2025年6月14日土曜日

公開シンポジウム「これからの宗教民俗学の可能性」メモ(2025.6.14)

2025年6月14日、日本宗教民俗学会の第34回大会シンポジウム「これからの宗教民俗学の可能性」をオンラインで聴講した。

学会発足35周年という節目で、宗教民俗というものをこれからの時代に向けて再び輪郭づけようとした題目だと受け止めた。

結果として、現今の民俗学分野で知名度の高い「ヴァナキュラー」概念が当日の大きな論点になったように思う。

聞きながらのメモのため読者向けにまとまってはいないが、私吉川が問題意識を抱いた部分でフィルターをかけてお届けする。


島村恭則氏「民俗学とヴァナキュラー―来歴と可能性―」

ヴァナキュラーという概念をなぜ使うのか。

どこまでが民俗学の対象なのかを試し続けた40年だった。

すべてが民俗と呼んでもいいのだが、ヴァナキュラーという概念がさらにぴったりくる。

ヴァナキュラーは「俗語」の訳。国語の対比概念。

俗語と国語の関係は、俗的なものと国的なものとの対比関係で語られる。

つまり、社会的に正統・公式とされるものに対立する概念が「俗」。対覇権性(対抗覇権主義)とも。

聖・俗の俗の概念とは異なることに注意。


民俗にはフォークロアという言葉もある。しかしこれらの語のイメージが持つ、田舎のものや牧歌的なもののみに縛られていてはいけない。

ノスタルジーや昔に限定されるのが民俗研究ではなく、現代的なものまで含めて考えていけるのがヴァナキュラーの考えである。

ヴァナキュラーという概念をつくる、こだわるのが最終目的地なのではない。ヴァナキュラーから学ぶことが多いので広く紹介するというスタンス。


最初は来宮信仰をフィールドにしていた。そのような精霊論に最近回帰している。来宮は「来」の字から漂着神とみなす立場があるが、伊豆諸島の木霊様が神社化した地域の影響下に入ることから、「木」の宮としての、木の神様の信仰が本義だろうという結論に最近たどりついた。


■ 吉川感想

覇権・中心に対する俗の人々を学問するという視点だが、俗の人々も集団であるかぎり、その人々の中でまた主流や中心が生まれる。

俗とされる人々の中に埋没して、個人によっては周縁・対抗も生まれる。そこまでまなざしをむけることができるか。それでこそ反覇権の学問たりえるように感じる。

言い換えれば、民俗学は、俗という言葉で覆われて見えなくなっている個人の心まで研究たりえるか。俗を生み出し、俗の成立の下にあるベースとなるものだが、俗と一括されるものからははみ出ているような反支配性の「個」である。

民俗学が集団研究(再現性のない個人ではなく、文化に焦点を当てる)を前提とするものかによる。


橋本章彦氏「怪しきモノの宗教民俗学―「ゴジラ」の日本的性格を論ず―」

ゴジラもヴァナキュラーたりうるか。

ゴジラという作品の中に潜む俗的(一般化される)な部分に、皆さんの心にも共感できるものがあるかという問い。


第1作でのゴジラは出現時に暴風を伴い、神棚が崩壊したという映像制作者の表現が流れる。

出現時の天候不順は、全30作品の3分の1に見られる。

たとえば「赤い月」はヴァナキュラーと言えるかもしれない。

ゴジラは、鵺と同じ性格構造をもつ。


ゴジラ表現を一例としたが、このような俗の営みを、見えない世界、見えない存在(≒それが宗教的なものか)の関係から分析するのが宗教民俗研究方法と位置付ける。

見えないもの見えるものの境界を、表現作品から分析したということである。


■ 吉川感想

「皆さんの心にも共感できるものがあるか」

この問いかけ自体が、主流か反主流かが試されるような趣をまとい、学会発表という場の「俗」を感じざるをえなかった。

2003年以降の作品では、シンゴジラなどでは暴風を伴わないが、これを表現者の俗という立場からはどうとらえるのだろうか。

表現者・視聴者の世代を問わない普遍性があるのか、昭和レトロのような世代間の問題にただ帰属するような錯覚なのか、別の視点でも見極めもほしいところ。

解釈時、俗をみようとして通俗的パターン・定型パターンで解釈してしまうことで、捨象されてしまう個人の心がないかに注意したいと思った。

なお、境界は意味が出現または消滅する直前の混沌さを表すものであるという山口昌男『文化と両義性』の概念は、見えないものを扱う信仰研究において汎用性が高いものと感じた。


村上紀夫氏「宗教のメディア史的考察―恵信と遍路関係史料の周辺―」

文献史学の立場からの発表。

文献史料に民俗を読みとることは、これまでもこれからもおこなわれていく手法であるという例。


文献史料をメディア論という切り口から取り上げた。

四国遍路で知られる恵信(安永5年・1776年生まれ)は、出版物というメディアを多用・駆使した人物。

恵信は衛門三郎の木像に自分の髪を植えた。衛門三郎は欲深い豪農だったが弘法大師と出会って改心した人物。死去時に大師が衛門三郎と書いた石を衛門三郎に渡した。その石は、来世で生まれ変わりたいと衛門三郎が願った河野氏(伊予豪族)の子が生まれた時に握っていた。

恵信は衛門三郎と同一視の行動をとる。生まれ変わり、後継者。

その際、仁和寺や高野山などの監修・公認としての出版物を作り、口頭や耳で聞く以上に、文字というメディアで遍路に権威性をもたせた。

また、「光明」という文字をさまざまな書体で表現した。文字を美的なものとして用いた。これも文字メディアの一方法。

文字が読める経済資本・文化資本をもつ人(遍路ニーズ)をターゲットにした戦略が仏教界にもあった。仏教世界は、常に文字や書物と共にある。


このメディア論は現代の問題にも通ずる。

日本遺産にも四国遍路のストーリーがあるが、19世紀に創られたステレオタイプなイメージの再生産ではないかという問題提起。


■ 吉川感想

正しく文献史学の手法でおこなわれた30分。

文字資料というメディアは、書いた人、書かれたもの、読む人、すべてに一定の資本フィルターがある。

文献からしか見えないものの限界を自覚しつつ、文献が作られたからこそ、ターゲットとされた対象を読みとることができるというケースを示した。


メディアが変わってくると、情報を受け取る側の反応も変わってくるという点でメディア論の重要性を村上氏が説かれていた。

その例として、学会もオンラインになると、対面時代と違い内職ができるようになるなどの受け取り側の変化を挙げていた。

面白い視点だが、ただ、受け止め方は本当に千差万別である。その推測どおりの反応だけでないのは私の例であり、私はむしろオンラインになったほうが周りを気にせず集中でき、パソコンを2台使って1台でスライドを見てもう1台でメモを取り、このように即ブログで公開できる。そして、この行為自体が対面で座りながら話を聞く以上のアウトプットの場になっている。対面空間には社会性が伴うので、そこでつぶされる効能というものを感じている。これは周縁、反権威的な俗の反応の一つと言えないか。


西村明氏「宗教学とヴァナキュラー―宗教概念批判を踏まえて―」

宗教学の立場からの発表。

宗教学でもヴァナキュラーの概念は、大勢ではないが扱われることがある。

「大文字の宗教」と呼ぶものが、従来の宗教イメージ。組織宗教・制度宗教なども類語。欧米由来のreligionの訳語をどう訳してきたかだが、これらの宗教概念はプロテスタント色が強い。内面の信仰を重視していて、教会、組織、教義、教典がないと宗教とみなされにくいという限界があった。


そのような「大文字の宗教」からあぶれたものがある。

「信仰なき宗教」というような呪術から、プロテスタントの文脈では想定されていない民間信仰、俗もそれに含まれるだろう。

かつては民俗宗教かなあと思っていたが、今はヴァナキュラー宗教がはまるのではないかとアプローチしている。


ヴァナキュラー宗教とは「生きられた宗教」。

人が解釈しつづける宗教という意味。

宗教には解釈が伴う。だから「個人の宗教がヴァナキュラーでないことは有り得ない」というが、それだとなんでもありになってしまう問題を現在自問自答していて、よく細かく分析したい。


制度化された、システム化された宗教は、人の日常から「離床」「自立・自存」している。

その反・離床、つまり日常に根差した実践を研究するのがヴァナキュラーか。


宗教者も24時間、宗教者でいつづけるわけではない。宗教者ではない顔を持ち、その日常の中での思い、解釈ももちうる。そこに宗教者の俗がある。

現代社会では、ヴァナキュラー宗教は、人が創造し、消費するということをどちらもしうる。

大文字の宗教だけではとらえられない、個人のクセとして閑却されていたようなものが、ヴァナキュラー概念によって陽の目が当たるのではないか。


■ 吉川感想

西村氏のヴァナキュラー論では、個人のクセとして省かれそうな心にも焦点を当てようというまなざしがみられた。

内面の信仰なしの宗教(呪術)が存在するという話もあったが、信仰の定義にもよって扱いの変わる問題提起と思う。信仰告白のような大仰なものだけではない。

信じるというシンプルな精神は、宗教というイメージに関わらず行われている。それを宗教でないものと見るのか、それらも宗教的なものと無関係ではないとみなすのかの違いに行き着きそうである。

そして、信仰を教典で表せない、文字や言葉で表せない心の内面があると想定するのは、とりわけ一個人の心において当然想定されるべきである(全員が文章を書くわけがない)。


そうすると、最終的には個人の内面の「信じる」という心を無視することはできない。

何を信じ、何を信じないのか、そして、そこに理屈はあるのかないのか、理屈は言語化されているのかされていないのか断片的なのか、「末端」「枝葉」扱いされるようなイレギュラーな個人の目線に寄り添った分析・記述が求められている。

そして、そのイレギュラーな個人の心が周りの人々にどう扱われたかによって、社会宗教化するか個人の私的な「呪術」扱いされるかも変わってくるという点で、何が決定要因だったかを各個人の心と社会関係から研究することも求められるだろう。

俗の人が言葉で表していないものを、学者が言葉(講演、論文)で表そうとする行為の危うさと隣り合わせのヒリヒリとするテーマだった。


星優也氏のコメントから

星氏のコメントは、4名の発表を聞きながら同時にまとめたというパワポに基づいており、このスピードでよくぞという内容をまとめられていた。以下メモ。


  • ヴァナキュラーの理解に時間がかかったが、ヴァナキュラーと歴史学は接続可能ではないかと感じた。
  • 俗は、常民とどう関係するか、国民も越えていけるか、どこまで拡大する民の概念か。
  • 共有される<俗>と、共有されることによる「国民」化をいかにずらしていく議論ができるか。
  • ヴァナキュラー宗教から教祖が生成されることはありうるか。
  • 日常の宗教的実践と宗教の日常的実践


3つ目の「俗の国民化」は、数ある質問の中でも特に警句だと感じ、私吉川の問題意識とも重なった。社会性をもつことの暴力性というか、そこへのまなざしである。


登壇者からの回答


■ 島村氏回答

民俗学は現代と日常を研究する。その際、過去を参照するので、従来の歴史民俗学と当然対立するものではない。

社会集団としての「民」は恋人2人からでもいい。数はテーマ設定により伸縮自在するもの。死者やペットも入れてもいい「かも」しれない。

ヴァナキュラーは拡散している(?)ものなので、そこから宗教・教祖は生まれるのかは?宗教学への質問でもある。


■ 西村氏回答

教祖としてなるつもりがなくても、生き神として教祖化されてしまう。教祖以外の周りの信者の力学がある。

概念やカテゴリーなどに、何が入るのか何が入らないのかとこだわるとそれだけの分析概念の論争に終始してしまう。

研究する側、記述する側が、ここまでは宗教、ここからは宗教ではないと線引きすること自体が、近代以降の思考にはまりすぎている。

(宗教2世問題 すべての子弟、子供達が生来的に宗教の枠組の下にあることも)


会場参加者からの質問


■ 質問1

ヴァナキュラーは流行の概念だが、なぜ外国語を取り入れるのか、俗語のままではいけなかったのかの理由。支配的なものに対する対抗という意味合いを持つというが、それは民俗学も同じではないか。

■ 島村氏回答

民俗学が支配的なものに対抗する学問というのはそのとおりだが、しかし、実際には民俗学辞典の民俗学の定義にそれが明記されていない。なので、その意味を明確に持たせるために自分が再定義した。

世の中では民俗学という言葉が持つイメージは強く、民俗学の変革の方向性が伝わりにくい。ヴァナキュラーと呼ぶことで注目されるという戦略でやっている。また、外国語圏で研究する時は俗ではなくヴァナキュラーのほうが誤解がない。カタカナ語に過剰反応する必要はない。

学術的には、ヴァナキュラーでも民俗でも本来はどちらでもいい。

※島村氏の戦略、意図が伝わる質疑応答だった。


■ 質問2

書物の権威性についてさらに詳しく。

■ 村上氏回答

文字は国語(俗語に対する国語)であり、言葉と違って字を学べば同じ字を読める。その点で統一的なメディアであると言え、俗に対比される統一的・権威的な存在である。

そこから発展した議論として、文字資料を使って民俗を研究することは、かなりアクロバティックな読みかたをしないといけない。

文字資料は俗に対する権威的な書き手による情報であり、書き手の意図にからめとられないように、書き手の裏をかくような読みかたをより一層研究者は自覚しないといけないと考えている。


■ 司会の本林靖久氏からの問題提起

宗教民俗学はこれまでいわゆる固有信仰を研究するというのが中心だったが、これからはどのようなものを研究していく学問としていけばいいのか。

現実問題としては、学会として査読者が対応できないテーマも出てきている。編集委員側としての悩み。

■ 島村氏

いかにもヴァナキュラーな研究テーマも積極的に加えていっていいのでは。それも民俗なのだから。

あくまでも加えるのであって、今までの宗教民俗学をそっくり入れ替えることではない。

査読の問題は、外部に頼ってでも学会として対応するほかない。戦略として、学会として閉じてはいけない。雑誌の投稿先を投稿者側も見ている。研究者は好きなテーマをすればよく、その時に受け入れる先であれればいい。何なら、私はこれを機に入会するので手に余るテーマは査読を回してください(!)

ありのままにみる、というのは現象学(フッサール)。民俗学やヴァナキュラーは、ありのままに見るようであり、それに別の視点や意図が加わるもの。表現文化、物質文化など。

■ 西村氏

自分が解明したいテーマを研究していく中で、裾根を広げていく場面が出てくる。それは宗教や民俗とくくれるものではないかもしれない。そういったものも通過していきたいと自分は思っている。ヴァナキュラーもそういうものの一例。

■ 村上氏

各研究者は各研究者の専門を突き詰めて、読み手は自由な立場で、たとえばヴァナキュラーとして読んでもいい。

■ 橋本氏

ある聞き取り調査の時、「わしらは毎年同じことをやっているだけなんじゃ」と聞き取り相手から返されて、「民俗なんてないんだ」と目からうろこが落ちたことがある。

研究者が民俗と呼んでカテゴライズしているにすぎないのだということ。

このように、言語が世界を作っている。ということで、宗教民俗やヴァナキュラーという言葉から議論を始めるのは意味があることにはならない。文学における、書き手の意図と読み手の読みかたは異なるという問題にも通ずる。

対象が変われば問題や世界が変わるので、どのように自由であってもよいのではないか。

■ 本林氏

これから若い研究者がさらに登場する中で、さまざまなテーマが広がるのは自明ということを学会としても受け止め、それによって宗教民俗学・学会を盛り上げていきたい。


■ 吉川感想

学会や学問で取り上げられる研究テーマについても主流や中心があるというのなら、そうではないような怪訝な目でみられるテーマも研究され、そのような研究を受け入れていけば良いと思う。

なぜなら、その関係自体が反主流・反中心を内在するということであり、現代に生きる私たち「民」の「俗」の実践になるのではないか。

学会自体が、中心・主流に対するカウンター(反権威)になるという、新しい民俗学を体現していることになる。


査読委員側の問題は現実として問題山積だと思われるが、これは多様性を認めることに伴う出血であり、多様性社会のどこでも起こっている現在的事象と言える。

イレギュラーな各個人との軋轢をどう受け止めていくかということに尽きると思う。

人それぞれ、大事にしている自分の価値観があり、そこと他者が同一化するわけがないので、軋轢が生じてどうしても苦痛を伴う。

世代間格差もあろうと思うが、学会や先行研究者自身がそれ自体権威性をどうしても帯びてしまうものと自覚して、民俗学が反権威であることを体現するため、権威側ではない存在へ歩み寄っていくことを願いたい。


2025年6月7日土曜日

荒鎺山/堀谷アラハバキ神社(静岡県浜松市)


静岡県浜松市浜名区堀谷

社頭扁額には「荒鎺山」とある。

明治時代に建てられた石碑には「荒鎺●神」とある。 ※●は「大」「土」「之」のいずれかで、現地案内を参考にすると「荒鎺大神」か。

岩石頂上。岩山の観を呈す。

向かって右側から撮影。

向かって左側から撮影。

神社から道路を挟んだ向かい側にも注連が張られた露岩が存在。かつては道路をまたいで岩石同士を注連縄で渡していたともいわれる。

字・堀谷に鎮座するアラハバキ神社なので堀谷アラハバキ神社と表記されることがあるが、単にアラハバキ神社ないしは、社殿を擁さないので扁額・石碑に記された荒鎺山・荒鎺大神が元来的な呼称だろう。

いくつかのソースで文献調査を行ったが、当社の文献史学的な情報にたどりつくことはできなかった。いわゆるアラハバキ信仰の詳細についても不明といわざるを得ない。


補足情報として、旧堀谷村は石灰が産出される地として明治時代以前から知られていたようである(浜松県[編]『遠江国地誌小成』1874年)。

当社の北500mという距離には、堀谷洞窟という石灰岩の鍾乳洞がある。

人類学者の近藤恵氏を中心としたグループが2021~2024年度にわたって堀谷洞窟を調査しており、結果、縄文時代草創期に遡る可能性をもつ土器片の発見にいたった(「静岡県西部の石灰岩地帯における旧石器~縄文時代層の人類学・考古学的調査」)。

堀谷が縄文時代から人足のあった地であることはたしかである(これをもってアラハバキと縄文時代を接続するのは安易である)。


遠州山辺の道の会の会員である郷土史家・小野田正吉氏が当社について講演をされている。小野田氏であれば地元に伝わる資料などをお持ちのことと思い、詳しくご教示を乞いたいものである。

歴史講座:仮説、アラハバキ神と式内社


2025年6月2日月曜日

御白山浄居院の岩石信仰(静岡県浜松市)


静岡県浜松市北区引佐町奥山 浄居院(じょうごいん)


「浄居院の巨岩群」として地元では知られていたようで、竜ヶ岩洞にある「夢現の岩穴」掲示板には渭伊神社境内遺跡、幡教寺の巨石と共にその名が挙げられている(参考)。

浄居院

本堂向かって右奥に小丘が続き、上写真のとおり岩肌が露出しているのが参道からも見える。
境内から小丘に登る道が設けられている。

入口に置かれた灯籠

巨岩群入口

朱の鳥居でまつられた巨岩群が存在する。それぞれの高さはゆうに10mを越えるだろう。
巨岩群の懐に抱かれるように、少なくとも三か所に分かれて祠が鎮まる。

祠① 背後に亀裂をまつる。

祠② 手前に注連が張られているため正面から拝むことはできない。

祠③ 本堂向かって左側から墓域の奥に鎮まる。

他で見ない特徴は、巨岩と巨岩の割れ目を渡れるように、コンクリート製の石橋が架けられていることだ。

石橋(下から撮影)

石橋の上から祠①を撮影。

巨岩の亀裂の高さは奥方で10mを越えると思われる。

製法からして昭和時代の遺構と類推されるが、一種独特の参拝体験を通して丘の頂上まで参拝できる。
頂上には三体の石仏が石祠に納められていた。

丘の頂上

引佐の奥山地区の他の寺院と同様、臨済宗方広寺派に属す寺院であるが、この寺院に関する情報は少ない。常住寺ではなく、現地には説明板もない。インターネット上の情報も管見のかぎりほぼ皆無も同然だ。

唯一参考となるのが、静岡県引佐郡教育会編『静岡県引佐郡誌』下巻(1922年)に収録された「背山薬師如来記」という文献の記述である。

明和3年(1766年)、背山に薬師堂が落成した縁起を記した内容(安永年間成立か)であるが、背山(奥山地区の山間部の地名)はもともと御白山といわれていたという一節があり、浄居院に薬師堂は存在することから背山の薬師堂は現・浄居院のことを指すとみてよい。

岩石の名は伝わっていないが、御白山という名は岩肌から由来するものと思われ、岩石自体が山と同一視されていた可能性もある。

同書によれば、薬師如来は石像で顕され、初めは白山(御白山)の下、その後、岩壁の間にまつったという。
当地の巨岩群との関係が垣間見える記述である。

しかし、「薬師如来の石像及妙理権現の社は其の創造を詳にせず」の一文もある。

妙理権現の社は、巨岩群の裾にまつられた祠のいずれか、またはすべてを指すものと思われるが、薬師堂の建立以前の歴史は江戸時代当時の人々にとってもすでに不明だったことが窺われる。

2025年5月24日土曜日

岩巣と神座古墳群(静岡県湖西市)


静岡県湖西市神座 嵩山中腹


「今調査している古墳の近くに、大きな岩がごろごろしている場所がある」と駒澤大学の方から聞いたのは2013年だった。

気になる存在だったが、それから10年以上経過して時機到来して現地を訪れた。

古墳群は現地の地名から神座(かんざ)古墳群として知られ、そして岩群にも岩巣という名で呼ばれていることを知った。


駒沢大学考古学研究室による発掘調査報告書も2016年までに通算5冊発行され、調査にも一区切りついている。

報告書によると、神座古墳群は神座A・神座B・神座Cの3つの群に分かれて計27基が分布し、そのうち神座B古墳群の8基(うち1基所在不明)が嵩山(すやま。標高170m)という三角山に存在している。

一部の古墳が発掘され、結果、おおむね6世紀後半~7世紀初めに築造された群集墳であることが明らかになった。

嵩山(神座地区から撮影)

神座B古墳群

その古墳群に隣接するのが「岩巣」と俗称される自然石の群れである。

高さ5mを越える立柱状のチャートの露頭であり、一見した雰囲気は、同県浜松市の渭伊神社境内遺跡のチャートの露頭と類似するものがある(丘陵上という立地も共通)。

渭伊神社境内遺跡では自然石の傍らから古墳時代の祭祀遺物が見つかったが、岩巣では2012年に地形測量がなされたものの直接的に古墳時代の遺物は見つからなかった。その代わりではないが、古墳という厳然たる古墳時代の遺構が隣り合うという状況を見せる。

具体的には、岩巣は嵩山頂上から北東に延びる支峰頂上(標高98m)に露出し、その岩巣を挟んで東に3号墳、西に4号墳が築かれる。

それぞれの古墳からは肉眼で岩巣を認識できる近さであり、古墳築造時にこの岩巣の存在を知ったうえでこの地に古墳(墓域)が形成されたということになる。

岩巣(頂上部)

立柱群(4号墳側から撮影)

3号墳側から撮影

岩巣には岩陰があるものもあるが、防空壕として利用されたものもあるとのこと。


前述のように岩巣からは遺物が出土しなかったため報告書上ではほぼ看過されている(言及しようがない)存在となっているが、本記事ではもう少し岩巣に言及したい。


岩巣はその名称以外に特段伝承も信仰・祭祀の跡もみられない存在だが、尾根先端にある岩の一岩石上からは麓が一望できる好立地である。

岩巣の尾根端(東端)

麓の眺望

麓の神座地区には、産土神としての上座神社が鎮座する。「上座」は「じょうざ」と読むが、元は「神座(かんざ―かみざ)」から転じたものとみるのが適切である。

上座神社は寛永11年(1634年)の創建といわれるので古墳時代に遡るものではないが、地名としての神座がいつまで遡るか、そして嵩山の聖山としての位置づけがいつまで遡るかという点はさらに追究されてよい問題だろう。

なお、上座神社境内の北西隅には下写真の岩石がまつられているが、これは「最近」置かれたものだという(中根 2002年)。

上座神社境内の岩石

興味深いのは、神座B古墳群の石室石材は現地性のチャートだったことが判明しており、つまり、嵩山の岩石を採ったということになる。

ドライに見れば、岩巣は単なる石取り場の跡だったのかという見方さえできる。当時の人々にとって、嵩山は山に手を入れて墓を造成して良い場所であり、そこにある岩石で石室を造ってよかったという認識にあったことがわかる。では岩巣にも手を入れてそこから岩石を採ったのではないかという実利的な側面である。

一方で、同じ浜名湖周縁地域に属する渭伊神社境内遺跡では自然の露岩群を対象とした祭祀が確認されているわけで、こちらは岩石を神聖不可侵なものとする見方が語られる。


両者が相まった考え方としては、岩石に聖性を認めたからこそ、その聖なる岩石を墓に利用したという意味での岩石信仰も仮説として浮かぶ。この場合、自然石は利用されてそれでも信仰として成り立つ。

発掘の中で、7号墳からは古墳時代の焼土層も検出されている。順序としては、墳丘築造前に地山を整地して、その後に整地面で火を焚いて、それから石室と墳丘を構築していくという流れである。そのため、古墳築造時の一種の儀礼行為としてなされた跡ではないかと報告書でも指摘されているが、このように山に対して手を入れることと祭祀は両立しうる。

いわゆる山は神聖不可侵で立ち入らないという性格ではなく、山に積極的に立ち入って利用していくという性格の信仰が垣間見える。しかし古墳時代は全般的に文字資料不在につきこのあたりの心の在り方がわからず、現時点では確定的に言えることは少ない。

岩石信仰の観点で見れば古墳と自然石の同居事例の好例の一つであり、古墳石材が現地性であることもわかったという点で今後の研究の参考となるところ大だろう。


参考文献

  • 駒沢大学考古学研究室[編集・発行]『静岡県湖西市 神座B古墳群第1次発掘調査概報』2012年
  • 駒沢大学考古学研究室[編集・発行]『静岡県湖西市 神座B古墳群第5次発掘調査概報』2016年
  • 中根洋治『愛知発 巨石信仰』愛知磐座研究会 2002年


2025年5月18日日曜日

『松尾山寺遺跡』~山林寺院と岩石信仰の関係事例~

立命館大学考古学研究会[編集・発行]『松尾山寺遺跡―平安京周辺山林寺院の調査・研究―』(2025年)が発行されました。

2003年、初めて松尾山を紹介されてその時に登った一人として、20年越しの区切りを見た思いです。

 

京都市の松尾大社の裏山・松尾山で見つかった寺院跡の調査報告書です。

京都で見つかっている、古代から中世にかけての山林寺院遺跡の一例となりますが、他例と比べて土師器の割合が高い遺物構成というのが特徴ということがわかりました。


灯明を灯すための皿が多く出土した同市内の梅ヶ畑遺跡との関連性が挙げられていて、興味深く読みました。

梅ヶ畑遺跡は発見当時、仏教系祭祀遺跡という位置づけでしたが、京都市埋蔵文化財研究所による遺物再整理を通して寺院跡という見直しがされていたことも初めて知りました。


報告書では、岩石信仰と山寺の近接性も指摘されていました。

正確に書けば、報告書上では「岩石信仰」ではなく「磐座」「巨石」「巨岩」の3つの表現が同義的に使われていました。

当会の過去会報『考古館』での私の議論(2001年~2003年)が継承されていないのは残念ですが、継承できなかったのは私の力不足でもあります。


巨石信仰・巨岩信仰という言葉自体が不適切というわけではありません。

"巨大な岩石"という"巨大さ"に信仰の要因の重きを置く文意として使ったのであればアリだと思います。

実際、松尾山の磐座も類例として挙げられた大宮釈迦谷遺跡・西賀茂妙見堂遺跡の事例も"巨大な岩石"と言えるので、巨大なものへの信仰という共通性はあるでしょう。

ただ、せめて巨岩と巨石の表現一致は欲しいところです。
(石と岩の概念整理)


山中の寺院と平地の神社との関係、社地に対する神宮寺としての関係なども問題提起されていました。

報告書では明示されていませんでしたが、管見のかぎりではに岩石信仰との関係も複数事例を挙げることができます。

その辺りをまとめると下のとおりです。

遺跡名岩石寺院神社古墳
松尾山寺遺跡
名称磐座(ご神跡)松尾山寺松尾大社松尾山古墳群
立地山頂直下山腹平坦地山裾山頂尾根
梅ヶ畑遺跡
名称石塊・巨岩群御堂ヶ池古墳群
立地山頂・山頂直下山頂山頂尾根
大宮釈迦谷遺跡
名称巨石釈迦谷廃寺上賀茂神社
立地山腹対岸平地
西賀茂妙見堂遺跡
名称巨石霊巌寺上賀茂神社
立地今昔物語伝承上対岸平地
上賀茂神社
名称降臨石神宮寺上賀茂神社
立地神山山頂神宮寺山山腹神宮寺山山裾
参考:滋賀県日吉大社事例
名称金大巌日吉神宮寺日吉大社日吉古墳群
立地山腹山腹山裾山裾~山腹

突貫で作ったので色々調べが足らないところもありますが、岩石と山林寺院の関係については距離の近さ/遠さをどのように評価するかという論点は提示できます。

滋賀県日吉大社事例では、金大巌と日吉神宮寺が山域を分け合って存在していたという説が出されており、他例でも検討されるべきテーマです(「金大巌と日吉大社の岩石信仰」)。

梅ヶ畑遺跡の石塊と寺院跡は立地を同じくする同居例と数えられるかもしれませんが、梅ヶ畑遺跡における岩石信仰は厳密にいえば山頂の石塊と山頂直下斜面上の巨岩群(銅鐸出土地で今は消失)の2地点に分かれます。

この場合、寺院跡と銅鐸出土地の巨岩群とは、直線的な距離とは別で、立地としての空間の分け合いが認められます。


その観点から松尾山をふりかえると、松尾山の磐座(ご神跡)は山頂直下斜面上に存在するのに対して、松尾山寺は北に離れた山腹平坦地に築かれています。尾根は1つ分またいで山域を分け合っているという考え方もできるかもしれません。


神社については梅ヶ畑においてこれといった神社が指摘できませんが、古墳については報告書でも指摘されているように古墳時代後期の群集墳が共に存在しています。

これらの立地は、山頂尾根に数十基が分布しており、岩石信仰の関係でみれば、梅ヶ畑は古墳のすぐ上に銅鐸埋納地の巨岩、松尾山は逆に磐座(ご神跡)の上の尾根に古墳が築かれています。

その点で両者の立地に統一性があるわけではありませんが、それは自然石が人の手によらない地質的存在であることと、古墳は尾根上のほうが作りやすいという築造条件によるものなど、信仰上の問題とは別の要因も考えないといけません。

言い方を変えれば、そのような諸条件・諸要因による規制を受けても問題ないという信仰のありかただったとも言えます。


対応する神社や古墳を指摘できない事例もあるので、前掲表の事例群がぞれぞれ比較対象として適切かには異論もあると思いますが、時代を越えて山地利用をおこなう際に、それ以前に存在した「聖地」を後世の人々がどのように位置づけて、山での同居ないしは住み分けなどを図っていたかはさらに注目されてよい問題でしょう。


立命考古研の皆様には、山林寺院跡発見によって測量が途絶した松尾山古墳群の調査の再開を望みたい、と勝手な希望を記して今後の活動継続を祈っています。