2021年4月25日日曜日

久須美 白鬚神社の岩塊(埼玉県飯能市)

埼玉県飯能市久須美字宮前


この神社の正式名称は白鬚神社だが、飯能市には白鬚神社が多く分布するので便宜上、地区名の久須美をつけた。

入間川を挟んだ山間部の境内に、大小の岩塊が存在している。最大のもので高さ4~5mくらいか。
外形は、ややアーチ状にうねった立石という感がある。




岩塊群の分布は雑然としている。
入間川沿いを中心に岩盤の露出には事欠かず、これらの岩塊が自然のままの状態か、集められたものかは不明。

神社の前を流れる入間川

『飯能市史』によると、白鬚神社が所在する字は「宮前」といい「社の前に大岩があり、古くはこの岩が神として祀られていたと思われる」と記述があるが、岩塊に対する神聖視の有無は古記録の不足もありわからないというのが実情だ。

なお、社殿の石段脇の岩には、上面が窪んでいて水をためていた。
手水石のようにも見えるが、石質は横の岩塊群と同じ種類と思われる。

水を溜める岩石(写真手前)

参考文献
織戸市郎 「80.宮前」 飯能市史編集委員会 『地名・姓氏』(飯能市史資料編11) 飯能市役所 1986年


2021年4月19日月曜日

立岩神社(徳島県名西郡神山町)


徳島県名西郡神山町鬼籠野元山

「阿波國ノ風土記ノゴトクハ、ソラヨリフリクダリタル山ノオホキナルハ、阿波國ニフリクダリタルヲ、アマノモト山ト云、ソノ山ノクダケテ、大和國ニフリツキタルヲ、アマノカグ山トイフトナン申。」(秋本吉郎校注『日本古典文学大系2 風土記』岩波書店 1958年)

神が天より降りし時、阿波国の「アマノモト山」に降り、その後、アマノモト山が砕けて大和国にその欠片が落ちた場所を大和三山の一つ、天香久山に当てるという伝説である。

文永六年(1269年)成立の『万葉集注釈』の中で、今はなき阿波国風土記内の記述として収録されている(いわゆる阿波国風土記逸文)。

伊予国風土記逸文にも、天降りの時に山が二つに割れて伊予国と大和国に落ち、それが現在の伊予郡の天山と大和国天香久山であるとする類似伝説が残り、四国においてある程度流布していたタイプの話だったのかもしれない。

さて、阿波国風土記逸文のこの「アマノモト山」の候補地は複数あり確定に至っていない。剣山に当てる説、そして吉野川市山川町のノリト山に当てる説が代表的とされるが、ここにもう一つ加わるのが今回紹介する、神山町の立岩神社である。




横幅、高さともに20mはあろうかという巨大な岩塊であり、全体としては三角形~オムスビ形の輪郭をなすが、おそらく同一の岩体から亀裂が入り2つの岩を組み合わせたような特徴も有す。

所在する字名は「元山」である。「アマノモト山=天の元山」に相応しい地名だが、このような時は当地の「元山」地名が文献記録上いつまで遡れるか、地名の批判検討が必要だろう。

中近世から至るこれまでの風土記の注釈者が、立岩神社をアマノモト山の候補地に挙げなかったのは、単に知られていなかったというより、当地に現在普及している歴史情報が、いつから定着したものなのかという疑問から入ったほうが良い。

立岩神社の境内下斜面

立岩神社の神門には看板が複数掲示されている。

立岩神社には阿波古事記研究会や古代神山研究会が手掛けた看板が賑々しく掲げられているが、これらは後世的な解釈の賜物であることに注意しなければならない。

ましてや、「天岩戸立岩神社」として天岩戸伝説とつなげようとしている看板説明は、かなり批判的に見る必要がある。岩に入る亀裂が天岩戸を彷彿させるといった主観で結びつけられたのならそれは歴史的には由々しきことである。
元は天岩戸伝承は当地になく、社名は立岩神社だけだったと思われる。

なお、東の徳島市に同名の立岩神社があり、当社の亀裂を陰石、徳島市立岩神社の陽石をもって陰陽関係にあるとセット的に扱われることがあるが、必ずしもこの関係も確定したわけではない。

立岩神社(徳島県徳島市)


2021年4月18日日曜日

立岩神社(徳島県徳島市)


徳島県徳島市多家良町

巨岩をまつる神社であるが、その沿革のほとんどは定かではない。






現地看板には、陽石と玉石からなるとか、天津麻羅をまつるとか、たたら鍛冶との関連のある信仰など記されているが、このあたりは看板を立てた時の郷土史家の研究など、後世的な所見が反映されている可能性を考慮しなければならない。

昭和2年に金谷氏子中の名で奉納された石鳥居から、戦前における集落内での信仰がかすがに窺い知れる。

近くには山方比古神社が鎮座し、当社はその末社の関係にあるともいう。延喜式内の論社としてその起源を争う候補地でもあるようだが、このあたりも後世的な論争に伴うもので、確かな文献記録は現在のところとりつくしまがない。

同名の立岩神社が西の神山町にもあり、二社はしばしば並列的・対称的関係として語られることがある。

この二社を結びつけるのも、現地の郷土史家で一時期流行った阿波邪馬台国説やそれに伴う超古代史論の影響を加味する必要があるだろう。

2021年4月11日日曜日

岩上神社の神籠石/ひもろぎのお岩さま(兵庫県淡路市)


兵庫県淡路市柳澤乙


淡路島の岩石信仰として著名な存在である。





岩上(いわがみ)神社の神籠石は「こうごいし」とは呼ばず、「ひもろぎいし」と呼ぶ。

「ひもろぎ」は「神籬」の字の当てることが一般的だが、類似した「神籠」に転訛的に字を当てた可能性もある。明治時代以降の神籠石論争の影響による命名も拭えないからだ。

そのため、いわゆる「こうごいし」グループからは外して、「ひもろぎいし」の音を尊重したほうがよいかもしれない。
「ひもろぎのお岩さま」が地元で慣れ親しんでいた名称だろうか。

ただし、「ひもろぎ」の概念も多分に後世的な神道的な影響のもと成立した可能性を考えたほうがよく、名称からこの岩石の性格を類推するのはやや危険である。



岩上神社の創建は、社伝では天文10年(1541年)に大和国石上神宮の勧請からなるというが、社名の「岩上」は石上神宮に求めるより、ひもろぎ石ありきの当地の勧請と考えるのが自然だろう。

神社としての歴史は戦国時代からとなるが、それ以前の岩石信仰の存在は認めて良いと思う。

ただし、それを近世、中世、古代、先史時代、どこに位置付けるのかは慎重でなければならない。


ひもろぎ石からは、「平安時代のものと思われる素焼皿が出土」したというが、埋蔵文化財登録はされていないようである。

巨石の周辺から土器や玉などの遺物が見つかれば祭祀遺跡として数えられることもあるが、ひもろぎ石での素焼皿発見はいつどのような状態によるものだったのか、それを記録・紹介する考古学系の先行研究は見当たらない(祭祀系の文脈においても)。


素焼皿発見時の概報など、文献情報などをご存じの方はお教えください。


2021年4月4日日曜日

枯木神社の子宝石(兵庫県淡路市)


兵庫県淡路市尾崎

漂着した祟りの枯木をまつったことから枯木神社の名がある。

境内は海辺沿いに接し、そこに「子宝石」というもう一つの信仰が伝わる。




「子宝石が十個ぐらい横一列に並ぶ」とあるが、現在整備されているのは2個の様子である。

21世紀に建てられた看板として、おそらくこれは不特定多数に見せられる穏当な表現にしたためられたものだろう。

子宝石も後世的な総称の可能性があり、地元でかつて使われていた通称は「ぼぼ石」「おめこ石」「ちゃこ石」「おまんこ石」「こしけ石」だったという(谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第3巻 摂津・河内・和泉・淡路』白水社 、1984年)。

単に女人衆が座るというものではなく、そこにはある種猥雑活気な祭祀行為や信仰のかたちを想像できるだろう。

それら性信仰は、けっして奇異や卑猥の目で見る「消費」の民俗でもなく、臭い物に蓋をするような「恥」の民俗でもないことは、かつて小板橋靖正氏が指摘したとおりである(同氏『赤城山麓の性神風土記』あさを社、1985年)。

人間の活動において、あらゆる願望・欲望を満たすのが祭祀や信仰であり、そこに上下の列をつけるのも人間の営為という視点で、かつておこなわれ、そして現在おこなわれている事物をとらえていきたい。



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