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2023年10月30日月曜日

垂水岩/垂水不動/垂水の観音様/垂水遺跡(山形県山形市)


山形県山形市山寺 宝珠山千手院裏山

垂水岩(下部のみ撮影)

蜂の巣状の穴は地質学的に「雲形侵食」で説明が可能という(ブラタモリ2023年7月22日放送時の大友幸子氏の解説より)

鳥居が立つが、基本的には山岳仏教・修験道における岩場の文脈で臨む存在。

岩陰に稲荷神社がまつられる。

垂水岩の西にある別の岩陰には古峯(こぶはら)神社がまつられる。

垂水岩(西より撮影)


山寺立石寺のすぐ東の「峯の裏」と呼ばれる地にあり、千手院の裏山を約15分~20分登った山腹にある。

垂水遺跡・垂水不動(垂水不動尊)・垂水霊境などの通称で知られ、近年とみにパワースポットとして着目されることが多いが、40年前の文献を捲ると以前は垂水岩(たるみずいわ)と呼ばれていたらしい。

「垂水岩(山形市山寺) 水が垂れるように岩の上から落ちてきて奇岩を作っている。昔は修験者が冬でも住んでいた。ここは、現在の山寺ができる以前に慈覚大師がいた所で、ここで山寺を開く構想をねった。今は不動様がまつられていて、垂水の観音様と言って信仰されている。(話者)武田唯雄」(岩崎 1981年)

垂水岩の名は、明治11年刊行の地誌『山形県地誌略』まで遡って確認できた。その後、大正7年刊行の『山寺村風土略記』で垂水不動の表記も登場する。垂水霊境の表記はかつての文献群には登場しないため、単なる美称の一つが流布されて定着化したものだろう。
以上を踏まえて、歴史的名称としては垂水岩・垂水不動の名を採用することが望ましいだろう。


さて、垂水岩は山寺立石寺の始まりの地(元山寺)と伝承されることがある。
それはまったく根拠のない話というわけではなく、現地には寺院があったと思しき地形や痕跡が残るという。

「今日の根本中堂は目今の山寺区域の東部に建つて居るが、其開山当時に在ては更に東方千手院字峯裏と、垂水不動間の山上にあつたものらしく、其處に今猶平地があり、畑地となつて居る。而して其敷地の入口には両側に高き岩石が、恰も門に擬せらるゝ如く立ち、如何にも霊場であるらしく見得られる。即ち中堂は此處に建てられたものと思はれる。」(川崎 1947年)

門に擬せられた岩石がどれに当たるのかはよくわからないが、千手院に立つ現地看板によれば現在、阿弥陀屋敷と呼ばれる地が本院跡とされており、このことを指すのかもしれない。

円仁宿跡

亀裂の奥に不動明王像が安置され、垂水不動の由来となる。

かつて岩肌には千手観音の線刻が見られたといい、垂水の観音様の由来となる。

垂水岩の周辺には霊場関連の石造物群が散在する。


垂水遺跡という名もあるものの、いわゆる遺物が出土したという意味での遺跡ではないらしく、埋蔵文化財としての登録はみられない。
ただし、遺構としての石造物群が残っており、その点で遺跡と考えるのは差し支えない。

「蜂の巣の穴状の岩窟がみられ、垂水不動や円仁宿坊と名付けられたものもある。ここにも岩窟のなかに中世の石造文化財が多数散乱している。とくに五輪窟には、『文永』『応仁』『明徳』の年記がみられる五輪塔の水輪・地輪などがある。もともとの山寺はこの地であり、円仁が最初に開いたのはこの『峯の裏』であったともいわれている。」(川崎 2009年)

これらの中世石造物群の評価については、修験道考古学を専門とする時枝務氏が次のように記している。

「13世紀には、立石寺から尾根1つ隔てた峯の裏地区を中心に、納骨をともなう五輪塔などの石塔が造立されるようになるが、この時期の現境内(吉川注:立石寺境内を指す)での宗教活動は不明な点が多い。鎌倉時代に、一時期禅宗寺院になり、再度天台宗寺院に復帰したと伝える寺伝となにがしかの関連があるのであろうか。」(時枝 2011年)

念のため申し添えるが、13世紀より前の考古学的痕跡は見つかっていない。たとえばこの奇景を以て縄文時代の信仰などと直結するような動きは自制すべきだろう。

現状として、垂水岩は山寺の成立と密接に絡む山岳仏教霊場と位置付けるにとどめないとならない。



参考文献

  • テレビ番組「ブラタモリ#243 山形~山形は何度も生まれ変わる?~」(2023年7月22日放送)
  • 岩崎敏夫 編『東北民俗資料集』10,万葉堂出版,1981.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9570674 (参照 2023-10-30)
  • 原精一 編『山形県地誌略』,佩玉堂,1878. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991433 (参照 2023-10-30)
  • 伊藤友信 著『山寺村風土略記』,伊沢栄治,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/958425 (参照 2023-10-30)
  • 川崎浩良 著『出羽文化史料』,出羽文化同交会,1947. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1043722 (参照 2023-10-30)
  • 川崎利夫「立石寺とその周辺の石造文化財」 日本考古学協会 編『日本考古学協会大会研究発表要旨』2009年度,日本考古学協会,2009. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11199853 (参照 2023-10-30)
  • 山口博之『山寺立石寺―霊場の歴史と信仰―』吉川弘文館 2021年
  • 時枝務『山岳考古学―山岳遺跡研究の動向と課題―』ニューサイエンス社 2011年


2023年10月23日月曜日

「寒河江の巨石文化遺跡ストーンサークル」と姥石(山形県寒河江市)


山形県寒河江市元町 八幡原第1号公園


JR寒河江駅の西約200mに「巨石文化遺蹟之碑」が建つ公園が存在する。

公園入口から撮影。

大小の岩石が間隔をあけながら散在する。

岩石の一つ

中央の岩石

公園に建つ1934年の石碑

この地はかつて八幡原の地名で知られ、この「巨石文化遺跡」を八幡原遺跡などと呼び、東北地方のストーンサークル事例の一つに挙げる時代もあった。

事の発端は、山形県の学校教員で郷土史家だった堀場義馨氏が当地に散在していた巨石群に着目し、その内容を「巨石文化の遺蹟 ストーンサークル(環状石籬)の発見」と題して1932年に発表したことによる。

 調査の結果によると、石質は安山岩と、集塊岩と、凝灰岩質礫岩の自然石で、三種類とも葉山邊から運ばれたものらしく、多大の人力を要した、人為的の移動と、其の配置によって造られたものであるらしい。
(略)
去る大正9年から10年にかけて、政府が奥羽鉄道左澤支線を敷設することになって、寒河江停車場を建設せる時に、此所を土砂採り場としたから、突然盛土の下から兼ねて隠れて居た巨石が発見されたが、其の不可思議な巨石が如何なるものであるのか見解もつかず、今日まで疑問の中に葬られて居たものである。
(略)
勿論述者は浅学非才、殊に田舎者のことなれば、見聞も狭く、誤認や独断に陥って居るかもしれないから、世の博識なる先輩諸兄の実地調査と、其の御研究によって、是正を得ることが出来たならば、自分は勿論人類学界の爲めにも、誠に喜ばしいことと思はれる。

(堀場 1932年)

堀場氏はこの巨石群を人為的遺構として紹介して実測図も作成しつつも、その判断には誤認もあろうことから他研究者の批判を願ってもいた。

その後、1952年に考古学者で巨石信仰の研究に長じた大場磐雄氏が来県し、自身の調査メモ『楽石雑筆』にて現地所見を次のように記した。

 先づ注目すべきは、巨石の存せる位置にして、前述の如く砂礫採掘のため発見せる丘陵の一部にして、今も砂の上に露呈せり、而して最初はその上に砂礫層の覆ひ居るものにして、今これを調査するに、南方において1.75米、東北方においては1.60米、西側においては1.4米を算す、又現在の巨石の大いさを見るに、中心のもの高1.35米、南方の最高のもの1.95、その他1.45、1.35米を算するを以て最高のものすら殆んど頭部を露出し難く、他の小石小玉にては全く砂礫中に没し去るべし。この砂礫層の堆積が巨石樹立後と決定すれば問題は別なれど恐らくこれは寒河江河支流の流れ来りしものならむ。これ不審の第一なり。

 次にこの形状は後世人為的移動を行いてるを以て些か疑はしけれど、仮にかかる形状なりとすればその規模大形にして、類似のものは北海道三笠山麓のものと類似を見る外内地には類例なし。更にこの附近に確実に遺物の発見なきは不審の一にして、これ等の解決をまちて決すべきものと思考す。ただ問題はこの附近を姥石と称することにして、恐らくは同様の名称を有せし石の信仰ありしならむ。又八幡原と称する如く、信仰に関係を有する地なるを以て或はこの方面より別種の解釈を見ることもあるならんか。

(大場 1952年)

大場氏は、この巨石群が砂礫層の中に埋もれていた点と、考古学的に確実な遺物の出土がみられない点を踏まえて、寒河江川の運んだ自然堆積の土砂と流されてきた岩石の一部なのではないかという可能性に触れた。

なお、大場氏は古代信仰に造詣の深い関係で「八幡」と「姥石」の存在にも着目しているが、八幡神や姥伝説を縄文時代の遺跡として直結することは危ういだろう。

公園北東隅に安置されている姥石

一時期、別の場所へ動かされていたのを元の場所へ返還したという流浪の岩石。

さらに1959年、北海道の縄文時代研究に優れ『日本の巨石文化』(学生社 1973)の著作でも知られる考古学者の駒井和愛氏は、この巨石群にトレンチを設定して発掘を試みて、その結果を次のように記した。

 私は山形大学の柏倉亮吉教授とともに、土地の人の話や、上記実測図で原位置を保っていると考えられる平たい巨石二つほどを選び、これを調べるとともにサークルの内側に幅二メートルのトレンチを二本、直角に交るように鑿ってみた。

 この二つの巨石の周囲をみると、粘土状の地山の上に砂と礫とが積もり、その上に恰も流水によって運ばれたもののように巨石がのっていた。これに対して、他の立石の類は、腐触土のなかにすこしばかり入っているにすぎないか、或はまた横に平たかったものを縦位置に変えたようなものでしかなかった。

 またトレンチは深さ腐触土六、七十センチにして石の腐った粘土状の地上に達するが、何等の遺物も無い。すでに湧水も多く、砂や礫も少なく無い。到底墳墓などの営める土地でないことが知られたのである。

 以上のことから、寒河江のストーン・サークルなるものは、もと河底であったところに砂礫とともに巨石が転がり来たって、群集し、のち水の流れが変って河の底にも土がつもって、土のなかに砂礫を含み、土の上に自然と巨大な石が首を出していたようなもので、決して人工のものではないことがわかったのである。かの鉄道線路を敷設する時に、ここから砂や礫を取ったために、巨石だけが残り、その形が偶然サークルの状をなしていたために、土地の考古家の熱心によって、ストーン・サークルと名づけられるに至った。やがて石も余分のものをすて、足りないところへ補って、益々立派な形をなすようにつくられたのであろう。

(駒井 1959年)

大場氏の所見を裏付ける形で、巨石群の下はもともと川底であり、自然河川の大小の川原石の堆積が、後世の地理的環境の変化で「巨石遺構」「ストーンサークル」と主観的に判断されたという経緯が明らかになった。

点が3つ三角形に集まったら人の顔を直観してしまう人類の性(パレイドリア効果)である。真円でも等間隔の配置でもなくても、3個以上の岩石が円のように見えて、自らの主観に負けてそれを環状と認定してしまうことはあるだろう。その典型と言える。

現在の風景だけを見て巨石のおりなす雰囲気にのまれ、こうあってほしいという主観で歴史を語るのは、みわたせば現代人も一緒である。


主観にもたれつつも後世の批判的研究に審判を委ねる堀場氏、巨石信仰に親和的な立場でありながらも自然成因説で研究対象に冷静な視点を忘れない大場氏、実際に考古学的調査へ乗り出して事実をもって判断する駒井氏、いずれの研究姿勢も現在の岩石信仰研究において学ぶべきところが多いのではないか。


参考文献

  • 堀場義馨「巨石文化の遺蹟 ストーンサークル(環状石籬)の発見」 『郷土研究叢書』第3輯,山形県郷土研究会,昭和7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1209273 (参照 2023-10-23)
  • 茂木雅博(書写・解説)・大場磐雄(著) 『記録―考古学史 楽石雑筆(補)』博古研究会 2016年
  • 駒井和愛『音江 : 北海道環状列石の研究』,慶友社,1959. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2991466 (参照 2023-10-23)


2023年10月16日月曜日

湯殿山の御宝前と岩供養(山形県鶴岡市)


山形県鶴岡市田麦俣


御宝前


出羽三山の湯殿山は、岩石を「御宝前」と呼んで中近世には湯殿山大権現、明治以降は湯殿山神社本宮そのものとしてまつった。

松尾芭蕉が「語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな」と詠んだように、修験の秘所によってそこで見たことは他言無用といい、現在も湯殿山の神域で写真撮影はできない。

とはいえ、すでにこれまで著された数々の文献に湯殿山の記述や研究は散見されており、自治体史である『朝日村誌』1巻(1964年)巻頭には御宝前の岩石の写真が堂々と掲載されている。
(同様の写真はかつて絵葉書でも販売されていたらしい)

現・湯殿山神社本宮

湯殿山の北向いにそびえる品倉山の岩崖。湯殿山御宝前と成因・規模は非なるものだが写真として唯一擬することができるもの。

これより先は撮影禁止。

山本謙治氏は「湯殿山の陰陽石」(1991年) で、御宝前を陰と陽から成り立つ陰陽石とみなして、美術史研究の立場からその造形も含めて詳細を論じている。類書に比して具体的であるため、山本氏の表現を用いて次にまとめよう。


  • 陰陽石(御宝前)の高さは正面からみて目測3m前後、幅6mほど。
  • 輪郭は円錐形に近いが、頂上部は平らになっている。
  • 岩肌に鋭角面はなく柔らかな曲線で構成される。
  • 岩肌の色は赤土色であるが、それよりも、肉の内部の色という表現がふさわしい。
  • 岩石は全体が濡れ光り、頂から湯が流れ出して白煙がたちのぼる。
  • 陰陽石は、正面に見える円錐形の岩石と、右横に少し下がった所にコニーデ型の岩石が見えて、そちらは頂が平らではなく大きな窪みをもち、なみなみと湯を湛えている。
  • 陰陽石の左側から登り口があって、素足で巡拝できるが足裏には相当に熱い。
  • 上に登ってから正面の岩石の頂面を見ると、木立や覆いで正確にはわからないが、半畳よりは広い平面で、手前に三か所ほどの湯の湧出口が一列に並んでいる。


私が現地で目にしたのもこのような光景であるが、岩石の頂面を観察することは多数林立する梵天の存在によって難しく、湧出口を3つとも特定することはできなかった。また、山本氏は高さ3mでそこまで大きくないとするが、私の目測では5mはあるのではないかと思う。

ちなみに君島武史氏の湯殿山の観察報告(1996年)では、岩石の高さを4mほどと記している。今は3~5mほどという認識でいたい。


さて、これらの観察を踏まえて山本氏は、御宝前を正面の「陽」と右横に並ぶ「陰」を併せ持った神体石だと考えている。

では性神かと単純に判じるものではなく、かつて行者は御宝前から湧き出る湯穴を出湯の神やクナドの神などと唱えて拝んだという話から、クナド(岐)の境界神としての性格も混在していることも指摘している。

どのような境界かと具体的に問うならば、湯殿山が即身成仏のできるところや祖先に会うことができる場所としての信仰を考慮して、山中他界の境界としての聖地だったのではないかと推測している。


御宝前とはどのような場であったのか。このように温泉が噴出する特異な岩石信仰は類例を聞かないに等しい。

御宝前という語は仏教用語由来の一般名詞だが、岩石の手前のまつり場をそう呼んで後世に岩石を含めた名称となったか、岩石は神そのものではなく神体で岩石自体を御宝ではなく御宝前とみなしたのか、名称の解釈も考えどころである。

前者であれば岩石は神仏そのものであり、後者であれば岩石は山中境界としての媒体と言える。

少なくとも仏教・神道体系に組み込まれてからの御宝前は後者に近いだろう。岩石が神仏そのものではなく、信仰対象は大日如来であり湯殿山大権現であり、その霊威の可視的な顕現として岩石が存在するからだ。仏名・神名がつけられる前の時代の受け止め方はまた異なった可能性がある。


目に見える霊験として突出する温泉水はすでに科学的な分析がなされており、成分は炭酸含有食塩泉で温度は52℃という(安斎 1965年)。

52℃であればたしかに裸足の参拝で相当熱く感じるのもうなずける。私は8月の気温35℃の猛暑日に参拝したので岩肌の日光の照り返しでさらに熱く感じたものだが、季節によって感受する信仰要素はまったく変ずる。

冬場には雪で埋もれる湯殿山で、御宝前だけは温泉で常に雪解け、その肉色と白煙の奇観を曝し続けるわけである。安斎氏の前掲書では「冬になりますと、このご神体付近に温泉のぬくもりを慕って蛇がたくさん集まり、奇観を呈するといわれております」(安斎 1965年)とあり、なおのことだろう。

蛇については他に「湯殿山御宝前の梵天に蛇が集まると、出水の前兆で、小屋を片づけて下山するといふ」(西川 1943年)という俗信もある。御宝前の横に切り立つ御澤の滝なども含め、岩石単体のみならずそれに付随する自然環境の集合体として信仰聖地は成立し、そのなかで岩石信仰を位置づける必要がある。


岩供養


現・湯殿山本宮の拝所の東に隣接して「岩供養場」がある。

個人の戒名や先祖供養の字を記した紙(紙位牌/形代)を、水に浸したうえで霊祭所の側面に露出する岩肌へ貼り付ける。現状として無数の紙が貼りつけられて岩肌が隠れるほどである。

岩供養の風習については、山形県立石寺(山寺)などにみられる岩塔婆(岩肌に塔婆状の墓碑を彫るもの)との共通性を説く向きもある(大友 1976年)。


参考文献

  • 渡部留治 編著『朝日村誌』第1 (湯殿山),朝日村,1964. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3015517 (参照 2023-10-15)
  • 山本謙治「湯殿山の陰陽石」 日本環太平洋学会 編『環太平洋文化 = Journal of Pacific Rim studies』(2),日本環太平洋学会,1991-04. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/4426199 (参照 2023-10-15)
  • 君島武史「報告 出羽三山大会(山の考古学研究会)に参加して」 『博古研究』(12),博古研究会,1996-10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/4426444 (参照 2023-10-15)
  • 安斎秀夫 著『東北の温泉』,保育社,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2985535 (参照 2023-10-15)
  • 西川義方「出羽三山の重大使命」 『岳』,山と渓谷社,1943. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1043654 (参照 2023-10-15)
  • 大友義助「羽州山寺の庶民信仰について」 山形県立博物館 編『山形県立博物館研究報告 = Bulletin of the Yamagata Prefectural Museum』(4),山形県立博物館,1976-03. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3465749 (参照 2023-10-16) 


2023年10月8日日曜日

金生山の石灰岩群(岐阜県大垣市)


岐阜県大垣市赤坂町


「赤坂の虚空蔵尊」などの名で親しまれる明星輪寺は、金生山(かなぶやま/きんしょうざん)の山塊をなす石灰岩の奇岩怪石に彩られる。

金生山(写真右:蔵王権現堂)

岩巣公園内の一岩

岩巣公園という現代名称で総括されるが、実際にはそれぞれの岩石にそれ以前からの名前がつけられている。

情報源によって錯綜しているところもあるが、現在わかっている範囲でまとめる。


堂内内陣の岩屋/大蛇の絞め跡

明星輪寺の本尊にかかわる伝説に基づく。
虚空蔵菩薩が若き修業の身の折、伊勢の娘に恋い慕われて大蛇に身を変じて菩薩を追いかけてきた。菩薩はほうほうのていで赤坂山の岩屋に逃げ込んだといい、その伝説地がこの岩屋である。
本堂の奥壁に岩肌が突き出ているが、岩屋全体は堂の中に収まる形態らしい。

本堂内陣の岩屋

大蛇の絞め跡

本堂の奥壁を斜面上方から撮影。岩屋は堂内に収まっていると判断できる。

権現岩/観音岩

岩巣公園の中では、本堂の横に接して最初に見える岩である。

写真右上の岩肌に、円形に光背をくりぬいて観音像が刻される。

岩肌には観音像が彫られて現地には「観音岩」の標柱も建つが、ご住職にお話を伺ったところによると彫刻されたのはおよそ100年前の頃だろうとのことで、もともとは「権現岩」と呼ばれていた。

たしかに金生山の昔の絵図を見ても、観音岩の名前は見当たらない。
絵図は時代別に複数あり、本記事の以降の岩石でも用いるため整理しておく。

A.金生山明星輪寺境内之図(金生山化石研究会 1981年に所収)※以下、絵図A
山内の岩石群を描いたものとしてはもっとも古い鳥観図で、明治時代製作の銅版画とされている。

B.絵図Aを元に後世加筆修正した絵図(寺院パンフレットに所収)※以下、絵図B
絵の構図、描写のほとんどが絵図Aを模したものだが、たとえば絵図Aでは役行者堂・御供所と記された建物が絵図Bではそれぞれ蔵王堂・愛宕社と題され書き直されている。また、地蔵堂の場所が移動して建て直されている。これらの点から、絵図Aを元にして時代の変化に合わせて再度作成されたものと思われる。
後述するように、複数の岩石において絵図Aと絵図Bで名前が書き直されており、岩石の名前も変遷したことが読み取れる。

C.現地に掲示されている「金生山境内図」以下、絵図C
地蔵堂横の庫裡の壁面に掲示された絵図で、これも絵図A・絵図Bの構図を模したもの。昭和時代の製作と思われる。

絵図C

D.現地に掲示されている「岩巣公園案内」※以下、絵図D
岩石の配置を図化したものとしてはもっとも新しいもので、大垣市が岩巣公園を名勝指定した流れで建てたもの。看板としては平成時代の製作と思われる。

絵図D


権現岩の場合、絵図A・B・Cには「権現岩」と記され、絵図Dでようやく「権現岩(観音岩)」と丸括弧付けで観音岩の名前が登場する。
また、絵図Cでは岩肌に観音の彫刻が描かれるが、絵図A・Bでは彫刻の描写はない。このあたりからも、この岩石における権現→観音の位置づけの変化も見えてくるだろう。

なお、上記4絵図は山内の岩石の配置を正確に描いたものではなく、訪れた私の実感では、むしろ現地の位置関係とかなり異なる。絵図の配置を信じすぎると逆に現地で迷うだろう。参詣時はそのあたり注意されたい。

くぐり岩/廊下岩

絵図Aでは「廊下岩」と記された場所が、絵図Bでは「星巖岩」(後述)と記され、地図Cでは「くぐり岩」「星巌岩」と2つの岩の名前が並列して記される。
この名称の混在はどうしたことか。少なくとも、現地ではくぐり岩と星巖岩とは別々に標柱が建てられているので別物と言える。
廊下岩という名称とくぐり岩という名称は、それぞれ通路上の道を通るという点で共通するため、くぐり岩と廊下岩は同一物を指すのではないかと推測する。

くぐり岩(出口側/裏側から撮影)

ゴトゴト岩

絵図A~Dすべてに登場して、位置関係も変わらない。現地に標柱もあるが、同サイズの無数の石灰岩がごろごろしており、どれを指すのか特定が難しい。ゴトゴトの名の由来も情報収集不足である。

ごとごと岩の標柱。写真から外れた奥にも岩石の分布は続く。

見晴岩

明星輪寺の庫裡で無償配布している『大垣市名勝 金生山岩巣公園―自然と生物―』(2020年)に、「見晴岩」の名と共に写真が掲載されており位置が特定できる、
名のとおり山頂から麓が一望できる場所に広がる露岩群を指すが、絵図にはいずれも記載がないため近年の命名と思われる。

見晴岩

亀岩

見晴岩の北に接して存在。岩肌に「亀岩 反対側から見てください」と看板がつるされており、反対から見ると甲羅状のこんもりとした岩石から亀の頭のように突き出ており、この姿形を亀とみたものである。
中日新聞の記事「『かめ岩』濃尾平野見渡す 大垣の金生山頂上、縁起物を見に観光客増
」(2022年7月9日付)によれば、ご住職が樹木伐採時に新たに発見・命名されたものと報道されている。

亀岩(写真左)

天狗岩

「赤坂山の虚空蔵さん(明星輪寺)の境内にある岩巣公園の一番高いところにある天狗岩の上で、毎年正月元旦の朝早やく、まだ初日の出にならない前、真っくら闇みの中で一番鶏が鳴くという。それが金の鶏で、その鳴き声を聞いた人は、『その年一年間は縁起がよい』とされ、その金鶏の姿を見たら、それこそその人は一生涯幸運に恵まれる」(金生山化石研究会 1981年)

岩巣公園の奇岩群のなかでは珍しく伝説が付帯するのが天狗岩である。
全国各地に類例のある金鶏伝説の一事例であるが、この天狗岩についてはなぜか絵図A~Dに一切図化されていない。
岩巣公園の一番高いところにある岩というのがヒントで、『大垣市名勝 金生山岩巣公園―自然と生物―』(2020年)には写真と共に掲載があるが、岩の近景のため岩巣公園のどこに位置するものかがわからず特定できない。

屏風岩

絵図A~Dに一貫して登場。現地に標柱あり。

屏風岩

不動岩

不動明王像が彫刻された岩で現地に標柱も立つが、標柱が地面上ではなく不動岩とは別の岩石の上に置かれているため、なかなか見つけにくい。
不動明王の彫刻も、ある一定の方角からでないと拝みにくく、それが岩と岩の狭間を通る途中で横を向いて上の方に視線を向けると見つかる。
目印としては、咜枳尼天の堂を向かって右から堂裏に入った岩と岩の狭間から左上方の岩を仰ぐと見える。健闘を祈る。

不動岩(写真左)と標柱(写真右)

絵図B~Dには不動岩の名が記されるが、もっとも古い絵図Aには記載がない。
観音岩と同様、約100年前の彫刻とうかがったので、それが絵図Aにはない理由と考えられる。

行者岩/行場岩?

絵図Aには、不動岩の場所に「行者岩」という名が記されている。
では、不動岩の旧称は行者岩かというと、『大垣市名勝 金生山岩巣公園―自然と生物―』(2020年)では不動岩と行者岩が別々で写真掲載されているため、どうやら別物らしい。
同書掲載の写真を見ると、どうやら石灰岩の浸食風景が形成した岩陰空間の中をそう呼んだらしく、不動岩一帯の岩陰空間(下写真など)をそう呼んだ可能性もある。


なお、絵図Dでは「行場岩」という似た名前の掲載があり、見つけられていないが現地にも行場岩の標柱が立つ。
行場岩の名は他文献には載っておらず、名前の類似性から行者岩との混同も視野にいれたいところである。

星巖岩

現地にはひらがなで「せいがん岩」と書かれた標柱が立ち、現地でも比較的見つけやすい。
先述したとおり、絵図によっては廊下岩・くぐり岩と同じ場所のように図化されているものもあり情報が混線している。

星巖岩

加持水岩

咜枳尼天の堂入口の路傍にある。
自然の手水鉢のような形状をなし、水を湛える。
現地には「かじすい岩」の標柱が立ち、絵図Aでは「弘法大師加持水岩」とあるので弘法大師伝説が付帯した岩石とわかる。

加持水岩

愛宕社横の石祠

愛宕社の祠の向かって左に、石灰岩を寄せ集めてかまくら状の祠にした構造物がある。
内部に狐の置物や稲荷鳥居を供えていることから稲荷社と思われるが、絵図には一切登場せず標柱もないため正式な名前があるのかは不明である。

愛宕社横の石祠

そのほか、名前が伝わる岩石

『大垣市名勝 金生山岩巣公園―自然と生物―』(2020年)では、そのほかに「百足岩」という名の岩石が存在することを記すが、写真の掲載はなく他文献にも見られない名のため詳細位置は不明である。

以上のように金生山の岩石群は、時代の経過によって岩石の名前や歴史がたやすく変容し、現代人が自然石と人の歴史を後から辿る難しさを如実に教えてくれる好事例と言える。
全国各地の事例においても、現代定説化している岩石の名前がいかに危うい信頼の上に立っているかということさえ感じさせてくれる。


参考文献
  • 金生山化石研究会 編『金生山 : その文化と自然』,大垣市教育委員会,1981.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9670955 (参照 2023-10-08)
  • 篠田通弘ほか[編・撮影]『大垣市名勝 金生山岩巣公園―自然と生物―』金生山自然文化苑保存会 2020年
  • 寺院発行パンフレット
  • 「『かめ岩』濃尾平野見渡す 大垣の金生山頂上、縁起物を見に観光客増」(中日新聞Web 2022年7月9日配信記事)https://www.chunichi.co.jp/article/504433(2023年10月8日閲覧)

2023年10月3日火曜日

南宮大社の岩石信仰(岐阜県不破郡垂井町)


岐阜県不破郡垂井町宮代

 

『延喜式』神名帳に「仲山金山彦神社」と記された美濃国一宮・南宮大社では、現在、境内に次の岩石信仰の事例を確認できるが、その仔細には不明点が多い。

以下、現時点でわかっている内容をまとめておく。


引常明神磐境石



現地標柱によれば「昔の古神札に焼灰がこの下に埋められてある」という。

ではその上にある磐境石は、焼灰よりも新しく置かれたということになるのか。直下に埋めたのか、岩石の手前に埋めたのかで意味合いは異なるが、石壇の上に岩塊が置かれた様子から後代の設置はじゅうぶん想定される。

引常明神の名は『美濃国神名帳』(10世紀中ごろに成立。現在残るものは後世の改変が指摘されている)にみられるが、引常明神の正確な場所は後世にわからなくなっており、南宮大社の現地に引常明神をまつったかはあくまでも後世の比定によるものである。

磐境石についての歴史的記録は、管見のかぎりではまだ見つけられていない。


石船社



金敷金床社の背後に併祀されている岩石を石船社と呼んでいる。

南宮大社の由緒板によると「古よりこの地に座す船形石で金床に似ている事からお祀りしています」という。

この社も『美濃国神名帳』掲載の「石船明神」に比定されているが、手前に鎮まる金敷金床社も含めて江戸時代後期にはすでに一度廃社となっていたため(『新撰美濃志』)、現在の風景は近代の復興によるものである。原位置を忠実に伝えていると言えるかは不明である。


南宮大社の駐車場横にある岩石

タイトルのとおり、駐車場の横に注連縄を巻かれて、基壇の上に置かれた岩塊がある。



この岩石を知って約20年になるが、立地的にも目に入る存在ながら、ひとまずインターネット上では何の仔細も見つからない。

(情報募集中です)


子安神社の王子石、斎館の子宝石、鉱石奉納

引常明神磐境石、石船社、駐車場の岩石、いずれもまだ情報収集不足であるが、文献記録でたどれるものがない。

一方で、南宮大社の岩石信仰として複数の文献で認められたのが、南宮山頂上近くに鎮座する子安神社の王子石である。

子泰社 南宮神社裏山山上に子泰社あり、社前に黒丸石・白丸石が置かれている。王子石とも呼び、参詣者がこれを廻して男子の出生を祈る。又よき子宝を得、産が軽いと云う。いま、南宮斉館前に子宝石がある。これに祈願して手を触れると良い子が授かり安産によいと云われている。(『垂井町史 通史編』)

私は南宮山に登っていないので現在もそのような2つの丸石があるのか確認していないが、文献に記された岩石と現在存在する岩石には記録の差がみられる。


南宮斉館の子宝石についても追えていないが、現在ある南宮大社の斎館の向かい側には南宮大社の入口が面する。

駐車場の岩石を子宝石の候補とするには場所はやや離れているが、このように古く記録されていて現在は所在が明示されていない岩石と、現在存在する由来不明の岩石を追究していく必要がある場所である。


なお、2002年に私が参拝した時は、南宮大社南門の垣内で「さざれ石」と共に多数の鉱石が奉納されている風景を目にしたが、2023年に再訪した際には「さざれ石」を残すのみで、その背後にあった鉱石の奉納は姿を消している。

おそらく別場所に遷されただけと思われるが、このことからも岩石信仰の景観は数十年単位で場所も所在も記録も移ろうという儚さを体現している。

2002年撮影。鉱山・金属の神、南宮大社に相応しい光景と思ったが…

同所を2023年に撮影。さざれ石の後ろの垣に鉱石群が展示されていたが今はない。

参考文献

  • 岡田啓 著『新撰美濃志』,神谷道一,1900. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/993950 (参照 2023-10-03)
  • 垂井町史編さん委員会 編『垂井町史』通史編,垂井町,1969. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9537022 (参照 2023-10-03)