2019年8月6日火曜日

神倉神社のゴトビキ岩/琴引岩/天磐盾/神倉山遺跡(和歌山県新宮市)


和歌山県新宮市神倉

神倉山・神倉神社とゴトビキ岩の伝説


神倉は「かみくら/かんのくら」と読む。
神倉神社が鎮座する神倉山は、千穂ヶ峯あるいは権現山(標高253m)と呼ばれる山嶺の一峯で、この山嶺自体を古くは神蔵山と呼称していた。

神倉神社の神体をゴトビキ岩と呼ぶ。
「ゴトビキ」とは「ヒキガエル」の方言であり、岩石の形状から名付けられた名称と推測されている。
また、「ゴトビキ岩」を「琴引岩」という漢字で当てる場合もある。

神倉神社とゴトビキ岩

正面より

麓を見下ろす立地

ゴトビキ岩の下は大岩盤

神域の入口

神倉山。ゴトビキ岩が岩山の一部であることがわかる。

神倉神社は、熊野本宮大社・熊野那智大社・熊野速玉大社でまつられる熊野三所大神が最初に地上に降臨した場所といわれ、このことから熊野信仰発祥の地に位置付けられている。

さらに、ゴトビキ岩は『日本書紀』において、神日本磐余彦(後の神武天皇)が熊野に上陸して最初に祈願した霊地「天磐盾」の頂上と推定されている(確定ではない)。
また、神倉神社の祭神となっている高倉下命(タカクラジノミコト)が、高甕雷神(タケミカヅチノカミ)から神剣を授かった場所という伝承もある。
神武東征伝承では、神日本磐余彦が大和平定のため、日向国から瀬戸内海経由で熊野に上陸した際、熊野に巣食う邪霊(熊)を屈服させる手助けをしたのが高倉下命である。

神倉山遺跡出土の遺構と遺物


昭和31年の境内の改修工事に伴い、ゴトビキ岩の周囲から中世の経塚群や弥生時代の銅鐸などが出土した。これを神倉山遺跡(神倉山経塚・神倉山銅鐸出土地)と呼ぶ。

巽三郎氏の「新宮市神倉山経塚概報」(1957年)や、『和歌山県史 考古資料』(1983年)の記述を元に、ここにまとめておこう。

まず、改修工事に伴い出土した経塚は、大きく3ヶ所に分けられる。

第1経塚は「ゴトビキ岩」を構成する巨岩同士が折り重なってできた洞窟状の隙間に設けられていた。
この洞窟状空間は、神倉神社の旧社殿があった場所である。
この旧社殿跡の隙間は、高倉下命が神剣を授かったとされる場所という言い伝えがあり、そこからの経塚の出土は示唆的と言える。

第1経塚(旧社殿跡)


第2経塚は第1経塚の北に位置し、巨岩が庇となった岩陰平坦部分に設けられている。

第2経塚


第3経塚は現社殿の背後の岩崖近くに位置し、盛り上がった2つの自然岩盤の隙間に設けられている。

第3経塚のあたり(社殿背後に岩群が見える)


第1経塚・第2経塚が存在する地層は、岩盤の上に地山土層が重なり、さらにその上に炭灰土層が覆っていた。
炭灰土層は、建長3年(1251年)に神倉神社で火災が発生したという記録から、その痕跡と考えられている。

第1経塚・第2経塚の基底部は炭灰土層に築かれており、小さな石室が散在していた。
石室と石室の間は大小の割石で敷き詰められており、割石層が形成されている。
割石だけでは表面に凹凸が出来て隙間も甚だしいので、さらにその上に玉砂利を被せられていた。

第3経塚は、地山層を削って岩盤まで掘り進め、その岩盤を利用して小石室を築いている。その上を天井石で閉塞し、さらに土砂で覆い、最後に粗い割石を敷き詰めて終わっている。
第1・第2経塚の表面は玉砂利層だったのに対し、第3経塚は礫石と土砂で覆っただけの状態だった。

次に、各経塚から出土した遺物は次の通りである。

第1経塚からは、旧社殿跡以外のほぼ全域に渡り遺構・遺物が散布していた。
第1経塚の経塚遺構は5ヶ所確認されている。
小石室は板石を箱状に築き上げた構造をしており、その内部空間に円筒形の陶製経筒を安置している。石室の天井部には扁平な割石をもって閉じてあった。ただし、自然要因・人為要因によって小石室及び経筒は損壊しているものばかりであったので、経筒の内部に何が入っていたかは今となっては不明という。
目立つ出土遺物は懸仏など仏像の類であって、中には拳大ほどの大きさの玉石の上に安置されていた仏像や、ゴトビキ岩に接する形で置いている仏像などが発見された。

第2経塚における小石室(経塚遺構)は8ヶ所確認されている。陶質壺3個が完形品として出土しているほかにも多くの出土遺物が発見されている。

その中でも注目されるのが、第2経塚で弥生時代の銅鐸破片が22片出土したことだ。
僅かに残った銅鐸文様や鈕の特徴から、これは弥生後期の突線鈕4式近畿III C式袈裟襷文銅鐸と推定されている。
高さは破片の状態から復元すると、約60cmほどの中型~大型に属するサイズではないかとされている。

銅鐸片が出土したのは炭灰土層の最下層に位置し、層位的には経塚構築層と同一包含層となる。
この出土状況から、巽氏や大場磐雄氏などは、ゴトビキ岩に対して埋納されていた弥生時代の銅鐸が、後世になって経塚を築いた際に切りあい、破壊されたものだと推測している。
ただ、経塚の構築者が伝世の宝器として持っていた銅鐸を、地鎮的な意味合いで経塚の最下層に銅鐸片を埋納したという解釈もできないことはない。
この銅鐸が弥生時代の祭祀を示すものか、後世の再埋納かという議論については後で詳説したい。

第3経塚は、経塚上の松の根が土壌をしっかり保持していたため、保存状態が良く残されていた。
小石室の中心部に陶製経筒を安置し、他の空間部分を木炭・炭灰で充填していた。経筒の内部にも木炭が充填されており、おそらく経巻の防腐防湿のために入れられたものだったと考えられるものの、経巻の残骸は認められなかった。
石室の底部や石室の天井状面にも様々な仏教祭祀の遺物が供献されており、その整然な配置状態から、ほぼ原位置をとどめたままの出土であったと考えられている。第1・第2経塚と異なり、第3経塚においては全く仏像・仏具類が出土しなかったという特徴がある。

これら神倉山遺跡の遺物群は熊野速玉大社神宝館に収蔵・展示されている。


神倉山銅鐸にまつわる異聞


大野勝美氏が著した『銅鐸の谷 ある銅鐸ファンのひとりごと』(1994年)という本がある。
ここに神倉山銅鐸について一節が割かれているが、一般ではあまり知られていない貴重かつ重要な記述が見られるので紹介しておきたい。

まず、先述した神倉山遺跡の発掘状況は考古学者の巽三郎氏が報告文をまとめたものであるが、改修工事の際に見つかったものなので、遺構・遺物の出土状況を記録したのは巽氏ではなく、現場に立ち会った熊野速玉神社の当時の宮司だったと大野氏は同書に注意深く書いている。

この宮司の名前は明記されていないが、考古学に造詣がある方で、それで出土状況の記録も要点よくとられていた。

孫引きとなり恐縮だが、澤村経夫氏という方が著された『熊野の謎と伝説―日本のマジカル・ゾーンを歩く』(工作舎、1981年)という本に、次のような話が載っているのを大野氏は紹介している。

それによると、澤村氏は昭和28年頃、新宮駅裏の小道具店に約五寸(約15cm)の小銅鐸が飾られていたのを目撃する。
その2年後、熊野速玉大社を訪れたところ、その小銅鐸が神社にあった。澤村氏が件の宮司の方に尋ねたところ、文鎮代わりに買ってきたが、専門の先生が本物の銅鐸と言ったので今は大切にしていると回答したという。

その約20年後、澤村氏は再度熊野速玉大社を訪れ、あの時の小銅鐸を写真撮影させてもらおうと同宮司に依頼した。
そのとき、同宮司が運んできた銅鐸は、20年前に見た小銅鐸とは別の銅鐸だった。そこで澤村氏が尋ねると、これは考古学に興味がある同宮司が紀北で発掘された銅鐸を入手したものと説明された。
では20年前の小銅鐸はどうしたかというと、同宮司は「まったく知りませんな、なにかの間違いじゃありませんか」とけげんに返され、澤村氏は何も言えなかったという。

改修工事で神倉山から銅鐸が見つかったのは昭和31年。
澤村氏は「私は姿を消してしまった銅鐸と、それから二、三年後に神倉神社から発見された銅鐸片との不思議な関わりあいに、何と考えてよいのか戸惑った」という胸の内をしたためている。

この“異聞”を受けて大野氏はこう記している。

消えた銅鐸が神倉山鐸になったのかというと、それはありえない。消えた銅鐸は明らかに小形鐸であるのに対し、破片は突線鉦式に属する大形鐸であるからだ。しかし、この話が事実ならば最初の銅鐸はどこへ消えたのか。それとも澤村氏の夢にすぎなかったのだろうか。

澤村氏を信用していいのか、宮司氏を信用していいのか、もはやサスペンスの域である。
大野氏が神倉山銅鐸の疑問点を集約しているので紹介しておく。

  1. 考古学者が立ち会わず、考古学に興味があり銅鐸を収集する宮司が記録をとった場所であること。
  2. 澤村氏の話にあるように、消えた銅鐸の話があること。
  3. 紀伊半島南部は銅鐸の空白地帯であり、神倉山にだけポツンと出土地点があること。
  4. 銅鐸片は経塚群の下層ではなく、経塚群と同じ層位から出土したこと。なぜ地山になかったのか。
  5. なぜ銅鐸は一部の破片しか見つからなかったのか。破片をつなぎ合わせても完形品にはならず、残りの破片はなぜ見あたらないのか。

3点目については、別リンク「銅鐸出土地名表」の第12図・第14図を参照いただきたい。

4点目については、同じ層から銅鐸が出土したと記録しているのは、悪意があれば下の地山から出土と書きそうなものを、そういう意味では忠実なのではないかという風にも受け取れる。

なにぶん、昭和の古い話であり、この疑念は宮司氏への名誉にも大きく関わるため、安易に片方を信じるべきでもない。つまり、この異聞の虚実を今の私たちが見きわめる術はない。

考古資料はやはり考古学者が正規の手続きに基づいて、公開された状態で調査されるに尽きる。いらぬ疑念を生む不正規の「調査」は、このように考古資料がかわいそうなことになり、歴史の損失である。
私も含め、好事家の我欲から発する「発掘」は厳に慎まれるべきであることを、これからの教訓としてお伝えしたい。

ゴトビキ岩の窪みに置かれた白石


参考文献

  • 大場磐雄「神倉神社と天磐盾」『國學院雑誌』64-2・3 1963年
  • 新宮市史編さん委員会「古代新宮の息吹き」『新宮市史』 新宮市役所 1972年
  • 巽三郎「新宮市神倉山経塚概報」『考古学雑誌』42-4 1957年
  • 和歌山県史編さん委員会「新宮経塚群」「神倉山銅鐸出土地」『和歌山県史 考古資料』和歌山県 1983年
  • 大野勝美『銅鐸の谷 ある銅鐸ファンのひとりごと』丸善名古屋出版サービスセンター1994年


2019年8月5日月曜日

物部神社/石神堂(愛知県名古屋市)


愛知県名古屋市東区筒井3-31




江戸時代~明治時代、「石神堂」の名で通っていた場所である。
明治元年、延喜式内社「愛智郡 物部神社」に治定された。
「石神堂の石仏サマ」「石神神社」「山神」などの別称も持つという。

社伝では、神武天皇が尾張国の荒振神を退治した時、石を以て国の鎮めとしたといわれ、垂仁天皇代に神殿を建ててその石をまつったのが神社の始まりといわれる。




1940年時点の語り伝えとして、この石神を石で叩くとカーンと金属音がして、西方にあった大隈鉄工所内の石にも音が響いたという逸話が残る。

現在、石神は社殿の中に収められており、その姿を確認することはできない。
しかし1920年前後の頃は、境内は薄暗い森の中にあり、榊の根元に潜む高さ2~3尺(60~90cm)の石神を直接拝むことができたという。
実物を見た人の話によれば、石神は土中に埋もれた巨石の露頭のようであったといい、石質は閃緑岩で付近一帯で産出されるものだと考えられている。
1940年の頃には、社殿の中に石神は隠されてしまった。

参考文献

  • 齋藤富三郎 「物部神社=石神堂」 『尾張の遺跡と遺物』第14号 名古屋郷土研究会 1940年 (愛知県郷土資料刊行会 『尾張の遺跡と遺物』上巻 1981年版を参考とした)
  • 坂重吉 「石神堂に参詣しての雑考」 『尾張の遺跡と遺物』第14号 名古屋郷土研究会 1940年 (愛知県郷土資料刊行会 『尾張の遺跡と遺物』上巻 1981年版を参考とした)
  • 現地解説板