2019年9月30日月曜日

花の窟神社(三重県熊野市)


三重県熊野市有馬町上地

高さ約50mといわれる岩壁「花の窟」に祭神・伊弉冉尊をまつる神社として有名である。

花の窟

花の窟下部と拝所

民俗学者の野本寛一氏の『石の民俗』(1975年)によると、別称として「般若の窟」「産立の窟」「隠れ窟」「オメコ岩」「大ハナ」が記録されている。

『日本書紀』の一書に「伊弉冉尊火神を生み給う時に灼かれて神退去ましぬ。故れ紀伊国熊野の有馬村に葬しまつる。土俗此神の魂を祭るには花の時に花を以って祭る。又鼓吹幡旗を用て歌い舞いて祭る」とある。

有馬村の伊弉冉尊の葬祭地がこの花の窟に比定されているが、細かいことを気にするなら岩石の記述は見当たらないことも付記しておく。

先述の書紀の記述には、開花期に花を供え、鼓・笛・旗などを使用して歌舞を行ない神祭りをするという祭祀の様子が具体的に描かれている。

このような、歌舞や花や幡で供え飾る祭祀行為はただの祈願祭祀というより、被葬者に対する鎮魂の性格を持つ祭祀としてあったと考えられる。
これらを踏まえると、花の窟は葬送祭祀であり、それが「神の最終鎮座地=神の墓」でおこなわれるという、神祭りと葬送の融合した性格を垣間見ることができる。
神が不可視の存在であることを踏まえると、葬送儀礼の中でもこれは埋め墓の発想ではなく詣り墓としての祭祀と考えてもいいかもしれない。

花の窟の淵源がいつ頃まで遡れるのかわからないので、これは古墳時代のいわゆる葬祭未分化という論点とは分けて考えたい。
地域差はあるだろうが、少なくとも当地では「墓所」「祖霊」「神祭り」といった概念が厳密に分かれていたわけではなく、同一軸上にあったということを示すのではないだろうか。

また、花の窟は窪み面を持つ岩肌だが、「窟」と言えるほどの岩屋空間は持っていない。
それでいながら「窟」と呼ばれるのは、磐蔵・岩倉といった蔵庫的な側面を持つ磐座思想から由来するものと思われる。
それは、岩石を神の魂の入れ物(クラ)と見る心性であり、岩石に穴や内部空間が必ずしもなくても、窪みや凹みがない岩石にさえ、神宿ると信仰された事例は数多認められる。
いわゆる岩屋信仰・窟信仰とは、神宿るという磐座の概念と聖地には空間があるという磐境の概念が融合したものと解することができるだろう。

2月と10月に催される「御綱掛け神事」は、花の窟の上部から御綱(錦の幡)を境内前面の塔(かつては海岸の巨松に掛けたが松は枯死した)に掛け渡す祭礼として知られる。

花の窟に掛かる御綱

花の窟の岩壁の窪みには種々の白石が積まれているが、これらは神社の祭礼の時に合わせ、地元の人々が社の前の浜で白い丸石を探し、それを岩壁の窪みに捧げる風習とのことである。

このような窪みと白石の奉献が複数箇所見られる。

花の窟に向かい合うように一回り小さい岩があり、これを王子窟と呼び、伊弉冉尊の子である火神・軻遇突智尊をまつる。

王子窟

花の窟神社の手水所の脇に高さ約1mの丸石があり、注連縄が巻かれている。
野本寛一氏の調査によれば、この丸石に水を注いで祈願すると病が治ると信じられているという。
別の情報として、神職の方談でこの丸石は花の窟から落ちてきたものともいう(「45メートルの巨岩に神霊を祀る 花の窟神社」)。

手水所脇の丸石

参考文献

野本寛一『石の民俗』雄山閣出版 1975年

2019年9月29日日曜日

夫婦岩/天狗岩/三間石山巨石遺構(奈良県生駒郡平群町)


奈良県生駒郡平群町櫟原字三石

原田修さんのウェブサイト「いこまかんなび」で、「三間石山巨石遺構」と名付けられた場所が報告されている。
原田さんは生駒の神々の研究を進めるなかでこの巨石に注目し、文献調査や現地での測量などを進められている。

現地は、生駒山系の一峰、三間石山と呼ばれていた標高454m地点に位置する。
有料道路の生駒スカイラインを利用すると道路際にあり、アクセスが容易。

峰の上に3体の巨岩がトライアングル上に存在し、その3体の南~南西斜面に大小の岩石群が散在している。

巨岩群全景

巨岩群中心部


一般的な名称は「夫婦岩」で、観光地図などにも夫婦岩で記載されている。
ただ、昭和11年の山岳資料によるとその当時は「天狗岩」とも呼ばれていたようだ。

夫婦岩/天狗岩/三間石山巨石遺構という3つの名があるが、現状で最も名が通っているのは「夫婦岩」であり、私はこれを使用したい。
「天狗岩」は昭和初期の古い名称の可能性があるが、これが夫婦岩のことを100%指しているかというと確定できないところもある。
そして「三間石山巨石遺構」の名については、ここからは遺物が見つかっておらず遺構としての認定ができないことと、すでに夫婦岩の名称があるのであえて別の名称に置き換えることもないと考える。

遺物・記録がないため、夫婦岩という名前はついているものの、まつられていた岩なのか、特別視の対象にとどまっていたのかもはっきりしない。
ただ、3体の巨岩の内の2体には、理由は不明ながら多数の木の枝が岩に立てかけられている。

この風習の出処も気になるところ。

いこまかんなびの原田さんによれば、『住吉大社神代記』の「膽駒・神南備山本記」に夫婦石と思われる記述があると述べる。
いわく、住吉大神が母木里(東大阪市豊浦町付近)と高安国(大阪府八尾市付近)の境に「諍石」を置き、火で木は朽ちようとも石は残り続けると述べたとあり、これが位置的に本石のことを指すという推論を立てられている。

原田さんは、本事例を人工的な遺構とみている。
3体の巨岩の南~南西斜面に「石列」「石積み」とされる岩石群があるが、石列については人為的な配置というためには相応の根拠が求められる。斜面に沿って岩石群が寄り添っているだけにも見える。

石列と呼ばれるもの(上斜面から)
石積みと呼ばれるもの(写真手前)

一方、石積みと呼ばれる構造物についてはたしかに不思議な形状をしている。石と石の間を砂利混じりの練り土で塗り固めたかのようにも解釈できるが、自然に固着した砂の固まりとも言える。
一番上と一番左の岩石の接触面が一致することを考えると、石積みというよりは1つの岩石が亀裂で分かれ、風化でお互いの石の角が取れた産物ではないかと思う。

峰上に巨岩が群集している光景自体は、自然成因の域を出るものではなく、私の所感では「巨石遺構」と認定するには考古学的根拠が不足している。

「諍石」であるかどうかはまた別の議論で、文献上の霊石としての可能性はじゅうぶん残されている。
人為設置でないにしても、峠に近いところに見出した神の鎮座石(鎮め石)としての展望も開けるだろう。
住吉大神が述べた「火で木は朽ちようとも石は残り続ける」という辺りに、当時の人々の岩石に対する認識が垣間見え興味深い。


2019年9月27日金曜日

七つ石/剣研石(愛知県一宮市)


愛知県一宮市大和町戸塚字東郷




18個の硬質砂岩が散乱しており、これを七つ石または剣研石と呼んでいる。

『尾張名所図会』後編(1880年)に「日本武尊剣研石」として紹介されている。
日本武尊が伊吹山に向かう途中、ここで自らの剣を研いだという伝説から剣研石の名がある。

石の表面は、磨かれたかのように滑らかなものが多い。
これらは、河川に洗われた巨石を持ってきたからだと考えられている。

戸塚という地名も考えあわせ、古墳石室の石材の残骸ではないかというのが現在の通説であるが確証に欠けている。

また、すぐ北東に行った所に春日社という神社があり、七つ石の岩石群はかつてここにあったという話もある。

参考文献

岡田哲・野口道直(撰) 「日本武尊剣研石」 『尾張名所図会』後編巻之一 1880年( 臨川書店 1998年版<版本地誌大系17>を参考とした)

2019年9月23日月曜日

酒見神社の磐船と御姿石(愛知県一宮市)


愛知県一宮市今伊勢町本神戸字宮山

元伊勢伝承地・尾張国中島宮に比定される神社。
倭姫命が、石の船で酒を醸し天照大神に献じた場所とされ、その磐船が境内に残っている。

磐船

元来あった形とは違うことに留意

磐船は独立した建屋と石碑で保管されている。


磐船のほか、石槽・酒槽石・酒船石などの別称もある。

この磐船で、毎年伊勢神宮に供える神酒を醸造したという。
もろみを石の上で押し搾り、酒粕と清酒を分離させる働きを持っていたと考えられている。

磐船は横120cm、縦50cmの凝灰岩で、2つの岩石に割れている。
石の上面には僅かな窪みが確認できるが、全体として磨耗状態が激しい。

オコリの患者に、この石の粉末を飲めば治るといわれていたことも加わり、摩滅が進んだという逸話が付帯する。

実際に醸造に用いられていたかはわからないが、少なくとも本殿裏の地中に2個の酒甕が埋められていることが確認されている。


さて、本殿背後には倭姫命社があり、これは柱を四隅に立てただけで壁を持たない特異な社殿であり「吹貫ノ宮」の異名を持つ。
さらに本殿に接して「倭姫命の御姿石」(姿見石とも)という立石が存在する。
倭姫命が自らの姿見に使うため石工に作らせたとも伝わる。

しかし、倭姫命社・御姿石へ至る参道が見当たらず、むやみに立ち入りできる様子ではなかった。拝殿から本殿側をのぞいてみるが、倭姫命社・御姿石を直接確認することはできなかった。
web上にも全く写真がないため、おいそれと見れるものではないようだ。



参考文献


  • 森徳一郎 「本神戸酒見神社」 『尾張の遺跡と遺物』第46号 名古屋郷土研究会 1942年 (愛知県郷土資料刊行会 『尾張の遺跡と遺物』下巻 1982年版を参考とした)
  • 坂重吉 「酒見神社の酒船石」 『尾張の遺跡と遺物』第46号 名古屋郷土研究会 1942年 (愛知県郷土資料刊行会 『尾張の遺跡と遺物』下巻 1982年版を参考とした)


2019年9月22日日曜日

貴志御霊神社の「夜なき石/茶臼石」「貴志のぬけ石」(兵庫県三田市)


兵庫県三田市貴志宇美内

現在は単に御霊神社と呼ばれるが、従来は貴志宮(貴志神社)と号されてきた。

詳しくは明治時代の神仏分離の時に旧記散逸というが、大彦命(大比古命)を祭神としてきたという。

境内の旧跡として「夜なき石」が知られる。



由緒書から引用しよう。

その昔、境内にあった石(夜なき石)が殿様の目にとまり屋敷の庭石に使われたところ、夜になると「貴志に帰りたい、貴志に帰りたい」とないて殿様を困らせた。そして医師は元の貴志に帰ってきた。(由緒書「国指定重要文化財 貴志御霊神社のご案内」)

夜なき石という名は、赤子の夜泣きを止める霊験に由来するものが多く、その記述は本事例には見られない。
ただ、この「権力者によって動かされた石が、元の場所に戻りたがる」という話は、各地に類似伝承が多い。
人々が、無生物である石に対して一種の共感や同一視・擬人化がないと、この類の話は生まれにくい。
単に夜なき石の分布ではなく、説話パターンごとでの分布を調べてみても面白いことがわかるかもしれない。

さて、現地看板にも興味深い記述がある。

まず、夜なき石の別称として茶臼石という呼び名もあったこと。
次に、この石は酒船石であり、当社の祭礼に用いる神酒をこの石でつくったのだという。

石の上で酒を造るとは、もろみを石上で押し搾り、清酒と酒粕に分離するという行為である。

看板では大和の酒船石との関連性に触れているが、最も類似するのは愛知県一宮市の酒見神社に存する磐船である。
酒見神社例も、奉納用の酒を石上で醸造したといわれている。



さて、写真のとおり、夜なき石とともに合計3体の、奇石とも言ってよい形状の岩石が横並びしている。
すべてが夜なき石ではなく、垣で囲われていることからもわかるように、写真向かって一番右が夜なき石である。

左側2体は「貴志のぬけ石」と呼ばれ、夫婦石のような位置づけで信仰されているようだ。
興味深いのは、同じ貴志地区にもう一つ「抜け石」があることだ。
下記のページでその存在が報告されている。

兵丹石 (兵庫県三田市貴志史跡) - グルコミ

兵丹石と呼ばれるのは、瓢箪の形になぞらえたものだろう。
開墾時に出た「抜け石」で、形に特徴があったから保存したという。
当社の「ぬけ石」も、それに類する来歴の奇石と考えて良いだろう。




参考文献


  • 貴志御霊神社氏子総代発行の由緒書「国指定重要文化財 貴志御霊神社のご案内」
  • 現地看板


2019年9月16日月曜日

鈴鹿峠の鏡岩(三重県亀山市)


三重県亀山市関町

三重県と滋賀県の境にまたがる標高378mの鈴鹿峠は、仁和2年(886年)に開通した古い峠であり、箱根峠と並ぶ東海道有数の難所として有名である。

その鈴鹿峠の南西側、急斜面上に三重県指定天然記念物「鈴鹿山の鏡岩」がある。



別名「鬼の姿見」。立烏帽子という鬼女が鏡代わりに使った岩だといわれる。
山賊がこの岩に映った旅人を襲ったという伝説もある。

かつてこの岩には一面に青黒く光る鏡肌(硅岩が断層によってこすれたもの)があったらしい。
しかし、明治初年の山火事により岩肌が損傷し、旧状とは異なるものとなった。
岩の色も赤褐色に変わってしまい、さらにそこに、風化や人々が削り取った跡なども加わり、現在、明瞭な鏡肌は見つけにくくなっている。




伊勢国の地誌『勢陽五鈴遺響』(1833年完成)によると、「鏡石ト云巨石アリ毎二月八日土人注連ヲ牽キテ不潔ヲ避ク」という記述が残っている。
また、永仁2年(1294年)に鈴鹿峠の北にそびえる三子山から鏡岩の近くに田村神社が遷座し、鏡岩から田村神社の一帯を「たまや」と呼んでいたという。
これらの事実から、少なくとも中近世のある時期からは鏡岩が神聖視の対象だったと言える。

さらに、この鏡岩から北へ約100m進んだ茶畑から遺跡が見つかっている。
平安時代の土師器片417点、須恵器片14点が出土し、非実用的な小皿が大半を占めることと、峠という特殊な立地環境から、峠の神に対する祭祀遺跡と考えられている。

土器出土地点付近


その峠神が降臨したのが、鏡岩ではないかと見る向きもある。
しかし、土器群が鏡岩の手前から出土しているなら肯けるが、土器群の出土地点から直接鏡岩を拝むことはできない。
もちろん、遥拝するという祭祀形態も存在するが、岩石と遺物を直接結び付けるほかの証拠もない。

以上の点から、これらの土器が、鏡岩を祭祀した痕跡だったかどうかは判断保留としたい。

参考文献


  • 関町教育委員会(編) 「庶民の旅」 『鈴鹿関町史』上巻 関町役場 1977年
  • 山田木水 「巨岩洞窟」 『亀山地方郷土史』第3巻(三重県郷土資料叢書第32集) 三重県郷土資料刊行会 1974年
  • 林宏 「鈴鹿峠の鏡岩」 『鏡岩紀行』 中日新聞社 2000年


2019年9月14日土曜日

赤岩大神(岐阜県養老郡養老町)


岐阜県養老郡養老町小倉

赤岩大神は、神社本庁に所属しておらず、『養老町史』などの郷土資料にも言及がない場所である。
養老町図書館で郷土資料コーナーを当たったが、ほとんど情報が出てこなかった。

唯一、近畿日本鉄道が発行している近鉄沿線ハイキングマップ「てくてくまっぷ岐阜-3 養老公園周遊・志津北谷コース」に、二頭の竜が赤い岩に変わり大洪水を防いだことから赤岩をまつったという情報が記述されているのみだった。

現地を訪れると、鳥居や境内に赤い石が集積しており、拝殿内に赤い岩石が奉納されていた。

赤岩大神入口。鳥居裾に集積した赤石礫に注目。

赤岩大神拝殿。手前の岩塊上に赤石の石積みが見える。

拝殿内に安置された岩石群

しかし、これらが赤岩大神の名の由来というわけではない。
社殿からさらに山奥へ15分ほど進むと奥之院があり、そこに赤岩をまつっている。

奥之院入口。川沿い谷間の道を進む。

奥之院全域。視界の開けた谷間に立地。

赤岩

奥之院の赤岩は、いわゆる巨岩と呼べる大きさではなく、人が腰かけられる規模の岩石ではある。
赤岩の名のとおり、岩肌は赤色化している。

他方で、赤岩の背後には岩崖が露出しており、こちらも祭祀の対象に含めれば大規模な岩石祭祀の場と化す。
しかしこの岩崖は赤色化していないので、岩崖と赤岩は元は同体というわけではなさそうだ。

赤岩と背後の岩崖との色のコントラスト

個人的に注目しているのは、赤岩大神の自然環境と古墳の存在である。

赤岩大神は谷間川沿いに立地し、赤岩の奥の小倉谷は岩がゴロゴロしており急峻という。
ちょうどその谷の入り口にあたる場所に奥之院があり、麓で祭祀をする場としてはうってつけと言える。

後世には不動明王をまつる行場にもなった。

行場としての滝も形成されている。

また、古墳は小倉山古墳として遺跡登録されており、墳丘上には赤岩龍神の祠が立つ。
この古墳は、赤岩大神の社殿から奥之院の途中にある。

赤岩龍神の祠

赤岩龍神の祠は御嶽教信者の方により昭和13年に建立されたものというから、古墳との直接の関連性はないが、赤岩の谷が古墳時代から墓域として一つの葬送祭祀の空間であったことは否めない。


2019年9月12日木曜日

梅宮大社のまたげ石・白砂・影向石(京都府京都市)


京都府京都市右京区梅津フケノ川町

古代氏族の橘氏が創建。
橘氏の氏神、酒造の神として出発した神社である。
平安時代、橘氏の衰退と入れ替わるように藤原氏の信仰が篤くなったという。

本殿の東側に、白砂で敷きつめられた場所がある。
白砂からは細長い岩石が露出しており、さらにその上に2個の丸石が置かれている。これが「またげ石」である。

神垣の内側にあるため近くまで寄ることはできないが、垣の外から下写真のように肉眼で見ることができる。



嵯峨天皇の妃の檀林皇后が、子宝に恵まれないのを気にかけて、願掛けにこの岩石をまたいだところ、懐妊したという由縁を持つ。
以後、不妊に悩む女性が「またげ石」をまたぐと子宝の霊験があるという。
社務所に申し出れば「またげ石」での子宝祈祷も執り行ってくれるらしい。

また、檀林皇后は出産の際に梅宮大社の境内に白砂を敷き詰め、皇子を出産したと伝えられる。
現在、安産のお守りとして神社では「白砂」の授与もされている。


梅宮神社には、他に「影向石(熊野影向石または三石の別称もあり)」と呼ばれるものがある。

熊野から飛来してきた3羽の鳥が梅宮大社に降り立ち、そこで石化したという伝承をもつ岩石である。
現地探訪時は探し当てられず写真がないが、本殿の西側にあるようだ。

境内の南東隅には「猿田彦大神・宇壽女命」と碑が建てられた2体の岩石がまつられている。岩石をそのまま神としてまつる素朴な石神と思われる。



立派に整備された百度石にも注目。



2019年9月11日水曜日

宇治上神社の天降石/岩神さん(京都府宇治市)


京都府宇治市宇治山田

宇治平等院から宇治川を挟んだ北岸、仏徳山(大吉山)の山裾に宇治上神社と宇治神社が鎮座する。

明治時代以後、宇治上神社は上社、宇治神社は下社として位置付けられているが、『延喜式』神名帳で「山城国宇治郡 宇治神社二座」と記録された二社に相当する。
二社を併せて宇治鎮守明神・離宮明神・離宮社・離宮八幡などのさまざまな名称で呼ばれた。

その宇治上神社の本殿の東隣。
なかば唐突な感じで佇むのが天降石(てんこうせき)である。岩神さんの異名も伝わる。




詳しい由来は不詳ながらも、その名称から神として信仰された一面、天から神あるいは岩石自体が降臨したという伝承の一面をうかがわせている。

京都新聞の『岩石と語らう』の記事によると、神社談の仮説として「隕石」説と「かつて何らかの社があった跡」説を紹介している。

社域内の社殿と岩石のお互いの位置関係から考えると、社域の中心は本殿・拝殿であり、岩石はその合間に置かれた感がある。
本殿・拝殿に後発して岩石が出現・信仰された可能性は比較的高い。

岩石が出現した理由が隕石によるものとすれば興味深いが、鑑定はされていないのであくまでも推測の域は出ていない。

少なくとも、現在は岩石の上にうず高く石が積まれていて、人々が様々な思いを重ねた積石祭祀の典型を見せている。

参考文献


  • 竹村俊則 『昭和京都名所図会』7 駸々堂出版 1989年
  • 京都新聞記事『岩石と語らう 140 宇治上神社の天降石』(1999.7)


2019年9月9日月曜日

感神社(兵庫県三田市)


兵庫県三田市下青野

三田市内には感神社が複数分布しているので、当地は字名から下青野感神社と表記される場合がある。

当社に、注連縄が巻かれた岩がある。



こうやって写すと神寂びた巨岩の感が漂うが、現地に立つとまた異なる印象を受けるだろう。
別の向きからの写真も掲載してみる。




社殿の裏に露出する岩盤であるが、社殿に比して、その規模は著しく広大というわけではない。
正確なところはわからないが、現状を観察する限り、岩盤を削平して社殿が切り合って建てられており、社殿を建てる時に地山の岩盤が現れたかのようでもある。

岩盤を削り取っていることから、少なくとも社殿建立時点で、岩石を保存するという心の働きは見て取れない。
ただ、それはイコール、岩石信仰を否定するとまでは言い切れない。
岩石を半ば取り込み、乗りかかるという心の動きだとみなせば、それを岩石信仰の一つの形とみなすことも不可能ではない。
(それは旧来の信仰に新たに神社信仰が乗りかかったとも解釈できるし、岩石信仰を眷属のごとく祭神の神威増大に援用したというような解釈その他も可能だろう)

この感神社の岩盤について紹介されているwebページは少ないが、有馬温泉の旅館・龍仙閣の三田市観光スポット紹介ページでほぼ唯一、この岩盤について言及がある。以下引用する。

感神社の社殿裏には露呈した岩盤があり、御神霊が宿る神域として、崇拝されている「磐座」があります。

上記ページには、この岩盤が神宿る「磐座」であり、崇拝されているとの情報を載せている。
事実、現状でも注連縄が巻かれているので、神社にとって聖なる岩であることは間違いないが、その歴史の深層を探るにはあまりに情報が少なく、ひとまず岩石信仰が存在するという事実面の報告だけしておきたい。

境内には「千丈寺山大権現遥拝所」の石碑が建つ。

感神社境内に存する石碑

感神社から遥拝する千丈寺山は、大変綺麗な三角形を描いている。
感神社の岩盤は山裾ではなくかなり集落内に位置するが、集落が広がった結果かもしれないし、この山容を拝むためにあえて離したところに祭祀の場を設けたのかもしれない。

感神社から望む千丈寺山


2019年9月8日日曜日

磐神社(兵庫県三田市)


兵庫県三田市市之瀬

市之瀬地区(切詰集落)の集落最奥、二つの山に挟まれた山田川沿い。
山へ入る手前に神社は立地し、そこには磐神社の名が示すように二つの岩がまつられている。

磐に接して社殿が建てられている。

岩陰部分

境内右手にもう一つまつられた岩。

磐根を張って、手前に小祠をまつり神々が寄り合う。

磐神社の2つの岩を撮影。

磐筒男命を祭神とする磐神社は、社殿を岩に寄せるまでに岩をまつる行動を体現化し、水源となる川を押さえ、二つの山に守られる。
この二つの山も麓から望むと美麗である。

磐神社向かって左(西)の山

磐神社向かって右(東)の山。磐神社は川の東でこちらの山域に属する。

藤本浩一氏『磐座紀行』(向陽書房、1982年)によれば、社殿背後の岩は最大高4m、幅は7m。
右手にあるもう一つの岩は、樹木を除いて岩の高さ3m、幅4mを計るという。

境内にあった、何らかの用途を終えた石

なお、前掲の藤本氏によると、磐神社から約6km奥に行った小柿地区にも、岩をまつる社があるというが、神社名は記されていない。