2025年4月30日水曜日

チジュウサン(奈良県奈良市)


奈良県奈良市大柳生町上脇垣内


岸田史生氏「垣内をめぐる村落祭祀と座―奈良市大柳生町の事例より―」(『鷹陵史学』第24号、1998年)において「チジュウサン」と記された場所。

「弥勒の道プロジェクト」(@mirokunomichi)さんのXポストで存在を知り、所在地の詳細やお持ちの情報について多大な情報提供をいただいた。ここに記して謝意を表したい。


アクセスについては、ご教示いただいたオープンデータ地図「OpenStreetMap」に位置が公開されておりわかりやすい(下記URL)。この地図どおりに行けば辿りつける。麓から徒歩約15~20分。

https://www.openstreetmap.org/?#map=17/34.707725/135.922154

チリュウ神社・チリウ神社の仮称もあるが、地元の方が実際に何と呼んでいるかはわからない(探訪時、現地の方とお会いすることができなかった)。したがって前掲文献に明記されたチジュウサンを本記事では採用する。





現地に立った所感としては、山の中腹でここにだけ岩塊が群集しており、その特異さから岩石ありきの信仰の地として成立したことは疑いない。

まるでかき集めたかのようにも見えるが、産総研が公開する「20万分の1日本シームレス地質図」を見ると、当地は花崗岩地帯に花崗閃緑岩の岩相が谷状に差し込まれた地質であるらしく、谷間と尾根の境目に現れ出た露岩群であるように思われる。


この岩群のすぐ手前斜面から水が湧き出し、谷間をつたって沢が流れているのも当地がもつ聖地的特徴である。

露岩群手前の湧水(写真中央)

社のすぐ前までは、谷間に形成された水田がかつて広がっていたようである。現在は山から回り込んで下る形で参拝するが、元来は下の水田から登る形で参っていたのではないか。その点において、麓の里の農耕生活と密着したまつりの場と言える。

藤本浩一氏が『磐座紀行』(向陽書房、1982年)において、稲作農耕民が谷間に水田を開拓していく中で谷間の露岩に出会い磐座祭祀の場としたというくだりも思い出せる典型例である。


さて、前掲の岸田氏文献では「本社は愛知県知多半島の知立神社」とあるが、弥勒の道プロジェクトさんによれば戦後になって愛知県知立神社との音の類似から結びつけられたものとのことである。

当地は、チリウデン・チリウテン・イワモト・岩本などの小字が入り混じっており、この内のチリウをチリュウ(知立)に当てたということになる。

このような音の一致により無関係な場所同士を関連付ける試みは近代以降の知識の庶民化により全国各地でおこなわれたものと類推される。


では「チリウデン/チリウテン」とは何かという話になる。

デン/テンが現地に広がる「田」で、「チジュウサン」の「サン」は愛称という常識論止まりであり、チリウ/チジュウに関しては岩石信仰の関係では類似の名称に出会ったことがない。岩石信仰とは無関係の語源に属すのではないかという見立てが精一杯である。

イワモト・岩本の「岩」は当地の岩群に由来する可能性もあるが、当地からは若干離れている字とも言え、『全国遺跡地図(奈良県)』(文化財保護委員会、1968年)によるとその辺りには西山北古墳群と名付けられた群集墳がある(当地の山を西山と呼ぶか)。もしかしたら石室石材の後世開発・盗掘による露出と絡めた地名だったかもしれない。


当地は、ちょうど南北にそれぞれ西山北古墳群(16基)・西山南古墳群(19基)が分布しており、独立した尾根上に片墓古墳と呼ばれる直径16mの比較的大型の円墳も築かれている。

片墓古墳

このような古墳群の中に存在する自然岩塊がチジュウサンである。人足が立ち入った歴史の中でチジュウサンがまったく自然のままの岩石分布でありつづけたのか、何らかの生活所産の結果としてここに岩石群が集まっているのか判断の難しいところがあるが、これが全国各地で見られる岩石信仰と古墳の同居問題である。事実として、自然岩塊が古墳の墓域に残り続けて存在する事例は多い。


なお、チジュウサンに行き着く手前には、上脇垣内の境を示す勧請縄が渡されている。

西山山中の勧請縄

アクセスルートとしては勧請縄の外=集落外の地ということになるが、先述のとおり元来は谷間からのアクセスが想定されるので結論としてはチジュウサンは集落の境に存する聖地という位置づけが適切だろう。


2025年4月19日土曜日

狂人石(岐阜県高山市)


岐阜県高山市桜町 櫻山八幡宮境内



相当腕白であった私さへ、何となく薄気味悪くてこの石に敢て触れることを憚ったものである。勿論、誰れが言ひ出したのか知らないが、この石に触れると気狂ひになったり、瘧をふるったりするといふのである。別に神秘的伝説といふやうなものもない。ただそれだけの言ひ伝へなのである。もっともこの辺には天狗が住ってゐて、御機嫌に障ると石段の上から、なげ落すといふことも一般に信じられてゐたし、実際に子供が石段の中程からなぜ落されたが、少しも怪我をしてゐなかったのを見たと語った老人もある。

福田夕咲「祟り石の話」『ひだびと』第4年(4),飛騨考古土俗学会,1936-04. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1491863 (参照 2025-04-19)
※旧字体を新字体に直した。


櫻山八幡宮は、仁徳天皇治世期に両面宿難追討に来た難波根子武振熊命が応神天皇を奉祭したとも、聖武天皇治世期に八幡信仰の影響を受けて創建されたとも、大永年間(1521~1528年)に岩清水八幡宮から分霊を授かり勧請されたともいわれる。

その櫻山八幡宮の境内末社に、元和9年(1623年)、高山城鎮護の神として飛騨領主金森重頼によって創建された秋葉神社が鎮座する。秋葉神社の社殿北側に存在するのが狂人石である。

神社境内にあって聖なる岩石の感ありだが、神宿るとか祭祀されている事例とは一線を画す。畏敬を通り越した畏怖・忌避の対象としての岩石と言える。


2025年4月12日土曜日

いぼ石/いぼ神様(岐阜県恵那市)


岐阜県恵那市中野方町

2010年撮影

中野方の福地境と、大峰に天然水のたまったくぼんだ石がある。その水をつけるとイボがとれるといういい伝えがある。

恵那市史編纂委員会 編『恵那市史』恵那のむかしばなしとうた,恵那市,1974. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9536746 (参照 2025-04-12)

現地看板によれば、雨水がたまって木の葉などが溶け込んだ窪みだったので、水は腐って真っ黒だったという。それがなぜかイボや皮膚病に効くということで、「いぼ神様」として神格化に至った例である。

1993年、峠道が二車線に拡幅された際にいぼ石が道にさしかかってしまったため、いぼ石の上部だけを切り取って車道脇に移設し、昔のよすがを偲ぶ措置がとられた。


2025年4月6日日曜日

「情報募集中」の場所を最新の内容に更新しました

当ブログで古くから呼びかけをしている「情報募集中」のページを更新しました。

この数年間に生まれた各種の謎についても追記しております。


【情報募集中】探しています

私は、インターネットで多くの方々から得難き情報をいただき続けてきました。

そのうえでさらなる情報を求めるのは欲張りですが、まだまだインターネット上でお会いできていない先達の方、地元の方がいらっしゃると信じています。

私なりにまとめた情報もたまってきて複雑怪奇となっていますが、お時間が許しましたら内容をご覧いただき、お持ちの情報をどしどしお寄せください。


小六石(長野県諏訪郡富士見町)


長野県諏訪郡富士見町境

 


 昔、武田信玄の家臣に牧場田小六という人があり、天文年間の甲越戦争の際、この地に小屋を構えて居住し、農耕のかたわら諏訪側の状況を偵察、この小六石を目標とさせ、やがて来る甲州軍の使者に情報を伝える使命を帯びていた。この牧場田小六の名前をとって小六石といっている。また、小六という部落名もこれからとったと伝えられている。
 別の話として享保時代名僧が、旅より旅へ托鉢してこの地に足をとどめた。ちょうどこの地方に悪質の病がはやり、僧はこの石の上に三七、ニ十一日の間座ってその病気の祈祷をした。石の部分の穴は、僧の精神の集中力が汗と化し、その汗のひとつひとつが固い石をうがったといわれている。

諏訪教育会 編『諏訪の近現代史』,諏訪教育会,1986.7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9540456 (参照 2025-04-06)


現地看板には「岡田小六」の名で記されており、名前には揺らぎがあるようだ。

前段の武田家の伝説は特別視の対象としての岩石であるが、後段の石を穿つ伝説は構想が祈祷に用いた祭祀の場としての岩石であり、堅固性の象徴である岩石を逆手にとった精神性が石肌の特徴と絡めて伝承されている。