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2023年6月4日

勝尾寺の八天石蔵からみる「イワクラ」「イシクラ」の諸問題(大阪府箕面市)


大阪府箕面市 勝尾寺一帯

 

八天石蔵の由来

勝運祈願の勝ちダルマで有名な勝尾寺に、八天石蔵(はってんいしぐら)と呼ばれる石積施設がある。

八天石蔵とは何か。『箕面市史』から引用する。

「寛喜二年(筆者注:1230年)正月の四至注文に『四角四天王石蔵』と呼ばれた石蔵が、勝尾寺の開基と伝えられる開成皇子の結界に際して設けられ、その後に八天之石蔵がつくられたと解することができる。(略)勝尾寺のまわり八ヵ所に八天之形像が埋められ、その上に石を畳んで壇を築いた、いわゆる『八天之石蔵』のあったこと、そしてそれが勝尾寺領の境界を示す牓示であったことを知ることができる。」

箕面市史編集委員会 編『箕面市史』第1巻 (本編),箕面市,1964. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3008156 (参照 2023-06-04)

八天石蔵の一つ「持国天王石蔵」

八天石蔵のなかでは、東の境界に建つ石蔵である(冒頭GoogleMap参照)

現地看板

持国天王石蔵には、勝尾寺園地の駐車場から案内標識が出ている。
(勝尾寺園地は無料駐車場であり、勝尾寺参拝時にも有用である)

すなわち、八天石蔵とは寺の領域を示すために置いた施設である。

寺社の四至(東西南北)の領域を確定するために牓示の石柱が建てられた例は各地にみられるが、八天石蔵の特異な点は牓示が石柱ではなく3段からなる石壇を構築し、さらにその下に八天(四天王・四明王)の仏像を壺に入れて埋納したというところにある。

単なる境界標示の目的にとどまらず、それぞれが仏を宿す結界という意味も込められ、その名を「石蔵」と呼んだのである。


このような施設の類例はほとんどないとされており、規模・時代が違ってもいいなら岡山県赤磐市の熊山遺跡や奈良県奈良市の頭塔(ずとう)が僅かながら類似形態として挙げられるだろうか。いずれも広くとらえて仏塔の範疇で考えることはできる。

しかし、頭塔については見た目こそ石の塔の趣だが、実質は盛り土の表面に石を葺いたものであり、どちらかというと古墳の造り方に近い。どちらかといえば、熊山遺跡のように総石造りの壇状施設の文脈でとらえたほうがよさそうだ。

(熊山遺跡の石壇が、熊山山頂の露岩上に構築されているのも、岩石信仰の観点からは注目できる。ただし熊山の露岩が即・磐座と呼ばれるような祭祀対象だったかは即断できない)


考古学者の狭川真一氏がweb上で報告した「瀬戸内周辺における古代仏塔の研究-経納遺跡の研究を中心に-」によると、八天石蔵・熊山遺跡と比較に足る事例として兵庫県佐用町の経納遺跡を取り上げている。こちらも3段からなる石壇遺構であり熊山遺跡と同時期・同時期の可能性が示唆されている。


なお、勝尾寺境内の三宝荒神社(荒神堂)の裏手に「八天要石」または「影向石」と呼ばれる八角柱の石柱があり、石柱下には不動明王像が埋まっているという逸話もあるようで、これも伝承上では石蔵と同機能と言える。

立地的には勝尾寺境内ということで石蔵の中枢的役割を担うかのようだが、埋納されるのが不動明王であるなら冒頭前掲書のとおり、八天石蔵において当初設けられたのは「天王」であり「明王」は後出するため、八角柱という形態も考えあわせて石蔵成立後の聖跡かもしれない。

三宝荒神社。探訪時、八天要石を知らず残念ながら見過ごした。


石蔵と経塚の異同点

積み石の下に仏を埋納したという石蔵の祭祀に近いものとしては、経文を筒などの容器に入れてそれを積み石で覆った経塚が想起される。

経塚については、末法思想に伴い経文を未来に保存するために構築されたもの、そこから派生して作善のために構築されたことが多く、石蔵の牓示の機能からは少し性格が離れたもののようにも思える。

しかし岩石信仰の観点に立つと、自然石信仰の地を後世に経塚として用いた事例が知られており、静岡県浜松市の渭伊神社境内遺跡(通称・天白磐座遺跡)、三重県桑名市の多度経塚、三重県伊賀市の猪田経塚、京都府宮津市の真名井神社経塚などを挙げることができる。

最前者の渭伊神社境内遺跡は古墳時代の祭祀遺物群が見つかった巨岩群をそのまま経塚として利用している。他の例も多度大社・猪田神社・真名井神社いずれも延喜式内社クラスの古社であり、それらの神社が神聖視する自然岩群の近くに経塚を設けている。

このように、まずは神祭りの場がありそこに経塚の機能を追加したと考えることができる。経塚も単に単独で成立した存在ではなく、それ以前からの祭祀や聖地の影響を受けたうえで複合する場合がある。


石蔵と岩倉 ~京都四岩倉との比較~

八天石蔵の石蔵は「イシグラ」「イシクラ」と読むが、石蔵を「イワクラ」と呼ぶ例もある。そうすると、石蔵も自然石信仰のいわゆる「磐座」などと無関係ではなくなってくる。

その一例として、経塚と石蔵の牓示の関係でも思い起こされるのが、平安京の四方に桓武天皇が一切経を埋納したとされる「四岩倉」伝説である。

これは桓武天皇の同時代文献に明記された事跡ではないが、少なくとも『雍州府志』(1682~1686年成立)、『京羽二重織留』(1685年成立)までは本伝説の記述を認めることができる。

それ以前の文献に本伝説の記述を見つけることがまだできていないが、伝説を抜きにして四岩倉の名称自体はさらに古く遡ることができる。たとえば北岩倉は『日本三代実録』(901年成立)において「石座神社」の名で、西岩倉は『今昔物語集』(平安末期成立)に「西石蔵」の名で登場する(「西」と冠しているので、この頃には他の方位の「石蔵」もあった可能性は高い)。


京都四岩倉伝説については下記事で詳述しているので、これ以上はそちらを参照されたい。

京都「四岩倉」伝説について


「イワクラ」「イシクラ」概念史の中の八天石蔵の位置づけ

ということで、長い寄り道をしてきたが、ここで勝尾寺の八天石蔵と同じ「石蔵」の表記と初めて出会う。岩石信仰の見地から、他例と比較した八天石蔵の位置づけを試みてみよう。


平安京四岩倉伝説は「岩倉」の表記で知られるが、上述のとおり「岩倉」表記は17世紀文献までしか遡れない。それ以前は「石蔵」表記であり、『今昔物語集』の平安末期(12世紀後半)と八天石蔵が構築・記述された寛喜2年(1230年)頃は最大100年ほどの開きはありそうだが比較的近い年代観を共有している。

そして、さらに遡り『日本三大実録』の10世紀初頭では「石座」の表記である。この石座神社は京都四岩倉の中で唯一、自然の露岩をまつる「磐座」としての場所であり、ほかの三岩倉とは性格を異にした出自だった可能性もある。たとえば、神祭りの磐座祭祀の一字である石座だった場所が、中世以降に経塚・牓示の文脈である石蔵の影響を受けて四岩倉として再編された可能性などである。


もう一つの傍証として、兵庫県相生市の磐座神社の事例を取り上げておきたい。

詳しくは上リンクを参照してほしいが、磐座神社は『万葉集』にうたわれた「矢野神山」の候補地といわれ、山麓の境内および裏山の数か所に巨岩群が分布している。

今でこそ磐座神社表記であるが、当社はかつて石蔵明神・磐蔵地蔵権現・岩倉権現などと複数の表記で記されていたことがわかっている。山中の奥の院とされる巨岩には、背中合わせに神社の社祠と阿弥陀堂がまつられており、中世には神仏習合の地であったと思われる。

磐座神社も「石蔵」「磐蔵」「岩倉」などの「蔵・倉」グループに属す時代があり、いやむしろ、現代の「磐座」の表記が本来的であったかどうかも批判的にみないといけないかもしれない。

「磐座」は奈良時代の『日本書紀』、平安時代の『延喜式』祝詞・神名帳に登場する「イワクラ」の古い表記用例ではあるが、全国各地の実例を踏まえるかぎり、その後は中近世の長い時代にわたり積極的に用いられることはなかったように思われる。おそらく、神道に携わる一部の人々にしか広まらなかった概念だったのだろう。

それが江戸時代末期に国学者により神道的なものを復古・喧伝するにあたり、"神社以前の原始信仰"の一つである「磐座」にスポットが再び当たり、明治時代以降にかけて磐座の使用例は神道学者、神社関係者、研究者(市井含む)の間で増えていったことは、いちいち例示しないが当時の文献・雑誌のテキスト検索を行えば明らかと言える。この動きの中で、古代からの「磐座」と近代以降命名の「磐座」が混濁して現代に至っていることは、この20年ばかりの筆者の調査研究の中でも多く感じることである。

八天石蔵の事例から話を広げて、「イワクラ」「イシクラ」の語を巡る岩石信仰の諸問題を書き連ねることになったが、そのような点でも八天石蔵は数々の系統からなる事例群の結節点とも言える存在である。

冒頭に引用した『箕面市史』の文中にあるとおり、八天石蔵は勝尾寺開祖・開成皇子の結界に際して設けられたといういわれがあるが、開成皇子は桓武天皇の庶兄に当たる。四岩倉伝説で平安京の四至に経文を埋めたという桓武天皇と奇しくも絡んでくるのも興味深い。


まとめると、「イワクラ」の字は石座(古代)→石蔵(中世)→岩倉(近世以降)の時系列で追うことができ、八天石蔵は中世のイワクラ表記の影響を受けた事例として位置づけることができる。

そして、石座と石蔵とは直線的な系譜が結べるとは限らず、同じ「イワクラ」の音を共通するものでも、出自が「神祭りの磐座系統」と「経塚・牓示の石蔵系統」の二系統から始まっており、それが神仏習合で祭祀を同じくしていく中で岩倉などの表記も生まれていき、現在の複合的なイワクラ概念世界に至ったという流れが想定される。

他にも、音は異なるが仏像が立つ「岩座(イワザ)」の系統や、石垣や城郭施設に用いられる「石椋(イシクラ ※石蔵表記も用いられることがある)」の系統なども無関係だったとは思えず、音または字が近い概念同士は時代経過の中でどんどん混ざり合い、相互に影響しあっていったのではないか。


単に「イワクラ」を神祭りのそれとみるのではなく、また、音だけでなく字からも文脈・系統は異なり、磐座・石座・石蔵・岩倉などのそれぞれの字に込められた意味を細かく腑分けしていくことも重要な歴史学上のテーマであるように感じる。


2023年5月29日

医王岩/薬師岩(大阪府箕面市)


大阪府箕面市如意谷

「醫王岩 寺の後にあり。自然石あり。高さ十三丈許。又名薬師石ともいふ。(略)此所も大已貴、少彦名の二神生ますの地により。醫王岩と稱するか。此二神は醫道の祖なり。」

大阪府 編『大阪府神社史資料』,大阪府,昭和8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1688263 (参照 2023-05-28)


「薬師岩 萱野村大字東坊島の北方字道心ヶ谷にありて、一に醫王岩とも呼ぶ。高さ十二丈にして三層をなし、三巨岩を累積したるが如く、頂上の一岩は特に前方に突出し、其の形薬師の立像に似たるを以て此名あり。里俗は読んで薬師出現の霊石といふ。」

大阪府学務部 編『大阪府史蹟名勝天然記念物』第2冊,清文堂出版,1974. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9572913 (参照 2023-05-28)


医王岩(下から撮影)

医王岩 上部

医王岩が三層構造と呼ばれる所以

現地看板。『摂津名所図会』に依拠。

高さは12丈~13丈(約35~40m)と記されるが、実際は25mほどだという。


醫王岩(いおうがん)は「医王岩」の旧字体である。

大已貴、少彦名が医道の祖に位置付けられたことに因むというが、他では聞かないネーミングであり、むしろ薬師如来の別称である「大医王仏」の影響を受けているように思われる。


引用文中にある「寺」とは大宮寺を指し、現在も「醫王山大宮寺」の山号で現地で受け継がれている。この寺の本尊が薬師如来である。

「医王岩 護り伝へる 大宮寺 諸人敬う 薬師瑠璃光」

大宮寺の縁起でも、開祖が当地の医王岩の屹立する様子に「大医王薬師瑠璃光如来」の尊影を感じとり、寛平4年(892年)堂宇を設けたのが大宮寺の始まりという(大宮寺公式ホームページより)。


また、大宮寺は爲那都比古神社のいわゆる神宮寺だった。

爲那都比古神社は『延喜式』神名帳に二坐(比古・比売)ありとして記載される古社で、二坐のうち一座は大宮寺と同地にあったということで、医王岩は爲那都比古神社の歴史とも絡む自然石信仰となる。


爲那都比古・比売の信仰と、大已貴・少彦名信仰、薬師信仰はそれぞれ別系統と言えるが、医王岩が後者二つの出現地として重なっているのは基本的に同根の発想からくるものだろう。

ただ、大已貴・少彦名が生まれた地という表現は、細かいニュアンスがよくわからない。この地で生まれたという一般表現ととらえるべきか、医王岩という岩石から生まれたという意味なのか、そのあたりは文献記述が簡潔でそれ以上肉付けされていないので不明である。

大宮寺の縁起で薬師如来の「尊影」を感じとったというくだりについては、これは神仏の「みかた(御形・御像)」を岩石の形状から感得したという心の流れと同質かもしれない。


医王山は、はたして神々を産む生命体としての「石神」だったのか、それとも、神威や仏跡としての「みかた」の聖地だったのか。

いわゆる日本列島の古代信仰における、神仏の宿りかたの諸問題を考える上での類例の一つに挙げて良いだろう。


アクセスについて

公式の駐車場がなく、適した路肩スペースもないので注意喚起したい。

医王岩の手前には溜池があり、そこで釣りをしている人がよくいるらしく(釣りは禁止されているらしいが)、池の手前の僅かなスペースに車を寄せている場面を私が探訪した当日も見かけた。しかし、狭い車道沿いでもあるしモラル違反と言わざるを得ない。

大宮寺北の上写真の場所(記念碑が建つ)から、溜池の間の道を通って医王岩へ取りつく。

近隣の無関係の施設の駐車場に停めるのも慎まないとならない。

ということで、2023年時点で医王岩の最寄りコインパーキングを紹介しておく。私はこちらを利用した。


このパーキングから医王岩まで徒歩約15分である。

Googleレビュー評価が低いが、私が利用した分には何ら問題なかった。


2021年7月22日

善根寺 春日神社の岩石信仰(大阪府東大阪市)


大阪府東大阪市善根寺


正しくは「春日神社」だが、他の春日神社と区別するため便宜上「善根寺 春日神社」とする。

境内の一角に、幅4~5mはあろうかと思われる岩石があり、広大な岩肌を見せて注連縄が巻かれている。
さらに、岩石の周囲は玉垣で囲われ、正面には賽銭箱を要した拝所も設けられており、明らかにまつられていることがわかる。




通称「磐座」と呼ばれるようだが、どうやら詳しい来歴は記録に残っていないらしく、実際のところどのような性格を有し、神聖視されてきた岩石なのかは言を控えなければならないだろう。

春日神社の本殿裏は山肌に接しているが、山肌からも岩盤が露出していることが確認できる。
さらにそのまま裏山へ進むと、残念ながらペンキの落書きがみられるものの、斜面に屏風状と形容できそうな岩石群も残っている。

春日神社本殿の裏に見える露岩

逆方向より

裏山の露岩

善根寺春日神社敬神会のホームページによると、拝殿奥、本殿前のスペースに「おきよ石」という岩石が安置されており、由来によると昭和天皇乗船の船に積み込まれていた岩石を譲り受けたもので、いわゆる昭和時代の聖跡事例と言えよう。

なお、春日神社から東へ行って阪奈道路をまたぐと、東の山中に八幡神社(八幡山八幡宮)に至り、そこにも山中に露岩群がみられるという。

2021年7月11日

星田妙見宮の織女石/妙見石/影向石(大阪府交野市)


大阪府交野市星田 小松神社

 

弘法大師が獅子窟(現・交野市の獅子窟寺)で修行中、空から北斗七星が降臨し、交野ケ原にある妙見山、光林寺、星の森の3ヶ所に分かれて落ちたという。

妙見山の頂上には巨石がまつられており、半ば北斗七星を顕現した神体として、これを中心とする星田妙見宮が創祀された。

(巨石=落下した北斗七星そのもの、と明確に記されているわけではない)

星田妙見宮の拝殿奥に控える岩石。

織女石の説明。

岩石の近影。

岩石の裾に瓦が集積している。

奥にもう1体の岩石が見える。

もう1体の近景(拡大写真)

上写真のように、現在、拝殿の奥には2体の岩石が注連縄を巻かれているのを確認できる。

現地には「織女石(たなばたせき)」の標示がなされており、説明によれば『河内名所図会』(1801年)にその名の記載があるという。

『河内名所図会』六巻の該当記述を捲ると、ルビには「をりひめいし」とあり、読み方は確定していない。

また、上記記述では妙見山頂に3つの巨石が存在する旨が記されているので、1体見落としているようである。


『摂河泉名勝』(1903年)ほかの史料では、織女石と並んで妙見石の俗称も併記されることが多い。


さらに、影向石(ようごうせき/ようごういし)の名も根強い。

こちらは『妙見山影向石縁起』の書名にもなっており、社伝では貞観17年(875年)の古記録というからこちらのほうが古名にも見えるが、写本でもあり縁起製作年は自称だけでは心許なく史料批判も必要だろう。


織女石は七夕信仰、妙見石は妙見信仰、影向石は仏菩薩の顕現を概念化したものであり、星田妙見の複数の宗教文脈のいずれかを選択することで主とする名、引いては名が示す岩石の性格が変わると見たい。


岩石を包含した当社自体、星田妙見の通称のほかに小松神社としての社名もあるが、いわゆる神社神道の括りで扱われる信仰にとどまらず、いわゆる妙見信仰をベースに置いた習合的な霊場・聖地としての理解がより適切である。

境内のおもかる石


2021年7月4日

三之宮神社の屋形石と立石(大阪府枚方市)


大阪府枚方市穂谷

屋形石

東側

西側

社殿背後に「屋形石」と呼ばれる2体の巨石が横並びしており、2体とも屋根のような形状と準えられている。

三之宮神社の一称に屋形大明神や屋形宮の名が伝わるが、「屋形」が当岩石の形状から由縁するものであれば、それらの名称が流布されたときには屋形石の信仰があったということになるだろう。

古墳石材ではないかともいわれるが、人工物、自然物の是非も含めて不明である。


三之宮神社は雨乞いの霊験で崇敬されたことで知られ、それは当社が山麓の川沿いに立地していることからも至極肯ける。

探訪時点では寡聞にして知らなかったが、拝殿向かって左側に「立石」があり、雨乞いの時にこの立石を川に沈める雨乞い儀礼も行われたことがあるという。


参考文献

『ひらかた文化財だより KAWARABAN』125 号(枚方市観光にぎわい部文化財課、2020年)


2019年4月14日

鐸比古神社と鐸比売神社の奥之院・高尾山(大阪府柏原市)



鐸比古命の巨岩と鐸比売命の巨岩


大阪府柏原市大県の高尾山(277.8m)の山頂には、かつて鐸比古(ぬでひこ)神社と呼ばれる神社があり、そこから東南へ60~70m下った姫山という場所に鐸比売(ぬでひめ)神社が鎮座していたという。

これは 『延喜式神名帳』で「河内国大縣郡 鐸比古神社 鐸比賣神社」と挙げられていた二社に該当するとされ、現在は山麓の鐸比古鐸比賣神社の一社に遷座・合祀されている。

高尾山山頂は広大な崖面を持つ岩山となっている。
山頂の南側に、鐸比古神社の奥之院が今もある。岩崖の上面に山頂側から回る感じでアクセスする。

鐸比古神社と鐸比売神社の奥之院・高尾山
「鐸比古大神」の石碑が立つ奥之院エリア。山頂の南側にあり、山頂に通じる車道経由でアクセスすることができる。

鐸比古神社と鐸比売神社の奥之院・高尾山
奥之院の入口にたつ鳥居。

鐸比古神社と鐸比売神社の奥之院・高尾山
石塔が献じられた藪の奥にそびえる巨岩。陽光で白く照っている。

鐸比古神社と鐸比売神社の奥之院・高尾山
神域なので巨岩に登ったり傷つけたりしないようにとの古い注意書。

鐸比古神社と鐸比売神社の奥之院・高尾山
崖下を覗き込むことは難しく、崖の全体のスケールは何とも言えないが、市内を眺望できる好立地である。

鐸比古神社と鐸比売神社の奥之院・高尾山
岩場登りの跡も残る。

鐸比古神社と鐸比売神社の奥之院・高尾山
岩崖から上は岩盤が根続きになっており、岩盤上に小祠がまつられている。
明記されていないが、これが奥之院だろうか。

鐸比古神社と鐸比売神社の奥之院・高尾山
岩盤は傾斜しながらも一定の平坦面があり、平坦面を囲い込む斎庭のような場所もある。

鐸比売神社の旧社地は姫山にあるというが、そちらは正確なアクセスルートが調べきれておらず、未訪である。
姫山は谷間地形といい、そこにも巨岩があるという。
「比売御前」とも呼ばれ、雨乞いや疫病治癒の場だったという。

巨岩はそれぞれ高尾山の水源地と場所が重なり、西麓の里へ流れる沢水の源流であったということも、信仰要素と無縁ではないだろう。


考古学的にみる高尾山と岩石信仰の解釈


高尾山山頂は弥生後期の遺物散布地であり、高尾山山頂遺跡としても知られる。
遺構の検出状況から、これらは弥生時代の高地性集落だったのではないかと考えられている。
山岳の巨岩信仰で神社の元宮があるという話だけだと、人の手が入らない神聖不可侵な場という先入観が通りやすいが、考古学的事実は、弥生時代にこの山が迅速の入る生活空間であったことを示している。

そして、高尾山山頂から南西の尾根の西側斜面から、弥生前期~中期と推定される多紐細文鏡が発見されている。
考古学者の小林青樹氏は「山の神」(『季刊考古学・別冊27 世界のなかの沖ノ島』2018年)のなかで、多紐細文鏡出土地点の北側と南側にそれぞれ岩塊がそびえていることに注意し、鐸比古神・鐸比売神の巨岩の存在も考慮して、弥生時代における巨岩信仰・磐座祭祀を肯定的に受けとめている。
これらの巨岩が鏡の出土をもって、即、磐座形態での祭祀であったとまで飛躍することは慎重でありたいが、巨岩の林立する山と青銅器の一事例として注目したい。

一方で、山で集落生活を営んでいたという事実もある。
弥生時代当時において、山岳の岩石信仰があったとして、それは人間空間とけっして空間を離しあう関係ではなく、共存しうる関係だったことがわかる。
弥生時代において、山は登られる存在であって、いわゆる禁足知的な観念とはまた別系統のものがあったということになるだろう。

なお、神社の祭神は鐸比古命・鐸比売命であり、「鐸」という神名からどうしても銅鐸との関わりを指摘する声が根強いと思うが、銅鐸は現在のところ発見されていないことも認めなければいけない。

時代が古墳時代後期に下ると、高尾山の山腹に十数基の群集墳が築かれるようになる。
巨岩のある山に同居して祖先の墓域が形成されていくという、岩石信仰と祖霊信仰の関係も全国各地に類例がある。
巨岩は自然地形であるため、当時存在していたことは間違いないが、特別視・神聖視されていたかはまた別問題である。自然物に対して人々が何を思っていたかを可視的な物証で突破する方法論が待たれる。

鐸比古神社と鐸比売神社の奥之院・高尾山
高尾山麓の鐸比古鐸比売神社。

2018年4月22日

「あなどれない30分修行 磐船神社の岩窟めぐり」記事コメント補足~磐船神社(大阪府交野市)から考える「ご神体」信仰~


大阪府交野市私市 磐船神社


先日、朝日新聞の記事「あなどれない30分修行 磐船神社の岩窟めぐり」(朝日新聞4月18日付夕刊関西版)に、私のコメントが掲載されました。
 「まだまだ勝手に関西遺産」というシリーズで、楽しく読める記事になっています。

web上にも記事本文と動画が掲載されていますが、有料会員記事なので冒頭だけ。
https://www.asahi.com/articles/ASL4F44S2L4FPTFC007.html

ライトな内容と思いきや、磐船神社の岩窟めぐりが公開された時期やきっかけについても記述があり、ためになります。

私は有識者としてのコメントを求められましたが、識者のくせして岩窟めぐりをしていないことを告白。良いオチがつきました。

ここから下は、新聞でコメントしていない部分を書きます。

磐船神社は、物部氏の祖神とされる饒速日尊がこの地に降り立ったとき、乗っていた「天の磐船」をご神体とする場所です。
船が石化したのか、もともと石の船だったのかはさておき、私が磐船神社に思うのは、なぜ神そのものではない船が、ご神体にランクアップしたのかということ。

本来の発想としては、神と船は同一視されないはずなのに、現状では神と船が同一視されているわけです。
他にも同様の磐船・岩船・石船信仰はあるため、典型的な例としてここのギャップに目を向けています。

これについては、アプローチしだいでいろいろな考え方ができると思います。

私が一つ思うのは、「ご神体」という名前が持つイメージが、時代や人によってばらつきがあるのではないかということです。

「ご神体=神の肉体」と定義してしまうと、ややおかしなことになる事例です。
霊と肉が分離しているという立場に立ったとしても、船に直接神の例が宿るという構図ではなく、船の中に神の肉体があり、そこに霊は宿るというのが、人格神としての構図だからです。
もちろん、人格神という観念から離れれば、船そのものが神の肉体とみなすこともできるでしょうが、饒速日尊の位置付けから考えて、本事例は人格神の色が濃い。

そこで、「体」 の意味をいわゆる「肉体」という意味に限定せず、「体(たい/てい)」の意味合いでとらえ直してみましょう。

体(たい)
「そのものとしてのかたち。すがた。」「物事の本質をなすもの」
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/132352/meaning/m0u/

体(てい)
「外から見た物事のありさま。ようす。」
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/149009/meaning/m0u/

上記2つは辞典的定義から引用しましたが、神の場合で言えば、目に見えない神の形や姿をどうにかして外から見えるようにしたものが、「ご神体」とまとめられるのではないでしょうか。
神を象徴するものであれば、それが本来の神そのものでなくても、神格をすべて表現するものでなくても、神の一つの神性を表現していれば、それは神を象徴することになりうるのです。
なぜなら、神は目に見えないから。
そもそもの出発点が無理難題から始まっているのです。
だから、神を見たくて、神に会いたくて、という人の願望が表出して、このような磐船信仰や、姿石、ご神体の概念を形作ったのだろうと想像しています。

姿石は性神に代表されるように、形が神に似ているパターンが多いですが、磐船の場合は、神の事跡のよすがを表す象徴としてあるパターンに属します。
最近、祭祀考古学ではやりの「御形」も、岩石の形が必ずしも視覚的に神格を想起させなくても神の象徴となっていると思います。

磐船神社
磐船神社の社殿裏に存在する「天の磐船」

磐船神社
磐船の下は、河川に折り重なる岩群

磐船神社
私はなかなか縁に恵まれず、2回訪れて2回とも増水で岩窟めぐりできず。
死亡事故がかつて起こって以来、一人での入窟もできなくなり、さらに難易度は上がりました。

磐船神社
境内には神仏習合の歴史も多く見つけることができます。

磐船神社

磐船神社
なぜあそこに仏を彫ったのかと、心理的な違和感を持ちませんか?

2017年4月25日

能勢七面山の岩神(大阪府豊能郡能勢町)


大阪府豊能郡能勢町倉垣

概要

能勢町と京都府亀岡市の境にそびえる釈迦ヶ嶽(標高512m)。
その南西に伸びる尾根一峰(標高470m)を七面山と言うようだ。

この山は、七面山七寶寺、能勢の高燈籠といった、その方面では濃厚な宗教スポットを擁する。
これらに挟まれるように、歌垣神社と石用山涌泉寺がひっそりと佇む。

歌垣神社と涌泉寺は隣接しており、鎮守-宮寺の関係だったらしい。

裏山中腹に巨岩が露頭し、麓からもその姿が確認できる。
かつては、この巨岩を岩神と呼んでまつったのが歌垣神社の起源であるという。

伝えるところでは、康保2年(965年)に初めて苗代祭りを行ない、建久7年(1196年)に神社を現在の山腹に遷座し、嘉永2年(1625年)に牛頭天王が勧請され、明暦元年(1655年)に日蓮宗総本山身延山の七面天女を岩神の旧址にまつり、明治時代に近在の6社を合祀してその時に地名から歌垣神社と名付けられたという。

能勢七面山の岩神


所感

信仰上の画期は、江戸時代における牛頭天王の勧請と日蓮宗の影響である。

牛頭天王勧請以前、この神社が何をまつり神社名が何だったのかということがはっきりしない。
素盞鳴命のままだったかもしれないし、合祀祭神を除いた中で一柱として載っている大山祇命かもしれないし、祭神記録にも残っていないが宇賀御魂命だったという一説もある。

江戸時代、能勢一円における日蓮宗改宗の動きは活発だったようで、涌泉寺もかつては真言宗龍泉寺だったのが日蓮宗となり、山号・所在地も改めたという。
岩神にも法華経を守護する七面天女がまつられ、山の名前も七面山(甲斐国日蓮宗霊山の七面山に由来)と称された。
涌泉寺が掲げる石用山の山号も、山の特徴を表しているような感がある。

岩神への道はなく、歌垣神社の背後の斜面をひたすら登る。
 地図的には、七面山七寶寺の方から登ったほうが近道になるが、七面山七寶寺は登山のための通り抜けを禁止しているため、このルートは推奨しない。

山の斜面を登っていくと、各所に思わせぶりな露岩群が見える。20分ほど登ると視界が開き、高さ10m以上はあると思われる岩神に到着する。

能勢七面山の岩神

岩神は、崖状に落ち込んだ巨大な岩盤の頂面に、斜め上に突き出た立岩状の岩石が乗っかかり、その2つの間に別の岩塊が差し込まれたかのように挟まっている(詳しくは下写真を参照)。
急斜面の立地にあるので、転石に伴う自然の造形と推測されるが、まさに「天然の屋根」である。

能勢七面山の岩神

また、この岩神の西に接して、頂面が平らな平石とその奥に屏風のように立つ岩石があり、まるで祭壇か修行の台座石かのような光景を見せている。これは人工的と言われてもうなずいてしまいそうな構造物である。

能勢七面山の岩神

さらには、岩神の下方に、転石によるであろうドルメン状の構造物があり、その辺りに郵便受けのような金属製の箱が転がっていた。
裏返してみるとそこは空洞になっており、おそらくこれは小祠を中に収納して雨よけ保護していたものだったと思われる。七面天女の祠の名残だったかもしれない。

能勢七面山の岩神