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2025年4月6日

小六石(長野県諏訪郡富士見町)


長野県諏訪郡富士見町境

 


 昔、武田信玄の家臣に牧場田小六という人があり、天文年間の甲越戦争の際、この地に小屋を構えて居住し、農耕のかたわら諏訪側の状況を偵察、この小六石を目標とさせ、やがて来る甲州軍の使者に情報を伝える使命を帯びていた。この牧場田小六の名前をとって小六石といっている。また、小六という部落名もこれからとったと伝えられている。
 別の話として享保時代名僧が、旅より旅へ托鉢してこの地に足をとどめた。ちょうどこの地方に悪質の病がはやり、僧はこの石の上に三七、ニ十一日の間座ってその病気の祈祷をした。石の部分の穴は、僧の精神の集中力が汗と化し、その汗のひとつひとつが固い石をうがったといわれている。

諏訪教育会 編『諏訪の近現代史』,諏訪教育会,1986.7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9540456 (参照 2025-04-06)


現地看板には「岡田小六」の名で記されており、名前には揺らぎがあるようだ。

前段の武田家の伝説は特別視の対象としての岩石であるが、後段の石を穿つ伝説は構想が祈祷に用いた祭祀の場としての岩石であり、堅固性の象徴である岩石を逆手にとった精神性が石肌の特徴と絡めて伝承されている。


2025年1月19日

ドルメン類似遺跡/坪平遺跡(長野県諏訪郡富士見町)


長野県諏訪郡富士見町立沢

 

町指定史跡。埋蔵文化財上の正式名称は坪平遺跡だが、「ドルメン類似遺跡」の通り名をもつ。

日本のドルメンといえば鳥居龍蔵博士ということで、鳥居が大正11年(1922年)に訪れて命名した。

ドルメン類似遺跡の石碑

現地に残る遺構

ドルメン=巨石というイメージだが、そんなに目立つものではない。

実際のところは縄文時代後期(BC.1800年前後)の配石墓(石棺墓)である。

遺骸や埋葬を確定させる痕跡は見つかっていないが、遺構に接して土器片や石棒片、人形にも見える十字形石器が伴出した。また、後年の追加発掘で土坑墓と思わしきものを3基検出しており、やはり一帯は墓域だった可能性が高い。

配石墓は約4mの間隔を置いて2基が検出され、両方とも南北5m×東西4mほどの規模に渡って石積みがなされていた。

石棺墓の一つ。小さい石の上に大きいめの石が載るのがわかる。

下部に小さい石を積み重ね、上部に大きめの石を蓋替わりに置く構造をみせる。地表に露出した蓋石の様相を、鳥居は海外のドルメンに重ね合わせたのだろう。

とはいえ、地表に蓋された大石を見ればドルメンになってしまうでは、中世の経塚も古墳の石室も登山のケルンも地質活動の岩陰も、地表に石で蓋されれば同質である。共通項が大きすぎるのである。岩石の単純な積み上げだけを以て世界共通の文化を夢想すること自体に無理があるだろう。


世界規模での巨石文化論が崩れた今、この遺跡にドルメンという言葉を付けるのは不適切だが、考古学史上において「鳥居龍蔵ドルメン時代」の調査遺跡ということが名称からすぐわかるのは良いところである。

なお、ドルメンの別名として「支石墓」を用いる向きがあるが、現在の考古学における支石墓は基本的に弥生時代の墓制に限定された用語として通っているので、縄文時代である本遺跡に当てはめるのは適切とは言えない。


2024年12月15日

大御食神社の御手掛石/比良加石(長野県駒ケ根市)


長野県駒ヶ根市赤穂

社頭に蟲々して天に沖するがやうな老杉を、日の御蔭杉、月の御蔭杉と呼び、その折、日本武尊が、御食をとられた樹下の一小石は、尊が『小かなる石よ。』と愛でられたものださうで、御手掛石または比良加石と稱へられてゐる。(口碑)

藤沢衛彦 編『日本伝説叢書』信濃の巻,日本伝説叢書刊行会,大正6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/953569 (参照 2024-12-15)

杉の根本にある石を尊の御手掛け石と云ひ尊に御酒を進めし時杯を置かれ給ひしとて比良加石とも云ふ。

柿木嘉藤治 著『伊奈路』,丸竹書店,大正2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/951788 (参照 2024-12-15)

御手掛石/比良加石(写真左は標柱。写真奥は御蔭杉)

御蔭杉


2024年2月18日

尖石(長野県茅野市)と縄文時代自然石信仰説


長野県茅野市豊平東嶽

 

尖石の現在の評価

尖石遺跡は、縄文時代中期の様子をあらわす集落遺跡の代表格として考古学上有名である。

そのような尖石遺跡の遺跡名を冠する「尖石」が岩石として現存することも、巨石祭祀や先史時代の信仰という観点からまた知られるところである。

尖石。尖石史跡公園の南にあり、現地に案内も整備されている。

尖石近景。三角のエッジを持つが、本記事の焦点は「摩滅」跡にある。

尖石遠景。遺跡からは南の斜面下に落ち込んで存在する。

2022年に、尖石遺跡の明治時代からこれまでの調査を包括的にまとめた『国特別史跡「尖石石器時代遺跡」総括報告書――縄文社会のデザインがはじまったムラ』(茅野市教育委員会)が発行された。上記リンク先でpdf版が全頁公開されている。

はたしてその中で尖石はどう記されているか。

報告書では主に第2章第1節(pp.7-8)で岩石としての尖石に言及があるものの、過去に宮坂英弌が記した『尖石』(茅野市教育委員会 1957年)の記述をそのまま引用したレベルの内容にとどめている。情報をまとめると、

  • 地表からの高さ1.20m、底辺は長径1.15m、短径70cmの三角形の岩石。
  • 地中にどの程度埋まっているかは不明。
  • 石肌に凹凸が激しい面があり、その凹凸が人工的なものか自然成因のものか不明。
  • 尖石の東肩が摩滅しており、これが「磨石砥」であることは明瞭である。
  • 尖石の傍らに1基の石祠がまつられ、「酉年小平氏」の刻字があるが建立年は不明。
  • かつてこの地を長者屋敷と呼び、かつては尖石以外にも岩石が集積していたといわれる。4軒の家で庭石に使われていたことが判明しており、そのうちの1個は前の堰に埋もれている。
  • ある人が尖石の下に宝があると信じて掘り進めたが瘧(オコリ)にかかって死んだため、誰もこの石の下を掘ろうとはしない。
  • 諏訪の御柱祭の折には、区から御柱を寄進していて、その関係で尖石の周囲にも御柱を立てている。
  • 正確な分析はされていないが、尖石の石種は地質学的に八ヶ岳天狗岳・硫黄岳起源の安山岩類と考えられる。
  • 尖石は尖石遺跡の南側斜面に位置し、この斜面の崖状地形には軽石などの火砕流噴出物がみられるが、そのような火山活動起因の巨石として尖石は存在したものと考えられる。


信仰・祭祀の観点からみると、やはり注目すべきは「磨石砥」である。

現地看板には「右肩に磨かれたような跡があることから縄文時代の石器を研いだ砥石ではないかといわれています」と記され、尖石が縄文時代に砥石として用いられていたという仮説を追認している。

※なお、尖石の周囲にあったという御柱は2023年時点では存在していなかった。遺跡整備の一環によるものかは不明。

現地看板


縄文時代の砥石が地上に露出し続けるという意味

さて、この仮説はどこまで信頼できるのだろうか。

他例では寡聞にしてこのような自然岩塊を砥石代わりにした例を確認していないが、もちろん石器を磨くための石材としての岩石はあっただろう。しかし尖石が縄文時代から今まで現存し続けてきたそれなのかには一考の余地がある。


最大の批判点は、この尖石が遺跡発掘調査前から地上に露出し続けていた点である。

尖石遺跡という名前がついているから尖石も遺跡の出土物かのように錯覚してしまうが、尖石遺跡はあくまでも地名としての尖石からの命名であり、尖石は遺跡地から南に行った斜面途中に存在している。

尖石が仮に地中に埋没したままならその地層の年代での出来事として保証はできるだろうが、地表上に出続けていたなら縄文時代以降も利用される可能性があったわけで、岩肌の摩滅跡が縄文時代と限られる保証はない。当然、現代までのいつかの時代の営為による痕跡の可能性もあり、その批判への返答が必要になる。


逆に、尖石は斜面中の岩石で高さ1m強の露岩であるため、縄文時代の時は埋もれていて、後世の斜面地形変化で後世に露出した可能性もある。

報告書によると、尖石の南側斜面は現在テラス状の平坦部が広がりその南にさらに斜面が広がる段状斜面地形を有するが、調査の結果このテラス面は後世に水田開発などにより人為的に形成された地形とみなされている。

また、報告書の記述を参考にするならばこの地には尖石のほかにもいくつか岩石が集積していたということあり、三角形の尖りを以て神聖視されたのが始まりだったのかどうかもわからない。

以上の内容から、現状の景観は縄文時代の風景と同じではなく、尖石が斜面に1m姿を現すこと自体を縄文時代のあれこれと直結するべきではない。


縄文時代の自然石信仰の候補遺跡―尖石の比較資料として―

以上の話とは別角度の疑問としては、砥石に使われた岩石が信仰・祭祀の岩石と言えるのかというテーマもある。

一般的にイメージすれば砥石は石材であり精神的な対象にはならないが、それは現代人の論理である。私たちと価値観の異なる人々において、石を磨くことが祭祀につながった可能性をゼロにできるわけではない。


では、磨かれて傷を負うことになる岩塊は、たとえば神としての岩石になりうるのか?

縄文時代以外の民俗例で岩石を欠いて薬にするなどの事例はあるが、結局そこは同時代資料で証明できない領域である。


ならば縄文時代の自然石信仰の可能性を匂わせる遺跡群との比較はどうだろうか。

管見のかぎりでは、船引・堂平遺跡(福島県田村市)、皆野岩鼻遺跡(埼玉県秩父郡皆野町)、合角中組遺跡(埼玉県秩父郡小鹿野町)、女夫石遺跡(山梨県韮崎市)の4事例を把握しており、それぞれの自然石の状態を下記のとおり紹介したい。


船引・堂平遺跡

縄文時代後期前葉の遺跡。山裾に立地。高さ約1.5m、径3mの花崗岩の岩塊群が出土し、傍らから石棒1点が直立した状態で伴出したほか、土器、石皿、凹石なども出土。岩塊群は主に4体の岩石が密集したもので岩石間に岩陰が生じている。一部の岩塊の裏には小石で裏込めがなされており人為的と報告されている。


皆野岩鼻遺跡

縄文時代中期初頭の遺跡。山腹に立地。高さ60㎝、幅、奥行き各2mの緑泥片岩の岩塊が出土し、岩塊の北面に生じた亀裂から石斧2点、岩塊の周辺には多数の焼石と土器が検出されたほか、南側から石棒が欠損状態で出土。岩塊は山の上の転石が落ち込んだ自然石と目されるが、岩肌の北面に細かい亀裂が多く確認されている。


合角中組遺跡

縄文時代後期前葉の遺跡。高さ50㎝、径1mの砂岩の岩塊が出土し、岩塊の傍らから石棒が2つに分割された状態で見つかったほか、土偶が不完全な破片状態で散乱し、土器も伴出した。周囲に配石遺構もあり。岩塊の長軸(南東-北西)方向に深さ40㎝の溝が岩塊上面を走っている。溝の底面に亀裂などが見出せないため人為的な溝と評価されている。


女夫石遺跡

縄文時代中期の遺跡。沢沿い平坦地の立地。高さ1.7m、幅、奥行き2.5mの岩塊が出土し、その傍らからミニチュア土器、石棒2点(1点は欠損)、土偶などが伴出。遺物包含土には焼土痕が検出された。岩塊には自然のものとみられる裂け目が確認されている。


※各遺跡の岩塊写真画像については当ブログ下記事を参照。

日本の岩石信仰は、いつどのように始まったのか?


自然石信仰の候補事例といいながらも、船引・堂平遺跡では岩塊に裏込め、合角中組遺跡では人為的に刻まれたと評価される溝などがあり、岩石へ手を入れたケースが報告されている。

その点で、尖石に摩滅跡が見られたことと対照は可能で、岩石に手を入れても祭祀遺構としての推測は成立されうることになる。

しかし、上記4例では岩塊の傍らから石棒がいずれも出土している(欠損・直立が混在)。土偶が伴う場合もある。尖石が弱いのはここだろう。地表にさらされていただけに縄文時代当時の状態がわからず、結果として尖石に伴出する遺物は確認されていない。この点で、尖石は上記4遺跡と相違が認められ、尖石を同種の遺跡としてみなすには根拠不足と判断される。


それにしても、上記4遺跡においては石棒の伴出もさることながら、岩塊の特徴として共通項も浮かび上がるのも興味深い。

  • 高さは2mに達せず、圧倒的な規模の巨岩・巨石として扱って良いかは検討の余地がある。
  • 人為・自然問わず、亀裂や溝、岩陰などの空間的な性質がみられる。

そう巨大とも言えない岩石と祭祀に関連が指摘でき、単なる自然石ではなく岩石の中に空間をみる傾向を重要視しないとならない。巨大であること、自然のままであることという要素とは異なる部分が縄文時代の祭祀には見られるのである。

自然石に凹部的な岩陰空間がみられたらそれをそのまま利用して、なければ人為的に彫りこみ凹部空間を作り出したということか、凹みに目的を見出したのか岩石の内部に空間を見出したかったのかなど、その評価は当然ながら難しいことであるが注目していきたい。今後の類例の資料数増加に期待するばかりである。


なお、尖石遺跡に接して建てられた茅野市尖石縄文考古館では、「集落に持ち込まれた(と思われる)巨石」というキャプションと共に、複数の不整形の岩石が館内展示されている。こちらも縄文時代の岩石と精神的なものとの是非を考えるうえで参考にしたい。

茅野市尖石縄文考古館 蔵

上写真を逆側から撮影。


2024年2月11日

2010年、茅野駅前から出土した大石(長野県茅野市)


長野県茅野市 茅野駅前縄文公園





SNSで不定期にバズる岩石である。

おそらく最初にバズッたのは2015年。当時の記事を紹介する。

「大きな岩が出てきた。きっと神様の磐座だ。駅前に祀ろう」→昔話かと思いきや、 たった5年前の実話(全文表示)|Jタウンネット


時系列でまとめると、元は2010年に茅野駅前の区画整理工事中に地下3mから出土したものであり、普通は破壊されるところ「丸い巨石」であることから保存されることとなった。

調査の結果では特に歴史性は認められなかった自然石のようだが、「丸い」「巨大である」といったところが、特別視された要素となるようで興味深い。


2023年には福島県田村市の産業団地工事中に、高さ約17mを筆頭とする複数の巨石が出土した。

こちらは現在進行形の出来事だが、自治体としては保存というよりはどのように破砕すべきかに苦慮している模様である。

茅野市の大石が高さ2mに満たず、ある意味で「同居が許容できる存在」なのに対して、田村市の巨石群は都市開発の生活に影響が出る規模なのは言うまでもない。

岩石に限らず、そこを生業とする人々にとって許容できる範囲なのかどうかは重要な要素であり、外野から物見遊山的に当事者の生活を圧迫することは安易におこなってはならないだろう。


なお、茅野市のこの大石は「現代人が岩石をまつった」という現代岩石信仰の事例として語られるが、真に祭祀していると言えるのか疑問を書いておこう。

2015年のバズの時に撮られた写真では注連縄が巻かれていたが、私が2023年に訪れた際は注連縄が巻かれていなかった。また、祭祀には祭祀対象たる神に対して定期的な祭りが伴うはずだが、そのような祭祀が継続的におこなわれているという話を聞いたことはない。それで祭祀対象と言えるのかということを再考しなければならない。

注連縄が一度でも巻かれたらそれは信仰なのか神なのか? 現代人の信仰イメージを考える試金石として注目している。


2024年1月29日

諏訪大社下社春宮のいぼ石(長野県諏訪郡下諏訪町)


長野県諏訪郡下諏訪町 諏訪大社下社春宮境内


下社春宮の門前に掲げられた現地看板に「いぼ石」が紹介されている。

画像中央あたりに「いぼ石」の名がある。


神社境内の真ん中にあるように見えるが、境内を一見してもよくわからない。

神職の方にお伺いしたところ、「よく聞かれるんです。あちらです」ということで教えていただいた。

参道石畳に組み込まれていた。

穴がぼこぼこ開いた写真右の石がいぼ石。写真左には石畳上に石ころが1個置かれていて、神職さんはこの石ころを目印にいぼ石の場所を説明されていた。意図的に置いた?

いぼ石と神楽殿の位置関係。この写真で現地を特定してください。


このように参道と半ば同化した岩石信仰の類例には、三嶋大社境内に存する牛石が挙げられる。

いぼ(疣)ができた時は、いぼ石の窪みに溜まった水をいぼに塗りつけるといつの間にかなくなるという。

『諏訪の近現代史』(1986年)の石の伝説の項目にはこのように由来が説明されていたが、歴史的にいつ頃まで遡れるかは情報収集不足につき不明である。


参考文献

諏訪教育会 編『諏訪の近現代史』,諏訪教育会,1986.7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9540456 (参照 2024-01-29)


2023年12月19日

浮島の阿弥陀さま/万治の石仏(長野県諏訪郡下諏訪町)


長野県諏訪郡下諏訪町社 字・石仏(いしぼとけ)






伝説由来(写真右)。写真左の立札には念入りに「観光協会と商工会議所が提唱する」と上貼りがなされ、地元の人々の間での一種の葛藤を感じる。


伝説上では、仏が刻まれる前からこの岩石には血が出るなどの肉体のごとき活動を内在させており、自然石に対する神聖視を伝える。


通称「万次の石仏」は万治3年(1660年)の銘文が刻まれることからその名があるが、地元での昔からの名称は「浮島の阿弥陀さま」だったらしい。

さらに、地元に残る『山之神講文書』の文化2年(1805年)の事跡として「みたらし石仏」の名が記されており、その子孫が有する土地に万治の石仏が存在することから、みたらし石仏は万治の石仏のことを指すのではないかと考えられている。ただし、みたらし石仏は御手洗川沿いの下の原村の他の石仏を指した可能性も指摘されている(八ヶ岳原人氏「『みたらしの石仏』の謎」参照)。

以上を踏まえて、本頁では歴史的に辿れる確実な名称として「浮島の阿弥陀さま」を採用する。


また、享保18年(1733年)成立の『諏訪藩一村限絵図』によると、浮島の阿弥陀さまは描かれていないがそのかわり「ゑぼし石」の名が記されている。

それでは石仏となる前の自然石はゑぼし石だったかというと、これにも異説がある。

宮島潤子氏によると、近世地図は必ずしも正確な位置を描かないこと、同地図が他の石仏もほとんど記さないことなどから別物で、ゑぼし石は自然石であるため明治20年代から大正初期にかけて行われたという当地の採石で姿を消したのだろうと判断している(宮島 1996)。


浮島の阿弥陀さまの岩石は、阿弥陀仏が彫られたからこそ消滅から逃れたということになる。

宮島氏は、浮島の阿弥陀さまの像容と弾誓四世の作仏聖の千体彫りとの共通性を見出し、諏訪地域で阿弥陀仏の加護を説いた弾誓上人(1552~1613年)がこの岩石に座して説法し、上人の死後に弟子筋によって仏が刻されたものと仮説を提示している。

本当にこの岩石に上人が座したかは推測の域を出ない(聖者の座禅石・腰掛石伝説としてむしろ伝承化するのではないだろうか)が、岩石から血が出るなどの伝説を基にするならば、聖なる自然石に阿弥陀信仰が重なり、そのために近代の採石も逃れて今に伝わったという大枠は認められるだろう。


参考文献

  • 第一区区誌編さん委員会 編『下の原 : 郷土誌』,明新館,1985.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9571574 (参照 2023-12-18)
  • 宮島潤子「『諏訪御手元絵図』がらみた弾誓上人遺跡--諏訪の石」 信濃史学会 編『信濃 [第3次]』48(3)(555),信濃史学会,1996-03. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/6070037 (参照 2023-12-18)


2023年11月21日

矢除石/避矢石(長野県諏訪郡下諏訪町)


長野県諏訪郡下諏訪町 慈雲寺龍の口参道沿い

「信玄が川中島合戦に赴くとき、慈雲寺七世天桂玄長禅師を訪ね戦勝の教えを乞うた。玄長は境内の大石に案内し、大石の霊力を説いて石の上に立ち矢を射掛けるよう命じた。部下が一斉に矢を放ったが一本として玄長一本としてに当たらない。一同驚き、この石の念力の確かさに敬服した。玄長はこの念力のこもる矢除札を授けて信玄を励ましたという。
この話はまた、川中島合戦に赴く途時に慈雲寺の前にさしかかると石の上に立って行軍を見下ろしている僧侶がいた。無礼な奴だと怒って射殺してしまえと矢を射掛けたが一本も当たらない。礼を正して尋ねると、矢除けの霊力があるという。信玄は喜んで矢除けの札を受け兵士に持たせて戦いに向かったという。」(宮坂徹「今に伝わる諏訪地方の信玄伝説」『信濃』第60巻第1号、2008年)

矢除石

逆方向より撮影。岩の群集ではなく1個の岩塊である。

手前に建つ「避矢石」の標柱。

矢除石に接して鎮座する弥栄冨神社には、社祠の角に1個の岩石がある。来歴不詳だが気になった。

参考文献

  • 信濃史学会 編『信濃 [第3次]』60(1)(696),信濃史学会,2008-01. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11199581 (参照 2023-11-21)

2023年11月13日

雨境峠祭祀遺跡群(長野県北佐久郡立科町)


長野県北佐久郡立科町芦田八ケ野 雨境峠

 

雨境峠は、蓼科山(標高2530m)の西北麓を通る峠である。峠の頂上で約1580m地点となる。かつて東山道はこの峠を通っていたといい、その一証左として峠道には約7㎞にわたり古墳時代から中近世にかけての遺跡が分布している。「役の行者越」の俗称も残る。

この遺跡群を総称して雨境峠祭祀遺跡群と呼び、南から北へと順に列挙していくと「御座岩・桐陰寮上・赤沼平・賽の河原・与惣塚・中与惣塚・勾玉原・法印塚・鳴石」となる。

本記事ではこの順に沿って各遺跡を紹介する。


御座岩

御座岩

御座岩の下部は白樺湖に沈む。

御座岩から望む蓼科山(写真右奥)

御座岩に付随する看板

役行者が岩の上で柴を焼いて護摩を焚いたという伝説と、武田信玄が川中島の戦いの途上で座った岩という伝説が残る。

岩は白樺湖畔にあるが、白樺湖は第二次大戦後に造られた人造湖のため、現在の景観とは異なることに注意したい。

景観が異ならないのは、ここから仰ぎ見られる蓼科山だろう。桐原健氏は、御座岩のあたりまでは蓼科山を大きく仰げ、その先の白樺湖北東側(池の平)まで登ると蓼科山が隠れてしまうことに着目して、この岩石が蓼科山を遠望できる好地に存在した自然岩盤だからこそ祭祀の場になったと重視している。

御座岩の南側の岩穴(岩陰)から、縄文早期~後期、弥生・古墳・平安時代という、非常に長期間にかけての、各種土器・土偶・石鏃・石斧・獣骨・堅果類・剣形石製模造品などが出土した。

岩穴は白樺湖に水没し、現在は岩の上部のみが見えるが、このことから御座岩岩陰遺跡の遺跡名もある。雨境峠祭祀遺跡群の中では、もっとも南に離れて蓼科山を遥拝する遺跡だったという位置づけになる。


桐陰寮上

桐陰寮上と呼ばれる地から、古墳時代の蕨手刀が1点出土した。遺物に関連する遺構は未検出のため、遺物散布地としての遺跡である。


赤沼平の鍵引石/鉤引石



女神湖という人造湖があるあたりを、古くは赤沼平と呼んで低湿地だった。

赤沼平からは蕨手刀1点・鉄片が出土しており、また、戦前には八幡一郎氏が小玉・有孔円板を採集したという。いずれも古墳時代の遺物とされている。

これらの遺物群との関連性は不明だが、赤沼平には鍵引岩(鉤引石)と呼ばれる安山岩質の自然石が現存する。高さ1.5m、最大径5mほどで、道の下斜面にあるため目を見張るような一大巨岩というわけではないが、道路工事の後は3分の1ほどが埋もれている状態だというので往時はもう少し大きかったようである。

この地に巣食う河童が鍵引石に座り、通行人へ鍵引きの遊びをもちかけて赤沼平の湿地に引きずり込んだという伝説が残る。

鍵引石の傍らにはかつて直径1m、深さ2mの穴が穿たれていたといい、巨木が存在した可能性が指摘されている。


賽の河原

「賽の河原」とは、雨境峠の手前の緩やかな峠の上にあったという直径20m、高さ2m程の石塚(盛り土の上に大小の石を敷いた塚)で、塚には地蔵尊が安置され、「塞の河原」の表記も残る。

高度経済成長期の観光開発・道路開発の中、昭和40年に事前調査がないままに賽の河原は破壊されてしまった。ここから寛永通宝3点が採集されているので、江戸時代に一種の投銭祭祀が行なわれていたのは確実と言える。

緩やかな峠の頂上ということで、分布図に落とされた位置なども考えあわせると下写真のあたりに存在したものと推測される。

賽の河原があったと思われる地点。

塚の4分の1ほどが残るともいうがどの土の高まりがそれに該当するかは不明である。また、この塚の東の山林を入った所にも石塚があったという古老の話が残り、現在の道沿い以外にも複数の塚が存在していた可能性が想定されている。

地蔵尊は頭部欠損しながらも道路向かい側へ移されたと昭和40年時点では書かれていたが、現在特定はできなかった。

雨境峠頂上に近いこの辺りまで来ると、ふたたび蓼科山を南方に望むことができる。

雨境峠頂上付近から望む蓼科山


与惣塚(よそうづか)

与惣塚

塚の頂部には礫石も確認できた。


径15m、高さ1.6mの規模を持つ石塚で、「賽の河原」と同様の性格を持つものだったとされている。ただし、この塚からは遺物が発見されていない。

与惣は伝説に関する人物名というが、その伝説の詳細に触れられることは少ない。


中与惣塚(なかよそうづか)

中与惣塚

中与惣塚の頂部

前2例と同じく、径11m、高さ1mの石塚である。

「賽の河原」が破壊の憂き目に遭ったことから、当時の石塚の状態を記録にとどめようと調査が行われ各種の遺物が発見された。内訳は、古銭40点(北宋銭が大半で一部近世の古銭あり)、御正躰と思しき青銅板14点、薙鎌9点、鉄釘は少なくとも6点分出土した。

この塚の調査により、雨境峠に点在する石塚は、中近世の人々が峠を往来する時などに交通安全などを祈念した祭祀施設だったのではないか、と歴史的に位置付けられる契機になった。

桐原氏は、遺物の型式を綜合して鎌倉時代末期から室町時代初期に築造された塚群ではないかと具体的に年代を絞り込み、塚を建てて追善供養などを行なう「十三塚信仰」の系譜を引く祭祀遺構と位置づけている。


勾玉原



中与惣塚の辺りから雨境峠頂上までの一帯では、玉類がよく採れたという由来から勾玉原と呼ばれたという。実際に数名の研究者が数種の滑石製品を採集した。

滑石製品の形態的特徴などから、古墳時代後期~終末期(6~7世紀)の遺物と評価されている。

現在確認できるものとしては臼玉・管玉・勾玉・有孔円板・剣形品があり、滑石製品に限られている特徴がある。土製品はもちろんのこと、滑石以外の石製品の発見もないのは、本遺跡での祭祀を考えるに当たって非常に興味深い傾向と考えられている。


法印塚/山伏塚

雨境峠の北斜面側にある径12m、高さ1.5mの石塚。山伏塚の異名もある。遺物の出土は確認されていないが、中与惣塚と同様の施設と目される。


鳴石/鏡石




石を叩くと金属音がするが、石材にして割ろうとした石工は雷を落とされて悶え死んだという祟り伝承が付帯する。

鳴石は直径2.5mほどの2個の岩石を鏡餅状に積み重ねた構造物で、周辺から古墳時代の臼玉3点・有孔円板1点・剣形品破片1点が採集されている。

鳴石のこの鏡餅状の構造は、人工的なものだと考えられている。岩石自体の調査が行われており、上と下の岩石の接触部分は互いに形状・寸法が一致せず、それに加えて溶岩構造が異なることが判明している(雨境峠祭祀遺跡群発掘調査団 1995年)。

ずっと地表に露出していた岩石だと思われるのでこの構築が遺物の出土と同じ古墳時代と断定して良いかという問題はあるが、この岩石が存在することで祭祀遺物がここに捧げられたと考えるのが今は自然だろう。

また、調査では鳴石の周りは同心円状に礫が敷き詰められていたこともわかり、これも人為設置の祭祀施設とみなすことができる。

雨境祭祀遺跡群を代表する場所のみならず、人為的に構築された古墳時代の岩石祭祀遺跡としても貴重な事例である。


参考文献

  • 雨境峠祭祀遺跡群発掘調査団(編) 1995 『雨境峠』(立科町文化財調査報告書5) 立科町教育委員会
  • 大場磐雄 1935 「峠神の一考察」『上代文化』第13輯
  • 桐原健 1967 「長野県北佐久郡立科町雨境峠祭祀遺跡群の踏査」『信濃』Ⅲ・19-6
  • 桐原健 1982 「雨境峠遺跡群」 長野県(編)『長野県史 考古資料編 全1巻(2)主要遺跡(北・東信)』 長野県史刊行会
  • 小林幹男 1995 「蓼科山麓の祭祀遺跡と古道」『古代交通研究』第5号
  • 坂本和俊 1993 「古墳時代の祭祀研究の問題点」 第2回東日本埋蔵文化財研究会『古墳時代の祭祀-祭祀関係の遺跡と遺物-』《第Ⅲ分冊-西日本編-近畿・山陽・山陰・九州・発表要旨・文献目録・四国地方》
  • 椙山林継 1965 「古代祭祀遺跡分布私考」『上代文化』第35輯


2020年1月6日

筥石神社の箱石と陰陽石(女石・男石)(長野県駒ケ根市)


長野県駒ケ根市東伊那

「鎌倉時代に『箱石』と記録され、領地の境界石として目ざされており、地域周辺では当時、有名な石であった」
「『箱石』の上には、『男石』『女石』と呼ばれてきた性器形の大自然石がある。子宝を授ける神として篤く信仰されている」(現地看板)

現地には「筥石神社の陰陽石」と題して看板が立ち、上記のとおり由来が整理されている。

しかし、それ以上の情報がなかなか出てこない場所で、そのためか巨石・磐座の書籍でもあまり取り上げられることが少ない。
『駒ヶ根市誌 現代編』下巻(1974年)には「筥石社」として掲載されているようだが私は未読である。

現地は、天竜川沿いの大久保という地区にあたり、川と山に挟まれた集落の中に岩が群れている。

筥石神社と手前を流れる天竜川

箱石
社殿の背後にそびえる岩塊が、社名の由来となった箱石である。

箱石の上に男石・女石があるという。
箱石の横を迂回するように斜面にとりつくことができる。

箱石の頂上
下から見ても箱形の岩塊だったが、頂上に登るといっそう「箱」感が際立つ。
直方体状に割れた岩石が、箱石の上に乗っかるようにゴロゴロしている。

箱石の先端部

箱石の先端には、特別に注連が張られた場所が一区画あり、それが男石・女石、つまり陰陽石を指す。

女石

男石

陰陽石の造形が自然の産物か、手を入れて祭祀化したものかは判別できない。

箱石の上だけでなく、その周辺には大小の露岩群が分布している。

箱石に隣接する露岩群
境内の石碑・石塔群

帰宅後にわかったことだが、筥石神社からすぐ南東の善福寺にも「巨石群」があるらしい。
この山帯が露岩を多く有する山なのだろう。

鎌倉時代以前の箱石の歴史は想像を巡らせるしかないが、この地区に人が居を構えてムラとなったからには、人々の紐帯として産土神が必要とされ、それが筥石神社だった。