インタビュー掲載(2024.2.7)

2018年11月30日金曜日

石仏/仏岩/高山ニシノミヤ巨石遺跡(愛媛県大洲市)


愛媛県大洲市高山ニシノミヤ

民族学者で有名な鳥居龍蔵が1928年に「東洋一のメンヒル」と称した話が枕詞となっている、有名な巨石である。

石仏/仏岩/高山ニシノミヤ巨石遺跡

「高山メンヒル」の通称でも知られるが、地元で古くから伝わる呼び名は「石仏(いしぼとけ)」だ。
高さ4.75mの緑色片岩で、立石の東側(前面)を仏、西側(背面)を神(権現様)とするらしい。

石仏/仏岩/高山ニシノミヤ巨石遺跡
前面 仏側



石仏/仏岩/高山ニシノミヤ巨石遺跡
大洲市史跡第1号に指定された。



江戸時代、大洲藩が川に架ける石橋にするために運んだところ、翌朝には元の場所に戻っていたという逸話が残る。
石そのものの改変はもちろん、周りの草木も持ち出すと祟りがあると伝えられる。

一方で、目に疣(いぼ)がある人が参るとご利益があるという風習も残る。

この立石が人工的に立てられたかどうかはまだ解決されていない問題であるが、 石自体はこの山中から産出する石種であることと、立石は麓や周囲の山々が一望できる眺望の地に立っていることを、どのように解釈するかで立場が分かれるだろう。

石仏/仏岩/高山ニシノミヤ巨石遺跡
石仏からは神南山や大洲富士(上写真)など重要なランドマークも一望できる。


『大洲市文化財調書集』では、山田弘通氏の発言として「学問の為にはもう一度白紙に返ってあらゆる角度から疑ってみるのも方向かと思う。」と引用されている。
この立石には鳥居龍蔵や樋口清之の1930年代の研究結果が21世紀現在も踏襲されている状況であり、それは古代巨石文化ロマンとしては理解できるが、石仏のためにはならないだろう。

なお、立石が存する高山ニシノミヤ地区には他に「いぼ岩」「天狗岩」「神石(長持石)」などの名前が付く岩石群があるそうだが未見である。

石仏/仏岩/高山ニシノミヤ巨石遺跡

参考文献

樋口清之『伊予大洲の古代文化』梁瀬神綾奉賛会 1930年
大洲市教育委員会編『大洲市文化財調書集』1989年
五藤孝人「南久米ものがたり 石の古代史と民俗誌」『温古』復刊第27号 大洲史談会 2005年

関連ページ


金刀比羅神社の「象乃岩」(愛媛県大洲市)

粟島神社/大元社の巨石(愛媛県大洲市)


2018年11月29日木曜日

道祖神と自然石の境目とは?

長野県民俗の会が、2018年11月に『長野県道祖神碑一覧』を上梓しました。


編集後記によれば、この冊子は2015年刊行の『長野県中・南部の石造物』(岩田書院)に収録されていた道祖神一覧を元に、収録データの誤りを訂正し、長野県北部の道祖神データも加え、長野県全域の道祖神碑の事例集成として完成したものだそうです。

全206ページに表形式で収録されており、道祖神碑の長野県下の総数は6544例。
道祖神碑ですので、石造物以外の道祖神は別カウントになると思いますが、それでも石造物で6500を超えるわけです。

信仰に関わる石をすべて岩石信仰と考えると、一県で6500件、全国では・・・あな恐ろしいことです。到底、個人の手には余ります。

そこで、私は石造物研究からは外れやすい自然石をフィールドの中心にしているのですが、本書には自然石の道祖神も収録されており、岩石信仰の資料集としても重宝できます。

道祖神碑の分類


本書の分類では、「単体像」「双体像」「文字碑」「石祠」が石造物としての道祖神として分類されています。
自然石は、繭玉の丸石については「丸石」として独立に扱い、それ以外の自然の石を「自然石」として一括します。
石造物と自然物の間とも言える男根形態石は「陽石」、女陰形態石は「陰石」としてこれもまた別項目で取り扱われています。

これらの「丸石」「自然石」「陽石」「陰石」は、文字や神像が刻まれていなくても道祖神と呼ばれてきた石たちだと推測されますが、集成を担当した調査者の方も道祖神に入れるか外すべきか悩んだ事例が含まれているのではないかと思います。

たとえば、旧坂井村安坂中村の双体像道祖神は、隣にある自然石も道祖神事例に含められています(p136)が、この石は上面の凹んだところで子供たちが草餅をついて供えたものといい、隣の道祖神とはまた別の装置感があります。
また、自然石の道祖神だった場合でも、道祖神としての信仰が先か、自然石としての信仰が先かは混然一体となっています。

本書はこれまで発表された数々の調査資料を合算して集成されたものですので、一部の資料には「自然石」ではなく「奇石」と記載されたものも存在します。
それらの中には「厄神」(小澤中小沢辻、p57)、「妻神」(泰阜村下内沢峠、p84)、「だるま石」(旧日義村百島、p88)、「女神・男神」(長野市松代町東条字管間 明真寺境内、p161)、「カリタケさん」(小布施町、p179)、「乞食の堺石」(小布施町、p179)、「どんこんさん」(小布施町六川梅松寺東参道、p179)など別の名称で呼ばれているケースもあります。

自然石の中でも、文字や像を刻する石碑状の形であれば道祖神の影響が濃いものと思われます。実際に、旧大岡村乙梶平にある自然石は「以前あった道祖神が盗まれたため、新しい石を用意して道祖神として建てた。名のある人に文字を書いてもらおうとしたが結局見つからず、道祖神の文字が刻まれないまま建っている」といいます(p162)。このように、石の見た目だけではわからない、多種多様な石の経緯に気をつけなければなりません。
石碑型とは言い難い奇石や、奇石とも言い難い何の変哲もない不整形な石までいくと、道祖神信仰以外の視点も注いでいきたい存在になります。

ただ、多くの場合は「自然石」以上の細別が難しいようで、自然石道祖神の多くは備考欄も空白のままで、写真がなければイメージすらも難しい状況です。
なかには「風化が激しい」(旧東武町加沢、p38)、「一部欠損」(麻績村西麻績、p128)、「表面が削り取られている」(長野市三輪、p150)と注記された「自然石」の事例もあり、自然石事例の中にはもともと文字や神像が刻まれたものも含まれているかもしれません。

一方では、文字碑であるにも関わらず「はやり病を村に入れたといって島流しされた碑」もあり(旧高遠町荊口栗立下の河原、p63)、文字資料であるにもかかわらず文字の内容だけで信仰世界が完結せず、別系統のストーリーが挿入されている辺り、岩石信仰は複雑です。

分布傾向の偏り


巻末には、道祖神の類型別の事例数が地域別に集計されています。

6544例の道祖神のうち、長野県内には丸石が70例、陰石陽石が142例、自然石が357例となっています。

たとえば丸石70例のうち、30例が鬼無里村で26例が小川村と二つの村に集中していたり、陰石陽石142例のうち3分の1以上の53例が長野市に偏っていたりと、分布に傾向が認められます。

とはいえ、これは複数の資料に報告されてきたものを一つにパックした文献です。資料ごとに、調査の粗密や問題意識が異なることに注意しないといけませんので、調査者の観察眼の違いによるものかもしれません。

最後に


道祖神も含め、石仏や石塔などの石造物と自然石信仰の境目を深く再考させられる文献が登場したと思います。
今の時点でひとつ言えるのは、外見上での境目というものは引けますが、信仰上での境目を引くことは適切ではないということ。

自然石そのものを見ているだけでは、自然石なだけに、人間の想念を取り出す取っ掛かりに欠けます。そこで、外堀を埋めるように、自然石以外のものから学び、消去法で残ったものをあぶりだすように自然石信仰をとらえなおすのです。

これは、信仰が人間の想念を取り扱う分野であるかぎり、信仰研究、ひいては信仰に関わる歴史研究全体にも当てはまることではないでしょうか。

一つのアプローチにこだわると、視野が偏り、人の心を見誤るのだということに注意して、これからも勉強していきたいと思います。

2018年11月26日月曜日

青野文昭氏の「表現のみち・おく」が石を哲学している

芸術家の青野文昭氏のホームページに、「表現のみち・おく」と題された研究プロジェクトがある。

青野文昭氏のホームページ → http://www1.odn.ne.jp/aono-fumiaki/
表現のみち・おくのTOP → http://www1.odn.ne.jp/aono-fumiaki/framepage8.html

青野氏によれば、「表現のみち・おく」は「道」「未知」「奥」「みちのく」などにかかったタイトルで、現在成立している様々な美術表現の道の源流をたどることを目的としている。

このコーナーの中に、岩石に関わるページがいくつかある。

「石について」http://www1.odn.ne.jp/aono-fumiaki/hg26.html
「まがい仏と彫刻」http://www1.odn.ne.jp/aono-fumiaki/hg3.html
「積石」http://www1.odn.ne.jp/aono-fumiaki/hg27.html

内容は美術にとどまらず民俗学や哲学の領域まで深く掘り進められた洞察が主となっている。
ここでは上記ページからハッとした部分を紹介したい。

石について

――刻まれたり書かれたりすることで何らかの意味―内容が投影されうるのは、「石」が元来「無意味」で「塊」で「不変的」で、、つまり外から何かを吸い寄せやすく、確かな実在物であり、そうでありながら現在の時空を超越しているという性質のなせるわざであるだろう。それらの特徴を合わせて観た時、「石」という存在が、本来の意味合いにおいて、大変優れた「媒体」であるということが理解される。(前掲ページより)
青野氏は、松尾芭蕉の「岩にしみいる蝉の声」や磐座の例を引き、石の中に吸い込んだり吸い寄せたりすることができるという石の性質を指摘している。

青野氏はまた、石は「ただの石」と「他者としての石」の2つの概念を提示している。
「ただの石」はいわゆる普段意識されない存在。それが「他者としての石」 となったとき、それが聖なる存在となるのではないかと青野氏は考える。

「他者としての石」というのは、石を一つの「自分とは異なる存在」かつ「自分に影響を及ぼす存在」として意識することだと思う。
どこかの名前も知らない人が「ただの石」と同じであるように、実際に接すると初めてそれは「他者としての人」となる。そして、その他者とは、接しているわけだから自分が影響したり影響されたりする可能性を秘めることになる。

聖なる石とは、何かを吸い込んだから「他者としての石」になるということであり、吸い込むという認識をするためには実際にその人が石に接する必要がある。
(現代では、実際にその場に立たなくても、画像で見たり知識として知ったりするだけでも接触したことになるだろう)

石の不変性や堅固性という性質はよくいわれる話であるが、石に接することになる動機やきっかけを研究した例はほぼ聞かない。
石の性質以外にも、立地環境(集落に近い)や外部的なイレギュラーな要因(天災や歴史的出来事)によって石に接する体験は数多くあっただろう。
どれだけ奇岩巨石であっても、人が触れられない場所にあればその存在は意識されない。定義としての石の中に隠れてしまう。

このように、人が岩石に聖性を認める段階には、
  • 石の本来の性質
  • 石に接するきっかけ(イレギュラーな部分)
  • 人の先天的な感覚差
  • 人の後天的な知識(時代的制約)
 の4つが相まって岩石信仰が成立していると考えることができる。


磨崖仏と彫刻

――磨崖仏はその岩を彫り尽くすことが目的なのではなく、あくまでその岩の聖性を抽出するために、仏等の様々なしるしが刻まれると考えられる。(前掲ページより)
青野氏は彫刻家である。
石材として使われるだけの石と、一見同じように石材として用いられるがそれだけではない石の違いについて言及しているページである。

それは西洋的な彫刻との対比であったり、石と木の対比あるいは共通性出であったりと、青野氏はたえず二つの概念の「二重性」の有無について考えを巡らせている。

石に刻まれたり描かれたりするものは「内部」で、石そのものは「外部」に位置付けられている。

積石

――とりあえずそこにある小石をひろって一定の場所に置くという行為。これはおそらく畏敬の対象である、ある種の空間―「他者」に対して行なわれるもっとも最初の行為であり、自分と他者の「ファーストコンタクト」の証なのである。(前掲ページより)
これまでの石に関わるページのなかで、石について最も深掘りされた青野氏の論考を読むことができる。

青野氏の「他者」論が石をモチーフに語られている。
他者に対して、恐怖も持ちつつ、憧れるものも持つというこの「二重性」の感情。
それの極致となるものが神や仏と呼ばれる信仰対象であることは私もかつて拙著で触れたことであり、実はそのような感情の発露は神や仏に限らず、そもそも普段意識しなかった何かと出会う瞬間から始まるということなのである。

人が想定しないことに出会うたびに、いつも「聖」の要素が入りこむ余地がある。
恐怖が勝つと、それは「聖から避ける」信仰になる。
憧れが勝つと、それは「聖に近づく」信仰になる。
恐怖も憧れも勝とうとすると、それは自己と信仰対象を超克、あるいは同化しようとする自立的な信仰になる。
そのグラデーションの中にある信仰も際限なくあるだろう。

人が未知の体験をするかぎり、この感情の動きからは逃げられそうもない。


おわりに

石に関わる3つのページを取り上げたが、それ以外にも祭祀や信仰という問題を考えるにあたっては、「より代・供物」(http://www1.odn.ne.jp/aono-fumiaki/hyo3,7.html)
や「代用」(http://www1.odn.ne.jp/aono-fumiaki/hyo3,15.html)のページなど、刺激的な内容が多い。
これは人類史にとって、美術と宗教に不可分な部分が多いまま今日まで来ていることの表れだろう。
また、美術と宗教という用語からはきれいなイメージが先行しがちになるが、美術と宗教は人間的なエゴが突出した部分なだけに、穢れたものや悪と呼ばれるものも含まれている。

「表現のみち・おく」に書かれている内容を深く勉強していきたいが、この研究プロジェクトは、青野氏自身が自らの中を内省して研ぎ澄ましていっている性質の文章であるだけに、参考文献や研究の出典が明示されていないところがあるのが残念である。
また、「表現のみち・おく」はおそらく未完であるが、制作された文章がおおむね00年代である。歴史や民俗学に関わるページについては、一部、やや古典的な説に立脚している部分もある。
現在の歴史学の最新研究と照らしあわせると、現在の青野氏がどのように石をとらえているかも興味津々である。

2018年11月12日月曜日

笹生衛『神と死者の考古学』(2016年)を読んで

國學院大學の笹生衛教授による『神と死者の考古学:古代のまつりと信仰』(吉川弘文館、2016年)を読みました。

笹生先生は、現在の祭祀考古学研究の第一人者であることは間違いありません。
従来の神道考古学・祭祀考古学が抱えていた殻を破り、一歩外に出た感があります。

笹生先生に勉強させていただいているところ大なのですが、今回、主に岩石信仰の研究と関わる部分を中心に、あえて違和感を抱いた直感の部分を大事にして、いくつか所感を書いてみます。


祭料が同じ=祭式が同じと言い切れるか


笹生先生は、考古資料と文献資料から「祭料(祭祀で使う道具のリスト)」と「祭式(儀式の順序)」を復元しようとします。
これまでは、イメージで語られていた何となくの祭祀儀礼を、明文化しようと取り組んだのです。

笹生説の骨子は次の文に集約されています。

五世紀から七世紀までの祭祀遺跡で出土する品々は、七世紀後半以降の「幣帛」と一致するだけでなく、九世紀初頭の『内宮儀式帳』が記す祭式の内容、そこで使用する道具類「祭料」とも一致する。したがって『内宮儀式帳』が伝える古代祭式の基本的な枠組みは、供献品の内容とともに五世紀まで遡ると考えられる。(同書より)

『皇大神宮儀式帳』(=内宮儀式帳)が同時期である9世紀の祭祀の内容を反映していることはもちろん疑いありませんが、これを「祭料」が一致(一致しているというより分類が同じものに入るという考え方が適切)しているからと言って、数百年前の古墳時代の祭祀と同一視していいかが、笹生説が受け入れられるかどうかの分かれ目だと思います。

道具が一見同じでも、時代によってその使われ方は変化し、同時代でも地域によって異なる使われ方がするもの。

おそらくゼロorヒャクで考えてはだめで、ある程度は受け継がれているものがあり、ある程度は変容しているものがある、その境目のつけかたが研究者により分かれるのが解釈というものです。


沖ノ島と伊勢神宮は同じ?

沖ノ島と伊勢神宮は国家祭祀レベルとしては同じのため、そこで行われる祭式も基本的に同じとなるでしょうか。
9世紀の同時期の対照なら私も肯きますが、5~7世紀の沖ノ島祭祀まで道具の使い方も儀式のしかたも一緒か。

伊勢神宮は多くの人工的な建築物を構築して築いた祭祀の場であるのに対して、沖ノ島は絶海の孤島に密集した岩岩の自然の中で形成された祭祀の場。
視覚的な自然環境に大きな違いがある中で、祭料の一致だけをもって機能論的に沖ノ島の巨岩と内宮の正殿と同一視するのは、もう少し慎重になっていいのではと思います。

沖ノ島の巨岩群に対して笹生先生はこう記します。

岩上・岩陰の遺跡は祭祀を行うには狭く、その出土遺物はのちの「幣帛」に当たる供献品が中心であり、土器類は極めて少ないという特徴がある。これらの点から、宗像沖ノ島の祭祀遺跡はすべてが祭祀の場であったとは考えにくい。むしろ、先ほどの祭式の流れから考えると、そこは祭祀の終了後に捧げ物をまとめて納めた場であったとの解釈が可能となる。

すべてが祭祀の場であったとは考えにくいと言いながら、すべてが祭祀の場ではないという論理になるわけではありません。
笹生先生は「納める」という表現を祭祀終了後の処置という位置づけですが、それも含めて祭祀なので、伊勢神宮の正殿も沖ノ島の巨岩群も「貯蔵庫」ではなく「最終的に捧げられた場」という位置づけがふさわしいでしょう。

沖ノ島は船で渡った先の急峻な島の地形と密集する巨岩群という独自の地理的環境を持つので、巨岩群の周辺の土器群が少ないということを、その地理的環境を勘案せずに『皇大神宮儀式帳』で解釈してしまうことに危険さを感じています。


依代は祭祀の実態を反映していない?

笹生先生は、沖ノ島の巨岩群を「神を象徴する存在(御形)」と表現しています。
この「象徴」という概念が極めてあやふやで、読み手によって解釈が分かれるのはいかがなものかと思っています。
私の読み方が浅い恐れがあるのでご教示いただきたいくらいですが、 磐座と何が異なるのかという点についてもはっきり記されていません。ただ、磐座という言葉を使いたくないのだろうな、ということは伝わります。

これは、磐座という概念が折口信夫提唱の「依代(招代)」概念と関連性が強い言葉だからではないかと思われます。
神霊はこの世界のどこかにいて、それが祭祀の時に「依代」という目印に向かって憑依する(人の立場から見ると、神をお招きする「招代」に来ていただく)という考え方が、磐座にも当てはまるからです。
これは神道考古学提唱者の大場磐雄先生が、天上や山上から傍の石塊に神が宿ると文章の中でも書いたことから、影響色濃いものがあります。

笹生先生は「『依代・招代』はあくまで、折口が民俗学的な観察から着想を得て作った学術用語であり、歴史学や考古学の検証、裏付けがなされているわけではない」と述べています。

では、笹生先生の考える神観とはどのようなものか。
『日本書紀』景行天皇十八年条に「女神有します。常に山の中に居します」という記述があり、宗像三女神も『記紀』のなかで「坐す」「在す」「居します」と表現されており、これらは「まず・まします(居られる)」と読み、神は常に山の中や島の中におられると読めるというもの。
つまり、神はどこか虚空から飛んでくる必要はなく、常にそこにいるものであり、それは山や島が有している自然環境の力を神として表現したからに他ならないという考えです。
だから、折口・大場氏以来の「依代」概念は、祭祀が行われた場の自然環境を祭祀の動機と無関係とするものであり、この考えを改める時期なのではないかと説いています。

結論から言うと、私は笹生先生のおっしゃる神観に同意です。
私も、かつてより「どうして山の神が、山頂で天上から降りてこないといけないんだろう?」など、神の垂直降臨の論理には納得できないことがありました。

それと同時にもう一つ言わないといけないのは、折口信夫はわかりませんが、大場先生は自然環境と一切無関係の神を招く祭祀の場を築いたという考え方はしていなかったのではないか、という擁護をさせていただきます。
私は、大場先生の著作群を読んで、祭祀の場が自然環境の影響と無関係とか、そういう風に思ったことがなかったからです。

大場先生の祭祀遺跡の分類の筆頭に「自然物を対象とするもの(山岳・巌石・島嶼)」とあるのはその代表的なもので、自然を対象にした祭祀があるということを私は理解しました。

大場先生の「日本上代の巨石崇拝」(1937年)のこの一文からも、自然環境の影響を受けて神のまつり場が形成されたことがじゅうぶん読み取れます。

聳り立つ巨岩に巨巖に畏壓の感を有つて崇敬の標的とし、延いてはこれを御霊代とする神社の発生を見たものや、特殊な形状の巌石に対し、形の類似から 崇拝するもの(例へば生殖器崇拝の如き)、又は盤踞する石群や人工的に巨石を配して、神を招来し奉る御坐とする(即ち磐座)等を始め、一個の石が呪物(Fetish)とせられ、或は安産に、又は雨乞に、その他各種の卜占に用ゐられたことは、古文献のみならず、今も各地に残る民俗または伝承に依つて知ることが出来よう。

「神を招来し奉る~」のくだりは依代概念の影響と笹生先生は指摘されるかもしれませんが、ここでは天上と限定しているわけではなく、明らかに目の前の巨岩に自然神の気配を感じとったことが記されています。

自然環境に神の働きを認めて祭祀の場を設けるということと、神がどこかから現れるという観念は、矛盾するものではないというのが私の考えです。

『記紀』ほか、古典に記される「坐・在・居(ます・まします)」 は、山や島に常にいる意味と捉えて良いと私も思います。

しかし、山や島のどこにいるのか?
これは、神が目に見えない存在であるから当然湧く疑問です。
神がいるという山や島に入った時点でそこはすでに聖地の中ですが、聖地には空間的な広がりがあるので、どこに神がいて会えるのかは結局解決されていない問題です。
だから、ここであれば神がいるだろうと思われる場所で人々は祭祀をしたり、自分たちで祭祀の場を設けるわけです。それが、水源であったり巨岩が露出したりする自然環境であり、その特別感に人々は神の働きを期待するわけです。
これが、山の神や海の神が遍在すると表現され、それが山や海とは神格の異なる岩石に宿るゆえんではないでしょうか。

だから、山の神が山中の岩石に現われ出るというのは磐座という考え方で説明できますし、それは岩石が山の神の象徴という笹生先生の表現方法を借りることもできます。

結局、笹生先生は大場先生以来の祭祀研究を脱皮したいと考えるがあまり、大場先生が意図するものとは違う批判をされているように感じました。

実際、全国各地の事例には、海のかなたから神が漂流するという伝説を筆頭に、依代という言葉が後付だったとしても、遠地から神がやってくるものから、聖地の中で神に会うために祭場を設けるという観念は数多く見られます。
もちろん、それらの事例が5~7世紀まで遡れるかという批判はできますが、拙著でもそのような類型の岩石祭祀事例が数十を超えて存在することを取り上げました。

『皇大神宮儀式帳』を伝家の宝刀にしてそれ一本で古墳時代の祭祀遺跡まで語ってしまうことは、かつて神道考古学が目の前の考古資料をすべて神道儀礼に結び付けて解釈を固定化してしまうという批判にさらされたのと、同じ繰り返しになる危険をはらんでいます。
いろんな神の現われ方があり、地域性やそれこそ笹生先生が言われる地理的な自然環境によってさまざまな神観があった可能性を、国家祭祀による文献で一本化してはいないでしょうか?

私は岩石信仰研究の立場でしか語ることができませんが、常に神がいるという石神、見えない神にそこに来てもらった磐座、石の神籬と言って良い磐境などなど、石ひとつとっても様々な用途があったことを問題提起として述べておきたいと思います。


沖ノ島の巨岩群の位置付け

笹生先生は、沖ノ島21号遺跡の岩上の方形区画と岩塊からなる配石遺構をどのように解釈しているのでしょうか。

笹生先生が「神の象徴(御形)」と呼ぶ巨岩の上に登って、巨岩に対して小ぶりな石を置き、その周りを「神籬」のように囲むこの空間を、どのように捉えているのでしょうか。
これも、祭祀の最終段階に祭料を納めるためにつくった施設なのでしょうか。

神の象徴が何を意味するのかはわかりませんが、神と同様の存在とみなすのなら、そんな神の上に登って別の石を置くというところに、岩石の意味付けの底知れなさを感じとれます。

ここから思考実験をしますが、別の石は、祭祀終了後に納められた宝物や祭料、または御形そのものだったかもしれませんね。
では、それらを置き並べた下の巨岩は何だったのか・・・ここも考えたいです。

御形という神の象徴を置いた下の巨岩は、石神というより磐座の役割が色濃くなります。
祭料も置かれているので、供献台の役割も兼ねています。

これを保管庫と表現するか、祭祀の場と表現するかは研究者の定義の違いだと思います。
「神霊の近く」に祭祀で使ったものを納めるということは、いわゆる祭祀の時に神に奉献したという従来の祭祀解釈を、祭式の順序的に最後に位置付けた再解釈のようなものにしかすぎません。
21号遺跡が祭祀中の遺構か祭祀後の遺構かという点は結論づけられませんが、祭祀後の遺構が祭祀の場に入らないというのは表現としては誤解を招きやすいと思います。

また、方形区画内の石の位置付けが御形なら、下の巨岩は御形ではないのか、両者ひっくるめて御形なのかも、これも人の解釈しだいですのでどちらとも言えると思います。

しかし、なぜ21号遺跡の下の巨岩だけでは「御形」たりえなかったかを検討することも大切です。
巨岩だけで物足りなかったから、別に石塊を用意したわけです。ここは重大な問題提起です。

祭祀後に置いた場合であれば、祭祀中は巨岩の見えない立地で祭祀をしていた時の「巨岩のミニ御形」だったという一つの解釈も成り立ちます。
その場合、巨岩はまるで石神そのものにも見えますが、祭祀後に石神の上を登ることがはたして当時の人々に是だったかどうか。さっぱりわかりません。

祭祀中の遺構の場合は大きな問題をはらんでいます。つまり、巨岩自体は神の象徴たりえなかったから、岩の上で祭祀をしたということです。
巨岩の下にいるだけでは神と会えないから、岩の上に登って、見晴らしの良い立地で神と会おうとしたのです。
ここで、石塊に遠地から神を招いたという依代的発想が頭をもたげます。
これを古い神道学では天上界から垂直降臨させていましたが、沖ノ島の宗像三女神は海の神であり島の神。海から依りつく水平型思考もありますし、島のどこかに遍在する神を招いたという思考もありです。

これを私は「判断保留」という結論で、拙速を避けたいと思います。
研究者は、論文や本を書くと、ついつい結論を一つに決めてしまう欲に駆られます。
しかし、その欲を優先するために今後の自分の思考を限定・先鋭化してしまってはいけません。
そして、今生きている人の心ですらわからない(だから争いは起きる)のに、過去の人々の心の中など安易に決めつけるものではないという歴史の重みを自覚して、まだまだ勉強不足の自分の無知を吐露しておきます。

日本の石神・磐座・磐境・奇岩・巨石 -STONE IN JAPAN-

YouTubeで磐座や巨石を検索すると、個別の事例や独自研究はありますが、いわゆる普遍的な石の動画が見当たりませんでした。

そこで、岩石信仰の聖地で特徴的なところをかいつまんで紹介する動画を制作しました。



むかし訪れたところは写真・動画共に画質が低いため掲載できなかったのが残念です。

そもそも動画制作初心者のため、凝ったことはせず静止画メインで、字幕も最低限(笑)
そして自分の声に自信がないので、ナレーションもなし(笑)

無音ではあんまりかなと思って、環境音のフリー音源を使用させていただきました(D’elf様より)。

さて、この動画の活用方法ですが・・・


~使用例~

「私、石が好きなんです」
「え、どういうこと?」
この動画を見せる


うーん完璧。
わたしが欲しかった動画はこれだ(笑)

全国○○○○人の「石好き」の中でも、「石を見る派」の皆さん。
石の紹介動画として、広くご活用いただければ幸いです。

今後の展開は自分でも不明(!)