2024年4月14日日曜日

近況報告

昨年末から今春にかけて発表された各種成果をお知らせします。

これで数年来の取り組みの大方は出尽くしましたので、またしばらくはインプット作業に専念します。

それまでは下記の成果物をご覧いただけましたら幸甚です。


2023年12月

「愛知県北設楽郡設楽町(旧名倉村域)における自然石の文化財」を『地質と文化』第6巻第2号で発表しました。

地域調査の報告書ですが、自然石文化の取扱説明書としてお読みいただくことができます。

下のpdfで全文公開されています。

https://drive.google.com/file/d/1Fq9Rl8UfF6xiVf3Mf0JoJkxajNBiBxov/view?usp=sharing


2024年2月

「失われし岩石・巨石信仰。畏れと期待、その世界観とは。吉川宗明氏インタビュー」が、webメディア「Less is More. 」で掲載されました。

私および岩石信仰の世界を知っていただける、名刺代わりの文章となりました。

下のリンクからどうぞ。

https://note-infomart.jp/n/n2717b9684e42


2024年3月

「岩石信仰研究の視点」が、京都大学学術出版会刊『変動帯の文化地質学』に収録されました。

論文の体裁ではありますが、書籍の刊行意図に合わせて内容は概要的なまとめと後学への問題提起を主としています。

数年間はこの手の文を書く予定がないので、遺言めいたメッセージを込めました。

購入は下記の出版社HPや当HPのカタログからどうぞ。

https://www.kyoto-up.or.jp/books/9784814005161.html


2024年3月

平凡社刊『最新 地学事典』の「磐座」の項目を執筆しました。

150字程度のものですが、バランスの取れた磐座の意味を後世に残すことができました。

磐座の意味として参照されていくことを願います。

購入は下記の出版社HPや当HPのカタログからどうぞ。

https://www.heibonsha.co.jp/book/b640570.html


2024年3月

「愛知県設楽町における岩石信仰の地質学的検証」を『大谷大学真宗総合研究所研究紀要』第41号で発表しました。

地質学者の鈴木寿志氏との共著です。地質学的見地はすべて鈴木先生によるもので、私は本論を岩石信仰の学史の中に位置付けるところを負いました。

あの巨石は人工物で巨石文化の遺産――などの言説に出会ったら、本論文を使って釘を刺していただければ幸いです。

pdfで全文公開されています。

https://otani.repo.nii.ac.jp/records/2000162


2024年4月1日月曜日

白岩神社と摩尼山(奈良県宇陀市)


奈良県宇陀市榛原赤埴


当地を治めた赤埴氏所蔵『赤埴白岩社記』(明治‐大正編集・成立の『大和志料』に登場)に白岩神社の由来が記される。このあたりは逵日出典氏の説明が簡便なので下に引く。

室生山の岩窟(後に龍の思想と結合し、龍神・龍王の住む龍穴と呼ばれるようになり、龍穴信仰の対象となる)には、須勢理姫命が入り、巨岩でその口を塞ぎ、更に赤埴土を以って塗りこめ、鎮座していたという。(略)須勢理姫命は最初に鎮まった室生山の岩窟から、延暦九年(七九〇)赤埴の地白岩に遷座し、赤埴白岩神社となったという。この地は赤埴と称し、大平山の尾根が東に延びた摩尼山光明ヶ岳の西南麓に当る。後に仏隆寺の建立を見るが、白岩神社はこの仏隆寺の右に隣接して存在する。延暦九年に遷座したというのは、奈良朝最末期に室生山寺が創建され、やや遅れて龍穴神を祀るための龍穴神社社殿が出現することによると考えられる。(逵 1967年)


室生寺・室生龍穴神社との密接な関係が論じられる。

赤埴の地と室生の地は唐戸峠を挟んだ隣地と言え、地理的にも室生という一大聖地の影響下にあったことは疑いない。

『榛原町史』の調査によると、白岩神社祭神・須勢理姫命については元の祭神ではなく、明治4年に日本神話掲載の神から当時の人が理由なく決めたものであると記されている。

『赤埴白岩社記』そして『大和志料』が編まれた時代を加味して、近世の復古思想がすでにある程度反映されていると考える必要がある(西田 1967年)。


それ以前の祭神は、仏隆寺の鎮守として室生寺でもまつられた善如竜王を勧請した説が濃厚であるが、室生寺の宗教的影響とは別系統で、白岩神社の社名ならびに地名の元となった「白岩」の存在にも言及しないとならない。

この「白岩」は大きく2つの存在に分けられる。1つ目は白岩神社裏山に広がる岩壁である。

寺の東にある白岩神社は摩尼山の白岩(石英安山岩の露出部分)を御神体としたもので社殿は新しい。(『史迹と美術』 1957年)

摩尼山光明ヶ岳の白岩を白岩神社の御神体とみなす記述である。この岩壁は現在も山麓から望むことができる広大なもので、人々の入植以前からこの地に存在し、この地に住んだ人々から視認された存在であったと思われる。

大場磐雄氏は当地を訪れて、以下の所見を記録している。

赤埴に到り、仏隆寺に入る。ここは白岩神社と境内を接し、相並び立てり。なお同社の背後の山上に白岩と称する巨巌あり。名の如く白色を呈して盤居せり。恐らく本社は右の巨石信仰より起りしものならん。なお仏隆寺に存する堅恵上人の縁起絵巻にも、上人が白岩に於いて霊を感得せられし記事あり。(大場 1938年10月30日日記より)

岩壁の名前が白岩で、佛隆寺の縁起にも登場する聖なる岩石であったことがわかる。

麓から望む摩尼山。白岩神社境内からは見えない。

岩壁の近景

摩尼山の岩壁は自然信仰としての白岩であるが、白岩神社背後に2つ目の白岩の存在がある。

大字赤埴鎮座白岩神社は、元現在社殿の東方巨大なる岩壁を信仰した巨石崇拝の神社であったと考へられるが、現社殿の南方佛隆寺観音堂の後方の傾斜地から巨巖のある山中に及んでストーンサークルの配列を認められる(皇祖聖蹟莵田高城顕彰会 1939年)

白岩神社境内。写真左奥の岩窟は佛隆寺開祖の堅恵が入定したとされる。

神社境内の奥の山林をのぞくと、白岩の一部が見える。

近景。ストーンサークルがこれのことを指すかなどは不明。

この「ストーンサークル」であるが、実際に人為物であるかどうかは批判的に受け止めなければならない。

現在は冬季でも樹林の繁茂が激しく白岩はごく一部しか見えないが、かつて撮影された写真(下のXポスト)を見るかぎりでは、こちらも白岩神社背後という近さから考えて、摩尼山の岩壁と併せてなぜここに神社が設けられたのかという立地要因の選定に関わる存在として注目したほうが良いだろう。



参考文献

  • 逵日出典「辛嶋氏系八幡神顕現伝承に見る大和神幸」『神道及び神道史』(4),國學院大學神道史學會,1967-09. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2274571 (参照 2024-04-01)
  • 榛原町史編集委員会 編『榛原町史』,榛原町,1959. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3015347 (参照 2024-04-01)
  • 西田長男「室生寺の開基――東寺観智院本『宀一山年分度者奏状』の紹介によせて(二) 」『神道及び神道史』(4),國學院大學神道史學會,1967-09. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2274571 (参照 2024-04-01)
  • 『史迹と美術』27(7)(275),史迹美術同攷会,1957-08. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/6067160 (参照 2024-04-01)
  • 森貞次郎(解説)・大場磐雄(著)『記録―考古学史 楽石雑筆(下)』(大場磐雄著作集第6巻)雄山閣出版 1977年
  • 皇祖聖蹟莵田高城顕彰会 編『神武天皇建国聖地内牧考』,皇祖聖蹟莵田高城顕彰会,昭和14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1023590 (参照 2024-04-01)