2020年7月11日土曜日

高岳神社(兵庫県姫路市)


兵庫県姫路市西今宿 蛤山

高岳神社は「たかおか」と読むが、『延喜式神名帳』では高岳で「たかみくら」と読んでいる。

神社背後の丘を蛤山(標高125m)と呼ぶ。その頂には一大岩盤が広がっており、隆起した岩塊の手前に鳥居や灯籠が献ぜられまつられている。






往古の昔瀬戸内海が書写山の麓まで海に満ちていた。高岳神社の直ぐ北の山頂部に高さ約八十米にも及ぶ巨岩があり蛤岩と呼ばれている。これは土地の人がこの岩の上の窪みの中で蛤の親子化石を拾い福徳長寿の幸を得たのでこのように名付けられたそうである。
「延喜式内社 高岳神社 巨岩 蛤岩由緒碑」(平成二十年建立)より

高岳神社の社宝には蛤の化石が伝わるといい、かつてこの岩が海中にあったことを示すものだろう。

蛤の奇譚については、そこまで古い話ではないのかもしれないが、それ以前からの岩に対する信仰はあったのだろうか。

高岳神社は延喜式内社というが、元来の鎮座地はここではなく、やや東にそびえる八丈岩山頂上だったと社伝でいわれており、そこにも岩盤が露出している。
現・蛤山の遷座は天長3年(826年)のことと伝わる。

いわば、岩山から岩山へ、神が移動したことを示すのだが、その理由までは明らかになっていない。

藤本浩一氏は『磐座紀行』(向陽書房、1982年)の中で「これほど整った磐座があるのに、八丈岩山を高岳神社の旧地と考えたのは、いかなる時、いかなる人か、今我々が考えさせられるところである」と記す。
これでは八丈岩山旧社地説への批判のようなものであるが、藤本氏は八丈岩山の現地も訪れて比較している。いわく、その岩盤の規模は「八丈」というような大規模なものではなく「八畳」の誤伝ではないかと述べ、蛤山の露岩規模にはおよばないと評価している。

なお、八丈岩山は『播磨国風土記』に登場する「因達の神山」に比定されており、その点から、藤本氏は因達の神の磐座であろうとは認めているが、どうも蛤山の神とは別個の存在だったのではないかとみなしている節がある。
『播磨国風土記』の「因達の神山」の項に、岩や石に対する記述が見当たらないことも付言しておきたい。

2020年7月5日日曜日

岩神社(兵庫県姫路市)


兵庫県姫路市八家

本殿の裏に、高さ4mの岩が立てられて、注連縄が巻かれている。
岩神社の名前が示すとおり、岩をまつる神社であることは間違いない。

岩神社

藤本浩一氏『磐座紀行』(向陽書房、1982年)によれば、岩の下部には補強した跡もあるが、これはもともと立っていた岩が倒壊しないようにしたものだろうと推測している。

また、本殿向かって手前左に、長さ4m、高さ1.5mの岩石が岩盤状に広がっている。
こちらは注連縄はないものの、拝所と本殿の間に挟まるように存在し、注連縄の立岩と含めて一丸で神聖視されていたものとみて良いだろう。

本殿手前の岩盤(拝所から撮影)

当社は丘陵の尾根端に立地する。
藤本氏は、岩神社両隣の民家の裏を見ると高さ約2mの岩壁と、その上に続く岩盤を確認している。
すなわち、当地は裏山の岩盤も含めた上での岩石信仰であり、その山裾の祭祀の場と位置付けられる。

2020年6月28日日曜日

厳島の岩石信仰~『芸州厳島図会』より~(広島県廿日市市)


広島県廿日市市宮島町

安芸の宮島の名でも知られる厳島。
厳島神社の背後にそびえる弥山(標高530m)は厳島の最高所であり、山頂に無数の巨岩が林立していることは、岩石信仰の事例としてよく知られている。

しかし、それら厳島の岩石信仰については、文献記録や民俗学的な伝承の色濃く残る事例とまったくと言って良いほどの記録を残さない事例に分かれるようで、それら玉石混淆の事例群が歴史学的な見地から整理整頓される機会は少なかったのではないかと思われる。

今回は、島内に散在するあらゆる規模の岩石を、天保13年(1842年)に国学者の岡田清が発表した『芸州厳島図会』の記述からまとめてみる。
現在知られている情報との違い、そして、現在注目されていない岩石の存在に気づくことができるだろう。

本文については、福田直記編『藝州嚴島圖會』(宮島町 1973年復刻版)を参照した。
また、「新日本古典籍総合データベース」においても、『嚴島圖會』(国文学研究資料館 鵜飼文庫所蔵版)の全頁画像がオンライン公開されている。

以下、紹介順は『芸州厳島図会』の記述順に準ずる。
(厳島神社を起点に、島の周りを時計回りに紹介して、その後、弥山を紹介する形式となっている)

厳島神社と弥山

卒塔婆石


「大宮鐘楼の傍にあり。平判官康頼鬼界島よりながせし卒塔婆流れ寄りしところなり。今石の燈籠一区を建てその標とせり。」

厳島神社境内にあり、現地には説明板も立つため、比較的知られた史跡である。

卒塔婆石(写真中央やや左下の石)
『芸州厳島図絵』所収の絵図では、現在現地にある岩石よりもひときわ大きく卒塔婆石が描かれている。

道祖神社の陰陽石


道祖神社については「幸町にあり。一に牛王ともいふ。祭神猿田彦大神」
陰陽石については「同社の後にあり、俗に道祖神の神体なりといふ。」

現在、門前町内に幸神社として鎮座するのがそれである。
陰石と陽石に分かれ、それぞれ現在も拝することができる。web上に写真が掲載されている。

幸神社

揺岩(ゆるぎいわ)


「長浜みち仁王門の辺にあり。大さ方二間ばかり。」

長浜みちの仁王門とは、現在、宮島港南の要害山に仁王門跡の石碑が残る辺りと推測される。

仁王門跡

そこに二間ということで、約3.5mの揺岩があったということになるが、本書に収録されている「小浦」(http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200020166/viewer/128)の絵図には仁王門が描かれているものの揺岩の図示はない。
また、全図(http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200020166/viewer/27)には島北の内陸部に「ユルギ岩」らしき注記があるが、「仁王門の辺」というにはあまりに内陸部すぎて、同一物を指すかわからない。

蓬莱巌


「聖崎をはなれて海水のうへにたてり。巌上に古松数株ありて海風にもまれ、容姿おのずから造りなせるがごとし。世に画がくなる蓬莱山といふものに似たり。故に名とす。」

聖崎は厳島北端の岬。
広島県立文書館のホームページに、蓬莱岩の絵はがき写真が公開されている。
https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/monjokan/ehagaki-bunrui-umi04.html

包岩社・つつみ岩


「磯にある石ことごとくつつみの形になれりければ、つつみの浦と名づくるよし。」

現・包ヶ浦(つつみがうら)を指す。
磯の石がつつみの形なのでその名があると記している。

包ヶ浦神社

ここには包ヶ浦神社があり、石上に社を築く。
『芸州厳島図会』の本文には岩について名称は記載されていないが、絵図には社を「包岩社」と記し、社下の岩に「つつみ岩」の名を記している。図絵の記述を借りれば、この「つつみ岩」の存在が包ヶ浦の由来となる。

千献岩(せんこんいわ)


「同浦(注:献浦のこと)にあり。平面の岩にして長さ五間。或云、千口の義にして、石面千口の魚を列ぶべし。蓋し漁人の言よりいでたるならん。」

献浦は、厳島東岸、包浦(つつみのうら)と鷹巣浦の間にあるらしい。

比目魚石(かれいいし)


「比目魚崎 鰈(かれひ)石あるを以ての名なり。比目魚石 形似たるを以て名づく。」

比目魚崎は、楷木(かしのき)浦・藤浦と青海苔浦の間にあるらしい。

菓子盆石


「形似たるを以て名づけたり。」

島南の山白浜にあるという。

革籠崎(こうごさき)


厳島最南端の岬を革籠崎、あるいは革篭崎と呼び、その音が「こうご」であるため、全国各地に分布する「こうご・こーご・かわご・かご石」地名の一例として注目したい。
現地には、段状に積み重なったような亀裂を見せる岩壁がある。

御床浦神社


「神殿石上に建てたり。祭神市杵島姫命 島巡第七の社。相伝へていはく、此浦は本社の神天降らせたまひし時の眞床即ちいはほとなりし所なりとぞ。」

島西部に位置する御床(みとこ)浦に鎮座する神社。
神の降臨する床が岩となった。磐座にも近い性質の岩だが、聖跡として語られる。

7e105 (厳島神社 末社)御床神社(御床浦神社)

烏帽子岩


「牛王社 同浦(注:御床浦)にあり、此社のほとりに烏帽子岩あり。」

おそらく御床浦神社周辺にある岩礁のうちのどれかではないか。

鰐口岩(わにぐちいわ)


「大江浦 入江あり。鰐口岩といふ、此浦にあり。形似たるをもて名とす。」

大川浦の北。共に島内陸部につながる川をもつ河口の浦。


貝殻塚の窟


「大江の浦の濱邊にあり。十三町ばかりの山間に二丈餘の窟あり。其下貝殻多し。弘治年中陶敗亡の時残卒この處に遁れ來り、磯辺の貝をひろひ数日しのび居しとぞ。」

大江浦の浜辺に貝殻塚というものがあり、文意がとりにくいが、それとは別に、十三町ほど行った山間に、貝殻がたくさん埋もれる窟があるらしい。
下記リンクの文末近くに、現地の窟と思しき写真が掲載されている。

「宮島弥山倶楽部 専用ページ」(2020年7月5日アクセス)
http://www.st-takao.com/misenclub/misennclub_0526.html

内侍岩(ないしいわ)


「同所にあり。傳へいふ、徳大寺左大将実定卿いまだ大納言たりし時、嚴島へ下向ありて島の内侍有子といへるを愛したまひしに、帰京の時、此處にきたり別を悲歎せしにより此名ありといふ。」

「同所」ということで、大江浦の鰐口岩の近くにあるものと推測される。
下写真の岩を指す。記述内に直接岩への言及はなく、さしずめ岩は歴史の未届け人である。

内侍岩 - みんなの写真コミュニティ「フォト蔵」

鬼岩・大黒岩・梶石


「この浦(注:蹈鞴潟-たたらがた)に 鬼岩、大黒岩、梶石(正しくはてへんに尾)という三つの名石あり。みな形の似たる故に名とす。」

現・多々良潟。名石という書き方から、鑑賞としての対象である。

牛石


「大元浦 本社の西南にして或は竹原浜ともいふ。この浦に牛石とて名石あり。形似たる故に名とす。この辺泉石幽邃の地なり。」

卒塔婆石の紹介から始まり、これで島をおおよそ時計回りに一周したことになる。
大元浦まで戻ってきてくると、門前町からも徒歩圏内である。
名石の表現と、泉石幽邃の地ということで鑑賞の対象としての岩石であることがわかる。

山姥の飯炊石


「橘山 大元の上の山をいふ。此山に山姥の飯炊石といふあり。名義詳かならず。」

大元神社背後の山が橘山か。『芸州厳島図会』刊行時点ですでに由来不明となっていた石である。

石風爐(いしふろ)


「石をたたみ室を作る。広さ六七尺、高さ一丈餘、藻をしき潮をそそき病ある者これに入りて坐するに、頓に宿疾愈じむ。功験世に名だかし。伝云、もとこの風呂は弘法大師弥山に於て習法のとき、求聞持修行僧徒嵐濕の気に悩めるを見て、是をつくり濕氣を去らしめし所なりとぞ。實に千載の石室にして凡作にあらず。」

場所は、木比屋谷の「あせ山」で、現在は宮島水族館の道を挟んだ向かい側あたりにあったといい、現存していない。
江戸時代にはここを訪れる人が絶えない名所だったが、壊されたらしい。

獅子岩


「紅葉谷 南町の奥にあり。ここに獅子岩とて名石あり。」

場所はずいぶん離れ、宮島ロープウェイの山上駅・獅子岩駅の場所となる。


影向石


「愛染堂の前にあり。本尊の明王この石に影向したまふといふ。」

門前町南、白糸川の西岸に大聖院がある。
その愛染堂(愛染院とも)の前にある石ということで特定はしやすそうだが、情報収集不足によりこれ以上の所在特定はできていない。

御幸石(みゆきいし)


「瀧(注:白糸瀧)の前の平らかなる岩なり。高倉帝御幸の時、この岩の上に御輿を居させたまへりとぞ。」

特定されており現存。下写真。

御幸石(ミユキイシ)...宮島・弥山の観光スポット

幕岩


「山の半腹にそびえて千仞の巌壁その形幕を張れるがごとし。」

弥山への登山路の一つ、大聖院コース途上で出会う。
下記リンクに幕岩の写真が掲載されているが、厳島の岩石の中でも最大級に属するものと言って良いだろう。

『幕岩を仰ぎ虹を見て遊女石畳に・弥山〜初冬厳島行(10)』

岩屋薬師


「窟の内に安置せる故にこの名あり。前なる流に板橋をかけたり。」

幕岩を過ぎ、中堂と呼ばれる登路の休み所の上にあるという。情報収集不足につき詳細位置特定できず。

灌頂石


「同十四丁目にあり。」

大聖院コースのルート上と思われるが、位置特定できず。

力石


「名義詳かならず。俚諺にいはく、前の國守福島左衛門大夫正則登山のとき、此處にいたりて怪異ありしかば下山せられき。よりてまた大夫戻の石ともいへりとぞ。是非いまだ詳かならず。」

灌頂石の近くで、大聖院コースを登り切ったところにある仁王門よりは下方に位置すると思われるが、位置特定できず。

船岩


「拾間四方の巌にして上に諸木を生ぜり。形の似たるをもて号けたり。岩下に石像の地蔵あり。」

ここからは弥山の頂上部の巨岩群が続く。


満干岩(みちひいわ)


「岩の半に腕を容るるばかりの小孔に潮水ありて、いかんる旱年にもかるることなし。かつ海潮の干満に従てこの水も増減す。まことにかかる高頂にありながら鹽氣のかよへること一奇といふべし。」

現・干満岩。弥山の七不思議の一つとして知られる。
岩の傍らには目洗薬師がまつられ、眼病を患う者は満干岩にたまる水で目を洗い祈ったという。

満干岩(写真奥)

満干の塩水をたたえる穴(写真中央ではなくやや右上の岩肌の小穴)

疥癬岩(ひぜんいわ)


「觸るることを忌む。是に觸るれば疥癬を生ずといふ。」

烏帽子岩


「地御前遥拝所 この所に烏帽子岩といふ名石あり、形似たるをもて號く。」

疥癬岩の近くにあると推測されるが、弥山頂上部における地御前遥拝所の所在地を特定できない。

頂上石


「高さ三丈、圍四丈、このところ弥山の絶頂なり。」





弥山頂上に広がる巨石群のことを、『芸州厳島図会』では「頂上石」、または「頂上カベシロ岩」(絵図での注記)と名付けている。
特段のいわれを伝えるわけではなく、頂上石というネーミングも後世的である。少なくとも文献記録上では、弥山頂上の巨石群を信仰史の上で紐解くのは難しい。

松井輝昭氏「弥山の描かれ方の変容と神仏分離」(『宮島学センター通信』第4号 2013年)
https://www.pu-hiroshima.ac.jp/uploaded/attachment/11548.pdf
によると、『厳島道芝記』(1697 年)や『芸藩通志』(1825 年)など、他の文献においても弥山の巨岩群についての説明はほとんど見られず、それが明治時代以降になると、頂上の巨岩群の存在を強調するようになったと論じられている。
現在、頂上巨岩群に対して冠される「厳島神社の神が降臨した最初の地」云々は、近代以降の解釈という可能性が指摘されている。

岩屋不動


「平橋のかたはらにあり。窟中に本尊を安置せり。」

不動岩とも呼ばれるもので、不動明王を巨岩群の隙間にまつっている。
岩屋不動の右には旧毘沙門堂が建ち、それに対して左には現在「くぐり岩」と呼ばれる構造物がある。
『芸州厳島図会』にはくぐり岩についての項は立てられていないが、絵図にはくぐり岩のあたりにそれらしき絵と共に「石洞門」の注記が見られる。

くぐり岩(写真左奥)と岩屋不動(写真右)

岩屋不動(不動岩)

窟内の厄除け不動

くぐり岩

このあたり、ドルメンと形容される机型の巨石構造物が2か所ほど確認できるが、『芸州厳島図会』も含めて、いずれの文献においても名前はつけられていない。

観音堂・文殊堂に接するドルメン状構造物

一帯が岩盤の上に建つと言い換えても良い立地。

玉取岩


「伝へいふ。昔人ありて海上より望み、この山に璞玉(あらたま)あることをしりて取かへりしといふ。今三尺ばかりの孔岩にあり。」

弥山本堂境内の閼伽井の辺りに存在するというが、情報収集不足につき特定できず。

閼伽井

霊火堂

霊火堂裏の巨岩。弥山本堂一帯の巨岩を構成する一つ。

曼陀羅石


「求聞持堂の下なり。数十丈の盤石にして石面平らなり。大師石面に梵字を書し、また眞字にて三世諸佛、天照太神宮、正八幡、三千七百餘座の字を鐫りたまへり。」

現・曼荼羅石。満干岩と同じく弥山の七不思議の一つとして知られる厳島岩石信仰の代表格だが、ここへ至る道は長らく封鎖されている。

求聞持堂。この奥の下斜面に曼陀羅石があるという。

弥山の七不思議の看板。2つ目の曼荼羅石の解説があり写真も掲載されている。

三鬼堂


「盤石のうへに建つ。」

これは現在の三鬼堂の場所を指すのではなく、明治時代の神仏分離令以前の三鬼堂は現・御山神社の場所にあった。
堂前は「数百丈の絶壁」で伊予の山々も遠望できると記す。

平成29年(2017)5月2日 宮島弥山3往復(博奕尾コース、大元コース、大聖院コース) : 恐羅漢と大山ばっかりなんですが。

帆掛石/鏡石


「奥院大師堂 金剛燈籠堂并に籠所あり。これより南下の路なり〇此所の山の巓に帆掛石といふ名石あり。形の似たるを以て号けたり。または鏡石ともいふ。こは遠方より望むときは鏡台に似たればなり。」

場所がわかりにくいが、絵図の厳島全図裏三(http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200020166/viewer/20)には、「三好の尾」と書かれた支峰の下方斜面に「かがみ岩」らしき注記が見える。

龍馬場(りゅうがばば)


「巌上に馬蹄の跡あるを以て、一に駒が林ともいふ。」

弥山の頂上から西を眺めると、一峰上に多数の露岩が群れる丘陵がひときわ目に入る。これが現在、駒ヶ林(標高502m)の名で知られる場所だが、『芸州厳島図会』では龍馬場、あるいは龍が馬場の名称のほうが代表的だったようである。

岩上に馬蹄跡が残るということで、一種の馬蹄石の信仰の類例と言えるが、後述するような岩石信仰の場もあり、それが龍馬場の名の由来となるらしい。

弥山頂上から眺める駒ヶ林


三劔窟(みつるぎのいわや)


「龍が馬場に至る路にあり。伝へいふ、巻の一に載するところ三段に折れし御剣を納めたりと。」

絵馬岩


「同上の上数十丈の巌壁なり。中央に馬の形を画くがごとし。遠くのぞめば赤色にして其色昔より曽て變ぜず。」

龍窟(りゅうがいわや)


「一に護摩谷の窟といふ。盤石上より覆ひかかりて、一に室屋のごとし。内に弘法大師の像を安けり。この所は、弘法大師護摩修法のあとなりといふ。傍に龍が洞とていにしへの龍の出しといふ穴あり。其深さ知るべからず。すべて此辺を龍が馬場といふも名の起りはここなるべし。」

岩船岳について


岩船岳(標高466.6m)は厳島南部にそびえる岩峰で、『芸州厳島図会』には一見記載がない(名前が違っていた可能性も)が、ここには山中に奇岩怪石が見られるという。
一般登山道はなく、厳島の中では上級者向けコースとなっているようだ。

詳しくは、前掲の「宮島弥山倶楽部専用ページ」および「岩船岳登山」に詳しいが、岩船の名の由来と思しき船形の岩石などが確認されている。

また、この岩船岳を遥拝するために、先述の三劔窟を擁する三剱山(火山/名無し山)には、かつて遥拝所としての鳥居が建っていたという話があり、その柱穴らしき岩穴が残る。



以上、他にも厳島には名前の付いた岩石がまだまだあるようだが、ひとまず、江戸末期の地誌『芸州厳島図会』を中心に、厳島に歴史的に記録された岩石を紹介した。
その位置関係はページ冒頭のGoogleマップを参考にしてほしいが、現地特定をできていない場所が多々あるため、それらは大体の場所を図示するにとどめ、詳細位置は不明とさせていただきたい。

2020年6月21日日曜日

苗木城(岐阜県中津川市)


岐阜県中津川市苗木

もともとこの高森山(標高432m)に露出していた巨石を利用して山城を築いたことで知られる苗木城。
城郭としてのアプローチは多面的にされていることと思いますが、巨石信仰との関係性について学術的な検討がされた文献にいまだ出会えていません。

目に見えない信仰心であること、そして人の意思が介在しない自然石に着目することは、資料に立脚しにくい議論となりやすいことが、その一因であることは間違いないでしょう。
とはいえ、一蹴されるべきテーマかというとそうでもない。もともとそこにあった巨石と人の関わりを考えることは、一つのテーマ史として看過できないと言って良いでしょう。

関連研究の存在をご存知の方はぜひご教示ください。

大門跡。岩山を取り入れた城郭建築。

巨石上の城郭基礎の一部を復元展示。

岩に穴を穿ち柱穴となす。

四方の眺望は要害としての条件を満たすが、宗教性の検討はこれからか。

岩上で馬を洗い場内の水が豊富であると誇示したという馬洗岩。

自然の岩の並びに元来法則性はなく、そこに人為的な設計を融合させる。

自然を前にして人の心理や観念が否応なく変化したのは軍事拠点も同じであろう。

八大龍王大神の祠。明治時代に現地に祠をまつったものというため現状の祭祀設備に惑わされないこと。

巨石下からは水が染み出て、枯れない清水として有難がられたという。

2020年現在、苗木城の一部の巨石が崩土により下に落ち込み、今後の保存の課題となっている。

2020年6月14日日曜日

恵利原の鸚鵡石と天の岩戸(三重県志摩市)


三重県志摩市磯部町恵利原

恵利原和合山の鸚鵡石


伊勢志摩には鸚鵡石と呼ばれる岩石が複数知られており、有名なのは度会郡度会町市之瀬の鸚鵡石と、今回紹介する志摩市磯部町恵利原の鸚鵡石(おうむいわ/おうむせき)である。

恵利原の鸚鵡石については、林宏氏の『鏡岩紀行』(中日新聞社、2000年)に詳しくまとめられており、林氏の調査に基づいてエッセンスを紹介する。

この鸚鵡石は、和合山という丘陵にある高さ31m、幅127mの巨岩であり、鸚鵡石に向かって声を出すと鸚鵡返しでまるで石から声が聞こえてくるという奇石として、少なくとも江戸時代から著名な場所だった。

鸚鵡石。和合山を構成する岩盤と言い換えても良い。

鸚鵡石正面。ここで声が反響する。

18世紀後半作と推測される紀行文『笈埃随筆』や、ほぼ同時期の寛政9年(1797年)成立『伊勢参宮名所図会』にその名がある。

『笈埃随筆』では、磯部の御師が和合山を稚日女尊神の神跡と語ったくだりがあり、稚日女尊神が和合山で機織りをしたときにかけた絹かけ松なるものがあると記されている。

『伊勢参宮名所図会』では、鸚鵡石の絵図が描かれ、そこに先述の絹かけ松のほか、はたをり岩、かけ石、聞石の名が明記されている。

かけ石は、声をかける場所にある石のことで、聞石はその声が鸚鵡返しになって鸚鵡石から聞こえてくる場所を指す。

聞石の場所は実質上、鸚鵡石の下部を指していて鸚鵡石と同体である。林氏の報告によると、鸚鵡石の下部の聞石のあたりには鏡面が見られ、その垂直平滑な面に音声が反響することで鸚鵡声となることを説明している。

かけ石は、鸚鵡石からは手前に離れた場所に位置して、現在は「語り場」と呼ばれる建物に位置する。建屋に自然の岩塊がくっついていて、これが かけ石と思われる。

また、はたをり石は、現在、倭姫機織場と標示される場所にある小さな岩穴のことだという。

語り場と聞き場

林氏の考察によると、『伊勢参宮名所図会』に鸚鵡石の手前の祠と鳥居が描かれていないことから当時まつられていなかったと推測しているが、『笈埃随筆』に和合山を稚日女尊神の神跡と御師が流布していることから、祠と鳥居がなくても神聖視されていた可能性は否定できない。
林氏が論じるとおり、伊雑宮の御師が鸚鵡石の神秘を伊雑宮の信仰に活用して、全国に信仰者を増やそうとした動きが認められる以上、鸚鵡石は信仰対象ではないが、聖地であることを示すための霊石として存在したことは認められるだろう。

天の岩戸(恵利原の水穴)


伊勢志摩には天の岩戸と呼ばれる地も複数ある。
著名なのは伊勢神宮外宮裏の高倉山にある天の岩戸(高倉山古墳石室)と、ここで紹介する恵利原の天の岩戸である。

天の岩戸は、鸚鵡石から北西へ約4kmの恵利原の端にある。
伊勢国と志摩国の境と言い換えても良いが、ここは逢坂峠と呼ばれ、伊勢神宮から志摩国に抜ける古道でもあった。であるからこそ、この道沿いに天の岩戸や鸚鵡石といった聖地が生まれたのだろう。

天の岩戸は恵利原の水穴という別名をもち、麓を流れる神路川の水源に当たる湧水の岩穴となっている。

天の岩戸(鳥居の奥)

写真ではわかりにくいが、岩穴から沢水が流れる。

天の岩戸の手前には禊滝が流れ、その傍らに手形石と標示のある岩肌がある。何の由来の手形かは調査不足でわからない。さらに川沿いには「お獅子岩」という岩もあるらしいがどれを指すかは不明である。

禊滝

手形石

裏の五十鈴川の異名をもち、伊勢神宮信仰の強い影響下で当地が天の岩戸に擬せられたことは言うまでもない。

「雌の鸚鵡石と雄の鸚鵡石」説


林宏氏の前掲書によると、『磯部郷土史』(1963年、磯部郷土史刊行会)という文献に、雌の鸚鵡石と雄の鸚鵡石があるという記述があり、雌は和合山の鸚鵡石であるのに対して、雄の鸚鵡石は「高天原」の地にあるという。

恵利原の天の岩戸が所在する土地一帯は、高天原の字名で呼ばれている。
すなわち、天の岩戸の近くに(はたまた天の岩戸自体が)鸚鵡石と呼ばれるものがあるらしいということになる。

この鸚鵡石は「天津神籬」とも「五十串巌(いぐしいわ?)」とも名称があるようで、前者の天津神籬という名前は近代以降の古神道・復古神道の影響下でつけられた名前にも思えるが、後者の五十串巌は土地名の五十串原から来ているものと類推される。

林氏は、『磯部郷土史』の記述は恣意的で真理性に欠ける部分があるとの磯部町郷土資料館学芸員の方の言を載せて、同意できる部分を認めつつ、まったく存在しないものを捏造したとも考えにくく、当地・高天原に和合山の鸚鵡石と対比されるもう一つの鸚鵡石がどこかにひっそりとそびえているのではないかと記している。
恵利原の3つ目の聖地の可能性として、再び脚光が当たることを祈りつつこの情報を記しておきたい。

2020年6月7日日曜日

内々神社の岩石信仰~奥之院岩窟・天狗岩・庭園~(愛知県春日井市)


愛知県春日井市内津町

内々神社庭園 ~自然石信仰と人工的景観~


内々(うつつ)神社は、内津峠の存在で知られる尾張と美濃の国境に鎮座し、『延喜式』神名帳にも記載された古社である。
日本武尊が部下の建稲種命の死に接し「現哉(うつつかな)」と嘆いたことから、内津の地名が生まれ建稲種命を祭神としたという伝説が残るが、そこに鎮まる内々神社がたどった歴史にはいくつかの謎がある。

その一つが、内々神社は社殿の裏に大規模な庭園を有することである。

内々神社本殿の背後に広がる庭園

全国数多くの神社あれども、本殿の手前ではなく本殿より奥に鑑賞目的で人工的に自然に手を入れる庭園が築かれるというケースは極めて稀といい、この庭園と内々神社の歴史については複数の研究者による先行研究がある。

研究史および論点の整理については、下記の参考文献が詳しい。

岡田憲久氏「内々神社庭園現況調査に関する報告」『名古屋造形大学紀要』16(2010年)
https://nzu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=372

高橋敏明氏「妙見菩薩の庭 ~内津の庭園4つの謎~」『郷土誌かすがい』第77号(2018年)
https://www.city.kasugai.lg.jp/shimin/bunka/bunkazai/kyodoshikasugai/1004412/1014885.html

上記の研究ではそれぞれ結論に異同点が見られるものの、共通して認められるのは、内々神社の社殿はもともと今のような形ではなかったということである。

嘉歴年間(1326年~1329年)、神仏習合の影響で神宮寺の妙見寺が神社境内に創建された。
何かしらの理由で、その時の妙見寺が現社殿の位置に一時期あり、寺に隣接する庭園として現庭園が築かれたという説が一般的である。この場合は、南北朝期から江戸時代初期の造園と製作時期に諸説ある。

また、前掲の高橋氏の説では、妙見寺の影響を受けて、神仏習合の中にある内々神社が観賞用ではなく、神を降臨させる祭祀の場としての斎庭を築いたものがこれであるとみなし、現社殿が完成した文化年間(1804年~1818年)以降の比較的新しい作庭ではないかと論じている。

神を降臨させる斎庭とはどういうことか。
内々神社庭園の特徴は、社殿の裏山に屹立する巨岩があり、これを天狗岩と呼び、自然の巨岩も含めて庭園としている。
山の天狗岩が本来の神の降臨する磐座で、さらに山麓の社殿に神を迎えるために、社殿背後の山から地続きの裾部に庭園を造り、庭の中に設けた三尊石・島・礼拝石を麓の磐座としたという推測である。高橋氏は、島を取り囲む石群は岩境(磐境)としての機能も負っていたと述べている。神を降ろす庭であるなら、庭園を荘厳する各石が全体として磐境だったと考えてもいいのかもしれない。

庭園の三尊石

池に浮かぶ中島。石に囲まれている。

一方で高橋氏も自身の説に解明しきれていない点があると吐露しており、この説の是非はまだ保留段階としたいが、庭園=観賞用でそれ以外の機能を排除するという価値観が硬直的だと示したことには大いに賛同したい。
古墳時代の祭祀遺跡である三重県伊賀市・城ノ越遺跡以降、飛鳥時代の苑池遺構、中世の作庭記に著される様々な禁忌に至るまで、庭は美の対象であるだけでなく祭祀信仰の場としての性格も持ち合わせていたと認められるだろう。

天狗岩は山林に覆われ近くからでは逆に見えにくく、現在は内津神社入口西の駐車場の辺りから遠望したほうがその姿を拝める。


神社駐車場からわずかに見える天狗岩(Googleストリートビューより)

庭園から望む天狗岩下部の岩盤。屹立する岩上部は樹木で見えない。

前掲の「内々神社庭園現況調査に関する報告」の聞き取り調査によれば、昭和40年代に植林されたスギが育ち天狗岩が見えなくなってしまったということで、伊勢湾台風前は麓からよく見えていたという。
報告書の所見では、内々神社庭園は天狗岩が出発点で始まったものであるから、天狗岩の姿と足元に広がる斜面の巨石群をはっきり見せる整備が文化財的に重要だろうと提言している。

たしかに、庭の裏山にあるのは天狗岩だけではなく、山腹斜面から山裾にかけてゴロゴロと多数の岩石群が転石・落石した景観が広がっている。



これも自然の庭とみなされるものであり、天狗岩と内々神社の庭をつなぐ媒介役とも言える。
山裾の岩石群の一つには、「古事記岩」と名前のつけられたものも存在する。

古事記岩

名称が全国他に類例を見ず特異だが、せいぜい奈良県山添村の「乞食岩」が同音の事例と言えるくらいか。
看板には「念ずれば花開く」とメッセージが書かれている。

天狗岩が磐座だったかは創建時の記録が残っていないので確定的とはいえず議論の余地もあるが、明治時代の『内々神社御由緒及参考書』に「建稲種命亀ニ乗リ日本武尊ノ御前ナル巌上ニ現レ給ヒ」の文があるといい、この「巌上」が天狗岩を指すとしたら、天狗岩は建稲種命が降臨した聖跡と少なくとも明治時代には信じられていたことが窺われる。

内々神社奥之院 ~岩穴に築いた社と麓の内々神社との関係~


内々神社から裏山の天狗岩を横目にさらに北方へ道を進むと、約600mの地に「奥之院」と呼ばれる場所がある。

奥之院参道

奥之院は他に奥ノ院、奥の院など表記の揺らぎがあり、別称として妙見宮・妙見神社・巖屋神社などが現地の石標に見える。
妙見宮・妙見神社の名は中世の妙見信仰に基づく後世的名称であることが前述のとおり神宮寺の妙見寺の存在から明らかであるし、巖屋神社を示す石標は明治時代に流行した御嶽講の信者が建てたものという報告書の聞き取り調査があり、別称や異称の形成が近代にずれ込むという注意喚起の事例にもなっている。

現地には、御嶽講や他の宗派によるものと思われる霊神碑や、金正尊といった独自信仰の祠が残る。

参道脇の霊神碑

岩盤上に建つ霊神碑

金正尊の祠

山岳仏教を素地とするさまざまな信仰のるつぼとなっており一種混沌とした空気感が漂うが、それを拭った先に残るのは内々神社信仰の淵源としての岩窟である。

奥之院の岩窟は、現地に行くと身をもって知ることになるが、急峻な岩肌にできた裂け目に無理に社殿を設けた形となっている。






現在は新調された鉄製の階段で参ることができるが、階段敷設前は梯子をかけただけで、その前は鎖で登っていた時代もあったという。もちろん元来は岩肌を登攀していたことだろう。
江戸末期~明治初『尾張名所図会』後編巻4 春日井郡(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/764890)には、奥之院が内々神社の開闢の地で建稲種命をまつったと書かれ、社殿が築かれた岩窟のさらに上にも小岩窟があり、そこから「御塩水」と呼ばれる清泉が流れ、絵図とともにその景観が描かれている。

また、江戸時代の文献『感興漫筆』には、大岩を神体として岩中に不動の像があったことが記されているという。この時は、社殿さえなかったのかもしれない。

奥之院の岩窟に限らず、周辺一帯にはチャート質の荒々しい岩盤が多く分布していたといい、『尾張名所図会』にも奥之院の西に「屏風岩」という場所が描かれている。
屏風岩は何十mにもわたる文字通り屏風のような岩肌だったというが、昭和30年代から当地で採石業が盛んとなり、さらに昭和から平成の間に国道19号バイパスが内々神社と奥之院の間を分断する形で工事され、その折に屏風岩は消滅したという。
このように、岩石によってさまざまな信仰や聖地が生まれた場所でありながらも、生業として岩石が利用された場所で、その歴史の上書きで現状の景観が存在していることになる。

奥之院の山上から麓の砕石現場を望む。

岩石信仰という観点で興味深いのは、内々神社背後の天狗岩と、当奥之院の岩窟の関係である。
共に、内々神社祭神の建稲種命をまつる場としてあり、性格が重複している。前掲高橋氏の論文によると、天狗岩の麓にも岩穴が見られるという記述があり、それが真に岩穴として神聖視されたのなら、岩穴信仰(岩屋信仰、岩窟信仰と言い換えてもいいが)という意味合いでも両者の聖地は重複し合う。

奥之院岩窟を設けた岩穴

奥之院岩窟上方の岩穴。御塩水の小岩窟はもっと上か?

天狗岩下部の露岩の一つ。岩穴状の亀裂が見られる。

これは、通説的な解釈を施すなら、山中最奥部に位置する奥之院の岩窟が信仰の淵源で、その後、麓に少し寄ったところに屹立する天狗岩を次の降臨地として、さらに境内の庭園をつくることで麓に第三の降臨地を設け、時代を経るごとに神が里に近づいてきたという流れを描き出せるだろう。
しかし、実際の歴史はそのような俯瞰的な流れで描き出せるものとも限らない。神社背後の天狗岩は、麓に近いという点で、奥之院の岩窟よりもむしろ順序的に里民から先に目に入る存在であったことは想像に難くない。
天狗岩が先で、それに倣って山中岩窟の信仰が増やされたか、その逆か。順番はわからないが、どちらかがどちらかに影響を与えて、結果的に二つの聖地が現在並立している可能性もある。

延喜式時点の内々神社がすでに麓の社殿のことを指していたか、奥之院における祭祀の状態だったかはわからないが、近世には天狗岩の麓に人工の祭祀場である斎庭を作り、奥之院の岩窟には不動像や祠をはめこんだ。
自然のままで是とせず、自然に手を加えることで、聖なる存在をできる限り人前に近づけようとした意識を感じる事例である。