2021年10月31日

御船町の御舟石(愛知県豊田市)


愛知県豊田市御船町申原


Googleマップではわかりにくいが、現地には北側の「白鬚草生息地(シラヒゲソウ・シデコブシ自生地)」から取りつくと良い。
(ただし駐車場はまったくないので注意)


自生地の奥に遊歩道が続いて整備されており、2~3分登ればすぐに御舟石(お舟石)に到着する。

御舟石。舟形の岩石の直上に「お舟石」と刻まれた石碑を建てている。

御舟石 全景

上方斜面より
現地看板




御船町(みふねちょう)の御舟石(おふないし)である。

現地看板のとおり町名の由来であり、また、北西にそびえ御船川水源にあたる猿投山との信仰の関係も色濃い場所と言える。


御舟石のすぐ上には、廃線化された名鉄三河線の線路跡がレールや枕木と共に残っており、その上を歩くこともできる特異なロケーションを有する。

遊歩道の一部として歩ける。

線路跡のすぐ下に御舟石がある。

下記記事によると、御舟石は元来このような景観ではなく、大半が埋まっていて今見えている舟形の岩石はいわゆる天井部分なのだという。

シラヒゲソウと「お舟石」 - ブログ「豊田市、気ままに、彼方此方散歩」より

二つの台形の巨岩があり、その上に舟形をした石が掛け渡されている。小さい頃はくぐったり、登ったりして遊んでいたと古老は言う。


上記の文を読む限り、ドルメン状の構造をしていたということか。であれば、いま目の当たりにしているものよりもいっそう大規模な構造物だったことになる。


現地看板にあるとおり、御舟石を埋めようとしたときに作業員に負傷者が出たという逸話も、岩石信仰の説話ではしばしば見られる。

おそらく、町名の由来となる岩石に影響が加わることに反発する声もあったことの逸話への表れと思われるが、最終的にその原因者であった鉄道が早々に撤退し、御舟石が残り続けたというのはある種の因果というほかない。

御舟石の入口となるシラヒゲソウ・シデコブシ自生地


2021年10月24日

石馬寺と雨宮瀧神社の岩石信仰(滋賀県東近江市)


滋賀県東近江市五個荘石馬寺町 瓜生山

 

石馬寺(いしばじ)は、北は猪子山から南は観音寺山まで続く繖山系のなかで、中央部あたりにそびえる瓜生山の麓に所在する。

寺伝の『石馬寺創建縁起』によると、聖徳太子が霊地を求めて当山を登り、山麓へ戻ると太子が乗っていた馬が沼に沈んで石化していたという。このことに霊威を見出した太子は、当地に寺院を建てたとある。

現在、石馬寺の前の池の中には、「駿馬化石」と標示のなされた岩石が沈んでおり、石化した馬とされている。石馬寺の名が「馬の寺」にちなむ所以である。

駿馬化石

さて、太子が登ったという石馬寺背後の瓜生山を約20分登ると、山頂近くの雨宮瀧(あめみやりゅう)神社に至る。

社殿前には、大きく南側と北側の2つのグループに分かれて岩石群が分布している。

雨宮瀧神社 岩石群(南側)

玉垣内には岩石と樹木の群れが確認でき、注連縄を巡らしている。

南側の岩石群は石造の玉垣で囲繞されており、注連もかけられていることから、神聖視された岩石群であることがはっきりわかる。

玉垣内には、板石状の3体の岩石が目立ち、それを支えるかのように樹木が数本繁る。

雨宮瀧神社 岩石群(北側)

北側の岩石群は、南側よりも一回り大規模な岩石群である。

玉垣で囲われてはいないものの、岩肌には各種の観音や神名が刻まれているのを確認できているので、これらも神聖視の対象となった岩石だったことが窺われる。

北側と南側のいずれも、特定の岩石の名称は付されていないようだ。


藤村浩一氏『磐座紀行』(向陽書房、1982年)の調べでは、雨宮瀧神社は『木曽名所図会』(木曽路名所図会の誤りか)で八大龍王社とあるのと同じで、石馬寺の鎮守で、寺に隣接する六所神社の奥の院に位置づけている。


2021年10月19日

観音寺山の岩石信仰(滋賀県近江八幡市~東近江市)


滋賀県近江八幡市安土町~東近江市五個荘川並町


観音寺山(標高433m)は、北は猪子山から瓜生山と続きその南に至る、繖山(きぬがさやま)山系の最南峰を占める。
(観音寺山自体を繖山と呼ぶことも)


観音寺山は、歴史上では山頂付近に観音正寺が建立され、中世には佐々木氏によって佐々木城が、さらに六角氏によって観音寺城が山頂付近に築かれたことで知られる。

観音正寺

これら山岳仏教、そして城郭といった要素に加え、本記事では自然石信仰の事例を紹介する。

この三者がそれぞれどのように作用・影響しあったのかも含めると、複雑な山地利用を推測させることになり、観音寺山の歴史を考えるうえでの参考となればと思う。


まず、観音正寺から北東100mほど行くと、斜面沿いに「奥の院」が見える。

奥の院入口

石段

堂宇は岩肌に埋め込まれている。

奥の院は、大小の岩石に取り込まれた中に石段をもって築かれ、おそらく岩陰となった空間に切りあうように堂宇を建てている。

堂内に空間はほとんどなく、奥壁には堂裏の岩石が接している。これは、同じ繖山系の岩屋北向観音(猪子山)と同じ構造となっている。

平安時代後期に磨崖仏が刻まれたことがわかっているが、線刻は摩耗が進んでおり判別しにくい。


奥の院の下方には、「権現」と標示のなされた岩陰があり、そこにも小祠がまつられている。

権現

奥の院の仏に対する権現という位置づけと思われるが、奥の院と権現は同じ岩体に属しており、これを一括して奥院・奥宮の聖地と考えて良いだろう。

また、聖徳太子が舞い踊る天女に出会ったという、寺縁に関わる「天楽石」と呼ばれる岩石が奥の院としてあるらしいが、それがどれを指すのかが今一つはっきりしない。今のところは、全体をひっくるめたこの一大露岩群を想定しておく。

権現を擁する岩石群の全体

奥の院の上を登ると、尾根上にいたるところに佐々木城跡の石碑が立つ。

佐々木城の城塞としての自然の石垣として、下に属する奥の院の露岩群が多少なりとも利用されたことは想定しておかないといけない。


奥の院の近くには、ほかに「烏帽子岩」「大石垣」「力石岩」「ねずみ岩」の存在が確認されている。大石垣などは、先述の城郭利用のなかでの半自然・半人工の岩石だったことが窺い知れる。

烏帽子岩。すぐ上に大石垣もある。

力石岩は特定できず。付近にある岩石。

ねずみ岩

ところで、観音寺山における岩石信仰の事例は奥の院だけではない。

吉田勝氏が作成した「観音寺城跡曲輪配置見取略図」(1970年作成)によれば、観音正寺の北方には「三国巌」「硯石」、南西には「女良岩」「研石」、そして観音寺山頂上付近には「飛岩」などの存在が図面上に記されている。

この地図にならって踏査したところ、実際に名前と岩石が明らかに一致したのは、観音正寺北方の「硯石」だけだった(立札があった)。

硯石

「三国巌」「飛岩」があるとされる場所近くにも、それと思しき岩石群が見つかっているので、それぞれ「三国巖」「飛岩」に該当する可能性は高い。

三国巖 候補地

飛岩 候補地

観音正寺南西の「女良岩」「研石」については、あまり踏み跡がはっきりしていない山中にあり、はたして自然石か、城の石垣か判別のつかない岩石群が分布している。「女良岩」「研石」と特定できる状態ではなかった。


踏査してからすでに20年を経過しようとしているので、写真の撮り直しなども含めて再訪したい場所である。


2021年10月18日

姨綺耶山長命寺の岩石信仰(滋賀県近江八幡市)


滋賀県近江八幡市長命寺町


姨綺耶山長命寺(いきやさんちょうめいじ)は、伝説上では武内宿禰が来山して、その後、聖徳太子が開基したという古刹。

両者に関わる岩石祭祀事例が複数残るが、現地看板やパンフレットと同等の情報しか集められなかったので、画像のみ紹介する。

六所権現影向石

六所権現影向石


修多羅岩

修多羅岩から


武内宿禰御足跡


聖徳太子礼拝石


2021年10月17日

神谷太刀宮の「磐座」と剣岩(京都府京丹後市)


京都府京丹後市久美浜町


八幡山の裾部に「磐座」と呼ばれる岩の群れが残る。
いつから「磐座」という名前が定着したのかは不明である。

境内社の八幡神社に隣接して岩が集積する。

現地看板によると、かつては女人禁制だったとのこと。

「磐座」の最奥部。

近年、「鬼滅の刃」の「聖地」としてとみに取りざたされる。
地元での働きかけも手伝ってのことだろう。

「鬼滅の刃」の岩、京丹後に? 聖地化目指して保存会:朝日新聞デジタル

「太刀」で「割れ目」なので、鬼滅の刃と相性が相当良いのだと思われる。

しかし社伝となっている、大己貴命が太刀で岩石を斬って割れ目が生まれたという「剣岩」は、この「磐座」群の場所ではなく、神谷神社境内に別に垣に囲われて存在するらしいので注意が必要だ。
すでに、「磐座」を「剣岩」のことだと勘違いしている人も多いのではないか?
(私も誤解していた)

参道も歩いたつもりだったが、剣岩は積雪で見落としたか…


剣岩のほうが太刀宮としての伝承はもちろん、鬼滅の刃にも親和性の高い岩なので認知度がもっと上がってもいいものだが、「磐座」のほうが「巨石」なので、そこは「映え」の問題なのだろう。


また、平成27年以降は現地看板に、「割れ目の隙間からさす朝日の角度で、田植えなど農作業に適した時期を知ることが出来たと伝わり」(前掲記事)という旨の説明文が加わったらしいが、「伝承」としてはあまり聞かない類の話のため、典拠が気になる。
いつの何という文献に、あるいは、誰が伝えたのかの明記が必要だろう。

さらに、地元では太陽観測施設説の観点から独自研究を進めている郷土史家の方もいるらしいが、研究であるなら研究者名としかるべき論文を確認したうえで、その先のPR活動などはなされるべきだろう。


鬼滅の刃にしても、巨石太陽観測施設説にしても、ローカルな岩石信仰を一種のグローバリズム的発想で上書きしてしまう危険性がもっと知られてもいいと思う。

本来のありかたがわかりにくくなってしまうことと、外部の発想の影響によって歴史が少なからず変節してしまうことに、地元の方のなかで問題提起される方が今後登場することを願っている。
その点において、いろいろと現代的な問題が詰まった場所として、今後の動静も含め注目している。


なお、神谷神社の旧地は西方の久美浜町神谷にあったという説があるので、太刀宮の「磐座」を延喜式内の神谷神社と関連させるのは慎重でありたい。
(ただし、太刀宮自体の創建も奈良時代に遡る社伝は有しているので、「磐座」を太刀宮の祭祀の系譜に位置付けること自体は問題ではない。「磐座」が存する場所は八幡山および八幡神社の名を冠していることも留意)


参考文献
下記サイトには、神谷太刀宮に関する文献記述が豊富に収集されている。


関連記事(「鬼滅の刃」聖地事例)
天乃石立神社と一刀石(奈良県奈良市)