ラベル 埼玉県 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 埼玉県 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2025年8月17日

金鑚神社・御嶽の岩石信仰(埼玉県児玉郡神川町)

埼玉県児玉郡神川町二ノ宮


鏡岩

御嶽(御岳・御嶽山)の中腹にあり、国指定特別天然記念物として著名な岩石である。

鏡岩

陽光が射すと岩肌がしっかり輝く(前の写真と比較)。晴天の午前中の訪問をお薦めする。

地質的な詳細および伝説面も人口膾炙しており本記事であらためて詳述はしないが、岩石の精神的性質をまとめると次のようになる。

  • 鏡のように人影が映る岩石として知られ、奇異の怪石として恐れられた。
  • 心の悪しき者が向かうと岩肌が曇り、善い心の持ち主が向かうと岩肌が澄む。
  • 鏡岩の岩肌に落城する高崎城の姿が映り、それを見た落武者たちが憤慨して松明で岩肌をいぶしたとも、敵に見つからないようにするためにいぶしたともいう。


光り輝く岩肌に対して畏怖や忌避の心理が読み取れるが、たとえば信仰の対象としての神聖視とまでは直接的には読み取れないことに留意したい。

麓に武蔵国二ノ宮の金鑚神社が鎮座することから、金鑚神社のご神体石のように言及される例も見受けられるが、金鑚神社が特段の神事を行う対象とはなっていない。


神職家の方の談として、かつては子どもたちが滑り台のように遊んでいたことや、昭和30年代に起こった石のブームで鏡岩を切り欠く人達がいたので今のように鉄柵で囲った話も聞き取りされている(林 2000年)。

親しみをもって大切にされてきた岩石であることは伝わるが、神社信仰の中心という役割を担っていたわけではないことがわかる。


もちろん、かつては岩石信仰の場だったという可能性と、今残る奇異・忌避の伝説はその残滓だったとみなす立場までは否定しきれない。

しかしその場合でも、金鑚神社が神体山としてまつるのは鏡岩が存する御嶽の方向ではなく、北にそびえる御室山(御室ヶ嶽)の方向であることに何らかの説明が必要だろう。


長い歴史の中で鏡岩を神聖視した人もゼロではなかっただろうと容易に想像されるが、記録に忠実であるなら、歴史学的な資料の扱いとしては信仰というより特別視(畏怖・忌避)の事例として把握することが現状望ましい。


日本武尊の火金(火打金

金鑚神社の「かなさな」は「金砂」から由来するとみなされており、日本武尊が自らの火鑚金(火打金)を御室山に埋納したという神社創建由来が伝わる。

金鑚神社における岩石信仰とは、正確に言えばこの火鑚金(火打石)ということになる。


山中にどのあたりが埋納地なのかという位置や実在の有無については不明であるが、山中の岩石は鉄分を多分に含み、実際に鉱石の採掘坑も確認されているという(岡本 2003年)。

御室山・御嶽の一帯が金属採掘の地として重要視され、鉱石を産む山として山岳信仰と岩石信仰たる金鑚神社信仰が成立したことは肯けるところだろう。


弁慶穴/弁慶の隠れ岩

御嶽頂上は岩山となっているが、その岩山を構成する岩盤の下部に形成された岩陰。

弁慶が奥州へ逃れる時にこの穴の中で一夜を過ごしたという(山崎 1986年)。

弁慶穴

なお、現地看板によると弁慶穴の下東に「地蔵穴」なる別の岩穴があり地蔵石仏を安置していたらしいが、その場所は情報不足につき未確認である。


御嶽の仏教系岩石信仰

御嶽は中近世に修験道の行場となり、山名のとおりその後は木曽御嶽山信仰の影響も受けた。

御嶽の山頂には「奥宮」の石祠が設けられているが、岩山の手前には平坦地が広がり、この辺りに護摩壇が形成されていたという。

御嶽山頂の岩山

岩山手前に形成された平坦面と奥宮石祠

また、山中には今も70体余りの石仏が確認されているほか、「袖すり岩」「胎内くぐり」と呼ばれる岩場も存在するという(位置不明)。

御嶽の石仏群(一部。場所は原位置ではなく移動されている)

現地看板。ここにしか載っていない存在が「地蔵穴」「袖すり岩」「胎内くぐり」


駒繋ぎ石

源義家が馬を繋いだ石と伝わる。金鑚神社境内にある岩石だが見逃した。

岡本一雄『金鑚神社』(2003年)には「義家橋と駒繋ぎ石(手前左)」と題された写真があり、端に向かって左手前の岩石を駒繋石と紹介する。一方で同書のp.10~11に掲載された明治35年の「官幣中社金鑚神社境内真景」絵図には、橋に向かって右手前に「駒繋石」の注記と絵が描かれる。

橋の左と右の違いがあるが、歴史の経過で場所が変遷した可能性がある。


参考文献

  • 林宏『鏡岩紀行』中日新聞社出版開発局 2000年
  • 岡本一雄『金鑚神社』(さきたま文庫・61)株式会社さきたま出版会 2003年
  • 山崎康彦「埼玉県の石の民俗」『関東地方の石の民俗』明玄書房 1986年


2025年8月10日

能仁寺の武石と天覧山の鏡岩・獅子岩(埼玉県飯能市)

埼玉県飯能市飯能

能仁寺の武石

武陽山と称しているが昔は武石山と称していた。昔台所に沢庵を漬けて於いたら沢庵石が唸り出した。それから此の石は霊異を顕はして当山の鎮護となった。(略)境内の一偶に武石と称して今尚祀られている。
(『郷土 石特集号』1932年, p.155。旧字を適宜改めた)

山号の由来にもなったといういわれつきの岩石で、外から見るとたくさんの武士が寺を守っているような霊異を見せたことから武石というらしい(あるいは名前が先で伝説が後かもしれない)。

今も境内にまつられると書かれているから存在は有名自明かと思ったら、web上にはそれらしき報告がなく、本堂前を見渡すかぎりは候補となるような岩石も見当たらない。

能仁寺本堂前。きれいに整備されていて自然石の類はない。

寺務の方に武石の場所をお尋ねした。山号由来の石でご存知と思っていたが初耳のようで、その場でいろいろと調べていただいていたものの結論としてはわからないとのお返事だった。

能仁寺には庭園も広がるので、その庭石まで可能性を考え出すときりがない。

ご住職は不在とのことだったので、もしかしたらご住職であれば異なる見解が聞けたかもしれない。
なぜなら武石の伝説や境内にあるという前掲の話は、昭和5年当時の能仁寺住職・荻野活道氏談だからだ。
一般民衆に語りつがれる民話の断絶が取り沙汰される現代だが、それだけでなく、宗教施設内における伝承の記録・継承も深刻な現代的問題になりつつあるように感じた。

天覧山の鏡岩・獅子岩

当寺の背後は天覧山であるが其の崖下に鏡岩と云ふ面の平滑な岩がある。今では蘚苔些か其の面を汚しているが昔は鏡の様で姿が映ったとか。武石と共に古来能仁寺の七不思議中に算えられていた。
(前掲と同じ)

鏡岩は天覧山(旧愛宕山。明治天皇天覧に浴したため天覧山に改称)の中腹にあり、十六羅漢石仏が刻まれた岩肌の特に西側では今も平らな面が残っている。

鏡岩と思われる岩肌

同じ岩肌を逆サイドから撮影。平滑面が見える。

十六羅漢石仏

看板には石仏のみ記され、岩石名は等閑視されている。

そのすぐ近くには獅子岩と呼ばれる岩石もあり、いずれもチャートの節理と断層で生じたものとされている。

獅子岩

獅子岩からの麓の眺望

今は奇岩怪石の名勝としての位置づけであるが、かつては愛宕社がまつられた山であり鏡岩の岩肌には石仏が刻まれる環境にあった。
神仏すまう聖地の中における岩石信仰の事例候補としても把握しておきたい。

天覧山頂上。山頂にもチャートの岩盤が露頭する。


参考文献

2025年7月24日

大戸のお聖さま(埼玉県さいたま市)


埼玉県さいたま市中央区大戸1丁目から3丁目へ移設


「大戸のお聖さま」は、かつて埼玉県に住んでいた頃からさいたま市指定文化財の石棒と知っていたが、訪れないまま離れてしまった。

2025年7月、埼玉県を約15年ぶりに訪れる機会があり、この目に収めたいと思って現地に足を運んでみた。Googleマップにも大戸1丁目に位置が落ちている。

ところが現地は基壇を残し祠が消えていた。

2025年7月撮影


これはどうしたことか。現地には何の案内もない。

さいたま市のHPを見たところ、「令和7年6月から所在地が中央区大戸1丁目から中央区大戸3丁目に変更になりました」と追記されていた。
更新日は2025年7月11日で、訪問日のちょうど10日前の更新だった。私が訪れるこの1か月の間で、お聖さまを取り巻く状況が一変したことになる。

大戸3丁目とはいうが、細かい番地や地図がHPに掲載されてなくて困った。このように難易度の高い訪問になるとは予想しておらず、とりあえず現地でいろいろ調べてみた。


まず、大戸3丁目には大戸不動尊、お不動様、御嶽神社などがあり、それらの寺社の境内に移設されたのではないかと目星をつけた。

そこでそれぞれを尋ね歩いた。
大戸不動尊には多くの石仏石塔が集められていたが、堂内および境内を一巡しても最近移設されたような石棒は見当たらなかつた。

大戸不動尊境内

お不動様と御嶽神社は住宅地の前に隣り合うように存在したが、こちらにもそれらしきものは置かれていない。
いよいよ困ったが、ちょうど自治会役員の表札を掲げられているお宅を見かけたので、自治会の方なら何か事情をご存知かもしれないと思ってインターホンを押した。

お時間をいただき、地元で詳しいと思われる方を数珠つなぎでご紹介いただいたところ、その方が「●●さんが保管されている」とのこと。
お聖さんがなぜ移設されることになったのかの事情は皆様存じ上げていなかったが、教えていただいた●●さん宅へ向かう。

個人宅内での保管なら拝観は難しいかもしれないと心配したが、お宅の前に到着したところ、その隣に「大戸のお聖さま」の看板と共に祠ごと移設されていた。

移設後の姿。左は大戸稲荷、右がお聖さま。




堂内に現在まつられる石棒は江戸時代末期の製作(江戸時代の文化財)ということだが、大戸では大戸本村三号遺跡で石棒が出土しており、すぐ近くには縄文時代前期の住居跡からなる大戸貝塚が見つかっている。

大戸貝塚看板

どうやら元々はこのような縄文時代の石棒を後世にまつって「お聖さま」として信仰したらしい。中西紫雲「浦和だより」(『上毛及上毛人』126号 1927年)には以下の記述がある。
「『お聖様』の由来を尋ねし處、其家の老人曰く、此祠にはもと、三尺計りの古代の石棒が祀つてありましたが、今より十四五年前、何人かに盗まれまして、洵に惜しいことをしました。それで、其石棒の形に因みて、陽物形の如くに造り、再び祀つたのであります」(前掲書)
現在の石棒が高さ56cmなので、元は三尺(1m弱)とさらに大きかったようである。

しかしながら、文献発表年から計算すれば十四五年前は1910年代となるが、現地看板が記す江戸時代末期製作という伝とは年代が離れているように見受ける。
木製の陽物も複数まつられているので他のものを指した可能性や再度盗難に遭い今の石棒に登場願った可能性などあるが、前掲の地元老人の談を踏まえるとやや怪しい。この辺りにも語られぬ歴史がまだ潜んでいるのかもしれない。

ひとまず、大戸のお聖さまの最新の位置を記録することができたという点で、インターネット上の本ページの意味も有用だろう。
そのうち各地図アプリの位置も変更されると思われるが、それまで当面の訪問時は、併祀されている「大戸稲荷社」を目印に尋ねると良い。


2022年3月13日

こぶ石と猪俣の七石(埼玉県児玉郡美里町)


埼玉県児玉郡美里町猪俣

こぶ石の今昔

こぶ石は「瘤石」とも書き、拙著『岩石を信仰していた日本人』で一節を設けて報告した。

古墳時代~平安時代の長期間にわたる祭祀遺物が出土し、こぶ石を古墳時代当時から祭祀に用いたと考えられる。

こぶ石が元で名付けられたと思われる字名の「こぶヶ谷戸」を取り、こぶヶ谷戸祭祀遺跡(瘤ヶ谷戸祭祀遺跡)の名で知られている。


こぶ石は、所有者の株式会社横関酒造店の敷地内に現存する。

お店のホームページにおいても、こぶ石が下リンクのとおり紹介されている。

私が訪問した折、所有者の方はとても親切に対応してくださったので、願い出れば見せていただけると思うが、あくまでもよそ様の土地の中であることをご了承願いたい。

会社概要|横関酒造店|美里町

こぶ石(中央の二石。周囲の石囲いは現代の設置)

こぶ石の表面

こぶ石のすぐ近くではバイパス工事がなされていた。

横関酒造店

こぶヶ谷戸祭祀遺跡の出土遺物(美里町遺跡の森館展示品)

同じく展示品より

こぶ石は往時は高さ約2mほどあったといわれるが、現在は地表にわずか露出している状態であり、また、2個の露頭に分かれている。下に埋もれているという可能性もあるが、岩石自体は何らかの経緯で摩耗したのかもしれない。

なお、考古学者の大場磐雄博士がこぶ石の遺跡調査に立ち会った1960年に撮影された写真が、國學院大學博物館により公開されている。この時のこぶ石は1個の露頭であり、この半世紀の間に摩耗が進んだと類推される。

「コブ石」/國學院大學博物館所蔵(クリエイティブ・コモンズ・ライセンス済資料)


こぶヶ谷戸祭祀遺跡は二つの川の合流点に立地するという地理的特徴があったが、バイパス工事と共に護岸工事も行われ景観が変わっている。

かつての合流地点の様子(こぶ石は合流点の東に立地)

猪俣の七石/猪俣の七名石

こぶ石は、猪俣の七石または猪俣の七名石の一つといわれる。

その名のとおり、猪俣地区には7つの名だたる岩石があるということで、こぶ石以外で鏡石・福石・爺石(ぢぢいいし)・姥石・唸石(うなりいし)・櫃石(ひついし)が存在するという。


しかし、どうやら現在では有名とは言い難い状態のようで、こぶ石以外の6つの岩石についてなかなか詳しい情報が出てこない。

インターネット上で詳細な情報を閲覧できるのが、本間久英氏が著した「埼玉県に言い伝えられている石(岩石)」『東京学芸大学紀要』54(2002年)である。下記でオンライン公開されている。

https://u-gakugei.repo.nii.ac.jp/record/21772/files/03716813_54_06.pdf

上記文献より、それぞれの七石の情報を引用する。

  • 瘤石 猪俣瘤ヶ谷にある。地表に出ている部分の長さは2m30㎝である。村人はこれを掘ると祟りがあるというので掘った人はいない。
  • 鏡石 猪俣上平にある。高さ2m、幅1m30㎝、横3mあって、上面が滑らかで鏡に似ているところから名付けられた。
  • 福石 猪俣福石の通称湯脇谷にある。高さ1m30㎝、周囲3m、その形が大黒点に似ているところから名付けて福石という。
  • 爺石 正円寺谷の南にある。高さ1m30㎝、周囲6mで、現在は沢の中に落ち込んで流れに埋まっている。
  • 姥石 猪俣姥石にある。高さ1m余り、周囲は6mばかりである。この付近を姥平と呼んでいる。
  • 唸石 記載なし
  • 櫃石 薬師前大地台にあったが、現在は美里村甘糟の岡寄氏の屋敷内に移った。長さ2m、幅1m程の物である。


上記は児玉郡児玉町町史編纂室(美里町ではない)からの回答とのことだが、それぞれの石は計測数値が載せられていて、1m30㎝が多いのが気になる。元来は尺貫法などでの記録かと思われ、おそらくその頃に各石が調査・記録されたことがあったようだ。

そこで元となる文献を探したところ、埼玉県女子師範学校郷土研究会[編・発行]『埼玉県郷土研究資料』(1931年)に、元となる文が収録されていた。

児玉郡児玉町町史編纂室の回答ではなぜか唸石の記載がなかったが、元文献のこちらには次のとおり記されていた。

  • 唸石 字小栗草原にある。地上に表はれた部分は長さ三尺巾二尺高さ五寸昔唸の音を發したと言はれてゐる。

また、櫃石の位置はこの時は「松久村岡崎正作氏邸内」と記されている。ということは、薬師前大地台→松久村岡崎正作氏邸内→美里村甘糟の岡寄氏の屋敷内という変遷なのだろうか。

櫃石が現在も岡寄家の敷地内にあるのか、爺石が今も沢の中に落ち込んだままなのか、この数十年の土地開発の中で失われた岩石はないのかなど、改めて現在位置の所在確認が必要と感じる。


そして、こぶ石は祟りがあるから掘ってはいけないという禁忌が記されているが、ほぼ同時期にこぶ石は発掘調査を少なくとも2回受けている。

この発掘行為と伝承が相互にどのように影響しあったかは興味深いところである。


韮塚一三郎[編著]『埼玉県伝説集成 : 分類と解説』上・下(北辰図書出版 1974年)にも類似の記述があるが、同書には唸石の写真が掲載されており、猪俣の小平六館址の駒繋石(馬方石)も猪俣七名石の一つに数える説も記されている。また、爺石は今はないという小沢国平氏の話を載せ、引用元にも小沢国平「七つ石など」(『埼玉文化』第111号)という文献を挙げている。

小沢国平氏はこぶヶ谷戸祭祀遺跡の発掘調査報告書の著者でもあり、論文名から想像するに七つ石について詳しく書いてあるのではないか。文献を一度実見したいところである。


なお、先出の大場磐雄博士の写真資料の中には「埼玉県美里村祭祀遺跡調査(昭和35.3月)  遺跡写真」とメモ書きされた写真があり、そこに詳細不明の岩石が1枚写っている。こぶ石とは景観が異なるので、七石のうちのいずれかを撮影したものではないかと思われる。

「巨石」/國學院大學博物館所蔵(クリエイティブ・コモンズ・ライセンス済資料)


2021年5月17日

玉鉾山とポンポン山、玉鉾石と湊石(埼玉県比企郡吉見町)


埼玉県比企郡吉見町田甲


吉見丘陵の北端を玉鉾山、またはポンポン山と呼ぶ。標高38mの小丘だ。

山頂の地面を足で強く踏むとポンポン音が鳴ることから、ポンポン山の通称がついたらしい。

山頂に延喜式内社の高負彦根神社が鎮座。和銅3年(710年)の創建と伝えられ、宝亀3年(772年)の太政官符にも「高負比古乃神」と記載があることから、奈良時代に遡る古社と言って良いだろう。

神社神道で語られる神体山の発想で言えば、山は神聖不可侵で山麓から神山を仰ぐ(だから社も山麓にある)という古典的な学説があるが、当社は山の麓ではなく山の上に鎮座し、この例外となる。

玉鉾山が「山」というほどの高さではないことや、元来は麓にあった社が後世に遷座した可能性を否定するものではないが、通説的な信仰観で単一的に括れない神社のかたちも想定してしかるべきだろう。




高負彦根神社の社殿背後はすぐ山頂で、上写真のような岩盤の露頭が群在している。山頂の東側はそのまま岩盤が岩崖となって岩山の体をなす。

この岩体を玉鉾石と呼び、玉鉾山もここから生じるものだろう。

玉鉾石と近似した存在として、当社には「湊石」と呼ばれるものが記録されている。

社頭掲示によると、「高負彦根神社の三鉾…湊石(御身体)・大柊・菊水(湧水)」という記述がある。
1830年(文政13年)成立の『新編武蔵風土記稿』に「社前ニ湊石ト云アリ」と記されるものと同一物と思われるが、社前(社の向きである西側を指すのか、山の東側か不明だが)にそれらしきものは特定できなかった。

三鉾は、神宿る場所という意味合いと推測される。
わざわざ「御身体」と記された湊石は、同じく「鉾」の字を冠し、同じく社前である東の山頂に広がる玉鉾石とは別の存在なのだろうか。あるいは、山頂に広がる露岩群のどれか特定の一つを指すのだろうか。

『新編武蔵風土記稿』では、玉鉾山と湊石は別々に記されており、別物のようにも見えるが、このあたりは説明不足もあり不明である。


玉鉾石に隣接して、宝暦6年(1756年)の刻字をもつ石仏が安置されているほか、東の岩崖の裾部には、崖を取り囲むように石灯籠や石仏が設置されているのを見ると、社域としての山、そして岩石の聖域視はじゅうぶん設えられているものだった。

現在はポンポン足踏み遊びやロッククライミングに利用されて、岩石の利用は複合的になりつつある。

岩盤の傍らに安置された石仏


東の麓から見た玉鉾山。ちょうどロッククライミング中の方がいた。


2021年5月9日

太駄の岩上神社(埼玉県本庄市)


埼玉県本庄市児玉町太駄


かつて、地図で「岩上神社」の名を見つけて訪れた場所。

地図を開けると、張り出した尾根の先端に立地して、社の前には川が流れている。

地形的に岩盤が露出した尾根の可能性があり、宗教的にはその岩石の露出が神社の選地理由になったかもしれない、という見通しをもって現地をたずねた。






地表から岩盤がところどころに露出している。

表土の覆い具合はかなり薄いので、昔はまた違う光景だったかもしれない。

本殿裏の尾根はラクダの背のようにでこぼこしており、ちょうど隆起するコブの部分に岩が見え隠れしていた。

尾根をさらに進むと本格的な山腹斜面にとりつくが、そこまでいくと露岩は影を潜めた。
山頂まで登るとまた異なるかもしれないが、山端に露岩が目立つというところに岩上の社名の関係を考えることはできる。

しかし、現地看板によると「社殿は元来境内の後方の神山の嶺にあった」という伝えが残るようで、これが事実であれば現在の立地と地質的特徴の話をしても、それは当社の歴史の始原的な部分とは関係がないことになる。

また、岩上神社は現在「いそがみ」と読むらしく、慶長3年(1598年)、石上神宮の神官の一人が当社で奉仕したという。

であれば、岩があるから岩上神社となったという可能性のほかに、石上神宮系譜の「石上」「岩上」の社名が先で、その社名にふさわしい場所を岩の立地に求めたという方向性でも追究できるかもしれない。

しかし、祭神には岩長媛命と石凝姥命など石や岩の字を冠した神名が並び、石上神宮の系譜および分社としての祭神とはそぐわないという点も残る。

祭神も時代の経過で変更が起こることは多く、現状の祭神を以てこれ以上の推測を施すことは控えないといけないが、岩上神社の祭神記録を歴史的にたどることができるか、特に慶長年間以前の資料に出会えることを期待したい。


2021年5月1日

弁天岩(埼玉県飯能市)


埼玉県飯能市白子


飯能市と秩父市をつなぐ国道299号線は高麗川沿いに切り開かれ、この地域では要衝となる交通路である。

白子地区は西武池袋線武蔵横手駅と東吾野駅の中間あたりに位置し、高麗川が大きく湾曲して蛇行するあたりに目をうつすと、「弁天岩」が川を塞ぐように存在する。





岩の塊というべきか、岩でできた小島というべきか、岩上には鳥居が立てられ、石製の祠がまつられているのが川越しに見える。弁天岩の名を考えれば、弁天をまつるのだろう。

弁天岩は川中に浮かぶため、渡河しないと岩の上には登れず、それが却って現状保存にもつながり、基本的に荒らされてはいない。とはいえ自然のままに任せれば、樹木に覆われてしまうため、祠の神域を清浄に保つなら定期的な剪定も必要のように思われる。

自治会東吾野支部・東吾野体育協会・東吾野まちづくり推進委員会・東吾野地区行政センター作成の「飯能市健康づくりウオーキングコース 平戸・白子コース6,200m」によれば、弁天岩は「江戸時代、材木屋をしていた都築家で江戸に木材を筏にして運んでいたため、道中の安全を祈願して立てた」ものだという。

この点を考えると、川が大きく曲がる当地は水害が起こりやすく、水運においても事故の危険が高い場所と言える。

そこに設えられたように存在する岩の島へ、水神である弁天をまつろうとしたのもうなずける。

探訪時は、車が行きかう国道沿いにつき閑静な雰囲気には欠けるという印象だったが、ある種、水運から陸運に交通の要が移転したということであり、昔も今も交通の要衝を伝える聖地と考えることもできるだろう。

2021年4月25日

久須美 白鬚神社の岩塊(埼玉県飯能市)

埼玉県飯能市久須美字宮前


この神社の正式名称は白鬚神社だが、飯能市には白鬚神社が多く分布するので便宜上、地区名の久須美をつけた。

入間川を挟んだ山間部の境内に、大小の岩塊が存在している。最大のもので高さ4~5mくらいか。
外形は、ややアーチ状にうねった立石という感がある。




岩塊群の分布は雑然としている。
入間川沿いを中心に岩盤の露出には事欠かず、これらの岩塊が自然のままの状態か、集められたものかは不明。

神社の前を流れる入間川

『飯能市史』によると、白鬚神社が所在する字は「宮前」といい「社の前に大岩があり、古くはこの岩が神として祀られていたと思われる」と記述があるが、岩塊に対する神聖視の有無は古記録の不足もありわからないというのが実情だ。

なお、社殿の石段脇の岩には、上面が窪んでいて水をためていた。
手水石のようにも見えるが、石質は横の岩塊群と同じ種類と思われる。

水を溜める岩石(写真手前)

参考文献
織戸市郎 「80.宮前」 飯能市史編集委員会 『地名・姓氏』(飯能市史資料編11) 飯能市役所 1986年