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2022年1月3日

楯築墳丘墓と岩石祭祀(岡山県倉敷市)


岡山県倉敷市矢部字向山





概要


楯築墳丘墓(楯築遺跡)は、ほとんど古墳時代に差し掛かろうという弥生時代後期後葉の墳墓である。

古墳時代の前方後円墳に連なる突出部をもつ墳墓で、円筒埴輪の原型である特殊器台を擁する「弥生墳丘墓」の代表的な遺跡として知られる。


当サイトが追い続ける岩石信仰の観点からは、墳丘上に長大な立石を複数並べた墳墓としても興味深い。そして、出土品のなかに「弧帯文石」と呼ばれる人工的造形を施した岩石があり、現在墳丘上に建つ楯築神社の神体石となっていることも、全国を見渡して類例のない特異な岩石信仰と言って良い。

このたび、楯築墳丘墓の第1回の発掘調査から関わった宇垣匡雅氏が、最新の研究状況を反映して発掘調査報告書を『楯築墳丘墓』(岡山大学文明動態学研究所・岡山大学考古学研究室 2021年)の題で刊行した。ありがたいことに、岡山大学の下記ページで全文がpdfファイルでリポジトリ化されている。

https://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/ja/63034

本記事では、本報告書のなかから岩石信仰・祭祀に関わる部分に絞って紹介していきたい。


文献上の初出


「楯築」の地名は、墳丘上に立ち並ぶ立石を「楯」に見立てたことにちなむと通説的に考えられている。

楯築の地名は、最古の記録として元和元年(1615年)の『中国兵乱記』という文献にその名が登場する。


そして、宝暦7年(1757年)の『備中集成志』に、詳しく「楯築」の語源が説明される。いわく、楯築大明神という神(楯築神社の祭神と同義だろう)が岩を盾にしたことが説かれ、墳丘墓の立石群が神の聖跡としてあつかわれたことを示す。

さらに、楯築大明神の「神体」は、異形の人形を彫った石であることも記される。これは、現在も神体石として残る通称「弧帯文石」のことを指すと考えられ、後述するとおり異形の顔が石肌に刻まれたものである。

これらの伝承が、当墳丘墓の弥生時代の岩石信仰と同一とみるべきかは別の話で、慎重にとりあつかったほうが良いことは間違いない。


墳丘上の立石群


楯築墳丘墓は西山丘陵(楯築山、王墓山、真宮山からなる自然丘陵)の尾根上にあるため、その尾根の高まりを墳丘の形に整形しつつ盛り土したものと考えられている。

現在、墳丘上には5体の立石が屹立、横転したものも含め存在するが、斜面に落ち込んだことがわかっている立石が1体あるため、おそらく墳丘築造時には6体の立石が立ち並んでいたと推定されている。

また、発掘調査によって墳丘上には、河川などの浸食で丸く磨かれた円礫を多量敷きつめた痕跡が検出されている。したがって、ただ立石があるだけでなく地表面も石敷きが広がっていた光景だったことがわかる。


立石の配置は、意図が読み取りにくい一種の複雑さまたはランダムさがあり、報告書上でも「立石の配置が何を意味するのかは調査時から多くの調査参加者が考えてきたが、解釈はむずかしいといわざるをえない」と吐露している。

いわゆるストーンサークルのような円環状とは評価しにくい。地山整形の墳丘墓でもあるため地山露出の自然石があることも、その解釈を難しくしている。ただ、立石自体は墳丘上の北東半にだけ配置されているという特徴を指摘できるらしい。


この意味を考える時に、発掘調査で重視された存在が、墳丘上で検出された「建物」跡(報告書上で建物1と記載の遺構)である。

埋葬施設とは別で墳丘上に柱をもって構築された建物であり、考え方によっては立石群はこの建物1を囲うように配された可能性も指摘できうるという。なお、報告書筆者の宇垣氏はこの建物1を「社殿」と考えており、これは当時墳墓上に神殿を設けたかという一大問題に発展する解釈だろう。

宇垣氏は、墳丘上に木柱を単体で立てた跡も見られることから、立石とは別に木柱もあったことを考慮して、木の柱と石の柱である立石が同様の機能を有した可能性にも触れている。

これは、立石遺構がのちに、古墳時代の奈良県桜井茶臼山古墳において墳丘上の埋葬施設をを方形に囲む「丸太垣」に変化したとみなすことから、石材と木材が置換可能であったと考える立場なのだろう。


なお、立石は墳丘完成後に立てられたわけではなく、遺構の検出位置の分析結果から、一部の立石は墳丘を構築する途中段階で設けられたことが判明している。


墳丘斜面の立石・列石群


楯築墳丘墓で注目されやすいのは墳丘上の立石群にならざるをえないが、実は墳丘の斜面部分にも立石や列石が存在する。そして、それは発掘調査時の発見だけでなく、現在も一部の立石が斜面に存している。

列石は墳丘を取り囲み、斜面をテラス上に段を形成している。そして列石の間には円礫を敷く。墳丘部の位置によって、列石は二重、または三重にも形成されていることがわかった。


吉備地域には、楯築墳丘墓以前に築かれた複数の墳丘墓遺跡があり、そこにはすでに一重の列石を擁するものも確認されている。

ただし、斜面に立石まで立てたのは先行する事例が見当たらないという。楯築墳丘墓はある程度系譜の中に位置付けられながらも、従来よりも極めて大型化された列石・立石遺構の墳丘墓だったと評価できるだろう。

宇垣氏は、これら二重、三重の列石と大型化した立石の意味を「遮蔽、死者の世界の明示」「列石から中が侵すべからざる範囲であった」という表現で解釈を施している。


楯築神社弧帯文石/白頂馬龍神石


墳丘上に建つ楯築神社には、先述のとおり「弧帯文石」と呼ばれる特異な岩石がまつられていた。

その名のとおり「弧」を描くような文様がほぼ石の全面に施されているが、一部、下書き線刻のみの部分もある。しかし、報告書によると線刻の成り立ちを詳しく検討した結果、これは施文が未完成であることを承知のうえで完成としているらしい。その抽象的なデザインも含めて解釈は難しい。

(弧帯文は特殊器台など、ほかの遺物でも採用される文様であり弧帯文石固有のデザインではない)


それに加えて、弧帯文石の特徴として顔の彫刻がある。顔の輪郭を浮き彫りで表現し、目と鼻が明らかに存在するが、後世にさらにそれを目立たせるために刻まれた線が重なり、原形がわからない部分もある。また、口の表現については線刻か剥離か判断しにくい。さらに、入れ墨と解釈される線も指摘されている。


弧帯文石は考古学の学術用語としての命名であり、歴史的文献のなかで忠実に呼称するなら、最古の呼称は『楯築神社縁起』という年代不明の文献に記された「白頂馬龍神石」となる事実も尊重したい。

江戸時代にはおそらく存在が再認識された岩石で、神体石として信仰されるようになった。ただ、19世紀中頃成立の『備中誌』の編者は、楯築神社における神体はこの弧帯文石ではなく墳丘上の立石だっただろうという主張もしており、江戸時代においてもいろいろな見方があっただろうことが想像される。


弧帯文石は、後述するがもう1個、類似の弧帯文石が墳丘地表下から出土している。したがって、神社神体石となっていたこの弧帯文石も楯築墳丘墓築造時に作られた岩石であったことは疑いないとされている。

しかし、報告書ではこの弧帯文石がもともと墳丘墓のどの位置に置かれていた存在かを突き止めるのは困難と結論付けている。
なぜなら、埋葬施設から墳丘頂面にかけて後世に掘り出した跡などの攪乱跡は検出されなかったからである。墳丘が一切後世に掘られていないと仮定するなら、弧帯文石は墳丘構築終了後に置かれた存在となるが不明である。


ちなみに、弧帯文石がまつられていた楯築神社の石室祠は、大正5年に構築されたものであることがわかっている。


もう一つの弧帯文石


楯築墳丘墓の埋葬施設は木槨・木棺で構築されているが、ちょうど被葬者の頭部と推測される棺の上の、円礫を敷き詰めた場所からもう一つの弧帯文石が出土した。

紅柱石質蝋石と呼ばれる石の種類で、元来は明るめの白色の石だったとされるが、見つかった弧帯文石には炭の小片が付着しており、火熱を受けているため石はもろくなっており、多数の破片となった状態で見つかった。

打撃で割ったのではなく、この場で焼かれ、結果的に破片状に割れたという祭祀行為が推測されている。

(報告書では、同種の岩石に木材で炊いた炎を当て続けた実験を行い、6時間後に岩石に縦横の亀裂が入って剥離し始めたと報告されている)


さて、弧帯文石が現状として2種類存在する理由は難解である。

どのような違いないし共通性があったのかは報告書でも検討されているが、その論点の一つは顔の線刻の有無にある。

この顔に似た線刻が、弥生時代後期後葉から末葉にかけて複数の遺跡で出土しているという。


ここからが想像の域だが、同系統の顔が広い地域に共通して見られる点と、体部を表現せず顔だけ表現した点から、宇垣氏は人面を模した顔ではなく、集団が共通して崇めた神の顔だと評価している。そして、神の顔を刻んだ楯築神社弧帯文石は「神の依代」だったという結論を記している。

そして楯築神社の神体となった弧帯文石と比べて、埋葬施設内から出土した弧帯文石は一回り小ぶりで、顔の線刻が見られないという違いがある。

報告書ではこの「可搬性」に着目し、葬送儀礼の中である程度柔軟に必要なときに使用され、最終的に破砕されたことを考え、「神社弧帯文石に準じる存在」で「一時的な依代」だったという説を提示する。


この点に関しては他の解釈もできそうで、賛否の分かれるところではないかと思う。私の所感を以下にまとめておく。

  1. 同じ顔なら神の顔、というところに論理の飛躍がある。逆に、文化的に共通する人々の顔として、複数の遺跡で同じような顔で彫刻されうるのではないかと考えることもできる。
  2. 体を表現しないことがなぜ神の表現と言えるのかも説明が不足気味である。
  3. 「依代」の用語を無批判的に用いた点を考えると、近年の祭祀考古学における依代批判研究を摂取した検討とはなっておらず、古墳時代依代が批判されている中で、弥生時代末の依代を論ずるには解決しないとならない壁がその前にあるように感じる。
  4. このあたりの解釈は宇垣氏自身も「叩き台」としてあくまでも想像の域としておられるが、そのためにも研究者の主観のみの記述では頼りなく、ここで極力同時代性のある文献資料や民族例からの援用が必要ではないかと思われた。


楯築墳丘墓の石材の産出地


楯築墳丘墓が造られた西山丘陵は、花崗閃緑岩・花崗岩から構成されている。

楯築墳丘墓に用いられた立石、列石、円礫などの石材は、この山から採れる石種だけではないことが調査で判明した。


たとえば墳丘上の立石6体のうち、5体は花崗閃緑岩で、1体は花崗岩である。

この両種は西山丘陵の地質で説明できるが、報告書によると西山丘陵は基盤岩の上に風化して砂状になったマサ土が分厚く覆っており、このような立石、列石が出土する地形にはないと指摘する。

(ただし、あくまでも現在残る景観を見てとの注釈つきだが)


そこで、板状の岩石が採れる場所に範囲を広げた結果、まず花崗閃緑岩の立石については楯築墳丘墓の南に位置する岩倉神社の巨岩群や、墳丘墓の西に位置する日差山東麓尾根の巨岩群から採取されたのではないかと推測された。

岩倉神社(岡山県倉敷市)

そして、花崗岩の採取地としては楯築墳丘墓の北に位置する砂川上流部の巨岩群に板状の岩石が多く、候補地として挙げられている。


これらの点から、楯築墳丘墓の造墓集団は石材を選択するときに、特定の一か所で採取することを条件にしておらず、板状の岩石を求めることが最優先事項に置かれたのではないかという仮説にいたる。

立石だけでなく列石や円礫についても、調査の結果、複数の採取地から構成され、しかも、石材の種類に偏りはなく用いられているという。

したがって、岩石の使用には一貫した築造計画があり、それは複数の集団がそれぞれの石材の産出地から運搬した理解が適切と宇垣氏はまとめている。


大柱遺構


最後に、岩石祭祀ではないが楯築墳丘墓祭祀の特徴を物語る遺構として、大柱遺構の存在を紹介しておきたい。


この遺構は、墳丘表面に大きな穴を開けて、埋葬施設を格納した穴である墓壙(墓坑)の一部に切り込む形で構築されている。墓壙に埋葬施設を入れてから埋め戻した後、墳丘最上部の盛り土をおこなう前に設置されたとのことである。

穴の深さは地表面から最大1.71mを計り、直径は平均して29㎝ということで、高さは不明ながら長大な木柱が立てられていたものと推測されている。


この大柱遺構は楯築墳丘墓特有の存在というわけではなく、ほかの弥生時代の墳墓にも見られ、宇垣氏によれば約20例の類例を挙げられるという。
(しかし、他の例は北部九州に偏り、九州以東では楯築墳丘墓が唯一の事例らしい)

大柱遺構の性格・機能として、報告書では3つの説が整理されている。


・A説「神の依代」「聖域の標章」

大柱遺構はすべての弥生時代の墳墓に設置されているわけではないため、墳墓祭祀に必ず行われた祭祀ではないことが付記されている。


・B説「測量機器の視準線」

福岡県糸島市の平原遺跡の大柱遺構例から、柱列と大柱の延長線上に峠が位置し、10月20日にその峠から朝日が昇る事象が確認できるという。


・C説「日時計」

上記平原遺跡例において、年間の節目となる日などを木柱の影で把握したという説。


以上3説のうち、宇垣氏は楯築墳丘墓においてはA説を支持している。

その根拠として、楯築墳丘墓の大柱が1本であり視準線としてどこを基準にしたかが不明である点や、列石や立石のほか大量の土器を置き並べた楯築墳丘墓においては大柱に近づいて観測装置に使うことは困難であった点を挙げている。

宇垣氏が弧帯文石を神の依代とみなしているのも傍証となるかもしれない。ただ、一つの墓に対する祭祀で二つの弧帯文石に加え、大柱も依代とするのは多数である。また、建物1が社殿ならそこにも神は宿ることになる。神宿る場所をそこまで一墳墓に必要としたのか、民族例や文献例での類例がないと、研究者の想像という批判には耐えられないだろう。


以上、最新の報告書をもとに楯築墳丘墓の岩石祭祀を中心に紹介したが、本遺跡は墳丘上に6体の立石、1本の大柱、2本の付属木柱、不明建物1棟を擁する、極めて複雑難解な遺跡であることに変わりはない。そこに、抽象性の高い弧帯文石が2個加わる。形而上の何かを論究するには、まだ早計な対象なのかもしれない。

発掘された事実をただ眼前に並べ、ほとんどのことは結論保留にすることを私は選択せざるをえなかった。


2021年3月28日

玉比咩神社の玉石と臥竜稲荷神社奥宮の岩壁(岡山県玉野市)


岡山県玉野市玉


玉比咩神社は臥龍山の山裾に位置し、境内の一角に巨大な立石があることで知られる。




かつてはここまで海岸が迫り、立石は海岸に屹立していたという伝えがあることからか、現在は池中に浮かぶ姿で整備されている。

立石をまつる立石神社も境内社として石祠が献ぜられているが、立石はもともと玉石と呼ばれ、中世以降に立石の名称が定着したと伝わる。

立石神社の石祠。参拝方向に玉石が来るように設えられている。

玉石には伝説がある。

ある夜、玉石から火の玉が3つ飛び出して、背後にそびえる臥龍山中腹、西大寺観音、牛窓の3ヶ所に落ち、玉石には火の玉が飛び出した時にできた円形の窪みが残るという。

玉が玉を生むという意味では、古墳時代の子持勾玉にも通ずる思想であり、石自体が霊性を発動するという点で、きわめて石神的な性格が濃い事例である。

また、臥龍山中腹、西大寺観音、牛窓の3ヶ所の神聖性を歴史的に担保する聖地としての側面もあるだろう。

火の玉が落ちた1つである臥龍山中腹には、現在、臥竜稲荷神社奥宮が鎮座している。

玉比咩神社背後の臥龍山

臥竜稲荷神社奥宮

岩壁に拠りつく社殿

かつてここに玉比咩神社の社殿があったという旧跡でもあるが、臥竜稲荷神社奥宮の背後には岩壁が露出しており、ただ意味なく山腹を選定したのではなく、岩石の露出する場所に社を構えたという意図も窺われる。

ただし、この岩壁に関する記録・伝承ははっきりしておらず、岩石信仰の資料としては現状、判断保留とせざるをえない。

向かいの大仙山にも無数の巨岩群が露出しているのが麓から確認でき、これらは特別視の領域と思われるが、地質的に岩盤への特別視や神聖視が起こりやすい地だったとも言える。

臥竜稲荷神社奥宮から大仙山を望む。


2021年3月14日

鬼ノ城の岩石祭祀と岩屋地区の「鬼の差し上げ岩」(岡山県総社市)


岡山県総社市 鬼ノ城一帯


鬼ノ城の岩石祭祀の側面

鬼ノ城(現地に一部復元)

鬼ノ城の城壁の一部

鬼ノ城は、史書には記録がない古代山城であるが、古代山城としての特徴を残す大規模な遺構が発掘調査によって明らかになっており、7世紀の後半に築かれたものと推定されている。

発掘調査報告書はオンライン公開されており、岡山県古代吉備文化財センター編『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告236 史跡鬼城山2』(岡山県教育委員会 2013年)に詳しい。

報告書中では、鬼城山の自然の露岩群を「磐座」と類推して調査を行った地点(報告書ではⅤ-Ⅰの名称)があり、また、近くからは平安時代以降と思われる集石遺構が検出されている。

現地では自然石が点在するものの目立った遺構は認められなかったが、山頂から15mほど南東に高さ1mほどの花崗岩の露頭があり、磐座の存在を感じさせた。現地では、調査前から平安時代の土師器片を表採することができ、当該期の遺構の存在が予測できた。(同報告書p.131より)

この露岩群は鬼ノ城の北門近くの一峰上(標高374m)であり、調査結果では断定的ではないものの、何らかの宗教的な活動の痕跡ではないかという結論に至っている。

これらの宗教活動は、古代山城としての機能が廃絶された後、奈良時代以降に山城跡を利用して山岳寺院が築かれ、以降、中近世にかけても近隣の新山寺・岩屋寺と関連した霊場空間として存続していた可能性が指摘されている。

鬼ノ城内には石祠状の石積が見られ、後世的な祭祀施設とみられる。

鬼城山の一露岩に彫られた摩崖仏

山中は岩盤が露出しやすい地質と言える。


岩屋地区の「鬼の差し上げ岩」



岡山県総社市奥坂


鬼ノ城から北西へ1km地点に「岩屋」と呼ばれる一帯があり、その地名の由来となったと思われる岩屋状の構造物が存在する。







これは「鬼の差し上げ岩」として全国的にも有名な巨石である。

当地の伝説的な鬼である温羅が棲んでいたと伝えられる場所であるが、歴史的には当地にかつてあった岩屋寺の行場として位置づけられている。

岩屋寺は、鬼城山よりもさらに奥まった山中に位置し、現在の岩屋集落の周辺に広がる寺院跡である。現存する毘沙門堂のそばにある「鬼の差し上げ岩」をはじめ、周辺の山林内には巨石が点在し、磐座祭祀の痕跡もうかがえる。(同報告書p.170より)

それを「磐座」という神道的な概念で呼んでしまっていいかには批判の余地もあるが、岩屋地区には考古学的な発掘調査の手が及んでいないようで、目立った遺物の発見もないと報告されている。

鬼城山に目を転じれば縄文時代・弥生時代の遺物もわずかながら見つかっていることから、当山塊一帯に人足の立ち入りがあったことは疑いないところだが、仏教霊場以前のいわゆる宗教性の有無については不明である。もちろん、古代山城における祭祀的側面も否定するものではない。

岩屋の奥には鯉岩・八畳岩・屏風岩・汐差岩・方位岩などが存在。

岩屋寺の地神碑


2021年3月9日

番田の立石・鉾立岩(岡山県玉野市)


岡山県玉野市番田


瀬戸内海沿岸、児島半島の八丈岩山(標高281m)の南腹支峰を立石山と呼び、山上に名前のとおり巨大な立石が屹立する。鉾立岩、または地名をとって番田の立石と呼ばれている。




麓や海岸からもよく見えるため、船人たちの海上交通の目印、いわゆるランドマークになったとされるが、確たる文献記録には欠けるようだ。初出もはっきりとしない。

ましてや、この立岩が古代に石神であったとか祭祀遺跡であったとみる向きは、巨石の大きさと形状に希望的観測を寄せる主観と推測の域を出ない。

現在、鉾立岩にいたる正式な登山道は廃絶したらしいが、戦前までは立石の裾に神祠をまつっていたという。

また、八木敏乗氏『岡山の祭祀遺跡』(日本文教出版、1990年)によると、巨石の一部には鑿が入れられた跡も確認できると記されている。

これが祭祀設備の一部か、石採り跡かなどは直接現地を見ていないのでわからない。


参考リンク
「立石 玉野市番田(岡山の山と三角点)」http://skz-ym.sakura.ne.jp/sankaku/ntrtamanotateisi.html(2021年3月9日閲覧)

2021年3月1日

石畳神社(岡山県総社市)


岡山県総社市秦

『延喜式』神名帳記載の「備中国下道郡 石畳神社」に比定されている。

現在は高梁川沿いに屹立する高さ約55mの岩峰をまつる神社であり、方形状の岩石が塔のように集積する様子を、石畳と称するに至ったものと思われる。






人為的に積み重ねたのではなく自然の産物であるが、上部は崩落防止のため補強跡が見られる。

岩自体が神なのか、神が宿る体のようなもの、はたまた神殿代わりなのかなど、判断するための資料が欠ける。万葉集に当社の「石畳」を指したといわれる歌もあるが、確定ではない。秦の地名から当社の祭祀を秦氏との関連で問う声もあるが、これもわからない。

現地看板やものの本、インターネットには神体・御室・霊代・磐座・石神といった表現が見られ、あたかも石の言葉の博覧会状態の如く氾濫しているが、いずれも近代以降に使用されはじめた用語を繰り返しているものであり、管見の限り古記録に明記されているものではない。

地名としてはほかに、当地の字(あざ)が「石村」であり、当社の山を石畳山や茶臼嶽と呼んだという。
「村=群れ」にしても「畳」にしても、岩石の垂直的な集合体である岩峰をこのように表しているのは興味深いが、事物でたとえる以上の神聖視は読み取れない。

聖なる岩石であることは疑いないが、延喜式当時はおろか、近世以前の岩石と神の関係性にも不明点は多いと言わざるを得ないだろう。


2021年2月21日

真宮神社の列石群(岡山県倉敷市)


岡山県倉敷市西尾


弥生墳丘墓~古墳時代の群集墳が分布する王墓山丘陵の南端に、真宮神社が鎮座する。
真宮は「しんみや」「まみや」両方の読み方が併存しているらしい。

社殿の周囲を51個の岩石が囲み、やや南北に広がる楕円の形に巡っている。





さながら環状列石内に佇む神社という表現がふさわしい。

社殿は南面しており、社殿の参道入口にあたる南側だけは、参道の石段が築かれているため列石は巡っていない。

石段が作られる前に、南側にも列石があったのかどうかは分からない。

この列石群は楕円状ながらも密に環状の配石を示し、人為的な遺構であることは疑いないが、その歴史的評価となると、解釈が難しい存在と言わざるを得ない。

周囲には真宮古墳群をはじめ王墓山の諸墳墓群が築かれているが、それをもって弥生時代の遺構と同列に扱うのは短絡的で、古墳・神社・列石のそれぞれの先後関係がわかっているわけではない。

真宮古墳群

横穴式石室の露頭の一部とされる。

慎重に述べるなら、神社と古墳と列石を安易にリンクすることは後回しにして、それぞれ別時期に造られた可能性を視野に、批判的検討がなされるべきだろう。

たとえば、神社の前身となる祭祀場がこの環状列石であり、その周りに古墳を造成したという解釈は恣意的である。

同様に、これら配石が元は古墳石材であり、墓域としての利用が終了したのち神社を創建し、その際に一種の玉垣として石材を再利用したという解釈も、対極的な意味で恣意的である。

いずれにしても、相対年代的な推定が許される資料が見つからないことには、アンタッチャブルな岩石案件として居続けるしかないだろう。

現状の景観としては、自然石をもって環状に区画した神社の玉垣事例として位置づけられる。「磐境」事例として呼ぶ向きもあるかもしれない。

この種の類例としては、他に滋賀県犬上郡多賀町の調宮神社、滋賀県東近江市の船岡山、徳島県三好郡東みよし町の金丸八幡神社など、数えるほどしか確認しておらず、珍しい資料と言える。

また、神社を抜きにしても、吉備地域には吉備津彦神社境内の五色島上「環状列石」、吉備の中山にかつてあったという11個の環状列石「内宮石」(現存せず)、吉備中央町(旧賀陽町)湯山の環状列石群など、時期と規模の大小の差はあるが、環状に岩石を並べる地域性のようなものが浮かび上がらなくはない。
それを「弧状」とまで言うと楯築遺跡の弧帯文石と絡めてしまいそうで、また恣意的の謗りを受けそうなのでこれまでにしておく。


境内にある石祠。下の岩石は「蛇頭岩」の名もあるらしいが、呼称の初出時期は不明。


2021年2月7日

岩倉神社(岡山県倉敷市)


岡山県倉敷市日畑

足守川西岸、水田が広がる一帯のなか、丘状に盛り上がる森の中にここだけ巨岩が群集している。









1つ1つが巨大で、全体としてよく磨耗された丸っこい形状のものが多いが、スパッと割れた鋭角的な断面を持つものも所々で目立つ。

岩倉神社の北西には間宮神社から王墓山遺跡群(王墓の丘史跡公園)、楯築遺跡にいたる弥生墳丘墓の一群があり、足守川を挟んだ東岸には吉備の中山が近い。

岩倉神社の南に隣接した微高地上には、弥生時代の集落跡が検出された岩倉遺跡も存在する。

王墓山丘陵の南まではかつて内海が入り込んでいたと考えられ、岩倉神社の森は河口や岬に該当するような立地ではなかったかと推測されている。
社伝では、吉備津彦命のために船に積んでいた稲をここで下ろして献上したことから、この地を稲倉と呼び、それが岩倉に転訛したといわれているが、さすがに当地の岩倉の語源は、境内に群がる巨石を磐座に見立てて呼んだものと考えるのが妥当だろう。

巨岩群の成因については、かつて岬の岩礁だった頃の名残と見る説や、周囲の耕地開拓に伴い不要の岩石をここに集積したものが後世神聖視されたと見る説がある。

八木敏乗氏は『岡山の祭祀遺跡』(1990年)の中で以下のとおり言及している。

隣辺耕地造成に不用とされた周辺の巨石をここまで搬送集積した模様が察知される。その数、数十個におよび巨大な石が、累々と積み上げられ、水田地盤線より高さ10メートルばかり、土石をもって丘状に積み、築土の頂に盤状巨石を据え付け神石とした状況が、現地の状態などからして推考される。

もともとは稲作のために開拓されたときの土石の集積が、後世その経緯を見ずに生まれた世代からすると「偉観」となり、神聖視の対象に転じたという歴史的な重層性が考慮されている。

全国各地の平野部における巨石群集の類例を考える時にも、参考に資する考え方になるだろう。


参考文献


追記

コメント欄にて、滝おやじさんから「花崗岩類の地中風化によるコアストーン群が地表に露出し、その後に地震震動による破断を受けたもの」の説をいただきました。滝おやじさんは巨石を含めた地形観察の専門家であり、傾聴に値します。詳しくはコメント欄にてご覧ください。

2021年1月31日

阿智神社の岩群(岡山県倉敷市)


岡山県倉敷市本町


漢王朝の末裔を自称し、朝鮮に逃れていたとされる阿知使主(あちのおみ)は、17県の郎党を引き連れて来朝し、東漢氏として帰化したと『日本書紀』応神天皇条にある。

阿智神社の社伝によれば、このとき東漢氏の一部が当地に到来し、日本列島の磐座・磐境の祭祀形態に基づきながら、大陸由来の神仙蓬莱思想や陰陽思想を取り入れて配置・構築したという。
その跡とされる岩群が阿智神社境内に現存しており、原始庭園の通称や日本庭園の祖型と呼ぶ人もいる。

羽石(鶴石組)と阿智神社社殿

亀石組。左が亀頭石、右が亀甲石。

天照皇大神をまつる祠の後ろに「磐座」と名付けられた岩石がまつられる。

上写真の「磐座」の近景。玉垣の奥(外と言うべきか)に位置する。

「磐境」と名付けられた岩群。帯状とも蛇行状とも形容される。

本殿北斜面の玉垣外にはこのような大小の岩石が群在している。

現地看板。岩石の配置平面図が掲載されており全体把握の参考に。

写真で見る限りは、これらすべてが人為の設置か自然の営為かを見極めるのは難しいところがあるが、庭園研究者の見立てでは以下の指摘がなされている(重森三玲氏・重森完途氏『日本庭園史大系第31巻』社会思想社 1975年や、河原武敏氏の文責による現地看板など)。

  • 鶴・亀を模した岩石の配置
  • 斜面上に大小の岩石を列状に並べた枯滝
  • 陰陽石の配置


このような特徴を持つ岩群であるが、人工的な設置、そしてさらにそれが真に庭園の源流にあたる設計が意図的になされたものかは十分に検討されたとは言いにくい。斜面上の枯滝などは、枯山水の思想で考えれば古代ではなく中世以降の影響も考えられる。東漢氏がこの地に渡来して手掛けたかも半ば伝承上の話となっており、そこを根拠にすることも慎みたい。


八木敏乗氏は『岡山の祭祀遺跡』(日本文教出版 1990年)において阿智神社を取り上げ、この岩群の形成についてさらに突っ込んだ推測をおこなっている。

いわく、本殿向かって左にある現在「羽石」「鶴石」「亀石」と呼ばれている岩群のあたりは人工的に動かされたもので、それに対して本殿の右にある現在「磐座」「磐境」と呼ばれている岩群と、本殿右後背と左後背に広がる岩石群は原初の状態のままを残した自然石であろうと、岩群によって人為のものと自然のものがあった可能性を示している。

そして、本殿左の鶴亀石の一群についても、その人為設置の理由について、

  • 社殿構築のために丘の頂上を整地した際、頂上にあった岩石を移したもの
  • または、整地掘削の際に起こし出された岩石を、庭園石組の法則に準拠して配置したもの

と二通りの説を併記している。
このように、阿智神社のすべての岩群をすべて同時期同成因による庭園と一括することは避け、自然石の景観、社殿祭祀、社殿以前の岩石信仰の可能性、庭園施設への活用といった複数の文脈が輻輳したうえで現状の景観があることに気をつけたい。

ただいずれにせよ、現在、神社にとっては当地を開拓した祖先が構築した神跡として神聖視されていることは間違いない。

八意思兼神をまつる境内石祠とその背後の注連縄が巻かれた岩塊