インタビュー掲載(2024.2.7)

2024年1月29日月曜日

諏訪大社下社春宮のいぼ石(長野県諏訪郡下諏訪町)


長野県諏訪郡下諏訪町 諏訪大社下社春宮境内


下社春宮の門前に掲げられた現地看板に「いぼ石」が紹介されている。

画像中央あたりに「いぼ石」の名がある。


神社境内の真ん中にあるように見えるが、境内を一見してもよくわからない。

神職の方にお伺いしたところ、「よく聞かれるんです。あちらです」ということで教えていただいた。

参道石畳に組み込まれていた。

穴がぼこぼこ開いた写真右の石がいぼ石。写真左には石畳上に石ころが1個置かれていて、神職さんはこの石ころを目印にいぼ石の場所を説明されていた。意図的に置いた?

いぼ石と神楽殿の位置関係。この写真で現地を特定してください。


このように参道と半ば同化した岩石信仰の類例には、三嶋大社境内に存する牛石が挙げられる。

いぼ(疣)ができた時は、いぼ石の窪みに溜まった水をいぼに塗りつけるといつの間にかなくなるという。

『諏訪の近現代史』(1986年)の石の伝説の項目にはこのように由来が説明されていたが、歴史的にいつ頃まで遡れるかは情報収集不足につき不明である。


参考文献

諏訪教育会 編『諏訪の近現代史』,諏訪教育会,1986.7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9540456 (参照 2024-01-29)


2024年1月21日日曜日

資料報告「愛知県北設楽郡設楽町(旧名倉村域)における自然石の文化財」

 


資料報告「愛知県北設楽郡設楽町(旧名倉村域)における自然石の文化財」を『地質と文化』第6巻第2号(2023年12月31日発行)で発表しました。

電子ジャーナルとして雑誌のpdfも下記で公開されていますので、どなたでもご覧いただけます。81~106頁です。

Geology_Culture_6-2.pdf 


2019~2023年にかけてフィールドワークとして調査を続けてきた地域です。

設楽町では岩石信仰や特別視された岩石についての事例が多く存在していることが確認され、そのあたりの文献情報は以前2019年に下の記事でまとめました。

愛知県設楽町名倉(大名倉・東納庫・西納庫)における岩石信仰の文献調査


私が早期調査の必要性を感じたきっかけが、設楽ダムの建設工事です。水没するエリアに沈む岩石も複数ある様子で、記録・保存をおこなおうとしたのが本報告です。


したがって、本報告の最大の目的は一つの文化財報告として位置づけておりますが、単なる個別事例の紹介にとどまらず、一般化できる歴史的意義としては次のようなことまで派生しています。


1点目として、いわゆる「磐座」の通説的見解の再考を促す予察を記しました。

原始的磐座(古墳時代の磐座)と歴史的磐座(修験道以降の磐座)の見直しや、イワクラと呼ばれた概念の歴史的位置づけについての示唆を盛り込んだものとなっています。


2点目として、岩石信仰の地質の関連について記しました。

歴史・地理のみに限らず、岩石の地質的な側面と岩石信仰のありかたに影響する可能性を、特に「遥拝」祭祀の点で言及しました。


3点目は最も大事な提言として、神聖視・特別視された自然石も文化財であるという「自然石文化財」の視点を提示しています。

私はこれまで岩石信仰の研究で人工的に加工・設置された岩石と自然のままでまつられた岩石の両方を一括して続けてきましたが、設楽町の調査を通して、とりわけ自然石の信仰・特別視の文化保存が重要であることを明確に意識できました。

本報告は、自然石文化の初の事例報告集として上梓して、今後の全国各地の記録保存の嚆矢になればという願いを込めたものであります。


奇しくも、自然石文化財に対する問題提起となる出来事が最近立て続けに起こりました。令和6年能登半島地震における見附島の崩落などの自然地形の変化や、大阪万博で岩石が利用されることになった残念石のニュースなどです。


残念石は厳密には人為的加工が施されている岩石ですが、多くの人々の認識は"路傍"の"不要"な自然石としての扱いだったと思います。

そのような、歴史がその姿形からは見えにくい「自然石」が、人々の思いを込めた文化財なのだという意識を新たにできる資料として、時節柄、本報告が寄与するところはあると確信しています。


2024年1月15日月曜日

道祖神社の石荒神(奈良県奈良市)


奈良県奈良市今御門町1番地


奈良市の中心繁華街「ならまち」の街角に道祖神社が構え、社殿脇に上写真の高さ1.3mの岩石がまつられている。



社頭の看板では、「境内の巨石は賽の神として勝負の守護神として篤い信仰」を集めたとある。

しかし、猿田彦神社すなわち道祖神社の名をもつのだから、元々は「塞の神」(境界の神)として出発したものだろう。
そして、『石の声』(1983年)によると、地元ではここを「石荒神」と呼んでおり、社頭看板には記されなかった歴史を有していたことがわかる。

同書によると上写真の巨石は大正時代初期に置かれたもので、石荒神と称される岩石は社殿内に秘匿されてまつられているのだという。

道祖神社社殿

道祖神社を管理する御霊神社の元宮司が昭和戦後の神殿修復の際に実物を見たことがあるといい、その発言によると直径20㎝、長さ30㎝の男根の形をした自然石だったとのことである。

社殿脇に置かれた巨石は、なぜ大正時代に置かれることになったのか今はそれを知る人も記録もないが、今はもう拝観することができない神体石の代わりに、当社の岩石信仰を視覚的に受け継いだ存在となったと言える。


参考文献
朝日新聞「こころのページ」[著] 『石の声』(朝日カルチャーブックス22) 大阪書籍 1983年

2024年1月2日火曜日

地震石(石川県羽咋市)


石川県羽咋市寺家町 大穴持像石神社境内



長さ約60㎝、高さ約30㎝の岩石で、地震石、地震押さえ石、要石などの名称が伝わる。
いかに大震災があっても、この岩石があるためにこの地は微動だにしないといわれて、かつては石上に生す苔を取って地震除けの守護とする者が多かったという。

前田藩は地震石を神体とみなし、木棚を以て囲繞したが一夜の内に消え失せ、再度作るも元通りに戻ったという。

明治4年、金沢在住の木佐平次という者が地震石は迷信と述べて石を蹂躙したが、宿に帰り入浴した後に茶を喫していると頓死したという。

明治7年、気多神社神職の荒地春樹が地震石は神体であるから社殿内に安置するべしと主張したが、村民の同意を得られずそのまま今に至るという。

大穴持像石神社の境内入口に位置することから、社名の「像石」はこの石のことだとする説もあるが確定していない。

大穴持像石神社の社殿

参考文献

  • 編集: 羽咋市史編さん委員会『羽咋市史』中世・社寺編,羽咋市,1975. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9536989 (参照 2024-01-02)
  • 石川県羽咋郡 編『石川県羽咋郡誌』,羽咋郡,大正6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/986465 (参照 2024-01-02)

2024.1.22追記

令和6年能登半島地震を受けて地震石の祭祀が行われた。

「地震石に収束の祈り 羽咋・大穴持像石神社」(北陸中日新聞Web) https://www.chunichi.co.jp/article/841447