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2019年6月10日

白山神社の巨大岩塊(福井県勝山市)


福井県勝山市平泉寺町大矢谷



多くの白山神社と区別するため、所在する大字を取って大矢谷白山神社とも呼ばれている。
(加賀・能登と比べると越前における白山信仰の影響は意外に少ないという。『福井県史』より)

勝山市によってジオパークの一つ「大矢谷白山神社の巨大岩塊」 として認定されている。
北東にそびえる経ヶ岳の山頂が崩壊し、その山体を構成する岩塊が勝山市~大野市に数百個の単位で麓に転げ落ち、そのうちの一体がこれだという。

それならば当地の人々には「巨石」という存在は比較的ありふれたものだったとみるべきだが、その中でまつられた岩石とまつられなかった岩石の差は何だったのか。

すぐ近く隣接する大野市域では延喜式内磐座神社も鎮座しているが、それらの岩石は当地より小ぶりで、当地の岩塊はそのような道筋を歩まなかった。それはなぜか。

神社入口

巨大岩塊

覆屋も岩盤上に建てられている。

岩陰に合わせて建屋は設計されている。

岩陰の火焚き場

本殿側から。隣接する沢音がバックに流れる。

鳥居横の岩塊

岩上に樹根が這う岩塊

ここは白山を開山したとされる泰澄大師が、岩陰で宿泊した大岩窟「一の宿」と伝わる。
残る伝承としてはこれくらいのようで、巨大岩塊は聖なる宿以上の認識は読み取れないが、集落の外れと山の境に立地する巨大岩塊は、横に沢が流れ聖地としての信仰環境は十分に備えている。

2019年6月9日

磐座神社/大槻磐座神社(福井県大野市)


福井県大野市西大月字磐倉

『延喜式神名帳』記載の「越前国大野郡 大槻磐座神社」とされる。
現在の字も「大月」で、「いわくら」に「磐倉」の字の用例をもつ。

西大月字磐倉の磐座神社

境内は鬱蒼とした草木に埋もれるようにして鎮まる。



『大野市史 通史編上 原始~近世編』(大野市編・2016年)には、大野郡における磐座名を冠する神社について特筆している。

いわく、大野郡鎮座の延喜式内社である
  • 大槻磐座神社
  • 高於磐座神社
  • 磐座神社
  • 篠座神社
の四社が、磐座やそれに類する社名として密集し、今日まで存続していることに注目している。
(篠座神社については「座」の共通性だけで、必ずしも岩石とのつながりを示すものとは言えないが)

さらに範囲を広げて、越前・若狭における延喜式内社には伊部磐座神社・石按比古神社・石按比売神社もあり、「いわくら」を神格化した社が少なくとも6か所に上っている。
これは他地域と比べても類を見ない分布の濃さであり、『福井県史 通史編1 原始・古代』(福井県編・1993年)でも、集落土着の自然信仰の傾向として岩石があったことが言及されている。

このことは、ことさらに当地が磐座信仰の密集地だったというよりも、延喜式内社の収録基準に若狭・越前地域の磐座群が適合し、多く文献に記録された(そうでない全国各地の磐座は記載されなかった)とも理解できるだろう。

すなわち、本来は磐座単体だと社を必要としないため、岩石単体のまつり場ならば延喜式内社として収録されなかった可能性がある。

一方で当地の磐座神社たちは、神を降ろす座だった磐座に早くから神が常在しだして石神のような形で岩石と神が同一視されたか(=磐座神としての信仰)、あるいは磐座に社殿建築が加わり、早くに磐座の祭祀が社殿祭祀に置き換わったといった仮説が提起できる。


さて、再び大槻磐座神社に話を戻したい。

『福井県大野郡誌 上編』(福井県大野郡教育会・1911年)では当社についての古記録がまとめられている。
同書によれば、『平泉寺賢聖院々領目録』『国史略記』『古名考』『類聚国志』『越前神社考』『越前名跡考』 『深山木』『神祇志料』などに存在が記載されているが、多くの書で書かれているのは大月の地にあるといった所在の内容にとどまり、祭神などの詳細は「知らず」「詳らかにせず」といった内容である。

それは「磐座」の存在についても同様で、古記録からは「岩石としての磐座」の由来や存否について窺い知ることはできない。

そこで現地に目を向けると、拝殿向かって右(東)に3個の岩石が群集しており、これが磐座ではないかとみなされている。
一方で、この岩石群は村人が掘って立てたという情報もあるが、その出来事が事実であるかが不明であることと、かつての埋もれた磐座が再発見されたという意味合いを持たせることもできなくはない。

拝殿横の岩石3個

地中から根続きの岩盤というよりは、独立した岩石の様子。

上方斜面側から。注連縄が巻かれていた時期もあるらしい。

3個の岩石のうち、1個の岩石頂面には酒が立てられていた。


神社の立地は山裾に位置するため、社殿背後には裏山がまだ続いている。
境内から見るかぎりでは露岩などは確認できなかったが、山中の岩石群の有無は今のところ確認できていない。


2019年6月3日

飯部磐座神社(福井県越前市)


福井県越前市芝原

古代より神霊があらわれる神聖な巌は、磐座(磐境)として祭祀の場とされる。当社の磐座は近隣の社にない巨岩群で、土地の豪族伊部造豊持氏が、氏族の磐座祭祀を行ったと伝えられている。
「延喜式神名帳」にある「伊部磐座神社」は、この神社であると言われている、(式内社の研究 志賀剛氏の説による)
2004年建立の現地看板より

飯部磐座神社

丘の南斜面に巨岩群が群集する。

丘の周囲は住宅地が密接している。

このように胎内くぐりのような岩陰空間もある。

巨岩群は切り取り方で多様な表情を見せる。

丘の頂上(社殿)から北東方向を望む。周囲を一望できる好環境。

「敦賀郡 伊部磐座神社」の論社とされているが、当社は丹生郡域に鎮座しているため異説もある。

享保11年(1726年)の火災で旧記は失われたという。
貞観15年(873年)、伊部造豊持が遠方から巨岩を運んでこの磐座を造ったという話もあるが、伊部造豊持による磐座祭祀についての仔細や事実関係もわからない。

この丘を古墳と見立てて、巨岩群は古墳の石材の跡、あるいは、古墳の上に巨岩を運んだと見る考え方もあるようだ(古墳としての埋蔵文化財登録はされていないが)。
すぐ近くには芝原古墳群として包括される古墳群がかつてあり(宅地開発で消滅したものが多い)、古墳との親和性は否応なく高い。
ただ、個人的には巨岩一つ一つの形状を見ると、古墳の石室のようには感じないものもある。風化と苔の付着で惑わされているところもあり、主観である。

周囲に巨岩がないから自然形成とは考えにくいという見方もあるだろうが、当地を開拓して土地を均した時に、地域に分散して露出していた巨岩や微高地の土をかき集めた塚の跡と考えることもできる。
ただその場合、巨岩は丘の南斜面に密集しているが、丘の頂上近くまで巨岩が上がっている。周囲の不要土や岩石を寄せるだけなら、巨岩をこんなに上まで上げる必要性はない。

自然形成、または古墳説、新田開発説などいろいろな見方を紹介したが、一方で人工的な磐座説を否定するものでもない。
人工的な磐座は、岩石こそ小規模なものの、古墳時代の祭祀遺跡ではしばしば見つかっており、神を招く祭祀の台座である磐座を人為的に設けることは、祭祀の構造から考えても何も不思議なことではない。
磐座を神と同一視すると、違和感が生まれる。
磐座=自然の巨石、磐境=人工の施設というような古典的な言説も見たことがあるが、記紀にはそのような定義付けはまったくされておらず注意したい。

2019年5月26日

大虫神社境内大岩神社(福井県越前市)


福井県越前市大虫町 大虫神社境内

大虫神社の境内に、摂社・大岩神社が鎮座する。
現地に掲げられた境内地図には「お岩神」の名称も冠せられている。
西村英之「大虫神社」『日本の神々―神社と聖地 第8巻 北陸』(白水社、1985年)では、「お岩さま」と呼ばれているとも書いている。

大虫神社

境内社の大岩神社

社後に岩石をまつる。

背後より


以下に社頭掲示の文を引きながら、補足説明を加えていこう。

大岩神社
当社は大虫神社の奥の社と称し、古代より上大虫村(大虫町)山地字水谷に鎮座。神体盤石に座処往古より神変、奇異の神徳あり。

上記の記述から、当社は元来この現在地にあったのではなく、上大虫村山地字水谷にあったことがわかる。
「山地」が大字としての「山地」か、一般名詞としての山地か見分けにくい。
越前市や大虫町の字一覧を調べればはっきりするが、いま手元に調査できるものがなくわからない。
大虫町山地や大虫町水谷で検索するだけでは地名がヒットせず、旧社地が地図上でどこなのかも不明である。

「神体盤石に座処」 は、本来の大岩神社は「盤石」に神が座す磐座としての形の信仰だったという語り口である。

後陽成天皇 慶長十三年(一六〇八)三月四日連縄を張る
明正天皇 寛永十年(一六三三)社建立
桃園天皇 寛延三年(一七五〇)小鳥居を建立
大正十年(一九二一)五月一日水谷の旧跡より現在地に遷宮す

旧社地の水谷での沿革に注目したい。
寛永十年に社を建てたとあることから、それ以前は社を持たず、慶長十三年に注連縄が張られたのは、盤石に直接ということが読み取れる。
盤石を以て大岩神社としていたということになる。

「帰贋記」に上大虫の西の山に神という石あり。又天狗岩ともいひならはせり。此の石みずから動いて山下、山上へ所を帰る事ありと、昔よりいひ伝えられる。

「帰贋記」がどのような文献なのか説明はないが、さらに新しい情報が加わる。
「神という石」という記述には、そのシンプルさに少々驚かされるが、これはやや批判的に受けとめたい。
というのも、前掲の『日本の神々―神社と聖地 第8巻 北陸』には別途『越前地理指南』という文献の記述が引用されており、そこには「西ニ山の神といふ石アリ五尺四方也此石自ラ揺キ山上山下へ居をかゆる事アリ天狗岩共云伝」とある。
こちらを信頼すると、「山に神という石」ではなく、正しくは「山の神という石」ではないかと思うのである。

しかし他の記述はほぼ同様の内容であり、石自体が神であったことがうかがえ、天狗岩の別称もあったことがわかる。

石自体が山の下へ行ったり上へ行ったりするということで、この手の伝承は全国に複数見られるが、石自体が人のごとく石を発動しており、ここからは座石としての働きではなく、岩石自体が石神として動いていると言えるだろう。

これは、社頭掲示冒頭の「神体盤石に座処」という磐座的機能とぶつかりあうところで、どのように理解したらよいだろうか。

ひとつは、石神でもあり磐座でもあるという理解。
似ているが異なる解釈として、石神も磐座であるという理解。
次に、石神または磐座のどちらかを真として、もう片方を後世の付会とみなす理解。

文献調査不足のためここでは結論を出さないが、あえて斜に構えるなら・・・。

社頭掲示の「神体盤石に座処」は看板を書いた人物の神道知識(岩・石はすべて磐座という発想)にひきずられているという可能性はある。
一方の「帰贋記」はいつごろの制作かわからないが、社頭掲示の文が同文献から忠実に引用しているのであれば、石神としての記録のほうがより確固としている。
それは神変・奇異の神徳にも通じ、お岩神(大岩神)という神名にも通ずる。

石は又五尺四方計(約一.五メートル)有りて人力の及ぶ所にあらずとある。

石の規模を記しているが、さて、この「石」は、旧社地にある盤石を指すのか、それとも、現在地に置かれている目の前の岩石を指すのか。
目の前の岩石も、規模は1.5m四方と言えばそれくらいの大きさである。

「人力の及ぶ所にあらず」であるから、人が運んだものではないという意味はわかるが、運べないほどの規模というわけでもない。

そもそも、旧社地の盤石をそのまま現在の境内に移した(伝説上の表現では「動いた」)のか、旧社地の盤石と似た岩石を新たに現社地に置いたのか、ここがわからない。
これも全国各地に、どちらのパターンの類例がある。
大正十年に遷座したこととあいまって、旧社地の石の現状と現社地の石の出自が読み取れないが、現地での聞き取りと郷土資料の調査で判明するものと思われる。


2019年5月21日

大岩大権現(福井県敦賀市)


福井県敦賀市疋田

大岩大権現
麓の疋田地区


疋田地区の登り口に案内は見つからなかったが、疋田浄水場を目指せばそのすぐ近くに「大岩大権現」の標識を見つけることができる。

左が疋田浄水場/右が大岩大権現


手前まで舗装路のため車で登ることもできるが、途中に延命地蔵の滝もあるため、麓から歩くことを薦めたい。徒歩10分もかからない。

大岩大権現下流にある延命地蔵と滝

大岩大権現の由来は現地看板によると、慶応2年(1866年)の大雨で当地で山津波が起こり、その時にこの大岩の存在が大木・落石を防ぎ、水の流れを変え、麓の疋田地区への山津波の直撃を防いだことにより、疋田の人々が大岩大権現と呼んでまつったのだという。

綺麗に手入れされた境内。建物は付属せず、大岩をそのまままつる。
この岩が落石となったら悪石と化しただろうが、他よりもひときわ大きいこの岩が他の災厄から救った。
大岩大権現の裏側に回ると・・・
石の群集が岩陰を作り、向こう側に胎内めぐりのごとく貫通している(写真中央)
現地看板。由来詳細はこちらを参照。



由来どおりであれば、明治維新直前の比較的新しい岩石信仰の事例だが、そこに語られている内容は極めて自然信仰であり、神格化への昇華も極めて汎人類的な心の動きである。

これはそのまま、現代においても数多ある自然災害のなかで生まれた"畏怖"や”奇跡”と通ずるものもあるのではないか。

言い伝えの中に、村を襲う「害なる落石」と、それを防いだ「善なる大岩大権現」という二つの岩石の語られ方が見て取れるのが興味深い。
ここでは、岩石が動かず、動く他の災厄を塞いだという「不動性」が「塞」「サカイ」に通じて信仰要因となっている。

そして、大岩に権現が宿ると村人が判断した決め手は、氏神にお伺いを立てておみくじを引いた結果、山王権現の加護によるものという託宣があったのだという。
時代背景もあってか、自然石をそのまま神に昇格することはあたわず、外部の氏神と山王権現の真意を加えた流れをくみとることができるだろう。

現在も、大岩大権現の隣には川が流れており、下流には滝があり、冒頭で触れたとおり浄水場・配水池も近くにある。
水量の豊かな環境にあることがたちどころにわかり、麓に人が住む限り、大岩大権現に頼る思いは変わることがないだろう。

大岩大権現に隣接したこの岩塊も奉献対象だとわかる。おなじく「動じなかった善神」か。

2019年5月20日

興道寺と木野にある二つの御膳石(福井県三方郡美浜町)



福井県三方郡美浜町には、二つの御膳石が現存する。
こちらについては、橋本裕之氏「御膳石考―弥美神社の祭礼に関する集合的記憶の支点―」(『京都民俗』第22号、2005年)で詳しく論じられており、同論文を参考にしながら紹介したい。

興道寺の御膳石
(美浜町興道寺 日枝神社境内)

日枝神社境内の東、耳川(弥美川)を望む場所にある。
幾度かの場所移転後、現在地でいまだ保存されている。

興道寺の御膳石。草でわかりにくいがセメントで地表面が固められている。

木野神社境内にある。

石の頂面を上から撮影。

御膳石から耳川越しに弥美神社の方向を望む。


耳川を挟んだ対岸の弥美(みみ)神社の五月一日の祭礼時、御膳を供えるために置いていた石である。
なぜ弥美神社から離れた場所で御膳を献ずるのかというと、祭礼時に耳川が増水して渡れなかった頃、この石にお供えをして遥拝したのだという。
この地区にまだ耳川の橋が架かっていなかった時代の話である。

弥美神社宮司だった故・田中伊之助氏が「石ノ信仰ニツイテ」という文書を書き残している(1940~1967年頃の制作か)。この文書に興道寺の御膳石も言及されている。
橋本裕之氏は前掲論文の中で、この文書の全文を掲載している。
御膳石の特徴を表す部分に絞って、箇条書きにまとめておきたい。

  • 川岸に残っていて、地上から三尺ほど露出している。
  • 石の頂上が平坦で、農具を置いたり弁当を食べたりする時に便利そうだが、そんなことをすると神罰が下るといって土地の住民は敬遠している。
  • 弥美神社に御膳を馬にのせて運ぶが、川が増水して渡河できない時はこの御膳石に供えて、遥拝して帰った。

橋本氏の現地調査(実見および聞き取り)によると、さらに次の情報が加わっている。

  • 高さ79cm、長辺77cm、短編56cmを測る(地表露出数値)。
  • 頂面の平坦部は人工的に削って作りだしたものではないか。
  • この主石に付随して、2個の小ぶりの岩石も大切にされており、3個含めて御膳石として扱われている。
  • 元々は現在地にあった石ではなく、耳川近くの水田の畔にあった。 
  • 畔を境にして、上の水田は日枝神社の宮田で、下の水田との段差が30cmほどあった。御膳石も30cmほど埋まっていたという。
  • 下の水田の所有者談では、自然の所産というよりも、人工的・意図的に配置された石に見えたという。
  • 1977年、土地改良工事の時に一度地中に埋められたことがある。この時、石が風化するための「岩腐り」状態になった。
  • その後、地中から掘り出して日枝神社の横を通る農道脇に移設した。当時、御膳石を動かすことに躊躇する、気が咎める雰囲気も地元の中にはあったらしい。
  • 1999年、日枝神社の出入口を新設した折に、御膳石はさらに移転され、現在の境内東側に安置された。

「遥拝」について思いを巡らせたい。
遥拝であるから、基本的には信仰対象である神霊との物理的距離が離れている場合に用いる概念である。

御膳石は、神霊に捧げる品々を、遠くの場所からでも転送できる装置である。
それと同時に、奉献物に込められた信仰者の思いをも、神霊に転送する機能を持つ。
そうでないと、参拝の代わりにはならないからである。

本来は、弥美神社という神域の中まで入ることで、参拝は達せられる。
それが、増水というハプニングの時に限り、御膳石の力を借りることで、神域で参拝したことと同じ価値を得られる。

これは言うなら、御膳石遥拝の時だけ、弥美神社の神域が拡大して、御膳石が神域の境界の端を担ったのかもしれない。
だから、物理的距離が遠かったとしても、逆に神霊のテリトリーを拡張することで、そこの奉げ物を神霊が受けとってくれると保証されることになる。
つまり遥拝石とは、単純な転送装置というだけではなく、遥拝する時だけ、信仰対象のテリトリーをその岩石まで拡張する機能を担ったのだと理解することもできるだろう。

ただ、人の心にはグラデーションがある。
遠くの祭神に祈願を届けるのではなく、遠くの祭神が御膳石という装置の力によって、御膳石の場所まで来てくれていると解釈した人も、参列者の中にはいたかもしれない。
この場合、御膳石は神饌台という単一機能だけでなく、一種の呼び寄せ装置でもあり、磐座に近い性格も帯びることになる。
目に見えない観念世界だからこそ、信仰・祭祀における信仰対象の現われ方には絶えず揺らぎや多様性が混じることも、注意しないといけないだろう。

弥美神社。「王の舞」の民俗芸能が残ることで有名。


さて、この御膳石には不敬な行為をすると神罰があるとは前述のとおりであるが、現在は不敬どころか原位置から度重なる移転・改変を受けており、今は特に祭祀の行われていない岩石に変容した。

橋本氏の調査により、御膳石を取り巻く人々の心理にも変化が起こっているのが読み取れる。
田中宮司が記した1967年以前では、御膳石は間違いなく「神聖な岩石」であり、祟り伝承を付帯していた。

それがまず崩れたのは、信奉者ではない外部の工事業者がそれと知らずなのか、1977年の土地改良工事で地中に埋めてしまったことに端を発する。
この時の詳しい経緯はわからないが、地元の人々の理解の上で埋められたのなら、 この時すでに御膳石の祟り伝承と神聖性は相当薄れていたと認められる。
これは、耳川に恒久的な橋が架かってから、御膳石がその遥拝石としての役割を必要としなくなったことと絡み合うのかもしれない。

一方で、地元の人々の理解を得ないまま工事業者が埋めてしまったのかもしれない。
この場合は、人々の御膳石への心理は従前と一緒だった可能性もあるが、この出来事によって、御膳石は視界から姿を消し、記憶の忘却に拍車がかかる契機となった。また、御膳石をこのような状態にしたのに実際に祟り現象が起こらなかったと人々に認識された場合、その時、御膳石の畏怖性は急速に失われたであろうことも想像に難くない。

このように、1977年を境に御膳石は「ある程度動かしても良い」認識の存在になった。
後で再び御膳石が取り出されたのは、御膳石に対する人々の愛情の現われであり、移設時に気が引ける思いが一部の空気にあったのもまだ従前の畏怖性が残っていたことを示すが、それでも最終的に御膳石は「動いた」のである。

一度動いた御膳石に、その点でのタブーはもうない。
だから1999年に再度移転も受け入れられ、3このいしはセメントで固定されるという「保存処理」がなされた。
これはもう、御膳石が現役の祭祀装置ではなく、文化財の一種として人々に認知されていたと言える行為だろう。

それでも御膳石は今でも耳川を望む位置に立ち、博物館の展示品のように、かつての祭祀景観から完全に切り離されたわけではない。
そして、橋本氏が前掲論文で指摘したように、現在も御膳石は「弥美神社の祭礼に関わる集合的記憶」を掘り起こし、再評価する記憶装置(過去の記憶を想起・生成させるための起動装置=ジェネレーター)の役割を果たしているのである。


また、御膳石の頂面が人工的に成形されているのなら、祭祀当初の御膳石は人為加工された存在であり、それ自体には「改変することへの畏れ」は感じられない。

人為加工したのが初めから祭祀目的だったなら、そこには祭祀を執行するための祭具としての意識が先行しており、岩石自体に畏怖性が帯びたのは後天的なものと解釈できる。

それとは別の可能性として、元々は古代に別の理由で加工されていた岩石が、後年に再発見され、これを神意と見て祭祀の石に転用したケースもあるだろう。その場合は、再発見時点ですでに岩石には畏怖性が伴ったと理解して良い。

日枝神社の入口。獣害除けの電流柵で囲われているので、外して参拝する方式。


木野の御膳石
(美浜町木野 木野神社境内)

木野地区の鎮守である木野神社にも、御膳石と呼ばれる岩石が現存する。

木野神社も入口に厳重な防護柵がある。出入りは元通りに。


場所は、木野神社の社殿に向かって右手前で、玉垣に接して置かれたベンチのような岩石がそれである。
興道寺の御膳石と同じく、特別な石であることを示す標示はなく、外野の者にはその出自を外見で把握することはできないだろう。

木野の御膳石

玉垣の奥方延長線上に弥美神社が。

玉垣外から御膳石を撮影。

別方向から撮影。直方体の整然とした形状。

社殿向かって左にも岩石がある。これらにも埋もれた歴史があるのだろうか。

 興道寺と御膳石という名称は同じだが、岩石の形状は似ていない。
興道寺の御膳石は立石状に対し、木野の御膳石のほうがより平石であり、御膳を置く分には木野の方が置きやすい。

木野の御膳石も、橋本裕之氏が同論文で調査しており、その要点を以下にまとめたい。

  • 高さ41cm、長辺124cm、短辺40cmを測る。
  • 石英脈が多数入った砂岩との鑑定。
  • 木野神社の祭礼時、御膳と御幣を二つずつ制作し、一つを木野神社に捧げ、もう一つをこの御膳石に捧げるという祭祀を現在も継続している。
  • 御膳石を捧げる方角上には弥美神社が位置しており、こちらも弥美神社に対する遥拝の岩石とされる。
  • かつて弥美神社の祭礼日には、木野神社を遥拝してから祭礼を開始していたという伝承がある。
  • 木野は弥美神社の氏子集落であるが、弥美神社の祭礼には参加せず、木野神社で独自に祭礼を執行している。

これらの点から、橋本氏は木野の御膳石を、木野神社と弥美神社の二系統の祭礼に関する集合的記憶の支点として機能する存在だったと論じている。


岩石信仰の観点で考えれば、木野の御膳石は木野神社の祭礼時、弥美神社の方角に向けて御膳を置き、御幣を立てかける岩石である。
御膳石には御膳だけではなく御幣も立てかけるので、単なる神饌台ではなく、神霊が御膳石に来臨する磐座の機能も有している。
細かく言えば、御幣は御膳石の上ではなく、御膳石に斜めに立てかけている。
それでも、御幣に神霊は来臨するので、御膳石は立てかけられた下の台座の働きとして、磐座の上に神がやってくる構図自体は変わりない。

他にも興味深い点があるのでまとめてみよう。

  • 興道寺の御膳石と異なり、木野の御膳石では今も祭祀が行なわれている。
  • 弥美神社の祭礼に合わせるのではなく、木野神社の祭礼の日程に組み込まれて使用されている。
  • 川の増水と関係なく、木野の御膳石は初めから遥拝すること前提で定期的祭礼に組み込まれている。
  • 田中宮司の「石ノ信仰ニツイテ」には、興道寺の御膳石について言及があるが、木野の御膳石は取り上げられていない。


興道寺の御膳石は増水というイレギュラーな出来事によって遥拝に使われたり使われなかったりしたことが想像されるが、木野の御膳石は毎年一回かならず祭祀に用いられた。

この祭祀の定期性の有無が、興道寺は祭祀が失われやすかった(橋の建設があったにせよ)理由になり、木野は今も続いている要因になったのかもしれない。

同様に指摘したいこととして、興道寺より木野の御膳石の方が、岩石の機能も祭祀の内容も洗練されているという点がある。システム化されていると言い換えてもいい。

興道寺の御膳石は

  • 不定期に祭祀執行される。
  • おおむね遥拝のための奉げ物を置く石として使用された。(磐座的発想は皆無ではないが、少ない)
  • 岩石が奉げ物を置く石としては、不適切ではないが、適当と言い切れるほどの平坦面を持ってもいない。
  • 弥美神社の祭礼に対して、あくまでも従の関係である。

木野の御膳石は

  • 定期的に祭祀執行される。
  • 奉げ物を置く石という点では興道寺と同じであるが、御幣も供えて弥美神社の祭神も呼び寄せる磐座的発想も兼ねている。
  • 奉げ物を置くに適した合理的な形状の石を選んでいる。
  • 弥美神社に対して、独自路線の祭祀体系を用意しており自立的である。

まるで、興道寺の御膳石を見習って、それを体系化したかのような感が木野の同石にはある。
これと併せて考えたいのが、田中宮司の「石ノ信仰ニツイテ」に、木野の御膳石は取り上げられていないという事実である。

前述のとおり、木野神社の御膳石は今も祭祀が継続されている存在であり、そういう意味では、近在の「石ノ信仰」をまとめようとこの文書をかいた田中宮司の耳に届く存在でしかるべきであるが、記述されていない。

はたして、木野の御膳石の祭礼がいつまで遡りうるものなのかはわからないが、興道寺の御膳石の祭祀が途絶えたのと入れ替わるように、木野の御膳石が今も遥拝祭祀を受け継いでいるのはとても興味深い事実と私は見ている。

2019年5月19日

泉岡一言神社(福井県三方上中郡若狭町)


福井県三方上中郡若狭町中野木

大和葛城山の一言主大神を当地に勧請した神社だが、創祀の委細ははっきりしていない。

泉岡一言神社境内

当社について詳しく紹介してあるwebページを2つ紹介しておきたい。

福井県神社庁の泉岡一言神社のページ
福井県神社庁|泉岡一言神社

福井県小浜市の和菓子店である耕養庵の一言神社のページ
一言神社

こちらによると、文永2年(1265年)の文献に「泉岡一言宮」の字が見えるようで、鎌倉時代までの足跡は辿れるようである。

また、勧請された時に一言主大神は「吾宮祠を好まず」と告げたそうで、そのため境内に本殿は存在せず、当社は「盤境」によって宮となすという。

「盤境」はすなわち「磐境」と見ていいが、社頭掲示で使用されている語であるため、この語の初出がいつまで遡れるかは不明である。

実際に、本殿をまつる位置には立石が1体置かれ、幣帛が捧げられている。
現状のまつられかたは、岩の境というより憑依物としての依代のような感がある。

拝殿とその奥の立石

盤境とされる立石


また、当社の背後の山を野木ヶ岳(野木山)と称し、その東南に支峰として野木小山がある。その山頂に当社の奥の院が鎮まるという。
明応3年(1494年)、野木山頂において雨乞いの祈願が小浜市の明通寺の僧によって行われ大雨が降ったという記録が同寺の「明通寺文書」に記されている(大森宏「泉岡一言神社」『日本の神々―神社と聖地 第8巻 北陸』白水社、1985年)。

野木ヶ岳(泉岡一言神社は写真右端の山裾)。写真右の支峰が野木小山。

こちらは未訪であるが、福井県神社庁のページに掲載されている画像が奥の院の画像であり、本社の立石と瓜二つの立石をこちらもまつり、やはり社祠はない。
山頂の立石のほうが野趣に溢れ、それを山麓に分霊した岩石が現在本殿代わりにまつられている立石といったところだろうか。

境内には他に、「一心」と字が刻まれた岩石や、一切の標示がないが玉垣に囲われ本殿と類似した構造の立石がまつられている。

標示に「御神意 一心」とある。石肌にも刻まれ、これ自体がまつられている。一心祈願の当社の由来にまつわる岩石か。

境内参道脇にまつられた一画

立石の手前に平石が見え、玉垣一帯を玉石を敷き詰める。それぞれの石の役割が異なる。

社頭には黒石が献ぜられている。一心祈願の折に黒石を以て献ずるらしい。

御神木 夫婦杉

夫婦杉の幹分かれの鞍部に積まれた石たち。


以上、さまざまな岩石祭祀の姿を伝えている。

前掲の『日本の神々―神社と聖地 第8巻 北陸』の泉岡一言神社の項には磐境を始めとする岩石信仰には言及されておらず、現在のところ、これらの祭祀を説明している記録にまだ出会えていないのがもどかしいが、近在の古墳群の分布とも絡めて興味のやまない場所である。