静岡県浜松市北区引佐町奥山 浄居院(じょうごいん)
「浄居院の巨岩群」として地元では知られていたようで、竜ヶ岩洞にある「夢現の岩穴」掲示板には渭伊神社境内遺跡、幡教寺の巨石と共にその名が挙げられている(参考)。
浄居院 |
本堂向かって右奥に小丘が続き、上写真のとおり岩肌が露出しているのが参道からも見える。
境内から小丘に登る道が設けられている。
巨岩群の懐に抱かれるように、少なくとも三か所に分かれて祠が鎮まる。
他で見ない特徴は、巨岩と巨岩の割れ目を渡れるように、コンクリート製の石橋が架けられていることだ。
祠① 背後に亀裂をまつる。 |
祠② 手前に注連が張られているため正面から拝むことはできない。 |
祠③ 本堂向かって左側から墓域の奥に鎮まる。 |
他で見ない特徴は、巨岩と巨岩の割れ目を渡れるように、コンクリート製の石橋が架けられていることだ。
頂上には三体の石仏が石祠に納められていた。
唯一参考となるのが、静岡県引佐郡教育会編『静岡県引佐郡誌』下巻(1922年)に収録された「背山薬師如来記」という文献の記述である。
明和3年(1766年)、背山に薬師堂が落成した縁起を記した内容(安永年間成立か)であるが、背山(奥山地区の山間部の地名)はもともと御白山といわれていたという一節があり、浄居院に薬師堂は存在することから背山の薬師堂は現・浄居院のことを指すとみてよい。
岩石の名は伝わっていないが、御白山という名は岩肌から由来するものと思われ、岩石自体が山と同一視されていた可能性もある。
同書によれば、薬師如来は石像で顕され、初めは白山(御白山)の下、その後、岩壁の間にまつったという。
当地の巨岩群との関係が垣間見える記述である。
しかし、「薬師如来の石像及妙理権現の社は其の創造を詳にせず」の一文もある。
妙理権現の社は、巨岩群の裾にまつられた祠のいずれか、またはすべてを指すものと思われるが、薬師堂の建立以前の歴史は江戸時代当時の人々にとってもすでに不明だったことが窺われる。