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2025年10月13日

「霊神碑」の岩石信仰

霊神碑(れいじんひ)とは、下写真のような石碑を指す。

愛知県名古屋市名東区 大石神社境内

寺社巡りをされている方の中には、このような「●●霊神」と刻まれた岩石を、境内でご覧になった経験があるのではないだろうか。

石面に刻まれた神号を見ると、日本神話では聞いたことがない神々ばかりであり、個人の姓名を冠した霊神号も多く見かける。

岐阜県各務原市 迫間不動境内。無数の石柱に家の霊神名や個人の霊神名が刻まれる。

三重県四日市市 福徳寿御嶽神社境内。こちらは「霊神」以外に「大神」表記も見られ人名以外の事象にも神号が贈られる。霊神碑からの派生と見てよい。

「霊神」というカテゴリーの中で一定の統一性はありながら、刻まれる内容は多様性に富んでおり、これは神なのか墓なのか記念碑なのか、前提知識なしでは評価に困る特異な岩石である。


霊神碑は、木曽御嶽山を信仰する人々が結成する講によって建立された石碑である。

御嶽山は岐阜県と長野県の県境にそびえるが、中部地方のみにとどまらず、東北から中国・四国地方にも霊神碑の存在を確認できる。

これは御嶽山を信仰する御嶽講の人々が日本各地に広めた結果と考えられ、御嶽山との直接的な関係だけでなく、人が岩石に神の名を刻む行為としての視点からも興味深い社会的現象である。

この記事では、霊神碑の現在的な学説をおさらいした上で、岩石信仰という観点に立った時の霊神碑の位置づけについてまとめておく。


御嶽山と霊神碑の基礎知識

2022年、霊神碑を専門的に研究する愛知学院大学教授の小林奈央子氏の研究発表を聴講する機会があった。その後、その発表内容は下記論文として結実した。

本記事では、小林氏の研究に基づき御嶽山と霊神碑の最新の研究状況を紹介しよう。


■ 御嶽山の名称

御嶽という尊称は他地域にも認められるので、区別のため木曽御嶽と記されることもある。

また、歴史的な雅称としては「王の御嶽」「金の御嶽」がある。特に「王の御嶽」は、その読みかた「おうのみたけ」が転訛して「おんたけ」となった可能性も指摘されている。


■ 御嶽山の開山者

御嶽山の山中および山麓には御嶽神社が鎮座する。江戸時代中期までは御嶽神社による所定の潔斎の上で登拝許可を受けた者しか登れない山だった。

このような状況を一変させ、庶民が登れるようにした18世紀の「開山者」が2名いる。後に集団化された各地の御嶽講にとっての開祖とされる。

  • 覚明(1719~1786年)…尾張国出身
  • 普寛(1731~1801年)…武蔵国出身

この2名を慕った人々により、中部地方と関東地方では御嶽行者や御嶽行場が多く生まれることになった。


■ 霊神碑の歴史

本来は、覚明・普寛を死後に追善しようと供養塔を建てたのが最初である。

「霊神」の字を刻んだ最古例は、弘化2年(1854年)の「大阿闍梨覚明霊神」である。ただし、それに先行する天保14年(1843年)の「覚明神霊」の事例もあり、当初は「霊神」と「神霊」の号が定まっていなかった模様である。

明治時代に入ると、覚明・普寛以外の行者や信者にも「霊神」号がつけられた霊神碑が増加する。とりわけ功績高い行者や、講活動に尽力した篤信者に霊神号が授けられるようになった。生前に霊神号を授けられるケースもあった。

霊神碑の脇や背面には俗名・造立年・享年・造立者が刻まれるのが一般的で、霊神碑の建立年代調査によれば昭和戦前期にかけて造立のピークを迎えるが、1950~1960年代にも造立の小ブームがあったようである。

御嶽山の山中には、現在約3万基が存在するといわれている。御嶽山だけが造立の場ではなく、さまざまな地域の講が自らの講社・教会の敷地などに「霊神場」と呼ばれる、霊神碑を建立するための空間を形成した。

覚明から「覚」または「明」の一字を採った霊神碑と、普寛の「普」「寛」の一字を採った霊神碑の系譜に分かれる。それぞれの開祖の出身地に合わせて、前者は東海地方に多く、後者は関東地方に多いとのことである。


■ 霊神碑の形態

扁平な自然石をそのまま石碑に用いたものと、自然石を整形して表面を平らに削ったものがある。いずれにしても「扁平」が良いらしい。

岩石のフォルムは、角のない丸みを帯びたものもあれば角柱状のものもあり定まっていない。

標準的なサイズは、高さ1.5m、幅1m、厚さ20㎝程度で、墓石よりはやや小ぶりのサイズと評価できる。大きい事例では高さ3mを越える。


■ 霊神碑の性格の変化

先述のとおり、霊神碑はもともと供養塔だった。すなわち故人への鎮魂や作善のための奉納物だった。

しかし、時代を経て建立数が増えるにつれて、奉納物から「御霊の宿る施設」へ性格が変化した。

その証拠として、霊神碑には「御霊移し」という祭祀行為が伴うようになった。

御霊(みたま)とは故人の霊魂であり、人が亡くなると墓が建てられる。墓は遺骨が埋葬される施設だが、それとは別で、御霊を宿すための施設として霊神碑が用いられる。

生前に霊神碑を造っておく場合、霊神碑の刻字の「霊」の部分に赤を入れておく。没後すぐではなく、半年~1年の間に赤を消して、故人の御霊を霊神碑に宿す「御霊移し」がおこなわれるという。

これらの点から、小林氏は霊神碑が供養塔から「御霊の依り代」に変化したと表現しており、それはまるで墓石が当初「死者が極楽往生するための菩提」を目的にしていたものから、宝暦年間(1751~1764年)以降は「霊位」(死者の霊魂の依り代)に変化した流れと類似性があることに触れている。

※なお、「依代」概念は折口信夫が創出した分析概念であり、歴史的な事物に対して真に同時代的な説明をするに適切な用語であるかどうかには批判点もある(参考記事「依代と御形と磐座について―祭祀考古学の最新研究から―」)。その議論を踏まえるなら、霊神碑や霊位は「故人の魂の憑依物」と表現するのがより客観的かもしれない。


岩石信仰の観点からのまとめ

小林氏による霊神碑の最新研究を以上紹介した。今後、各地の霊神碑を観察して歴史の中に位置付ける際に学ぶ点が多い。


江戸中期~後期の墓石の性格変化、江戸後期~明治以降の霊神碑の性格変化は、それぞれ岩石信仰(岩石を用いた信仰)の変遷と言える。

私が作成した「岩石祭祀の機能分類」においては、墓石や霊神碑の元来的機能「供養のための奉納物」は、「BBB類型 鎮め・清めの道具」「BBC類型 奉納物」の2つの要素が複合していると考えることができる。

そして、墓石や霊神碑が変容した「故人の魂の憑依物」は「BAA類型 憑依物(旧・依代概念)」の機能であり、願いをかなえる道具から信仰対象が宿る施設に岩石に込められたものが変化したとまとめられる。


岩石信仰の諸事例を鑑みれば、同一の岩石が単一の機能のみを永続的に保ち続けるわけではなく、人々によって同時に複数の機能(性格)を込められることもあれば、時代変化の中で岩石に期待されたものもしばしば変化する。そのような事例は他にも多く見られる。

しかし、自然石の場合は元来込められていた人間の意図が見えにくいために至極当然の変化と言えるが、霊神碑は単なる自然石ではない。文字情報がある岩石(石造物)である。このように明確に人間の意図が読み取れる場合であっても、岩石の機能が変化しうるケースを示したと言える。

もしかしたら文字情報があることで、文字に引っ張られた要因もあるのではないかと感じる。元来は供養の対象としての「人名+霊神」が、「霊神」という文字の強さに引っ張られて霊神を物体化・可視化する祭祀対象に変わったという見方である。


自然石の岩石信仰においては、神への畏敬的信仰から信仰心なしの特別視へと人々の認識が親近的に変わるという仮説がある(たとえば林宏氏『鏡岩紀行』中日新聞社 2000年 における鏡石・鏡岩信仰のケースでの指摘)。

人々の知(文化・技術)が成熟するにつれて、岩石に対する「未知」が薄れることによるものという理解に立った仮説である。


一方、霊神碑のケースでは奉納のためのツールが御霊の憑依物として、限りなく信仰対象に近い存在へ聖化した(霊肉分離の考え方に基づけば、信仰対象と同一とまでは言えない)。

同じく人々の知(文化・技術)の結晶である文字が、岩石の「未知」を言語化した結果、岩石そのものの性質に左右される必要なく、文字から岩石に聖性を読みとったのではないか。

文字が一種の権威性を発揮し、聖なる要素を強化したのではないかという私見を記して本記事を終えたい。


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