2021年4月11日日曜日

岩上神社の神籠石/ひもろぎのお岩さま(兵庫県淡路市)


兵庫県淡路市柳澤乙


淡路島の岩石信仰として著名な存在である。





岩上(いわがみ)神社の神籠石は「こうごいし」とは呼ばず、「ひもろぎいし」と呼ぶ。

「ひもろぎ」は「神籬」の字の当てることが一般的だが、類似した「神籠」に転訛的に字を当てた可能性もある。明治時代以降の神籠石論争の影響による命名も拭えないからだ。

そのため、いわゆる「こうごいし」グループからは外して、「ひもろぎいし」の音を尊重したほうがよいかもしれない。
「ひもろぎのお岩さま」が地元で慣れ親しんでいた名称だろうか。

ただし、「ひもろぎ」の概念も多分に後世的な神道的な影響のもと成立した可能性を考えたほうがよく、名称からこの岩石の性格を類推するのはやや危険である。



岩上神社の創建は、社伝では天文10年(1541年)に大和国石上神宮の勧請からなるというが、社名の「岩上」は石上神宮に求めるより、ひもろぎ石ありきの当地の勧請と考えるのが自然だろう。

神社としての歴史は戦国時代からとなるが、それ以前の岩石信仰の存在は認めて良いと思う。

ただし、それを近世、中世、古代、先史時代、どこに位置付けるのかは慎重でなければならない。


ひもろぎ石からは、「平安時代のものと思われる素焼皿が出土」したというが、埋蔵文化財登録はされていないようである。

巨石の周辺から土器や玉などの遺物が見つかれば祭祀遺跡として数えられることもあるが、ひもろぎ石での素焼皿発見はいつどのような状態によるものだったのか、それを記録・紹介する考古学系の先行研究は見当たらない(祭祀系の文脈においても)。


素焼皿発見時の概報など、文献情報などをご存じの方はお教えください。


2021年4月4日日曜日

枯木神社の子宝石(兵庫県淡路市)


兵庫県淡路市尾崎

漂着した祟りの枯木をまつったことから枯木神社の名がある。

境内は海辺沿いに接し、そこに「子宝石」というもう一つの信仰が伝わる。




「子宝石が十個ぐらい横一列に並ぶ」とあるが、現在整備されているのは2個の様子である。

21世紀に建てられた看板として、おそらくこれは不特定多数に見せられる穏当な表現にしたためられたものだろう。

子宝石も後世的な総称の可能性があり、地元でかつて使われていた通称は「ぼぼ石」「おめこ石」「ちゃこ石」「おまんこ石」「こしけ石」だったという(谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第3巻 摂津・河内・和泉・淡路』白水社 、1984年)。

単に女人衆が座るというものではなく、そこにはある種猥雑活気な祭祀行為や信仰のかたちを想像できるだろう。

それら性信仰は、けっして奇異や卑猥の目で見る「消費」の民俗でもなく、臭い物に蓋をするような「恥」の民俗でもないことは、かつて小板橋靖正氏が指摘したとおりである(同氏『赤城山麓の性神風土記』あさを社、1985年)。

人間の活動において、あらゆる願望・欲望を満たすのが祭祀や信仰であり、そこに上下の列をつけるのも人間の営為という視点で、かつておこなわれ、そして現在おこなわれている事物をとらえていきたい。


2021年3月28日日曜日

玉比咩神社の玉石と臥竜稲荷神社奥宮の岩壁(岡山県玉野市)


岡山県玉野市玉


玉比咩神社は臥龍山の山裾に位置し、境内の一角に巨大な立石があることで知られる。




かつてはここまで海岸が迫り、立石は海岸に屹立していたという伝えがあることからか、現在は池中に浮かぶ姿で整備されている。

立石をまつる立石神社も境内社として石祠が献ぜられているが、立石はもともと玉石と呼ばれ、中世以降に立石の名称が定着したと伝わる。

立石神社の石祠。参拝方向に玉石が来るように設えられている。

玉石には伝説がある。

ある夜、玉石から火の玉が3つ飛び出して、背後にそびえる臥龍山中腹、西大寺観音、牛窓の3ヶ所に落ち、玉石には火の玉が飛び出した時にできた円形の窪みが残るという。

玉が玉を生むという意味では、古墳時代の子持勾玉にも通ずる思想であり、石自体が霊性を発動するという点で、きわめて石神的な性格が濃い事例である。

また、臥龍山中腹、西大寺観音、牛窓の3ヶ所の神聖性を歴史的に担保する聖地としての側面もあるだろう。

火の玉が落ちた1つである臥龍山中腹には、現在、臥竜稲荷神社奥宮が鎮座している。

玉比咩神社背後の臥龍山

臥竜稲荷神社奥宮

岩壁に拠りつく社殿

かつてここに玉比咩神社の社殿があったという旧跡でもあるが、臥竜稲荷神社奥宮の背後には岩壁が露出しており、ただ意味なく山腹を選定したのではなく、岩石の露出する場所に社を構えたという意図も窺われる。

ただし、この岩壁に関する記録・伝承ははっきりしておらず、岩石信仰の資料としては現状、判断保留とせざるをえない。

向かいの大仙山にも無数の巨岩群が露出しているのが麓から確認でき、これらは特別視の領域と思われるが、地質的に岩盤への特別視や神聖視が起こりやすい地だったとも言える。

臥竜稲荷神社奥宮から大仙山を望む。


2021年3月21日日曜日

三徳稲荷社の「なぜ石」(三重県四日市市)


三重県四日市市赤堀


京都祇園の八坂神社の分社。当社は「八阪」の字を用いる。四日市市赤堀地区では産土社として護持されてきた。

当、八阪神社の境内社に三徳稲荷社が鎮座し、そこに「なぜ石」と名付けられた岩石が安置されている。

現地に立つ「三徳稲荷大明神勧請由来」を読むと、昭和26年「御神示」があって、京都伏見稲荷にまつられる三徳稲荷大明神を赤堀八阪神社境内に勧請したのが始まりと記されている。 

三徳稲荷社

「三徳稲荷大明神勧請由来」

昭和戦後混乱期における、吸引力のあった宗教者の存在が窺われるだろう。

「なぜ石」とは何だろうか?
「なぜ」には「撫ぜ」の字が当てられ、「撫でる」の一転訛である。
「なで石」の横に掲げられた看板には祭祀方法が明記されていて、3つのポイントにまとめられる。

  1. 両手で石を数回なでる。
  2. その手で体の悪いところをなでる。
  3. 特に頭の病気、学力向上に神徳があるとされる。


ところで、四日市市にはもう一つ「なぜ石」が存在する。
尾平町神明神社の「撫ぜ石」である。詳細は下リンクで。

撫ぜ石(三重県四日市市)

この2か所の「なぜ石」の共通点として、いずれも別の場所から持ってきた岩石という点で共通する。
「なぜ石」「なで石」という名称をもつ岩石は、管見の限り全国的に類例が多いとは言えず、そのような中で四日市市内に集まる二ヶ所の「なぜ石」が、類似した時期に、類似した出自と経緯、類似した信仰で現在に残ることが興味深い。
三徳稲荷社の社頭に安置された岩石。
こちらの出自も明文化されていない分、気になるところ。

境内の山神碑

境内の百度石


2021年3月14日日曜日

鬼ノ城の岩石祭祀と岩屋地区の「鬼の差し上げ岩」(岡山県総社市)


岡山県総社市 鬼ノ城一帯


鬼ノ城の岩石祭祀の側面

鬼ノ城(現地に一部復元)

鬼ノ城の城壁の一部

鬼ノ城は、史書には記録がない古代山城であるが、古代山城としての特徴を残す大規模な遺構が発掘調査によって明らかになっており、7世紀の後半に築かれたものと推定されている。

発掘調査報告書はオンライン公開されており、岡山県古代吉備文化財センター編『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告236 史跡鬼城山2』(岡山県教育委員会 2013年)に詳しい。

報告書中では、鬼城山の自然の露岩群を「磐座」と類推して調査を行った地点(報告書ではⅤ-Ⅰの名称)があり、また、近くからは平安時代以降と思われる集石遺構が検出されている。

現地では自然石が点在するものの目立った遺構は認められなかったが、山頂から15mほど南東に高さ1mほどの花崗岩の露頭があり、磐座の存在を感じさせた。現地では、調査前から平安時代の土師器片を表採することができ、当該期の遺構の存在が予測できた。(同報告書p.131より)

この露岩群は鬼ノ城の北門近くの一峰上(標高374m)であり、調査結果では断定的ではないものの、何らかの宗教的な活動の痕跡ではないかという結論に至っている。

これらの宗教活動は、古代山城としての機能が廃絶された後、奈良時代以降に山城跡を利用して山岳寺院が築かれ、以降、中近世にかけても近隣の新山寺・岩屋寺と関連した霊場空間として存続していた可能性が指摘されている。

鬼ノ城内には石祠状の石積が見られ、後世的な祭祀施設とみられる。

鬼城山の一露岩に彫られた摩崖仏

山中は岩盤が露出しやすい地質と言える。


岩屋地区の「鬼の差し上げ岩」



岡山県総社市奥坂


鬼ノ城から北西へ1km地点に「岩屋」と呼ばれる一帯があり、その地名の由来となったと思われる岩屋状の構造物が存在する。







これは「鬼の差し上げ岩」として全国的にも有名な巨石である。

当地の伝説的な鬼である温羅が棲んでいたと伝えられる場所であるが、歴史的には当地にかつてあった岩屋寺の行場として位置づけられている。

岩屋寺は、鬼城山よりもさらに奥まった山中に位置し、現在の岩屋集落の周辺に広がる寺院跡である。現存する毘沙門堂のそばにある「鬼の差し上げ岩」をはじめ、周辺の山林内には巨石が点在し、磐座祭祀の痕跡もうかがえる。(同報告書p.170より)

それを「磐座」という神道的な概念で呼んでしまっていいかには批判の余地もあるが、岩屋地区には考古学的な発掘調査の手が及んでいないようで、目立った遺物の発見もないと報告されている。

鬼城山に目を転じれば縄文時代・弥生時代の遺物もわずかながら見つかっていることから、当山塊一帯に人足の立ち入りがあったことは疑いないところだが、仏教霊場以前のいわゆる宗教性の有無については不明である。もちろん、古代山城における祭祀的側面も否定するものではない。

岩屋の奥には鯉岩・八畳岩・屏風岩・汐差岩・方位岩などが存在。

岩屋寺の地神碑


2021年3月9日火曜日

番田の立石・鉾立岩(岡山県玉野市)


岡山県玉野市番田


瀬戸内海沿岸、児島半島の八丈岩山(標高281m)の南腹支峰を立石山と呼び、山上に名前のとおり巨大な立石が屹立する。鉾立岩、または地名をとって番田の立石と呼ばれている。




麓や海岸からもよく見えるため、船人たちの海上交通の目印、いわゆるランドマークになったとされるが、確たる文献記録には欠けるようだ。初出もはっきりとしない。

ましてや、この立岩が古代に石神であったとか祭祀遺跡であったとみる向きは、巨石の大きさと形状に希望的観測を寄せる主観と推測の域を出ない。

現在、鉾立岩にいたる正式な登山道は廃絶したらしいが、戦前までは立石の裾に神祠をまつっていたという。

また、八木敏乗氏『岡山の祭祀遺跡』(日本文教出版、1990年)によると、巨石の一部には鑿が入れられた跡も確認できると記されている。

これが祭祀設備の一部か、石採り跡かなどは直接現地を見ていないのでわからない。


参考リンク
「立石 玉野市番田(岡山の山と三角点)」http://skz-ym.sakura.ne.jp/sankaku/ntrtamanotateisi.html(2021年3月9日閲覧)

2021年3月1日月曜日

石畳神社(岡山県総社市)


岡山県総社市秦

『延喜式』神名帳記載の「備中国下道郡 石畳神社」に比定されている。

現在は高梁川沿いに屹立する高さ約55mの岩峰をまつる神社であり、方形状の岩石が塔のように集積する様子を、石畳と称するに至ったものと思われる。






人為的に積み重ねたのではなく自然の産物であるが、上部は崩落防止のため補強跡が見られる。

岩自体が神なのか、神が宿る体のようなもの、はたまた神殿代わりなのかなど、判断するための資料が欠ける。万葉集に当社の「石畳」を指したといわれる歌もあるが、確定ではない。秦の地名から当社の祭祀を秦氏との関連で問う声もあるが、これもわからない。

現地看板やものの本、インターネットには神体・御室・霊代・磐座・石神といった表現が見られ、あたかも石の言葉の博覧会状態の如く氾濫しているが、いずれも近代以降に使用されはじめた用語を繰り返しているものであり、管見の限り古記録に明記されているものではない。

地名としてはほかに、当地の字(あざ)が「石村」であり、当社の山を石畳山や茶臼嶽と呼んだという。
「村=群れ」にしても「畳」にしても、岩石の垂直的な集合体である岩峰をこのように表しているのは興味深いが、事物でたとえる以上の神聖視は読み取れない。

聖なる岩石であることは疑いないが、延喜式当時はおろか、近世以前の岩石と神の関係性にも不明点は多いと言わざるを得ないだろう。


2021年2月21日日曜日

真宮神社の列石群(岡山県倉敷市)


岡山県倉敷市西尾


弥生墳丘墓~古墳時代の群集墳が分布する王墓山丘陵の南端に、真宮神社が鎮座する。
真宮は「しんみや」「まみや」両方の読み方が併存しているらしい。

社殿の周囲を51個の岩石が囲み、やや南北に広がる楕円の形に巡っている。





さながら環状列石内に佇む神社という表現がふさわしい。

社殿は南面しており、社殿の参道入口にあたる南側だけは、参道の石段が築かれているため列石は巡っていない。

石段が作られる前に、南側にも列石があったのかどうかは分からない。

この列石群は楕円状ながらも密に環状の配石を示し、人為的な遺構であることは疑いないが、その歴史的評価となると、解釈が難しい存在と言わざるを得ない。

周囲には真宮古墳群をはじめ王墓山の諸墳墓群が築かれているが、それをもって弥生時代の遺構と同列に扱うのは短絡的で、古墳・神社・列石のそれぞれの先後関係がわかっているわけではない。

真宮古墳群

横穴式石室の露頭の一部とされる。

慎重に述べるなら、神社と古墳と列石を安易にリンクすることは後回しにして、それぞれ別時期に造られた可能性を視野に、批判的検討がなされるべきだろう。

たとえば、神社の前身となる祭祀場がこの環状列石であり、その周りに古墳を造成したという解釈は恣意的である。

同様に、これら配石が元は古墳石材であり、墓域としての利用が終了したのち神社を創建し、その際に一種の玉垣として石材を再利用したという解釈も、対極的な意味で恣意的である。

いずれにしても、相対年代的な推定が許される資料が見つからないことには、アンタッチャブルな岩石案件として居続けるしかないだろう。

現状の景観としては、自然石をもって環状に区画した神社の玉垣事例として位置づけられる。「磐境」事例として呼ぶ向きもあるかもしれない。

この種の類例としては、他に滋賀県犬上郡多賀町の調宮神社滋賀県東近江市の船岡山徳島県三好郡東みよし町の金丸八幡神社など、数えるほどしか確認しておらず、珍しい資料と言える。

また、神社を抜きにしても、吉備地域には吉備津彦神社境内の五色島上「環状列石」、吉備の中山にかつてあったという11個の環状列石「内宮石」(現存せず)、吉備中央町(旧賀陽町)湯山の環状列石群など、時期と規模の大小の差はあるが、環状に岩石を並べる地域性のようなものが浮かび上がらなくはない。
それを「弧状」とまで言うと楯築遺跡の弧帯文石と絡めてしまいそうで、また恣意的の謗りを受けそうなのでこれまでにしておく。


境内にある石祠。下の岩石は「蛇頭岩」の名もあるらしいが、呼称の初出時期は不明。