2019年10月5日土曜日

天乃石立神社と一刀石(奈良県奈良市)


奈良県奈良市柳生町岩戸谷

天乃石立神社のアクセス


別称・戸盤明神・戸岩谷神社・神戸岩神社。

天乃石立神社境内の岩群
天乃石立神社の拝殿

天乃石立神社は、柳生の里の東方に連なる山嶺地帯の中にある。麓から山に入る道は遊歩道として整備されており、小さいながらも道標もしっかりしている。
ただ道は幅狭で駐車スペースはないので、地元の方に考慮して、境内まで車で乗り入れるのは控えるべきだろう。

境内は、岩戸谷・戸岩谷・万年渓と呼ばれる渓谷の中にある。
神社の裾に落ち込んでいる渓谷に、数多の巨石が累積している景観が目を見張る。自然成因によって谷間へ岩群が寄り集まった結果だが、岩の全面には苔がびっしりと生い茂り、人の手が介入していない場であることが神域感を否応なく高める。

岩戸谷


天乃石立神社の祭神


  • 天照皇大神(アマテラスオオミカミ) ― 天照大姫命の字を当てる場合もあり。
  • 櫛盤門戸命(クシイワマドノミコト) ― 櫛磐盤命の字を当てる場合もあり。
  • 豊盤門戸命(トヨイワマドノミコト) ― 豊磐盤命の字を当てる場合もあり。
  • 天盤戸別命(アマトイワトワケノミコト) ― 天岩戸別命の字を当てる場合もあり。

すべて、天岩戸伝説にちなむ神々である。
天照皇大神(天照大神)は言うまでもなく岩戸隠れを行った当事者。
櫛盤門戸命・豊盤門戸命は櫛岩窓命・豊岩窓命と同神とされ、天照大神が天岩戸から出てきた後に、天岩戸を守護するよう任ぜられた神々。
天盤戸別命は天岩戸別命の名の通り、天岩戸自体を神格化したものと言える。

天乃石立神社の由来も、天照大神を外に引き出そうと手力雄命が天岩戸を思い切り開けた時、天岩戸を構成していた岩々が勢い余って地上に落ちたのが、天之石立神社の岩群であるという内容で語られている。
基本的な骨組は完全に天岩戸伝説の影響下にあり、朝廷神話以前の姿があったかどうかは見えづらい。

天乃石立神社の岩石祭祀事例


天乃石立神社の四柱は、それぞれ岩石にまつられている。本殿はなく拝殿のみ敷設されている。また、拝殿から岩群を礼拝する時、山の方角ではなく麓の方角を向く構造をとることも付記しておきたい。

1.後立磐

後立磐は神社入口に最も近い位置にあり、櫛盤門戸命をまつる。
高さ6m、幅7m、厚さ1m。この後立磐単体で「天石吸神社」と呼ぶ。

写真右が後立磐


2.前立磐

後立磐の後ろにある。高さ6m、幅7.3m、厚さ1.2m。
前立磐は豊盤門戸命をまつり、これをもって「天石立神社」。

後立磐と並立し、前立磐と後立磐は共に約20度傾いて直立する。
元は同じ岩で、これの形成理由は、天乃石立神社周辺の岩質が花崗岩であり、花崗岩特有の垂直にピシッと割れる摂理によるものと考えられている(西田史郎氏論文「一刀石」)。

写真左が前立磐


3.前伏磐

前伏磐は天盤戸別命をまつり、これをもって「天立神社」。
高さ1.2m、幅7m、厚さ1.2m。「伏」の名の如く横倒しになっている。

横幅7m近くもある3体の巨岩が並立すること自体が偉観だが、それぞれの岩石が鋭角的でもあり曲線的でもある、この極めて特異な造形こそが天乃石立神社の本領だろう。

写真手前が前伏磐(写真奥は前立磐)


4.きんちゃく岩

前伏磐の南に隣接する球状の巨岩が「きんちゃく岩」。
これをもって、天照大御神をまつる「日向神社」。

この巨岩は、昭和28年の豪雨の際に神社横の崖から転落してきたもので、その時に氏子の人々によって「天照大神の鎮まる日向神社」としてまつられることになった。まさに現代の岩石信仰だ。

写真奥がきんちゃく岩(写真手前は前伏磐)


天乃石立神社の今昔


四柱の巨岩にはそれぞれ神社名が冠されているが、これらは比較的最近に名付けられたものと考えられている。
土井実氏の論考「天石立神社」(1985年)によると、これらは『延喜式』神名帳に記載されている、大和国北東部に属する式内社の社名を用いたのではないかと指摘している。

四柱のうち、「天立神社」の名だけは神名帳に記載されていないが、おそらくこれは「石立神社(五百立神社)」のことで、五百立(イホタチ)神社(奈良市)の「五百(イホ)」は「石(イハ)」の転化だと土井氏は述べる。
このような「石」に関連する式内社をピックアップし、それを四柱の岩にそれぞれ当てたのだろう。

このうち、きんちゃく岩は先述のように後出の岩石信仰で、天乃石立神社の核となるのは前立磐・前伏磐・後立磐の3体となる。
これら3体だけを一括して「神戸岩(かんべいわ)」という呼称がある。

「神戸」の名は古く律令期にさかのぼり、天乃石立神社が鎮座する小柳生庄・坂原庄・邑地庄・大柳生庄は「神戸四か郷」と呼ばれてきた(土井1985)。
この神戸四か郷を藤原頼通(992~1074)が春日大社に寄進した時、言い伝えでは神戸岩が突然鳴り動いたという。これは岩が怒ったというのではなく、喜んでいるという風に受け取られた。その証拠に、以降、朝廷で何か慶事がある度に「神戸岩」は鳴動したといい、朝廷神話に彩られ天津神をまつる当社らしい伝承と言える。

元来は天岩戸の欠片(神跡)に過ぎないはずだが、岩自身が目に見える行動を起こしたという点は、多分に石神的要素を帯びている。
現在、神戸岩の三体がそれぞれ社殿代わりにされていることも、岩石に常に神宿るという意味で石神的と言えるだろう。

一刀石


天乃石立神社は江戸時代、柳生藩の篤い崇敬を受けていた。
柳生町といえば剣豪の住まう柳生の里として有名だが、その柳生一族が厳粛な修行の場として選んだ所の一つに天乃石立神社があった。

  • 1645年(正保2年)、柳生藩祖の柳生宗矩が神社参道の整備を実施。
  • 1705年(宝永2年)、柳生宗弘が能舞台と石燈籠1基を寄進。
  • 1742年(寛保2年)、柳生俊平が石燈籠1基を寄進。

柳生新陰流開祖の柳生宗厳(1527~1606)が、この神社一帯で身体的・精神的修行を行なっていたことを伝える聖跡が伝わる。それが、天乃石立神社から少し奥まったところに存在する「一刀石」である。

一刀石

一刀石は長さ8m、幅7m、高さ2mの饅頭形の花崗岩で、縦に亀裂が走り岩石が真っ二つに割れている。

伝えによると、柳生宗厳がある夜修行していると天狗が現れたので対決し、この天狗を一刀両断した感触があったので戦いを止めたが、翌日その場に見に行ってみると、そこには真っ二つに裂けた大岩があるだけだったという。
天狗と宗厳の霊威を「伝説」というかたちで語る聖跡だ。

亀裂の原理は花崗岩の摂理現象によるものが、西田氏論文「一刀石」では大略「花崗岩は地表に現れると風化にあい、潜在的に摂理現象が進行する。そして、潜在期間を経るととうとう表面の亀裂というかたちで顕在化し、時によっては急に亀裂が走ることもある。一刀石はその可能性が指摘でき、一夜たったら岩石が真っ二つに割れていたという伝説を考慮すると、なお興味深い」と言及している。
もしかしたら柳生宗厳や宗矩が生きていた時代に、その現象が起こったのかもしれないと考えると面白い。

なお、一刀石はこれほど特異な外観を持つにも関わらず、天乃石立神社の社伝や信仰史の中には登場しない。
それは単に記録上見られないだけで水面下では同様に神聖視されていたのか、それとも元々は亀裂が発生しておらず特別視されていなかったことを示すのか、一刀石の亀裂時期を考えるにおいて参考にしたい。

参考文献


  • 志賀剛「天乃石立神社」『式内社の研究 第2巻 宮中・京中・大和編』 雄山閣、1977年
  • 土井実「天石立神社」 谷川健一(編)『日本の神々-神社と聖地 第4巻 大和』 白水社、1985年
  • 西田史郎「一刀石」http://earth.nara-edu.ac.jp/nishida/PDF100MA/106.pdf(サイト「奈良教育大学地学教室(地質鉱物学分野)」 内)→2002年10月16日アクセス。現在リンク切れ。


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