2019年9月16日月曜日

鈴鹿峠の鏡岩(三重県亀山市)


三重県亀山市関町

三重県と滋賀県の境にまたがる標高378mの鈴鹿峠は、仁和2年(886年)に開通した古い峠であり、箱根峠と並ぶ東海道有数の難所として有名である。

その鈴鹿峠の南西側、急斜面上に三重県指定天然記念物「鈴鹿山の鏡岩」がある。



別名「鬼の姿見」。立烏帽子という鬼女が鏡代わりに使った岩だといわれる。
山賊がこの岩に映った旅人を襲ったという伝説もある。

かつてこの岩には一面に青黒く光る鏡肌(硅岩が断層によってこすれたもの)があったらしい。
しかし、明治初年の山火事により岩肌が損傷し、旧状とは異なるものとなった。
岩の色も赤褐色に変わってしまい、さらにそこに、風化や人々が削り取った跡なども加わり、現在、明瞭な鏡肌は見つけにくくなっている。




伊勢国の地誌『勢陽五鈴遺響』(1833年完成)によると、「鏡石ト云巨石アリ毎二月八日土人注連ヲ牽キテ不潔ヲ避ク」という記述が残っている。
また、永仁2年(1294年)に鈴鹿峠の北にそびえる三子山から鏡岩の近くに田村神社が遷座し、鏡岩から田村神社の一帯を「たまや」と呼んでいたという。
これらの事実から、少なくとも中近世のある時期からは鏡岩が神聖視の対象だったと言える。

さらに、この鏡岩から北へ約100m進んだ茶畑から遺跡が見つかっている。
平安時代の土師器片417点、須恵器片14点が出土し、非実用的な小皿が大半を占めることと、峠という特殊な立地環境から、峠の神に対する祭祀遺跡と考えられている。

土器出土地点付近


その峠神が降臨したのが、鏡岩ではないかと見る向きもある。
しかし、土器群が鏡岩の手前から出土しているなら肯けるが、土器群の出土地点から直接鏡岩を拝むことはできない。
もちろん、遥拝するという祭祀形態も存在するが、岩石と遺物を直接結び付けるほかの証拠もない。

以上の点から、これらの土器が、鏡岩を祭祀した痕跡だったかどうかは判断保留としたい。

参考文献


  • 関町教育委員会(編) 「庶民の旅」 『鈴鹿関町史』上巻 関町役場 1977年
  • 山田木水 「巨岩洞窟」 『亀山地方郷土史』第3巻(三重県郷土資料叢書第32集) 三重県郷土資料刊行会 1974年
  • 林宏 「鈴鹿峠の鏡岩」 『鏡岩紀行』 中日新聞社 2000年


2019年9月14日土曜日

赤岩大神(岐阜県養老郡養老町)


岐阜県養老郡養老町小倉

赤岩大神は、神社本庁に所属しておらず、『養老町史』などの郷土資料にも言及がない場所である。
養老町図書館で郷土資料コーナーを当たったが、ほとんど情報が出てこなかった。

唯一、近畿日本鉄道が発行している近鉄沿線ハイキングマップ「てくてくまっぷ岐阜-3 養老公園周遊・志津北谷コース」に、二頭の竜が赤い岩に変わり大洪水を防いだことから赤岩をまつったという情報が記述されているのみだった。

現地を訪れると、鳥居や境内に赤い石が集積しており、拝殿内に赤い岩石が奉納されていた。

赤岩大神入口。鳥居裾に集積した赤石礫に注目。

赤岩大神拝殿。手前の岩塊上に赤石の石積みが見える。

拝殿内に安置された岩石群

しかし、これらが赤岩大神の名の由来というわけではない。
社殿からさらに山奥へ15分ほど進むと奥之院があり、そこに赤岩をまつっている。

奥之院入口。川沿い谷間の道を進む。

奥之院全域。視界の開けた谷間に立地。

赤岩

奥之院の赤岩は、いわゆる巨岩と呼べる大きさではなく、人が腰かけられる規模の岩石ではある。
赤岩の名のとおり、岩肌は赤色化している。

他方で、赤岩の背後には岩崖が露出しており、こちらも祭祀の対象に含めれば大規模な岩石祭祀の場と化す。
しかしこの岩崖は赤色化していないので、岩崖と赤岩は元は同体というわけではなさそうだ。

赤岩と背後の岩崖との色のコントラスト

個人的に注目しているのは、赤岩大神の自然環境と古墳の存在である。

赤岩大神は谷間川沿いに立地し、赤岩の奥の小倉谷は岩がゴロゴロしており急峻という。
ちょうどその谷の入り口にあたる場所に奥之院があり、麓で祭祀をする場としてはうってつけと言える。

後世には不動明王をまつる行場にもなった。

行場としての滝も形成されている。

また、古墳は小倉山古墳として遺跡登録されており、墳丘上には赤岩龍神の祠が立つ。
この古墳は、赤岩大神の社殿から奥之院の途中にある。

赤岩龍神の祠

赤岩龍神の祠は御嶽教信者の方により昭和13年に建立されたものというから、古墳との直接の関連性はないが、赤岩の谷が古墳時代から墓域として一つの葬送祭祀の空間であったことは否めない。


2019年9月12日木曜日

梅宮大社のまたげ石・白砂・影向石(京都府京都市)


京都府京都市右京区梅津フケノ川町

古代氏族の橘氏が創建。
橘氏の氏神、酒造の神として出発した神社である。
平安時代、橘氏の衰退と入れ替わるように藤原氏の信仰が篤くなったという。

本殿の東側に、白砂で敷きつめられた場所がある。
白砂からは細長い岩石が露出しており、さらにその上に2個の丸石が置かれている。これが「またげ石」である。

神垣の内側にあるため近くまで寄ることはできないが、垣の外から下写真のように肉眼で見ることができる。



嵯峨天皇の妃の檀林皇后が、子宝に恵まれないのを気にかけて、願掛けにこの岩石をまたいだところ、懐妊したという由縁を持つ。
以後、不妊に悩む女性が「またげ石」をまたぐと子宝の霊験があるという。
社務所に申し出れば「またげ石」での子宝祈祷も執り行ってくれるらしい。

また、檀林皇后は出産の際に梅宮大社の境内に白砂を敷き詰め、皇子を出産したと伝えられる。
現在、安産のお守りとして神社では「白砂」の授与もされている。


梅宮神社には、他に「影向石(熊野影向石または三石の別称もあり)」と呼ばれるものがある。

熊野から飛来してきた3羽の鳥が梅宮大社に降り立ち、そこで石化したという伝承をもつ岩石である。
現地探訪時は探し当てられず写真がないが、本殿の西側にあるようだ。

境内の南東隅には「猿田彦大神・宇壽女命」と碑が建てられた2体の岩石がまつられている。岩石をそのまま神としてまつる素朴な石神と思われる。



立派に整備された百度石にも注目。



2019年9月11日水曜日

宇治上神社の天降石/岩神さん(京都府宇治市)


京都府宇治市宇治山田

宇治平等院から宇治川を挟んだ北岸、仏徳山(大吉山)の山裾に宇治上神社と宇治神社が鎮座する。

明治時代以後、宇治上神社は上社、宇治神社は下社として位置付けられているが、『延喜式』神名帳で「山城国宇治郡 宇治神社二座」と記録された二社に相当する。
二社を併せて宇治鎮守明神・離宮明神・離宮社・離宮八幡などのさまざまな名称で呼ばれた。

その宇治上神社の本殿の東隣。
なかば唐突な感じで佇むのが天降石(てんこうせき)である。岩神さんの異名も伝わる。




詳しい由来は不詳ながらも、その名称から神として信仰された一面、天から神あるいは岩石自体が降臨したという伝承の一面をうかがわせている。

京都新聞の『岩石と語らう』の記事によると、神社談の仮説として「隕石」説と「かつて何らかの社があった跡」説を紹介している。

社域内の社殿と岩石のお互いの位置関係から考えると、社域の中心は本殿・拝殿であり、岩石はその合間に置かれた感がある。
本殿・拝殿に後発して岩石が出現・信仰された可能性は比較的高い。

岩石が出現した理由が隕石によるものとすれば興味深いが、鑑定はされていないのであくまでも推測の域は出ていない。

少なくとも、現在は岩石の上にうず高く石が積まれていて、人々が様々な思いを重ねた積石祭祀の典型を見せている。

参考文献


  • 竹村俊則 『昭和京都名所図会』7 駸々堂出版 1989年
  • 京都新聞記事『岩石と語らう 140 宇治上神社の天降石』(1999.7)


2019年9月9日月曜日

感神社(兵庫県三田市)


兵庫県三田市下青野

三田市内には感神社が複数分布しているので、当地は字名から下青野感神社と表記される場合がある。

当社に、注連縄が巻かれた岩がある。



こうやって写すと神寂びた巨岩の感が漂うが、現地に立つとまた異なる印象を受けるだろう。
別の向きからの写真も掲載してみる。




社殿の裏に露出する岩盤であるが、社殿に比して、その規模は著しく広大というわけではない。
正確なところはわからないが、現状を観察する限り、岩盤を削平して社殿が切り合って建てられており、社殿を建てる時に地山の岩盤が現れたかのようでもある。

岩盤を削り取っていることから、少なくとも社殿建立時点で、岩石を保存するという心の働きは見て取れない。
ただ、それはイコール、岩石信仰を否定するとまでは言い切れない。
岩石を半ば取り込み、乗りかかるという心の動きだとみなせば、それを岩石信仰の一つの形とみなすことも不可能ではない。
(それは旧来の信仰に新たに神社信仰が乗りかかったとも解釈できるし、岩石信仰を眷属のごとく祭神の神威増大に援用したというような解釈その他も可能だろう)

この感神社の岩盤について紹介されているwebページは少ないが、有馬温泉の旅館・龍仙閣の三田市観光スポット紹介ページでほぼ唯一、この岩盤について言及がある。以下引用する。

感神社の社殿裏には露呈した岩盤があり、御神霊が宿る神域として、崇拝されている「磐座」があります。

上記ページには、この岩盤が神宿る「磐座」であり、崇拝されているとの情報を載せている。
事実、現状でも注連縄が巻かれているので、神社にとって聖なる岩であることは間違いないが、その歴史の深層を探るにはあまりに情報が少なく、ひとまず岩石信仰が存在するという事実面の報告だけしておきたい。

境内には「千丈寺山大権現遥拝所」の石碑が建つ。

感神社境内に存する石碑

感神社から遥拝する千丈寺山は、大変綺麗な三角形を描いている。
感神社の岩盤は山裾ではなくかなり集落内に位置するが、集落が広がった結果かもしれないし、この山容を拝むためにあえて離したところに祭祀の場を設けたのかもしれない。

感神社から望む千丈寺山


2019年9月8日日曜日

磐神社(兵庫県三田市)


兵庫県三田市市之瀬

市之瀬地区(切詰集落)の集落最奥、二つの山に挟まれた山田川沿い。
山へ入る手前に神社は立地し、そこには磐神社の名が示すように二つの岩がまつられている。

磐に接して社殿が建てられている。

岩陰部分

境内右手にもう一つまつられた岩。

磐根を張って、手前に小祠をまつり神々が寄り合う。

磐神社の2つの岩を撮影。

磐筒男命を祭神とする磐神社は、社殿を岩に寄せるまでに岩をまつる行動を体現化し、水源となる川を押さえ、二つの山に守られる。
この二つの山も麓から望むと美麗である。

磐神社向かって左(西)の山

磐神社向かって右(東)の山。磐神社は川の東でこちらの山域に属する。

藤本浩一氏『磐座紀行』(向陽書房、1982年)によれば、社殿背後の岩は最大高4m、幅は7m。
右手にあるもう一つの岩は、樹木を除いて岩の高さ3m、幅4mを計るという。

境内にあった、何らかの用途を終えた石

なお、前掲の藤本氏によると、磐神社から約6km奥に行った小柿地区にも、岩をまつる社があるというが、神社名は記されていない。


2019年9月2日月曜日

石坐神山/石坐の神山/毘沙門堂(兵庫県姫路市)


兵庫県姫路市香寺町須賀院 毘沙門山/丁ヶ崎山

字・奥須賀院に、毘沙門山または丁ヶ崎山という標高231mの山がある。

麓からはそんな目立った山容をしていないが、山頂やや下に岩壁が露呈している。
岩壁と落石が複数の岩陰を織り成し、そこに広場を形成して祠や石像がまつられている。

登山口から約15分、尾根を九十九折に登ると、谷間の一番奥まったところに岩壁がぶつかる。



「播磨国風土記 石坐神山」の石碑は2000年建立。

岩壁と手前の落石で岩陰空間を形成する。

岩陰には水が溜まっていた。

行者像

不動明王像(写真下)

岩壁上部

毘沙門堂・薬師堂・岩蔵権現の祠がまつられる。

窪みに石塔片と丸石をまつる。

全景


今はこの場所を毘沙門堂と呼び、その名のとおり毘沙門天を本尊とするが、上写真のとおり薬師如来や不動明王もまつる場所で、『磐座紀行』(向陽書房、1982年)著者の藤本浩一氏は地元民から「お不動さん」の呼称があったことも記録している。
18世紀の作とされる地誌『播磨鑑』には毘沙門岩屋や有乳山岩屋寺(天台宗)の記載があり、寺としてはすでに無住だったと書かれる。

毘沙門堂以前の歴史は言い伝えとなるが、インドから渡来した法道仙人が「石蔵山万福寺」という名の寺院を建立したと伝えられる。
岩屋の前は平坦地が造成されているので、かつて寺院がここにあった可能性は高い。

さらに、奈良時代『播磨国風土記』に記された「石坐の神山(いわくらのかみやま)」がこの場所に比定されている。
『播磨国風土記』の該当箇所を引用しよう。

的部(いくはべ)の里 石坐の神山・高野の社 土は中の中なり。右は、的部等、此の村に居りき。故、的部の里といふ。
石坐の神山といふは、此の山、石を戴く。又、豊穂命の神在す。故、石坐の神山といふ。
(秋本吉郎校注『日本古典文学大系2 風土記』岩波書店、1958年を参照)

短い文だが、国内現存最古典に属する『風土記』に登場する数少ない「石坐(いわくら)」である。
国内最古の言語記録における「いわくら」の理解につなげるべく、少し解釈を加えたい。

的部(いくはべ)は、現在、香寺町岩部の地名で転訛したと考えられている。
「岩」の字が思わせぶりだが、現在、岩部と呼ばれるエリアから毘沙門山は少し外れ気味であり、肝心の風土記に「岩部」とあるわけではないので、転訛の順としては逆であることから、現状、あまり関係は認められそうにない。

さて、石坐の神山の紹介のされかたに注意したい。

「此の山、石を戴く」をどう解釈するか。
「戴く」を古語辞典で引くと「上に載せる」「大切にして敬う」といった用例をもつので、素直に解釈して「この山は上に石が載っている」だろう。
岩壁は山頂立地ではないが、山頂直下と呼ぶことはできる。

「又、豊穂命の神在す」はどう考えればいいだろうか。
豊穂命は記紀神話など他の文献や他社の祭神としてまつられておらず、今は系統不詳の神である。
神名からは豊穣に関わる神というほかない。
「在(いま)す」なので、豊穂命は山に常在していることを示す。


石坐は磐座であり、一般的な通説では「祭祀の時、一時的に神を迎える座」で「ずっとそこにいるような場所」とは理解されにくいが、豊穂命は「在す」なので、ずっとその山にいることになる。

すなわち、磐座としての祭祀(定期的に遠地から神を呼び寄せる祭祀)と、山の神としての存在のしかた(常に山に宿るという信仰)に齟齬があるように見える。
これをどのように理解すればよいだろうか。


ここで注目してほしいのが「又」である。

「石を戴く」と「豊穂命の神在す」を「又」でつないでいる。
これは、順接というより並立の関係である。

一見すると、「山の上に石があり、その石に豊穂命がいる」と読めるが、「又」を重視するならば、この文は「山の上に石が載っている。(その石とは別の場所に)また、豊穂命がいる」と読まないといけないのかもしれない。

一つの山に一つの神しかいないといけないわけではない。
石に坐す存在が豊穂命と明示されているわけではないので、石坐の神山は、石坐と豊穂命の二つの聖なる存在を併存させる山だった可能性がある。


もちろん、深読みせずに「石坐の神の山」だから、豊穂命が石に坐していた可能性もある。
その場合、すでに山に棲んでいる豊穂命に対して、なぜ同じ場所で磐座が必要なのかという疑問をクリアにする必要がある。
しかも、本事例の場合は、石坐は麓ではなく山頂直下にあり、神を人のいる場所に招きよせるという構図にそぐわない。

であるならば、むしろ通説に問題があり、「いわくら(磐座・石坐)」という概念は本来、遠地の神を一時的に里に呼び寄せるというような前提を捨てて、捉えなおさないといけないのではないか。
(これはけっして、磐座が遠地の神を一時的に里に呼び寄せる場所ではなかったと言っているわけではない。そういう磐座もあれば、そうでない磐座もあったということだ)

また、古代において山の中は神のいる禁足地であり、人々は麓で山の神を招いてまつったというのも一面的な理解であることがこの記述から読み取れる(禁足の山もあっただろうとも思う。古代祭祀の世界はどれか一つの世界観ではないということだ)。

本事例の場合、豊穂命が常在する山の山頂直下まで人は踏み入り、そこにある石(岩屋)を、神が座る石坐として認識していたことは明らかである。

では、本事例における石坐の役割とは何だろうか。
それは、山の中において、山のどこかにいる神を山のどこか一カ所に座りに来てもらうという考え方だと私は考える。

山に遍在する(あまねく存在する)神を、祭祀の時に人はどこかで必ず会えるようにするため、祭祀場が希求された。
山頂直下に自然露出した岩壁と岩陰を、人々は神と出会える場所と信じ、それを石坐と呼んだ。
つまり、「います(常在)」と「くら(座りに来る)」はけっして矛盾する概念ではなく、古代祭祀における神の住まい、宿り方、現われ方をもう一度再考しないといけない段階に来ているだろう。

また、本事例から石坐は「穴」の構造を持ち、山の神は山の内側に籠る感覚だったかもしれないことも教えてくれる。
岩屋と磐座が同根の考え方をもつ可能性も示唆するが、岩屋と呼ばれたのは江戸時代であり、風土記には岩屋ではなく「石」としての記載であるため、岩屋・磐座を同一視するのはまだ慎重になる必要があるだろう。

ちなみに、各国の風土記には「いわくら」の記述はほとんどなく、もっぱら盛んなのが「石神」の表記である。
でありながら、本事例は「石神」の名称を使わずに珍しく「石坐」で通している。
この事実が何を反映するものだったのかを考えることもとても有意義で、大問題につながると私は考えている。その答えを出すには、本事例だけでは導き出せず、当時の文献群における岩石信仰の「文章のあらわれかた」を通読する必要がある。


注:『風土記』底本には「云石坐山者此山戴石在豊穂命神」と読めるとも秋本吉郎氏は付記している。傍線部の前者は「石坐神山」ではなく「石坐山」であり、秋本氏は欠字とみなしたが石坐山の別称があったことも、石蔵山万福寺の名からも可能性として追記しておきたい。傍線部の後者は「又」ではなく「久」とも読めるが前後の文章に「又」のつなげ方が多いことからこれも「又」と読んだと秋本氏は記す。「久」が正しければ私が先述した「又」の並立話は意味をなさず、石に久しく豊穂命が座るということで磐座の長期的滞在を語る例にもなりうるが、「久」読みは採用されていないことも付記しておく。