2025年11月10日

夜鳴石(愛知県一宮市)


愛知県一宮市木曽川町黒田


白山神社の境内にあった石で、夜ごと丑三つ時になると泣くので、外に出したら泣きやんだ。
堀田吉雄 編著『東海の伝説』,第一法規出版,1973. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12467820 (参照 2025-11-10)

この白山神社の公式ホームページで、宮司の方が夜鳴石について興味深い話を述べているので紹介したい。

まず、夜鳴石が現在置かれている場所は白山神社の表参道の末端となる辻に当たり、この場所ではかつて左義長が行われていたことを明らかにされている。

村境の辻角であり厄神送りと目される左義長の存在から、「村境において疫神を防ぐために祈りを捧げた場所」の跡という見解を示されている。

さらに、一般的に夜泣き石は神社の中に入れられて泣き止む流れなのに、本例の夜鳴石は神社の外に出ることで泣き止むという特殊性に注目されている。

仮説として、神社境内にあったことで良からぬ出来事があって神社の外に出されたのか、古い巨石信仰に端を発するものだったのかといった可能性に触れている。

一般的な夜泣き石は神社の中に移されることで泣き止むと言えるのか、事例数を元にしたデータで見たことはなく論拠不明だが、夜泣き石境界神説については今後検討の余地がある。


2025年11月1日

石神様/おもかる石(愛知県津島市)

愛知県津島市今市場町1丁目


津島神社境外摂社の大土社の社殿裏に、石垣に突き出た形で基壇が用意されその上に岩石が置かれている。

石棒状と形容するには短寸であり、本来何を志向した形なのかは一考の余地がある。




津島市の観光案内などでは「大土社の石神様」と紹介されることが多いようだ。

しかし、大土社は石神様の現所在地を指すにすぎず、歴史的にはもともと少し離れた辻沿いにあり、「石神社」として一座の社扱いだった。

明治43年(1910年)の津島の大火により社地焼失してから、大土社に石神様のみ移設されたという流れらしい。

このあたりの沿革について最もまとまった記録として、子宝信仰の事例を医療の観点から取り上げた『愛知県医事風土記』(1971年)を引きたい。ここでは「石の陽物」と題して紹介されている。

大土社背面にあって、明治四十三年、辻(現在、市道元標あり)の大火までは辻東側の石神社のかこいの中にあったという。辻は名古屋から津島への東西の道路と津島北口から佐屋、桑名への南北の道路との交差点で、古くから道祖神が祭ってある。道祖神が陽物をシンボライズしていることは諸国の例から考えても珍らしいことではないが尾張地方には珍らしいというので、民俗学に興味のある人々が時々来訪し、寸法を測ったり写真を撮ったりして行く。子のない人が妊娠を祈り、また良縁があるように祈る人があるという。

『愛知県医事風土記』,愛知県医師会,1971. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12644342 (参照 2025-10-30)

なお、愛知県が運営するサイト「Aichi Now」の紹介文には、「おもかる石」の別称も挙げており、石を持ちあげてその重さでご利益を占う祭祀も付帯している。運試しをしてはいかがと同サイトでは推奨しているが、岩石の大きさとしては今後の保存が不安になるほどである。前掲文献では、かつては石神社のかこいの中にあったというから、その頃におもかる石の祭祀があったのかには疑問もある。

また、「NPO法人 まちづくり津島」のサイトには「旧石神社跡地にも陽石が置かれています」との興味深い一文が見られる。旧社地とは、現・大土社から西約400mに鎮座する秋葉神社(境内に大土社の祠がある)の辺りではないかと思料したが、秋葉神社およびその手前の道沿いには確認できなかった。他の場所かもしれない。

秋葉神社(津島市橋詰町2丁目)。写真右が大土社の祠。

2025年10月27日

三ッ石/三つ石(愛知県津島市)

愛知県津島市神明町 津島神社境内




直径二メートル、一.四メートル、三メートル短径一メートル前後の滑らかな硬砂岩の自然石三個が、境内に巴状に置き並べられています。この三つ石は「尾張名所図会」の神社境内図にもほぼ現在の位置に描かれています。津島神社は欽明天皇元年(五四〇)にここ居森の地に鎮座したと伝承されており、古代祭礼の場としての磐境と考えられることから、神社の鎮座と何らかの関わりがあるのかもしれません。
(現地看板より)

『尾張名所図会』の該当の絵図を下に掲載する。

岡田啓 ほか『尾張名所図会 7巻』[7],菱屋久兵衛[ほか],弘化1 [1844]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13589305 (参照 2025-10-27) 58コマ。インターネット公開(保護期間満了)資料で転載自由のため掲載。

3個または4個にも見えるが岩石が描かれている。
細かいことだが、「三つ石」ではなく「三ッ石」の表記であるため、歴史学的には本来的な名称として「三ッ石」を優先したほうが良い。
現地看板が記すように、たしかに本文には三ッ石の記述はなかった。絵図上だけの存在である。これは、三ッ石の伝承が当時すでに失われていて何も書けなかったのか、枝葉末節の存在のため省略されたのだろうか。


江戸後期から流行った各種名所図会において、絵図上には岩石名が注記されながらも文中では言及されない存在は他例でも見られる。
たとえば同じ尾張名所図会の例であれば、尾張本宮山には鷲岩穴明神社がまつられていて絵図上にも岩穴が描かれるが、神社の紹介に終始して岩石の説明はない。
だが、同時代の『尾張志』には、鷲岩穴明神社と共に別頁に鷲洞の名で登場し、巨石に穴が1つ開いているが人が入るには難しく、穴の深さは知れずと記され同一のものとされる。
一つの文献に記されなくても、別の文献には情報が記されるということは当然起こりうる。

このように、文献に記述がないからと言ってそれが当時すでに由来不詳だったと言い切れる証拠にはない。
三ッ石がどうだったかは、一つの文献からどうこう断言できず不明瞭とみなすのが適切な理解であり、ましてや「磐境」説は一つの可能性としてとどめて独り歩きに注意しなければならない。

あらゆる情報は記憶・記録となるから、それらが後代に忠実に伝存することが望まれる。本記事もそうありたいと思って書いた。三ッ石はこのことを教訓として教えてくれる。

2025年10月20日

白雲神社の薬師石(京都府京都市)

京都府京都市上京区 京都御苑内 白雲神社境内


現地看板によると「御所のへそ石」(京のへそ石は一般的に六角堂のそれが有名)の異名をもち、撫で石としての霊験を伝える。薬師の名もこれに縁するものかもしれない。岩石の前面の凹凸を人面と形容するのも、薬師の顕現の表れということか。

白雲神社の社殿背後に存在。玉垣は岩石を囲わず手前の供花台と板石の部分を覆うのも独特である。

写真中央の岩肌に凹凸の陰影の深い部分があり、これを人面に準えたものか。

側面から撮影。岩石の基部には、岩盤に石を噛ませているようである。

現地看板

看板では古くからの磐座と記すが、歴史的にはどのような存在だったのだろう。

白雲神社は京都御所の中にあり、元々は西園寺家が個人的にまつる妙音堂だった。その由縁から「西園寺の妙音天」という呼ばれ方が元来的で、明治時代になって西園寺家が東京へ移ってから祭祀を存続するために白雲神社として神社に改称した。

薬師石の来歴を文献からたどるのは難しい。1996年発刊の下記文献に、境内に薬師石がみられるの一文を確認できたくらいである。

文献に記されていなくても、このように私的な祭祀の場の場合、公刊化されていない私文書や口伝において信仰が継続されていた可能性もある。その点で白雲神社自身が文章化した現地看板に勝る内容はない。


参考文献
  • 現地看板
  • 石原康夫「京都白雲神社記」『私考弁才天記』第3巻,石原康夫,1996.1. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13223711 (参照 2025-10-20)

2025年10月16日

安井金比羅宮の縁切り縁結び碑(京都府京都市)


京都府京都市東山区下弁天町

縁切り縁結び碑

穴をくぐる

大量のお札(形代)に覆い尽くされていてわかりにくいが、岩石に開いた穴をくぐることで悪縁を切り、また、良縁を結ぶことで有名である。

訪問時は穴をくぐろうと人が行列をなしていてどうしても顔が映るため、見えないように加工して掲載した。


安井金比羅宮の縁切り縁結び碑のことを初めて知ったのは、京都新聞1999年7月1日付の「岩石と語らう」コーナーでの特集だった。

「碑」で「いし」と読むので、「縁切り縁結び石」の表記でも見かける。


歴史的にはいつから存在する岩石か。

下記文献に明記されていた。

安井金比羅宮に新名所

安井金比羅宮は1月に夫婦和合を干支で表した干支回縁碑を建立したのをはじめ5月には縁切り、縁結び石の建立、7月には朱傘の灯籠が建立された。これは「境内を憩いと信仰の場に」との宮司の願いで建立されたもの。

『京都年鑑』1981年版,夕刊京都新聞社,1980.11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9570356 (参照 2025-10-16)

こちらには「縁切り、縁結び石」として紹介され、1980年5月に設けられた岩石であることがわかる。

現代の岩石信仰の事例であり、岩石に穴を開けてくぐる同種の祭祀が他にも見られるので参考になる。