インタビュー掲載(2024.2.7)

2020年4月26日日曜日

鞍馬山の岩石信仰(京都府京都市)


京都府京都市左京区鞍馬本町

翔雲台 ~経塚石材を尊天降臨の聖跡に置く意味~


鞍馬寺は、8世紀末に鑑真の弟子・鑑禎が毘沙門天をまつり、北方守護の霊地として始まったのが元とされる。
その後、寺の主体は天台宗から真言宗派に代わり、またしばらくして天台宗に戻り、戦後になって鞍馬弘教総本山として再出発した。
このような複雑な経緯も重なり、現在、鞍馬寺の本尊は毘沙門天王・千手観世音菩薩・護法魔王尊の三尊であり、これらを「尊天」として奉じている。

その鞍馬寺本殿金堂の前に、朱塗りの手すりと注連縄で囲われている空間がある。これを翔雲台と呼ぶ。
都の北方守護のため、本尊が翔雲台に降臨したという。



翔雲台の中心に、1枚の平板状の石が置かれているのが目に留まる。

翔雲台は本尊の降臨した聖域であるということから、その中心にある石はもしかして磐座と早合点してしまうが、さにあらず、付属看板によれば大略「本殿金堂裏から出土した、平安時代の経塚を構成していた蓋石をここに安置したもの」だという。

なぜ、経塚の石材を本尊降臨の聖跡空間の中に置いたのかはわからないが、岩石が置かれることでその空間一帯の視覚的な感覚は明らかに変容する。示唆的な行為と言える。

経塚における蓋石の用途とは「神聖な経文を納め、その空間の中が神聖であることを示すゲートとしての石」であり、また、「神聖な経文を外に出さないように物理的・宗教的に封じる石」だったとも解釈される。
その意味において、この石は翔雲台に置かれる前から「ただならぬ岩石」だったのであり、その歴史性と霊性をもって現在地で単なる石材・史跡以上の意味付けを有しているのではないかと思われるのである。

義経の背比べ石


本殿金堂から奥の院魔王殿に至る山道の途中に、高さ1.0m~1.5m程の「義経の背比べ石」が残る。


由来は、源義経が兄の頼朝に追われ奥州に逃れる時、若き日を過ごした鞍馬に名残を惜しみ、この石と自分の背丈を比べたという。

背比べ石の近くに、義経を護法魔王尊の脇侍「遮那王尊」としてまつる義経堂があることから見れば、少なくとも現在の鞍馬寺は、義経を信仰対象として神聖視している。

その点から、背比べ石は信仰対象たる義経の聖跡としてあるだろうが、一般の入山者がそう見るとは限らない。
私たちは義経を、信仰対象ではなく悲劇的英雄として、神ではなく人間として見てしまうのではないだろうか。義経を信仰していない立場の人からは、歴史上の人物の記念物として位置づけられる側面もあるだろう。

魔王殿の「磐座」について


鞍馬寺の奥の院は魔王殿と呼ばれ、鞍馬寺の祭る尊天の1つ、護法魔王尊をまつる。

鞍馬寺といえば、若き日の義経が天狗に鍛えられたという古刹だが、その一方で「650万年前、金星から人類救済のため魔王尊が降臨して云々」という、通常の寺院には見られない特異な体系を持つ寺として、スピリチュアル系でも注目される聖地が魔王殿だ。

念のため、この伝承は、戦後になって創られた鞍馬弘教の教義として改めて構築されたもの。当時、ニューウェイブの宗教哲理として世界的に大きな影響力を持っていた「神智学」の語る世界観にならって、鞍馬信仰を再構築したものであるといわれている。

冒頭で述べたとおり、鞍馬寺は平安京の北方守護のために千手観世音がまつられたといういわれをもつことから、鞍馬寺の護法魔王尊も、北方守護をする「魔王天王」としてまつられるようになったのが元々の始まりではないかと思われる。

そして、その護法魔王尊が降臨したとされる「磐座」が、魔王殿に広がる岩盤の群れである(どのような記録に「磐座」と明示されているかははっきりしない)。

魔王殿拝殿。この奥に露岩群が広がる。

魔王殿本殿を取り囲む露岩群。岩盤の上に本殿が建つ。

露岩群の様子

魔王殿の拝殿から本殿を望むと、本殿下の地表面に、鞍馬山を構成する石灰岩の露頭が無数に林立しているのが確認できる。この限られた範囲内にだけ岩頭が集在している状況というのも特徴的だ。

現在、本殿と露岩群を取り囲むように玉垣が作られており、直接に立ち入ることはできず、拝殿から拝むかたちとなる。
奥の院という位置付けや、露岩群を含めて結界標示をおこなっている点を考えると、たしかに現状は「磐座」にふさわしい神聖視の扱いだと言える。

しかし、歴史的にどうだったかといわれると不明点が多い。
「650万年前に金星から」や「創造と破壊の神」などは戦後の鞍馬弘教の影響であること疑いないが、魔王尊自体は仏教世界に存在している。
また、翔雲台の例を見れば、平安京守護のために神を降臨させたという伝承は鞍馬に深く根付いていることから、魔王殿の露岩群に鞍馬信仰の初源の可能性を探る必要性はじゅうぶんあるだろう。

2020年4月22日水曜日

貴船神社の岩石信仰(京都府京都市)


京都府京都市左京区鞍馬貴船町

鞍馬山と貴船山の狭間を流れる貴船川のほとりに鎮座し、水神・高龗神(タカオカミノカミ)をまつる水の聖地である。
一説では、古くは賀茂雷別神社の奥宮とも位置付けられてきた。

創始伝承は二系統あるようで、一つは、神武天皇の母である玉依姫命が難波の淀川から船に乗り、そのまま鴨川、貴船川と川を上っていき、水源となるこの地に高龗神を奉祭したというものである。
もう一つは、高龗神が神社裏にそびえる貴船山中腹にある「鏡岩」に降臨し、そこから山麓の貴船神社が創始されたというものである。

船形石


貴船神社奥宮(元来の鎮座地)の社殿傍に「船形石」という、直方体状に石積みがなされた構造物が目にとまる。
前述の玉依姫命が、川を上るときに乗っていた船を積石で秘匿したものであると信じられ、これが社名の貴船に由縁するともいう。


長さ10m、幅4m、高さ2m程で、確かに中に小船が入っていてもおかしくない規模だが、その成立年代は知る由もない。石積みの構造や加工の在り方を見る限りでは、古代にさかのぼる石積みとは見受けられない。

祭神の移動・鎮座の歴史を示す聖跡であると同時に、後世においては、船形石の小石を持って帰れば航海安全・交通安全の霊験をも有するようになった。

鏡岩


創始伝承に登場する「鏡岩」は貴船山の中腹にあるというが、貴船山自体が聖山として禁足地になっているため、実際に目にすることはできない(道らしい道もないとのこと)。
ただ、貴船神社発行の昔の社報にはその鏡岩の写真が掲げられたことがあるといい、神社ホームページに画像も掲載されている。定期的に神社関係者によって確認がなされている存在なのだろう。

写真を見るかぎり、岩全体の規模は不明なものの、複数の岩石が積み重なったもので、その石積みの隙間として、中央には室のような空洞になった部分が見られる。
鏡岩という名称から、鏡のような平滑光沢面を持った岩石なのかと思うところだが、全体が苔むしているので鏡面は確認できない。

この鏡岩の名の由来だが、まさに「光沢を持っていた岩だったからこそ鏡岩の名が付いた」といういわれの他に、「水神の怒りに触れた従神が、この岩に来て屈み(=かがみ)隠れながら平伏したから、屈み岩=鏡岩の名前が付いた」といういわれもある。

岩に光沢面があるかどうか不明なので、どちらが語源なのかについては決めがたいが、前者の伝承からは「岩自体が、神を降臨させるに相応しい外形聖性を持つ岩だった」ということが伝わり、後者の伝承からは「水神とコミュニケーションが取れる媒体として、この岩が描かれている」ということが読み取れる。

現在でこそ人の立ち入らない場所となっているが、祭神は当初鏡岩に降臨したということで、社殿創建前まではこの鏡岩が祭祀の場だったことがうかがわれる。
この鏡岩が山頂ではなく中腹にあるというのも、神の世界たる山頂にまで足を踏み入れず聖俗の境界として山腹の岩石を見出したという点で理解できる。

また、鏡石の前では今では定期的な祭祀が執り行なわれていないため、磐座としての純粋な機能は終えていることにも注意したい。
現在の鏡石は「昔、神霊の降臨する磐座だった」という聖跡に変容していると捉えるのが適当だろう。

つづみが岩


本社から奥宮に至る道の途中、奥宮の入口にある鳥居の横に、大きな岩が目に入る。
これがつつみが岩で、高さ4.5m、胴回り9mの規模を誇る。


由来は、貴船で採れる代表的な貴船石の特徴を持つ名石であるということから、社前で大切に安置されているという話である。
岩の名称は、鼓の形状に似ていることから取った名前で、他の自然石とこの岩を区別するために特別視した証である。

天の磐船


本社と奥宮の中間地点に、縁結びの霊験で有名な結社(ゆいのやしろ)がある。
その境内に置かれているのが「天の磐船」である。


名前を聞くと仰々しいが、これは近くの山奥から採出された船形の自然石を、ある篤信者の方が神社に奉献してこの名を付けたというものである。
捧げ物としての岩石である。

石庭「天津磐境」


本社の境内に「天津磐境」と名付けられた石庭がある。
これは、昭和40年に作庭家である重森三玲氏が作った庭園で、名前の通り、社殿祭祀以前の自然物祭祀の形である磐境祭祀をモチーフに作ったものである。


伝承にある貴船を意識して、船形に貴船石を直立させて並べ囲み、その磐境の中に常緑樹である榊を植え、その榊を神の降り立つ対象(=神籬)として見立てるといった構造で、まさに磐境祭祀の典型的な様式を忠実に再現したものと言える。
磐境祭祀の在り方を目に見える形で学べる庭園とも言えるだろう。

石庭の源流は、人為的・自然物に関わらず、こうした岩石信仰から端を発するものだとする解釈があり、美と聖の境界線を体感できる事例でもある。

蛍岩


貴船神社本社から叡山電鉄貴船口駅までの道路脇にある丸っこい巨岩を蛍岩と呼ぶ。
この岩の周辺一帯が蛍の名所ということで、言い伝えでは、当地にやってきた和泉式部がここで蛍を見て、和歌を詠んだという話も伝わっている。


蛍岩はそのような「蛍の名所」と「和泉式部の事跡」を伝える旧跡として機能しており、一種のランドマーク、言い方を代えれば人々の記憶のシンボルだと評価できるだろう。

烏帽子岩


本社と蛍岩を結ぶ道路の中間地点で、貴船川を挟んだ鞍馬山の山端にある岩だというが、私が現地で見落としてしまったので実物を確認できていない。

貴船神社にあったパンフレットによると「大宮人が、烏帽子を下して休息した岩」とある。岩自体が烏帽子の形状をしていることによる命名ではないらしい。

また、神社にあった案内板には「参拝者がここで冷水を浴びて、身を清めた」と書かれていたので、烏帽子岩は貴船神社という聖域に入るための境界の一つだったと捉えることもできる。

参考文献


  • 林宏 『鏡石紀行』 中日新聞社 2000年
  • 貴船神社ホームページ http://kifunejinja.jp/
  • 神社発行パンフレット、現地解説板など


2020年4月20日月曜日

『日本伝説名彙』石・岩の部 事例リスト


『日本伝説名彙』は、柳田国男監修、日本放送協会編集の単刊本(1950年)である。

実際は、柳田門下の関敬吾氏・石原綏子氏の2名が主に調査・執筆に当たったことが序文で明かされている。

本書では「木の部」「石・岩の部」「水の部」「塚の部」「坂・峠・山の部」「祠堂の部」に章を分けて、全国各地の伝説を収録する。
収録の際の特徴は、たとえば「十三塚」についての伝説であれば、同名の伝説を所在地ごとに固めて一気に紹介する。一つ一つの事例の説明は多分に紙幅の都合で簡潔を旨としている。

「石・岩」の部に限っていうなら、現在、代表的とされるような岩石の多くは収録されていない。また、収録している自治体に偏りが見られ、新潟県糸魚川市・京都府亀岡市など特定の町村の事例数が多い。一方で、ほとんど出てこない自治体が県単位で存在する。
これは調査者の参照元の文献の粗密を表すものであり、つまり、本書は事例集としてはまったく網羅的ではない。これで分布論など語ろうものなら大きな過ちを起こす。

それでは本書は有用ではないかというとそうではなく、一方の傾向として、現在では看過されている伝説が多く収録されているのである。
つまり、過去と現在の研究に断絶が見られる、ということに着目している。本分野において本書は「忘れ去られた仕事」なのである。

そこで今回の記事を作成するわけであるが、事例リストとしてまとめる目的は下記のとおりである。


  • 目次では「石・岩の部」だけ書かれ、その下部階層である各見出しがなく、検索性が悪い(巻末には索引があるが、石・岩以外も混ざるので△)。
  • 本書の紹介順は、編者によって何となく似たタイプの石順に並べられているようだが、石の名前のあいうえお順などの法則性はなく、特定の石を参照したい場合、とても探しにくい。
  • そこで、ここでは本書の「石・岩の部」に収録された各岩石のリストを書き出すことで、後学の参照の便を高めることを目的にしたい。
  • 一言でいえば、自分用の覚書。


検索性を主目的とするため、ページ順に紹介していく。
また、以下に記す所在地名は本書第2版刊行時(1971年版)の記載のままとするので、自治体合併前のものが多く含まれることを了承されたい。

おがり石

  • 秋田県仙北市

力石

  • 宮城県藤里町
  • 栃木県葛生町
  • 東京都八王子市
  • 長野県松本市
  • 長野県小海町
  • 京都府亀岡市
  • 和歌山県田辺市
  • 兵庫県姫路市
  • 岡山県作東町
  • 大分県竹田市
  • 熊本県中央村

重軽石

  • 岐阜県太田町
  • 徳島県徳島市

何石

  • 静岡県沼津市
占石

  • 愛知県豊川市
  • 長野県白馬村

姉子石

  • 山形県鮭川村

袂石

  • 群馬県榛名町
  • 長野県佐久市
  • 三重県志摩郡
  • 兵庫県神戸市兵庫区

手玉石

  • 新潟県糸魚川市

手鞠石

  • 福岡県甘木市

礫石

  • 愛知県八名郡
  • 愛知県南知多町
  • 三重県飯高町
  • 兵庫県神戸市兵庫区
  • 岡山県久米町
  • 広島県駅家町
  • 福岡県篠栗町
  • 福岡県早良町

投合石

  • 滋賀県湖北町

米粒石

  • 長野県山内町

馬洗米石

  • 新潟県糸魚川市

寸倍石

  • 東京都台東区浅草

手投石

  • 静岡県伊東市

丈競石

  • 福岡県甘木市
  • 長野県佐世保市

背競石

  • 京都府京都市左京区
  • 福岡県直方市

信濃石

  • 埼玉県都幾川村

抛石(岩)

  • 長野県戸倉町
  • 三重県度会郡二見町
  • 兵庫県宝塚市
  • 兵庫県西宮市

投上石

  • 高知県長岡郡~土佐郡境

橋杭岩

  • 埼玉県坂戸市
  • 和歌山県西牟婁郡串本町
  • 徳島県阿南市

立石(岩)

  • 新潟県能生町
  • 長野県南佐久郡南相木町
  • 長野県塩田町
  • 山梨県大月市
  • 石川県津幡町
  • 兵庫県明石市
  • 岡山県新見市
  • 岡山県中央町
  • 熊本県西合志町

退石

  • 三重県度会郡二見町

動石

  • 長野県梓川村
  • 香川県大川郡志度町

揺ぎ石

  • 長野県塩尻市
  • 奈良県東吉野村
  • 岡山県久米南町
  • 広島県芦田町
  • 徳島県池田町

辷(滑)石

  • 岩手県藤沢町
  • 長野県臼田町
  • 岐阜県山岡町

呼ばわり石(岩)

  • 福島県西白河郡小田川村
  • 静岡県御殿場市
  • 岐阜県恵那市
  • 愛知県北設楽郡設楽町

三声返し

  • 山梨県甲府市

おらび岩

  • 福岡県八女郡矢部村

呼石

  • 福島県船引町
  • 広島県世羅西町
  • 広島県甲田町

ほいほい石

  • 青森県浪岡町

鸚鵡石(岩)

  • 東京都青梅市
  • 長野県中川村
  • 静岡県熱海市
  • 愛知県渥美町
  • 滋賀県高島町
  • 三重県青山町
  • 三重県伊勢市
  • 和歌山県本宮町
  • 長野県高遠町
  • 山梨県韮崎市

山彦石

  • 長野県北安曇郡美麻村

物岩

  • 新潟県糸魚川市

雑談岩

  • 長野県松代町

声石(岩)

  • 長野県南木曾
  • 岡山県勝田郡公文庄長内村

鳴石

  • 長野県北佐久郡
  • 石川県門前町
  • 滋賀県浅井町

唸石

  • 愛知県師勝町
  • 愛知県碧海郡

囀石

  • 群馬県中之条町

籰繰石

  • 広島県阿佐郡高陽町

碁鳴石

  • 福島県田村郡片曾根村

参詣石

  • 新潟県新発田市

土器石

  • 石川県穴水町

灯明石(岩)

  • 長野県南佐久郡南牧村
  • 長野県諏訪市
  • 岡山県大東村

明星岩

  • 長野県木曽郡(旧西筑摩郡日義村)
  • 石川県穴水町

拝石

  • 福島県福島市
  • 大阪府大阪市東成区四天王寺
  • 岡山県建部町
  • 山口県徳山市

影向石

  • 神奈川県鎌倉市
  • 滋賀県米原市

誕生石

  • 長野県岡谷市
  • 大阪府大阪市住吉区
  • 愛媛県越智郡大島泊村

子得岩(こうるいわ)

  • 三重県志摩郡四疋田村
  • 三重県松阪市

子守石

  • 島根県松江市

産石(うみいし)

  • 群馬県中之条町
  • 福井県小浜市

産石(うまれいし)

  • 福井県朝日町

産湯石(うべし)

  • 宮崎県高原町

孕石

  • 静岡県西伊豆町
  • 静岡県掛川市

子産石

  • 岡山県加茂川町

子持石

  • 福島県福島市
  • 長野県更埴市
  • 長野県松本市
  • 静岡県三島市
  • 静岡県沼津市
  • 福岡県新宮町

亥子岩

  • 三重県南牟婁郡

子安石

  • 兵庫県神戸市兵庫区

子抱石

  • 愛知県南設楽郡鳳来町

疣石

  • 長野県東村
  • 長野県立科町
  • 長野県小海町
  • 長野県諏訪市
  • 長野県高森町
  • 長野県北安曇郡池田町
  • 長野県穂高町
  • 石川県七尾市
  • 岐阜県岩村町
  • 愛知県豊橋市
  • 愛知県岡崎市
  • 広島県白木町・向原町
  • 福岡県嘉穂町

疣洗石

  • 福岡県前原町

疣取石

  • 愛知県名古屋市守山区

腰掛石(岩)

  • 青森県南部町
  • 岩手県紫波町
  • 宮城県宮城郡
  • 宮城県栗原郡梨崎村
  • 福島県三春町
  • 新潟県笹神村
  • 新潟県真野町
  • 長野県白馬村
  • 長野県辰野町
  • 長野県茅野市
  • 長野県立科町
  • 山梨県東山梨郡三富村
  • 静岡県三島市
  • 石川県輪島市(旧河原田村)
  • 石川県輪島市(旧輪島町)
  • 石川県石川郡(旧白峰村)
  • 愛知県豊橋市(中八町)
  • 愛知県西加茂郡小原村
  • 愛知県東春日井郡旭町
  • 愛知県海部郡蟹江町
  • 愛知県南知多町
  • 愛知県豊橋市(老津村)
  • 愛知県宝飯郡
  • 福井県福井市(藤島村)
  • 福井県金津町
  • 福井県永平寺町
  • 福井県福井市(旧石場)
  • 滋賀県米原町
  • 滋賀県木之本町
  • 滋賀県大津市
  • 奈良県奈良市(旧田原村)
  • 奈良県奈良市(手向山八幡)
  • 奈良県宇陀郡御杖村
  • 京都府南桑田郡千代川村
  • 大阪府豊能郡
  • 兵庫県川西市
  • 兵庫県明石市
  • 兵庫県姫路市
  • 兵庫県武庫郡小田村
  • 兵庫県加古川市
  • 兵庫県三木市
  • 岡山県邑久郡牛窓町
  • 岡山県岡山市
  • 岡山県灘崎町
  • 岡山県久米南町
  • 岡山県北房町
  • 岡山県奥津町
  • 香川県牟礼町
  • 徳島県脇町
  • 徳島県三郷村・木屋平村
  • 島根県羽須美村
  • 広島県福山市
  • 愛媛県宇摩郡土居町
  • 福岡県遠賀町
  • 宮崎県西諸県郡小林村細野
  • 佐賀県小城町
  • 長野県波佐見町
  • 長崎県下県郡豊玉村
  • 熊本県城南町

対面石

  • 山形県山形市
  • 静岡県清水町
  • 大阪府豊能郡

かんがみ石

  • 奈良県生駒郡平群村

休石(岩)

  • 宮城県石巻市
  • 福島県福島市
  • 長野県小谷村
  • 長野県富士見町
  • 長野県中込町
  • 静岡県中伊豆町
  • 岐阜県揖斐川町
  • 愛知県北設楽郡名倉村西納庫清水~川口~月ヶ平
  • 奈良県宇陀郡御杖村
  • 和歌山県川辺町
  • 岡山県柵原町
  • 岡山県作東町
  • 岡山県新見市
  • 岡山県笠岡市
  • 鹿児島県日置郡西市来村

立場石

  • 徳島県海部郡

要石

  • 茨城県鹿島郡
  • 静岡県駿東郡原町
  • 長野県塩田町
  • 石川県輪島市
  • 和歌山県日高郡南部町
  • 島根県平内市

汐止石

  • 広島県新市町
  • 愛媛県壬生川町

御座石

  • 長野県立科町
  • 長野県上田市
  • 長野県諏訪郡永明村
  • 山梨県高根町
  • 静岡県清水市
  • 大阪府堺市

みくら石

  • 長野県白馬村

御前石

  • 福井県今立郡南中山村

神座石

  • 長野県富士見町

高座石

  • 山梨県北巨摩郡
  • 兵庫県西宮市

坐禅石

  • 石川県門前町
  • 静岡県静岡市
  • 愛知県新城市
  • 京都府亀岡市

坐女石

  • 愛知県南設楽郡

座石

  • 宮城県名取郡

沓石

  • 神奈川県小田原市
  • 長野県諏訪郡
  • 福岡県中間市

木履石(ぽくりいし)

  • 愛知県豊橋市

沓脱石

  • 徳島県徳島市

草履脱石

  • 岐阜県岐阜市

駒繋石

  • 福島県会津若松市
  • 新潟県川西町
  • 奈良県橿原市
  • 兵庫県神戸市

牛繋石

  • 熊本県玉名市

鞍掛石

  • 宮城県栗駒町
  • 福島県白沢村
  • 長野県臼田町(旧青沼村)
  • 長野県臼田町(旧切原村)
  • 長野県富士見町
  • 岡山県高松町
  • 福岡県前原町

笈掛石

  • 宮城県一迫町
  • 滋賀県堅田町
  • 新潟県西蒲原郡

馬鞍石

  • 石川県小松市

馬石

  • 福岡県前原町

白竜石

  • 大阪府箕面市

天馬石

  • 徳島県小松島市

竜馬石

  • 兵庫県川西市
  • 愛媛県久万町

鬼の杖石

  • 山梨県大月市

杖石

  • 岐阜県吉城郡上宝村

錫杖石

  • 大阪府箕面市

杖の跡石

  • 岡山県津山市

御舟石

  • 群馬県高崎市
  • 長野県佐久市

舟岩

  • 奈良県山辺郡山添村
  • 島根県大東町
  • 福岡県福岡市

船繋石

  • 長野県戸倉町
  • 奈良県榛原町
  • 京都府舞鶴市
  • 徳島県鳴門市
  • 福岡県筑紫野町
  • 福岡県二丈町

舟着石

  • 長野県中野市
  • 京都府亀岡市

纜石

  • 岡山県邑久郡牛窓町

姿見石

  • 高知県南国市

鏡石(岩)

  • 宮城県中田町
  • 群馬県桐生市
  • 埼玉県神川村
  • 長野県北佐久郡蓼科山麓
  • 長野県南佐久郡相木村
  • 長野県塩尻市
  • 静岡県韮山町
  • 愛知県渥美町
  • 愛知県豊橋市
  • 愛知県春日井市
  • 愛知県犬山市
  • 福井県今庄村
  • 滋賀県彦根市
  • 奈良県吉野郡天川村
  • 京都府南桑田郡
  • 徳島県徳島市

岩鏡

  • 福岡県糸島郡波多江村

山鏡

  • 三重県宇治山田市

烏帽子石(岩)

  • 長野県諏訪市
  • 石川県小松市
  • 岐阜県岐阜市
  • 兵庫県三田市
  • 岡山県赤磐郡
  • 徳島県小松島市
  • 広島県福山市
  • 福岡県中間市
  • 福岡県若宮町

帽子岩

  • 和歌山県那智勝浦町

兜石

  • 福島県川俣町
  • 長野県南木曾町
  • 長野県南佐久郡臼田町
  • 愛媛県松山市
  • 福岡県福岡市
  • 熊本県阿蘇町

冠石(岩)

  • 岐阜県垂井町
  • 京都府瑞穂町
  • 岡山県津山市
  • 福岡県筑紫郡太宰府町

兜掛石

  • 岐阜県関ケ原町

投冠石

  • 大分県耶馬渓町

鉄漿付石

  • 大分県東国東郡姫島村

化粧石

  • 長野県佐久市
  • 兵庫県平荘町
  • 広島県美土里町

紅付石

  • 福岡県筑紫野町

明神石

  • 兵庫県姫路市

機織石

  • 長野県上水内郡戸隠山中
  • 石川県能美郡鳥越村

布織石

  • 福岡県甘木市
  • 長野県長野市

袴石

  • 新潟県糸魚川町
布栖石

  • 福井県永平寺町

衣干岩

  • 愛媛県今治市

衣掛石

  • 長野県南佐久郡相木村
  • 富山県入善町
  • 福井県小浜市
  • 長崎県下県郡厳原町

袿掛岩

  • 福井県南条町

帷子岩

  • 福島県磐梯町

小袖岩

  • 宮城県加美郡色麻村

俎板石(岩)

  • 石川県能都町
  • 福井県敦賀市
  • 福井県三国町
  • 福岡県嘉穂町

甑石

  • 三重県志摩郡
  • 愛媛県北条町

赤子岩

  • 長野県阿智村
  • 愛知県北設楽郡設楽町
  • 京都府亀岡市
  • 岡山県久米町
  • 島根県羽須美村

子泣石

  • 長野県下伊那郡上郷村

夜泣石

  • 茨城県新治郡
  • 長野県上山田町
  • 長野県南佐久郡臼田町
  • 静岡県榛原郡金谷町
  • 愛知県葉栗郡木曽川町
  • 愛知県新城市
  • 福井県朝日町
  • 福井県南条町
  • 福井県鯖江市
  • 福井県福井市
  • 三重県鈴鹿市
  • 京都府日吉町
  • 高知県鏡村
  • 福岡県大野町

みつご岩

  • 岡山県船穂町

河童石(岩)

  • 三重県志摩町
  • 和歌山県田辺市
  • 和歌山県日高郡南部町
  • 岡山県吉備郡真備町
  • 熊本県天草郡
  • 福岡県鞍手郡小竹町

鍵引石(かぎつびきいし)

  • 長野県立科町

誓文石

  • 長崎県南松浦郡五島

雷石(岩)

  • 静岡県静岡市
  • 愛知県南知多町
  • 石川県能都町
  • 滋賀県甲西町
  • 奈良県奈良市
  • 奈良県橿原市
  • 長崎県下県郡厳原町

手形石

  • 秋田県仙北郡仙南村
  • 長野県諏訪市
  • 長野県豊丘村
  • 長野県小海町
  • 長野県鼎町
  • 山梨県御岳山
  • 兵庫県志方町

足跡石

  • 長野県戸隠村
  • 長野県中野市
  • 長野県真田町
  • 愛知県蒲郡市
  • 愛知県岡崎市
  • 福井県大飯郡佐分利村
  • 広島県白木町
  • 佐賀県諸富町
  • 長崎県小浜町
  • 熊本県阿蘇郡白水村
  • 沖縄県石垣島

馬蹄石

  • 岩手県矢巾町
  • 千葉県江見町
  • 新潟県能生町
  • 神奈川県横浜市金沢区
  • 長野県山内町
  • 長野県信更村
  • 長野県戸倉町
  • 長野県小海町
  • 山梨県大和村
  • 静岡県伊東市
  • 静岡県庵原郡高部村
  • 愛知県額田郡山中村
  • 愛知県渥美町
  • 三重県鈴鹿市
  • 兵庫県神戸市兵庫区
  • 兵庫県志方町
  • 福岡県福岡市
  • 福岡県筑穂町
  • 福岡県筑紫郡太宰府町
  • 福岡県岡垣町
  • 福岡県香春町
  • 大分県大分市
  • 大分県山香町

鹿足石

  • 奈良県天理市

牛の足跡石

  • 広島県世羅町

蹄跡石(へゆいし)

  • 沖縄県石垣島

鬼の足形石

  • 長野県北安曇郡松川村
  • 岡山県総社市

足駄石

  • 島根県平田町
  • 広島県向原町

弁慶岩

  • 岩手県筑波町
  • 岩手県盛岡市
  • 新潟県糸魚川市
  • 福井県大野市
  • 京都府亀岡市
  • 岐阜県益田郡小坂町
  • 福岡県遠賀郡芦屋町

天狗の爪研石

  • 石川県穴水町

天狗の磨石

  • 大分県庄内町

弁慶斧研石

  • 京都府亀岡市
  • 奈良県宇陀郡御杖村

十二石

  • 秋田県阿仁町

七つ石

  • 栃木県小山市
  • 群馬県桐生市
  • 長野県浅科村
  • 長野県臼田町
  • 愛知県小牧市
  • 愛知県一宮市
  • 三重県松阪市

鬼石

  • 青森県下北郡
  • 長野県白馬村
  • 長野県佐久市
  • 長野県茅野市
  • 愛知県東栄町
  • 兵庫県姫路市
  • 岡山県久米南分下二箇山手村
  • 岡山県吉備郡足守町

鬼縛石

  • 福岡県福岡市

縄目石

  • 岡山県鏡野町

狼石

  • 奈良県宇陀郡室生村

山犬石

  • 長野県岡谷市

獅子石(岩)

  • 青森県黒石市
  • 長野県望月町
  • 長野県野沢温泉村
  • 長野県飯田市
  • 福井県足羽町
  • 福井県鯖江市
  • 福井県勝山市
  • 京都府宮津市
  • 京都府京都市左京区

獅子舞石

  • 和歌山県田辺市

獅子垣岩

  • 長野県臼田町

猫石

  • 岩手県雫石町
  • 長野県諏訪地方
  • 石川県江沼郡山中温泉

牛石

  • 福島県川俣町
  • 群馬県佐波郡赤堀村
  • 長野県小県郡
  • 長野県長野市
  • 長野県塩尻市
  • 静岡県清水市
  • 石川県鳳至郡穴水町
  • 愛知県岡崎市
  • 福井県敦賀市
  • 福井県鯖江市
  • 大阪府堺市
  • 広島県久井町
  • 愛媛県東宇和郡城戸村
  • 佐賀県伊万里市

犬石(岩)

  • 福島県福島市
  • 千葉県銚子市
  • 長野県小梅町
  • 長野県飯田市
  • 長野県山ノ内町
  • 岐阜県瑞浪市
  • 岐阜県神岡町
  • 福井県高浜町
  • 岡山県岡山市

猿石(岩)

  • 奈良県明日香村
  • 岡山県柵原町

虎石

  • 千葉県平川町
  • 山梨県甲府市
  • 長野県塩尻市
  • 長野県箕輪町

寅子石

  • 埼玉県岩槻市

虎子石

  • 静岡県駿東郡足柄峠
  • 大分県佐賀関町

鶏石

  • 福島県安達郡嶽下村
  • 栃木県茂木町
  • 和歌山県那賀郡紛河町
  • 愛知県豊田市
  • 大阪府高槻市
  • 鳥取県福部村
  • 福岡県福岡市

鷗石

  • 福島県二本松市

鷹石

  • 宮城県名取郡

蟹甲石

  • 石川県鳳至郡柳田村

亀石

  • 長野県茅野市
  • 石川県小松市
  • 愛知県豊川市
  • 愛知県額田町
  • 福井県福井市
  • 岡山県岡山市
  • 福岡県志賀町
  • 長崎県下県郡厳原町

亀子石

  • 宮城県志津川町

鯰石

  • 福岡県筑紫野町

蛇枕石

  • 長野県長野市
  • 長野県臼田町
  • 愛知県岡崎市
  • 大分県大分市

蛇石

  • 東京都八王子市
  • 長野県小諸市
  • 長野県佐久市
  • 長野県小海町
  • 長野県下伊那郡波合村
  • 奈良県奈良市
  • 奈良県明日香村
  • 福岡県福岡市
  • 岡山県吉備郡足守町
  • 徳島県井川町
  • 愛媛県内子町

はだかす岩

  • 岡山県英田郡西栗倉村

鮭石

  • 静岡県富士宮市
  • 長野県中野市
  • 長野県佐久市
  • 長野県上田市
  • 大阪府大阪市東成区
  • 熊本県新和町

わくど石

  • 福岡県中間市
  • 福岡県添田町

蝦蟇石

  • 佐賀県佐賀市

どんく岩

  • 熊本県五和町

矢祭石

  • 宮城県牡鹿郡

箱石

  • 宮城県磐井郡濁沼村
  • 岡山県奥津町

かろと石(岩)

  • 長野県松本市
  • 和歌山県牟婁町

盤の石

  • 岐阜県吉城郡上宝村
  • 兵庫県神戸市兵庫区

碁盤石

  • 静岡県熱海市
  • 静岡県松崎町
  • 岐阜県神岡町

股引岩

  • 長野県下伊那郡喬木町

味噌滓石

  • 愛知県岡崎市

さや石

  • 福岡県桂川町

傾城石

  • 島根県横田町
  • 福岡県築上郡

遊女石

  • 福島県若松市

瞽女石(岩)

  • 長野県北安曇郡八阪村
  • 岡山県久米町
  • 愛媛県重信町

女房石

  • 福島県平市

望夫石

  • 佐賀県呼子町

女郎岩

  • 福井県大野市
  • 愛知県東栄町
  • 愛知県宝飯郡赤坂町
  • 大分県久住町

美人石

  • 熊本県御所浦町

早乙女石

  • 山梨県韮崎市
  • 岡山県新見市

おなご石

  • 新潟県上川村

美女石

  • 神奈川県横浜市
  • 静岡県沼津市
  • 長崎県厳原町

比丘尼石

  • 長野県長野市
  • 長野県埴科郡坂城町
  • 長野県上木内郡戸隠村
  • 静岡県静岡市

巫女石

  • 岩手県遠野市
  • 静岡県佐久間町
  • 愛知県南設楽郡鳳来寺
  • 岡山県御津郡下加茂村

のの石

  • 長野県立科町

小町石

  • 宮城県鳴瀬町

縁切石

  • 長野県松本市
  • 長野県飯山市

身投石

  • 京都府宮津市
  • 奈良県大宇陀町
  • 岡山県岡山市
  • 広島県福山市

稚児岩

  • 福島県霊山町
  • 新潟県糸魚川市
  • 福井県大飯町
  • 京都府京都市伏見区

童児岩

  • 岩手県東磐井郡藤沢町

山姥石

  • 静岡県豊田村
  • 徳島県半田町

姥石

  • 山形県尾花沢市
  • 宮城県丸森町
  • 福島県磐梯町
  • 栃木県鹿沼市
  • 千葉県白子町
  • 新潟県糸魚川市
  • 長野県佐久市
  • 静岡県沼津市
  • 富山市立山町
  • 岐阜県養老町
  • 岡山県岡山市

ぼなり岩

  • 静岡県静岡市

泣石

  • 岩手県遠野市
  • 新潟県能生町
  • 長野県豊野町
  • 長野県松本市
  • 長野県塩尻市
  • 長野県茅野市
  • 長野県中野市
  • 静岡県静岡市
  • 山梨県双葉町
  • 京都府亀岡市
  • 岡山県一宮町

物貸石

  • 石川県七尾市

腕貸岩

  • 福井県大野市
  • 愛知県瀬戸市
  • 岐阜県高山市

商人石(あきんどいし)

  • 長野県東筑摩郡刈谷原峠

相場石

  • 長野県東筑摩郡

米はかり石

  • 長野県南佐久郡

塩上石

  • 長崎県平戸市

潮さし石

  • 岡山県吉井町

潮涌石

  • 岡山県岡山市

潮満石

  • 岡山県岡山市
  • 高知県幡多郡清松村

硯石(岩)

  • 福島県国見町
  • 福島県二本松市
  • 群馬県箕郷村
  • 長野県佐久市
  • 長野県大町市
  • 石川県鳳至郡穴水町
  • 石川県中島町
  • 三重県度会郡二見町
  • 奈良県山添村
  • 大阪府豊能郡東能勢川村
  • 岡山県美作町
  • 岡山県玉野市

梵字岩

  • 新潟県青海町
  • 新潟県糸魚川市
  • 長野県上田市

蚕石

  • 新潟県守門村
  • 長野県諏訪市

蚕種石(こだねいし)

  • 福島県国見町
  • 山梨県上野原町
  • 栃木県日光市

子種石

  • 三重県松阪市

米喰石

  • 長野県鼎町

雨降石

  • 長野県塩尻市
  • 岡山県落合町
  • 宮崎県東臼杵郡東郷村

雨乞石(岩)

  • 長野県臼田町
  • 石川県七尾市
  • 愛知県蒲郡市

人取石

  • 福島県猪苗代町

殺生石

  • 愛知県岡崎市
  • 岡山県真庭郡勝山町

毒石

  • 静岡県静岡市

化け石

  • 岩手県紫波町
  • 新潟県長岡市
  • 新潟県能生町
  • 長野県飯田市
  • 京都府亀岡市

杓子岩

  • 兵庫県川辺郡広瀬村
  • 岡山県奥津村

波分岩

  • 山形県温海町

戻石(岩)

  • 栃木県日光市
  • 新潟県分水町
  • 京都府亀岡市
  • 大阪府箕面市

捻石

  • 和歌山県岩出町

鯖腐石

  • 佐賀県東松浦郡北波多村
  • 長崎県長崎市
  • 長崎県南高来郡小浜町

炮烙岩

  • 三重県松阪市

矢文石

  • 兵庫県尼崎市

矢立石

  • 長野県富士見町

矢跡岩

  • 福井県清水町

矢疵石

  • 長野県小海町

矢研石

  • 福島県白沢村
  • 鳥取県岩美町
  • 長崎県上県郡上県町

矢置石

  • 岡山県高松町

的岩

  • 岡山県建部町
  • 熊本県阿蘇町

的場石

  • 福島県福島市

試石(岩)

  • 長野県北佐久郡
  • 福岡県遠賀郡芦屋町

にお岩

  • 福島県南会津郡檜枝岐村
  • 和歌山県岩出町
  • 長崎県対馬

八斗石

  • 奈良県吉野郡天川村

血引石

  • 岩手県遠野市

赤石

  • 岩手県種市町
  • 三重県伊賀町
  • 京都府宮津市
  • 和歌山県御坊市
  • 岡山県英田郡

ふいーとう岩

  • 沖縄県国頭郡今帰仁村

夫婦石(岩)

  • 岩手県雫石町
  • 宮城県加美郡
  • 宮城県仙台市
  • 宮城県角田市
  • 長野県上水内郡鬼無里村
  • 長野県東部町
  • 長野県上高井郡高津村
  • 長野県南佐久郡臼田町
  • 長野県諏訪郡平野村
  • 長野県下伊那郡波合村
  • 富山県東礪波郡井波町
  • 石川県津幡町
  • 福井県大野市
  • 福井県上中町
  • 岐阜県各務原市
  • 兵庫県三田市
  • 岡山県一宮町
  • 岡山県成羽町
  • 愛媛県北条市
  • 福岡県前原町
  • 福岡県大牟田市
  • 大分県大分市
  • 宮崎県小林市
  • 長崎県大村市
  • 長崎県下県郡豊玉村
  • 熊本県菊池市

爺婆石

  • 長野県塩尻市
  • 長野県臼田町
  • 島根県羽須美村

雌岩雄岩

  • 福井県池田町
  • 愛知県額田町
  • 岡山県一宮町

月石

  • 長野県塩尻市

口張石

  • 徳島県麻植郡木屋平村

人岩

  • 東京都八丈町

鉞石

  • 秋田県大館市

盗人岩

  • 長野県生坂村
  • 兵庫県山崎町
  • 岡山県柵原町

がんどう石

  • 長野県小海町

聲石

  • 愛知県旭町

鬢垂石

  • 長野県塩尻市

馬盥石

  • 長野県丸子町

穴一石

  • 新潟県分水町

鉾立石

  • 静岡県富士宮市
  • 滋賀県長浜市
  • 岡山県津山市
  • 福岡県御幸町

笏立石

  • 三重県度会郡

旗立石

  • 長野県南佐久郡臼田町
  • 静岡県松崎町
  • 静岡県焼津市
  • 兵庫県神戸市兵庫区
  • 兵庫県三田市
  • 広島県府中市

物見岩

  • 長野県諏訪郡
  • 静岡県静岡市
  • 愛知県北設楽郡設楽町

思案石

  • 神奈川県相模湖町
  • 山梨県東山梨郡大和村

福石

  • 神奈川県江島下宮
  • 神奈川県横浜市金沢区

念仏石

  • 京都府相楽郡木津町
  • 福岡県早良村

座頭石(岩)

  • 山梨県甲府追手先
  • 愛知県北設楽郡設楽町東納庫

聖石

  • 岡山県苫田郡勝部村

焼餅石

  • 長野県塩田町

団子石

  • 福島県小野町
  • 山梨県双葉町
  • 福井県福井市


2020年4月19日日曜日

弁慶石(京都府京都市)


京都府京都市中京区弁慶石町

京都市内の繁華街に今もあり、弁慶石町の地名由来となる石。
新京極通(南北)と寺町通(南北)の間の三条通(東西)の道沿い、ビルの敷地の裾に隠れるようにたたずむ。



弁慶石の沿革を、伝承に沿ってまとめてみよう。


  • 武蔵坊弁慶が生前に大切にしていた石。
  • 弁慶の死後、石はそのまま奥州高館にあった。
  • やがて、この石が「三条京極に行きたい(三条京極は弁慶が幼少に育った所という)」と発声鳴動し、付近に熱病が蔓延し人々は畏怖した。
  • そこで享徳3年(1454年)、この石を三条京極に安置した。


ポイントは、石自体が明確な意思を持って霊力を発動していること。
それに対して、当時の人々が畏れを抱いており、「安置」という祭祀行為により鎮撫している。

弁慶という人物は後世の語りによって、伝説的な聖者と化している。
その聖者の元来は愛玩石に過ぎなかったものが、死後、聖者の痕跡となって聖性を帯びた。
聖性を帯びた結果、石自体が意思をもつ主体的存在に成長した、あるいは、元々意志を持つ石だが弁慶の個人的な愛玩により神聖視の域に至らなかった石が、死後、周囲の者からは神聖視されたと解するべきか。

もちろん、弁慶伝説を残す旧跡は全国各地無数のようにあることを考えると、弁慶石の伝説も後世の付会と考えるのが自然であるが、伝承上における人々の岩石に対して込めた歴史物語は、伝説創造時の人々の心理の投影であり、その意味で歴史資料たりうる。

現在はどうかというと、弁慶石の周りを河原石で敷き詰め大切にされていることは間違いないが、それは祈願の対象としての扱い方ではなく「旧跡名所」的な保存のされ方である。
実際、賽銭箱・線香・鎮花などの祭祀行為を示すものはなく、唯一、石碑と銘板を建ててこの石が町名の由来である啓発行為が見られるのみである。

どうやら弁慶石は当地の安置によりおとなしく鎮まったようであり、祭祀の必要はなくなり、 現在は町の歴史を偲ぶ記念物になったのだと考えられる。

参考文献


  • 竹村敏則 1984 『洛中』(昭和京都名所図会5) 駸々堂出版


2020年4月13日月曜日

日向大神宮の影向石と天の岩戸(京都府京都市)


京都府京都市山科区日ノ岡夷谷町

京都市山科区の最北端である日ノ岡地区に日向(ひむかい)大神宮が鎮座する。左京区にある南禅寺のすぐ南に位置すると言ったほうが外の人間にはわかりやすいかもしれない。

社伝では顕宗天皇の治世期に、日向高千穂峯の神蹟を当地に遷したのが起源で、天智天皇はこの山を「日御山(または日ノ山)」と呼び、清和天皇の治世期に当社が勧請されたという。

天孫降臨神話にまつわる当社は主祭神を天照大御神に仰ぎ、いつの頃からか伊勢神宮に倣い、内宮と外宮から神域が整えられた。
京にいながら伊勢神宮の代参所として一円の人々に重用されたことから、「京のお伊勢さん」の異名も誇っている。

日向大神宮の内宮

天智天皇が日御山(日ノ山)と呼んだ当山は、現在、神明山と呼ばれている。
この神明山の尾根続きの東奥には大日山がそびえ、こちらは別称・東岩倉山といい、桓武天皇が京の四方に経典を埋納したという「四岩倉」のひとつ「東岩倉」があった場所や、行基が東岩倉寺を開基したなどの伝承地である。

祭石 影向石


内宮の拝殿の左横に、高さ1m程度の立石に注連縄が巻かれているのが目にとまる。
「祭石 影向石」と標示され、影向は仏教用語ながら、神聖な存在を顕現させた岩石の旧跡であろうことが窺われる。



私感を述べるなら、内宮の玉垣に接する形で端に寄せられている様子が見受けられ、「内宮>影向石」の上下関係を匂わせる。

すなわち、影向石は当社の祭祀において中心的な場、ないしは歴史的な根源地というより、内宮の付随的な存在または歴史的に後世的な施設なのではないかと感じさせる。

天の岩戸


内宮拝殿から左に、南禅寺のほうへ抜ける山道が続いている。
その道を少し歩くと「天の岩戸」と名付けられた岩穴に出会う。


岩穴といっても自然のものではないようで、掘り方が同じ高さ、同じ幅で続いており整っている。人工的に岩盤に穴を穿っていることがわかる。
内部には戸隠神社の祠がまつられている。


トンネルのように山の岩肌を貫通しており、この岩戸をくぐれば開運厄除の霊験があるとされている。

いつの頃に掘られた洞穴なのかは情報収集不足だが、岩戸くぐりの霊験は多分に仏教霊場における胎内くぐりの要素が見られ、影向石と同じく近世の神仏習合の文化を色濃く残していると言える。

天の岩戸に擬せられたのも、「京のお伊勢さん」としての聖跡が希求されたことに端を発した可能性があるだろう。

参考文献


  • 竹村敏則『南山城』(昭和京都名所図会7)駸々堂出版 1989


2020年4月12日日曜日

伏見稲荷と稲荷山の岩石信仰(京都府京都市)


京都府京都市伏見区深草藪之内町~稲荷山

お山参り・お塚祭祀


伏見稲荷大社の存在で著名な稲荷山。
稲荷山において特徴的な祭祀に「お山参り」がある。

山麓の社殿だけを参るのではなく、その後ろの稲荷山(標高233m)に存在する数々の神跡も巡る。
今でも、伏見稲荷を信奉する稲荷講の方々を中心にして、一般の参拝者や観光客の多くも山中へ足を踏み入れている。

山中には、至るところに立て並べられている石碑を無数に見ることができる。これを「お塚」と呼んでいる。

稲荷山御膳谷における「お塚」群

「お塚」は山中におよそ1万基あるらしいが、これらのほとんどは幕末から明治時代にかけて、参拝した個々人が設置したものという。神社側は当初認めていなかったようだが制止しきれず、現在あるものについては聖地として容認されている。

厳密に言うと神社が設置した「お塚」は、稲荷山の一の峰、二の峰、三の峰をはじめ、長者社や御膳谷など7ヶ所の「神跡」ポイントだけになる。

一の峰

二の峰

三の峰

このような「お塚」はどのような性格のものだろうか。
社務所発行の『伏見稲荷大社略記』によれば「これらのポイントこそは、かつて大神様をお迎えし、おまつりを行ったところと信じられて来た」と記されている。

石に神名を刻んで山中に置くことで、そこが神と参拝者の交流場となるという理解だろう。

ここからわかるのは「お塚」は神そのものではなく、神を「迎えて」そこで祭祀を行なった場所だということである。
神の迎え方と石の関係にははっきりしないところがある。石上に神が降臨する図式なのか、石に神霊が憑依する図式なのか、石そのものに姿を借りず石の手前に神霊がやってくる図式なのか、諸々の迎え方パターンが予想される。
おそらくであるが、これは信奉者によってグラデーションが分かれるところだったのではないかと思う。

現在は、山麓の本宮にすべての主祭神が常在しているわけであるから、わざわざ山中において改めて神を呼び寄せる必要はない。
それでも、今もお塚祭祀が活発に行なわれているところを見ると、人々は構図や図式に囚われて理路整然に祭祀をするのではなく、時間の経過の中で混然一体となったあらゆる聖地をすべて包括的・重層的にまつりつづけるところにある種の列島性を感じざるをえない。

奥社の奉拝所にまつられた岩石


奥宮(奥宮とは言うが、何のための社殿か諸説がある)から続く山道を進むと、名前が似ているが奥社(奥の院とも)というまた異なる社殿が鎮座する。

奥社は、本宮の奥の宮的存在のようであるが、ここから稲荷山を遥拝するための「奉拝所」とされている。奥社の参拝方向の延長線上に稲荷山の山頂が位置する。

奥社は木造建築の拝所であるが、拝所の奥に、露天で幾多の小鳥居や壇に囲まれて高さ1m弱の立石状の岩石が1体置かれている。
この岩石の名称を調べたが特定できず、石を含めて「奥社」「奉拝所」とみなしたい。

奥社 奉拝所(写真中央に岩石がある)

奥社の「おもかる石」


奥社には「おもかる石」もある。
見た目は普通の石灯籠が2つ並んでいるだけだが、その一番の上の石(空輪)のことを「おもかる石」と呼んでいる。


いわく、石灯籠の前でまず願い事をし、その後におもかる石を持ち上げた時、予想していたより重ければ願いは叶わず、予想よりも軽ければ願いは叶うという。
この点は、全国に類例数多ある重軽石信仰と同様である。

御膳谷の御饌石


奥社から「三ッ辻」「四ッ辻」を経て、山をしばらく登っていくと「御膳谷」と呼ばれる谷に差し掛かる。この谷は、山頂の一の峰と二の峰の両方の尾根に挟まれて形成されており、奥社と同じように御膳谷も奉拝所の1つとされている。

御膳谷にある祈祷殿の裏に1体の平石が安置されている。これを御饌石といい、この石を用いて「山上の儀」という祭祀儀礼が今も執り行なわれている。

御饌石

具体的には、酒を注いだ素焼き土器70枚を御饌石の上に供え、神に生産豊穣を祈るという祭儀で、この内容は社殿建築以前の古態を伝える貴重な祭儀例として重要視されている。

この御饌石の機能を見てみると、石の上に供物を置くという供物台としての役割を担っている。
供物台は、神がその場所なら捧げ物を受け取れるということを示す、祭祀空間の中でも特別に「神に近い」空間でもある。
その意味で供物台として使われる岩石は、それ自体は磐座とは異なる役割の岩石だが、岩石のすぐ奥には信仰対象がいることを自明するという点において、祭祀空間の中でもほぼ神のテリトリーであることをあらわすものでもある。

ちなみに御饌石の前には、祭祀を行なう神職者専用の台座石が併設されている。こちらも「ここが神聖な行為をする人間だけに許された空間である」ということを示している。

御饌石とその手前の台座石

長者社神跡の剱石と雷石


御膳谷からさらに登ると、山頂近い山腹に「長者社神跡」がある。
長者社は伏見稲荷の司祭者である秦氏の祖神を祀った社で、ここはその最初の社があった神跡として伝えられている。

能楽の「小鍛冶」の舞台であり、「ここの土を焼刃に利用し刀を作れ」との神託を受けて名刀が完成したという鍛冶職人の聖地としても知られる。

長者社神跡には御剱社が鎮座しており、社殿内には「剱石(けんいし/つるぎいし)」という岩石がまつられているという。明治10年頃に剱石をまつるための社を新設し、昭和30年以降は社の門扉を閉ざしたままというので内部の剱石の姿を拝むことはできないが、その名が示すごとく剣に似た形状という。
先述の鍛冶伝説にちなみ、鍛冶・金物関連の霊験を持つ岩石として信仰されている。

京都新聞の取材(1998.11.7「岩石と語らう」33)では、剱石の姿を知る人によると、剱石は人の丈より高いもので、緑がかった剱状の岩だったらしい。
このことから、剱石は小石程度のものではなく、ある程度の規模の自然岩の周りを社で取り囲ったものだと類推される。

一方、剱石のある御剱社のすぐ裏には「雷石(らいせき)」と呼ばれる巨岩がそびえており、こちらはすぐに目がつく。自然岩盤から隆起した巨大な岩である。
こちらは目視できるので、この雷石を剱石と勘違いする方も多そうだが、両石は別のものなので注意されたい。

「現在は、剱石は社の中にあり、外からは雷石しか見ることができないため、雷石が剱石と誤って紹介されることもある。『しかし、そもそもの信仰は、雷石から始まったようです』と伏見稲荷大社宣揚部は話す。」(「岩石と語らう」33の記事より)

雷石(左側)と御剱社(右側。社殿内に剱石がある)

この雷石であるが、由緒書においても「長者社の神跡が残る霊地である」「古くからの神祭りの場と思われる」など、曖昧な説明にとどまっている。

唯一具体的な伝承として、享保17年(1732年)に編まれた『稲荷谷響記』の中に大略「古老が伝えるには、昔ここで激しい雷が落ち、神が呪文を唱えこの岩に雷を縛った(封じた)」という記述が載っている。
この記述から、雷岩がその名の通り雷に関係のある信仰を有していたことは異論のないところだろう。

雷が降臨したという部分を見ると、この岩は雷神の磐座のようなものと解されるが、一方で神がここに雷を縛った(封じた)という部分を見ると、爾来この岩には常に雷が宿っているということになり、現状としては常に石に神宿る状態にも見受けられる。
上記の点から、雷石は最初の1回目だけ遠地から神霊が岩石に降臨し、その後はそのままに岩石に常時宿る石神となった「一度きりの磐座→石神」パターンの事例ではないかと考えられる。

なお、山上伊豆母氏(帝塚山大学名誉教授)は、雷石以外にも稲荷信仰には雷に関わる情報が多いことを指摘し、稲荷山信仰の源流に雷神信仰があったのではないかという考えを述べている(山上1986年)。

剱石と雷石の関連については、先出の京都新聞の記事によれば、稲荷山を描いた最古の図「山上旧跡図」(1531年)には両石の存在が記されており、それぞれ共に中世にさかのぼりうる存在だったことがわかる。
また、伏見稲荷大社宣揚部の意見では、元々雷石と剱石は両者一体の岩石信仰だったものが、後に剱石だけ鍛冶伝説関連の岩石として独立したのだろうといった要旨の見解を述べている。

大岩大神と「力お大明神」について


代表的な参拝順路からは外れる稲荷山南東部に、大岩大神という場所があることは把握していた。

地図に従ってしばらく歩くと、それらしいものが見えた。岩盤が露出しており、その横に小鳥居や幣帛が置いてあり、聖地としてまつられている様子がうかがえた。


ここには「力お大明神」という石碑が建っていた。探訪時、私はこれを大岩大神の別称でここが大岩であると勘違いしていたが、大岩大神はまた別の聖地だった。

大岩大神、力お大明神ともに詳しい沿革は調べ切れていないが、またの機会に再訪したいものである。

四ッ辻


四ッ辻には大規模な露出岩盤が見られる。
別に神聖視はされていないようだが、神職者や稲荷講はもちろん、稲荷山を詣でる人々にとっては、四ッ辻と言ったらあの露岩、というランドマークになっていることは想像に難くない。


参考文献


  • 伏見稲荷大社社務所編『伏見稲荷大社略記』(第15版)1996年
  • 伏見稲荷大社社務所編『伏見稲荷大社パンフレット』
  • 山上伊豆母「伏見稲荷大社」 谷川健一編『山城・近江』(日本の神々-神社と聖地 第5巻)白水社 1986年
  • 京都新聞社会部・地域編集部「伏見稲荷大社の剱石と雷石」(京都新聞「岩石と語らう」33)1998.11.7
  • 大西親盛『稲荷谷響記』上巻 1732年(神道大系編纂会編、小島鉦作・中村一紀校注『神道大系 神社編9 稲荷』に所収)
  • 伏見稲荷大社公式サイト
  • 現地解説板


2020年4月11日土曜日

知恩院の岩石祭祀事例(京都府京都市)


京都府京都市東山区林下町

法然が説法を行なった場所で、現在は浄土宗の総本山。
知恩院の境域に分布する岩石祭祀事例を紹介する。

知恩院

瓜生石


瓜生石。融雪剤の置き場となっていたのが印象深い。

知恩院の七不思議とは「鴬張りの廊下」「白木の棺」「忘れ傘」「抜け雀」「三方正面真向の猫」「大杓子」「瓜生石」を指す。
瓜生石は黒門の前の道の真ん中に柵で囲われている岩盤であり、意識しなければ誰も目に留めないような存在感だが、込められている伝説は豊富である。


  • 知恩院が作られる以前から存在していた岩石という。
  • 誰が植えたわけでもないのに、瓜生石の上に瓜のつるが一夜にして繁り、実がなったという。
  • 瓜の上には「感神院新宮」(現・粟田神社を指す)と記された金札が置かれていたという。
  • 瓜生山に降臨した祇園の牛頭天王が、瓜生石の上にも降臨して瓜を実らせたという。
  • 瓜生石の地中には、二条城への抜け道が隠されているという。


瓜が実るという「産み」の性質を持ち、神札や牛頭天王の降臨石としての伝承を持つ。これを受けて、粟田神社では毎年9月14日の丑の刻に、神列が瓜生石の周りを三回回る「れいけん」という祭祀が行なわれた。

影向石



勢至堂向かって右側の崖下の岩盤。法然が臨終を迎えた時、加茂明神がこの石の上に降臨したと伝えられる。

慈鎮石


手前左下の四角い石が慈鎮石

有料の方丈庭園内にあり、別称「慈鎮坐禅石」「和尚石」。
慈鎮(慈円)和尚の座禅石と伝えられ、元々は山門の前にあったが天和年間(1681~1684)に現在地へ移され、庭園の一角を彩る庭石となった。
門の前にあったという点で、瓜生石と類似したものを感じさせる。

二十五菩薩の庭



知恩院所蔵「阿弥陀如来二十五菩薩来迎の図」をモチーフに作られた石庭で、石が仏菩薩、植え込みが来迎雲を表している。
臨終の際に念仏を唱えればこのような来迎に預かれるという教えに基づいている。

三尊石



方丈庭園の奥にある山亭庭園の北西隅に配された庭石のこと。阿弥陀三尊を表現するという。京の町並みを遠望できる好立地にある。

仏足石


唐門奥の非公開の空間内に存在する。
大理石製。仏足石の多くは平置きされているが、当地の仏足石は立ててあるのが特徴だという。

参考文献


  • 竹村俊則 『洛東下』(昭和京都名所図会2) 駸々堂出版 1981年
  • 浅木結・倉橋みどり・首藤真沙保 『知恩院散策記』 浄土宗総本山知恩院 2009年
  • 現地看板


2020年4月5日日曜日

山添村の岩石信仰(奈良県山辺郡山添村)



2002年時点の記憶に基づくため各地点の位置は必ずしも正確ではない。

はじめに


2002年9月13日~9月18日の間、奈良県の北東部、三重県と境を接する山添村で岩石祭祀事例を集中的に訪れる機会があった。
探訪前は、『山添村史』などの郷土資料をかじった程度で10例弱しか把握していなかったが、地元の方の助けもあり、現地で読んだ郷土資料や聞き取りで新たに知った事例は数多く、石造物や所在未確認も含めて最終的には約80例に上る事例数を知ることができた。

『岩石を信仰していた日本人』で提示した岩石祭祀の類型分類の基本型が確立したのも、この山添村の事例群をどう理解するべきかと向かい合った結果の産物だった。
このように、私の岩石信仰の研究において山添村の事例群からは教えられることが多々あった。

かつて旧サイトにおいて2002年~2003年の半年間にわたり、山添村の各事例の探訪報告を32個の記事に分けて掲載してきたが、このたび、それらを改めて1ページに凝縮して加筆修正のうえで収録しておく。おおよそ村の東から西の順番で紹介していこう。

本ページの情報の多くは2002年時点のものであることをご了承いただきたいが、その後山添村で広がった「イワクラ」啓発運動以前の岩石信仰に関する情報まとめとしても貴重だろう。

山添村の大字の位置


遅瀬 八柱神社の露岩群

所在地:山添村遅瀬 

山添村の北東端の集落・遅瀬の鎮守。 
山添村では、牛頭天王の信仰が古くから定着しており、八柱神社は須佐之男命の生んだ五男三女をまつる神社として、当地の牛頭天王信仰をあらわしている。
山添村には遅瀬地区と片平地区に八柱神社があるので、便宜的に前者を遅瀬八柱神社、後者を片平遅瀬神社と呼ぶ。  

遅瀬の八柱神社は、背後に比高差50mほどの里山に抱かれて鎮座している。
社殿の東隣を見ると、岩石の露頭を数点確認できる。そして、社殿の裏の方にも岩石の群れが見える。
玉垣によって直接、岩石群には触れられないようになっており、また、まるで岩石群の密集している所に社を建てたかのような感も見受けられる。


神社の裏山に登ってみると、神社から山頂までをむすぶ尾根上に、約5体ほどの自然石が地山から露出しているのを確認できた。
後日入手した遅瀬の地図(1500分の1)を参照すると、この裏山の随所に岩石の露頭があることが図化されていたが、その中でも、八柱神社から山頂の間の山腹斜面上に、岩石群が集中的に分布していることは注目しても良い。
ただ、この岩石群にまつわる伝承や記録は現時点では一切入手できていない。
岩石群と八柱神社をつなげる要素も、せいぜい「岩石群に隣接して社殿が建てられている」といった立地状況だけであり、直接的な信仰的証拠を提示できない以上は、岩石信仰の事例であると積極的に押し出すことは差し控えるべきだろう。
粛々と記録だけ残しておくこととしたい。

遅瀬 十三磨崖仏

所在地:山添村遅瀬

山添村には多くの石仏・磨崖仏が残っている。遅瀬地区の「十三磨崖仏」もその一つ。 
幅2m・高さ1.5m程の自然石の表面を滑らかにした上で、その表面に2つの方形区画が刻まれている。そして、左側の方形区画内には6体の地蔵、右側の方形区画内には13種の菩薩が26体彫刻されている。さらに仏の性格を表す梵字が、それぞれの仏像に刻まれている。製作年代は室町時代後期と推定されている。


摩崖仏は、自然石を利用して信仰者自らが信奉する信仰対象を刻んで可視化した、半自然・半人為の岩石信仰と理解したい。

乞食岩 

所在地:山添村遅瀬

遅瀬地区に、名張川と遅瀬川が合わさる合流点があり、そこから少し東へ行った名張川河岸に「乞食岩」と呼ばれる場所がある。
今は上流のダム建設によって、普段、岩の大部分は水面下に沈んでいるのだが、水が引いている時は岩の上部が姿をあらわす。

奥側の岸辺に隆起する岩礁が乞食岩という。

乞食岩は、成因的には川沿いに集まる自然岩の中の一つであるが、三角形状の目立った形状をしており、岩の上面には大きな穴があいている。

乞食岩の名の由来は、この川辺に住み着いていた乞食たちが、この岩の上面にあいた穴に水をため、川魚のいけすとして使用していたことから呼ばれたといわれる。
つまり、川原乞食の生活場所の象徴として乞食岩は位置付けられており、特別視の対象でこそあれ、信仰・神聖視としての対象ではなく、けっしてプラスイメージの付与された場所ではない。
伝承を有する岩石の中でも、乞食岩のようにネガティブの記憶を込める岩石の事例というものも存在するということである。

東山の天狗岩

所在地:山添村遅瀬

『村の語りべ』(1996年)によると、遅瀬地区には「天狗岩」と呼ばれる岩があるらしい。 
遅瀬に東山という山があり、そこにはむかし天狗が住んでいたという。ふもとに住んでいた仏僧がその天狗から剣術を教わったというが、その天狗があるとき4畳半ほどの岩石を3つ重ねたということで、天狗なきあと、この岩石が天狗の聖跡として天狗岩と呼ばれるようになったと伝わる。

私はこの天狗岩を実見できておらず、「東山」がどの山を指すのかもわかっていない。

神波多神社

所在地:山添村中峰山

神波多神社は山添村の中峰山地区の鎮守であるばかりでなく、村全体でも「波多の天王さん」として崇敬を集めている。
「天王さん」とは牛頭天王を指し、山添村で盛行する牛頭天王信仰の中枢とも言える。
また、『延喜式』の臨時祭で畿内の境十ヶ所にまつった疫神のうち、大和国と伊賀国の境に祀られた疫神であるとされている。 

山添村いわくら文化研究会からいただいた情報によると、神波多神社には「鏡石」という岩石があるというが、私は現地で鏡石らしき岩石を特定することができなかった。

神波多神社境内。ブルーシートで覆われていた。

この鏡石は、拝殿と向かい合うように残っているらしい。後日、会提供の資料に写真(大正時代の絵葉書の写真とのこと)が載っていた。
拝殿のすぐ手前は藪が生い茂る斜面になっているが、大正時代の写真では周りに草がなく、おそらくその藪の中に隠れているのではないかと思わせる位置だ。 
写真で見る限り、鏡石は三角形状の自然露頭で、高さは人間の身長より低い。

また、神波多神社境内には「山神」や「庚申」の石碑が建つ。下津地区の吉備津神社境内、峰寺地区、桐山地区など、山添村内で多く見られるもので、近世を遡らない石造物である。

神波多神社境内の「山神」石碑

神波多神社境内の「庚申」石碑

これらの石碑は、本来的には不可視の信仰対象や信仰心という概念を、信仰者にとって継続的にまつりやすい場所に「目に見える存在」として岩石の形であらわしたものである。

石碑であるから信仰対象そのものではなく、祭祀の際の目印としてサブの存在として設置されたものには違いないが、これらの石碑が「岩石」という実体をもつために、後世に即物的な神となりうる事例も見られる。
たとえば山添村吉田地区には「庚申さん」と呼ばれる自然石がある。庚申は本来目に見えない信仰世界であるが、岩石がありそれ自体を「庚申さん」として愛称をもって呼んでいる。実体のなかった霊的存在が、目印だったはずの岩石に実体を代えて後世、信仰の本体として転化した例として指摘できるのではないだろうか。

舟岩

山添村中峰山オクヤデ

小字オクヤデの山中に舟岩がある。その名が示すとおり、大小の岩石が群集して船形の形状を見せており、高さ3mほど、幅10mほどの長さを測る。

写真中央の白く照らされているのが舟岩

言い伝えによると、大昔、名張川の上流から船で下ってきた素戔嗚命が、この地で船から降り、その船が石化したのがこの舟岩だという。
また、異伝では神功皇后が三韓征伐を行なった際に、乗っていた船が石化したものともいわれている。
いずれの伝承も記紀神話のモチーフを借りた内容であり、船形の自然石を見つけてこれを神秘的だと思った人々が、岩の出自を記紀に拠ったものか、元々は村独自の独自的伝承を持っていた岩石が、後世に記紀神話体系の中で再編成されたのかはわからない。

ちなみに、舟岩の近くに山之神をまつる石碑が残っている。本例は、山之神の石碑の周りを木造の社祠で覆っており、本殿内の御神体のような位置づけになっていることが興味深い。

山之神の石碑

さらに、舟岩の近くに「地蔵岩」という岩石があったり、中峰山には「十市姫の岩」「大師岩」といった名前のついた岩石が複数報告されている(山添村いわくら文化研究会情報)。

大亀石

所在地:山添村中峰山

山添村いわくら文化研究会提供情報の岩石。
中峰山地区の、舟岩がある場所から東北東へ約200mの地点に「大亀石」がある。いただいた2500分の1の地図に「大亀石」の位置が落としてあり、立地は谷状地形の山腹で、道も踏みならされたの林道の先にあると聞いている。
実見はしていないので深くは語れないが、地元の年配の方の談によると、横から見た姿が亀に似ていることから大亀石の名があり、岩のの亀裂の中から、神波多神社の祭神が出てきたという話があるらしい。

岩石の規模は30m以上×15m以上という巨大なもので、岩の亀裂は長さ約5mで、洞窟のような室状空間を形成しているそうだ。身をくぐるようにしないとは入れないらしい。
資料批判はできていないが、他の情報がないのでここに積極的に報告しておく。

大川遺跡対岸の治田大川地蔵磨崖仏

所在地:山添村中峰山~三重県名張市

大川遺跡(おおこ いせき)は、山添村の中峰山地区において、名張川沿いの河岸から見つかった縄文時代草創期の集落遺跡である。
この遺跡から出土した遺物は数多く、土器では大川式土器として近畿地方のこの時期の指標土器となったほか、石器は縄文時代最古級の遺物群として重要視されている。

この大川遺跡がある名張川の対岸は三重県名張市の行政区であるが、名張川の河岸岩壁の岩肌を磨きあげ、その表面に大きな仏を刻画した摩崖仏が残る。

治田大川地蔵磨崖仏を対岸より撮影(写真中央)


岩尾神社

所在地:山添村吉田小字岩尾

吉田地区の鎮守。社殿の周辺に数体の巨岩群が集まっており、祭神である岩尾大神の御神体として位置付けられている。


これらの巨岩群は、大神がこの集落に婿入りした時の名残だといい、次のような伝説が残っている。

吉田地区には元々氏神がいなかったので、集落の氏神をお招きしようと村人総出でまつりの場を設けようとした。すると、伊賀の方から黒曇がやってきて空を黒く覆い尽くし、やがて大きな轟音が鳴った。
轟音がおさまり村人たちが目を開けると、まつり場の後方に巨大な岩がいくつも転がっていた。村人たちは、これらを「伊賀の神が集落の神としてやって来てくれた証」で、岩は「そのとき神が持ってきた荷物」と考えた。
この伝説は、集落に「神の婿入り」があったという説話として語り継がれている。

岩石群は伝説に忠実に解釈するなら「神が持ってきた婿入り道具」であり、神聖視されるべき聖跡ではあるものの、神そのものではないようだ。
とはいえ、伝説の大要は「村人が祭祀を行なったところ、遠地の神が降臨した」であり、多分に磐座的要素も認められる。各種郷土資料の記述に「岩尾神社の御神体」とあることとも矛盾しない。

岩尾神社境内でも最も目に付くのは、社殿裏にそびえたつ2体の巨岩である。社殿に向かって左側の岩石が「長持石」、右側の岩石が「つづら石」と呼ばれている。いずれも神の荷物としての名称である。



右側の「つづら石」には、岩石の表面に十字架状にクロスした白い筋が確認できる。視覚的な神秘性が強い特徴で「神が荷物を背負ってきた時のタスキの跡」と信じられたが、鉱物学的には、これは長石の層が直線状に集まったという説明がついている。
「婿入り道具」伝説が生まれたのも、この岩石の長石層がそうさせたのかもしれない。

また「つづら石」の上面には馬の蹄を想起させる窪みがあるという。巨岩のため上面が見えず未確認だが、これは神が降臨したときに乗っていた馬の蹄の跡と伝えられる。
一方の伝説では「神の荷物」なのに、もう一方では「神の聖跡を残した岩石」という風に、異なった伝承をもつあたり重層的な歴史があったものと推測される。
『波多野村史』(1962年)の中では、岩石の形状から、左側の「長持石」は「陽石」、右側の「つづら石」は「陰石」の性質を持っていたのではないかと言及している。ただ、この2つの岩を陰陽石とみる解釈に確固とした根拠はない。

さて、社殿の右手前にも2体の半球状の岩石が残っている。
向かって左側が「鏡台」、右側が「ハサミ」とされている。

鏡台(左奥)とハサミ(右手前)

他にも、神が休憩の際に水を飲んだという「石の水鉢」、「箪笥(タンス)石」「葛石」などが残っているように、この神社に存在する岩石たちの多くは「婿入り伝説」の影響色濃いネーミングになっている。

さらに、岩尾神社では「石売り行事」という奇祭が伝えられる。
内容は、16歳以下の少年が川原で拾った小石を参拝者が買い求め、その小石を神前に供えるという祭祀である。
石を媒体にした岩石祭祀であり、参拝者が直接石を川原で拾わず、少年から買うという一ヵ所経由するところに特徴があるだろう。

なお、岩尾神社の向かいに寺院があり、そのお寺の背後の山腹に「庚申さん」と俗称される自然露出の立石状の自然石が存在していることは「神波多神社の鏡石」の項で先述したとおりである。

片平 八柱神社の滝

所在地:山添村片平小字宮ノ谷

片平地区の氏神は、遅瀬地区と同じく素戔嗚命(牛頭天王)の三女五男を祭神とする八柱神社である。

八柱神社の社殿の背後に、高さ2丈(約6m)はあったという岩盤があり、そこを流れる滝を御神体としていたという。
信仰の中心は滝、すなわち水の神格であるが、それは岩壁を伝って流れるという点から、水は石を媒体にして流れるという精神性も垣間見え無関係ではない。

そこで、実際に片平の八柱神社を訪れたところ、社殿裏を見ても、少し岩肌が露出しているのは見えるが、滝が見当たらない。2丈あったという岩盤も見当たらない。
境内を探したが、結局、社殿裏にある渓谷状の地形と僅かな岩肌のみが、最も「岩と滝の痕跡」と呼ぶにふさわしいものだった。
社殿へ至る石段下の裾には、その滝から引いたと思われる井戸がある。井戸には板がかぶせられているので、水がどの程度湧き出ているのかは不明だ。

現地のこの状況を踏まえると、片平八柱神社の滝は、何らかの原因によって枯渇してしまい、岩盤は滝がなくなったことによって草や苔がむしり目立たなくなったのではないかという可能性が浮上する。
あるいは、社殿の背後とは文字通りの真裏ではなく、境内地から相当斜面を登った奥方にあるだけで、直接神社から仰ぎ見ることができないだけなのかもしれない。

片平 八柱神社境内


愛宕山の大岩

所在地:山添村広代

広代(ひろだい)地区に、愛宕山という山があるらしい。
『村の語りべ』(1996年)によれば「愛宕山の峰続きの道近く」に、高さ約3m、直径約2mの大岩があると書かれている。
言い伝えによると、この大岩は弘法大師が担いできた岩だといい、岩の表面にはタスキのような跡が残る。岩尾神社の直線状に集まった長石の層と同様の現象と思われる。

現時点で、この愛宕山の大岩に関する情報は以上であり、私自身は現地を特定できていない。
「愛宕山の峰続きの道近く」というのがどこに当たるのかも分からなければ、愛宕山がどの山を指しているのかも情報収集不足である。

山添村いわくら文化研究会の方の話によれば、広代地区にこの岩は実在することは確かなようで、道が草でぼうぼうらしいので、そこへ行くのは難しいらしい。この岩の名称としては「大師石」「豆腐岩」とも呼ぶそうだ。岩が豆腐のような形状をしていることから、その名が付いたとのこと。

菅生の三枚岩

所在地:山添村菅生

菅生(すごう)地区のメインストリート沿いに、通称「三枚岩」と呼ばれる、こんもりとした微高地がある。
小さな森のようで、実はその土に覆われた巨大な岩石の露頭で、板状の岩石が三つ並んで立っている。岩の奥には神祠の存在も確認できる。



この三枚岩に関する詳しい由来などは、郷土資料にもなぜか記述が見受けられず、よくわからない。
現地の方に話を聞くと、これが広代地区の愛宕山の大岩だという回答があったが、地区も岩の形状も違うので、それとは別物と思われる。

烏帽子岩 

所在地:山添村菅生

上津地区を河内川という川が流れる。その上流をたどると菅生地区に入り、その上流に「七淵」という淵(川の流れがよどみ、水をたたえている所)がある。
滝のようにどっと水が流れこむ淵というが、その淵の岸にあるのが烏帽子岩である。岩に関する他の情報(由来・規模など)は調査不足により不明。

天王さんと釜淵

所在地:山添村葛尾

葛尾地区を流れる名張川。集落の北限に当たるその川原に巨大な岩がある。その大岩の上には祠が設けられており、「天王さん」と呼ばれて信仰されているという。

伝説によれば、「神波多の天王さん」が名張川を渡ってきた時に休憩をした所がこの岩だという。
言い伝えによれば、名張川の「釜淵」と呼ばれる淵(この淵の中に岩盤があり、その上部は円状に陥没しているという。ここが天王さんの最初に出現した場所)から出現し、そこから名張川を下って中峰山地区で上陸したと伝えられる。
だから中峰山地区に天王さんを祀る神波多神社が勧請され、山添村牛頭天王信仰の中心地となっているのだと考えられている。

牛頭天王そのものは外来の信仰概念だが、名張川の淵から出現し、川を下って村に入ってきたという伝説の骨子は、村の神の性格を形作った重要な要素と言えるだろう。
葛尾の「天王さん」は、村の神が一時その足をとどめた(=霊性を伝存した)聖跡と位置付けることができ、かつ、現在はこの岩に祠が建てられているとの点を見ると、聖跡が聖地となりそこに社祠を建てたという流れを認めることができるだろう。

釜淵については下記「むらの語り部」ページが参考になる。

名張川の中峰山領、昔「大川の渡し」があった所から、100mほどの上流に釜淵という深い淵があります。その淵の中に大きな岩があり、その真ん中に直径2mほどの丸い穴が開いているので釜淵と言っています。昔の言い伝えに、天王様(神波多神社祭神)が出てこられた壺だといいます。大変不気味な淵なので、だれもその壺に入ったものはないといいます。

オニガツカのオニ岩と芋紡ぎ岩

所在地:山添村下津

下津の集落から遅瀬の集落へつながる峠の一帯を地元ではオニガツカと呼んでいる。
この峠道は、遅瀬川沿いに通っていて、その川に吉備津彦命をまつる「オニ岩」があるという。下津地区の氏神が吉備津神社であることを考えれば、この「オニ岩」は吉備の鬼伝説から由来する聖地であることがわかる。  
また、オニ岩の近くには、おばあさんが芋を紡いでいたという「芋紡ぎ岩」もあるとのことだが、両岩とも現地確認を果たせていない。

吉備津神社

所在地:山添村下津小字東浦

吉備津神社は下津地区の氏神である。下津は下西波多ともいい、南に隣接する上津は上西波多ともいう。

吉備津神社の祭神は吉備津彦命。吉備地方で横暴をふるっていたとされる鬼「温羅(ウラ)」に対し、ヤマト王権が征伐に派遣した人物であり、見事「温羅」を退治した暁として、神社の祭神としてまつられたことは、岡山県の吉備津神社を総本宮から端を発する伝説として知られている。
岡山県吉備津神社は裏山の「吉備の中山」にある諸々の岩群を聖地としているが、当社も神社背後にそびえたつ巨岩を神聖視している。当社は本殿を持たず、拝殿しかないため、巨岩は本殿代わりの存在とみなして良いだろう。

吉備津神社。社殿背後の社叢に隠れ気味だが巨岩が写る。


岩は高さ約6m、幅約10mを誇り、拝殿から拝礼する形となるので、みだりに巨岩の近くへ近づくことはできない。集落の方々がこの岩に抱く「畏れ」の高さが読み取れるようでもある。

また、当社境内には山之神の石碑が建てられており、石碑の前には木製祭具が整然と供えられていた。
山添村ではほぼ各集落において、山神を祀る施設として岩石を人為的に設けて、その前で山民の七つ道具を象った木製祭具を供えることで、山神の恩恵をいただこうとする祭祀儀礼が行なわれている(国立歴史民俗博物館 1985年)。

吉備津神社の山之神

山添村の山の神石碑については「神波多神社の鏡石」の項でその性格を検討したが、本例においてはどうだろうか。
「山の神」は、当然のことながら山に鎮まる神である。しかし、この石碑は麓たる里の宮に建ち、そこで祭礼が行われる構図だ。すなわち、この石碑は「山の神」の本拠地というより里側の祭祀場であり、石碑は祭祀する際の目印と解釈することができる。
とりわけ吉備津神社の山之神石碑は、岩石の形状・刻字ともに機械的なデザインで良い方は悪いが無個性的という特徴がある。ここからも、岩石の外見から霊性を認めることはできず、祭祀施設として視覚化するために岩石が素材として利用されたことを物語る。
その対比で考えると、石碑の裏に控える岩盤の露出のほうが気になる存在である。

なお、吉備津神社の周りには聖なる山が二つあり、一つは吉備津神社の北西に稲荷山という山があり神聖視されているという。もう一つは、たたり山という名を冠した大変禁忌が護られている山もあるとのことである。

カラブロ

所在地:山添村下津

下津地区の中心部を遅瀬川が横切っている。この遅瀬川を渡るため、下津地区には下津橋が架けられている。
その下津橋から少し上流の所に「カラブロ」と呼ばれる石がある。


外見はちょっと大きめの川原石にしか見えないが、なんとこの石、水をかけると温かくなるのだという。
石が温まることで水も温まるので、この石は「空風呂=カラブロ」として、地元の人々に語り継がれてきた。

川の中に入らなければカラブロに触れないので、実際にその石に水をかけて実見すること能わず、言い伝えどおりなのかどうかはつきとめなかった。
もちろん重要なことは、この石が「熱という動的な力を発する」とみなされ一定の支持をもつにいたった、その心理にある。
これは一種の「超自然的な力」と捉えることができるが、村人がそのようなカラブロに対して畏れや信仰心を抱いていたかという問題もある。

この点を考える材料として、以下の事実が参考になる。
話によると、カラブロはもともと川の真ん中にあったが、下津側上流に上津ダムを建設したことにより、カラブロが川の底に沈んで水面上に現れない可能性が出てきた。そこで、村人はカラブロを川の縁の方へ少し移動し、カラブロの沈下を防いだのだという。 

この事実から分かることは2点。
  1. 村人がカラブロを大切にしているということ。
  2. カラブロは人為的に動かされる運命となったので、「カラブロ=客体」「村人=主体」であること。
第1点から、カラブロは「特別視」以上の認識を与えられているものの、第2点を考え合わせると、カラブロは「畏敬的信仰」の対象ではないとも言える。
畏敬的信仰の対象ならば「カラブロ=主体」「村人=客体」となるだろう。
そうではなく、カラブロはもうすこし親近的な信仰の産物だった可能性が高い。そもそも、カラブロの霊力は人間にとって有用でなければ信仰の対象として意識が向けられにくいので、超自然的な石だったとしても、必ずしも信仰・祭祀の対象となったとは限らないことにも注意したい。

狐岩

所在地:山添村上津小字ハジカミ

狐岩は12畳(約20m×約10m)ほどの巨岩であり、言い伝えによれば、この岩の上に古狐が座っていて、村に異変があると村人に事前に知らせてくれたという。
古狐は、村の異変を事前に知ることができる存在であるから、それは普通の人にはできない超自然的行為であり、古狐は超自然的存在として神聖視の対象だっただろう。
一方、狐岩は古狐が座っていた場所であり、狐岩自体が霊威を発動したというわけではない。岩自体はその点で霊性をもたないが、古狐がいなくなった後も、狐岩があったことで、いつまでもその伝説が村人によって語り継がれていった側面もある。

以上を踏まえると、狐岩は聖跡に近いが、聖跡型は超自然的存在の霊性が伝存し、その岩石自体も同等の霊性を宿すようになった存在である。狐岩は、そのような霊性を宿しているとまでは言えず、記憶装置(記念物)としてあると考えたほうが適切だろう。

ただしこの狐岩は、上津ダムの建設など、村の開発の中で消滅したといい現存しない。上津の神社の社務所に、狐岩の往時の姿を映した写真が残っているそうだが未見である。
村北西の布目ダムの建設に際しても、多くの石仏が水没の憂き目にあったが、これらの石仏は原位置から動かされ、標高の高い場所へ移設されている。下津のカラブロも村人の手によって、水没の危険がない場所へ移設された。
それに対して狐岩は移転措置はとられなかったわけであるが、それは狐岩が神聖視の領域に入らない記念物だったからなのか、単に巨大すぎて物理的に運搬できなかっただけなのか、自然石だから岩だけ切り離して動かしても無意味であるとみなされたのか、その理由は今となっては不明である。

毛原廃寺跡 六体地蔵

所在地:山添村毛原

毛原廃寺は、毛原地区にかつてあったが現在は礎石しか残っていない廃寺である。
毛原廃寺は、その存在がいかなる古文献に記載されていないらしいが、明治時代の終わりの頃に調査が行なわれた結果、金堂・中門・南門など、寺院を構成する各種施設の礎石が確認され、その建築様式から奈良時代にまで遡る寺院と推定され国指定史跡になっている。

毛原廃寺

さて、そんな毛原廃寺にある磨崖仏が毛原廃寺跡六体地蔵である。この磨崖仏は毛原廃寺がまだ寺院として機能していた頃の産物ではなく、廃寺になった後になって、その跡地にあった自然石に彫刻されたものと考えられている。
高さ1m弱の整った板状の自然石で、平坦な表面に磨きが入れられている。その平坦な表面に六体の地蔵を横並びに浮き彫りさせており、『山添村史』によれば室町時代後期の製作とされている。  

大師の硯石

所在地:山添村大塩

山添村の最高峰・神野山の北西麓に広がるのが大塩地区。大塩集落の中心部から神野山に向かう森の中に「大師の硯石」が存在する。  「大師の硯石」は縦×横=3m×4m程の幅を持つ岩石で、石の上面には三角形状の窪み(深さ20cm程)が見られる。
その窪みには水が溜まっており、これは弘法大師の恵みがなす「塩水」だという。

大師の硯石

頂面の窪みに溜まった水

山添村は海から遠く離れた内陸部なので、塩を自給自足することができない。よって、たびたび塩の獲得に苦労していた。
この地にやってきた(といわれる)弘法大師が、そういった集落の人々の実情を見かねて、村人たちが永久に塩に困らないようにしようと考えた。そこで大師は、手に持っていた杖で岩を叩いたところ、その岩に窪みができ、そこから海水が湧き出た。
大師が湧かせた塩水はけっして涸れることがなく、採っても採っても、いつも同じ量を保っているのだという。
この伝説にちなみ、弘法大師の恩恵を受けたこの集落は「大塩」と呼ばれるようになった。また、この水の溜まっている状態で、伊勢湾の塩の満ち引きが分かったり、人の生き死にも占えるのだという言い伝えも付帯している。

地元の方の話によると、ふだんは窪みに水は溜まっていないとのことだったが、私が訪れた時は石の上面に三角形状の窪みがあり、そこには水が溜まっていた(おそらく前日まで雨だったからか)。

神野山~鍋倉渓・竜王岩・天狗岩・八畳岩・王塚~


神野山(こうのさん)は、山添村の中心部から少し北西寄りにそびえる標高618.8mの村内最高峰で、大塩・伏拝など六つの大字にまたがる山添村一の聖山として現在も地元のよりどころとなっている。
山添村は大和高原なので、実質的に登山道口から山頂までの比高差は100~150mであるが、神野山は傾斜の緩い山なので、山の占める面積はかなり広大である。

神野山

神野山は、現在でこそハイキングの山として人足が絶えず親しまれている山だが、本来は山名が示すとおり「神の山」だった。過去の時代に遡れば遡るほど、御山は神聖不可侵の聖域として捉えられていたことが窺える風習が残る。

その一つが「神野山登り」である。
毎年5月頃、神野山頂上一帯に山ツツジが咲き乱れる。麓の村人たちは、そのとき農作業を休んで神野山へ登りに行く風習が残る。
「神野山登り」は、村人が5月に集団で登拝し、山頂で山ツツジを鑑賞しながら、山の神と共に共飲共食を行なう儀礼と目されており、現在は年中登山自由というものの、過去の時代においては、神野山はこの「神野山登り」以外の時は、その入山が制限されていたのではないかと考えられる。

■鍋倉渓 

神野山の有名な奇景。神野山の東側山腹に、幅10m、長さ650mに渡り、大小の岩石が寄り集まり重なる石の列があり、これを鍋倉渓と呼ぶ。


山添村は花崗岩質の地質だが、神野山だけは角閃斑れい岩という岩質で、岩は黒っぽい独特な色を見せる。角閃斑れい岩は花崗岩より硬質なので、大和高原が風化浸食する中でも、この神野山だけは浸食の程度が弱く、ひときわ高いその山容を保つことができたと考えられている。鍋倉渓はその角閃斑れい岩で構成されているが、「渓」というだけあって、この岩石群は落ち込んだ谷沿いに、一直線になって寄り集まっている。
鍋倉渓は見たところ岩石の列があるだけに見えるが、実は岩石群の下のほうには伏流水が流れており、岩の下の方へ耳を近づけると「サーサー」という水の流れる音が聞こえるところがある。
地質学的には、地表に露出した角閃斑れい岩の内、風化浸食に耐えやすかった渓谷の岩石群がそのまま残り、かつ、周囲に残った岩石群が谷側に落ちていって、結果、このような奇観が生まれたのだと考えられている。

鍋倉渓にはこのような伝説がある。
神野山に烏天狗(女)がおり、上野(伊賀)の青葉山という山にも烏天狗(男)がいた。この天狗同士が喧嘩をして、青葉山の天狗が山にあった草・木・岩などを投げつけてきた。この結果、青葉山は禿げ山になってしまって、神野山はたくさんの自然に恵まれた山となった。この時、神野山に積み重なった岩々が、この鍋倉渓なのだと言い伝えられている。
この伝説からは、鍋倉渓を構成する岩石群自体は信仰対象ではなく、あくまでも両山の天狗(超自然的存在)がその恐ろしい力を振るった後の聖跡であると解釈される。

しかし一方で、鍋倉渓はこのようなな伝説も持っている。
昔々、村にある父子がいた。父親は病気がちで、息子が父親の世話をしていた。息子は手厚く父親を看病し、親孝行者として知られていた。しかし看病の甲斐なく父親は病死し、息子はひどく嘆き悲しんだ。
その息子が神野山の鍋倉渓へ行き、石の上で「父に会いたい」と泣いていたところ、突然石が動き、岩石群の下を流れる水に亡き父の笑顔が映った。この故事から、親孝行者が鍋倉渓の下を流れる伏流水を見ると、亡き親の顔が映るという。

こちらの伝説のポイントは、石が動き、故人の顔を現世に現出させたという超自然的な力を持つ点。
地下の伏流水はまるであの世を写す鏡のような働きをしており、その上を覆う堝倉渓の石たちは、まるで現世とあの世を隔てる結界石のようにも解釈できるだろう。そして、その結界石が自ら動くというのは、石自体に意思があるかのようでもある。

■竜王岩・天狗岩・八畳岩

神野山には、古くからの聖地としての岩石がある一方で、聖山であるからこそ後世~現代においても様々な新しい信仰の影響を受け、さらに2000年初頭から「イワクラ保存活動」が行われてきたことから、歴史的な信仰対象なのかは批判的に見るべき新しい聖地としての岩石まで、玉石混交の様相を呈している。

まず、その一つとして竜王岩を紹介する。
神野山東登山道に、鍋倉渓を渡ってそのまま山頂方面に向かうルートがある。この登山口から鍋倉渓に足を踏み入れて、すぐ北の方に目を向けると見えるのが竜王岩である。

竜王岩

竜王岩は鍋倉渓に接しており、竜王岩も濃い黒色の角閃斑れい岩であるため、本来的には鍋倉渓を構成する一石と考えて良い。しかし鍋倉渓の岩石の中ではひときわ大きな岩石であることから、別個に名前をつけられ神聖視されるようになった。

竜王岩は「なべくら分教会(日輪教会神野山鍋倉分教会)」という新宗教の境内で、注連縄が巻かれた状態で、岩の周りは磐境状に囲われている。
竜王岩が、新宗教進出以前から信仰されてきた岩なのか、それとも、新宗教によって新たに信仰された岩なのか、信仰の軽重はないものの、歴史学的な資料価値は変わるだろう。

さて、鍋倉渓を構成する石列をつたって上へ登っていくと、そのうち鍋倉渓は土木の中に消えていく。その鍋倉渓の最高部から、少し上へ行くと見えるのが天狗岩だ。

天狗岩

天狗岩はいくつかの岩の群れから構成されており、天狗岩の名の由来は、先述した神野山の天狗喧嘩伝説の烏天狗にちなむ。
具体的に、天狗とこの岩石の関係が何だったのか明確な文字記録に欠けるが、岩は天狗そのものではないため、天狗が投げた岩や天狗が座していた場所など、天狗の足跡に関わる痕跡としての岩だろう。

神野山頂上から北の方へ道なりに進むと、北側斜面に八畳岩という巨岩がある。
崖状に岩盤が露出しており、頂上部がおよそ八畳の広さに及ぶことからその名前がある。高さは約7m、幅は約10mになるという。
八畳岩の頂部には数本の窪み状の溝が見られる。これは自然摂理によるものだが、言い伝えによれば、神野山にいた天狗の足の爪による引っ掻き跡だと伝えられている。

八畳岩

また、八畳岩の近くには「スフィンクス岩」と呼ばれる岩石もあるそうだが、それは岩の形状から近年命名されたものであり、鍋倉渓・天狗岩・八畳岩は歴史的な痕跡であるのに対して、竜王岩・スフィンクス岩はまた批判的検討を通す必要があるだろう。

■王塚

王塚は、神野山のほぼ山頂に立地する円形の盛土状構造物を指す。

王塚の中心部

漢速日命(カンハヤヒノミコト。「漢」の本当の部首は「火」だが、変換できないのでこの字で代用)という神の墳墓といわれている。漢速日命は、『記紀』に登場する樋速日神(ヒハヤヒノカミ)と同神とされ、伊邪那岐命が火之迦具土神を剣で切り殺した時、剣についた血が近くにあった石に落ち、そこから生まれた神とある。

村の伝説では、樋速日神は女神で伊勢に住んでいたが、絶世の美貌を持っていたため、多くの神々から付きまとわれていた。それを避けようと樋速日神は神野山まで逃れ、神野山南方にある弁天池の中に入り、大蛇と化した。
そんなことを知らず、ある男の神が樋速日神を追って弁天池まで来た時、樋速日神の化した大蛇を切り殺した。すると大蛇は樋速日神の姿に戻って死んでしまったので、それを見た男神は大いに嘆き悲しみ、せめてもの弔いとして、この神野山の頂上に墓を造ったといい、これが王塚の築造伝説である。
なお、王塚に隣接して神野山大神を祀る神野大明神が鎮座するが、神野山大神は甕速日神(ミカハヤヒノカミ)とされている。

鴬塚のマウンドには盛土に交じり多くの石が混入しているので、人工的な構築物であることは疑いない。
王塚の考古資料としての資料性はいまだ不明点が多いが、文化庁によって古墳候補地として遺跡地図に記載されている。 
また、神野山の南斜面に「黄金塚」と呼ばれるマウンドがあるが、王塚と黄金塚以外に神野山では古墳らしきマウンドが見当たらないため、いわゆる群集墳的な分布を見せないという特徴もある。

六所神社

所在地:山添村大字峰寺小字氏神山

峰寺地区の氏神だが、峰寺にとどまらず、これに接する的野・松尾地区からも広く尊崇される社だという。
祭神は大山祇命で、神社の背後には氏神山(比高差100m弱)がそびえており、氏神山の山の神を大山祇命の名で神社祭祀するようになった場所なのだろう。

さて、六所神社の社殿は、祭神が降臨したという台石状の巨岩の上に、本殿が建てられているという特徴をもつ。


神社が建つ前は、社殿の下にどっかりと構える巨岩がこの場にあったということで、現在、神が鎮まる本殿がこの巨岩上に建つということは、木造建築物以前は巨岩上に直接山の神を招いていたのではないかという推測が成り立つ。
巨岩の頂面が台状になっていて平べったく、岩の上に降臨しやすいという形状面も特筆できる。

また、巨岩には建武5年(1338年)刻印の不動明王像が刻まれている。境内にはほかに、毘沙門天像(磨崖仏)、金毘羅碑、行者石像、不動磨崖仏、観音石仏、地蔵石仏、お百度石など、種々の石仏や石造物に彩られている。

六所神社は『延喜式』記載の天乃石吸神社の比定地でもある。
「石吸(イワスエ)」は「石据(イワスエ)」ではないかという解釈があり、六所神社の台状の巨岩は「立てる」というよりかは「据える」という表現にもそぐわしい。

窯の焚き口 

所在地:山添村峰寺

『村の語りべ』によれば、峰寺地区の西に布目川が流れており、そこにしっかりとした作りの石橋を作ろうということになったという。
石橋作りに志願した一人の力持ちがおり、石橋を完成の暁には、人々は彼に感謝して村中の有名人になった。
この力持ちが風呂に入るため使っていた窯といわれるのが「窯の焚き口」である。石橋の顕彰としての民話の記憶装置だろう。

窯の焚き口

「窯の焚き口」は古墳の石室ではないかという説もある。確かに石室の天井石と側壁石を認めることができ、全体として古墳石室のような景観を見せる。

天王の森 

所在地:山添村峰寺

山添村西方を流れる布目川には、現在布目ダムが作られており、山間の中を川が流れるという古くからの景観は消え、巨大な貯水湖が今日出現している。その巨大な貯水湖の南端に位置するのが峰寺地区で、湖の南は布目川と深江川(深川)に分かれている。この分かれ目には、小さいながらも目立つ三角形の稜線を描く岩山がある。ここを天王の森を呼ぶ。

この天王の森のすぐ奥方には水神の森(後述)と呼ばれる小島があり、ともに布目川の聖地とみなされてきた。
天王の森は高さ20mに満たない小さな森だが、モリの意味とは高く盛り上がっている所ということであり、山を聖地とみなしていたことが読み取れる。

村の方々が語るところによれば、森の頂上に露出する自然石の群れには牛頭天王が勧請されており、禁忌が厳しく守られていたそうだ。頂上の岩は森の凝縮点と見ることもできる。

天王の森

天王の森から下の布目川を撮影

天王の森の頂上に移設された「首切り地蔵」

布目ダム建設により、天王の森のすぐ上には橋梁道路が敷かれている。現地の方々の思いも手伝い、岩山の完全破壊だけは免れた。
また、天王の森の頂上には現在「首切り地蔵」という地蔵が置かれている。
江戸時代に作られたこの地蔵はもともとは天王の森の裾部に安置されており、道の往来の安全を祈念して作られたものだった。古来の聖地の近くに立てることで、神聖性の相乗効果を狙った一面もあるだろう。地蔵にはいつ頃からか首部と胴部に亀裂が入ったが、それが逆に「首切り地蔵」として人々の印象に刻み込まれるようにもなったようだ。

しかし布目ダムの建設によって、この地蔵は天王の森の裾部から頂上に移されることになった。だからいま天王の森を訪れると、まるでこの「首切り地蔵」が信仰の中枢のような感を受けるが、元々は別個の信仰物として存在したものである。
当地において、水神の森は水に関わる霊性、天王の森は山に関わる霊性(ないしは牛頭天王信仰の場)、そして首切り地蔵は道中の安全に関わる霊性を分掌しあっていたと考えても良い。
しかしながらダム建設は、これら信仰物が持つ地縁的な信仰要素を相当程度剥ぎ取ってしまうことにもつながった。つまり、そこにあったからこそ信仰されたという立地的要素が、移設により失われる。天王の森の自然岩群の前に首切り地蔵を置くことは、自然岩群の性格を消してしまうことになりかねず、同時に首切り地蔵の霊性も少なからず変容させているのかもしれない。

水神の森

所在地:山添村峰寺

布目川と深江川の分水点にそびえるのが天王の森だが、そこから布目川の上流へ上ると「水神の森」が存在する。
川の中にある周囲100mほどの小島で、古くから神域として信仰されてきた。島とは言っても中州のようなもので、そこに自然林と集積した川原石や巨岩群がボコボコと集まっている。

写真中央の中州の小島が「水神の森」

水神の森を流れる布目川と岩石群

いわれによると、川の合流点としての水分の神としてだけではなく、度重なる水害を鎮めるためにまつられた森だともいう。
また、水神の森の下流に「八丈岩」と呼ばれる巨岩(約17㎡)があるそうで、そこは水神の森の遥拝所として使われていたという。

これらのことから、水神の森は荒ぶる水神に対する信仰の場であり、普段は水神の森に直接立ち入ることは禁じられており、通常は八丈岩から遥拝し、森にいる神を迎えるという祭祀の在り方だったのかもしれない。
現在は毎年7月に「水神さん祭」というものが執り行なわれており、近辺の村人の憩いの場にもなっている。水神の森を禁足地とするような社会環境も現在においては見当たらないようである。 

現地説明板によれば、寛政3年(1791年)発刊の『大和名所図会』に「水神、八丈巌、峰寺村にあり高土数丈にして蘇苔潤滑なり、行人目を悦ばしむ」との記述があるという。この記述から察すると、江戸時代中期以降において水神の森と八丈岩は、視覚的満足感を得る対象(鑑賞対象)としての位置付けが増していたことも窺える。

八幡神社の石仏

所在地:山添村的野

的野地区の八幡神社には、この地域最古とされる石仏が残っている。1253年製作の阿弥陀仏という。実見はできていない。

天神社の明星岩

所在地:山添村北野小字奥

天神社は、応永年間(1394年~1428年)に創建された神社で、創建当時から残る春日造りの本殿は国指定の重要文化財に指定されている。
この天神社の背後(北)には、比高差70m程の小山がそびえている。ここは「天神の森」と呼ばれており、この中に今も残る「明星岩(みょうじょういわ)」と呼ばれる岩石群がかつての信仰対象だったといわれている。
応永年間に神託があり、新たに現在の位置に社殿が建てられ、以降天神社が祭祀の場となり、明星岩は元宮的な位置付けになったようである。

二度山中を探訪しているが明星岩を見つけられず、私はまだ実物を確認できていない。

天神社と背後の天神の森。


津越の磨崖仏

所在地:山添村北野津越 

「窯の焚き口」から「岩屋枡形岩」まで向かうには、布目ダム東岸に沿って敷設されている車道を利用する。その道の途中、北野津越地区にあるのがこの磨崖仏である。
車道の横がすぐ山の急斜面となっており、その山の岩肌を利用して数体の仏が刻まれている。車を止めるスペースがなく、車越しに確認するしかなかったので写真も撮っていないが、参考として、現地にあった「布目ダム周辺地図」を掲げておく。
少し見づらいが、該当場所に「磨崖仏」との表記がなされている。



フジノミ禊斎場

所在地:山添村北野津越

もともと北野フジノミにあったものが、布目ダム建設による水没を免れるため、現在の北野津越へ移設されたもの。
いわれによると、18世紀初頭、北野ウチカタビロに広がる水田に灌漑用水路を設けるため、深江川最下流をせき止めて、そこから用水路を引くための作業をおこなった。しかし用水路を引いた場所は山裾の岩石が群集する場所であり、作業は危険極まりなく難航した。
そこで作業中の無事安全・作業の成功を祈るため、僧侶がある巨岩に不動明王の梵字を刻みこみ、そこで祈り続けたという。このとき梵字の刻み込まれた巨岩の一部が、現在の場所へ移設されている。 


仏そのものを刻み込んだわけではないが、梵字それ自体が仏を表すシンボルであるという意味において、本例も広義の石仏事例とみなしても良いだろう。

腰越ウチカタビロ土塚

所在地:山添村北野小字ウチカタビロ

ウチカタビロと呼ばれる字に、土・石で築かれた塚があった。
北野の鎮守・天神社で旧五社巡りという祭礼が行なわれる際、この土塚の前に御幣を供え、田楽を奏上したという。祭礼時に一時的に神を迎えた祭祀の場だったことを示す。
後世、ウチカタビロは布目ダムの建設によって水没することになった。そのとき、祭礼を廃絶するわけにはいかないということで、この土塚は今の腰越地区へ移設されるに至っている。
ちなみにこの土塚が築かれたのは、近世以降であることが発掘調査からわかっている(松田1985年)。

現在の土塚を観察すると、直径3mほどの円丘盛土に、大小の自然石、そしてややランダムに数体の石仏が置かれている。


単なる土塚ではなく、その表土部分に石仏や岩石を配することの意味とは、その部分が聖域であることを示すこと、そしてその聖域の聖性をさらに飾る、盛ることにあったのではないだろうか。
石仏を土塚に貼り付けるように寄せるのは、石仏が葺石のような聖域表示機能を強めたのと同時に、石仏を一種の奉献物や装飾物として土塚という祭祀対象に向けて奉げる行為とも言える。

岩屋枡形石

所在地:山添村北野牛ヶ峰

北野地区の北端、月ヶ瀬村や奈良市との境界近くに牛ヶ峰と呼ばれる場所がある。
この牛ヶ峰は「みやま」と呼ばれ神聖視されてきた一帯で、その山の中腹に目を見張るほど巨大な自然岩の群れが存在する。

まず、山中をしばらく登って最初に目に付くのが、机状・鳥居状(複数の支石の上に、ひときわ巨大な主石が乗っかかっている状態)の巨石構築物である。
高さ6m、幅13m、奥行き6mの石窟状空間を形成していて、これを「岩屋」といい、自然石窟を利用した岩屋寺として使われていた。

岩屋

そして、岩屋から少し上の方に登ると、この岩屋の規模を凌駕する立岩が屹立している。これが「枡形岩」と呼ばれる巨岩で、高さ16m、横幅10m、縦幅7mもの規模を誇る。

枡形岩

この二つの巨岩を総称して、岩屋枡形石(いわやますがたいし)と呼ばれている。

伝説によると、弘法大師が当地で睡眠をとったところ、夢枕に大日如来が立ち、「牛ヶ峰を、仏の教えを説く霊場とせよ」と告げたという。
そこで大師が牛ヶ峰の山中に足を運ぶと、そこには岩窟にふさわしい組石状構造物があった。これこそ霊場にふさわしいとして、岩窟を構成する上部の主石表面に、大師自身がノミとツチを用いて大日如来の像を刻み込んだ。大日如来を刻み終わると、弘法大師は「岩屋」の上方に屹立していた立岩へ行き、その岩の表面上部に枡形の刳り抜きを作り、その刳り抜きの中にノミとツチを収めた。

大日女体を刻んだ岩屋と、ノミとツチを収めた枡形岩の二つはこの伝説から弘法大師信仰の聖地となり、岩屋寺の霊場として近世の頃まで栄えていたという。

実際現地では、本尊の大日如来が岩肌に刻まれているのを今も確認できる。岩屋内は不動明王、入口に善女龍王のほか、護摩壇・不動明王像・弘法大師像・五輪塔などが残る。

岩屋に刻まれた大日如来

岩屋内部

枡形岩も、その長大な岩肌の上方部に枡形の切込みが入れられた部分が確認できる。

枡形岩の枡

刳り抜き部分には枡形の石蓋がなされているため中を観察することはできないが、明治25年(1892年)に一度開扉されたという。
その時は、中からは何も見つからなかったが、通説によるとこの枡は、仏像を安置するための石厨子ではないかとされており、総代が代々保管している木製の御正躰(鏡状の円板に仏像を刻印した中世以来の仏像型式)こそが、もともとこの枡の中に秘匿されていた仏像ではないかといわれている。
この点を踏まえると、枡形岩はノミとツチの置き場所ではなく、岩屋と同様、仏が鎮まる祭祀施設であり、自然石のお堂であったとみなすことができる。

なお、地質学的には岩屋・枡形岩の両岩は、元は一つの岩であったという考え方が有力で、両岩の剥離面の状態から、枡形岩の前面に岩屋の主石部分がくっついていたものと推測されている。それがいつの頃か二つに割れ、枡形岩前面の岩塊が斜面下に転がり落ちて、斜面下の別の岩石(岩屋の支石部分)に乗りかかって、岩屋の構造ができあがったと説明されている。

牛ヶ峰ミヤマ洞穴遺跡 

所在地:山添村北野牛ヶ峰

この洞穴は「岩屋枡形岩」があるミヤマ(御山・宮山)の下斜面にあり、ダム建設で現在は水没している。
その時に発掘調査が行われ、種々の遺物が見つかった。調査報告書である『山添村布目川流域の遺跡3』(1986年)に基づいて紹介したい。

牛ヶ峰ミヤマ洞穴遺跡のスケッチ(報告書に基づく)

洞穴内には、自然に露出していた花崗岩が転がり落ち、その結果、岩同士が重なり合ったことで(ここの場所が浅い谷状地形になっていたため、岩が集まってきた)洞穴状の空間を内部に形成していた。
洞穴の全長は13m、最大幅5mで、奥に行けば行くほど低く、狭くなっていく。そして洞穴の奥の方からは水が流れてきており、そのまま洞穴内を通り洞穴外へ流れ出ていた。

洞穴は古くから「禁忌の場所」として畏敬視されてきたが、布目ダム建設によりあえなく水没することになった。ダム池は標高300m地点まで造成され、この洞穴は標高280m付近だった。
緊急的に洞穴内の調査が行なわれることになり、発掘の結果、洞穴の中からは、歴史時代以降(中近世)を中心とする数種の遺物群が出土した。

まず、洞穴内に堆積している土の量が多かったので、それを除去していく過程で、堆積土中から近世~現代までの日常雑器(日用品として使われるようなありふれた器)が数点出土。
それを取り除くと、洞穴の開口方向に平行して、底部中央部分が少し陥没しており(谷水の流路)、その陥没部分からは複数の自然石群が折り重なりながら、頭を出していた。そして、この底部中央陥没部に露出する岩石群の傍らに集中して、中世の土器片が数点出土した。

中世~現代にかけて、洞穴の中から比較的簡素な土器群が出てきた意味は何だろうか。
縄文時代や弥生時代ならば、洞穴の中で居住生活を送っていたと解釈できるかもしれない。しかし、中世から現代にかけて、この地域の人が洞穴を居住施設に使っていたという可能性は著しく低い。器以外に、居住の痕跡を匂わせるものはありませんから、これらの土器は、日常生活用とは考えにくい。
以上の点から、洞穴内の中世土器群はすべて祭祀に用いられた器というのが最も確実性の高い解釈だろう。
個人的には、洞穴の中でも、中央底部の岩石群が密集している箇所の傍らから、まとまって中世土器群が出土したことに注目しておきたい。

烏ヶ淵阿弥陀地蔵二尊磨崖仏

所在地:山添村桐山 

布目ダム西に位置する桐山地区に存在するが、元々は別の場所(烏ヶ淵)にあったものが、布目ダム建設に伴って現在地へ移されたという経歴を持つ。
本石仏はもともと淵の中にあった自然岩であり、その自然岩に阿弥陀仏・地蔵仏の像を彫りこんだという。淵の中の磨崖仏というのは類例がないほど珍しいものだという。岩の刻字から、この磨崖仏は寛政年間の製作ということが判明している。
通説では、烏ヶ淵の堰を築いた時に亡くなった人々の供養のため、または度重なる水害を鎮めるために刻まれた仏ではないかと考えられている。

移設の際にはちゃんと当時の景観を保とうと、池の中にその巨岩を置いて現状保存されているのも、当時の崇敬者の篤い思いを感じ取ることができ趣深い。



桐山阿弥陀磨崖仏

所在地:山添村桐山 

鎌倉~南北朝期の製作とされている磨崖仏で、立地している場所が路傍であることから、道中の安全を祈るために置かれたものと考えられている。実見はできていない。

弁天岩

所在地:山添村大字桐山小字カナヤケ

実見できていない。弁財天をまつる場所といい、現在は巨岩の上に瓦質の祠が建てられている。
布目ダムを造るとき、この弁天岩の辺りまで造成が及ぶということになったので、それに伴い、弁天岩一帯の発掘が行なわれた。弁天岩は調査の中心ではなく、桐山カナヤケ遺跡という遺物散布地の調査区域に入ったことで同時に調査された。

発掘の結果、この弁天岩は自然そのままの位置を保っているということがわかったが、明らかにこれの祭祀用と思える遺物は出土しなかった。ただ、弁天岩の周辺を意図的に平坦にしたような形跡が、地層の状況から判明した。この平坦加工の時期は、平坦にされた地層内から中世の瓦器・土釜が見つかっていることから、中世の人々によるものと考えられている。
この瓦器・土釜を弁天岩祭祀の証拠とみれないこともないが集落地のため生活用の可能性も否定できない。むしろ、岩の周りを平坦にしたというのは、この岩に対する祭祀区域を設定した痕跡と解釈できうるので、中世の頃から、この岩が祭祀対象になっていた可能性はある程度積極的に認められる。

この弁天岩が現在も残っているのかどうかが私は把握できておらず、布目ダム建設に伴う発掘だから消滅していそうだが、現在のダムの位置と弁天岩の位置を照らし合わせる限り、弁天岩のある場所は水没をぎりぎり免れているような気もする。もちろん、その後の関連事業で破壊されている可能性もあるので、実在の有無は判断つきかねる

送り狼石

所在地:山添村大字室津小字池神

山添村の西端に位置する室津地区に「送り狼石」(室津のオーカミ石)といわれる石がある。
小字池神というところに道が通っており、その道端にあるとのことだが、実地探訪してもどの石なのか判別できなかった。
現地で石の場所を尋ねたが、現地の方がおっしゃる石の場所も複数ありわからなかったので、ここでは伝説だけを紹介しておく。

昔、池神の道は旅人の往来に利用されていたが、狼が出没する危険な場所でもあった。
そこで旅人がこの道を通るときは、道端にあったこの石の上に食物などの奉げ物をすることで、後ろから追いかけてくる狼の災禍を避けた。やがて、この石に食物を奉げると、後ろからついて来る狼は自ら去っていくという図式が集落内に定着し、ここから狼供養としての「送り狼石」の話が今に伝わるようになった。
この伝説を聞く限りだが、送り狼石は上部に食物を供えられるような台座的な形状をしているのだろうか。

室津の磨崖仏

所在地:山添村室津

室津の「送り狼石」を探索している最中、路傍の山の岩肌に刻まれていた磨崖仏を見かけた。村最西端の石仏に属するだろう。
この磨崖仏を「送り狼石」と指摘する村人の方もいらっしゃったが、岩肌に刻まれた磨崖仏であり、いかがだろうか。
私の訪ね方も誘導的で
私「オーカミ石、ご存じないですか?」 
現地の方「何それ?」
私「あそこに1つ磨崖仏があったんですが・・・」
現地の方「ああ、それだよ」
答えを誘導しているような問いかけのしかただったので、あまりこのやりとりに信頼性はない。

ただし、この磨崖仏の岩肌の前に、少しせり出して台座状の方形石が置かれている。まさかこれが「送り狼石」の捧げ物をした台石なのだろうか。今は判断保留としたい。

室津の磨崖仏とせり出す台石


参考文献

  • 山添村編さん委員会『山添村史』上巻 山添村役場 1993年
  • やまぞえ双書編集委員会・山添村教育委員会『村の語りべ』(やまぞえ双書2) 山添村 1996年
  • 波多野村史編纂委員会 『波多野村史』 1962年
  • 松田真一『山添村布目川流域の遺跡3』第3次発掘調査概報 奈良県立橿原考古学研究所 1986年
  • 松田真一『山添村布目川流域の遺跡』第1次発掘調査概報 奈良県立橿原考古学研究所 1985年
  • 布目ダム水没関係地文化財調査会編『布目ダム関係地文化財調査報告書』 山添村教育研究会 1988年
  • 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第4巻 大和』 白水社 1984年
  • 志賀剛『式内社の研究 第2巻 宮中・京中・大和編』 雄山閣 1977年
  • 最上孝太郎「奈良のメガリス・オーパーツ」 『ムー』第265号 学習研究社 2002年
  • 山添村いわくら文化研究会提供各資料
  • 現地解説板
  • 「むらの語りべ」(山添村ホームページ内)https://www.vill.yamazoe.nara.jp/life/about/kataribe