっていない。


本書を書くきっかけとなった動画

著者(以下、大嶋氏を指す)が岩石や地球に興味を持つようになり、本書を書くに至ったきっかけの動画が紹介されている。

著者がこの動画から得た学びを列挙する。

  • 地球が作り出す電磁場が地球を守っており、地球の存在が少しも安泰ではないこと。
  • 地球の様々な活動が熱、電磁場、大気、水、そして生命を生み出したこと。
  • 自分に来ている世界が地熱の上にあると実感できること。
  • 地球の終焉、人類の絶滅を淡々と語るところに無常観を感じさせるが、感情を廃して科学的態度で貫かれている。


ガリシアの石

スペイン北西部のガリシア地方は雨が多く湿潤な気候である。ガリシア地方には岩山が多く、石工の数も多いという。

ガリシア地方の町は石に彩られており、特徴として石がざらざらしていて磨かれていないことに著者は注目する。

磨く技術がなかったのではなく、磨こうという意思がもともとないのだ。磨くとは粗削りな表面を消したい、化粧をさせたいということである。磨きたくないとは、粗削りなままでいい、化粧をしてはいかんという意味である。

これを、無意識のうちの石の信仰ととらえる。そして、多湿な気候のため粗削りな石が黒ずんでおり、水の信仰にもつながるとみている。著者の言葉を借りれば「ここの石は呼吸している」という表現になる。


巨石文化とケルトは関係ない

ドルメンなどの巨石文化はヨーロッパの西外れの大西洋沿いに位置し、これはケルト文化圏と重なる。

しかし、ケルトの出現はドルメンより後なので時代が異なり、本来は関係がない。

ケルト人はそれ以降にヨーロッパへ来た人々に追われたため、ヨーロッパの「最果て」の地である西外れに流れ着いたため、巨石文化の分布とたまたま重なったという説明で足りる。

巨石文化がなぜ大西洋沿いに分布するのかは説明できていないが、ガリシア地方もまた大西洋沿いで湿潤な「水の信仰」の地だった。


石の信仰要因

新石器時代に巨石文化が流行った理由を著者はこう説明する。

地磁気を感じる力は文明の発達とともに衰えたが、それが衰えないようにという工夫が巨石文化となって現れたと見ることもできる。ということは、すでにあの先史時代において地磁気を感じる力の衰えが自覚されていたということで、それを食い止めるために石の力を象徴する建造物が必要だったのである。

石の力とは何か。著者はそれを物理学的に説明すれば地球の磁力であるとする。小石であっても地球の磁石としての微小部分を担っていて、さらに巨石となれば一つの地磁場となる。

動物には本来磁場を感じとる力があり、現代人にはその力がほとんど失われてしまったが、新石器時代人は現代人よりその感度が高かったはずで、岩石、特に、巨大な岩石であればあるほどそこに宿る磁力を感知し、それを「不思議な力」への信仰としたのではないかという論理である。聖地やパワースポットの誕生も、そのような地磁気を感知する能力によるものとみる。

新石器時代人が現代人より地磁気を感じとる力があったかどうかは未解明で推測となり、無意識で地磁気を感じとったことでどのような心理・信仰となるのかは説明されていないが、岩石信仰を科学的に説明した文として注目したい。


キリスト教圏における岩石の聖性の位置づけ

現代のケルトの末裔に「あなたは石を信仰してますか」と尋ねても怪訝な顔をするだけだろう。よほどのスノッブでなければ、「はい、もちろん」などとは言うまい。「信仰」という言葉は彼らの中では教会、カトリック教会と結びつき、彼らにはそれ以外は考えられないのだ。あのケネス・ホワイトでさえ、聖なる岩を「祭壇」と呼び、カトリックの聖体拝領と結びつけているではないか。

ホワイトは、波が打ち寄せる海辺の自然岩を「あらゆる天候に耐えてきた石」で、フジツボの王冠を被った「年老いた」「聖なる岩」で「祭壇」と表現した。

これは一見、自然を崇拝するケルト文化の心性につながるようで、著者はホワイトを含めたキリスト教世界観に生きる人々が、聖なる岩を神として信仰するわけにはいかず、キリスト教世界観のなかでケルト文化や自然を取り上げざるをえない限界を指摘した。

岩石が神聖であることを語る時、西欧近代化された価値観を脱し、神話世界の言語を手に入れなければならない。


対馬で出会った人々の言葉

歴史というものも岩がじっと見とどけてきたんでしょうから、こりゃもう岩の勝利ですわな。岩にしみ入る蝉の声どころか、歴史まで染み入ってしまう。

対馬の岩の凄みを、対馬が背負ってきた歴史と共に語る大阪からの旅行客。第一印象が岩だったという対馬。著者も同感し、「石が島民を作り、島民が石を生きる」と表現した。

石だけでなく巨木も多い対馬において、著者は島南部の龍良山の裾に広がる原始林を訪れる。遊歩道が整備されているということだったが判然とせず、あきらめて帰った後に地元の人に尋ねると「前はもっときれいでした。遊歩道なんてもの、なかったんですから。」と言われて著者は仰天した。

遊歩道がなかった方が「きれい」だったというその発想。私たちが抱く感覚とはまるで違う。


ロジェ・カイヨワ『石』の評価

『石』は、第1章で中国の石に関する神話や伝説を取り上げ、第2章で鉱石を中心として石の物理的な外形を自然礼賛的に表現し、第3章以降は科学的ベクトルというよりは道徳・思想的な色が濃くなると評する。

著者は『石』を美しい文だが空虚であり、特に石を審美的に見すぎて科学的でないという点で、「石の感触を得られない」と断じた。

著者の興味関心は、岩石を地球史の記録物として、科学的に解読する哲学を追求しようとしている。


宮沢賢治の地質学的知性

著者は、科学的に解読した哲学として宮沢賢治を挙げる。

賢治の詩は、無意識のレベルで言語化された「心象スケッチ」で、心理学研究の対象としての資料になるものとして重視している。

それでありながら、賢治はたしかな地質学的な知識のうえで記述する「地質学的知性」を有しており、それは何なのかというと宇宙から地へ空間的・時間的に掘り下げていく地層学的理論であるという。

このような地質学的知性は他にもフロイトの精神分析が地質学的な掘り下げであったり、レヴィ=ストロースの人類学調査方法が常に下へ下へ、時の不可逆性を重視した点で地質学的であると評価している。

すべてに共通するものとして、地球に表れた地質や岩石、そして人間の個人的な精神から社会集団の行動まで、それらを「地球内部からの手紙」と位置づけ、その手紙を読み解こうという姿勢にあふれているとまとめられる。


石に親しみを覚えるのは、人はかつて石だったから?

人は死ねば土に還るというが、土になった私たちはやがて硬い石へと変貌する。私たちの生は石化し、地中に埋もれる。たとえ灰になっても、同じである。石を懐かしむ詩人には、「自分はかつて石だった」という記憶があるのだ。

ドイツの詩人ノヴァーリスは、鉱山学校で地質学・鉱物学を学び、石を自然界の理念形・至高的存在とみなし、石から鉱物、そして植物、動物、人間が定義されると考えた。

ノヴァーリスに言わせれば、人間は大地が最後に生んだ地層のようなものであり、その意味において、人間は自然界の新参者としての鉱物なのだという。

ここに人と石が地質学的に同系譜の中で語られうる。現代科学においてもデータ至上主義ではなく、目の前の石を見て、科学哲学を地質学的知性で学んでいくことの重要性を著者は説いている。


科学者への警鐘

本書のエピローグで、「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」の松尾芭蕉の句に対し、実際に声がしみ入るのかという著者の問いが記される。

科学者の立場からは、わざわざ句や詩歌を科学的に正当化する必要がどこにあるのかという疑問も起こるかもしれないが、そこに向き合うのが優れた詩人でもある優れた科学者となりうるだろうと著者は考えている。

量子力学の発達した現在、蝉の声の力が見直される可能性はあるのではないか。石が蝉の声を体内にしみ込ませ、それを記憶の貯蔵庫に保存している可能性もある。初めは表面にしか浸透しなかった音声も、それが莫大な数の虫の音声ともなれば、少しずつ深く浸透する。そして、それが何年もつづけば、石の方でもその浸透を許す構造変化を起こし、かくして芭蕉の聞いた「しみ入る」が現実になることも考えられる。

著者は人文科学の専門家であるため、上記の「仮説」がどの程度の核心を突いているか不明だが、岩石と生物、ひいては人間との歴史においても、人々と関わった岩石とそうならなかった岩石での構造的な違いを示唆する問いとなっている。

地球の存立にとって重要な磁力がどこから来るのかを突き止めてダイナモ理論として発表したウォルター・エルサッサーは、理論物理学、気象学、地球化学、生物学と自らの問題意識に沿って次々に専門分野を変えた。それは、自らを科学者ではなく自然哲学者でありたいと考えていたかららしい。

エルサッサーは、原子爆弾の開発・投下によって、科学から自然哲学が終焉したという発言を残した。

著者は、哲学を失った科学が暴走する例を挙げて、それらに共通する過ちは、目の前に見えているもの(光景・人・地球)を見ず、想像せず、数値やデータという高みからはじき出したものをもって判断するというところにあると規定する。

石に目を落とせば、眼前の石を見つけて、石に戻り、そこから時には詩人となって想像力や直観を働かせたうえで、そこに地質学的知性を加えて科学することを現代科学者たちへ提言するのが本書である。