備宿遺跡群とは
備崎経塚を筆頭として、備崎の丘陵部に分布する各種遺跡を総称した名称が備宿遺跡群である。
備宿とは「備の宿(そなえのしゅく)」の意で、熊野古道の1つである大峯奥駈道の一の宿に数えられる。
当地では、丘陵上に12~14世紀からなる39か所の経塚遺構が確認されているほか、丘陵頂上直下には備宿があったと推定される平坦地が造成されている。
| 備崎丘陵 |
アクセスルートがあまり大っぴらにされていないのでここで詳述する。
備崎橋北端に「史跡 大峯奥駈道」の看板と「七越峰」への行き先を示す標識があるので、備崎橋の下をくぐり熊野川の護岸上に続く道を歩む。
| 備崎橋の北端。「七越峰」の標識方向へ歩道が続いている。 |
| 川岸を歩くルートに変貌するが気にせず進む。 |
| 森にぶつかるが気にせず進む。 |
| 登山口。踏み跡はしっかりしているのでそれに従って登る。 |
備崎橋北端から備崎丘陵頂上(標高156m。159m説もあり)までは、余裕を見ても徒歩片道30分ほどで到着する。
備崎経塚
備崎は、備宿遺跡群を形成するこの丘陵を指す一名である。
山中は熊野古道として比較的整備されており、現在の登山道沿いには大きく7基の経塚が分布する。
| 登り始めて最初に目に入る、第1経塚と呼ばれる遺構。 |
| このように自然岩群を利用した経塚もある。 |
| 先の自然岩群の前に敷かれた川原石群。 |
| 丘陵頂上部の経塚は翻って表面に石が露出せず、土盛りとして存在。 |
| 丘陵頂上部の平坦面。備宿の建造物などが存在したと推定される。 |
備崎経塚の特徴は、最高所の経塚こそマウンド(土盛り)が形成された塚であるが、それより下方斜面の経塚の多くは地山を掘って、地表下の岩盤上に納経して上部を川原石で覆う構造を持つという。丘陵上の自然岩を利用するように寄り添って築造された経塚もある。
現地看板の表現を借りると「周辺一帯には、露呈する大きな岩盤が点在していることから、備崎経塚群は自然崇拝を根源とした古代信仰の形態をうかがい知ることができる」と岩石信仰との関連性を匂わせる。
川原石を麓から運んだ人工性と自然石信仰の相貌をもつ経塚群と評価できるが、備宿遺跡群の岩石信仰の場はここだけにとどまらないらしい。
大黒島・立島と熊野本宮大斎原
熊野本宮大社(旧名・熊野坐神社。以下、熊野本宮)が、明治時代に熊野川の増水で流されるまで川中の大斎原(おおゆのはら)にあったことはよく知られる話である。
| 大斎原(熊野本宮の旧社地) |
さて、熊野本宮がなぜ大斎原の地に鎮まったのかという理由について、それは熊野川を挟んで真向いにそびえる備崎の丘陵があったからだとする一説がある(山本2007)。
ここで嘉永6年(1853年)成立『西国三十三所名所図会』の記述を引こう。
大黒島(だいこくじま)(本宮村はづれより向かふの山の裾の岩組を云ふ。備の宿ともいふ。山伏の行所なり)
立島(たてじま)(大黒島の左に有る岩組をいふ。土人曰く、この所より竜燈あらはるるとぞ)林[編]1980
大黒島と立島という名称が登場する。島の字を書くが、説明のとおり岩組を指す。
「本宮村はづれ」では場所がピンとこないが、大黒島には「備の宿ともいふ」の重要な一文が加わる。つまり備崎の丘陵にあるということである。
丘陵の右に大黒島、左に立島という位置関係は、熊野本宮(大斎原)からの視点である。
大斎原の現地から熊野川越しに眺めると、山の裾にこのような岩場が見える。
| 大斎原から熊野川越しに備崎丘陵を望む。写真中央に二か所に分かれて岩場が見える。右が大黒島で左が立島か。 |
| 大黒島と思われる岩場を拡大。 |
岩組というより岸辺に露れた岩肌であるが、熊野川の度重なる水害で景観を変えてきたことは想像に難くなく、また、下記の逸話も大黒島の重要な歴史を物語る。
〇土中出現黃金佛
今玆文政八年乙酉の春、熊野本宮社川除の堤を築かんとて、社境内の川上なる大黒島といふ岩山より、大石を引き出だす。爰にあやしき事あり。石を出だす雇夫等、砂を穿ち磐石を割るのいとま、暫く労を休めんと側によりて憩ひ居れば、巖上の土石おのづから崩れ落ちて止まず。工人各その業をなす間は、土石崩るることなし。憩へば又崩る。(略)そがままに土石を穿つに、その日も既に亭午になりしころ、土中より一つの瓷顕れ出でけり。そのさま今の世に見なれざる器なれば、人みなうちよりてこれを見るに、その瓷に彫れる文字あり。(兎園小説)日本随筆大成編輯部[編]1928
大黒島の岩山が熊野本宮の堤を造るための石材として取り出されたことから、大黒島はかつて岩組と形容できるほどの岩の集積地であったことが想像される。
そして、大黒島の岩山の中から「瓷(かめ)」が出てきたことがこの逸話の核心である。この瓷の実物は現在も東京国立博物館に保管されており、複製品が熊野本宮に隣接する世界遺産熊野本宮館で公開されている。
| 大黒島から発見されたという経筒外容器(世界遺産熊野本宮館展示の複製品) |
つまり経塚遺物である。保安2年(1121年)の銘も刻まれており、これは本宮経塚の代表的遺物として知られるが、仔細を突き詰めれば本宮経塚とは大黒島の自然石信仰に内在するものだったことがわかる。
大斎原から南を向き、熊野川を渡河した先の岩山に納経したという祭祀構造が浮かび上がり、ひいては熊野本宮が大斎原に鎮まった選地理由もこの岩山にあったのではないかという可能性に行き着くのである。
なお、『紀伊東牟婁郡誌』(東牟婁郡[編]1970)という文献には当地の別称がまとめられており、大黒島は「大黒嶋」「大黒岩」「大黒谷」「備の宿」の名が同じ存在として併記されている。立島は「竪嶋」の字が当てられている。
また、大黒谷の後ろの谷を「袋谷」と呼び、その前後にそびえる山を「飯盛山」と呼ぶという。大黒島を擁する備崎丘陵の山名は関連書を捲るかぎり現在はっきりしていないようだが、古名に求めるなら飯盛山となるのではないか。
大黒島の上方斜面の岩窟
大黒島は川岸の岩山を指すようだが、その上方斜面で新たな岩窟の存在が発表されたのは21世紀に入ってからである。
山岳修験研究を専門とされる山本義孝氏「山岳信仰遺跡を読み解く(一)―玉置山・備崎―」(2007年)において実測図付きで紹介されており、氏によればこれは丘陵北端ぎりぎりの山裾を歩く近世大峰奥駈道の道沿いに立地するものであるという。
(現在の登山道は中世の大峰奥駈道を辿る)
現地へのアクセスルートは、本来、近世大峰奥駈道の踏み跡を進むのが正規ルートだったようだが、岸辺スレスレという厳しい立地にあることから道が崩れやすいようであり、ルート上の木の橋も朽ちているとの情報がある(参照元URL「田辺市本宮の備崎遺跡行」)。2026年現在は入口に立入禁止のロープと表示がなされているので入れない。
| 登山道入口の立入禁止ロープ。すぐ裏は熊野川岸の切り立った崖のようだ。 |
そこで、私は丘陵尾根部から目星をつけて降りることにした。踏査当日はまだ山本氏論文が手元にない状況だったため、丘陵頂部からいくつかの谷間を降り登りしながら踏査した。
| 丘陵頂上部から降りた谷間の様子(西側) |
| 東側の谷間の様子。岩石らしきものは見当たらない。 |
事前情報で得ていたイメージよりも、丘陵北斜面はそこまで岩盤が露出しているわけではなく意外だった。しかし薮の濃い一帯であり斜面を自由に行き来することは至難である。丘陵尾根部から分岐する作業用の踏み跡をうまく利用するしかない。
結論だけ記せば、丘陵上の下写真の経塚が見えたら、北斜面に向かって続く踏み跡を目印に降りていくと現地にアクセス可能である。
| 丘陵尾根中間部のこの経塚を見かけたら、写真左の斜面を向く。 |
| この谷間に踏み跡が続いている(2026年10月時点)のでそれを利用して降下した。 |
樹林の中に、下写真のような岩々からなる突端地形を認められたらそこが岩窟の頂上部である。世界測地系(JGD2011)で「33度49分52.33秒 135度46分30.08秒」の地点となる。
| 樹林の間に黒い影のように写るのが岩石群。 |
| 岩石群の頂上部。この下に崖状の岩石が露出する。 |
山本氏によると高さ約18mの岩石規模とのことである。
私は頂上部からのアクセスだったため、高さ18mの最下部まで降りたかったが、藪に覆われた急斜面で足元がわからず危険を感じたため、岩石の上部に開いた岩窟の確認までで終えた。そのため近世大峰奥駈道の現状や、道沿いの岩石裾部に設けられたという平坦地(礼拝所?)などは確認できていない。
それでも明瞭な岩窟を1か所確認したほか、すぐ近くに、地形の流出改変が認められて荒れ気味ではあるが若干の岩蔭を残した窪み地形を1か所認めた。その上方に、斜面から垂直に(水平面からは斜めに)立つ高さ約2mの立石も確認した。
| 岩窟(東より撮影) |
| 岩窟(北より撮影) |
| 岩窟内部 |
| 岩窟上部を構成する岩肌。これは自然の摂理で説明できる亀裂である。 |
| 岩窟下部の隙間を埋めるように小礫が敷き詰められているのは一部人為か。 |
| わかりにくいが、倒木と岩石の下に岩陰状の窪みが形成されている。 |
| 岩窟および岩陰の上方斜面に屹立する立石(西より撮影) |
| 同じ立石を東から撮影。 |
| 同じ立石を正面から撮影。 |
| 岩窟の上方やや西に存在する岩群。 |
| 岩群の上部。 |
| 岩群の下部。僅かな岩陰を形成する。 |
| 近くには集石・敷石のような景観も複数個所に散在する。 |
| 立石の上方斜面に広がる露岩① |
| さらにその上に広がる露岩② |
| 現地から斜面下を撮影すると、崖下にすぐ熊野川が迫る。対岸は大斎原。 |
探訪後に山本氏論文と照らし合わせたところ、明瞭な岩窟は2か所なければならないことや、単独の立石の存在が記録されていないことなど、現状と図面で岩石の状態が異なるところが気にかかる。しかしここ以外に大規模な岩窟は確認できず、近世大峰奥駈道が崩壊するほどの急斜面であることから、一部の岩石が落下転落などしている可能性を加味して、地点的にこの岩窟が山本氏論文で命名された「胎蔵窟・金剛窟」と考えている。
山本氏はこの岩窟を「磐座」と記して、その後、備崎の磐座としての名称が独り歩きしているが、「磐座」は岩石信仰の総称たりえない概念であることは拙著で触れたとおりであるので、私は事実面で認められる「岩窟」の表記にとどめたい。
別の角度からは、「大黒石と呼ばれる巨大な洞窟の割れ目からは瓦質の土器が採集され、修験関係の修法場と推定されている」(中村2019)という記述から、この岩窟を大黒島(大黒岩・大黒石)と呼ぶ向きもあるだろう。
しかし先述してきたように大黒島は川岸の岩肌部分を指すようであり、その岩肌からこの岩窟までが一続きの岩山として一括できる場合は大黒島が適切であるし、そうでなければ大黒島上方斜面の岩窟として切り分けて取り扱うべきである。
(私は岩石下部および川岸まで降下できていないためその判断ができない)
ところで、山本氏はこの岩窟の状況をそれぞれ「窟上の高まりは巌の最高所となっており、これが権現垂迹の磐座をなしていると判断され、磐座直下の窟は垂迹後の権現が宿る母の胎内という構図が存在するのであろう」「頂上に磐座を持ち床面に穴(陰部)の開いた窟を『胎蔵窟』、権現垂迹の石躰(陽部)のある窟を『金剛窟』というように理解すると、両窟で陰陽が融合した権現垂迹の理想的な窟となる」(山本2007)と解釈を施すが、磐座と胎内の関係や、立石であれば石躰でそれは陽を表すなど、何か仏典上でこのような記述があって裏付けられる解釈なのか気にかかる。私の場合、文献のない古墳時代の祭祀遺跡を取り扱うことはあるが、岩石の形態上の比較を以て直接に祭祀構造を解釈することには慎重である。
当岩窟においては、現地の急峻な地形環境を見れば山本氏が踏査した時と私が踏査した時の環境も異なり、でははたして中世や古代以前の現地はどうだったのかと考えるとまた異なる景観だった可能性がある。すぐ下では大黒島の石採りもなされて改変されていた。地表下から出土した遺構で論ずる分にはまだ良いが、すでに地表に露出している遺構においては、時代経過による後世の改変の可能性を加味することを望みたいところである。
最後に
この岩窟については他のインターネットページでも言及されていることがあるものの、その正確な位置は明示されることが少なかった。川沿いの危険な立地にあることや、不用意に不特定多数が訪れることへの危機感などによるものと理解している。
一方、私個人の考え方は、すでに報告書上で調査がなされて発表された文化財は広く公表されて世に問うべき存在であり、位置を明示しないことで逆に誤った踏み跡を作り、それによる事故につながることを避けたい思いがある。以上の考えに基づき本記事を記したことを承知されたい。
参考文献
- 中村浩「熊野本宮備崎経塚について」『紀伊風土記の丘年報 』(47) 和歌山県立紀伊風土記の丘 2019年
- 山本義孝「山岳信仰遺跡を読み解く(一)―玉置山・備崎―」『熊野』132・133通号 2007年
- 林英夫[編]『日本名所風俗図会』18 角川書店 1980年
- 日本随筆大成編輯部[編]『日本随筆大成』第二期巻一 日本随筆大成刊行会 1928年
- 東牟婁郡[編]『紀伊東牟婁郡誌』下巻 名著出版 1970年
- しげよあゆみ「田辺市本宮の備崎遺跡行」https://shigeyoayumi.hatenablog.com/entry/55603130(2026年11月1日閲覧)