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2026年8月9日

久居八幡宮の石体(三重県津市)

三重県津市久居二ノ町


久居八幡宮に「石体」(せきたい)があるというので訪れた。

神社由緒書や神社ホームページで明記される石体は次の三体である。


鹿島大神(石体)

祭神 武甕槌命

茨城県・鹿島神宮と同じく、勝負、武運、地震除けの神様である。

鹿島大神(表面)

鹿島大神(裏面)


庚申さま(石体)

江戸時代から境内にお祀りされ、庚申の日にお参りすれば延命長寿の御利益があると伝えられている。

庚申さま


山神さま(石体)

もともと村々の入り口にあったが、明治時代に神社に集められた。昔から子供達の守り神と言われている。

山神さま

すなわち自然石を以て神をまつった事象を石体と称したものであり、ことに後二者は石造物の括りで語られる存在である。

石体は中世以降の神社神道や修験道において「石製依代」(山本2025)として位置づけられた存在であり、当社における石体も、いわゆる「石の御神体」としての意をもつものと思われる。


鹿島大神は人の背丈を超える立石であり、一見して自然石の形を活かした石碑然の佇まいだが、石肌には何も刻まれていない。

杯状穴は複数穿たれていることから、杯状穴文化が盛んだった頃から親しまれてきた岩石にちかいないが、いつごろ設置されたのだろうか。

久居八幡宮は、藤堂家が久居に城下町をつくるにあたって、南西約1㎞離れた小戸木村(旧鹿嶋村)の八幡宮を遷座して整備されたものと由緒を伝えている。旧鹿嶋村ということで鹿島信仰との関連もここから窺われる。

鹿島大神で地震除けの岩石信仰と言えば要石が想起される。当社の岩石は要石とは呼ばれていないが、たとえば宮城県加美郡加美町の鹿島神社では昭和48年に新しい要石を奉納したという話もあるように、鹿島信仰が先にあり、後から具現として岩石をまつったケースがある。


参考文献


2026年7月26日

懸税の御霊石(三重県津市)

三重県津市稲葉町 稲葉神社




神社縁起によれば、この神社はもと志摩伊雑宮から勧請し移されたもので、御神体は大石である。この大石はこの地に勧請された夜、突然一夜にして神社社頭に出現したもので、これは仙鶴の化身であると信じられた。仙鶴は勧請と同時に稲一株をくわえてこの地にとび来たったまな鶴で、里人は稲作を伝えた神として信仰してきた。今もこの大石は懸税(かけちから)の御霊石といい、瑞垣の内、社のうしろにあり、地上高さ約一・九メートル、長さ五・四メートル、短かいところで一・八メートルに及ぶ独立した花崗岩である。昭和の初め頃、この霊石の地深くから中世の神杯、竹へらなど土器が出土した。
岡田文雄 著『久居市史』上巻,久居市総務課,1972. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9540485 (参照 2026-07-26)

稲葉神社は『延喜式』神明帳に「伊勢国一志郡 稲葉神社二座」として記録され、二座を一社にまつったことがわかる。地元では左殿を伊佐波登美大明神、右殿を穂落大明神と呼んでいる。

一夜にして岩石が出現する類型説話をもつが、細かく見ると、社の勧請が先であり、その夜に後から岩石が出現したという流れになっているのが他例とは異なる特徴と思う。

懸税は稲の供え物のことで、仙鶴がくわえた稲に由来しての「懸税の御霊石」の名称だろう。稲作を伝えた神は地域の開拓神としての神格に通じ、神社鎮座地を稲葉山と呼ぶ地名もここから来ているとみて良い。

鶴は空から降臨する神のかたちを偲ばせるが、岩石の佇まいは地盤に根を張って、地表に岩盤の顔だけを出すかのような地霊の趣も見せる。

稲葉山の段丘は堆積岩の岩相だが、西方には花崗岩を含めた火成岩が広がり、その一部が当地に岩頭として残ったものと思われる。


「中世の神杯、竹へらなど土器」の記述については、竹へらが土器につながらず実態が掴みにくい。

昭和の逸話には正確な記録が伴わないケースが多いが、一応、神社一帯では中世の土師器が見つかった稲葉山遺跡と弥生時代の石器が見つかった稲葉垣内遺跡が確認でき、このうちの前者が前掲書の記述に相当するのではないかと考えられる。

両遺跡とも当地における古くからの人足を伝えるが、遺跡指定範囲を見る限りでは御霊石の場所からはわずかに離れており、稲葉山遺跡が境内入口の向かい側で稲葉垣内遺跡が境内東側に位置する(参考リンク:津市遺跡地図No.118)。


2025年12月30日

石薬師寺の本尊石仏御開扉(三重県鈴鹿市)

三重県鈴鹿市石薬師町


東海道の石薬師宿の地名は石薬師寺(旧称・西福寺)に由来する。名のとおり、石の薬師を本尊とする。
縁起は以下のとおりである。

高富山石薬師寺

現地由来板

つまり、森の中で発光する自然石をまつったのが草創であり、その後、弘法大師により石肌に像刻されたという二段階の流れになっている。
自然石信仰に端を発して仏を感得したケースとして興味深い。


秘仏ではあるが、毎年12月20日のおすす払いの時に開扉されることを知り、2025年12月20日に拝観した。


写真撮影はできないので文章のみでの報告となるが、ご住職から直接案内をいただくことができた。

本堂奥だけ数段落ち込んだ空間があり、扉がすでに開いた状態で石肌が見えていた。暗がりの中、火でぼうっと灯された石仏の存在感は特筆すべきものがあった。

岩石の形状は幅広な立石状である。花崗岩ということで、全体的に白っぽい石肌には磨かれたような滑らかさがありつつ、花崗岩特有のざらざらした鉱物同士の等粒状組織も見せる。
高さ約2mとのことで、現状の床面の高さだと人の身長と同じくらいだが、かつてはもう一段床面を下げていたそうで、本尊を見上げるように拝むように設計されていた。

ご住職からは、もっと近くでご覧いただいて良いですよとお許しいただいたので、岩石と地面の接地面がどのようになっているのか注目した。
床面は砂利混じりの地面となっており、地表からそのまま岩石が屹立しているようだった。地表面に岩盤が露出している様子はなく、それは境内の本堂周辺を見るかぎりでも露岩とは無縁の地質に見えた。
(地質図上では堆積岩相となっている)

外から本堂下を観察するかぎりでは、境内はよく整備されており現状露岩地形ではない。

このように一見するかぎりでは、露岩のない場所に突如現れた異質な岩石に見えるが、縁起では金輪際(大地の底)から湧出した岩石ということで、地下に根を張る自然石としての信仰を伝えている。
仏教霊場において金輪際とつながる霊石の存在は、滋賀県石山寺、奈良県長谷寺など各地に見られる。これはそもそも、仏教書において仏菩薩の座する金剛座の地下は金輪まで続くという金輪際伝承が存在するからである。横田隆志氏『中世長谷寺の歴史と説話伝承』(和泉書院 2023年)によると、金輪際伝承の淵源はインドで4~5世紀成立とされる『阿毘達磨倶舎論』までたどれるという。


なお、境内看板では本尊石仏の写真が貼られている。ご住職によると「今は写真禁止とさせていただいている」との返答だったので、かつては写真が許容されていたのだろう。参考として掲載する。

境内看板

「平安時代後期の作」との説明が付され、いわゆる伝弘法大師の信仰ということになるが、この像容は薬師如来ではなく阿弥陀如来と考えられている。この辺りの造形評価については、石造美術の大家である川勝政太郎氏の記述を引いて結句に代えたい。

石薬師像のこの豊満な様式は平安時代後期をよくあらわすものといわざるを得ない。おおまかな衣文や面貌に女神像を思わせるものがある。まことにまれな古石仏である。ところが石仏の形相は来迎相の阿弥陀如来で、平安後期流行の仏であるが、後世里人の信仰は薬師に移って、いつか石薬師とよぶようになったのである。
川勝政太郎 著『石造美術入門 : 歴史と鑑賞』,社会思想社,1967. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2514170 (参照 2025-12-30)


2025年6月21日

遠保神社の魔除石(三重県四日市市)


三重県四日市市山之一色町

 

社殿手前の向かって左に「魔除石」の字が刻まれた岩石が置かれている。



裏側に刻銘があり、平成元年、地元の石材会社による奉納とある。

注連縄もかけられていて現代の岩石信仰と言って良いが、あまり類例を聞かないタイプの岩石である。

魔除けではなく縁切りの形であれば、安井金毘羅宮(京都市)の「縁切り・縁結び祈願石」が形状的には類似するが、そのあたりから着想を得たのだろうか。

穴あき石の手前にはさらに平石も置かれている。供物台を意味しそうであるが、もし穴を潜る祭祀であれば供物をここに置くのは憚られる。

奉納者の石材会社は閉業している模様で、平成時代の岩石でありながら穴の意図や祭祀方法の詳細経緯の多くはすでに失われようとしている。


魔除石と言えば石敢當の信仰が著名だが、石敢當は避邪のために岩石を置くという心性なのに対し、本例は岩石に穴を開けていて、岩石を以て邪を通さないという信仰とは対極にある。

岩石で塞いでも魔除けになるし、岩石に穴を開けても魔除けになる。
このように、岩石をどのようにするかで魔除けの考え方が多様となるのも、人間の意味付けがどうにでも受け取れるという点で興味深い。


むしろ胎内くぐりなどに通ずる禊祓の思想に立脚したのかもしれない。

ちょうど参拝時、社頭に茅の輪がつくられていた。当社で茅の輪くぐりの祭礼がいまだ盛んであるからこそ、その穴に寄せた岩石奉納だった可能性も記しておく。

遠保神社社殿と茅の輪

境内の山の神。近くから遷座したという。


2025年5月3日

朝熊山の岩石信仰(三重県伊勢市)


三重県伊勢市朝熊町


朝熊山の岩盤

朝熊山の頂上展望台に岩盤があり、それが朝熊山の磐座ではないかという話がある。





朝熊山頂展望台の名前をもつが、厳密にはこの山の最高所はここ(標高506m地点)ではなく、西のピーク標高555m地点が朝熊ヶ岳頂上である。
西ピークには龍池という聖なる池があり、そこに八大龍王社がまつられる。その南の経ヶ峰と称される一帯からは、経塚の遺構・遺跡も見つかり朝熊山経塚として知られている。

このように、朝熊山の信仰史における山頂は、岩盤がある東ピークではなく西ピーク側で語られてきた。しかし、これほどの規模の岩盤が展望台建設まで人に見つからず、歴史的に見過ごされてきたとも考えにくい。何かしらの記録が残っているのではないか。

本記事は、この岩盤を巡る諸説をまとめたものである。

藤本浩一が見た「岩船」

藤本浩一『磐座紀行』(向陽書房 1982年)では、朝熊山に「岩船」なる岩石があったことを記している。
舟形石があって、大神降臨の時の天の岩船であると伝えられている。その石の所在を尋ね歩いているうち、「今は山上になく市中に移されている」と、偶然知っていた人に出会い、岩船の前に案内してもらった。八畳と六畳二間続きの室を祭壇にしているが、奥の六畳間には仏壇を祀り、前の八畳間の室は床を落として、岩船石を安置してある。直径二メートルの上面は鏡のように滑らかで、高さは五十センチくらいである。注連縄をめぐらして礼拝できるように灯明をともしている。なぜ山上から民家へ降ろされたのか、当主が不在であるためわからなかった。(藤本 1982年)
朝熊山にあったという岩船が、後に市中の民家に移されたという話である。
なぜ民家の当主が不在なのに、別人の案内で室内を拝観できたのかが気にかかるが、藤本の記述では場所が特定できない。

岩船の文献調査

この岩船は江戸時代から戦前にかけてよく知られた存在だったらしく、さまざまな文献に登場する。

正保年間(1644~1648年)に伊勢神宮神官の度会清在が記したという『毎事問』下には、伊勢の諸事について問答形式で答える中で、次の問いが載せられている。
磐舟とて舟形なる石に注連を環らし太神宮の乗給ふ舟なりと云、何れの時に太神の此舟にて是山へ来り給ふや
(神宮司庁編『大神宮叢書 第6 前篇』1940年。カタカナをひらがなに直した)
藤本が記した、天照大神降臨の天の岩船という話はここから出たものだろう。
この問いに対して、度会清在は石が水に浮くわけがなく、また、山に船が行くというのは理に合わず、実物を見ても小さくて人ましてや神が乗る場所はないことから「妄作漫言」の類と正論をもって一刀両断している。

伊勢神宮公式側に立つ渡会家の人物よりこのような辛辣な答えが返されたからか、それ以降の文献において天照と絡めた話は出てこなくなる。

正徳3年(1713年)の『志陽略志』には「岩船明神社」の名で登場し、「朝熊山にあり、何れの神を祀るか知らず、是を鎮守として祀る」とある(中岡志州『志摩国郷土史』中岡書店 1975年)。
神社としてまつられているものの、天照の船であるという話は取り除かれており、神名不明の鎮守(朝熊山のかどうかは読み取れない)と位置付けられている。

寛政10年(1798年)の『皇大神宮参詣順路図会』になると、岩船は瑞宝院なる禅宗寺院の堂内にあると書かれる。岩船は縦7尺、横3尺、厚さ2尺を計り、これを岩船の宮と呼ぶと記す(『大日本地誌大系 第11冊』1916年)。仏教色の濃い扱いとなる。

嘉永4年(1851年)の『勢国見聞集』では、巻九に「岩船弁財天」、巻十六に「岩船」の名で登場し、いずれも縦2尺、横7尺、高さ2尺と記される(『松阪市史 第8巻 史料編 地誌 1 勢国見聞集』松阪市史編さん委員会 1979年)。『皇大神宮参詣順路図会』とは縦横の寸法が逆転して1尺ほどの差はあるものの、同一物だろう。
この尺貫法をメートル法に直せば、藤本が記した直径2m、高さ50㎝におおよそ符合する。
岩船は弁財天をまつると記され、由来不詳の鎮守は弁財天となった。山中の位置も詳細に記され、朝熊山参詣道の路傍に、西国三十三観世音と共に同じ堂内に置かれていたという。

さらに時代が下り、1905年に霞雪(筆名か)という方が残した朝熊山の探訪記「しま巡り」によると、岩船弁天は船形の自然石の上に弁財天を安置していたと記している(『日本弁護士協会録事』84号 1905年)。この時も岩船弁財天としての信仰で続いていた様子が覗われる。

文献上では、天照の岩船が否定的にみられたのち、神名不詳の鎮守となり、後に弁財天に仮託されたという信仰史が描き出せるだろう。

岩船があった朝熊山内の場所とは

この岩船は、朝熊山の頂上ではなく参詣道中の堂内にあったという。それはどこだったか。

寛政9年(1797年)の『伊勢参宮名所図会』巻五には朝熊山の名所が紹介されている。この紹介順は麓からの参拝順とみなしてよい。
岩船弁財天は、楠部嶺、一宇田嶺、弘法茶屋の後で、萬金丹(野間茶屋)、下乗、金剛證寺の前である(『大日本名所図会』第1輯 第4編 大日本名所図会刊行会 1919年)。絵図にも万金丹の茶屋の奥方(下斜面)の道沿いに「岩船」と注記された建物(堂)が見える。

天保3年(1832年)の『伊勢朝熊岳之絵図』を見ても、野間の万金丹本家から内宮道を下って行った絵図奥に「岩船弁天」の建物が観音堂に接して描かれている(『伊勢朝熊岳 金剛證寺』金剛證寺 2024年)。観音堂は前述した西国三十三観世音をまつる堂と思われる。

日本初の山岳百科事典と称される高頭式編『日本山岳志』(1906年)でも、朝熊山を登山順に紹介する中で岩船弁財天堂が記される。
場所は、大黒岩の先で萬金丹薬館の前であり「朝熊嶺より下乗にいたる右傍にあり、社宇の内に状船に似たる巨岩あり、長七尺、横二尺、高三尺許、是を弁財天女に祀る」と記す(高頭式『日本山岳志』野島出版 1970年。カタカナをひらがなに直した)。

これらの情報を綜合して現地に当てはめると、岩船弁財天の場所が大体絞り込める。
朝熊岳道のうち、内宮から金剛證寺にいたる内宮道(宇治岳道)の路傍にあり、位置は弘法茶屋や大黒岩よりは上で下乗や野間茶屋よりは下ということになる。

そして、とどめは大場磐雄博士の『楽石雑筆』1940年~1941年の記述にある(『大場磐雄著作集』第8巻 雄山閣出版 1977年)。
大場博士は朝熊山にある「明暦元年十二月三千日参碑」の記録と撮影をおこなっており、「同碑は岩舟弁財天右側にあり」と明記している。

さて、以上の情報を地図上で綜合しよう。
三重県環境生活部文化振興課が作成したウォーキング・マップ「朝熊岳道」がpdfで公開されており、この中の7ページ目「宇治3・A」の地図番号18が「野間万金丹本舗跡」である。
そして、地図番号7の「地蔵結願碑」に、「明暦元乙未歳十二月□ 日」「三千日結願碑」の刻字があることから、大場博士が記録した碑と同一物であることがわかる。

岩船弁財天の堂は、この碑の右側にあったということでここに位置が確定できる。
そして今、現地には堂も岩船も存在しない。

岩船が移された「民家」の場所とは

戦前1940年代初頭までは大場博士の記述によって岩船弁財天が朝熊山中にあったことはわかるが、その後、おそらく戦前戦後の時期に弁財天の堂は撤去され、岩船は山の下におろされた。

藤本は岩船を市中の「民家」で見たというが、仏壇と共に室内にまつられ、しかも民家の当主なしでも拝むことができていた。このことから、民家は民家でもある程度不特定多数が見れる位置にあったか公開されていたか、というところだろうか。
しかし、伊勢内宮前の市中でそのような場所があれば、すでに岩船は誰かによって位置が特定されているものではないか。
一般的な私的な民家でもないし、外から見れる場所でもないように思える。

このあたりの前提を踏まえて調査した結果、唯一、ヒントになりうる情報を見つけた。

皇學館大学名誉教授の櫻井治男氏が翻刻した「資料翻刻『神三郡神社参詣記』(四)」(『皇學館大学神道研究所紀要』第4集 1988年)に、以下の記述を見つけた。
表江出て右側に、高き石垣内ニ松の木ある広き屋敷なり、慶光院殿の御宮なり、南の方石の鳥井あり弁財天女の社なり、此弁財天神路山二有しを、秀吉公御再建之時此所江移し祀り給ふト云、御建立の時御湯立かまあり、今奥にある岩船弁財天も元ハ当院の支配なりト云、石鳥井内ニ瓦屋根之内に社(櫻井 1988年)
岩船弁財天の名がここで登場する。

慶光院の屋敷内、南のほうに石鳥居があり瓦屋根で葺かれた社があり、弁財天をまつる社だという。
そして、この弁財天は秀吉時代に神路山から移したものだが、「今奥にある」岩船弁財天も慶光院の支配下にあったと読める。

慶光院は内宮前の宇治の街中にある。


元は尼院だったが明治2年に廃寺となり、明治5年からは神宮司庁の所有となり今に至る。
基本的に非公開の施設で、年にごくわずか公開日があるらしい。
公開日に見学した人が弁財天の社を実際に見たかの情報が欲しいところだが、このように特殊な性質を持つ屋敷であり、藤本浩一が案内を受けた人が神宮司庁の関係者やある程度寛容に入れる時代の空気だったならば、個人の私邸でないからこそ中に入ることができた可能性が浮上する。

『神三郡神社参詣記』は世古口藤平が明治初期に見聞した伊勢の神社地誌であり、ちょうど寺から所有者が変わる頃の記録ということになる。

本書の記述の「今奥にある」の意味がとりづらい。
「今」は明治初頭を指すが、「奥」は秀吉期に移した弁財天社の「奥」にあるという意味なのか、宇治の街中の奥にある(つまり朝熊山)という意味なのかがわからない。

素直に読めば前者だが、『日本山岳志』や霞雪氏の記録、そして大場博士の記述を踏まえると、この頃はまだ岩船弁財天は朝熊山中にあったと思われ、場所が矛盾してしまう。

岩船弁財天「も」「元は」当院の支配だったという書きかたから、神路山の弁財天とは別の存在であり、離れた場所の岩船弁財天も元・慶光院の所有だったと書いていると理解できる。
もし神路山の弁財天の奥という意味なら、すでに慶光院の屋敷内にあるので、わざわざ当院の支配などと書く必然性に欠けるというのもある。

ならば、岩船弁財天が山中から移された先も、所縁のある慶光院にあるという推測が成り立つ。元所有者とも言え、すでに神路山の弁財天社も移されている地だから追加して移しやすい風土がある。

懸念点は、当然非公開なので推測に過ぎないということと、藤本浩一がなぜ慶光院と書かず民家という書きかたをしたかである。
慶光院ほどの場所であれば個人の民家とは違い公共性があるので、名前を出して書きそうなものである。
また、昭和時代の鷹揚さはあっただろうが、それでも神宮司庁の庁舎であり他人の案内で入れたのか。さらに、「当主」という書きかたをしたのも気になる。個人邸を念頭に置いた書きかたとも言える。
そういう点では、慶光院そのものではなく、慶光院の関係者や子孫縁者に属する方の邸内に移されている可能性もあり、その場合は秘匿性が増すので所在確認の難易度は大いに高まる。

いずれにしても、時機到来して慶光院の公開日に見学できれば確認したいし、すでにご覧になった方の情報提供を待ちたいところである。

再び朝熊山の岩盤へ…

長い「寄り道」の末、冒頭の山頂展望台の岩盤へ話を戻そう。

これまでの調査を踏まえれば、岩船は朝熊山岳道の道中(山腹)にあったため、件の岩盤とは無関係の存在となる。
(ただし、仏堂以前の『毎事問』『志陽略志』の時期も同じ場所に存したかははっきりしない)

その他、朝熊山で伝え継がれているものとしては次の岩石がある。

  • 天狗石
  • 大黒岩
  • 朝字石
  • 獅子岩
  • 独鈷石
  • 二法石
  • 心経石
  • 畺目石
  • 七日石

すべて朝熊山の名跡として各種文献(坂本徳次郎氏『二見浦名勝誌 附 神都案内』二見興玉神社々務所 1913年 ほか)に列挙されるのだが、この内、位置がある程度確定できるのは前3者(天狗石・大黒岩・朝字石)に限られ、少なくともこれらは展望台の岩盤を指さない。

さらに、七日石はおそらく七社神(朝熊の鎮守という)にある岩石で、七社神は金剛証寺境内の薬師堂の社(法光院)という記述があり(『皇大神宮参詣順路図会』)、文殊大満獅子石ともあるので上記の獅子岩と同一かもしれない。ならばこれらも異なる。

逆言すれば残りの岩石名(独鈷石・二法石・心経石・畺目石)については、件の岩盤を指す可能性がまだ残っている。

金剛證寺境内。顕彰碑の前の壇上に置かれる自然石。このような岩石にも名があり歴史がある可能性を否定できない。

最後に、朝熊山縁起に関わる話を紹介する。
室町時代成立とされる『朝熊岳儀軌』には、赤精童子・雨宝童子が朝熊山の三鈷洞傍らの岩石に立ったという縁起がある。

この岩石には「朝」の字が足跡として残ったという故事から朝字石の名がつき、それは境内の連珠池の池の中にあるというが見ることはできない。
なぜならこの池は常に濁っているのが良いとされていて、清らかなときは変異の兆として避けられているからだ(安岡親毅著・倉田正邦校訂『三重県郷土資料叢書第25集 勢陽五鈴遺響(1)』三重県郷土資料刊行会 1975年)。

朝字石があるという連珠池(連間の池)

傍の三鈷洞は、金剛證寺を開創したという伝説的修験者・暁台上人が修行して聖徳太子が小野妹子を遣わして仏舎利を納めたという聖跡だが「三鈷洞の存在を今は知る統べもない」(前掲『伊勢朝熊岳 金剛證寺』2024年)とのことである。
件の岩盤は洞穴構造を持っているわけではないので伝承地として適切とは言えないが、この「洞」がいわゆる洞窟のようなものを指したか、岩陰構造をもつ岩石を含めたものだったかは不明である。

以上、朝熊山の岩盤について候補となりうる情報をまとめたが、ご覧のように多くの謎を残した。朝熊山の岩石信仰の地についてさらなる情報をお持ちの方はぜひご教示ください。

2025年1月2日

金井神社の蛇石(三重県いなべ市)


三重県いなべ市員弁町北金井

 

「伊勢新聞」2024年12月28日記事(https://www.isenp.co.jp/2024/12/28/122275/)で、普段は本殿内にある蛇石が蛇年に合わせて2025年元日から1年間公開されると目にした。

報道にもあるとおり、蛇石には手で触ることができる。

宮司の方にお話を伺うこともでき、写真撮影の許可をいただいた。





蛇がとぐろを巻くような形だから、いつの頃からか蛇石の名で呼ばれた石だという。

自然にできた形とのことだが、私が目の当たりにして触ってみた実感は、縄文時代の石冠のような形をした石だという印象だった。ただし、底面がどのようになっていたかは持ち上げるのを遠慮して未確認である。


注意したいこととしては、金井神社は蛇神をまつる神社というわけではないので、たとえば神社のご神体などの位置づけではない。

金井神社は、地元の人々が伊勢神宮に代参する祈願社として承久3年(1221年)に創建したとの説がある。

境内社には金巖社と呼ばれる社が合祀されている。

「巖」の字から関係が気になるところだが、金巖は地名らしく、社の由来は地頭で現宮司家系でもある種村氏の祈願社だったとされている。


宮司さんがおっしゃるには、蛇石は由来不明ながらも、いつの頃からか拝殿と本殿の間の斎庭にずっと置かれていたのだという。神職家の間でも、これは何だろうという存在だったらしいが、畏れや恐さの対象ではなく愛着をもって置かれていた。

その後、平成に入って本殿を新たに造営した折に、斎庭にあったという蛇石を本殿の中に収めるようにして、以後は基本的に秘匿された。

しかし、それは祟りがあって隠されたという考えではなく、むしろ縁起の良い存在との認識だった。

そこで現在の宮司さんになられてから、蛇年に蛇石を公開する取り組みを始めたそうで、存じ上げなかったが12年前も公開していたらしい。

ということで、祟りではなくご利益のある石として撫でることも許され、現在では蛇の卵にあやかった「たまご石」も授与されている。


2023年1月17日

社護神稲荷神社/三護稲荷大明神/社合神/三護神/三狐神(三重県伊勢市)

三重県伊勢市有滝町 豊北漁港

豊北漁港の敷地内に社護神稲荷神社はある。

社護神稲荷神社。社号標などは設置されていない。

神社境内。右手前に積み石が見られる。

岩礁状の積み石も祭祀対象であることがわかる。

社殿向かって左にも同様の積み石が見られる。


明治9年ごろに世古口藤平が著した『神三郡神社参詣記』に当社の姿が記録されている。
櫻井治男氏によって『皇學館大学神道研究所紀要』2(1986年)において翻刻されており、以下に該当部分を引用する。

社合神 三護神 三護稲荷大明神
社護神稲荷神社、正一位稲荷大明神幟を建て、祭日は七月晦日相撲あり
或人曰元三狐神ト云、誰か其後正一位稲荷大明神のがくをあ(上)けて今ハ稲荷社ト云、今又白狐の坐す、右の脇に何ヶ文形ある白狐ト申、此裏ハ浜ニつき出たる処ニて、遠き海向イ地よりも見へる日本三所の処なりト所人ハ云なり
此社ノ北ニ小さき森小社あり
弁才天
櫻井治男「資料 『神三郡神社参詣記』(二) 」『皇學館大学神道研究所紀要』2(1986年)


本記述を信頼するならば、稲荷神社と呼ばれる前には三狐神の名があり、それが社合神・三護神・社護神といったバリエーションで表記されていたことがわかる。

いずれの名もこれはいわゆる信州発の信仰・ミシャグジ信仰の影響下にあるものと思われ、本事例の読みは振られていないが、漢字から類推すると「シャゴジ」が適切かと思われる。


つまり、本事例は伊勢地域におけるミシャグジ事例の一つとして位置づけられるが、伊勢において他に著名な類例としては、二見浦で有名な二見興玉神社の「天の岩屋」が挙げられる。

天の岩屋では三宮神社をまつっており、その一名が三狐神社ということで本例と同名である。そして三狐神社は「石神」「佐軍神」とも呼ばれていたということから、こちらもミシャグジ事例に属することは間違いない。


「今又白狐の坐す、右の脇に何ヶ文形ある白狐ト申」との記述を示すものか、今も現地には社殿向かって右に礫石を玉垣状に積み重ねた場所があり、単なる玉垣となっておらず積み石の前に小鳥居と白狐が献ぜられている。

社殿とは別で祭祀されていることがわかるものであり、それが三狐神だったのだとしたら、二見浦の天の岩屋同様に岩石をもってまつられたミシャグジ事例ということで、石神とも領域が重なる存在となる。


ちなみに「此社ノ北ニ小さき森小社あり 弁才天」と記載されているものも現存しているようである。

当社が鎮座する有滝漁業魚市場の海を挟んだ北向の突端に「弁才天」の名を三重県森林GISの地図に認めることができる。


2023年1月16日

舟神龍宮の積み石(三重県伊勢市)

三重県伊勢市村松町 村松漁港

舟神龍宮。右奥に見えるのが村松漁港。

村松漁港

左・船上龍宮の祠。右・積み石。並置の関係にある。

積み石近景。岩礁を思わせるような形状。


情報がかなり乏しい場所である。

唯一と言って良い典拠は、皇學館大學伊勢志摩百物語編集委員会『伊勢志摩百物語~磐座の聖地めぐり~』(2017年)であり、ここでは「舟神龍宮の積み石」として紹介されている。

担当著者は皇学館大学特別教授の櫻井治男氏であり、その櫻井氏をもってもこの積み石について名称はおろか、付帯する伝承・記録についてもほとんど触れられていない。
(積み石だけではほとんど文章を書けないので、周辺神社の記述を足して何とか2ページの文章を完成できたことが読み取れる)


舟神龍宮について少なくともわかっているのは、昭和28年9月の台風の後、現在地に遷座されたということ。現在地は村松漁港に接して鎮まり漁師の守り神として適地と言えるが、元来の鎮座地ではないことがわかる。

この積み石も、昭和28年より前は別の場所にあったものか、それ以降に構築された祭祀の場だったのか、わからない。


積み石は、多数の礫石を人工的に積み上げたものと推測されているが、この構造と類似した事例がすぐ南東に隣接する有滝町豊北漁港の「社護神稲荷社」にも存在する。

地理的な近さも考慮して、これら海岸沿いの岩礁にも似た積み石祭祀は、相互影響下の存在としてセットで論じることが望まれる。


2023年1月8日

谷ノ神社/上之郷の「石神」(三重県志摩市)


三重県志摩市磯部町上之郷

「上之郷の石神」と「志摩3大石神」の文献調査





志摩国一宮とされる伊雑宮から北へ徒歩10分の位置にある。

現在は「上之郷(かみのごう)の石神」の名前で知られており、現地看板では「志摩3大石神」の1つと書かれている。


しかしながら、この「志摩3大石神」の総称を遡っていっても、管見のかぎりでは昭和以前の文献(紀行文や自治体史含む)には登場せず、三重県内に住む私自身、耳にしたのはここ10年以内である。
※2014年に相差町神明神社の石神さんを訪れた時は、まだ「志摩3大石神」の呼びかたを聞かなかった。

相差の石神さん(三重県鳥羽市)


「上之郷の石神」についても、その名で調べても昭和以前の文献にはまったく見当たらない。

別の名前で知られていた可能性も考えたが、『磯部町史』(1997年)などの自治体史を捲っても、地誌や観光ガイドの性格をもつ『志摩めぐり』(上野梅吉、志摩国史研究会、1929年)や『鳥羽誌 志摩国旧地考』(曽我部市太、三重県郷土資料刊行会、1975年)を当たっても、近くの史跡名勝「千田の御池」や他の石神については記述されるものの当地については記述が見られない。

千田の御池(当地より徒歩5分の距離にある)

現「上之郷の石神」の入口。「志摩の三大石神」の標柱が建つ。

上之郷の石神の現地は、舗装された参道や鳥居・標柱など、よく整備されている。「神恩感謝」の標示などはずいぶんと新しいように思うが、元来はどのようであったのだろうか?

Googleストリートビューを確認すると、2012年撮影時は様相がかなり異なっていることがわかる。

2012年撮影。入口すら見当たらない。


インターネット上で「上之郷の石神」を検索すると、最古で2014年11月の記事まで遡ることはできる。

上之郷の石神、旧村社「谷社」跡と秋を見つけて(志摩市磯部町)

しかし2013年となると、たとえばイワクラ学会理事の平津豊氏が伊雑宮を訪れたレポートを2013年1月に上げているがそこには上之郷の石神について一言も出てこない。

アマテラス鎮座前の伊勢

イワクラ学会主催の「イワクラサミット」で辿ると、2006年の「イワクラサミットin鳥羽」では上之郷の石神への言及がないが、2016年の「伊勢イワクラツアー」では「最近近づけるようになった岩」として上之郷の石神が紹介されている。


以上をまとめると、2012年頃まで現地はほぼ無整備の状態で、それが2014年頃には「上之郷の石神」の名で整備され、現在は「志摩3大石神」で括られる存在になったという現代史が描き出される。
歴史は数年で変化して、それ以前のありようがわかりにくくなる性質があるので、他記事ではあまり追究されていない部分について本記事はあえて記した。


谷ノ神社

とはいえ、この「石神」と呼ばれる岩石群は、まったくの無の状態から突然聖地として創られたものでもないらしい。

文献上でこの岩石群を記録したものとして、唯一見つけることができたのが、植島啓司氏『伊勢神宮とは何か』(集英社、2015年)である。下記ブログの存在で本文献を知ることができた。

フィールドノート(民俗野帖)


植島氏は、この岩石群を「上之郷の石神」ではなく「谷ノ神社」という名で紹介している。文章を読むと植島氏が現地を訪れたのは2013年夏のようである。

この時の様子は、「ちょっとわかりにくいところ」にあって「比較的大きめの磐座に注連縄が巻いてある」が、「神籬の跡がかすかに認められるものの、もはや原形をとどめないほど荒廃」(植島 2015年)した状態だったと記されている。現在の整備状態とは差があったことが読み取れる。同書に掲載された谷ノ神社の写真には、岩石の前に奉納物としてのミニ鳥居が立てかけられているが、これも現在は存在しない。


谷ノ神社とはどのような社だろうか。

現在も現地には「旧村社『谷社』跡 立入禁止」の柱が建っており、この谷社が谷ノ神社のことなのだろうと思われる。

現地に立つ「谷社」跡の標柱。当地に隣接する。

谷ノ神社は現在、近くの磯部神社に合祀されている。

明治時代の神社合祀の動きを受けて、磯部村内の十数の神社とともに合祀された時の一社である。

『三重県神社誌』第4(三重県神職会、1926年)によると、谷ノ神社の祭神は大幡主神で、以下の概要を記す。

「大幡主神ハ大字上之郷字西外戸四百七十一番村社谷ノ神社ノ鎮座ナリキ、由緒ハ[明細帳]ニ[不詳]トアリ」

いわゆる由緒不明の小社で、とりあえず最終の祭神が大幡主神ということだけはわかっているが、大幡主神(大幡主命)はいわゆる倭姫命伝説と絡む神であり、これが原初の地主神であったのか後世の勧請神だったのかはわからない。

さらに谷ノ神社には境内社が存在しており、前掲『三重県神社誌』によると「秋神社」の名が記されている。


前出の植島啓司氏は、谷ノ神社を「その土地の氏神・産土神を祀ったもので、伊勢・志摩一帯の古い信仰の痕跡がそこに表れていると言っていいもの」(植島 2015年)の一例として位置づけている。

この見解に対しては、たとえば江戸時代前期に成立したと推測される「伊勢二社三宮図絵」で伊雑宮に関するさまざまな聖地が強調されているのに、伊雑宮から徒歩10分の距離にある谷ノ神社については描かれていないことからも、当地が伊雑宮信仰というよりもそこから外れた在地的・非言語的信仰だったことを窺わせる。


近くの下之郷の山神社も「磐座」の岩石をただまつったものとして植島氏は写真を掲載している。

いわば伊勢志摩一帯には「形、石に坐す」と記されるような石を以て社とする岩石信仰が多い。それを祭祀考古学の笹生衛氏が提唱するような「御形」と呼ぶべきか、石に坐すから「石坐=磐座」と呼ぶべきかは保留したいが、谷ノ神社の岩石信仰もそのような伊勢志摩の事例の一つと言って良いだろう。

(なお、植島氏が磐座と石神などの使い分けをしておらず磐座を総称的に用いているのは、学史を踏まえた用法ではなく不適切だと思う)


したがって、歴史的にまとめるなら当地は「上之郷の石神」と呼ぶより「谷ノ神社」と呼ぶべきものであり、岩石の名を「石神」と定義してしまっていいのかも、学史を踏まえると慎重でありたい。

(本記事タイトルが谷ノ神社を優先表示して、石神に括弧付けしているのはそこが理由である)


また、隠されていた/禁じられていた聖地というわけではなく、神社合祀により一度その役目を終えて一般には注目されていなかったかつての聖地が、地元の方のなかでは継承され続けて、この10年で「上之郷の石神」として再整備された場所とみるのが適切である。

植島氏は磯部神社宮司の山路太三氏と共に谷ノ神社を訪れており、磯部神社宮司の方も当然承知の存在で、合祀前の旧社地としてこの岩石を護持されていたのではないかと思われる。

植島氏が訪れた2013年の翌年には、先に紹介したブログなどのとおり聖地整備がされ始めたので、このような専門家の訪問も一つの契機になったのかもしれない。


【補遺】天井石について

千田の御池の横に現存する「倭姫命旧跡」も併せて紹介する。

「天井石」と呼ばれるもの。由来は下画像を参照。

"いけないもの"が出て官憲に回収されたという話は超古代史系の話でも類型があり、どこまで事実として信頼できるか。
ちなみに、別の看板によるとその鏡は現在、志摩市立歴史民俗資料館に保管されているという。

同敷地内にある「勝負神」。力石の一例と思われる。

2022年12月30日

加布良古神社/伊射波神社の岩石信仰(三重県鳥羽市)


三重県鳥羽市安楽島町 加布良古崎

 

中近世は加布良古(かぶらこ)神社・加布良古明神の名で通り、「かぶらこさん」の俗称が現在でも残っている。地名の加布良古崎から由来するものであるが、「かぶらこ」の語源はよくわからない。

明治時代になり、当社は延喜式内社の伊射波神社に比定されたことから、現代では伊射波神社の名称が一般的である。しかし、伊射波神社の論社としては他に志摩市の伊雜宮が有力であるため、本記事では歴史的に確実な加布良古神社の名を優先的に使用している。


穴あき石の奉納

一の鳥居。鳥居の向かい側は一面に海が広がり、浜辺に建つ。

鳥居の傍らに積み重ねられた石群。よくみると穴が開いた石が多い。

拝殿内に奉納された「神通力石」にも穴あき石が多い。


穴あき石の祭祀は全国各地で類例が見られ、病の平癒や女性の願掛けで用いられることが多い。
また、穴をあけるのは石だけでなく土器、貝殻、柄杓ほかの素材でも見られるため、穴を開ける行為そのものに共通した論理がありそうだ。


石の神体説

筑紫申真「五十鈴川―伊勢神宮祭祀集団の民俗学的研究―」『三重史学』3(1960年)には、 加布良古神社の神体が石であることが書かれている。以下、引用しよう。

加布良古明神の神体は石だといわれる。神主が朝早くまだ暗いうちに深い海にもぐり、石をつかんできて、その石を全然見ずにさらしの布に包んで、神としてまつる、という。そして加布良古の浜の石は、しばしば神異を示して他に私に運ばれることを拒んだという伝承に富んでいる。(筑紫、1960年、p.7)

神体が石体で、その石が秘匿されるというのは全国各地の神社でもよく見られるパターンであり、それ自体は特殊なことではない。

興味深いのは、この記述を信じるならば神社の神体石が定期的に交替していた可能性である。

さらに、他に私に運ばれることを拒んだというくだりは神職者以外が浜の石を持ち出すことを禁じたように読めるが、現状をみるかぎり当社には多数の穴あき石が奉納されている。穴あき石が浜の石かどうかという問題もあるが、記述時点と現況で歴史の変化が窺える。


美保留神


拝殿向かって右側に「子宝・安産の神 美保留神」の標示があり、上写真のように白石が敷かれて貝殻の奉献された一角がある。

特異なのは、奉献された先の岩石は、正確には拝殿を取り囲む玉垣(石垣)の端に過ぎないという点だ。たしかに石垣の断面は縦状に深い窪みを有し、外形は子宝安産の象徴化とみなすこともできる。美保留神は日本神話に登場しない神であり、仔細は不明である。

上写真には、美保留神の左奥にもう一体、岩塊が控えているのがわかる。拡大すると下写真となる。

この岩石がまつられていることは石壇と小鳥居の設備から明白だが、社殿内ではなく社殿外の玉垣に接してまつられた意味とは何なのだろうか。

神社由緒書によると、加布良古神社には多くの神々が後世合祀されており、その一柱に神乎多乃御子神社祭神・狭依姫命がいる。

神乎多乃御子神社は加布良古崎にかつてあった島に鎮座していたといい、戦国時代に海中に沈んだときに神体の石体が救出されて当社に合祀されたとある。

たとえば、こういった合祀された神々の石体が上写真の岩石なのかもしれないし、前述したように加布良古神社の定期的に交替される石体の一部なのかもしれない。


領有神



「海上守護神 領有神」の標示がある。場所は、加布良古神社拝殿からさらに参道を奥へ進み、加布良古崎の突端頂上に位置する。

「領有神」は「りょうゆうしん」ではなく「うしはくのかみ/うしはくがみ」と読む。「領く(うしはく)」は古語として存在するが、「領有神」の用例自体がいつまで遡りうるものなのかは突き止めていない。


加布良古崎

加布良古崎

加布良古崎の岬突端にある、ハート形の石。

皇學館大學伊勢志摩百物語編集委員会が2017年にインターネット公開した『伊勢志摩百物語~磐座の聖地めぐり~』には、鳥羽市に「美多羅志神社のハート石」の項目もあり、伊勢志摩ではハート形の石に注目するちょっとしたブームがあった。おそらくはその一例に数えられるのが上写真ではないか。


アクセス(駐車場)

神社の公式駐車場(写真左奥)

自動車で訪れる場合、神社の駐車場の位置がはっきり現地で示されていないため、参考までに書いておく。

公式駐車場は上写真である。かめや旅館を横に通り過ぎるとすぐに三叉路にぶつかり、まっすぐは車止めがされており進めず、右は海水浴場へ行きつく。左へ進むとすぐ上写真の建物が見え、狭いが左に「駐車場」の案内があり広場が広がっている。

手前の鶴林山傳法院の駐車場にも、一部のスペースだけ神社駐車場として利用できるが(私は現地の方に聞いてここを利用した)、車を停める駐車スペースの番号は一部のみなので訪問時必ず確認してほしい。