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2026年1月17日

愛宕様/愛宕山/庚申山(群馬県みどり市)


群馬県みどり市笠懸町阿左美

 

阿佐美の岩宿に、こんもりと雑木が茂る巨岩があり、岩のあちこちに石祠が祀られ、愛宕様として信仰されている。

『笠懸村誌』別巻 2 (資料編 民俗篇・石造物篇・建造物篇),笠懸村,1983.5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9642955 (参照 2025-12-13)



岩山には頂上までのハシゴが掛けられていたが、危険につき立入禁止とあった。

岩宿遺跡が見つかった琴平山(標高196.2m)の東麓、現在は住宅地の合間に隆起する高さ10mほどの岩山を、愛宕様・愛宕山・庚申山などのさまざまな俗称で呼ぶ。

愛宕・庚申以外にも天満宮や熊野三山供養塔などが林立しており、残された石造物はおおむね18~19世紀の造立であることが記年銘などから判明している。

井戸を深く掘らないと水が湧き出にくい岩宿の地において、愛宕山の近くでは水がよく出たという。

かつては10月24日の秋祭りで奉納相撲が行われた。


2025年12月7日

岩神の飛石(群馬県前橋市)


群馬県前橋市昭和町




岩神稲荷神社の境内に存在。現地の地名「岩神」の由来とされる高さ9.47mの岩塊で、地下にも約10mにわたって埋没しているとされる。

飛石には祟り伝承が付帯する。石工が石材に用いようとノミを入れたところ、真っ赤な血が吹き出た。逃げ帰った石工は祟りのせいで後日死んでしまい、これを恐れた人々によって神としてまつられたという。

赤褐色の岩肌をもつことから血の発想を得たと思われるが、岩石から血が出るという生き物扱いをされていること、岩石自体が岩神と呼ばれ本殿に位置していること、岩石自体に意思の発動が見られることから、石神の事例として認められる。


都市部に独立して存在する巨岩であることから国指定天然記念物として古くから著名な存在であり、かつては近くの赤城山から噴出した火山岩と目されていたが、近年の理化学的調査により西の浅間山から流れ着いた安山岩と考えられている。

同時期に行われた発掘調査からは近世以降の遺物が出土し、江戸初期、前橋藩主の酒井重忠が岩神稲荷神社を勧請したといういわれと時代的に一致することになる。


これらの調査および飛石の詳細は以下の報告書にまとめられ、インターネット上で公開されている。

技研コンサル株式会社 2016 『国指定天然記念物 岩神の飛石環境整備事業報告書』前橋市教育委員会 

2022年3月22日

産護石(群馬県沼田市)


群馬県沼田市新町

 

産護石大明神。場所を地元の方にうかがった際、ご高齢の方は「さんごしゃま」と呼んでいた。

拙著『岩石を信仰していた日本人』で、一節を設けて報告した場所。著書では割愛した情報を中心にお届けする。





産護石の前面下部は庇のような状態になっており岩陰ができている。岩石の一部が剥落してこのようになったのだろう。

この窪みが安産信仰につながった一因と思われるが、現地に来て気になったのは、産護石から少し上に登った斜面にもう1体、産護石よりもひとまわり大きい巨石が見られることである。



この巨石は、神聖視・特別視の対象ではなかったのだろうか。

巨石の底部には大小の岩石が詰められ、モルタルのようなもので固められている。さすがにこれは落石を防ぐための措置と推測されるが、さらに、巨石から2~3m手前に石積みが残っている。


さながら、巨石の前を壇上施設化したかのようである。

しかしこの巨石の周辺は産護石に比べ手入れされておらず、産護石を語る際に触れられる存在ではなく、現状でその歴史的価値は見失われていると言って良い。


なお、さらに斜面を登り尾根上の先端部に到達すると、頂上にも大小の岩石が群在している。



産護石の尾根は、名前は何と呼ばれる山なのか調査できていないが、利根川と片品川がちょうど合流するところにある微高地であり、ここからは麓の様子どころか榛名山も赤城山も見渡せる絶好の眺望をもつ。

少なくとも中近世にこの場所がスルーされていたとは思えず、尾根上の岩石群は諸設備の利用を受けたものと考えられる。それが砦など軍事用に振ったものか、墳墓や祭祀に振ったものかなどはこれも情報収集不足につき判断保留としたい。


2020年12月1日

榛名神社・榛名山の岩石信仰(群馬県高崎市)


群馬県高崎市榛名山町字巌山

榛名神社の概要


両毛三山の一つとして知られる榛名山は、山頂には榛名湖や榛名富士を擁し、頂上よりやや下った山腹に榛名神社が鎮座する。

延喜式にその名が記される古社で、現在の主祭神は火産霊神と埴山毘売神の二柱であるが、これは明治の神仏分離以降に決められたもので、江戸時代は神仏習合のなか別の八神をまつり、元来は奇稲田姫命をまつったなど諸説ある。
社伝では饒速日命とその子・可美真手命が榛名山中に神籬を設け天神地祇を祀ったのが起源だという。

用明天皇の頃には神社がまつられたと伝えられるが、山中境内に夥しく群集する巨岩群は奇岩怪石としてつとに有名であり、古代から中世の早い頃には山岳仏教・修験道の霊場として整備され、長く神仏習合の聖地として続いてきた。

実際、榛名神社境内の山腹斜面部からは、9世紀~12世紀の土器群や錫杖の発見、堂の礎石を思わせる石材、自然斜面を整形したと思われる平坦面など、山岳仏教の施設跡と推測される榛名神社巌山遺跡が見つかっている。
このことから、9世紀には山岳仏教の影響下にあったと考えられている(清水喜臣 「榛名神社の起源についての一考察-巌山遺跡の研究-」1990年)。

現在、境内および周辺の岩々の1つ1つに、修験霊場らしき命名による岩名がつけられているほか、榛名神社の本殿は巨岩に半分取り込まれているかのようにくっついており、神社祭祀においても岩石の要素を外すことはできないらしい。

榛名山祭祀に、岩石というキーワードが切っても切れないという観点から、ここでは榛名神社入口から榛名山頂上にかけての順で、岩石信仰・岩石祭祀の場や奇岩怪石を紹介していこう。

現地地図より


鞍掛岩


榛名神社の二の鳥居をくぐると、みそぎ橋と呼ばれる橋がかかる。これを渡って右手を見ると、榛名川の対岸に鞍掛岩が見える。


写真では分かりにくいが、岩が庇のようになっていて、左下に石灯籠が献ぜられている。これが鞍掛岩で、元々は洞穴状になっていたものが崩れ落ちて、現在のようになったものだと考えられている。

鞍掛岩にまつわる伝承などは特に伝わらないようだが、『榛名神社史跡めぐり』によれば、「くらかけ」とは「いわくら」が欠け落ちたことから由来する名称ではないか、という説を紹介している。
全国の「くらかけ岩」の名称を考える時の参考に資する。


犬神石


三の鳥居をくぐると、左手に「御庁宣の碑」が建ち、右手に2~3の石碑が並んでいる。
この左手の石碑の1つに「古谷トマト」と刻された石碑があるが、この台石に使われているのが犬神石である。

三の鳥居越しに石碑群を写した写真

犬神石の表面には窪みがあり、窪みに水が溜まっている水を目に付けると眼病が治るといわれている。


行者渓


岩壁が張り出してきてオーバーハング状になったところに「神橋」がかかる。


神橋の左手を見ると、渓谷沿いの両岸に岩山が対峙する。


ここは通称「行者渓」と呼ばれ、役行者が修行を行なった伝説地に位置付けられている。一種の仙境と言って良い景観だ。


行者渓の右手の岩の下端には、扉が取り付けられており、東面堂という堂跡といわれている。

東面堂跡

そして、行者渓の左手にある巨岩の奥方には、朝日岳(雷天岳)・夕日岳(風天岳)と呼ばれる岩山がそびえたつ。朝日岳の中腹あたりには「宝珠窟」なる洞窟があるという。


瓶子滝・瓶子岩


行者渓を後に進むと、手水所が設けられている。この手水所から榛名川の対岸を望むと、巨大な岩壁が広がり、その中央に小さな滝が流れる。
これを瓶子滝(みすずのたき)と呼ぶが、これは後世に人工的に作られた滝である。

滝の両側に構える、ひょうたんを横倒しにしたような岩が瓶子岩で、これは自然の造形という。


鉾岩


瓶子滝を背にしてふりかえれば、やっと榛名神社本殿ほか、国祖殿、額殿、神楽殿、札所などが集まる社殿鎮座地に到着する。

手前に門があり、これを双龍門と呼ぶ。その背後に塔のように屹立しているのが鉾岩(ヌボコ岩・ローソク岩とも)で、双龍門と併せて榛名神社のシンボル的存在である。


弥陀窟


双龍門をくぐると、鉾岩の横にはそのまま岩山と言ってもいいような岩壁が広がっている。

鉾岩(写真左)と弥陀窟(写真右)

この岩壁の上方には3ヶ所ほどに窪みが存在し、この窪みには阿弥陀三尊がまつられているとも、弘法大師の彫った阿弥陀如来像が納められていたともいわれており、ここを「弥陀窟」と称している。

弥陀窟の3つの窪み(写真中央上)

かつては弥陀窟から鎖を垂らして登攀していたともいわれるが、現在は立ち入ることができない。


御姿岩


弥陀窟の岩壁と向かい合って、榛名神社の社殿が鎮座する。
現在残る社殿は江戸時代後期の建築であるが、本殿の半分が背後にそびえる岩に取り込まれたかのごとき外観を呈している。




この岩が御姿岩(みすがたいわ)であり、その名称の由来となったか、岩はまるで頭部と胴部に分かれるかのような独特な形状をなした立岩で、他に類を見ない。高さ約80mといい、榛名神社の神符はこの御姿岩を模した図柄を採用している。

ちょうど首元に当たるくびれ部分には竹製の梵天(御幣)が斜めに挿さっており、この祭祀形態も興味深い。

毎年、4月30日から5月1日の未明にかけて、夜の間に神職のみ参加する御岳祭(非公開)が催行され、この時に御姿岩のくびれ部分に梵天を指すのだという。

なお、御姿岩には「おはぜ岩」の通称も残っており、おはぜは男茎の意である。


秘所「御内陣」に関する二つの記録


さらに、御姿岩の下部には洞窟状の空間が広がっている。
この空間を「御内陣」と呼び、祭神をまつる場というが、神職者さえも見ることのできない「秘中の秘」とされており、60年ごと、丙午の年に一度だけ扉が開けられるともいう。

しかし、考古学者の大場磐雄博士は昭和9年(1934年)の榛名神社調査時、当時の社司と社掌の案内で本殿内に入り、御内陣の様子について博士は調査メモ『楽石雑筆』に記録を残している。以下引用する。

本殿内に入る。ここは巨巌中の洞窟に内陣あり、今一ニ三の扉あり、洞窟は自然のものにて頗る広し、今最も奥に土壇ありて上に七個の壺あり、一個は破れたり、素焼無文、手捏製に大小ありと、これ御霊代なりという。壺は色黒褐色にて中に土入れたり、その図は別に送りくれる事とす。維新前迄はこの洞窟前の仏像あり。中央に将軍地蔵、右に不動、左に多聞、更にその前の中央に大天狗、左右に小天狗ありき、これを総称して満行大権現といえりと、蓋し本社は巨巌崇拝に起りしならむ。

御内陣の洞窟が自然形成と思われること、七個の壺がありこれを御霊代としていること、土器の無文様や内部の土など、大変興味深い情報が散りばめられている。


このあたりの御内陣の様子については、他にも佐々木英夫氏が「日本の祭りの原初的形態について 榛名神社の神事の事例研究を中心として」というインターネット上の論文の中で詳細を記しており、そちらのほうがより情報が豊富だった。
残念なことに2020年現在この論文は閲覧できなくなっているため、ネット上の記録保存の一環で、その一部をここで触れておきたい。

佐々木氏は、明治3年、新居守村という神道家が明治政府の命令により「神仏分離取締」として榛名神社に調査に来た際、御内陣の様子を克明に記録した報告書の存在を明らかにし、それとあわせて、榛名神社の前宮司や町史編纂室の清水善臣氏など、関係者からの聞き取りも紹介している。その記述を抄録すると下記のとおりだ。

  • 洞窟内は天井から水滴が滴り落ちていた。
  • 洞窟内部には壺が八個ある。そのうち六個は完形だったが、二個はヒビが入って崩れていた。
  • 洞窟の上方には穴が開いており、そこから風が吹いていたという。これは、御岳祭の時に御姿岩のくびれ部に梵天を挿す時の穴ではないかという。


大場博士の記録との最大の違いは、御内陣の壺の数だろう。昭和9年の大場博士は7個(うち1個破損)と記し、明治3年の新居守村は8個(うち2個破損)と記す。
時系列および破損していたことを考慮すれば、大場博士が訪れるまでに壺1個が撤収された可能性、ないしは、破損した2個を1個と見間違えた可能性などが指摘できる。

御内陣と、御姿岩に挿された梵天が空間的につながっているという話も注目点である。
佐々木氏は「御岳祭の際に竹に付着した神霊は、その穴を通って本殿まで降りて行くことが実感できたということである」と評価しているが、これは、梵天がいわゆる神が憑依するための目印たる依代だったということになる。


御姿岩の性格とは


そうするならば、御姿岩という岩石自体の役割や機能は何なのだろうか。

梵天という目印を目指して神が祭祀の時にやってきて、風の通り道を通じて御内陣内部に神が宿るから、御内陣は秘中の秘となって、そこに置かれた土器群が御霊代とみなされた。

ならば、御姿岩は神そのものではなく、神が憑依する祭祀対象とも言い難く、御内陣を物理的に形成する岩石の神殿のようである。

御内陣という神宿る空間=クラ(凹部)を宿した岩石という意味で、磐座という字を当てるより磐蔵・岩倉という「蔵庫」的な性格の「いわくら」として位置づけることもできなくない。

また、禁足地の結界という意味では一種の磐境のような働きをしているとみなすことができる。


一方で、御姿岩の頭部・胴部からなる人格神たる外形や、御姿岩の別称である「おはぜ岩」から類推される男性神的信仰と、下部に擁する御内陣の洞窟は女性神的性格も兼ねているとも言える。
すなわち、御姿岩の岩石としての形状そのものに、単なる「装置」以上の人格神的な性格が備わっていることは否定できず、この側面から御姿岩を見れば神ではない、祭祀対象ではないと言い切れない要素もある。

このような、磐境的な側面、蔵庫的な側面、祭祀対象的側面の複合した存在が御姿岩であり、それら各側面の時代的先後関係は不明であるし、同時代においても信仰者によって差異が生じていたかもしれない。

少なくとも、神仏の御姿として御姿岩と呼んだ人々と、性神を見出しておはぜ岩と呼んだ人々には、互いの認識に隔たりがあったのではないか。


修験道の立場からも付記すべき点がある。
御姿岩と弥陀窟は互いに向かい合っていることから、ここを霊場とした行者・修験者たちは、弥陀窟の窪みに座して、向かいの御姿岩を「仏の顕現」として祈りを捧げる行をしていたのではないかという説を、先出の清水喜臣氏が「榛名神社の起源についての一考察-巌山遺跡の研究-」(1990年)において提示している。

顕現という概念自体が、信仰対象の実体を直接あらわすものではなく、いわゆる不可視の次元にある存在の視覚化、象徴化という意味を包含するものであり、これ自体が、御姿岩の視覚的な性格を示していると言って良いだろう。


「形(みかた)、石に坐す」という古典の表現がある。
「みかた」(形・御形・御像)とはすなわち、御姿岩のような、磐境的な性格、蔵庫的な性格、石神的性格が重なった岩石に対して称せられたのではないかと本事例を通して考えさせられた。


榛名神社奥~山頂


榛名神社から山頂に向けて、数々の奇岩怪石が存在する。


上写真の柱状の岩は、江戸時代に描かれたとされている榛名山の絵図の中では、おおよそ「カンノンノタケ」「山王ガタケ」と書かれた岩の辺りに位置する。

写真を撮り忘れたが、この柱状岩からさらに進むと、巨大な岩屋のような様相を呈した、岩々と山肌からなる景観が広がる。先述の地図では「ウバフトコロ」という場所に該当する。

他にも、この絵図には様々な岩の名前が登場する。

境内地の辺りではサバ石・フジイワ・袖フリ岩・ヒジリ岩・ゾキ岩・ゴシン石、神社より下の方ではタイシノイワヤ・ダルマ石・スベリイシ・カウシ岩、周辺にはノゾキ岩・ポンポン岩・ナナヒロ石・ヲツタテ岩など、枚挙に暇がない。

また、朝日岳・夕日岳付近に「シシ岩(獅子岩)」があり、このシシ岩の周辺が9~12世紀の榛名神社巌山遺跡の見つかった地点という。

また、榛名川を上流沿いに登っていけば、大黒岩、九折岩、ミミズ岩、金剛界、胎蔵界と呼ばれるような岩々にも遭遇することができたはずだが、探訪時は道なりに進んだら車道に出てしまい、その車道を登って山頂に行ってしまったため、これらも未見ある。
特に九折岩(つづら岩)はまるでつづらが積み重なったかのような岩峰として有名な奇岩だが、未見のままとなったのが悔やまれる。


このように、榛名神社から榛名山頂の榛名湖まで、およそ登りで約1時間かかる。

山頂には、冒頭で触れたとおり榛名湖と榛名富士(1391m)があり観光地化されている。

榛名湖と榛名富士

この榛名湖の西岸側にそびえる掃部が岳(かもんがおか。1449m)の北尾根に、硯岩と呼ばれる岩がある。一つの峰全体が岩場になっており、榛名湖越しに望むことができる。

硯岩(写真中央の山頂)


参考文献

  • 清水喜臣 「榛名神社の起源についての一考察-巌山遺跡の研究-」 『巌山』(榛名町歴史民俗資料館紀要 第3号) 榛名町歴史民俗資料館 1990年
  • 佐々木英夫 「日本の祭りの原初的形態について 榛名神社の神事の事例研究を中心として」http://homepage2.nifty.com/japanpi/matsuri01.htm(2012年10月30日閲覧。現在リンク切れ)
  • 角田文衛(解説)・大場磐雄(著)『記録―考古学史 楽石雑筆(中)』(大場磐雄著作集第6巻)雄山閣出版 1976年
  • 『榛名神社史跡めぐり』(著者・発行年ともに書誌事項未記載)
  • 榛名神社 『榛名神社略記』(神社由緒書)
  • 現地看板


2019年3月3日

赤城山周辺の岩石信仰~古墳時代の祭祀遺跡と流れ山~



櫃石(ひついし) 前橋市三夜沢町

群馬県の赤城山と言えば、赤城山中にある櫃石遺跡が古墳時代の磐座遺跡として有名である。

三夜沢赤城神社から約1時間登った場所で、赤城山の一峰である荒山の尾根南端に立地している。

そこには、櫃石と呼ばれる幅約5m、高さ約3mの岩石がある。
この岩石は、崇神天皇の第一皇子である豊城入彦命が東国平定に来た際、ここで天神地祇を奉祭したという伝承をもつ。

ここから手捏土器を中心とした土器類、滑石製玉類(勾玉・管玉・臼玉)、剣形模造品・有孔円板などの石製模造品が出土。
遺物の製作時期はおよそ5世紀後半~6世紀半ばの間に位置付けられている。

玉・剣・鏡の古代祭祀3点セットの模造品が揃っていること、赤城山の山腹という立地、単独の岩石であることから、ここは赤城山に対する磐座祭祀の遺跡だと考えられている(大場磐雄「赤城神の考古学的考察」1942年)。

山の麓ではなく、赤城山の中にある程度入った山腹まで立ち入った上で、山の神を迎えるという磐座の場と言えるだろう。

赤城山南麓
三夜沢赤城神社境内の看板より

西大室丸山遺跡 前橋市西大室町丸山


かつて、赤城山南麓には周辺より約8m高い「丸山」と呼ばれる流れ山があった。

地表には数個の巨石が露出していた。
この流れ山を削って田畑に利用するため、1990年に発掘調査が行われた。
露出していた巨石の下を掘り進んでいったところ岩盤にぶつかり、その周辺から総数10000点を越す遺物が出土した。

遺物の大半は石製臼玉であり、続いて剣形模造品・有孔円板・勾玉などが出土した。若干ながら管玉・紡錘車・刀子・鎌の石製模造品も出土した。
原石剥片や未完成品も僅かながらあることから、この場所で祭祀具を製作していた可能性もあるという。

また、ガラス玉と鉄器片が少数出土。
土器については土師器(椀・杯・高杯など)、手捏土器、須恵器(瓦泉・甕)が出土。瓦泉の形態から時期はTK208に併行すると考えられている。土器の型式から、おおよそ実年代で5世紀の中葉から末にかけての時間幅とされている。

遺物の分布は、平面的にも垂直的にも比較的まんべんなく見つかったが、特に遺跡の中央から北部にかけて出土量が多かったと報告されている。
岩盤の露頭は遺跡地の東部を中心としているが、ここからは少量の遺物出土だった。また、遺跡の南部~西部も遺物出土は少量だった。
以上をまとめると、出土遺物は中央~北部と北側寄り、つまり赤城山側に多い傾向が見られたことは注目したい。

岩盤の北東で、岩石の周囲を掘って土坑とした遺構が1ヶ所、岩盤の北にて2ヶ所の土坑、岩盤の南にて大規模な落ち込みが検出されている。
土坑からの遺物出土は少なく、これらの遺構が何なのかは分かっていない。

この巨石群での祭祀が終了した後、巨石群の南方に3基の古墳が築造された。
古墳から出土した須恵器の年代がTK43に併行する時期と考えられており、このことから実年代で6世紀末~7世紀前半あたりのものではないかと推測される。巨石群の祭祀が終わってから最大100年ほどたって、古墳が築造されたという流れになる。

遺跡はほ場整備事業により消滅したため、現在、現地には何もよすがを示すものは残っていない。

西大室丸山遺跡の発掘状況スケッチ

赤城山南麓
西大室丸山遺跡跡地の辺りから赤城山を望む(写真中央の森は産泰神社の社叢)



荒砥荒子遺跡 前橋市荒子町


西大室丸山遺跡から西へ500mの所に、荒砥荒子遺跡が見つかっている。

方形の濠の内部に柵列及び建物遺構を有した、いわゆる豪族居館遺跡である。
5世紀代の遺跡と推測され、規模としては中~小規模のものとして分類されている。

注目すべきは、西大室丸山遺跡と荒砥荒子遺跡の圧倒的な近さ。時代も近接している。
岩石祭祀遺構と豪族居館との関係を考える上において、重要な知見を提供してくれるのが隣の市にある三ッ寺Ⅰ遺跡(群馬県高崎市)である。

―――

三ッ寺Ⅰ遺跡の祭祀空間は居館内の西部に位置しており、居館西方には聖山として著名な榛名山がそびえている。2基の石敷遺構を結ぶ流水溝の延長線上にこの榛名山が位置することを考えると、この石敷遺構は榛名山を信仰対象として、それを遥拝しながら祭祀を行なう施設だったのではないかと推測している。
石敷遺構と榛名山の間には柵列があるため、実際の祭祀の場面で榛名山が望めたかどうかは検討の余地があるが、報告書内に収められている前沢和之「三ッ寺Ⅰ遺跡の性格と意義」(1989年)にも「榛名山に面した西濠からの出土遺物に、祭祀に関係するものが多いのは注目すべき点」であると述べている。

※拙稿「岩石祭祀遺跡に関する包括的考察」(2003年)より。

―――

三ッ寺Ⅰ遺跡の担い手が、榛名山に対して麓で祭祀行為を行なっていた可能性を提起したものだが、それと同じ構図が、この荒砥荒子遺跡-西大室丸山遺跡の担い手にも表出しているのではないか。

ただし、違いが1つある。
三ッ寺Ⅰ遺跡の場合は居館内に石敷遺構という祭祀の場を設けているのに対し、荒砥荒子遺跡の場合は居館内に祭祀の場を有さず、少し離れた流れ山頂部の巨石群(=西大室丸山遺跡)を祭祀の場としていたという点である。

これは何に起因する差なのだろうか?
西田健彦氏は報告書『舞台・西大室丸山-』の中で、中小規模の豪族は祭祀の場を居館内に取り込まない段階だったということで、豪族の勢力格差が祭祀形態の差として現れた可能性を指摘している。

だが、必ずしもそれだけが可能性ではない。
周辺一帯の岩石露出率の差が、単に祭祀形態の差として表れただけなのかもしれない。要するに、西大室丸山の巨石群が格好の祭祀の場としてあるから、荒砥荒子遺跡の中に祭祀場を設ける必要性がなかったというだけの話かもしれない。三ッ寺Ⅰ遺跡には適当な自然の祭祀場がなかったので、居館内に人為的に構築したといった見方である。

また、三ッ寺Ⅰ遺跡の場合は2基の石敷遺構を結ぶ流水溝があるように、水を祭祀ツールとして用いている。
一方の西大室丸山遺跡には、遺跡内に今のところ水に関わるものが見当たらない。
神沢川などが近くに流れていますが、そことの関係も検討課題の1つと言える。

赤城山南麓
荒砥荒子遺跡の出土地あたり


大室古墳群 前橋市西大室町

西大室丸山遺跡から北東、同じ町内にある古墳群で、史跡公園化されている。

全長100mを越す、前二子古墳・中二子古墳・後二子古墳の3基の前方後円墳を中心にして、6世紀代に順次築造されていった10基ほどの古墳群。

6世紀代ということは、西大室丸山遺跡の岩石祭祀や荒子荒砥遺跡がその営みを終了した後であり、岩石祭祀としては櫃石遺跡と重複する時期の墓となる。

古墳群の内部には、自然の丘を掘削して、その中から石室石材の石採りを行なったと推測される陥没地形が残っている。
周囲にある流れ山の岩石に手を付けず、地中の岩石を取り出して石材に利用していたということだろうか。

赤城山南麓
大室古墳群にある石採り山



七ツ石(ななついし) 前橋市粕川町深

七ツ石雷電神社の境内にある。
大小の岩の群れの上に石祠を安置し、これ自体を神社としてまつっている。

由来を調べたかぎりでは不詳である。
周辺には弥生時代~古墳前期にかけての住居址が20ヶ所以上、小古墳が100基以上見つかっている。

『共同研究「古代の祭祀と信仰」附篇 祭祀関係遺物出土地名表』(1985年)によれば、「巨石群があり、附近から祭祀遺物が多数出土したというが詳細は不明」と記述されている。

そのため、七ツ石祭祀遺跡という名でも知られるが、具体的な出土遺物の内訳は不明点が多い。縄文土器も伴出したという。

赤城山南麓
七ツ石



産泰神社(さんたいじんじゃ) 前橋市下大屋町

産泰神社は、西大室丸山遺跡の北に位置する。
西大室丸山遺跡から見ると、産泰神社越しに赤城山(櫃石)を北に望むという事実がある。

社殿の背後に「石山」と称される巨石の群れがある。
赤城山の岩屑なだれが集積した名残である。

赤城山南麓
産泰神社の流れ山


1つ1つの岩石には、影形石・舟石・硯石・磁石石などの名前が付いているという(二葉屋『群馬県上野国勢多郡荒砥村大字下大屋、鎮座、産泰神社之景』1901年)。

石山には、窟のようになっている空間が2ヶ所あり、かつては「胎内くぐり」ができたらしい。現在は危険なため立入禁止となっている。

産泰神社の南参道脇には、全長46m前方後円墳の大黒塚古墳がある。
そして、神社がある丘の東側には、全長67m前方後円墳の伊勢山古墳があり、神社の北方には40基以上の小古墳が群集する。

明らかに、古墳時代にはこの石山の存在が人々に認識されていたと思われるが、人々はこの石山の岩石群を石室石材に利用することはなかったようだ。

一方で、この石山から祭祀用土器などの発見は聞かれず、古墳時代に祭祀の場所として利用されたという痕跡も見つかっていない。不思議な場所である。


石山観音 伊勢崎市下触

自治体は伊勢崎市に移ったが、西大室丸山遺跡から北へ進むと産泰神社、北東へ進むと大室古墳群、西へ進むと荒砥荒子遺跡、そして東へ進むと石山観音がある。

石山観音は延暦3年(784年)建立の寺伝をもつ。

本堂の裏手に、赤城山噴火活動による巨石群が集積しており、流れ山の一つである。
巨石群の存在がすなわち石山観音の語源と思われるが、この石山にまつわる伝承などは特に聞かれない。現地看板では「累岩」とも表現している。

赤城山南麓
石山観音の流れ山


周囲に石山古墳群などの小古墳が分布しており、ここも古墳時代から認知されていた巨石群であったことは間違いない。


八幡神社の硯石 前橋市鼻毛石町

八幡神社の境内に「硯石」がある。

言い伝えによれば、当地に来た源義家に、地元の村人が従軍したいと続々と名乗りを上げた。
そこで義家はこの石の窪みに溜まった水を硯にとり、従軍者名簿を記したといわれる。そこから硯石の名がある。

赤城山南麓
硯石(写真左手前)



鼻石 前橋市鼻毛石町

八幡神社の硯石のすぐ近くにある。

当地は「鼻毛石」という地名がついておりその由来と思われるが、岩石自体の正式名称は「鼻石」となっている。

鼻石の表面にある窪みをかき回すと雨が降ると信じられ、雨乞いの神と信じられた。
現在、鼻石の上面には石祠が置かれ、手前にはおそらく仏を彫刻したと思われる痕跡が残っている。

赤城山南麓
車道横にある鼻石



牛石 伊勢崎市五目牛町

赤城山噴火活動の流れ山である洞山の麓に牛石がある。

近くを流れる粕川が大洪水になった時、源義経の連れていた牛が洪水に流されて水死してしまい、義経は川を渡るのをあきらめ近くに一泊した。
その翌日現地を見てみると、水死した牛がまるで伏したような巨石に石化したという。義経はこれを牛石と名付けて、長く弔うようにしたという。

赤城山南麓
牛石




赤城山の南麓に分布する岩石信仰の地、そしてそれに関連する遺跡を紹介してきたが、いくつか気になるポイントが出てきたので最後にまとめておきたい。


1.西大室丸山遺跡の岩石祭祀の担い手は、荒砥荒子遺跡の豪族居館の勢力か?


5世紀半ばから末にかけて営まれたお互いの遺跡。
両遺跡の圧倒的な地理的近さ、時期が互いに重複していること、豪族居館には祭祀遺構が付帯することを考え合わせると、この可能性は高い。

2.西大室丸山遺跡の岩石祭祀が終了後、周辺の豪族居館も使用を終了したのか?


いずれの遺跡も6世紀に移る頃には活動を終了する。まさに一蓮托生の関係である。
荒砥荒子遺跡だけではなく、同じく豪族居館遺跡とされる梅木遺跡(前橋市西大室町梅木。大室古墳群の南東に位置)・丸山遺跡(前橋市泉沢町丸山)も5世紀代であり同時期の使用-終焉を辿っている。
ちなみに高崎市にある全国有数の豪族居館遺跡・三ッ寺Ⅰ遺跡も、やや遅れて6世紀前半には終焉を迎える。

それと入れ替わるように、5世紀後半から6世紀半ばの間に赤城山荒山中腹で櫃石遺跡の祭祀が始まり、6世紀初から末にかけて大室古墳群や伊勢山古墳など、全長100m前後の大型前方後円墳が順じ築造されるようになる。

この6世紀からの変動は、どのような歴史的背景によるものなのか?

これはすでに考古学の中で説明されており、まず1つは、6世紀初に2度起こったとされる榛名山の噴火が大きく影響している。
三ッ寺Ⅰ遺跡が何度も立て直そうとされながらも最終的に放棄された原因がこれによるものだと考えられている。そして、火山灰により埋没した集落遺跡なども見つかっている。
この被害状況は、火山活動の影響が軽微なものではなかったことを物語っている。
こうした環境変化を受けて、当地における場所利用の変化や、何らかの体制再構築が行なわれることになった。

また、急激に古墳規模が膨らんで、前方後円墳を軸とする墓制が敷かれたことを考えると、ヤマト王権の影響が色濃くなった一面も感じられる。


3.西大室丸山遺跡、産泰神社、七ツ石、石山観音。いずれも岩石信仰と古墳が同居していることをどう考えるか?

古墳と岩石信仰の問題は、かねがねこのサイトで提起してきた。

つまり、岩石に宿る神霊と古墳祭祀の対象である祖霊は、異なる神霊として認識されていたのか、一心同体的なものとして認識されていたのかという問題につながる。

三輪山のように、山の神の祭り場である磐座と祖霊の祭り場である古墳が、それぞれエリアを分けながら設けられていると指摘されている事例もあれば、今回の事例のように両者が同居しているというケースもある。

また「同居」と書いたが、同時並存ではなく、両者に時間の先後関係があったのではないかという可能性は十分ある。
それが明示できない場合も多かったのだが、西大室丸山遺跡の例を見る限り、岩石祭祀終了後に古墳築造の時間的順序を認めることができる。


4.流れ山の岩石祭祀事例はいずれも類似した外観を持ちながら、祭祀遺物が見つかっているのは西大室丸山遺跡のみということをどう考えるか?


単純に、発掘されている場所とされていない場所の違いかもしれない。

しかし、産泰神社や石山観音は、今も明確に隆々とした石山が姿を見せている。
西大室丸山遺跡は、石山の多くが埋没した状態の中で、10000点といわれる遺物が見つかった。

また、産泰神社・七ツ石・石山観音の3ヶ所は、今も社寺があって神聖な祭祀の場として機能しているのに対し、なぜか西大室丸山遺跡だけは後世にまつられることもなく、発掘前は桑畑・牧草地・採石の場となっている状況だった。
この違いは何だったのだろうか。

上記3ヶ所は今現在に至るまで聖所として人の手入れが加わっているからこそ、前代の遺物などは全て撤去撤収され、清浄にされたのかもしれない。
(それにしても、土器片や玉の1点ぐらい見つかっていてもいいものだが)

有機物(草木や布など)を使って祭祀をしていたので、土に還ってしまって今は残っていないのだろうか。
でも、西大室丸山遺跡・櫃石遺跡は、滑石製模造品に土器類という同質的な祭祀セットを共有しているというのに、その2点の中間に位置する産泰神社が、まったく異なる遺物組成の祭祀を行なっていたとは考えにくい。

いずれの場所も周辺に古墳が築造されていることから、当時すでに各々の岩石群は認知されていたはず。
そんな共通の条件の中で、どうして「遺物の見つかる場所と見つからない場所」に分かれるのか?
これは今しばらく結論を保留して、他地域の事例や資料をさらに集めていくことで解決したい長期的な課題である。


5.磐座になった岩石と石室石材になった岩石の違いは?


産泰神社と大室古墳群の項で触れた問題である。

地表に出ている流れ山の岩石を採らず、わざわざ地下を掘削して古墳の石室石材を採っている。
同じ「祭祀用岩石」に属すカテゴリーの中で、神祭り用と葬儀用に岩石の使い方が分けられてもいたというのだろうか。
それとも、神宿るとして石材利用から回避されたものと、そうでなかったものという選択があったのだろうか。


6.ラインの問題


最後に触れておきたい。

地図を見ると分かるが、西大室丸山遺跡-産泰神社-櫃石はほぼ真北の直線で結ぶことができる。
しかも、ややラインから外れるものの、硯石と鼻石という二つの岩石祭祀事例も近接している。

いわゆるレイ・ライン論(聖地線)のようなものを積極的に評価するのか、慎重に捉えるのか。

まず、西大室丸山遺跡や産泰神社にある巨石の集積群は、赤城山からなだれてきた火山岩や火山泥流により形成された「流れ山」によるものであり、いわばそこにある微高地及び石山は自然の営為によるものという事実がある。

だから、流れ山地形は自然成因によるものだからそこに人為性はない。
一方、櫃石や硯石・鼻毛石などの単体の岩石、そして赤城神社など神社の位置に関しては人為的な立地選択が可能である。
これらの位置を、産泰神社-西大室丸山遺跡のラインに沿うように並べた可能性はないか、という解釈もあるだろう。

しかし、そういったラインを作るんだという「人間の意図」があったとするなら、各ポイントはもっと直線ライン上に乗っていいだろう。
各ポイントの位置は直線で結べそうながら、微妙に中心線からバラバラで外れている。

そう考えると、このラインに見えそうなものはやはり結果的なものであり、これぐらいのことは十分偶然の範囲内、自然に起こりえるものであるということを逆に証明するケースなのではないかと私は感じる。
原位置からズレている可能性、地理的制約などの観点もあるだろうが、地理的な制約を言ってしまったら、そもそもライン引き作業はナンセンスだろう。それを超えた人為性にラインとしての意味がある。

私の中で重要視しているのは線を結ぶことではなくて、"実際に祭祀をしていたことがわかっている西大室丸山遺跡"から、信仰対象である赤城山を眺めた時、そこに同質の祭祀事例である産泰神社の石山が赤城山の手前の視界に来て、かつ、目の前ど真ん中にくるという現地の景観である。

自然が織り成すその"ライン"を、結果的に神の業として古代の人々が神聖視したり重要視するケースもあったかもしれない。
そういった人々の体感的な感覚を明らかにする方向での研究を見てみたい。


参考文献


大場磐雄「赤城神の考古学的考察」『神道考古学論攷』 葦牙書房 1943年

小野真一『祭祀遺跡』(考古学ライブラリー10)ニュー・サイエンス社 1982年

小板橋靖正「荒砥の産神のメッカ産泰神社(前橋市)」『赤城山麓の性神風土記』 あさを社 1985年

群馬県教育委員会文化財保護課・編 『舞台・西大室丸山-平成2年度荒砥北部遺跡群発掘調査報告-』 群馬県教育委員会 1991年

長井和雄「前橋の石」『特集 群馬の石と岩の伝説』(月刊郷土文化誌 上州路No.391) 2006年12月号

国立歴史民俗博物館・編 『共同研究「古代の祭祀と信仰」附篇 祭祀関係遺物出土地名表』(国立歴史民俗博物館研究報告 第7集) 第一法規出版 1985年


2017年3月19日

賀茂神社の神籠石(群馬県桐生市)


群馬県桐生市広沢町

賀茂神社の祭典の前夜、神籠石で榊に神を降ろし、台待窪で榊を神輿に乗せ、「休め石」に神輿を降ろしながら、神社へ神を迎える神事が明治維新の頃まで行われていたという。
しかし、近年は賀茂神社の神職の方も足を運ぶことがなく、正確な位置もあやふやとなっていた。

この神籠石について、2007年2月に賀茂神社の神職さんへ話を伺った。

・この岩石の読み方は?

「かわごいし」。しかし神職さんが言うには、元は「かむごいし」ではないかとも。「神が籠る」という意味を重視されていた(つまり「かむご」は神職さんの考えが入っている可能性あり)。

 また「こうごいし」はどうですか?と聞いてみても通用したが、これはいわゆる神籠石の知識があるから通用したのかもしれない。

・なぜ近年は祭祀されず、所在が分からなくなったのか?

神職さんと連れの年配の方の話によると、昔はちゃんと手入れをしてまつっていたとのこと。
戦前までは、神籠石の周囲四方に竹を立て、注連縄を張っていた。そして春と秋の2回、赤飯・塩・水(酒だったかも失念)をお供えして祈願祭祀していた。

それが昭和20年代前半に来た台風により周辺一帯が被害に遭い、その時に神籠石が斜め下に傾き崩れてしまったとのこと。
この台風により里も大被害を被り、神籠石への道も倒木やら山崩れやらでしばらくの間行けなくなってしまい、そうこうしている間に神籠石への祭りは途絶えてしまったという。

近年の神籠石が見向きもされなかったのもその延長線上で、年配の方しか神籠石の存在を認識していない状態だった。

・神籠石へのタブー

タブーは特になかった様子。神職さんも子供の頃は神籠石の上に立ち登ったりして遊んでいたというので、戦前の頃は少なくとも畏怖的というより、親近的な信仰だったのだろう。


そんな神籠石だったが、2007年頃より、楚巒山楽会代表幹事が中心となって山中隈なく探索された結果、2009年3月に土木に半ば埋もれつつあった神籠石を再発見。
往時の神籠石を知る地元の方のお墨付きもあり、神籠石の所在が約60年ぶりに確認された。
神籠石の表面を覆っていた土木は取り除かれ、手前には神籠石を示す看板も設置された。

しかし、神社や地元自治体が定期的な管理をしているわけではない。
私が訪れた2010年には、すでに山荒れが進んでおり、道も倒木もひどく多かった。立てられた看板も後に消失したという。祭祀されない山中の岩石は忘却が進みやすい。

Googleマップ上にも目印がつけられたが、GoogleマップのポイントはGoogleの仕様変更やユーザー側のアップデートによって消える時があり(2017年はあり、2019年はなくなり、2020年にはまた復活した。今後も同様の繰り返しが起こりうる)、安定感に欠けるところがある。所在地について語り続けて、忘れられることはないように当サイトでもその一助を担いたい。

神籠石再発見までの経緯については、2007年以降リアルタイムで書かれてきた下記出典サイト・ブログの各記事に詳しい。
当サイトもこの神籠石について、2007年以降試行錯誤の踏査や的外れの仮説などの更新を重ねてきたが、あえてその駄文は割愛させていただき、ここに簡潔ながら事実の報告と参考文献・サイトの紹介を永久に記録しておくことで、せめてもの罪滅ぼしとしておこう。

なお、桐生市教育委員会文化財保護課・編『桐生市埋蔵文化財分布地図・地名表』(1994年)に史跡登録された「川越石」はこの神籠石と同一物を指すものと思われるが、地図に落とされた位置は全く別の谷間であり、遺跡地図が示す場所が間違っている。後学の方が騙されないようにここにはっきり記しておく。

2010年夏時点の神籠石記録


神籠石
賀茂神社前に掲示された神籠石の位置を示す地図。
この地図だけでは到底辿りつけないだろう。

神籠石
神籠石に取りつくルートは山荒れが激しく、倒木とブッシュに見舞われる。特に夏に訪れる時は注意である。

神籠石
2010年時点での神籠石。2009年に建てられた看板が健在。

神籠石
看板裏に刻まれたメッセージ。いろいろなストーリーがあって立てられた。

神籠石
神籠石近景。元来は頂面が水平で、戦後の台風で斜めに傾いてしまったという。


大場磐雄博士の記録より


考古学者の大場磐雄博士が、1938年に賀茂神社の神籠石を実地踏査している。
博士が生前残した研究メモ『楽石雑筆』によると、すでに大場氏が来たときには場所もよくわからなくなっており、大場氏たちが探す有様だった(地元民が同行していなかったからか)。
大場氏たちは踏査の末、石下から水が湧き出る方形のこの神籠石を木葉の下から見つけた。すでに祭祀が行われていなかったような様子である。

宮司の方が私に語った、昭和20年代の台風によって祭祀が途絶えたあたりの話がどこまで事実かは冷静に見ないといけない。

國學院大學が公開した「大場磐雄博士写真資料」において、当時撮影された写真が公開されている。

「皮ゴ石」/國學院大學博物館所蔵/クリエイティブ・コモンズ・ライセンス済資料

「休メ石」/國學院大學博物館所蔵(クリエイティブ・コモンズ・ライセンス済資料)

参考文献


2016年5月3日

妙義山・妙義神社・中之嶽神社(群馬県富岡市)

所在地:群馬県富岡市妙義町妙義



妙義山


 妙義山
 日本三奇勝(耶馬溪・寒霞渓・妙義山)の一つ
 両毛三山(赤城山・榛名山・妙義山)の一つ