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2016年12月5日月曜日

真清田神社の神体石と覚王山日泰寺の真清田弘法

所在地


真清田神社・・・愛知県一宮市真清田1丁目2-1
真清田弘法・・・愛知県名古屋市千種区法王町1丁目1 覚王山日泰寺境内

出典

遠山正雄 「尾張地方のイハクラに就いて」 『愛知教育』第551号 1933年
遠山正雄 「愛知県一ノ宮国幣中社真清田神社本殿の後方にありしもの」 『皇学』第3巻第3号 1935年
森徳一郎「郷土史談(三二) 真清田神宝流出記(5) 十六 龍神石」『一宮市公報』No.180~No.181 1935年
森徳一郎  『真清田神社江戸時代の神宝と流出』 (一宮史談会叢書8) 一宮史談会 1964年
真清田神社史編纂委員会編  『真清田神社史』 『同資料編』 1995年
真清田神社造営奉賛会編・発行 『真清田神社復興造営誌』 1969年
小池昭 『民俗・習俗を科学する―カミ・神・神社とその周辺―』(小池昭著作集 一) 2000年
山口恵三 『尾張一の宮私考―真清田神社七不思議―』(一宮史談会叢書21) 一宮史談会 1995年
チェリーさん・酔石亭主さん・管理人MURYによる当サイト掲示板への投稿 (2013年9月12日~2014年5月8日)
現地看板

すべての出処


尾張国一宮・真清田神社では、神体石をかつて本殿後方の土壇上にまつっていたという話がある。
奈良県桜井市の大神神社神官である遠山正雄が、「尾張地方のイハクラに就いて」(1932年)および「愛知県一ノ宮国幣中社真清田神社本殿の後方にありしもの」(1935年)のなかで、下記の内容を記している。

愛知県一ノ宮国幣中社真清田神社本殿の後方にありしもの

一昨昭和八年秋の頃聞いた処によれば、古来御本殿の後ろの森の中の土壇上に、厳重にお祀りしてあった処の御神体石を、神主家の者が持出して我が家に祀った処、やがて段々と不運不幸が打ち続いて仕方がないものだから、ツイ他人に譲ることとなった。
(中略)
終には常に信頼する寺院に持込み、鎮安・奉斎して貰ふことになった、之が名古屋で有名な大寺院覚王山に秘蔵する処の有り難い「真清田弘法」(マスミタコウバウ)と申すもので、一年に一度の虫干の折丈けに開帳するのである云々と聞かされました。
(中略)
私は昭和の七年六月九日、真清田神社に参詣いたしましたが、本殿の後方に確に土壇といふものの跡があります。只祠はありません。併しその神社々務所に伝はる古図に、祠も鳥居も具備した形容があらはされてあります。そこで此の御神体石の出所が確と伺はれました。その古図をよく見れば、壇の上のホコラの前の鳥居が三基並立して居ます。中央の分が高く大きく、左右の二基は少々低くして恰も中央の分の両袖の形であります。此の形式は大和の三輪山鎮座大物主神の大神神社特有の所謂三輪鳥居の形式であります。
(中略)
今、真清田神社の明細帳によれば、御祭神は天火明命(アメノホアカリノミコト)とあります。大神神社の分身類社鈔の尾張国の郡を見れば真清田神社 大己貴命とあります。即ち大神神社の此の旧記に言はしむれば、尾張の国に分身の類社といふものが六社ある。その中の一つが真清田の神で、この大和国三輪明神が本体の神だと主張する訳なのであります。
(中略)
神武天皇御東征記によりましても、已にこの命(管理人注:天火明命)が大和の北部を中心として治められて居たかが分かりますが、大国主神が、その昔天孫に国譲りをして先づ大和に落付かれましたが、やがて子々孫々は盛に又東方の美地を求めて繁殖膨張移動をする勢となりましたが為、まづ伊勢尾張方面へと進出された事は至極自然であり、之に代って大和に入ったのは饒速日命即ち天火明命の一族と見ねばなりませぬ。恰も出雲の神族が、東へ東へと進み行くその跡へ跡へと火明命の一族が進んで、一段の開拓を重ねて行った順序と云へませう。
(中略)
然る処前述の通り、この本殿の真後ろに当って土壇があるのであります。高さ五六尺、正に中高で、径五間余と思はるる円形で、その南半分は破壊し尽くされ、中心より北方半分が残ったもののやうであります。周囲の風致模様等より見て如何にも祭壇の跡方かといふ感興の尽きないものがありますのが、古図を見て初めて明瞭になり篤と首肯かれました於是現在の本殿工法の土壇用の場所は、古代に於ける最初の草創的祭場であって、其の設備は岩クラ式のものであったらうし、尚ほ出雲神族の式でもあったらうと思ひます。それは近く大国霊神社の例もあることだから。而して今の本殿建築設備は、後世に至って之を前面に建て広げた処のものだといふ自信を得ました。右の古図にある処の三箇の鳥居が、大和三輪なる大神神の三輪鳥居と因縁あるものとせば、之によって大神分身類社鈔の所伝通り、御祭神は御同神なりと推断するに難くなく、又最初この処に大物主神を御鎮祭申上げて中心と仰ぎ、大に子孫一族が発展したところの出雲神族が、その内に何かの事情の為に大部分この地方を後にして一段と東遷した時、そのあとに大和方面から天火明命の神裔一群が推かけ入込んだため、その時我が租神火明命をその前面に祭ったものと判ずるには難くなさそうに思はれます。
(後略)

以上、「愛知県一ノ宮国幣中社真清田神社本殿の後方にありしもの」(1935年)より引用(原文ママ)

昭和8年(1933年)聞いた話として、真清田神社の本殿裏にかつて「土壇」があり、そこに石がまつられていたという噂を記している。
神主家のある者がこの石を持ち出して自分の家でまつりだしたところ、家で不幸が続出。たまらず他の人に譲ったところ、そこでも災いが起こる。
このように数多の人の間を転々とし、最後には千種区の覚王山日泰寺に持ち込まれ、「真清田弘法」という名で秘蔵されているという顛末だそうである。
年に一度、虫干しの時に開帳されるといい、遠山正雄自身見たことはないが、確かにあると明言している。

遠山の推測では、大神神社の『分身類社鈔』の記述から、真清田神社が元来大己貴命をまつり、それが本殿後方の土壇上にまつられていた神体石であり、社殿祭祀以前の磐座事例と考えている。後代、天火明命をまつる集団が当地に移ってきた時、神体石の土壇前に社殿を設け、祭神の変化が起こったという流れも遠山は描いている。

日泰寺の真清田弘法


真清田神社の神体石が持ちこまれたとされる真清田弘法は、今も覚王山日泰寺の境内に存在する。
日泰寺は明治37年(1904年)、タイから寄贈された仏舎利をまつる超宗派寺院として建立された。境内南東端にある現地には2基の祠がまつられており、傍らに掲示された看板には下記のように記されている。

masumida5
覚王山日泰寺

masumida1
真清田弘法

masumida2
真清田弘法の説明文(現地看板)

真清田弘法大師縁記
御神殿に奉安せるは昔弘法大師巡錫の砌り尾張一の宮真清田神社に崇納し奉る念持石にして真清田神社の御神体なり
明治維新廃仏毀釈の際神社より分離し爾来竊に護持し其の縁由により真清田弘法と称すれども本地には難陀跋難陀の二大竜王也経に曰く此の二大竜王は首上に七頭竜あり通力自在にして我を念ずる者は願いに応じて衆生を利益し給う
其の誓願に曰く
一には命欲を離れて我を祈念する者は福を受くること佛に等し
二には瞋恚を離れて我を念ずる者は寿を迎えて保つこと佛の如く成らむ
三には愚癡を離れて我を祈念する者は楽を受くること佛の願に等し

この2基の内のいずれかの祠内に、弘法大師が真清田神社に奉納した念持石がまつられ、真清田神社の御神体だったことが記されている。
また、廃仏毀釈の時に神社から当地に移され、真清田弘法と称してひそかに護持してきたが、その本来の姿は二大竜王であることも併記されている。

遠山が語った神体石の話と比べて仏教色が色濃くなっている。
弘法大師が元々奉納した石であることや、二大竜王の神体石であること、そして、真清田神社から持ち出された理由は祟りを恐れて転々としたのではなく、廃仏毀釈のため仏教色の強い本石が日泰寺に匿われたというのが大きな違いだろうか。

実際に、江戸時代まで真清田神社の社僧が奉仕していた西神宮寺・菩提院・光徳寺の三寺は明治時代の神仏分離で廃寺となり、その時に本尊の仏像や堂宇・仏具などがすべて売却されたほか、真清田神社が保管していた神宝類のうち、仏教色がある経文・掛軸・仏舎利なども流出したことがわかっている。

いずれにしても言えるのは、この真清田弘法の現地看板においても、真清田弘法が真清田神社の神体石だったという点が遠山の話と共通していることである。

日泰寺には、他にも真清田神社から持ち込まれた「水精石」があった


これだけなら話は単純だったのだが、ここから話は複雑になる。
真清田神社に、八龍神社という境内社がある。真清田神社の公式ホームページには、由来が以下の通り説明されている。

「もと厳島社内に奉祀されていたが、明治初年神仏分離の際御神体の龍神石が名古屋の日泰寺に流出、近年当社に還り改めて奉祀した。」
http://www.masumida.or.jp/precinct/popup/16.html

龍神石という初めて目にするワードであるが、真清田弘法の流出経緯と極めて酷似する記述と言わざるを得ない。
もう1つ、関連の記事を引用する。

「江戸時代、第三代神主・佐分清円氏が享保18年(1733)に編術した『真清探桃集』に「水精石」(長さ一尺余り、黒白相雑)と記されるものがあり、これが龍神石を指すと思われます。」
「神社から出て民間を転々としたのち、名古屋市の覚王山日泰寺に安置されることに。ときを経て、日泰寺を訪れた三人の女性が、龍神石のいわれを知り、御神殿の造営に東奔西走。日泰寺境内の池に浮かぶ小島に完成後、手厚く祀られてきたといいます。」

http://machicon.or.jp/test/wp-content/uploads/2013/02/201110-03hono1.pdf(一般社団法人まちこん一宮発行『ほのぼの』内の記事「真清田神社と龍神信仰」より。現在リンク切れ)

龍神石が、江戸時代には「水精石」という名前だったこと、信仰心篤い女性たちによって龍神石をまつる神殿を日泰寺の池中の小島に造営したという出来事があったことがわかる。
その後、昭和61年に日泰寺から真清田神社に龍神石は返還され、平成元年、八龍神社が建立されそこの神体石としてまつられるようになったという。

また、森徳一郎 『真清田神社江戸時代の神宝と流出』 (1964年)によれば、宝暦年間に記されたと推測される『宝暦版神宝略目録』には「水晶石」の記述があり、これは水精石と同一物ではないかと考えられている。つまりこの霊石は水晶なのである。
また、江戸時代に水精石・水晶石と呼ばれていたこの石が、龍神石と名を変えたのは明治維新流出の際ではないかと推測している。

さらに、龍神石の流出経緯について最も詳しく、かつ正確に記述しているのが、同じく森徳一郎による『郷土史談(三二) 真清田神宝流出記(5) 十六 龍神石』(1935年)である。
以下に、同記事の記述から分かった龍神石の流出ルートを簡潔にまとめておこう。

明治2年(1869年)4月、真清田神社の佐分一ノ権が、神仏分離のため「不要之神宝」となったため、水精石を眞野伝に譲渡。この時の石の名は「奇石」とだけ添状に書かれる。
明治24年(1891年)1月、眞野伝が眞野眞四郎に水精石を譲渡。
大正4年(1915年)1月、眞野眞四郎が長谷川鍬次郎に水精石を譲渡。
その後、年月不詳ながら、長谷川鍬次郎が覚王山日泰寺東北にあった八十八ヶ所開山記念堂に水精石を奉祀。長谷川の手に渡る頃には龍神石の名になっていたと思われる。
昭和4年(1929年)8月初旬、森徳一郎が、覚王山日泰寺に龍神石がまつられているという情報を知人から教えられる。
昭和5年(1930年)1月、長谷川鍬次郎が龍神石を八十八ヶ所開山記念堂から覚王山日泰寺本坊位牌堂に移す。
昭和5年2月、森徳一郎が長谷川鍬次郎に願い出て、位牌堂の厨子の中に納められた龍神石を拝観。その異形ぶりに「思はず眉を伏せ、且つ身慄くを覚えた」と記す 。

龍神石の添状には、「弘仁年間弘法大師之寄附」と記され、この石が弘法大師の奉納によるものだという由緒を伝えている。
長谷川鍬次郎が大峯詣の折に一宮三光組の先達へ龍神石の話をしたところ、「あれ程有名な一宮の雨請が維新以後霊験が無くなつたのは、其の霊石が移出でられた所以であらう」と返されたという。
数々の所有者を流浪した理由は、いずれもこの石をまつると家庭に不幸が起こったためという。長谷川鍬次郎によると、開山記念堂にまつっていた時、厨子から石を取り出して外で観察しようとしたら。大音が鳴って建物が振動したというので、今後そのようなことは慎むようにしているという。

森徳一郎は、この水精石の寸法およびスケッチを記録している。
それによると「頭部と覚しきが高凡五寸五分、歯部一寸乃至二寸、腭三寸五分、下唇長く突出して総高凡そ一尺、奥行略々一尺三寸余りと窺はれた」という。下図にスケッチの通りであるなら、龍の水晶髑髏とも言うべき形容である。

龍神石
龍神石のスケッチ
(森徳一郎『郷土史談(三二) 真清田神宝流出記(5) 十六 龍神石』1935年

さて、これら水精石にまつわる記録から、いくつも疑問点が浮かぶ。

あまりにも、真清田弘法と水精石の事の顛末が、酷似しすぎてはいないか。弘法大師由縁の霊石で、神仏分離で真清田神社の手を離れてのち、祟りを恐れ数々の人物の手を経て、覚王山日泰寺に安置されたという両者の流れ。
ふつうに考えれば、この両者は同一物なのではないかと思ってしまう。

しかし、仔細をよく見ると、微妙に両者には記述の隔たりが見られる。

まず、真清田弘法が元来まつられていたとされるのは、真清田神社本殿後方の土壇上である。
それに対して、水精石は神庫内の所蔵である。だから江戸時代の目録に神宝の1つとして記されているのである。
流出前の安置場所が異なっているというのは、看過できない違いである。

2つ目の違いは、日泰寺における安置場所の違いである。
真清田弘法は、日泰寺の本堂から離れた境内端の一画に、独立して祠内へ安置されている。
水精石は、龍神石と名前を変えて、はじめ日泰寺の八十八ヶ所開山記念堂、のちに同寺本坊位牌堂へ安置されたことが明記されている。
つまりこのことから、流出前と流出後、いずれの安置場所も一致していないということになる。

日泰寺および真清田神社の聞き取り情報


では、真清田弘法と水精石は、真清田神社から日泰寺に流出したという経緯がたまたま一緒なだけの、それぞれ別々の存在なのだろうか。
チェリーさんと酔石亭主さんが、この点をはっきりさせるために、日泰寺の職員と別々に聞き取りをおこなっている。掲示板投稿の都合上、時期が前後するが、以下にそのやりとりを紹介したい。

チェリーさんの日泰寺への聞き取り(1回目)

日泰寺さんに電話をして「真清田弘法」について伺ってみました。とてもていねいに応対していただいて感謝しています。
御開帳の日程は決まっている訳ではないそうです。「御開帳かなぁ?」と言ってみえました。開いて中のお姿を拝見することができるのかどうかわからないようです。世話人の方がみえて、その方の連絡によって、お経をあげに行かれるのだそうです。いつも世話人の方からの連絡によるそうですので、連絡先はすぐにはわからないようです。年に1回というわけでもなく、もう少し多かったと記憶しているとのこと。
場所としては、真清田弘法は、ぎりぎり境内に入るとのことです。

チェリーさんの日泰寺への聞き取り(2回目)

日泰寺の社務所で、お話を伺いました。
女性の事務員の方と、僧侶の方がみえました。
やはり、分厚い資料がありまして、その中の1ページを見ながら、僧侶の方が説明してくださいました。そのページの半分が真清田弘法の記事で、半分が龍神石の記事のようでした。

年に一回、お経をあげるのだそうですが、世話人の方の依頼によるもので、お社の中は、見ていないそうです。詳しくはわからないとの御様子でしたが、真清田弘法は龍神石を祀って、それは真清田神社に戻ったのだから、ここにはないという認識のようでした。

日泰寺としては、よくわからないということになるようです。
ページの欄外に書き込みがあって、どなたかのお話で「…龍神石・念持石…」という記述が見えました。
もうひとつ「愛知県伝説集 福田祥男」という書き込みがありましたので、後日その本を見ました。「真清田の龍神」というところに、弘法大師の伝説と竜神石のお話が載っていました。新しい発見はなかったのですが、龍神石がここの位牌堂に祀られたのが、昭和5年1月であることがわかりました。

酔石亭主さんの日泰寺への聞き取り

真清田弘法は何だろうとなりますが、日泰寺に電話で聞いてみました。
女性が電話に出られて、資料によれば真清田弘法で祀られているのが龍神石だったとのことです。
その通りなら真清田弘法=龍神石となるので、既に真清田神社側に返還されていることになります。
ただ、チェリーさんのチェック結果ではまだ真清田弘法の御開帳があるようにも感じられるので、日泰寺側の話が100%確実か何とも言えず、再確認は必要かもしれません。

日泰寺に電話したら女性が出られたので、真清田弘法について知りたいのでわかる方をお願いしますと言ったところ、しばし待たされ結局その女性から話があったものです。
女性からは龍神石があって昭和5年に寺に来たが後に返還されたと説明があり、ではその龍神石が真清田弘法なんですねと質問したところ、そうですとの答えでした。
多分女性は単なる寺の事務員に過ぎず、何も知らない中資料を元に答えたのでしょうが、龍神石が真清田弘法なんですね、との私の質問は答えを誘導している懸念があったので確信が持てなかった訳です。
もう少し聞きたいと思いましたが事務員ではどうにもならないので、これ以上突っ込まず終わりにしました。

日泰寺の回答は極めて興味深い。
日泰寺は、真清田弘法=龍神石(水精石)と認識していることがわかる。

仮にその通りだとすると、真清田弘法の祠の中に現在、まつられるべき石はないということになる。まさかもぬけの殻なのか、それとも代用物をまつっているのかということになる。

チェリーさんは、真清田神社の神職の方にも聞き取りをおこなっている。以下、引用する。

神主さんに「八龍神社のお社の中に龍神石があるのでしょうか?」と問いかけたのですが、よくわからないようでした。「詳しい者が宝物館におりますので、そちらで聞いてみてください」とのこと。そのときはまだ閉館していたようでしたが、巫女さんが連絡を取ってくださって、中に入ることができました。

お話をしてくださったのは、権禰宜の方でした。とても親切にお話していただきました。
同じ問いから入りました。八龍神社のお社の中に龍神石はあるのでしょうか?
御神体を見ることはできないのだそうです。でも、流出した龍神石が日泰寺から真清田神社に返還されたという話は肯定されました。それがどういった経緯だったのかということは、今となってはわからないそうです。権禰宜の方は御自分で集めた資料の分厚いファイルを2冊持ってみえまして、それを見ながらお話してくださいました。(それは私には、とんでもない宝物に思えました!)

「日泰寺境内の「真清田弘法」にも、同じようにここから流出した御神体の石が祀られているとされていますが?」との問いには、流出したり、元に戻されたりしたという話は、多くあるので、そのひとつではないかな?とのことでした。現に宝物館を入った正面にある龍の像を指して、これは尾張徳川家初代義直公が奉納された龍ですが、これも流出して戻されたと伝えられるのですが、今となっては、はっきりしたことはわからないのだそうです。

本殿の後にある「土壇」についても伺いました。防空壕の跡との見解でした。第二次大戦時に、万一の事態に備えて、御神体を守るべく、そこに防空壕が作られたのだそうです。(改めて見てみると、私が以前報告したような直径10m程度の円形ではなく、もっと左右に広がっていました!ごめんなさい)

真清田神社の聞き取り結果では、龍神石(水精石)と真清田弘法を同一視しているわけではない。正確に表現するなら、よくわからない(問題意識を持ったことがない)という返答になるのだろう。

しかし、文献記録上では、真清田弘法と水精石の流出元と流出後の安置場所の両方に隔たりがあることは先述したとおりだ。日泰寺がいくら同一物と答えても、あまりにもぬぐえ切れない矛盾が出てしまうことになる。
やや乱暴な推測であるが、日泰寺では類似した2つの別々の石を、ある時期から混同して記録管理してしまっているのではないか。一度混同されて管理された資料から、後代の職員が語っていると仮定したら誰もその混同に気づけないだろう。
たとえば、日泰寺の職員が説明に使った資料では、龍神石は昭和5年(1930年)に日泰寺へ来たという話があるが、昭和10年(1935年)に森徳一郎が書いた『郷土史談(三二) 真清田神宝流出記(5) 十六 龍神石 』によると、日泰寺の八十八ヶ所開山記念堂に龍神石がまつられていると聞きつけたのは昭和4年(1929年)8月初旬である。日泰寺職員が現在使用している資料が表面的な情報である可能性は高い。

もう1つ重要なのは、日泰寺職員は真清田弘法の中を見ていないということである。
聞き取りによれば、真清田弘法には外部の世話人がおり、その方が年に一度あるいは数度お経を上げにくるという。そして、日泰寺はその詳細を把握していない。日泰寺の発言が事実を反映していると納得するには、いまひとつ伝聞と間接的な情報が多い。

質問のしかたによって話者の返答が揺らぐことは、民俗学でのルールを持ち出すまでもなく起こりうることであり、あくまでもこの話者の一意見としておくことが適切なのかもしれない。土壇と防空壕の話も、どこまで事実に基づいた話なのかという点や、防空壕以前の土壇の役割の回答にはなっていないことなども含め。
流出当時の事を知る人はほぼ存命していないと思われるので、今後聞き取りを行なうとしたら、最も適切なのは真清田神社および日泰寺の一職員ではなく、キーパーソンとなる話者の方に出会えるかどうかにかかっている。

弘法大師が水精石を奉納した経緯


真清田神社史編纂委員会編『真清田神社史』(1995年)に、真清田の龍神伝説が記されている。弘法大師が水精石を奉納した理由にもなっている。おおむね次のような内容である。

当地でかつて干ばつが起こり、困窮した人々を救うため、弘法大師が雨乞をしたが効果がなかった。
そこに一頭の龍が現れた。龍は、雨を降らせようとしたら、自分あるいは他の龍の命が必要になると弘法大師に伝えた。
そこで弘法大師は、その龍へ人民のために命を差し出してほしいと懇願した。その引き換えに、あなたを真清田神社にまつるということを約束したところ、龍は承諾した。
やがて激しい大雨が降りだし、黒雲の中から、龍の体が切れ切れになって落ちてきた。弘法大師は約束通り、その龍を神として真清田神社にまつった。

はっきりとは述べられていないが、この時、真清田神社にまつるにあたって、龍を宿らせる神体石として用意されたのが、水晶である水精石だったのだろう。
ちなみに、実際には弘法大師は真清田神社には来ていないと考えられている。あくまでも弘法大師信仰に基づいた伝承である。

後日、真清田神社が龍神石を手放したところ雨乞いの御利益はなくなり、龍神石を手に入れた家では不幸が相次いだので、昭和5年(1930年)に日泰寺の位牌堂にまつったという記述が書かれている。これは、これまで触れてきた事実と符合している。

真清田神社にまつった龍の神体石という意味では、広い意味では真清田神社の神体石と言って差し支えないだろう。問題は、土壇にまつられていた神体石とは祭祀場所が違うという点である。


三明神社の「三種の明玉」


真清田神社の本殿背後に、本当に土壇と呼ばれる場所は現存しているのか。

現地へ行くと、土壇は神社社殿の背後の森の中にあるため肉眼で目視することはできない。しかし、社叢のさらに後ろは大宮公園という自由に立ち入れる憩いの場となっており、公園から玉垣越しに、微高地状の土の盛り上がりを確認することができる。これが土壇なのだろうか。

小池昭 『民俗・習俗を科学する―カミ・神・神社とその周辺―』(2000年)によると、本殿裏の小高い丘は、戦後、神社裏手の大宮公園を造成する時に、すきとった土砂を寄せてできあがった土の高まりだと説明している。

しかし、真清田神社造営奉賛会編・発行『真清田神社復興造営誌』(1969年)を見ると、大宮公園造成前に真清田神社が実測した境内図があるが、本殿の裏にはちゃんと舌状に東西に延びる丘状の高まりが表現されている。小池説と矛盾している。
さらに真清田神社の神職が、戦前に防空壕をここに造ったという証言とも矛盾するし、そもそも、遠山正雄が昭和7年(1932年)に真清田神社へ参拝して、そのとき土壇状の土の高まりがあったと報告していることとも矛盾している。小池説に誤りがあり、土壇状の高まりは戦前からあったとみるのが適切だろう。

土壇と思しき微高地上に、現在、三明神社という境内摂社が建てられている。
三明神社は、真清田神社祭神の荒魂をまつるとされ、真清田神社に4つある別宮のうち、第一の別宮として尊崇された重要な神社である。

三明神社は「如意の珠」「護国の珠」「辟鬼の珠」の「三種の明玉」をまつり、宝珠の存在を秘するために三明珠の宮とは言わず三明神宮と称したと『真清田宮御縁起』巻上(室町時代製作と推定)に記されている。
三明神社も、明玉――つまり、玉石を神体としてまつる岩石信仰の社だったことがわかる。

そのような三明神社が、なぜ、神体石があったと遠山正雄が言う土壇の上にまつられているのか。
三明神社が、土壇の上にあったという神体石を覆い祀る祠だったのだろうか。ならば、神体石とは「三種の明玉」のことなのだろうか。

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真清田神社社殿。奥の社叢の様子を目視することはできない。

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大宮公園から玉垣越しに望む微高地と三明神社

『真清田神社古絵図』に描かれた土壇上の祠の正体とは


ここで、『真清田神社古絵図』という、室町時代製作と推定される絵図が真清田神社に残っていることに言及したい。江戸時代より前の真清田神社の境内の様子が分かる貴重な史料である。

遠山正雄も論文の中で、「古図をよく見れば、壇の上のホコラの前の鳥居が三基並立して居ます。中央の分が高く大きく、左右の二基は少々低くして恰も中央の分の両袖の形であります。此の形式は大和の三輪山鎮座大物主神の大神神社特有の所謂三輪鳥居の形式であります。」と述べており、この絵図の存在に触れている。

実際に絵図を見てみると、土壇のような土の高まりは絵図に表現されてはいないが、確かに本殿裏に小祠が1基描かれ、その周りを3基の鳥居が取り囲んでいる。また、裏門とも言うべき北門がすぐ隣接していることにも着目しておきたい。

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『真清田神社古絵図』の一部(真清田神社史編纂委員会編 『真清田神社史』1995年)

3基の鳥居を遠山は三輪鳥居とみなし、真清田神社が元来大神神社の神をまつっていたという論拠にしているが、これには批判の余地もある。
『真清探桃集』巻之第一によれば、真清田神社の社殿を建てた時、鳥居形の雲が出現して社殿の後ろに降り、3基の鳥居になったという。
著者の佐分清円いわく、昔は社の後ろに三の鳥居があり、後世悉く亡びて今は僅かにその遺跡が残るといい、諸社が社の前に祠を持つのに対し、真清田神社が社の後ろに鳥居を持つのはこの由縁によるものと述べている。

そのような3つ鳥居に囲まれるように、1基の祠が描かれている。この土壇上の小祠こそが、現在も土壇上に建つ三明神社なのか。

これについては、真清田神社史編纂委員会編『真清田神社史』(1995年)において、三明神社の歴史がある程度研究されている。
それによると、『真清田神社古絵図』に、本宮の西側、西神宮寺の北に宝形造の寺院風の建物が描かれており、これが三明神社であることがわかっている。
この建物は享徳4年(1455年)に火災で焼失し、佐分清円『真清探桃集』によると、この時点で三明神社の社殿は廃絶したという。
そして、社殿焼失後は本宮の内陣に遷御したことが、江戸時代における本宮正遷座の行列の記述からつきとめられている。

つまり、もともと三明神社は土壇の上にはなかったのである。

三明神社の社殿は復興されることのないまま戦後を迎えたが、平成に入り、「古くからの由緒に因んで、平成五年三月に本殿の真後に再建された」(687頁)という。

この「古くからの由緒」というのは何か、思わず深読みしてしまう。まるで土壇上に三明神社がまつられていたかのような記録があるのか。
しかし実際はそうではなかった。別の頁を読むと、「古来単独の摂社として祭られてゐた」(853頁)という意味で独立の社殿を設けなければならないという趣旨であり、土壇上が元来の鎮座地であったという意味ではなかった。

では、結局、土壇の位置に描かれた祠の正体とは何なのか。
『真清田神社史』には僅かに言及があり、これが「摂社」の1つであり、かつて四別宮八十八末社あったといわれる多くの摂末社が衰微した一例だという。しかし何の摂社までかは触れられておらず、濁されている。

山口恵三『尾張一の宮私考―真清田神社七不思議―』(1995年)においても、この本殿裏の摂社について言及しているが、「長円形のやや高い土地の上に建てられており、真清田神社にとって重要な神であったに違いない」が、どの古文書にもこの摂社についての説明がないことからお手上げ宣言をしている。

三明神社は先述の通り西神宮寺の北に描かれているので三明神社でもない社であり、八十八末社の鎮まる場所からも外れているので、名が伝わっていない祠となってくる。
土壇の位置に描かれた、この祠の正体は不明なのである。
ここにおいて、土壇の上にまつられていたという神体石をまつる覆い屋としての可能性も捨てきれなくなる。


遠山の話に資料性はあるか


そもそも、真清田神社がまとめる『真清田神社史』には、土壇のことは触れられているのか。
全文を読んでみたが、三明神社が「本殿背後北門脇の浄地に着工された」(854頁)と一言触れられているだけで、土壇が浄地であることはわかったが、土壇そのものの存在や、三明神社をあえてそこに設置した理由は触れられていない。

そして、この『真清田神社史』の本文編と資料編で一番注意して追っていた字は「真清田弘法」の5字だったが、これもついぞ1つも見つけることはできなかった。
真清田神社の記録の中からは、土壇と真清田弘法の話は完全に除外されていると言って良い。まるでキワモノの話か、遠山の聞いた話が創作話であったかのようである。

遠山の話も、誰かから又聞きしたあやふやな記録であり、この証言がどれほど正確を期しているかは批判的にみないといけない。

土壇の話は遠山正雄の話からしか今のところ出てこず、『真清田神社史』『真清田宮御縁起』『真清探桃集』にも登場しない。ただし、それと同時に、真清田神社本宮の神体が何にあるかについても読んだ限りでは記述を見つけられなかった。

では日泰寺からの当時の(混同される前の)詳細な記録は残っていないのか。さらに望むなら、遠山以前に真清田弘法の話について触れた文献はないのか。もはや、 それを探さないとこの先の結論が出てこない現状となっている。

まとめ


本石は、様々な文脈が絡み合って複雑化しているので、下記の簡単にこれまでの検討の結果を整理したい。

・水精石・・・『真清探桃集』に記された神宝の1つで、宝暦年間の神宝目録には水晶石の名前で記録されている。弘法大師の雨乞いで落命した龍の神体石で、弘法大師が奉納したと伝わる。真清田神社の神庫に収蔵されていたが、明治時代の神仏分離のため明治2年(1869年)に流出する。龍神石と名を変えて覚王山日泰寺の八十八ヶ所開山記念堂にはじめ(少なくとも昭和4年8月よりも以前の話)安置され、その後昭和5年(1930年)1月に本坊位牌堂に移された。その後、熱心な信者の働きかけで日泰寺境内の池に浮かぶ小島に神殿が造営され、今度はそこにまつられた。そして平成元年、日泰寺から真清田神社へ返還された。現在は真清田神社境内社の八龍神社に安置されている。

・三種の名玉・・・三明神社の神体。室町時代に社殿焼失後は本宮内陣中壇に移された。明治時代の神仏分離で流出したかどうかは不明で、今も真清田神社の本宮内にあるのか、再建された三明神社の中にあるのか、流出し所在不明なのかはわからない。

・真清田弘法・・・遠山正雄が聞いた話では、本宮背後の土壇にまつられていたという真清田神社の神体石。日泰寺の看板では弘法大師の念持石であり、二大竜王の神体石という。廃仏毀釈のため真清田神社の手を離れ、日泰寺境内にて真清田弘法としてまつられる。昭和8年(1933年)の時点では、年に一度虫干しの時だけに開帳される存在として真清田弘法がまつられていたことが遠山正雄の記録にある。


(1)「水精石と真清田弘法は別個の存在である」説

「弘法大師が奉納した龍の神体石」で「真清田神社から日泰寺へ流出した」という意味で、水精石と真清田弘法は酷似していることは繰り返し述べてきたとおりである。

この両者を同一物と即断できない1つ目のポイントは、龍神石は神庫所蔵で、真清田弘法は土壇にあったという点である。ただし真清田弘法が土壇上にあったと述べるのは遠山の話だけであり、日泰寺看板には流出前の場所は特に書かれていない。遠山の話に誤りがあり正しくは神庫にあったと仮定すれば、こちらの差異は解消できる。
しかしそれ以上に同一物を疑わざるをえない第2ポイントは、水精石は日泰寺の八十八ヶ所開山記念堂→位牌堂→池内の小島へ安置されたのに対し、真清田弘法は位牌堂ではない、境内の一画に独立して祠内安置されている点。

同一物でないとしたら、水精石は真清田神社に戻ったのに対して、真清田弘法は今も日泰寺境内の祠の中に安置されていることになる。
今も真清田弘法が現地に祠として存在し、世話人が時折お経をあげている現状の様子とも矛盾しない。日泰寺職員も真清田弘法の祠の中身は見ていない。真清田弘法の現地看板に、真清田弘法が龍神石であると一切書いていないことにも合致する。
つまり、水精石と真清田弘法という、類似した伝承を持つ、2つの別個の石があったということになる。


(2)「水精石と真清田弘法は同一物である」説

逆に、水精石と真清田弘法と同一物とみなすもう1つの可能性も提示してみよう。

遠山の話を是とするならば、 昭和8年秋の時点で、真清田弘法が石であるという話が伝わっている。
水精石が日泰寺に移されたのは、少なくとも昭和4年8月以前である。

水精石が最初は日泰寺の八十八ヶ所開山記念堂、そして位牌堂に安置され、その後、すぐに真清田弘法として外に移されて独立してまつられるようになったという可能性だ。
想像を豊かにして、このような流れを描き出してみよう。

昭和4年8月以前に、長谷川鍬次郎が日泰寺の八十八ヶ所開山記念堂に水精石を納める。この時までに、龍神石に名前を改められている。

昭和4年8月初旬、森徳一郎が龍神石の存在を聞きつけ、一度日泰寺に足を運ぶが、長谷川が鍵を持っていて長谷川の許可がないと拝観できないことを知り、一旦あきらめて帰る。

昭和5年1月、長谷川が龍神石を八十八ヶ所開山記念堂から本坊位牌堂内に移設する。

昭和5年2月、森徳一郎が長谷川に願い出て、位牌堂の厨子内に安置された龍神石を拝観する。

その後、昭和5年~昭和7年の間に龍神石は位牌堂から移され、日泰寺境内端の祠へ真清田弘法としてまつられる。

昭和8年秋、遠山正雄が真清田弘法の話を聞く。なぜかその時点で、土壇から流出した神体石という話に盛られる。

昭和58年、3名の女性たちの活動によって日泰寺境内の池内の小島に神殿が造営され、真清田弘法の中に置かれていた龍神石を、そこに移設する。

昭和61年、龍神石は真清田神社に返還され、平成元年、八龍神社の神体石としてまつられる。

以上の流れはすべて、すべての石が同一物であると仮定した場合の推測である。
昭和5年から8年の3年間という短い期間で、位牌堂にあった龍神石が真清田弘法へ移るということがあるのか。
また、その間に遠山へ伝わる話が、そこまで元の事実から変化してしまうものなのか。
さらに、真清田弘法の現地看板には水精石・龍神石の記述が一切ないこと。位牌堂から移された旨も書いていないこと。二大竜王(真清田弘法)と八大竜王(八龍神社)の違いは許されるのかなどの疑問が残る。

さらに気にかかるのは、森徳一郎が昭和10年に書いた「郷土史談(三二) 真清田神宝流出記(5) 十六 龍神石」の記事の中でさえも、「真清田弘法」の五文字が一度も出てきていないということ。
昭和5年~昭和8年の間に龍神石をまつる場所として真清田弘法ができたのなら、昭和10年に記事を書いた森から、真清田弘法の名称ぐらい出るものではないのか。

しかも森はこの記事で、龍神石が「将来鎮守として、改めて境内適当の場所に社殿を築いて奉祀する方針である」と書いている。ということは、昭和10年時点では龍神石はまだ位牌堂の厨子の中と考えるのが妥当ではないか。
さらに言うなら、昭和39年の『真清田神社江戸時代の神宝と流出』でも、森は龍神石が位牌堂の中にあるという記述のまま抄録しているのだから、昭和39年時点でも龍神石は本坊位牌堂内にあったという可能性が高い。
本坊奥深くにあるからこそ、後年、3名の女性(この方々の詳細情報もよくわからない)が、日泰寺境内の池に浮かぶ小島に神殿を設ける運動を起こしたのだという流れも自然に肯ける。

昭和10年の森の記事と同時期資料である、昭和8年に遠山正雄が記した「尾張地方のイハクラに就いて」の中には、真清田弘法の名称がすでに登場しており、年に一度、虫干しの折だけ開帳されるとの話を載せている。それより後の、森の記事に真清田弘法の名が出ないのはなぜなのか。
一方、遠山論文の方では、龍神石・水精石などの名前が一度も出てこないのも疑問である。ただ、遠山は奈良県大神神社神官であり、自らのイワクラ調査の一環で真清田神社の歴史を表面的にかじったにすぎず、真清田神社の神宝目録まで詳しくは知らなかった可能性が高い。
だから遠山サイドから龍神石・水精石の名前が出ないのはまだ理解できる。しかし、真清田神社および一宮市郷土研究の碩学である森徳一郎サイドから、真清田弘法の名が上がらないのは異常である(森は愛知県史・一宮市史の編纂委員でもある)。

繰り返しになるが、龍神石が現在、真清田神社境内の八龍神社に返還されたというのに、日泰寺境内に現在も真清田弘法の祠がまつられているという事実は、何を意味するのか。

いずれにせよ、現状では性急な結論を出すことはできないので、両説を提示しておき、今後の調査課題としたい。新情報があれば本項を改訂したいと考えている。
その場合には、根拠のない主観や固定観念を当てはめず、あくまでも文献史学的検討、民俗学的聞き取りに基づいて判断することが重要だ。

遠山の聞き取った話が創作話と確定できない限り、本殿裏の土壇に神体石がまつられ、それは真清田弘法に名前を変えたという流れを無視することなく、検討し続けていかなければならない。


神水舎の御神體について


真清田神社境内に神水舎があり、その中に「おもかる石」と石棒状の金精が安置されている。金精の安置台には「御神體 鑿井の折聖地より発掘された」との由来が彫られている。

井戸を掘りだした時に見つかったということなので、掘り出した場所は井戸を湧き出させた現在地あるいは境内の湧水地であり、土壇の神体石とは別の存在である。真清田神社の地中に埋もれていたのであれば、これまで触れた真清田弘法のストーリーとも交わらないだろう。
自然石を金精に見立て、石に神性を見たという意味で普通名詞としての御神體の名を冠したものだと思われる。


1 件のコメント:

  1. とても興味深い。磐峅に関しては滋賀県近江八幡の長命寺が武内宿祢が三百才の長命を祈願した磐だといわれている。神話とはいえ仏教伝来よりはるかに時代を遡ることから、じょうもんじだいにんら:する信仰を思わせる。
    真清田神社の由来よりも遡る中島の信仰がある可能性を感じさせるものであると思うのだ。

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インタビュー掲載(2024.2.7)