岐阜県中津川市駒場桃山
陰陽石の代表格に挙げられることもある名石だが、その歴史ははっきりせず、出自不明の数多の逸話に彩られている。
まず、現地看板は壮大な由来を物語る。
イザナキ・イザナミの両神が恵那の地で天照大神を産み、両神の化身であるこの二岩を女夫岩と名づけた。その後、元正天皇の治世時(715~724年)、山上憶良が女夫神社を勧請したという。しかし、憶良が女夫神社を建てたという歴史的な裏付けを欠いており自称の域を出ない。
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| 現地看板 |
性神研究で知られる民俗学者の伊藤堅吉氏は、嫁に逃げられた飛騨の若男と婿に捨てられた東海道筋の娘がこの地で邂逅したことで息絶え、やがてムクムクと女夫岩が姿を見せたという縁起譚を記している(伊藤堅吉『いんよう石:みようと石の姿と土俗』図譜新社 1967年)。
伊藤氏の想像による筆致が混ざるのでどこまでが史実を反映した紹介か掴みかねるが、日本神話に擬せられる前の伝承はこのようなものだったのかもしれない。
これとはまた異なる文脈で、女夫岩の存在が世に知られるようになったのは近代という話もある。
明治初期頃には杉や桧などの樹林であった。その後、山林が伐採され、ようやく人目をひくようになった。以来、万物出生の源といわれ、縁結びの神としてあがめられるようになったのである。林久統 著『滅びゆく性神と秘仏を訪ねて』伊豆編,大孝弥栄会,1972. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12169060 (参照 2026-10-04)
川ばたにあるので、たびかさなる洪水のために、この女夫岩は大正時代まではすっかり泥砂に埋まっていたものを掘り出したのである。柳沢清士 著『信濃交通史研究 : 柳沢清士遺稿集』,柳沢二葉,1988.11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13269864 (参照 2026-10-04)
以上、複数の説を紹介したが、上記には矛盾した記述も含まれることから、おそらくはいずれかが後世の創作か誤りだろうと思われる。
女夫岩が存する桃山は現在、桃山公園として整備されており、同公園内には恵北高椅(けいほくたかはし)神社も鎮座する。
料理の神である栃木県小山市の高椅神社を昭和53年にこの地に分祀したものだが、その境内に包丁塚(包丁供養処)と呼ばれる石穴がある。
不要になった料理用刃物を神前に供え、刃物の供養を祈った後にこの石穴に刃物を奉納すると供養されるという。物の魂を鎮める岩石祭祀の場と言える。
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| 包丁塚の看板 |

