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2024年11月28日

玉の石と鷺石( 愛媛県松山市)


愛媛県松山市道後湯之町

踐み健びましし跡處、今も湯の中の石の上にあり。

伊予国風土記逸文(秋本吉郎校注『日本古典文学大系2 風土記』岩波書店 1958年)

大穴持命が、重症の宿奈毗古那命を蘇らせるため、別府から伊予へ引いた湯に浸したところ快癒し、そのとき踏みしめた跡が石上に残るという。

今の道後温泉に存する「玉の石」がこの伝説の岩石とされている。



伊予国風土記は完存しておらず、本記述は『釈日本紀』巻十四、『万葉集註釈』巻第三に引用された形で伝わったものであり、いわゆる風土記の時代まで遡れる伝説かは確定できない。

また、玉の石の岩石は地表から浮いていることや、周辺環境は開発が進んだ都市部の中でありつづけてきた岩石のため、玉の石がどれだけ原状をとどめてきたか、伝説の岩石を指すものかは不明である。

道後温泉開湯の由来を伝える鷺石


2018年11月30日

石仏/仏岩/高山ニシノミヤ巨石遺跡(愛媛県大洲市)


愛媛県大洲市高山ニシノミヤ

民族学者で有名な鳥居龍蔵が1928年に「東洋一のメンヒル」と称した話が枕詞となっている、有名な巨石である。

石仏/仏岩/高山ニシノミヤ巨石遺跡

「高山メンヒル」の通称でも知られるが、地元で古くから伝わる呼び名は「石仏(いしぼとけ)」だ。
高さ4.75mの緑色片岩で、立石の東側(前面)を仏、西側(背面)を神(権現様)とするらしい。

石仏/仏岩/高山ニシノミヤ巨石遺跡
前面 仏側



石仏/仏岩/高山ニシノミヤ巨石遺跡
大洲市史跡第1号に指定された。



江戸時代、大洲藩が川に架ける石橋にするために運んだところ、翌朝には元の場所に戻っていたという逸話が残る。
石そのものの改変はもちろん、周りの草木も持ち出すと祟りがあると伝えられる。

一方で、目に疣(いぼ)がある人が参るとご利益があるという風習も残る。

この立石が人工的に立てられたかどうかはまだ解決されていない問題であるが、 石自体はこの山中から産出する石種であることと、立石は麓や周囲の山々が一望できる眺望の地に立っていることを、どのように解釈するかで立場が分かれるだろう。

石仏/仏岩/高山ニシノミヤ巨石遺跡
石仏からは神南山や大洲富士(上写真)など重要なランドマークも一望できる。


『大洲市文化財調書集』では、山田弘通氏の発言として「学問の為にはもう一度白紙に返ってあらゆる角度から疑ってみるのも方向かと思う。」と引用されている。
この立石には鳥居龍蔵や樋口清之の1930年代の研究結果が21世紀現在も踏襲されている状況であり、それは古代巨石文化ロマンとしては理解できるが、石仏のためにはならないだろう。

なお、立石が存する高山ニシノミヤ地区には他に「いぼ岩」「天狗岩」「神石(長持石)」などの名前が付く岩石群があるそうだが未見である。

石仏/仏岩/高山ニシノミヤ巨石遺跡

参考文献

樋口清之『伊予大洲の古代文化』梁瀬神綾奉賛会 1930年
大洲市教育委員会編『大洲市文化財調書集』1989年
五藤孝人「南久米ものがたり 石の古代史と民俗誌」『温古』復刊第27号 大洲史談会 2005年

関連ページ


金刀比羅神社の「象乃岩」(愛媛県大洲市)

粟島神社/大元社の巨石(愛媛県大洲市)


2018年10月7日

金刀比羅神社の「象乃岩」(愛媛県大洲市)


愛媛県大洲市新谷 金刀比羅神社/山口神社 境内

2012年、大洲市立博物館の大洲史談会の方から教えていただいた場所だった。

大洲市の巨石文化と言えばその道では有名だが、いざこの場所を紹介しようと現在のインターネット状況を調べてみたら、検索にあまり引っかからないことに驚いた。

当時、大洲史談会の方からは懇切丁寧に大洲の巨石文化に関わる資料をいただいたのだが、それらの巨石関連の資料には取り上げられておらず、ここだけは住宅地図で位置を示してくれただけだった。
大洲の神奈備山の一つである神南山の北麓に位置する巨岩ではあるのだが、ここで紹介しておきたい。

金刀比羅神社(愛媛県大洲市)

楼門を擁する立派な神社である。
近年の改修工事の碑も建ち、地元の篤い崇敬が窺われる。
一時期、山口神社と称されていたが、平成16年、元の名と思われる金刀比羅神社に名を戻した。

金刀比羅神社(愛媛県大洲市)

社殿に接して巨岩が控えている。
巨岩に接して社殿を建てたというのが正確な表現か?

金刀比羅神社(愛媛県大洲市)

「象乃岩」の標示が立てかけられている。
愛媛県神社庁のホームページに唯一、「古代は、象の岩(自然岩)で祭祀が行われていた。」と記されている。

藤堂高虎が建立した神社というから新しい創建と思うが、この記述が事実であれば元は神社ではなかった聖地に、神社を建てたということか。調査不足である。

金刀比羅神社(愛媛県大洲市)

「象乃岩」という名称も類例を聞かず、この形態もやや独特である。

金刀比羅神社(愛媛県大洲市)

一応、「象乃岩」の岩盤の上に社殿を建てたかったという想念を感じられる。
「象乃岩」からもっと場所を離して社を造ることもできただろうに、どうしても岩盤とくっつけたかったからこうしたと思わせられる距離感だ。

ここまできたら、ご神体の岩をすっぽり覆って秘匿する神社も他にあるが、そうもしていない。
神社建立当時の人々が、この岩をどうしたいと思って、岩の上にもつくらず、岩の手前にもつくらず、岩をかくすわけでもなく、でも、岩にちょっと切り合うように上に重なろうとしたのか、これはなかなかに興味深い。

狭いからそこにしかつくれなかったというケースではなく、土地にやや余裕がある環境である。

巨石文化関連資料で触れられないのがよくわからない巨石だが、それは「象乃岩」がシンプルな自然石とみなされたからだろうか?
人工的な巨石遺構は耳目を集めるが、ただの自然石と評価されたら、石好きの世界の中でも端っこのほうに行きやすいというのも、今後気をつけたい問題の一つと言える。

2018年8月5日

粟島神社/大元社の巨石(愛媛県大洲市)


愛媛県大洲市北只424 粟島神社

鳥居龍蔵博士・樋口清之博士の調査によって、戦前に一躍脚光を浴びた「大洲の巨石遺跡」。
その一つに数えられるのが粟島神社にある巨石である。

粟島神社の巨石

「大洲文化発祥の地 巨石遺蹟ドルメン」(昭和5年建立)の碑がある。

粟島神社の巨石

神社の本殿が、巨石の上に築かれている。
これを「ドルメン」に当てはめたものと思われる。

粟島神社の巨石

「高さ4.2m、幅5.7m、厚さ5mという、実に驚くべき巨石である」(大洲市誌編纂会『大洲市誌』1972年)

粟島神社の巨石


粟島神社の巨石

粟島神社の巨石

この巨石は白色珪岩であるが、社域の地質は絹雲母片岩で白色珪岩は産出せず、どこからか運ばれてきたに違いないと前掲『大洲市誌』は記述する。

地表を1m掘ると地層の母岩である絹雲母片岩に達するが、母岩と白色珪岩の傾斜軸がそれぞれずれていることから、元は同一の岩石同士ではないともいう。

地表下には数個の石が混ざっており、これは敷き石であり、母岩の上に人工的に埋め土をした上でこの巨石を設置したという、驚くべき内容が書かれている。

1972年当時の知見であり、現在の地質学・考古学がこれをどう再評価するかが見ものである。


五藤孝人「南久米ものがたり 石の古代史と民俗誌」(大洲史談会『温古』復刊第27号、2005年)に、この粟島神社について詳細な検討が加えられている。

まず、粟島神社という名前は昭和9年(1934年)に合祀されたことによる名称で、それ以前は大元社(大元神社)と呼ばれていた。
大元社自体も安政6年(1859年)に社殿が今の形で建てられたものであり、それより前の当地および巨石のあつかいはわかっていない。

神社境内裏からは常森遺跡が見つかっており、ここからは縄文時代早期~弥生時代中期にわたる石器(石笛もあったというが現在行方不明らしい)・土器群が出土していることから、当時からの人足があった場所であることは間違いない。

また、拝殿の石垣と石段に計4カ所、盃状穴が残っているというが見逃した。

2026年7月23日追記

2026年7月17日にNHKで放送された番組「ひめDON! 愛媛ミステリー〜巨石の上の神社~」では、粟島神社の巨石について地質学の専門家の意見を仰いだ結果、人工的に運ばれたものや川の氾濫で流れ着いたものではなく、固い石英の部分が残った現地性の岩石であるとの判断がなされた。


2016年8月11日

生名島の岩石信仰(愛媛県越智郡上島町)



立石/メンヒル

生名島
巨石好きの間ではあまりにも有名なこの事例。
やっとお目にかかれることができ、素直に感動。

 奥に立石山が控える
 
この立石は、生名島の石ではなく、海上運搬されたという看板が立っていることでも有名。 
その割には、石質が書いていない。また、表面を見ただけでは石質はわからない(それくらい目視による石の同定は難しい)こともあるのにはっきり断言して良いのか。こういうのも批判的に見ていきたい。

立石山遺跡

生名島
生名島は、因島から車ごとフェリーに積んで移動できる。
(写真対岸が因島。フェリー移動時間5分)

生名島
山頂の立石山遺跡。大小の露岩が散在する。
磐座と名付けられ、一部に杯状穴・陽石・陰石との名称も当てられている。
命名時期・命名者は不明。

生名島
写真左手前が陽石

陰石。山頂から少しだけ北側斜面を下る。
規模もそこまで大きくなく、陰陽の関連性を認めるには説得力が足りない。


立石山遺跡は弥生時代の高地性集落遺跡の例として取り上げられることがある。
集落(軍事)遺跡と、祭祀遺跡の両立は十分あるが、ではこの露岩群がすべて祭祀用とは言えない。
もちろん、生活(軍事)用としてすべて見るのもよく分からない。
むしろ生活面と祭祀面を二分するのがナンセンスであり、同時に語られて初めて実際に即していると言える。