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2025年11月30日

石谷山/ビク石山(静岡県藤枝市)


静岡県藤枝市瀬戸ノ谷


ビク石山の通称で知られるが、石谷山が正式の山名である。

標高526mを計るが、山頂近くに「市民の森」公園が整備されており、西側経由で山頂近くまで車で乗りつけることができる。


山頂一帯と東斜面を中心に、多くの岩石群が確認されている。

特に東斜面の岩石群は笹川八十八石と総称され、山頂やや下にある一巨石にビク石の名が付く。山名の由来である。

ビク石(上部)

ビク石(下部)

巨人ダイダラボッチの伝説が付帯する。悪さをしたダイダラボッチに罰として、西の国から土を採り東の国に高い山を作れと神が命じた。ダイダラボッチは籠(びく)に土を入れて運び、高い山は富士山となり、土を採られた場所は琵琶湖となった。

この時、籠から落ちた石がビク石だという話もあれば、ビク石の形状が籠に似ていることから名付けられたという話もある。


そのほか、山頂一帯には宮石・かさ石・剣ヶ石・平石・富士見石・大名石・頂上石・がま石・滝見石・夫婦岩などが存在する。

宮石

かさ石

平石

大名石

頂上石

がま石

山頂岩石群の北部には特に岩石が密集し、岩石名を同定しにくい。

さらに笹川八十八石にも、その一つ一つに名前が付いているものがある。確認できたかぎり、表石・赤石・黒石・めがね石・ふくろう石・五色石・のぞき石・こうもり石・恐竜石・なめくじ石・らくだ石・腰叩き石・象石・座禅石・なだれ石・菊石・見上げ石・鏡石の名を確認できる。

「八十八」は膨大さを表す冠名と見て良いが、その他にも名前の付いた岩石があるかもしれないし、それぞれが現地のどこに該当するかは情報不足である。


以上の点から、石谷山の岩石群はおびただしく存在し、その光景から特別視されて命名された岩石が多いものの、過去に祭祀・信仰を行なっていた記録や痕跡は確認できない。寺社も伝わらず、現在も神聖視の対象としては見受けられないこと自体が興味深い特徴である。


2025年9月23日

寄木神社境内社 津島神社の砂(静岡県袋井市)


静岡県袋井市西同笠

 

袋井市には寄木神社が三社あるが、その中で最も原型とされるのが西同笠の寄木神社である。

その証左とされる存在が寄木神社向かって西側に鎮座する、境内社の津島神社の特異な社の在りかたである。

津島神社

津島神社を背後より撮影。写真手前の配石は炉か。

葉で覆われた高さ1.6mの高床式の建物である。

竹4本を四方に立てて、中心に立てた白木の角材の上に神札を付け、その周りを大量の葉で覆い塀とする。葉は境内に繁る杉の葉が用いられる。

極めて原初性の高い建築であり、遠州灘沿いの海岸部において寄木という地名から、海からの漂着神信仰に由来するものではないかと考えられている。

その漂着神のよりつく霊代としての木の信仰が、地名と立木の祠に現れ出たということになるが、岩石信仰の観点から注目されるのは、祠を設けた場に敷かれる「砂」である。

津島神社の聖域に敷かれた砂(雨天時の撮影のため祠の周囲は濡れている)


この祠が建てられる聖域には約二メートル四方にわたって、高さ五センチほど白砂が盛られている。そして、前面の二本の自然木を柱として注連縄が張られている。この祠の造営は毎年交替で一〇名ずつの神役によって行なわれる。神役は部落の南にあたる遠州灘で禊ぎを行ない、続いて、渚の清浄な砂を社域用として境内に運び、その後、杉の葉と竹で祠を造るのである。
野本寛一『石の民俗』雄山閣出版 1975年

野本氏は、砂運びが年1回という定期的な間隔でおこなわれていることを指摘し、定期的な祭礼で招く神の座として砂が機能していたことに注目する。

砂は、海や水にかかわる神の座として相応しい媒体であるばかりか、「砂は石の小極」とみなす立場から、各地の神社で白砂が敷かれることの意味もあらためて問うている。

岩石信仰における「砂」の聖性を示す典型例と言える。


2025年9月21日

岐佐神社の赤石(静岡県浜松市)


静岡県浜松市中央区舞阪町舞阪


どういうわけか大国主命の命を奪ったとされる真っ赤に焼けた赤石も鎮座する。宮司の高柳智さん(74)は「昭和十七年に現在地の神殿横に置いた。その前は神社の鳥居近くにあった。いつ、赤石を神社に持ってきたのか知らない」と話す。火傷などに御利益があるとされ、赤石をさすっていく人も多い。
静岡新聞社[著・発行]『石は語る』2003年

原位置からの移動伝承を持つ岩石である。
また、現在は看板に「赤猪石(あかいし)」と名付けられ、出雲神話にさらに寄せた名称となっている。歴史的に遡る静岡新聞の「赤石」表記を優先して表示した。


2025年9月15日

太刀山愛宕神社裏山の愛宕大権現(静岡県浜松市)

静岡県浜松市中央区舘山寺町 舘山寺

秋葉山舘山寺に接して太刀山愛宕神社が鎮座する(太刀山は舘山と同音)。

神社の裏には山道が続き、5分も登れば山頂の尾根筋に出る。そこには無数の岩塊が露頭し、一画に玉垣に囲われた石祠が存在する。太刀山愛宕神社の奥宮と目される。

愛宕大権現(太刀山愛宕神社奥宮)

石祠に捧げられた穴あき石

藤本浩一『磐座紀行』(1982年)では「館山寺・磐大権現」と題した一項を置いている。

いわく、『東海道名所図会』の絵図には山の西側に「磐大権現(権現岩)」と書き入れてある場所があり、岩石群の合間に社が挟まれた様子が描画されている。当地の岩石群がそれで、館山(かんざん)は神山に通ずることからここは神山の磐座ではなかったかと所感を述べている。

しかしながら、残念なことに藤本は誤読しており、『東海道名所図会』の絵図に記された文字は正確には「愛宕大権現」である。
下に寛政当時の版本を掲載する。

国立国会図書館デジタルコレクション『東海道名所図会』65コマ。 インターネット公開(保護期間満了)資料のため転載自由。

愛宕が縦書きでやや字が詰まり気味で書いてあるので「磐」の一字に誤認したのかもしれないが、それでもあまりに異なる字であり、「磐」であってほしいという固定観念に冒されていたようだ。

以上のことから、この地は愛宕大権現に関わる岩石群だったということが、歴史学的にもっとも古く遡れる評価だろう。


現地には、岩石の傍らに名前を冠した看板が建てられているものも多い。気づいたものをまとめておこう。

ながめ岩

見かえり岩

神付岩(かみつき岩)。「頭をカミゝして厄を落して下さい」の説明も付される。

寄仲岩。後ろの建屋の床下あたりに「木魚岩」なる岩石もあったらしいが見逃した。

初登岩。山頂尾根の岩塊で最大規模。「初登岩」というネーミングは他で聞かない。

天辺岩。山頂尾根に沿って屹立する岩石群を天辺に準えたものか。

くぐり岩

船岩

これらの名称は文献上で確認できていないが、現代に名付けられたものか、地元で古くから口伝で語り継がれてきた名称なのか、経緯がよくわからなくなり独り歩きする前にはっきりしたいところではある。

火穴

先出の藤本浩一は、同図会の「火穴」という場所も「大穴」と誤読している。

火穴は現在「舘山寺穴大師」「弘法穴」と呼ばれてまつられている場所で、弘法大師がここで修業して自作の石仏を安置し、舘山寺の開基につながったと伝えられる霊窟である。

穴大師入口部分

この岩穴であるが自然の洞穴ではなく、文化財上では舘山寺古墳・弘法穴古墳と呼ばれており、古墳時代後期の横穴式石室であることがわかっている。
大師の霊窟として奥は禁足地となっているので詳細不明なところもあるが、天井石が1個欠けているだけで石室の保存状態は極めて良好である。玄室に対して羨道が長いことが特徴だという(浜松史跡調査顕彰会『浜松の史跡』1977年)。

なお、舘山の山中には十数基の古墳の存在が伝わるというが、本古墳の他に古墳認定されているものはない。


参考文献

  • 藤本浩一『磐座紀行』向陽書房 1982年
  • 秋里籬島 編『東海道名所図会』上冊,吉川弘文館,明43. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/765194 (参照 2025-09-01)
  • 浜松史跡調査顕彰会 編『浜松の史跡』続編,浜松史跡調査顕彰会,1977.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9537735 (参照 2025-09-01)


2025年8月21日

光岩山長楽寺の行者岩(静岡県浜松市)

静岡県浜松市浜名区細江町気賀

細江町気賀の長楽寺の北側にある「行者岩」と呼称される巨岩上から渥美窯製の経筒外容器を採集した。それらは細片であって復元は困難であるが、天白磐座遺跡出土の外容器と同型に属する資料であった。長楽寺は平安時代の開創と伝えられ、当初は行者岩直下の平坦地にあったといわれている。長楽寺の山号「光岩山」はチャート質で白色を呈する巨岩「行者岩」に由来することは間違いない。
辰巳和弘『引佐町の古墳文化5 天白磐座遺跡』引佐町教育委員会 1992年


行者岩の直下の平坦地とは、梅のトンネルを抜けた先に広がる「本堂跡」(観音堂跡)を指す。
ここには現在石塔が建つが、この石塔に向かって右奥にわかりづらいが登り道が続いており、この道を少し登れば舗装された車道に出る。

本堂跡

登り道から本堂跡背後を撮影。登り道の位置関係の参考として。

道が複数分岐するが、上地図のオレンジロード側から回り込むと、地図には図化されていないが航空写真だと行者岩頂上のすぐ近くまで蛇行する舗装道がある。ちょうど蛇行の折り返し地点から少し足を踏み入れるとすぐ行者岩の頂上である。

蛇行する舗装道の折り返し地点。写真左奥に入ると行者岩に到る。

行者岩頂部

行者岩からの眺望。浜名湖も見える。

行者岩の岩肌。岩崖である。

行者岩下部。「光岩」に相応しく白く輝く。

渭伊神社境内遺跡(天白磐座遺跡)と同型の経筒外容器が見つかったということから、12世紀後半~13世紀初頭の経塚遺跡として考古資料化できる。
そして、行者岩という自然岩(岩崖)を経塚として用いた岩石祭祀遺跡として評価することもできる。


麓の長楽寺裏には「満天星(どうだん)の庭」と称される名庭が広がるが、ここからも行者岩の岩肌を確認できる。植林繁茂前の往時には明瞭な岩山の景を望むことができただろう。

長楽寺庭園から望む行者岩(写真中央下)




関連記事

上記記事では山号を重視して「光岩」と呼ばれている。
行者岩の名前が伝わっていないのか、知っていて使わないのかは不明である。
行者岩の存する山を尉ケ峰(じょうがみね)と呼ぶことがわかり収穫だった。

2025年6月7日

荒鎺山/堀谷アラハバキ神社(静岡県浜松市)


静岡県浜松市浜名区堀谷

社頭扁額には「荒鎺山」とある。

明治時代に建てられた石碑には「荒鎺●神」とある。 ※●は「大」「土」「之」のいずれかで、現地案内を参考にすると「荒鎺大神」か。

岩石頂上。岩山の観を呈す。

向かって右側から撮影。

向かって左側から撮影。

神社から道路を挟んだ向かい側にも注連が張られた露岩が存在。かつては道路をまたいで岩石同士を注連縄で渡していたともいわれる。

字・堀谷に鎮座するアラハバキ神社なので堀谷アラハバキ神社と表記されることがあるが、単にアラハバキ神社ないしは、社殿を擁さないので扁額・石碑に記された荒鎺山・荒鎺大神が元来的な呼称だろう。

いくつかのソースで文献調査を行ったが、当社の文献史学的な情報にたどりつくことはできなかった。いわゆるアラハバキ信仰の詳細についても不明といわざるを得ない。


補足情報として、旧堀谷村は石灰が産出される地として明治時代以前から知られていたようである(浜松県[編]『遠江国地誌小成』1874年)。

当社の北500mという距離には、堀谷洞窟という石灰岩の鍾乳洞がある。

人類学者の近藤恵氏を中心としたグループが2021~2024年度にわたって堀谷洞窟を調査しており、結果、縄文時代草創期に遡る可能性をもつ土器片の発見にいたった(「静岡県西部の石灰岩地帯における旧石器~縄文時代層の人類学・考古学的調査」)。

堀谷が縄文時代から人足のあった地であることはたしかである(これをもってアラハバキと縄文時代を接続するのは安易である)。


遠州山辺の道の会の会員である郷土史家・小野田正吉氏が当社について講演をされている。小野田氏であれば地元に伝わる資料などをお持ちのことと思い、詳しくご教示を乞いたいものである。

歴史講座:仮説、アラハバキ神と式内社


2025年6月2日

御白山浄居院の岩石信仰(静岡県浜松市)


静岡県浜松市北区引佐町奥山 浄居院(じょうごいん)


「浄居院の巨岩群」として地元では知られていたようで、竜ヶ岩洞にある「夢現の岩穴」掲示板には渭伊神社境内遺跡、幡教寺の巨石と共にその名が挙げられている(参考)。

浄居院

本堂向かって右奥に小丘が続き、上写真のとおり岩肌が露出しているのが参道からも見える。
境内から小丘に登る道が設けられている。

入口に置かれた灯籠

巨岩群入口

朱の鳥居でまつられた巨岩群が存在する。それぞれの高さはゆうに10mを越えるだろう。
巨岩群の懐に抱かれるように、少なくとも三か所に分かれて祠が鎮まる。

祠① 背後に亀裂をまつる。

祠② 手前に注連が張られているため正面から拝むことはできない。

祠③ 本堂向かって左側から墓域の奥に鎮まる。

他で見ない特徴は、巨岩と巨岩の割れ目を渡れるように、コンクリート製の石橋が架けられていることだ。

石橋(下から撮影)

石橋の上から祠①を撮影。

巨岩の亀裂の高さは奥方で10mを越えると思われる。

製法からして昭和時代の遺構と類推されるが、一種独特の参拝体験を通して丘の頂上まで参拝できる。
頂上には三体の石仏が石祠に納められていた。

丘の頂上

引佐の奥山地区の他の寺院と同様、臨済宗方広寺派に属す寺院であるが、この寺院に関する情報は少ない。常住寺ではなく、現地には説明板もない。インターネット上の情報も管見のかぎりほぼ皆無も同然だ。

唯一参考となるのが、静岡県引佐郡教育会編『静岡県引佐郡誌』下巻(1922年)に収録された「背山薬師如来記」という文献の記述である。

明和3年(1766年)、背山に薬師堂が落成した縁起を記した内容(安永年間成立か)であるが、背山(奥山地区の山間部の地名)はもともと御白山といわれていたという一節があり、浄居院に薬師堂は存在することから背山の薬師堂は現・浄居院のことを指すとみてよい。

岩石の名は伝わっていないが、御白山という名は岩肌から由来するものと思われ、岩石自体が山と同一視されていた可能性もある。

同書によれば、薬師如来は石像で顕され、初めは白山(御白山)の下、その後、岩壁の間にまつったという。
当地の巨岩群との関係が垣間見える記述である。

しかし、「薬師如来の石像及妙理権現の社は其の創造を詳にせず」の一文もある。

妙理権現の社は、巨岩群の裾にまつられた祠のいずれか、またはすべてを指すものと思われるが、薬師堂の建立以前の歴史は江戸時代当時の人々にとってもすでに不明だったことが窺われる。

2025年5月24日

岩巣と神座古墳群(静岡県湖西市)


静岡県湖西市神座 嵩山中腹


「今調査している古墳の近くに、大きな岩がごろごろしている場所がある」と駒澤大学の方から聞いたのは2013年だった。

気になる存在だったが、それから10年以上経過して時機到来して現地を訪れた。

古墳群は現地の地名から神座(かんざ)古墳群として知られ、そして岩群にも岩巣という名で呼ばれていることを知った。


駒沢大学考古学研究室による発掘調査報告書も2016年までに通算5冊発行され、調査にも一区切りついている。

報告書によると、神座古墳群は神座A・神座B・神座Cの3つの群に分かれて計27基が分布し、そのうち神座B古墳群の8基(うち1基所在不明)が嵩山(すやま。標高170m)という三角山に存在している。

一部の古墳が発掘され、結果、おおむね6世紀後半~7世紀初めに築造された群集墳であることが明らかになった。

嵩山(神座地区から撮影)

神座B古墳群

その古墳群に隣接するのが「岩巣」と俗称される自然石の群れである。

高さ5mを越える立柱状のチャートの露頭であり、一見した雰囲気は、同県浜松市の渭伊神社境内遺跡のチャートの露頭と類似するものがある(丘陵上という立地も共通)。

渭伊神社境内遺跡では自然石の傍らから古墳時代の祭祀遺物が見つかったが、岩巣では2012年に地形測量がなされたものの直接的に古墳時代の遺物は見つからなかった。その代わりではないが、古墳という厳然たる古墳時代の遺構が隣り合うという状況を見せる。

具体的には、岩巣は嵩山頂上から北東に延びる支峰頂上(標高98m)に露出し、その岩巣を挟んで東に3号墳、西に4号墳が築かれる。

それぞれの古墳からは肉眼で岩巣を認識できる近さであり、古墳築造時にこの岩巣の存在を知ったうえでこの地に古墳(墓域)が形成されたということになる。

岩巣(頂上部)

立柱群(4号墳側から撮影)

3号墳側から撮影

岩巣には岩陰があるものもあるが、防空壕として利用されたものもあるとのこと。


前述のように岩巣からは遺物が出土しなかったため報告書上ではほぼ看過されている(言及しようがない)存在となっているが、本記事ではもう少し岩巣に言及したい。


岩巣はその名称以外に特段伝承も信仰・祭祀の跡もみられない存在だが、尾根先端にある岩の一岩石上からは麓が一望できる好立地である。

岩巣の尾根端(東端)

麓の眺望

麓の神座地区には、産土神としての上座神社が鎮座する。「上座」は「じょうざ」と読むが、元は「神座(かんざ―かみざ)」から転じたものとみるのが適切である。

上座神社は寛永11年(1634年)の創建といわれるので古墳時代に遡るものではないが、地名としての神座がいつまで遡るか、そして嵩山の聖山としての位置づけがいつまで遡るかという点はさらに追究されてよい問題だろう。

なお、上座神社境内の北西隅には下写真の岩石がまつられているが、これは「最近」置かれたものだという(中根 2002年)。

上座神社境内の岩石

興味深いのは、神座B古墳群の石室石材は現地性のチャートだったことが判明しており、つまり、嵩山の岩石を採ったということになる。

ドライに見れば、岩巣は単なる石取り場の跡だったのかという見方さえできる。当時の人々にとって、嵩山は山に手を入れて墓を造成して良い場所であり、そこにある岩石で石室を造ってよかったという認識にあったことがわかる。では岩巣にも手を入れてそこから岩石を採ったのではないかという実利的な側面である。

一方で、同じ浜名湖周縁地域に属する渭伊神社境内遺跡では自然の露岩群を対象とした祭祀が確認されているわけで、こちらは岩石を神聖不可侵なものとする見方が語られる。


両者が相まった考え方としては、岩石に聖性を認めたからこそ、その聖なる岩石を墓に利用したという意味での岩石信仰も仮説として浮かぶ。この場合、自然石は利用されてそれでも信仰として成り立つ。

発掘の中で、7号墳からは古墳時代の焼土層も検出されている。順序としては、墳丘築造前に地山を整地して、その後に整地面で火を焚いて、それから石室と墳丘を構築していくという流れである。そのため、古墳築造時の一種の儀礼行為としてなされた跡ではないかと報告書でも指摘されているが、このように山に対して手を入れることと祭祀は両立しうる。

いわゆる山は神聖不可侵で立ち入らないという性格ではなく、山に積極的に立ち入って利用していくという性格の信仰が垣間見える。しかし古墳時代は全般的に文字資料不在につきこのあたりの心の在り方がわからず、現時点では確定的に言えることは少ない。

岩石信仰の観点で見れば古墳と自然石の同居事例の好例の一つであり、古墳石材が現地性であることもわかったという点で今後の研究の参考となるところ大だろう。


参考文献

  • 駒沢大学考古学研究室[編集・発行]『静岡県湖西市 神座B古墳群第1次発掘調査概報』2012年
  • 駒沢大学考古学研究室[編集・発行]『静岡県湖西市 神座B古墳群第5次発掘調査概報』2016年
  • 中根洋治『愛知発 巨石信仰』愛知磐座研究会 2002年