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2021年9月19日

上ノの岩上神社(兵庫県宍粟市)


兵庫県宍粟市山崎町上ノ


山間部の集落、上ノ(かみの)と呼ばれる地区の北部に岩上神社が鎮座する。

宍粟市では他地区にも岩上神社があるため、便宜上、上ノの岩上神社と題して区別した。


社殿に隣接して、一大岩塊がまつられている。

岩上神社社殿

岩上神社の社名の由来となったと思われる岩(大岩/磐座と記されることもあり)

岩の下を潜るように階段と橋が架けられている。

岩に接して伊沢川が流れる。

元禄5年(1692年)成立の社記『岩上大明神縁由記』(都多岩上大明神縁由記とも)が残るらしく、「岩上」の名を江戸時代まで遡らせることができる。

また、暦応4年(1341年)に当社が勧請されたといわれるが、その伝承には大きく2つのパターンがあるようだ。

  1. ある行者が、岩から光を発しているのを見て、里の人に社を建てるように伝えて勧請に至った。(現地看板より)
  2. 岩上に薬師如来が立ち、社を建てるように霊夢があったので勧請した。(兵庫県神社庁ホームページより)

2番目の伝承では、岩石は薬師如来が立つ台座石であり、「岩上=岩神の転訛」とみるより「岩上=字のとおり岩の上に信仰対象がいる」という意味で理解したほうが良い事例と言える。


さらに、現地看板には「点在する岩石は此神眷属の座石とも言われている」と記されている。

たしかに、境内周辺には多数の露岩が点在しており、それぞれが岩石祭祀の事例と考えて良い。

岩上神社境内1

岩上神社境内2

岩上神社境内3

岩上神社境内4

「座石」ということは、これらの岩石群は信仰対象そのものというより、信仰対象が座す聖なる祭祀施設なのだと解される。

主たる岩石の周囲の岩石群を眷属とみなす発想は、『出雲国風土記』に登場する楯縫郡神名樋山の石神と小石神の関係や、『日本文徳天皇実録』に登場する大洗磯前神社の怪石と小石の関係を想起させる。


そのほか、岩上神社の近くで見かけた旧跡を紹介する。

「岩井谷」と札が下りた谷を遡上してみた。

岩井谷の小落差

岩井谷の水源奥

岩井谷の両尾根にも露岩が散在する。

「深山口の淵」の看板を見かけたので、川下を見ると…

通称、垢離取淵と呼ばれる岩上神社の禊場。

「磐窟と不動明王」の看板が立つが、雪中で踏み跡がわからず踏査を控えた。

岩上神社境内の夫婦杉(県指定天然記念物)

2021年4月11日

岩上神社の神籠石/ひもろぎのお岩さま(兵庫県淡路市)


兵庫県淡路市柳澤乙


淡路島の岩石信仰として著名な存在である。





岩上(いわがみ)神社の神籠石は「こうごいし」とは呼ばず、「ひもろぎいし」と呼ぶ。

「ひもろぎ」は「神籬」の字の当てることが一般的だが、類似した「神籠」に転訛的に字を当てた可能性もある。明治時代以降の神籠石論争の影響による命名も拭えないからだ。

そのため、いわゆる「こうごいし」グループからは外して、「ひもろぎいし」の音を尊重したほうがよいかもしれない。
「ひもろぎのお岩さま」が地元で慣れ親しんでいた名称だろうか。

ただし、「ひもろぎ」の概念も多分に後世的な神道的な影響のもと成立した可能性を考えたほうがよく、名称からこの岩石の性格を類推するのはやや危険である。



岩上神社の創建は、社伝では天文10年(1541年)に大和国石上神宮の勧請からなるというが、社名の「岩上」は石上神宮に求めるより、ひもろぎ石ありきの当地の勧請と考えるのが自然だろう。

神社としての歴史は戦国時代からとなるが、それ以前の岩石信仰の存在は認めて良いと思う。

ただし、それを近世、中世、古代、先史時代、どこに位置付けるのかは慎重でなければならない。


ひもろぎ石からは、「平安時代のものと思われる素焼皿が出土」したというが、埋蔵文化財登録はされていないようである。

巨石の周辺から土器や玉などの遺物が見つかれば祭祀遺跡として数えられることもあるが、ひもろぎ石での素焼皿発見はいつどのような状態によるものだったのか、それを記録・紹介する考古学系の先行研究は見当たらない(祭祀系の文脈においても)。


素焼皿発見時の概報など、文献情報などをご存じの方はお教えください。


2021年4月4日

枯木神社の子宝石(兵庫県淡路市)


兵庫県淡路市尾崎

漂着した祟りの枯木をまつったことから枯木神社の名がある。

境内は海辺沿いに接し、そこに「子宝石」というもう一つの信仰が伝わる。




「子宝石が十個ぐらい横一列に並ぶ」とあるが、現在整備されているのは2個の様子である。

21世紀に建てられた看板として、おそらくこれは不特定多数に見せられる穏当な表現にしたためられたものだろう。

子宝石も後世的な総称の可能性があり、地元でかつて使われていた通称は「ぼぼ石」「おめこ石」「ちゃこ石」「おまんこ石」「こしけ石」だったという(谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第3巻 摂津・河内・和泉・淡路』白水社 、1984年)。

単に女人衆が座るというものではなく、そこにはある種猥雑活気な祭祀行為や信仰のかたちを想像できるだろう。

それら性信仰は、けっして奇異や卑猥の目で見る「消費」の民俗でもなく、臭い物に蓋をするような「恥」の民俗でもないことは、かつて小板橋靖正氏が指摘したとおりである(同氏『赤城山麓の性神風土記』あさを社、1985年)。

人間の活動において、あらゆる願望・欲望を満たすのが祭祀や信仰であり、そこに上下の列をつけるのも人間の営為という視点で、かつておこなわれ、そして現在おこなわれている事物をとらえていきたい。


2021年1月17日

櫛石窓神社裏山の霊岩(兵庫県丹波篠山市)


兵庫県丹波篠山市福井

かつてこの辺りは大芋荘と称され、櫛石窓(くしいわまど)神社は大芋荘を含めた四十八ヶ村の総社として信仰された。
「丹波の国大芋の大宮」の通称もあるといい、延喜式内社として古来からの岩石信仰を伝える地である。

櫛石窓神社

社殿背後の宮山(禁足地)

社殿の背後に、宮山と呼ばれる高さ約30mの小丘があり、神山として神聖視されている。

この宮山の頂上に、天照大神(あるいは祭神の櫛石窓命・豊石窓命)が降臨したと伝わる「霊岩(みたまいわ)」があるが、宮山は禁足地のため山内に入ることはできない。

かつては麓から山頂に露出する巨岩群が確認できたそうだが、後に植林が行なわれ、現在は社叢繁茂して麓から確認することができない。


大場磐雄博士は昭和26年に当社を訪れ、社殿内陣の神像三体を拝観したのち、下のとおり宮山を登拝している。

御山(宮山という)の頂に到れば神格の基ずくところ、巨巌壘々と盤居せり、即ち頂上を周りて八個程の巨石ほぼ円形に露出し、南側には二個の立石屹立せり、石は硅石なりという。白く風化して霊格あるが如し、ここにてまづ霊岩を模寫し、それより御山の全体をカメラに入る
茂木雅博(書写・解説)・大場磐雄(著) 『記録―考古学史 楽石雑筆(補)』博古研究会 2016年

そのとき撮影したと思われる写真が、國學院大學の「大場磐雄博士写真資料」にて公開されている。

宮山/國學院大學博物館所蔵(クリエイティブ・コモンズ・ライセンス済資料)

なお、インターネット上では神山頂上に立ち入って巨岩群の写真を掲載しているページが散見されるが、冒頭に書いたとおり現在神山の中は禁足地である。

大場博士の頃は、登れる空気感だったか神社の調査許可を得たかはっきりしないが、少なくとも現在においては、境内掲示に神山への立入禁止は明記されている。あれこれ理由をつけたとしても、無許可侵入を正当化することはできない。
我欲に負けることなく、信仰している人の権利と立場を最優先してほしい。

社頭掲示

2020年8月23日

生石神社の「石の宝殿」(兵庫県高砂市)


兵庫県高砂市阿弥陀町生石

石の宝殿の構造


日本三奇の一つとして著名な「石の宝殿」。




「浮石」の異名を持ち、水を湛えた堀から浮いているかのように見える構造は、元々は地山の大岩盤を底面ぎりぎりまで削り出したことによる。

また、巨石と下の岩盤の間には亀裂が走っており、厳密には地上からは分離した存在だという。この亀裂は奥の岩盤から続いており、「大ズワリ」と呼ばれる摂理だと考えられている。

石の宝殿の巨石を切り出した後の背後の岩盤。


石の宝殿の外形の特徴を一言で表すと、よく「屋根を横倒しにしたような形」といわれる。

石の宝殿の奥側の突起


拝殿が建つ側を正面とするなら、奥側に屋根状の突起がついているからだが、石の宝殿研究会編集委員会『魅力再発見!石の宝殿と竜山周辺史跡~浮石の謎~』(2019年)がまとめたところによると、

  • 家の形
  • 容器の形
  • 祭壇の形
  • ノミ(鑿)の形

など、それ以外の見方があることも指摘されており、あまり家形一辺倒で考えるのも、解釈の幅を狭めることになるだろう。


播磨国風土記に記された石の宝殿


「原の南に作石(つくりいし)あり。形、屋の如し。長さ二丈、廣さ一丈五尺、高さもかくの如し。名號を大石(おほいし)といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり。」
秋本吉郎校注『風土記』(日本古典文学大系2)岩波書店 1958年 より


石の宝殿の最古とされる記述は『播磨国風土記』にある。

奈良時代当時は、石の宝殿ではなく「大石(おほいし)」と呼ばれていたことがわかり、それは現在の「生石(おうしこ)」の地名・神社名に通ずる。


この風土記本文の前段には「石作連」が登場していて、そして、本文では「作石」の字が見られる。

本文後半では「大連が造れる」の表現のとおり「造」の字も併用され、それぞれ、岩石を整形する、されることの表現と考えて良いだろう。

石の宝殿は明らかに人為的な巨石構造物ではあるが、奈良時代当時においても、人々が目の前の巨石をそのように表現していたことは興味深い。


なぜ作ったのかという目的は不明だが、岩石を自然のままでは良しとせず、彫り削ることで岩石の真の価値が出るという論理は、後世の石屋や仏師にも共通する価値観である。


石の宝殿の調査状況


石の宝殿の学術的調査について、オンライン上に公開されている文献では前掲文献のほか、『史跡石の宝殿及び竜山石採石遺跡保存活用計画』(高砂市教育委員会 2017年)が詳しい。


石の宝殿が奈良時代の『播磨国風土記』に記されているのは前述したとおりだが、平安時代の『延喜式』神名帳には生石神社の記載はなく、養和元年(1181年)成立の『播磨国内神名帳』を待たなければならない。

『播磨国風土記』の記述を読む限りでも、大石は「作石」であり、人が作った遺構以上の認識は読み取れない。平安時代に神が作った石として神社の神体としてまつられることと比べれば、奈良時代人のほうが人が作った石という意味で現実的である。


石の宝殿を語る際は、周辺の採石跡との関連性も外せない。

周辺の山塊からは、加工に適した凝灰岩が多く眠っており、竜山石という名前で知られている。

この竜山石は遠く畿内の古墳石棺などにも用いられたことが考古学的に判明しており、当地がヤマト王権との深い影響下における一大石材産出地であったことは疑いない。

生石神社裏の宝殿山から見た石の宝殿。岩盤の四方を切り出していることがわかる。

宝殿山頂上から竜山の採石跡を望む。

採石跡


石の宝殿は横口式石槨の未成品か


このような現在の研究状況のなかで問われる論点が2つある。

1つは「石の宝殿=横口式石槨」説である。

石の宝殿の目的には古来から様々な仮説が立てられているが、現在、最も考古学的に有力とされるのがこの説である。


奈良県の「益田の岩船」なども類例とされ、古墳時代終末期の埋葬施設である横口式石槨に形状および加工技術が類似しており、その未成品が石の宝殿とされている。

加工技術は、施された溝の幅の一致など確かに共通したものがあることから、石の宝殿の加工時期が古墳時代終末期にある可能性は同意するが、横口式石槨と断定していいかというと、私はまだ留保したい。

理由は、技術は共通していても、作られたものが古墳石室用一択とは言い切れないものがあり、また、形状もあくまでも類似レベルにとどまるものであり、一致レベルとは言えないからである。

他の多様な用途を捨て去るには、まだ根拠が揃いきっていないと思う立場である。
(横口式石槨説を否定しているわけではない)


石の宝殿と周辺の採石跡・古墳との関係


2つ目の論点は、石の宝殿と周辺の採石跡との関連性または相違性である。

現状、石の宝殿のような特異な構造物は、まさに石の宝殿にしか見られず、それは周辺におびただしく残る採石跡とは性質が異なるものである。

もちろん、未成品だからそこに唯一残されただけと考えることもできるのだが、他の採石跡との時間的先後関係もわからないなかで、この巨石構造物が「放置された」「未完成」と解釈していいかに一抹の不安がある。

その後の数々の採石行為があったなかで、この巨石構造物に手を入れたり、再利用・再切削・再加工しようとはしなかったか。すでにされた後の形がこれなのかもしれないし、されていなかったのだとしたら、それはすでにこの巨石への何らかの特別視の現れである。


石の宝殿が属する宝殿山にも複数の採石跡が確認されているが、隣接する竜山地区に比べればその数は少ない。その中での、石の宝殿の規模と存在感に特異性がある。

また、石の宝殿の南には竜山1号墳という横穴式石室を持つ古墳が確認されており、石の宝殿の築造者との関係が指摘されている。

当山は単なる石採り場としての利用だけではなく、墓域でもあったことを示しており、そこには少なからず宗教性を帯びる。

では、同じ山に「放置」されたという石の宝殿の巨石とは何だったか、まだ指摘されていない用途や性格が想定されるのではないか。

私はそれを即、宗教的な石に絡めるつもりではないが、複数の可能性を無理に絞り込む段階でもないと思っている。

生石神社境内にまつられる「霊岩」。各種文献に記載はなかった。


2020年7月11日

高岳神社(兵庫県姫路市)


兵庫県姫路市西今宿 蛤山

高岳神社は「たかおか」と読むが、『延喜式神名帳』では高岳で「たかみくら」と読んでいる。

神社背後の丘を蛤山(標高125m)と呼ぶ。その頂には一大岩盤が広がっており、隆起した岩塊の手前に鳥居や灯籠が献ぜられまつられている。






往古の昔瀬戸内海が書写山の麓まで海に満ちていた。高岳神社の直ぐ北の山頂部に高さ約八十米にも及ぶ巨岩があり蛤岩と呼ばれている。これは土地の人がこの岩の上の窪みの中で蛤の親子化石を拾い福徳長寿の幸を得たのでこのように名付けられたそうである。
「延喜式内社 高岳神社 巨岩 蛤岩由緒碑」(平成二十年建立)より

高岳神社の社宝には蛤の化石が伝わるといい、かつてこの岩が海中にあったことを示すものだろう。

蛤の奇譚については、そこまで古い話ではないのかもしれないが、それ以前からの岩に対する信仰はあったのだろうか。

高岳神社は延喜式内社というが、元来の鎮座地はここではなく、やや東にそびえる八丈岩山頂上だったと社伝でいわれており、そこにも岩盤が露出している。
現・蛤山の遷座は天長3年(826年)のことと伝わる。

いわば、岩山から岩山へ、神が移動したことを示すのだが、その理由までは明らかになっていない。

藤本浩一氏は『磐座紀行』(向陽書房、1982年)の中で「これほど整った磐座があるのに、八丈岩山を高岳神社の旧地と考えたのは、いかなる時、いかなる人か、今我々が考えさせられるところである」と記す。
これでは八丈岩山旧社地説への批判のようなものであるが、藤本氏は八丈岩山の現地も訪れて比較している。いわく、その岩盤の規模は「八丈」というような大規模なものではなく「八畳」の誤伝ではないかと述べ、蛤山の露岩規模にはおよばないと評価している。

なお、八丈岩山は『播磨国風土記』に登場する「因達の神山」に比定されており、その点から、藤本氏は因達の神の磐座であろうとは認めているが、どうも蛤山の神とは別個の存在だったのではないかとみなしている節がある。
『播磨国風土記』の「因達の神山」の項に、岩や石に対する記述が見当たらないことも付言しておきたい。

2020年7月5日

岩神社(兵庫県姫路市)


兵庫県姫路市八家

本殿の裏に、高さ4mの岩が立てられて、注連縄が巻かれている。
岩神社の名前が示すとおり、岩をまつる神社であることは間違いない。

岩神社

藤本浩一氏『磐座紀行』(向陽書房、1982年)によれば、岩の下部には補強した跡もあるが、これはもともと立っていた岩が倒壊しないようにしたものだろうと推測している。

また、本殿向かって手前左に、長さ4m、高さ1.5mの岩石が岩盤状に広がっている。
こちらは注連縄はないものの、拝所と本殿の間に挟まるように存在し、注連縄の立岩と含めて一丸で神聖視されていたものとみて良いだろう。

本殿手前の岩盤(拝所から撮影)

当社は丘陵の尾根端に立地する。
藤本氏は、岩神社両隣の民家の裏を見ると高さ約2mの岩壁と、その上に続く岩盤を確認している。
すなわち、当地は裏山の岩盤も含めた上での岩石信仰であり、その山裾の祭祀の場と位置付けられる。

2020年1月19日

岩楠神社と絵島(兵庫県淡路市)


兵庫県淡路市岩屋

淡路島の北端近く、岩屋港に恵比須神社(戎神社)が鎮座する。
岩屋地区(古くは石屋とも)の産土神として崇敬を集めており、江戸時代に恵比須講が盛んになって勧請された。

この戎神社の背後に、境内社の岩楠神社(岩樟神社とも)がある。
岩樟神社は三対山の崖にできた岩窟で、濱岡きみ子氏の報告(1984年)によると、奥行き6m、高さ1.8m、幅2mの空洞を内部に持つという。




かつてはもっと長大な洞窟だったというが、背後の山上に岩屋城を築くときにこの岩窟の一部を崩したという話も伝わる。

地元では、伊弉諾尊が最終的にお隠れになった幽宮(最終的鎮座地・墓所)がこの岩窟であると信仰されている。

現在の祭神は国常立神・伊奘諾尊・伊奘冉尊の三柱だが、濱岡氏の調べでは『神社総社記』なる書物では月読尊となっており、また、長寛元年(1163年)の古記録では天地大明神なる神がまつられていたとある。

岩石信仰の観点から岩楠神社の岩窟を見ると、神霊の宿る空間を異界として明示する存在であり、異界の境界石のような働きでありながら、岩窟自体が内部構造に空洞をもつ神宿る岩石だったと考えることもできるだろう。岩窟祭祀の典型例の一つである。
恵比須信仰以前の当地の原初性を物語るのが岩楠神社の岩窟である。


なお、目と鼻の先の海岸に、絵島という岩の島がある。
伊弉諾・伊弉冉の国生み神話に登場する自凝島(オノコロ島)の候補地の一つとして知られている。



参考文献

濱岡きみ子「石屋神社」 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第3巻 摂津・河内・和泉・淡路』白水社 1984年

2019年9月22日

貴志御霊神社の「夜なき石/茶臼石」「貴志のぬけ石」(兵庫県三田市)


兵庫県三田市貴志宇美内

現在は単に御霊神社と呼ばれるが、従来は貴志宮(貴志神社)と号されてきた。

詳しくは明治時代の神仏分離の時に旧記散逸というが、大彦命(大比古命)を祭神としてきたという。

境内の旧跡として「夜なき石」が知られる。



由緒書から引用しよう。

その昔、境内にあった石(夜なき石)が殿様の目にとまり屋敷の庭石に使われたところ、夜になると「貴志に帰りたい、貴志に帰りたい」とないて殿様を困らせた。そして医師は元の貴志に帰ってきた。(由緒書「国指定重要文化財 貴志御霊神社のご案内」)

夜なき石という名は、赤子の夜泣きを止める霊験に由来するものが多く、その記述は本事例には見られない。
ただ、この「権力者によって動かされた石が、元の場所に戻りたがる」という話は、各地に類似伝承が多い。
人々が、無生物である石に対して一種の共感や同一視・擬人化がないと、この類の話は生まれにくい。
単に夜なき石の分布ではなく、説話パターンごとでの分布を調べてみても面白いことがわかるかもしれない。

さて、現地看板にも興味深い記述がある。

まず、夜なき石の別称として茶臼石という呼び名もあったこと。
次に、この石は酒船石であり、当社の祭礼に用いる神酒をこの石でつくったのだという。

石の上で酒を造るとは、もろみを石上で押し搾り、清酒と酒粕に分離するという行為である。

看板では大和の酒船石との関連性に触れているが、最も類似するのは愛知県一宮市の酒見神社に存する磐船である。
酒見神社例も、奉納用の酒を石上で醸造したといわれている。



さて、写真のとおり、夜なき石とともに合計3体の、奇石とも言ってよい形状の岩石が横並びしている。
すべてが夜なき石ではなく、垣で囲われていることからもわかるように、写真向かって一番右が夜なき石である。

左側2体は「貴志のぬけ石」と呼ばれ、夫婦石のような位置づけで信仰されているようだ。
興味深いのは、同じ貴志地区にもう一つ「抜け石」があることだ。
下記のページでその存在が報告されている。

兵丹石 (兵庫県三田市貴志史跡) - グルコミ

兵丹石と呼ばれるのは、瓢箪の形になぞらえたものだろう。
開墾時に出た「抜け石」で、形に特徴があったから保存したという。
当社の「ぬけ石」も、それに類する来歴の奇石と考えて良いだろう。




参考文献


  • 貴志御霊神社氏子総代発行の由緒書「国指定重要文化財 貴志御霊神社のご案内」
  • 現地看板