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2025年12月30日

石薬師寺の本尊石仏御開扉(三重県鈴鹿市)

三重県鈴鹿市石薬師町


東海道の石薬師宿の地名は石薬師寺(旧称・西福寺)に由来する。名のとおり、石の薬師を本尊とする。
縁起は以下のとおりである。

高富山石薬師寺

現地由来板

つまり、森の中で発光する自然石をまつったのが草創であり、その後、弘法大師により石肌に像刻されたという二段階の流れになっている。
自然石信仰に端を発して仏を感得したケースとして興味深い。


秘仏ではあるが、毎年12月20日のおすす払いの時に開扉されることを知り、2025年12月20日に拝観した。


写真撮影はできないので文章のみでの報告となるが、ご住職から直接案内をいただくことができた。

本堂奥だけ数段落ち込んだ空間があり、扉がすでに開いた状態で石肌が見えていた。暗がりの中、火でぼうっと灯された石仏の存在感は特筆すべきものがあった。

岩石の形状は幅広な立石状である。花崗岩ということで、全体的に白っぽい石肌には磨かれたような滑らかさがありつつ、花崗岩特有のざらざらした鉱物同士の等粒状組織も見せる。
高さ約2mとのことで、現状の床面の高さだと人の身長と同じくらいだが、かつてはもう一段床面を下げていたそうで、本尊を見上げるように拝むように設計されていた。

ご住職からは、もっと近くでご覧いただいて良いですよとお許しいただいたので、岩石と地面の接地面がどのようになっているのか注目した。
床面は砂利混じりの地面となっており、地表からそのまま岩石が屹立しているようだった。地表面に岩盤が露出している様子はなく、それは境内の本堂周辺を見るかぎりでも露岩とは無縁の地質に見えた。
(地質図上では堆積岩相となっている)

外から本堂下を観察するかぎりでは、境内はよく整備されており現状露岩地形ではない。

このように一見するかぎりでは、露岩のない場所に突如現れた異質な岩石に見えるが、縁起では金輪際(大地の底)から湧出した岩石ということで、地下に根を張る自然石としての信仰を伝えている。
仏教霊場において金輪際とつながる霊石の存在は、滋賀県石山寺、奈良県長谷寺など各地に見られる。これはそもそも、仏教書において仏菩薩の座する金剛座の地下は金輪まで続くという金輪際伝承が存在するからである。横田隆志氏『中世長谷寺の歴史と説話伝承』(和泉書院 2023年)によると、金輪際伝承の淵源はインドで4~5世紀成立とされる『阿毘達磨倶舎論』までたどれるという。


なお、境内看板では本尊石仏の写真が貼られている。ご住職によると「今は写真禁止とさせていただいている」との返答だったので、かつては写真が許容されていたのだろう。参考として掲載する。

境内看板

「平安時代後期の作」との説明が付され、いわゆる伝弘法大師の信仰ということになるが、この像容は薬師如来ではなく阿弥陀如来と考えられている。この辺りの造形評価については、石造美術の大家である川勝政太郎氏の記述を引いて結句に代えたい。

石薬師像のこの豊満な様式は平安時代後期をよくあらわすものといわざるを得ない。おおまかな衣文や面貌に女神像を思わせるものがある。まことにまれな古石仏である。ところが石仏の形相は来迎相の阿弥陀如来で、平安後期流行の仏であるが、後世里人の信仰は薬師に移って、いつか石薬師とよぶようになったのである。
川勝政太郎 著『石造美術入門 : 歴史と鑑賞』,社会思想社,1967. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2514170 (参照 2025-12-30)


2025年12月19日

加野の鏡岩(岐阜県岐阜市)

岐阜県岐阜市加野大蔵山


岐阜県指定天然記念物。チャート質の岩石が地滑りなどの地質活動によってこすれて、鏡面のような岩肌が作り出された。

交通量の多い車道脇の急斜面上にあり、入口にはフェンスが設けられ扉には鍵がかけられている。
事前に岐阜市教育委員会または所有者の方に申し出れば、鍵を貸していただいて見学できるようだ。



フェンス越しに岩盤が露出している様子は見えるが、鏡面は目視できない。

林宏「加野の鏡岩」(『鏡岩紀行』中日新聞社 2000年)によれば、鏡岩の平滑面は大きく、物をはっきり映し出すというほどではなく曇り気味なものの、鏡岩特有の輝きは依然としてあるという。
鏡岩の裾に年代不明の二基の句碑が残り、それぞれの句の内容から、岩の鏡面で髪の毛の乱れを直せるほど人の姿を映したことや、輝きを放っていたことが伝わる。

また、渡辺勝市『石ころ人生』(現代出版社 1974)によると、鏡岩の上に天狗をまつる祠があったと記されるが、鏡岩との関係性は不明である。それ以外に神聖視・信仰・祭祀を伝える記録は見当たらない。

2025年12月13日

鬼岩(岐阜県瑞浪市)

岐阜県瑞浪市日吉町西ヶ洞


12世紀末、美濃国関(現・関市)で生まれた太郎(関の太郎)は粗暴な性格につき放逐されて、この渓谷の岩屋に流れ着いた。この場所は旧東山道に面していたため、往来する旅人や周辺住民に悪事を働くようになり、関の太郎は鬼として恐れられた。

この悪評を耳にした都から討伐軍が派遣されたが、岩屋は自然の要害で苦戦した。そこで大寺山願興寺(現・御嵩町)に祈願したところ、同寺の祭日に関の太郎が現れこれを捕獲することに成功した。

斬首の段になって、太郎は「吾今法心を起し薬師如来の佛恩を受け永劫其功徳に依り衆生に仏果を得ざしめん」と述べ、これをもって太郎は悪鬼から善鬼に転じ、魔除けの信仰対象としてまつられることになった(以上「鬼人岩屋由来記」)。


民話にはバリエーションがあるため、単純に悪さをした太郎が討伐されるだけの話で終わるパターンもあるが、上記の由来記によると太郎は善鬼となっており、仏法の守護者としてまつられる存在でもある。

そのような聖なる存在が宿っていた場所が鬼岩の地であると言え、この場合は聖跡型の事例とみなすことができる。


鬼岩の渓谷は花崗岩が織りなす奇観であり、昭和9年には名称及び天然記念物に指定された。戦後は鬼岩公園として温泉街と共に観光地化が進んだが、現在は全国の地方観光地と同様にその持続化が模索されている。

岩石はそこにあり続けるが、一度、人の手が入った岩石はメンテナンスされなくなることで、将来の人々の利活用に難を残す。持続的に興味関心を持たれ続けられることを願う。


太郎岩・菜箸岩


屏風岩


潜り岩

いわゆる岩屋部分をかつては潜り岩と称したらしい。


関ノ岩屋・中ノ岩屋・鬼ノ岩屋

位置によって岩屋の名称が分かれている。


蓮華岩


展望岩


臼岩



その他、「行者岩」「俎板岩」「狙岩(俎岩?)」「たぬき岩」「双ッ岩」「烏帽子岩」「亀岩」「鋏岩」「源吾岩」「蓬莱岩」「鬼の一刀石」「御智那岩(おちないわ)」などの岩石が存在する。

この内、「鬼の一刀石」「御智那岩(おちないわ)」は2009年訪問時点の現地看板には掲載されていなかったので、近年の「鬼滅の刃の一刀石」や「落ちない岩」の影響を受けて新たに命名された岩石の可能性がある。


参考文献

  • 岐阜県 編『岐阜県史蹟名勝天然記念物調査報告書』第4回,岐阜県図書館協会,1971. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12592121 (参照 2025-12-10)
  • 鬼岩観光協会「鬼人岩屋由来記」1980年(現地看板)


2025年12月7日

岩神の飛石(群馬県前橋市)


群馬県前橋市昭和町




岩神稲荷神社の境内に存在。現地の地名「岩神」の由来とされる高さ9.47mの岩塊で、地下にも約10mにわたって埋没しているとされる。

飛石には祟り伝承が付帯する。石工が石材に用いようとノミを入れたところ、真っ赤な血が吹き出た。逃げ帰った石工は祟りのせいで後日死んでしまい、これを恐れた人々によって神としてまつられたという。

赤褐色の岩肌をもつことから血の発想を得たと思われるが、岩石から血が出るという生き物扱いをされていること、岩石自体が岩神と呼ばれ本殿に位置していること、岩石自体に意思の発動が見られることから、石神の事例として認められる。


都市部に独立して存在する巨岩であることから国指定天然記念物として古くから著名な存在であり、かつては近くの赤城山から噴出した火山岩と目されていたが、近年の理化学的調査により西の浅間山から流れ着いた安山岩と考えられている。

同時期に行われた発掘調査からは近世以降の遺物が出土し、江戸初期、前橋藩主の酒井重忠が岩神稲荷神社を勧請したといういわれと時代的に一致することになる。


これらの調査および飛石の詳細は以下の報告書にまとめられ、インターネット上で公開されている。

技研コンサル株式会社 2016 『国指定天然記念物 岩神の飛石環境整備事業報告書』前橋市教育委員会 

2025年11月30日

石谷山/ビク石山(静岡県藤枝市)


静岡県藤枝市瀬戸ノ谷


ビク石山の通称で知られるが、石谷山が正式の山名である。

標高526mを計るが、山頂近くに「市民の森」公園が整備されており、西側経由で山頂近くまで車で乗りつけることができる。


山頂一帯と東斜面を中心に、多くの岩石群が確認されている。

特に東斜面の岩石群は笹川八十八石と総称され、山頂やや下にある一巨石にビク石の名が付く。山名の由来である。

ビク石(上部)

ビク石(下部)

巨人ダイダラボッチの伝説が付帯する。悪さをしたダイダラボッチに罰として、西の国から土を採り東の国に高い山を作れと神が命じた。ダイダラボッチは籠(びく)に土を入れて運び、高い山は富士山となり、土を採られた場所は琵琶湖となった。

この時、籠から落ちた石がビク石だという話もあれば、ビク石の形状が籠に似ていることから名付けられたという話もある。


そのほか、山頂一帯には宮石・かさ石・剣ヶ石・平石・富士見石・大名石・頂上石・がま石・滝見石・夫婦岩などが存在する。

宮石

かさ石

平石

大名石

頂上石

がま石

山頂岩石群の北部には特に岩石が密集し、岩石名を同定しにくい。

さらに笹川八十八石にも、その一つ一つに名前が付いているものがある。確認できたかぎり、表石・赤石・黒石・めがね石・ふくろう石・五色石・のぞき石・こうもり石・恐竜石・なめくじ石・らくだ石・腰叩き石・象石・座禅石・なだれ石・菊石・見上げ石・鏡石の名を確認できる。

「八十八」は膨大さを表す冠名と見て良いが、その他にも名前の付いた岩石があるかもしれないし、それぞれが現地のどこに該当するかは情報不足である。


以上の点から、石谷山の岩石群はおびただしく存在し、その光景から特別視されて命名された岩石が多いものの、過去に祭祀・信仰を行なっていた記録や痕跡は確認できない。寺社も伝わらず、現在も神聖視の対象としては見受けられないこと自体が興味深い特徴である。


2025年11月23日

鳳来寺山の岩石信仰(愛知県新城市)

愛知県新城市門谷鳳来寺


大宝2年(702年)、鳳来寺が開山されたことから鳳来寺山の名で呼ばれる。

平安時代の文献に「鳳来寺」の名が登場することから、この頃から山岳仏教の霊山としてあったことは疑いない。

山中各所に岩盤が露出し、主に鳳来寺に関した岩石信仰を伝える。未訪の場所も多いので簡単に紹介する。


屏風岩/鏡岩


鳳来寺山のシンボルと言ってよい広大な岩肌。

かつては屏風岩という名称が広く用いられていたが、昭和41年、屏風岩の下から鎌倉時代の鏡や経塚関係遺物などが出土したので、それ以降は鏡岩の名前が定着したということがわかっている。歴史的には屏風岩が元来的名称ということに気をつけたい。

特段の伝承を持たない岩石だが、鳳来寺の本堂や鐘楼は屏風岩の懐に抱かれるように形成されており、明らかに鳳来寺岩石信仰の中心をなす。伝承や物語でわざわざ言語化する必要さえない存在(感)なのかもしれない。


勝岳不動


鳳来寺を開山した利修仙人が入寂した場所。巨岩の懐を聖者の墓所とする事例として数えられる。


奥の院


鳳来寺境内の最高所であり、利修仙人と薬師如来をまつる。

奥の院背後の岩崖は修行の場として使われており、山岳行場の一典型である。


龍の爪あと/鬼の爪あと


荒々しい岩肌に爪状の剥落痕が残る。

龍が天に昇る時についた爪あととも、利修仙人に仕えた鬼の爪あとともいわれる。


岩倉大明神


龍の爪あとに接して立てられた石碑に「岩倉大明神」と刻まれている。

「いわくら大明神」という神名は磐座を神格化したものか。石碑そのものを大明神として崇めるのか、背後の岩肌(龍の爪あと)を大明神と号するために建立したのかはわからない。前者なら御霊代の役割であり、後者なら標示ないし奉献物としての役割を果たす。

新城市には延喜式内社の石座神社も鎮座する地なので、「いわくら」を岩石信仰とする風土が続いてきたのはたしかである。


胎内くぐり


寄り添いあう巨岩内に形成された隙間に石仏群がまつられている。全国数多存在する胎内くぐりの事例である。


その他の事例

『三州鳳来寺山文献集成』(1978年)に収められた、鳳来寺縁起に関する最古の記録は『鳳来寺興記』となる。

慶安元年(1648年)に書かれた文献であり。ここには高座石・巫女石が登場する。仙人(おそらく履修千人)が山上で説法を行い、天から舞い降りた8人の巫女がこれを聞いたという話が収録されている。その仙人が座したのが高座石で、巫女が影向したのが巫女石という。


そのほか、名号岩・牛岩・双頭岩・双子岩・馬の背岩・天狗岩・鷹打場・鬼の味噌倉・酒倉・富士見岩・夫婦岩という岩石が記されている。

夫婦岩については、行者越道に夫婦石と石神があると『郷土』石特集号(1932年)に記されているものと同一の可能性がある。


参考文献

  • 川合重雄・河原慶一・小村正之・竹下正直・林正雄・牧野劭[編]『三州鳳来寺山文献集成』愛知県郷土資料刊行会 1978年
  • 『郷土』第2巻第1・2・3号合冊(1932年)


2025年11月16日

坂手神社の岩石祭祀事例(愛知県一宮市)

愛知県一宮市佐千原


境内に「磐境石(おぼれ石)」と「坂手大神御神石」の2つの神石が存在する。

磐境石/おぼれ石

坂手大神御神石


これらが岩石祭祀事例であることは言を俟たないが、詳細は不明点が多い。

小池昭氏の『遥かなる雲間に―尾張の神話・他―』(私家版 1992年)に唯一、本殿西南に自然石をまつるの一文が確認できるくらいで、後は現地看板に頼るしかない。
「坂手大神御神石」の看板にはこうある。

現地看板

享保2年(1717年)に建立された磐座だと具体的な年代まで記されている。おそらく地元にしか伝わっていないような情報ソースがあるのだろう。
岩石の表面には「坂手大神」の四字も刻まれ、磐座という表現よりも神号を刻んだ石碑を神の御霊代としてまつったものとみるのが正確だ。岩石の規模が小さければ、本殿内にまつる石体・神体石のような位置づけのものである。

注連縄で若干隠れているが「坂手大神」の刻字が確認できる。

残る「磐境石」には神号が刻まれておらず、先の御神石とはまた出自が異なる自然石信仰に端を発する可能性がある。
ただし、磐境石は天王社(津島社)の祠と共に基壇の上に置かれており、地中に根を張る岩盤としての信仰ではなく場所を移されても問題ない、可動的な性質の岩石としてあったようである。

「おぼれ石」という名称は、「負ばれ」(おばれる、背負う)の転訛だろうか。であれば類例も他で見られる。
「磐境石」という学問的な名のほうが歴史的な類例は少なく、「おぼれ石」という俗名のほうが元の古称かもしれない。

磐境石(おぼれ石)の背面

坂手神社は延喜式内社であるが、神社やや東が旧鎮座地であったという伝えもあり、そこは伊勢神宮の御厨の一つである佐千原御厨や元伊勢伝承地の中島宮址という伝承もある。

また、神社のすぐ北には富塚古墳という直径30mの大型円墳が残っており、このような古墳との関係を重視する向きもある(前掲書)。


2025年11月10日

夜鳴石(愛知県一宮市)


愛知県一宮市木曽川町黒田


白山神社の境内にあった石で、夜ごと丑三つ時になると泣くので、外に出したら泣きやんだ。
堀田吉雄 編著『東海の伝説』,第一法規出版,1973. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12467820 (参照 2025-11-10)

この白山神社の公式ホームページで、宮司の方が夜鳴石について興味深い話を述べているので紹介したい。

まず、夜鳴石が現在置かれている場所は白山神社の表参道の末端となる辻に当たり、この場所ではかつて左義長が行われていたことを明らかにされている。

村境の辻角であり厄神送りと目される左義長の存在から、「村境において疫神を防ぐために祈りを捧げた場所」の跡という見解を示されている。

さらに、一般的に夜泣き石は神社の中に入れられて泣き止む流れなのに、本例の夜鳴石は神社の外に出ることで泣き止むという特殊性に注目されている。

仮説として、神社境内にあったことで良からぬ出来事があって神社の外に出されたのか、古い巨石信仰に端を発するものだったのかといった可能性に触れている。

一般的な夜泣き石は神社の中に移されることで泣き止むと言えるのか、事例数を元にしたデータで見たことはなく論拠不明だが、夜泣き石境界神説については今後検討の余地がある。


2025年11月1日

石神様/おもかる石(愛知県津島市)

愛知県津島市今市場町1丁目


津島神社境外摂社の大土社の社殿裏に、石垣に突き出た形で基壇が用意されその上に岩石が置かれている。

石棒状と形容するには短寸であり、本来何を志向した形なのかは一考の余地がある。




津島市の観光案内などでは「大土社の石神様」と紹介されることが多いようだ。

しかし、大土社は石神様の現所在地を指すにすぎず、歴史的にはもともと少し離れた辻沿いにあり、「石神社」として一座の社扱いだった。

明治43年(1910年)の津島の大火により社地焼失してから、大土社に石神様のみ移設されたという流れらしい。

このあたりの沿革について最もまとまった記録として、子宝信仰の事例を医療の観点から取り上げた『愛知県医事風土記』(1971年)を引きたい。ここでは「石の陽物」と題して紹介されている。

大土社背面にあって、明治四十三年、辻(現在、市道元標あり)の大火までは辻東側の石神社のかこいの中にあったという。辻は名古屋から津島への東西の道路と津島北口から佐屋、桑名への南北の道路との交差点で、古くから道祖神が祭ってある。道祖神が陽物をシンボライズしていることは諸国の例から考えても珍らしいことではないが尾張地方には珍らしいというので、民俗学に興味のある人々が時々来訪し、寸法を測ったり写真を撮ったりして行く。子のない人が妊娠を祈り、また良縁があるように祈る人があるという。

『愛知県医事風土記』,愛知県医師会,1971. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12644342 (参照 2025-10-30)

なお、愛知県が運営するサイト「Aichi Now」の紹介文には、「おもかる石」の別称も挙げており、石を持ちあげてその重さでご利益を占う祭祀も付帯している。運試しをしてはいかがと同サイトでは推奨しているが、岩石の大きさとしては今後の保存が不安になるほどである。前掲文献では、かつては石神社のかこいの中にあったというから、その頃におもかる石の祭祀があったのかには疑問もある。

また、「NPO法人 まちづくり津島」のサイトには「旧石神社跡地にも陽石が置かれています」との興味深い一文が見られる。旧社地とは、現・大土社から西約400mに鎮座する秋葉神社(境内に大土社の祠がある)の辺りではないかと思料したが、秋葉神社およびその手前の道沿いには確認できなかった。他の場所かもしれない。

秋葉神社(津島市橋詰町2丁目)。写真右が大土社の祠。

2025年10月27日

三ッ石/三つ石(愛知県津島市)

愛知県津島市神明町 津島神社境内




直径二メートル、一.四メートル、三メートル短径一メートル前後の滑らかな硬砂岩の自然石三個が、境内に巴状に置き並べられています。この三つ石は「尾張名所図会」の神社境内図にもほぼ現在の位置に描かれています。津島神社は欽明天皇元年(五四〇)にここ居森の地に鎮座したと伝承されており、古代祭礼の場としての磐境と考えられることから、神社の鎮座と何らかの関わりがあるのかもしれません。
(現地看板より)

『尾張名所図会』の該当の絵図を下に掲載する。

岡田啓 ほか『尾張名所図会 7巻』[7],菱屋久兵衛[ほか],弘化1 [1844]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13589305 (参照 2025-10-27) 58コマ。インターネット公開(保護期間満了)資料で転載自由のため掲載。

3個または4個にも見えるが岩石が描かれている。
細かいことだが、「三つ石」ではなく「三ッ石」の表記であるため、歴史学的には本来的な名称として「三ッ石」を優先したほうが良い。
現地看板が記すように、たしかに本文には三ッ石の記述はなかった。絵図上だけの存在である。これは、三ッ石の伝承が当時すでに失われていて何も書けなかったのか、枝葉末節の存在のため省略されたのだろうか。


江戸後期から流行った各種名所図会において、絵図上には岩石名が注記されながらも文中では言及されない存在は他例でも見られる。
たとえば同じ尾張名所図会の例であれば、尾張本宮山には鷲岩穴明神社がまつられていて絵図上にも岩穴が描かれるが、神社の紹介に終始して岩石の説明はない。
だが、同時代の『尾張志』には、鷲岩穴明神社と共に別頁に鷲洞の名で登場し、巨石に穴が1つ開いているが人が入るには難しく、穴の深さは知れずと記され同一のものとされる。
一つの文献に記されなくても、別の文献には情報が記されるということは当然起こりうる。

このように、文献に記述がないからと言ってそれが当時すでに由来不詳だったと言い切れる証拠にはない。
三ッ石がどうだったかは、一つの文献からどうこう断言できず不明瞭とみなすのが適切な理解であり、ましてや「磐境」説は一つの可能性としてとどめて独り歩きに注意しなければならない。

あらゆる情報は記憶・記録となるから、それらが後代に忠実に伝存することが望まれる。本記事もそうありたいと思って書いた。三ッ石はこのことを教訓として教えてくれる。

2025年10月20日

白雲神社の薬師石(京都府京都市)

京都府京都市上京区 京都御苑内 白雲神社境内


現地看板によると「御所のへそ石」(京のへそ石は一般的に六角堂のそれが有名)の異名をもち、撫で石としての霊験を伝える。薬師の名もこれに縁するものかもしれない。岩石の前面の凹凸を人面と形容するのも、薬師の顕現の表れということか。

白雲神社の社殿背後に存在。玉垣は岩石を囲わず手前の供花台と板石の部分を覆うのも独特である。

写真中央の岩肌に凹凸の陰影の深い部分があり、これを人面に準えたものか。

側面から撮影。岩石の基部には、岩盤に石を噛ませているようである。

現地看板

看板では古くからの磐座と記すが、歴史的にはどのような存在だったのだろう。

白雲神社は京都御所の中にあり、元々は西園寺家が個人的にまつる妙音堂だった。その由縁から「西園寺の妙音天」という呼ばれ方が元来的で、明治時代になって西園寺家が東京へ移ってから祭祀を存続するために白雲神社として神社に改称した。

薬師石の来歴を文献からたどるのは難しい。1996年発刊の下記文献に、境内に薬師石がみられるの一文を確認できたくらいである。

文献に記されていなくても、このように私的な祭祀の場の場合、公刊化されていない私文書や口伝において信仰が継続されていた可能性もある。その点で白雲神社自身が文章化した現地看板に勝る内容はない。


参考文献
  • 現地看板
  • 石原康夫「京都白雲神社記」『私考弁才天記』第3巻,石原康夫,1996.1. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13223711 (参照 2025-10-20)

2025年10月16日

安井金比羅宮の縁切り縁結び碑(京都府京都市)


京都府京都市東山区下弁天町

縁切り縁結び碑

穴をくぐる

大量のお札(形代)に覆い尽くされていてわかりにくいが、岩石に開いた穴をくぐることで悪縁を切り、また、良縁を結ぶことで有名である。

訪問時は穴をくぐろうと人が行列をなしていてどうしても顔が映るため、見えないように加工して掲載した。


安井金比羅宮の縁切り縁結び碑のことを初めて知ったのは、京都新聞1999年7月1日付の「岩石と語らう」コーナーでの特集だった。

「碑」で「いし」と読むので、「縁切り縁結び石」の表記でも見かける。


歴史的にはいつから存在する岩石か。

下記文献に明記されていた。

安井金比羅宮に新名所

安井金比羅宮は1月に夫婦和合を干支で表した干支回縁碑を建立したのをはじめ5月には縁切り、縁結び石の建立、7月には朱傘の灯籠が建立された。これは「境内を憩いと信仰の場に」との宮司の願いで建立されたもの。

『京都年鑑』1981年版,夕刊京都新聞社,1980.11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9570356 (参照 2025-10-16)

こちらには「縁切り、縁結び石」として紹介され、1980年5月に設けられた岩石であることがわかる。

現代の岩石信仰の事例であり、岩石に穴を開けてくぐる同種の祭祀が他にも見られるので参考になる。