2020年4月5日日曜日

山添村の岩石信仰(奈良県山辺郡山添村)



2002年時点の記憶に基づくため各地点の位置は必ずしも正確ではない。

はじめに


2002年9月13日~9月18日の間、奈良県の北東部、三重県と境を接する山添村で岩石祭祀事例を集中的に訪れる機会があった。
探訪前は、『山添村史』などの郷土資料をかじった程度で10例弱しか把握していなかったが、地元の方の助けもあり、現地で読んだ郷土資料や聞き取りで新たに知った事例は数多く、石造物や所在未確認も含めて最終的には約80例に上る事例数を知ることができた。

『岩石を信仰していた日本人』で提示した岩石祭祀の類型分類の基本型が確立したのも、この山添村の事例群をどう理解するべきかと向かい合った結果の産物だった。
このように、私の岩石信仰の研究において山添村の事例群からは教えられることが多々あった。

かつて旧サイトにおいて2002年~2003年の半年間にわたり、山添村の各事例の探訪報告を32個の記事に分けて掲載してきたが、このたび、それらを改めて1ページに凝縮して加筆修正のうえで収録しておく。おおよそ村の東から西の順番で紹介していこう。

本ページの情報の多くは2002年時点のものであることをご了承いただきたいが、その後山添村で広がった「イワクラ」啓発運動以前の岩石信仰に関する情報まとめとしても貴重だろう。

山添村の大字の位置


遅瀬 八柱神社の露岩群

所在地:山添村遅瀬 

山添村の北東端の集落・遅瀬の鎮守。 
山添村では、牛頭天王の信仰が古くから定着しており、八柱神社は須佐之男命の生んだ五男三女をまつる神社として、当地の牛頭天王信仰をあらわしている。
山添村には遅瀬地区と片平地区に八柱神社があるので、便宜的に前者を遅瀬八柱神社、後者を片平遅瀬神社と呼ぶ。  

遅瀬の八柱神社は、背後に比高差50mほどの里山に抱かれて鎮座している。
社殿の東隣を見ると、岩石の露頭を数点確認できる。そして、社殿の裏の方にも岩石の群れが見える。
玉垣によって直接、岩石群には触れられないようになっており、また、まるで岩石群の密集している所に社を建てたかのような感も見受けられる。


神社の裏山に登ってみると、神社から山頂までをむすぶ尾根上に、約5体ほどの自然石が地山から露出しているのを確認できた。
後日入手した遅瀬の地図(1500分の1)を参照すると、この裏山の随所に岩石の露頭があることが図化されていたが、その中でも、八柱神社から山頂の間の山腹斜面上に、岩石群が集中的に分布していることは注目しても良い。
ただ、この岩石群にまつわる伝承や記録は現時点では一切入手できていない。
岩石群と八柱神社をつなげる要素も、せいぜい「岩石群に隣接して社殿が建てられている」といった立地状況だけであり、直接的な信仰的証拠を提示できない以上は、岩石信仰の事例であると積極的に押し出すことは差し控えるべきだろう。
粛々と記録だけ残しておくこととしたい。

遅瀬 十三磨崖仏

所在地:山添村遅瀬

山添村には多くの石仏・磨崖仏が残っている。遅瀬地区の「十三磨崖仏」もその一つ。 
幅2m・高さ1.5m程の自然石の表面を滑らかにした上で、その表面に2つの方形区画が刻まれている。そして、左側の方形区画内には6体の地蔵、右側の方形区画内には13種の菩薩が26体彫刻されている。さらに仏の性格を表す梵字が、それぞれの仏像に刻まれている。製作年代は室町時代後期と推定されている。


摩崖仏は、自然石を利用して信仰者自らが信奉する信仰対象を刻んで可視化した、半自然・半人為の岩石信仰と理解したい。

乞食岩 

所在地:山添村遅瀬

遅瀬地区に、名張川と遅瀬川が合わさる合流点があり、そこから少し東へ行った名張川河岸に「乞食岩」と呼ばれる場所がある。
今は上流のダム建設によって、普段、岩の大部分は水面下に沈んでいるのだが、水が引いている時は岩の上部が姿をあらわす。

奥側の岸辺に隆起する岩礁が乞食岩という。

乞食岩は、成因的には川沿いに集まる自然岩の中の一つであるが、三角形状の目立った形状をしており、岩の上面には大きな穴があいている。

乞食岩の名の由来は、この川辺に住み着いていた乞食たちが、この岩の上面にあいた穴に水をため、川魚のいけすとして使用していたことから呼ばれたといわれる。
つまり、川原乞食の生活場所の象徴として乞食岩は位置付けられており、特別視の対象でこそあれ、信仰・神聖視としての対象ではなく、けっしてプラスイメージの付与された場所ではない。
伝承を有する岩石の中でも、乞食岩のようにネガティブの記憶を込める岩石の事例というものも存在するということである。

東山の天狗岩

所在地:山添村遅瀬

『村の語りべ』(1996年)によると、遅瀬地区には「天狗岩」と呼ばれる岩があるらしい。 
遅瀬に東山という山があり、そこにはむかし天狗が住んでいたという。ふもとに住んでいた仏僧がその天狗から剣術を教わったというが、その天狗があるとき4畳半ほどの岩石を3つ重ねたということで、天狗なきあと、この岩石が天狗の聖跡として天狗岩と呼ばれるようになったと伝わる。

私はこの天狗岩を実見できておらず、「東山」がどの山を指すのかもわかっていない。

神波多神社

所在地:山添村中峰山

神波多神社は山添村の中峰山地区の鎮守であるばかりでなく、村全体でも「波多の天王さん」として崇敬を集めている。
「天王さん」とは牛頭天王を指し、山添村で盛行する牛頭天王信仰の中枢とも言える。
また、『延喜式』の臨時祭で畿内の境十ヶ所にまつった疫神のうち、大和国と伊賀国の境に祀られた疫神であるとされている。 

山添村いわくら文化研究会からいただいた情報によると、神波多神社には「鏡石」という岩石があるというが、私は現地で鏡石らしき岩石を特定することができなかった。

神波多神社境内。ブルーシートで覆われていた。

この鏡石は、拝殿と向かい合うように残っているらしい。後日、会提供の資料に写真(大正時代の絵葉書の写真とのこと)が載っていた。
拝殿のすぐ手前は藪が生い茂る斜面になっているが、大正時代の写真では周りに草がなく、おそらくその藪の中に隠れているのではないかと思わせる位置だ。 
写真で見る限り、鏡石は三角形状の自然露頭で、高さは人間の身長より低い。

また、神波多神社境内には「山神」や「庚申」の石碑が建つ。下津地区の吉備津神社境内、峰寺地区、桐山地区など、山添村内で多く見られるもので、近世を遡らない石造物である。

神波多神社境内の「山神」石碑

神波多神社境内の「庚申」石碑

これらの石碑は、本来的には不可視の信仰対象や信仰心という概念を、信仰者にとって継続的にまつりやすい場所に「目に見える存在」として岩石の形であらわしたものである。

石碑であるから信仰対象そのものではなく、祭祀の際の目印としてサブの存在として設置されたものには違いないが、これらの石碑が「岩石」という実体をもつために、後世に即物的な神となりうる事例も見られる。
たとえば山添村吉田地区には「庚申さん」と呼ばれる自然石がある。庚申は本来目に見えない信仰世界であるが、岩石がありそれ自体を「庚申さん」として愛称をもって呼んでいる。実体のなかった霊的存在が、目印だったはずの岩石に実体を代えて後世、信仰の本体として転化した例として指摘できるのではないだろうか。

舟岩

山添村中峰山オクヤデ

小字オクヤデの山中に舟岩がある。その名が示すとおり、大小の岩石が群集して船形の形状を見せており、高さ3mほど、幅10mほどの長さを測る。

写真中央の白く照らされているのが舟岩

言い伝えによると、大昔、名張川の上流から船で下ってきた素戔嗚命が、この地で船から降り、その船が石化したのがこの舟岩だという。
また、異伝では神功皇后が三韓征伐を行なった際に、乗っていた船が石化したものともいわれている。
いずれの伝承も記紀神話のモチーフを借りた内容であり、船形の自然石を見つけてこれを神秘的だと思った人々が、岩の出自を記紀に拠ったものか、元々は村独自の独自的伝承を持っていた岩石が、後世に記紀神話体系の中で再編成されたのかはわからない。

ちなみに、舟岩の近くに山之神をまつる石碑が残っている。本例は、山之神の石碑の周りを木造の社祠で覆っており、本殿内の御神体のような位置づけになっていることが興味深い。

山之神の石碑

さらに、舟岩の近くに「地蔵岩」という岩石があったり、中峰山には「十市姫の岩」「大師岩」といった名前のついた岩石が複数報告されている(山添村いわくら文化研究会情報)。

大亀石

所在地:山添村中峰山

山添村いわくら文化研究会提供情報の岩石。
中峰山地区の、舟岩がある場所から東北東へ約200mの地点に「大亀石」がある。いただいた2500分の1の地図に「大亀石」の位置が落としてあり、立地は谷状地形の山腹で、道も踏みならされたの林道の先にあると聞いている。
実見はしていないので深くは語れないが、地元の年配の方の談によると、横から見た姿が亀に似ていることから大亀石の名があり、岩のの亀裂の中から、神波多神社の祭神が出てきたという話があるらしい。

岩石の規模は30m以上×15m以上という巨大なもので、岩の亀裂は長さ約5mで、洞窟のような室状空間を形成しているそうだ。身をくぐるようにしないとは入れないらしい。
資料批判はできていないが、他の情報がないのでここに積極的に報告しておく。

大川遺跡対岸の治田大川地蔵磨崖仏

所在地:山添村中峰山~三重県名張市

大川遺跡(おおこ いせき)は、山添村の中峰山地区において、名張川沿いの河岸から見つかった縄文時代草創期の集落遺跡である。
この遺跡から出土した遺物は数多く、土器では大川式土器として近畿地方のこの時期の指標土器となったほか、石器は縄文時代最古級の遺物群として重要視されている。

この大川遺跡がある名張川の対岸は三重県名張市の行政区であるが、名張川の河岸岩壁の岩肌を磨きあげ、その表面に大きな仏を刻画した摩崖仏が残る。

治田大川地蔵磨崖仏を対岸より撮影(写真中央)


岩尾神社

所在地:山添村吉田小字岩尾

吉田地区の鎮守。社殿の周辺に数体の巨岩群が集まっており、祭神である岩尾大神の御神体として位置付けられている。


これらの巨岩群は、大神がこの集落に婿入りした時の名残だといい、次のような伝説が残っている。

吉田地区には元々氏神がいなかったので、集落の氏神をお招きしようと村人総出でまつりの場を設けようとした。すると、伊賀の方から黒曇がやってきて空を黒く覆い尽くし、やがて大きな轟音が鳴った。
轟音がおさまり村人たちが目を開けると、まつり場の後方に巨大な岩がいくつも転がっていた。村人たちは、これらを「伊賀の神が集落の神としてやって来てくれた証」で、岩は「そのとき神が持ってきた荷物」と考えた。
この伝説は、集落に「神の婿入り」があったという説話として語り継がれている。

岩石群は伝説に忠実に解釈するなら「神が持ってきた婿入り道具」であり、神聖視されるべき聖跡ではあるものの、神そのものではないようだ。
とはいえ、伝説の大要は「村人が祭祀を行なったところ、遠地の神が降臨した」であり、多分に磐座的要素も認められる。各種郷土資料の記述に「岩尾神社の御神体」とあることとも矛盾しない。

岩尾神社境内でも最も目に付くのは、社殿裏にそびえたつ2体の巨岩である。社殿に向かって左側の岩石が「長持石」、右側の岩石が「つづら石」と呼ばれている。いずれも神の荷物としての名称である。



右側の「つづら石」には、岩石の表面に十字架状にクロスした白い筋が確認できる。視覚的な神秘性が強い特徴で「神が荷物を背負ってきた時のタスキの跡」と信じられたが、鉱物学的には、これは長石の層が直線状に集まったという説明がついている。
「婿入り道具」伝説が生まれたのも、この岩石の長石層がそうさせたのかもしれない。

また「つづら石」の上面には馬の蹄を想起させる窪みがあるという。巨岩のため上面が見えず未確認だが、これは神が降臨したときに乗っていた馬の蹄の跡と伝えられる。
一方の伝説では「神の荷物」なのに、もう一方では「神の聖跡を残した岩石」という風に、異なった伝承をもつあたり重層的な歴史があったものと推測される。
『波多野村史』(1962年)の中では、岩石の形状から、左側の「長持石」は「陽石」、右側の「つづら石」は「陰石」の性質を持っていたのではないかと言及している。ただ、この2つの岩を陰陽石とみる解釈に確固とした根拠はない。

さて、社殿の右手前にも2体の半球状の岩石が残っている。
向かって左側が「鏡台」、右側が「ハサミ」とされている。

鏡台(左奥)とハサミ(右手前)

他にも、神が休憩の際に水を飲んだという「石の水鉢」、「箪笥(タンス)石」「葛石」などが残っているように、この神社に存在する岩石たちの多くは「婿入り伝説」の影響色濃いネーミングになっている。

さらに、岩尾神社では「石売り行事」という奇祭が伝えられる。
内容は、16歳以下の少年が川原で拾った小石を参拝者が買い求め、その小石を神前に供えるという祭祀である。
石を媒体にした岩石祭祀であり、参拝者が直接石を川原で拾わず、少年から買うという一ヵ所経由するところに特徴があるだろう。

なお、岩尾神社の向かいに寺院があり、そのお寺の背後の山腹に「庚申さん」と俗称される自然露出の立石状の自然石が存在していることは「神波多神社の鏡石」の項で先述したとおりである。

片平 八柱神社の滝

所在地:山添村片平小字宮ノ谷

片平地区の氏神は、遅瀬地区と同じく素戔嗚命(牛頭天王)の三女五男を祭神とする八柱神社である。

八柱神社の社殿の背後に、高さ2丈(約6m)はあったという岩盤があり、そこを流れる滝を御神体としていたという。
信仰の中心は滝、すなわち水の神格であるが、それは岩壁を伝って流れるという点から、水は石を媒体にして流れるという精神性も垣間見え無関係ではない。

そこで、実際に片平の八柱神社を訪れたところ、社殿裏を見ても、少し岩肌が露出しているのは見えるが、滝が見当たらない。2丈あったという岩盤も見当たらない。
境内を探したが、結局、社殿裏にある渓谷状の地形と僅かな岩肌のみが、最も「岩と滝の痕跡」と呼ぶにふさわしいものだった。
社殿へ至る石段下の裾には、その滝から引いたと思われる井戸がある。井戸には板がかぶせられているので、水がどの程度湧き出ているのかは不明だ。

現地のこの状況を踏まえると、片平八柱神社の滝は、何らかの原因によって枯渇してしまい、岩盤は滝がなくなったことによって草や苔がむしり目立たなくなったのではないかという可能性が浮上する。
あるいは、社殿の背後とは文字通りの真裏ではなく、境内地から相当斜面を登った奥方にあるだけで、直接神社から仰ぎ見ることができないだけなのかもしれない。

片平 八柱神社境内


愛宕山の大岩

所在地:山添村広代

広代(ひろだい)地区に、愛宕山という山があるらしい。
『村の語りべ』(1996年)によれば「愛宕山の峰続きの道近く」に、高さ約3m、直径約2mの大岩があると書かれている。
言い伝えによると、この大岩は弘法大師が担いできた岩だといい、岩の表面にはタスキのような跡が残る。岩尾神社の直線状に集まった長石の層と同様の現象と思われる。

現時点で、この愛宕山の大岩に関する情報は以上であり、私自身は現地を特定できていない。
「愛宕山の峰続きの道近く」というのがどこに当たるのかも分からなければ、愛宕山がどの山を指しているのかも情報収集不足である。

山添村いわくら文化研究会の方の話によれば、広代地区にこの岩は実在することは確かなようで、道が草でぼうぼうらしいので、そこへ行くのは難しいらしい。この岩の名称としては「大師石」「豆腐岩」とも呼ぶそうだ。岩が豆腐のような形状をしていることから、その名が付いたとのこと。

菅生の三枚岩

所在地:山添村菅生

菅生(すごう)地区のメインストリート沿いに、通称「三枚岩」と呼ばれる、こんもりとした微高地がある。
小さな森のようで、実はその土に覆われた巨大な岩石の露頭で、板状の岩石が三つ並んで立っている。岩の奥には神祠の存在も確認できる。



この三枚岩に関する詳しい由来などは、郷土資料にもなぜか記述が見受けられず、よくわからない。
現地の方に話を聞くと、これが広代地区の愛宕山の大岩だという回答があったが、地区も岩の形状も違うので、それとは別物と思われる。

烏帽子岩 

所在地:山添村菅生

上津地区を河内川という川が流れる。その上流をたどると菅生地区に入り、その上流に「七淵」という淵(川の流れがよどみ、水をたたえている所)がある。
滝のようにどっと水が流れこむ淵というが、その淵の岸にあるのが烏帽子岩である。岩に関する他の情報(由来・規模など)は調査不足により不明。

天王さんと釜淵

所在地:山添村葛尾

葛尾地区を流れる名張川。集落の北限に当たるその川原に巨大な岩がある。その大岩の上には祠が設けられており、「天王さん」と呼ばれて信仰されているという。

伝説によれば、「神波多の天王さん」が名張川を渡ってきた時に休憩をした所がこの岩だという。
言い伝えによれば、名張川の「釜淵」と呼ばれる淵(この淵の中に岩盤があり、その上部は円状に陥没しているという。ここが天王さんの最初に出現した場所)から出現し、そこから名張川を下って中峰山地区で上陸したと伝えられる。
だから中峰山地区に天王さんを祀る神波多神社が勧請され、山添村牛頭天王信仰の中心地となっているのだと考えられている。

牛頭天王そのものは外来の信仰概念だが、名張川の淵から出現し、川を下って村に入ってきたという伝説の骨子は、村の神の性格を形作った重要な要素と言えるだろう。
葛尾の「天王さん」は、村の神が一時その足をとどめた(=霊性を伝存した)聖跡と位置付けることができ、かつ、現在はこの岩に祠が建てられているとの点を見ると、聖跡が聖地となりそこに社祠を建てたという流れを認めることができるだろう。

釜淵については下記「むらの語り部」ページが参考になる。

名張川の中峰山領、昔「大川の渡し」があった所から、100mほどの上流に釜淵という深い淵があります。その淵の中に大きな岩があり、その真ん中に直径2mほどの丸い穴が開いているので釜淵と言っています。昔の言い伝えに、天王様(神波多神社祭神)が出てこられた壺だといいます。大変不気味な淵なので、だれもその壺に入ったものはないといいます。

オニガツカのオニ岩と芋紡ぎ岩

所在地:山添村下津

下津の集落から遅瀬の集落へつながる峠の一帯を地元ではオニガツカと呼んでいる。
この峠道は、遅瀬川沿いに通っていて、その川に吉備津彦命をまつる「オニ岩」があるという。下津地区の氏神が吉備津神社であることを考えれば、この「オニ岩」は吉備の鬼伝説から由来する聖地であることがわかる。  
また、オニ岩の近くには、おばあさんが芋を紡いでいたという「芋紡ぎ岩」もあるとのことだが、両岩とも現地確認を果たせていない。

吉備津神社

所在地:山添村下津小字東浦

吉備津神社は下津地区の氏神である。下津は下西波多ともいい、南に隣接する上津は上西波多ともいう。

吉備津神社の祭神は吉備津彦命。吉備地方で横暴をふるっていたとされる鬼「温羅(ウラ)」に対し、ヤマト王権が征伐に派遣した人物であり、見事「温羅」を退治した暁として、神社の祭神としてまつられたことは、岡山県の吉備津神社を総本宮から端を発する伝説として知られている。
岡山県吉備津神社は裏山の「吉備の中山」にある諸々の岩群を聖地としているが、当社も神社背後にそびえたつ巨岩を神聖視している。当社は本殿を持たず、拝殿しかないため、巨岩は本殿代わりの存在とみなして良いだろう。

吉備津神社。社殿背後の社叢に隠れ気味だが巨岩が写る。


岩は高さ約6m、幅約10mを誇り、拝殿から拝礼する形となるので、みだりに巨岩の近くへ近づくことはできない。集落の方々がこの岩に抱く「畏れ」の高さが読み取れるようでもある。

また、当社境内には山之神の石碑が建てられており、石碑の前には木製祭具が整然と供えられていた。
山添村ではほぼ各集落において、山神を祀る施設として岩石を人為的に設けて、その前で山民の七つ道具を象った木製祭具を供えることで、山神の恩恵をいただこうとする祭祀儀礼が行なわれている(国立歴史民俗博物館 1985年)。

吉備津神社の山之神

山添村の山の神石碑については「神波多神社の鏡石」の項でその性格を検討したが、本例においてはどうだろうか。
「山の神」は、当然のことながら山に鎮まる神である。しかし、この石碑は麓たる里の宮に建ち、そこで祭礼が行われる構図だ。すなわち、この石碑は「山の神」の本拠地というより里側の祭祀場であり、石碑は祭祀する際の目印と解釈することができる。
とりわけ吉備津神社の山之神石碑は、岩石の形状・刻字ともに機械的なデザインで良い方は悪いが無個性的という特徴がある。ここからも、岩石の外見から霊性を認めることはできず、祭祀施設として視覚化するために岩石が素材として利用されたことを物語る。
その対比で考えると、石碑の裏に控える岩盤の露出のほうが気になる存在である。

なお、吉備津神社の周りには聖なる山が二つあり、一つは吉備津神社の北西に稲荷山という山があり神聖視されているという。もう一つは、たたり山という名を冠した大変禁忌が護られている山もあるとのことである。

カラブロ

所在地:山添村下津

下津地区の中心部を遅瀬川が横切っている。この遅瀬川を渡るため、下津地区には下津橋が架けられている。
その下津橋から少し上流の所に「カラブロ」と呼ばれる石がある。


外見はちょっと大きめの川原石にしか見えないが、なんとこの石、水をかけると温かくなるのだという。
石が温まることで水も温まるので、この石は「空風呂=カラブロ」として、地元の人々に語り継がれてきた。

川の中に入らなければカラブロに触れないので、実際にその石に水をかけて実見すること能わず、言い伝えどおりなのかどうかはつきとめなかった。
もちろん重要なことは、この石が「熱という動的な力を発する」とみなされ一定の支持をもつにいたった、その心理にある。
これは一種の「超自然的な力」と捉えることができるが、村人がそのようなカラブロに対して畏れや信仰心を抱いていたかという問題もある。

この点を考える材料として、以下の事実が参考になる。
話によると、カラブロはもともと川の真ん中にあったが、下津側上流に上津ダムを建設したことにより、カラブロが川の底に沈んで水面上に現れない可能性が出てきた。そこで、村人はカラブロを川の縁の方へ少し移動し、カラブロの沈下を防いだのだという。 

この事実から分かることは2点。
  1. 村人がカラブロを大切にしているということ。
  2. カラブロは人為的に動かされる運命となったので、「カラブロ=客体」「村人=主体」であること。
第1点から、カラブロは「特別視」以上の認識を与えられているものの、第2点を考え合わせると、カラブロは「畏敬的信仰」の対象ではないとも言える。
畏敬的信仰の対象ならば「カラブロ=主体」「村人=客体」となるだろう。
そうではなく、カラブロはもうすこし親近的な信仰の産物だった可能性が高い。そもそも、カラブロの霊力は人間にとって有用でなければ信仰の対象として意識が向けられにくいので、超自然的な石だったとしても、必ずしも信仰・祭祀の対象となったとは限らないことにも注意したい。

狐岩

所在地:山添村上津小字ハジカミ

狐岩は12畳(約20m×約10m)ほどの巨岩であり、言い伝えによれば、この岩の上に古狐が座っていて、村に異変があると村人に事前に知らせてくれたという。
古狐は、村の異変を事前に知ることができる存在であるから、それは普通の人にはできない超自然的行為であり、古狐は超自然的存在として神聖視の対象だっただろう。
一方、狐岩は古狐が座っていた場所であり、狐岩自体が霊威を発動したというわけではない。岩自体はその点で霊性をもたないが、古狐がいなくなった後も、狐岩があったことで、いつまでもその伝説が村人によって語り継がれていった側面もある。

以上を踏まえると、狐岩は聖跡に近いが、聖跡型は超自然的存在の霊性が伝存し、その岩石自体も同等の霊性を宿すようになった存在である。狐岩は、そのような霊性を宿しているとまでは言えず、記憶装置(記念物)としてあると考えたほうが適切だろう。

ただしこの狐岩は、上津ダムの建設など、村の開発の中で消滅したといい現存しない。上津の神社の社務所に、狐岩の往時の姿を映した写真が残っているそうだが未見である。
村北西の布目ダムの建設に際しても、多くの石仏が水没の憂き目にあったが、これらの石仏は原位置から動かされ、標高の高い場所へ移設されている。下津のカラブロも村人の手によって、水没の危険がない場所へ移設された。
それに対して狐岩は移転措置はとられなかったわけであるが、それは狐岩が神聖視の領域に入らない記念物だったからなのか、単に巨大すぎて物理的に運搬できなかっただけなのか、自然石だから岩だけ切り離して動かしても無意味であるとみなされたのか、その理由は今となっては不明である。

毛原廃寺跡 六体地蔵

所在地:山添村毛原

毛原廃寺は、毛原地区にかつてあったが現在は礎石しか残っていない廃寺である。
毛原廃寺は、その存在がいかなる古文献に記載されていないらしいが、明治時代の終わりの頃に調査が行なわれた結果、金堂・中門・南門など、寺院を構成する各種施設の礎石が確認され、その建築様式から奈良時代にまで遡る寺院と推定され国指定史跡になっている。

毛原廃寺

さて、そんな毛原廃寺にある磨崖仏が毛原廃寺跡六体地蔵である。この磨崖仏は毛原廃寺がまだ寺院として機能していた頃の産物ではなく、廃寺になった後になって、その跡地にあった自然石に彫刻されたものと考えられている。
高さ1m弱の整った板状の自然石で、平坦な表面に磨きが入れられている。その平坦な表面に六体の地蔵を横並びに浮き彫りさせており、『山添村史』によれば室町時代後期の製作とされている。  

大師の硯石

所在地:山添村大塩

山添村の最高峰・神野山の北西麓に広がるのが大塩地区。大塩集落の中心部から神野山に向かう森の中に「大師の硯石」が存在する。  「大師の硯石」は縦×横=3m×4m程の幅を持つ岩石で、石の上面には三角形状の窪み(深さ20cm程)が見られる。
その窪みには水が溜まっており、これは弘法大師の恵みがなす「塩水」だという。

大師の硯石

頂面の窪みに溜まった水

山添村は海から遠く離れた内陸部なので、塩を自給自足することができない。よって、たびたび塩の獲得に苦労していた。
この地にやってきた(といわれる)弘法大師が、そういった集落の人々の実情を見かねて、村人たちが永久に塩に困らないようにしようと考えた。そこで大師は、手に持っていた杖で岩を叩いたところ、その岩に窪みができ、そこから海水が湧き出た。
大師が湧かせた塩水はけっして涸れることがなく、採っても採っても、いつも同じ量を保っているのだという。
この伝説にちなみ、弘法大師の恩恵を受けたこの集落は「大塩」と呼ばれるようになった。また、この水の溜まっている状態で、伊勢湾の塩の満ち引きが分かったり、人の生き死にも占えるのだという言い伝えも付帯している。

地元の方の話によると、ふだんは窪みに水は溜まっていないとのことだったが、私が訪れた時は石の上面に三角形状の窪みがあり、そこには水が溜まっていた(おそらく前日まで雨だったからか)。

神野山~鍋倉渓・竜王岩・天狗岩・八畳岩・王塚~


神野山(こうのさん)は、山添村の中心部から少し北西寄りにそびえる標高618.8mの村内最高峰で、大塩・伏拝など六つの大字にまたがる山添村一の聖山として現在も地元のよりどころとなっている。
山添村は大和高原なので、実質的に登山道口から山頂までの比高差は100~150mであるが、神野山は傾斜の緩い山なので、山の占める面積はかなり広大である。

神野山

神野山は、現在でこそハイキングの山として人足が絶えず親しまれている山だが、本来は山名が示すとおり「神の山」だった。過去の時代に遡れば遡るほど、御山は神聖不可侵の聖域として捉えられていたことが窺える風習が残る。

その一つが「神野山登り」である。
毎年5月頃、神野山頂上一帯に山ツツジが咲き乱れる。麓の村人たちは、そのとき農作業を休んで神野山へ登りに行く風習が残る。
「神野山登り」は、村人が5月に集団で登拝し、山頂で山ツツジを鑑賞しながら、山の神と共に共飲共食を行なう儀礼と目されており、現在は年中登山自由というものの、過去の時代においては、神野山はこの「神野山登り」以外の時は、その入山が制限されていたのではないかと考えられる。

■鍋倉渓 

神野山の有名な奇景。神野山の東側山腹に、幅10m、長さ650mに渡り、大小の岩石が寄り集まり重なる石の列があり、これを鍋倉渓と呼ぶ。


山添村は花崗岩質の地質だが、神野山だけは角閃斑れい岩という岩質で、岩は黒っぽい独特な色を見せる。角閃斑れい岩は花崗岩より硬質なので、大和高原が風化浸食する中でも、この神野山だけは浸食の程度が弱く、ひときわ高いその山容を保つことができたと考えられている。鍋倉渓はその角閃斑れい岩で構成されているが、「渓」というだけあって、この岩石群は落ち込んだ谷沿いに、一直線になって寄り集まっている。
鍋倉渓は見たところ岩石の列があるだけに見えるが、実は岩石群の下のほうには伏流水が流れており、岩の下の方へ耳を近づけると「サーサー」という水の流れる音が聞こえるところがある。
地質学的には、地表に露出した角閃斑れい岩の内、風化浸食に耐えやすかった渓谷の岩石群がそのまま残り、かつ、周囲に残った岩石群が谷側に落ちていって、結果、このような奇観が生まれたのだと考えられている。

鍋倉渓にはこのような伝説がある。
神野山に烏天狗(女)がおり、上野(伊賀)の青葉山という山にも烏天狗(男)がいた。この天狗同士が喧嘩をして、青葉山の天狗が山にあった草・木・岩などを投げつけてきた。この結果、青葉山は禿げ山になってしまって、神野山はたくさんの自然に恵まれた山となった。この時、神野山に積み重なった岩々が、この鍋倉渓なのだと言い伝えられている。
この伝説からは、鍋倉渓を構成する岩石群自体は信仰対象ではなく、あくまでも両山の天狗(超自然的存在)がその恐ろしい力を振るった後の聖跡であると解釈される。

しかし一方で、鍋倉渓はこのようなな伝説も持っている。
昔々、村にある父子がいた。父親は病気がちで、息子が父親の世話をしていた。息子は手厚く父親を看病し、親孝行者として知られていた。しかし看病の甲斐なく父親は病死し、息子はひどく嘆き悲しんだ。
その息子が神野山の鍋倉渓へ行き、石の上で「父に会いたい」と泣いていたところ、突然石が動き、岩石群の下を流れる水に亡き父の笑顔が映った。この故事から、親孝行者が鍋倉渓の下を流れる伏流水を見ると、亡き親の顔が映るという。

こちらの伝説のポイントは、石が動き、故人の顔を現世に現出させたという超自然的な力を持つ点。
地下の伏流水はまるであの世を写す鏡のような働きをしており、その上を覆う堝倉渓の石たちは、まるで現世とあの世を隔てる結界石のようにも解釈できるだろう。そして、その結界石が自ら動くというのは、石自体に意思があるかのようでもある。

■竜王岩・天狗岩・八畳岩

神野山には、古くからの聖地としての岩石がある一方で、聖山であるからこそ後世~現代においても様々な新しい信仰の影響を受け、さらに2000年初頭から「イワクラ保存活動」が行われてきたことから、歴史的な信仰対象なのかは批判的に見るべき新しい聖地としての岩石まで、玉石混交の様相を呈している。

まず、その一つとして竜王岩を紹介する。
神野山東登山道に、鍋倉渓を渡ってそのまま山頂方面に向かうルートがある。この登山口から鍋倉渓に足を踏み入れて、すぐ北の方に目を向けると見えるのが竜王岩である。

竜王岩

竜王岩は鍋倉渓に接しており、竜王岩も濃い黒色の角閃斑れい岩であるため、本来的には鍋倉渓を構成する一石と考えて良い。しかし鍋倉渓の岩石の中ではひときわ大きな岩石であることから、別個に名前をつけられ神聖視されるようになった。

竜王岩は「なべくら分教会(日輪教会神野山鍋倉分教会)」という新宗教の境内で、注連縄が巻かれた状態で、岩の周りは磐境状に囲われている。
竜王岩が、新宗教進出以前から信仰されてきた岩なのか、それとも、新宗教によって新たに信仰された岩なのか、信仰の軽重はないものの、歴史学的な資料価値は変わるだろう。

さて、鍋倉渓を構成する石列をつたって上へ登っていくと、そのうち鍋倉渓は土木の中に消えていく。その鍋倉渓の最高部から、少し上へ行くと見えるのが天狗岩だ。

天狗岩

天狗岩はいくつかの岩の群れから構成されており、天狗岩の名の由来は、先述した神野山の天狗喧嘩伝説の烏天狗にちなむ。
具体的に、天狗とこの岩石の関係が何だったのか明確な文字記録に欠けるが、岩は天狗そのものではないため、天狗が投げた岩や天狗が座していた場所など、天狗の足跡に関わる痕跡としての岩だろう。

神野山頂上から北の方へ道なりに進むと、北側斜面に八畳岩という巨岩がある。
崖状に岩盤が露出しており、頂上部がおよそ八畳の広さに及ぶことからその名前がある。高さは約7m、幅は約10mになるという。
八畳岩の頂部には数本の窪み状の溝が見られる。これは自然摂理によるものだが、言い伝えによれば、神野山にいた天狗の足の爪による引っ掻き跡だと伝えられている。

八畳岩

また、八畳岩の近くには「スフィンクス岩」と呼ばれる岩石もあるそうだが、それは岩の形状から近年命名されたものであり、鍋倉渓・天狗岩・八畳岩は歴史的な痕跡であるのに対して、竜王岩・スフィンクス岩はまた批判的検討を通す必要があるだろう。

■王塚

王塚は、神野山のほぼ山頂に立地する円形の盛土状構造物を指す。

王塚の中心部

漢速日命(カンハヤヒノミコト。「漢」の本当の部首は「火」だが、変換できないのでこの字で代用)という神の墳墓といわれている。漢速日命は、『記紀』に登場する樋速日神(ヒハヤヒノカミ)と同神とされ、伊邪那岐命が火之迦具土神を剣で切り殺した時、剣についた血が近くにあった石に落ち、そこから生まれた神とある。

村の伝説では、樋速日神は女神で伊勢に住んでいたが、絶世の美貌を持っていたため、多くの神々から付きまとわれていた。それを避けようと樋速日神は神野山まで逃れ、神野山南方にある弁天池の中に入り、大蛇と化した。
そんなことを知らず、ある男の神が樋速日神を追って弁天池まで来た時、樋速日神の化した大蛇を切り殺した。すると大蛇は樋速日神の姿に戻って死んでしまったので、それを見た男神は大いに嘆き悲しみ、せめてもの弔いとして、この神野山の頂上に墓を造ったといい、これが王塚の築造伝説である。
なお、王塚に隣接して神野山大神を祀る神野大明神が鎮座するが、神野山大神は甕速日神(ミカハヤヒノカミ)とされている。

鴬塚のマウンドには盛土に交じり多くの石が混入しているので、人工的な構築物であることは疑いない。
王塚の考古資料としての資料性はいまだ不明点が多いが、文化庁によって古墳候補地として遺跡地図に記載されている。 
また、神野山の南斜面に「黄金塚」と呼ばれるマウンドがあるが、王塚と黄金塚以外に神野山では古墳らしきマウンドが見当たらないため、いわゆる群集墳的な分布を見せないという特徴もある。

六所神社

所在地:山添村大字峰寺小字氏神山

峰寺地区の氏神だが、峰寺にとどまらず、これに接する的野・松尾地区からも広く尊崇される社だという。
祭神は大山祇命で、神社の背後には氏神山(比高差100m弱)がそびえており、氏神山の山の神を大山祇命の名で神社祭祀するようになった場所なのだろう。

さて、六所神社の社殿は、祭神が降臨したという台石状の巨岩の上に、本殿が建てられているという特徴をもつ。


神社が建つ前は、社殿の下にどっかりと構える巨岩がこの場にあったということで、現在、神が鎮まる本殿がこの巨岩上に建つということは、木造建築物以前は巨岩上に直接山の神を招いていたのではないかという推測が成り立つ。
巨岩の頂面が台状になっていて平べったく、岩の上に降臨しやすいという形状面も特筆できる。

また、巨岩には建武5年(1338年)刻印の不動明王像が刻まれている。境内にはほかに、毘沙門天像(磨崖仏)、金毘羅碑、行者石像、不動磨崖仏、観音石仏、地蔵石仏、お百度石など、種々の石仏や石造物に彩られている。

六所神社は『延喜式』記載の天乃石吸神社の比定地でもある。
「石吸(イワスエ)」は「石据(イワスエ)」ではないかという解釈があり、六所神社の台状の巨岩は「立てる」というよりかは「据える」という表現にもそぐわしい。

窯の焚き口 

所在地:山添村峰寺

『村の語りべ』によれば、峰寺地区の西に布目川が流れており、そこにしっかりとした作りの石橋を作ろうということになったという。
石橋作りに志願した一人の力持ちがおり、石橋を完成の暁には、人々は彼に感謝して村中の有名人になった。
この力持ちが風呂に入るため使っていた窯といわれるのが「窯の焚き口」である。石橋の顕彰としての民話の記憶装置だろう。

窯の焚き口

「窯の焚き口」は古墳の石室ではないかという説もある。確かに石室の天井石と側壁石を認めることができ、全体として古墳石室のような景観を見せる。

天王の森 

所在地:山添村峰寺

山添村西方を流れる布目川には、現在布目ダムが作られており、山間の中を川が流れるという古くからの景観は消え、巨大な貯水湖が今日出現している。その巨大な貯水湖の南端に位置するのが峰寺地区で、湖の南は布目川と深江川(深川)に分かれている。この分かれ目には、小さいながらも目立つ三角形の稜線を描く岩山がある。ここを天王の森を呼ぶ。

この天王の森のすぐ奥方には水神の森(後述)と呼ばれる小島があり、ともに布目川の聖地とみなされてきた。
天王の森は高さ20mに満たない小さな森だが、モリの意味とは高く盛り上がっている所ということであり、山を聖地とみなしていたことが読み取れる。

村の方々が語るところによれば、森の頂上に露出する自然石の群れには牛頭天王が勧請されており、禁忌が厳しく守られていたそうだ。頂上の岩は森の凝縮点と見ることもできる。

天王の森

天王の森から下の布目川を撮影

天王の森の頂上に移設された「首切り地蔵」

布目ダム建設により、天王の森のすぐ上には橋梁道路が敷かれている。現地の方々の思いも手伝い、岩山の完全破壊だけは免れた。
また、天王の森の頂上には現在「首切り地蔵」という地蔵が置かれている。
江戸時代に作られたこの地蔵はもともとは天王の森の裾部に安置されており、道の往来の安全を祈念して作られたものだった。古来の聖地の近くに立てることで、神聖性の相乗効果を狙った一面もあるだろう。地蔵にはいつ頃からか首部と胴部に亀裂が入ったが、それが逆に「首切り地蔵」として人々の印象に刻み込まれるようにもなったようだ。

しかし布目ダムの建設によって、この地蔵は天王の森の裾部から頂上に移されることになった。だからいま天王の森を訪れると、まるでこの「首切り地蔵」が信仰の中枢のような感を受けるが、元々は別個の信仰物として存在したものである。
当地において、水神の森は水に関わる霊性、天王の森は山に関わる霊性(ないしは牛頭天王信仰の場)、そして首切り地蔵は道中の安全に関わる霊性を分掌しあっていたと考えても良い。
しかしながらダム建設は、これら信仰物が持つ地縁的な信仰要素を相当程度剥ぎ取ってしまうことにもつながった。つまり、そこにあったからこそ信仰されたという立地的要素が、移設により失われる。天王の森の自然岩群の前に首切り地蔵を置くことは、自然岩群の性格を消してしまうことになりかねず、同時に首切り地蔵の霊性も少なからず変容させているのかもしれない。

水神の森

所在地:山添村峰寺

布目川と深江川の分水点にそびえるのが天王の森だが、そこから布目川の上流へ上ると「水神の森」が存在する。
川の中にある周囲100mほどの小島で、古くから神域として信仰されてきた。島とは言っても中州のようなもので、そこに自然林と集積した川原石や巨岩群がボコボコと集まっている。

写真中央の中州の小島が「水神の森」

水神の森を流れる布目川と岩石群

いわれによると、川の合流点としての水分の神としてだけではなく、度重なる水害を鎮めるためにまつられた森だともいう。
また、水神の森の下流に「八丈岩」と呼ばれる巨岩(約17㎡)があるそうで、そこは水神の森の遥拝所として使われていたという。

これらのことから、水神の森は荒ぶる水神に対する信仰の場であり、普段は水神の森に直接立ち入ることは禁じられており、通常は八丈岩から遥拝し、森にいる神を迎えるという祭祀の在り方だったのかもしれない。
現在は毎年7月に「水神さん祭」というものが執り行なわれており、近辺の村人の憩いの場にもなっている。水神の森を禁足地とするような社会環境も現在においては見当たらないようである。 

現地説明板によれば、寛政3年(1791年)発刊の『大和名所図会』に「水神、八丈巌、峰寺村にあり高土数丈にして蘇苔潤滑なり、行人目を悦ばしむ」との記述があるという。この記述から察すると、江戸時代中期以降において水神の森と八丈岩は、視覚的満足感を得る対象(鑑賞対象)としての位置付けが増していたことも窺える。

八幡神社の石仏

所在地:山添村的野

的野地区の八幡神社には、この地域最古とされる石仏が残っている。1253年製作の阿弥陀仏という。実見はできていない。

天神社の明星岩

所在地:山添村北野小字奥

天神社は、応永年間(1394年~1428年)に創建された神社で、創建当時から残る春日造りの本殿は国指定の重要文化財に指定されている。
この天神社の背後(北)には、比高差70m程の小山がそびえている。ここは「天神の森」と呼ばれており、この中に今も残る「明星岩(みょうじょういわ)」と呼ばれる岩石群がかつての信仰対象だったといわれている。
応永年間に神託があり、新たに現在の位置に社殿が建てられ、以降天神社が祭祀の場となり、明星岩は元宮的な位置付けになったようである。

二度山中を探訪しているが明星岩を見つけられず、私はまだ実物を確認できていない。

天神社と背後の天神の森。


津越の磨崖仏

所在地:山添村北野津越 

「窯の焚き口」から「岩屋枡形岩」まで向かうには、布目ダム東岸に沿って敷設されている車道を利用する。その道の途中、北野津越地区にあるのがこの磨崖仏である。
車道の横がすぐ山の急斜面となっており、その山の岩肌を利用して数体の仏が刻まれている。車を止めるスペースがなく、車越しに確認するしかなかったので写真も撮っていないが、参考として、現地にあった「布目ダム周辺地図」を掲げておく。
少し見づらいが、該当場所に「磨崖仏」との表記がなされている。



フジノミ禊斎場

所在地:山添村北野津越

もともと北野フジノミにあったものが、布目ダム建設による水没を免れるため、現在の北野津越へ移設されたもの。
いわれによると、18世紀初頭、北野ウチカタビロに広がる水田に灌漑用水路を設けるため、深江川最下流をせき止めて、そこから用水路を引くための作業をおこなった。しかし用水路を引いた場所は山裾の岩石が群集する場所であり、作業は危険極まりなく難航した。
そこで作業中の無事安全・作業の成功を祈るため、僧侶がある巨岩に不動明王の梵字を刻みこみ、そこで祈り続けたという。このとき梵字の刻み込まれた巨岩の一部が、現在の場所へ移設されている。 


仏そのものを刻み込んだわけではないが、梵字それ自体が仏を表すシンボルであるという意味において、本例も広義の石仏事例とみなしても良いだろう。

腰越ウチカタビロ土塚

所在地:山添村北野小字ウチカタビロ

ウチカタビロと呼ばれる字に、土・石で築かれた塚があった。
北野の鎮守・天神社で旧五社巡りという祭礼が行なわれる際、この土塚の前に御幣を供え、田楽を奏上したという。祭礼時に一時的に神を迎えた祭祀の場だったことを示す。
後世、ウチカタビロは布目ダムの建設によって水没することになった。そのとき、祭礼を廃絶するわけにはいかないということで、この土塚は今の腰越地区へ移設されるに至っている。
ちなみにこの土塚が築かれたのは、近世以降であることが発掘調査からわかっている(松田1985年)。

現在の土塚を観察すると、直径3mほどの円丘盛土に、大小の自然石、そしてややランダムに数体の石仏が置かれている。


単なる土塚ではなく、その表土部分に石仏や岩石を配することの意味とは、その部分が聖域であることを示すこと、そしてその聖域の聖性をさらに飾る、盛ることにあったのではないだろうか。
石仏を土塚に貼り付けるように寄せるのは、石仏が葺石のような聖域表示機能を強めたのと同時に、石仏を一種の奉献物や装飾物として土塚という祭祀対象に向けて奉げる行為とも言える。

岩屋枡形石

所在地:山添村北野牛ヶ峰

北野地区の北端、月ヶ瀬村や奈良市との境界近くに牛ヶ峰と呼ばれる場所がある。
この牛ヶ峰は「みやま」と呼ばれ神聖視されてきた一帯で、その山の中腹に目を見張るほど巨大な自然岩の群れが存在する。

まず、山中をしばらく登って最初に目に付くのが、机状・鳥居状(複数の支石の上に、ひときわ巨大な主石が乗っかかっている状態)の巨石構築物である。
高さ6m、幅13m、奥行き6mの石窟状空間を形成していて、これを「岩屋」といい、自然石窟を利用した岩屋寺として使われていた。

岩屋

そして、岩屋から少し上の方に登ると、この岩屋の規模を凌駕する立岩が屹立している。これが「枡形岩」と呼ばれる巨岩で、高さ16m、横幅10m、縦幅7mもの規模を誇る。

枡形岩

この二つの巨岩を総称して、岩屋枡形石(いわやますがたいし)と呼ばれている。

伝説によると、弘法大師が当地で睡眠をとったところ、夢枕に大日如来が立ち、「牛ヶ峰を、仏の教えを説く霊場とせよ」と告げたという。
そこで大師が牛ヶ峰の山中に足を運ぶと、そこには岩窟にふさわしい組石状構造物があった。これこそ霊場にふさわしいとして、岩窟を構成する上部の主石表面に、大師自身がノミとツチを用いて大日如来の像を刻み込んだ。大日如来を刻み終わると、弘法大師は「岩屋」の上方に屹立していた立岩へ行き、その岩の表面上部に枡形の刳り抜きを作り、その刳り抜きの中にノミとツチを収めた。

大日女体を刻んだ岩屋と、ノミとツチを収めた枡形岩の二つはこの伝説から弘法大師信仰の聖地となり、岩屋寺の霊場として近世の頃まで栄えていたという。

実際現地では、本尊の大日如来が岩肌に刻まれているのを今も確認できる。岩屋内は不動明王、入口に善女龍王のほか、護摩壇・不動明王像・弘法大師像・五輪塔などが残る。

岩屋に刻まれた大日如来

岩屋内部

枡形岩も、その長大な岩肌の上方部に枡形の切込みが入れられた部分が確認できる。

枡形岩の枡

刳り抜き部分には枡形の石蓋がなされているため中を観察することはできないが、明治25年(1892年)に一度開扉されたという。
その時は、中からは何も見つからなかったが、通説によるとこの枡は、仏像を安置するための石厨子ではないかとされており、総代が代々保管している木製の御正躰(鏡状の円板に仏像を刻印した中世以来の仏像型式)こそが、もともとこの枡の中に秘匿されていた仏像ではないかといわれている。
この点を踏まえると、枡形岩はノミとツチの置き場所ではなく、岩屋と同様、仏が鎮まる祭祀施設であり、自然石のお堂であったとみなすことができる。

なお、地質学的には岩屋・枡形岩の両岩は、元は一つの岩であったという考え方が有力で、両岩の剥離面の状態から、枡形岩の前面に岩屋の主石部分がくっついていたものと推測されている。それがいつの頃か二つに割れ、枡形岩前面の岩塊が斜面下に転がり落ちて、斜面下の別の岩石(岩屋の支石部分)に乗りかかって、岩屋の構造ができあがったと説明されている。

牛ヶ峰ミヤマ洞穴遺跡 

所在地:山添村北野牛ヶ峰

この洞穴は「岩屋枡形岩」があるミヤマ(御山・宮山)の下斜面にあり、ダム建設で現在は水没している。
その時に発掘調査が行われ、種々の遺物が見つかった。調査報告書である『山添村布目川流域の遺跡3』(1986年)に基づいて紹介したい。

牛ヶ峰ミヤマ洞穴遺跡のスケッチ(報告書に基づく)

洞穴内には、自然に露出していた花崗岩が転がり落ち、その結果、岩同士が重なり合ったことで(ここの場所が浅い谷状地形になっていたため、岩が集まってきた)洞穴状の空間を内部に形成していた。
洞穴の全長は13m、最大幅5mで、奥に行けば行くほど低く、狭くなっていく。そして洞穴の奥の方からは水が流れてきており、そのまま洞穴内を通り洞穴外へ流れ出ていた。

洞穴は古くから「禁忌の場所」として畏敬視されてきたが、布目ダム建設によりあえなく水没することになった。ダム池は標高300m地点まで造成され、この洞穴は標高280m付近だった。
緊急的に洞穴内の調査が行なわれることになり、発掘の結果、洞穴の中からは、歴史時代以降(中近世)を中心とする数種の遺物群が出土した。

まず、洞穴内に堆積している土の量が多かったので、それを除去していく過程で、堆積土中から近世~現代までの日常雑器(日用品として使われるようなありふれた器)が数点出土。
それを取り除くと、洞穴の開口方向に平行して、底部中央部分が少し陥没しており(谷水の流路)、その陥没部分からは複数の自然石群が折り重なりながら、頭を出していた。そして、この底部中央陥没部に露出する岩石群の傍らに集中して、中世の土器片が数点出土した。

中世~現代にかけて、洞穴の中から比較的簡素な土器群が出てきた意味は何だろうか。
縄文時代や弥生時代ならば、洞穴の中で居住生活を送っていたと解釈できるかもしれない。しかし、中世から現代にかけて、この地域の人が洞穴を居住施設に使っていたという可能性は著しく低い。器以外に、居住の痕跡を匂わせるものはありませんから、これらの土器は、日常生活用とは考えにくい。
以上の点から、洞穴内の中世土器群はすべて祭祀に用いられた器というのが最も確実性の高い解釈だろう。
個人的には、洞穴の中でも、中央底部の岩石群が密集している箇所の傍らから、まとまって中世土器群が出土したことに注目しておきたい。

烏ヶ淵阿弥陀地蔵二尊磨崖仏

所在地:山添村桐山 

布目ダム西に位置する桐山地区に存在するが、元々は別の場所(烏ヶ淵)にあったものが、布目ダム建設に伴って現在地へ移されたという経歴を持つ。
本石仏はもともと淵の中にあった自然岩であり、その自然岩に阿弥陀仏・地蔵仏の像を彫りこんだという。淵の中の磨崖仏というのは類例がないほど珍しいものだという。岩の刻字から、この磨崖仏は寛政年間の製作ということが判明している。
通説では、烏ヶ淵の堰を築いた時に亡くなった人々の供養のため、または度重なる水害を鎮めるために刻まれた仏ではないかと考えられている。

移設の際にはちゃんと当時の景観を保とうと、池の中にその巨岩を置いて現状保存されているのも、当時の崇敬者の篤い思いを感じ取ることができ趣深い。



桐山阿弥陀磨崖仏

所在地:山添村桐山 

鎌倉~南北朝期の製作とされている磨崖仏で、立地している場所が路傍であることから、道中の安全を祈るために置かれたものと考えられている。実見はできていない。

弁天岩

所在地:山添村大字桐山小字カナヤケ

実見できていない。弁財天をまつる場所といい、現在は巨岩の上に瓦質の祠が建てられている。
布目ダムを造るとき、この弁天岩の辺りまで造成が及ぶということになったので、それに伴い、弁天岩一帯の発掘が行なわれた。弁天岩は調査の中心ではなく、桐山カナヤケ遺跡という遺物散布地の調査区域に入ったことで同時に調査された。

発掘の結果、この弁天岩は自然そのままの位置を保っているということがわかったが、明らかにこれの祭祀用と思える遺物は出土しなかった。ただ、弁天岩の周辺を意図的に平坦にしたような形跡が、地層の状況から判明した。この平坦加工の時期は、平坦にされた地層内から中世の瓦器・土釜が見つかっていることから、中世の人々によるものと考えられている。
この瓦器・土釜を弁天岩祭祀の証拠とみれないこともないが集落地のため生活用の可能性も否定できない。むしろ、岩の周りを平坦にしたというのは、この岩に対する祭祀区域を設定した痕跡と解釈できうるので、中世の頃から、この岩が祭祀対象になっていた可能性はある程度積極的に認められる。

この弁天岩が現在も残っているのかどうかが私は把握できておらず、布目ダム建設に伴う発掘だから消滅していそうだが、現在のダムの位置と弁天岩の位置を照らし合わせる限り、弁天岩のある場所は水没をぎりぎり免れているような気もする。もちろん、その後の関連事業で破壊されている可能性もあるので、実在の有無は判断つきかねる

送り狼石

所在地:山添村大字室津小字池神

山添村の西端に位置する室津地区に「送り狼石」(室津のオーカミ石)といわれる石がある。
小字池神というところに道が通っており、その道端にあるとのことだが、実地探訪してもどの石なのか判別できなかった。
現地で石の場所を尋ねたが、現地の方がおっしゃる石の場所も複数ありわからなかったので、ここでは伝説だけを紹介しておく。

昔、池神の道は旅人の往来に利用されていたが、狼が出没する危険な場所でもあった。
そこで旅人がこの道を通るときは、道端にあったこの石の上に食物などの奉げ物をすることで、後ろから追いかけてくる狼の災禍を避けた。やがて、この石に食物を奉げると、後ろからついて来る狼は自ら去っていくという図式が集落内に定着し、ここから狼供養としての「送り狼石」の話が今に伝わるようになった。
この伝説を聞く限りだが、送り狼石は上部に食物を供えられるような台座的な形状をしているのだろうか。

室津の磨崖仏

所在地:山添村室津

室津の「送り狼石」を探索している最中、路傍の山の岩肌に刻まれていた磨崖仏を見かけた。村最西端の石仏に属するだろう。
この磨崖仏を「送り狼石」と指摘する村人の方もいらっしゃったが、岩肌に刻まれた磨崖仏であり、いかがだろうか。
私の訪ね方も誘導的で
私「オーカミ石、ご存じないですか?」 
現地の方「何それ?」
私「あそこに1つ磨崖仏があったんですが・・・」
現地の方「ああ、それだよ」
答えを誘導しているような問いかけのしかただったので、あまりこのやりとりに信頼性はない。

ただし、この磨崖仏の岩肌の前に、少しせり出して台座状の方形石が置かれている。まさかこれが「送り狼石」の捧げ物をした台石なのだろうか。今は判断保留としたい。

室津の磨崖仏とせり出す台石


参考文献

  • 山添村編さん委員会『山添村史』上巻 山添村役場 1993年
  • やまぞえ双書編集委員会・山添村教育委員会『村の語りべ』(やまぞえ双書2) 山添村 1996年
  • 波多野村史編纂委員会 『波多野村史』 1962年
  • 松田真一『山添村布目川流域の遺跡3』第3次発掘調査概報 奈良県立橿原考古学研究所 1986年
  • 松田真一『山添村布目川流域の遺跡』第1次発掘調査概報 奈良県立橿原考古学研究所 1985年
  • 布目ダム水没関係地文化財調査会編『布目ダム関係地文化財調査報告書』 山添村教育研究会 1988年
  • 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第4巻 大和』 白水社 1984年
  • 志賀剛『式内社の研究 第2巻 宮中・京中・大和編』 雄山閣 1977年
  • 最上孝太郎「奈良のメガリス・オーパーツ」 『ムー』第265号 学習研究社 2002年
  • 山添村いわくら文化研究会提供各資料
  • 現地解説板
  • 「むらの語りべ」(山添村ホームページ内)https://www.vill.yamazoe.nara.jp/life/about/kataribe


2020年3月29日日曜日

笠置山の岩石信仰(京都府相楽郡笠置町)


京都府相楽郡笠置町大字笠置 笠置山

笠置山の巨岩群と弥生時代の磨製石剣について


笠置山(標高288m)には「薬師石」「文殊石」「弥勒石」「千手窟」「虚空蔵石」「胎内くぐり」「ゆるぎ石」「貝吹岩」など、高さ10m、20mを越える岩が多数存在している。
岩肌に彫られた磨崖仏を本尊とする笠置寺が建立されている。奈良時代、東大寺の僧である良弁と実忠らによって笠置寺の礎が築かれたという。鎌倉時代末、後醍醐天皇が笠置山に籠って戦火の舞台となった山としても知られる。

笠置山の巨岩群(一部)

笠置山の巨岩群(一部)

当山が山岳仏教において自然の巨岩を霊場とみなしたことは言を俟たないが、巨岩群のうち、弥勒石の前から弥生時代の有樋式磨製石剣片が見つかっている。

有樋式磨製石剣は、弥生時代の磨製石剣の中では後晩期に登場する型式で、非実用の剣とされ、一つの集落遺跡から1点~2点ほどしか出土しない傾向があるとされている。
その意味についてはここでは保留するほかないが、その有樋式磨製石剣が山中の巨岩前から見つかったこと自体は、極めて興味深い事実である。

一般的な解釈は、弥生時代から祭祀がおこなわれてきた場という考え方だろうが、弥生時代の巨石周辺の祭器埋納地については、主に青銅祭器埋納地において古代~中世以降の再埋納の痕跡が見つかっている事例もあり、事態はそう単純ではない。
古代や中世の人々にとっても、地中から出現した異形の遺物は、当時の世界観の中で宝器として再解釈された可能性にも思いを馳せないとならない。

笠置山出土の有樋式磨製石剣


薬師石・文殊石・弥勒石


笠置山の巨岩群は修行の場とされており、一周して戻ってこれるようになっている。その順番通りに従って紹介していこう。

行場に入ってすぐに出会うのが「薬師石」「文殊石」「弥勒石」の3体である。

薬師石

文殊石

文殊石上部

弥勒石

弥勒石下部

それぞれ薬師如来・文殊菩薩・弥勒菩薩に見立てられた摩崖仏であり、高さ10m~20mになるだろうか。笠置山の巨岩群の中では最も大きなグループに属する。
弥勒石は高さ約20m、幅約15mで、平滑面に弥勒菩薩を彫刻していたが、戦火により現在は光背部分が判別できる程度になっている。

弥勒石の前からは先述の磨製石剣だけではなく、平安時代の埋納経筒も見つかっている。
経筒は末法思想の流行った平安末期、世界が終っても釈迦の教えが途絶えないように、また、釈迦の入滅後現れると信じられていた弥勒仏のために、経文を地下深くに埋納するものであり、それが「弥勒」石の前から出ているというのは流石と言うほかない。

笠置石


笠置石は、天武天皇が大海人皇子時代に自らの笠を置いた石といい、笠置の名の由来となっている。
弥勒石の磨崖仏を刻んだのはこの大海人皇子だという逸話の他、一説には東大寺の僧である良弁・実忠の指導下で刻まれたものであるともいうが定かではない。

ただし、奈良県地獄谷の石仏や、高畑頭塔の石仏、さらには中国雲南省の石仏と線刻の様式が一緒であるといわれ、製作時期は奈良時代と考えられている。

笠置石?


千手窟


弥勒石からさらに奥に進むと、千手窟と呼ばれる場所にたどりつく。
巨岩と巨岩の隙間を窟に見立てた行場である。

千手窟

奈良の東大寺造営の時、必要な木材をこの辺りから調達し、笠置山の北を流れる木津川の水流を利用して奈良まで運ぶという計画があったが、日照りにより川の水量が少なく木材を運べない時があった。そこで東大寺造営に携わっていた実忠(先述)がこの千手窟で雨乞いの儀式を行ない、雨を降らせたと伝わる。

虚空蔵石


千手窟に接して虚空蔵石がそびえたつ。
弘法大師が一夜で彫った虚空蔵菩薩と伝えられ、笠置山の磨崖仏の中で最も保存状態良好な彫刻を見ることができる。

虚空蔵石



胎内くぐり


さらに進むと「胎内くぐり」が登場する。

胎内くぐり

岩石の積み重なりによってトンネル状になっており、これをくぐって身を清める。
いま天井部分に置かれているのは人工の切石だが、もともとは自然石が乗っていたといわれており、安政年間(1854~1860年)の地震で崩落したらしい。

付近には、名前は付いていないもののいくつか特徴的な岩々が見られた。ドルメン状の岩石の構造もここにある。




太鼓石


胎内くぐりの奥を進むと太鼓石がある。
叩くとポンポン鳴るから太鼓石とのこと。この命名には「物珍しさ」以上の認識は感じられない。ここも転石によってトンネル状になっている。

太鼓石


ゆるぎ石


太鼓石の次に出会うのがゆるぎ石。
名前の通り、人の力で揺れ動かすことのできる巨石とのことですが、私には揺り動かすことができなかった。
笠置山に攻め入ってきた軍勢に落石させるための石の一つだったともいわれている。

ゆるぎ石


平等石


一大岩盤が露出した場所で、この石の上からの見晴らしは随一と言って良い。

平等石

平等石の上から

平等石については全国各地の山岳霊場において同様の名称をもつ岩石があり、本来は「行道」石だった可能性がほぼ定説化している。
五来重氏『石の宗教』においても「行道岩」の一節が設けられ、「自然石を巡るという崇拝の方法があることに気付き、各所でその痕跡と可能性の存在をつきとめることができた」「いろいろの行場に『巡る宗教』の存在が確かめられる」とあるとおりである。

蟻の戸渡り


平等岩の少し先にある「蟻の戸渡り」も、岩と岩の狭い隙間をぬぐって通る場所であり、巨岩を通ることで巨岩から感得する行場なのだろう。

「蟻の戸渡り」はくぐるのに気を取られて写真未撮影。近くにあった巨岩の一つ。


貝吹岩


笠置山の巨岩行場巡りの最後に控えるのが貝吹岩である。

貝吹岩

元弘の戦い(1331年)の際、兵士たちの士気を高めるためにこの岩の上でほら貝を盛んに吹いた場所という。
しかし、修験者がこの岩の上でほら貝を吹いていたという話もあり、むしろこちらが元来のありかただろうか。
近くの京都府相楽郡加茂町の貝吹山頂上にある貝吹岩でも、僧侶をほら貝で集めた場所または修験者が行をした場所などといわれており、山岳霊場における貝吹岩の名称はこちらのほうが一般的である。

最後に


以上で行場の巨岩群の紹介を終えるが、ゆっくり見ても一周1時間ほどで巡ることができる。
笠置寺には境内に文化財収蔵庫があり公開されているので、こちらも見学しておくことをお薦めしたい。先述の磨製石剣や経筒もここに収められている。

参考文献


  • 笠置寺由緒書
  • 「蘇る巨石信仰と光の山・・・笠置山」(笠置町企画観光課発行のチラシ)
  • 現地看板
  • 五来重『石の宗教』講談社 2007年改訂版(初出は1988年角川書店版)