インタビュー掲載(2024.2.7)

2020年2月29日土曜日

大田神社の蛇の枕(京都府京都市)


京都府京都市北区上賀茂本山 大田神社境内

大田神社は上賀茂神社の境外摂社で、上賀茂神社の手前を通る東西道を東へ進むと案内が出ている。

この大田神社境内にあるという「蛇の枕」は「雨石」とも呼ばれ、蛇が枕とした石だという。
蛇は雨を降らせると信じられ、蛇がいる枕元で雨乞いをしていたらしい。

現地で観察すると、蛇の枕は境内を流れる小川の川底にあり、水面からちょこんと顔を出していた。

鳥居前の石橋の右側の川底を覗き込むと

写真下部やや右側に、川底から少しだけ顔を出しているのが蛇の枕

真上から撮影

雨乞いの儀礼は少々荒っぽく聞こえるが、この雨石を農具(鉄器)などで叩く。そうすると枕を叩かれた蛇が、怒って雨を降らせるという構図らしい。
蛇は人間を困らせるために雨を降らせるが、人間にしてみれば雨が降らない時にこれをやれば大助かりという理屈である。

この雨石はさしずめ、霊的存在である蛇がいる霊域を単独の岩石で可視化すると同時に、石の上に蛇が現れるという構図をもつ憑依物であり、石占としての祭祀装置の機能も兼ね揃えていると言える。

参考文献

京都新聞1999.7.8付「大田神社の蛇の枕」(岩石と語らう141)

2020年2月26日水曜日

水火天満宮の登天石(京都府京都市)


京都府京都市上京区 堀川通 上御霊前通 上

水火天満宮は、平安京へ降りかかる水の難・火の難を退けるため、延長元年(923年)に菅原天神をまつったのが始まりとされる。
この天満宮の創建と非常に関わりの深い石として、境内に登天石(とうてんいし)という石があり、大略次のような物語を伝えている。

菅原道真が亡くなった後、都には相次ぐ天変地異や要人の変死など、様々な異変が起こったのはよく知られた逸話である。
当時の醍醐天皇もすっかり恐れてしまい、道真が師と仰いでいた法性坊尊意僧正に祈祷を依頼した。

尊意は宮中に参内すべく外へ出たが、外は激しい雷雨で、そのなかで鴨川までやってきた時、鴨川が氾濫して町に流れ出した。
尊意は数珠(一説には神剣)をかざして祈り始めると、川の水位が下がり始めた。
やがて水が引いていった中から1つの石が現れ、その石の上に菅原天神が立っていた。
雷雨はたちまち止み、水も完全に引いた後、道真は雲の上に登っていった。

その後、尊意はこの石を自邸へ持ち帰り供養をしたのち、現在の水火天満宮に安置したのだという。これが登天石の由来である。


登天石

石の上に神霊が現れるという、磐座的な役割を担う事例として理解できるが、それに加えて特筆すべきは、石の上で神霊が天上へ戻っていくという話も伝えているところにある。

すなわち、登天石は神霊を人間界に呼び寄せる召喚機能だけではなく、再び神霊のいた世界に戻すという送還機能まで明確に備えている。
この点、神を降ろすという視点のみに偏りがちな巷の磐座とは違って特徴的である。石の名前も登天石という、神が帰っていくところに重点を置いた名称にもなっている。

さらに、川水で運ばれてきた石であり、かつ、尊意が自邸や天満宮にと持ち運びをしているという点で、大地に根差した岩盤的な磐座とは一線を画し、動産的・遺物的な性格を帯びた岩石祭祀の装置とも言えるだろう。

ちなみに当社境内には、登天石の隣に「出世石」と名付けられた石も置かれている。
神職さんにうかがうと、詳しくはわからないがけっこうな要職に就いた方が後年神社へ寄進した石だそうで、出世した人が寄進した石だから出世石だという。立身出世や就職の霊石となっているが、個人が岩石を奉納するという心の動きも岩石信仰においては何気に重要である。

出世石

最後に、境内社の六玉稲荷には玉子石という菅原道真所縁の丸石があり、子宝安産に霊験があると信じられるが、探訪時見落としてしまった。

参考文献

社務所でいただいた資料3枚


2020年2月25日火曜日

女夫岩町の女夫岩(京都府京都市)


京都府京都市北区上賀茂女夫岩町 柊野小学校校内

町名にもなっている女夫岩。
京都新聞1999.2.27付記事「女夫岩」(岩石と語らう76)で知った。

岩は現在、柊野小学校の校内に残っている。
小学校の方に見学を許可いただき、岩の場所へ案内していただいたところ、岩は中庭にあった。




女夫岩の名のとおり、2つの岩が顔を出している。
岩の高さはいずれも1.5mほどで、5㎡ほどの胴回りをもつ。

女夫岩に関して、小学校ではこれといった資料は見当たらない(詳しい人がいない)とのことなので、女夫岩の由来・情報については先述の新聞記事に拠ることになる。
注目すべき点をまとめると、


  • 女夫岩に関する、詳しい縁起や伝承などを伝える古文献などは見当たらない。
  • 昔(時代不明)、鴨川が氾濫を起こし、その水が引いた後に現れた2つの岩がこれである。
  • 女夫岩の名の由来は、その岩の外見が伊勢の夫婦岩に似ていることから、地元の人が呼んだもの。
  • 当初は、注連縄をして信仰対象としていたという。
  • 岩の近くから水が湧き出していたという(今はない)。
  • 白蛇がここで見られたという。
  • 柊野ダム(鴨川上流)にある岩と女夫岩は、地中で1つの岩としてつながっているという話がある。よって女夫岩を叩くと、ダムの岩でも音が鳴るという。


ダムの岩とつながっているというのは別として、2つの岩は地中で1つの岩塊になっている可能性はある。

今、信仰対象として見る人はいないが、学校が作られた時も取り壊されずに大事に保存され、町名の由来にもなり、子供達の遊び場でもあるのだろう。
地元ではとても愛着を持って大事にされている岩と言えそうだ。

2020年2月24日月曜日

松ヶ崎の岩上神社(京都府京都市)


京都府京都市左京区松ヶ崎町

林山(標高171m)の西麓に岩上神社が鎮座する。
社殿はなく、平板状の岩石をまつる。



岩神という意味合いよりも、岩上に神立つという趣である。
林山の山裾に位置するという点でも、山と里の境界でまつり場を設けるというありかたは古代の山岳祭祀に適う。

京都市北部の岩石信仰の事例として、岩倉の山住神社や上賀茂神社の岩上と並んで著名ではないかと思われ、特に上賀茂神社の岩上とは名称も形態も類似している。

しかし一方で、この岩石はもともと兵庫の海中で光を放っていたといい、それを現在地に持ってきて岩上大明神としてまつったという逸話もある。
このいわれに基づけば、岩石は発光する霊石であり、岩石自体を岩神と見立てたようにも思われる。
石神と磐座の両面を有する岩石と言える。

石質はチャートであり、当山で露出していた岩盤をまつったものと思われるが、かつて海底のプランクトンが堆積して石化したものであることを踏まえると、海から由来する岩石として神聖視された伝承も興味深い。

岩上神社境内入口

「末刀 岩上神社」と号した石標が建つ。
「末刀」は「まと」もしくは「みと」と読み、本来的には「末」ではなく「未」の表記が正しかっただろうとされている。

延長5年(927年)完成の延喜式神名帳によると、「愛宕郡 末刀神社」なる式内社があり、後世、末刀神社がどこだったかわからなくなった。
「末刀(まと)」が松ヶ崎の「松」に通じるということから、岩上神社が末刀神社ではないか、ということで現在の神号がある。
しかし、どうやら現在の学説では、延喜式記載の末刀神社は別の所であろうと考えられており、岩上神社説は否定的である。

ただ、延喜式編纂当時、ここは単に岩石のみをまつる場だったとしたら、神社として認識されなかったのも当然で、だから記載されなかったとみれなくはない。
比較的精美な山容を有する林山の、山裾に近いところにまつり場を設けている立地環境は注意しておきたい。

林山(2001年撮影)


2020年2月16日日曜日

伊波乃西神社と日子坐命墓(岐阜県岐阜市)


岐阜県岐阜市岩田西

開化天皇の第四皇子・日子坐命とその子の八瓜命が当地を拓いたといい、土地の祖神としてまつったのが延喜式内社・伊波乃西神社である。

伊波乃西神社

伊波乃西神社は、清水山と呼ばれる標高163mの端正な独立峰の南麓に鎮まる。
しかし、元々の鎮座地はここではなく、当社から西の清水山中腹が旧社地と伝えられ、そこには祭神・日子坐命の墓といわれるものが存在する。

清水山(西方、加野の鏡岩付近から長良川越しに撮影)

神社の左脇から日子坐命墓に至る石段が整備されており、5分も登れば宮内庁おなじみの鳥居と玉垣が見えてくる。


この日子坐命墓が特徴的で、山の斜面から突き出た岩塊を墓所に指定している。
マウンドも石塔も見当たらない。





これを「古墳の盛り土が流出し石室石材が露出した姿」と見るか「岩塊が自然露出したもの、あるいは自然石をここにおいて墓としたもの」と見るかで意味合いが変わってきそう。

岩塊は、上部の岩石と下部の岩石の2個から主に構成される。上部は上に尖った岩石で中心に亀裂が走っている。下部は横に広がった平石状の岩石である。

上部の岩石を天井石の一部と見て、下部の岩石が玄室あるいは羨道の石材と解し、他の石材は地中に埋没あるいは流出・消失したと見れば古墳跡と解釈できるだろうか。

ただ、現状として日子坐命墓は、埋蔵文化財としての古墳認定は受けていないようである。これは宮内庁の管理下により調査がしにくいことも手伝っているかもしれないが、清水山の中にもっと古墳が分布していても良いような気もする。清水山の麓に岩田古墳群はあるが、山中、日子坐命墓の近くに古墳の存在は報告されていない。
岩塊の様子も、かなり昔から露出していたのだろう。石室石材としてはかなり摩耗が激しい。ただの自然石の露出にも見える。

先述したように伊波乃西神社は、明治時代に宮内省が墓指定するまでは、この岩塊の地に神社があったことになる。
伊波が岩に通じるとしたら(この岩塊の通称として岩西様と呼ぶともいう)、社名は平安期の『延喜式』に記されているので、当時にはすでに古墳の風土が失われて岩塊をまつっていた可能性がある。

さらに、考古学者の大場磐雄氏は当地を訪れ、以下の記述を残している。

伊波乃西神社へ参拝、付近に日子坐王命の御墓あり、今宮内省より指定せらる、神社の横を更に丘陵をのぼりゆくにその中腹に一巨石の盤居あるあり、前に享保十一年銘の石燈籠立てり、これは恐らく伊波乃西神社の磐座とすべきものの後世同社の祭神の墓にせしものなるべし。
森貞次郎(解説)・大場磐雄(著)『記録―考古学史 楽石雑筆(下)』(大場磐雄著作集第6巻)雄山閣出版 1977年

古墳ではなく、自然石を磐座そして墓と信仰したものという一考古学者の所見として参考にしたい。

神の墓所として岩石をまつった事例としては、花の窟神社(三重県熊野市)・天石門別八倉比売神宮(徳島県徳島市)・白鬚神社(滋賀県高島市)・船越鉈切神社(千葉県館山市)などにも見られ、同種の信仰として何らおかしくはない。


2020年2月9日日曜日

三井山と御井神社の岩石信仰(岐阜県各務原市)


岐阜県各務原市三井山町

御井神社の神体石



三井山(みいやま)は標高108.8mの低山だが、頂上にはかつて延喜式内社の御井神社が鎮座したという。
三井山の山名は御井神社にちなむものと思われ、本来は「御井」、つまり、井水にまつわる聖地だった。山の南麓には三井池が広がるが、この池は古代からあったという。また、西隣には新境川、さらに南に行くと木曽川が流れている。水に事欠かない環境と言える。

天文年間(1532~1554年)、三井山に三井城が築かれたことから御井神社は東麓に遷座した。現在、三井山から東1kmほどの各務原市三井町に御井神社が鎮座している。

御井神社

現社地はかつて御旅所といわれた跡に建ち、ここにも「神水の泉」と呼ばれる泉が湧き出ている。
境内には春日村(現・揖斐川町)のさざれ石が安置されているが、目に付いたのは『美濃國志』(美濃国誌)の御井神社の記述部分を写したと思われる石碑。

そこには「神体小海石安神璽トス」「以石為神璽」とあり、御井神社のご神体が石であると言及されている。神璽であることから本殿内に安置されていると思われ確認はできないが、海水の中の石を神聖視する一事例である。

境内に安置されたさざれ石

三井山の「磐座」


三井山の南山裾へ目を転じると、ちょうど三井山と三井池の狭間に「三井山立岩不動明王」が立つ。




斜面の流れに逆らうように盛り上がった露岩の懐に不動明王像を置いてある。
製作・奉献年につながる刻字などがないかを観察したが特になく、いつ頃に始まった祭祀かは判然としない。
像は小ぶりで素朴な作りながらも丁寧な彫刻であり、光背に朱が塗られ、光背と立像の間に明瞭な立体感が見られるのが特徴。

10分も登れば山頂に到着する。
山頂には御井神社奥之宮の祠がまつられている。


傍らにある奥之宮創建由来の石碑には「いま城址に磐座ありて神域と畏み齋域と崇め奉る」との記述があった。
山の西斜面に広がる露岩群が、その「磐座」に該当するものと思われる。






西斜面から北西斜面に落ち込むように露出する岩崖などは、低山には似つかわしくない荒々しい光景だ。

山頂には山の南と西から取りつくルートがあるが、西からのルート上にはこのような光景を断続的かつ広範囲に見かける。この露岩群の特定の一つではなく、すべてを一括して磐座と呼んだのかもしれない。

しかし、当山には三井城が築かれた。
このような自然の岩盤を利用した山城だろうと察せられるが、これらの岩盤がすべて原初のままとは考えづらく、特に山頂一帯は少なからず土地利用がされているうえでの現状の景観と捉えなければならない。

現地看板

また、「磐座」という呼称は、看板を書いた作者の知識により当てられた用語ではないかという疑いがある。自然石をただの自然石ととらえたか、神聖な存在としてとらえたかは当時の人々が記した確かな記録が求められる。後世の人々が裏付けなしに記した考え(看板)だけではいけない。築城前、築城後の三井山信仰史は批判的に検討される必要がある。

また、山中には十数基からなる三井山古墳群が分布し、横穴式石室の円墳で古墳時代後期の群集墳と考えられている。

これらの古墳群と山中の露岩群が、各々どのような認識(墓域と神域の空間認識/石材の選択非選択)のもと並存していたかも気になるところである。

三井山古墳群の一基


2020年2月3日月曜日

村上神社のドンコツ岩と浜見岩(岐阜県各務原市)


岐阜県各務原市那珂長塚町

現地には特定の説明はないが、村上神社境内に岩盤が広がっていて、その一部には注連縄が張られている。

これは、小林義徳氏『那珂町史』( 龍文堂、1964年)に言及があり、大きくは二つの岩石に分かれるようである。



まず、上写真の注連縄が張られた岩石を「ドンコツ岩」と呼ぶ。
鯰岩の別称もあり、川魚のドンコツや鯰に似た形状から名付けられたと思われる。

岩の前には山神の碑も置かれている。




次に、上画像の岩盤を浜見岩、または沖見岩と呼んでいる。
かつてこの辺りまで内海が広がっていた時代、この岩の上より眺める沖浜が絶景であったことから名付けられたという。

村上神社の社地は丘になっていて、隣には境川が流れており、社叢が繁茂しているが麓を一望できる立地だったことは間違いない。

2020年2月2日日曜日

土山の金刀比羅神社(岐阜県各務原市)


岐阜県各務原市那加西市場町

現在、琴が丘団地と呼ばれる住宅団地の高台は、かつて土山と呼ばれる山だった。
ここには「土山の七名石」と呼ばれる七つの特別視された石があったが、団地造成時に破壊されたものもあるという。
しかし、この七つの石の所在については文献記録がほとんど見当たらず、唯一、土山の最西端に子安石が存在することをかつてこのブログで報告した。

子安岩(岐阜県各務原市)

そんな土山の、今度は最東端にひっそりと佇むのが金刀比羅神社である。
こちらも団地造成からは逃れて、在りし日の土山のよすがを残す「巨岩累々」とした地である。これは最西端の子安石と同じ様相であり、土山が七つの石を擁するほどに、土というより石の山であったことを物語っている。



麓の参道入口から岩盤がむき出しで、これが頂上まで続くのだからまさに岩山である。




金刀比羅神社の由緒などを記した文献をいまだ見つけられていないのでわからないことが多いが、上の写真のとおり、社祠は最低限の設えである。
社としての土台が岩山そのものにあることは明白であり、そこに金刀比羅神を勧請したのも山神信仰、その凝縮としての岩石信仰の観点からうなずける。

探訪時は西日が差し込み祠を写そうとすると逆光だったが、朝に訪れれば陽光が岩山を照らす象徴的な立地だ。



頂上の祠から周囲を眺めると、西方には琴が丘団地がすぐそこまで迫っている。
社域の自然の木石の群れと一線を画すその光景に考えさせられるもの多々である。

なお、琴が丘団地側に回り込んで、団地側から金刀比羅神社方面を眺めると下写真のようになる。


私有地内には入れないので外の道路から撮影しているが、駐車場のすぐ奥にさっそく岩盤の一部が隆起しているのが見て取れる。

これほどの規模の巨岩をほこるため、土山の七名石のいずれか一つが金刀比羅神社の岩山に属すのではないかとも思うが、それを照合する記録にまだ出会えていない。

ちなみに、金刀比羅神社のすぐ北には柄山古墳という古墳時代前期の前方後円墳が残っている。
この古墳を築成した時、人々は金刀比羅以前のこの岩山を見てきたはずである。