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2021年11月28日日曜日

羽黒山と羽黒権現神社周辺の岩石信仰(三重県亀山市)


三重県亀山市関町鷲山 羽黒山中腹


出羽・羽黒山の羽黒大権現を勧請した三重県亀山市関町の羽黒山。

源義経の家来である佐藤継信・忠信軍が平家討伐のためこの地を通った際、部下の1人が病に臥したため、ここでしばらく滞在することになったという。部下は早く病気を治そうと日々羽黒大権現に祈願を続けた。その結果病が治ったことから、羽黒大権現をこの山の中腹に勧請し、羽黒権現神社としてまつったとのいわれが付帯する。


羽黒山の景観


関の羽黒山は、麓の鷲山地区に接する標高290mの里山である。しかし標高290mの低山でありながら、その山容は周りの山と一変し、山肌に無数の巨岩が林立する奇岩怪石の山と言える。




羽黒山は鈴鹿国定公園の一部に指定され、鈴鹿国定公園の記念切手が発行された時は、切手のモチーフに羽黒山の巨岩の林立する様子が使われた。

興味深いのは、巨岩が屹立するのは山頂付近というよりも山の中腹であり、まるで「山頂を聖域として取り囲む結界」のようにすら見える。自然の妙景とは言え、うまいこと山の中腹を取り囲っている。

このような巨岩群に抱かれるように、羽黒権現神社の祠が山腹に設けられている。

山中の巨岩群1

山中の巨岩群2



羽黒権現神社と岩石


登山口から10分ほど登ると、麓寄りの中腹に羽黒権現神社を拝する。

境内に達すると、まず目に入るのは休憩所および物置き場となった小屋だけだが、その奥に岩崖状の巨岩が広がる。



この巨岩は崖状だが、何とか登れるぐらいの斜度になっており、岩を登っていくと岩肌がえぐれて岩穴状になった空間がある。ここに羽黒権現の祠がまつられている。

現地看板には「岩の上部を穿ったものです」と書かれているが、人為的に岩を削ったものなのか、自然の露岩が重なり合って石室状になっただけなのかは判断できない。



岩の下から仰ぐだけでは、この祠を視界に収めることは難しい。また、祠へたどり着くためには岩石をよじ登らなければならない。

このような構造から岩石の役割というものを考えると、岩が祠を守る、ないしは、岩が神のテリトリーたる結界代わりを印象付ける感がある。いわば自然の玉垣、自然の磐境であり、岩石自体が神域を表現している。

また、神宿る祠が岩の上にある点を考えれば、磐座の後世変化バージョンと見ることもできよう。磐境でもあり磐座でもある、そのような岩石信仰のバリエーションを感得できる事例かもしれない。


正法寺山荘遺跡の存在


ここで、羽黒山の麓に築かれた正法寺山荘遺跡について紹介しておこう。

正法寺山荘は、土豪の関氏によって京都大徳寺の末寺の機能と砦の機能を兼ね、永正年間(1504~1521年)の初めの頃に築かれた山荘とされる。よって、砦でありながら著名な連歌師などが来ては、詩歌や茶の湯が栄えた場所でもあったらしい。

昭和50年代に大規模な発掘調査が行なわれ、その結果良好な状態の遺構検出と、豊富な量の遺物出土を見たため国指定史跡となった。

正法寺山荘遺跡

そして、寺院である正法寺も構えられ当遺跡は宗教施設の機能も備えた場所だった。

その観点から興味深いのは、正法寺山荘の立地が羽黒山の麓にあるということだ。現在は樹木が繁茂し、山荘跡から羽黒山は少々見づらい状態にあるが、往時は「山荘跡より仰ぎ見る同山は奇岩累累、絶好の景観」(『関町町史』)と考えられている。


文化と宗教の地だったからこそ、それが立地する景観・環境も多かれ少なかれ考慮されたことだろう。当時の庭園思想の「借景」として、正法寺の美と聖を彩る景観として巨岩林立の羽黒山が活用されたことは想像に難くない。

いわれを信じれば、山中に羽黒山を祀る羽黒権現神社がすでにあったことを考え合わせると、霊山としての聖性も寺域霊場に付加したとまで言える。


周辺の山々(筆捨山・関富士・観音山)


1.筆捨山

羽黒山の西尾根から尾根続きで登頂できる標高289mの山。

山名の由来は、画家の狩野法眼がこの地に来た際この山を描こうとしたが、翌日になると山の姿形が一変し、描くのを諦めてしまったことに因む。

別称・岩根山で、当山も山中に奇岩怪石が多く、山の東中腹には大黒石・蛭子石・観音岩・女夫岩など、岩の形状から名付けられた岩々があるという。

また、山から付近の街道に転び落ちた岩があるといい、付近の街道に左にある岩を転石というらしい(秋里籬島『東海道名所図会』より)。


2.関富士

標高243m。全国各地にある「○○富士」の1つで、その名にふさわしい円錐形の目立つ山。

山頂近くには「大きな露岩」があるとのこと。

羽黒山から望む関富士


3.観音山

標高222m。山中の露岩や岩窟に33体の観音仏が刻まれていることからこの名がある。

これら石仏群は、嘉永7年(1854年)~安政4年(1857年)、石工の村上佐吉によって刻まれたものとされる。別称・感応山。


いずれの山も地質上露岩が存在し、それに名称を付けたり神仏を刻んだりと、岩石信仰の発生する要因の一つとなった。

私はまだ羽黒山に登頂していないが、羽黒山から筆捨山の間の尾根筋には幾多もの巨岩が転がり、岩の下に開く空洞をくぐらないと通れないような場所もあるらしい。低山とはいえ危険の多い岩場が多いようなので、準備をして機会到来を待ちたい。


参考文献

  • 関町教育委員会編 『鈴鹿関町史』上・下巻 1977年
  • 秋里籬島著・原田幹校注 『東海道名所図会』 1797年(1967年の新人物往来社版を参照)
  • 現地解説板


2021年11月21日日曜日

椿大神社と入道ヶ岳の岩石信仰(三重県鈴鹿市)


三重県鈴鹿市山本町


椿大神社の歴史性について


椿大神社 社殿

椿大神社(つばきおおかみやしろ)は『延喜式』神名帳にもその名が記され、全国に数多くある猿田彦神社の総本宮に位置付けられ、また、伊勢国一宮ともいわれる。

ただし、猿田彦神社の総本宮には同県伊勢市の猿田彦神社を推す声もあり、延喜式内社としての椿大神社の論社および伊勢国一宮には、同県鈴鹿市一宮町の都波岐神社を挙げる文献もある。


椿大神社の境内には、高山土公神陵とよばれる祭神・猿田彦大神の墳墓がある。

この墳墓は前方後円墳といわれるが、「かつてこの墳墓を掘り始めたところ火の雨が降ったので中止した」などの伝承が付帯し神聖につき、学術的な調査はされていない。

土公神陵のマウンド

椿大神社とその裏にそびえる入道ヶ岳(標高906m)には数々の「磐座」の存在が報告されており、これらの岩石信仰にかかわる情報を中心に整理しておきたい。


御船磐座(みふねいわくら)


高山土公神陵の南手前に、配石構造物が存在する。「御船石座」とも表記される。

中心に3つの小石があり、その手前の空間を玉砂利で整え、さらにその周囲を二重に環状列石が取り囲んでいる。

御船磐座

社記では、猿田彦大神が天津神を高天原からここまで連れてきて船をつないだ場所とも、入道ヶ岳にまつられていた猿田彦大神を麓に移し、最初に社殿が設けられた場所ともいわれる。これらのいわれから「天降石」の別称も持つ。

いずれにしても、椿大神社の創建に深い関わりを持つ神跡として位置づけられている。


御船磐座の中心にある3つの小石は、真ん中が猿田彦大神、左が瓊々杵尊(天孫。相殿の祭神)、右が栲幡千々姫命(瓊々杵尊の母。相殿の祭神)の降臨石とされる。

御船磐座の中心部分(ズーム撮影)

磐座の周りを二重の磐境が取り囲むというこの御船磐座が、現在のこのような整った形態になったのは、そんなに古い時代のことではないように思われる。

椿大神社は織田信長の兵火により著しく衰微し、おそらくその時に御船磐座も荒廃したと考えられるからだ。


伝説の元となった岩石の祭り場は古くからあったかもしれないが、それが現在のような姿だったかどうかは慎重に考えたい。

あるいは、麓に最初に社殿が設けられたのがこの辺りだというのならば、その頃は岩石祭祀場はなく、社殿が現在の場所に移されてから「神跡」として御船磐座が設けられた可能性もある。


龍神石


椿大神社の由緒書にこのような記述がある。

「末社 多度社 境内龍神石 祭神 天目一箇命」


三重県桑名市多度大社の分社である多度社が、椿大神社の境内末社としてまつられているということだが、その場所が「境内 龍神石」となっている。龍神石とは何だろうか。


かつて椿大神社の神職の方に伺ったところによると、明和年間(1764~1772年)、天目一箇命の神名が書かれたお札が、境内にある「金竜明神の滝」(立入には許可要)の辺りに落ちてきたという奇譚から、そこに多度社を建てたという。

その後、明治時代になって多度社は椿大神社の本殿内に合祀されることになったので、現在の多度社の御魂は本殿の中にあるとのこと。

龍神石のことについては分からないが、その石があるとしたら本殿の中ではないかとの話だった。つまりは不明ということになるが、岩石信仰の事例である可能性を留意しておきたい。


入道ヶ岳の「磐座」群


入道ヶ岳(入道ヶ嶽聖山とされ、猿田彦大神が最初にまつられていた場所という。

入道ヶ岳

入道ヶ岳 頂上

山頂には椿大神社奥宮のケルンと別に祠が建つ。

ここに数々の「磐座」があるということを幾度の踏査を経て報告したのが、遠山正雄「『いはくら』について」(『皇学』第4巻2号、1936年)である。

椿大神社では現在も、この論文を小冊子化した「伊勢一宮 椿大神社 神代『いわくら』について」を社務所で販売している。この文献によると、入道ヶ岳山中には下記のような「磐座」があるとされている。


A.いしぐらの磐座(俗称天狗の遊び場)

B.主坐のいわくら

C.いしごうのいわくら

D.重ね石のいわくら

E.奥の院いわくら(俗称ほとけ石のいわくら)

F.たていわくら式のもの

G.しめかけ石のいわくら(俗称天狗の腰掛石)

H.いしがみのいわくら(通称ふじ社)

I.石大神(しゃくだいじん)のいわくら

※アルファベットのつけ方は「伊勢一宮 椿大神社 神代『いわくら』について」掲載の地図に準拠している。


各「磐座」の詳しい位置関係は上記文献を参照していただくか、Web上にこれらの「磐座」群を最も詳細に報告されている“朝寝坊”(soul)さんの「鈴鹿山脈/登山日記」「入道ヶ岳・磐座めぐり 」のページを参照していただきたい。

私はかつて入道ヶ岳に登頂する機会があったものの、その時は「磐座」群が存在する井戸谷と呼ばれる登山ルートが台風による崩落で立ち入り禁止となっていた。

井戸谷コースは崩落しやすいルート

そこで以下の記述では、各「磐座」群の歴史的な情報を整理して紹介するにとどめたい。


A.いしぐらの磐座(俗称天狗の遊び場)

入道ヶ岳中腹。入道ヶ岳の山頂から南東に2本の尾根が延びているうちの東側の尾根上にある。

古来「いしぐら」「天狗の遊び場」と呼ばれてきたという。椿大神社によると、猿田彦大神の一族がここで色々な話し合いを行った神跡という。猿田彦はいばしば天狗と同一視され、それが話し合いや遊びをしていたということから、神の出現する場所という意味で磐座の定義とも合致する。

露岩が寄り集まっており、各岩の寄り集まりが室のような隙間を形成しており、今はそこに祠が設けられている(遠山正雄氏調査時点はなかった様子)。この「室」こそが「くら」とされてきた由縁だろう。


B.主坐のいわくら

山頂から南東へ延びる2本の尾根の間には「オホハゲ」と呼ばれる大崩落箇所がある。この「オホハゲ」の直上に位置し、2本の尾根の合流点かつ山頂のやや下ぐらいの位置にある自然岩。

前述の「いしぐら」、そして後述する「いしごう」の中間に位置し、なおかつ、椿大神社から仰いで真正面の最高地点に存在する点から、遠山氏はこれを「このお山全体のイハクラの主座」とみなしている。

逆言すると、「主坐のいわくら」は遠山氏の命名であり、この岩に対する旧来の名称やいわれはない(つまりただの自然石として存在していた)ということに注意を払いたい。

入道ヶ岳山頂から下斜面のオホハゲの方向を撮影。

おそらく写真中央の崩落部がオホハゲの始まりではないかと思われる。


C.いしごうのいわくら

山頂から南東へ延びる2本の尾根の内、南側の尾根上に位置。「主坐のいわくら」を挟んで「いしぐらの磐座」と相対する位置にある。

この「いしごう」は、写真が一切掲載されていないので実態がつかめない存在だが、遠山氏によると割石のようなものを積み重ね、敷き並べたもので、人工築造物であることは明らかとのこと。扁平な巨石を左右に立てて、その上を別の石が覆う構造も見受けられるそうだ。

「いしごう」という名は現地で伝承されてきたものと思われ、何らかのいわれがあったと類推する。


D.重ね石のいわくら

入道ヶ岳の山頂から北西方向に伸びる尾根、通称「イワクラ尾根」と呼ばれる尾根上にある。「重ね石」の名の通り、まるで石を積み上げて石垣か城塞にしたかのような岩石構造物である。

遠山論文には、付帯する伝承などに関して記載がない。


E.奥の院いわくら(俗称ほとけ石のいわくら)

「重ね石」からさらに北西へ「イワクラ尾根」を進むと出会う、三角形のフォルムが特徴的な巨石。

奥の院といわれているが、いつからの呼び名かは不明。俗称が別にあるので、「ほとけ石」の方が元からある呼び名ではないか。

ちなみに「重ね石」から「ほとけ石」の間には、椿大神社が「鏡岩」と呼ぶ岩石がある。山本行隆『椿大神社二千年史』(1997年)によれば直径4m余りの円形状の岩石というが、その写真を見る限りでは円形状というよりは板状の趣。石面は風化侵食により凹凸があるが、かつては滑らかであっただろうとの推測が入っている。


F.たていわくら式のもの

「伊勢一宮 椿大神社 神代『いわくら』について」の地図を見る限りだと、「奥の院いわくら」からさらに北西へ進んだ地点にこれがあるようだ。

「たていわくら式」というのがどのような形式なのかはよく分からないが、遠山氏の記述を読む限りでは「谷間にかけて細長く屹立する岩石群」のようだ。


G.しめかけ石のいわくら(俗称天狗の腰掛石)

入道ヶ岳の山頂から南に伸びる二本松尾根と呼ばれるルート上に立地。この岩石のみ、下山時に実見することができた。

南側より撮影

北側より撮影

「天狗の腰掛」「しめかけ石」「七五三岩(しめかけいわ)」などの名称がある。山の天狗がここで腰掛けた石という。また、ここから上は神の住処なので不浄の者はこれ以上登ってはいけない、という目印のために注連縄を掛けた石だと伝えられている。


H.いしがみのいわくら(通称ふじ社)

「いしぐら」の尾根を下りると富士社の小祠があり、その上方にある机上の石と高さ約5mの立石状の岩石が「いしがみのいわくら」に相当する。巨岩を仰ぐ位置に富士社が設けられているので、神聖視されている岩石のようだが沿革は不明。

しかし現在、富士社では春季大祭の時に祭典が執り行なわれ、岩は木花咲耶姫命にまつわる磐座という神社公式見解もあるので(「椿大神社メールマガジン第56号」2008年5月発行)、現時点では神聖視されている聖跡であることは間違いない。

名称からは「石神」なのか「磐座」なのかはっきりしないが、おそらく両者の用語を使い分けず同じ意味の言葉とみなすパターンだろう。


I.石大神のいわくら

今まで紹介したところから場所が離れる。入道ヶ岳の南方、鈴鹿市小社町の小岐須渓谷にそびえる岩峰そのものを「石大神」と呼ぶ。詳細は別頁で取り上げたので参照いただきたい。

石大神(三重県鈴鹿市)


入道ヶ嶽「磐座」群に対しての私見


入道ヶ嶽の数ある「磐座」群の中で、かつてから名前がつけられ、古伝承が伝えられていたと目される確実なものは、「A.いしぐら(天狗の遊び場)」「C.いしごう」「G.しめかけ石(天狗の腰掛)」「I.石大神」の4ヶ所である。


それ以外の事例は、ある時期に研究者や神社関係者が「特別視した」ものも含まれる可能性が高いことに気をつけたい。

それは「歴史の失われた磐座に再び光を当て掘り起こしたもの」かもしれないし、「それまで認知されていなかったただの自然石を、往古の磐座として誤認したもの」かもしれない。

そのような危険性をはらんだものだと、研究資料として取り扱う際には念頭にとどめる必要がある。


個人的には、いわれの残る事例が入道ヶ嶽頂上から東側の山帯にあることに注目したい。山麓(里)側だからこそ、人に関わる伝承が集まりやすい結果ではないか。


逆に、山頂より西側にある「いわくら尾根」の事例群に対しては批判的に見ている。

東麓の里民から見て、山頂は神聖な禁足地であったかどうかはわからない。わからないが、そのような山頂よりも奥方に位置する西側山帯はさらに人足が及びにくいのではないか。

したがって、そこにどんなに異形の岩石があっても、その存在を人に認識されなければ、「磐座」とはなりえない。


たとえば重ね石やほとけ石はインパクトのある外観だが、だからといってそれだけを以て、「太古からの磐座」とみなすのは避けたい。

鏡岩については、管見の限りでは椿大神社の現代の記録の中でしか語られておらず、いつから鏡岩と呼ばれているのか、むしろ誰が名前をつけたのか、そこまで辿ってこそ初めて資料化できるだろう。


参考文献

  • 囲後政晏 「椿大神社」 「石神社」 式内社研究会(編)『東海道2』(式内社調査報告 第7巻) 皇學館大學出版部 1977年
  • 山本行隆 『椿大神社二千年史』 たま出版 1997年
  • 椿大神社 「椿大神社メールマガジン第56号」 2008年5月発行


2021年11月15日月曜日

二見興玉神社の岩石信仰(三重県伊勢市)


三重県伊勢市二見町


当社の由来については、Web上にすでに好資料が紹介されている。

二見興玉神社が昭和14年に発行した「二見興玉神社参拝のしをり」というものがあり、これの原文を公開したベギラさんの「二見興玉神社参拝のしをり」(サイト「古代の謎へ『銅鐸』」内)が非常に有用である。

現在の由緒書が伝えない部分を補完する資料であり、これを適宜参照した。


二見興玉神社は、元は二つの宮が明治時代に合祀されて誕生した。

一つは、行基が二見浦の裏山に太江寺(たいこうじ)を開山した時、その鎮守社として猿田彦大神をまつった興玉社。もう一つは「天の岩屋」の中に宇迦御魂大神(豊受大神)をまつった三宮(さんく)社である。これに境内社の竜宮社の祭神・綿津見大神を加えた三柱が二見興玉神社の主祭神となる。

二見興玉神社境内


興玉神石(おきたましんせき)


二見浦の名勝として知られる夫婦岩の二つの岩の間を通して、沖合い約700mの海中に沈んでいるのが興玉神石(興玉石・御膳岩とも)であり、興玉社の信仰系譜の源流に位置付けられる。

興玉神石はかつては海上に常時露出していたが、度重なる津波により海中に没し、現在その姿は極稀に岩礁の頂部が見えるほどになったという。

夫婦岩の二つの岩の間に興玉神石を遥拝する。

興玉神石は、「しをり」の言葉を借りると「猿田彦大神縁りの霊石」とある。

さらに具体的に説明した文章がないかと探してみると、伊勢湾内を航海する舟人達が崇敬するものであり、二見浦の守護神座との表現を見つけることができた。また、現地看板には「神様が寄り付く岩」との記載もあった。

「神座」「神が寄り付く」というあたりを考慮すると、興玉神石はいわゆる磐座としての位置づけで神社から信仰されていることがわかる。


一方で「興玉」の「玉」が、猿田彦大神の御魂を具現化したものであると見るならば、これは装置などと表現できるものではなく神そのものの姿だと受け止めた人もいたことだろう。

海上の岩を遥拝したのか、岩に帯びる何か見えないものを遥拝したのか、ということである。

※「玉」は御魂を宿らせる入れ物であり、装置・道具的な玉としての信仰も並立しうる。


まとめれば、磐座と石神の性格が混在しておりきっぱりと分けられない事例であると考えられる。思うに、信仰する人によって興玉神石の位置付けというものは変化するのではないか。

海上に露出していた時は楕円形の平岩だったらしく、神座としての外観にもふさわしかったと言える。それが結果的に海中に秘匿されたことで、石神色が濃くなる一要素になったかもしれない。


夫婦岩(めおといわ)


男岩(高さ9m)と女岩(高さ4m)の総称で、長さ35mの注連縄がかけ渡されている。日本の夫婦岩の代表格として殊に有名だ。

男岩は立石、女岩は根尻岩の別称を持ち、古来は総称して「立石」「天の岩門」と呼んでいたらしい。

後世に両岩をイザナギ・イザナミ命になぞらえて、夫婦岩と呼ぶことが一般化したようだ。


夫婦岩に人々が込めた思いはさまざまあるようで、まずは先述の興玉神石を拝するための鳥居という見方がある。

それと同時に、両岩の間から登る日の出を崇める場所としての支持も高い。

他に、海の彼方を神々の住む常世国とみなし、人間の住む俗世と常世国の結界石としての役割を果たしているという機能的な評価もしうる。

なお、両岩の間から富士山を眺めることもできる。ただし、空気が澄んでいれば何とか、というレベルなので、富士山遥拝の場としての性格はあまり大勢ではないが、いずれにしても夫婦岩を通して"別の対象"に思いを馳せる役割を担った岩石であることは否めないだろう。


夫婦岩の周りには、3体の岩が頭を出している。それぞれに名前がついており、

  • 獅子岩
  • 屏風岩
  • 烏帽子岩(後世になり、蛙岩の通称も生まれた)

その名称から、岩石を物の形にたとえた姿石の事例と評価できる。

左から獅子岩・烏帽子岩・屏風岩・男岩・女岩

左が屏風岩、右が獅子岩

写真右奥が烏帽子岩


天の岩屋(あまのいわや)


二見興玉神社境内には「天の岩屋」と呼ばれる岩窟が存在し、現在は岩窟の入口を塞ぐように社祠が建てられておりその内部ははっきりしない。「しをり」にも岩窟の内部構造や規模に関する記述は見当たらない。



先述のとおり、三宮神社をかつて岩窟内にまつっていた場所といい、「しをり」によれば別称として「石神(しゃくじ)」「佐軍神(さぐじ)」「天の岩戸」があったという。

三宮(さんく)神社は三狐(さんぐ)神社とも読まれ、「サ」と「ク」の音の組み合わせであることから、そこから転じてシャクジ文化の影響が加わったと読み取れる。

岩石信仰との絡みで考えれば、岩石に内部空間を有するシャクジ事例というのは珍しいのではないか。


2021年11月7日日曜日

猪子山の岩石信仰(滋賀県東近江市)


滋賀県東近江市猪子町 猪子山


猪子山(標高268m)は、観音寺山を筆頭とする繖山山系の最北端にそびえる。

山中には、主に古墳時代後期の横穴式石室を埋葬主体とする群集墳が100基を越えて確認されている。

この群集墳の中と混ざり合うように、山頂から山裾にかけて岩石信仰の場が残されている。




岩船




山裾の船形石。隣接して岩船神社が鎮座する。

神亀5年(728年)、比良大神が比良山からこの岩船に乗って、琵琶湖を渡り当地にやって来たという。


勝菅の岩屋/磐座




岩船のやや上方に位置。

天慶年間(938~946年)、菅原道真の神霊が比良より「繖山の勝菅の岩屋」に鎮まると社伝にあり、これのこととされる。


烏帽子岩/神の磐座



山頂の巨岩。岩肌には豊川大神など複数の神名が刻字されている。

おそらく烏帽子岩が先行する名称で、神の磐座は後世に通称されたものと思われる。


烏帽子岩の手前に接して北向岩屋十一面観音が築かれている。

堂内の奥壁は岩肌が露出した構造で、窟状にえぐられた所に本尊が安置される。


その他(岩神)

藤本浩一氏は取り上げていないが、猪子山には「岩神」と呼ばれる岩石信仰の地も残っているようだ。

能登川博物館のホームページ「遺跡は語る The ruins tell a story」のpdfが掲載されており、その中に猪子山の巨石崇拝として先述の岩船・磐座・北向観音に加えて岩神の写真が掲載されている。

能登川高校の裏、伊庭御殿遺跡、繖峰三神社の近くにあるらしいので改めて訪れたい。


参考文献

藤本浩一 『磐座紀行』 向陽書房 1982年