2024年5月6日月曜日

下部の牛石(山梨県南巨摩郡身延町)


山梨県南巨摩郡身延町下部



下部温泉郷から湯之奥集落へ通じる道中にある。

現在は手入れが行き届いていない様子にみえるが、鳥居右手には下部の名所を巡るスタンプラリーの記念スタンプが収納されたボックスがまだ残っていた。かつての下部温泉観光のよすがを感じとれる。

現地看板には牛石の由来が記されているものの、墨書が消えかかっている箇所が多く極僅かしか読み取ることができない。

いわく、「下部温泉には古くから五石と云って有名な五ツの石が有ります。牛石もその五石の中の一ツであります(以下、判読難)」らしいが、他の四石がどこの何であるかは不明である。

現地看板

『下部町誌』(1981年)に牛石の伝説が採録されており、同書によれば武田信玄が自慢の愛牛に乗って金山の様子を巡検中、その牛が突如暴れ出して信玄を振り落としたうえで路傍の大石に激突して死んだ。牛を引いていた従者も自責の念に駆られてその場で自害。起きてしまったことはしかたなく、このようなことで家臣を失った信玄は哀れに思い従者と愛牛を大石の傍らに葬った。この逸話から大石を牛石と呼ぶようになったという。

本伝説を踏まえると、牛石がたとえば牛の石化し神格化した存在ではないことはわかる。

牛石 近景
牛石の手前には力石のような岩石も添えられている。


それでは現在、牛石の手前に祠や鳥居でまつられていることをどのように受け止めればいいか。

これは一種の弔いや鎮魂祭祀としての形であり、その点では従者と愛牛は祠の中で神霊と化している。村落にとっての祖霊ではないが、死者の魂安らかならんとする聖地であり、その祭祀の可視化されたものとして神社祭祀の諸設備が設けられたものと解される。

あるいは、牛石を通して信玄公の遺徳を顕彰する場としても機能するのかもしれない。

そして、時代を経るうちに牛石はこれらの「神々」を祭神とする社にいたり、今は道行く人々が(詳しい由来を知らなくても)各種祈願を行う場としても機能しているに違いない。


なお、町誌には他に犬石(古関)、たかあげまこ岩(高萩の地名)、大明神の大岩(桑木山ろく)、大けやき下の水神様の岩(上之平)、七尋岩(栃代山)、お春岩(川向)、権現滝の馬の足あと岩(清沢)、太郎石(紙谷橋の下)、お駒の寝床(反木川旧道)などの、自然石に関する伝説地が紹介されている。詳細の位置は記述から読み取れないものが多いが、これらの中のいずれかが「下部の五石」の可能性もある。


参考文献

  • 下部町誌編纂委員会[編]『下部町誌』 下部町役場 1981年

2024年4月29日月曜日

談山神社の岩石信仰(奈良県桜井市)


奈良県桜井市多武峰


竜ヶ谷の竜神社

竜ヶ谷からは、寺川(大和川と合流して大阪湾に入る)の源流の一つとなる湧水が清らかな流れとなり、また滝となってひときわ神秘的な音楽をかなでている。巨大な岩が露出し、その上には竜神社が祭られている。当地の古代信仰の原始の姿を残す磐座で、祭りの場所となったところだ。(長岡千尋『大和多武峰紀行:談山神社の歴史と文学散歩』1998年)

著者の長岡千尋氏は談山神社宮司であり、神社の公式見解として重要な記述である。

本書の位置づけは紀行文であり長岡氏自身が記すとおり、単に歴史的事実のみ並べるものでなく資料の紙背を読んで人の心の中の歴史をも縁起的事実とみなすが、基本的には学術的見地に立って著されている。

その本書において、談山神社における岩石信仰・磐座として明記されたものが竜神社のみという「事実」は、本書上梓時の長岡氏のフィルターを通してではあるが、現在の談山神社の磐座のありかたとは様相が異なり興味深い。

(現地では龍ヶ谷・龍神社の表記)

竜神社

滝と同化した露岩を磐座とみなしたもの。社祠底部にも岩石が据えられている。

竜ヶ谷


龍珠の岩座と多武峰縁起

「龍珠の岩座」が『多武峯縁起』に記されているかのように現地看板にあるが、同縁起の該当記述を読むと「堂東大樹邊。異光時時現。」とあるだけで、岩座を含めた岩石の存在は明記されていない。

堂東の大樹の辺りという位置関係から推測、あるいは口伝によるものかもしれないが、先の長岡氏前掲書を加味して批判的にとらえたい。


むすびの岩座


情報収集不足のため由来不明。


厄割り石と厄捨て石

厄割り石

厄捨て石

談山神社では境内の東西に分かれて厄割り石(東殿前)と厄捨て石(総社脇)の2つの岩石が存在する。

名称が微妙に異なるが祭祀内容は同一である。なぜ二か所に分かれることになったのかその経緯が気になる。


参考文献

  • 長岡千尋『大和多武峰紀行:談山神社の歴史と文学散歩』談山神社 1998年
  • 塙保己一 編『群書類従』第拾六輯,経済雑誌社,明治27. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1879797 (参照 2024-04-29)

2024年4月22日月曜日

嶽の立石群 ~嶽の立石 蛇はみの蛇石 こけて鼻うつ唐戸の寝石~(奈良県宇陀市)


奈良県宇陀市榛原内牧嶽山

 

「嶽の立石 蛇はみの蛇石 こけて鼻うつ唐戸の寝石(だけのたていし じゃはみのじゃいし こけてはなうつからとのねいし)」の里謡で地元で親しまれたという奇石群。

同じ山中に嶽神社が鎮座するが、それぞれの奇石と嶽神社の直接の関係は明らかでなく、現状として神聖視の対象というよりは特別視の範疇にある。

現在は内牧区民の森としてハイキングコースが整備され、近くまで駐車可能である。しかし現地に地図の案内はないので、麓から順にアクセス方法を紹介する。


カラトの寝石/唐戸石

冒頭のGoogleマップに示すとおり、区民の森へ南下する途中で二股路になる。二股の分岐に「カラトの寝石 0.4km」と標識が立っているので、分岐の向かって左をそのまま進む。

左の車道の終点へ着くと、カラトの寝石が東に見える。

明確な駐車場はないが、終点付近に駐車スペースが多少あるので、通行の邪魔にならないように端に寄せれば普通車も駐車可能である。

カラトの寝石が現在の通り名だが、かつては唐戸石の名もあった様子である。



嶽の立石

一般に嶽太郎・嶽次郎・嶽三郎と呼ばれる3つの立石を総称して「嶽の立石」と呼ぶ。

アクセスには区民の森の駐車場を利用できる。

ただし区民の森に至る車道(林道内牧カラト線)は採石場の作業道と共用しており、ダンプカーが頻繁に行きかう(平日の場合。土日は不明)。この車道の離合箇所は少なく、ダンプが近づいていることを事前に知るすべがないため鉢合わせすると場所によってかなり難渋する。

ダンプカーの運転手さんは相当このことに慣れていると思われ、すれ違い時のアシストをできるかぎりしてくれるが、車道始点に「地元車両優先」とあるとおり、迷惑のかからないように通行したい。

区民の森に入ると、1つ目(右側駐車場)と2つ目(左側駐車場)と3つ目(左側駐車場)の3ヶ所の駐車場に大きく分かれている。

1つ目を飛ばして2つ目の駐車場に停めればそこが嶽次郎・嶽三郎の取りつき口となる。

長男的存在の嶽太郎が最初に出てこず不安になるが、太郎は3つ目の駐車場が取りつき口である。このあたりが現地案内になく、私は嶽三郎を見落とした。おそらく嶽次郎の立石からさらに北に続く道を下ったところにあるものと思われる。そこから嶽太郎やカラトの寝石まで周遊できる登山路が整備されているらしいが未確認である。

2つ目の駐車場。この表示もわかりにくいが、嶽次郎・嶽三郎のための駐車場である。嶽太郎はここからさらに奥の駐車場まで進む。

2つ目の駐車場からやや下ると嶽次郎。その先に嶽三郎があるという表示がなく引き返してしまった。

3つ目の駐車場の様子。ここが嶽太郎の駐車場である。

嶽太郎


蛇石(じゃいし)

区民の森を走る車道をそのまま奥まで走らせてよい。車道の終点は路肩に数台駐車できるようにスペースが広がっており、そこに駐車可能である。

車道終点向かって左に蛇石を示す標識があり、踏み跡を進めばすぐ蛇石がみえる。岩石の傍に蛇石であることを示す表示もあるので見落とすことはないだろう。

車道終点。写真左に蛇石の標識が見える。

蛇石。写真右手前に建つ標柱にも書いてある。

別方向から撮影。

以上、一番親切な嶽の立石のアクセス案内を目指して書きました。参考にしてください。


参考文献

  • 内牧地域まちづくり協議会「内牧地域の名所旧跡(神社・仏閣編)」(2018年)https://www.city.uda.nara.jp/s-suishin/machidukuri-kyougikai/documents/2018uchimaki-zinja-tera3mb.pdf
  • 『奈良縣宇陀郡史料』,奈良県宇陀郡,1917.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1900771 (参照 2024-04-22)
  • 皇祖聖蹟莵田高城顕彰会 編『神武天皇建国聖地内牧考』,皇祖聖蹟莵田高城顕彰会,昭和14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1023590 (参照 2024-04-22)


2024年4月21日日曜日

「神定の磐境」と呼ばれた岩石群(奈良県宇陀市)


奈良県宇陀市榛原高井字神定 伊豆神社

 

伊豆神社(高井)

高井鎮座の伊豆神社の地名を神定(かんじょう)といい、伊豆神社の裏山、北西の2か所に「磐境」と名付けられた岩石群が報告されている。

ただし、この「磐境」呼称は明治時代~戦前のいわゆる神籠石論争を経由して生まれた近代用語としての磐境であることに注意が必要である。

それ以前から呼ばれていた名称はないらしいので、本記事でも「磐境」で仮称しておく。

裏山の「磐境」

社殿後方なるは短径三四間、長径十余間の楕円形に、ストーンサークルとして並べられている。中央部にあった数個の石は心なき人によって搬出せられ、其の所在の痕跡をのみ存している。山の中腹を匐ひて廻らされてゐた外廊の環状の一部も近年まで存在してゐたが、漸次破壊せらるるに至ったのは遺憾とする所である。(皇祖聖蹟莵田高城顕彰会 1939年)

以上の記述であるため、現在みられる岩石の状態は原風景でないということになる。

伊豆神社の境内からそのまま裏山に登るのは難しいため、裏山の東を走る伊勢本街道から取りつくことにした。

街道から細い踏み跡が裏山に続いており、その踏み跡沿いにいくつかの岩石の群れを確認することができる。

伊豆神社裏山にみられる岩石群。現時点で環状かというと疑問符がつく。

腰より下の岩石のため草葉に半ば埋もれている。


北西の「磐境」

矢谷川に臨む突端の磐境も環状の半は残されてゐたが、最近その下方に、弘法大師石像を祀られるに際し基壇として上方より磐境の石を転落して之に用ひられ爲にいたく損傷せらるるに至った。然るに近時学童が残れる一部の巨石の底部から打製サヌカイト石斧三個及び三十数個のサヌカイト破片の一所に埋蔵せられてあったのを掘出した事実がある(皇祖聖蹟莵田高城顕彰会 1939年)

伊豆神社の北西側の尾根突端はたしかに矢谷川に接しているが、弘法大師像の場所も含めて現地ではよくわからなかった。

伊豆神社と境内を同じくする眞楽寺に弘法大師石像は見当たらず。

伊豆神社・眞楽寺境内にはこのように岩石が寄せられているがその沿革は不明。

岩石の下からサヌカイトの石斧とサヌカイト片がひと固まりに出土したという話は興味深いが、石器と剥片をもって祭祀の磐境と直結することはできず、生活の跡としての岩石の用途を越えるものとはなっていない。


参考文献

  • 皇祖聖蹟莵田高城顕彰会 編『神武天皇建国聖地内牧考』,皇祖聖蹟莵田高城顕彰会,昭和14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1023590 (参照 2024-04-01)

2024年4月14日日曜日

近況報告

昨年末から今春にかけて発表された各種成果をお知らせします。

これで数年来の取り組みの大方は出尽くしましたので、またしばらくはインプット作業に専念します。

それまでは下記の成果物をご覧いただけましたら幸甚です。


2023年12月

「愛知県北設楽郡設楽町(旧名倉村域)における自然石の文化財」を『地質と文化』第6巻第2号で発表しました。

地域調査の報告書ですが、自然石文化の取扱説明書としてお読みいただくことができます。

下のpdfで全文公開されています。

https://drive.google.com/file/d/1Fq9Rl8UfF6xiVf3Mf0JoJkxajNBiBxov/view?usp=sharing


2024年2月

「失われし岩石・巨石信仰。畏れと期待、その世界観とは。吉川宗明氏インタビュー」が、webメディア「Less is More. 」で掲載されました。

私および岩石信仰の世界を知っていただける、名刺代わりの文章となりました。

下のリンクからどうぞ。

https://note-infomart.jp/n/n2717b9684e42


2024年3月

「岩石信仰研究の視点」が、京都大学学術出版会刊『変動帯の文化地質学』に収録されました。

論文の体裁ではありますが、書籍の刊行意図に合わせて内容は概要的なまとめと後学への問題提起を主としています。

数年間はこの手の文を書く予定がないので、遺言めいたメッセージを込めました。

購入は下記の出版社HPや当HPのカタログからどうぞ。

https://www.kyoto-up.or.jp/books/9784814005161.html


2024年3月

平凡社刊『最新 地学事典』の「磐座」の項目を執筆しました。

150字程度のものですが、バランスの取れた磐座の意味を後世に残すことができました。

磐座の意味として参照されていくことを願います。

購入は下記の出版社HPや当HPのカタログからどうぞ。

https://www.heibonsha.co.jp/book/b640570.html


2024年3月

「愛知県設楽町における岩石信仰の地質学的検証」を『大谷大学真宗総合研究所研究紀要』第41号で発表しました。

地質学者の鈴木寿志氏との共著です。地質学的見地はすべて鈴木先生によるもので、私は本論を岩石信仰の学史の中に位置付けるところを負いました。

あの巨石は人工物で巨石文化の遺産――などの言説に出会ったら、本論文を使って釘を刺していただければ幸いです。

pdfで全文公開されています。

https://otani.repo.nii.ac.jp/records/2000162


2024年4月1日月曜日

白岩神社と摩尼山(奈良県宇陀市)


奈良県宇陀市榛原赤埴


当地を治めた赤埴氏所蔵『赤埴白岩社記』(明治‐大正編集・成立の『大和志料』に登場)に白岩神社の由来が記される。このあたりは逵日出典氏の説明が簡便なので下に引く。

室生山の岩窟(後に龍の思想と結合し、龍神・龍王の住む龍穴と呼ばれるようになり、龍穴信仰の対象となる)には、須勢理姫命が入り、巨岩でその口を塞ぎ、更に赤埴土を以って塗りこめ、鎮座していたという。(略)須勢理姫命は最初に鎮まった室生山の岩窟から、延暦九年(七九〇)赤埴の地白岩に遷座し、赤埴白岩神社となったという。この地は赤埴と称し、大平山の尾根が東に延びた摩尼山光明ヶ岳の西南麓に当る。後に仏隆寺の建立を見るが、白岩神社はこの仏隆寺の右に隣接して存在する。延暦九年に遷座したというのは、奈良朝最末期に室生山寺が創建され、やや遅れて龍穴神を祀るための龍穴神社社殿が出現することによると考えられる。(逵 1967年)


室生寺・室生龍穴神社との密接な関係が論じられる。

赤埴の地と室生の地は唐戸峠を挟んだ隣地と言え、地理的にも室生という一大聖地の影響下にあったことは疑いない。

『榛原町史』の調査によると、白岩神社祭神・須勢理姫命については元の祭神ではなく、明治4年に日本神話掲載の神から当時の人が理由なく決めたものであると記されている。

『赤埴白岩社記』そして『大和志料』が編まれた時代を加味して、近世の復古思想がすでにある程度反映されていると考える必要がある(西田 1967年)。


それ以前の祭神は、仏隆寺の鎮守として室生寺でもまつられた善如竜王を勧請した説が濃厚であるが、室生寺の宗教的影響とは別系統で、白岩神社の社名ならびに地名の元となった「白岩」の存在にも言及しないとならない。

この「白岩」は大きく2つの存在に分けられる。1つ目は白岩神社裏山に広がる岩壁である。

寺の東にある白岩神社は摩尼山の白岩(石英安山岩の露出部分)を御神体としたもので社殿は新しい。(『史迹と美術』 1957年)

摩尼山光明ヶ岳の白岩を白岩神社の御神体とみなす記述である。この岩壁は現在も山麓から望むことができる広大なもので、人々の入植以前からこの地に存在し、この地に住んだ人々から視認された存在であったと思われる。

大場磐雄氏は当地を訪れて、以下の所見を記録している。

赤埴に到り、仏隆寺に入る。ここは白岩神社と境内を接し、相並び立てり。なお同社の背後の山上に白岩と称する巨巌あり。名の如く白色を呈して盤居せり。恐らく本社は右の巨石信仰より起りしものならん。なお仏隆寺に存する堅恵上人の縁起絵巻にも、上人が白岩に於いて霊を感得せられし記事あり。(大場 1938年10月30日日記より)

岩壁の名前が白岩で、佛隆寺の縁起にも登場する聖なる岩石であったことがわかる。

麓から望む摩尼山。白岩神社境内からは見えない。

岩壁の近景

摩尼山の岩壁は自然信仰としての白岩であるが、白岩神社背後に2つ目の白岩の存在がある。

大字赤埴鎮座白岩神社は、元現在社殿の東方巨大なる岩壁を信仰した巨石崇拝の神社であったと考へられるが、現社殿の南方佛隆寺観音堂の後方の傾斜地から巨巖のある山中に及んでストーンサークルの配列を認められる(皇祖聖蹟莵田高城顕彰会 1939年)

白岩神社境内。写真左奥の岩窟は佛隆寺開祖の堅恵が入定したとされる。

神社境内の奥の山林をのぞくと、白岩の一部が見える。

近景。ストーンサークルがこれのことを指すかなどは不明。

この「ストーンサークル」であるが、実際に人為物であるかどうかは批判的に受け止めなければならない。

現在は冬季でも樹林の繁茂が激しく白岩はごく一部しか見えないが、かつて撮影された写真(下のXポスト)を見るかぎりでは、こちらも白岩神社背後という近さから考えて、摩尼山の岩壁と併せてなぜここに神社が設けられたのかという立地要因の選定に関わる存在として注目したほうが良いだろう。



参考文献

  • 逵日出典「辛嶋氏系八幡神顕現伝承に見る大和神幸」『神道及び神道史』(4),國學院大學神道史學會,1967-09. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2274571 (参照 2024-04-01)
  • 榛原町史編集委員会 編『榛原町史』,榛原町,1959. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3015347 (参照 2024-04-01)
  • 西田長男「室生寺の開基――東寺観智院本『宀一山年分度者奏状』の紹介によせて(二) 」『神道及び神道史』(4),國學院大學神道史學會,1967-09. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2274571 (参照 2024-04-01)
  • 『史迹と美術』27(7)(275),史迹美術同攷会,1957-08. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/6067160 (参照 2024-04-01)
  • 森貞次郎(解説)・大場磐雄(著)『記録―考古学史 楽石雑筆(下)』(大場磐雄著作集第6巻)雄山閣出版 1977年
  • 皇祖聖蹟莵田高城顕彰会 編『神武天皇建国聖地内牧考』,皇祖聖蹟莵田高城顕彰会,昭和14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1023590 (参照 2024-04-01)

 

2024年3月24日日曜日

市岐嶋神社の「ストーンサークル」(奈良県宇陀市)


奈良県宇陀市榛原檜牧 字神田(高星)


『榛原町史』には「市杵島神社 檜牧字神田に鎮座。厳島神社ともいう。祭神、市杵島比売命、境内地三百六十九坪、例祭は八月廿三日というの外知る由もない。」と簡潔に記されるのみの神社である。

竹野(1937年)は社殿周囲に「完全なるストーンサークル」が遺存していると記す。近年、炭竈を築くために西方の一部が破壊されたともある。

市岐嶋神社

社殿の後ろには特に岩石は見られない。

境内の東方を中心に「遺存」している。

列石というより石垣状の石敷を見せて、環状列石の構築とは様相を異にする。

境内地において不要となった採石を一か所に集めた感もあるが、ひとまず東方以外に岩石群は認められず現状として「サークル(環状)」ではない。


参考文献

  • 榛原町史編集委員会 編『榛原町史』,榛原町,1959. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3015347 (参照 2024-03-24)
  • 竹野次郎『奈良県宇陀郡内牧村に於ける皇租神武天皇御聖蹟考』 皇租聖蹟菟田高城顕彰会 1937年


2024年3月23日土曜日

大将軍山の大山祇神社旧地(奈良県宇陀市)


奈良県宇陀市榛原高井字椿尾垣内 大将軍山


大将軍山の概要

宇陀榛原の高井は旧内牧村の村役場が置かれた中心地である。

この高井集落を覆うように北に高井岳・大平山などの山並みが東西に連なる。山名として著名なのは地理院地図にも記載される大平山だが、その大平山のすぐ西隣の一峰をかつて大将軍山と呼んだことは今あまり知られていない。

大将軍の名は元禄16年(1703年)の検地水帳で確認できるといい(竹野 1937年)、地元の人々は「ダイジョウゴン」「ダイジングウ」の通称で大将軍山中腹の岩群をまつった。

その後、明治時代に神仏分離が進む中で、小林某という神職者が祭神不詳は面白からずとして社名を大将軍から大山祇神社に改め、大山祇命を祭神に据えたといわれている。

さらに明治41年(1908年)、神社合祀の流れにより大山祇神社は高井字神定の伊豆神社に合祀された。合祀後、凶事が続発したことから地元では神社復興の声も挙がったというが、現状として大将軍の地に社はなく伊豆神社に合祀されたままとなっている。

しかし、皇紀2600年事業により当地が神武天皇聖蹟の一つ「大労餐の庭」に関する地に擬せられ、社地に石段や石灯籠などの諸設備が整備されたことが現地に残る昭和17年銘の灯籠や石碑の存在から垣間見える。

探訪時も岩群前の石壇上に供物の跡が残り、おそらくは地元で護持しつづける方がいらっしゃるものと思われる。

以上のことから大将軍が歴史的に本来的な名称と判断されるが、大将軍が陰陽道の大将軍神に由来するものか、他の由来に基づくものかは不明である。


岩群の詳細

皇祖聖蹟莵田高城顕彰会の『神武天皇建国聖地内牧考』(1939年)でこの岩群の詳細が報告されているので、同書の記述に沿って現地を照応させたい。


大山祇神社旧地の岩窟

高さ十尺六寸(約3m)、巾六尺四寸(約2m)の巨岩を向って右の柱とし、高さ四尺五寸(約1.3m)、巾五尺五寸(約1.7m)の岩を向って左の柱とし其の上に長さ十三尺(約4m弱)、厚さ二尺(約60㎝)、巾七尺四寸(約2.2m)の岩及び長さ七尺三寸(約2.2m)、厚さ六尺(約1.8m)、長さ七尺六寸(約2.3m)、巾四尺八寸(約1.5m)の、二個の巨岩を天井として載ける自然に成れるものと思はるる岩窟状の磐座にして、両柱の間四尺七寸(約1.4m)其の間に長さ三尺(約90㎝)の石を挟み女性の性器を象れるが如き形態をなしてゐる。 ※メートル法表記部分は吉川追記

大山祇神社旧地(基壇部)

大山祇神社旧地(正面から)

大山祇神社の「岩窟」部分。

「岩窟」前の供物跡。元はここに社祠があったものと推測される。

「岩窟」の上方にも岩群が続く。

「岩窟」頂部の岩石(斜面上方より撮影)

「岩窟」は南面している(斜面上方より撮影)

大山祇神社旧地に残る石造物銘。元文4年(1739年)から、明治41年の合祀後も整備が続いたことがわかる。

前掲書『神武天皇建国聖地内牧考』(1939年)によれば石質は英雲安山岩とのことである。

「岩窟」と形容されてはいるが、洞窟としての空間は閉塞しており存在せず、これが人為的に閉塞したものか、陰石を志向したものかなどは不明である。


上方の巨岩群

稍南方によってニ三十間(約40~50m)上方の絶壁中に、高さ二十二尺(約6.5m)周囲約十五六尺(約4.5~5m)の男根に髣髴たる巨岩が聳立してゐる。其の上方十余間(約20m)の位置には、横三尺(約90㎝)、高二尺五寸(約75㎝)、奥行五尺(約1.5m)の三個の石の上に横九尺(約2.7m)、奥行五尺(約1.5m)、高二尺五寸(約75㎝)及横六尺(約1.8m)、奥行四尺(約1.2m)、高四尺(約1.2m)の巨岩を積重ね其の根本に数個の塊石を以て崩壊を防ぐ工作を施せるが如きものがあり、恰も山頂なる神籠石に供饌の台となせるが如きものである。

「やや南方」というが、南方は下方斜面であり岩石がない。そのかわり、大山祇神社旧地から西方やや上の斜面上に立石状の露岩群が存在する。

しかし、位置関係や高さなどの規模が前掲書と一致しているかというと怪しい。別の存在か。

「上方絶壁中、約6.5mの男根に髣髴たる巨岩」は位置・規模から考えてこの岩壁か。

斜面の傾斜は30度近いためこの岩壁の上を確認することはできなかった。


茶臼山の「ストーンサークル」

約一町(約100m)山の尾を登れば高さ二三丈(約6~9m)の絶壁があって其の上、山の頂上に高さ六尺九寸(約2m)、周囲一丈(約3m)の畧等大の巨石立ち其の周囲に十数個の周囲八九尺(約2.5m)の塊石がある。四個の巨石は神籠石と認められ其の周囲の塊石はストーンサークルであらう。この附近一帯山の隆起せる部分を茶臼山と呼んでゐる。

「約6~9mの絶壁」に当たると思われる山頂直下の岩壁の一部。

この岩壁を登った先が山頂となる。

茶臼山と目される山頂部。これが前掲書で「神籠石」と名付けられた4個の巨石か。

重石状の岩石が4個以上、若干の列状に山頂南面に露出する。

「ストーンサークル」と名付けられたものに該当するか?

山頂南側の直下斜面に岩陰状の陥没地形がみられる。


当地の禁忌事項

椿尾垣内地区全体の禁忌

大山祇の神が鶏を嫌っているので、椿尾垣内の住人は鶏を飼ってはならなかった。

大山祇神社が伊豆神社に合祀されてからは、この禁忌が解けて鶏を飼育するようになった。


大将軍山の禁忌

山内には「大いなる長物(蛇)」がいるので、みだりに入ってはならない。

一木一草すら折ってはならない。

苺、テンポ梨の実を食べてはならない。

枯れ枝でも薪の木として持ち帰ってはならない。


メトリ坂の禁忌

椿尾垣内から大山祇神社旧地~茶臼山南方を経て荷阪峠(荷阪地区に通ずる大平山~茶臼山間の鞍部)にいたる道をメトリ坂と呼んだ。

婦人が一人で通行するととられるといい、婦人の単独通行を避けている。

メトリ坂を駆け上って達する荷阪峠。茶臼山はこの峠の西方(写真左)の峰。東方(写真右)は大平山。

歴史学者の魚澄惣五郎氏が大将軍山を調査した時、「古代の山岳信仰が仏教の影響を受けることなく太古のまま残された興味深き山である」(竹野 1937年)と言葉を残したらしいが、魚澄が大将軍山について記した文献が残るのかは不明である。

考古学者の大場磐雄氏は大将軍山登山を計画していたが日没前のため断念し、そのかわり茶臼山で採集されたという茶臼玉5個を採集者から宿で見せてもらっている。いずれも直径一分~二分(3㎜~6㎜)ほどで僅少な遺物ではあるが、「もし事実なれば同所に於ける古代祭祀の事実を知り得て、磐座との関係も確認を得るに至るべし、なおよく探究すべし」(大場 1938年)と評価している。

大将軍山の取りつき。林道「室生ダム開路線」を用いる。椿尾集落を経由して駐車スペースがあるここに車を停めた。

先ほどの写真の背中側を見ると大将軍山の登山口がある。かつて椿尾から荷阪峠にいたったメトリ坂の道と思われる。大山祇神社旧地はこの踏み跡をひたすら約10分直進すると石段が見える。


参考文献

  • 竹野次郎『奈良県宇陀郡内牧村に於ける皇租神武天皇御聖蹟考』 皇租聖蹟菟田高城顕彰会 1937年
  • 皇祖聖蹟莵田高城顕彰会 編『神武天皇建国聖地内牧考』,皇祖聖蹟莵田高城顕彰会,昭和14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1023590 (参照 2024-03-23)
  • 『大和叢書』第1,大和史蹟研究会,昭和8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1214606 (参照 2024-03-23)
  • 森貞次郎(解説)・大場磐雄(著)『記録―考古学史 楽石雑筆(下)』(大場磐雄著作集第6巻)雄山閣出版 1977年