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2022年3月6日

法石山常在院の殺生石(福島県白河市)


福島県白河市表郷中寺屋敷

 

法石山の号は、本堂裏にある殺生石に由来する。


かつて那須野が原で九尾の狐が変じた殺生石を、元中2年(1385年)に源翁禅師が衣鉢を授け、花を手向け焼香し、殺生石の魂に仏法を教化した。

殺生石は成仏するとともに幾片(三つとも)にも砕け散り、全国各地にその石片が飛散した。その石片が飛び散った場所の一つが、この常在院の殺生石といわれる。

常在院は源翁禅師の開基とされ、室町時代に常在院2代目の和尚が製作したという「源翁和尚縁起」「源翁和尚行状記」にこの殺生石伝説が記載されている。


常在院における殺生石は、仏心を得て改心したものであるため、法石稲荷(注)と呼ばれ仏法保護の神に転じている。

殺生石が飛散する前の常在院の山号は「法水山」だったという逸話もあり、殺生石の置かれている場所は山の清水が滴り落ちる場所でもある。




古い写真で見えにくく申し訳ないが、丸い台座のような自然石の上に乗っている石片が殺生石である。

下の石は、ただ台座というだけではないかもしれない。

国際日本文化研究センター「怪異・妖怪伝承データベース」によると、次のような伝説が残る。

竜女が常在院の源翁和尚に説法を頼み、救われた。お礼に寺の殺生石の下に水を引いた。竜女がその後お産のときに温めて抱いた石も寺にある。

竜女,竜宮姫 | リュウジョ,リュウグウヒメ | 怪異・妖怪伝承データベース


殺生石の下を流れる沢が竜女の信仰をもち、お産で抱いた石が寺にあるということで殺生石の台座の石がそれに該当するかは確認が取れていないが、このように表立って知られていない物語が一つ一つの岩石に込められている(いた)かもしれない。


注

『西白河郡誌』(1915年)によると、法石稲荷社の社殿自体は明治40年の再建とある。

https://lab.ndl.go.jp/dl/book/925911?page=173(次世代デジタルライブラリーより)


参考文献

  • 「源翁和尚行状記」(コピー)
  • 「源翁禅師略伝並に常在院由緒」(常在院発行)


2019年7月28日

岩角山岩角寺(福島県本宮市)



福島県本宮市和田東屋口

読みは「いわつのさんがんかくじ」のほか、「いわづのさんがんかくじ」「いわづのやまがんかくじ」も見られる。

慈覚大師が岩角山の麓に来ると、たくさんの光がこの山に集まり紫雲がたなびき、尊天が現れた。ここが霊場だと悟った慈覚大師は仁寿元年(851年)に岩角寺を開基、貞観2年(860年)に毘沙門天を本尊として安置したという。

岩角山は標高337mの里山だが、全山に花崗岩の侵食風景が広がり、低山と思えない深山幽谷の趣を醸し出す。福島県指定名勝および天然記念物。



A.岩窟弁天
B.稲荷
C.懐胎石(抱きつき石)
D.那智観音堂
E.奥ノ院
F.羽山(羽山祠跡)
G.鬼面石
H.体内(胎内くぐり)
I.丹羽公 遥拝石(展望台)
J.奥の院東斜面
K.薬師堂
L.地獄道
M.坐禅石(たたみ石)
N.天狗腰掛石
O.天の岩戸(祈りの窟)
P.腰掛石(和労 休息石)
Q.四寸途
R.胎内くぐり
S.舟石
T.賽河原
U.三山(三山祠跡)
V.座禅石
W.抱き込み杉


A.岩窟弁天


岩窟弁才天。
岩窟の中に寺宝の「岩角」がある。長さ75cm、太さ15cm。
「岩角山の名 此々より起る」

表側
裏側



B.稲荷


山中の奇岩怪石には三十三観音が刻まれ、近世の山岳仏教者と修験者の歴史を残す。



E.奥ノ院


奥ノ院 阿弥陀堂。鎌倉時代の建築。
巨岩に取り囲まれた奥ノ院。
奥ノ院背後の巨岩には「キリーク(阿弥陀如来・千手観音)」「ベイ(薬師如来・毘沙門天)」の梵字が刻まれている。



G.鬼面石


明治時代の絵図によると、羽山の裏の斜面に人の顔のような鬼の顔のようなものが描かれ、そこに「鬼面石」と記されている。現地では特定できず。


H.体内(胎内くぐり)


現在は「胎内くぐり」の名称。明治の絵図では「体内」とある。
願かけ通路で、縁結びにご利益あり。修験者にとってはどうだったか。



I.丹羽公 遥拝石(展望台)


丹羽公とは、二本松藩主の丹羽光重(1615~1695)のこと。
光重は当時荒廃していた岩角寺を保護し、再興した。

岩角山の中で最も麓の眺望が良く、西方には安達太良山(標高1699m)も望むことができる。
おそらく安土桃山時代にあったとされる岩角城は、ここの麓の眺望の良さ、山中の奇岩怪石を自然の城塞としたのだろう。城というよりは砦という表現がイメージしやすい。


J.奥の院東斜面の聖観音



E.奥ノ院の東側に落ち込んでいる山腹斜面上に、名もなき巨岩が転がらずに立ち止まっている。
オムスビ形で、ゆうに10m以上の高さはある。スケール感だけで言うならこれがナンバーワン。
第二十六番観音の聖観音が刻まれている。



K.薬師堂 L.地獄道


岩の懐に抱かれた薬師堂。
堂の後ろの巨岩には「ベイ(薬師如来)」の梵字あり。その奥は地獄道。




M.坐禅石(たたみ石)


明治初期まで、この石の上で瞑想や坐禅などの修行が継続されていたという。
薬師堂を中心とするこの一帯は、自然が織り成す岩の塀に取り囲まれていおり、行場としての空間感は申し分ない。




N.天狗腰掛石


第十七番観音と第十八番観音の手前にある岩石。




O.天の岩戸(祈りの窟)


「祈りの窟」という別称から、自然の亀裂からできた室状空間を行場としたものと推測される。




P.腰掛石(和労 休息石)


現在の名称は「和労 休息石」。明治の絵図では「腰掛石」。
誰が腰掛け、休むものなのかは詳らかではない。


Q.四寸途 R.胎内くぐり


四寸途と名付けられた、岩と岩の間にできた細い道を通ると、「胎内くぐり」に到達する。F.体内(胎内くぐり)と同じ名を持つ。

胎内くぐりは、さらに「男胎内」「女胎内」の2つに分かれる(明治の絵図では男体内・女体内の表記)。
間に差し渡し挟まれた岩石など、100%自然のままなのだろうか。



S.舟石 T.賽河原


胎内くぐりを越えると出会う光景。
舟石については「雨乞い祈願霊石」と解説されている。
また、明治の絵図によればこの辺りを賽河原と呼ぶ。



U.三山(三山祠跡) V.座禅石


第二十三番観音が線刻されている巨岩。
かつて、この巨岩の上に三山祠があった。
同時に、第二十三番観音の背後には「座禅石」があると岩角山入口の看板に記載がある。明治の絵図には記載がなく、現場に来ても一切の案内板もないが、位置関係から考えて、この三山祠のあった巨岩自体が座禅石だと推測される。


2019年3月10日

建鉾山遺跡(福島県白河市)


福島県白河市表郷高木字高野峯

古墳時代中期以降の祭祀遺跡。
この遺跡については、拙著『岩石を信仰していた日本人』の一稿「建鉾山(福島県白河市) 巨岩から離れた場所で祭祀をした理由」で紹介しているので、詳しくはそちらを参考にしていただきたい。

このページでは、紙幅の都合上掲載できなかった建鉾山の写真を中心に、補足的な話をしていきたいと思う。

遺跡は、山頂の「建鉾石」、山腹の「巨岩」と呼ばれる一大巨岩、そして山裾の一画にある「御宝前」と呼ばれるエリアの計3ヶ所から構成されている。順に紹介していこう。

建鉾山の山容


建鉾山
建鉾山は、思わずハッとする三角山というほかない。
直線的な三角形というわけではないが、周辺から隔絶された感のある、三角をやや扁平に崩した傘形の山容は目に止まる。
この方向だけでなく、別の方向から見てもそれぞれ印象的な姿を見せる。
こういう山を神奈備山と形容することが多い。

建鉾山の山頂


建鉾山
さっそく山頂である。石祠に神酒が献じられている。
標高402mだが、麓からの比高差は100mほどなので到達は苦ではない。
物理的な高さが神聖性となった山ではない。
三角山の山頂に露呈する岩盤という環境面。無縁ではないだろう。

建鉾山
建鉾山頂上からの眺めはとても抜けが良い。
今も広大な田園地帯が守られている。古墳時代当時はどうだっただろうか。

建鉾山
山頂に屹立する建鉾石。
頂上側から見ると、頭がニョキッと出ている岩塊だが、人の背丈ほどもないのでさしたる巨石ではない。
しかし、裏側(=斜面側)に回ると・・・


建鉾山
このように下斜面から仰ぐと、建鉾石から根続きで岩盤が広がっていることがわかり、建鉾山は別の姿を見せ始める。
登山口から正規の登山道を辿っているだけだと、この姿を拝むことはできない。

建鉾山の山腹にある「巨岩」


建鉾山
さて、次に第二の聖地「山腹の巨岩」へ移る。
建鉾山遺跡の発掘報告書で「巨岩」と表記された場所で、建鉾山の祭祀の中心ではないかと推測される存在である。
ここも、正規の登山道からは外れているので、目的を持った人でないと意識することはないだろう。
報告書の図面の位置から、当たりをつけて等高線を辿ると、上の巨岩の「端っこ」が見えてくる。

建鉾山
この巨岩の中心部分に石碑が一つ立っている。
石碑の表面には「大澤権現」と刻まれている。
刻年不明、由来不明である。
古墳時代遺跡当時に遡るものでは当然ないが、この巨岩を神聖視する一つの証である。

石碑の後ろに注目してほしいが、 巨岩の裾部に狭いながら洞穴状のスペースが開いている。
中は確認していないが、巨岩に内部スペースがあるということを祭祀者はどのように想像を広げただろうか。

建鉾山
これが巨岩の全容である。
縮尺が掴みにくいと思うが、写真中央下部に先ほどの石碑が見えるのがわかるだろうか。
石碑と比べてもらうと、巨岩の縦横規模がイメージできるのではないか。
しかも、写真からは見えないが、この巨岩の奥側はそのまま建鉾石までの岩盤に根続きになっている。
つまり、中腹から頂上にかけて岩が露呈する圧倒的スケールの一大巨岩なのだ。

建鉾山
巨岩をさらに引きで撮影した写真。写真奥方にうっすらと見えるのが、先ほどの巨岩である。
巨岩の周辺も、大小の露岩群が分布している。
この巨岩からさらに斜面を下に下っていくと、第三の聖地「御宝前」に到達する。

建鉾山の山裾にある「御宝前」


建鉾山
「御宝前」の上端部。
 (発掘報告書の図面からのおおよその推定)

山腹尾根の稜線が見える位置に、小ぶりの岩塊が転がっている。地盤からは浮いているので、元は上斜面からの転石だろう。
斜面の奥方にうっすらと「巨岩」の端っこが見えている。
つまり、「御宝前」は「巨岩」がはっきり見えるところではなく、見えなさそうで見ようと思えば見えるという微妙な立地に築かれた祭祀場である。

建鉾山
「御宝前」は江戸時代の絵図に描かれた聖地で、かつてはここまで神輿を運ぶ祭礼があったという。古墳時代の祭祀遺物が出土した建鉾山遺跡高木地区とは、この「御宝前」のことである。

古墳時代祭祀から江戸時代祭礼まで連綿として祭祀が続いていたと決めつけるにはまだ間をつなぐ証拠がないが、言語化できない神聖視がこの場に二つの時代にあったことだけは揺るぎない。

建鉾山
「御宝前」エリアの最下端あたり。
図面にも「御宝前」に大小の露岩が分布している様子が図示されているが、おそらくそれに相当する岩塊が上写真ではないか。
ここまで来ると「山腹の巨岩」はほとんど見えない。
ほとんど山裾の位置まで来ている。

古墳時代の山岳祭祀は山麓からの遥拝祭祀だったというのが通説的見解だが、麓という表現よりは、山の入口は突破して少し踏み込んでいる神の領域側に祭祀場を設けている印象だ。
古墳時代当時、ここが山の入口と認識されていたか、すでに山のある程度立ち入った中腹という認識だったかはわからない。


さて、3つの聖地を紹介したが、このうち山腹の一大巨岩と山裾~山腹の御宝前の関係について最新の私見を記しておく。

まず、一大巨岩は磐座と石神のどちらのほうがふさわしいか。
磐座は神を迎える場でありそこで祭祀が行われる性質の岩石であるため、一大巨岩が磐座であるならすぐ手前で祭祀遺物が見つかってしかるべきなのにそうなっていない。この点から、一大巨岩を磐座をみなす立場には否定的である。

拙著で石神説に肯定的なのは、御宝前に祭祀具を置いた人々が、1分も山の中に足を踏み入れれば認識できる一大巨岩を知らなかったわけがなく、この、あえて距離を離した絶妙な位置で祭祀した事実を、石神を反映した貴重な考古資料ではないかと評価するものである。

御宝前を祭祀後の廃棄跡と解釈することもできるだろうが、その場合気になるのは、御宝前が一大巨岩の直下にあり、祭祀を行う参道上にあるのではないかという点である。廃棄跡ならもう少し場所をずらして「見えない位置」に設けるのではないか。この辺りは他例の祭祀遺跡と廃棄遺構の位置関係の研究深化が必要である。
「御宝前」というネーミングは後世のものだが、信仰対象をまつる場であり廃棄の場としての認知にはなっていない。

御宝前は一大巨岩の下斜面で傾斜変換点に位置するから、おそらく一大巨岩から剥落した転石落石が固まっておりそれが磐境の観を呈する。
『出雲国風土記』には大なる石神に小石神が付随したという記述があり、一大巨岩と御宝前の岩石群は石神と小石神の関係も想起させる。

参考文献

吉川宗明 「建鉾山(福島県白河市) 巨岩から離れた場所で祭祀をした理由」 『岩石を信仰していた日本人―石神・磐座・磐境・奇岩・巨石と呼ばれるものの研究―』 遊タイム出版 2011年