ページ

↑ からメニューを選択できます

2017年9月22日金曜日

石に暮らす~徳井いつこ『ミステリーストーン』を読む その10(終)~

――現在、日本には、鉱物の顔を見て「どこの何である」と正しく答えられる人はほとんどいない。これは鉱物学における分類学、同定学といわれる分野だが、いまや古典のジャンルとなってしまい。「鉱物をやる」といえば物性学や結晶学を意味するようになっているのだ。

岩石全般についても、同じことが言える。

私も学生時代に岩石図鑑を買ったが、それを手に、地表に現われた岩石の姿を見ても、どこの何であると自信を持って言えるようにはならなかった。

その岩石を少しスライスしただけで、まったく違う表情になる。

辞典や図鑑、机上の定義は、私の場合、目の前の岩石の前では、何の役にも立たなかった。

そんな岩石を、我が意を得たりという顔で判別・特定できる人は、まさに尊敬すべき石ぐるいの極致、か、ペテン師だ。

分類学の視点から離れて、歴史学的な視点で考えれば、現代人の分類と江戸時代の分類は異なる。
見えているものが違う。

科学的だから正しいという話とはまた別の話で。

これはどちらの分類が正しいという性質のものではなく、石をどう見るかという多様性の問題だ。

――鉱物のむずかしさは、植物や昆虫のように図鑑を片手に、単純な絵合わせでは判別できないところにある。(略)鉱物のプロたちが鉱物を見なくなり、鉱物を見るアマチュアは知識の煩雑さに阻まれて正しい情報にたどりつけないとなると、結局、ほんとうの意味で鉱物を知っている人はいなくなる。鉱物は、いわば「謎の物体」になりつつあるのだ。

徳井氏の場合は結論部から鉱物に岩石の極致を見出すのに対し、たとえば私はそこから漏れた雑色の岩石に極致を見たい(まだ見えていない)

私自身の感性を問いただしてみれば、岩石の定義を学び、岩石の領域が広がるほど、岩石は自分の心と乖離していく。
私が感じる岩石とは違う存在も岩石なのだ。

ビスケットのなかの絹雲母は、まさにそういうものである。

現代人の間でさえ、岩石の見方は異なるわけで、現代人の一人である私でさえこうなのだから、縄文時代の人の岩石の理解を推し量ることは、恐ろしくてできないはずである。

――石の体験と呼べるものがあるとすれば、現代は、それがもっとも痩せ細っている時代かもしれない。(略)ダイヤモンドの指輪は知っていても、黒いキンバレー岩に宿った朝露のような輝きを見ることができない。こうした石の産状を知っていれば、いにしえの人々が抱いた「石が植物のように生きている」というイメージも、けっして荒唐無稽でないことが理解できるだろう。

岩石が生きている存在として、本当の意味で無理なく認識されていた時代があった。

知識としてそれを理解しても、生理的に受け付けられなければ、他者理解も歴史認識もほど遠い。

歴史を語ることの重みを、岩石から感じさせられる。

本来、石の体験など、現代においてはまちがいなく、しなくても生きていられることの一つである。

岩石の朝夕の変化から、一生の中での変化まで、変化に接しられた人は岩石を生き物と感じるし、接しなかった人は岩石を死んだものと感じる。

太古、サルからヒトへ進化する時代においては、岩石に目を向ける時間が膨大にあった。
もう少し話を広げれば、当時は岩石に限らずあらゆる自然物を、事前知識なしで体感していた時代で、その体感時間は現代とは比較にならないだろう。

尾崎放哉は随筆「石」の中で、「石工の人々にためしに聞いて御覧なさい。必ず異口同音に答へるでせう。石は生きて居ります」と記した。
今思えば、これが、石に接する時間の違いがなせる境地と考えられるのである。職業病は信仰心に通じてくる。

岩石信仰が原始の時代からの遺伝子レベルでの感情であると仮定するなら、ある時期までは人々の大方の共通認識であり、ある時期からは一部の人々の趣味であり、ある時期からは部外者による学問の対象となった。
人類から遺伝子レベルの感情として継承されなくなる(なった)のは、いつからだろうか。

――この本の紙にさえ、滑石が混じっている。紙に重みと滑りをもたらすためだ。(略)どこもかしこも石だらけだ。(略)石は空にも飛んでいる。姿を変えたチタン鉄鉱だ。(略)いったい自分を運んでいるものが何であるのか、一度くらい調べてみてもよいのではないだろうか。

2017年9月17日日曜日

内部の「なぞの石神」 第1次調査

私は四日市出身ですが、34年生きてきて、地元で新たに岩石信仰の事例を知ることができました。

地元でこんな体たらくですから、全国の岩石信仰を知っているなどとは決して言えるわけもなく、死ぬまでに全貌の何分の一を知ることができるのかという、暗澹たる気持ちしか芽生えません。

日々精進ですね。


■ 調査のきっかけ


さて、新しく知った岩石信仰の場所は、四日市市の内部(うつべ)地区。

知ったきっかけはこの本でした。

うつべ町かど博物館運営委員会編『内部の史跡・旧跡案内 わが町再発見』(2013年)

この中に、1枚の古い地図が収録されていました。

内部郷土史研究会が1985年11月に作成した「内部旧跡案内図」 です。
この地図の番号5に「なぞの石神」と書かれた場所が。


「なぞの」が、とても私の関心を惹きます。特定の名前が、ないんですね。

どこにあるのか。地図を見ると・・・



5が「なぞの石神」の場所。
貝家(かいげ)という字に所在します。アバウトなイラスト風地図です。

実際の地図で見ると、山林と住宅地が入り交ざるエリアで、この地図だけでたどりつくことは不可能でしょう。
かつて、群馬県桐生市賀茂神社裏山の神籠石のアバウト地図を見た時と、まったく一緒の感情が芽生えました。


でも、この地図を掲載した『内部の史跡・旧跡案内 わが町再発見』は、2013年の新しい案内冊子。

この冊子で案内されているものと思いきや・・・、他の場所はおおむね紹介されている中で、なんと、この石神は未収録。

岩石信仰というものは、こういう運命をたどるのですね(泣)

同書によれば、1985年の「内部旧跡案内図」は、今となっては分からなくなっているものが多いため、うつべ町かど博物館が2009年に新たに現況調査をして、実際の地図上にドットを落としたそうです。

その調査の結果、「なぞの石神」がリストから漏れているということは・・・これはまずい。
石神が収録されていない理由も触れられていないため、消滅したということなのか、行方不明になっているのかなど、細かい経緯が分かりません。

市立図書館の郷土資料コーナーでひと通り関連しそうな文献を総当たりしましたが、この「なぞの石神」に関することはついにどこにも見つけることはできませんでした。

たぶん私以外、誰もこれに興味を持っていないでしょう。
なら、やるしかないか・・・。

いや、決して嫌々ではなく、モチベーションは燃え上がるわけですが、いつも思うのは、昔の文献や地図はつくづく罪深い。
もうすこ~しだけ、具体的に書いてくれれば、なくならなかったかもしれないのに・・・。
このようなケースに出会うたびに、私は反面教師にしたいと、いつも思います。

一方で、内部郷土史研究会が「なぞの石神」の一言を書いてくれていなかったら、今頃、もう地球上からこの石神の存在は完全に断絶していたかもしれません。
だから、一言でも歴史をつないだ同会には、むしろ感謝なのです。


■ うつべ町かど博物館へ行く


1985年の「内部旧跡案内図」の現況を2009年に再調査したのが、うつべ町かど博物館です。

であれば、 うつべ町かど博物館を調査の第一歩とするべきです。
さっそく伺ったところ、内部地区の歴史の古今東西を調査され『うつべ歴史覚書』を2017年6月に発表されたばかりの著者・稲垣哲郎さんにお話を聞くことができました。

『うつべ歴史覚書』は内部の最新研究であり大著。私も事前に市立図書館で読んだ本でした。
おそらく、稲垣さんは同博物館でも最も内部の歴史に詳しい方です。これ以上の出会いはないと思います。

単刀直入に伺いました。
「なぞの石神を探しているのですが、なにかご存知でしょうか?」

稲垣さんのお答えは明快なものでした。
「わからない」

「なぞの石神」は、もちろんご存知でした。
が、それが「なくなった」のか「どれのことか分からなかった」のかは、もはや遠い歴史の中。

再調査の時、貝家のことに詳しい地元の方に聞いても、その方が知らなかったので、行方不明のものとして今の史跡・旧跡リストからは省かれたとのこと。

その時の詳しい調査メモが残っているなら、穴があくまで目を通したいものですが、かなわないでしょう。

とりあえず分かったのは、なぞの石神の現況は「分からない」ということ。
「なくなった」と決まったわけでもないのが、ポイントです。

山の神や庚申の石碑と違って、石神は自然石だったのかもしれない、と思わされます。
自然石であるなら、知る人・守る人がいなければ、あっと言う間にただの石と化すからです。
字が刻んであれば、像が彫刻されていれば、守る人がいなくなっても、それが何であるかはわかるのです。
自然石信仰には、それがない。だから、意識を向けなければいけない。

そもそも、1985年当時の時点で「なぞの」と呼ばれる状態なわけですから、これは相当に記憶が埋もれていると想像できます。

■ 現地を歩く


「なぞの石神」は、「内部旧跡案内図」によれば「8 なこの坂」の西に位置。
ただし、他の番号の場所を実際の地図に落とし込むと、方向や位置関係が実際とは違うことも多いため、あまり参考にはなりません。

なこの坂が、おおよその目安となることだけは確かです。

まずは「なこの坂」を目指します。
ここは今も語り継がれている地名です。

稲垣さんに教えていただいた目印「延喜式内 日宮加冨神社」の石柱を目指します。


 写真奥に続く道が、加冨神社の表参道となっており、その途中の坂道が「なこの坂」です。


道を進むとすぐに「なこの坂」が登場。
現状、ただの坂道ですが、稲垣さんによると、近い将来に看板設置予定とも。

なこの坂を上がった西方が「なぞの石神」候補エリアです。
坂の上にかけてしばらく住宅地が広がっており、はっきり言えば、この宅地の全軒にお邪魔して1件1件お伺いできれば本件解決なのですが、それが大変なのは言うまでもありません。迷惑かけますしね。

せめて、外に出られている方にお話を聞ければと思って開始しましたが、タイミング悪く当日は台風の来襲直前。
そのためかどうかはわかりませんが、お会いできた地元の人は1名だけ。
畑で作業されていた年配の男性の方にお話を聞くことができましたが、その方はずっとこの場所に暮らしていた方ではなく、石神はもちろん、なこの坂もご存知ではありませんでした。

天気の良い日に、改めて再訪することを心に決めて、とりあえず今回はエリア内をぐるぐる歩いてみることにしました。


なこの坂を進むと、加冨神社方面に進む道があります。
住宅地が終ると、ちょっともの寂しい雰囲気に。
もちろん誰も歩いていません。

写真向かって左側の山林が未開発のようで、この山林内など気になりますが、足を踏み入れる余地はなし。


道端にゴミが散乱していますが、よく見ると、草むらの下に岩盤が露出していました。
地質的に、岩石が出やすい環境ということが推測できます。


なこの坂から10分ほど歩くと加冨神社に到着します。
高台となった丘の上に鎮座する神社です。


由緒は上写真参照。
歴史的にも集落的にも、重要な神社であることは間違いありません。
神職の方は常住されない社であり、誰もいませんでした。


高台の丘の上を一周して戻れるようになっているので、一周することにしました。
丘の山林は残っている所と開発で削られている所が混在しており、各種農園が経営されています。


広大な高台です。
石神を探すとして、どこにあるのか、まったく取りつく島がない状況。
ここから自力で特定するなど、眩暈ものです。


そもそも、自然石なのかもそうですし、一番大きい石なら石神、と特定して良いはずがありません。
石に出会うためには、石を知っている人に出会うしか正解はないのです。

主観と経験則だけで、それっぽい道に入ってみます。


岩石が固まっている場所があります。
自然に集まっているというより、人為的に一ヶ所に固めた感じです。


こういう岩石が、そこかしこに散らばっています。


畑の中に、丸石が頭を出している場所あり、印象的でした。


一朝一夕で解決する問題ではないことは十分承知しているので、これからアンテナを張りながら、また再訪するつもりです。

また、地元貝家町の方がこのページをご覧になることにも、一縷の望みをかけたいと思います。

私の勝手な類推ですが、1985年にマップにのせられた場所であるなら、貝家町のなかで最低お一人は、この石神のことを知っていると思うのです。
所有者の方ひとりだけが知っていて、隣の家の方はもう知らないという、そんな状況にあると考えています。


【2019.10.7追記】
発見しました!下記事をご覧ください。

内部の「なぞの石神」は現存した(三重県四日市市)

路傍の自然石考―東海道の夫婦石/妻夫石/妋石―




四日市市文化協会の会誌『パッション』61号(2017年9月15日発行)に、「路傍の自然石考」と題した文章を書きました。

『パッション』は、同協会ホームページで全号オンライン公開されています。

そのうち、最新号も掲載されるのではと思いますので、よろしければこちらでご覧ください。


故あって、前・後編の2回に分かれて掲載されます。

オチを次号に回すという大げさな構成ですが、1ページのミニ記事ですので、軽い気持ちで目を通していただければ助かります。


書いた動機を少しだけ。

四日市市の情報誌ですから、四日市市の自然石を取り上げて、その石の歴史に思いをはせようというのがテーマです。

四日市は地元ですが、だからこそ、四日市にはそのような石はないのではと思っていました。

ただ、この1~2年、郷土資料をざっと読んだだけでも、今のところ4例の岩石信仰の事例を数えることができました。
いつものことですが、本当に岩石信仰は身近なところに横たわっているんだなあ、ということを思わされています。


2017年9月14日木曜日

石の薬局~徳井いつこ『ミステリーストーン』を読む その9~

――実際のところ、われわれも石を食べている。ビスケットのなかには絹雲母が、薬の錠剤には粘土の一種ベントナイトが入っている。毎日食べる塩も、もとはといえば岩塩という名前の石だ。

石を粉状にすりつぶして飲むことで、病を治したりご利益を得るという信仰は、この日本にもあったし、今もそういう言い伝えを残す場所が存在する。

神奈川県横浜市保土ヶ谷区にある「釜壇の石」などがそうだろう。この石を欠いて粉末にして飲んだり、石に付いた苔を飲めば咳や風邪が治るといい、願果たしの際は酒を入れた竹筒を供えたという。

このような話は極端な例で、常人の感覚では違和感しかない話だが、徳井氏はふだん食べているものに石が含まれていることを指摘し、私たちの固定観念を揺さぶりかける。

石と認識していないものが、石である。
それは、学問的な定義による石と、常識的なイメージでの石との差と言ってしまっても良いかもしれない。

「常人」や「常識」という言葉を使ったが、しょせんそれは現代人が今つくりあげたふわふわした観念であり、50年前、100年前、1000年前の常人と常識は、現代人と対話不能なレベルだったと覚悟しておかないといけない。

「釜壇の石」が登場したとき、はたして「釜壇の石」は「石」という認識だったのか?
名前に「石」を付けた人がいるからそれは石として固定化したのであり、もともとは巨大な薬の塊だったかもしれない。

「釜壇の石」の横に落ちている小石は、粉末にして飲まなかっただろう。
同じ石でありながらこの差があるわけだから、「石」という名前が現代に放つイメージにとらわれていては危険なのである。

――宝石のなかにみとめられた治癒力は、おそらく宝石を護符とみなすことと起源を一にしているだろう。 ヨーロッパにおける「天体の力を封じこめた宝石」への限りない信仰は、科学的思考が人類の範となったあとも、ひそかな伏流水となって流れ続け、一九七〇年代のアメリカでニューエイジ・ムーブメントとなって姿を現した。

宝石が天体とつながっていて、天上界の力を借りられるという信仰は、古代バビロニアからあったという話である。

中世の錬金術師は、石には霊が宿っており、石を割り砕いて、中に入っている霊を取り出すことで、金以外の物質を金に転化することができると考えたという。

石という固いものを貫く存在だから、他のあらゆる物体の中にも浸透し、その物質の性質を錬金化できる。
石の霊とは、そういう存在だった。

この錬金術師の信仰と、天体信仰はどう絡むのか?

天体が象徴化された一片が宝石だったとするなら、天体は創造主の作った一片であるから、その中に閉じこめられたスピリットは、宝石以外の石も同様に位置づけられたのかもしれない。

欧米で火が付いたパワーストーンの概念は、日本に輸入されて久しい。
日本固有の概念ではないものの、一定層に浸透している理由を、人類の先天的な石への心性に求めるべきか、後天的な知識背景に求めるべきかは、ここでは結論を出せない根深いテーマである。

――石から何かを受けとるだけではなく、石に何かを押しつけることでも癒しは成立する。毒や痛み、イボやコブといった歓迎されざるものは、石になすりつけて捨ててしまおうという発想は古くからあった。

日本各地にイボ石と呼ばれる石がある。
イボ石という名前が付いていなくても、イボやコブ、各種病に効くという石がある。
石を直接こすり付ける場合もあれば、石をさすってから自分の体をさする場合や、石からしたたり落ちる水をつける場合など、いくつかの変型がある。

小さい石なら、なすりつけて捨ててしまう使いきりタイプもあっただろうが、大きい石もあり、半永久的に使用されたタイプもあった。
徳井氏は、こういった石を「掃除機」と表現した。ただし、次の条件付きで。

――石が厄介なのは、掃除機のように中身のゴミだけをまとめてポイッ、とはいかないところだ。病やコブはのり移ってしまった。(略)というわけで、治療に使われた石は本当に地中深くに埋められた。(略)石を容易に拾ってはいけない、という俗信は、こうした信仰にも関連していたかもしれない。

石には、私たちにはあずかり知らない経歴がある。

石に霊力を信じることができなくなった現代の私たちは、せめて、石に経歴があることを知って、石を取り扱っていきたい。

石は、掃除機と違って、中を開けて、中に入っているものを見ることができない。

石に込められている力があるのかどうか、知ることができない。

基本的に石の内部も経歴も、目に見えないものだから、得体のしれない存在として石を見る人がいることを、認めても良いだろう。

実際に、戦後日本にも石が薬として売り出されていたことを徳井氏は紹介している。

作家の寿学章子さんが、京都の老舗・鳩居堂で購入した「蛇頂石」がそれである。黒光りした楕円形の小石だが、二個入りで昭和初期50銭の価格。効能書付きである。

蚊やノミから、ムカデ、マムシ、クラゲなど、あらゆる生物に噛まれた時に効く「毒虫の薬石」といい、寿学さんは子供のころムカデにかまれると、親がこの蛇頂石をちょっと濡らして患部に貼ったそうである。
「ただちに痛みはすーっとひき、やがてポロリと石はとれる」。
使用後は、石を水につけると、石からプクプクと泡が出た。
寿学さんは、それを「ムカデの毒をはきだしている」と思った。
泡=毒。
泡が出終ると、石をふいておけば、また再使用できるという「魔法の石」だった。

実際は、この石は人工的に調製された石であったが、鳩居堂はこの蛇頂石を今は販売していない。
"科学的には"効能なしと判断されたのだろう。

寿学さんは、大人になった今でも1個だけが手元に残っていて、「これがなくなったらどうしようとノイローゼになりそう」とのことで、次のように嘆息する。

――こんないいものをなぜ現代の医学は(西洋のでも東洋のでも、何でもいい)作ってくれぬのか。科学はある点で後退しているとしか思えないではないか。

石の見えない力への信仰は、遠い昔の、現代とは無関係の話ではない。

むしろ、科学技術が発達する近代化の歴史の中でも、そのつど新たな岩石信仰は生まれた。
「貫通石」はその一例である。

――かつて鉱山はなやかなりしころ、「貫通石」なるものが流行したことがあった。坑道をつくる際、両方向から掘り始め、貫通する直前に最後の石が残る。これは安産のお守りと信じられ、鉱夫たちの垂涎の的となった。

これは、石そのものの成分や外形というより、シチュエーションがなせる業かもしれない。

ストーリーを持つ石である、ストーリーも、結局は目に見えないし経歴をたどれないから、得体のしれなさが増す。

鉱山においては、最もステータスの高い石が鉱石であることは自明のはずなのに、鉱石を採る前の掘った道の残滓に、霊的な力が求められるのだから変な話である。

鉱石自体は、産業従事者の中で宗教的存在にまではならなかったが、神格化されない石の信仰が、別にあった。
鉱石に対しては、何が信じられたか。次のとおりである。

――「成長する石」のイメージは、しばしば植物の姿を伴っていた。採掘で鉱石が減少すれば、鉱山を再び土で覆い、植物的成長にまかせれば鉱山は蘇り、以前にも増して多くの鉱石を生みだすようになるとする考えは、古くからあった。プリニウスは、実際に「再生した」というスペインの方鉛鉱の鉱山を紹介している。

岩石の植物化。

ユングに言わせれば、石と植物は面白い対比関係がある。
キリスト教世界観の中では、創造主がつくった創造物のうち、植物は場所が動くことはない、神の世界を表現する装飾物。
生物は神の意思から離れて動き回れる神の小片。
そして石は、意図や規格性を感じるものもあれば、そう感じさせないものが混在する、カオスな存在。

ユングは、そのカオスさに心惹かれ、石を愛したといわれる。

今回の「鉱石の成長」信仰は、一見、ユングの価値観とは別系統に属しているように見える。

石自体が植物化して、人の意思どおりに石が増殖するわけであるから、石はカオスでも得体のしれないものでもなく、産業従事者にとって石は従順な存在である。

石と植物は異なる位相ではなく、同じ位相の中に位置付けられたわけである。
石を管理したい人間による、新たな岩石信仰と捉えることもできるのではないか。

ガストン・バシュラールに言わせれば、石を植物の比喩で語る文学者もいたわけなので、岩石は大地を象徴するもので、自ずから大地に根ざした植物が岩石と同質化されることも、ありうるのである。

大地が不動のように見えて不動ではないように、大地の象徴である岩石も、不動性と動性の両面を持っていておかしくない。
二面性や、相反する性質を両方内包する存在であるなら、そもそもその性質自体が動的と評価でき、石の堅固性や不変性の側面に惹かれる人もいれば、石に成長性を感じとる人も出てくるのだろう。

それが、岩石信仰を一言でまとめることをできなくしている理由ではないだろうか。

――石が子どもを産む、石が鳴く、石が動く・・・・・・といった現代の科学には笑止そのものの話を、人は驚くべき執着をもって、何十世紀ものあいだつくり続けてきた。ある朝、誰かが思いついたといった類の話ではないことは明らかだ。

江戸時代の「石の長者」木内石亭は、「子産石」という奇石を所蔵していた。

丸い石だが、ときどき、小豆のように石を産むのだという。
石を産んだあと、産み穴などは子産石には空いておらず、いくつもの粒が産まれているというのに、元の母石の重さは変わっていないのだという。
石亭は、自らの目で「たしかに見ゆることなり」「奇というべし」と記している。

石亭は、奇人なのか?
(石が好きな時点で奇人というのは禁止で・・・)

彼が著した『雲根志』に掲載されたたくさんの奇石のうち、迷信が付帯している石も多く収録されているが、そのいくつかに石亭は「はたなだ信用しがたし」「下品の雑石なり」と語る冷徹な一面がある。
石を愛するがあまり、石に厳しい審美眼を持ったのだろう。

そんな石亭が、なぜ子産石には籠絡されたのか?

――これまで奇譚の類に「弄石家の尋ね需むべきことにあらず」などと冷淡を見せてきた石亭も、今度ばかりは真面目になった。なにしろ他人の体験ではない、自分が目撃したのだ。孕んでいる石のからだが透けてきて、次第に子どもの石があらわれる――。石の変化の描写を読むと、石亭はなにかの卵ととりちがえたのではないかと思えてくる。

2017年9月10日日曜日

天河大辨財天社の天石(奈良県吉野郡天川村)


奈良県吉野郡天川村坪内107

「鎮守の杜、琵琶山の磐座に辨財天が鎮まり、古より多くの歴史を有す」(社頭掲示より)

天河大辨財天社の天石

社殿は小高い丘の上に建つ。
これが琵琶山で磐座と見立てたものだろうか。

当社には「天石」と呼ばれる四つの石がある。

「この地は『四石三水八ツの杜』と言われ、四つの天から降った石、三つの湧き出る水、八つの杜に囲まれし処とされ、神域をあらわす。その内三つの天石(一つ石階段右・二つ五社殿前・三つ裏参道下行者堂左)を境内に祀る。」(社頭掲示より)

チェリーさんの「神社参拝記」によると、天石の名前は「イノコ石、玉石、ダムダ石、もう一つは不詳」 、もう一つの説として「イノコ石、ダムダ石、天石、名称不詳」という(「大峰本宮天河大弁財天社」より)。

瀬藤禎祥さんの「神奈備にようこそ」によれば、弁天橋の下に「ダムダ石」(通称ムシロ岩)があるといい(「天河大弁財天社(天河神社)」より)、ダムダ石については特定ができるが、他の石は名前と場所が一致できない。

天河大辨財天社の天石

一つ石階段右

天河大辨財天社の天石

二つ五社殿前

天河大辨財天社の天石

三つ裏参道下行者堂左

一つめ、二つめとは違い、垣や注連縄の標示がないので特定しにくい。
上写真でいうと左手前の、樹木の陰に隠れ気味の石といわれるが・・・。

天河大辨財天社の天石

上写真のとおり、行者堂の右奥側に小ぶりな三角石もあり、これも怪しいのだが、社頭掲示は「下行者堂左」とあるので、やはりこちらは違うか。

天河大辨財天社の天石

天石の四つめの場所は、社頭掲示では明示されていないが、先述のように弁天橋の下にあるダムダ石のこととされている。

弁天橋の橋の上から眺めてみた写真が下。

天河大辨財天社の天石

どれだろう?

神社ライター・宮家美樹さんによる記事「奈良の神社話その一 神が降る『天石』、四つ目の謎──天川村・天河大弁財天社」によると、「赤い欄干の弁天橋の中心辺りから上流側を見ると、水面から平たい石が顔をのぞかせているのがわかる。本来は2メートル程あるこの石こそが四つ目の天石」とのこと。

しかし、どうしてなのか、肝心の写真が掲載されていないので、照合できない。

天河大辨財天社の天石

あえて絞るなら、これが比較的平たいけれど、裏付けをとれない。

川には他にもいくつか平たい石や大きめの石があり、取り立てて目立つのがどれとも言いにくい状況。
とりあえず、 結論保留のままとしておきたい。

どなたか、この天石についてご存知の方がいらっしゃったらお教えください。


2017年9月1日金曜日

阪田山遺跡の発掘調査と現況(和歌山県西牟婁郡白浜町)


和歌山県西牟婁郡白浜町阪田1−1 白浜美術館敷地内

発掘調査報告書に記された阪田山遺跡の概要


阪田山遺跡

阪田山遺跡は、阪田山の斜面に自然露出の岩盤が広がり、その下方に岩盤を囲うかのごとく並ぶ弧状列石、そして焚火址2ヶ所、環状列石などの遺構が昭和30~31年にかけて見つかった祭祀遺跡である。
(阪田山祭祀遺跡のほか、坂田山遺跡の表記も見られる。阪田の地名は、かつて坂田の字を使ったこともあるようだ)

昭和30年当時は白浜の地で耳目を集めた場所のようであり、地元では遺跡の保存会が結成された。
当初、遺跡を顕彰する目的だったはずが、観光地の性なのか、現在では遺跡の上に歓喜神社という性神と絡めた"聖地"が新たに建てられている。

性神関係のB級スポットとしても、その筋では有名である。

阪田山遺跡

遺跡地の最上部にはこのような岩盤が露出している。
本遺跡の発掘調査報告書である、巽三郎「紀伊西牟婁郡白浜町坂田山遺跡調査概報」(1956年)によれば、当時の大阪学芸大学の鳥越憲三郎助教授はこの岩盤を、祭祀遺跡の中で「神の依り代」として機能していただろうと推測している。

阪田山遺跡

岩盤の中央部分に、このような窪みがある。
すぐ隣には隆起も見られ、セットで「陰陽神」様の彫刻として調査当時注目を浴びたようだ。
歓喜神社が建てられ、現在、性関係の観光地として知られているのも、これの存在に由来している。

報告書では、さすがに冷静な記述にとどめていることを、調査者の名誉のために紹介しておきたい。

「考古学的に現在のところでは当遺跡の様相と出土遺物との直接の関係は見出し難いし、またその彫刻というのも自然的に出来たものか、あるいは人工的なものか、議論の余地が充分ある」(報告書より)

阪田山遺跡

岩盤を覆うように歓喜神社の社殿が建てられているため、岩盤の全貌がやや掴みづらい。

阪田山遺跡

報告書で「B段」と呼ばれる、遺跡の平坦地の1つ。
鳥越憲三郎によれば、先の依代めがけて去来する神がとどまる「神の座」がこのB段であるとする。
平坦地の中央辺りから、時期不明の直径1m×厚さ15cmの黒色炭灰層が検出されており、焚火址と推測されている。

阪田山遺跡

B段には、「弧状列石」と表現された石の列がある。
とはいうものの、これらの石列は地山に接した状態で自然石が露出したものであり、発掘調査の結果では、後述する遺物包含層とは連ならない層位にあると報告されている。
列石と表現されるものの、自然物の可能性も否定できない。

阪田山遺跡

報告書で「A段」と呼ばれる平坦地。B段の下方に位置する。
平坦地ということで、鳥越憲三郎は「神の神籬」と推測しているが、この平坦地形は、隣接する町営グラウンドを築造した時、観覧スタンドとして削平したことによる平坦部分とわかっており、祭祀遺跡当時の地形ではないことに注意したい。

阪田山遺跡

上写真は、上方のB段から下方のA段に向かって撮影したところ。
A段からは、焚火址1ヶ所と環状列石遺構の発見と、地層上部に多数の礫岩が散布している。
焚火址からは古墳時代の須恵器・土師器・石製品・土錘が出土した。
この焚火址はB段の焚火址と同地層にあると推定されている。
上部の礫岩群は、遺物包含層とは異なる上の層に属すため、祭祀遺跡と直接は無関係とされている。

上写真の中央やや左にあるのが、環状列石である。

阪田山遺跡

環状列石の近景。直径1mほどの小規模な石囲いである。

この遺構は、およそTK-23からTK-43までの時期幅を持つ須恵器群の遺物包含層(先述の焚火址)のやや下部に位置し、大小の砂岩16個を直径約1mの環状に配置したものである。

環状列石の内部の土砂は、外部の漆黒褐色灰土とは明らかに区別でき、細礫が混ざった漆黒褐色土で充填されており、その内部土砂内から本遺跡出土滑石製模造品のほとんどが出土した。

さらに、その出土状態は、臼玉は配石内遺物包含層から万遍なく出土するのに対し、その他の有孔円板・剣形製品・勾玉・管玉などは包含層の上部に偏って出土するという、人為的配置性の濃いものだった。

以上の点から、この環状列石と祭祀遺物との関わりは非常に強いと言える。

特に、環状配石の内側からは臼玉約2000を含む滑石製模造品が見つかっており、外側からは翻ってほとんど見つからないという意図性がある。

この配石の内部は、祭祀具配置空間となっており、環状列石は聖域表示の機能を負った岩石祭祀遺構でであったという可能性が指摘できる。
ただ、焚火址との関連を考えれば、単なる埋納ではなく、遺物の廃棄跡としての施設だった可能性もあるだろう。

また、報告書によれば、環状列石を含めたA段は上部が削平に遭っており、列石遺構は下部のみが残存した状態での調査結果であると記されている。このため、遺構の上部構造や全貌は不明と言うほかない。

阪田山遺跡

上写真は、遺跡地最上部の岩盤から同標高を南へ進んだ場所にある露岩である。

報告書によれば、阪田山はこのような岩盤が山腹を縦走しており、断層によるものと推定されている。

祭祀遺跡としての性格と、現在の歴史的評価について


阪田山遺跡は、このような阪田山の大岩盤を、鳥越説で言うところの「神の依り代」「神の座」としてその麓に神籬を設けた祭祀遺跡だったのか。
批判説もあることに触れておかなければ公平ではない。

報告書の著者・巽三郎は、この大岩盤やB段の弧状列石は、層位的にA段の遺物包含層とつながらず、大岩盤から遺物包含層までのテラス状地形は、後世に造成されたことによるものであることを指摘している。
近くからは窯址や住居址の遺構も別に見つかっていることから、 土器の製造地における埴取りの神事としての祭祀遺跡ではなかったか、あるいは、地鎮祭的な祭祀の性格など、岩盤から離れた説も考えるべきとの意見を提示しており、傾聴に値するだろう。

ただし、個人的には「陰陽彫刻」を含む山腹の大岩盤は、山中を取り巻く断層であることから、祭祀当時から露出していたものと思われる。
陰陽の是非はともかく、岩盤が絶えず目に入る位置での祭祀であったことは、とりあえず認めていいのではないかと思う。
遺跡と岩盤の間に挿入された「弧状列石」や「平坦地」は後世の造作と考えても問題ない。

個人的な提言だが、歓喜神社を擁する白浜美術館の売店か展示室には、今回参考とした報告書の抜き刷りかコピーは常時置いておいた方がいいと思う。
事実と新たな歴史が、ないまぜになっていて、遺跡の元来の価値が、よく分からなくなってきている。
また、阪田山遺跡が見つかった時の地元の記事や保存運動の顛末も、白浜で起こった貴重な歴史的出来事であるから、話者のいるうちに記録収集をして、永久に残るように願いたい。

参考文献

  • 巽三郎1956「紀伊西牟婁郡白浜町坂田山遺跡調査概報」『古代学研究』14 古代学研究会
※概報というが、この後に正式な報告書は刊行されていないので、本遺跡の実質上唯一の報告書はこれしかない。