インタビュー掲載(2024.2.7)

2021年5月30日日曜日

平群山/志知遺跡(三重県桑名市)


三重県桑名市志知 平郡神社裏山


平群の名は、大和の平郡氏が当地に移り住んだことに由来するという。
後年、ヤマトタケルがこの平群の名から故郷大和に思いを馳せ和歌を残し、足を洗ったという地元の伝説地・足洗池が現在の平郡池として平郡神社隣に残る。
へぐりのほかに、へごりの読み方もあるらしい。

平群池(手前)と平郡山(奥)

平郡神社は延喜式内社であるが、境内は古墳時代の志知遺跡として知られ、神社の裏には平群山と呼ばれる丘陵が続く。
この平群山は、現地の看板に「背後の平群山は古代神奈備の遺跡」と記されるが、どういうことだろうか。

考古学者の大場磐雄博士は、昭和28年8月28日に平郡神社を訪れ、平群山について以下の所見を自身のメモ『楽石雑筆』巻37に残している。
一説にこの山を古墳なりといひ、葺石ありとす、されど疑はし、余は神体山にして葺石らしきものは祭壇ならんと思ふ、又この山の裾にて先年須恵器坩、同坏、高坏、𤭯等を掘せり、これも古墳説の傍証となれり、されど面白きはその場所より引續ける下方の今社務所の立てる下より土師盌(角形把手付)、土師高坏四(脚部のみ)と一種の埴輪(何者か判断に苦しむ埴輪に似たれど疑はし)出土せり、祭祀遺物らし。
茂木雅博(書写・解説)・大場磐雄(著) 『記録―考古学史 楽石雑筆(補)』博古研究会 2016年
"何者か判断に苦しむ、疑わしき埴輪"とは何だろうか。

三重県埋蔵文化財センター『三重県埋蔵文化財調査報告288 志知南浦遺跡発掘調査報告』(2008年) の中では「異形土器」と表記されたものを指すと思われ、写真も実測図も掲載されていないのでわからないが、祭祀遺跡としての見方を支持している様子である(p.5)。

大場博士のメモの雰囲気では、むしろ当時は古墳説が有力だった様子が覗われる。
そんな趨勢へのカウンターとして大場博士の意見が示されたのかもしれないし、現在、平群山に神奈備山や祭祀遺跡といった概念が当てはめられている源流はここから来ている可能性も想定しておきたい。

大場博士が記した「祭壇」らしき石の群れを確認したいと思い現地を訪ねたが、平群山は現在神聖視されており、登山道も見当たらなかったので山中に足を踏み入れることは遠慮した。


平郡神社の本殿前から山の上方斜面を目視で眺めてみた。

本殿より裏山を撮影。

尾根上に登れそうではあるが、自粛。

「祭壇」と呼べるようなものは見当たらない(祭壇の外形的定義が定かではないので判断自体が難しい)が、本殿向かって左手の尾根端部には数個の石が顔を出していた。

尾根端

尾根端

「葺石風」と表現することは、できそうだ。


ところで、神社境内には人頭大の礫石が数か所に分散して群集している。




これは何による営為だろうか。

比較的若木の裾に、角が取れた石と、欠け割れた石の両方が混在している印象だ。

また、拝殿向かって右手の石垣前に、石垣と同化して少々わかりにくいが三角形に尖った立石と、棒状の立石の2体が存在する。


こちらは「奇石」的な扱いで特別視または安置された感がある。

境内入口に置かれた山神


2021年5月23日日曜日

室生の龍穴(奈良県宇陀市)


奈良県宇陀市室生


室生龍穴神社の奥宮を「龍穴」と呼ぶ。

箱崎和久・中島俊博・浅川滋男「山林寺院の研究動向―建築史学の立場から―」(『鳥取環境大学紀要』第11号、2013年)によると、『続日本紀』の記述を引き、室生龍穴・室生龍穴神社・室生寺の関係を次のようにまとめている。

  1. 龍穴への信仰がまずあった。
  2. 龍穴の霊験が広がり、朝廷の命でその地に室生寺を造る。
  3. 室生寺の創建より遅れて、室生龍穴神社が近接して造られる。
  4. 龍穴は奥宮として位置づけられる。

同論文では、このように特殊な自然物から端を発して寺院が造られ、その鎮守社としての神社が後から建てられるような流れは他地域の山林寺院にも見られ、自然物信仰・神社・寺院の関係性を示す範型の一つとして取り上げている。

室生寺、室生龍穴神社の資料・縁起には欠損や断片的なものが多く、諸系譜が入り乱れているため上記の流れが確定的かというとまだ疑問の残るところではある。


藤巻和宏「初瀬の龍穴と<如意宝珠>―長谷寺縁起の展開・「宀一山」をめぐる言説群との交差―」(『国文学研究』130、2000年)では、室生龍穴の存在が近在の聖地にも影響を与え、たとえば大和長谷寺の初瀬龍穴信仰は室生龍穴を模したものと論じている。

藤巻論文では、鎌倉時代の文献である『古事談』や『宀一山秘密記』における龍穴の記述が取り上げられているが、これら現存する文献で語られる龍穴とは、龍(龍王・龍神)が住まう場所、ないしは、別世界である龍宮につながる入り口として描かれている。

岩石の裂け目や穴が、神聖な存在の内部空間や異界へのゲートとみなされる例であり、岩石はいうなれば宮殿の外壁あるいは高い転送装置としてのハードであり、たとえば岩石が龍の依り代や龍そのものという位置づけは正確ではないと言える。

また、当地に度々捧げられた祈雨の修法は、龍穴の前を流れる川や瀧を龍王の司り操る水と信じて、水量の増減を祈ったものだろう。

岩石信仰の観点から見れば、岩石単体での信仰ではなく、穴という視覚的な特徴に加えて、川水という自然環境の存在と、当時の仏典と神仏習合の形而上的な論理が絡み合って成立した事例である。


なお、現在とみに通称される「吉祥龍穴」の名は、古記録上では見当たらないため後世的な呼び方と考えられる。

龍穴の近くに「天の岩戸」も、いわゆる日本神話の天岩戸神話をモチーフにした点では後世的な聖跡と言えるが、日本神話としての天岩戸ではなく、龍穴を岩窟とみなしてその入口を塞ぐ岩戸として出発した存在かもしれない。

天の岩戸

天の岩戸

室生寺境内

室生寺境内の石積み

賽の河原

室生寺奥の院裏の岩盤と石塔


2021年5月17日月曜日

玉鉾山とポンポン山、玉鉾石と湊石(埼玉県比企郡吉見町)


埼玉県比企郡吉見町田甲


吉見丘陵の北端を玉鉾山、またはポンポン山と呼ぶ。標高38mの小丘だ。

山頂の地面を足で強く踏むとポンポン音が鳴ることから、ポンポン山の通称がついたらしい。

山頂に延喜式内社の高負彦根神社が鎮座。和銅3年(710年)の創建と伝えられ、宝亀3年(772年)の太政官符にも「高負比古乃神」と記載があることから、奈良時代に遡る古社と言って良いだろう。

神社神道で語られる神体山の発想で言えば、山は神聖不可侵で山麓から神山を仰ぐ(だから社も山麓にある)という古典的な学説があるが、当社は山の麓ではなく山の上に鎮座し、この例外となる。

玉鉾山が「山」というほどの高さではないことや、元来は麓にあった社が後世に遷座した可能性を否定するものではないが、通説的な信仰観で単一的に括れない神社のかたちも想定してしかるべきだろう。




高負彦根神社の社殿背後はすぐ山頂で、上写真のような岩盤の露頭が群在している。山頂の東側はそのまま岩盤が岩崖となって岩山の体をなす。

この岩体を玉鉾石と呼び、玉鉾山もここから生じるものだろう。

玉鉾石と近似した存在として、当社には「湊石」と呼ばれるものが記録されている。

社頭掲示によると、「高負彦根神社の三鉾…湊石(御身体)・大柊・菊水(湧水)」という記述がある。
1830年(文政13年)成立の『新編武蔵風土記稿』に「社前ニ湊石ト云アリ」と記されるものと同一物と思われるが、社前(社の向きである西側を指すのか、山の東側か不明だが)にそれらしきものは特定できなかった。

三鉾は、神宿る場所という意味合いと推測される。
わざわざ「御身体」と記された湊石は、同じく「鉾」の字を冠し、同じく社前である東の山頂に広がる玉鉾石とは別の存在なのだろうか。あるいは、山頂に広がる露岩群のどれか特定の一つを指すのだろうか。

『新編武蔵風土記稿』では、玉鉾山と湊石は別々に記されており、別物のようにも見えるが、このあたりは説明不足もあり不明である。


玉鉾石に隣接して、宝暦6年(1756年)の刻字をもつ石仏が安置されているほか、東の岩崖の裾部には、崖を取り囲むように石灯籠や石仏が設置されているのを見ると、社域としての山、そして岩石の聖域視はじゅうぶん設えられているものだった。

現在はポンポン足踏み遊びやロッククライミングに利用されて、岩石の利用は複合的になりつつある。

岩盤の傍らに安置された石仏


東の麓から見た玉鉾山。ちょうどロッククライミング中の方がいた。


2021年5月9日日曜日

太駄の岩上神社(埼玉県本庄市)


埼玉県本庄市児玉町太駄


かつて、地図で「岩上神社」の名を見つけて訪れた場所。

地図を開けると、張り出した尾根の先端に立地して、社の前には川が流れている。

地形的に岩盤が露出した尾根の可能性があり、宗教的にはその岩石の露出が神社の選地理由になったかもしれない、という見通しをもって現地をたずねた。






地表から岩盤がところどころに露出している。

表土の覆い具合はかなり薄いので、昔はまた違う光景だったかもしれない。

本殿裏の尾根はラクダの背のようにでこぼこしており、ちょうど隆起するコブの部分に岩が見え隠れしていた。

尾根をさらに進むと本格的な山腹斜面にとりつくが、そこまでいくと露岩は影を潜めた。
山頂まで登るとまた異なるかもしれないが、山端に露岩が目立つというところに岩上の社名の関係を考えることはできる。

しかし、現地看板によると「社殿は元来境内の後方の神山の嶺にあった」という伝えが残るようで、これが事実であれば現在の立地と地質的特徴の話をしても、それは当社の歴史の始原的な部分とは関係がないことになる。

また、岩上神社は現在「いそがみ」と読むらしく、慶長3年(1598年)、石上神宮の神官の一人が当社で奉仕したという。

であれば、岩があるから岩上神社となったという可能性のほかに、石上神宮系譜の「石上」「岩上」の社名が先で、その社名にふさわしい場所を岩の立地に求めたという方向性でも追究できるかもしれない。

しかし、祭神には岩長媛命と石凝姥命など石や岩の字を冠した神名が並び、石上神宮の系譜および分社としての祭神とはそぐわないという点も残る。

祭神も時代の経過で変更が起こることは多く、現状の祭神を以てこれ以上の推測を施すことは控えないといけないが、岩上神社の祭神記録を歴史的にたどることができるか、特に慶長年間以前の資料に出会えることを期待したい。


2021年5月1日土曜日

弁天岩(埼玉県飯能市)


埼玉県飯能市白子


飯能市と秩父市をつなぐ国道299号線は高麗川沿いに切り開かれ、この地域では要衝となる交通路である。

白子地区は西武池袋線武蔵横手駅と東吾野駅の中間あたりに位置し、高麗川が大きく湾曲して蛇行するあたりに目をうつすと、「弁天岩」が川を塞ぐように存在する。





岩の塊というべきか、岩でできた小島というべきか、岩上には鳥居が立てられ、石製の祠がまつられているのが川越しに見える。弁天岩の名を考えれば、弁天をまつるのだろう。

弁天岩は川中に浮かぶため、渡河しないと岩の上には登れず、それが却って現状保存にもつながり、基本的に荒らされてはいない。とはいえ自然のままに任せれば、樹木に覆われてしまうため、祠の神域を清浄に保つなら定期的な剪定も必要のように思われる。

自治会東吾野支部・東吾野体育協会・東吾野まちづくり推進委員会・東吾野地区行政センター作成の「飯能市健康づくりウオーキングコース 平戸・白子コース6,200m」によれば、弁天岩は「江戸時代、材木屋をしていた都築家で江戸に木材を筏にして運んでいたため、道中の安全を祈願して立てた」ものだという。

この点を考えると、川が大きく曲がる当地は水害が起こりやすく、水運においても事故の危険が高い場所と言える。

そこに設えられたように存在する岩の島へ、水神である弁天をまつろうとしたのもうなずける。

探訪時は、車が行きかう国道沿いにつき閑静な雰囲気には欠けるという印象だったが、ある種、水運から陸運に交通の要が移転したということであり、昔も今も交通の要衝を伝える聖地と考えることもできるだろう。