2019年12月9日月曜日

岩崎山の岩石信仰(愛知県小牧市)


愛知県小牧市岩崎

尾張本宮山の山塊から西方、濃尾平野の中に標高54.9mの岩崎山がある。
歴史的には、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、秀吉軍の稲葉一徹による砦が山頂に築かれた山で知られる。

この岩崎山は、岩石信仰という点でも注目される。
小丘であるものの、山中には花崗岩が累々として、現に「岩崎石」と呼ばれる良質な石材の産出地としても知られている。
古くは岩崎山の石が近在の古墳石室石材に使用されていることが確認されており、また、名古屋城築城の際の石垣の一部にも使用された。

そのような採石行為の影響を受けながらも、山中には大小の露岩がいまだ残る。『尾張名所図会』後編巻之三(1880年)には岩崎山中に「五枚岩」「女夫岩」「弘法足跡石」「八尋岩」の4ヶ所の岩石が記載されている。
山中はある程度整備されており、4ヶ所の岩石へのアクセスも容易である。以下に紹介したい。

熊野神社の五枚岩


岩崎山の南側山腹に熊野神社(熊野社・熊野権現)が鎮座する。
創建年は不明だが、『尾張志』下(1843年)では『延喜式神名帳』記載の丹羽郡石作神社の論社に当てられている(ただしこの説を支持する人は少ない)。

この熊野神社の舞台の隣にあるのが「五枚岩」であり、岩崎山の岩石信仰の代表格と言って良い。




五枚岩の名の通り、五枚の立岩を並べたかのような構造をなす奇岩だ。
実際は亀裂および風化・浸食の結果によるものと考えられ、愛知県指定天然記念物に指定されている。

単なる奇岩ではなく、岩には注連縄が巻かれ、亀裂の間に石像がまつられていることから神聖視の対象と認められる。

熊野神社背後の岩


熊野神社の本殿の背後をのぞくと岩が控えている。




服部修政氏『知られざる岩崎山』(1984年)では、この岩を熊野神社の神体とみなしているが、記録や伝承上で神体であることを裏付けるものはなく、可能性を指摘するだけにとどめておくのが適切だろう。

女夫岩(ミタケ)


山頂やや北方に位置。



2体の立岩を女夫になぞらえたものと推測され、2体の隙間に「御嶽山座王大権現」と刻された石碑が建てられている。五枚岩と共通して、岩の亀裂や合間を聖なる空間としている。
『尾張名所図会』の絵図にも同所に「ミタケ」と記載されており、江戸時代から御嶽講による信仰があったことがうかがえる。

女夫岩の周辺一帯には、大小の岩石が数箇所に群をなして露出している。

山頂の岩石群

山頂の岩石群


服部修政氏『知られざる岩崎山』によると、これらの岩塊群は、その上に蓋石を置いて埋葬墓としていたものではないかと推測されている。

しかし岩崎山麓の岩屋古墳をはじめとして、岩崎山一帯の埋葬施設はいわゆる横穴式石室の墓制で統一されており、服部氏の述べる自然石を側壁として蓋石を置いたというような埋葬形態は、考古学上確認されていない。

さらに、冒頭で触れた通り山頂には砦が築かれていた時代があるため、その時に自然石に改変が加わっている可能性があり、現状の岩塊の形状だけで祭祀目的の何かに類推することは慎重でなければならない。

弘法足跡石


山の西側山腹に位置。
『尾張名所図会』には名前の記載しかなく由来は不明だが、岩石の表面に足跡状の窪みがあり、これを弘法大師の聖跡とみなしたものだと類推される。

弘法足跡石

弘法足跡石周辺の岩石群

斜面上に露出する岩石群

八尋岩


山の北側山腹に位置。
斜面に露出した巨岩で、頂面が平らになっているためこの名があるのだろう。

八尋岩から麓を望む

頂面に立つと木々の合間から平野が一望できる。岩の広さと眺望の良さから特別視された岩であることは間違いないが、それ以上の信仰は認められず、神聖視の段階には至っていないのかもしれない。

この近くには土石で形成された自然の穴があり、『尾張名所図会』には「穴居」として紹介されている。

穴居

岩崎山

参考文献


  • 岡田哲・野口道直(撰) 「岩崎山」 『尾張名所図会』後編巻之三 1880年( 臨川書店 1998年版<版本地誌大系17>を参考とした)
  • 深田正韶(編) 「岩崎山」 『尾張志』下 1843年(歴史図書社 1969年版を参考とした)
  • 服部修政 『知られざる岩崎山』 ブックショップ「マイタウン」 1984年


2019年12月2日月曜日

愛知県設楽町名倉(大名倉・東納庫・西納庫)における岩石信仰の文献調査

愛知県北設楽郡設楽町の旧・名倉村は、かつて一度耳目を集めながらも、その後現代にいたるまで陽の目を浴びていない岩石信仰の地である。

大場磐雄博士が1951年に名倉村を訪れ、そこで数々の岩石信仰の場を記録に残している。

『楽石雑筆』巻三十四より(茂木雅博書写解説・大場磐雄著 『記録―考古学史 楽石雑筆(補)』博古研究会 2016年)


本文には、他の文献では見られない場所が複数登場している。
該当箇所をいくつか抜き出して、改めてその存在を公にしたい。

大名倉編
大名倉部落に至る、寒狭川中流に存する山間僻地の一小部落にて、平和境なり、名倉橋を渡りて寒狭川に沿いて北行するに川沿ひに巨岩壘々たるところあり、こヽに山の神の祠あり、その傍に二立石並び存するあり、某氏崇敬すという、又傍にイボ石、陰居山の神(寒狭山に奥の山神ありて相対す)あり、何れも巨石の信仰なり、又附近にスグラ淵、カカシ淵、シヤクジ(石神)等もあり

小字「石クラ」編
宇連に至る、寒狭川最奥の部落にして、その部落の中に小字「石クラ」あり、後藤寿造氏方に立寄りて聞く、石神は同氏の邸裏にあり、巨石数個立てり、毎年二期(舊二月・十月の七日)に同家にて祭祀す、山の神祭りと同様なる方法にて、小豆飯にシロ餅(粟餅)を神の膳(クリ盆)にのせて献じ、御神酒を添ふ、又盆の十六日には附近において念仏踊りを行う。又石神のやヽ下方に烏帽子岩あり、同じく一種の石神なり、又同氏邸内の一角に自然石に南無阿弥陀仏と刻せるあり、ショウゴ様という、名号様ならん、もと石信仰より発せし一種のイワイ殿なるべし。

宇連峠(うれとうげ)編
同家を辞して一同徒歩宇連峠をのぼる。道は次第に上りとなり寒狭川は次第に遠ざかり、遥かに股戸山は雲低く垂れたり。頂上にて一休みす。この附近舊道に道祖神ありて宇連の石神というとぞ。又峠近くの菅沢山より晩期縄文土器出土せりという、峠を下れば間もなく道の左側に石を以て構えしものあり、中に馬頭観世音あり、傍に石棒形のものあり、今折れたり、大マラ地蔵という。又この附近を名倉石神ともいう。蓋し峠を中心とせる信仰遺跡ならん。

碁盤石山編
市之瀬に至り行者岩見る、名の如くもとこヽには行者のコリ取場なりしか、岩の上に経塚や行者像あり、俗説にこヽに行者の像見え、もしをこれを見たるものは病を得ると傳う。蓋し一ノ瀬にて第一の禊場ならん
次に津具道をすヽむ、次第に道は細く険となれり、途中渓流を渡ること二度、三度目のところに道の傍に自然石ありて小石上にのれり、こヽを花立と称し昔こヽを往来の人々、木の枝等を折りてこヽに手向けして通れりと蓋し峠神への信仰なるべし
津具道を少し進めば舊道の傍に立石のあるを見る、巨大なる花崗岩の立てるにて、同じく石上に小石あり、一種の石上にて、通行人が小石を投げ上げて止まれば幸ありと
道を戻りて碁盤石山道をのぼる間もなく傍に蛇岩あり、蛇の頭に似たる大石にて傍に冷泉湧く
頂きに進む途中道の傍に七条石あり、巨大なる花崗岩の平石にて、女根と傳う、道を進むこと数町にて頂上見え、磐石見ゆ、第一は六個の花崗岩巨石の集合あり中に佐倉神社(宗五郎を祀る)あり、江戸時代一揆ありしに因むものならん、次で頂上に守護神様あり、同様の巨石十数個集合しその中の位置巨石上に天狗の石像あり、又その近くの一巨石(やヽ方形)は天狗のころばせし碁盤石にして碁に敗けしに怒りて磐を転ばせしなりと、下部にその目ありという
これより下山、青年の草刈りてつくりくれし小径を下りて「へのこ岩」に到る、名の如く男根状の巨岩屹立せり

以上すべて、茂木雅博書写解説・大場磐雄著 『記録―考古学史 楽石雑筆(補)』博古研究会 2016年より。

引用が長くなったが、それだけ、名倉の岩石信仰が多く残っていたということである。

他の文献での裏付け、肉付けをおこないたいと思い、いくつかの文献を見つけることができた。ボリュームが多くなるが、以下に一つ一つ紹介する。

中根洋治『愛知発 巨石信仰』愛知磐座研究会 2002年


「一九 設楽町東納庫字岩クラ」の一節で、大場博士が記録した宇連字石クラを中根氏が踏査されている。
大場博士は「石クラ」と記したが、現在の字名は「岩クラ」である。読みは一緒だろう。

中根氏は大場博士の『楽石雑筆』公表前に踏査しているため、大場氏の記録を手掛かりにできず独力で現地で聞き取りされている。
その結果、地元の方々から下記の情報を得ている。

  • 岩クラの地名由来や、元となる岩は聞いたことがない。
  • 県道沿いから見える特異な岩を「エボシ岩」と呼んでいる。

エボシ岩は、大場博士が後藤寿造氏邸のやや下方にあると記した「烏帽子岩」と同岩の可能性が高い。
Googleストリートビュー上で県道を眺めると、それらしき岩が映っている。



中根氏は、県道と白山神社の道の分かれ目から山中を登り、中腹に山の神を見つけている。これは、しめ縄のある直径2mほどの岩という。
山の神の上にも大岩があるが、人工的に一部切り取られている。中根氏の聞き取りによると、元は丸っぽく突き出る大岩があり、麓に落ちると危険なので県事務所に除去してもらったとのことである。
さらに尾根の奥を登ると、2つの大岩が立つ。岩の前には平地がまったくなく、中根氏は平地がないと祭祀ができないので磐座である可能性は薄いというが、平地の有無は磐座であるかどうかの決め手にはなりえないと思う。

このように、中根氏は岩クラ地区の山中に多くの岩の存在を報告しているが、大場博士が記録した後藤寿造氏邸の岩々の存在には気づかなかった。

名倉村『三州名倉』1951年


著作者は名倉村名義になっているが、序文によれば『三州名倉』の主著者は名倉の郷土史家・沢田久夫氏のようである。
この沢田久夫氏は、大場磐雄博士を名倉調査に招待した人物であることが、大場博士の『楽石雑筆』にしっかり書かれている。
大場博士を名倉の数々の岩石信仰の場へ案内したのも沢田氏であり、その沢田氏がまとめた『三州名倉』にも岩石信仰の情報が多いのではないかと思って調べてみた。

『三州名倉』表紙

名倉の地名由来
クラは高御座、磐座のように或一定の神聖な場所を示し、また翔羊(いわしか)のことをクラシシ、岩躑躅のことをクラツツジという地方もあって岩の意味もあります。
神子谷下(みこやげ)の地名由来
ミコは中世農民の信仰に大きな勢力をもっていました。ヤは関東ではヤツ・北海道でヤチという湿地のことですが、岩のことをヤという所もあります。ヤゲが湿地の下か岩の下か、にわかにきめられませんが、岩とすればその岩は神子谷下の裏山にある赤子石(あかごいし)ではないかと思います。上代にはミコ神の信仰が広く行われ、神が童形をして降臨し、神跡として赤子の足跡をのこすと信ぜられていたからです。
碁盤石山
頂上の守護神様の巨石構築は、考古学者によって上代祭祀遺蹟である磐座だといわれています。もし学界の承認を得れば、三河最大最高地点にあるイワクラです。
大名倉の地名由来
元名倉の意だと思われます。また大名倉は大名座で、この地の磐座が近郷から脅威の存在としてみられ、崇められ畏れられたので、大名の坐(くら)という呼称を得ました。オオナは大名持で有名なことをいいます。さて問題の磐座はどれかといえば、山の神傍の巨岩らしく、これを囲んで外輪石とも思われる方四五尺の石が、その前方に半円形をなして配置されています。磐座の主体をなす巨岩は、先年森林鉄道の工事で破壊されて今はありません。

以上、すべて『三州名倉』より。
岩石に関わる地名考察については注目したいものがあるが、語源や推定については論拠が明確でなく、信じるに足るかどうかは批判の余地もあるだろう。

また、大名倉の山の神については、主体となる巨岩が森林鉄道で破壊されたという事実が記されている。
大場博士は、山の神に他の巨石の存在も記していることから、一部は残り、一部は消滅したような様子がうかがわれる。

神子谷下の赤子石については、沢田氏は知っていて、大場氏の探訪メモには触れられていない。
その一方で、大場氏が記した数々の岩石信仰の地の多くが、『三州名倉』には収録されていない。意外である。

『三州名倉』刊行後に久田氏は大場博士を招聘しているので、碁盤石山ほかの岩石信仰を「学界の承認」として「上代の磐座」と持っていこうとしたのだという当時の流れがわかる。

北設楽郡史編纂委員会編『北設楽郡史 原始-中世』1968年


「古代人の信仰と磐座」(p.247-255)と題された一節が古墳時代の章の末尾に挿入されている。
収録されている情報は下記のとおりとなる。

碁盤石山の磐座
  • 一合目 行者岩 行者がここで修業した。
  • 四合目 立石 岩の上に小石を投げ入れると祈願成就。
  • 五合目 蛇石 割れ目に白蛇が住む。
  • 七合目 七尋石 長さ七尋あることから。
  • 七合目 へのこ石 七尋石の前方小さな谷を隔てた所に立地する男根形の岩。
  • 九合目 守護神様 守護神様は天狗といい、五穀成就の神という巨石群。
  • 九合目 佐倉様 佐倉様を祀る巨石群
  • 頂上 碁盤石 グヒン様(天狗の異名)の碁盤石。周囲の砂地はグヒン様の御屋敷という。
  • 岩屋 行者が修行した岩窟。立地の記述なし。紹介の並びから考えて山頂か。

これらは大場博士の記録と重なるところがあり、実際に、北設楽郡史の本節には大場博士が現地を訪れ碁盤石山の巨石群を磐座と認めた旨が記されている。ただし、山を登らずに遥拝した上代の「第一次の磐座」ではなく、修験道が始まり山中に入るようになった平安以降の「第二次の磐座」と大場博士は論評したという。
いわば、大場氏の楽石雑筆のメモの結実が北設楽郡史と考えて良い。

現在の研究状況に照らし合わせると、古墳時代(かつての上代)の山岳祭祀遺跡には山中に踏み入ったうえでの祭祀遺物出土も各地に複数見られるため、山中にある磐座がイコール修験道・山岳仏教以降の創始とは言い切れないものがあるから、その点では大場博士の論評も批判されるべきだろう。


大平のお船石

菜畑峠の麓、大平部落の上方約150mの地に、お船石(お舟石)という二つの船形石がある。
どちらも長さ9m、幅1.5mの規模をはかる。
舟石川の浸食崖に、なかば空にかかって乗り出した景観と記す。

お船石は、大平部落の氏神・小鷹神社の神がこのお船石に乗って降臨したと古老の聞き取りが収録されている。
この伝説から、お船石は小鷹神社のお前立とされ、かつては鳥居も敷設され、今も鳥居の沓石が現存する。

小鷹神社は谷一つ隔てた小鷹山の山上に鎮座するといい、例祭日が雨天時はお船石で遥拝するという決まりがある。

山麓に立地することから、祭祀遺物の出土はないものの、本書では「第一次の磐座であることは、まず間違いないと思われる」と述べる。


岩倉の地名について

北設楽郡史であるため、稲武町や東栄町・鳳来町の例も挙げられているが、ここでは名倉の記述のみを引用したい。

  1. 前記菜畑峠の八合目に、岩倉という地があり巨岩がそばだっている。
  2. 湯谷部落の和倉渕の上方、須山の山中に岩倉という地があり巨岩がある。
  3. 清水部落には二ヵ所あり、字合戸は畑で石はない。今一つは下山の山中で巨岩がよこたわっている。
  4. 宇連部落の字岩倉には、巨岩を山の神として祀るところがある。

前3者は初見情報であり貴重。
最後者は大場博士の宇連字石クラ、中根氏が訪れた岩クラのことであるが、本書では「岩倉」の字が当てられていて一致しない。


北設楽郡史編纂委員会編『北設楽郡史 民俗資料編』1967年


北設楽郡の伝説が収録されているページがあり、その中から名倉の岩石信仰に関わる部分を紹介しよう。

市場口
設楽町川向、名倉平の入口の地名。ここに、「丸いきれいな石の市神様」がまつられていたという。今はなさそう?
市場口には「ジンジン石」または「焼石(やけいし)」と呼ばれる石もあるという。弘法大師が寒さをしのぐため、この石の上で焚火をして暖をとったという。それ以来、水をかけるとジンジンと音がするようになった。しかし、現在の街道を作るときにこの石は埋められてしまったらしいので、今は見れない。

碁盤石の天狗
「昔、この山に怪力者の天狗が棲んでいた。碁が好きで山下の村人を捕えて来ては碁を闘わし、これを負かしては喜んでいた。ある年、山下の村に碁の天才が現われて山上の碁盤石で対局した。精魂をつくして闘ったが遂に天狗の負となった。天狗はくやしさのあまり碁盤をひっくり返してしまったという。だから今ある碁盤石には目盛りがない。裏側が出ているからだという。この碁盤石の付近には天狗のお屋敷と称せられ、草木の育たない場所がある。」(同書より)
碁盤石山の天狗民話の最もまとまった記述と思われる。これ以降の文献で碁盤石山を紹介するときは、おおむね本書のこの記述を元にしているようだ。

行者岩
市ノ瀬の道端にある。川沿いで、岩上に役の行者像がある。
深夜に岩上で行をする者がいるというが、人の目に触れる前に姿を隠すので、誰もその顔を見た人はいないという。
もしその顔を見ると病にかかるとも伝わる。

蛇石
碁盤石山の津具道にある。
大蛇が絡みついて石に割れ目ができ、その頭はお姫様の顔と記述されるが、蛇の頭なのか石の頭を指すのかよくわからない。
久原(くばら)の川中にも蛇石があり大蛇がいるという。

へのこ岩
碁盤石山の男根形の珍岩ということで、他文献の記述以上のものはない。

石神
東納庫の大久保と大桑の境に石神という小字がある。大洪水で流れた石塔が諸人にたたるので、当地の大蔵寺の和尚が石塔を埋めて大明神としてまつったという。
石塔を埋めたのは飛田山の祠の床下か、大蔵寺の床下か、記述からはわかりにくい。
石塔が本来の機能を忘却し、別の場所に移動したことで、たたりの石神と化したという流れを描き出す興味深い情報である。

休み石
名倉の清水と川口の境、月ヶ平へ行く道中の路傍にある。
石の上に足跡のような凹みが数か所あり、弘法大師が休息した時の足跡と伝わる。

嬰児石(あかごいし)
寺脇の広畑にある。石の側面に数か所の凹みがあり、嬰児の足跡に似るという。
赤子の夜泣きを止める霊験があると伝わる。

お舟石
大平の山中にある。長さ8mの二つの巨石が崖に半ばかかった状態といい、『北設楽郡史 原始-中世』が記す長さ9mとは誤差の範囲としておきたい。
名倉盆地がむかし海だった時に、神様が船に乗ってここへ着いたと伝わる。

子産石
大平の道下家というお宅に、インゲン大の石1個を親として、小豆大の石数個を子どもとして、それらの石が宝珠形木器の中に収蔵されたうえで仏壇にまつられている。
知らない間に石の数が増えていくという。
現在の保管状況はわからないが、個人保管のためいつ歴史が失われてもおかしくない。

大名倉の雨乞い
大名倉と宇連の境に、釜渕という淵がある。釜渕は、大名倉と田口の境にある踊渕へ通じているという。
この淵には蛇がいて、雨乞いの時に山の石、川原の石をゴチャゴチャに投げ込んだうえで酒を飲みながら踊ると、淵にいる大蛇が投げ込まれた石に困って、石をくわえて放り出す。その時に雨が降るのだという。


以上概観したが、碁盤石山、大平のお舟石に加え、市場口、石神、個人宅保管の岩石信仰など、同シリーズの『北設楽郡史 原始-中世』よりもさらに多彩な情報が満載されている。
ただし、弘法大師伝説や天狗の民話、蛇の習俗や大蔵寺の縁起など、全体として後世付会の情報が含まれることを承知しておく必要がある。


設楽町誌編さん委員会『設楽町誌 村落誌』北設楽郡設楽町 2001年


『北設楽郡史』から時代は30年以上下り、新たに『設楽町誌』が編まれた。
古代の記述からは、『北設楽郡史』にあったような「古代の磐座」のような節は削除され、名倉の岩石信仰の記録は2000年代の自治体史から消滅した。
「古代の磐座」は考古学的裏付けに欠けるという判断によるものだろうが、その旨の批判的検討を設ける紙幅は割かれてよいはず。
「論ずるに当たらず」というのであれば、ここに、戦後間もなくの頃と現代の間で価値観の断絶があると言って良い。

通史からは削除されたとはいえ、別巻であるこの『村落誌』には地区別に歴史がまとめられており、ここに岩石信仰記録の残滓が見られる。

神子谷下地区
『三州名倉』の記述を引いて、神子谷下村の裏山の赤子石の存在を紹介し、これが神子の地名の由来という説を踏襲している。そこに批判的検討はない。
ただし、赤子石の位置を地図上で落としており、探訪の便宜となる。

市之瀬地区
同じく『三州名倉』から、碁盤石山の第一の禊場=一ノ瀬とする説を追認する。
しかし、『三州名倉』はあくまでも第二・第三の禊場もあったのではないかという推測の上での推測であり、大場博士も「蓋し一ノ瀬にて第一の禊場ならん」と、あくまでも推量である。批判的検討が必要である。
碁盤石山の巨石群も、考古学者によって上代祭祀遺跡とされているという戦後間もなくの初見をそのまま持ってきており、その判断の妥当性を改めて検討した様子はうかがわれないのは残念だ。
一方、碁盤石山の守護神が、市之瀬・万場・神子谷下の三か村によって回り当番で、費用も三分割して6月30日の祭りを分担していたとの記述は有用な情報である。

宇連地区
塞の神峠近くにあった陰陽石と双体の塞ノ神を、今は奥三河郷土館と石仏公苑に移されていると記す。
これは、大場博士が記した名倉石神の「宇連の石神(道祖神)」と「大マラ地蔵」に当たるのではないか?もしそうだとすると、現地には残っていない恐れがある。付属の地図には二ヵ所の塞の神と馬頭観音のおおよその地点が峠に印されている。
また、少し調べたが、奥三河郷土館は現在休館中で、2020年春に移転オープン予定とのこと。時機を合わせて訪れたい場所である。
宇連の岩クラについての記述は皆無。

大名倉地区
大名倉の地名由来が大名持の磐座からくるとする『三州名倉』の記述はなぜか大名倉では触れられていない。眉唾に過ぎるからか。
しかし、大名倉の山の神について、有用な情報が載せられている。
その場所は「山神社」と記され、場所は大名倉の小字沢入とのことで、実地特定がしやすくなった。この山神社の神体は、最大径3.5cm、長さ9cmの男根だという。
次に、1942年に大名倉林道を開設したとき、覆殿をダイナマイトで破壊したという記述がある。これは、『三州名倉』に記された山の神の巨石が森林鉄道で破壊されたという記述に通ずるものがあるが、林道と森林鉄道では異なるか。


設楽町誌編さん委員会『設楽町誌 教育・文化編』北設楽郡設楽町 2004年


「金石文・書籍」の章

諸神として道祖神や山の神の石造物について簡潔な言及がある。
設楽地域では道祖神をサイノカミやサエノカミと呼び、地域内に残る道祖神を形態別に分類した結果、「初めは自然の石を陰陽石にみたてたもの」や「遺跡から出土の石棒」が道祖神としてまつられ、文化文政期になると双体像、その後に文字碑の造立という流れが認められるという。

この考察についてだが、人工的な石造物については年代特定が可能なものの、自然石や石棒の多くは「素朴=古いもの」と常識的にみなして石造物より起源の古いものと位置づけられただけのようにも思える。
道祖神、山の神は屋敷内、山中にも点在するため、全貌はつかめていないという。
また、何の神をまつっていたかわからなくなっている石祠の存在も複数報告されている。


「地名」の章

沢田久夫氏の「北設楽地名考」を参考にして小字単位でまとめられているので、岩石信仰に関わる部分をまとめておく。

大名倉
「モト名倉」説を収録し、名倉の開発はここから始まり、大名持の磐座から由来すると「説く人もある」とぼかして紹介するが、それは沢田氏のことではないか。

クラ(倉)
隠倉(カクレグラ)という地名があり、ここは「周りを囲まれて外部からはちょっとみえないような地形」とのことで、クラ地名がつく根拠としている。「岩のそばだつ崖」説も併記している。

イシハラ(石原)
西納庫・東納庫・川向に石原、東納庫に石原瀬(イシハラゼ)の小字があるといい、「小石の多い所」と解説する。

イワクラ
東納庫の宇連の「岩クラ」地名である。「巨岩を用いる場所」として磐座からの由来を記すだけで具体的な記述はない。

シャグジ・シャモジ・シャゴジ・イシガミ
田峯に尺地(シャクジ)、神田にシャモジ山、東納庫に石神(イシガミ)の地名が残る。
検地で使った尺を埋めた場所という口伝があるがこれは誤りで、「自然・人工を問わず石を祀るものの総称」と断定するが、現在の研究状況に照らし合わせると、シャグジ信仰のすべてが石を用いているわけではなく、シャグジと石神を同一語源とするのは誤りの可能性が高い。
つまり、田峯と神田の例は石が関係ない可能性があるが、東納庫の石神は「イシガミ」読みであり、こちらだけは岩石信仰との関りを強く感じさせる。
この東納庫の石神とは、『北設楽郡史』が記す「東納庫の大久保と大桑の境に石神という小字」で、石塔が石神化したものと思われる。

イボイシ(疣石)
東納庫にあり。

フナイシ(船石)
東納庫にあり。

ハナイワ(鼻岩)
大名倉にあり。

ヒライワ(平岩)
小松・田峯にあり。

アカイシ(赤石)
田峯にあり。

キリイシ(切石)
清崎にあり。

ショウジイワ(障子岩)
神田にあり。

オオイシ(大石)
神田にあり。

クロイシ(黒石)
川向にあり。

ヒカリイシ(光石)
川向にあり。

チカライシ(力石)
川向にあり。

ミツイシ(三ツ石)
荒尾にあり。

すべての「石」地名に実際の岩石があるとも限らないことに注意。


「伝説」の章

「岩石に関する伝説」として4例が収められている。

あみだ岩
川向大崎にある巨石。阿弥陀様に似た窪みがあるのでこの名がある。

おとぼ様
川向の藤堂神社拝殿のそばに高さ1.45m、幅1mほどの「おとぼ様」という三角形の岩石があり、上に金属製の鳥居が立ち、祭典の時には下に賽銭箱を置いてまつる。腰から下の病に霊験あり。

盗人岩
田口添沢にある岩で、そこを盗人坂という。かつて、ある盗人をこの岩に縄で括り付けた。盗人が脱げようともがいた時に、岩に深い切れ込みがついた。

碁盤石
『北設楽郡史 民俗資料編』の記述とほぼ同じ内容が記されている。


ゼンリン住宅地図より


ゼンリン地図からは、等高線の流れと地形の状態に加え、小字の明確な範囲も得ることができる。
また、今回の名倉調査でゼンリン地図が有効と思われたのは、大場博士の宇連の石クラ(岩クラ)調査時に「後藤寿造氏邸」の石神を記録していることである。
今から65年以上前の情報なので後藤寿造氏を探すことは難しいと思うが、同じ苗字を地図内で探せば石神の特定は易いのではと考えたのだ。

けれども、この狙いは外れた。
宇連地区はほぼ全戸が「後藤」姓であり、それは『村落誌』にも「後藤一姓の村落」で「奥三河でも珍しい」と記されている。
後藤寿造氏の名も見つけられなかったので、絞り込みをかけることは難しい。

ただ、大場博士は一つヒントを残してくれている。
それは「石神のやヽ下方に烏帽子岩あり」の記述。
言い方を変えると、烏帽子岩のやや上に後藤寿造氏邸があるということ。

烏帽子岩が、中根洋治氏が報告した「エボシ岩」と同一物と仮定した場合、このエボシ岩から「上」(どういう意味での上かにもよるが)に位置する後藤さん宅は、住宅地図で追う限り2軒ほどに絞られる。
ここを取っ掛かりにして現地調査の突破口が見えてきた。

名倉の岩石信仰の場まとめ


複数の文献をまたいで長くなったが、以上記した情報をGoogleマップ上に落とし込んでみた。現地調査する時の手助けに使いたい。



Googleマップは近年、ゼンリンと提携を解消して地方の等高線表示が失われたので、マップ上での視認性は悪い。探訪前の文献上差での概略位置で、正確な位置も落とし込めないので参考程度としてほしい。
今後、現地で正確な場所を確認しだい、位置を修正するつもりだ。


大名倉の調査が特に急務


さて、大名倉地区だが、ダム建設で水没する将来が迫っている。

●2015年3月某日/設楽ダム水没地域を訪ねる

設楽ダムの完成は2026年というが、ダム建設はすでに着工されており、大名倉集落の移住は完了し、一部の道はすでに立ち入り禁止で、工事用に山が切り開かれ別の道ができているとの情報もある。

大名倉での聞き取り調査はすでに難しいかもしれない。立ち入りも制限されるかもしれないが、このような事情から早期の記録保存が急務である。

大名倉には、森林鉄道で破壊された山の神の巨石や、林道建設時に破壊された山神社など、すでに岩石信仰の消失の歴史がある上に、とどめで設楽ダムである。

大場博士は、山の神の祠の傍にある二つの立石(某氏崇敬)のほか、イボ石、陰居山の神、シヤクジ(石神)の存在を報告しており、これらは林鉄・林道建設後もまた生きていた。
では、今はどうか。だれの記録にも収められていないのであれば、せめて今のうちに「最後の報告」を文字に起こしておかないといけないのではないか。


2019年11月25日月曜日

奈良県宇陀市榛原内牧における岩石信仰の文献調査

先日、ちくま学芸文庫から再刊された筑紫申真氏の『日本の神話』(原著は1964年発表)を読みました。
そのなかで、下記の記述が目にとまりました。

「磐余のすぐ東がわには、広大な磐境の遺跡がある。高城岳を中心とする宇陀郡内牧の、神籠石とおぼしき山岳信仰の遺跡は注目に値する。」

そのような「遺跡」があるとは寡聞にして知らず、これの典拠はなんだろうと探してみました。筑紫氏も出典を書いてくれればいいのですが。

結果、竹野次郎氏著『奈良県宇陀郡内牧村に於ける皇租神武天皇御聖蹟考』(皇祖聖蹟莬田高城顕彰會、1937年)という文献を発見。図書館で探すより、古本で買ったほうが易かったので取り寄せました。


薄い冊子です。
奈良県宇陀郡内牧村は、現在の行政区分で宇陀市榛原内牧となっている場所です。

目次を開けます。



見出しに、磐境のオンパレードです。
本文を読んでいくと、磐境はストーンサークルや神籠石の用語と同じ使われかたをしていました。

「神籠石と認められ」「磐境の神籠石かと思はれる」などの記述から、磐境や神籠石という呼称はストーンサークルと同様、地元で古来から呼ばれていた名前ではなく、当時の学者が好んで使用していた学術名称のようなものと考えたほうがいいでしょう。
なお、これは学史上、神籠石論争の影響を受けたものであり、現在の研究状況では神籠石や磐境を安易に宗教上の施設名称として用いることは学問的ではないとみなされています。

さて、本書を一読しましたが、戦前の神武天皇顕彰による影響や、当時の研究水準云々から、すべてを信じることはもちろんできません。
しかし、内牧地区の数々の「磐境」や立石、岩窟が紹介されているなかで、各地の地元の伝承や小字の説明が収録されています。「だだおし」「ジョウセン岩」「玉石」など、元の名前がついている岩石も見られます。
それらの情報は「磐境」と学者に呼ばれてしまう前の本来の岩石信仰につながる記録として、もう一度陽の目をあてる必要があるのではないかと思うのです。

本書にはこのような地図も付属していました。



見にくいですが、赤字で内牧地区の旧跡が細かく注記されています。

本書収録から90年超の歳月がたちました。
はたして、これらの旧跡のうち、いくつの旧跡が残り、いくつの旧跡が失われたでしょうか。

なにぶん、磐座・巨石の愛好家の間でも、この内牧の岩石信仰事例の数々はほとんど知られていないと思います。
関連文献、webの探訪記などを見ても、精々取り上げられていて内牧地区南方の「嶽の立石」ぐらいでした。
本書収録の「磐境」たちは、それほどに、認識の外に置かれているような存在と言って差し支えないでしょう。

まずは実地踏査をする前の予備調査として、本書から抽出した岩石祭祀事例のリストとおおまかな位置を、Googleマップ上に落としてみました。
下のマップでご確認ください。



Googleマップはゼンリン地図を使用しなくなったので、地方山間部の等高線など詳細情報がなくなってしまい、明らかに後退してしまいました。

そういうこともあり、位置はすべて「だいたいこのへん」で落としただけなので当てにしすぎないでください。
実地踏査で確認出来たら、随時、正確な位置に修正する予定です。

神武天皇伝説との絡みから、冒頭で紹介した筑紫氏は「磐余のすぐ東がわ」と記していますが、マップをご覧のとおり、むしろ室生寺の西に位置するととらえたほうが適切かもしれません。

私も時機到来したら現地を訪れる予定ですが、もしすでに当地を訪れた方、これから訪れる方、内牧の岩石信仰に詳しい方がおられたら情報を何なりとお寄せください。


2019年11月24日日曜日

岩神町の岩神社(愛知県豊田市)


愛知県豊田市岩神町

岩神町は、古くは足助町大字岩神として知られた地名であり、岩神は「やがみ」と読む。

この岩神町に、岩神山大日堂と村社の若一神社がある。
その裏山に続く踏み跡を5分ほど登ると、尾根上から谷間にかけて複数の露岩が苔むして鎮座している。

「岩神社」の標示

自然の露岩のなかに石祠を建てる。神の宿りかたは如何。

石祠後ろの巨岩を信仰の中心としたことが伝わる。

岩神社 全景

傍らに献じられた石燈籠には「天保五午年」(1835年)の記年銘があり、少なくとも江戸時代からの信仰を伝えている。

岩神社は元宮とも奥の院とも呼ばれている。
若一神社にとっての元宮で、大日堂にとっての奥の院だろうか。

岩神の名は、岩そのものが神であることを示すが、その岩神の前に石祠を建てることで、神は祠に宿る構図に変容した。
また、この石祠は岩神に献じられた祭具(神の住まい)とみなすこともできるだろう。

参考文献

中根洋治 「五六 足助町岩神」 『愛知発 巨石信仰』 愛知磐座研究会 2002年

雨乞石/水神さん(愛知県豊田市)


愛知県豊田市近岡町小原

旧足助町内を流れる巴川の川沿いに、雨乞石とも水神さんとも呼ばれる岩石が残っている。

南から撮影。橋のたもとにあり、特別な石とわかるように2本の杭が立つ。

北から撮影。石の奥に巴川が流れる。

もともと川の中に沈んでいた岩石が、一夜の内に現在の場所に動いたものといわれ、名前の通り、雨乞いや水の神様として信仰された。

この伝説からは、岩石自体に主体的な意思が認められ、石神としての神格を感じさせる。
同時に、石神が水中から現れたという流れも伝えている。

長期にわたり雨が降らない時は、この岩石の上で神官が祝詞をあげたり、岩石を川の中に引き入れて願掛けをしたといわれる。
昭和初期まではこのような祭祀が行われたといわれる。

岩石の上に司祭者があがるという構図は、石神だけでなく磐座や司祭者の台座としての機能も融合したものと思われる。
岩石を川の中に入れるということは、この岩石は幾度か場所を行き来したと解することができ、それが道具としての使われ方なのか、石神が元いた場所へ往還することを象徴していたのか、これも複数の解釈が可能だろう。

おそらくは、長い時間の経過の中で、いろいろな人々の心理的要請が混ざり合った結果なのだと思う。

参考文献

中根洋治 「一〇五 足助町追分の雨乞石」 『愛知発 巨石信仰』 愛知磐座研究会 2002年

2019年11月18日月曜日

石巻山の岩石信仰(愛知県豊橋市)


愛知県豊橋市石巻町

石巻山は標高358mの山で、西麓からは三角形の山容がよく目立つ。
また、山頂からの眺望も豊橋一円を見渡せる好立地で、山頂一帯は石灰岩の岩峰が屹立しており低山らしからぬ奇観をなす。

石巻山
石巻山頂上の石灰岩群

石巻山と三河本宮山(標高789m)の間には、背比べ伝説が言い伝えられている。
石巻山と本宮山がお互いに、自分の方が山が高いと言い張り喧嘩になった。決着をつけるために山と山の間に樋を横渡しし、水を流して流れ落ちた方が山が低いので負けということになった。結果、石巻山の方に水が流れてきたので石巻山が負けた。
石巻山は悔しがり、もし石巻山に登る人が小石を持ってきたら、疲れることなく登れるようにするばかりか、小石を山に置いていき山を高くしてくれたら願いごとを叶えると述べた。逆に、石巻山から石を持って帰ると頭痛など祟りに遭うようにもなった。

山の神の相反する性格が込められた民話だが、山腹に延喜式内社である石巻神社上社(奥宮)、山裾に石巻神社下社がまつられており、古代からの聖山だったことを証明している。

大場磐雄氏が昭和19年11月4日、石巻山を訪れてその時の貴重な記録を残しているので以下に引用したい(森貞次郎解説『記録―考古学史 楽石雑筆(下)』雄山閣出版 1977年)

先ず不動岩に出で、清水を掬し、更に磊々たる巨巌の起伏するを通過し、姥の足跡爪跡と称する辺を見、風穴を一見し頂上に至る、この辺一帯は石灰岩の露頭にて特に最頂は三つの尖れる大巨巌聳立せり。西より数えて天狗岩、雄岩、雌岩と名づく。天狗岩最も大なり。その最頂端によぢ登れば四辺を見通して眺望よろし。雨乞の際は雌岩上に材木を積み、火を焚き雄岩上にて祭祀を行うなりという。なお聞く所によれば石巻山の中腹に腰巻岩と称する巨巌囲繞して露出せりという。即ち石巻神社の起れる所以とす。

不動岩、山頂の祭祀、腰巻岩の話などはあまり知られていないように思える。
これら、石巻山の岩石信仰について現地の写真とともに紹介していこう。

石巻山中腹に広がる岩盤


奥の院


石巻神社上社から5~10分ほどさらに山を登ると「奥の院」と呼ばれる場所がある。

ここには広大な石灰岩が岩崖のごとく広がっており、その裾部に「このしろ池」という湧水がある。岩崖に寄り添うように不動尊・竜神社・天狗社の3つの祠がまつられており、これを総称して奥の院と呼んでいるようだ。

写真右奥が不動尊。写真左下の岩陰にこのしろ池がある。

不動尊と背後の岩崖

天狗社

石巻山は山麓から山腹まで緑色岩、山腹から山頂までが石灰岩で構成されているが、奥の院の岩崖がちょうど石灰岩と緑色岩の境目とされる。

さて、この奥の院の岩崖が、大場氏の書き残した不動岩ではないか。
大場氏は、奥宮の次にこの不動岩を記し、そこで清水を掬ったとある。奥の院には不動尊の堂もあり、不動尊の岩崖を不動岩と呼んだ可能性が高い。


石巻の蛇穴


直径60㎝ほどの岩穴が開いており、奥行は約13mという。
神の使いである大蛇が住んでいた岩穴と伝えられ、風化と水食によって形成された穴である。
大場氏が記した「風穴」に当たるだろう。



ダイダラボッチの足跡


ダイダラボッチは、石巻山と三河本宮山に足をかけて小便をして、それが県内を流れる豊川になったという伝説がある。
その時、片足をかけた足跡とされるものが岩盤に残っている。実際はこれも水食による形成と考えられている。
興味深いのは、大場氏探訪時にはどうやらこれが「姥の足跡爪跡」のようだったこと。当時と現代の微妙な揺らぎを感じる。



上天狗・下天狗


山頂近くに2つの露岩があり、東側に上天狗の石碑、西側に下天狗の石碑が露岩上に立てられている。
石巻山にいた天狗伝説に基づくもので、奥の院にある天狗社との関係深い旧跡と推測されるが、大場氏はこの上天狗・下天狗について何も記していない。

下天狗(左)と上天狗(右)

山頂


山頂は雌岩・雄岩・天狗岩の3つの岩峰から構成される。
背比べ伝説では、石巻山に水が流れ込んできた際、山頂の土が洗い流されたためにこれらの岩峰が露出する形になったのだと説明されている。

雄岩に取りつく梯子

梯子を登りきると雄岩に出る(頂上部)

天狗岩(雄岩とは崖状の亀裂で隔てられていて行くことができない)


麓の眺望

雌岩が一番東側、雄岩が真ん中、天狗岩が一番西側で、通常、登山道として登ることができるのは真ん中の雄岩だけである。
他の2つは本格的な岩壁登攀をしないと上に行けないが、石巻山は信仰の山で国指定天然記念物でもあるため、ボルトなどを打ちつけたりするなどロッククライミングは禁止されている。
そんな難岩場たる雌岩に、かつて材木を積んで火焚きする祭祀があったと大場氏が書き残している。
また、雄岩の南面には弘法窟(上人洞)と呼ばれる穴があり、弘法大師が修行をしていた場所なのだというが、どうやって行くのか道の取りつきがわからなかった。


以上、さまざまな岩石信仰の場を紹介したが、総じて修験道の影響下にある行場として各種岩場が神聖視されていたことは明らかと言えるだろう。
さらにその基層には、延喜式内社の石巻神社の祭祀が控えている。一点注目したいのは、石巻神社は麓の下社と山腹の上社に分かれている点。下社と上社のどちらが先でどちらが後なのか(ないしは同時なのか)は不明だが、山頂の巨岩群の存在も考え合わせると、この山では修験道以前から、ある程度山の中に入ったうえで祭祀がおこなわれていた可能性を指摘できる。
神体山=禁足地という通念への一つのアンチテーゼとしてとらえたい場所である。


「磐座の森」(岐阜県恵那市)


岐阜県恵那市山岡町馬場山田

2004年に恵那市に合併された旧・山岡町には、多くの奇岩怪石があるということで巨石・磐座愛好者の間ではよく知られていた。

地元でもこれらは何なのかと研究会が発足され、全国各地からも愛好者が注目し始めたことから、1999年にはイワクラサミットin山岡が開催された。
これは以後現在まで継続して開催されているイワクラサミットの第1回目であり、イワクラ(磐座)学会が結成される原動力にもなった記念碑的な出来事とも言えるだろう。

サミットにあわせ、山岡町も町おこしを兼ねて町内各地にある巨石群の整備などを行なった。
そのシンボル的存在とも言えるのが「磐座の森」であり、山中の谷間から尾根上にかけて露出する奇岩怪石を「太古の磐座」とみなしたものである。

現地には多くの岩石に名前が付けられているが、歴史学的な側面からの研究に欠けており、考古資料、古文献記録、民俗儀礼の存在をまったく聞かないのが難点である。
また、市町村合併もあってか現在に至るまでの継続的な調査が途絶えているため、これらの岩石群が歴史的価値を持つものなのかどうかは保留せざるをえない。

「磐座の森」案内図。遊歩道入口→出口の順(反時計回り)に紹介していこう。


■ 大目玉石/大岩目玉石

目玉のような凹凸があるとして命名された岩石。岩石の上面を見たが凹凸は微妙な具合。



■ ストーンシート/神座(その1)

祭祀の座と目されて命名された岩石。



■ ストーンシート/神座(その2)

その1と同じく、祭祀の座と目されて命名された岩石。



■ 祭壇石

祭祀の座と目されて命名された岩石。特定できず。


■ 栗石

単体の巨石。名前の付け方が他と異なるため何らかの由来がありそうだが、情報収集不足につき不明。



■ 狛犬形岩偶

狛犬のような岩偶ということで命名された岩石。特定できず。


■ 石舞台

まるで古墳の石室のような構造を見せることから命名された岩石。



■ 目玉石

目玉のような凹凸があるとして命名された岩石。こちらも凹凸は明瞭でない。



■ 磐座/神座

祭祀の座と目されて命名された岩石。特定できず。


■ 大岩御神体石

斜面上に単独で屹立する大岩。その存在感から命名されたと思われる岩石。



■ メンヒル

岩石の柱状の様子から命名された岩石。



■ ドルメン

机状・鳥居状の構造を見せることから命名された岩石。本例の場合は亀裂によるものと推測される。



■ 人工文様石

人工風の文様があるらしいことから命名された岩石。特定できず。


■ 御神体石

その雰囲気から命名されたと思われる岩石。特定できず。


■ メンヒル

柱状の様子から命名された岩石。下に紹介した賈鳴石に隣接している。


■ 賈鳴石/組石遺構

積石のような構造物。名称の由来は情報収集不足につき不明。

賈鳴石。写真右奥が上で紹介したメンヒル。


■ 天の岩戸

岩門のような構造を見せることから命名された岩石。




そのほか、山岡町内には以下の巨石群の存在が報告されている。未訪のため名前と住所のみ記載する(現地には一切案内がなく、存在を知る案内人に連れていってもらわないと到達は困難と思われる)。

・雨洗美巨石群(岐阜県恵那市山岡町雨洗美) 環状に取り巻く巨石群や杯状穴があるという。
・源太洞巨石群(岐阜県恵那市山岡町源太洞) 石段や石門を思わせる構造物があるという。
・大久手渓谷(岐阜県恵那市山岡町大久手) 渓谷の巨石群。景勝。
・別荘巨石群(岐阜県恵那市山岡町別荘) ピラミッド形の巨石があるという。
・野田巨石群(岐阜県恵那市山岡町野田) 岩偶のような巨石があるという。
・奥小屋巨石群(岐阜県恵那市山岡町奥小屋) 文様のようなものを持つ巨石があるという。
・石戸神殿巨石群(岐阜県恵那市山岡町石戸) 神殿のような石組構造や石段を持つという。