インタビュー掲載(2024.2.7)

2019年10月7日月曜日

内部の「なぞの石神」は現存した(三重県四日市市)


三重県四日市市貝家町

「なぞの石神」とは?


1985年、四日市内部(うつべ)地区で活動していた内部郷土史研究会が「内部旧跡案内図」という地図を作製した。

内部郷土史研究会「内部旧跡案内図」(1985年)一部抜粋

同地図より


この地図の番号5に「なぞの石神」と書かれた場所がある。

上地図のとおり貝家町に位置するが、曖昧な地図である。
現地は山林と住宅地が入りまざるエリアで、この地図だけで場所を特定することは困難である。

うつべ町かど博物館運営委員会・編『内部の史跡・旧跡案内 わが町再発見』(2013年)によると、1985年の「内部旧跡案内図」は、今となっては所在がわからなくなっているものが多いため、うつべ町かど博物館が2009年に新たに追跡調査をして、現在の地図上にマッピングしたのだという。

その調査結果、「なぞの石神」はリストから省かれた。
1985年当時で「なぞ」と呼ばれているような存在であり、追跡調査でも特定できなかったのだから、これはもはや歴史消滅に近い状態である。

聞き取り調査


そこで、追跡調査の仔細を確認するためにうつべ町かど博物館を伺ったところ、内部地区の歴史を調査され『うつべ歴史覚書』を2017年に上梓された稲垣哲郎さんとお会いできた。

稲垣さんによれば、「なぞの石神」については貝家町で調査をした際、同町の歴史に詳しい方が「わからない」と述べたそうで、それで現在の史跡マップからは省いているとのお返事だった。

博物館を出て、次は現地で調査をおこなった。
「なぞの石神」は旧跡「なこの坂」の西に位置するようなので、なこの坂周辺でも一軒ずつ訪問して聞き取りをおこなった。

なこの坂

最近現地に銘板が設置された。

一帯はもともと山林を切り開いた宅地であるため土地の人が少ないなか、同地で生まれ地区の最高齢として紹介された85歳の男性や、鎮守・加富神社の氏子総代をされている男性、内部で史跡看板を立てた方など数名からお話を伺った。
しかし、いずれの方も石神はご存知なかった。

約35年ぶりの確認


いわゆる地元の最長老格や、歴史に詳しい地元の方が知らないという結果にやや心が折れかけながら、あきらめきれず路地という路地を歩いたところ、突如、路傍の石が目に入った。

写真左下に注目。

高さ約25cmで、何も刻まれておらず、本当に何の変哲もない石だ。







町内ではもっと大きな岩石にたくさん出会ったが、この石の手前には、何かを立てていたであろうコンクリ製の基壇が二基横並びしている。おそらく花を手向けていた祭祀跡ではないか。

ちょうど、道路を挟んだ向かい側の隣家に男性がおられたので、思わず声をかけた。
この方は、この石にまつわる物語をご存知だった。

いわく、この石はもともと坂(なこの坂と思われるが、なこの坂と言っても通じなかった)の途中にあり、子どもの頃からまつられていた石だという。
やはりただの石ではなく、位置的にも「なぞの石神」と認めて良い。

そして数十年前、山林を切り開いて今の宅地を開発した時、土建屋の社長さんがこの石を坂から現在地(会社の敷地)に移設したそうである。
移設したその社長も会社も今はなく、残ったのはこの石と、その経緯を見ていた隣家の方だけということである。

自然石とのつきあいかた


隣家の方は、この石の詳しい由来を知らないとのことだったが、35年前ですでに「なぞの石神」なのである。
かろうじて石自体は消滅しておらず、その経緯も今回記録にとどめることで、石の歴史の寿命を延ばせたことを幸いと考えたい。

自然石信仰は、たとえば地域で一番大きい石だったら神とされるものではない。
石には彫刻も文字も刻まれないから、歴史に造形が深い人が意識する存在とは限らないことにも注意したい。
とりわけ、巨石でも奇岩でもない路傍の自然石は、ものの本からも除外されやすい。そんな周縁外の存在にこそ、眼を向ける意識が求められる。

自然石の歴史に出会うためには、自然石を通して「人の歴史」を見た人に出会うしかない。
地区の中でその人だけが知っていて、その家族やご近所はすでに知らないという、そんな一筋の光明にまなざしを向けることで自然石とつきあうことができる。

あらためて、「なぞの石神」が内部や四日市の旧跡として再び認知されることを願って、ここに所在地と現状を記録しておいた。

参考文献






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