2019年4月14日日曜日

鐸比古神社と鐸比売神社の奥之院・高尾山(大阪府柏原市)



鐸比古命の巨岩と鐸比売命の巨岩


大阪府柏原市大県の高尾山(277.8m)の山頂には、かつて鐸比古(ぬでひこ)神社と呼ばれる神社があり、そこから東南へ60~70m下った姫山という場所に鐸比売(ぬでひめ)神社が鎮座していたという。

これは 『延喜式神名帳』で「河内国大縣郡 鐸比古神社 鐸比賣神社」と挙げられていた二社に該当するとされ、現在は山麓の鐸比古鐸比賣神社の一社に遷座・合祀されている。

高尾山山頂は広大な崖面を持つ岩山となっている。
山頂の南側に、鐸比古神社の奥之院が今もある。岩崖の上面に山頂側から回る感じでアクセスする。

鐸比古神社と鐸比売神社の奥之院・高尾山
「鐸比古大神」の石碑が立つ奥之院エリア。山頂の南側にあり、山頂に通じる車道経由でアクセスすることができる。

鐸比古神社と鐸比売神社の奥之院・高尾山
奥之院の入口にたつ鳥居。

鐸比古神社と鐸比売神社の奥之院・高尾山
石塔が献じられた藪の奥にそびえる巨岩。陽光で白く照っている。

鐸比古神社と鐸比売神社の奥之院・高尾山
神域なので巨岩に登ったり傷つけたりしないようにとの古い注意書。

鐸比古神社と鐸比売神社の奥之院・高尾山
崖下を覗き込むことは難しく、崖の全体のスケールは何とも言えないが、市内を眺望できる好立地である。

鐸比古神社と鐸比売神社の奥之院・高尾山
岩場登りの跡も残る。

鐸比古神社と鐸比売神社の奥之院・高尾山
岩崖から上は岩盤が根続きになっており、岩盤上に小祠がまつられている。
明記されていないが、これが奥之院だろうか。

鐸比古神社と鐸比売神社の奥之院・高尾山
岩盤は傾斜しながらも一定の平坦面があり、平坦面を囲い込む斎庭のような場所もある。

鐸比売神社の旧社地は姫山にあるというが、そちらは正確なアクセスルートが調べきれておらず、未訪である。
姫山は谷間地形といい、そこにも巨岩があるという。
「比売御前」とも呼ばれ、雨乞いや疫病治癒の場だったという。

巨岩はそれぞれ高尾山の水源地と場所が重なり、西麓の里へ流れる沢水の源流であったということも、信仰要素と無縁ではないだろう。


考古学的にみる高尾山と岩石信仰の解釈


高尾山山頂は弥生後期の遺物散布地であり、高尾山山頂遺跡としても知られる。
遺構の検出状況から、これらは弥生時代の高地性集落だったのではないかと考えられている。
山岳の巨岩信仰で神社の元宮があるという話だけだと、人の手が入らない神聖不可侵な場という先入観が通りやすいが、考古学的事実は、弥生時代にこの山が迅速の入る生活空間であったことを示している。

そして、高尾山山頂から南西の尾根の西側斜面から、弥生前期~中期と推定される多紐細文鏡が発見されている。
考古学者の小林青樹氏は「山の神」(『季刊考古学・別冊27 世界のなかの沖ノ島』2018年)のなかで、多紐細文鏡出土地点の北側と南側にそれぞれ岩塊がそびえていることに注意し、鐸比古神・鐸比売神の巨岩の存在も考慮して、弥生時代における巨岩信仰・磐座祭祀を肯定的に受けとめている。
これらの巨岩が鏡の出土をもって、即、磐座形態での祭祀であったとまで飛躍することは慎重でありたいが、巨岩の林立する山と青銅器の一事例として注目したい。

一方で、山で集落生活を営んでいたという事実もある。
弥生時代当時において、山岳の岩石信仰があったとして、それは人間空間とけっして空間を離しあう関係ではなく、共存しうる関係だったことがわかる。
弥生時代において、山は登られる存在であって、いわゆる禁足知的な観念とはまた別系統のものがあったということになるだろう。

なお、神社の祭神は鐸比古命・鐸比売命であり、「鐸」という神名からどうしても銅鐸との関わりを指摘する声が根強いと思うが、銅鐸は現在のところ発見されていないことも認めなければいけない。

時代が古墳時代後期に下ると、高尾山の山腹に十数基の群集墳が築かれるようになる。
巨岩のある山に同居して祖先の墓域が形成されていくという、岩石信仰と祖霊信仰の関係も全国各地に類例がある。
巨岩は自然地形であるため、当時存在していたことは間違いないが、特別視・神聖視されていたかはまた別問題である。自然物に対して人々が何を思っていたかを可視的な物証で突破する方法論が待たれる。

鐸比古神社と鐸比売神社の奥之院・高尾山
高尾山麓の鐸比古鐸比売神社。

2019年4月7日日曜日

石上神社/舟木石神座(兵庫県淡路市)


兵庫県淡路市舟木(旧・津名郡北淡町仁井舟木)

荒神と日の出の祭祀

淡路の郷土史家の濱岡きみ子氏「石上神社」(谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第3巻 摂津・河内・和泉・淡路』白水社、1984年)に、石上神社の概要が紹介されている。

濱岡氏によれば、石上神社には大小含めて約60数体の岩石が30m四方の範囲に群集し、花崗岩質であると報告している。
岩石群の中央部には木造の祠がまつられ、その後ろに構える巨石は「神石」(濱岡氏呼称)であるといい、かつてより「荒神」(コージン様)と呼ばれて信仰されてきた。
境内の一部で女人禁制が守られてきた場所としても知られている。

石上神社
石上神社の祠と後ろの神石。

石上神社
石上神社の社叢。

石上神社
大小の岩石と樹林が群れる。

『津名郡神社誌』には石上神社の祭神を素戔嗚尊とあるが、濱岡氏によると、これは後世の付会であるとみなしている。

濱岡氏は、岩石群には人工的な配置の跡がいくつか見受けられると推測している。

たとえば、巨石の下には石棒のような別の岩石が挟まっており、これは人為的に据えられたものとみなしている。
また、「神石の右後方」に「20個ほどの石」から構成される、石組みのような場所も確認できるという。
そこには御幣らしきものが立てられ、周辺からは素焼きの皿が散布していることも報告している。
この場は「ほぼ東を向いて」おり、石上神社の祭礼は早朝に行なわれるというところから、濱岡氏はここを日の出をまつる祭り場だと考えている。
太陽なら何でもというわけではなく、少なくとも、日の入りに意味を求める祭祀ではなかったということになる。


実際に現地を訪れると、濱岡氏が言う「神石の右後方」ではないが、「神石の左手前」に高さ30cm程の小さな立石が1体存在し、後方には数多の御幣が立てられていた。
陶磁器に混じって、素焼きの皿もしっかり確認することができた。

石上神社
立石と御幣と供献物。

石上神社
立石の祭祀場を裏側から撮影。神石・祠との位置関係がわかる。

立石自体は東を向いて立てられているが、祭祀を執行する際、祭祀執行者は西を向くことになる。
早朝に日の出をまつる祭祀だとしたら、祭祀執行者が直接太陽を拝するのではなく、石に陽光が照らされたという現象を通して拝するのだろうか。
祭祀開始の頃から、早朝に陽光がこの石を照らせていたかという問題もある。


岩石の配置は自然か人為的か


さて、濱岡氏が挙げている「石棒」について現地で探してみた。
巨石群の中には、折り重なるものや下に空間を持つものがある。
それら巨石の下部分を見て回ったが、巨石下に据えられていると断言できるような「石棒」は発見できなかった。

ただ、「神石」の裏側に散在する巨石群数体のうち、2つの巨石が近接して小さな隙間を形成している空間がある。

この隙間を構成している巨石群の片一方は、巨石の下に僅かな空洞ができていて、その空洞の中に、明らかに別の棒状の岩石がさし挟まっているのを確認することができた。
これを、濱岡氏は「石棒」と表現したのだろう。

石上神社
二つの巨岩が寄りあい岩陰を形成する。

石上神社
岩陰には別の岩石が見える。

棒状の岩石の上に別の巨石が乗り、巨石下に空洞を形成しているという構造は人為的な雰囲気を漂わせるが、これをもって人工だと断言できるまでには至らない。

石上神社
他にも、このような鏡餅状の重ね岩も存在。

石上神社
ドルメン状の構造も存在。

石上神社
巨岩の隙間から立石の祭祀場を望む。

岩石群の全体の構造について漠然とした印象を書く。
濱岡氏が指摘したように、中央部の巨石群を取り囲むように、環状に岩石が巡っているようには見える。
一目で分かるような厳然とした環状ではないことには注意したい。見ようによってはそう見える、というぐらいの曖昧なものだが、一重の石の巡りが見えるような感を持ったことは正直に記しておきたい。

また、この感想を強めてしまった理由は、中央部の巨石群から西へ行き、西側斜面にある岩石群の配列が私の目に止まったからである。

その岩石群とは、板状の岩石が斜面に埋め込まれるようにして、3枚ほど連続して並んでいるというものである。

石上神社
3枚の石列。

石上神社
石列の奥方に、中央部の巨石群が位置。

この板状の石は、もともと一つの自然石が亀裂で三分割されてしまっただけなのかもしれない。
が、私が現地で見た中で、最も人工的な感じを持った石の列だった。
どこかのだれかが境目の溝を強調したのか、苔がはがれているようにも見える。同好の方々には原状を保ち触らないことを求めたい。

周辺一帯に散らばって存在していた自然石を、人為的にここに寄せ集めて、磐境のような場に仕立てた可能性は否定できない。

「太陽の道」仮説 ~石上神社の性格について~

石上神社は、「太陽の道」にある聖地の1つであると水谷慶一氏によって発表されたことで有名になった。
現に、神社の入口には「太陽の道」仮説に基づいた神社説明板が掲げられている。この看板には「舟木石神座」と書かれたので、以後、この名称が次第に一般化している印象だ。古来からある名前ではないと思う。

全国からの参拝者も増加したと思われ、女人禁制を刻した石標も新たに設置されたという。

石上神社
石鳥居の傍らに建てられた「女人禁制」の碑。

水谷慶一氏は、三重県神島から淡路島の石上神社までの、北緯34度32分を通る東西線上に、神島・斎宮・室生寺・長谷寺・三輪山・箸墓古墳・二上山・大鳥神社・石上神社などの聖地が並ぶということに気づいた。
そして、水谷氏はこれらの聖地が太陽信仰に関係していると考え、この北緯34度32分線を「太陽の道」と呼び、ヤマト王権下で古代氏族の日置部(ひおきべ。日の神を奉ずる氏族)によってなされたものだと、著書『知られざる古代』(日本放送出版協会、1980年)の中で論じた。

石上神社は北緯34度32部の線上に位置する。
では、石上神社が太陽信仰の祭祀場であると水谷氏が考えた根拠は何だろうか。
水谷氏は、大阪府住吉大社にある『住吉大社神代記』の記述に、つぎのようなくだりを見つけた。

「大八嶋国の天の下に日神を出し奉るは船木の遠つ神、大田田神なり。」

つまり、太陽神が信仰する船を作る神は、氏族船木氏の祖神である大田田神だったという記述であり、石上神社の地名が船木であることをもって、石上神社は太陽信仰を持つ船木氏の祭祀場(=太陽信仰の祭祀場)だったと考えた。

石上神社は、地元の人々が荒神(コージン様)と呼ぶこと以外に、祭神の性格を語る文字資料がないようだが、この水谷氏以後、石上神社は太陽信仰の祭祀場として位置付けられている。
ただ、「太陽の道」説はあくまでも仮説の一つであり、歴史的事実として確定したものではないことに注意したい。

石上神社が所在する舟木が、太陽信仰の船木氏のいた場所を示す地名であるという部分に確証がなく、舟木の地名考証が必要だろう。

太陽に関わる祭祀という切り口については、先述のとおり、東を向く祭り場があり早朝の祭礼が多いという事実は注目に値するだろう。
ただ、東を向く点については、祭祀執行者にとっては西を向き、どちらを重視すればいいのかわからない。東西軸なら太陽信仰とみなしたら何でも太陽信仰になる危険をはらんでいる。また、神石と現行の社殿の位置関係はどちらかというと南北であり、こちらを無視するのもどうかと思う。

他にも、石上神社の祭礼である春季例祭・秋季例祭・虫送り・荒神祭などにおいて、太陽信仰の要素を感じさせる内容がどこまで認められるかについても、批判的検討が足りているとは思えない。
歴史復元には慎重に慎重を期して、その上であくまでも一つの可能性として語ることが、特に地元の方々が続けてきたことを尊重するために望まれる。

また、 石上神社で太陽祭祀が認められることが、即、「太陽の道」の歴史観の証明になるわけでもないことにも注意したい。


この岩石群がいつ頃から信仰の聖地となったかについては、水谷氏の「太陽の道」仮説を肯定するか否定するかによって変わる。
「太陽の道」仮説を肯定するならば、古墳時代のヤマト王権による創始と自ずとみなされる。

参考までに、石上神社から見下ろすことのできる位置に「八丁岩」という地名があり、弥生時代後期の土器片の散布地として知られている。

石上神社
石上神社の神石を背後から撮影。

参考文献


  • 濱岡きみ子「石上神社」 谷川健一・編『日本の神々 神社と聖地 第3巻 摂津・河内・和泉・淡路』 白水社 1984年
  • 水谷慶一 『知られざる古代』 日本放送出版協会 1980年

2019年4月1日月曜日

『石はきれい、石は不思議』(2007年)を素直な気持ちで読む


『石はきれい、石は不思議』は、株式会社LIXILが催した「石はきれい、石は不思議/津軽・石の旅展」のブックレットとして発行され、総頁も80ページに満たない冊子である。



冒頭は「石を拾いに津軽へ。」と題し、津軽の浜辺で拾った石たちのフォトギャラリーの体裁である。
石を見て各々が自由自在に受けとめればよく、さらりとした導入から始まるが、後半になると石に一家言を持つ識者や先達たちのコラムやインタビューが登場する。

あたかも、五感でラテラルに受け止めさせた冒頭に対して、その五感の一つの答えあわせを用意して言語化しようとする後半の構成だった。
深淵に入っていくような意図的な試みのように感じた。

執筆者・話者は次のとおりである。
  • 堀秀道氏(鉱物科学研究所所長)
  • 中沢新一氏(思想家・宗教学者)
  • 奥泉光氏(『石の来歴』で芥川賞受賞の小説家)
  • 中里和人氏(写真家)
  • 牧野喜美雄氏(津軽で石を拾い31年の石の達人)
  • 石戸谷秀一氏(津軽で石を拾い15年の石の達人)

各人が、石に惹かれることについて言葉を発し、LIXIL編集部がそれを文章にまとめている。編集部文責と思われる文章も多く、この世界にかなり造詣の深い人がいるのではないかと思わせる。
タイトルのポップさに対して、中身は大層真面目な本だった。私も大真面目に受けとめて、素直に読んでみたい。


石を拾いに津軽へ。

執筆者名が明かされていないので、おそらく編集部の責によるコーナーだろう。

なぜ津軽が取り上げられるのかというと、石拾いを趣味とする人々の間で津軽半島は錦石を代表とする美しい石が採れる産地として有名だからだ。

本文では「錦石」と「舎利石」の二つが代表格として紹介されている。

錦石は、青・黄・緑の色が織物の錦のように織り交ざった一見して賑やかな石の総称である。
舎利石は小さな粒状の石英を指し、かつてはこれを仏舎利に見立てて仏塔に収められてきて、津軽産は珍重されたという。

そんな津軽で拾った石たちの写真集に、キャプションが添えられているが、その合間に古今東西の先達の格言が挿入されているのも含蓄深い。いくつか紹介しよう。

無言の石は、動物や植物以上に自然の力を強く感じさせるのである。われわれは生命のない石に生命以上に力強いなにものかを感じるのだ(矢内原伊作『石との対話』)

石に浮かび上がるイメージが喚起する想像力の遊び(編集部)

石は地球の記憶装置。石との付き合い方がわかってくれば、地球との付き合い方もわかる(編集部)

石が描く模様とその神秘は、いつの時代も人の想像力をかき立てる(編集部)


堀秀道氏「石の旅 本州最北へ」

堀氏は、先に触れた舎利石についてさらに追究している。

舎利石は鉱物学的には石英とその仲間の玉髄という。
玉髄は ほぼ100%石英だが、そこに不純物が混じると透明感がなくなり、それは碧玉として扱われる。
また、光沢の差もあるようで、碧玉は濡らすと光沢が出るが乾くと鈍くなる。玉髄は乾いていても光沢面を持つ。

玉髄は珍しい石ではなく、全角各地の海岸や川原で見ることができた。
しかし、堀氏が津軽今別の海岸を中心にリサーチしたところでは、長い石拾いの歴史の中でおおむね拾いつくされたのか、 玉髄を見つけることはできなかったという。

碧玉はまだたくさん見つかるようで、現代ではこの碧玉を機械研磨することで「五色の銘石」化し、これが錦石として出回っているという話を付記している。

堀氏はこれを地元を潤す「仏縁」と表現している。
石に対して本来善悪などないはずだが、なぜ人の業が際立って響いてくるのだろうか。


中沢新一氏「石神の先史学」

ここで、山梨県の丸石神研究で有名な民俗学者・中沢厚氏の息子である中沢新一氏のコラム、その名も「石神の先史学」が登場する。この壮大なタイトルに惹かれてこの本を買った経緯がある。

実際は見開き2ページのコラムであるが、限られた紙幅に中沢氏の思想が凝縮されており、相当行間を読む必要がある。

中沢氏がまず取り上げるのは、先史時代の人類が刻んだ岩壁画である。
中沢氏によると、現代の研究ではこれらの岩壁画は、私たちが絵を描くという行為とは異なる意味があったということを明らかにしたらしい。

現代の私たちは、絵を描くという行為を、すでにあるイメージを「表象」するためにおこなうと定義されている。
私たちにとっての絵は、頭の中にある思想の「再現」なのだという。

一方、旧石器の人々にとっての絵を描くという行為は、行為の位置付けが違うという。
「ないものをあらしめる」ために描いたのだという。

それは旧石器の人々にとっては思想やイメージではなく、紛れもない現実だったとみなすということだろうか。
当時の人々にとっては、精霊や霊力はファンタジーではなく現実だった。
しかし、残念ながら「見えない」のである。

実在しているのに、見えないというもどかしさがある。
見えないと、精霊や霊力や現実化するタイミングや場所がわからない。
だから、見えるように絵を描いたという論理である。

現代人は、すでにあるものを見える形にさらに表現する。
旧石器の人々は、ないと困るのであるようにした。

先史時代には、大地に精霊がいるという発想があったと中沢氏は述べる。
大地にいる精霊が、この世界のどこかを「門(境界)」にしていると考えた。

それが洞窟であり、洞窟の岩壁であり、岩や石だったと中沢氏は論及する。


大地に潜む精霊は、こちらの世界に越境しようとしている。そのゲートを開けるために、境界面と考えられる岩石に絵を描くことで、見えないものをあるようにして、精霊が越境できるように変化を起こしにいった。
そういう風に考えるのである。

この「大地に対する岩石の位置付け」が人々の心の中に残り続けた。

神社や教会や寺院などの壮麗な建築物が宗教施設となってからは、それらが神の「門」となったので、岩石を「門」とする考え方は古いものとして追いやられるようになった。

しかし、「人類の心は大地とのつながりを失っては、長く持続していくことはできない」と中沢氏は考える。
その発露として、文明化された時代においても岩石が地表から露出していて、それがある人にとって原初の心を再起させるものだったとしたら、その岩石は後世においても「門」となった。
興味深い形や、Y字形をした場所、門や穴を想起させる場所は、磐座やサエノカミと呼ばれまつられるようになった。

理由は、岩石が「大地との深々とした接触を保っている」からである。
岩山や岩肌・洞窟は大地との根続き感が濃厚に残るが、地表から少しだけ見る露岩や、地表から切り離された1個の石にも、大地を想起させる要素が人類のDNAには刻み込まれているということだろうか。

最後に中沢氏は、このような新しくて小さい「石の神」は「古層の神としての威厳をもち続けながら、少しも威張ったところがない」から「愛している」と吐露する。
二面性を持つものに人は惹かれるというところがうまく集約された表現だと思う。


奥泉光氏「石には宇宙史が凝縮されている」

奥泉氏は『石の来歴』という小説の作者である。
私は『石の来歴』を未読のためまた小説も石の哲学として読みたいが、奥泉氏自身がまとめたところの紹介では以下があらすじである。
太平洋戦争末期、レイテ島で上等兵から「河原の石ひとつにも宇宙の全過程が刻印されている」と聞かされた主人公が、戦後、岩石蒐集に取り憑つかれ、そのために妻は狂気に走り、子供は死に至るという話です。
まさにあらすじなので受け止め方多々だが、奥泉氏自身が種明かしをしているのは、

  • 作者自身が、なんとも思っていなかった石が実は宇宙の歴史を凝縮するものと考えたらすごいということに気づき、その驚きを作品に投影したかった。
  • 人間の営みに対して、石の歴史から見たらほんの僅かのささいな出来事に見え、その時間の流れ方の差をテーマにしたかった。
  • 主人公の苦しみを回復し、励ます要素として石を登場させた。

奥泉氏の話の中で印象深いのは、石は永遠不変ではなく、人間から見たら永久に見える存在だが、石自身の時間の中では石も運動していて、刻一刻と変化し、いつかは死ぬという視点で見ていることだ。

岩は風化作用で細かく砕かれて、石になる。石はやがて砂や土になり、水に運ばれて湖沼や海底に堆積し、固まって再び岩になる。またはマグマに溶けて元に還っていく。石は不動のものと思いがちですが、一瞬も静止することなく変化し、絶えず循環しているわけです。

石の永遠性という、使い古された言葉へのアンチテーゼとして覚えておきたい視点である。

そんな「運動している石」のある瞬間と、私たちの人生のある瞬間が重なり合う。
私たちが見ている石の姿はこういう奇跡的な瞬間なのであり、そこを魅力とみなすのが奥泉氏の見方だ。

奥泉氏はもうひとつ面白い視点を提示している。
石を単なる無機物ではなくひとつの生命とみなす詩人や思想家がいて、その気持ちは理解できるものの、奥泉氏は「やはり無機物は無機物で、人間と石とは違う」という立場を表明していることだ。
その理由がまた独自的で、人も石も同じ生命とみなすと、人間の論理や道徳の根拠がなくなってしまうからだという。

奥泉氏は作家として、石を自分と同じと見ず、他者と捉えたい。
他者の内面に共感しながら、一方で否定的にアイロニカルに見る。
そうやって世界を二重化することで、人と石は違うという立場を堅持しつつ、石の魅力を感じたいという。


中里和人氏「津軽探石行」

中里氏は、津軽の石拾いの達人である牧野喜美雄氏・石戸谷秀一氏の両名に出会った。

両氏の詳細は後述するとして、中里氏は会った感想として「やって来た石は、拾った人そのものの化身」であると表現した。

牧野氏と石戸谷氏のコレクションの差に気付いた中里氏は、どちらにもこの列島の風土が積み重ねてきた文化性に基づいているものと考え、両名でそれが二つの側面で分かれたとみなした。

石の世界の中で、同じリアクションにならないという多様性や両義性、二面性といったものをはらむ記述だった。
それでは実際に石の達人たちのインタビューに移ってみよう。


牧野喜美雄氏「石は人間の気持ちが及ばない世界をもっている」

インタビューから窺われる牧野氏の言葉はやわらかいのに、それでいて直截的だ。

まず、牧野氏の石拾いの信条を感じられる部分を列挙してまとめたい。

  • 海岸で、砂の上に出ていて、見えている石だけを拾う。
  • 掘ってまで探すのは後から来る人の考えるとやりすぎ。
  • 拾った石は天日にさらす。それで落ちる色は落ちていいと思う。
  • 人の作為が入っていない石がいい。人間の感性が無為であることに品格がある。
  • 自然石は、形が気に入らないところがあって、それでいい。気に入らないところがあるからいい。
  • 石の立場に立って考えると、自分以上に石を求める人がいたらそのほうが石にとっていいので、執着せずにあげる。
自然の経過を受けた有様のようなものを大切にする牧野氏からは、自然石に対する感情の言語的なヒントをいただいた気がする。

牧野氏のコレクションは、このように天日でさらすことで「軟らかいところが削れて、硬い所ばかりが残って、何というか、苔むした感じ」の石たちになる。
これを先出の中里氏は「明るくも寂びの利いた、艶やかな色彩世界」と評した。「侘び寂び」感がキーワードだろう。


石戸谷秀一氏「後世に恥じないきれいな石を残していきたい」



牧野氏が「私が持っていない津軽の良い石をみたいなら石戸谷氏」というもう一人の達人、石戸谷氏。
石戸谷氏の石拾いのポイントをまとめてみよう。

  • 貝採り用のジョレンを改良した道具で、波が引いて次の波が来る前に石を採る。
  • 冬の荒波は、海底の石を砂浜に連れてくる。そんな大きい波の後の一瞬を狙う。釣りのイメージだが、命綱をつけることもある危険な行為。
  • 手に取って駄目な石はすぐ海へ戻す。
  • 迷った石は浜側に投げてあとで吟味する。
  • 石を眺める目的は、展示会でどう表現するかの構想を練るため。
  • 磨き方で石の模様はすぐ変わる。磨いてきれいになる石は、きれいにしてあげるべき。


研磨された華やかな原色感。
中里氏の評は「縄文以来見続けてきた堆積色による力」である。
縄文時代の評は異論もあるだろうが、芸術家を刺激した一連の土器・土偶に原色感を見る気持ちは理解できる。そういえば縄文時代の石製品も研磨の文化だった。

石を自然の恩恵の形で享受しようとする牧野氏に対して、石のまだ見ぬ姿を積極的に開拓していこうとする石戸谷氏。
明らかに石の追求のしかたが異なっている。

私には、自然石をそのまま拝して祭祀した人たちの一派と、山に登り岩場を登り頂上を極めようとする修行者の一派の関係とオーバーラップした。

石をどのようにして求めようとしたか、のアプローチが行きつくところは岩石信仰になりうる。
小説家の奥泉氏が「僕自身は石に取り憑かれるまでにはいかなかったけど」と語ったように、石に生命を認めて、石の世界観に人が取りこまれるかどうかが岩石信仰の境界線なのかもしれない。

そのようなところまで思いを馳せながら、本書の最終章に畳み掛けてくるのが「達人の石コレクション」。
これまでの経緯を踏まえて達人の石の写真を眺めていると、何か深いことを思索したくなるけれど、先達の格言の前では陳腐に過ぎるので、最後は「天与の絵画」と題された石のキャプションを引用して終わりとしたい。

フランスの社会学者・哲学者のロジェ・カイヨワは名著『石が書く』のなかで、石そのものがもつ驚くべき模様を克明に綴っている。自然がつくる造形の神秘。芸術家にとって、石は創造の源泉でもあった。


2019年3月27日水曜日

三尊仏/夫婦岩(富山県黒部市)



黒部峡谷鉄道の釣鐘駅を降りて、徒歩1分の場所にある。

三尊仏

岩陰を庇として、三尊仏を安置する。

三尊仏

由来については、現地に立っていた看板が名文につき全文掲載したい。

三尊仏の由来

昭和十一年七月十五日、当町出身(宇奈月浦山)の新保フサ女に神告があり、「黒部ダム、黒四発電所建設の工事が始まるから、人間の災難、渓谷や、宇奈月町の災害を少なくするために、大日如来、釈迦如来、弥陀如来の三像を作り、この釣鐘の地に安置せよ」の神告で急いで三体をここに置いた。(黒部ダム建設の三十年前)
新保フサ女は四十日間高熱で生死をさまよう苦しみの後、霊感者、予言者となり、昭和元年に戦争の予告、敗戦や広島への原爆を予言し、刑務所へ収監された。彼女が予言した生地の大火、大阪の万博、愛本橋の流失はいずれも適中、実現している。
フサ女は善光寺へ参詣すること二百五十回に及ぶ。生存中の母の狂女扱いされた娘たちの母への孝養のため、この三尊のいわれを記したものである。

昭和六十年八月一日

宇奈月町浦山 森内すい
黒部町植木 新村はる

三尊仏

事実はどうあれ、まさに昭和に生まれ、昭和を駆け抜けた民俗である。
三尊仏とこの看板がなかったら、この一人の女性が抱いた情念は他人に広まらなかっただろう。

三尊仏

三尊仏の裏にも岩盤が続いている。
三尊仏がまつられたこの岩一帯を夫婦岩と呼ぶのだと思うが、どのような由来によるものかはわからなかった。

2019年3月25日月曜日

大村神社の要石(三重県伊賀市)


三重県伊賀市阿保

伊賀国造・阿保氏の祖神である「大村の神」(息速別命)をまつったのが大村神社だ。
境内には、崇敬する地区別に専用の参籠所が各々建てられており、信仰の篤さが漂う神域である。

大村神社
大村神社の参道の様子。雰囲気がとても良い。

境内に要石社が鎮座する。
要石と言えば、鹿島神宮や香取神宮のものが著名だが、大村神社のそれは関西を代表する要石と言える。

要石の機能は鹿島・香取両宮のものと全く同じ。
大地の荒ぶりを鎮め、地震を防ぐ霊石として信仰されている。

大村神社
要石社

大村神社
要石(手前の石は「要石」と刻字した石標)

大村神社

沿革は次のとおりである。

神護景雲元年(767年)、武甕槌命と経津主命(鹿島と香取の祭神)が常陸下総から三笠山(春日大社)に遷幸する道中、大村神社に宿泊した時にこの要石を奉献したという。
 8世紀に日本神話の神が主体になって動いた記録というのも面白いが、鹿島・香取・春日と、中臣氏の影響が色濃く立ち込める。

また、鹿島大社の要石は水戸黄門が地中を掘ろうとしてあきらめた話が伝わっているが、大村神社の要石は掘られたり、掘ろうとされたりした逸話は伝わっていない。

要石の霊験発動の歴史を現地看板より引用しよう。なかなか広範囲に及ぶ戦績だ。

  • 安政元年 伊賀上野・四日市
  • 大正十二年 関東
  • 昭和二年 奥丹後
  • 昭和十九年 北伊勢湾沿岸


さて、要石は「信仰の対象」であり「鎮魂の祭祀道具」でもあるという、二面性を持つことについて触れておきたい。

要石は「要石社」として独立した社を持ち、要石自体が「霊の宿った岩石」として信仰・祭祀の対象となっていることは揺るぎのない事実である。

その一方で、要石は伝承上、道中に立ち寄った神々による捧げ物で、国土を鎮めるために設置した祭具として語られている。

道具であり、信仰対象でもあるという、この一見相反した性質をどのように考えればいいか。

この要石に語り継がれてきた歌にヒントが入っていると私は思う。

「ゆるぐとも よもやぬけまじ 要石 大村神の あらんかぎりは」
と詠まれる歌だ。

ここからわかるのは、人々は要石を通して「大村神」を見ているということ。
要石に独立した神格を見ているのではなく、大村神社の主祭神である「大村の神」をかぶらせて見ている。
これは、武甕槌命・経津主命が「捧げ物」とした瞬間、この岩石が「大村の神」の所有物になったという図式と矛盾しないだろう。
神の霊力を送り込み、国土を守護するという祭祀目的を達成するために機能するツール。それが大村神社の要石と理解できる。

2019年3月24日日曜日

岩井堂観音(埼玉県飯能市)


埼玉県飯能市岩渕

岩井堂観音と東京浅草寺の奇縁


継体天皇期、不詳の旅僧が霊験を得て、成木川沿いに露出する岩肌上に、聖観音像と堂宇を建立したのが始まりという。

岩井堂観音
岩井堂観音の岩肌

縁起には後日談がある。

安閑天皇期に暴風雨が起き、この堂宇と聖観音像は成木川へ流された。
聖観音像は、時代を経て推古天皇36年(628年)、浅草浦で2人の漁夫に発見された。
その聖観音を本尊として建てたのが東京浅草寺という。

東京浅草寺の淵源ともいうべき奇縁であるが、浅草寺側は公式にこのことについて立場をはっきりしていないようだ。
ただ、浅草寺第24代貫主だった清水谷恭順はこの口承を史実とみなし、昭和8年9月15日に1体の聖観音像(浅草寺の本尊とは別のもの)を岩井堂観音に奉還している。


岩井堂の岩山


岩井堂は巖堂の転訛とされ、名が示すとおり岩山に座す堂である。
仏僧が岩場で霊験を得たことからも、岩は単なるランドマークにとどまらない。

岩井堂観音
岩の背後には2棟の小祠がまつられており、仏だけでなくここに神々を見た人々もいる。

岩井堂観音
岩山の頂上は、単体の岩塊がまるで置いてあるかのように盛り上がっており、その手前は斎庭のごとく平坦面が広がっている。

岩井堂観音
この広場からは、成木川対岸の集落を見渡す良好な眺望を有し、私の探訪日には見えなかったが富士山も望めるという。

岩井堂観音
聖観音が流されたという成木川。岩山の下に流れており、ここに深い淵があることから岩渕の字名が起こったらしい。

女夫石遺跡(山梨県韮崎市)


山梨県韮崎市穂坂町宮久保 字 女夫石

縄文時代の住居跡、土器の廃棄場、配石遺構などが見つかった遺跡である。

唐沢、または権現沢という名を持つ川が流れており、川沿いに形成された集落と推定されている。

集落であるから生活の痕跡としての遺跡であるが、地中を掘り進んでいくと大きな岩塊(おそらく自然石)が複数地点で見つかった。

岩塊の周辺からは、ミニチュア土器が固まって見つかったものや、破損した状態の石棒が傍らで出土した。
また、遺跡全体からは約50個体の土偶が見つかり、祭祀行為を思わせる遺物が多い遺跡だという。

さらに、遺跡地を見下ろすように、「女夫石」と呼ばれる2体の岩石が現存する。
由来は情報収集不足につき不明だが、おそらく女夫石も自然石と思われ、女夫石遺跡が集落として機能していた頃からすでにそこにあったものと思われる。

女夫石と遺跡との関わりは不明だが、地中の岩塊群と遺物群の関係といい、なにかと岩石と祭祀の縁を感じる。

女夫石
女夫石の大きなほう。ここから遺物が見つかったわけではなく、遺跡地はもう少し斜面下。

女夫石
奥側の小さなほうの岩石は枯れ草に覆われ気味。

女夫石
女夫石の下からは、川に向けて斜面が続いている。

秋分の日、遺跡地から地蔵ヶ岳を眺めると、ちょうど地蔵ヶ岳の山頂に日が沈むという。
また、その1ヶ月前には、甲斐駒ケ岳の山頂に日が沈むのを見られるのだという。
遺跡の人々がこの現象を当時どれほど意識していたかはわからないが、発掘調査者が気付くぐらいであるから、そこにずっと住んでいた人々も体感できた現象だろう。遺跡地がここに選ばれた理由の一つかもしれない。

※女夫石遺跡については、韮崎市ホームページの中で発掘調査当時の調査速報や現説資料をPDF化されている。
女夫石遺跡の発掘概要 | 韮崎市

2019年3月17日日曜日

飛鳥の石造物と岩石信仰(奈良県高市郡明日香村)



御厨子神社の月輪石


御厨子神社境内に鎮座。
饅頭型の巨石の中心を、斜めからスライスしたような亀裂が印象に残る。この亀裂と直交するかのように異なる石質の層が直線状に走っているのにも注目したい。
手前に注連縄と紙四手が飾られ神聖視されていることはうかがえるが、情報収集不足もあり来歴は不明。

飛鳥の石造物群
月輪石

飛鳥の石造物群
月輪石近景


御厨子山妙法寺の光明不動


妙法寺の入口路傍に岩肌を見せる小さな自然石。
この岩肌に不動明王の姿が見えれば眼病が治るといわれる。

飛鳥の石造物群
光明不動


天香山神社


天香久山の北麓に鎮座し、山をまつる神社と考えられる。
本殿背後の斜面から岩肌が露出しており、これが社殿建築以前の祭祀の場だったという説もあるが定かではない。

飛鳥の石造物群
天香久山(フグリ山から望む)

飛鳥の石造物群
天香山神社

飛鳥の石造物群
天香山神社本殿背後の岩肌


天岩戸神社


天香久山の南麓に鎮座。
天照大神が日本神話の岩戸隠れを行なったと伝えられる場所で、拝殿の裏に4体の岩の集積があって岩室状の空間を形成している。これを天岩戸としてまつっている。
玉垣内に真竹が自生し、毎年7本ずつ生え変わることから「七本竹」と呼んでいる。

飛鳥の石造物群
天岩戸


天香久山の「月の誕生石」と「蛇つなぎ石」


未訪。天香久山の山中にあるらしい。

「月の誕生石」は月を産んだ岩石といい、その産湯と足跡が岩石に残るという特異な由来を持つ。
「蛇つなぎ石」は岩肌に蛇が巻きついているかのような石のシワが残るという。


豊浦の立石


飛鳥には「立石」と呼ばれるものがあり、豊浦・小原・岡・川原・上居・立部の6ヶ所に散在している。

その内の1つ、豊浦の立石は甘樫坐神社の境内に残る。
甘樫坐神社は『日本書紀』印恭天皇条で明神探湯が行なわれた場所に比定されており、その故事を模して現在は立石の前で4月に明神探湯神事が行なわれている。甘樫の神を立石に擬して、神である立石の前で神事を行なうという構造と解される。

ただ、元来の立石の役割については不明であり、一般的には飛鳥京の条理の地割り石だったという説や、寺域を示していたなどといわれている。

飛鳥の石造物群
豊浦の立石。手前は明神探湯神事に使う炉。


須弥山石・石人像


斉明天皇期の漏刻台(水時計台)とされる水落遺跡のすぐ近くから出土した石造物。現在は飛鳥資料館の館内に移設展示されている。
須弥山石・石人像ともに内部に導水構造を有し、配水施設と組み合わせれば石像から噴水が出る構造となっている。
『日本書紀』に斉明天皇が須弥山石のもとで饗宴を催したという記述があり、これに該当するのではないかと考えられている。

飛鳥の石造物群
須弥山石(飛鳥資料館レプリカ)


弥勒石


入鹿の首塚の南に位置。胴体はずんぐりと長く屹立し、目鼻立ちは摩滅してしまっているがしっかりとした頭部を持つ石造物。
弥勒石という響きとは裏腹の素朴な造形であるが、現在でも供え物が絶えず信仰されている。下半身の病に霊験ありという。

飛鳥の石造物群
弥勒石


飛鳥坐神社の立石群


飛鳥坐神社は鳥形山という小山の上に鎮座する。大字は「飛鳥」、小字は「神奈備」。

境内そこかしこに棒状の立石が安置されている。陽石が参道に一直線に並び続けている。

飛鳥の石造物群
むすびの神石
むすびの神石は、陽石と陰石が一対になって並んでいる。陽石ばかりのこの神社において、陰石を要する珍しい例である。

飛鳥の石造物群
奥の大石

「奥の大石」は、奥社の中にある。高皇産霊神が宿る霊石とされている。


小原の立石


前述の通り、飛鳥の立石群の1つとして伝えられているが、現在は場所が特定できず行方不明という。


亀形石造物


2000年の発掘調査による出土で一躍有名になった飛鳥の石造物のニューフェイス。
斉明天皇期の遺跡と考えられ、亀形石造物とその手前に接する小判形石造物を中心に、その周囲から敷石遺構、配水遺構などが見つかった。
石造物自体も水を溜め込み次に導水するという配置構造を持っていることから、『日本書紀』において斉明天皇が手がけた石造工事の遺跡だというのが大方の見方となっている。

飛鳥の石造物群
亀形石造物


岡の酒船石


飛鳥の謎の石造物の代表格として知られる。
石の表面に円形の窪みと直線状の溝が幾何学的に配置された造形物で、石の左右端は削り取られているため完全な形は分からなくなっている。その用途を巡っては、窪みに酒を流し込んでいたとか、何らかの液体の調合装置だったとか、地図や天文台説も唱えられ、古くから諸説入り乱れた。

2000年に上述の亀形石造物が出土。酒船石周囲の山腹斜面からも石垣遺構などが発見され、亀形石造物と酒船石をつなぐ石造の水路のような遺構も見つかったことから、酒船石と亀形石造物を含む周辺一帯が大規模な導水施設として機能していたのではないかという説が有力になっている。
しかしこの導水施設がどのような目的に基づいて築かれたものだったのかについては結論が出ていない。水あるいは液体を流すための造形ということは分かったが、鑑賞対象としての庭園だったのか、宴の場だったのか、祭祀の要素も入っていたのか、それとも実用的な用途に使われていたのか、製作者の意図まではまだ読めていない。

飛鳥の石造物群
岡の酒船石


出水の酒船石


岡の酒船石と類似した溝を持つ石造物。
実物は京都市南禅寺の碧雲荘に運ばれているが、レプリカを飛鳥資料館で見ることができる。


川原の立石


出水の酒船石から飛鳥川を挟んだ向い側に存在。
現在は地中に埋められている。


岡寺奥の院彌勒堂


日本最大の塑像である如意輪観音を本尊とし、663年に草壁皇子の住んでいた岡の宮を仏寺にしたのが始まりという。
奥の院彌勒堂は石窟になっており弥勒仏をまつっている。石仏のほかにも仏足石・板碑など数多くの石造物を見ることができる。

飛鳥の石造物群
奥の院(写真中央)


岡の立石


未訪。岡寺仁王門の北から細い山道を登っていくと高さ約3mの立石があるという。


上居の立石


石舞台古墳から東の車道沿いにあり分かりやすい。高さ1.9m。

飛鳥の石造物群
上居の立石


マラ石


マラ石という名前から性石信仰の名残と見る立場もあるが、マラ石という命名は考古学者の石田茂作によるものとされ、やや誘導的な名称と言える。他の立石と同様、京域・寺域の標石ではないかという見方も可能だろう。
飛鳥川を挟んだ対岸にフグリ山(ミワ山)があり、マラ石がこの山を方向に傾いて立っていることから両者の関連を述べる向きもあるが、マラ石は元来直立していたとの説もある。

飛鳥の石造物群
マラ石


フグリ山/ミワ山


石舞台古墳の南方にそびえる丘陵をフグリ山あるいはミワ山と呼ぶ。
山頂尾根上に岩石の露頭が群集し、神聖視されていた磐座ではないかという説があるが、そのことを裏付ける歴史資料に欠け真相は不明。

飛鳥の石造物群
フグリ山/ミワ山(北東から撮影)

飛鳥の石造物群
山頂尾根の露岩群

飛鳥の石造物群
露岩群の一部


くつな石


昔、ある石屋がこの石にノミを一打ちしたところ赤い血が噴出し、傷ついた蛇が現れたので、石屋は恐ろしくなって逃げ帰った。しかしその夜から熱と腹痛に冒され、やがて亡くなってしまった。村人は神の祟りだと畏れ、この岩石を神の宿る石としてまつったという。

伝承の内容から、これは磐座ではなく石神の事例である。山の斜面から板状の石がせり出しており、大きさ自体は人の背丈ほどで目を引く規模ではない。伝承を信じると信仰の開始時期は後代に下るようだが、立地は山腹谷間川沿いであり、伝承にも蛇が登場するように水の信仰を想起させる場でもある。
くつな石の手前には鳥居が設けられ、川には小ぶりの滝の禊場が設けられているが、これらは後世に敷設されたもの。

飛鳥の石造物群
くつな石


橘寺(二面石・三光石)


聖徳太子の生誕伝承地。

二面石は、高さ1mほどの石の裏表両面に顔が彫られている。人間の善悪両面を石に表現したものだと説明されている。

三光石は、3つの石が凝り固まったかのような形をしている。伝承では聖徳太子が経講を行なった際、この石が光輝き、日の光、月の光、星の光が放たれたといわれる。
聖徳太子の神聖な足跡を今に伝える働きを持った岩石である。

飛鳥の石造物群
二面石

飛鳥の石造物群
三光石


立部の立石


未訪。定林寺跡にあり、立石というが地表からちょっと顔を出す程度の岩石だという。


亀石


前方部に目・鼻・口が付いて、後ろは甲羅みたいな物が盛り上がって彫られている。亀の形状を模したものとされるが、一説によると甲羅の部分に羽の様な物が付いていたという話もある。

昔、川原のナマズと当麻のヘビが大和湖を巡って争いがあり、ナマズが負けて湖の水はヘビに取られてしまったので、川原にいた亀が枯死してしまった。これを哀れに思った村人が供養のために作ったのが亀石という。
亀石はかつて東を向いていたというが、少しずつ西に向いていっているといわれる。現在南西を向いているが、西の当麻方向を向いた時には大和一帯が泥の海になると言い伝えられている。
現状では祭祀に用いられてはいないが、伝承の中では供養祭祀のための装置として用いられており、岩石祭祀の事例と言える。

飛鳥の石造物群
亀石


鬼の俎と鬼の雪隠/鬼の厠


道行く人々を鬼が襲い、俎で捕食しその後雪隠で用を足したとの伝説がある。恐れられるべき存在ではあるが、その災禍を鎮めるような祭祀は行なわれておらず、岩石祭祀の事例とまでは言えない。

昔は何の用途のものだったか謎だったが、現在では横穴式石槨の底石(俎)と蓋石(雪隠)だったことが判明し、天武・持統天皇期の型式であるとされている。

飛鳥の石造物群
鬼の俎

飛鳥の石造物群
鬼の雪隠/鬼の厠


猿石


欽明天皇陵に隣接して吉備姫王墓という古墳がある。宮内庁管理のため玉垣が設けられており、その玉垣内に猿石と総称される4体の石造物がある。
正面向かって左から「女」「山王権現」「僧」「男」という名称が付けられており、これらは元禄2年(1702年)に田んぼの中から見つかり、明治時代になって現在地に移設されたという経歴を持つ。
猿を彫刻したとも異国人の風貌であるとも、韓国済州島のトルハルバンやサイパンにある石像が猿石と似ているともいわれる。

飛鳥の石造物群
「女」と「山王権現」

飛鳥の石造物群
「僧」と「男」


高取の猿石


未訪。高取城の登山道途中にある。前述の猿石4体と同時に出土したという話がある。

飛鳥の石造物群
高取の猿石(飛鳥資料館レプリカ)


益田の岩船


飛鳥の石造物の中でも最も巨大なスケールを誇る。
住宅団地(橿原ニュータウン)の突き当たりの丘陵にあり、急な山道を5分ほど登ると高さ5~6m、総重量900tに達するという岩船がある。付近には露岩の存在が見当たらないことから、これは人工的に運搬されてきたものであるともいわれているが、その巨大さと立地の急峻さからにわかには信じがたい。
石の表面にはまるでタイルを貼り付けたかのような格子状の彫刻があり、頂面には2つの方形穴とそれをつなぐ浅い直線の彫りが見られる。この頂面を横倒しにすると、2つの横口式石槨の形状となることから古墳石室石材説が有力であるが、定説には至っていない。

飛鳥の石造物群
益田の岩船。寄りかかっている大木と比較してその巨大さが分かる。


人頭石


現在、広永寺境内に手水石として存在。
独特な風貌を持ち、猿石と同時に見つかったものともいわれているが詳細は分からなくなっている。

飛鳥の石造物群
人頭石(飛鳥資料館レプリカ)


天津石門別神社


かつて九頭神社/九頭明神/九頭龍明神などと呼ばれていたが、『延喜式神名帳』記載の天津石門別神社に比定され以後社名を現在のものとした。
本殿は木造建築物ではなく、榊の周りを板石で囲んでそれを祭祀対象としたもの。榊を神霊の宿る神籬とし、周囲の板石はまさに磐境と呼べる役割を負っている。時代は不明だが、磐境祭祀の実例と認められる。

飛鳥の石造物群
天津石門別神社

飛鳥の石造物群
基壇の上にさらに板石が榊を囲んでいる。