2019年8月26日月曜日

六甲比命大善神社/心経岩/雲ヶ岩/仰臥岩(兵庫県神戸市)


兵庫県神戸市灘区六甲山町北六甲

六甲山地の中央部に位置する、4つの岩石信仰の地。
2019年8月現在、当地を護持している六甲比命講の出資によって「六甲山の上美術館さわるみゅーじあむ」駐車場を参拝に利用できて、交通の便は良くなっている。

六甲比命大善神社/六甲比命神社


広大な巨岩である。
全体像は巨石神殿のような迫力があるが、一つ一つの細部は意図的な造形ではない。
1ヶ所に集めた巨石構造物ではなく、元は同じ一大巨岩が風化・浸食で剥離・分離・転石した産物だと思われる。

六甲比命大善神社の巨岩。この位置で花が手向けられている。

正面左手から。写真奥方に神社社殿の建屋が見える。

正面向かって左手に、このような岩穴状の窪みがあるが、内部はすぐ閉塞している。

六甲比命大善神社の社殿は急斜面に無理して建つ。

社殿の基礎の支石・石垣

六甲比命大善神社の本殿となる祠は、逆V字の岩の亀裂にまつられる。

本殿から六甲比命大善神社の巨岩を望むと、このような造形も見せる(明らかに自然の亀裂によるもの)

ここは六甲山(向津峰)山名由来比定地とされる。







心経岩


六甲比命大善神社のすぐ下斜面にある。
「昔 法道仙人の時に心経を切り刻まれ現在あるのは大正五年頃の再建とか」

広大な岩肌に、精緻な刻字で般若心経が残されている。
六甲比命大善神社の巨岩が選ばれなかったことが興味深い。

心経岩を背中にして撮影した光景。金属製の覆屋は新しく、講によるものか。

心経岩の頂部




雲ヶ岩/紫雲賀岩


六甲比命大善神社から斜面を登るとすぐある。
「法道仙人がこの地で修行中 紫の雲に乗った毘沙門天がこの岩の上に現われたという岩です」

雲ヶ岩。岩石が二つに割れ亀裂から光が差し込む。

亀裂から山並を望む。


仰臥岩


尾根上にあり、六甲比命大善神社・心経岩・雲ヶ岩の上に位置する。

仰臥岩 遠景

仰臥岩 近景

石碑には左から「佛眼上人」「熊野権現」と刻まれ、
一番右は「花山法皇」と刻まれるらしいが判読しにくい。

石碑と石祠の背面側から撮影。



「六甲比命大善神社の由来」より


「六甲比命大善神社の由来」は、六甲比命講世話人会の2名が著した由緒書で、私は2019年8月6日の日付が入った第10版を六甲比命神社で入手した。
こちらに書いてある情報は比較的冷静な記述が多く、信頼に足るものが多いのではないかと考えられるので、要点を紹介しておきたい。

まず、六甲比命大善神社は俗称が「ヒメさん」で、正式には弁財天をまつるという。
2011年に、これは瀬織津姫であることが判明したとも付記されているが、これはいわゆる仮説であり、全方位から確定したものではない。
本来の当社の信仰を乱す恐れがあるため、「ヒメさん」「弁財天」とは切り分けておくことを求めたい。

先に紹介した巨岩横の社殿であるが、祠が初めて設けられたのは心経岩が整備された頃(刻字が彫り直された大正5年?)だそうである。
その後、昭和43年に立て直され、そのときに階段なども新設。さらに、平成6年に本殿の改築、平成8年に拝殿・階段が改築されたことも記録されている。
とはいえ、自然の過酷な立地環境にあるため、敷設された階段は腐食も進み、拝殿も横の巨石が少しずつずり落ちて来て接触しており、建て直しが検討されている。

六甲比命大善神社拝殿の貼り紙


本由来では、ほかに他聞寺についての情報もまとめられている。
六甲山吉祥院他聞寺は当地より北西の神戸市北区有野町唐櫃にあり、インドからの渡来した法道仙人が645年に開基したと伝えられる。
六甲比命大善神社・心経岩・雲ヶ岩・仰臥岩が残るこの山域は、他聞寺の奥ノ院に指定されており、山岳仏教の霊場の一つとして歴史をたどることは確実にできる。


心経岩の登り口にある、奥ノ院であることを示す標示。



「六甲山 瀬織津姫・白山姫と和歌姫和す・尽くす トノヲシテの復活!」より


六甲比命大善神社の拝殿内で頒布されていた私家版の本「六甲山 瀬織津姫・白山姫と和歌姫和す・尽くす トノヲシテの復活!」(以下、大江氏著作)は、ホツマツタエや瀬織津姫を研究する大江幸久氏によって著された研究書(2015年発行版)である。

書名のとおり、六甲山が瀬織津姫の聖地であり、ホツマツタエの記述からそれを探るという内容になっているが、注目すべき個所と、裏付け不足で持論として切り分けて読まないといけない箇所に分かれている。
六甲比命大善神社に関わる部分に絞って、いくつか論点を紹介しておこう。


■ ホツマツタエの取り扱いについて

ホツマツタエは『秀真伝』の名で知られ、いわゆる神代文字で記された古史古伝の一書として有名である。
ホツマツタエもホツマ文字(=ヲシテ)という独自の神代文字で記されていることから、神代文字が漢字以前に遡らない近世の創作文字であることが指摘されて以降、古史古伝の内容自体の評価も全否定か、いわゆるトンデモネタのソースとしてしか取り上げられない状況だった。
しかし、近年では近世における宗教思想を語る文献として再評価が進んでいるようで、最近では吉田唯氏『神代文字の思想―ホツマ文献を読み解く―』(平凡社、2018年)のような、学術的アプローチによる研究も増えている。

大江幸久氏もホツマツタエの研究家であるが、大江氏著作はホツマツタエを真作と見ており、その成立を記紀以前に位置付けている点で昭和以前の視点であり、現代の学問的批判を経たうえでの研究とは言えない。

その点を踏まえたうえで、情報を取捨選択していこう。


■ セオリツヒメの位置付け

セオリツヒメ(瀬織津姫)は、ホツマツタエでは天照大神を男神として描くアマテルの12人の妻の一人であり、向津姫(ムカツヒメ)の名もある(吉田唯2018年)。

この向津姫が、西宮市に鎮座する廣田神社に「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」(天照大御神荒魂)の名で主祭神としてまつられている。

また、六甲山は平安末期には廣田神社の社領であったとされており、六甲山の山名はもともと「ロッコウ」ではなく「ムコ」(武庫/向こう)と読むのが本義であったという見解が広く認められている(坂江捗2011年)。

ここから向津姫はセオリツヒメで、今は女性神化した天照大神の本来の女神部分(荒御魂)であり、六甲山はムコの神である向津姫をまつる山だったという推論が導き出される。この論理自体は納得性があり、多くの学者の検討に値するのではないかと思う。

ただし、大江氏著作ではホツマツタエに記されたセオリツヒメの生誕地「柿田川」の場所を、「霊能者ハニエルさん」の霊言によって静岡県三島市であることを証拠に挙げており、これでは科学的な追試は不可能で、本書の信頼性を大きく揺り動かすものとなっている。


■ 六甲比命大善神社という呼称はいつまで遡れるのかがわからない

また、六甲山が向津姫の鎮座地であることは首肯できるが、それが六甲比命大善神社だったとまでいうには論理の飛躍がある。

そもそも六甲比命大善神社という名前は、歴史上いつまで遡ることができるのか、ここが由来書においても、大江氏著作においてもはっきり書かれておらず、ウィークポイントである。

現地の巨岩は人工の造作ではないので、それが逆に、有史前から”そこ”に存在していたことを示唆するが(後世の地滑りなどでの出現でない限り)、由来書から読み取れるのはここが「ヒメさん」「弁財天」と呼ばれていたということだ。
六甲比命大善神という大仰な神名は、大江氏著作の冒頭にも記されているとおり他の伝承や記録には一切登場しない。歴史的な裏付けが取れないからこそ、後出名称の可能性がある。

また、私は岩石信仰の研究者として情報収集を続けてきたが、たとえば西宮市在住で兵庫県内の磐座に熟知していた藤本浩一氏の『磐座紀行』(向陽書房、1982年)に当地の巨岩は一つも登場しないし、イワクラ写真家である須田郡司氏の『日本の聖なる石を訪ねて―知られざるパワー・ストーン300ヶ所―』(祥伝社、2011年)にも六甲山特集が組まれているにも関わらず、当地の紹介はない。

六甲比命大善神社がパワースポットとして有名になったのはこの2011年より後のことだろう。
先述のとおり、2011年、この巨岩をセオリツヒメと定めた(大江氏が定めたようである)時から急浮上した感がある。セオリツヒメはスピリチュアル世界で人気の神であることから(セオリツヒメ商標登録問題など)、ホツマツタエをスピリチュアルに取り入れる中で知名度が相まっているのだろう。

いわゆる神代文字・古史古伝・日本ピラミッドブームが起こった1980年代のオカルト系・超古代文明系の文献を紐解いても、六甲山はかつてから超古代巨石文明の証拠として保久良神社の磐境、北山巨石群、目神山巨石群、甲山ピラミッド説など百花繚乱の地だったが、当地・六甲比命大善神社は一文字も出てこない。

もちろんこれは、仰臥岩、雲ヶ岩、心経岩、そして他聞寺の奥ノ院であることを考え合わせると、ただ関係諸氏の中でこの地の存在がひたすら知られていなかっただけに尽きるだろうが、それはそのまま、当社が大仰な名称ではなく地元民だけで語られる素朴な「ヒメさん」だったことを示唆しているのではないか。

その「ヒメさん」が、弁財天を指すものだったか、向津姫に通ずるものなのかは、即断できない。今後の後学の研究に期待したい。

聖地としての全国知名度は、極めて最近のムーブメントによるものであり、これに惑わされず、切り離したうえで岩石の歴史を考えないと、思わぬ錯覚・誤解をきたす。
当地の今後の取り上げられかたは、旧来から真に伝えられてきた地元の人々の信仰を尊重するということを大切に進められて欲しいと願っている。


参考文献


六甲比命講世話人会「六甲比命大善神社の由来」2019年第10阪

大江幸久「六甲山 瀬織津姫・白山姫と和歌姫和す・尽くす トノヲシテの復活!」私家版 2015年

吉田唯「ホツマ文献にみる『ミヤコトリ』について―『秀真政伝紀』と大宝神社所蔵『都鳥の歌』を中心に―」『宗教民俗研究』第29号 2018年

坂江捗「六甲山の呼び名―『ロッコウ山』と『ムコの山』―」『神戸・阪神間の古代史』神戸新聞総合出版センター 2011年

六甲比命講公式ブログ http://rokkouhime.cocolog-nifty.com/blog/(2019.8.26閲覧)


2019年8月21日水曜日

越木岩神社と周辺の巨石群の諸問題(兵庫県西宮市)


兵庫県西宮市甑岩町

越木岩神社の甑岩


甑岩(こしきいわ)は越木岩神社の神体石に位置付けられる自然の巨岩で、高さ10m、全周40mを測る。
米や豆を蒸したり、酒の醸造などに使われたりする「甑(こしき)」の形状から由来するとも、甑の蒸気が出る様子から由来するともいわれる。

甑岩。写真右は境内末社・岩社

甑岩。見る方角で趣が変わる造形の複雑な岩だ。


当地は正保年間(1644~1647年)もしくは明暦2年(1656年)に社殿が建立され、越木岩神社としての歴史が始まったといわれる。

それ以前の歴史では延喜式内の大国主西神社という説があるとも、修験者の行場の一つであるとも、俳人である山崎宗鑑(1464~1553年)が残したという「照日かな 蒸ほど暑き 甑岩」の句があるともいう。
ただ、大国主西神社は他の論社もあることと、山崎宗鑑の句は18世紀末の『摂津名所図会』にあるものの初出がわからない。

延喜年間、甑岩から煙が立ち込め、それは瀬戸内海の海岸沿いからも見えたという話もあるが、平安時代の文献に明記されているというわけではなく伝承としてあるので、社殿建立以前の歴史はいまなお不明点が多い。

しかし、一つ確実に言えるのは、この場所に巨岩がはじめから存在していた事実である。
この巨岩は、北にそびえる六甲山地に多く見られる巨石群の最も南端に位置するという意味で、古来から多くの人々の目に止まってきた存在であるはずだ。それが特別視の段階だったか、神聖視の段階だったかが論点である。

豊臣秀吉の大阪城築城の時、その石垣として甑岩が標的にあったという伝承がある。
石工たちが甑岩を切り取ろうとした時、甑岩から突如プシューッと湯気または煙が吹き上がり、石工たちがばたばた倒れていったので、甑岩の切り取りは頓挫したという。

実際、甑岩の一部に、城郭の石垣などの石材用に切り取られている箇所やノミの跡、そして池田家や鍋島家の所有を示す刻印の跡が残っている。これらは新しくても江戸時代初期の大阪城の石垣の切り出しによるものだったことがわかっている。

甑岩の東面。一部、石垣で補強されている。

写真右下が池田家を示す刻印

ノミを以て切り取られている痕跡も甑岩には残る。


さて、各伝承に付帯する「瀬戸内海から甑岩が煙を出しているのが見えた」「甑岩から煙・湯気が噴出したため、大阪城石材を取ろうとした石工たちは退散した」といった気体噴出伝承だが、これは荒唐無稽の創作か、何らかのモデルとなった現象があるのか。

かつて、本ホームページの掲示板に投稿いただいた湯畑野秀明さんの情報(2002.7.11)を紹介しておきたい。

越木岩神社「甑岩」
投稿者:湯畑野 秀明 02/07/11 Thu 21:06:01

>延喜年間(10c初)のもので「甑岩から煙が立ち込め、それは瀬戸内海の海岸沿いからも見えた」という記述のものが残っています。

という箇所を、温泉を科学的に探求されている「やませみ」さんという方に解明を依頼した所、

この付近には、阪神競馬場から甲陽園にかけて、「甲陽断層」という活断層が
走っていることが最近の調査でわかっており、それから派生したマイナーな断層を通じて、地下から温泉やガスが上昇してきていたことは充分に可能性があるとの事だそうです。

しかし、湯気というのが熱かったのかどうかまでは即断できないそうで、高圧のガスが噴出すると、低温でも減圧で水蒸気が凝縮し、湯気のようになって見えることがあるそうです。

甑岩の気体噴出伝承がまったく架空の作り話であると即断するよりも、自然科学の現象で説明できることはより実証的と言え、傾聴に値する。

また、岩から煙が噴出するという説話は、甑岩を「活動する魂を内在したもの」という認識へ導くことにもつながっただろう。
甑岩という名称自体は甑に拠るものなので装置的だが、岩石から気体が噴出し、危害を加える者に祟りをなすといったあたりは石神としての性格を色濃く感じさせる存在だ。
それはこの岩にまつられるのが市杵島姫大神という別人格の神から、甑岩大神という岩神としての神格までさまざまな神名で崇められていることからも、磐座的であり石神的であるとも言える。
そこに先後関係があったか、並行して共存していたかは今後の検討課題である。

貴船社/雨乞社


甑岩の北の社叢にもいくつかの岩石祭祀事例が存在する。

まず、甑岩北東にある境内社の貴船社は、六甲山にある「石の宝殿」を遥拝している。
これは、水不足で困窮したかつての越木岩地区の人々が、六甲山の神に降雨を祈るため、その拝礼施設としてここに社を勧請したという。

貴船社


貴船社は雨乞社の別称もあり、また、祠の裏には累々と巨石が重なり、これ自体が「石の宝殿」をシンボライズしているかのようである。
甑岩奥の巨石群に社を設けた理由に、この宝殿とも岩船とも見立てられる巨石群が無関係だったとは考えにくい。

稚日女尊宮/北の座


貴船神社の北へ進むと、社叢の頂上と言える場所に「稚日女尊宮(わかひのめのみことのみや)」がある。別称「北の座」とも呼ばれている。


稚日女尊宮 前面

稚日女尊宮 背面

こちらは社がなく、高さ1mほどのそこまで大きくはない数個の石を寄せ固めた場をまつっている。まるで日本庭園の三尊石のようであるかの佇まいを見せる。
また、神社の由緒書を見るかぎり、境内摂末社には入っていないようだが、越木岩神社の地主神にあたるという。

「北の座」自体やそこまでの参道は丁寧に整備がされているため、かえって、いつ頃から現在の状態で存在しているのか判断はつきにくい。

越木岩神社北のマンション建設予定地について


さて、越木岩神社を語る時、この問題に触れないわけにはいかない。
2015年、越木岩神社の境内の北に接した土地でマンション建設計画が持ち上がった。
この土地には自然岩が複数残っていることから、これらを「磐座」として保護・保全する運動がおこなわれたことは記憶に新しい。
詳しくは下記のwebページなどを参照していただきたい。

越木岩神社の社叢林と開発地に残る磐座の保護・保全を求めます。

越木岩神社隣接地西宮市甑岩町6番1、12筆において、株式会社創建による大規模開発(敷地面積23,443.48㎡、地下1階地上5階建、291戸)が進められております。 ...

2019年現在、マンション建設は中断されたままであり、土地内の自然岩群もそのまま残されているようである。


越木岩神社北のマンション建設予定地。森になっている所に自然岩があるらしい(2019年8月時点)

平成30年3月に終わる計画だったが着工されていないままだ(2019年8月時点)

このように保護運動には一定の効果があったが、土地の権利は引き続き建設会社側にあり、計画が取りやめになったという話も聞かないので、今後の先行きは不透明である。

マンションが建つことで、隣接する神社の社叢の環境に影響が見られる可能性があるなら、それは建設会社側が責任をもって配慮すべきであるが、土地内の自然岩群については所有者に権利があり、けっして法的に問題があるわけではないことも冷静に理解しなければいけない。
そして、神社周辺にはすでにマンションが他にも複数建っている。それら先行するマンションとの差や、環境への関係性の有無、また、入居しているマンション住民の方への立場も同様に大切にされてほしい。
また、越木岩神社はマンション建設に反対しているわけではなく、予定地内の自然岩への配慮をした建設と、境内の社叢への影響への説明を求めているに過ぎないことも付記しておきたい。

気をつけたいのは、これらの自然岩群が、越木岩神社から北山にかけて広がる露岩グループの一部であることは間違いないが、建設地の自然岩群が「磐座」だったという説はあくまでも推測であり、私の見聞きした限りでは、文献記録に明示されたものではない。
それでは建設会社側が「文化財ではなくただの岩」とみなすのも(感情面は置いておいて)理屈としては通っており、他者理解のために双方が理性的な根拠を持ち寄ることを個人的には求めたい。

日本全国には、文化財指定もされずに消滅した多くの岩石信仰の場があることを私はたくさん見てきた。
究極的に突き詰めれば、すべての歴史的痕跡が大切にされるのなら、過去に人が住んでいた場所はすべて大切な歴史が宿っているので、今後開発は一切できないことになる。当然、現実問題はそうにはならない。
だから、現に消滅する史跡と消滅しない史跡がある(埋蔵文化財はおおむね消滅する)。

岩石信仰の研究をして、人一倍岩石に親しんできたから、自己批判しないと自分の客観性を保てないと思って、このようなことを書いている。

その上で個人的な意見を一つ言うとしたら、少子高齢化で人口減少一途をたどり、住宅飽和で空家空室増加中の日本で、新しいマンションを建てる旧来の成長拡大路線に対して、「破壊されたら二度と取り戻せない原風景を未来に残すこと」以上の価値を認められるのか。この点に限って、私は反対であると表明したい。

その一方で、保護運動側の全員ではなくあくまでも一部だが、建設会社側に対して政治的な思想と絡めて真偽定まらない情報を流布したり、宗教的またはスピリチュアルな世界と絡めて検証不明な祟りを煽ったりする一面もあったことは、当時の運動の推移を見ていた傍観者としては非理性的な暴挙だったと記しておきたい。
保護という目的達成のために、無批判に感情的な流布に乗りかかることは、相手も等しく人間であるということに思いを致して、慎まないとならないだろう。

そして最後に、読者の皆様におかれては、建設問題でさまざまな人々に湧き上がった感情のるつぼに振り回され、好む好まずを選ぶこともできず、新たな歴史を負ってしまった岩石たちに対して、一度思いを巡らせてもらいたい。
今後、同様の問題がどこかで起こった時、岩石に対してどの立場であっても表明するということは、自分が岩石に対して新たな歴史をつくるということを、この越木岩神社隣地マンション建設問題は示している。
そのような教訓をもたないと、またどこかで同じような人々のいがみ合いが起こり、物言えぬ岩石は歴史を上塗りされるだけである。


北山公園の巨石群について


越木岩神社の北に、北山という比高差100mほどの低山があり、山中には名前が付けられた複数の巨石が存在する。
例をあげれば「火の用心石」「亀石」「西石」「太陽石」「方位盤石」などの通称が知られる。

これらの名称は古式ゆかしいものではないようで、昭和50年代に大槻正温という方が北山の巨石群を「太陽観測の天文台」だったとみなし、仮名称として名付けたことに始まっている。
大槻氏によれば、これらの巨石群の配置が各季節の太陽の出没方向と一致していると論じるが、巨石に明確な人為の手が見られず、元々そこに露出していたと思われる自然石同士に人為的な法則を当てはめることがどこまで科学的なのか、批判的に受けとめざるを得ない。

北山巨石群と言えば天文台説となっていて、本来の巨石の価値がよくわからなくなっているところもある。
岩石信仰の観点からは、巨石群に対しての祭祀を示す文献や考古学的痕跡が待たれるが、北山の南麓に越木岩神社が、まるで北山を拝するように位置し、先述したように露岩環境として同一環境にある点には一目置くべきだろう。

目神山の巨石群について


越木岩神社の北東、北山の東に目神山と呼ばれる一帯がある。
かつては丘陵地として名前のとおり一つの山だったが、戦後に宅地開発が進み現状は高級住宅地の一つとして知られている。

ここ目神山にも無数の巨石群が散在していたようで、その多くが宅地開発のなかで失われたようである。

下のwebページでは、地元の方が撮影保管していた大正末期~昭和初期の巨石群(現在は消滅)の写真が公開されており、他で見ず貴重な情報である。

六甲山ー巨石交流会ー2013年11月24日(日)神呪寺から目神山の磐座巡りを開催しました。

写真の「子持ち岩」ほか、「お鹿岩」「蛙岩」「倉掛石」「坪石」「重箱岩」「夫婦岩」の「甲陽七岩名所」があったという。
西日本では珍しい「七石」事例であるが、近代に名付けられた可能性もある。

「子持ち岩」は現・目神山町の2番坂を登って右側の山頂近くに位置したといい、本体は消滅したが、一部、岩石が残存するともいう。
他の六石のその後はわからない。古代や中近世ではなく、約百年前ですら記録がとられていないと歴史はたやすく断絶する。
今残っている岩石も大切だが、すでに消滅した岩石は加速度的に記憶の忘却が進むので、同好の方々には、このような記録を収集する作業も(地味だが)優先されることを願う。
誰もがやりたいことをやるのではなく、誰もしたがらないことにこそ、研究としての貴重性がある。


消滅した巨石もあれば、まだ残存している巨石も目神山にはあるそうだ。
それらのほとんどは個人宅の庭など私有地にあるので、一部見学している方もいるようだが所有者に配慮して、全貌はよくわからない。
一部の巨石は、所有者の方や見学者によって新たな信仰が生まれているようであるが、すべての石が古来から特別視・神聖視されていたかはまた別問題である。

もちろん、越木岩神社・北山・目神山・甲山の全域にある自然物がすべて神聖であるとみなせば、すべての石が神聖視されていたとみなすことも肯ける。
であれば、この地をすでにある程度開発していることは、現今のマンション建設問題と同じと言える。

目神山もかつては保安林や六甲山特別地区に入れられていたのが、宅地開発を進めるために保安林解除をしていった過去がある。

1956年には、目神山地域全域が瀬戸内海国立公園、六甲山特別地区に編入され、これにより土地の開発は難しくなった。 しかし、1958年目神山一帯を財団法人大阪住宅建設協会が買収し翌年分譲を開始した。保安林の解除には、この後も長く手間取った。
「甲陽園目神山地区まちづくり協議会 歴史とまちづくり活動の経緯」
https://www.machinami.or.jp/pdf/contest_report/report12_2_overview.pdf 

越木岩神社隣地マンション建設問題ではじめて問題化したようにみえるが、似たような過去があり、歴史は繰り返しているということがわかる。

この時は、守られようとした自然に対して、人々は積極的に開発の手を入れていった。
それが悪いということではなく、時代的な価値観や制約もあるし、人口増加と経済拡大の時期においてはその現象こそが自然なことだった。

では、今はどうか?
すでに私たちは相当程度の業を背負った上で、開発された土地の上に暮らしている。
そのことを理解した上で、今住んでいる人、開発する人、そして自然の岩の三者が通い合う対話がなされることを祈りたい。


2019年8月18日日曜日

保久良神社の列石を巡る磐境説とその批判的検討(兵庫県神戸市)


兵庫県神戸市東灘区本山町北畑

六甲山系の一つ、金鳥山の中腹(標高180mライン)に鎮座する保久良神社は航海の目印「灘の一ツ火」で知られる絶好の眺望を有する。
延喜式内社の保久良神社とされるが、近世までは牛頭天王をまつる「天王さん」「天王社」の俗称が強かった。

保久良神社社頭「灘の一ツ火」から神戸港を一望する。


保久良神社の境内からは、弥生時代中期から後期にかけての弥生式土器や石斧、石剣、約20cmの銅戈(大阪湾型c類銅戈と後に呼ばれる型式)などが出土した。
そして、保久良神社裏を少し登った所では5基の竪穴式住居跡が見つかっており、保久良神社遺跡として知られる。
考古学的には、六甲地域に多い高地性集落の一事例として注目されることが多い。

そして、保久良神社のもう一つの顔は、祭祀遺跡としての側面である。
樋口清之氏の論文「摂津保久良神社遺跡の研究」(『史前学雑誌』第14巻第2・第3号、1942年)では、この遺跡を単なる集落遺跡としてではなく、人工的に列石を形成した磐境遺跡として評価している。

それから七十年余。
保久良神社の祭祀的側面を改めて検討する必要性があるだろう。

保久良神社の列石と遺物

樋口氏の論文によれば、列石は単に散在しているように見えて、イ~ヲの群に分かれて特定の配列が認められるという。
まずはイ~ヲ地点の現状を紹介したい。

樋口清之氏「摂津保久良神社遺跡の研究」(1942年)より


イ群

本殿を取り囲む石群である。
瑞垣内にあるので普通は見ることができないが、イワクラ学会理事である平津豊氏のホームページでは、宮司の方に許可をいただき瑞垣内の写真を収めているので参照されたい。

保久良神社とカタカムナ

石同士が密接にくっつき、最も原位置を良好に残しているものと評価されている。
ここからは石鏃・土器片が出土した。

ロ群

社務所北側の石群。
このうち、2個は自然の露岩とみなされている。
瑞垣で今は隔てられているものの、元来はイ群と連続した存在だっただろうと推定され、そこに異論はない。
石の形もイ群と似て、樋口氏は「牛が臥せたような形」と形容する。
ここにある巨石の下に根固めと見られる粘土があり、その粘土の中から弥生末期と見られる土器片が1点検出された。土器の上に巨石という前後関係が認められる。

ロ群。柵に遮られて中に入ることはできない。

柵の外から撮影。


ハ群

社務所西側の石群。
ここには二つの特別視された場所がある。
一つは「雷岩」(神鳴岩の異称もあり、現在は神生岩の看板が立つ)と称される巨岩で、もう一つは「九龍明神」の小祠が建つ。
ここからは石鏃と土器片が出土した。

神生岩。柵外から撮影。

神生岩 南から撮影

ハ地点

九龍明神の祠は見つけられず。


ニ群

参道の西の小群。
ここは濃密な弥生土器包含層というが、列石群の中でも最も激しい原状変更がなされた群ではないかと推測されている。
ここは玉垣で立ち入ることが難しく、現在社叢内のため玉垣外からでは石群が見えなかった。

ホ群

参道の東の列石。
他の群に比べて一列に石が連なって見えるため、古代磐境の旧状の残存を思わせるという。
ここからは石鏃と土器片が出土した。

ホ群。他の群より列石感は出ている。

完全な一列ではないのと、石の大小が様々なのが気になる。


ヘ群

絵馬堂東の石群。
絵馬堂を建てた時、そこにあった石がこの場所に集積されたかもしれない密集具合とのことである。
ここからは石鏃と土器片が出土した。

ヘ群。やや北側を撮影。


ト群

現在、「立岩」と称される巨岩を中心にした数個の石群。
しかし、樋口氏論文ではこの巨岩への名称が明記されておらず、おそらく「立岩」呼称はそれ以降のことと思われる。
境内中心にあるため、長年の境内工事によって原位置はとどめていないものと解釈されている。

ト群の中心石である立岩

逆側より撮影


チ群

雷岩の西の斜面の石群。
古くから民有地に接し、庭石などで持ち去られた節が見られるという。

リ群

境内の南西地点にある石群。ここは天王前坂という字が残るという。
当時の宮司の話では、ここには大小の岩石が不規則に集合していたが、民有地で庭石用に随時持ち去られていった。
そして昭和16年9月、最後まであった石英粗面岩が取り去られた際に、石の東に接して峰を北に向けた弥生時代の銅戈(注)と、それに並べて2個の打製石鏃、さらに西にやや離れて2個の磨製石斧が見つかった。
また、リ群東南方より穿孔のある玻璃製曲玉が一点見つかった。

この出土地点の包含層には松の木炭が多く混合していた。観察結果では焼けた土や礫が存在していたことから、宗教的な焚火の跡ではなかったかと推測されている。
このリ出土地点は岩石もろとも本調査をもって全部破壊され、今はそのよすがをしのぶものはない。

(注)樋口氏は本論文でこれを銅戈ではなく銅剣と認識していたが、柄の部分が剣状ではなく、矛の木の柄を差し込む茎部になっているので、この形状から現在は銅剣ではなく銅戈であるとみなされている。

リ群付近にある岩塊。銅戈が出土した岩塊は今はない。


ヌ群

境内南の断崖にある石群。
弥生土器包含層に位置し、樋口氏は人為敷設の痕跡が認められると下す。
崖上から肉眼では草の繁茂で石群を見つけられなかった。

ヌ群の崖上に1個だけ残る岩塊。


ル群

境内南東の断崖縁にある一群。
こちらは遠くから観察することができた。
ここからは石鏃と土器片が出土した。

なお、ここにある巨岩のことを珍生岩(うづなりいわ)と呼んでいる。巨岩下の道路沿いに看板が立てられたのは最近のことである。

ル群 上斜面から撮影した遠景

斜面下の道路に立てられた珍生岩の看板


ヲ群

拝殿東方、約10m下斜面の一群で、多数の巨岩を擁する。
三五岩と俗称される緑泥片岩を中心に、大部分は自然石の風化破砕による群と推測されている。
当時の宮司談によれば、ここからは石鏃の完形品が多数発見されたという。弥生土器・土師器も混在している。

三五岩(北から)。岩蔭を形成する。

三五岩(南から)。二体の巨岩が対になるように存在。



遺跡としての評価

樋口氏の論文では、次のような見解が示されている。

  • 列石は石英粗面岩と緑泥片岩から構成される。
  • 列石に用いた石材はいずれも自然石のまま使われたとみなす。人工のように見受けられる模様や断面があるが、これは石英粗面岩が風化する時に現われる性質であり、実際に自然の石脈に沿って破面が見られた。また、加工具を使った跡も認められない。
  • 調査によれば、拳大の石や粘土の小塊をもって根固めをした後に列石の石を置いたと認められる部分があり、根固め粘土の中から弥生土器あるいは土師器と見られる赤色素焼土器細片を発見した。
  • 巨石の下の地中から土器片が見つかった例もあり、土器配置のあと巨石敷設という前後関係が認められるものもあった。
  • 列石の多くは山麓から人為的に運び上げられたと考えられるが、三五岩など一部の巨石は元から自然の露出物ではないかとみなしている。
  • 岩陰に石鏃が見つかるケースが多く、石鏃と巨石の収蔵地としての相関を示している。
  • 石器群(石鏃・石斧)はいずれも六甲山で産出する輝石安山岩の灰黒色サヌカイトで、おそらく当地で採れる石材を使用したものと考えられる。また、原石の打裂痕や未成品、石屑も見つかっているので、石器への加工は当遺跡内で行われた。
  • 銅戈は峰がかなり扁平で実用的な武器とは言えず、祭祀用宗教用具であるとみなす。
  • 巨石の下から出た弥生土器や、巨石に接して出土した銅戈から、当遺跡は弥生時代第三様式~第五様式にかけての巨石構築物だったと考えている。
  • 弥生時代から土師器(古墳時代)にかけての遺物が中心だが、本殿東北からは奈良時代の古瓦片や鎌倉末期~室町初期と目される懸仏も見つかっている。

そして、イ~ヲのそれぞれの群は独立したものではなく、それぞれの群が元来は連続、あるいは関係性を持ち、全体で環状を示す遺構であると評価した。
それはイ群を頂点として、同心円状ではなく、イから螺旋状に二重、あるいは三重の環状をなす列石だったという仮説を提示している。
これにかかる土木工事は他の遺跡や墳墓の遺跡を鑑みればじゅうぶん常識的な範囲であったとみなしている。

遺物は先述のとおりイ、ロ、ハ、ホ、ル、ヲ群などから幅広い範囲で見つかっており、リ群の天王前坂を除いてはいずれも「住居址様のものとも決し得ない状態」だったそうである。
ここから樋口氏は、この遺跡を単なる生活遺跡と見ず、石鏃にも信仰的意味を見出して、岩陰に収蔵された祭祀具であり、それが収蔵された岩は「かむのほくら」で、その祭祀には焚火や篝火を伴う「ほどころ(火処)」だったと評価している。


磐境説への批判的な検討

大場磐雄氏の論文「磐座・磐境等の考古学的考察」(『考古学雑誌』第32巻8号、1942年)で、樋口氏の保久良神社列石磐境説へ批判が加えられている。
いわく、
  • 岩石の配置が人工である、という確たる証拠がまだ欠けている。
  • 銅戈はいわゆる「磐境」の中心部から離れた地点から出土しており、実用的な石鏃と共に出土しているので、銅戈も実用利器の可能性を出ない。
  • 保久良神社境内から出土するのは、そのほとんどが集落関連の遺物である。とりわけ祭祀遺跡と思わせる遺物が出ていない。
  • 岩石群を「磐境」だと最初から断定して論を進めている論文構成に問題あり。
  • 保久良神社と石群が同じ場所にあるからと言って、石群を原始的神社として結び付けるのは軽率である。
大場氏は他の巨石遺跡などで積極的に磐座認定をしており、そのときの論理展開を顧みると、樋口氏の論には同論理なのにやや手厳しい目を向けている。

まず、列石の人工性が薄弱という点に対しては、これは樋口氏の観察結果をどこまで信頼するかというところに最終的には持っていかざるを得ない。

樋口氏論文が確かな考古学的調査に則って記されたものであると信頼するならば、列石には根固めや地中の土器検出など、人為的な考古学的痕跡が明示されているので、自然の露岩も利用しながら人工的な手も加えて最終的に列石としたものだろうという肯定的評価が下せる。

一方で、本調査は1942年という古い調査で、その出土実測図も時代的制約によりスケッチの域を出ていない。
また、出土状況は樋口氏の実見ではなく当時の宮司氏の談による情報も混ざっており、そもそもこの論文に書かれた情報をどこまで信頼して良いかという指摘は免れないだろう。
批判的に見るならば、それは端的に、論文の古さと調査方法の精度に問題を抱えていると言えるだろう。

しかし、遺跡はもはや元に戻せないし、調査はやり直せないのである。
樋口氏は当時30歳代のまだ若手考古学者であり、その調査に全幅の信頼を預けられるとは言えないが、最終的には國學院大学名誉教授に至るまで考古学の一線でありつづけた方だった。
その樋口氏が青年期の保久良神社列石の本論文について訂正や否定をすることはなかった。私は、それを本論文の調査の蓋然性を追認するものとして理解したい。

列石の下の粘土塊を根固めと解釈したこと、その粘土塊から弥生土器片が出土して列石との先後関係を記録したこと(これは列石が弥生土器より後になるという点で樋口氏説には不利な材料である)、銅戈・石鏃・石斧の出土層の土に焼土痕を認めたことなど、その具体的な記録は信頼できる。

列石の祭祀性の検討


では、樋口氏の報告を信頼したとして、今度は石群と出土遺物に祭祀性は認められるのかというテーマに検討を移したい。

そのためには、高地性集落というものを理解する必要がある。
高地性集落というものは一般的な集落とは性格的位置づけが異なるものであり、高地性集落は平野の集落遺跡ほど住居の数は多くなく、平常の生活を営む場ではない。
保久良神社例の他にも麓の眺望がよい高地性集落は多く、それは軍事的な性格をも伴い「集落」という言葉のイメージからは離れた方が良い。
なお、六甲山系では他の高地性集落遺跡でも青銅器が複数事例見つかっている。

軍事的な場には常に勝敗がつきまとうものだからこそ、そこには宗教性も無縁ではない。
集落内祭祀という考古学用語があるように、そもそも集落と祭祀場は決して相容れない存在でもない。
その点も加味した上で、ではこの石群は集落とどのように関係し合った存在だったのかを考えてみよう。

自然の岩群に人工的な列石を付加して、その列石の外縁に位置する自然石の傍らに扁平な銅戈・石鏃・石斧を添えたという行為は、多分に祭祀性を認められる。

  • 一つ目に、列石自体は人がすぐ乗り越えられるようなものであり、そこに実用的な防衛力はない。
  • 二つ目として、リ地点の自然石に接して青銅器や石器を埋めたのは、自然石の規模から考えても実用的な保管とは考えにくい。
  • 三つ目として、リ地点は列石の内部ではなく外縁に位置しているのは祭祀性を否定する根拠にはなりえず、解釈次第で、列石の内部を神聖視して、その外側に祭具を捧げたという理解もできる(古墳時代になるが、静岡県渭伊神社境内遺跡や福岡県日峯山遺跡でも巨岩の斜面下側に遺物を埋納するケースが見られる)。ただ、保久良神社列石内からも弥生土器などは見つかっている。
  • 四つ目として、銅戈は扁平なので非実用性が認められ、石鏃・石斧は実用的でありつつもいずれも武器であり、それを高地性集落において埋めるという行為は極めて軍事と祭祀の相乗効果を狙いにしたものと言える。

以上の点を踏まえて、私は保久良神社の列石は実用的ではないからこそ、自然の露岩地にさらに石を寄せて視覚的に石の聖地性を高めた場所だったのではないかと思う。
それはもともと列石でもなかったかもしれず、イ~ヲの群にそれぞれ分かれて形成された岩群の聖地だったのかもしれない。
他の高地性集落にはこのようなタイプの岩群はないので、岩石信仰は計画的にゼロから創られたものではなく、多分に当地の露岩環境から端を発した偶発的・自然発生的な聖地で、そこに軍事的な支えを希求して後付補強的に祭祀場が設けられた遺跡だったのではないだろうか。

それを磐境という、後世に当たる記紀の用語で呼んでしまっていいかについては疑義があるが、いわゆる聖俗の結界として聖域表示された岩石の資料としては活用されていいし、磐境祭祀は臨時的祭場で祭祀後は撤収され祭祀場は常には存在しなかったという神道学的な見方への否定的な資料にもなるだろう。

また、個人的に興味深いのは、石鏃・石斧(輝石安山岩/サヌカイト)と列石(石英粗面岩と緑泥片岩)の石種が異なる点である。
樋口氏が指摘したとおり、当遺跡は元から自然石がある程度露出していた立地だったことは間違いない。
しかし、その自然石を石器に利用することはなく、六甲山地で採れるサヌカイトで石器を作った。
これは当然、石鏃や石斧に適した石材が、破砕しやすく鋭利な断面を形成しやすいサヌカイトだったからに他ならない。

しかしそれを差し引いても、石器に使う石材と、列石を構築する石材を分けていたという当時の人々の「石の選択」があったことは特筆するべきではないか。
石のそれぞれの種類の特性を理解していたという物質的側面と、そこから端を発して、石によって求められる精神的役割も分かれていたのかもしれないと思わせる事例である。

というのも、時代は下るが古墳時代では古墳の石材に使われた石材と、古墳が築造された現地に露出しているのに手を出されず現状祭祀の対象となった岩石(磐座・石神など)が同じ地域に同居している全国各地の事例がある。
こうした「実用目的で採石された岩石と、宗教的側面を見出され採石されず残された岩石の違い」の問題を解決する一つの傍証として、保久良神社列石を今後資料化する余地もあるだろう。

カタカムナ文献について


最後に触れるが、当地はいわゆる古史古伝の一つである「カタカムナ文献」が発見されたという金鳥山に位置することから、しばしば保久良神社とカタカムナ文献の関連性が取りざたされており、それが保久良神社を別の世界に引きずり込む一因にもなっている。

私はカタカムナ文献を読んでいないのでたいしたことは言えないが、同文献に保久良神社が明確に記されているのかというのが疑問の一つ。記されているならともかく、記されていないのなら安易な結びつけは控えられるべきだろう。

次に、カタカムナ文献を超古代の科学書だと位置付けているのが古史古伝肯定派では半ば定説化しているが、同文献の発見者である楢崎皐月以来、この文献を科学的追試した研究者がいるのかという疑問。
肯定派はアカデミズムをすぐに否定するのに、肯定派同士の説を批判的に検証することが少ない。それは自ずから自己批判ができない研究姿勢であると指摘したい。

次に、カタカムナ文献を記す神代文字・カタカムナ文字は極めて整然としたデザインであるが、整然としているからこそそれは自然発生的で生活に根差した文字とは言えず、「創られた文字」であること。

そのカタカムナ文字がなぜ他の文献や出土遺物からただの1点も発見されないのか。
保久良神社の列石および遺物群に対し、これほど長い時間があったというのに、カタカムナの文字が1点も報告されていない。
樋口氏が、同地の岩石は風化と亀裂で紋様のごとく見えるものがあると先述していたが、それに続けて「人工になるものではないことは岩石学の知識を持つ程の者には明白なところである」「之を例の神代文字に符合する似非学者がある」と述べる部分も参考にしたい。

最後に、カタカムナ文献自体の発見談自体が楢崎皐月の自己申告を飛び出すものではなく、文献の原本があるわけでもなく、原本を見せてくれた平十字なる人物の実在も証明されておらず、原本があるというカタカムナ神社という名の社も見つかっていない。保久良神社に当てる説もあるが、当時の神社名や宮司名を突き合わせれば、それこそ矛盾の塊だろう。


カタカムナに芸術性や神秘性、宗教性を求めるのは自由だが、上記のような状態ではそれは歴史学とは一線を引くのが、せめて保久良神社を歴史的に語る者に最低限必要な態度だろう。


2019年8月6日火曜日

神倉神社のゴトビキ岩/琴引岩/天磐盾/神倉山遺跡(和歌山県新宮市)


和歌山県新宮市神倉

神倉山・神倉神社とゴトビキ岩の伝説


神倉は「かみくら/かんのくら」と読む。
神倉神社が鎮座する神倉山は、千穂ヶ峯あるいは権現山(標高253m)と呼ばれる山嶺の一峯で、この山嶺自体を古くは神蔵山と呼称していた。

神倉神社の神体をゴトビキ岩と呼ぶ。
「ゴトビキ」とは「ヒキガエル」の方言であり、岩石の形状から名付けられた名称と推測されている。
また、「ゴトビキ岩」を「琴引岩」という漢字で当てる場合もある。

神倉神社とゴトビキ岩

正面より

麓を見下ろす立地

ゴトビキ岩の下は大岩盤

神域の入口

神倉山。ゴトビキ岩が岩山の一部であることがわかる。

神倉神社は、熊野本宮大社・熊野那智大社・熊野速玉大社でまつられる熊野三所大神が最初に地上に降臨した場所といわれ、このことから熊野信仰発祥の地に位置付けられている。

さらに、ゴトビキ岩は『日本書紀』において、神日本磐余彦(後の神武天皇)が熊野に上陸して最初に祈願した霊地「天磐盾」の頂上と推定されている(確定ではない)。
また、神倉神社の祭神となっている高倉下命(タカクラジノミコト)が、高甕雷神(タケミカヅチノカミ)から神剣を授かった場所という伝承もある。
神武東征伝承では、神日本磐余彦が大和平定のため、日向国から瀬戸内海経由で熊野に上陸した際、熊野に巣食う邪霊(熊)を屈服させる手助けをしたのが高倉下命である。

神倉山遺跡出土の遺構と遺物


昭和31年の境内の改修工事に伴い、ゴトビキ岩の周囲から中世の経塚群や弥生時代の銅鐸などが出土した。これを神倉山遺跡(神倉山経塚・神倉山銅鐸出土地)と呼ぶ。

巽三郎氏の「新宮市神倉山経塚概報」(1957年)や、『和歌山県史 考古資料』(1983年)の記述を元に、ここにまとめておこう。

まず、改修工事に伴い出土した経塚は、大きく3ヶ所に分けられる。

第1経塚は「ゴトビキ岩」を構成する巨岩同士が折り重なってできた洞窟状の隙間に設けられていた。
この洞窟状空間は、神倉神社の旧社殿があった場所である。
この旧社殿跡の隙間は、高倉下命が神剣を授かったとされる場所という言い伝えがあり、そこからの経塚の出土は示唆的と言える。

第1経塚(旧社殿跡)


第2経塚は第1経塚の北に位置し、巨岩が庇となった岩陰平坦部分に設けられている。

第2経塚


第3経塚は現社殿の背後の岩崖近くに位置し、盛り上がった2つの自然岩盤の隙間に設けられている。

第3経塚のあたり(社殿背後に岩群が見える)


第1経塚・第2経塚が存在する地層は、岩盤の上に地山土層が重なり、さらにその上に炭灰土層が覆っていた。
炭灰土層は、建長3年(1251年)に神倉神社で火災が発生したという記録から、その痕跡と考えられている。

第1経塚・第2経塚の基底部は炭灰土層に築かれており、小さな石室が散在していた。
石室と石室の間は大小の割石で敷き詰められており、割石層が形成されている。
割石だけでは表面に凹凸が出来て隙間も甚だしいので、さらにその上に玉砂利を被せられていた。

第3経塚は、地山層を削って岩盤まで掘り進め、その岩盤を利用して小石室を築いている。その上を天井石で閉塞し、さらに土砂で覆い、最後に粗い割石を敷き詰めて終わっている。
第1・第2経塚の表面は玉砂利層だったのに対し、第3経塚は礫石と土砂で覆っただけの状態だった。

次に、各経塚から出土した遺物は次の通りである。

第1経塚からは、旧社殿跡以外のほぼ全域に渡り遺構・遺物が散布していた。
第1経塚の経塚遺構は5ヶ所確認されている。
小石室は板石を箱状に築き上げた構造をしており、その内部空間に円筒形の陶製経筒を安置している。石室の天井部には扁平な割石をもって閉じてあった。ただし、自然要因・人為要因によって小石室及び経筒は損壊しているものばかりであったので、経筒の内部に何が入っていたかは今となっては不明という。
目立つ出土遺物は懸仏など仏像の類であって、中には拳大ほどの大きさの玉石の上に安置されていた仏像や、ゴトビキ岩に接する形で置いている仏像などが発見された。

第2経塚における小石室(経塚遺構)は8ヶ所確認されている。陶質壺3個が完形品として出土しているほかにも多くの出土遺物が発見されている。

その中でも注目されるのが、第2経塚で弥生時代の銅鐸破片が22片出土したことだ。
僅かに残った銅鐸文様や鈕の特徴から、これは弥生後期の突線鈕4式近畿III C式袈裟襷文銅鐸と推定されている。
高さは破片の状態から復元すると、約60cmほどの中型~大型に属するサイズではないかとされている。

銅鐸片が出土したのは炭灰土層の最下層に位置し、層位的には経塚構築層と同一包含層となる。
この出土状況から、巽氏や大場磐雄氏などは、ゴトビキ岩に対して埋納されていた弥生時代の銅鐸が、後世になって経塚を築いた際に切りあい、破壊されたものだと推測している。
ただ、経塚の構築者が伝世の宝器として持っていた銅鐸を、地鎮的な意味合いで経塚の最下層に銅鐸片を埋納したという解釈もできないことはない。
この銅鐸が弥生時代の祭祀を示すものか、後世の再埋納かという議論については後で詳説したい。

第3経塚は、経塚上の松の根が土壌をしっかり保持していたため、保存状態が良く残されていた。
小石室の中心部に陶製経筒を安置し、他の空間部分を木炭・炭灰で充填していた。経筒の内部にも木炭が充填されており、おそらく経巻の防腐防湿のために入れられたものだったと考えられるものの、経巻の残骸は認められなかった。
石室の底部や石室の天井状面にも様々な仏教祭祀の遺物が供献されており、その整然な配置状態から、ほぼ原位置をとどめたままの出土であったと考えられている。第1・第2経塚と異なり、第3経塚においては全く仏像・仏具類が出土しなかったという特徴がある。

これら神倉山遺跡の遺物群は熊野速玉大社神宝館に収蔵・展示されている。


神倉山銅鐸にまつわる異聞


大野勝美氏が著した『銅鐸の谷 ある銅鐸ファンのひとりごと』(1994年)という本がある。
ここに神倉山銅鐸について一節が割かれているが、一般ではあまり知られていない貴重かつ重要な記述が見られるので紹介しておきたい。

まず、先述した神倉山遺跡の発掘状況は考古学者の巽三郎氏が報告文をまとめたものであるが、改修工事の際に見つかったものなので、遺構・遺物の出土状況を記録したのは巽氏ではなく、現場に立ち会った熊野速玉神社の当時の宮司だったと大野氏は同書に注意深く書いている。

この宮司の名前は明記されていないが、考古学に造詣がある方で、それで出土状況の記録も要点よくとられていた。

孫引きとなり恐縮だが、澤村経夫氏という方が著された『熊野の謎と伝説―日本のマジカル・ゾーンを歩く』(工作舎、1981年)という本に、次のような話が載っているのを大野氏は紹介している。

それによると、澤村氏は昭和28年頃、新宮駅裏の小道具店に約五寸(約15cm)の小銅鐸が飾られていたのを目撃する。
その2年後、熊野速玉大社を訪れたところ、その小銅鐸が神社にあった。澤村氏が件の宮司の方に尋ねたところ、文鎮代わりに買ってきたが、専門の先生が本物の銅鐸と言ったので今は大切にしていると回答したという。

その約20年後、澤村氏は再度熊野速玉大社を訪れ、あの時の小銅鐸を写真撮影させてもらおうと同宮司に依頼した。
そのとき、同宮司が運んできた銅鐸は、20年前に見た小銅鐸とは別の銅鐸だった。そこで澤村氏が尋ねると、これは考古学に興味がある同宮司が紀北で発掘された銅鐸を入手したものと説明された。
では20年前の小銅鐸はどうしたかというと、同宮司は「まったく知りませんな、なにかの間違いじゃありませんか」とけげんに返され、澤村氏は何も言えなかったという。

改修工事で神倉山から銅鐸が見つかったのは昭和31年。
澤村氏は「私は姿を消してしまった銅鐸と、それから二、三年後に神倉神社から発見された銅鐸片との不思議な関わりあいに、何と考えてよいのか戸惑った」という胸の内をしたためている。

この“異聞”を受けて大野氏はこう記している。

消えた銅鐸が神倉山鐸になったのかというと、それはありえない。消えた銅鐸は明らかに小形鐸であるのに対し、破片は突線鉦式に属する大形鐸であるからだ。しかし、この話が事実ならば最初の銅鐸はどこへ消えたのか。それとも澤村氏の夢にすぎなかったのだろうか。

澤村氏を信用していいのか、宮司氏を信用していいのか、もはやサスペンスの域である。
大野氏が神倉山銅鐸の疑問点を集約しているので紹介しておく。

  1. 考古学者が立ち会わず、考古学に興味があり銅鐸を収集する宮司が記録をとった場所であること。
  2. 澤村氏の話にあるように、消えた銅鐸の話があること。
  3. 紀伊半島南部は銅鐸の空白地帯であり、神倉山にだけポツンと出土地点があること。
  4. 銅鐸片は経塚群の下層ではなく、経塚群と同じ層位から出土したこと。なぜ地山になかったのか。
  5. なぜ銅鐸は一部の破片しか見つからなかったのか。破片をつなぎ合わせても完形品にはならず、残りの破片はなぜ見あたらないのか。

3点目については、別リンク「銅鐸出土地名表」の第12図・第14図を参照いただきたい。

4点目については、同じ層から銅鐸が出土したと記録しているのは、悪意があれば下の地山から出土と書きそうなものを、そういう意味では忠実なのではないかという風にも受け取れる。

なにぶん、昭和の古い話であり、この疑念は宮司氏への名誉にも大きく関わるため、安易に片方を信じるべきでもない。つまり、この異聞の虚実を今の私たちが見きわめる術はない。

考古資料はやはり考古学者が正規の手続きに基づいて、公開された状態で調査されるに尽きる。いらぬ疑念を生む不正規の「調査」は、このように考古資料がかわいそうなことになり、歴史の損失である。
私も含め、好事家の我欲から発する「発掘」は厳に慎まれるべきであることを、これからの教訓としてお伝えしたい。

ゴトビキ岩の窪みに置かれた白石


参考文献

  • 大場磐雄「神倉神社と天磐盾」『國學院雑誌』64-2・3 1963年
  • 新宮市史編さん委員会「古代新宮の息吹き」『新宮市史』 新宮市役所 1972年
  • 巽三郎「新宮市神倉山経塚概報」『考古学雑誌』42-4 1957年
  • 和歌山県史編さん委員会「新宮経塚群」「神倉山銅鐸出土地」『和歌山県史 考古資料』和歌山県 1983年
  • 大野勝美『銅鐸の谷 ある銅鐸ファンのひとりごと』丸善名古屋出版サービスセンター1994年