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2023年11月6日

山寺立石寺の岩石信仰(山形県山形市)


山形県山形市山寺

 

山寺立石寺は、慈覚大師円仁が開山・入定した地で、おくのほそ道の「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」の場でも知られる。

立石寺には「立石倉印」の字が刻まれた古代印が伝わり、型式的にも開山を伝える9世紀頃の製作の可能性が高いものとされており、その頃からすでに「立石」の名で呼ばれていたことが窺える。

慈覚大師が入定したとされる窟は、百丈岩という自然の巨岩に開いた風穴の一つである。山口博之氏は「百丈岩に入定する慈覚大師の強力な視線が、街道を往来する人々にそそがれ守護する風景となる」(山口 2021年)と考察して、山寺における立石群の宗教性を街道交通と関連付けた。


立石寺における岩石の利用は、各時代を通して死者供養と深い関連が指摘されている(時枝 2011年)。

開山当時の入定窟からは木棺や火葬骨が複数体見つかり、いわゆる修行窟というだけでなく一種の墓地としての性格も色濃い霊場だったと考えられている。

その後、中世においても岩石群が形成する岩陰や洞穴の中で納骨および五輪塔の奉納行為が確認されている。

近世には、岩肌に塔婆を刻んで死者を追悼する岩塔婆とよばれるものもみられるようになり、この祭祀行為は県内でも山形盆地(村山盆地)周辺に分布が固まることから、山岳寺院の中でも地域的に独自の変化・形成を遂げた霊場だったと評価づけられている。


また、元山寺として立石寺の前身とされる峯の裏地区では、垂水岩などの奇岩において13世紀頃の石造物群が確認されている。








調査を主目的として訪れていなかったため、岩石の記録は不完全である。


参考文献

  • 時枝務『山岳考古学―山岳遺跡研究の動向と課題―』ニューサイエンス社 2011年
  • 山口博之『山寺立石寺―霊場の歴史と信仰―』吉川弘文館 2021年


2023年10月30日

垂水岩/垂水不動/垂水の観音様/垂水遺跡(山形県山形市)


山形県山形市山寺 宝珠山千手院裏山

垂水岩(下部のみ撮影)

蜂の巣状の穴は地質学的に「雲形侵食」で説明が可能という(ブラタモリ2023年7月22日放送時の大友幸子氏の解説より)

鳥居が立つが、基本的には山岳仏教・修験道における岩場の文脈で臨む存在。

岩陰に稲荷神社がまつられる。

垂水岩の西にある別の岩陰には古峯(こぶはら)神社がまつられる。

垂水岩(西より撮影)


山寺立石寺のすぐ東の「峯の裏」と呼ばれる地にあり、千手院の裏山を約15分~20分登った山腹にある。

垂水遺跡・垂水不動(垂水不動尊)・垂水霊境などの通称で知られ、近年とみにパワースポットとして着目されることが多いが、40年前の文献を捲ると以前は垂水岩(たるみずいわ)と呼ばれていたらしい。

「垂水岩(山形市山寺) 水が垂れるように岩の上から落ちてきて奇岩を作っている。昔は修験者が冬でも住んでいた。ここは、現在の山寺ができる以前に慈覚大師がいた所で、ここで山寺を開く構想をねった。今は不動様がまつられていて、垂水の観音様と言って信仰されている。(話者)武田唯雄」(岩崎 1981年)

垂水岩の名は、明治11年刊行の地誌『山形県地誌略』まで遡って確認できた。その後、大正7年刊行の『山寺村風土略記』で垂水不動の表記も登場する。垂水霊境の表記はかつての文献群には登場しないため、単なる美称の一つが流布されて定着化したものだろう。
以上を踏まえて、歴史的名称としては垂水岩・垂水不動の名を採用することが望ましいだろう。


さて、垂水岩は山寺立石寺の始まりの地(元山寺)と伝承されることがある。
それはまったく根拠のない話というわけではなく、現地には寺院があったと思しき地形や痕跡が残るという。

「今日の根本中堂は目今の山寺区域の東部に建つて居るが、其開山当時に在ては更に東方千手院字峯裏と、垂水不動間の山上にあつたものらしく、其處に今猶平地があり、畑地となつて居る。而して其敷地の入口には両側に高き岩石が、恰も門に擬せらるゝ如く立ち、如何にも霊場であるらしく見得られる。即ち中堂は此處に建てられたものと思はれる。」(川崎 1947年)

門に擬せられた岩石がどれに当たるのかはよくわからないが、千手院に立つ現地看板によれば現在、阿弥陀屋敷と呼ばれる地が本院跡とされており、このことを指すのかもしれない。

円仁宿跡

亀裂の奥に不動明王像が安置され、垂水不動の由来となる。

かつて岩肌には千手観音の線刻が見られたといい、垂水の観音様の由来となる。

垂水岩の周辺には霊場関連の石造物群が散在する。


垂水遺跡という名もあるものの、いわゆる遺物が出土したという意味での遺跡ではないらしく、埋蔵文化財としての登録はみられない。
ただし、遺構としての石造物群が残っており、その点で遺跡と考えるのは差し支えない。

「蜂の巣の穴状の岩窟がみられ、垂水不動や円仁宿坊と名付けられたものもある。ここにも岩窟のなかに中世の石造文化財が多数散乱している。とくに五輪窟には、『文永』『応仁』『明徳』の年記がみられる五輪塔の水輪・地輪などがある。もともとの山寺はこの地であり、円仁が最初に開いたのはこの『峯の裏』であったともいわれている。」(川崎 2009年)

これらの中世石造物群の評価については、修験道考古学を専門とする時枝務氏が次のように記している。

「13世紀には、立石寺から尾根1つ隔てた峯の裏地区を中心に、納骨をともなう五輪塔などの石塔が造立されるようになるが、この時期の現境内(吉川注:立石寺境内を指す)での宗教活動は不明な点が多い。鎌倉時代に、一時期禅宗寺院になり、再度天台宗寺院に復帰したと伝える寺伝となにがしかの関連があるのであろうか。」(時枝 2011年)

念のため申し添えるが、13世紀より前の考古学的痕跡は見つかっていない。たとえばこの奇景を以て縄文時代の信仰などと直結するような動きは自制すべきだろう。

現状として、垂水岩は山寺の成立と密接に絡む山岳仏教霊場と位置付けるにとどめないとならない。



参考文献

  • テレビ番組「ブラタモリ#243 山形~山形は何度も生まれ変わる?~」(2023年7月22日放送)
  • 岩崎敏夫 編『東北民俗資料集』10,万葉堂出版,1981.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9570674 (参照 2023-10-30)
  • 原精一 編『山形県地誌略』,佩玉堂,1878. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991433 (参照 2023-10-30)
  • 伊藤友信 著『山寺村風土略記』,伊沢栄治,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/958425 (参照 2023-10-30)
  • 川崎浩良 著『出羽文化史料』,出羽文化同交会,1947. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1043722 (参照 2023-10-30)
  • 川崎利夫「立石寺とその周辺の石造文化財」 日本考古学協会 編『日本考古学協会大会研究発表要旨』2009年度,日本考古学協会,2009. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11199853 (参照 2023-10-30)
  • 山口博之『山寺立石寺―霊場の歴史と信仰―』吉川弘文館 2021年
  • 時枝務『山岳考古学―山岳遺跡研究の動向と課題―』ニューサイエンス社 2011年


2023年10月23日

「寒河江の巨石文化遺跡ストーンサークル」と姥石(山形県寒河江市)


山形県寒河江市元町 八幡原第1号公園


JR寒河江駅の西約200mに「巨石文化遺蹟之碑」が建つ公園が存在する。

公園入口から撮影。

大小の岩石が間隔をあけながら散在する。

岩石の一つ

中央の岩石

公園に建つ1934年の石碑

この地はかつて八幡原の地名で知られ、この「巨石文化遺跡」を八幡原遺跡などと呼び、東北地方のストーンサークル事例の一つに挙げる時代もあった。

事の発端は、山形県の学校教員で郷土史家だった堀場義馨氏が当地に散在していた巨石群に着目し、その内容を「巨石文化の遺蹟 ストーンサークル(環状石籬)の発見」と題して1932年に発表したことによる。

 調査の結果によると、石質は安山岩と、集塊岩と、凝灰岩質礫岩の自然石で、三種類とも葉山邊から運ばれたものらしく、多大の人力を要した、人為的の移動と、其の配置によって造られたものであるらしい。
(略)
去る大正9年から10年にかけて、政府が奥羽鉄道左澤支線を敷設することになって、寒河江停車場を建設せる時に、此所を土砂採り場としたから、突然盛土の下から兼ねて隠れて居た巨石が発見されたが、其の不可思議な巨石が如何なるものであるのか見解もつかず、今日まで疑問の中に葬られて居たものである。
(略)
勿論述者は浅学非才、殊に田舎者のことなれば、見聞も狭く、誤認や独断に陥って居るかもしれないから、世の博識なる先輩諸兄の実地調査と、其の御研究によって、是正を得ることが出来たならば、自分は勿論人類学界の爲めにも、誠に喜ばしいことと思はれる。

(堀場 1932年)

堀場氏はこの巨石群を人為的遺構として紹介して実測図も作成しつつも、その判断には誤認もあろうことから他研究者の批判を願ってもいた。

その後、1952年に考古学者で巨石信仰の研究に長じた大場磐雄氏が来県し、自身の調査メモ『楽石雑筆』にて現地所見を次のように記した。

 先づ注目すべきは、巨石の存せる位置にして、前述の如く砂礫採掘のため発見せる丘陵の一部にして、今も砂の上に露呈せり、而して最初はその上に砂礫層の覆ひ居るものにして、今これを調査するに、南方において1.75米、東北方においては1.60米、西側においては1.4米を算す、又現在の巨石の大いさを見るに、中心のもの高1.35米、南方の最高のもの1.95、その他1.45、1.35米を算するを以て最高のものすら殆んど頭部を露出し難く、他の小石小玉にては全く砂礫中に没し去るべし。この砂礫層の堆積が巨石樹立後と決定すれば問題は別なれど恐らくこれは寒河江河支流の流れ来りしものならむ。これ不審の第一なり。

 次にこの形状は後世人為的移動を行いてるを以て些か疑はしけれど、仮にかかる形状なりとすればその規模大形にして、類似のものは北海道三笠山麓のものと類似を見る外内地には類例なし。更にこの附近に確実に遺物の発見なきは不審の一にして、これ等の解決をまちて決すべきものと思考す。ただ問題はこの附近を姥石と称することにして、恐らくは同様の名称を有せし石の信仰ありしならむ。又八幡原と称する如く、信仰に関係を有する地なるを以て或はこの方面より別種の解釈を見ることもあるならんか。

(大場 1952年)


大場磐雄博士が当時撮影した写真(ストーンサークル/國學院大學博物館所蔵/クリエイティブ・コモンズ・ライセンス済資料)

大場氏は、この巨石群が砂礫層の中に埋もれていた点と、考古学的に確実な遺物の出土がみられない点を踏まえて、寒河江川の運んだ自然堆積の土砂と流されてきた岩石の一部なのではないかという可能性に触れた。

なお、大場氏は古代信仰に造詣の深い関係で「八幡」と「姥石」の存在にも着目しているが、八幡神や姥伝説を縄文時代の遺跡として直結することは危ういだろう。

公園北東隅に安置されている姥石

一時期、別の場所へ動かされていたのを元の場所へ返還したという流浪の岩石。

さらに1959年、北海道の縄文時代研究に優れ『日本の巨石文化』(学生社 1973)の著作でも知られる考古学者の駒井和愛氏は、この巨石群にトレンチを設定して発掘を試みて、その結果を次のように記した。

 私は山形大学の柏倉亮吉教授とともに、土地の人の話や、上記実測図で原位置を保っていると考えられる平たい巨石二つほどを選び、これを調べるとともにサークルの内側に幅二メートルのトレンチを二本、直角に交るように鑿ってみた。

 この二つの巨石の周囲をみると、粘土状の地山の上に砂と礫とが積もり、その上に恰も流水によって運ばれたもののように巨石がのっていた。これに対して、他の立石の類は、腐触土のなかにすこしばかり入っているにすぎないか、或はまた横に平たかったものを縦位置に変えたようなものでしかなかった。

 またトレンチは深さ腐触土六、七十センチにして石の腐った粘土状の地上に達するが、何等の遺物も無い。すでに湧水も多く、砂や礫も少なく無い。到底墳墓などの営める土地でないことが知られたのである。

 以上のことから、寒河江のストーン・サークルなるものは、もと河底であったところに砂礫とともに巨石が転がり来たって、群集し、のち水の流れが変って河の底にも土がつもって、土のなかに砂礫を含み、土の上に自然と巨大な石が首を出していたようなもので、決して人工のものではないことがわかったのである。かの鉄道線路を敷設する時に、ここから砂や礫を取ったために、巨石だけが残り、その形が偶然サークルの状をなしていたために、土地の考古家の熱心によって、ストーン・サークルと名づけられるに至った。やがて石も余分のものをすて、足りないところへ補って、益々立派な形をなすようにつくられたのであろう。

(駒井 1959年)

大場氏の所見を裏付ける形で、巨石群の下はもともと川底であり、自然河川の大小の川原石の堆積が、後世の地理的環境の変化で「巨石遺構」「ストーンサークル」と主観的に判断されたという経緯が明らかになった。

点が3つ三角形に集まったら人の顔を直観してしまう人類の性(パレイドリア効果)である。真円でも等間隔の配置でもなくても、3個以上の岩石が円のように見えて、自らの主観に負けてそれを環状と認定してしまうことはあるだろう。その典型と言える。

現在の風景だけを見て巨石のおりなす雰囲気にのまれ、こうあってほしいという主観で歴史を語るのは、みわたせば現代人も一緒である。


主観にもたれつつも後世の批判的研究に審判を委ねる堀場氏、巨石信仰に親和的な立場でありながらも自然成因説で研究対象に冷静な視点を忘れない大場氏、実際に考古学的調査へ乗り出して事実をもって判断する駒井氏、いずれの研究姿勢も現在の岩石信仰研究において学ぶべきところが多いのではないか。


参考文献

  • 堀場義馨「巨石文化の遺蹟 ストーンサークル(環状石籬)の発見」 『郷土研究叢書』第3輯,山形県郷土研究会,昭和7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1209273 (参照 2023-10-23)
  • 茂木雅博(書写・解説)・大場磐雄(著) 『記録―考古学史 楽石雑筆(補)』博古研究会 2016年
  • 駒井和愛『音江 : 北海道環状列石の研究』,慶友社,1959. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2991466 (参照 2023-10-23)
  • 「大場磐雄博士写真資料」(國學院大學デジタルミュージアム)https://d-museum.kokugakuin.ac.jp/search_by_word/id=18071


2023年10月16日

湯殿山の御宝前と岩供養(山形県鶴岡市)


山形県鶴岡市田麦俣


御宝前


出羽三山の湯殿山は、岩石を「御宝前」と呼んで中近世には湯殿山大権現、明治以降は湯殿山神社本宮そのものとしてまつった。

松尾芭蕉が「語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな」と詠んだように、修験の秘所によってそこで見たことは他言無用といい、現在も湯殿山の神域で写真撮影はできない。

とはいえ、すでにこれまで著された数々の文献に湯殿山の記述や研究は散見されており、自治体史である『朝日村誌』1巻(1964年)巻頭には御宝前の岩石の写真が堂々と掲載されている。
(同様の写真はかつて絵葉書でも販売されていたらしい)

現・湯殿山神社本宮

湯殿山の北向いにそびえる品倉山の岩崖。湯殿山御宝前と成因・規模は非なるものだが写真として唯一擬することができるもの。

これより先は撮影禁止。

山本謙治氏は「湯殿山の陰陽石」(1991年) で、御宝前を陰と陽から成り立つ陰陽石とみなして、美術史研究の立場からその造形も含めて詳細を論じている。類書に比して具体的であるため、山本氏の表現を用いて次にまとめよう。


  • 陰陽石(御宝前)の高さは正面からみて目測3m前後、幅6mほど。
  • 輪郭は円錐形に近いが、頂上部は平らになっている。
  • 岩肌に鋭角面はなく柔らかな曲線で構成される。
  • 岩肌の色は赤土色であるが、それよりも、肉の内部の色という表現がふさわしい。
  • 岩石は全体が濡れ光り、頂から湯が流れ出して白煙がたちのぼる。
  • 陰陽石は、正面に見える円錐形の岩石と、右横に少し下がった所にコニーデ型の岩石が見えて、そちらは頂が平らではなく大きな窪みをもち、なみなみと湯を湛えている。
  • 陰陽石の左側から登り口があって、素足で巡拝できるが足裏には相当に熱い。
  • 上に登ってから正面の岩石の頂面を見ると、木立や覆いで正確にはわからないが、半畳よりは広い平面で、手前に三か所ほどの湯の湧出口が一列に並んでいる。


私が現地で目にしたのもこのような光景であるが、岩石の頂面を観察することは多数林立する梵天の存在によって難しく、湧出口を3つとも特定することはできなかった。また、山本氏は高さ3mでそこまで大きくないとするが、私の目測では5mはあるのではないかと思う。

ちなみに君島武史氏の湯殿山の観察報告(1996年)では、岩石の高さを4mほどと記している。今は3~5mほどという認識でいたい。


さて、これらの観察を踏まえて山本氏は、御宝前を正面の「陽」と右横に並ぶ「陰」を併せ持った神体石だと考えている。

では性神かと単純に判じるものではなく、かつて行者は御宝前から湧き出る湯穴を出湯の神やクナドの神などと唱えて拝んだという話から、クナド(岐)の境界神としての性格も混在していることも指摘している。

どのような境界かと具体的に問うならば、湯殿山が即身成仏のできるところや祖先に会うことができる場所としての信仰を考慮して、山中他界の境界としての聖地だったのではないかと推測している。


御宝前とはどのような場であったのか。このように温泉が噴出する特異な岩石信仰は類例を聞かないに等しい。

御宝前という語は仏教用語由来の一般名詞だが、岩石の手前のまつり場をそう呼んで後世に岩石を含めた名称となったか、岩石は神そのものではなく神体で岩石自体を御宝ではなく御宝前とみなしたのか、名称の解釈も考えどころである。

前者であれば岩石は神仏そのものであり、後者であれば岩石は山中境界としての媒体と言える。

少なくとも仏教・神道体系に組み込まれてからの御宝前は後者に近いだろう。岩石が神仏そのものではなく、信仰対象は大日如来であり湯殿山大権現であり、その霊威の可視的な顕現として岩石が存在するからだ。仏名・神名がつけられる前の時代の受け止め方はまた異なった可能性がある。


目に見える霊験として突出する温泉水はすでに科学的な分析がなされており、成分は炭酸含有食塩泉で温度は52℃という(安斎 1965年)。

52℃であればたしかに裸足の参拝で相当熱く感じるのもうなずける。私は8月の気温35℃の猛暑日に参拝したので岩肌の日光の照り返しでさらに熱く感じたものだが、季節によって感受する信仰要素はまったく変ずる。

冬場には雪で埋もれる湯殿山で、御宝前だけは温泉で常に雪解け、その肉色と白煙の奇観を曝し続けるわけである。安斎氏の前掲書では「冬になりますと、このご神体付近に温泉のぬくもりを慕って蛇がたくさん集まり、奇観を呈するといわれております」(安斎 1965年)とあり、なおのことだろう。

蛇については他に「湯殿山御宝前の梵天に蛇が集まると、出水の前兆で、小屋を片づけて下山するといふ」(西川 1943年)という俗信もある。御宝前の横に切り立つ御澤の滝なども含め、岩石単体のみならずそれに付随する自然環境の集合体として信仰聖地は成立し、そのなかで岩石信仰を位置づける必要がある。


岩供養


現・湯殿山本宮の拝所の東に隣接して「岩供養場」がある。

個人の戒名や先祖供養の字を記した紙(紙位牌/形代)を、水に浸したうえで霊祭所の側面に露出する岩肌へ貼り付ける。現状として無数の紙が貼りつけられて岩肌が隠れるほどである。

岩供養の風習については、山形県立石寺(山寺)などにみられる岩塔婆(岩肌に塔婆状の墓碑を彫るもの)との共通性を説く向きもある(大友 1976年)。


参考文献

  • 渡部留治 編著『朝日村誌』第1 (湯殿山),朝日村,1964. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3015517 (参照 2023-10-15)
  • 山本謙治「湯殿山の陰陽石」 日本環太平洋学会 編『環太平洋文化 = Journal of Pacific Rim studies』(2),日本環太平洋学会,1991-04. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/4426199 (参照 2023-10-15)
  • 君島武史「報告 出羽三山大会(山の考古学研究会)に参加して」 『博古研究』(12),博古研究会,1996-10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/4426444 (参照 2023-10-15)
  • 安斎秀夫 著『東北の温泉』,保育社,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2985535 (参照 2023-10-15)
  • 西川義方「出羽三山の重大使命」 『岳』,山と渓谷社,1943. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1043654 (参照 2023-10-15)
  • 大友義助「羽州山寺の庶民信仰について」 山形県立博物館 編『山形県立博物館研究報告 = Bulletin of the Yamagata Prefectural Museum』(4),山形県立博物館,1976-03. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3465749 (参照 2023-10-16)