2019年3月27日水曜日

三尊仏/夫婦岩(富山県黒部市)



黒部峡谷鉄道の釣鐘駅を降りて、徒歩1分の場所にある。

三尊仏

岩陰を庇として、三尊仏を安置する。

三尊仏

由来については、現地に立っていた看板が名文につき全文掲載したい。

三尊仏の由来

昭和十一年七月十五日、当町出身(宇奈月浦山)の新保フサ女に神告があり、「黒部ダム、黒四発電所建設の工事が始まるから、人間の災難、渓谷や、宇奈月町の災害を少なくするために、大日如来、釈迦如来、弥陀如来の三像を作り、この釣鐘の地に安置せよ」の神告で急いで三体をここに置いた。(黒部ダム建設の三十年前)
新保フサ女は四十日間高熱で生死をさまよう苦しみの後、霊感者、予言者となり、昭和元年に戦争の予告、敗戦や広島への原爆を予言し、刑務所へ収監された。彼女が予言した生地の大火、大阪の万博、愛本橋の流失はいずれも適中、実現している。
フサ女は善光寺へ参詣すること二百五十回に及ぶ。生存中の母の狂女扱いされた娘たちの母への孝養のため、この三尊のいわれを記したものである。

昭和六十年八月一日

宇奈月町浦山 森内すい
黒部町植木 新村はる

三尊仏

事実はどうあれ、まさに昭和に生まれ、昭和を駆け抜けた民俗である。
三尊仏とこの看板がなかったら、この一人の女性が抱いた情念は他人に広まらなかっただろう。

三尊仏

三尊仏の裏にも岩盤が続いている。
三尊仏がまつられたこの岩一帯を夫婦岩と呼ぶのだと思うが、どのような由来によるものかはわからなかった。

2019年3月25日月曜日

大村神社の要石(三重県伊賀市)


三重県伊賀市阿保

伊賀国造・阿保氏の祖神である「大村の神」(息速別命)をまつったのが大村神社だ。
境内には、崇敬する地区別に専用の参籠所が各々建てられており、信仰の篤さが漂う神域である。

大村神社
大村神社の参道の様子。雰囲気がとても良い。

境内に要石社が鎮座する。
要石と言えば、鹿島神宮や香取神宮のものが著名だが、大村神社のそれは関西を代表する要石と言える。

要石の機能は鹿島・香取両宮のものと全く同じ。
大地の荒ぶりを鎮め、地震を防ぐ霊石として信仰されている。

大村神社
要石社

大村神社
要石(手前の石は「要石」と刻字した石標)

大村神社

沿革は次のとおりである。

神護景雲元年(767年)、武甕槌命と経津主命(鹿島と香取の祭神)が常陸下総から三笠山(春日大社)に遷幸する道中、大村神社に宿泊した時にこの要石を奉献したという。
 8世紀に日本神話の神が主体になって動いた記録というのも面白いが、鹿島・香取・春日と、中臣氏の影響が色濃く立ち込める。

また、鹿島大社の要石は水戸黄門が地中を掘ろうとしてあきらめた話が伝わっているが、大村神社の要石は掘られたり、掘ろうとされたりした逸話は伝わっていない。

要石の霊験発動の歴史を現地看板より引用しよう。なかなか広範囲に及ぶ戦績だ。

  • 安政元年 伊賀上野・四日市
  • 大正十二年 関東
  • 昭和二年 奥丹後
  • 昭和十九年 北伊勢湾沿岸


さて、要石は「信仰の対象」であり「鎮魂の祭祀道具」でもあるという、二面性を持つことについて触れておきたい。

要石は「要石社」として独立した社を持ち、要石自体が「霊の宿った岩石」として信仰・祭祀の対象となっていることは揺るぎのない事実である。

その一方で、要石は伝承上、道中に立ち寄った神々による捧げ物で、国土を鎮めるために設置した祭具として語られている。

道具であり、信仰対象でもあるという、この一見相反した性質をどのように考えればいいか。

この要石に語り継がれてきた歌にヒントが入っていると私は思う。

「ゆるぐとも よもやぬけまじ 要石 大村神の あらんかぎりは」
と詠まれる歌だ。

ここからわかるのは、人々は要石を通して「大村神」を見ているということ。
要石に独立した神格を見ているのではなく、大村神社の主祭神である「大村の神」をかぶらせて見ている。
これは、武甕槌命・経津主命が「捧げ物」とした瞬間、この岩石が「大村の神」の所有物になったという図式と矛盾しないだろう。
神の霊力を送り込み、国土を守護するという祭祀目的を達成するために機能するツール。それが大村神社の要石と理解できる。

2019年3月24日日曜日

岩井堂観音(埼玉県飯能市)


埼玉県飯能市岩渕

岩井堂観音と東京浅草寺の奇縁


継体天皇期、不詳の旅僧が霊験を得て、成木川沿いに露出する岩肌上に、聖観音像と堂宇を建立したのが始まりという。

岩井堂観音
岩井堂観音の岩肌

縁起には後日談がある。

安閑天皇期に暴風雨が起き、この堂宇と聖観音像は成木川へ流された。
聖観音像は、時代を経て推古天皇36年(628年)、浅草浦で2人の漁夫に発見された。
その聖観音を本尊として建てたのが東京浅草寺という。

東京浅草寺の淵源ともいうべき奇縁であるが、浅草寺側は公式にこのことについて立場をはっきりしていないようだ。
ただ、浅草寺第24代貫主だった清水谷恭順はこの口承を史実とみなし、昭和8年9月15日に1体の聖観音像(浅草寺の本尊とは別のもの)を岩井堂観音に奉還している。


岩井堂の岩山


岩井堂は巖堂の転訛とされ、名が示すとおり岩山に座す堂である。
仏僧が岩場で霊験を得たことからも、岩は単なるランドマークにとどまらない。

岩井堂観音
岩の背後には2棟の小祠がまつられており、仏だけでなくここに神々を見た人々もいる。

岩井堂観音
岩山の頂上は、単体の岩塊がまるで置いてあるかのように盛り上がっており、その手前は斎庭のごとく平坦面が広がっている。

岩井堂観音
この広場からは、成木川対岸の集落を見渡す良好な眺望を有し、私の探訪日には見えなかったが富士山も望めるという。

岩井堂観音
聖観音が流されたという成木川。岩山の下に流れており、ここに深い淵があることから岩渕の字名が起こったらしい。

女夫石遺跡(山梨県韮崎市)


山梨県韮崎市穂坂町宮久保 字 女夫石

縄文時代の住居跡、土器の廃棄場、配石遺構などが見つかった遺跡である。

唐沢、または権現沢という名を持つ川が流れており、川沿いに形成された集落と推定されている。

集落であるから生活の痕跡としての遺跡であるが、地中を掘り進んでいくと大きな岩塊(おそらく自然石)が複数地点で見つかった。

岩塊の周辺からは、ミニチュア土器が固まって見つかったものや、破損した状態の石棒が傍らで出土した。
また、遺跡全体からは約50個体の土偶が見つかり、祭祀行為を思わせる遺物が多い遺跡だという。

さらに、遺跡地を見下ろすように、「女夫石」と呼ばれる2体の岩石が現存する。
由来は情報収集不足につき不明だが、おそらく女夫石も自然石と思われ、女夫石遺跡が集落として機能していた頃からすでにそこにあったものと思われる。

女夫石と遺跡との関わりは不明だが、地中の岩塊群と遺物群の関係といい、なにかと岩石と祭祀の縁を感じる。

女夫石
女夫石の大きなほう。ここから遺物が見つかったわけではなく、遺跡地はもう少し斜面下。

女夫石
奥側の小さなほうの岩石は枯れ草に覆われ気味。

女夫石
女夫石の下からは、川に向けて斜面が続いている。

秋分の日、遺跡地から地蔵ヶ岳を眺めると、ちょうど地蔵ヶ岳の山頂に日が沈むという。
また、その1ヶ月前には、甲斐駒ケ岳の山頂に日が沈むのを見られるのだという。
遺跡の人々がこの現象を当時どれほど意識していたかはわからないが、発掘調査者が気付くぐらいであるから、そこにずっと住んでいた人々も体感できた現象だろう。遺跡地がここに選ばれた理由の一つかもしれない。

※女夫石遺跡については、韮崎市ホームページの中で発掘調査当時の調査速報や現説資料をPDF化されている。
女夫石遺跡の発掘概要 | 韮崎市

2019年3月17日日曜日

飛鳥の石造物と岩石信仰(奈良県高市郡明日香村)



御厨子神社の月輪石


御厨子神社境内に鎮座。
饅頭型の巨石の中心を、斜めからスライスしたような亀裂が印象に残る。この亀裂と直交するかのように異なる石質の層が直線状に走っているのにも注目したい。
手前に注連縄と紙四手が飾られ神聖視されていることはうかがえるが、情報収集不足もあり来歴は不明。

飛鳥の石造物群
月輪石

飛鳥の石造物群
月輪石近景


御厨子山妙法寺の光明不動


妙法寺の入口路傍に岩肌を見せる小さな自然石。
この岩肌に不動明王の姿が見えれば眼病が治るといわれる。

飛鳥の石造物群
光明不動


天香山神社


天香久山の北麓に鎮座し、山をまつる神社と考えられる。
本殿背後の斜面から岩肌が露出しており、これが社殿建築以前の祭祀の場だったという説もあるが定かではない。

飛鳥の石造物群
天香久山(フグリ山から望む)

飛鳥の石造物群
天香山神社

飛鳥の石造物群
天香山神社本殿背後の岩肌


天岩戸神社


天香久山の南麓に鎮座。
天照大神が日本神話の岩戸隠れを行なったと伝えられる場所で、拝殿の裏に4体の岩の集積があって岩室状の空間を形成している。これを天岩戸としてまつっている。
玉垣内に真竹が自生し、毎年7本ずつ生え変わることから「七本竹」と呼んでいる。

飛鳥の石造物群
天岩戸


天香久山の「月の誕生石」と「蛇つなぎ石」


未訪。天香久山の山中にあるらしい。

「月の誕生石」は月を産んだ岩石といい、その産湯と足跡が岩石に残るという特異な由来を持つ。
「蛇つなぎ石」は岩肌に蛇が巻きついているかのような石のシワが残るという。


豊浦の立石


飛鳥には「立石」と呼ばれるものがあり、豊浦・小原・岡・川原・上居・立部の6ヶ所に散在している。

その内の1つ、豊浦の立石は甘樫坐神社の境内に残る。
甘樫坐神社は『日本書紀』印恭天皇条で明神探湯が行なわれた場所に比定されており、その故事を模して現在は立石の前で4月に明神探湯神事が行なわれている。甘樫の神を立石に擬して、神である立石の前で神事を行なうという構造と解される。

ただ、元来の立石の役割については不明であり、一般的には飛鳥京の条理の地割り石だったという説や、寺域を示していたなどといわれている。

飛鳥の石造物群
豊浦の立石。手前は明神探湯神事に使う炉。


須弥山石・石人像


斉明天皇期の漏刻台(水時計台)とされる水落遺跡のすぐ近くから出土した石造物。現在は飛鳥資料館の館内に移設展示されている。
須弥山石・石人像ともに内部に導水構造を有し、配水施設と組み合わせれば石像から噴水が出る構造となっている。
『日本書紀』に斉明天皇が須弥山石のもとで饗宴を催したという記述があり、これに該当するのではないかと考えられている。

飛鳥の石造物群
須弥山石(飛鳥資料館レプリカ)


弥勒石


入鹿の首塚の南に位置。胴体はずんぐりと長く屹立し、目鼻立ちは摩滅してしまっているがしっかりとした頭部を持つ石造物。
弥勒石という響きとは裏腹の素朴な造形であるが、現在でも供え物が絶えず信仰されている。下半身の病に霊験ありという。

飛鳥の石造物群
弥勒石


飛鳥坐神社の立石群


飛鳥坐神社は鳥形山という小山の上に鎮座する。大字は「飛鳥」、小字は「神奈備」。

境内そこかしこに棒状の立石が安置されている。陽石が参道に一直線に並び続けている。

飛鳥の石造物群
むすびの神石
むすびの神石は、陽石と陰石が一対になって並んでいる。陽石ばかりのこの神社において、陰石を要する珍しい例である。

飛鳥の石造物群
奥の大石

「奥の大石」は、奥社の中にある。高皇産霊神が宿る霊石とされている。


小原の立石


前述の通り、飛鳥の立石群の1つとして伝えられているが、現在は場所が特定できず行方不明という。


亀形石造物


2000年の発掘調査による出土で一躍有名になった飛鳥の石造物のニューフェイス。
斉明天皇期の遺跡と考えられ、亀形石造物とその手前に接する小判形石造物を中心に、その周囲から敷石遺構、配水遺構などが見つかった。
石造物自体も水を溜め込み次に導水するという配置構造を持っていることから、『日本書紀』において斉明天皇が手がけた石造工事の遺跡だというのが大方の見方となっている。

飛鳥の石造物群
亀形石造物


岡の酒船石


飛鳥の謎の石造物の代表格として知られる。
石の表面に円形の窪みと直線状の溝が幾何学的に配置された造形物で、石の左右端は削り取られているため完全な形は分からなくなっている。その用途を巡っては、窪みに酒を流し込んでいたとか、何らかの液体の調合装置だったとか、地図や天文台説も唱えられ、古くから諸説入り乱れた。

2000年に上述の亀形石造物が出土。酒船石周囲の山腹斜面からも石垣遺構などが発見され、亀形石造物と酒船石をつなぐ石造の水路のような遺構も見つかったことから、酒船石と亀形石造物を含む周辺一帯が大規模な導水施設として機能していたのではないかという説が有力になっている。
しかしこの導水施設がどのような目的に基づいて築かれたものだったのかについては結論が出ていない。水あるいは液体を流すための造形ということは分かったが、鑑賞対象としての庭園だったのか、宴の場だったのか、祭祀の要素も入っていたのか、それとも実用的な用途に使われていたのか、製作者の意図まではまだ読めていない。

飛鳥の石造物群
岡の酒船石


出水の酒船石


岡の酒船石と類似した溝を持つ石造物。
実物は京都市南禅寺の碧雲荘に運ばれているが、レプリカを飛鳥資料館で見ることができる。


川原の立石


出水の酒船石から飛鳥川を挟んだ向い側に存在。
現在は地中に埋められている。


岡寺奥の院彌勒堂


日本最大の塑像である如意輪観音を本尊とし、663年に草壁皇子の住んでいた岡の宮を仏寺にしたのが始まりという。
奥の院彌勒堂は石窟になっており弥勒仏をまつっている。石仏のほかにも仏足石・板碑など数多くの石造物を見ることができる。

飛鳥の石造物群
奥の院(写真中央)


岡の立石


未訪。岡寺仁王門の北から細い山道を登っていくと高さ約3mの立石があるという。


上居の立石


石舞台古墳から東の車道沿いにあり分かりやすい。高さ1.9m。

飛鳥の石造物群
上居の立石


マラ石


マラ石という名前から性石信仰の名残と見る立場もあるが、マラ石という命名は考古学者の石田茂作によるものとされ、やや誘導的な名称と言える。他の立石と同様、京域・寺域の標石ではないかという見方も可能だろう。
飛鳥川を挟んだ対岸にフグリ山(ミワ山)があり、マラ石がこの山を方向に傾いて立っていることから両者の関連を述べる向きもあるが、マラ石は元来直立していたとの説もある。

飛鳥の石造物群
マラ石


フグリ山/ミワ山


石舞台古墳の南方にそびえる丘陵をフグリ山あるいはミワ山と呼ぶ。
山頂尾根上に岩石の露頭が群集し、神聖視されていた磐座ではないかという説があるが、そのことを裏付ける歴史資料に欠け真相は不明。

飛鳥の石造物群
フグリ山/ミワ山(北東から撮影)

飛鳥の石造物群
山頂尾根の露岩群

飛鳥の石造物群
露岩群の一部


くつな石


昔、ある石屋がこの石にノミを一打ちしたところ赤い血が噴出し、傷ついた蛇が現れたので、石屋は恐ろしくなって逃げ帰った。しかしその夜から熱と腹痛に冒され、やがて亡くなってしまった。村人は神の祟りだと畏れ、この岩石を神の宿る石としてまつったという。

伝承の内容から、これは磐座ではなく石神の事例である。山の斜面から板状の石がせり出しており、大きさ自体は人の背丈ほどで目を引く規模ではない。伝承を信じると信仰の開始時期は後代に下るようだが、立地は山腹谷間川沿いであり、伝承にも蛇が登場するように水の信仰を想起させる場でもある。
くつな石の手前には鳥居が設けられ、川には小ぶりの滝の禊場が設けられているが、これらは後世に敷設されたもの。

飛鳥の石造物群
くつな石


橘寺(二面石・三光石)


聖徳太子の生誕伝承地。

二面石は、高さ1mほどの石の裏表両面に顔が彫られている。人間の善悪両面を石に表現したものだと説明されている。

三光石は、3つの石が凝り固まったかのような形をしている。伝承では聖徳太子が経講を行なった際、この石が光輝き、日の光、月の光、星の光が放たれたといわれる。
聖徳太子の神聖な足跡を今に伝える働きを持った岩石である。

飛鳥の石造物群
二面石

飛鳥の石造物群
三光石


立部の立石


未訪。定林寺跡にあり、立石というが地表からちょっと顔を出す程度の岩石だという。


亀石


前方部に目・鼻・口が付いて、後ろは甲羅みたいな物が盛り上がって彫られている。亀の形状を模したものとされるが、一説によると甲羅の部分に羽の様な物が付いていたという話もある。

昔、川原のナマズと当麻のヘビが大和湖を巡って争いがあり、ナマズが負けて湖の水はヘビに取られてしまったので、川原にいた亀が枯死してしまった。これを哀れに思った村人が供養のために作ったのが亀石という。
亀石はかつて東を向いていたというが、少しずつ西に向いていっているといわれる。現在南西を向いているが、西の当麻方向を向いた時には大和一帯が泥の海になると言い伝えられている。
現状では祭祀に用いられてはいないが、伝承の中では供養祭祀のための装置として用いられており、岩石祭祀の事例と言える。

飛鳥の石造物群
亀石


鬼の俎と鬼の雪隠/鬼の厠


道行く人々を鬼が襲い、俎で捕食しその後雪隠で用を足したとの伝説がある。恐れられるべき存在ではあるが、その災禍を鎮めるような祭祀は行なわれておらず、岩石祭祀の事例とまでは言えない。

昔は何の用途のものだったか謎だったが、現在では横穴式石槨の底石(俎)と蓋石(雪隠)だったことが判明し、天武・持統天皇期の型式であるとされている。

飛鳥の石造物群
鬼の俎

飛鳥の石造物群
鬼の雪隠/鬼の厠


猿石


欽明天皇陵に隣接して吉備姫王墓という古墳がある。宮内庁管理のため玉垣が設けられており、その玉垣内に猿石と総称される4体の石造物がある。
正面向かって左から「女」「山王権現」「僧」「男」という名称が付けられており、これらは元禄2年(1702年)に田んぼの中から見つかり、明治時代になって現在地に移設されたという経歴を持つ。
猿を彫刻したとも異国人の風貌であるとも、韓国済州島のトルハルバンやサイパンにある石像が猿石と似ているともいわれる。

飛鳥の石造物群
「女」と「山王権現」

飛鳥の石造物群
「僧」と「男」


高取の猿石


未訪。高取城の登山道途中にある。前述の猿石4体と同時に出土したという話がある。

飛鳥の石造物群
高取の猿石(飛鳥資料館レプリカ)


益田の岩船


飛鳥の石造物の中でも最も巨大なスケールを誇る。
住宅団地(橿原ニュータウン)の突き当たりの丘陵にあり、急な山道を5分ほど登ると高さ5~6m、総重量900tに達するという岩船がある。付近には露岩の存在が見当たらないことから、これは人工的に運搬されてきたものであるともいわれているが、その巨大さと立地の急峻さからにわかには信じがたい。
石の表面にはまるでタイルを貼り付けたかのような格子状の彫刻があり、頂面には2つの方形穴とそれをつなぐ浅い直線の彫りが見られる。この頂面を横倒しにすると、2つの横口式石槨の形状となることから古墳石室石材説が有力であるが、定説には至っていない。

飛鳥の石造物群
益田の岩船。寄りかかっている大木と比較してその巨大さが分かる。


人頭石


現在、広永寺境内に手水石として存在。
独特な風貌を持ち、猿石と同時に見つかったものともいわれているが詳細は分からなくなっている。

飛鳥の石造物群
人頭石(飛鳥資料館レプリカ)


天津石門別神社


かつて九頭神社/九頭明神/九頭龍明神などと呼ばれていたが、『延喜式神名帳』記載の天津石門別神社に比定され以後社名を現在のものとした。
本殿は木造建築物ではなく、榊の周りを板石で囲んでそれを祭祀対象としたもの。榊を神霊の宿る神籬とし、周囲の板石はまさに磐境と呼べる役割を負っている。時代は不明だが、磐境祭祀の実例と認められる。

飛鳥の石造物群
天津石門別神社

飛鳥の石造物群
基壇の上にさらに板石が榊を囲んでいる。

2019年3月11日月曜日

三輪山の磐座群と周辺の岩石信仰(奈良県桜井市)



三輪山の磐座研究


嘉禄2年(1226年)成立という『大三輪神三社鎮座次第』によれば、三輪山には「奥津磐座 大物主命」「中津磐座 大巳貴命」「辺津磐座 少彦名命」がまつられ、山中の三ヶ所に磐座があることを記している。

三輪山
 三輪山(奈良県桜井市) 標高467.1m

三輪山
三輪山の祭神をまつる大神神社

ただ、『大三輪神三社鎮座次第』は後世のものによる作(中世~近世)という批判も根強く、仮に中世の言説としても、この「奥津」「中津」「辺津」 という概念がいつまで遡れるものかははっきりしていない。

また、実際には三輪山の中におびただしい数の岩石が散在しており(樋口清之氏「三輪山上に於ける巨石群」1927年、中山和敬氏『大神神社<改訂新版>』1999年)、「奥津」「中津」「辺津」の3つの単体の磐座があるというわけではない。

山中にとどまらず、山麓にも複数の岩石信仰の場が確認されている。
中には、後述する山ノ神遺跡・奥垣内遺跡のように、巨石の周辺から古墳時代の祭祀遺物が出土した遺跡があり、勾玉や石製模造品・土製模造品の遺物散布地も三輪山麓には多く見つかっている。

 これら古墳時代の遺跡群は文献資料がなく、岩石の性格を物語るのは本来難しい。
「三輪山の岩石信仰」=「磐座」という半ば定説化したイメージがあるが、岩石信仰は磐座祭祀の形態だけではない。
すべてがすべて「磐座」の機能を担う岩石だったのか、三輪山研究者が安易に断定しているのは早計だと私は思っている。

奈良盆地の西側にそびえる春日山系の山々はいずれも花崗岩地質で構成されているが、三輪山はそれとは異質の斑糲岩から成り立っている山である。
この岩質の違いが、大和盆地の山岳信仰の中でも三輪山が独自の位置を占める一つの要因になったのかもしれない。


樋口清之氏の「三輪山上に於ける巨石群」


三輪山の山内は写真撮影が厳禁のため、山中の様子は一切写真なしで報告しなければいけない。

三輪山
登山口となっている狭井神社

山中には無数の岩石群があるが、文化財上は2つのグループに分けられている。
1つは、拝殿背後の尾根上に分布する「禁足地裏磐座群」である。
もう1つは、玄賓庵の裏のオーカミ谷と呼ばれる谷間を中心に分布する「オーカミ谷磐座群」である。

考古学者の樋口清之氏は奈良県桜井市の出身であり、青年期に三輪山中を踏査してその様相を論文「三輪山上に於ける巨石群」(1927年)で発表した。

ここで樋口氏は、オーカミ谷の岩石群をA~Eの5群に分類している。

たとえば、玄賓庵南側丘陵上のA群、北側丘陵上のB群は後世の石材利用などにより原状をとどめていないと指摘している。
そして、玄賓庵裏のC群と山頂やや西斜面下のE群は大規模な岩群で、人為的に列石を構築したような規則的な配置も見られると報告している。

しかし、これらの多くは現在許可されている登山道の外に存在しているため、実見者が樋口氏だけという状況であり、人為性が本当にあるのかなどについての再検証はできていない状況である。


大神神社が認定する「三輪山中の公式な磐座」


大神神社の宮司である中山和敬氏『大神神社<改訂新版>』(1999年)には、大神神社神地課が「典型的なものとして折紙をつけた磐座」がマップ化されており、そのドット数は26ヶ所に及ぶ。
中山氏は「磐座線」という表現を用い、4種類のルートを紹介している。

  • 社殿裏の禁足地から山頂までの線:山腹に3ヶ所、山頂近くに3ヶ所
  • 山ノ神遺跡から山頂までの線:山腹に5ヶ所、山頂近くに2ヶ所
  • 檜原神社からオーカミ谷を経由して山頂までの線:山腹に5ヶ所、山頂近くに2ヶ所
  • 三輪山南の脇本区から山頂までの線:山頂近くに10ヶ所
※各ルート同士で重複している箇所あり。詳細は前掲書参照。

「磐座線」とは言うが、いわゆる直線状に磐座が並ぶという類の話ではなく、山麓から三輪山を拝する時の「辺津-中津-奥津」の3ヶ所の磐座がどこのことを指していたか、その想定として4種類の「遥拝の視線」を提示したという意図であることに注意したい。

合計26ヶ所とはかなりの数に上るが、そのほとんどが登拝道から外れた立入禁止の場所にあり、実態はやはり判然としない。
その内の数ヶ所は、樋口氏が報告した磐座と地点が重なるものもあるだろう。

また、山ノ神遺跡の東山中に位置する月山谷には「百目石」、オーカミ谷中腹に「鏡石」、三輪山の東山腹に「木斛」という3ヶ所に関して固有名詞が付されている。
「木斛」は単に樹木のモッコクを指しているだけかもしれないが、百目石・鏡石という名が存在することは注目していいだろう。


登拝道で見られる磐座


では、実際に登拝すると出会える磐座はどのようなものか。

登拝道の道中には、多くの岩石に注連縄が巻かれている光景に出会う。
奥津磐座を除いて、合計7ヶ所においてそのような磐座を確認することができた。
ただ、これらの岩石は先述した中山氏の挙げた26ヶ所から地点の外れたものが多い。
かつて神社が認定した磐座だけでなく、新たにまつられた磐座や、神社側ではなく篤信家の方によってまつられた磐座かもしれない可能性を記しておく。

まず、登拝口と山ノ神遺跡と三光の滝(篤信家によって整備された禊の滝)の3ポイントのほぼ中間に、最初の1ヶ所目に出会える。
ここは三光谷の入口に位置し、登拝口から徒歩約10分の地点である。

次に、三光の滝から尾根を約15分登った山腹に、杉の巨木と共に注連縄の結界が張られた岩群地帯がある。これが2ヶ所目。

さらにそこから5分ほど登った路傍に、人工的に小石を配して磐境状に仕立てた祭り場があり、賽銭も捧げられていた。これが3ヶ所目。

そして、やや視界の開けた広めの尾根を登り、傾斜がやや急になる坂の途中に複数の露岩があり、まつられている。これが4ヶ所目。

坂を登りきると、そこはもう山頂近くに達するが、そこに近接しあって3ヶ所、注連縄の巻かれた岩石がある。そのうち1ヶ所は、二重に注連縄が巻かれていた。

以上、合計7ヶ所の「磐座」と目される岩石群を文面で報告しておく。

山頂の奥津磐座


山頂には高宮神社という祠があり、大物主神の子・日向御子神をまつっている。

祠の周囲は池のように地形が窪んでいる。
旱魃などが起こった時にだけ人々が特別に参拝でき、降雨を祈れば必ず霊験があったといわれる場所で、江戸時代の入山記録も残っている。

先出の樋口氏によれば、高宮神社の南西と北西にFとGの2つの群があり、それは環状列石のような配置を見せる好資料と記している。
登拝道から外れるわけにはいかないので、目を凝らしながら山林の中を観察する程度だったが、そのような環状列石は確認できなかった。
ただ、山林に一部露岩が隠れているのを、高宮神社南西にて僅かながら確認することはできた。それがF群に該当するかどうかはわからない。

高宮神社は山頂にあるが、そこから東に50mほど進んだところに、三輪山磐座群の頂点に位置付けられる「奥津磐座」がある。

大小無数の黒光りした斑糲岩が群集している。
手前から拝んでいる限りでは、岩群の一番奥がどういう様子になっているのか見えない。
空間的な広がりを持つ磐座と言える。

群集の具合は、互いの岩石が高さ無関係で無造作に上下に重なり合いつつも、全体としては地山がほとんど見えないほどに岩石が間断なく敷き詰められており、整然とも雑然とも言えない群集状態である。
ちょうど賽銭箱の奥に位置する岩石は他よりも若干巨大で、外見も亀裂・岩陰を持ち印象的ではある。中心石という位置づけが正しいかは控えなければならない。

奥津磐座のさらに東には、東青木原や東大谷と呼ばれる場所があり、ここだけで9ヶ所の磐座が大神神社に認定されている。

以上、おびただしい磐座の報告となったが、一つの岩石に祭祀が集中することはなく、山から露出するあらゆる岩石に神性を見ようとする心が窺えるだろう。
地山から露わになった岩石が遍在的に神聖視されているという性質が、三輪山という神体山と、数多の祭祀遺跡(祭り場)との関係性をあらわしているように思えてならない。

次の章からは、山中から出て三輪山周辺の岩石祭祀事例を紹介していこう。


九日社


多紀理比売命・狭依理比売命・多岐津比売命をまつる神社。
樋口清之氏「三輪山上に於ける巨石群」(1927年)において、三輪山周辺の拝石の事例として挙げられている。
『桜井市文化財協会『平成12年度秋季特別展解説書 三輪山周辺の考古学』(2000年)の中では「陰陽石」として記載されている。

2体の岩塊が横に並んだ社だが、双方とも高さ50cmほどの小ぶりな規模であり、どれほどの旧状をとどめて、いつ頃からの祭祀跡なのかには検討の余地がある。
九日社の「ほぼ」真東に三輪山頂が位置している。

三輪山
九日社の「陰陽石」


綱越神社


祓戸大神をまつる神社。
桜井市文化財協会『平成12年度秋季特別展解説書 三輪山周辺の考古学』(2000年)に「磐座」との記載あり。

神社境内の一角に位置し、まつられていることは明らかだが詳細は不明。

三輪山
綱越神社の「磐座」


素佐男神社


樋口清之氏「三輪山上に於ける巨石群」(1927年)によると「薬師堂祇園社 二箇 伏」として報告され、岩石の名前は「夫婦岩」と書いている。
他に「回り石」という名前もある。この石の周りを3度回る儀礼が伝わっている。

三輪山
素佐男神社の「夫婦岩/周り石」


志貴御県坐神社


記紀の中で第10代崇神天皇が都を置いた「磯城瑞籬宮」の伝説上の場所とされる。
社殿脇に4個の丸石が横一列に並んでおり、4個の石の手前に玉垣と石鳥居が付設されている。
俗に「磐境」と呼ばれる比較的有名な存在だが、それに比して具体的ないわれなどは不明。

三輪山
玉垣の奥に4体の岩石が横並びに置かれている


平等寺


寺伝によれば、敏達天皇10年(581年)に聖徳太子が賊徒平定後に十二面観音菩薩を本尊として開基した大三輪寺といわれ、歴史的には鎌倉時代以降に大神神社の神宮寺として栄えたという。

境内の最奥部に「岩屋不動」と「磐座」がある。

「岩屋不動」は人工的に切り石を組んだ石窟の内部に、不動明王の石仏と梵字「ア」(広く仏を表す梵字)の刻まれた石碑と黒色化の進んだ立石の計3つを安置する。

「磐座」は「影向石」の名もあり、地主神をまつる場という。「ドルメン」という形容がぴったりくる構造物だ。

三輪山
岩屋不動内部

三輪山
磐座/影向石。上の岩屋不動とまつり方が違う。


大直禰子神社


大神神社の表参道の途中を北側に曲がると大直禰子神社が鎮座する。

主祭神の大直禰子命(大田田根子命)は、崇神天皇の時代に任命された、大神神社の最初の神官だという。三輪氏の始祖で、大物主神の子孫にも当たるので、若宮として位置付けられた。
明治時代の神仏分離の前までは「大神寺」「大御輪寺」「三輪寺」といい、大神神社の神宮寺としての位置付けでもあった。

この神社の境内には「神饌石」と「安産岩」がある。
神饌石は、正月元旦の神火祭の時に、若宮社のすぐ東方にある久延彦神社に対する神饌(神への供え物)を置く石として使われている。
久延彦神社を遥拝する時はこの石の地点から遥拝するように、という話もある。

神饌石は、かつてはこのような使われ方をされておらず、以前は境内に転がっているだけだったともいわれている。
少なくとも現在においては、岩石自体が神そのものという訳ではないが、祭祀行為に用いられ神聖視されているという岩石祭祀事例である。 

安産岩については、名称から安産に霊験のある岩石と推測されるが詳細不明。

三輪山
神饌石

三輪山
安産岩


夫婦岩


大神神社の表参道を進んでいくと、参道脇に「夫婦岩(めおといわ)」と看板の立つ、2個の草履状の岩石が柵内に安置されている。

「夫婦岩」の名が示すようにいわゆる縁結び・安産の霊験を持つとされる岩石だが、昔は「影向岩(ようごういわ)」「聖天岩(しょうてんいわ)」という名称だったことがわかっている。

「影向」「聖天」という名から、信仰対象が顕現する岩石だったことが伝わる。
また、江戸時代の神社絵図を見ると、参道の中央を塞ぐように「聖天岩」と記載されている。

参道脇にある現在とは「場所」も「名前」も「性格」も異なっていたことがわかる。それはすなわち、岩石に対する認識の仕方が時代で異なっていたことを示す。
他の岩石祭祀の事例を研究する時も、同様の経緯をたどったケースが多く潜んでいるのではないかという啓発資料にもなりうる。

三輪山
夫婦岩/影向岩/聖天岩


磐座神社


名前の通り、元は磐座だった岩石を神体としてまつる。
玉垣の中には、人頭大ほどの大きさしかない岩石が安置されている。
巨石や巨岩でなくても、神聖視される岩石は存在する。この事実を現代人に常に突きつける存在である。

なお、『大神神社摂末社由緒調査書』(1877年)によれば、磐座神社は別称として、三穂神社・石神皇后神社・岩上皇后社・岩倉社・岩倉祠・岩上宮・石上社があったことが明らかにされている。
三穂神社・皇后神社の名から、かつては大物主命の后である三穂津姫命を祭神とする神社だったようだ。
岩上・石上からは、岩神・石神に通ずる信仰もあったことを窺わせる。

三輪山
磐座神社


山ノ神遺跡


狭井神社から北東の方向は谷間になっていて、狭井川沿いに踏み跡が続いている。
この踏み跡を5分ほど進んでいくと、三輪山の裾部に山ノ神遺跡が存在する。

三輪山の磐座群は神聖不可侵のため基本的に学術調査ができないが、たまたまここは民間私有地であり、1918年に露岩の傍らから、総数数百点(そのほとんどは玉類)にも及ぶ祭祀遺物が偶然に見つかった。

最初の発見から調査までの3ヶ月の間に、巨石は原位置を動かされ盗掘を受けたらしいが、それでも調査によって見つかった遺物はおびただしく、祭祀用と推測される勾玉・滑石製模造品・土製模造品・各種土器などが出土した。

遺物の様子から、山ノ神遺跡は古墳時代中期初~後期初(4世紀後半~6世紀初頭)の間に祭祀が行なわれた遺跡と位置付けられている。
  • 4c後半~5c前半:碧玉製勾玉・剣形鉄製品・小形素文鏡など
  • 5c後半~6c初頭:滑石製模造品・土製模造品(鏡・剣・玉に類似した模造品が多い)

遺構自体も、主石となる巨石の周りを5体の小ぶりの岩石が取り囲む形で見つかり、それらの岩石の一帯には割石が敷き詰められ、人工的に地固めされていたと報告されている。
地固めのためだけではなく、視覚的に聖域であることをより強く明示する効果も意図したのかもしれない。

発掘当初は巨石は古墳の石室石材と見る声もあったが、現在は三輪山麓の磐座の遺跡という見方が定説となっている。
盗掘によって原位置からある程度は動かされていると仮定しても、古墳時代において人工的な配置・工法で設置されたと評価される磐座があることは大きい。

それに加えて考古学の歴史においても、古墳時代の磐座遺跡であると認定された最初のケースとして、山ノ神遺跡は学問史上も非常に重要な遺跡と言って間違いない。

三輪山
山ノ神遺跡

三輪山
現在の状態は後世の整備によるもので、発掘当時の配置状況とは異なる。


奥垣内遺跡


三輪山周辺で発掘調査がなされた磐座遺跡は、山ノ神遺跡だけではない。
知名度はなぜか格段に劣るが(多分見つかった年代が1965年と比較的新しいから?)、ここで紹介する奥垣内(おくがいと)遺跡も貴重な考古学成果を出している。

久延彦神社の鎮座する小丘から北に微高地が伸びていて、その北端に箕倉山という小丘があるが、その2つの小丘の中間地点あたりに本遺跡は位置する。

ここも民間地で、業者が温泉地開発をしようとここにあった露岩群に重機を入れたところ、露岩の1つに接して須恵器の大甕が出土した。この大甕の中を見ると、さらに小ぶりの杯・高杯・壺など十数点に上る須恵器が収納されていた。

大甕の中には土器だけではなく、多数の滑石製の玉も入っていた。そして大甕自体は下半分を土中に埋めた状態だった。ただ、これが意図的に埋置されたものか自然に埋まったものなのかの見極めが難しい。
大甕以外にも、その周りには滑石製の有孔円板(鏡の模造品と考えられる品)や土師器片などが散布していた。

須恵器の特徴などから、これらの遺物のほとんどは、古墳時代中期末~後期初頭(5世紀後半~6世紀初頭)に製作されたものだと推定されている。ただ一部、中期初頭(4世紀末~5世紀前半)に遡りうる土器も見られた。

ちなみに、現在ここは神社の所有地になっていて、この遺跡の発見を記念して現地に軽く復元がなされている。
といっても下写真の通り、たくさんあっただろう露岩群のうち2個の岩石を公園の中に置いているだけで、元々の露岩状態のよすがを偲ぶことは難しい。

さらに余談だが、この跡地の傍らの地面を軽く観察していたら、須恵器の破片が見つかった。
私が観察した限りだが、古墳時代後期後~末(6世紀後~7世紀初)ぐらいの須恵器杯の特徴に類似していた。奥垣内祭祀遺跡の盛行時期よりかは少し時期が新しいもののようである。

三輪山
奥垣内遺跡


檜原神社


大神神社の神社群では、檜原(ひばら)神社は最も北に位置する。
大神神社の摂社群の中でも社格が高く、元伊勢伝承地「倭笠縫邑」の伝説地としても知られる。

檜原神社には大神神社と同様、本殿はなく三輪山が本殿であり、三輪独自の鳥居形態である「三輪鳥居」と、その奥にある神籬(ひもろぎ)が祭祀施設として整えられている。
三輪鳥居の奥にある神籬が岩石で構築されているのが肉眼でも拝める。

ただ、現在ある施設は戦後の再建であり、寛政年間(1789-1800年)の大強風で元来の祭祀場は崩壊したと伝わる。元来の神籬の形態が現在と同様かは不明である。

三輪山
檜原神社


参考文献


  • 桜井市文化財協会・編 2000 『平成12年度秋季特別展解説書 三輪山周辺の考古学』(桜井市立埋蔵文化財センター展示図録 第20冊)
  • 中山和敬 1999 『大神神社<改訂新版>』 学生社
  • 樋口清之 1927 「三輪山上に於ける巨石群」『考古学研究』1
  • 樋口清之 1928 「奈良県三輪町山ノ神遺跡の研究」(上・下)『考古学雑誌』18-10・12
  • 前坂尚志 1993 「山ノ神遺跡」「奥垣内遺跡」 東日本埋蔵文化財研究会(編)『古墳時代の祭祀-祭祀関係の遺跡と遺物-』《第Ⅲ分冊-西日本編-》