2020年12月22日火曜日

私が考古学で学んだこと。そして、考古学と違う道に進んだ理由(長野県宮崎遺跡の発掘の思い出から)

私が大学時代、水平測量を勉強していた時にまとめたノート(ガン見禁止)

学生が感じた考古学の世界


私は大学生時代、考古学のゼミに所属していて、そのときに考古学的な考えのイロハに触れることができた。

院にも進んでいないので、学部生で私が学んだことは"なんちゃって"考古学の次元だったことは間違いない。
そして今は考古学から離れたことをしているが、考古学が大事にしている客観性の担保のしかたや、資料に即して過去を考える手続き方法は、私にとっての思考のベースを形作っている。


大学3年生の時、私は学芸員過程の一環で長野県長野市の宮崎遺跡へ行き、発掘調査を中心とする諸作業に従事した。
2003年8月~9月の約1ヶ月間のことだった。長野市とは言っても、周りは山と田畑の中で合宿形式。たいした娯楽もなく、みんなで自活しながら発掘に従事した経験は修行のような趣があり、今も印象深い。

発掘調査の後、指導教授に提出したレポートがふと出てきて、読んでみたら、考古学調査に対する自分なりの総括というか率直な思いが書いてあって懐かしく感じた。
考古学の世界の入口部分を綴っているだけだが、リアルはリアルである。考古学のイメージがおぼろげな一般の方や、いま考古学に携わっている大学生にも響く部分があるかもしれないと思って、当時のレポートを元にして当時をふりかえってみたい。


宮崎遺跡の基礎知識


私が発掘に参加した宮崎遺跡は、当時、母校の立命館大学が長期的に調査していた縄文時代の遺跡である。基本的に住居跡から構成される集落遺跡だが、配石遺構などおそらく葬送に関わる遺構も見つかり、私が参加したとき、幸運にも配石遺構の一部を調査担当することができた。

測量、発掘、遺物の整理、そして図面作成など一通りさせていただいた記憶があるが、当時の調査成果は最終的に報告書になったのかなと今検索してみたら、立命館大学が宮崎遺跡の報告書を刊行したのは2000年が最後で、私が参加した2003年以降の調査結果は報告書としてはまだ公にされていないようである。

→「刊行物 ― 立命館大学 考古学・文化遺産専攻ホームページ」より

発掘調査が報告書化されていない遺跡が全国に山積しているのは、考古学が抱える一つの病と言っていい。
講義で学んだ考古学の社会還元活動が理念通り働いていない!ピュアな学部生時代、考古学に幻滅する一つの現実だった。


調査のための準備・撤収作業 編


1ヶ月の調査期間というが、なにも発掘をひたすらするのが考古学ではない。
まず、掘る前にすることと、掘った後にすることがある。これが大変地味であるが、考古学のリアルであり、けっこうな時間とエネルギーを費やすので、レポートの最初に紹介しておこう。

大学から宿舎まで、調査に必要な機材・道具を運び出す。一行で書くと簡単だが、機材が正常に動くかを確かめてから積むし、精密機械もあるので、積む順番などにも流儀がある。もちろんのこと、積み漏れがあってはならない。
このあたりが、すでにベテランの院生を中心にしてやりかたが確立されており、それを組織として系統立てて一人一人分担して作業するわけである。

次に、1ヶ月泊まる宿舎は、いわゆる空き家を借りるというものだったので、まず人が住める状態にする必要があった。大がかりな引っ越しのようなものである。
この宿舎で、係を決めて、食事作りや洗濯(二層式を触ったのは後にも先にもこの時だけ)、掃除などをみんなで持ち回りでやるわけである。

なお、この調査は考古学ゼミ以外にも、学芸員資格を取るために考古学に関係ない学生も参加する。
いわゆる烏合の衆状態のところからコミュニケーションをとっていくわけである。しかも、ゼミ以外の人は短くて1週間で帰り、また新しい人が来るので、仲良くなりそうな頃にはお別れという状態でもあった。

私は合宿中、米大臣として一部で名を馳せた。
何十人の米飯を用意するので、合ではなく升の世界である。ガス釜で焚くので、水加減を間違えるとぺちゃぺちゃするか焦げまくる。感覚的にしていただけだが、私はなぜかその調整がうまいほうで重宝された。今でも米の焚き方にちょっとうるさいのは、このときの経験と自負から来ている。

とはいえ、即席の素人たちが質素な食材で飯をつくるので、全体的に一人当たりの食事量は少なく、発掘に費やすカロリーを考えると半飢餓状態だったように思う。
料理のうまい他学部の学生が1週間だけ来ていて、その子が工夫して作ったコンポートが最高においしかった。今思い出しても、あそこがこの合宿生活のピークだと思う。


さて、遺跡の話に移ろう。

現場に到着すると、まず遺跡は、遺跡のまま露出しているわけではない。ただの土の地面になっているわけでもない。

遺跡地一面には、腰以上の高さに草木が繁茂していた。これを刈り取るということから人海戦術で始めないといけなかった。最初の1日目はこの草刈りに費やされる。

草木の草刈が終ったら、次は地面に、過去の発掘調査のときに作られた、おびただしい量の土のうを運び出す作業が待っていた。
みんなでバケツリレー方式になって、途方もない量の土のうが回ってくる。水を含んだ土のうは大変重い。石が出っ張った土のうには気をつけなければならない。土のうの大きさもけっこう異なるので、重さが予想と異なるときもある。私は典型的な文化系人間なので、このエンドレスにも感じた作業には閉口した。

でも、草刈と土のう運び出し作業を行うというこの初日は、まさに考古学の本道そのものである。その後1ヶ月続く調査の大変さに耐えることができた気すらする。

なお、撤収時には逆に、土のうを掘った遺跡地を保護するために敷き詰める作業が待っている。

準備・撤収のそれぞれに言えることとしては、つくづく考古学調査というのは地道な裏方的作業があってこそ成り立つということである。

考古学者という人は、派手な発見を楽しむ探検家ではなく、こういった地道な作業をこなす人であり、忍耐力、生活力、そして組織内でのチームワークなど、人間性が大きく左右する仕事であることを体感したのである。


その後、私が宮崎遺跡で行なった作業は大きく2つあった。
1つは遺跡での発掘調査であり、もう1つは宿舎で行なっていた土壌水洗作業である。まずは発掘作業の方からふりかえろう。


「SX10」の遺構調査 編


約10日間、遺跡の北部にある「SX10」と呼ばれる遺構の調査を任せていただいた。

SXというのは考古学特有の遺構番号で、SKなら土坑とか、SDなら溝とか、だいたい慣習的に決まっている記号があった。SXのXは「不明」遺構の意味が込められていたのだろう。
何らかの遺構ではあるが、何の生活痕跡なのかはまだ特定できていなかったからという意味合いで名づけられた。

この遺構の最初から最後までを担当した訳ではなく、SX10一帯の掘り下げ作業からSX10の半掘までを担当しただけであるが、大学生の私はその時に「土の色」に悪戦苦闘していた。


最初に指示を受けたのは、北部遺構を覆っている黒色土層を全体的に掘り下げ、その下にある茶色土層を出すように、とのことだった。
最初その指示を聞いたとき、それによって何がわかるのかということもわからなかった。

後日談から言えば、茶色土層が当時の遺構面であり、その土層と黒色土層との境目を明確にすることで、遺構の範囲を明らかにするということだった。
しかしそれがわかった後も、問題は残った。

茶色土層と黒色土層の違いを見極めるのに、正直自信がなかったのである。

最初の頃は、土の色の微妙な違いを見極めることに自信がなく、これは茶色なのか、これはまだ黒色なのかという迷いを正直持っていた。

原因の一つは、掘っていったときに出る土と、まだ掘っていない土が混ざり合うので、茶色と黒色の中間的な土色が出てきてしまうという点にあった。
そこで、少し掘ったら、定期的に地面の清掃をするのだが、それでも土の色が分かりにくい箇所がいくつもあった。

この解決法は、万人共通のものはないらしいということを知った。

先輩の院生の方々は堂々と地層の分かれ目を記していくわけだが、私には見分けられないので、さながら心霊写真の鑑定状態である。

近しい知り合いに、色弱かはわからないが、色の見分けが昔から弱いと自虐している後輩がいた。私も色弱の傾向があるのかなと思ったが、いわゆる色認識の診断は正常内である。

客観的と言われる考古学において、この地層の識別は、私には時に主観的に映る瞬間がって、一言でいえば考古学的ではないと不快だった記憶がある。

まあ、今思えばそれは単に自分の経験不足によるもので、やはり掘った土を定期的に実に入れ、発掘面をきれいにしながら掘っていくという基本ルールを遵守していくのが最適なのだろうという結論に落ち着いている。


その後、私はSX10の完掘には立ち会っていない。後で聞いた話によると、最終的には半掘で終了したらしいが。

その代わり行った作業として、SX10を掘り下げていく中で出てきた遺物群や、遺構にそのまま置いておけず、取り上げざるを得なかった石群を図面上に記すという記録作成のほうを手伝った。

出てきた遺物では、骨・炭化物・赤色顔料がとにかく目立っていた印象がある。
炭化物は、最初に見たときは骨に伴う生物の炭化物なのではないか、と思っていたりしたが、繊維質を持つ炭化物などが多かったためこれは植物の炭化物だと先輩からの所見もいただき、認識を修正した。

骨も人骨ではないようで、SX10は調査の途中から墓所と推測されていたが、その割には埋葬の直接的物証になるものが目立たないのが疑問の一つだった。

他にSX10で抱いた疑問としては、赤色顔料と石の風化した赤っぽい粉末を見分けることが難しかった。このあたりは、最後までベテランの方に判断をお願いしないと自信がない状態だった。

ほかには、考古学の水糸測量の方法や、図面における石の表し方を学ぶことができたのは得難い経験だった。そして、これらの知識は次に担当することになる「SX3」の調査で役に立つことになる。


「SX3」の遺構調査 編


宮崎遺跡では、発掘調査の終盤に現地説明会を開催した。
その説明会の直前まで、数日間参加していたのが「SX3」と呼ばれる遺構の調査だ。

SX3からは配石遺構が見つかっており、この配石遺構の下に何があるのかを確かめるため、東西と南北に断ち割りの発掘面を入れるという調査をしていた。
この調査の途中から私は参加し、東西の断ち割りが入れられ、相当部分掘り下げられた状態からのスタートだった。しかし、このSX3は最後まで発掘に立ち会うことができて、一つの遺構の最終的な姿を見届けることができたことを私は当時かなり喜んだようである(レポートを読む限り)。


途中参加ということもあるが、SX3の土層観察はSX10に輪をかけて難しかった。
SX3の場合は、層ごとではっきりと土の色が違う訳でもなく、むしろ土質(砂っぽいか、粘着質なのかといったところ)での見極めがポイントになっていたからだ。

すでに、過去の調査で一度実測されていた上部配石遺構の図面をトレースした上で、東西・南北の断ち割り図面(平面図・断面図)を作成する担当になった。

SX10で学んだ技術・知識を、SX3で馴染ませるという成長機会だった。
ただし、土層観察は自分に見極めることができなかったため、自信がない者がてきとうに判断することは歴史の棄損につながると思い、断面図の土層観察からは身を引くことにした。
土の色だけではなく、土質もしっかり考慮に入れなければならないと気づいただけでも収穫だった。


さて、SX3も配石遺構=墓所?と推測されていたが、地表下に墓所を示す明確な遺構が検出できなかったため、最終的にはその性格に不明な部分が多く残す遺構となった。

たしかに、掘り下げをしていた私の実感としても、出土した遺物はほとんどなく土器片が1点だった。
埋葬面ではないかと唯一指摘された地表直下のふわふわっとした黒色土層は、人が埋まるほどの分厚さがない薄い層だった。


SX3の周辺には、実は墓地遺構が密集していた。その中で、この遺構だけが墓所ではないというのはおかしい話かもしれない。周囲が墓地であるという状況証拠からSX3も墓所とみなす考え方もあるかもしれない。

しかし、SX3の配石遺構は(他に類例はあるようだが)遺跡内のほかの配石遺構とは似つかわしくない形態をしていて、いわゆる特異な配石だったことがその消極的な解釈を妨げた。

自分が携わった遺構として、今も解釈の行方が気になる存在ではある。


土壌水洗作業 編


さて、これまでは遺跡の現場作業について触れてきたが、今回の調査でもう1つ大きな比重を占めたのが土壌水洗作業だった。

遺跡から採集してきた土を土嚢に詰め、その土のうを3mmメッシュの網の上で水洗することで、3mm以上のものだけが残り、微細遺物が検出できるという仕組みである。

私はこの水洗土のうの台帳管理役だった。
水洗された籠の把握には人一倍専念する必要があった。

管理役=班長だったので、実はあまり土壌水洗自体は行なっていない。1ヶ月間の調査期間で3回ほどしか洗っていない。
基本的には、土のう袋からバケツに土を空け、溶かし、水洗している人に運び、水洗済みの籠を日当たりの良い場所で干し、廃土を新たに土のうに仕上げる、そして台帳にその日の水洗土のうを記録するという作業を行なっていた。

これも、考古学の極めて裏方に回る作業の一つだ。地味オブ地味の上に、1冊の調査報告書ができあがるというわけだ。
(結局刊行されていないけど…)


私が考古学で学んだことと違う道に進んだ理由


宮崎遺跡での1ヶ月の調査の思い出をふりかえってみた。
あ、考古学は学部卒業したらもうやめよう、と決意したのは、何を隠そうこの発掘調査から帰ってきてだった。

調査を通して私が得たものとは何だったのだろう。
考古学的知識や技術の点で絞るならば、SX10やSX3で得た遺構実測の方法がテクニカルな面での一番の収穫だっただろう。

しかし、こうした細かな考古学的技術の習得は陳腐化する。現に、15年以上たった今、私はもう水糸測量はできないだろうし、もっと基礎的な平板測量の理論ですら忘れかけている。

それだけでなく、考古学の調査方法自体も、時代に合わせて進化しているはずである。具体的な知識はアップデートされ、陳腐化するのである。
昔取った杵柄は、あくまでも昔取った杵柄。そのスキル自体はいま誇るものではない。
そもそも、考古学調査は一人ではできず、組織や団体の中に身を置いて初めて発揮できるスキルとも言える。


スキルよりは大事なのは、時代が変わってもゆるがない、考古学的な考え方や理論的な枠組みにあるだろう。
それは何かと書いていくとキリがないが、冒頭にも書いたとおり「資料第一主義」「事実と主観は分ける」といった、過去という異質な存在に対してどのように対峙するかという姿勢は、考古学に大いに訓練させてもらった自負がある。

私はこのブログのタイトルどおり、岩石に関する祭祀・信仰の研究をしているので、資料は目に見えない世界であることが多いし、主観が容易く入り混じる危険な世界である。
当時の指導教授からは、いかがわしい研究をしていると茶化されたものである。

でも、そういっている教授も、古墳葬送儀礼の研究をしていた。
葬送儀礼も祭祀儀礼の範疇と考えるならば、同じ危険性をはらんでいるのにと内心思ったものだが、そこは年季の違い。祭祀・信仰に手を出せるのはベテラン研究者レベルで、学部生がおいそれと手を出すテーマではなかったのも今ならわかる。
(でも、興味が湧いて解明したいと思ったテーマがそれだったのでしかたないよね)


そんな私にとって、生の祭祀・葬送に関わる遺構に触れ、かつ、それが配石遺構だったというのは、間違いなく貴重な経験だった。
しかも、墓所といわれる地区のなか、結局、目的不明と言わざるを得ない配石遺構を担当できたことは、自分の研究の参考にも役立った。
過去に対して安易な推定を施さない、わからないものはわからないままにする、事実を記録するにとどめて後世に委ねるという考えかたを地で行く遺構だった。

祭祀を研究する場合、祭祀行為の解釈を行なわなければならない。そのためには時代・地域を選ばず、色んな祭祀のありかたを頭に入れておかないと、自分の中での解釈の幅が広がらない。
私は大学生当時、古墳時代を専門にしていたので縄文時代遺跡は専門外だったわけだが、それでも今回の宮崎遺跡の調査は、自分の解釈の幅を広げ、かつ、広げたままにする良い機会になった。


また、宮崎遺跡の調査の最初から最後までいたことも大きな収穫だったように思う。
これによって、遺跡を掘り出し、現地説明会を開き、再び埋めるという一連の流れがわかり、組織の一端として身を持ってその大変さを体感することもできた。考古学で培われる人間性と言ってもいいかもしれない。

考古学の人間性教育の効果というものは間違いなくあるが、地道・忍耐の世界には、特に人間関係において閉鎖的な一面もある。あくまでも私がいた時の研究室やゼミの話という但し書きをしておくが、私に限らず多くの学部生がそういった閉鎖性を見て、考古学から足を洗う一因になっていただろうと思う。
考古学という一つの専門職の世界なので、職人徒弟のメリットでもありデメリットでもあるのだと思うが、思考放棄の部分も多かった。これはある意味、人間性教育の逆であり、反面教師だった。


私が大学で考古学を専攻した理由は、日本の岩石信仰の歴史を考古学的に追究することができないかという問題意識で始めたものだった。

実際に考古学の世界に身を置いてみて、学部生としての狭い視野の中と自分の能力の限界から、やがて私は考古学のアプローチで目に見えない心理世界である岩石信仰を研究していくことは難しいと感じた。
さらに、自分がしている岩石信仰の研究というものは、大学などの専門機関に身を置かなくても、個人で研究できうるテーマであることにも気づいた。
これは、私なりに導いた方法論的な限界で、前向きな気持ちで考古学以外のアプローチを模索するきっかけになった。


一方で、大学で岩石信仰の教えを乞う師に恵まれなかったという、単純に縁や巡りあわせの問題から、考古学での学びに限界を感じた部分もあった。
師がいない組織で研究をしていてもしかたない。院進学に興味が持てなかった理由の一つである。

そこに加わって、閉鎖的な人間関係をけっこう見せつけられるわけである(今は知らないです。当時)。人間関係だけでなく、博士課程まで進んでその先の進路が…な先輩やOBもいるわけで。これは文系ポスドク共通の日本社会のねじれなのだけれど、こういった要素が加わってきて、だんだん大学院での生活スタイルや、考古学業界での仕事に魅力が持てなくなっていったのも正直あった。

そして、自分もそんな閉鎖的な人間の一員じゃないか、とさえ思った。

そうすると、別の興味関心として、研究以外のこともしたくなってくる。研究ばかりしていることで社会的な視野が狭くなる自分も嫌いだったのだと思う。
自分が大学で学ばなかったことをこれから社会で学びたい、そして自分に足りないものを埋め、成長できるという世界に期待が増していったのである。一種の逃避行動か青い鳥症候群だったのかもしれない。
そしてためしに就職活動をしてみたら、ありがたいことに内定をいただき、この逃避行動は成功した。社会に出てからは、自分の予想どおり足りていないものがいろいろあることに気づき、酸いも甘いも糧になるという気持ちで、いろいろな経験をさせてもらって今に至る。

今ふりかえってみてその判断が正しかったかどうかなんてわからないし、正しいもくそもないだろう。とりあえず今の自分が立っている位置はかけがえのないものである。


長い自分語りになったが、これを読んでいる考古学初学者の方や、大学で考古学を学ぶ学生さんには、一人の元考古学徒の経験談としてご自身のイメージと重ね合わせたり、覚悟を新たにしたり、イメージを修正する参考になればと思う。

考古学で何を学びたいかは、考古学で何を学べるかということと比較してみてもいいかもしれない。
考古資料が個人単位では調査するものではないという特徴、考古学の世界での地道な作業とその適性を知ること、そして、自分の関心と重なり合う良い師に巡り合えるかということ、さらに自分の研究テーマが考古学的にアプローチできるか、大学卒業後も専門機関に身を置いて集団の中で追究できるテーマかということ。

このあたりについて私なりの例を書いてみたつもりだ。


2020年12月15日火曜日

多度大社と多度山の岩石信仰(三重県桑名市)


三重県桑名市多度町

多度山には、「五箇の神石」あるいは「五箇神石」「五石」などと総称される5体の神石が存在する。
これは、影向石・御供石・籠石・御櫃石・冠石の五石を指す。

拙著、吉川宗明『岩石を信仰していた日本人―石神・磐座・磐境・奇岩・巨石と呼ばれるものの研究―』(遊タイム出版、2011年)のなかに 「多度山の五箇神石(三重県桑名市) 錯綜する神石の所在と経塚祭祀」の一節を設けて説明しているので、詳しくはそちらを参考にされたい。

ここでは、掲載しきれなかった写真および、その後に入手した情報などを補記しておきたい。


影向石(かげむくいし/かげむきいし)


多度大社境内にある。

最新情報としてここで取り上げておきたいのが、影向石の周辺環境の変化についてである。

2020年1月に参拝した際、影向石の前に「国幣大社御昇格百年 大社号奉称二十年 記念事業」の奉賛者一覧を記す看板が新設されているのを目撃した。

新設された看板

後ろを覗くと…

これが影向石。看板だけでなく草も繁茂してわかりにくい。

2011年時点の影向石。まだ参道沿いで繁茂もなくわかりやすかった。

影向石は看板の裏に隠れ、より一層認識されにくくなり、記憶の風化に拍車がかかる状況となった。

影向石を知ってか知らずか。
いや、神社関係者なら知っていてしかるべきと思うが、ここしか看板を設置する場所がなかったのかと疑問に思わざるを得ない処置である。万が一意図的としても、秘密主義で記憶風化につながる行為は今後の継承者不足社会を見据えれば下策である。


御供石(おそなえいし)と御櫃石(おかろといし)


多度大社の本宮拝殿の前に、参拝路をまるで塞ぐかの如く存在する岩塊が御供石である。
かつて戦国期に社殿が一時焼亡した時、代わりに供物を置いた岩石と伝わる。

御供石

御供石

正月参拝時。横を多くの人が通り過ぎていくが…

石の周囲には注連が張られ、参拝時には確実に目に入る存在ではあるが、基本的に多度の五箇神石には現地での標示看板が存在しないので、はたしてこの石に名前がついており、その由来を知る参拝者がいかほどかというと、きわめて僅少と思われる。


そして拝殿の裏、本殿の手前に御櫃石(おかろといし)もあるが、外から確認することはできない。

私は、仲介していただける方がいたので神職の方同席の上で、お祓いしていただき実見することができたが、写真は遠慮した。
記憶がおぼろげだが、本殿向かって右脇に、社殿となかば取り込まれるような状態で露出する岩盤だった。

多度大社本宮。拝殿と本殿の間に御櫃石がある。


籠石(こもりいし/かごいし/こうごいし)


明和7年(1770年)、斜面の上から転がってきて、わずかな樫の木に支えられて止まったことが「稀代の不思議」であったと伝えられる石。

多度大社本宮拝殿の横の崖に突き出る岩塊が籠石

籠石近景。石の下部は補強されているようだ。

石とともに、30面の平安時代の鏡が見つかった。その場所については、斜面の上からという説と、もともと今の籠石がある辺りにあったものと考える二説に分かれている。

大場磐雄氏の調査メモ『楽石雑筆』によると、これら鏡類の出土場所は「壺ノ陳場」であるという書き置きの存在を記し、「壺ノ陳場とは本社裏の亀尾山付近をいうか。又近くに八壺谷等いう所あれば、或はそれ等と関係あるか。蓋し壺というは経塚にして外甕又は経筒の壺いでしに名ずけたるかとも考えらる」と推測している(森貞次郎解説・大場磐雄著『記録―考古学史 楽石雑筆(下)』(大場磐雄著作集第6巻 雄山閣出版 1977年)

この壺ノ陳場であるが、江戸時代17世紀末~18世紀中頃に成立した『多度大神本縁略記』によれば「瓶陣場」という場所が瓶尾山の峰から少し下ったところにあるといい、そこから元文3年(1738年)に鏡18面が出土したと記されている。
この「瓶陣場」が「壺ノ陳場」のことではないか。


冠石(かんむりいし)


ものの本ではおおむね「冠石」と総称されるが、唯一、『多度大神本縁略記』にのみ「上冠石」と「下冠石」の二つに分かれていることが示されている。

堀田吉雄氏「三重県の石の民俗」(『近畿地方の石の民俗』明玄書房 1987年)によれば、冠石は「一目連さまの冠だという石がある。冠の形に似ているから、そのように呼ばれたのであろう」という。

この上冠石・下冠石の特定ができていない。
文献調査および現地踏査の結果については前掲拙著で報告したが、それらしき露岩について複数写真を掲載し、後学の参考に代えたい。

なお、冠石にいたる道は特にないので、じゅうぶん注意していただきたい。

上冠石・下冠石が所在するのは一大岩盤の尾根でありある種全てが冠石とも言える。

尾根上にある岩塊の一つ。

冠のような烏帽子、立石状の岩石は数多あり外見では特定不能。

尾根の最先端部にあり、かつ、尾根内で最も大規模な巨岩。私は下冠石と推測。

先ほどの巨岩の上方。亀裂が入る。


多度経塚


上冠石と下冠石が存在するであろう巨岩累々の瓶尾山の尾根のことを「おかめさんのはら」や「亀の尾」と呼び、この尾根に露出する巨岩群は中世、経塚に利用されたと推定されている。

大場磐雄氏は昭和12年、地元の郷土史家である伊東富太郎氏らの案内でこの尾根を踏査しており、以下のように『楽石雑筆』にメモを残している。

「渓流に沿うて進むこと数丁。それより山林中の道なき所をかきわけてよじ登る。付近に巨岩磊々たり。やがて亀の尾に至る。ここは多度山の先端頂上に当り、本社の真上にしてここより物を落さば籠石の辺に落つるべしという。この巨岩累々たる中より昭和四年伊東氏によりて経筒(陶製)破片を発見せられ、今もなおその破片多数散乱せり。今その状況を見るに三個の巨石盤居しこれを中心として石塊群あり。故意に集めしか否か、なお考慮の余地ありとするも、古来ここを神聖なる地点として経塚を造営せしは推定に確かならず。ここにて、二、三枚カメラに入れ、暫らく眺望をほしいままにす。ここより東南に伊勢海、知多半島を見るべく、又南方に朝熊山を呼応す。景勝の地というべし。」(前掲『記録―考古学史 楽石雑筆(下)』1977年)

さて、この時撮影したと思われる写真が國學院大學の「大場磐雄博士写真資料」内で公開されているので、併せて参考にされたい。

「目録番号ob1067 多度山頂磐座」
http://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_fop&data_id=1474


さらに、大場氏が経塚として報告した「三個の巨石」と、景勝の地として評価した光景は下写真に該当するのではないかと思い掲載する。

経塚を構成していると思しき石塊群

この辺りは自然の景観が織りなす玉砂利か斎庭のごとき清浄感を有する。

露岩群との境

尾根自体がガレ場であり斜面下の落石の可能性も肯ける。

尾根の露岩群を上方から下方斜面に向けて撮影。

一大岩崖。瓶陣場(壺ノ陳場)、はたまた上冠石か。

大場氏も見たであろう眺望か。


美御前社(うつくしごぜんのやしろ)


多度大社の境内摂社。市杵島姫命をまつる。

穴の開いた石が社頭におびただしく奉じられており、多度の五箇神石には数えられていないが、今も続いている岩石祭祀の事例である。

2011年参拝時の奉献状態

2020年参拝時の奉献状態。2011年と比較すると諸々興味深い。

美御前社

社頭看板

これらは現在、耳・鼻・口の病気や女性特有の病にご利益があるということで支持を集めているが、その一つの対照的な記述として、前掲の堀田吉雄氏「三重県の石の民俗」(1987年)から下記引用する。

「美し御前社の格子のところには、穴のあいた小石が常に置いてあったり、糸で吊り下げられている。これは耳の病に苦しむ人、とくに耳の聞こえの悪い人々は、この社に祈願すると効験大であると信じられ、穴あき石を賽物としてささげる風習がある。」

1980年代の当記述では、耳の病に特化した霊験におさえられており、現代広まっている信仰と比べると、奉献方法の違いも含めて、この数十年ですでに変化が見られるようである。

現在説かれている祭祀・信仰が不変の内容か否か、歴史的に研究する時に気をつけたい視点である。


くじゃく石


多度大社の南約1.5kmの地点、桑名市多度町北猪飼に所在。




田んぼの中に石壇が設えられ大切にされている。

傍らに石碑が立っており、名前のみ判明。

多度大社の祭礼に関連のある石とも、誰かが石の上に立って何かを吹いたとも伝聞したが、私の調べが甘くまだはっきりしない。


2020年12月13日日曜日

京都新聞「岩石と語らう」記事リスト


「岩石(いし)と語らう」は、京都新聞で1998年~2000年にかけて連載された特集記事である。

毎回、京都府内のさまざまな岩石が登場し、伝説にまつわる自然石から、石仏石塔、句碑や記念碑の類、さらには石橋や鉄道の敷石など近現代遺産まで、岩石を用いたものなら何でも取り上げるスタイルだった。その数は合計185か所におよんだ。

岩石信仰の観点から見ても、この記事で知った場所は数多い。特に、京都の事例を知るにはまたとない資料と言える。

かつては、京都新聞社の公式携帯サイトや、京都市歴史資料館の伊東宗裕氏がso_youの名でかつて運営されていたサイト(http://homepage3.nifty.com/so_you/)で「岩石を語らう」の記事一覧を閲覧することができたが、今はいずれも消滅しており、インターネットでの本記事の情報量は見る影もない状況だ。


似たようなコンセプトの新聞社の連載として、静岡新聞の「石は語る」があり、こちらもかつてホームページで公開されていて今は消滅しているが、こちらは幸運にも連載記事を1冊の本にして書籍刊行化がなされている。

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

石は語る 静岡新聞日曜版 [ 静岡新聞社 ]
価格:1760円(税込、送料無料) (2020/12/13時点)


それに対して、京都新聞の「岩石は語らう」は書籍化されておらず、現在の私たちが閲覧するには、冒頭にリンクしたように図書館でスクラップされているものを参照するか、当時の新聞が保管されているものを一つ一つ直接あたるしかない。

そもそも何月何日の記事にどの場所が特集されているかさえわからなければ、検索性が悪いままであり今後も活用されないまま埋もれてしまう。

僭越ではあるが、so_you氏がかつてまとめた記事一覧表をもとに、一度ネットから失われた「岩石は語らう」記事一覧をあらためて紹介し、今後の検索・参照の便とされたい。

なお、岩石信仰と関係性が深いと思われるものは太字表記を施した(全記事読んだわけではないので推測)。


1 山本新次郎翁顕彰碑向日市物集町森ノ上) 1998年9月1日

2 蛇塚古墳京都市右京区太秦面影町) 1998年9月3日

3 弁慶石京都市中京区三条通麩屋町東入) 1998年9月4日

4 草内の渡し跡京田辺市草内大東1998年9月5日

5 車折神社の祈念神石京都市右京区嵯峨朝日町) 1998年9月8日

6 六角堂のへそ石京都市中京区六角通烏丸東入) 1998年9月10日

7 児神社の石椅子京都市右京区嵯峨釣殿町) 1998年9月11日

8 頼光の腰掛岩加佐郡大江町仏性寺) 1998年9月12日

9 油懸地蔵尊京都市伏見区下油掛町) 1998年9月17日

10 藤森神社のかへし石京都市伏見区深草鳥居崎町) 1998年9月18日

11 馬の踏石船井郡和知町大倉) 1998年9月19日

12 鉄輪井戸京都市下京区堺町通松原下ル) 1998年9月23日

13 大原口の道標京都市上京区今出川通寺町) 1998年9月25日

14 車石京都市山科区日ノ岡) 1998年9月26日

15 女郎花塚八幡市八幡女郎花) 1998年9月29日

16 石塀小路京都市東山区下河原町) 1998年10月1日

17 御香宮神社の拝殿礎石京都市伏見区御香宮門前町) 1998年10月2日

18 夜嵐伝説の大石綾部市金河内町) 1998年10月3日

19 梅宮大社のまたげ石京都市右京区梅津フケノ川町) 1998年10月6日

20 貴船神社の船形石京都市左京区鞍馬貴船町) 1998年10月8日

21 行者橋京都市東山区白川通三条下ル石橋町) 1998年10月9日

22 神足の五王石像長岡京市神足三丁目) 1998年10月10日

23 歯神之社の寛算石京都市南区西九条蔵王町) 1998年10月13日

24 松尾大社の磐座京都市西京区嵐山宮町) 1998年10月17日

25 大坂城残石相楽郡加茂町大野) 1998年10月23日

26 若宮八幡宮の手水鉢京都市東山区五条通東大路西入) 1998年10月24日

27 今宮神社の神占石京都市北区紫野今宮町) 1998年10月27日

28 弁慶の腰掛け岩京都市北区紫野下築山町) 1998年10年29日

29 立岩竹野郡丹後町間人) 1998年10月30日

30 鳥獣の庭京都市西京区大原野南春日町) 1998年10月31日

31 ポップ角石京都市中京区夷川通両替町角) 1998年11月5日

32 二十一尊磨崖仏亀岡市千代川町北ノ庄) 1998年11月6日

33 伏見稲荷大社の釼石と雷石京都市伏見区深草) 1998年11月7日

34 瓜生石京都市東山区古門前通神宮道西入) 1998年11月12日

35 梅ケ枝の手水鉢京都市下京区西堀川通木津屋橋上ル) 1998年11月14日

36 左馬綴喜郡井手町井出) 1998年11月17日

37 府立総合資料館の中庭京都市左京区下鴨半木町) 1998年11月19日

38 キリシタン灯篭京都市下京区岩上通四条下ル) 1998年11月21日

39 ひかり石天田郡夜久野町現世) 1998年11月26日

40 鏡石京都市北区大北山鏡石町) 1998年11月27日

41 岩神さん京都市上京区上立売通浄福寺東入) 1998年11月28日

42 羽束師神社のお百度石京都市伏見区羽束師志水町) 1998年12月1日

43 境神長岡京市奥海印寺) 1998年12月3日

44 三年坂/産寧坂京都市東山区清水三丁目) 1998年12月4日

45 本願寺伝道院の動物石柱京都市下京区油小路通正面角) 1998年12月5日

46 嶋利兵衛の墓城陽市長池) 1998年12月8日

47 法勝寺跡の布石京都市左京区岡崎法勝寺町) 1998年12月10日

48 地主神社の恋占いの石京都市東山区清水一丁目) 1998年12月11日

49 法金剛院の青女の滝京都市右京区花園扇野町) 1998年12月12日

50 タイ釣り岩与謝郡伊根町本庄浜) 1998年12月15日

51 上賀茂神社の岩上京都市北区上賀茂本山) 1998年12月17日

52 山王神社の夫婦岩京都市右京区山ノ内宮脇町) 1998年12月18日

53 八木の石撥ね船井郡八木町本町) 1998年12月19日

54 貽範碑(京都市上京区京都御苑内) 1999年1月5日

55 京都博覧会記念碑(京都市左京区岡崎) 1999年1月7日

56 利休の欠ケ灯篭京都市北区紫野大徳寺町) 1999年1月8日

57 泉橋寺石地蔵相楽郡山城町上狛西下) 1999年1月9日

58 幸神社の道祖神京都市上京区寺町通今出川上ル) 1999年1月19日

59 寿延寺の洗い地蔵京都市東山区大黒町通松原下ル) 1999年1月21日

60 岩室稲荷のご神体舞鶴市吉坂) 1999年1月22日

61 白沙山荘の石舞台京都市左京区浄土寺石橋町) 1999年1月26日

62 船塚京都市中京区西ノ京船塚町) 1999年1月28日

63 耳塚(京都市東山区正面通大和大路角) 1999年1月29日

64 十七烈士の墓乙訓郡大山崎町) 1999年1月30日

65 船岡山の露岩京都市北区紫野北舟岡町) 1999年2月2日

66 旧二条城石垣上京区京都御苑) 1999年2月5日

67 亀石宇治市宇治山田) 1999年2月6日

68 護王神社のこまイノシシ京都市上京区烏丸通下長者町下ル) 1999年2月9日

69 青龍寺のかんかん石京都市東山区下河原通八坂鳥居前下ル) 1999年2月11日

70 絁の碑竹野郡弥栄町鳥取) 1999年2月13日

71 石敢當(京都市南区東九条御霊町) 1999年2月16日

72 諸羽神社の琵琶石京都市山科区四ノ宮中在寺町) 1999年2月18日

73 丹波国分寺の礎石亀岡市千歳町国分) 1999年2月19日

74 小鍛冶工場跡京都市左京区中之町) 1999年2月20日

75 二条城の刻印石京都市中京区) 1999年2月23日

76 女夫岩京都市北区上賀茂女夫岩町) 1999年2月27日

77 薪能金春芝跡京田辺市薪) 1999年3月2日

78 どろくっつあん京都市左京区岩倉花園町) 1999年3月4日

79 高山寺の大地蔵京都市右京区西院高山寺町) 1999年3月5日

80 舟つなぎ石加佐郡大江町二俣) 1999年3月6日

81 水火天満宮の登天石京都市上京区堀川通上御霊前上ル) 1999年3月11日

82 山脇社中の解剖供養碑京都市中京区裏寺町通六角上ル) 1999年3月12日

83 菅公腰掛石京都市左京区八瀬秋元町) 1999年3月13日

84 西国街道の一里塚長岡京市開田二丁目) 1999年3月16日

85 広沢古墳の石神京都市右京区嵯峨広沢池下町) 1999年3月18日

86 鵺腰掛石京都市中京区西洞院通押小路下ル) 1999年3月19日

87 東屋観音宇治市宇治乙方) 1999年3月20日

88 曼殊院の梟手水鉢京都市左京区一乗寺竹ノ内町) 1999年3月25日

89 八坂神社の月下氷人石(京都市東山区四条通東大路東入) 1999年3月26日

90 輪形石京都市下京区東洞院通塩小路下ル) 1999年3月27日

91 二ツ岩与謝郡加悦町与謝) 1999年3月30日

92 山住神社の石座京都市左京区岩倉西河原町) 1999年4月1日

93 かんべえかえせの石京都市西京区大原野石見町) 1999年4月2日

94 大堰川の継ぎ石船井郡園部町船岡) 1999年4月3日

95 大岩神社の大岩と小岩京都市伏見区深草向ケ原町) 1999年4月6日

96 宇賀神社の雷石京都市南区東九条札辻町) 1999年4月10日

97 北野天満宮の大黒さん京都市上京区馬喰町) 1999年4月13日

98 菜切石相楽郡加茂町井平尾) 1999年4月15日

99 山科駅前の地蔵京都市山科区安朱中小路町) 1999年4月16日

100 鉄砲石福知山市内記) 1999年4月17日

101 隨心院の小町の文塚京都市山科区小野御霊) 1999年4月20日

102 松虫・鈴虫姫の供養塔京都市鹿ケ谷御所ノ段町) 1999年4月22日

103 遥向石京都市東山区渋谷通東大路東入) 1999年4月23日

104 さざれ石京都市右京区音戸山頂上) 1999年4月24日

105 長岡宮大極殿跡の碑向日市鶏冠井町祓所) 1999年4月27日

106 天の邪鬼京都市下京区堀川通六条下る) 1999年4月29日

107 延命地蔵京都市左京区岩倉上蔵町) 1999年5月7日

108 禅定寺五輪塔綴喜郡宇治田原町禅定寺) 1999年5月8日

109 紫雲石京都市左京区黒谷町) 1999年5月11日

110 要石東山区清閑寺山ノ内町) 1999年5月13日

111 御香宮神社の水こし石京都市伏見区御香宮門前町) 1999年5月14日

112 私市円山古墳綾部市私市町円山) 1999年5月15日

113 一の橋の欄干京都市東山区本町通十丁目) 1999年5月18日

114 臥牛石京都市山科区勧修寺仁王堂町) 1999年5月20日

115 丹波七福神の石像亀岡市千歳町) 1999年5月21日

116 五条大橋の石柱と石桁京都市東山区七条通東大路西入) 1999年5月22日

117 猿田彦さんの石京都市下京区麩屋町通五条上ル) 1999年5月25日

118 分水石京都市山科区小山小川町) 1999年5月27日

119 神牛石久世郡久御山町佐山) 1999年5月28日

120 西街道坂切通銘(京都市左京区岩倉幡枝町) 1999年5月29日

121 百々橋の礎石京都市上京区烏丸通寺之内下ル) 1999年6月1日

122 旧音無瀬橋の親柱福知山市長町) 1999年6月3日

123 梅林寺の大表土台京都市下京区梅小路東中町) 1999年6月4日

124 ワグネル顕彰碑(京都市左京区岡崎) 1999年6月5日

125 同志社大の石造臥石京都市上京区今出川通烏丸東入) 1999年6月8日

126 説法石向日市向日町南山) 1999年6月10日

127 すぐき発祥之地の碑京都市北区上賀茂土門町) 1999年6月11日

128 第一蹴の地京都市左京区下鴨泉川町) 1999年6月12日

129 十六尊石仏京田辺市天王) 1999年6月15日

130 クモ塚京都市上京区観音寺門前町) 1999年6月17日

131 天明大火横死者碑(京都市上京区寺町通広小路上ル) 1999年6月18日

132 裏の巳さん京都市上京区京都御苑) 1999年6月19日

133 岩上神社の巨石舞鶴市寺田) 1999年6月22日

134 月読神社の月延石京都市西京区) 1999年6月25日

135 伏見義民顕彰碑(京都市伏見区御香宮門前町) 1999年6月26日

136 「菊姫」墓碑北桑田郡美山町内久保) 1999年6月29日

137 安井金比羅宮の縁切り縁結び碑京都市東山区) 1999年7月1日

138 弁慶背比べ石京都市左京区八瀬秋元町) 1999年7月2日

139 竹林公園の石仏京都市西京区大枝北福西町二丁目) 1999年7月3日

140 宇治上神社の天降石宇治市宇治又振) 1999年7月6日

141 大田神社の蛇の枕京都市北区上賀茂本山) 1999年7月8日

142 池田屋騒動跡石碑京都市中京区三条通河原町東入) 1999年7月9日

143 旭港のもやい石熊野郡久美浜町旭) 1999年7月10日

144 高山寺仏足石京都市右京区梅ケ畑栂尾町) 1999年7月13日

145 高瀬川の堰止めの石京都市中京区木屋町通御池下ル) 1999年7月15日

146 小松谷正林寺の阿弥陀経石京都市東山区渋谷通上馬町1999年7月16日

147 本邦製油発祥地の碑乙訓郡大山崎町大山崎) 1999年7月17日

148 福石大明神京都市左京区聖護院円頓美町) 1999年7月20日

149 牛若丸誕生井碑(京都市北区紫竹牛若町) 1999年7月22日

150 舟地区の石仏群相楽郡精華町下狛) 1999年7月23日

151 伏見城の石垣京都市右京区西京極新明町) 1999年7月24日

152 孝子義兵衛碑(京都市西京区川島玉頭町) 1999年7月27日

153 菌塚京都市左京区一乗寺竹之内町) 1999年7月29日

154 真下飛泉歌碑加佐郡大江町河守) 1999年7月30日

155 宝鏡寺の人形塚京都市上京区寺之内通堀川東入) 1999年7月31日

156 真如堂の小林君之碑(京都市左京区浄土寺真如町) 1999年8月3日

157 砥石奉納額亀岡市東本梅町大内) 1999年8月10日

158 円光寺の渾天儀台京都市下京区梅小路西中町) 1999年8月14日

159 又吉泉記碑(京都市中京区押小路通河原町東入) 1999年8月17日

160 方広寺の石塁京都市東山区大和大路通七条上ル) 1999年8月19日

161 橋本記念碑八幡市橋本焼野) 1999年8月21日

162 明智光秀の首塚京都市東山区梅宮町) 1999年8月24日

163 千体仏塔の石仏京都市中京区坊城通仏光寺上ル) 1999年8月26日

164 菩薩岩宮津市文珠) 1999年8月27日

165 南蛮寺の礎石京都市上京区今出川通烏丸東入) 1999年8月30日

166 秀次公の石の首びつ京都市木屋町通三条下ル) 1999年8月31日

167 蔵王堂光福寺の常夜燈京都市南区久世上久世町) 1999年9月2日

168 葛原親王塚伝承地の碑乙訓郡大山崎町円明寺) 1999年9月3日

169 北野天満宮の撫で牛京都市上京区馬喰町) 1999年9月4日

170 渉成園の高石垣京都市下京区下珠数屋町通間之町東入) 1999年9月9日

171 歯痛地蔵城陽市寺田尺後) 1999年9月10日

172 加茂の七石京都市中京区二条通堀川西入) 1999年9月11日

173 安楽寿院の冠石京都市伏見区竹田内畑町) 1999年9月14日

174 権土池の石碑京都市左京区岩倉上蔵町) 1999年9月17日

175 御座石福知山市天座) 1999年9月18日

176 三島神社の子授け石京都市東山区渋谷街道東大路東入) 1999年9月21日

177 先代渡月橋の礎石京都市右京区嵯峨中ノ島町) 1999年9月24日

178 水岩船井郡園部町南大谷) 1999年9月25日

179 琴きき橋京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町) 1999年9月28日

180 天龍寺の硯石京都市右京区嵯峨天龍寺) 1999年9月30日

181 松茸の碑京都市左京区岩倉上蔵町) 1999年10月2日

182 二月堂の灯篭京田辺市田辺鳥本) 1999年10月5日

183 「おかいらの森」の碑京都市左京区上高野小野町) 1999年10月7日

184 奥の院魔王殿の石京都市左京区鞍馬本町) 1999年10月8日

185 槍立石舞鶴市城屋) 1999年10月9日

186 駒飛び石京都市左京区八瀬野瀬町) 1999年10月15日

187 中江藤樹の顕彰碑京都市北区小山下河原町) 1999年10月19日

188 東海道本線の境界石京都市下京区堀川通塩小路上ル) 1999年10月21日

189 日本孟宗竹発祥之地の碑長岡京市奥海印寺明神前) 1999年10月22日

190 臼大明神京都市中京区先斗町三条下ル) 1999年10月23日

191 野宮神社の亀石京都市右京区嵯峨野々宮町) 1999年10月28日

192 水難記念石綴喜郡井手町井手) 1999年10月29日

193 灰方古墳群の石室京都市西京区大原野灰方町) 1999年10月30日

194 井原西鶴の句碑京都市中京区寺町二条角) 1999年11月5日

195 元和キリシタン殉教地の碑京都市東山区川端通正面上ル) 1999年11月6日

196 岩王寺のすずり石綾部市七百石町) 1999年11月9日

197 還来神社の梛石京都市右京区西院春日町) 1999年11月11日

198 恵美須神社・白川石の鳥居京都市東山区大和大路四条下ル) 1999年11月12日

199 タングステン鉱石亀岡市稗田野町鹿谷) 1999年11月16日

200 秋街道町の地蔵の台座京都市右京区嵯峨野秋街道町) 1999年11月18日

201 大沢池の庭湖石京都市右京区嵯峨大沢町) 1999年11月19日

202 長建寺のカエル石京都市伏見区東柳町) 1999年11月23日

203 椿井大塚山古墳の天井石相楽郡山城町椿井柳田) 1999年11月25日

204 洛中小の「健」の石碑京都市中京区壬生坊城町) 1999年11月26日

205 第二軍道の石柱列(京都市伏見区深草野田町・直違橋六丁目) 1999年11月27日

206 吉村伊助君紀功碑中郡峰山町吉原) 1999年11月30日

207 石うすと玄武岩京都市下京区西七条東久保町) 1999年12月2日

208 馬町十三重石塔京都市東山区茶屋町) 1999年12月3日

209 班女石京都市下京区高辻通室町西入) 1999年12月4日

210 離宮八幡宮かしき石乙訓郡大山崎町西谷) 1999年12月7日

211 旧武徳殿建立百年の石碑京都市左京区聖護院円頓美町) 1999年12月9日

212 県井京都市上京区) 1999年12月10日

213 樺井月神社の「下馬」の道標城陽市水主) 1999年12月11日

214 平安神宮の臥龍橋京都市左京区岡崎) 1999年12月14日

215 鑑井之銘(京都市南区吉祥院政所町) 1999年12月16日

216 東寺の亀の石碑(京都市南区九条町) 1999年12月17日

217 カネの鳴る石京都府加佐郡大江町内宮) 1999年12月18日

218 桃五塚宇治市六地蔵一丁目) 2000年1月6日

219 草子洗の石京都市上京区) 2000年1月7日

220 天狗岩船井郡園部町大河内) 2000年1月8日

221 二条城撮影所跡記念碑京都市中京区西ノ京北聖町) 2000年1月18日

222 輪廻京都市北区小山北上総町) 2000年1月20日

223 義経の背比べ石京都市左京区鞍馬本町) 2000年1月21日

224 岩見重太郎試し切りの石宮津市文殊) 2000年1月22日

225 許波多神社一ノ鳥居の沓石宇治市五ケ庄新開) 2000年1月25日

226 方丈石(京都市伏見区日野南山) 2000年1月27日

227 「紅もゆる」の碑京都市左京区吉田神楽岡町) 2000年1月28日

228 京都種痘術創始五十年記念碑(京都市中京区御前通松原下る) 2000年1月31日

229 山名宗全邸宅跡の碑京都市上京区堀川通上立売下る西入) 2000年2月1日

230 河原院跡の碑京都市下京区都市町) 2000年2月4日

231 山崎合戦之地の碑乙訓郡大山崎町大山崎) 2000年2月5日

232 西京極総合運動公園の石畳京都市右京区西京極新明町) 2000年2月8日

233 「わらべの小径」の道しるべ京都市左京区永観堂町) 2000年2月10日

234 一休さんのモニュメント京田辺市田辺津田) 2000年2月11日

235 松ケ崎廃寺の石垣京都市左京区松ケ崎堀町) 2000年2月15日

236 道祖神社の石像京都市下京区油小路通塩小路下る) 2000年2月17日

237 インクラインの敷石京都市左京区南禅寺福地街) 2000年2月18日

238 船つなぎ石舞鶴市寺田) 2000年2月19日

239 蛍石京都市左京区鞍馬貴船町) 2000年2月22日

240 力石京都市山科区西野山桜ノ馬場町)) 2000年2月24日

241 平和池水害慰霊塔亀岡市篠町柏原) 2000年2月26日

242 真如院の烏帽子石京都市下京区猪熊通五条上る) 2000年2月29日

243 京都慶応義塾跡の碑(京都市上京区下立売通新町西入薮ノ内町) 2000年3月2日

244 胞衣塚京都市伏見区日野西大道町) 2000年3月3日

245 浮島十三重石塔宇治市宇治塔川) 2000年3月4日

246 龍安寺のつくばい京都市右京区竜安寺御陵下町) 2000年3月7日

247 今宮神社のナマズの台石京都市北区紫野今宮町) 2000年3月9日

248 旧京口橋の親柱福知山市堀) 2000年3月10日

249 療病院碑(京都市上京区河原町通広小路) 2000年3月11日

250 観臓記念碑京都市中京区神泉苑通六角西入) 2000年3月14日

251 先斗町通の石畳京都市中京区先斗町通四条上る) 2000年3月16日

252 種子両界曼荼羅板碑向日市物集町御所海道) 2000年3月17日

253 長源寺の宝筐印塔京都市左京区岩倉長谷町) 2000年3月18日

254 女の碑京都市右京区嵯峨小倉町) 2000年3月23日

255 日出神社の雨乞い石相楽郡精華町柘榴向井) 2000年3月24日

256 碁石塚京都市左京区丸太町通川端東入) 2000年3月25日

257 蹴上浄水場晶子歌碑京都市東山区粟田口) 2000年3月28日

258 魚市場遺跡碑(京都市伏見区横大路草津町) 2000年3月30日

259 丹後震災記念塔中郡峰山町室元薬師) 2000年4月1日

260 雀塚京都市左京区静市市原町) 2000年4月4日

261 たばこ製造工場発祥之地碑京都市東山区渋谷通東大路西入) 2000年4月8日

262 国師岩船井郡日吉町四ツ谷) 2000年4月11日

263 石仏五百羅漢京都市伏見区深草石峰寺山町) 2000年4月13日

264 見残しの石京都市下京区堀川通花屋町下る) 2000年4月14日

265 福井謙一先生ノーベル賞受賞記念碑京都市左京区吉田本町) 2000年4月15日

266 井堤寺の礎石綴喜郡井手町井手) 2000年4月18日

267 府立植物園設立記念碑(京都市左京区下鴨) 2000年4月25日

268 日本最初盲唖院創建之地の碑京都市上京区釜座通丸太町上る) 2000年4月27日

269 心種園碑舞鶴市南田辺) 2000年4月28日

270 人喰い地蔵/崇徳院地蔵(京都市左京区聖護院中町) 2000年4月29日

271 木島神社の三つ鳥居京都市右京区太秦森ケ東町) 2000年5月2日

272 伊藤家に伝わる「またげ石」京都市右京区梅津南町) 2000年5月9日

273 新経尼の供養塔長岡京市井ノ内的田) 2000年5月11日

274 駅伝優勝チームの記念碑京都市右京区西京極神明町) 2000年5月12日

275 唐臼京都市伏見区久我森ノ宮町) 2000年5月13日

276 らおさんの石積み久世郡久御山町野村) 2000年5月16日

277 菁々塾跡の碑京都市中京区高倉通錦小路上る) 2000年5月18日

278 建礼門院供養塔京都市東山区円山町) 2000年5月19日

279 周恩来詩碑京都市右京区嵯峨) 2000年5月20日

280 バンド地蔵三和町菟原中) 2000年5月23日

281 電気鉄道事業発祥の碑京都市伏見区下油掛町) 2000年5月25日

282 石像寺の石造阿弥陀如来像京都市上京区千本通上立売上る) 2000年5月26日

283 葭池碑亀岡市古世町) 2000年5月27日

284 仏国寺の石棺京都市伏見区深草大亀谷古御香町) 2000年5月30日

285 「花の御所」の景石京都市上京区烏丸通今出川上る) 2000年6月1日


2020年12月6日日曜日

平群石床神社旧社地/巖上祠/岩神(奈良県生駒郡平群町)


奈良県生駒郡平群町越木塚

平群石床神社旧社地に残る「石床」



享保19年(1734年)成立の『大和志』に「平群石床神社 在越木塚村称曰巌上祠傍有巨石名石床」とある(「人間文化研究機構国文学研究資料館データベース 大和志」72頁)。

同じく江戸時代の絵図には「岩神」と記載されているといい(大場磐雄「日本上代の巨石崇拝」『歴史公論』第6巻第8号、1937年)、少なくとも江戸時代には岩神・巖上の字を当てられる存在であったことと、それが延喜式内の「大和国平群郡鎮座 平群石床神社」の石床と同一視されていたとわかる。




上写真のとおり、全体的な形状は複雑な亀裂・群集具合を見せる岩崖のようだが、大場博士は、上記文献において「御石は花崗岩質」で「二塊」の石から構成され、「大なる方は高四間幅八間位、小は高三間幅七間位」と記している。


さらに、「御石の形状がニ石合して中央に孔を有し、恰もヨニの如き観を有するので、何時しか俗信仰が発生し、甚だ畏れ多いことながら、消潟大明神として喧伝され、事実下の病その他性的疾病の願望に効目があるとて、なかなかの繁昌を示してゐる」と続けている。

すなわち、元は「自然の巨巖を神床として鎮座まします」ものが、この二石の形状を以て後年、性信仰に派生したとの推測を施している(畏れ多い~のくだりは、発表年1937年という社会状況を考えて博士が遜ったものであろう)。


実際のところは、性信仰が後発的な信仰だったかどうかは検討の余地があり、当石が岩神・巖上・石床と呼ばれていた頃において性信仰の要素が皆無だったか、はたまた、石の形状に対して性的要素を見出していたかについても批判的に見る必要はあるだろう。


「石床」についてのもう一つの可能性


「石床」という表現について、大場博士は『延喜式』に三社見られることを挙げて、これらがいずれも「神の床」としていわゆる磐座の類語に含めた。

これを基に、今も石床は磐座の事例と片づけられることが多いが、平群石床神社のそれが「床」に見えるかというと岩が重なったように高さのなす岩崖であり、「岩神」の名称も残っているように、磐座一辺倒ではない受け止め方も想定される。


また、「床」という言葉自体が、いわゆる現代の「床」の意味と同じとも限らない。

『播磨国風土記』には、次のような話もある。

「伊師(いし)  即ち是は桉(くら)見の河上なり。川の底、床(いし)の如し。故、伊師といふ」

椅子の字をかつてイシと読んだことから、イシの地名由来について、それは石の如しではなく椅子の如しによるものだと解された一節である。

同音の言葉同士を紐付けた、言ってしまえばこじつけレベルの地名起源説話と理解することもできるが、ここで考えたいのが、当時の人々もしょせんそのレベルで言葉をあそんでいたという点である。

その「あそび」により、本来その言葉・字が持っていた意味を逸脱したり、派生したり、くっつけ合う働きがあったことで、後世、石と床の関係にも影響を与えた可能性がある。


なぜ石と床が結びついたのかは、なんとなく常識的に、神の座する磐座の発想で石の床という類語が発生したのだろうと考えるのが従来的な発想だろう。

しかし、この風土記例を考慮すると、当時すでに、本来異なる意味を持つ別語だったイシ(石)とイシ(椅子)の意味の混同が、それこそだじゃれの感覚で風土記当時には発生しており、それはそのまま、石あるいは石という言葉に対して抱く心性のひとつに「椅子・床」的性質が自ずと親しくなった理由の一つで、その残欠がこの記述ではないかとも解釈できるのである。
それが「桉(くら)見」の河上にあるという「くら」との関連は、さすがに考えすぎだと思うが。


日本書紀において「磐石」で「イハ」と呼んだように、石床も「イシ」+「イシ」の組み合わせとして生まれた熟語で、それがさらに後世にイハトコの読みを与えられたのかもしれないと想像を広げていくと、床に見えず岩神とも呼ばれた「石床」の、もう一つの文脈が浮かび上がってきて面白いのである。


2020年12月1日火曜日

榛名神社・榛名山の岩石信仰(群馬県高崎市)


群馬県高崎市榛名山町字巌山

榛名神社の概要


両毛三山の一つとして知られる榛名山は、山頂には榛名湖や榛名富士を擁し、頂上よりやや下った山腹に榛名神社が鎮座する。

延喜式にその名が記される古社で、現在の主祭神は火産霊神と埴山毘売神の二柱であるが、これは明治の神仏分離以降に決められたもので、江戸時代は神仏習合のなか別の八神をまつり、元来は奇稲田姫命をまつったなど諸説ある。
社伝では饒速日命とその子・可美真手命が榛名山中に神籬を設け天神地祇を祀ったのが起源だという。

用明天皇の頃には神社がまつられたと伝えられるが、山中境内に夥しく群集する巨岩群は奇岩怪石としてつとに有名であり、古代から中世の早い頃には山岳仏教・修験道の霊場として整備され、長く神仏習合の聖地として続いてきた。

実際、榛名神社境内の山腹斜面部からは、9世紀~12世紀の土器群や錫杖の発見、堂の礎石を思わせる石材、自然斜面を整形したと思われる平坦面など、山岳仏教の施設跡と推測される榛名神社巌山遺跡が見つかっている。
このことから、9世紀には山岳仏教の影響下にあったと考えられている(清水喜臣 「榛名神社の起源についての一考察-巌山遺跡の研究-」1990年)。

現在、境内および周辺の岩々の1つ1つに、修験霊場らしき命名による岩名がつけられているほか、榛名神社の本殿は巨岩に半分取り込まれているかのようにくっついており、神社祭祀においても岩石の要素を外すことはできないらしい。

榛名山祭祀に、岩石というキーワードが切っても切れないという観点から、ここでは榛名神社入口から榛名山頂上にかけての順で、岩石信仰・岩石祭祀の場や奇岩怪石を紹介していこう。

現地地図より


鞍掛岩


榛名神社の二の鳥居をくぐると、みそぎ橋と呼ばれる橋がかかる。これを渡って右手を見ると、榛名川の対岸に鞍掛岩が見える。


写真では分かりにくいが、岩が庇のようになっていて、左下に石灯籠が献ぜられている。これが鞍掛岩で、元々は洞穴状になっていたものが崩れ落ちて、現在のようになったものだと考えられている。

鞍掛岩にまつわる伝承などは特に伝わらないようだが、『榛名神社史跡めぐり』によれば、「くらかけ」とは「いわくら」が欠け落ちたことから由来する名称ではないか、という説を紹介している。
全国の「くらかけ岩」の名称を考える時の参考に資する。


犬神石


三の鳥居をくぐると、左手に「御庁宣の碑」が建ち、右手に2~3の石碑が並んでいる。
この左手の石碑の1つに「古谷トマト」と刻された石碑があるが、この台石に使われているのが犬神石である。

三の鳥居越しに石碑群を写した写真

犬神石の表面には窪みがあり、窪みに水が溜まっている水を目に付けると眼病が治るといわれている。


行者渓


岩壁が張り出してきてオーバーハング状になったところに「神橋」がかかる。


神橋の左手を見ると、渓谷沿いの両岸に岩山が対峙する。


ここは通称「行者渓」と呼ばれ、役行者が修行を行なった伝説地に位置付けられている。一種の仙境と言って良い景観だ。


行者渓の右手の岩の下端には、扉が取り付けられており、東面堂という堂跡といわれている。

東面堂跡

そして、行者渓の左手にある巨岩の奥方には、朝日岳(雷天岳)・夕日岳(風天岳)と呼ばれる岩山がそびえたつ。朝日岳の中腹あたりには「宝珠窟」なる洞窟があるという。


瓶子滝・瓶子岩


行者渓を後に進むと、手水所が設けられている。この手水所から榛名川の対岸を望むと、巨大な岩壁が広がり、その中央に小さな滝が流れる。
これを瓶子滝(みすずのたき)と呼ぶが、これは後世に人工的に作られた滝である。

滝の両側に構える、ひょうたんを横倒しにしたような岩が瓶子岩で、これは自然の造形という。


鉾岩


瓶子滝を背にしてふりかえれば、やっと榛名神社本殿ほか、国祖殿、額殿、神楽殿、札所などが集まる社殿鎮座地に到着する。

手前に門があり、これを双龍門と呼ぶ。その背後に塔のように屹立しているのが鉾岩(ヌボコ岩・ローソク岩とも)で、双龍門と併せて榛名神社のシンボル的存在である。


弥陀窟


双龍門をくぐると、鉾岩の横にはそのまま岩山と言ってもいいような岩壁が広がっている。

鉾岩(写真左)と弥陀窟(写真右)

この岩壁の上方には3ヶ所ほどに窪みが存在し、この窪みには阿弥陀三尊がまつられているとも、弘法大師の彫った阿弥陀如来像が納められていたともいわれており、ここを「弥陀窟」と称している。

弥陀窟の3つの窪み(写真中央上)

かつては弥陀窟から鎖を垂らして登攀していたともいわれるが、現在は立ち入ることができない。


御姿岩


弥陀窟の岩壁と向かい合って、榛名神社の社殿が鎮座する。
現在残る社殿は江戸時代後期の建築であるが、本殿の半分が背後にそびえる岩に取り込まれたかのごとき外観を呈している。




この岩が御姿岩(みすがたいわ)であり、その名称の由来となったか、岩はまるで頭部と胴部に分かれるかのような独特な形状をなした立岩で、他に類を見ない。高さ約80mといい、榛名神社の神符はこの御姿岩を模した図柄を採用している。

ちょうど首元に当たるくびれ部分には竹製の梵天(御幣)が斜めに挿さっており、この祭祀形態も興味深い。

毎年、4月30日から5月1日の未明にかけて、夜の間に神職のみ参加する御岳祭(非公開)が催行され、この時に御姿岩のくびれ部分に梵天を指すのだという。

なお、御姿岩には「おはぜ岩」の通称も残っており、おはぜは男茎の意である。


秘所「御内陣」に関する二つの記録


さらに、御姿岩の下部には洞窟状の空間が広がっている。
この空間を「御内陣」と呼び、祭神をまつる場というが、神職者さえも見ることのできない「秘中の秘」とされており、60年ごと、丙午の年に一度だけ扉が開けられるともいう。

しかし、考古学者の大場磐雄博士は昭和9年(1934年)の榛名神社調査時、当時の社司と社掌の案内で本殿内に入り、御内陣の様子について博士は調査メモ『楽石雑筆』に記録を残している。以下引用する。

本殿内に入る。ここは巨巌中の洞窟に内陣あり、今一ニ三の扉あり、洞窟は自然のものにて頗る広し、今最も奥に土壇ありて上に七個の壺あり、一個は破れたり、素焼無文、手捏製に大小ありと、これ御霊代なりという。壺は色黒褐色にて中に土入れたり、その図は別に送りくれる事とす。維新前迄はこの洞窟前の仏像あり。中央に将軍地蔵、右に不動、左に多聞、更にその前の中央に大天狗、左右に小天狗ありき、これを総称して満行大権現といえりと、蓋し本社は巨巌崇拝に起りしならむ。

御内陣の洞窟が自然形成と思われること、七個の壺がありこれを御霊代としていること、土器の無文様や内部の土など、大変興味深い情報が散りばめられている。


このあたりの御内陣の様子については、他にも佐々木英夫氏が「日本の祭りの原初的形態について 榛名神社の神事の事例研究を中心として」というインターネット上の論文の中で詳細を記しており、そちらのほうがより情報が豊富だった。
残念なことに2020年現在この論文は閲覧できなくなっているため、ネット上の記録保存の一環で、その一部をここで触れておきたい。

佐々木氏は、明治3年、新居守村という神道家が明治政府の命令により「神仏分離取締」として榛名神社に調査に来た際、御内陣の様子を克明に記録した報告書の存在を明らかにし、それとあわせて、榛名神社の前宮司や町史編纂室の清水善臣氏など、関係者からの聞き取りも紹介している。その記述を抄録すると下記のとおりだ。

  • 洞窟内は天井から水滴が滴り落ちていた。
  • 洞窟内部には壺が八個ある。そのうち六個は完形だったが、二個はヒビが入って崩れていた。
  • 洞窟の上方には穴が開いており、そこから風が吹いていたという。これは、御岳祭の時に御姿岩のくびれ部に梵天を挿す時の穴ではないかという。


大場博士の記録との最大の違いは、御内陣の壺の数だろう。昭和9年の大場博士は7個(うち1個破損)と記し、明治3年の新居守村は8個(うち2個破損)と記す。
時系列および破損していたことを考慮すれば、大場博士が訪れるまでに壺1個が撤収された可能性、ないしは、破損した2個を1個と見間違えた可能性などが指摘できる。

御内陣と、御姿岩に挿された梵天が空間的につながっているという話も注目点である。
佐々木氏は「御岳祭の際に竹に付着した神霊は、その穴を通って本殿まで降りて行くことが実感できたということである」と評価しているが、これは、梵天がいわゆる神が憑依するための目印たる依代だったということになる。


御姿岩の性格とは


そうするならば、御姿岩という岩石自体の役割や機能は何なのだろうか。

梵天という目印を目指して神が祭祀の時にやってきて、風の通り道を通じて御内陣内部に神が宿るから、御内陣は秘中の秘となって、そこに置かれた土器群が御霊代とみなされた。

ならば、御姿岩は神そのものではなく、神が憑依する祭祀対象とも言い難く、御内陣を物理的に形成する岩石の神殿のようである。

禁足地の結界という意味では、一種の磐境のような働きをしているとみなすことができる。
また、御内陣という神宿る空間=クラ(凹部)を宿した岩石という意味で、磐座という字を当てるより磐蔵・岩倉という「蔵庫」的な性格の「いわくら」として位置づけることもできなくない。

さらに、御姿岩の頭部・胴部からなる人格神たる外形や、御姿岩の別称である「おはぜ岩」から類推される男性神的信仰と、それでありながら下部に擁する御内陣の洞窟は女性神的性格も兼ねているとも言える。
すなわち、御姿岩の岩石としての形状そのものに、単なる「装置」以上の人格神的な性格が備わっていることは否定できず、石神に近い信仰の側面も芽生えている。

このような、磐境的な側面、蔵庫的な側面、石神的側面の複合した存在が御姿岩であり、それら各側面の時代的先後関係は不明であるし、同時代においても信仰者によって差異が生じていたかもしれない。


修験道の立場からも付記すべき点がある。
御姿岩と弥陀窟は互いに向かい合っていることから、ここを霊場とした行者・修験者たちは、弥陀窟の窪みに座して、向かいの御姿岩を「仏の顕現」として祈りを捧げる行をしていたのではないかという説を、先出の清水喜臣氏が「榛名神社の起源についての一考察-巌山遺跡の研究-」(1990年)において提示している。

顕現という概念自体が、信仰対象の実体を直接あらわすものではなく、いわゆる不可視の次元にある存在の視覚化、象徴化という意味を包含するものであり、これ自体が、御姿岩の視覚的な性格を示していると言って良いだろう。


「形(みかた)、石に坐す」という古典の表現がある。
「みかた」(形・御形・御像)とはすなわち、御姿岩のような、磐境的な性格、蔵庫的な性格、石神的性格が重なった岩石に対して称せられたのではないかと本事例を通して考えさせられた。


榛名神社奥~山頂


榛名神社から山頂に向けて、数々の奇岩怪石が存在する。


上写真の柱状の岩は、江戸時代に描かれたとされている榛名山の絵図の中では、おおよそ「カンノンノタケ」「山王ガタケ」と書かれた岩の辺りに位置する。

写真を撮り忘れたが、この柱状岩からさらに進むと、巨大な岩屋のような様相を呈した、岩々と山肌からなる景観が広がる。先述の地図では「ウバフトコロ」という場所に該当する。

他にも、この絵図には様々な岩の名前が登場する。

境内地の辺りではサバ石・フジイワ・袖フリ岩・ヒジリ岩・ゾキ岩・ゴシン石、神社より下の方ではタイシノイワヤ・ダルマ石・スベリイシ・カウシ岩、周辺にはノゾキ岩・ポンポン岩・ナナヒロ石・ヲツタテ岩など、枚挙に暇がない。

また、朝日岳・夕日岳付近に「シシ岩(獅子岩)」があり、このシシ岩の周辺が9~12世紀の榛名神社巌山遺跡の見つかった地点という。

また、榛名川を上流沿いに登っていけば、大黒岩、九折岩、ミミズ岩、金剛界、胎蔵界と呼ばれるような岩々にも遭遇することができたはずだが、探訪時は道なりに進んだら車道に出てしまい、その車道を登って山頂に行ってしまったため、これらも未見ある。
特に九折岩(つづら岩)はまるでつづらが積み重なったかのような岩峰として有名な奇岩だが、未見のままとなったのが悔やまれる。


このように、榛名神社から榛名山頂の榛名湖まで、およそ登りで約1時間かかる。

山頂には、冒頭で触れたとおり榛名湖と榛名富士(1391m)があり観光地化されている。

榛名湖と榛名富士

この榛名湖の西岸側にそびえる掃部が岳(かもんがおか。1449m)の北尾根に、硯岩と呼ばれる岩がある。一つの峰全体が岩場になっており、榛名湖越しに望むことができる。

硯岩(写真中央の山頂)


参考文献

  • 清水喜臣 「榛名神社の起源についての一考察-巌山遺跡の研究-」 『巌山』(榛名町歴史民俗資料館紀要 第3号) 榛名町歴史民俗資料館 1990年
  • 佐々木英夫 「日本の祭りの原初的形態について 榛名神社の神事の事例研究を中心として」http://homepage2.nifty.com/japanpi/matsuri01.htm(2012年10月30日閲覧。現在リンク切れ)
  • 角田文衛(解説)・大場磐雄(著)『記録―考古学史 楽石雑筆(中)』(大場磐雄著作集第6巻)雄山閣出版 1976年
  • 『榛名神社史跡めぐり』(著者・発行年ともに書誌事項未記載)
  • 榛名神社 『榛名神社略記』(神社由緒書)
  • 現地看板