インタビュー掲載(2024.2.7)

2020年5月31日日曜日

瑞龍寺山山頂遺跡(岐阜県岐阜市)


岐阜県岐阜市上加納山 瑞龍寺山(寺山)

岐阜金華山の南に位置する瑞龍寺山は、麓の瑞龍寺の存在から寺山ともいわれ、山中には上加納山古墳群が分布し、南斜面からは享保年間に見つかったと伝わる上加納銅鐸、そして、今回紹介する瑞龍寺山山頂遺跡と、さまざまな歴史的文化財が残る。

瑞龍寺山遺跡は、名のとおり山頂部に位置して、現地には荒々しく露出した岩盤が広がり、その傍らにここが遺跡であることを示す看板が立つ。平成25年に岐阜市指定史跡となったことによる比較的新しいものである。
すなわち最新研究の遺跡説明と言って良く、詳細は下画像をご覧いただきたい。

瑞龍寺山山頂遺跡

山頂側から

岩盤はチャート質とみなされている。

本遺跡は岐阜城の建つ金華山を望める位置。

遺跡看板

弥生時代後期の墓という評価だが、珍しいのは、その墓が土地の岩盤を削って、長方形状にくりぬき、そこに遺存していないが棺を置いたと推測されていることである。

かつては、墓ではなく山頂の岩盤に対する祭祀遺跡ではないかと見る向きも有力だった。たとえば、小野慎一氏『祭祀遺跡』では、本遺跡の巨岩を写真入りで紹介し、弥生時代末~古墳時代初の石神や磐座の文脈の中で触れている。

その後、先の看板にもあるように昭和52年の調査の結果、岩盤には凹みがあり、これを人為的に掘り下げた穴と評価した。
その結果、本遺跡から発見された内行花文鏡の破砕、弥生時代後期の山中式に位置付けられる壺、高坏または器台の破片、碧玉製管玉、ガラス製小玉などは、神祭りの祭祀跡ではなく被葬者への副葬品や葬送儀礼に伴う遺物とみなされている。

けっして人骨や棺桶が見つかっているわけではないし、岩盤の凹部を人為的な掘削と断定できる遺存状態かには疑問も残るが、中国鏡を破砕・埋納する弥生時代の墓が認められることから、それと同種の遺跡と推定したものだろう。

また、本遺跡が墓所だった場合でも、山頂の岩盤を掘り窪めて死者を葬る行為は興味深い。
岩石を削る行為は、岩石信仰と無縁だったり、岩石信仰を否定する行為と言い切れるわけではない。
岩石を削り取る信仰もありうるし、岩石の中に死者を眠らせる行為は、単に物質的な石室の系統だけで語られるべきものでもない。さらに、棺桶を設置する場所として岩盤が特別視された理由や背景には、それ以前の歴史の存在も可能性として指摘される。瑞龍寺山南斜面出土伝承のある銅鐸などがその時系列上で改めて捉えなおされるのも一つである。

参考文献


  • 小野真一 『祭祀遺跡』(考古学ライブラリー10) ニューサイエンス社 1982年
  • 小野真一 『祭祀遺跡地名総覧』(考古学ライブラリー11) ニューサイエンス社 1982年
  • 国立歴史民俗博物館・編 『共同研究「古代の祭祀と信仰」附篇 祭祀関係遺物出土地名表』(国立歴史民俗博物館研究報告 第7集) 第一法規出版 1985年
  • 岐阜市教育委員会『岐阜市埋蔵文化財発掘調査報告書』(岐阜市文化財報告85)1985年
  • 現地看板


2020年5月25日月曜日

比婆神社/山神さん(滋賀県彦根市)


滋賀県彦根市男鬼町字護持ヶ谷

比婆神社の現在


彦根市、多賀大社の北西の山間部に男鬼(おおり)という集落がかつてあり、現在も村の住居跡などが残ったまま廃村となっている。

この男鬼集落の奥に、鎮守の如く佇むのが比婆神社で、巨石をまつる神社として2000年代になってから知名度が高まってきている。
その知名度に反して、神社に至る道、および、男鬼に至る道は軽自動車なら通れるが、路肩の崩落などが頻発しており、アクセスには注意が必要な場所だ。

比婆神社の入口までは、東の落合集落から男鬼集落経由で入るルートと、西の男鬼峠から入るルートの2種類がある。
私は2013年に訪れたが、東ルートは男鬼集落内で路肩崩落に出会い断念。西ルートから入り直し、それでも車の乗り入れは神社麓の第一鳥居前であきらめ、あとは徒歩で参拝した。
2020年現在も、一部修復されていたり、まだ手付かずの箇所もあったり、別の場所が老朽化していたりと、今後将来的にもアクセスメンテナンスは課題となり続けるだろう。

麓の男鬼集落にある比婆神社入口の第一鳥居。奥に車道が続くが通行止めだった。

入口から社殿の途中の舗装路。路肩崩落している(2013年時点)


比婆神社の岩窟


入口の鳥居からは緩やかな山道を約35分ほど歩き、山頂というよりは山頂下の斜面上の僅かな平地に比婆神社が鎮座する。
男鬼集落は廃村になっても、山中の神社自体はよく整備され、ここまで舗装の車道も敷かれている(しかし路肩崩落中)。

岩は屹立するタイプではなく、地形の流れから考えて、地滑り状に削りとられた地中の岩盤が剥き出しとなり、その手前から岩の壁として仰いで聖地化したものであろう。




比婆神社社殿と岩壁を上方斜面から望む

比婆神社の入口に掲げられた看板によると、
「この地古昔より比婆の山を稱し山頂に岩窟あり比婆大神と稱へ奉り伊邪那美大神を祀る」
とある。
私は探訪時見落としたが、この岩壁から向かって斜面下に、内部空間を持った洞窟があるらしい。

比婆山頂上付近の露岩群
比婆山頂上の露岩群

比婆信仰と比婆山所在地論争


比婆と聞けば、現在、比婆山御陵がある広島県庄原市の比婆山などが有名である。彦根男鬼の比婆神社はこれらの比婆の伝説とどのような関係にあるのだろうか。

比婆山に伊邪那美神を葬る、と書かれた『古事記』の影響下にあることは間違いないが、『古事記』ではその比婆山を出雲と伯伎の境と明記しているので、近江彦根の当山が入り込む余地は一般的にはない。

いわゆる「異説」と呼ぶべき伝承であるが、この話の成立は、同じく『古事記』に近江の多賀に最終的に鎮座したと記される伊邪那岐神の存在、そしてそれを祭神とする多賀神社(多賀大社)と地理的に近いことと無関係ではないだろう。

また、もう一つの批判的な見方として、そもそも当地の比婆神社と比婆山が、そう位置づけられるようになったのがいつからかという歴史的な検討も必要だろう。
というのも、伊邪那美神の幽宮としての「比婆の地」に関しては、明治時代から戦前にかけて国内各地の複数の地が我こそは真の比婆の地であると言い争った「比婆山所在地論争」というべき歴史的な出来事があったからである。

比婆山所在地論争についての概要は、庄原市比婆山熊野神社解説本編集委員会編『日本誕生の女神 伊邪那美が眠る比婆の山』(南々社 2016年)にまとめられている。
本書では、広島・島根・鳥取の三県にまたがる複数の候補地がおしくらまんじゅうのように分布し、全体として比婆山信仰圏とでも呼ぶべき一大文化を形成していたことが指摘されている。

と同時に、明治時代以降は日本神話に描かれた「聖蹟」の現在地を特定・顕彰する動きも積極的に行われ、その中で比婆の地を主張するために新たに創られ、拡大解釈されていった「伝説」も相当数混ざっていると思われる。

彦根の比婆神社は比婆山有力地の中国地方からは遠く離れているが、夫神である伊邪那岐神由縁の地としてのアドバンテージがあり、比婆山所在地論争の折にまったくの無関係の立場であったとは考えにくい。何かしらの影響を受けたと考えて、歴史がどう形成されていったのか、批判的に考えることが適当だろう。

そのように考える傍証の一つとして、比婆神社現地看板には

  • 林陸軍大将(林銑十郎参拝記念碑が現地に建つ)が参拝したこと。
  • 大正末期に現在の社殿を建てていること。
  • かつては「山神さん」という通称で知られていたこと。

が記されている。
大正~戦前期に軍人の崇敬およびその支持を以て費用面を投じた社殿が整備されたことは、当地を比婆の聖蹟として重きが置かれたからに他ならない。
そして、比婆神社の名に埋もれつつある旧来の通称「山神さん」からは、比婆信仰以前、もっといえば日本神話の影響下以前の当地の原初的な聖地の性格が見え隠れしている。

なお、Twitterで知った情報として、以下のツイートは大変参考になる。
男鬼の比婆神社が本来は地元で崇敬されていた山の神であり、それが外部の霊能者の登場で講が結成され、神社形態が変容していく流れが浮かび上がる。


社記には、大正の社殿整備以前には、宝暦年間(1751年~1764年)以前の建立と伝わる社があったという記録も残り、少なくとも江戸時代中期までの聖地としての歴史は遡れるようだ。

なお、比婆神社をさらに上った山頂尾根上には、高取山城(または男鬼入谷城)と呼ばれる戦国期の山城跡が発見されており、当山が聖地一辺倒ではなく軍事上の拠点として人足が入り山地利用されていたことは明らかである。

彦根、そして男鬼に関する郷土資料が私の手元にはないため、以上述べた歴史の空白を埋める文献が埋もれているのではないかと思い期待したい。

比婆山から東へ尾根続きの高取山にある山城跡(堀切などが確認できる)


2020年5月17日日曜日

船岡山の露岩は磐座か?(京都府京都市)


京都府京都市北区紫野北舟岡町

船岡山が平安京の起点という説


京都盆地の北部中央に構える標高112mの船岡山は名前のとおり船形に細長く稜線を描く山で、平安京建設の要となった場所として知られている。

桓武天皇が平安京を築く際に大陸の都城制や風水思想を盛り込み、北の玄武に相応する地として船岡山を当て、この山を基準に南北の朱雀大路が引かれ、太極殿の背後に位置するように都づくりが進められたとされている。

ここまでは大方に支持されている通説的見解と言って良いが、船岡山についてさらに踏み込んだ一説があり、船岡山の頂上に露出する自然岩の露頭こそが平安京建設の起点で、いわば玄武の宿る「磐座」として北方守護していたのではないかという考えがある。

山頂に広がる露岩は下写真のとおりである。




三角形状に隆起する部分もあるが、全体としては垂直的な高さよりも、平面的な広がりを持つ一大岩盤である。

船岡山という聖なる山の頂部に位置することから、たしかに「磐座」とみなしたくなる向きもわかるが、これは学説というより、ふわっとした言説の域を脱していない。
おそらく、この言説の元ネタとなった話があるのだろうが、不肖ながらこの主張がいつ誰によってなされたものかは辿れていない。

船岡山の露岩について特集した京都新聞の記事(「岩石と語らう65 船岡山の露岩」1999.2.2付)において、白幡洋三郎氏(国際日本文化研究センター教授)、井本伸廣氏(京都教育大学教授)、松原宏氏(建勲神社宮司。以上3名すべて記事当時の役職)に取材をしながらも、船岡山の露岩に「信仰があったことを具体的に示す資料は残されていない」と結論付けている。

したがって、船岡山の露岩を「磐座」と名付けてしまうことは歴史学的な見地からは早計であると述べておきたい。

桓武天皇と磐座の関係


ところで、平安京建設を命じた桓武天皇といえば、通称「京都の四岩倉」と呼ばれる聖所を設けたという話でも知られる存在だ。
平安京を神仏に鎮護してもらうため、平安京の東西南北4ヶ所に「岩倉」を定め、一切経という災厄を防ぐ経典を埋納したという話である。その比定地に以下の4ヶ所が挙げられている。

  1. 北岩倉 石座神社
  2. 西岩倉 金蔵寺
  3. 東岩倉 観勝寺
  4. 南岩倉 明王院不動寺

四岩倉は、観勝寺のように寺院自体がすでに存在していない所もあり、北岩倉の石座神社(旧社地・山住神社)以外に「磐座」としての岩石は存在していない。
必ずしも、岩石の祭祀場を意味する「いわくら」ではないらしい。

「南岩倉」の扁額を掲げる明王院不動寺。岩石としての岩倉の存在は聞かない。

北の岩倉は一般的に石座神社に位置付けられているため、同じく都の北を守護する船岡山の露岩を「磐座」とするものとは、類似しつつも、別物としてとらえたほうが良いのだろう。

それよりも個人的に懸念しているのは、船岡山の磐座説につづき、この桓武天皇の四岩倉もいつどのような記録に基づいた存在なのかが、いまひとつはっきり追い切れていない点である。

私が追えた限りでは、四つの岩倉を平安京鎮護のために置いたという記録は、天和2年(1682年)~貞享3年(1686年)に編まれた『雍州府志』までは遡れるようであるが、江戸時代の話である。けっして、平安当時の同時代記録ではないことに注意されたい。江戸時代に生まれた伝説の可能性もあるからだ。

一応、西岩倉については平安時代末成立とされる『今昔物語集』に「西石蔵」の名が記されていることも併せて触れておきたい。
では平安時代末までは遡れるのではないかというと、正確にはこれは西岩倉の名前自体のみが伝わるまでであり、桓武天皇が四岩倉を鎮護のため置いたと明記されているわけではないことも注意したい。

これ以上の調査はまだ出ていないが、このように船岡山磐座説と四岩倉説は、おそらく学術的な文献調査がなされたことがないテーマであり、初出文献が明らかにされていないという点で、取り扱いに注意しないといけない。

船岡山の考古学的・地質学的情報


船岡山の山頂部からは土師器の欠片が見つかっていると聞いたことがある。
これも土師器の製作時期が調査されているなど報告書情報の有無をつきとめられていないが、そもそも平安京に接する里山である。遺物散布地として存在するのは当然だろう。土器の用途が祭祀一択というわけでもない。

先出の京都新聞記事でインタビューを受けた井本伸廣氏は地質学の研究者であり、氏によれば船岡山の露岩は、水晶質の殻を持ったプランクトンの塊からできたチャートだという。

市内の愛宕山、双ヶ岡、稲荷山にも同質のチャート露岩が見られるというが、京都盆地の特に北側は地中の岩盤(基盤岩)が地表に現れやすい地域だという。

京都盆地の基盤岩: 露頭する岩石、磐座信仰 - 京都高低差崖会

船岡山の露岩は、市内各地の岩石信仰と地質学的には同根かつ共通した地理的環境下で分布・発生したものと理解できる。

船岡山の歴史 その後


平安建都時は宗教的な位置づけがあっただろう船岡山も、時代を追うごとに変容していく。
船岡山西麓の蓮台野の地は中世以降、葬送地の一つとして著名となった。山を他界とする思想と浄土信仰が相まったものと考えられるが、保元の乱の折には船岡山の地が源為義・頼仲らの処刑地にもなり、処刑場としての性格も帯びるようになった。
その後、応仁の乱では西軍の砦(西陣)が築かれて戦の舞台となる。怨霊の籠もる山として忌避され、また、それを鎮めるための御霊信仰の祭り場が周辺に築かれた。
明治時代に入ると、船岡山には新しく織田信長・信忠親子を祭神とする建勲神社が勧請された。

一つの山を巡り様々な立場からの歴史が上に載っていくわけであるが、岩石信仰という観点でも新たな歴史が生まれることになる。

建勲神社の主典として、一時期、新宗教の大本教の教祖となる出口王仁三郎が務めていた。その縁で、若い頃に船岡山で修行していたという修養団捧誠会という団体の総裁が、昭和45年に船岡山の東山腹、建勲神社旧本殿の地に「大平和敬神 神石」という石碑を建てている。
世界平和の神の「神石」とされ、神名が石に刻まれている。外見的には記念碑のようなもので、刻字のなされた石碑が屹立しているという景観だが、これは現代(といってももう約50年も前の立派な歴史である)における岩石信仰の事例に数えていいだろう。
この旧本殿の地には、地形を削平したことによると思われる岩崖状の露出も確認できる。

大平和敬神 神石

旧本殿地に見られる露岩

また、建勲神社の社務所前には、建物と並行して一直線に伸びた岩が存在していて、このように山中には山頂以外にも露岩が複数箇所に散在している。

参考文献




2020年5月10日日曜日

太郎坊宮と瓦屋寺とその周辺の岩石信仰(滋賀県東近江市)



瓦屋寺山/箕作山(375m)、赤神山/太郎坊山(357m)、小脇山(373m)、岩戸山(325m)といった、複数の峰から構成される一大山塊は、旧行政区分で言う八日市地域のランドマークと言える存在だ。

瓦屋寺山には瓦屋寺(瓦屋禅寺)、赤神山には太郎坊宮阿賀神社、岩戸山には岩戸山十三仏というように、各峰が信仰の聖地として今に残っており、その表現物として岩石があった。

赤神山(太郎坊山)


瓦屋寺境内の岩石祭祀事例と祭祀遺跡


瓦屋寺山は、聖徳太子がこの山の麓で土を採って大阪四天王寺の瓦に用いた伝説地だ。
四天王寺建立の力となったこの山に太子は寺院を建立した。それが現在山腹に存在する瓦屋寺(瓦屋禅寺)である。

現に、瓦屋寺山山麓には白鳳期の窯跡遺跡があり、寺の境内からも白鳳期の瓦が見つかっている。聖徳太子の頃まで遡るわけではないが、7世紀後半には寺院があったことは確かと言える。

さらにそれ以前の歴史的痕跡として、古墳時代の土器類が出土した瓦屋寺御坊遺跡がある。
丸山竜平氏「蒲生野の古代信仰」(八日市市編さん委員会編 『八日市市 第1巻 古代』 八日市市役所、1983年)によれば、瓦屋寺本堂のやや南に「大きな岩脈という感じの階段状の巨岩(湖東流紋岩)」があり、そこが遺跡地に当たる。
巨岩の頂部に「坐禅石」と標柱の立てられた石があり、山頂側からの高さ3.4m、根元の幅6mほどを測る。また、坐禅石のすぐ南に南北4.5m、東西5mの上面平らな「祭壇状といってよい岩」がある。
その南は5~6mの崖になっていて下には車道が通る。車道の直上に「そそり立つ岩」があり、その岩の根元から6世紀の須恵器片・土師器片・玉砥石・蛇頭装飾付須恵器が出土した。
また、「祭壇状といってよい岩」の傍からは柱穴のようなものも発見されていたというがこれについては詳細不明の遺構と評価を下されている。

丸山氏の推測では、「坐禅石」を祭祀対象として手前の「祭壇状といってよい岩」で祭祀を行ない、その遺物は崖直下の「そそり立つ岩」の根元に落ちて引っかかったのではないかと考えられている遺跡である。

以上の記述から、瓦屋寺御坊遺跡は古墳時代の岩石祭祀の様子が垣間見える貴重な資料である。
この瓦屋寺御坊遺跡を訪れるため、「坐禅石」を探せばいいと考え現地で標柱を探したが、2回再訪したものの見つからなかった。寺院の方に聞けば知っていると思うが、2回とも境内におらず本堂で読経中だったため遠慮した。

踏査中に見かけた露岩1

踏査中に見かけた露岩2

「八日市市森林計画図9-1」を参照すると、御坊遺跡の位置は、現地でも確かに岩脈が露出したかのような巨大な岩崖がある場所に該当する。崖の下は車道の終点とあるので、坐禅石は遺跡地から西の崖の上と推測される。

瓦屋寺境内の岩崖
岩崖上部

この岩崖の上も探訪済みで、頂上部には名前の付いた岩石があるものの、それは「坐禅石」ではなく「猛虎石」の標柱が立てられていた。ほかに、崖下の境内には「般若石」という名の石も存在する。
いずれも坐禅石とは違うようである。

猛虎石

般若石

瓦屋寺山には50基を越える古墳時代後期の古墳群(いずれも円墳)が確認されており、瓦屋寺御坊遺跡の岩石祭祀との「祭祀空間の使い分け」「葬と祭の別」も気になる。
批判的に見るならば、瓦屋寺御坊遺跡から見つかった蛇頭装飾付須恵器は古墳の副葬品として主に見つかるものであり、瓦屋寺御坊遺跡の祭祀遺物とされるものは古墳の副葬品であり岩石祭祀の祭祀道具ではなかったとも解釈できたり、古墳の副葬品を後世に岩石祭祀の道具に再利用したなどといった可能性も指摘できるだろう。

松尾神社の石庭と社殿裏の巨岩


瓦屋寺山の東麓には松尾神社が鎮座する。

松尾神社には安土桃山時代製作と考えられる大規模な庭園が残り、大小の自然石を立て、または組み合わせている。庭園と言いながら多分に宗教性を含んだものであり、「美しさ」と「神聖さ」の境界線を考えるべき事例である。

松尾神社庭園

原状をどの程度とどめているかは不明(立石の復元・再配置など)

さらに本殿裏には、滑らかな岩肌の巨岩が屏風の如く横たわり、注連縄が巻かれまつられている。

松尾神社本殿(写真左)と社叢に埋もれる巨岩(写真中央奥)

本殿裏の巨岩

詳しい沿革は不詳ながら、庭園も本来は神社に付属するものではなかったという説が有力で、そうすると本巨岩も現在の松尾神社との配置関係に拠らず捉え直さなければならないだろう。

牛尾神社の神武天皇遥拝所


牛尾神社境内には、自然石に注連縄を巻いた場所があり、ここを神武天皇遥拝所と呼ぶ。
元から神武天皇遥拝のために祭祀が始まった場所か、後世に名称や信仰的性格が変容した場なのか、批判的に検討する必要がある。
牛尾神社から西へほぼ直線上に瓦屋寺御坊遺跡が位置するという。

神武天皇遥拝所

太郎坊宮と岩石信仰


南麓から箕作山一帯の山塊を仰いだ時、ひときわ岩肌が剥き出しになっていて三角形状の山容が目立つ峰がある。これを赤神山、または太郎坊山と呼ぶ。


通称「太郎坊宮」の名で近在に知られ、その正式名称は太郎坊阿賀神社と号する。
天忍穂耳命を祭神とするが、現在の神社祭祀となったのは江戸中期の頃といわれ、元来は山岳仏教の地だった。

いわれでは、最澄が山中に成願寺を創建したといい、以後、太郎坊山は天台宗派として山岳仏教の霊場として成長したという。
山中に織り成す岩肌が格好の修行場となったことは容易に想像され、中世には修験道の霊場となり、山に宿る天狗を太郎坊と呼んで信仰しだした。
その後、18世紀中頃に小脇郷五ヶ村の村人が太郎坊を氏神とみなし、成願寺と山の管理をめぐって訴訟を起こし、結果、以後は村人側が神職を置き現在の阿賀神社の形につながったと記録にある。

表参道を登ると、途中に「不上石(ふじょうせき)」を見かける。
元々は石段に組み込まれていた石だそうで、魚や鳥の肉を食べた人はこの石より上には登ってはならない(この石の下から遥拝する)という戒めがあった。典型的な結界石・境界石の事例だ。

不上石(柵内)

積雪でよくわからない

同じく参道途中に「源義経 腰掛石」も存在する。太郎坊を訪れた源義経が源氏再興を祈ったと伝えられる腰掛石事例。

源義経 腰掛石

源義経の腰掛石の奥に「夫婦岩」と呼ばれる2体の巨岩(男岩・女岩)があり、これは太郎坊宮の信仰の代名詞的存在となっている。

夫婦岩

夫婦岩の亀裂

元は1体の巨岩が亀裂で2つに分かれたものと思われ、2体の巨岩の間には亀裂によって狭い道が形成されている。別称「近江高天原」。
神々が神通力で岩に亀裂を入れたといわれ、そのことから、悪人が通ると神々により2つの岩に挟まれると信じられている。

このように、境内のあらゆる岩肌や巨岩は祭祀と信仰の霊地となっている。赤神山頂上も岩山の峰をなす。





玉石は「あなたの願いや夢見ている事を玉石に書いてご奉納下さい」とのこと。
信仰者の思いを信仰対象に「転送」「送り届け」する道具として岩石が使われている。
これは太郎坊宮の代表格である巨岩信仰では括れない岩石祭祀であり、巨石という概念に隠れ気味な例である。


岩戸山十三仏


箕作山山塊の最西端にそびえるピーク。
聖徳太子がこの山に金色に光る岩を見て、自らの爪で十三体の仏を刻んだといわれるのが岩戸山十三仏である。
山頂一帯は山名のとおり巨岩が露出しており、現在でも近在の人々により種々の祭祀が行なわれていると聞くが、岩戸山は未訪である。

太郎坊宮から望む岩戸山

船岡山と紅滓山の岩石祭祀事例


箕作山の南西方向の裾にはなだらかな低丘陵が伸びていて、そこに船岡山(152m)という低丘陵がある。
近江鉄道市辺駅のすぐ北に位置し、「万葉の森 船岡山」として整備されている。

船岡山は、大海人皇子と額田王の有名な和歌「茜さす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖ふる」「紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも」を歌った「蒲生野」の舞台に比定されている。

船岡山阿賀神社は、境内に柱状の岩が3~4体群集屹立している。岩群の前には小さな祠と鳥居を敷設している。

船岡山阿賀神社

阿賀神社背後の丘陵地にも自然露出の巨岩が散在しており、一部、巨岩の上に石燈籠が立てられているものもあれば、公園整備のために万葉歌碑の銘板が埋め込まれてしまった巨岩も見られる。
自然石信仰という観点での貴重な文化財の可能性がある場所だが、そのような側面がまだ考慮されていない時代の「公園整備」と言えるかもしれない。

銘板が埋め込まれた船岡山の露岩

この銘板巨岩のポイントからさらに細長い尾根を北へ進んでいくと、大きな岩に囲まれて社祠が建つ。祠の周りを磐境状に岩石群が取り囲んでいるような景観を見せる。祠を作る時に、意図的に周りに岩をどけた感もあるが実際のところはわからない。



最後に、船岡山と箕作山山塊との中間地点に紅滓山(175m)がある。周辺の平地からぽっこりと突き出ていて、綺麗な円錐形の山容を見せる。
山中未訪のままだが、紅滓山の頂上にも大小の岩が露出していて現在もまつられているらしい。

太郎坊宮から見下ろした紅滓山(写真中央)


2020年5月4日月曜日

白鬚神社の岩戸社と古墳石室石材(滋賀県高島市)


滋賀県高島市鵜川

白鬚神社の概要


高島市の白鬚神社は琵琶湖西岸に社地を持ち、湖上に大鳥居を浮かべることから「近畿の厳島」の美称でも知られる。
全国に約300社あるといわれる白鬚神社(白髭神社)の総本社にも位置付けられている。



祭神は猿田彦命。白鬚明神・比良明神の明神号も併せもつ。
猿田彦命が白い鬚を持つ老翁に擬せられたことや、白鬚神社が比良山系の信仰的影響下にあることによるものだろう。

社記によれば、当社は垂仁天皇期に社殿が再建されたとあり、それ以前から神社が鎮座していたことを匂わせるがその実は不明である。

岩戸社


白鬚神社境内の奥(山側)には、白鬚神社古墳群と呼ばれる4基の円墳(径10m程)が点在し、古墳時代後期に多い群集墳の1例として理解されている(関西学院大学考古学研究会1991年)。

白鬚神社4号墳

そのうちの1基(1号墳)では横穴式石室が開口しており、これを「天の岩戸」と呼んで神聖視されている。石室手前には祠が設けられ、全体を岩戸社としてまつっている。

岩戸社

岩戸社内部

開口した横穴式石室を後世になってまつる例は全国各地に類例があり、京都市天塚古墳や広沢古墳、徳島県段ノ塚穴古墳など、さらに横穴式石室を天岩戸に見立てた点では三重県伊勢市外宮裏の高倉山古墳と同系統とも言える。

岩戸社の石室はただ開口しているだけではなく、石室天井部の石材が地表から一部露出していることに特徴がある。

岩戸社頂部

さながら、大小の露岩がモコモコと地表から屹立している様でもあり、石室の内部構造とは別に、地表上の岩石にも神聖性が芽生える理由になったのではないか。
それを示すがごとく、地表上に露出している天井石のうち、三角錐状に出っ張る岩石の周りにだけ特別に注連縄が巻かれていた。これは、石室内の聖なる空間とは別の聖性の萌芽である。

先述他例の天塚古墳や段ノ塚穴古墳などは、石室の中に人が入り玄室奥の祠に参るという形態をとるのに対し、岩戸社は天岩戸であるから石室内に人が入るのを禁じ、石室内=神の空間としている。
岩石祭祀の見地からは、石室の持つ用途が両者で異なっていることを示す。すなわち、天塚や段ノ塚穴は「石室=境内・社域・祭祀場と日常空間を分ける機能」であるのに対し、岩戸社は「石室=境内・祭祀場の中でも、人間の入れない神のテリトリーを明示する機能」を負っている。

それに加え、岩戸社は「天の岩戸」であるから、かつて、神々が神聖な行為を行なった歴史的な聖地という意味で、聖跡としての評価もできるだろう。
各地に天岩戸は数多あることから、真なる天岩戸としての信仰や、自発的に生まれた信仰という見方だけでなく、後世的な影響で生まれた信仰の地という検討もなされるべきである。

岩戸社の横にある岩塊について


さて、岩戸社に向かって右に目を転じると、高さ1m強の三角形状の岩塊に注連縄が巻かれている。

岩戸社(左)と右の岩塊



注連縄が巻かれた以上、この岩塊が神聖視(最近は注連縄が多用され、まだ特別視の段階でも巻くケースもあるが)の対象とされているのは間違いないが、それがいつ誰によって何のためにという歴史的検討は常に必要である。
この岩塊については、白鬚神社の神職の方にかつてお話を伺ったことがある。おっしゃるところによれば、この岩塊は神社側がまつりはじめたものではなく、篤信者の方がある時から自主的に注連縄をかけてまつっているものなのだという。

以上の点から、岩戸社の信仰とこの岩塊の信仰を同系統でくくることは適切ではないが、岩石の出自は古墳石室石材という点で同系統の可能性がある。
関西学院大学考古学研究会の報告書にも言及があるが、石室石材の転石かどうかは定かになっていない。

また、白鬚神社の背後はなだらかな三角形の山稜を描き、山中にも巨石群があるという話を聞いたことがあるが未訪のためこれ以上の言及は控えたい。

参考文献


  • 白鬚神社社務所「白鬚神社」(由緒書)
  • 関西学院大学考古学研究会 「滋賀県高島郡高島町白鬚神社古墳群」『関西学院考古』No.9 1991年
  • 現地解説板