2020年9月24日木曜日

巨石に関わる祭祀遺跡論・磐座論・依代論 ~時枝務氏「三輪山の祭祀空間」(2016年)を読んで~


表題の「三輪山の祭祀空間」は、時枝務氏が2016年に著された研究書『山岳宗教遺跡の研究』(岩田書院、2016年)の所収論文(25頁~47頁)を指します。

時枝務氏は立正大学教授で『修験道の考古学的研究』(雄山閣、2005年)、『山岳考古学―山岳遺跡研究の動向と課題―』(ニューサイエンス社、2011年)などの著書で知られる、修験道や山岳宗教を考古学的に追究する専門家です。


岩石信仰研究においても、山の考古学は極めて密接な関係にあるため、本書の全篇において学ぶ点がありますが、この記事では第一部第一章に属する「三輪山の祭祀空間」の論に絞って、私見を述べたいと思います。

本論では、三輪山山麓の代表的な磐座遺跡として有名な山ノ神祭祀遺跡を主に検討対象として、古墳時代の山麓祭祀の様相について論じられており、その中で磐座・石神・磐境に絡む論が紙幅を割かれています。

これは、近年の考古学の研究ではほとんど見られないものです。本書は350部しか発行されていないと奥付に書かれているので、その点でも、本記事で広く関係諸氏の方々に周知できればと考えています。


自分向けの備忘録としてメモしたところもありますので、やや文脈を省略するところがありますがご容赦ください。


山ノ神祭祀遺跡は祭祀遺跡か


山ノ神祭祀遺跡は「巨石をアプリオリに磐座とする」(28頁)素朴な解釈がされてきましたが、時枝氏は改めてこの遺跡が磐座なのか、何なのかを検討しています。

発掘は1918年の昔。

実測図はありますが、当時の実測技術のため正確さがやや疑問なのと、実測時点ですでに複数の盗掘にあった後で、巨石の位置が信頼ならないとする見方が有力です。

時枝氏は、最終的に「巨石は自然のままであった可能性があるが、小石は人為的に敷かれたものと判断され、自然を利用しながら構築した祭場と考えるのが最大公約数的な見解」(30頁)と判断しています。

この遺跡は発掘当初、古墳説もありましたが、時枝氏は出土した遺物が各地の祭祀遺跡で見られるものなので、祭祀遺跡説を追認する形ととっています。

ただ、古墳の副葬品と祭祀遺跡の祭祀遺物にも共通性は多いので、なぜ古墳説を除外しきれるのかについては、これまでの研究者と同様、さらに批判的に古墳側の遺物と比較してもいいのではないかとも思います。


山ノ神祭祀遺跡は磐座か


さて、時枝氏の問題提起はさらにその奥に迫り、祭祀遺跡は祭祀遺跡でも、この巨石は磐座と決めていいのか、について言及しています。

時枝氏は研究史を紐解き、神道考古学の大場磐雄氏が戦前の研究では磐座に絞り込んでおらず、石神・磐境の可能性についても併記していたことを述べています。

それが、戦後の研究では磐境と石神の解釈がなくなり、磐座に断定したという考えの変化も指摘しています。

時枝氏いわく、磐境は臨時的に置かれる施設だから、遺跡として残りにくいという前提条件を根拠に、大場氏は磐境説を排除したのではないかと推測していますが、実際のところは大場氏が明記していないので不明です。


石神と磐座の違いを整理


ほとんどの研究者が看過してきた、石神と磐座の差異について時枝氏は取り上げています。

いわく、
「石神は、それ自身が神であり、神は巨石のある場所に常住する」(32頁)
「磐座は、去来する神が、祭りに際して占める座であり、臨時に設けられた祭場」(32頁)
と定義をふりかえっていて、首肯できるものです。

さらに、上記の定義であるから、
「磐座も、神が来臨している際、すなわち祭りがおこなわれている間は、石神と同様に祭祀対象なのである。石神と磐座の差異は、神が去来するか否かにあり、神の在所をどことみるかにあるのである。」(32頁)
という、古墳時代の神観に関わる問題へ発展していきます。

この流れや問題提起については、時枝氏はすでに「神道考古学における依代の問題」(『立正大学大学院紀要』第31号 2015年)で古墳時代の神観を國學院大學笹生衛氏の学説に沿って検討しており、これについては私もすでに別記事で私見を述べました。
改めて、そこで述べた各種議論と響き合う話になってきました。

「依代」と「御形」と「磐座」について―祭祀考古学の最新研究から―(前編)


三輪山の多くの巨石群を「石神説」または「磐座説」で解釈する


三輪山山麓には、多くの祭祀遺跡、そして遺跡かどうかはわからないものの、磐座と称されたり由来不明ながらまつられていたりする巨石群が山中から麓にかけて分布しています。

これらの祭祀遺跡や巨石群の位置づけを、石神説と磐座説の二通りの解釈で時枝氏は下記のとおり整理しています。


・石神説
「それぞれの祭祀遺跡に祀られた神は、そこに常住する神で、土地の性格を強く反映した個性的な神格をもつ神が、三輪山の山内と山麓の至るところに遍満していた状況を想定することができる。三輪山は、まさに精霊が跋扈する、アニミズムの山として位置づけられることになる。」(37頁)


・磐座説
「祭祀遺跡で祀られた神は、山頂などから去来する神で、祭祀遺跡が異なっても祭神は同一であると理解できることになる。」(37頁)


時枝氏の仮説に対する疑問1.時代を飛び越えた文献援用


以上の時枝氏の研究は、大場磐雄氏以来閑却されていた石神・磐座の差異に改めて着目する試みであり、大変有用なものでした。

この流れを踏まえて、時枝氏はいよいよ山ノ神祭祀遺跡が磐座なのか石神なのかへの結論を出すわけですが、このあたりからやや私にとっては首肯しにくい論理も登場するので、そのあたりを触れておきたいと思います。


まず、時枝氏は山ノ神祭祀遺跡を磐座か石神かを絞り込むための根拠として、『日本書紀』崇神天皇条の三輪山神婚伝承を援用します。

三輪山の神は複数おらず大物主神だけであることや、山から山麓の嫁に会いに来たということが読み取れるので、複数の神々を前提とする石神説よりも特定の神が複数の祭場に現れた磐座説のほうが適合的だと結論づけています。


これはとても有名な伝承であり、おっしゃられていることも至極納得なのですが、とても残念なのが、なぜここで最終的に奈良時代の文献の心性・認識を以て古墳時代の三輪山の祭祀遺跡の神観を証明しようとしたのかということです。

これは、つねづね祭祀と考古学でいわれている、安易な文献援用であり、奈良時代と古墳時代では数百年の心の飛躍があります。

時枝氏もそこは本書の冒頭で、文献資料や民俗資料では古墳時代研究は頼りなく考古資料に立脚すべきと主張していたのに、最終的に文献のそのままの援用ではいけないでしょう。


なお、三輪山の山中の磐座群を奥津・中津・辺津磐座の3つで空間的にとらえることを時枝氏は肯定的ですが、この用語の初出である『大三輪神三社鎮座次第』は中世から近世文献説もあり、資料批判が必要です。
このあたりも、時間軸が異なる資料に基づいた解釈は控えたほうが無難でしょう。


時枝氏の仮説に対する疑問2.石神と磐座以外の解釈は?


また、いつのまにか磐境説が時枝氏の検討からも外れているのも解せません。

大場氏を批判しながら、時枝氏も磐境についてはアプリオリで巨石の数多ある解釈から外し、石神か磐座かの二択に問題を簡略化しています。

時枝氏も論ずるように、三輪山山麓の巨石群が山体と麓の傾斜変換点に沿って帯状・弧状に分布しているのであれば、たとえばそれら巨石群が全体として磐境(聖俗の境界)としての機能を有していたという説もじゅうぶん触れられるべきではないでしょうか。


さらに申し上げると、巨石の解釈は石神・磐座・磐境の3種類に限らないというのは、私が2011年『岩石を信仰していた日本人』で問題提起したことでもあります。

たとえば、神が占める磐座ではなく司祭者側である人が占める台座石であったという解釈、石占としての装置や道具としての解釈、岩石自体が奉献物の一つだったとする解釈、禊祓の場という解釈なども、検討領域に入れてみていいでしょう。

大変残念なことに、時枝氏は巻末の参考文献リストを見る限り拙著に当たっていないようですので、岩石の祭祀遺跡に対する解釈幅が大場氏以来の旧解釈でとどまっています。

そして、このことによってもう一つ、時枝氏説に対しての疑問が広がることになります。


時枝氏の仮説に対する疑問3.古墳時代の山岳信仰は山麓祭祀だけ?


時枝氏は、山ノ神祭祀遺跡を磐座と判断して、その神観を、三輪山の神が山麓ぎりぎりのところにある磐座まで来て、人々は山麓の磐座で祭祀したという「山麓祭祀」が古墳時代の山岳信仰のかたちだったと論じています。

これ自体は、民俗学で旧来いわれていた学説を追認したようなもので、山岳仏教で山中に登る修行者が現れるまでは、山は禁足地であり遠くから拝する対象だったとする観念です。

本論はあくまでも三輪山を取り上げたものなので、三輪山についてはその観念でも良いかもしれませんが、時枝氏はこのモデルケースを以て古墳時代全体の山岳信仰を山麓祭祀に当てはめすぎではないかという危惧があります。


これについても、私は『岩石を信仰していた日本人』で「山の境界論再考」という小考をしたためており、そこで古墳時代の岩石祭祀遺跡が山麓祭祀一辺倒ではなかったことを指摘しています。

具体的には、群馬県櫃石遺跡、滋賀県瓦屋寺山遺跡、島根県大船山遺跡、福岡県日峯山遺跡など、ある程度山腹に入り込んで、時には山頂直下まで入り込んだうえで祭祀遺物が見つかっている山岳祭祀遺跡が複数確認されています。
(時枝氏も『山岳考古学―山岳遺跡研究の動向と課題―』などで遺跡集成しているのでこれらの遺跡を知っているはずなのですが…)

そこで、従来の山麓祭祀にとらわれた山岳信仰観に一石を投じるため、私は「山腹境界論」とでもいうべき概念を披露したのですが、読まれていないので時枝氏論文においてもこの問題意識については置かれたままとなっている状況です。


時枝氏の仮説に対する疑問4.依代と磐座は違うといいますが…

本記事の途中でも紹介しましたが、時枝氏は折口信夫の「依代」概念への批判的研究でも知られます。

本論文においてもそのあたりを念頭に置いた記述があります。引用すると、

「磐座を考えるにあたって注意しなければならないのは、磐座はあくまでも祭場を構成する設備の一種であって、依代ではないことである。依代は、神が憑依する際の目印であって、憑依する対象ではない。(略)磐座に依代を付けた可能性はあるが、それは磐座のような堅固なものではなく、祭りに際して臨時に設けられたものであったことはいうまでもない。磐座は、依代と切り離して論じる必要があり、折口の依代論とは別個に考察されなければならない。」(44-45頁。傍線部は私が強調)

との部分です。
目印である依代と、憑依物である磐座は違うとの持論です。

これについて、私は前掲の過去ブログ記事でこう書きました。

憑依する目的物(樹木や岩石)が祭祀の対象で、その先に目印とついていた依代は、目印だから祭祀の対象でないとみなす時枝氏の考えは、必ずしもそう言えるのかという疑問があります。
依代は単なる目印ではなく、祭祀に用いられていて、神の目にとまる機能を持つのだから「聖なる印」なのであり、依代自体に聖性が帯びるのもごくごく自然なことだと思うのです。
また、信仰・祭祀の当事者自身が、そこまで機能論的に明確に"樹木・岩石が神の宿る部分"、"依代はあくまでも目印"と切り分けていたかもグレーゾーンです。
依代という装飾部分を込みにした全体が憑依物だと信じられていたことを想定することも、まったく不自然ではないと思われます。これは折口概念の拡大解釈とは全く別の次元の問題です。


そもそも、時枝氏自身にも矛盾している記述が見受けられます。
44-45頁で上記のとおり、依代は目印で磐座は目印ではないと述べながらも、38頁には下記の記述があります。

「巨石が山中と密接に関わる場であることを示す証拠と考えられ、山中に坐す神が山麓に顕現する際の目印とされたのであろう。」(38頁。傍線部は私が強調)


こちらでは、巨石が神が顕現する目印にされたと言っており、磐座は目印ではないとする先の言と矛盾します。

でも、目印とはつまりそういうことで、神は目印を通して憑依する場所を定めるのですから、祭祀の当事者からすると必ずしも機能論的、ないしは理屈的な発想ではなく、依代も岩石もその総体として神が顕現する存在だったと考えられるでしょう。


近年の祭祀考古学では、磐座や依代を分析概念の一言で相対化する傾向が見受けられますが、それに替わるモデルも定まっていない状況です。

引き続き、私は岩石信仰の事例を一つ一つ虚心に見ながら、結論を決めずに見えてくる世界観が何かを帰納していきたいと思います。


2020年9月20日日曜日

大甕神社の宿魂石・神籠石(茨城県日立市)


茨城県日立市大みか町
大甕神社。宿魂石の石碑が建つが、宿魂石は背後の岩石だけでなく岩山全体を指す。




上写真の左に見切れている岩石が神籠石。探訪時は注連縄もなく特定できなかった。

天津甕星が石化した事例として知られる。

高天原から降臨した武甕槌神と経津主神に対し、常陸の天津甕星、またの名を天香香背男と名乗る星神が強く抵抗した。

武甕槌神・経津主神はこれに手を焼き、文武に優れた武葉槌命を派遣することで、とうとう天津甕星を服することができた。

天津甕星は岩石に姿を変えたが、その後も、日に日に岩石が大きくなる。

そこで、武葉槌命は岩石を蹴り上げて破壊し、その上に社を建てることで、まつろわぬ星神を鎮めた。

これが大甕神社の始まりといわれ、社殿の下に鎮まる岩盤(岩山全体)を宿魂石(しゅくこんせき)と呼んでいる。


また、神籠石(しんろうせき。神篭岩とも表記)という岩石が、拝殿向かって左手前にある。落ちそうで落ちそうでないことが神秘とされたとの神社公式説明が付される。神籠石に布を打ちつけると、布が長持ちするという信仰も付帯しているという。


2020年9月13日日曜日

文化地質研究会オンライン講演会「岩石に神はどのように宿り、宿らなかったか―『古事記』『日本書紀』『風土記』を例に―」


文化地質研究会の10月例会で講演をすることになりました。

文化地質研究会は、人類と地質の歴史的関係を研究する学問「文化地質学」の研究組織です。
従来は理系のアプローチが多かった地質分野に、人文学の視点も取り入れていこうという方向性ですね。

コロナウイルスの影響を受けて、今年度はZoomアプリ上のオンライン講演会という形式で研究会が行われており、10月度を私が承ることになりました。

概要は下記のとおりです。準備がんばります。


日程

2020年10月11日(日)午後3時〜4時半(講演60分+質疑応答30分)


講演テーマ

「岩石に神はどのように宿り、宿らなかったか―『古事記』『日本書紀』『風土記』を例に―」

※Zoomアプリの事前インストールおよび基本操作準備が必要です。

※文化地質研究会会員向けの講演会ですが、9月講演会では会員外参加も可能でした。数日前に会員向けにZoomのURL,ID,パスワードが連絡されるので、興味ある方は私か文化地質研究会へお問い合わせください。


講演要旨

人は岩石と出会うとき、何らかの心理的影響を受ける。岩石そのものからの影響、または岩石周辺の環境からの影響、はたまた、その人が従前もっている知識や世界観によっても、心理的な受け止め方は変わってくる。

 そのような、岩石に対する心理の中の一つの極致に岩石信仰がある。岩石を見た時に素通りする人もいる一方で、その岩石を神のように崇めるケースや、神に関わる聖なるものとして岩石を取り扱う例がある。

 なぜ、岩石に神は宿ったり、宿らなかったりするのか。言い換えれば、人はどのように神宿る岩石と神宿らない岩石を分けて、岩石に心理的なグラデーションを与えるにいたったのか。

 歴史学上では、これらは主に磐座や石神といった概念で説明されることが多かった。今回の内容では、主に民俗学・考古学における諸研究をふりかえる。岩石信仰のすべてをふりかえるとテーマが広がりすぎるため、今回は「岩石への神の宿りかた」に絞ることにする。つまり、岩石に対して神は一時的に宿りに現れるのかという磐座的な発想と、それとも、岩石に常に神は内在するのかという石神的な発想の、大きく分けて二極である。

本居宣長、柳田國男、折口信夫、大場磐雄の古典的研究以来、この分野は長らく上記の磐座・石神の概念にとどまってきたが、近年では祭祀考古学の分野において依代概念への批判が起こり、新たに「御形」(御形石・像石・神像石も類語)の概念も提唱されている。このあたりの研究状況といまだ残る疑問点についても整理したうえで、私案の分類についても比較していく。

 そして、今後の研究に資する一つのアプローチとして、そもそも『古事記』『日本書紀』『風土記』を始めとする奈良~平安時代の文献記録に登場する岩石たちが、従来通説的にいわれていた解釈に収まりうるものなのか、改めて捉え直す必要を感じる。いくつかの興味深い記述を抽出しながら問題提起をしていきたい。

 このように、最古級の文字記録における岩石の世界観を輪郭づけられれば、今後、文字がなかった時代の岩石の心理を考える際の出発点となるだろう。それはすなわち、言語化されていない岩石すべてへの解釈にも大きな弾みとなるものと考えている。

・講演要旨(PDFファイル)

・参考リンク「文化地質研究会 今後の予定」
https://sites.google.com/site/bunkageology/home/07


2020年9月6日日曜日

相差の石神さん(三重県鳥羽市)


三重県鳥羽市相差町 神明神社境内


相差町の氏神・神明神社の境内社に石神社があり、ここにある「石神さん」という石は、海女の信仰を集め、女性の願いを一度は叶えるということで全国的にも知られる存在となった。




石神さんは、玉依姫命のご神体とされている。
言葉通り受け取れば、石そのものが神というよりは、石を通して玉依姫命を信仰するという磐座的発想に近い。

しかし、おそらく現地での信仰者の感覚としては、形而上の神を別にいただきながら目の前の石を目印とするという感覚ではなく、石=神と同一視するような始原的な感覚なのではないだろうか。

岩石信仰を、後世の神社信仰の中で再解釈した時に、この種の主客の逆転が起こりうる。


神明神社は明治41年(1908年)に近郷の神社をまとめて合祀して今の形になったと思われる。
では、それ以前の歴史となるとどうだったのだろうか。


『鳥羽市史』上下巻(1991年)を引いてみると、市内の神社一覧に神明神社の頁が割かれているが、現在の知名度に反し、石神さんについての記述は見当たらない。

唯一、正徳3年(1713年)成立の地誌『志陽略志』に「石神社」の名が相差の神社名の中に見られ、これが現在の神明神社境内社の石神社を指すのであれば、18世紀まで石神さんの歴史をたどることはできそうだ。

ただ、なぜか市史には他に併記された神社については現在の神明神社への合祀を触れているのに、石神社だけはその是非を触れていない。


他の郷土資料にも複数当たってみた。

伊勢志摩関係の民話集や民俗集、さらに平成20年代に調査された海女の民俗調査報告書なども図書館にある分でひととおり該当しそうな箇所を中心に読んでみた。

数百ページに及ぶのでざっと読みではあるが、鳥羽や志摩の信仰としては志摩市阿児町の横山石神神社のほうがむしろ有名のようである。
横山石神神社は、同種の石神さんをまつり、こちらは女性に限らない信仰を集めていた。


また、海女と岩石の信仰としては、相差町堅子の洗米石のほうが学術分野では取り沙汰されることが多い。

石に開いた穴に白米・小豆を入れて、海女漁の無事を祈るものという。


このように、自治体史や民俗学関係の郷土資料の中で、相差の石神さんがほとんど言及されていないのはどのような理由によるものだろうか?

文献記録がないからなのか、祭礼として記録される価値を認められていなかったのか、秘匿されていたり知られていなかったりした存在なのか、はたまた、近年町おこしで人気を博する前は信仰のかたちがまったく違っていた存在なのか。


岩田準一氏の『鳥羽志摩の民俗』(1970年)という本には、石神の記述が2項目に分かれて記されているようだが、こちらは未見である。

また閲覧の機会があれば、この記事にて追記修正をおこないたいと思う。

神明神社境内にある「盃状穴」