こだま石と読む。
中山道の落合宿と馬籠宿をつなぐ道中に「谺石」の看板が目に入った。
正確には旧中山道沿いではなく、現在は車道として拡幅されたつづら折りの坂にある。
あまり情報が入ってこない岩石だが、すぐ近くに小規模ながら「こだま石公園」があり、webサイト「中山道(木曽街道)六十九次・ひとり旅」によれば、かつては看板に「石に向かって叫んで下さい」と書かれていたらしい。
音が反響する岩石としてのこだま石一例に数えてよいだろう。
こだま石と読む。
中山道の落合宿と馬籠宿をつなぐ道中に「谺石」の看板が目に入った。
正確には旧中山道沿いではなく、現在は車道として拡幅されたつづら折りの坂にある。
あまり情報が入ってこない岩石だが、すぐ近くに小規模ながら「こだま石公園」があり、webサイト「中山道(木曽街道)六十九次・ひとり旅」によれば、かつては看板に「石に向かって叫んで下さい」と書かれていたらしい。
音が反響する岩石としてのこだま石一例に数えてよいだろう。
笠置山 恵那郡中野方村の東南に峙ち、中野方、蛭川、笠置の三村に跨っている。古くは山の形をとって舟伏山と呼んでいた。海抜一一二七、九米。頂上あたり全山熊笹でおほはれ、山頂には鬱々たる太古さながらの巨木を存して居り、又奇岩怪石の賞すべきが少くない、曰く物見岩、百丈岩、潜り岩等『濃飛の誇り』上卷,岐阜日日新聞社,[1931]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1900931 (参照 2026-10-10)
| 笠置山(江戸時代までは舟伏山が主流) |
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| 物見岩 |
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| 百丈岩/百畳岩 |
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| 潜り岩/くぐり岩 |
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| 富士見岩 |
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| 山頂の笠置神社奥社の背後斜面 |
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| 一時期、ペトログラフ探しが過熱していた頃、山中の岩石にペトログラフの存在が報告された。その名残を示す看板。 |
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| 「NO.6 水を我らにと祈る」。実際にこれらが人為的線刻であるかは後世の批判的検討を待ちたい。 |
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| 現地看板 |
明治初期頃には杉や桧などの樹林であった。その後、山林が伐採され、ようやく人目をひくようになった。以来、万物出生の源といわれ、縁結びの神としてあがめられるようになったのである。林久統 著『滅びゆく性神と秘仏を訪ねて』伊豆編,大孝弥栄会,1972. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12169060 (参照 2026-10-04)
川ばたにあるので、たびかさなる洪水のために、この女夫岩は大正時代まではすっかり泥砂に埋まっていたものを掘り出したのである。柳沢清士 著『信濃交通史研究 : 柳沢清士遺稿集』,柳沢二葉,1988.11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13269864 (参照 2026-10-04)
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| 包丁塚の看板 |
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| 鮒岩 |
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| 山の外から撮影 |
丸山(かつては甲山とも呼ばれた)という比高30mほどの独立丘の南面にある巨岩。全長7m、高さ5m、推定重量200tの規模を持つ巨岩が、山肌の露岩の上にゴロンと載る。現在は市指定天然記念物となっている。
鮒岩の傍らに丸山神社が鎮座する。江戸時代、水野某という藩士が白山神社の名で勧請し、後に山名を採り丸山神社に改称されたことがわかっている(東山道彦『恵那山をめぐる歴史と伝説』岐阜郷土出版社 1988年)。
神社と鮒岩の直接的な関係は明らかでなく、現地解説板によれば、新田淳『苗木村明細記』(明治16年)という文献に「丸山の内石に立ちたる大岩鮒の浮きたる形にしてまことに奇石なるべし」との評が記される以外、鮒岩に付帯する伝承や古記録が存在していない。
苗木城下の街道沿いに位置するため、城下町が形成された折からよく知られた存在だったことは想像に難くない。苗木城自体が巨石群からなる丘陵だったため、奇岩怪石溢れる当地でどの程度の存在感を放ったのかは想像しにくいところである。
長年の風化・浸食によって巨大な花崗岩に大きな亀裂の空間ができ、そこから真上を見上げると日中でも北極星を仰ぐことができることから「星ヶ見岩」の名前が付いたという。
星ヶ見岩以外にも全山に奇岩怪石が露出しており、目立つ岩石に対しては名前が付けられている。現在は遊歩道や案内板なども設置され、星ヶ見公園として整備されている。
江戸時代には「星ヶ宮」としてまつられ、星ヶ見岩の内部空間にまつられた妙見大菩薩には嘉永3年(1850年)の記銘が残る。星見の場所であり、妙見(北極星)信仰の場所であったことを今に伝える。
ただ、江戸時代に「星ヶ宮」と記した出典(地図?)が不詳であるのと、それより前の歴史記録の有無については確認できていない。
岩石信仰と天文の関係事例として近世の確かな歴史の残る好資料であり、さらなる研究の進展が待ち望まれる。
なお、星ヶ見公園の周囲には「ひょうたん池」と「神谷池」があり岩山の風景とあいまって美観をなすが、この2つの池は人工的につくられたため池であり、元来の景観と異なることに注意が必要である。
| ひょうたん池から望む星ヶ見公園 |
| 星ヶ見公園の巨岩群(写真中央が星ヶ見岩) |
| 星ヶ見岩には「北辰門」の字が刻まれる。 |
| 星ヶ見岩の亀裂入口 |
| 亀裂内の空間は妙見大菩薩の霊場を擁する。 |
| 内部空間から見上げた上空 |
| 星ヶ見岩と妙見大菩薩の位置関係 |
| 大小の二艘がある舟形の岩石を舟岩と呼ぶ。こちらは舟岩(小) |
| 舟岩(大)。全長約9m。 |
| お化け傘岩/お化けきのこ岩。逆三角形の形状を持ち、その異形から命名された。高さ5m。 |
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| 岩屋内に日光が差し込む時期と差し込まない時期があり、光が当たる底面の岩石の光の当たり方と形状から二至二分の時期を知ることができるという。 |
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| 2条の線刻とその上部に3つの横並びの窪みがあり、夏至になると窪みや線刻に日光が当たるという。 |
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| 春分・秋分に、写真のE岩とF岩の隙間へ太陽が沈む様子が観察できるという。 |
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| 上写真の岩石群の隙間に、冬至を中間とした120日間日光が差し込むという。 |
市井では,縄文時代に巨石を使って天体運行の観測などを行っていたという天体観測装置説が根付きつつあるので付言しておきたい。代表的な事例として岐阜県岩屋岩蔭遺跡(金山巨石群)が挙げられ,巨石の輪郭,隙間,重なり合い,岩肌の窪みなどを利用することで二至二分の時期や一年・閏年の周期,北極星や北斗七星の動きを知ることができるという(小林,2011)。
岩屋岩蔭遺跡は縄文時代早期と弥生時代の土器・石器,江戸時代の古銭が出土した県指定史跡だが,天体運行を観測できたという独自研究は史跡の評価とは別である。巨石を利用してさまざまな天体観測ができることは,実際に実験がなされているので間違いないがそこは問題ではない。本当の問題は,これが過去の人々によって意図的に編み出されたものなのか,それとも自然の景観が作り出した偶然の産物なのかというところにある。
すでに金山巨石群に対しては,地質学の立場から地滑りで巨石が動いて群集した自然現象という評価がある(宮下,ウェブサイト)。巨石群における観測の実態についても,夏至や春分を観測するのが1か所ではなく複数の地点に分散し,その観測の方法も日光の差し込みだったり岩石のどの位置に太陽が来ているかだったり,巨石の積み重ねを装置にしたと思えば巨石に「線刻・刻印」 を穿つ方法になったりと,統一感のある設計規格は見られず雑然としている。
考古学において天体観測の研究自体は現在まったく否定的ではなく,弥生・古墳時代では北條芳隆が考古天文学の立場で複数の遺跡の天体運行現象を論じている(北條,2017)。縄文時代でも,青森県三内丸山遺跡などで天体観測を意識したと推定される遺構が存在しており,人工的な遺構であれば当該期の天体への意識や観測を否定する立場ではない。
逆言するならば,岩石においては人工的な設置・加工の痕跡を証明できて初めて肯定的評価がなされるべきであり,自然のままの位置のみで天体や暦の観測ができるというのは証明にならない。それは,人が事物に対して無限大に意味付けすることを示すロールシャッハテストを持ち出すまでもないだろう。この点において,研究者自らの意味付けが恣意的でないかということに自己批判が必要なのであるが,いわゆる自然石を縄文時代の天体観測装置として取り上げる諸文献からはその自己批判を行った部分が読み取れない。このような現状に対して,地質学分野が岩石の自然・人為を科学的に判断していく意義は大であり,考古学や地質学がこれらの「縄文」歴史観の批判的検討を協業することで一般社会における歴史認識の醸成にも寄与できるものと提言したい。・小林由来(2011):暦学。渡辺豊和[編著]『イワクラハンドブック』,312-321,イワクラ(磐座)学会,大阪。・宮下 敦(ウェブサイト):岩屋岩蔭遺跡。http://earthprobe.blue.coocan.jp/megalith/iwaya.html[2022年8月14日閲覧]・北條芳隆(2017):『古墳の方位と太陽』。280ページ,同成社,東京。[引用元]吉川宗明「岩石信仰研究の視点」『変動帯の文化地質学』(京都大学学術出版会 2024年)
なお、金山巨石群の天文観測説を追究するため、遺跡指定されている地中を届出なしで掘ってしまった事案があるのはいただけない。無許可の発掘調査がなぜ推奨されないか、文化財保存とは何かという理念を学んでいないことがわかる一幕である。同好の方は厳に慎んでいただきたい。
岐阜新聞のコラムを読めて感謝ですが、5月28日付の内容に、金山巨石群の地中を半年かけて掘り出したと書いてあるのはいただけません。
— 吉川宗明(よしかわ むねあき) (@megalithmury) June 1, 2023
全編を通して感じるのは、考古学者の不在。文化財を守る、歴史をどう扱うかの問題はここにも根深く横たわる。
金山巨石群 岐阜新聞コラム https://t.co/0vCgTrg9j9
金山巨石群は天文考古学の代表的な事例として長年知られてきたが、近年では愛媛県松山市の海岸沿いにある「白石の鼻」を縄文時代の人為的な天体観測装置とする説も盛んである。最近、統計学的視点からこれを「0.55%の奇跡」と呼ぶ記事が公開された。
Kimono club氏によるnote記事「0.55%の奇跡|愛媛・白石の鼻巨石群は古代の天文台か?」がそれで、岩石にできた貫通孔(太陽の光を通す穴)が特定の天文現象の方向を向く確率は1/180(0.55%)である、と統計学の大学教員としての立場から述べている。
この記事は、白石の鼻で継続的に天体観測活動を継続されている松山・白石の鼻巨石群振興会のホームページにも「オススメ記事」として紹介されており、天文考古学と遺跡を語るうえでも最新の言説と言える。
ここで述べられた統計的確率について私には疑義がある。天文考古学的な議論において批判的な見解が言語化されることは少ないと見受けるので、ここでまとめておきたい。
前提条件として、1個の岩石の1か所の貫通孔で計算するから1/180というだけであって、本来の母集団は全国に存在するすべての岩石の貫通孔・隙間を加算しなければいけないのではないか。
1つの岩石において1つの貫通孔しかなくて1/180の確率でも、全国に広げれば岩石の貫通孔をもつ場所は増加していき、全国のどこかでその現象が偶然ヒットする確率は当然上がる。単純に貫通孔の事例が全国規模で180か所を超えて確認されれば、そのうちの1か所は任意の方角を指し示していてもおかしくない。
偶然か人為かを判断するのであるから、日本の地質活動において偶然に出現しうるのかという視点で分析しないとならない。ならば、特定の1か所で確率を示すことなく、日本列島という地質全体を母数に置いて論じられなければならないだろう。
次に、特定の方位を向くのを1/180と設定しているが、分子の置き方に疑義がある。
天文考古学では、夏至・冬至・春分・秋分の二至二分の日の出・日の入の方向が注目されることが多い。この場合の直線で言うと「東西線」「真北から60度のライン」「真北から120度のライン」の少なくとも3本に意味が持たせられている。
どれかに一致すれば天文考古学的に評価されるのが実情なので、分子は3/180 = 1/60に上がると言って良い(二至二分以外にも意味を持たせるならさらに分子は増えて偶然一致確率は上がる)。
分母も正確なところでは180とは言えない。
これはKimono club氏も言及しており、実際は方位角(平面)だけでなく立体角(垂直側)の光の差し込みも考慮に入れなければならない。立体角をかけ合わせればさらに分母はふくらむことになる。
同氏はその計算結果を示していないが、私も専門ではないのでここはGemini(AI)に聞いて参考とするにとどめたい。Gemini回答によれば、球面幾何学の積分公式で立体角の計算を行った上で現実の大気差と太陽の視直径による補正を加えると、1/10615となるらしい。
ここに、二至二分で意味を持たせられる3本の直線の存在を分子に置くと、3/10615 ≒ 約1/3538となる。おそらくこれくらいが、本当のところの「貫通孔がたまたま二至二分で意味のある方向を向く確率」だろう。
なお、金山巨石群では貫通孔以外にも岩石の窪みやでっぱりなどの輪郭や配置状態にまで意味を持たせているため、偶然一致確率がさらに上がることは言うまでもない。
1/3538とは、全国に散らばる自然でできた岩石の貫通孔のうち、平均して3538個に1個は二至二分の意味のある方向を向いていておかしくないという確率である。
仮に、そのような貫通孔の事例が日本で100個ほど見つかる場合、日本列島における貫通孔の総数が353800個以上あるとわかれば「当然の現象(=偶然)」であり、その数より少なければ「偶然とは言えない現象(=人為?)」と言える。
(1/3538の確率、貫通孔事例100個、353800個の数値はすべて仮定の話である。独り歩きしないように釘を刺しておく)
つまり、母集団となる日本列島の貫通孔総数がある程度の範囲で数値化できない限り、目の前で見つかった貫通孔が偶然を超えた存在かどうかを評価することはできないのである。この点において、前掲記事に冠せられた「奇跡」の見出しは主観的な勇み足が過ぎる。
もし、その貫通孔の人為的設置や加工の明確な根拠を提示できないまま統計的な見地から論じたいのであれば、単に意味ある貫通孔の実数を報告するのではなく、日本全国にあるすべての貫通孔の総数(母集団)も報告しなければならない。
貫通孔の母集団はいかほどの数に上るのだろうか。高山険所の多い日本で1つ1つ実地を巡って悉皆調査することは不可能だが、想像もつかないほどの途方もない量に上ることは容易に想像できる。
たとえば、こういう谷間沿いに集積した岩海と呼ばれるような地形1つとっても、いくつもの貫通孔が潜んでいる。
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| 岩石が重なるだけで、光の差し込む貫通孔は容易に生まれる(奈良県奈良市岩戸谷) |
| 岩海に形成された岩屋では、このように複数の間から光が差し込む(岐阜県瑞浪市関の岩屋) |
| 上写真の岩石1個だけで、地表と岩石の隙間に3つの貫通孔が生まれている(静岡県浜松市舘山寺) |
これらの岩石地形それぞれに貫通孔の存在が想定される。日本列島の代表的地質である花崗岩地帯では、数mおきに格子状の節理(割れ目)が発生し、そのたびに貫通孔の生まれる余地がある。先ほど例示したように、1か所の岩石でも複数の貫通孔が形成されている。
現に、ここでもあそこでも光が差し込む岩が見つかったという報告を目にするが、たくさん見つかるのは母集団が巨大であるために起きる偶然説の補強にすら思える。
いずれにしても、意味のある方向を向く貫通孔の事例を見つけていくという分子のほうだけ追いかけていても、分母の検討がつけられない限り統計的に論じることはできないだろう。
他に検討しないといけない観点もある。変動帯に属する日本列島において地質活動による岩石の位置変化がなかったという前提に立ち、現在の配置で天文現象の調査をしていることの危うさである。
現在、意味のある方向の光がピンポイントな立体角で入っている場所があって、それが縄文時代の産物だったとしよう。それは活発な地質活動を続けてきた日本列島で数千年もの間、安定的にいられ続けて、縄文時代の時と寸分たがわずその岩石の配置状態のまま来たのかという疑義がある。
岩がわずか1度傾いただけで、その天文観測装置が正確であればあるほど機能不全となる。現在の配置で人為説を立証する場合は、その場所では地質変動がなかったこと、あるいは激しい地質活動の中でも1度の狂いもなく現代まで維持できるのだという岩石構造の安定性を論じる必要もあるだろう。
また、なぜ人為説立証の本家本流のアプローチである「岩石の人為性」の方向で追究しようとしないのかが不思議である。
前掲のKimono club氏の記事では、白石の鼻がかつて陸上にあったという地質情報を紹介しているが、ならば、この巨石群が花崗岩の「玉ねぎ状風化」による自然成因によるものであるという地質情報も公平に紹介すべきである。
同じ地質情報に依拠するなら、都合の良い情報だけを抜き出し、都合の悪い情報に触れないのは科学的な姿勢ではない。そして同じく地質学的な学知に基づいて、白石の鼻は地質学的には説明できないことを論ずればよい。
そして陸上における遺構として評価するのであれば、現地の海底において縄文時代の考古学的物証をつかむか、巨石を加工・運搬した際に岩石側あるいは地層面側にできるであろう痕跡をつかむかを、これは「ある/ない」の「ある」側に立つ人為説側が立証するしかない。
以上、最新のホットな話題である白石の鼻を例に天文考古学の問題を取り上げたが、「0.55%の奇跡」というセンセーショナルな見出しに乗りかかることなく、科学の俎上に乗せるならまず自らに執拗と言えるほどの批判的精神を宿し、否定に否定を重ねても否定しきれないものがあるのかを冷静に見つめることが望まれる。
久居八幡宮に「石体」(せきたい)があるというので訪れた。
神社由緒書や神社ホームページで明記される石体は次の三体である。
鹿島大神(石体)
祭神 武甕槌命
茨城県・鹿島神宮と同じく、勝負、武運、地震除けの神様である。
| 鹿島大神(表面) |
| 鹿島大神(裏面) |
庚申さま(石体)
江戸時代から境内にお祀りされ、庚申の日にお参りすれば延命長寿の御利益があると伝えられている。
| 庚申さま |
山神さま(石体)
もともと村々の入り口にあったが、明治時代に神社に集められた。昔から子供達の守り神と言われている。
| 山神さま |
すなわち自然石を以て神をまつった事象を石体と称したものであり、ことに後二者は石造物の括りで語られる存在である。
石体は中世以降の神社神道や修験道において「石製依代」(山本2025)として位置づけられた存在であり、当社における石体も、いわゆる「石の御神体」としての意をもつものと思われる。
鹿島大神は人の背丈を超える立石であり、一見して自然石の形を活かした石碑然の佇まいだが、石肌には何も刻まれていない。
杯状穴は複数穿たれていることから、杯状穴文化が盛んだった頃から親しまれてきた岩石にちかいないが、いつごろ設置されたのだろうか。
久居八幡宮は、藤堂家が久居に城下町をつくるにあたって、南西約1㎞離れた小戸木村(旧鹿嶋村)の八幡宮を遷座して整備されたものと由緒を伝えている。旧鹿嶋村ということで鹿島信仰との関連もここから窺われる。
鹿島大神で地震除けの岩石信仰と言えば要石が想起される。当社の岩石は要石とは呼ばれていないが、たとえば宮城県加美郡加美町の鹿島神社では昭和48年に新しい要石を奉納したという話もあるように、鹿島信仰が先にあり、後から具現として岩石をまつったケースがある。
参考文献
神社縁起によれば、この神社はもと志摩伊雑宮から勧請し移されたもので、御神体は大石である。この大石はこの地に勧請された夜、突然一夜にして神社社頭に出現したもので、これは仙鶴の化身であると信じられた。仙鶴は勧請と同時に稲一株をくわえてこの地にとび来たったまな鶴で、里人は稲作を伝えた神として信仰してきた。今もこの大石は懸税(かけちから)の御霊石といい、瑞垣の内、社のうしろにあり、地上高さ約一・九メートル、長さ五・四メートル、短かいところで一・八メートルに及ぶ独立した花崗岩である。昭和の初め頃、この霊石の地深くから中世の神杯、竹へらなど土器が出土した。岡田文雄 著『久居市史』上巻,久居市総務課,1972. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9540485 (参照 2026-07-26)
稲葉神社は『延喜式』神明帳に「伊勢国一志郡 稲葉神社二座」として記録され、二座を一社にまつったことがわかる。地元では左殿を伊佐波登美大明神、右殿を穂落大明神と呼んでいる。
一夜にして岩石が出現する類型説話をもつが、細かく見ると、社の勧請が先であり、その夜に後から岩石が出現したという流れになっているのが他例とは異なる特徴と思う。
懸税は稲の供え物のことで、仙鶴がくわえた稲に由来しての「懸税の御霊石」の名称だろう。稲作を伝えた神は地域の開拓神としての神格に通じ、神社鎮座地を稲葉山と呼ぶ地名もここから来ているとみて良い。
鶴は空から降臨する神のかたちを偲ばせるが、岩石の佇まいは地盤に根を張って、地表に岩盤の顔だけを出すかのような地霊の趣も見せる。
稲葉山の段丘は堆積岩の岩相だが、西方には花崗岩を含めた火成岩が広がり、その一部が当地に岩頭として残ったものと思われる。
「中世の神杯、竹へらなど土器」の記述については、竹へらが土器につながらず実態が掴みにくい。
昭和の逸話には正確な記録が伴わないケースが多いが、一応、神社一帯では中世の土師器が見つかった稲葉山遺跡と弥生時代の石器が見つかった稲葉垣内遺跡が確認でき、このうちの前者が前掲書の記述に相当するのではないかと考えられる。
両遺跡とも当地における古くからの人足を伝えるが、遺跡指定範囲を見る限りでは御霊石の場所からはわずかに離れており、稲葉山遺跡が境内入口の向かい側で稲葉垣内遺跡が境内東側に位置する(参考リンク:津市遺跡地図No.118)。
石の長者、木内石亭による石の博物誌『雲根志』に登場する石らしい。
力釘石
大和國大峯山の梺にあり諸書に出るゆへこゝに略せり
木内小繁 著 ほか『雲根志』上巻,日本古典全集刊行会,昭和5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1259959 (参照 2026-07-19)
江戸時代、すでに有名だったことが窺われる。
しかし、詳細が略されたことで現在においては逆に追跡しにくい存在となりうる。幸運にも本石は吉水神社境内に存する「弁慶の力釘」と呼ばれているものを指すと考えられている。
大峯山の麓、力釘石は吉野郡吉野町吉水神社に弁慶の力釘石と言われているものを指すのであろう。苔むしたさしわたし70㎝程の緑色砂岩中に今はさびた鉄釘二本が打ち込んである。弁慶が力自慢のために打ち込んだものだと伝えられている。
日本地学研究会・地学研究編集部 編集・監修『地学研究』23(1/2),日本地学研究会,1972-02. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3222588 (参照 2026-07-19)
義経たちが潜んだ吉水神社は、当時は吉水院という修験者の寺で、瀬古川の渓谷の上の小高い地点にある。境内には「弁慶の力釘」とか「義経の馬脚跡」などの遺跡が点在
大塚雅春 著『歴史風土記』,潮出版社,1970. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12207844 (参照 2026-07-19)
義経の馬脚跡はおそらく岩石に蹄状の窪みが残った岩石と目されるが、探訪当時は存在を知らず見逃した。
釘を埋めた奇石に比べると知名度に差があり、それが同じ自然石でも文化の伝承具合に軽重が見られる一因となるようである。
| 力釘石/弁慶の力釘(柵内) |
| 2本の釘穴 |
NHK松山放送局の制作番組「ひめDON!」で、愛媛県大洲市の粟島神社が取り上げられます。
「巨石の上の神社」ということで取材協力いたしました。
制作の方々には文献調査なども精力的に取り組んでいただきました。おそらく従来の粟島神社の評価から一歩進んだ最新情報を提示できているのではないかと思います。
視聴方法が限られていますがよろしくお願いします。
6月27日からGoogleが Ad intents という自動広告を当サイトへ掲載してきました。
検索バーのような形の広告が、サイト画面上に表示されるタイプです。
試しにリンク先を踏んでみたら、ブラウザがウイルスに侵入されました系の詐欺サイトへ誘導を食らいました。
そこで即、この Ad intents が掲載されないように対応完了したことをお知らせします。
なお、簡単に掲載オフできず多少勉強しました。試行錯誤したため、同じく悩まされているサイト管理人の方々に向けて以下対応方法を記しておきます。
対応したこと
Googleに限りませんが、こんな詐欺サイト広告を承認して、自動で広告配信する時代はつくづく狂っていますね。
(しかも、掲載オフがやりにくいように設計されている)
私の目が黒いうちは、このようなユーザーエクスペリエンスを侵害するような広告設定は手動でオフにし続けていきます。
広告業者も毎日増殖していて、いたちごっこに際限はありません。完璧に防ぐことはできないかもしれませんが、当ブログ記事が読みやすいように良心的なサイト運用を心がけています。
本サイトの広告ポリシーについて
本サイトでは、ページごとにウインドウが出てくるようなオーバーレイ広告・全画面広告を閲覧の邪魔と考え、管理者権限で非表示設定としています。その分、ページの脇に表示されている広告(Google AdSense)をクリックいただきますと当サイト管理人に些少の謝礼が入りますので、当サイト運営継続のために応援をいただけますと幸甚です。
穂積裕昌氏の新刊『祭祀遺跡とは何か』(雄山閣)が2026年4月に発表されました。
穂積氏は「水の祭祀」の代表的遺跡として知られる、三重県城之越遺跡の発掘調査に携わった考古学者として知られます。
本書はその書名が題するとおり、特に弥生・古墳時代の祭祀遺跡の最新総説として読むことができます。
第1章 「祭祀遺跡」の誕生
祭祀遺跡概念の総合研究史。この章を読むだけで最新の祭祀遺跡の知見を一気に習得。
第2章 神と死者、そして祖
第1章の最後で論点に挙がった「祖」が古墳時代祭祀のキーとなる。祖、上祖、葬と祭の関係。大陸・東アジアのスケールで日本列島の祭祀を検討。
第3章 弥生時代の「祭祀遺跡」
弥生時代の大型建物、銅鐸を代表とする青銅器埋納、弥生時代の遺物に刻まれた絵画文様。これらが祭祀と言えるのかどうかの論点整理。
第4章 創祀の契機
穂積氏が力点を置く、奈良時代文献群から当時およびそれより前の時代の祭祀観念を読み解く章。
第5章 儀礼の場
第4章より明らかとなった、祭祀の前段として行われることのある卜占・誓約を考古資料で見出す。
第6章 荒ぶる神への対抗
奈良時代文献、特に風土記を紐解き、祭祀遺跡が設けられた祈願目的の解明に踏み込む。
第7章 井泉への信仰と祭祀遺跡
穂積氏の専門とする水の祭祀遺跡を取り上げた章。井と泉の具体的分類と、山岳、河川、集落内など様々な場における考古資料の列挙。
第8章 磐座・磐境・神籬の成立
岩石信仰においては最も注目すべき章。これまでの古典的見解の焼き直しではなく新知見に富む。特に磐境に関しての論説が充実しており研究史に刻まれること確実。
第9章 祭祀遺跡と建物をめぐる諸問題
第3章で提起された弥生時代大型神殿説の検討から、弥生時代における大型建物と井泉の親和性から祭祀の場の萌芽を評価。政治・権力の場における祭祀と自然の地霊に根差す祭祀の2系統から最終的に神社祭祀につながる道筋を論証。
終章 祭祀遺跡から神社へ
弥生時代における地霊・穀霊への祭祀、古墳時代における荒ぶる神への祭祀と守護者としての神の祭祀と大陸由来のその祭祀と人格神化、それらの系統が祭祀遺跡から神社へ発展していくという歴史観を提示。
詳細は同書をご覧いただくとして、本記事では岩石信仰の範囲に限って、私が読みながら思ったことを記録します。
まず、穂積氏の専門領域である「水の祭祀」における岩石の扱いです。
城之越遺跡は日本庭園の源流とも表現されるような存在ですが、遺跡内の立石と石敷については「聖」と「美」の関係で悩ましい存在でした。
もちろんサニワ(斎庭)の観念があることから、庭と祭祀の場が矛盾しないことは承知していましたが、人工的に立てたいわゆる配石遺構と、自然の地表から露出した大地の働きとしての自然石岩盤との差異があったのかどうかという問題です。
風土記には、人と大地(地霊)の相克と表現できるような、地霊の討伐に関する記述が指摘されています。では古墳時代以前ではどうだったでしょうか。
岩石という素材においても、石材、古墳、祭祀遺跡の分布を見ると、採られて石材化した岩石とどうやらそうならなかった岩石に分かれるようです。
石を立てて立石にしたら、外形的なイメージからその岩石を憑依物としての磐座として認定して良いと言えるかは微妙です。大地に根差す自然岩盤の磐座と同じかという躊躇があり、自然に根差さなくても人が人工的に設置したら同機能となると言っていいのかは、まだ慎重に検討されるべき課題です。
城之越遺跡は湧水点である井泉1~3を有し、数多の石敷が構築される中で、井泉3だけは貼石がないなどの差異も有します。このように「規格的」ではない自然のランダムさを内包する解釈の難しい遺跡ですが、発掘を担当した穂積氏の最新の見解が本書の祭祀遺跡論の随所にちりばめられています。
このような井泉遺構の貼石や集石について、本書では奈良県纏向遺跡辻土坑1は祭祀の廃棄跡とみなすほか、鳥取県茶畑山道遺跡の集石群を水溜めとみなす解釈も勉強になりました。
岩石が整然とした意図的配列なのか無造作なのか、その判断基準をどのようにみなすとよいかは気になるところです。
そして第8章の「石の祭祀」です。
磐境について、ここまで具体化できるとは考えもつきませんでした。読後感として、磐境の位置づけに異論ありません。
三ツ寺Ⅰ遺跡の石敷遺構は磐境と同種の「聖域表示施設」だろうと拙論でもぼかして匂わせることはあったものの、はっきり書くことはできないままでした。磐座以上にアンタッチャブルだった磐境を今後議論の俎上に載せやすくなったと言えるでしょう。
一方で、磐座・磐境中心の分析で石神への検討が少なかったように思います。拙稿にも言及をいただきましたが、私が磐座・磐境・石神に限らずそれ以外の岩石の機能を提示した論旨が本書で検討されていないのは、穂積氏があくまでも古典に立脚するという姿勢だったためだと理解しています。
私は、最大公約数的に全時代全地域でこのような岩石の使われ方が想定されると提示したので、各時代のアプローチにおいてどうだったかは演繹的に検討せざるを得ません。古典に立脚する立場をとる以上、文献に現れない名称・用語は機能としてカウントしなかったのでしょう。
穂積氏は磐座遺跡認定の可否の一例として、福島県建鉾山遺跡の高木地区の御宝前奥にある巨岩を「磐座」遺跡とみなさず留保する立場をとりました。
山頂の建鉾石については、巨岩上に登らないと認識できないという点で当時の人々が岩石の上まで登って祭祀したかというと同じく疑問ですが、巨岩下の高木地区まで留保するのは私には意外でした。
私も批判的に自然石と祭祀遺跡の関係を見る立場ですが、高木地区の現地に立って感得するのは、巨岩が見えそうで見えない位置に御宝前と呼ばれる空間が位置することです。絶妙な位置と表現したいです。
高木地区の遺物出土地点に立つかぎり巨岩の姿は見えませんが(植生・繁茂の状況によっては見えるかも)、わずかにでも山側に歩けば1分もたたず巨岩が姿を見せるので、さすがに高木地区は巨岩の認識ありきで、あえて巨岩から離した場所に設けた、あるいは、御宝前に散らばる岩石群を「目印」「境界」として形成した祭祀遺跡と評価しています。
(私は、聖山と崇める契機に山中に立ち入った前史があり、山中に神の顕現を認めた結果、それ以後は山中奥深くに立ち入らずに山腹・山裾・山麓で祭祀を行ったという立場です)
このような距離のとりかたを以て、離れた場所から祭祀する岩石を「石神」候補たりうるものと仮定しています。
深澤太郎氏「高木地区の磐座群」『國學院大學博物館研究報告』41, 2025年)では、高木地区に散在する大小の岩石群を俗と聖を分かつ境界としての「磐座」とみなしているようですが、空間的な広がりを持つ岩石群ですので「磐境」とも言えそうです。
石神を直接見ないようにするという意味では、これも穂積氏が本書で重視した「遮蔽」の場と言えます。
御宝前が遮蔽の磐境の空間とするなら、遮蔽物の奥に控える一大巨岩は磐境ではないことは自明で、目の前で神迎えして祭祀の装置とすることが前提の磐座でもなく、それらの可能性が除外された先にある石神という指摘が初めて浮上します。石神は遺物出土地域から外れる特徴を備えるという想定も可能かもしれません。
柳田国男・折口信夫が石の話をしながらも「磐座」の語に重きを置かなかったように、石神を含めた多様な岩石信仰を想定することは重要かと存じます。
私自身、考古学の最新の知識をアップデートできていないところが多いので、本書で多数の遺跡の存在とその考古学的解釈を勉強することができました。
それら祭祀遺跡から見えてくる神祭りの姿を本書は描き出しており、資料第一主義が貫かれた全体の論旨に賛同しています。
記紀・風土記の利用においても慎重に慎重を重ねられており、大略、当時の人々の心を抽出することで古墳時代に援用可能とする見解は、私も今後の研究においてより奈良時代文献を用いていく励みとなりました。
皆様におかれても本書を通して最新の祭祀遺跡の知見を得られることをお薦めします。
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