2025年9月27日

尾張大國霊神社の磐境(愛知県稲沢市)

愛知県稲沢市国府宮


尾張総社として知られる尾張大國霊神社(通称・国府宮)の磐境は、現存する数少ない磐境の実例として著名な存在だが、拝殿と本殿の間にあるためおいそれと実見できるものではない。

このたび、神職さんのご厚意に預り磐境の見学および撮影許可をいただくことができた。磐境に関する取扱いや位置づけには不明なところも多かったので、誤解のないように今後に向けて重要な情報をまとめておきたい。

尾張大國霊神社の磐境。本殿向かって右手前に存在。


神職さんからの聞き取り


◆「磐境」の読みかた

「磐境」の字で「いわくら」と読んでいる。
この場所は神様をお招きした「座(くら)」であり、岩石で境をつくり、その中に神様が座すという理解なので、その意味を重視した読みかたであると以前の宮司から引き継いだものである。
ただし、「境」で「さか」と読む立場もあることも承知されており、否定まではされていない(神社発行の由緒書にも「いわくら」「いわさか」の両音が併記されている)。

◆ 磐境の個数

文献によって磐境の岩石の個数を7個と紹介されることもあるが、神社としては「5個」と認識している。
見ようによっては5個以外にも周辺に石が見えるものの、磐境としてとりわけ特別視しているのは5個である。

◆ 磐境への祭祀の現状

磐境に対して定期的に行っているような神事・祭礼は存在しない。
すでに神様が隣の本殿内に鎮まっているので、現在の祭祀は本殿に向けておこなうということである。
磐境は社殿が設けられる前の古い祭場であるという意味で大切にされている。

注連・紙垂は最低年2回は新しくするが、荒天などにより傷んだ折はその都度交換するようにしている。
近年、社叢に鷺が住み着き糞害や羽根・落葉などの掃除に悩まれていることも伺った。

◆ 磐境の見学・撮影についての立場

場所柄、誰しも見られるという意味での公開はしていないが、(今回、吉川が許されたように)状況に応じて見学を許可されている。写真撮影も禁じられてはいない。
基本的には、神職の方々が対応できる時期やタイミングであれば、下記の手続きを踏むことで可能とのことである。

  • 尾張大國霊神社の神事・祭礼日などは当然ながら神職者は忙しいので、そのような日を避ける。筆頭は全国的に有名な2月の儺追神事(はだか祭)であるが、その準備期間には正月も重なるので、12月からは多忙とのこと。また、はだか祭の後も5月に梅酒盛神事が大きな神事となるので、毎年6月~11月が望ましい。
  • 書面での事前申請をお願いしたいとのこと。申請内容としては、いわゆる昇殿参拝(正式参拝)としていただければ、昇殿時に本殿・拝殿の間にある磐境の案内・説明もいただける。尾張大國霊神社の昇殿参拝の初穂料は一人あたり千円が目安とのことで、事前予約は必要なものの、祈祷などの初穂料とは異なり正式参拝のみで磐境見学が可能である。
  • できれば個人参拝が相次ぐよりは、ある程度人数がまとまった団体参拝での申請のほうがありがたいように感じた(私にも30分を越えるご説明をいただいたので、毎回説明を行うことを考えれば納得である)。
  • 昇殿せずに外から磐境を撮影したい場合は、拝殿向かって左側の、拝殿と廻廊が接する角から本殿向かって右手前を望むと磐境の上部だけ見えているので、そちらから撮影する分には止めていない。ただし、時と場合によって拝殿の扉を閉めることもあるのでご了承願いたいとのことである。

この辺りの情報は今まで明らかになっていなかったと思うので、今後、同好の方におかれては参考としてほしい。

写真中央の立札の裏あたりが、拝殿と廻廊の境目

その境目から磐境を撮影すると上写真のようになる。


吉川の所見


岩石信仰研究の立場から最も興味深かったのは、磐境の5個の岩石は「境」であり、神が降り立つのはその内側の「場」にあり、それを「座」とみなす部分だった。

これは岩石を「境」の役割としていて、岩石自体に「座石」の機能を求めるものとはなっていないが、見方を変えれば、境たる岩石も含めたその場一帯が「いわくら」なのだと解釈もできる。
磐境という存在が「空間」性を特徴とする岩石祭祀であり、その点で、磐境は磐座を内包しうるというのは他例を顧みても肯けるところである。

そして、現在、磐境は現役の祭祀の施設ではなく、かつてここが祭祀の淵源だったことを歴史的に示す「聖跡」として位置づけられるのもそのとおりである。


磐境の個数については7個説と5個説があったが、今回伺ったお話により、信仰・祭祀の当事者としては5個を磐境として神聖視されていることが明らかになった。

7個説は「誤り」ということになるが、写真をご覧いただくとわかるように、主石となる5体の傍らにも小さな岩石が複数確認できる。

西から撮影

南から撮影

磐境の北辺を拡大

磐境の北側に仕切りのように並べられた岩石群もある(上写真)。玉砂利より一段階大きく磐境を構成するものとみなすこともできるが、苔むしているものと比較的新しい石肌のものに分かれるようで、仕切りとして後世追加されたところもあるように見受けられる。

また、磐境の内側の地表面には、地中から僅かながら顔を出しているものもあり、他にもまだ地下に埋まっているような感もある。
その点を踏まえると、現在の姿は時代の経過と整地の蓄積である程度地層が重なったもので、地表面の原景は異なる姿だったのかもしれない。


歴史記録まとめ


磐境に言及した文献に『張州府志』(18世紀)と『尾張大国霊神社神祠記』がある(田島 1977年)。それらによると、瑞籬の内に「磐石」があり、祠官が崇敬していたことが記される。
さらに当時、空海がこの石を畳にしていた(磐境の横たわる一石か)という俗信があったようで、それは後世の付会でむしろこの磐石は「大穴持像石」だったのではないかという考えが示されている。


江戸時代の記録においては、「磐境」という用語は登場せず「磐石」という表現になっていることに注意したい。
「磐石」は岩石の当時の呼びかたであり、普通名詞のような使われかたである。つまり、神官が崇敬する存在だったにもかかわらず来歴は当時すでに不明となっており、この岩石群に定まった呼び名が伝わっていなかったようである。だから文献著者も「磐石」と書くしかなく、空海の机石説や大穴持命の神像石説も飛び出す「無色透明」な存在だったのだろう。
磐境の語は神道用語として長らく使われてきたが、明治時代以降の神籠石論争を経て学者間で広く知られるようになった。磐境の字はその頃に定着した可能性もある。


尾張大國霊神社の宮司であった田島仲康氏は、空海の畳石説、大穴持命神像石説は後世の付会であることに加えて、鳥居龍蔵博士のストーンサークル説や国司庁・神社建設時の石材・庭石説などにも否定的である。

大穴持命の神像石という説は、石川県の宿那彦神像石神社などの「神像石神社」から着想を得たものと思われ、たしかにこの説に強力な根拠はないものと思われる。
また、空海説についても弘法大師伝説の付帯する岩石は全国数多く、空海が実際に足を運んでいたか否かを問わない状態である。同様に高い説得性は持たないだろう。ただし、江戸時代の俗伝として弘法大師信仰に絡める人々がいたというのは事実となるので、この磐石に弘法大師信仰の側面があったことは認められるだろう。


先出の田島氏によれば、磐境の配置状態から祭祀の向きは東方向になると評価しており、その先には尾張本宮山が見えた可能性を指摘し、本宮山を祭祀するための施設だったのではないかという仮説を提示している。

五石が囲む中で、西側(写真手前側)だけ1人分のスペースが空く。

祭祀の向きを東方向とみなしたのは、磐境の五石のうち、岩石同士がもっとも離れているのが西側であることから、そこを司祭者のスペースと解釈したものと思われる。
現在の磐境の配置が、地表に露出したまま原位置を保ち続けていたと仮定するなら、西側に岩石がない意味を説明する1つの理由となるだろう。

しかしながら、五石のうちの一石は立った状態ではなく倒れている。
初めから倒すことに意味があった可能性もあるが、磐境が石を立たせることに意味を持たせるものとするなら、この石も元来立っていたと考えないとならない。
また、仮にこの石が立ったままなら、東側にも隙間が認められることになる。その場合、東西に隙間のある環状配石となり、東を志向していたか西を志向していたかはどちらも対等となりうる。
先述のとおり、地中には埋もれているかのような岩石の露頭も認められる。原位置と現状が異なる可能性を考慮すると、現在の状態から性格・機能を類推するには限界があるように思う。

ちなみに、神社境内からは祭祀用か生活用かは不明だが、弥生時代の土器片が見つかっているという話がある。さらに神社約500m東の「塔の越遺跡」(稲沢市長野)からは、古墳時代の竪穴建物・掘立柱建物も出土しており、これらは尾張国府や社殿建立前の歴史を物語る考古資料と言える。


参考文献

  • 田島仲康 「尾張大国霊神社記」 『尾張大国霊神社史料』 尾張大国霊神社 1977年
  • 新修稲沢市史編纂会事務局 「国府宮の磐境」 『新修稲沢市史 本文編 上』 稲沢市 1990年
  • 尾張大國霊神社発行由緒書


2025年9月23日

寄木神社境内社 津島神社の砂(静岡県袋井市)


静岡県袋井市西同笠

 

袋井市には寄木神社が三社あるが、その中で最も原型とされるのが西同笠の寄木神社である。

その証左とされる存在が寄木神社向かって西側に鎮座する、境内社の津島神社の特異な社の在りかたである。

津島神社

津島神社を背後より撮影。写真手前の配石は炉か。

葉で覆われた高さ1.6mの高床式の建物である。

竹4本を四方に立てて、中心に立てた白木の角材の上に神札を付け、その周りを大量の葉で覆い塀とする。葉は境内に繁る杉の葉が用いられる。

極めて原初性の高い建築であり、遠州灘沿いの海岸部において寄木という地名から、海からの漂着神信仰に由来するものではないかと考えられている。

その漂着神のよりつく霊代としての木の信仰が、地名と立木の祠に現れ出たということになるが、岩石信仰の観点から注目されるのは、祠を設けた場に敷かれる「砂」である。

津島神社の聖域に敷かれた砂(雨天時の撮影のため祠の周囲は濡れている)


この祠が建てられる聖域には約二メートル四方にわたって、高さ五センチほど白砂が盛られている。そして、前面の二本の自然木を柱として注連縄が張られている。この祠の造営は毎年交替で一〇名ずつの神役によって行なわれる。神役は部落の南にあたる遠州灘で禊ぎを行ない、続いて、渚の清浄な砂を社域用として境内に運び、その後、杉の葉と竹で祠を造るのである。
野本寛一『石の民俗』雄山閣出版 1975年

野本氏は、砂運びが年1回という定期的な間隔でおこなわれていることを指摘し、定期的な祭礼で招く神の座として砂が機能していたことに注目する。

砂は、海や水にかかわる神の座として相応しい媒体であるばかりか、「砂は石の小極」とみなす立場から、各地の神社で白砂が敷かれることの意味もあらためて問うている。

岩石信仰における「砂」の聖性を示す典型例と言える。


2025年9月21日

岐佐神社の赤石(静岡県浜松市)


静岡県浜松市中央区舞阪町舞阪


どういうわけか大国主命の命を奪ったとされる真っ赤に焼けた赤石も鎮座する。宮司の高柳智さん(74)は「昭和十七年に現在地の神殿横に置いた。その前は神社の鳥居近くにあった。いつ、赤石を神社に持ってきたのか知らない」と話す。火傷などに御利益があるとされ、赤石をさすっていく人も多い。
静岡新聞社[著・発行]『石は語る』2003年

原位置からの移動伝承を持つ岩石である。
また、現在は看板に「赤猪石(あかいし)」と名付けられ、出雲神話にさらに寄せた名称となっている。歴史的に遡る静岡新聞の「赤石」表記を優先して表示した。


2025年9月15日

太刀山愛宕神社裏山の愛宕大権現(静岡県浜松市)

静岡県浜松市中央区舘山寺町 舘山寺

秋葉山舘山寺に接して太刀山愛宕神社が鎮座する(太刀山は舘山と同音)。

神社の裏には山道が続き、5分も登れば山頂の尾根筋に出る。そこには無数の岩塊が露頭し、一画に玉垣に囲われた石祠が存在する。太刀山愛宕神社の奥宮と目される。

愛宕大権現(太刀山愛宕神社奥宮)

石祠に捧げられた穴あき石

藤本浩一『磐座紀行』(1982年)では「館山寺・磐大権現」と題した一項を置いている。

いわく、『東海道名所図会』の絵図には山の西側に「磐大権現(権現岩)」と書き入れてある場所があり、岩石群の合間に社が挟まれた様子が描画されている。当地の岩石群がそれで、館山(かんざん)は神山に通ずることからここは神山の磐座ではなかったかと所感を述べている。

しかしながら、残念なことに藤本は誤読しており、『東海道名所図会』の絵図に記された文字は正確には「愛宕大権現」である。
下に寛政当時の版本を掲載する。

国立国会図書館デジタルコレクション『東海道名所図会』65コマ。 インターネット公開(保護期間満了)資料のため転載自由。

愛宕が縦書きでやや字が詰まり気味で書いてあるので「磐」の一字に誤認したのかもしれないが、それでもあまりに異なる字であり、「磐」であってほしいという固定観念に冒されていたようだ。

以上のことから、この地は愛宕大権現に関わる岩石群だったということが、歴史学的にもっとも古く遡れる評価だろう。


現地には、岩石の傍らに名前を冠した看板が建てられているものも多い。気づいたものをまとめておこう。

ながめ岩

見かえり岩

神付岩(かみつき岩)。「頭をカミゝして厄を落して下さい」の説明も付される。

寄仲岩。後ろの建屋の床下あたりに「木魚岩」なる岩石もあったらしいが見逃した。

初登岩。山頂尾根の岩塊で最大規模。「初登岩」というネーミングは他で聞かない。

天辺岩。山頂尾根に沿って屹立する岩石群を天辺に準えたものか。

くぐり岩

船岩

これらの名称は文献上で確認できていないが、現代に名付けられたものか、地元で古くから口伝で語り継がれてきた名称なのか、経緯がよくわからなくなり独り歩きする前にはっきりしたいところではある。

火穴

先出の藤本浩一は、同図会の「火穴」という場所も「大穴」と誤読している。

火穴は現在「舘山寺穴大師」「弘法穴」と呼ばれてまつられている場所で、弘法大師がここで修業して自作の石仏を安置し、舘山寺の開基につながったと伝えられる霊窟である。

穴大師入口部分

この岩穴であるが自然の洞穴ではなく、文化財上では舘山寺古墳・弘法穴古墳と呼ばれており、古墳時代後期の横穴式石室であることがわかっている。
大師の霊窟として奥は禁足地となっているので詳細不明なところもあるが、天井石が1個欠けているだけで石室の保存状態は極めて良好である。玄室に対して羨道が長いことが特徴だという(浜松史跡調査顕彰会『浜松の史跡』1977年)。

なお、舘山の山中には十数基の古墳の存在が伝わるというが、本古墳の他に古墳認定されているものはない。


参考文献

  • 藤本浩一『磐座紀行』向陽書房 1982年
  • 秋里籬島 編『東海道名所図会』上冊,吉川弘文館,明43. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/765194 (参照 2025-09-01)
  • 浜松史跡調査顕彰会 編『浜松の史跡』続編,浜松史跡調査顕彰会,1977.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9537735 (参照 2025-09-01)


2025年9月6日

野崎島王位石自然成因説について

テレビ東京9月5日放送番組「所でナンじゃこりゃ!?」の「王位石」のコーナーで取材協力しました。


王位石(おえいし)は、長崎県北松浦郡小値賀町の野崎島にある巨岩で、これが人工的に造られた構造物か自然の地形なのかという依頼でした。

王位石は巨石業界でも有名ですから存在を知っていましたが、私は現地に行ったことがありません。その時点で専門家として噴飯物だと思っていますが、自然説も人工説も適した人が見つからないということでお鉢が回ってきました。

人工説の方もいないんでしょうか。だれか地質畑の方かイワクラ巨石専門家の方、取材を受けてください…。


私は歴史系なので地質系の石は専門外ですと断りを入れたうえで、キュレーターという立場で回答させていただきました。その分、王位石を巡る諸説を調べて正確な情報を提供したつもりです。

実際の取材では約1時間30分話しました。放送では約1分に編集されています。

いろいろ語弊があると嫌なので、ここで補足説明させてください。


取材の打ち合わせ時、想定される質問を事前にいただいていたので、私がその時作成したメモ(回答集)をこちらに掲載いたします。

放送で実際に使われた部分を青字で表示しましたので、それでご理解を賜れば幸いです。


質問1「王位石は岩石信仰なのでしょうか?」

王位石は「生石」「湧出光明神」の異名をもち、石が生まれる、生長する石という信仰を有することから、岩石信仰の中でも「石神」(石そのものを神とする信仰)と呼ばれる種類に属する事例と思われます。

野崎島の沖ノ神島神社(沖津宮)と対岸・小値賀島の地ノ神島神社(辺津宮)を合わせて神島神社と呼ばれてきたので、野崎島のみならず近在の島々・島民にとっての聖地だったと思われます。


また、この在り方は沖ノ島の宗像大社における沖津宮・中津宮・辺津宮の考えと類似するものがあります。

沖ノ島では国家単位での祭祀の場として古墳時代以降の遺跡が見つかっていて、神島神社の神宝にも古墳時代の鉄剣がありましたので、野崎島の王位石も古墳時代以降に国家的な聖地としての位置づけもあったかもしれません(ただし王位石からは祭祀遺物は見つかっていません)。


質問2「王位石は自然にできたのか人工的なのか、どちらでしょうか?」

地質学の分野では、自然成因で説明可能といわれています。

であるとするならば、人工説が明確な証拠を出せない限り、私は自然成因説を支持します。


たとえば人工説には、岩の柱の上に笠石を置く方法としてこういう仮説があります。

岩の柱の後ろの隙間に盛り土をして、その盛り土の上で石を転がして岩の柱の上に乗せ、その後、盛り土を除去したという仮説です。

ならば、盛り土をして、その盛り土を撤去した作業の痕跡を証明する必要があります。それだけの大工事なら、土の乱れが地層として残っているかもしれません。

不用意に発掘調査はできませんが、地層を分析すればそれが自然の積み重なりなのか、人為的な攪乱がみられるのかなどの判断ができるかもしれません。しかし、現状としてそのような証拠はありません。

人工の手があるかないかですから、ある側に立つ人工説側が証拠を提示する必要があります。それがない限りは、自然成因説に立つのが科学的な姿勢だと思います。


また、大事なこととして技術力の証明がほしいです。

王位石をどの時代の構造物で想定するかによりますが、仮に縄文時代や弥生時代とするなら、金属器による工具がほとんどない時代ですから、そんな時代にそのような規模や技術力をもつ遺跡が他にもあるのかということです。こういう遺跡や遺物があるから、こういう規模の技術が可能だったと言える、というような。

できるかぎり考古学的に証明された遺跡で候補を挙げないと、王位石だけが突然変異のような扱いになり、それは非現実的で、その時代・文化の中で生まれたという説得力のある遺跡とは言えなくなるでしょう。

そういう意味では、人工説を唱える方に今挙げた課題を解明していただきたいと思っています。人工説を否定したいのではなく、説得されるのを待っているという立場です。


質問3「王位石の成り立ちを教えてください」

王位石は溶結凝灰岩とみなされています。

これは火山活動により生まれた岩石で、冷え固まった時に体積が小さくなって、その時に節理と言われる隙間が生まれます。

溶結凝灰岩の場合は柱状節理といって、柱のような形に風化・浸食していく節理があるそうです。


王位石の周りは森に覆われているので王位石だけがそこにあるように見えますが、島にはあちこちに岩盤が露出していて、野崎島の海中にも同じような柱状の岩石があるという話もあります(小値賀町郷土誌)。

このように王位石の岩の柱の群れは、元は一つの岩盤で、それが亀裂や風化を起こして、今は柱を複数立てたように見える自然の構造物と言えます。


では、岩の柱の上に横渡しになっている笠石はどうなのかというと、これも地質学的には自然成因で説明がなされています。

岩の柱のうちの1本が途中で折れて横倒しになったという説と、山の上から転がってきた岩石がここで止まったという説です。

笠石が乗る2つの立柱は左右で高さが異なり、それを埋めるように別の岩石が挟まっています。ここに人為性を感じる向きもあると思いますが、そもそも人工的にゼロから石を立てて上に笠石を安定的に乗せたいのであれば、左右の立柱の高さを揃えるものではないでしょうか。人工的という割にはそこに規格的な人為性が徹底されていないのも、自然成因である由縁と考えます。


質問4「石の上に石が乗るという偶然が起こるのでしょうか?」

王位石は山頂じゃなくて山腹にあるんですよね。ここがポイントだと思います。

日本列島の各地で、そのような別の石が乗っかった地形を挙げることができます。

  • 三重県の御在所岳にある地蔵岩
  • 岩手県遠野市の続石
  • 長崎県時津町の鯖くさらかし岩

いずれも山腹にあります。


これらは現状を見ると、下から上に積んだように見えますが、造山活動が起こる前は、もともとは岩石の頂面に地表面があったと考えると良いと思います。

その時代に上の斜面から別の岩石が転がって、下の岩盤にぶつかって止まった。その後、長い時間を経て周囲の脆い地形が削れていって、地中に埋まっていた岩盤が露出すると、結果として積み重なったように見えるということです。


質問5「王位石の前では方位磁石が狂うという話がありますがなぜでしょうか?」

高い木には雷が落ちるといいますが、同じように、高い所にそびえる岩や石にも雷が落ちやすいです。

雷が岩石に落ちると、その場所に本来あった地磁気に影響をおよぼして、岩石自体の磁性も変化するというケースが確認されています。


だから、山の中の岩石に近づくと方位磁石が狂う、不思議なパワースポットだという話を聞きますが、自然というものは常に安定しているものではなく、こういった雷などの日々の現象で環境変化するものとも言えます。

ですので、方位磁針が狂うのもある種当然で自然な現象だと私は受け止めています。

王位石はとりわけ立柱状にそびえる巨大構造物ですので、落雷が落ちやすいと思われます。雷が落ちた直後などに行くと、特に方位磁針は狂うのではないでしょうか。


私個人が注目しているのは、その現象自体が不思議ということではなく、そのような自然現象によって人間が不思議がったり、もしかしたらそのような磁気異常に無意識に影響を受けて、特殊な感情や精神状態が生まれるというヒトのメカニズムです。

そういった、ヒトの心理に影響を及ぼす条件がそろった自然環境というものが、人が聖地として崇めるようになった一因になったのかもしれません。


※番組放送では王位石の磁場が狂うという謎も取り上げられていましたが、私の回答はカットされていたので、磁場の謎は宙に浮いたまま番組終了しました。1分・1秒を大事にする番組編集のタイトさを感じましたが、このように色々話していましたのでフォローに代えさせてください。


出典

王位石についてはすでにいくつかの知見があります。今回の私の回答は下記ソースを紹介したものです。

  • 近藤忠・山口要八「野崎島巨石遺跡の紹介(長崎県北松浦郡小値賀町野崎郷のドルメン)」『考古学雑誌』第37巻第4号 1951年
  • 小値賀町郷土誌編纂委員会 編『小値賀町郷土誌』,小値賀町教育委員会,1978.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9773094 (参照 2025-09-06)
  • 本馬貞夫「神嶋神社と野崎島」(2020年2月4日中日新聞朝刊)
  • フジテレビ2023年8月2日放送番組「林修のニッポンドリル」における出水亨氏のコメント(Xに参考動画あり


2025年9月1日

TV出演のお知らせ(2025.9.5)

2025年9月5日(金) 19時25分~21時54分、テレビ東京系列「所でナンじゃこりゃ!?」に取材コメント放送予定(1分ほど?)です。

番組内容は番組ホームページの告知にてご覧ください。

「野崎島」のパートで出演予定です。


番組ホームページ
https://www.tv-tokyo.co.jp/broad_tvtokyo/program/detail/202509/23083_202509051925.html


2025年8月30日

御許山の三石/三ノ石/石体/石体権現(大分県宇佐市)



御許山の山頂、宇佐神宮奥宮大元神社の背後は永らく禁足地であるが、昭和14年に大場磐雄博士が拝観・撮影しているので資料紹介する。
(大場博士は当時、内務省神社局考証課に奉職していため全国各地の神社の宝物調査をおこなっており、各社の宮司も調査に公式協力していた)

後年、大場博士は下記のとおり語っている。

御許山あるいは大元山の石神で、この山は現在宇佐八幡宮からかなり離れて、南の方へ一里半か二里ばかり行った所にございまして、その頂上には三個の立石が立っております。これが宇佐八幡宮の元だといわれております。これは私も拝観いたしましたが、実際自然石がちょうど並んで三個立っておられます。(略)『八幡愚童訓』という本には、この石はやはり生き石で人体のように暖かみがあるというようなことが書いてあります。やはりそういう風に、特別な精霊をもっているのだ、と古代人は考えていたのだろうと思うのです。

大場磐雄 「日本に於ける石信仰の考古学的考察」 『國學院大學日本文化研究所紀要』第8輯 1961年 


國學院大學デジタルミュージアムが公開する「大場磐雄博士写真資料」には、本調査時に大場博士が撮影した写真もクリエイティブ・コモンズ・ライセンス済資料として公開されている。

宇佐神宮, 九 94~103 [乾板九 94~103], 99 宇佐神宮(昭和十四年七月~八月), 宇佐 八幡 神体/國學院大學博物館所蔵/クリエイティブ・コモンズ・ライセンス済資料

前掲に同じ

前掲に同じ

大場博士は、石が人体のように暖かみを持っているという伝説から、博士が唱えた石神・磐座・磐境の3つの分類のうち、「石神」の事例として評価している。


御許山・大元山は馬城峯(まきのみね)の別称も持ち、岩石の名も三石・三ノ石・石体・石体権現などの表現があるが人によって呼称がばらばらで確定していない。


また、三石を中心に禁足地内には数々の名称付きの岩石群が記録されている。

正和2年(1313年)成立の『八幡宇佐宮御託宣集』には、次の九つの岩石が絵図に注記されている。

  • 四 武内
  • 五 北辰
  • 六 善神王
  • 七 若宮
  • 八 白山
  • 九 善神王


一、二、三はいわゆる中心となる三石であり、やはり名称が特に固定されていない。

四~九は仏家による付会と見る説が濃厚だが、いずれにしても現在禁足地のため文献上に残る記録としてまとめておいた。


2025年8月24日

雨乞山の岩石信仰(愛知県田原市)

愛知県田原市石神町

雨乞山(標高233m)

雨乞山は海抜三百米で、頂上に小さな雨乞神社がある。この社には御神体として、石剣が奉祀してあったもので、夏日旱天が打ち続いて、水田が旱魃し農家の困る時は村中の者が参籠して、御祈祷をしたもので、幾日も打ち続いて、此の御神体なる石剣に湿気を帯びて来ると必らず降雨のあったもので、霊験あらたかな神として、信仰があつかった。
泉村々史編纂会 編『泉村々史』,泉村々史編纂会,1956. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2991712 (参照 2025-08-24)

石剣とはいうが、いわゆる弥生時代の磨製石剣のような整ったものとは異なり、写真(前掲書に掲載)をみるかぎりでは打製で扁平な刃先を成形したものである。剣という字のもつイメージとはまた異なる。

長さは約20cmとされ、人工遺物であることは間違いないが製作年代は確定していない模様である。
かつて考古学者の八幡一郎は、本石剣を東蒙古の石鍬に類似すると指摘した(八幡一郞「石鍬」『考古学雑誌』第31巻第3号 1941年)が、それ以降の本石剣の考古学的評価は情報収集不足につき不明である。

現在、石剣は石神町の自治会において保管されているとのことで、雨乞神社の現地からは移設されているが、文化財指定はされていない様子である。


さて、この石剣は雨乞神社の神体であり、祭祀の折に石剣が濡れてきたら雨が降るという超自然的存在だった。
雨乞山が存する石神町の「石神」はこの神体たる石剣に由来するという説が有力だが、石剣を安置した雨乞神社自体が巨岩の岩陰に鎮まることにも触れておきたい。

雨乞神社

岩穴状の空間に祠を安置する。古くはこの祠内に石剣をまつったということになる。


『渥美町史』歴史編上巻(渥美町 1991年)によれば雨乞神社は通称であり、正式には請雨社と呼ぶらしい。

当社は山頂からやや下ったところに位置しており、巨岩はそのまま現地性の岩盤として断続的に山頂へ続いている。これらの岩石が石剣奉祀以前からの石神の地名由来となった可能性も記しておく。

雨乞山頂上。登山口から40~50分で登頂可。

山腹にある「くちなし台」と呼ばれる場所(現地標示あり)


2025年8月21日

光岩山長楽寺の行者岩(静岡県浜松市)

静岡県浜松市浜名区細江町気賀

細江町気賀の長楽寺の北側にある「行者岩」と呼称される巨岩上から渥美窯製の経筒外容器を採集した。それらは細片であって復元は困難であるが、天白磐座遺跡出土の外容器と同型に属する資料であった。長楽寺は平安時代の開創と伝えられ、当初は行者岩直下の平坦地にあったといわれている。長楽寺の山号「光岩山」はチャート質で白色を呈する巨岩「行者岩」に由来することは間違いない。
辰巳和弘『引佐町の古墳文化5 天白磐座遺跡』引佐町教育委員会 1992年


行者岩の直下の平坦地とは、梅のトンネルを抜けた先に広がる「本堂跡」(観音堂跡)を指す。
ここには現在石塔が建つが、この石塔に向かって右奥にわかりづらいが登り道が続いており、この道を少し登れば舗装された車道に出る。

本堂跡

登り道から本堂跡背後を撮影。登り道の位置関係の参考として。

道が複数分岐するが、上地図のオレンジロード側から回り込むと、地図には図化されていないが航空写真だと行者岩頂上のすぐ近くまで蛇行する舗装道がある。ちょうど蛇行の折り返し地点から少し足を踏み入れるとすぐ行者岩の頂上である。

蛇行する舗装道の折り返し地点。写真左奥に入ると行者岩に到る。

行者岩頂部

行者岩からの眺望。浜名湖も見える。

行者岩の岩肌。岩崖である。

行者岩下部。「光岩」に相応しく白く輝く。

渭伊神社境内遺跡(天白磐座遺跡)と同型の経筒外容器が見つかったということから、12世紀後半~13世紀初頭の経塚遺跡として考古資料化できる。
そして、行者岩という自然岩(岩崖)を経塚として用いた岩石祭祀遺跡として評価することもできる。


麓の長楽寺裏には「満天星(どうだん)の庭」と称される名庭が広がるが、ここからも行者岩の岩肌を確認できる。植林繁茂前の往時には明瞭な岩山の景を望むことができただろう。

長楽寺庭園から望む行者岩(写真中央下)



2025年8月17日

金鑚神社・御嶽の岩石信仰(埼玉県児玉郡神川町)

埼玉県児玉郡神川町二ノ宮


鏡岩

御嶽(御岳・御嶽山)の中腹にあり、国指定特別天然記念物として著名な岩石である。

鏡岩

陽光が射すと岩肌がしっかり輝く(前の写真と比較)。晴天の午前中の訪問をお薦めする。

地質的な詳細および伝説面も人口膾炙しており本記事であらためて詳述はしないが、岩石の精神的性質をまとめると次のようになる。

  • 鏡のように人影が映る岩石として知られ、奇異の怪石として恐れられた。
  • 心の悪しき者が向かうと岩肌が曇り、善い心の持ち主が向かうと岩肌が澄む。
  • 鏡岩の岩肌に落城する高崎城の姿が映り、それを見た落武者たちが憤慨して松明で岩肌をいぶしたとも、敵に見つからないようにするためにいぶしたともいう。


光り輝く岩肌に対して畏怖や忌避の心理が読み取れるが、たとえば信仰の対象としての神聖視とまでは直接的には読み取れないことに留意したい。

麓に武蔵国二ノ宮の金鑚神社が鎮座することから、金鑚神社のご神体石のように言及される例も見受けられるが、金鑚神社が特段の神事を行う対象とはなっていない。


神職家の方の談として、かつては子どもたちが滑り台のように遊んでいたことや、昭和30年代に起こった石のブームで鏡岩を切り欠く人達がいたので今のように鉄柵で囲った話も聞き取りされている(林 2000年)。

親しみをもって大切にされてきた岩石であることは伝わるが、神社信仰の中心という役割を担っていたわけではないことがわかる。


もちろん、かつては岩石信仰の場だったという可能性と、今残る奇異・忌避の伝説はその残滓だったとみなす立場までは否定しきれない。

しかしその場合でも、金鑚神社が神体山としてまつるのは鏡岩が存する御嶽の方向ではなく、北にそびえる御室山(御室ヶ嶽)の方向であることに何らかの説明が必要だろう。


長い歴史の中で鏡岩を神聖視した人もゼロではなかっただろうと容易に想像されるが、記録に忠実であるなら、歴史学的な資料の扱いとしては信仰というより特別視(畏怖・忌避)の事例として把握することが現状望ましい。


日本武尊の火金(火打金

金鑚神社の「かなさな」は「金砂」から由来するとみなされており、日本武尊が自らの火鑚金(火打金)を御室山に埋納したという神社創建由来が伝わる。

金鑚神社における岩石信仰とは、正確に言えばこの火鑚金(火打石)ということになる。


山中にどのあたりが埋納地なのかという位置や実在の有無については不明であるが、山中の岩石は鉄分を多分に含み、実際に鉱石の採掘坑も確認されているという(岡本 2003年)。

御室山・御嶽の一帯が金属採掘の地として重要視され、鉱石を産む山として山岳信仰と岩石信仰たる金鑚神社信仰が成立したことは肯けるところだろう。


弁慶穴/弁慶の隠れ岩

御嶽頂上は岩山となっているが、その岩山を構成する岩盤の下部に形成された岩陰。

弁慶が奥州へ逃れる時にこの穴の中で一夜を過ごしたという(山崎 1986年)。

弁慶穴

なお、現地看板によると弁慶穴の下東に「地蔵穴」なる別の岩穴があり地蔵石仏を安置していたらしいが、その場所は情報不足につき未確認である。


御嶽の仏教系岩石信仰

御嶽は中近世に修験道の行場となり、山名のとおりその後は木曽御嶽山信仰の影響も受けた。

御嶽の山頂には「奥宮」の石祠が設けられているが、岩山の手前には平坦地が広がり、この辺りに護摩壇が形成されていたという。

御嶽山頂の岩山

岩山手前に形成された平坦面と奥宮石祠

また、山中には今も70体余りの石仏が確認されているほか、「袖すり岩」「胎内くぐり」と呼ばれる岩場も存在するという(位置不明)。

御嶽の石仏群(一部。場所は原位置ではなく移動されている)

現地看板。ここにしか載っていない存在が「地蔵穴」「袖すり岩」「胎内くぐり」


駒繋ぎ石

源義家が馬を繋いだ石と伝わる。金鑚神社境内にある岩石だが見逃した。

岡本一雄『金鑚神社』(2003年)には「義家橋と駒繋ぎ石(手前左)」と題された写真があり、端に向かって左手前の岩石を駒繋石と紹介する。一方で同書のp.10~11に掲載された明治35年の「官幣中社金鑚神社境内真景」絵図には、橋に向かって右手前に「駒繋石」の注記と絵が描かれる。

橋の左と右の違いがあるが、歴史の経過で場所が変遷した可能性がある。


参考文献

  • 林宏『鏡岩紀行』中日新聞社出版開発局 2000年
  • 岡本一雄『金鑚神社』(さきたま文庫・61)株式会社さきたま出版会 2003年
  • 山崎康彦「埼玉県の石の民俗」『関東地方の石の民俗』明玄書房 1986年


2025年8月10日

能仁寺の武石と天覧山の鏡岩・獅子岩(埼玉県飯能市)

埼玉県飯能市飯能

能仁寺の武石

武陽山と称しているが昔は武石山と称していた。昔台所に沢庵を漬けて於いたら沢庵石が唸り出した。それから此の石は霊異を顕はして当山の鎮護となった。(略)境内の一偶に武石と称して今尚祀られている。
(『郷土 石特集号』1932年, p.155。旧字を適宜改めた)

山号の由来にもなったといういわれつきの岩石で、外から見るとたくさんの武士が寺を守っているような霊異を見せたことから武石というらしい(あるいは名前が先で伝説が後かもしれない)。

今も境内にまつられると書かれているから存在は有名自明かと思ったら、web上にはそれらしき報告がなく、本堂前を見渡すかぎりは候補となるような岩石も見当たらない。

能仁寺本堂前。きれいに整備されていて自然石の類はない。

寺務の方に武石の場所をお尋ねした。山号由来の石でご存知と思っていたが初耳のようで、その場でいろいろと調べていただいていたものの結論としてはわからないとのお返事だった。

能仁寺には庭園も広がるので、その庭石まで可能性を考え出すときりがない。

ご住職は不在とのことだったので、もしかしたらご住職であれば異なる見解が聞けたかもしれない。
なぜなら武石の伝説や境内にあるという前掲の話は、昭和5年当時の能仁寺住職・荻野活道氏談だからだ。
一般民衆に語りつがれる民話のみならず、宗教施設内における伝承の記録・継承も重大な現代的問題になりつつあるように感じた。

天覧山の鏡岩・獅子岩

当寺の背後は天覧山であるが其の崖下に鏡岩と云ふ面の平滑な岩がある。今では蘚苔些か其の面を汚しているが昔は鏡の様で姿が映ったとか。武石と共に古来能仁寺の七不思議中に算えられていた。
(前掲と同じ)

鏡岩は天覧山(旧愛宕山。明治天皇天覧に浴したため天覧山に改称)の中腹にあり、十六羅漢石仏が刻まれた岩肌の特に西側では今も平らな面が残っている。

鏡岩と思われる岩肌

同じ岩肌を逆サイドから撮影。平滑面が見える。

十六羅漢石仏

看板には石仏のみ記され、岩石名は等閑視されている。

そのすぐ近くには獅子岩と呼ばれる岩石もあり、いずれもチャートの節理と断層で生じたものとされている。

獅子岩

獅子岩からの麓の眺望

今は奇岩怪石の名勝としての位置づけであるが、かつては愛宕社がまつられた山であり鏡岩の岩肌には石仏が刻まれる環境にあった。
神仏すまう聖地の中における岩石信仰の事例候補としても把握しておきたい。

天覧山頂上。山頂にもチャートの岩盤が露頭する。


参考文献