2017年6月30日金曜日

石に語らせる~徳井いつこ『ミステリーストーン』を読む その4~

心理学者のC・G・ユングには「私の石」があった。

遊び場のほら穴の前に坂道があり、そこに埋まる1個の石をそう呼んでいた。
ユングはしばしばこの石に腰かけ、考えごとをすることが多かった。

――私の石の上に坐ると、奇妙にも安心し、気持が鎮まった。ともかく、そうすると私のあらゆる疑念が晴れたのである。自分が石だと考えた時はいつでも、葛藤は止んだ。"石は不確かさも、意志を伝えようという強い衝動も持っていず、しかも数千年にわたって永久にまったく同じものである"が、"一方私はといえば、すばやく燃え上り、その後急速に消え失せていく炎のように、突然あらゆる種類の情動をどっと爆発させるつかのまの現われにすぎない"のだった。私が私の情動の総体であるにすぎないのに対し、私の中に存する他人は、永久・不滅の石だったのである

ユングは、キリスト教的価値観に基づいた上で、石を次のように考えた。

人間を含めた動物は、創造主が創った「神の小片」ではあるが、神の意思からは独立し、自分たちの意思で動き回り、選択ができる存在になっていた。

それに対して、植物は同じく神の小片であるが、動物と違って場所を動くことはなく一つどころにとどまるため、それはすなわち神が意図する「神の世界」の美しさや思想を表現する装飾物のようなものであった。

では、石もそうかというと、そうではない。
石には、意味のある石と意味のない石が混在している。その造形や外見も時には機械的に見えるものもあればそうとも言えないものもあり、一言で言えば「混乱」している。

石には底知れないものを感じる。
それをユングは「神性」と評し、石は「霊の具現」を含んでいるとみた。

人はつかのまの存在で、石は永久不滅の存在である。
そんな相反する存在同士が惹かれあう理由は、生きている存在と死んでいる存在のいずれにも神性があるからだとユングは考えた。

ユングは、人が生きていて、石が死んでいるとみなしたようだが、私はそこまでシンプルな構図でもない気がする。
人は必ず死を迎えるのだから、人は死の性質を持つ存在であり、石は人が死んだ後も居続けられるから、それを生の性質と表現することもできる。

そうすると、人と石は、ともに「生と死の両方の性質を備えた存在」と汎化することができる。
そこに、ユング自身が石と類似していると感じさせる要素があったのかもしれない。


ところで、ユングは、中世ヨーロッパで流行していた錬金術も、石に神性を認めた一つの例と捉えていた。

数々の錬金術師の残した考えでは、石には霊が宿っており、石を割り砕いて、中に入っている霊を取り出すことで、金以外の物質を金に転化することができると信じていた。
このことからわかるように、霊は創造主的な神そのものではなく、その神がこの地上世界の各所に姿形を変えて散りばめた"神の意思の一片"としての霊である。
本地垂迹的な考え方にも似ているかもしれない。

石に、他の物質を救済できる霊が住まうと信じられていた論理は何か。

ユングによれば、それは石自体が固い物質であることに基づくと理解した。
石の中に霊が入っているということは、霊とは、石という固いものを貫く存在なのだから、他のあらゆる物体の中にも浸透し、その物質の性質を神聖化(=錬金化)できるのではないか、錬金術師はそう考えたのではないかと説明する。


ユングは、極めて石に対する愛しかたが"介入的"だったと私は感じる。

石を見て受動的に何かを感じるというより、石に対して自分から何かしらの働きかけをしないと気がすまなかったのだろうと察する。

たとえば、ユングは48歳の時に石で塔の家を建てている。
その理由を次のように述べている。

――私は自分の内奥の想いとか、私のえた知識を、石に何らかの表現をしなければならない、いいかえれば、石に信仰告白をしなければならなくなっていた。

さらに、ユングは75歳の時、その塔の家の庭に石碑をつくりたいという衝動にかられた。
三角石を注文したが、手違いによるものか、なぜか四角の石塊が運ばれてきたという。
しかし、ユングはその石塊を見てこう言う。

―― 一目みただけで、それは私に全くぴったりしたものであり、その石で何かしたいと思った

石の表面に目のようなものが見えたので、実際にユングは目を刻み、周りに小人の像を彫り、石自身の言葉としてユングが創った詩文を刻んだ。
彫刻を自ら行うため、ユングは実際に石工の組合に入り、石工の服装をして、喜んでノミをふるったという。

ユングの、石に対する付き合い方の根っこの部分が明らかとなるエピソードである。
「石に語らせよう」とユングは思ってのことだったが、その行動の発露は人によって千差万別。

"石ぐるい"の形もさまざま。

待っていても、もどかしい石の"静"に対して、ユングは人間として積極的に"動"の愛しかたを石へ表しにいったと言える。

2017年6月26日月曜日

元伊勢内宮皇大神社・天岩戸神社・日室ヶ嶽と岩石信仰(京都府福知山市)


京都府福知山市大江町内宮

元伊勢内宮の概要と旧跡


元伊勢三社

元伊勢伝承地「吉佐宮(よさのみや)」の比定地。

ただし、吉佐宮の比定地としては他に京都府宮津市の籠神社があり、むしろ籠神社の方が支持する人が多いのが一般的で、当社はやや陰に隠れている。

かつてより地元では「大神宮(ダイジング)さん」と呼ばれ信仰を集めていたという。

当社は、麻呂子親王の伝説を伝えている。
麻呂子親王は用明天皇の皇子で聖徳太子の異母弟にあたる人物。
麻呂子親王が大江山の鬼退治に赴いた時、戦勝祈願のために伊勢神宮の神々を祭る内宮・外宮を勧請したということから、当社はいわゆる「天照大神の元伊勢」と違うところから発祥したという説もある(大江町誌編纂委員会編『大江町誌』通史編上巻、大江町、1983年)。

また、『延喜式神名帳』によればこの辺りに不甲神社という延喜式内社が鎮座していた。不甲神社の名は今に伝わっておらず、比定地の一つとしてそれを当社が挙げられている(村上政市『神と鬼の棲む山-元伊勢と大江山-』日本の鬼の交流博物館、1994年)。

元伊勢三社
境内の石段を登ると、かつてあったのが「癌封じの膿木」。
(2007年、あんでっどさんの当サイト掲示板の投稿写真より)
2008年に台風により倒壊して今は存していない。在りし日の写真を掲載した。

元伊勢三社
「麻呂子の杉」
麻呂子親王が鬼の平定祈願のため、三本の杉を自らの手で植えたという。
三本のうち二本は落雷などで枯死し、現在は上写真の一本のみが遺風をとどめている。

元伊勢三社
枯死したと思われた杉からも、新たな生命が生まれている。

元伊勢三社
「真名井の池」

元伊勢三社
境内社 御門(みかど)神社。
「天地根元造」と名付けられた特殊な建築様式で、ベースは神明造だが、竹の幹を用いているのが特徴。

元伊勢三社
御門神社に隣接する岩室。
かわらけ(素焼きの土器)を入れて破砕することで、祭神に自らの厄を祓ってもらうという「かわらけ割り神事」が執行される。

元伊勢三社
「カネの鳴る石」
この石を小石で叩くとカーンカーンと金属音がする。
これが高じて、金銭にまつわる御利益のある奇石とみなされるようになった。

元伊勢三社
元伊勢内宮皇大神社の社殿。

当社の鳥居は黒木鳥居といい、木の皮がついたまま鳥居とした原初的な造り。
黒木鳥居を持つのは、元伊勢内宮・外宮以外では京都市の野宮神社だけとされている。

元伊勢三社
本殿は、伊勢神宮と同じ神明造。
他と違って特徴的なのは、本殿の背面に扉があり、扉を開けるとまるで社殿から裏山を遥拝する形式になるという点。
この至近距離から拝めるというのも伊勢神宮とは異なる魅力だろう。
(2010年以前は上写真手前の玉垣すらなく、高床式の柱を前面に拝むことができた)

なお、内宮の裏山は宮山と呼ばれるが、その奥の山を高底城山と呼ぶという話がある。
明治末の口碑調査記録のメモによると「日室ヶ嶽に相対峙する山を高底城山という。高底城とは御陵地の尊名であり、ここは皇大神の御尊骸を納めた地である」という(村上政市『神と鬼の棲む山-元伊勢と大江山-』、日本の鬼の交流博物館、1994年)。

元伊勢三社

元伊勢三社
神域を見渡すと、正殿と脇宮を取り囲むように、境内の周りに数え切れないほどの小さな祠が建ち並んでいる。全国各地の一宮の神々を勧請したため、八十六の小宮が取り囲んだのだという。

神主さんが話してくれたところによると、作家の梅原猛氏が当社に参った時、大略「神とかそういった精神的なものを信じない人でも、ここに来れば、聖なることとはどんなものなのか、自ずと感じることができるのではないか」という主旨の感想をもらしたという。
個人的にも納得の聖域感が保たれている。

元伊勢三社
「龍灯の杉」

節分の晴れた夜、この杉の頂上に灯明のごとき灯りが見えるのだといい、これを見た人はその年が幸福に包まれるという。当地に宿る龍神が天照大神に献じた御燈明ともいう。
これと同じようないわれを持った龍灯杉は、内宮の他に外宮と日室ヶ嶽山頂にもある。

元伊勢三社
内宮の龍灯杉は樹齢2000年を越えると推定されるが、戦後に火災に遭い、枯死寸前となった。
その命を絶やさぬために、龍燈杉の生きていた部分を切り取り、境内の別の場所に新たに植えて、若木として成長している。

元伊勢三社
龍灯杉の裏手に、1体の岩石がまつられている。

岩石の上部は窪んでいて、縦に真っ二つに分かれるかのような外形をしているため、陰石に対する信仰と目される。由来は不詳。

陰石の手前には、小ぶりの苔むした石と平たい石が置かれていて、さらにその周りを、列石が方形に配されている。
供物を捧げる石、司祭者が座する石、聖と俗を分かつ磐境のごとく機能している、岩石祭祀のお手本のような事例である。

天岩戸神社


元伊勢三社
元伊勢内宮の境内奥の山道を進むと、やがて下り斜面となり、宮川へ降りることができる。
この宮川を社域として、河岸に建つのが天岩戸神社である。
元伊勢内宮・元伊勢外宮・天岩戸神社を総称して元伊勢三社と通称されている。

元伊勢三社
宮川の流れが作り出した岩場と、いまなお鬱蒼とした社叢。
まさに自然の景観そのものがまつり場である。

元伊勢三社
産釜遥拝所。
この建屋から下の宮川を眺めると・・・

元伊勢三社
上から宮川を見たところ。

宮川の川底にある岩盤が隆起しており、川の浸食作用によって甌穴が多数形成されている。

これを、神々の湯浴みした霊跡「産釜(うぶかま)/産盥(うぶだらい)」として神聖視している。
甌穴の中には絶えず水が溜まっており、いつも一定量の水が溜まって、増減することはないといわれている。
日照り・旱魃の時に甌穴の水をすくって水面に注げば、必ず雨が降ると信じられた。
逆にこの水を濁すと、川は激しく荒れると禁忌を伝える。

元伊勢三社

元伊勢三社

元伊勢三社
天岩戸神社の社殿は、川岸の岩肌上に建てられている。
鎖を伝って社殿前で拝礼することもできるが、岩肌は水しぶきで濡れていることもあり注意。

元伊勢三社
社殿の裏手に回ると、1体の岩塊が宮川を塞ぐように控えている。
これが天岩戸神社の名の由来か。

元伊勢三社
御座石(ございし/みくらいし)
その名の通り、神がここに降り立ち座したといういわれを有する磐座。

元伊勢三社
神楽岩(写真手前の平たい岩)
ここで神楽を神に献じたと伝えられる伝説の地。

地元に伝わる『清園寺古縁起』によると、麻呂子親王が鬼を討伐した地は「天ノ戸」と記され、「神通川の川上に岩山ありて、仙丈ヶ嶽と申すあり。この末を岩室戸とも申す。ここに清き瀧あり、のち岩戸と申す」とある。当地を指すのではないか。

日室ヶ嶽


元伊勢三社
元伊勢内宮皇大神社の神体山に位置付けられる日室ヶ嶽(ひむろがたけ)。
日裏ヶ岳、日浦ヶ岳、日陰ヶ岳、城山の異名もある。

内宮から天岩戸神社へ向かう山道の途中、日室ヶ嶽遥拝所(一願さん)という場所がある。
日室ヶ嶽を最も優美な姿で遥拝できる場所であり、ここで願をかけると必ず成就するという「一願成就」の風習が伝えられている。
遥拝所の下は切り立つ崖。下からは宮川の流れる水音だけが聞こえる浄地と言える。

日室ヶ嶽は、標高427mで麓からの比高差300m程の低山だが、その優美な三角形の稜線がひときわ目立つ聖山であり、山の東斜面は禁足地とされてきた。
そのためも、山の東斜面は人の手が全く入っていない自然林であり、この地方では暖帯林と温帯林が混ざる「岩戸山原生林」として府の保全地域に指定されている。

他方で1980年代、週刊誌がこの山を「日本一美しい日本ピラミッド」と形容して以降、日室ヶ嶽はしばしば酒井勝軍以来の日本ピラミッドの1例としても取り沙汰されてきた。
大江町も、観光地図の看板に「日室岳(ピラミツト)」と記載しており、神社側も――さすがに積極的ではないが――看板などに「ピラミッド形」と書くあたり、当時の空気を今に伝えている。

不思議ついでにもう1つ大切な事実に触れると、夏至の日、遥拝所や内宮がある辺りから日室ヶ嶽を眺めると、太陽が日室ヶ嶽のちょうど山頂に沈み込むという現象を見られる。

元伊勢三社
麓の内宮地区から望む日室ヶ嶽の遠景。
手前にある支峰は、城ヶ越あるいは面山と呼ばれている。

この面山に、少なくとも2基の円墳が確認されており、城山古墳群と名付けられている。
径はいずれも10m強で、1基(1号墳)は峰上やや西、もう1基(2号墳)は面山と日室ヶ嶽の鞍部に位置する(いずれも小字は上杉)。

1号墳の方はおそらく盗掘などによって墳頂部が陥没しており、半壊状態と報告される。
発掘調査はされていないため、詳しい築造時期などは明らかになっていないが、この陥没部の存在から、1号墳は横穴式石室を内部主体としていたのではないかと考えられている。

なお、地元の伝承によると、1号墳のほうは倭姫命の墳墓であると語りつがれている。

※以上、下記文献による。
大江町誌編纂委員会(編) 1983 『大江町誌』通史編 上巻 大江町
大江町教育委員会(編・発行) 1999 『大江町遺跡地図』(大江町文化財調査報告書 第7集)
大江町教育委員会(編) 1975 『京都府加佐郡大江町 高川原遺跡発掘調査報告書』(大江町文化財調査報告第1集)

日室ヶ嶽山中の岩石構造物について


元伊勢三社
日室ヶ嶽山頂にある岩石構造物(大江町在住の「大江山の赤鬼」さんの案内により2003年登頂。南から撮影)

日室ヶ嶽は全山禁足地ではなく、原生林の神域である東斜面が立入禁止で、西側からは登れるとのこと。

山頂には、元伊勢巡幸時に天照大神の祭祀を司っていた倭姫命の住居址とも磐座ともいわれる構造物が残るといい(村上政市『神と鬼の棲む山-元伊勢と大江山-』日本の鬼の交流博物館、1994年)、それがこの構造物ではないかと思われる。
この構造物は山のほぼ頂上に立地し、原生林のある東斜面からは外れている。伝承では、この山頂に「龍頭の松」がある。

大江町誌編纂委員会編 『大江町誌』通史編上巻(大江町、1983年)によると、倭姫命住居址の伝承地は日室ヶ嶽の中腹とのことで、磐座についての言及はなく、村上論文との齟齬がある。

元伊勢三社
岩石構造物を別角度から(西から撮影)

高さ1.5mほどの四角錘状の岩石が、まるで2つに割れたかのような亀裂を接触面にして(あるいは異なる2つの石を組んで)、2体の岩石に分かれて構成されている。

この2個の石から構成される四角錘状の岩石構造物をメイン施設にして、その西側にやや他の部分からは盛り上った壇状地形が付随する。
そして、その壇状地形内部からは周りに比べて礫の混入が目立ち、壇の北側面には数個の平滑面を持つ石が貼り石のような状態で側面を固めている。

日室ヶ嶽は城山の名称を持つことから、中世に山城があったのではないかという話もある。
もし山城があったのなら、山頂を始め山中各所の岩石群の配置は原位置をとどめておらず、山城築造時に石材の二次利用を受けている可能性があるが、『大江町誌』(1983年)を参照する限り、日室ヶ嶽に山城があったという伝承や文献は存在しない。

日室ヶ嶽の本体の方には特に古墳の存在は報告されていないが、丸山という地名が日室ヶ嶽の山中にあるそうで、この地名から古墳の可能性を指摘する声もある(『大江町誌』1983年)。

以上の情報も踏まえ、この構造物が人為か自然かは判断を控えたい。

元伊勢三社
真名井ヶ池。天岩戸神社の北に位置する。この地を真名井ヶ原と呼ぶ。

「昔し此の地に真名井ヶ池と云う池があって七人の天女が天下って水を浴びていた。一人の老翁がその一人をとらえて我が子とした。天女は善く醸酒をつくった。一ぱいを飲めば吉く万の病悉くいえた。其の一ぱいの直材を車に積みて送ったところ其の家豊かに富んだので士形里という名が生れた。天女は豊宇賀能貴命と云う。又此の水は眼病によいと云伝があった。」(現地看板より)

元伊勢三社
「内宮の港石」

元伊勢内宮の南東、内宮地区の9号線沿いにある。高さ約1.5mの立石。

いわれによれば、豊受大神社の鎮まる舟岡山が宮川の流れによって流れていってしまわないよう繋ぎ止めておく、舟つなぎ石という。

また、この港石は昔の川の流れに沿って存在することから、川水を守る水戸神の磐座だったのではないかと記している。
南に位置する元伊勢外宮近くにも「二俣の港石」と呼ばれるものがあり、同様の伝承を持つという。

参考文献


  • 大江町誌編纂委員会(編) 1983 『大江町誌』通史編 上巻 大江町
  • 村上政市 1994 『神と鬼の棲む山-元伊勢と大江山-』 日本の鬼の交流博物館
  • 大江町教育委員会(編・発行) 1999 『大江町遺跡地図』(大江町文化財調査報告書 第7集)
  • 大江町教育委員会(編) 1975 『京都府加佐郡大江町 高川原遺跡発掘調査報告書』(大江町文化財調査報告第1集)
  • 日本の鬼の交流博物館(編) 1996 『鬼力話伝45』 大江町役場


2017年6月19日月曜日

2017年6月18日日曜日

石に踊る~徳井いつこ『ミステリーストーン』を読む その3~

ここで徳井氏は、石と岩石と鉱物の3つの概念について整理している。

石は、岩石と鉱物を含めた包括的な概念とする。

石垣・石臼などの具体的な用語に冠せられるだけでなく、石頭や「石の上にも三年」などの抽象的な言葉にも使われるのが「石」であるため、学術的には「石」という言葉を使用することは漠然で難しいとしている。

岩石と鉱物は"群衆と個人"にたとえられるという。
鉱物学者の益富寿之助の考えによるものらしいが、いわく、

「岩石は何の秩序もなく集まっている群衆のようなものである。」
「鉱物はただ一人ポツンといる人間のようなものである。」

この場合における「群衆」とは、あまり肯定的な意味を持っていない。
石もなく、個性もないといった意味で、群衆といった言葉が使われている。無秩序が、マイナスイメージで理解されている。

一方の「個人」は、自立していて、のびのびと自らの個性を出しているという、プラスの意味で使われている。
個人主義へのあこがれが強かった時代背景も、あるかもしれない。

このイメージ付けに正解はないと思うけれど、私は、輝かしい価値を皆が感じる「鉱物」よりも、一顧だにされない「岩石」のカオスに惹かれる。

――自分が採った石はね、ひとつひとつに思い出が詰まっとります。

――自分の石見てるとね、日記つけてないけど、ついとるんです。

鉱石が採れる滋賀県田上山に、休日をつぶして年間50日通う"石ぐるい"、小林進さんのインタビューである。

――宝石屋の石を見ると、ちょっと淋しい気がするね。完全に加工してあって、僕らにはガラスか何かわからへんもん。見た目では同じのがいっぱいある。

宝石が無個性なら、"鉱物は個人" という先の論理からはズレてしまうが、つまりは論理ではないのだろう。
群衆と個人は、時代背景色濃い後天的な哲学と感じる。

同様に、宝石に価値を持つ"石ぐるい"も否定されるものではなく、どちらもいて当然と言える。
だから、石を通して人が見える。

――これはね、腐らへんのですわ。いつまでもなんの手入れもしなくても、九十九パーセントの石は、僕がもってるあいだなら原形を保っていてくれる。

石の永遠性。
同時に、人の非永遠性がコントラストであぶりだされてくる気がする。

人は、石を踊らせることはできない。いつも、人は石に踊らされる立場でしかない。
無常感は人に不安感や悲壮感を連れてくるが、石という不安も悲壮もなく踊らされることもない存在に出会うことで、人は心を踊らされる。

石を見つめることで、人が不安定で小さな存在であることを自覚する。
そう内省することで、ある人は謙虚な面持ちになり、ある人は自然へのまなざしを変え、ある人はそれに抗おうと自らを成長させるのかもしれない。

――人間の永遠に生きたい、という気持ちとつながっているのかもしれませんね。

小林さんが言及する哲学的な部分。
本来は、意識していなかったのではないか。
インタビュアーに聞かれたから、言葉を探してきたまでで。

言語というのは、本心と必ずしも一致しないのに、言葉に乗ると話者を離れて独り歩きするパワーがある。
研究者としては、他山の石としたい記述だった。

――僕はグチャグチャとした粘土のような石が嫌いです。直線のある石、透明度のある石に惹かれるんです。

"石ぐるい"にもいろいろいて。

私は、石を集めることはしないけれど、グチャグチャとした粘土のような石、好きです。


2017年6月11日日曜日

いちべ神社

職場に届く四日市プラトンホテルのチラシ

5月の表紙


そりゃあ反応しますよね。

どこだこれ。


鳥羽市のホテルマリテーム海幸園の敷地内にある「いちべ神社」だそうです。

「抱きつき聖石」のパワースポットとして、名所になっているとのこと。

歴史的経緯を知らないので、私はそっち目線で気になってしまいます。


2017年6月8日木曜日

石に落ちる~徳井いつこ『ミステリーストーン』を読む その2~

――石ぐるいの圧倒的多数は、どういうわけか男性である。

巨石ガールという名前がかつて作られたように、本当か?と思う。

よく読むと、この石ぐるいは「石を集める」ほうの石ぐるいに限った話だった。

でも、宝石を好むのは女性というイメージがある。
いずれにしても、「石を訪ねる」ほうの石ぐるいについて照準が当てられていないのは残念だ。

――石ぐるいに半端でない憑かれかたをしている人が多いのは、たぶん石の性質によるところが大きいように思われる。あるいは石には独占欲の強い女のようなところがあって、すべてを捧げられないなら、いっそさっさと荷物をまとめて去ってしまおうという薄情なところがあるのにちがいない。

江戸時代、石集めに人生の大半を捧げた木内石亭に対する徳井氏の評の一つである。

女性の性質に例える辺りが女性らしい視点で新鮮だが、山の神の女性信仰にも通ずるところがある。
石の性質を人に例えるのも、中近世に遊行して庶民に仏法を分かりやすく説いた聖たちと同じアプローチに感じる。

石の性質は、人に通じるのだろうか。

――私は何人かの石ぐるいたちに同じ問いを投げてみたことがある。誰もが長いあいだ考えこみ、ぼそぼそと言葉少なに語られた答は、きわめて漠然としたものだった。「美しいから」「永遠だから」「同じものがひとつもないから」・・・・・・。どの答もあとから思いついた言いわけのように聞こえるのだった。

「石集め」の石ぐるいの話ではあるが、「石訪ね」に興じる私に問われても、こんな感じである。

昔から言っているが、人に石の魅力を語る時が、いまでも一番難しい。
そんなの、もう見てください、という気持ちでいっぱいいっぱい。
でも、無理矢理見せても共感性は得られないので、そもそも魅力を口に出したり、薦めたくもないという考えも湧きたつ。

自分から動いて出会った人にだけ、同じ気持ちが抱けるのではないか。

もう1つ言うと、同好の士と石の話をしたとしても、結局、私はあまり石の魅力を語ったことがないし、語れる力量を持っていない気がする。

口に出した瞬間、石の魅力の10分の1も語れていない自分を自覚しているので、石に対して失礼という感情が勝るのである。
だから、石ぐるいは黙るんじゃないかなあ。
少なくとも、私はそうです。

徳井氏はここから、石にのめりこむ理由などないのだと断じるが――もちろん後付的、理屈的な理解であれば無意味であるが――、それでは納得しない自分もいるので、今しばらくあがいてみたい。

2017年6月6日火曜日

岩上神社(京都府舞鶴市)


京都府舞鶴市寺田

岩上神社(舞鶴市)

寺田地区の産土神。

岩上神社(舞鶴市)

石垣を積んでいるというわけではなく、自然の石灰岩の上に社殿を建て、階段を敷設している。

岩上神社(舞鶴市)

岩上神社(舞鶴市)

京都新聞の記事『岩石と語らう 133 岩上神社』(1999.6.22)で当社が特集されている。

同記事によれば、2億年以上前の石灰岩層が露出した大きな岩塊の上に社殿を建てたのが岩上神社で、由来は不詳ながらも、一説には神社の裏山に中世築かれたという寺田城の守護神だったともいわれる。

ほかにも、大事なものをなくした時に神頼みをすると必ず見つかったという話(いわゆる民俗学でいわれる膳貸し伝説)や、産後の乳の出を祈願する信仰があったと伝えられる。
石灰岩という白乳色でふくらみをもつ岩質が、乳の出の信仰につながるのだろうか。

二つの川の合流点近くに立地するという山裾の自然環境も、信仰の要素とは無縁ではないと思う。